はてなキーワード: コミュニケーション能力とは
わかる〜コミュニケーション能力高めたいけどその能力の低さゆえにそもそも人間と接する機会が圧倒的に足りないとかも
想像してほしい。毛むくじゃらの手が、最新のスマートフォンを器用に操っている光景を。好奇心旺盛な瞳が、鮮やかなディスプレイに釘付けになっている姿を。当初、それは微笑ましい光景だったかもしれない。動物園の飼育員たちは、類人猿の知的好奇心を満たし、退屈しのぎになるだろうと考えたのだ。しかし、数ヶ月後、彼らが目にしたのは、予想だにしない、そして恐ろしい「末路」だった。
最初の数週間、チンパンジーたちはスマホに夢中になった。指で画面をタップしたり、スワイプしたり、時には他の仲間と顔を寄せ合って何かを見たりしていた。動画サイトで他の動物の映像を見たり、簡単なゲームで遊んだりする様子は、まるで人間の子どものようだった。飼育員たちは、彼らが新しい刺激を楽しんでいることに安堵した。
しかし、熱狂は徐々に変質していった。スマホは、チンパンジーたちの社会に、かつてなかったほどの混乱をもたらし始めたのだ。
まず、スマホを用いた望ましくない行動が目につくようになった。これまで穏やかだった群れの中で、注目を独占しようとする個体が現れ、激しい喧嘩が絶えなくなった。他の個体が倒れていて本来飼育員たちを呼ぶべき状況でも、その状況をスマホで動画や写真に収めようとする。強い個体が弱い個体を力ずくでねじ伏せて土下座させ、その様子を撮影する光景は日常茶飯事となり、群れの秩序は大きく乱れた。
次に、スマホ依存とも言える行動が見られるようになった。スマホの画面に夢中になってフラフラと歩き回り、身体を障害物にぶつけて怪我をする個体が後を絶たなかった。食事の時間になってもスマホから目を離さず、仲間とのコミュニケーションを疎かにする個体が増えたのだ。これまで、毛づくろいをしたり、遊びを通して絆を深めてきたチンパンジーたちの間には、奇妙な静寂が訪れた。まるで、スマホが彼らのコミュニケーション能力を奪い去ってしまったかのようだった。
さらに深刻な問題も発生した。チンパンジーたちは、スマホの扱いに慣れるにつれて、その「破壊力」に気づき始めたのだ。硬い物体であるスマホは、叩きつけることで簡単に壊すことができる。そして、その破片は鋭利な凶器になりうることを彼らは学んだ。実際に、スマホの破片による怪我や、スマホを巡る争いによる負傷が多発するようになった。いじめのターゲットとなった個体に集団でスマホを投げつけ、死なせてしまう痛ましい事件も起こった。
スマホの影響なのか変な行動を取る個体も増えた。チンパンジーたちは、災害のリスクが高いために閉鎖されていた園内のサル山を見つけ出して侵入して、そこを寝床にしてしまった。だが、動物園で見つけたDEIと書かれたプラカードに夢中になっている間に、サル山で火事が起きて、彼らの寝床の大半が燃え尽きてしまった。
このような状況になったせいで、動物園の飼育員たちが今まで動物園を魅力的にするために働いていた時間は、チンパンジーたちの望ましくない行動の後処理をするために割かれるようになっていった。
飼育員たちは事態の深刻さにようやく気づき、一部のものはスマホの没収を主張した。しかし、チンパンジーがスマホを手放すことを拒むことは容易に想像できる。回収作業は困難を極めるだろう。
飼育員たちはジョブスがiPhoneをこの世に生み出したことを心の底から恨んだ。いま、彼らは今後の対策に頭を悩ませている。
僕は都内のIT企業で働いていて、役職こそ管理職ではないものの、年収はおおむね750万円ほどある。正直、一般的にはそれなりに悪くない水準だと思っていたし、実際に自分自身も贅沢さえしなければ生活には十分ゆとりを感じている。しかし、いざ婚活を始めてみると、なぜか自分が思っていたほど女性からの評価が芳しくなく、「それしか稼げないの?」という冷たい反応をされることもあった。いわゆる“ハイスペ”には遠く及ばずとも、平均以上だと思っていた僕からすればかなりのショックだった。どうやら都市部の婚活市場では年収750万円では決して高収入に分類されるわけではなく、下手をすれば“弱者男性”扱いされてしまうらしいのだ。僕はこの現実を知ったとき、一体何が原因なのかと自問自答するようになった。そもそも750万円という金額が本当に低いのか、あるいは僕自身が何か別の面で期待外れなのか。自分が誇りに思ってきた数字が、婚活においては必ずしもアドバンテージになっていない現実に戸惑いを感じた。だが、これが現代の婚活市場の厳しい実態の一端なのだろう。多くの女性は男性を条件で仕分けする際、年収1000万円以上を理想に掲げることが少なくない。僕の750万円は、それらの女性にとっては妥協ラインにすら満たない場合がある。自分の中では“そこそこ頑張っている”つもりでも、市場のルールに照らし合わせると弱者認定されるなんて、複雑な思いだ。もちろん、全ての女性がそうではないとわかってはいても、やはり婚活で不利を感じる場面があるのは事実である。
僕なりに分析すると、婚活では「条件ありき」の人が多く、感情や相性以前にフィルタリングされる傾向が強いと感じる。大まかな目安として、相手を探すときに女性は年収や職業で手っ取り早く候補を絞り込むことが多い。その結果、僕のプロフィールを見た女性のうち、高収入を望む層からすれば750万円は魅力に欠ける数字になってしまうのだ。実際にやりとりの中で「実家はお金持ちなの?」とか「昇給の見込みはある?」などと探りを入れられたり、「将来は家を買えそうですか?」と露骨に経済的基盤を問われたりすることもある。もちろん結婚生活にはお金が必要なのは百も承知だし、将来設計を真剣に考えるからこその質問だというのもわかる。ただ、そのハードルが想像以上に高い。30代後半にさしかかっている今、さらに年収が跳ね上がる見通しが自分の中ではそこまで描けていないとなると、どうしても結婚相手の理想から外れがちになるようだ。共働きでいっしょに頑張ればいいのに、と思う僕の感覚と、婚活をしている女性たちの感覚にはまだまだギャップがあるのだろう。
一方で、僕自身にも問題がないわけではない。見た目は中の中くらいで、特別おしゃれに気を使うタイプではない。どちらかというと社内では地味な存在で、人付き合いもそこまで広くはない。婚活という場では、やはり外見やコミュニケーションスキルも強力な武器になる。女性に対してガンガンとアピールできるタイプではない僕は、収入にそこまで突出した魅力を加えられない場合、選ばれにくくなるのも仕方ないのかもしれない。実際にマッチングアプリなどを利用しても、プロフィール写真や職業・年収を公開している状態であまり興味を示されないこともある。もしかしたら、僕よりもう少し年収は低くても、トーク力があって積極的な男性のほうが人気が高い場合だってあるのだろう。結局は総合的な魅力が婚活市場ではものを言う。年収一つだけでは足りず、雰囲気や会話のテンポ、そして容姿への最低限の気配りといった部分も軽視できない。そこで僕が“地味”な自分を変えようと、服装や髪型に気を配り、エステに行って肌の手入れまで始めたのは、婚活において少しでも有利になりたいからだ。
ただ、こうして自分磨きをしても、いざ会話に入ればやはり「年収1000万円以上の人を探しているんですよね」というストレートな言葉を聞くこともある。それが悪いわけではなく、それぞれが自分の理想を追い求めるのは自由だと思う。でも、僕にとっては大きな壁だ。女性からすれば当たり前かもしれないが、「自分より年収が高い人で、なおかつ家事や育児を分担してほしい」「余裕ある暮らしをしたいから、最低でも1000万円台の年収は欲しい」といった希望を堂々と掲げているのを見ていると、僕の年収750万円はやはり埒外なのだろうかと感じざるを得ない。自分の仕事は手に職があって、ある程度安定しているが、爆発的に収入が上がる職種でもない。となれば、将来的に1000万円のラインを突破できる自信は今のところ薄い。そこを理解してくれる人を探すしかないのだが、そもそも高収入志向が強い層には見向きもされないのが現状だ。
僕は実際、結婚相談所でも「年収○○万円以上」のように検索条件を設定されてしまうとひっかからないこともしばしばだ。だからこそ年収を軸に選ぶ女性とは最初から相性が悪いのかもしれないし、むしろ早い段階で合わないと判明するのはお互いにとっていいことかもしれない。ただ、問題はそこに留まらず、年収軸が合わない女性を外したとしても、次の壁として年齢や容姿、コミュ力など、さまざまな要素でふるいにかけられるのだ。僕は30代後半になっており、相手の女性は同年代か少し年下を希望するが、彼女たちは往々にして“もっと条件のいい男性”を探していることが多い。この“条件のいい男性”の定義は幅広いが、やはり年収や学歴、職歴、ルックスまで総合的に見られることが多く、僕が唯一そこそこ自信を持っていた年収も、望まれる条件に届かないケースが少なくない。「750万円では不満」という声は直接的に聞かなくても、相手のリアクションやプロフィールの希望条件を見ていると察することがある。
また、自分が“弱者男性”扱いされるのを痛感するときは、女性側が「一般的にはそこそこの年収」と理解しながらも、なお「もっと上がいい」と言ってくることだ。しかも、そういう女性がなぜか“ちょっと高飛車な態度”を取りがちなことも多い。上から目線でジャッジされる感覚があるのは、婚活をする男性としてはやはり居心地が良くない。もちろん、全ての女性がそうではないし、中には一緒に働きながら共に家庭を支えていく意欲を示してくれる人もいる。でも、婚活市場全体を見渡すと、「さらに上、さらに上」という条件のインフレが起きていて、僕程度の収入では“もっとがんばってよ”と背中を押される立場になってしまう。ネットなどでは「750万円なら十分高収入だ」と言う人もいるが、それは会社や業界、地域によって価値観が異なるからだろう。少なくとも都会の結婚相談所やハイスペ志向の女性が多い場では“あと一歩及ばない男性”という扱いが現実にあるのだ。
実際のところ、僕はこれまでの仕事人生で必死に努力してきたつもりだ。年収750万円に到達するまで残業や休日出勤も多かったし、役職に就くことを目標に自己啓発もしてきた。それでも婚活においては、もっと若い時期から違う職種や外資系企業に転職し、バリバリ稼げる道を選ばなかった自分を後悔するような瞬間がある。なぜなら、そこに大きな差が生まれてしまうからだ。同年代でも外資系やベンチャーで成功して1000万円超を稼いでいる人たちは、婚活市場で女性から“勝ち組”として扱われがちだ。あるいは医師や弁護士、コンサルなど、資格や肩書きでわかりやすく高収入を証明できる男性が一気に目立つ。その陰で、僕のような「努力してようやく平均以上」に到達した層は埋もれがちになるように思う。自分では弱者とは思っていなくても、婚活市場のメガネで見られたときに、僕はあっさりと“弱者男性”に分類される。
もちろん、こうした状況に不満を抱くだけでは前に進めないし、自分の理想の相手にも巡り合えない。だからこそ、婚活の仕方をもう少し工夫する必要があるとも思っている。年収を最重視する女性ばかりを相手にすると疲れてしまうから、同じように共働きを希望している女性や、年収よりも性格の相性を重視してくれる女性が多い場を探すべきだと感じる。実際、そのような女性たちと話してみると、僕の現在の年収を大きな問題と捉えず、むしろ「安定していていいですね」と評価してくれることもある。ただ、それでも容姿やコミュニケーション能力がある程度高い男性がモテるのは変わらないらしく、根本的には世の中の風潮として“強者男性”が注目されがちなのは避けられないようだ。
また、年収に対する女性側の感覚を変えることは僕にはできないのだから、自分がさらにスキルアップして収入を上げる道を探るのも手だろう。現時点で750万円が限界と思っていたが、もしかしたら資格取得や副業、転職などでキャリアアップすることができるかもしれないし、5年後には年収1000万円を目指せる可能性もゼロではない。そうなれば婚活市場での立場も変わるだろうが、あくまでお金目的で近づいてくる女性を求めているわけではない。それでも、経済的な安心感を大切にする女性が多いのも事実だから、“努力次第で大台を狙える存在”になることで、多少は評価が変わるかもしれない。
何にせよ、「年収750万円」という数字は世間一般で見れば決して低いわけではないものの、都会の婚活市場では“中の上”にも届かず、むしろ“中の中”程度か、それ以下に認識されることがあるという厳しい現実がある。僕はそれを実感しているからこそ、理想だけを追いかける女性を恨むのではなく、自分が本当に必要とするパートナーとはどのような人なのかを改めて考え直す時期に来ているのだろう。いくら条件が整っていたとしても、結局は二人で過ごす時間が楽しく、困難を乗り越えられる相性が大切だ。
今は、条件重視の婚活に疲れた女性たちと出会える場を探しながら、自分自身もステップアップを図るという二正面作戦で進めている。その中で、年収以外の僕の魅力に気づいてくれる人と出会えたら最高だと思うし、さらには「あなたとなら共に頑張れる」と言ってくれる女性がいれば、年収750万円の現状でも十分に幸せな家庭を築ける自信がある。むしろ、結婚後にパートナーと力を合わせて世帯収入を増やすという方法だってあるのだから。最終的には、自分を“弱者男性”と決めつけるかどうかは他人の評価による部分が大きいのは確かだが、自分が本当に何を望んでいるのか、どんなパートナーと人生を共に歩みたいのかを明確にすることでしか、理想の未来は手に入らないのだと思う。僕は今の年収を出発点として、相手を条件で選り好みせず、地道に活動していくつもりだ。自分に合った女性は必ずいると信じて、これからも婚活を続けていこうと心に決めている。結局、結婚とはお互いの価値観や人生観を共有していくもの。スタートラインで少し不利に感じようとも、それを自分の武器に変える努力をすることで、幸せにたどり着けると信じたい。そう思いながら、僕は今日も婚活の場に足を運ぶのだ。
気づけば、毎日のようにいくつもの配達アプリや単発バイトアプリを立ち上げ、その時々の仕事をこなしている。ウーバーイーツ、タイミー、その他の短期・日雇いの募集をリロードしながら、効率よく仕事を掛け持ちしてきた。好きな時間に好きなだけ働ける──そう思って始めたはずなのに、いつの間にか心も身体も追い詰められている。名前は伏せさせてもらうが、そんな自分の小さな物語をここに綴りたい。
最初は「自由に働ける」「拘束時間がない」「上司に叱られない」などの言葉に惹かれて、ウーバーイーツの配達パートナーになった。自転車さえあればスマホ一つで仕事がスタートできるという手軽さも大きな魅力だった。通勤電車に押しつぶされる苦痛も、会社独特の人間関係に煩わされるストレスもない。好きな時にアプリをオンにしてオフにするだけ。その自由さが、自分の未来を切り開いてくれそうに思えた。
しかし、現実は甘くはなかった。ウーバーイーツを始めた最初のうちは、「デリバリーして報酬を得る」ことへの単純な楽しさに勢いづけられていた。街を走り回り、新しいお店や道を知り、配達先のお客さんと時折交わすちょっとした会話に刺激をもらう。SNSで「今日は〇〇円稼げた!」と成果を自慢する仲間たちの投稿を見ると、自分ももっと頑張ろうという気持ちになっていた。
だが、いつの間にか市場には同じようなギグワーカーが増え、報酬は徐々に下がってきた。それに合わせるように、自分の身体も疲れやすくなっていることに気づく。最初は平気だった長距離移動も、今では足が鉛のように重く、坂道を見るだけで気が滅入るようになった。食事のタイミングも不規則になり、おまけに天候に左右される仕事なので、雨の日はカッパを着てもずぶ濡れ。真夏の猛暑日は灼熱地獄で、熱中症寸前の状態で走り回ることもある。
そんな中、稼ぎは思ったほど伸びない。ウーバーイーツだけでは生活が安定しないので、タイミーなどの単発アルバイトにも手を広げた。イベントの設営やチラシ配り、倉庫内作業に警備員の仕事まで、その日その時の募集に合わせてシフトを埋めていく。それこそ、朝から倉庫作業をして午後は配達、夜は警備の仕事へと転々とすることだって珍しくない。一日で3種類の仕事を掛け持ちする日もある。昼間の炎天下で自転車をこぎ回し、夜は立ちっぱなしで交通誘導。体力はぎりぎりだ。
スケジュール管理が地獄だ。スマホのカレンダーには隙間がないほどバイトや配達の予定が詰まっている。ちょっとでも時間が空くと、自分を奮い立たせるように「いま休んだら、その分稼ぎが減る」と考えてしまう。「休みたい」「眠りたい」と思っても、どうしてもスマホの通知が気になってしまうのだ。案件が出ては消え、人気の仕事は数分で埋まる。画面を閉じてしまうと、まるで「自分だけが損をする」ような気になって、結果的にはずっとアプリを見張ってしまう。
自由な働き方のはずが、いつの間にか24時間仕事のことを考えるようになっている。何時に寝ても「明日は朝イチでいい案件を取らなきゃ」と早起きをするし、日中は配達の合間に単発バイトの募集をチェックする。夜勤の警備を終えてフラフラになっても、「ウーバーイーツの朝活を逃したらもったいない」という気持ちが首をもたげる。こうして「休むタイミング」を自分で見失ってしまうのだ。
もちろん、成果があがる日はある。一日じゅう走り回って数万円稼げたときは、達成感も大きい。けれど、その分身体の疲れも半端ではない。一度寝込んでしまうと、翌日の予定がすべてキャンセルになり、収入は激減する。ギグワークは働いた分だけ金銭が入る仕組みだが、逆に言えば「休んだらゼロ」なのである。固定給が保障されているわけではない。契約社員でもなければ、正社員のような福利厚生もない。病気になればすべて自己責任だし、事故にあったときの補償や手続きも複雑で、泣き寝入りするケースも多い。
ある日、配達先に向かう途中で自転車のチェーンが外れ、修理に手間取ったことがあった。その時間が大きくロスとなり、その日の報酬は目標に届かなかった。それだけならまだ良かったが、焦る気持ちのあまり安全確認も疎かになってしまい、狭い路地で車との接触事故にヒヤッとした。幸い接触はギリギリ避けられたが、一歩間違えば大けがにつながっていただろうと思うと、冷や汗が止まらなかった。その時、「自分は今、どれほど危うい橋を渡っているのだろう」と改めて恐怖を感じた。
もう一つの悩みは、周りに相談できる相手がいないことだ。ギグワーカー仲間と呼べる人は、SNSや配達先でたまに顔を合わせる程度で、深い付き合いをする機会がほとんどない。配達や単発バイトは一匹狼のような働き方なので、基本的に個人プレー。上司も同僚もいない。困ったときに頼れるのは自分だけ。何かトラブルが起きても、サポートセンターに連絡したり、ネットで検索したり、自力で解決するしかない。そしていつの間にか、「人に相談する」という発想そのものが薄れてきてしまった。
親や友人には「自分で選んだ働き方だろう?」と半ば呆れられることもある。特に、昔ながらの正社員志向の強い人たちには理解されにくい。「きちんと就職しないのか」「いつまでそんな不安定な仕事をするのか」と詰問されると、言い返す気力も失われてしまう。正社員の道を選ばなかったのは自分の意思だが、それでも誰かに認めてもらいたい気持ちはある。だが、ギグワークを誇らしげに語るには、現状はあまりにも厳しい。結局、周りの声も気になって精神的に追い詰められ、だからと言ってこのままギグワークをやめると今度は生活費が足りなくなる。その堂々巡りから逃れられない。
一方で、「自分にはこれしかない」と思ってしまうほどに技術や経験を積み上げられずにいるのも事実だ。ギグワークは基本的に専門的なスキルが要求されにくい。もちろん配送の効率を高めるテクニックや、接客でのコミュニケーション能力は多少身につくが、いわゆる「キャリア形成」という視点では弱い。そのため「この先ずっと同じことを続けていても大丈夫だろうか」と不安がつきまとう。もしアプリの運営が急に方針を変えたり、報酬体系が改悪されたり、新しいテクノロジーが登場して仕事そのものが消滅したりしたら…。いまの自分には「スキルを生かして他の業界で働く」という保険がほとんどないのだ。
どこかで一度腰を据えてスキルを磨きたいと思いつつも、「今月の家賃と光熱費をどうにかしないと」という緊急事態が常に目の前にある。少しでも時間を惜しんで働かなければ、すぐに家計が赤字になる。勉強をしたり資格を取ったりするための時間を捻出するのが難しく、結局は今日のバイト、明日の配達を優先せざるを得ない。そして無理をして働いた結果、心身ともに疲弊してしまい、ますます長期的な展望が見えなくなる。そんな悪循環に陥っているのだ。
周囲には、器用にギグワークをこなしながらも別の副業や投資、またはクリエイティブ活動で成果をあげている人もいると耳にする。しかし、自分にはそうした才能や投資に回す資金もない。趣味が仕事につながるような器用さもなく、日常の大半の時間とエネルギーをバイトや配達に費やしている。結果として何のステップアップにもならないまま、ただ疲労だけが蓄積していく。そのことを考えると、閉塞感がいっそう強くなる。
さらに困ったことに、ギグワークを続けているうちに生活リズムが乱れ、毎日の食生活も疎かになりがちだ。食費を節約するためにコンビニ飯やカップラーメンで済ませることが多くなり、栄養バランスは崩れ気味。不規則な睡眠からくる倦怠感も加わり、最近ではよく体調を崩すようになった。病院に行くにも保険証の問題や医療費の負担が気になり、結局「大したことないから大丈夫」と先延ばしにしてしまう。自分の健康を後回しにしていることも、心のどこかではわかっているのだが、日々の仕事に追われる中でつい目をつぶってしまう。
こんな状態が続くと、気づかないうちに無性にイライラしてしまうこともある。ちょっとしたトラブル、たとえば注文の配達先がわかりづらいとか、バイト先で誰かに指示を出されるとか、そういった些細な場面でカッとなってしまう。もちろん、その後すぐに自己嫌悪に陥る。自分でもコントロールできない不安定な精神状態が、さらに自分を追い詰める。それでもアプリの通知が鳴ると、また仕事へと向かってしまうのだ。
たまに、どうしようもなく自分自身を情けなく感じることがある。かつては「正社員になりたくない」と言いながらも、「それでも自由に生きていける」と信じていた。だが今はどうだろう。休みもなく、全力で動き回ってやっと家賃と食費を確保するのが精一杯。何かの拍子で仕事に穴が空けば、一気に生活が破綻しかねない危うさがある。働いても働いても先行きが見えず、自分はこれから何を目指していくのか──そんな疑問が頭をもたげるたびに、どうしようもなく不安が胸を締め付ける。
先日、久しぶりに地元の友人と話す機会があった。「就職してもう3年になる」と彼は言う。昇給もあり、休日はゆっくり趣味を楽しむ余裕もあるらしい。もちろん会社勤めには会社勤めなりのストレスがあると彼は言う。それでも、安定した収入と社会保険、将来の見通しがあるのは大きいなと、正直羨ましく思った。かたや自分は、毎月のように思いがけない出費で苦しくなる度に、ギグワークの限界を感じてしまう。
最近は、「このままでいいのか」「もっと自分らしく働ける場所があるのでは」と、胸の内で葛藤することが増えてきた。もっと若い頃にちゃんとスキルを身につけておけばよかったとか、就職活動をまともにしていれば違う未来があったかもしれない──そんな後悔の念が頭をよぎる。だが、一方では「正社員になっても合わなかったらどうしよう」「自由を失うのは嫌だ」という思いも消えない。結局は自分の軸が定まらないまま、いくつものアプリに振り回されている状態だ。
それでも今、立ち止まって考えなければいけないと感じている。ギグワークのメリットだけを見て始めたけれど、その実態は思った以上にハードで、先行きも不透明だ。瞬間的に稼げる日があるからこそ、「もう少し頑張ったら、もっと上手くいくかもしれない」と期待してしまう自分もいる。しかし、その期待に何度裏切られてきたことだろう。そして今、文字通り身体も心も限界に近い。
働き方は人それぞれで、ギグワークが心地よい人ももちろんいるだろう。だが、自分のように生活が常に綱渡り状態で、休めない、将来が見えない、そんな不安に怯え続ける日々が正解とは思えない。自分を否定したくはないが、このままでは本当に持たない。そう思う瞬間が増えてきた。いまの自分にとって必要なのは、「仕事を詰め込むこと」ではなく、「働き方を根本から見直すこと」なのかもしれない。
けれど、現実には今月の家賃支払いが迫っている。止まってしまうと収入がゼロになる。タイミーに登録しているバイト先も、急にキャンセルすると二度と仕事をもらえなくなるかもしれない。そういう不安が頭をよぎるからこそ、「もう少しだけ頑張ろう」とアプリを起動してしまう。その葛藤の繰り返しに、心が悲鳴を上げている状態だ。
こんなふうに自分の本音を言葉にすること自体が、ひさしぶりかもしれない。いつもは一人で走り、一人で悩み、身体を酷使してひたすら稼ぐだけの毎日だから。もし似たような境遇の人がいるなら、「限界を感じるのはあなただけじゃないよ」と伝えたい。世間では「ギグワークは自由で気軽」なんて言葉がよく飛び交うが、その裏でこうして苦しんでいる人もいるのだと知ってほしい。
この先、どうするのかはまだわからない。いきなり正社員の道に進むのも気が引けるし、あるいは資格を取るために短期的に集中するのも現実問題として難しい。だけどこのままのギグワーク漬けの生活が続くと、いつか本当に身体を壊してしまいそうだ。そうなって初めて「働きたくても働けない」と、取り返しのつかない事態になるかもしれない。考えるだけでも恐ろしい。
小さな覚悟として、明日は一日だけでも休みを取ろうと決めた。生活費は苦しくなるだろうが、まずは自分自身のために時間を使わなければならない。それがきっと最初の一歩になる。スマホの通知をオフにして、久々に一日じゅう寝るもよし、図書館で情報を調べるもよし。心と身体を整え、将来について冷静に考えるための時間を確保してみる。そうしなければ、きっと何も変わらないまま、自分をさらに追い詰めてしまうだろう。
「ギグワーカーだけど、もう限界」――こんな言葉を自分の口から発することになるとは思わなかった。けれど、今の自分にとってこの言葉は紛れもない真実だ。自由を夢見て飛び込んだ世界で、いつの間にか不自由の枷に縛られていた。それでもまだ、どこかで「自分らしく生きたい」と願う気持ちが残っている。この文章を書きながら、せめてその願いを灯し続けたいと思うのだ。
もう少しだけ悩んでみよう。もう少しだけ自分を大切にしてみよう。もし同じように疲れ果てているギグワーカーがいれば、いまが踏ん張り時かもしれない。休む勇気を持つのも、逃げる決断をするのも、次の一歩を踏み出すためには必要だ。自分らしさを取り戻すために何ができるのか、ぎりぎりのところで考える機会をつくってみたい。そう、ほんの少しだけの勇気で、自分の人生は変えられると信じているから。いずれにしろ、僕は今、限界寸前だ。だけどこの限界をきっかけに、新しい一歩を踏み出せると信じたい。
全く違いますね。コミュニケーション能力とは社会的地位のことであって雑談能力のことではありません。
エンジニアとしての自分に、まさかこんな形で「限界」を突きつけられる日が来るとは思わなかった。技術が進歩していくのは当然の流れだし、自分自身もエンジニアとして日々勉強を重ね、トレンドを追いかけながらキャリアを積み上げてきた。それでも「生成AI」という存在がここまで急激に注目を浴び、しかも自分の労働価値を根底から揺るがすほどのインパクトを持って現れるとは、正直なところ想定外だったとしか言いようがない。
自分がエンジニアとしてやってきたことは、プログラミング言語の仕様を理解し、アルゴリズムを考え、設計書を読み込み、エラーと向き合いながら少しずつ完成度を高めていく――そんな地道な作業の積み重ねだ。時には新しい言語やフレームワークを学んで試行錯誤を繰り返し、何とか動かすところまでもっていき、ようやく使えるプロダクトとして世に送り出す。このプロセスを通じて、エンジニアとしての「自分らしさ」や「スキルの高さ」をアピールし、労働市場での価値を維持してきた。そのためには新しいツールを使いこなす技術だけでなく、バグを追い詰める根気や、仕様を理解して予期せぬ事態に対処する能力も必要だった。
しかし、生成AI――特に大規模言語モデルをはじめとする機械学習ベースのシステムは、そうしたエンジニアの「頑張り方」を一気に変えてしまう可能性がある。いや、可能性というよりも既に変えつつあると言っていいだろう。たとえばコードの自動生成がここまで進化してきたことで、「ちょっとしたプログラムなら数行のプロンプトを入れるだけでボイラープレート的なコードは瞬時に作成できる」「ある程度のアルゴリズムも提案してくれる」という状況が生まれつつある。かつてはコピペやスタック・オーバーフローを駆使しながら苦戦していたような領域が、今や自然言語で指示を与えるだけである程度完成した形で出てくる。そんな光景を目の当たりにすると、複雑な気持ちにならざるを得ない。
まずは単純に「すごい」という感情が湧き上がる。「こんなことまでできるんだ」「AIの進化って本当にすさまじいな」という畏敬の念。しかし同時に、「自分が今まで必死で学んできた技術やノウハウはどうなるのだろう」という不安や焦りが胸を支配してくる。自分はエンジニアとして、アルゴリズムの知識やコードの品質向上のためのテクニックを磨いてきた。それなりに自信もあった。けれど生成AIは、そうしたノウハウを内包するかのように、エンジニアがコツコツ積み上げてきた経験を一気に飛び越える成果物を生み出してしまうことがある。もちろんまだAIには弱点もあるし、すべてが完璧に自動化されるわけではない。だけど、これだけ急激に進化を続ける技術を目の当たりにすると、5年後、10年後にはどうなっているのか、想像すらつかない。
「仕事が奪われる」という言葉は、AIの台頭とともによくささやかれるフレーズだ。これまでも機械化によって多くの工場労働者が職を失ったり、ホワイトカラーの事務作業がRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)によって自動化されたり、そういった話はあった。でも、自分に限って言えば「エンジニアは大丈夫だろう」と、どこかで高をくくっていた。プログラムを書く行為自体がクリエイティブであり、人間の頭を必要とする作業だと思っていたからだ。それが今、生成AIというものが「あらゆる文章を生み出せる」だけでなく「ある程度のプログラムも生成できる」存在として登場し始めたことで、エンジニアの仕事というものが「人間である必要があるのか?」と問われ始めているようにも感じられる。
もちろん今のところ、生成AIが吐き出すコードは完璧ではないし、大規模なシステムを最初から最後まで構築できるほどの統合能力はまだないとされる。しかし、それは今時点の話でしかない。明日にも新たなモデルやフレームワークが登場し、問題を解決する手段が生み出されれば、あっという間に追いつかれ、追い抜かれてしまう可能性だってある。「AIにはこんなことはできないだろう」と思っていたら、数か月後にはAIがあっさりそれをやってのける。そんな現象を、ここ数年だけでも何度も目にしてきた。だからこそ、「エンジニアとしての自分は今どの地点に立っているのか」「これから何を武器にして仕事を続けていけばいいのか」、その問いに対する答えが見つからないまま、ただただ焦りと不安が募る。
さらに厳しいのは、会社側も生成AIの有用性を認識し始めているということだ。開発現場で役立つことが証明されれば、「新しく人を雇うよりもAIのサブスクリプションを使ってコスト削減を目指そう」となるのは自然な流れだろう。一人のエンジニアを雇うためには給料や福利厚生も用意しなければならないが、AIの利用料は安価なもので済む可能性が高い。ソフトウェア更新や学習データのチューニングなどのコストはかかるにせよ、「人間をまるごと雇う」よりはリスクが少ないかもしれない。そうなると、企業は本当に優秀なトップエンジニアだけを厳選して雇い、その他の多くのポジションは「AIと最小限のオペレーター」で回すという極端な体制を敷くかもしれない。そのとき自分が「優秀なトップエンジニア」の枠に入れるのかというと、正直自信はない。
「だったらAIに負けない技術を身につければいい」と言われるかもしれない。だけど、そもそもAIと真っ向勝負しようとすることに意味があるのかどうか、疑問に感じてしまう。自分がもともとエンジニアを目指したのは、単純にプログラミングが好きだったからだ。パズルを解くようにロジックを組み立て、コンピュータが自分の指示通りに動く瞬間の喜びは格別だったし、それによって誰かの役に立てるということがモチベーションにもなっていた。けれど今、あまりにも急激に進化するAIに対して「対抗心を燃やす」という発想自体が、もはや時代遅れなのかもしれないと思い始めている。
さらに言えば、生成AIに対する嫌悪感よりも、「便利だから使ってみたい」という好奇心もある。実際に使ってみると、驚くほどのスピードでコードの雛形が出力されるし、対話的に「ここをもう少し効率良く書き直して」と指示を出すと、それも的確に応えてくれる。自分で試行錯誤する時間が大幅に削減されるから、プロダクトの品質やリリースのスピードを考えると、間違いなく使ったほうが得なのだ。矛盾しているようだが、「使わなければ置いていかれる」し、「使えば自分の労働の意味が薄れる」というジレンマを抱えながら、結局AIを利用せざるを得ない状況に追い込まれている。
では、エンジニアとしての自分の「価値」をどこに求めればいいのか。かつてはコードが書けること自体が大きな武器だったが、もはやそれはAIに取って代わられつつあると感じている。もちろんまだAIだけでは設計やデバッグ、ユーザー要件の細かい調整などは完全に任せられない場面も多い。しかし、それも時間の問題で「徐々に可能になるだろう」という予感がある。最終的には、エンジニアに求められるのは「想像力」や「コミュニケーション能力」、あるいは「プロジェクトマネジメント能力」など、いわゆるソフトスキル方面にシフトしていくのではないか――そんな仮説がよく語られるが、それらだってAIが補佐できるようになれば、結局は人間を凌駕してしまうかもしれない。
こうした不安や疑問を抱えながらも、結局のところ人間である自分が生き残るためには「自分にしかできない価値」を見つけるしかないのだろう。けれど、その「価値」が何なのかがわからない。目立った才能や芸術的センスがあるわけでもなく、人の上に立って組織を率いる能力があるわけでもない。ただ、エンジニアとしてプログラムを書くのが好きで、それを仕事にしてきた。それが今、AIの登場によって脅かされている。こんなにも大きな変革の波の中で、自分がどう行動すればいいのか、まったく見当がつかない。夜中にふと目が覚めて、「この先、本当にやっていけるのか」と胸がざわつくこともしばしばだ。
一方で、生成AIが社会的に広まっていく中で、個人的には「使い方次第では新しい価値を生み出せるかもしれない」という期待も抱いているのも事実だ。たとえば、生成AIを活用して自分自身のアイデアを迅速に形にできれば、スタートアップのように少人数でも新しいビジネスを興せるかもしれない。あるいは、AIが不得意な領域――例えば人の感情や文化的背景に深く根ざしたコミュニケーション――をエンジニアの視点からサポートし、新しいサービスを企画・設計できるかもしれない。そう考えると、絶望の中にも一筋の光は見えるし、自分の存在意義を発見できる可能性はゼロではないと思う。
しかし、それが実現できるかどうかはまさに「自分次第」であり、そのための行動指針や学習計画すら、AIに頼る時代が訪れているのが現実だ。今後は、単にプログラムを書く技能だけでなく、AIと共存しながら効率的にプロダクトを生み出すプロセスをデザインできる人材が求められるのかもしれない。ただ、そんな広範囲なスキルセットを短期間で身につけることは非常に難しく、結局「AIを使いこなす者」と「使いこなせない者」の間に大きな格差が広がっていくのだろう。もしかすると、自分はその波に乗り遅れてしまうのではないか――そんな予感が拭えない。
「エンジニアだけど生成AIが出てきたおかげでもう限界」と嘆く自分が、この先どんなキャリアを積み上げられるのか、正直なところ自信はない。最悪の場合、技術の進化についていけずに職を失うことだって十分ありうるだろう。けれど、何もせずに指をくわえて見ているだけでは、本当に何も生まれないし変わらない。自分自身を鼓舞するつもりで言うが、結局は行動するしかないのだと思う。幸いにして、生成AIを使うためのハードルはそこまで高くない。オープンソースのプラットフォームや無料で試せるモデルだってある。とりあえずは、それらに積極的に触れながら、「AIだからこそ作れるものは何か」を模索するしかないのだろう。
このままいけば、自分が持っているプログラミングの知識やスキルは、今後ますますAIにとって代わられるかもしれない。でも、だからと言ってエンジニアという職業が完全に消滅するわけではないはずだ。AIがさらに発達したとき、逆に言えば「人間にしか扱えない領域」というのが再定義される可能性もある。その領域を早めに見つけて、そこへシフトしていくのか、それともAIと競合するのではなく共存しながら自分の働き方をアップデートするのか――どちらにせよ、自分自身の手で道を切り拓く覚悟が必要だ。
正直、今は「もう限界だ」と思う瞬間が頻繁にやってくる。理不尽なほどに速い技術の変化についていくのは大変だし、自分よりも若くて吸収が早い人材がどんどん出てくる。そんな中で、生成AIのような強力なツールまで活用されたら「自分の居場所は本当に残っているのだろうか」と不安になるのも無理はない。それでも、変化を憂うだけでは一歩も前に進めない。結局、AIが台頭する前も、プログラミング言語が進歩して自動化が進むたびに「もうエンジニアは不要になる」と言われ続けてきた歴史がある。それでもエンジニアは生き残ってきたし、新しい技術を取り込みながら活躍の場を広げてきた。今回の変化は今までより大きいかもしれないが、それでもまだ自分にできることはあるはずだ。
大事なのは、この逆境の中で諦めずに「次の一手」を模索し続けることだと思う。生成AIによって生まれる新しいニーズや、まだ誰も開拓していない領域を探りながら、自分なりの強みを見出していく。あるいは、AIが苦手とする部分――倫理や法的な制約、複数ステークホルダーとの調整など――をうまくリードできる立場に立つ。そんな方向性を模索するうちに、意外な道が開ける可能性だってある。目先の「限界」という言葉に呑まれて立ち止まってしまうより、嘆きながらでも手を動かし、AIも使いこなしながら活路を探っていくしかない――それが今の正直な思いだ。
言うは易く行うは難し。だけど、少なくとも「もう限界だ」と嘆いているだけじゃ何も変わらない。こんな風にどこかに文章として吐き出すことで、自分の不安や焦りを整理しているのが実際のところだ。そして、もし同じような不安を抱えているエンジニアがいるなら、互いに情報を交換し、励まし合いながら新しい時代に挑戦していきたい。生成AIがもたらす未来は決してバラ色ばかりではないかもしれないが、そこには想像もつかない面白さや可能性も潜んでいるはずだ。自分の「限界」を超えるチャンスでもあると信じて、今は前を向いて進むしかないのだろう。
結婚相談所に流れてくる医者や弁護士が仕事ができるけど人間的にはヤベェ売れ残りというのはみんな知っているだろうが
これはITエンジニアもそうなんです。特に年収が高いのになぜか婚活市場にいるやつ。これは「こだわりが強く指示されたことしかできない」特性持ちの可能性があります。
たとえばあなたが風邪をひいていて「りんごしか食べられない」状態だったとしましょう。なので林檎を頼むとしましょう。その人はいつもの店に林檎がなかったりするとそのまま帰ってきます。
理由としては「いつもの店(こだわり)でしか買わない」「林檎を買ってきてとしかいわれてない」から、他のものは買わなかった(こだわり)
ちなみに、ここで買わなかったらあなたが病気で苦しむ中今日明日何も食べられないのは辛いだろう。と想像して林檎以外に食べられそうな物とかスポーツドリンクを買えるタイプの人物なら普通に恋愛結婚してます。
これだけなら耐えられるかもしれませんが
こういう些細なことが10も20も積み上がっていくんですよ。要するに精神的にキツくなっていくんです。あなたが「大切にされてない」と感じる行動が重なるので。
でも相手はあなたを大切にしていないという気持ちはないので。あなたが怒っても議論しても無駄です。
相手「思いやりや寄り添いが必要というなら、あなたの指示に従った時点で十分果たしている」
こんなことをいうわけではありませんがだいたいこういう思考を持った上でかつ、自分の思考に鈍感で理解してないので、自分が上記の思考で行動していることをあなたに伝えることもありません。もし上記のような自分の気持ちを伝えられる人であれば成長過程で改善されてもっとマシになってます。
コミュニケーション能力のなさというのは自分を開示する能力を持たないということでもあり、時折人間関係に重篤な影響を及ぼします。
もしあなたが自分が買ってきてほしいものがあったらリストアップしてそれがなかった場合もいちいちマニュアルを書く必要があるでしょう。
いわゆる重めの発達障害を持つ子供に細かいスケジュールを渡す母親と同じことですね。それをずっとする必要がある。それでも幸せならいいんですけど。
その生活が過酷すぎて友人の家にいって友人のパートナーからお茶を入れたコップを出されただけで感動するぐらいです。
その普通もわからなくなるような生活があなたの生活になります。
エンジニアで高収入で普通の人は人気で婚活市場に出てこないんですよ。
だからね「エンジニアなんて人気がない」から「まともな人が高収入で婚活市場にいるはず」っていう職業への見下しがある人は、失敗するんですよね。普通に人気ありますよ。まともな人ならね。
【追記】
例によって1から10までプロンプトにする必要があるため全部細かく書きました。
その中で気になる反応がありました。
1.1から10までプロンプト並に説明しないといけないことについて疑問を持つ相手を「察してちゃん」と批判して、問題の全責任を相手に渡す。
2.では1から10まで細やかに説明しますね。となると今度は「ネチネチ」といってやはり批判。これもまた問題の全責任を相手に渡す。
細かく説明すれば「ネチネチ」でしょ?
このダブスタぶん回しはパートナーはかなりウンザリすると思いますよ。
そうそう、つまりこういうことが積み重なると疲弊するっていいたかったんですよね。
【追記2】
ちなみに私も発達障害です。過去の自分ならこうすると思ってることとそれによる相手の反応を経験から導きました。
【追記3】
“親やパートナーが、マイルールをゴリゴリに押し付けるタイプだと、自分で判断して行動しても怒られるだけなので、こうゆう思考になっちゃうのよね。”
それは愛着障害っぽい。幼少期に養育者と愛着を形成できなかった愛着障害の人は発達障害のような特徴が出るのは界隈では有名な話。自分のこと発達障害だと思ってる人が実は愛着障害でしたとかあるある。
近年、AIやロボットなどの先端技術が目覚ましい勢いで進歩するなかで、人間の定義や“権利”という概念そのものについての再考が求められる機会が増えている。そんな社会情勢の中で一部の人々が提唱するアイデアに、「動物に人間同様の権利を与えるべきかどうか」という問題がある。動物愛護の観点からは、ペットとしての犬や猫、あるいはイルカやチンパンジーなどの高い知能を持つ動物に対して人道的な扱いを求める声は以前からあった。しかし、法律や倫理の観点で「人権」を動物に適用するという議論はまだ広く受け入れられているとは言い難い。そこで今回は、ある種の極論ともいえる「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説を取り上げ、その可能性や問題点、そして私たちが学べる示唆について考えてみたい。
1.“人権”とは何か?
「人権」とは、一般的に「人として生まれながらにして持つ権利」を指す概念である。自由権や平等権など、国や社会によってさまざまに解釈や範囲の違いがあるものの、人間を人間たらしめるための基本的な権利という共通理解が広く受け入れられている。
一方、「人権」という言葉を動物に適用することの是非は長年議論の対象となってきた。かつては「ヒト以外の生物に人権など存在しない」というのが主流の考え方だったが、動物愛護の観点が強まった現代では、動物にも生命や自由の尊重が求められるべきだという意見が増えてきた。ただし、多くの場合、それを“人間と同等の権利”とは呼ばず、「アニマルライツ(動物の権利)」や「アニマルウェルフェア(動物福祉)」といった別のフレーズを用いて区別している。
では、なぜわざわざ「人権」と同じ言葉を使う必要があるのか。そこには、単なる愛護の枠を超えて、「生き物としての尊厳をどこまで拡大できるか」「法的にどのように動物を扱うか」という踏み込んだ議論が関わってくる。人間の法律を基盤として動物を守りたいという主張もある一方で、それによって生じる多くの矛盾や新たな課題も浮き彫りになる。
2.猫の特徴と知能
ここで焦点を当てているのは「猫」である。猫は犬と並んで古くから人間と深く関わりを持つ動物だが、その特性や知能はしばしば誤解されがちである。
一般に犬は飼い主の指示に従順で、さまざまな訓練に適応しやすい動物とされる。一方、猫は独立心が強く、気まぐれな一面を持つため、「犬よりも知能が劣るのではないか」と思われがちだ。しかし近年の研究によって、猫も飼い主や環境への適応能力が高く、犬とは異なるかたちでの学習能力やコミュニケーション力を備えていることが示唆されている。
さらに、一部の猫は“特殊な芸”や“問題解決能力”を持つことがある。例えば、特定の動作を学習して繰り返す猫や、飼い主が使う簡単な道具を模倣する猫が報告されている。また、飼い主が示す表情や声色を読み取って自分の行動を変化させる例も観察されている。そうした高い学習能力や社会的コミュニケーション能力を有する猫を指して、「一定の能力を持つ猫」と呼ぶことができるかもしれない。
仮に「知能テスト」や「行動特性の検証」を行い、その結果として“人間社会において最低限のコミュニケーションを成立させられる”と判断される猫がいたとしよう。そのような猫を対象に、人間と同等の権利――言い換えれば、「人権」に準ずる権利を付与しようとするのが、今回の仮説である。
具体的には、以下のような権利を想定してみるとわかりやすいかもしれない。
もちろん、これらを文字どおり猫に適用するのは現行の社会制度とは大きなズレがある。しかし「高いコミュニケーション能力が証明された」という前提を置けば、少なくとも議論の余地は生まれる。
4.想定されるメリット
猫に限らず、動物虐待が社会的な問題として繰り返し取り沙汰されてきた。「アニマルウェルフェア」の観点からも、虐待や劣悪な飼育環境が後を絶たない現状には胸を痛める人も多いだろう。もし“人権”という強い法的保護を特定の猫に与えることができれば、それが心理的・社会的な抑止力として機能する可能性がある。人権を侵害した行為として“犯罪”の扱いがより明確になり、違反者に対して厳しい罰則を課すことができるかもしれない。
人間以外の生物に人権を認めることは、社会的秩序を新たに再構築する大きなチャレンジともいえる。これをきっかけに、倫理や法、そして共同体としての在り方を深く考え直す機会が生まれるだろう。近年、ジェンダーや人種・国籍を超えた多様性の重視が進んでいるが、それを動物へ拡大するというのは、ある意味で論理的な延長線上とも考えられる。人間中心主義的な世界観から一歩離れ、より多様な存在が尊重される社会のヒントが見えてくるかもしれない。
私たちは古くから猫を可愛がり、時には神秘的な存在として崇拝してきた歴史がある。もし猫が法的に「人権」を持つ存在として扱われるならば、これまで以上に彼らの行動や感情表現が注目されるだろう。猫側も“人間社会での権利行使”のために、さらに学習やコミュニケーションを深める可能性がある。これは純粋に文化・芸術の発展にも寄与するかもしれない。映画や小説、漫画などで、猫が人間と同等に会話し、生活に溶け込む物語は多くの人の想像力を刺激する。そこに実際の法的保障が加わると、ファンタジーとリアルの境界があいまいになる新しい時代が訪れるとも言えるだろう。
最大の懸念は「人権の乱用」である。仮に一定の基準を満たした猫が人権を手に入れた場合、その適用範囲はどこまで広がるのだろうか。ほかの動物にも同じように権利を与えなければ不平等だという声が上がるのは必至であり、それが連鎖的にエスカレートする可能性もある。「猿にも、豚にも、魚にも同じ権利を」と議論が拡大していくと、社会の制度や経済活動は大きな混乱を招くことになるだろう。
権利を行使することは、同時に責任や義務を伴う。人間の場合は、法的な責任を負う自覚や社会生活上のルールを学習し、破った場合には罰を受ける仕組みが整っている。しかし、猫にそれをどのように適用するかは極めて難しい問題だ。たとえコミュニケーション能力が高い猫であっても、“法律を理解し遵守する”という意味では、人間社会のルールとの齟齬が生じやすい。万が一、猫が誤って人を傷つけたり器物を損壊してしまった場合、どのように責任をとらせるのか。権利を与えた以上、猫自身が賠償責任を負うことになるのか。その背後で管理する人間に責任が転嫁されるのか。こうした問題は容易には解決しない。
さらに、根本的に「猫は猫としての幸せを望んでいるのか?」という点にも立ち戻るべきだ。人間同様の権利を押し付けること自体が、猫の本来の生態や自由を奪う可能性もある。猫は群れを形成する動物でもなければ、複雑な社会システムを構築する動物でもない。彼らは日々の暮らしの中で狩りをし、寝て、遊び、時に仲間とのんびり過ごす生き物である。人間の法律に基づく複雑な権利関係に巻き込むことが、彼らの幸福に直結するとは限らない。
このように、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、実際の社会に導入するには数多くのハードルが存在する。しかし、この提案が示唆する本質的な問題は、「私たちは人間以外の存在をどこまで尊重できるのか」という問いにあるのではないだろうか。
動物虐待、環境破壊、家畜としての過剰な搾取など、人間が引き起こしている数多くの問題は、私たちが人間という種を優先して他の生き物を蔑ろにしてきた歴史の副産物だともいえる。一方で、動物たちが持つ豊かな感情やコミュニケーション能力に光が当たるようになり、いまや彼らを単なる“所有物”や“資源”として扱う時代は終わりを告げようとしている。
それでもなお、「人間が特別」であり、「人間のみが人権を有する」という考え方は根強い。もし、猫をはじめとする動物が人権を獲得するとしたら、それは私たちの価値観に大きな変革をもたらすだろう。生物学的にも、倫理的にも、法的にも極めて大きなパラダイムシフトを伴う。しかし、そうした急激な変化には当然、摩擦や混乱がつきまとい、実現性は高くはない。
今後、私たちの社会がどう変化していくかは未知数だが、テクノロジーの進歩が動物との共生に新たな可能性をもたらすかもしれない。たとえば、動物とコミュニケーションをとるための音声・脳波解析技術がいずれ実用化されれば、猫が感じている感情や意志をより正確に理解できるようになるかもしれない。猫側も同様に、人間の意図を理解して自分の意思を伝えるツールを持つ可能性は否定できない。
そのとき、もし猫たちが「自分たちにも尊厳を認めてほしい」「苦しい治療や劣悪な飼育環境を押し付けられたくない」と主張し始めたら――私たちはどう応えるのだろうか。声なき声がテクノロジーを通じて可視化されたとき、議論はさらに白熱し、“人間だけの特権”と思われていたものを再定義せざるを得なくなるだろう。
「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説は、まさに極論の域にある。実行のハードルや法的・倫理的問題点は膨大であり、現実的にはすぐに導入できるものではないだろう。それでも私たちは、この議論が問いかけるテーマから学ぶことができる。
つまり、動物をどれほど尊重し、社会の一員として扱うことができるのかという視点だ。猫や他の動物が持つ感情や能力を可能な限り正しく理解し、必要とされる環境や保護を整えることは、私たち人間社会の責務である。人権という言葉を用いるかどうかは別として、動物の「生きる権利」や「苦しまない権利」を法的にも社会的にも守っていく道筋を探る必要があるだろう。
また、「人間と動物」という二分法ではなく、「それぞれの生き物が互いを尊重し合う社会」というビジョンを思い描くことはできないか。もし猫がさらに進化し、意思疎通がより深くなったとき、私たちは“同じ地球上に生きる存在”として彼らとの関係性をアップデートすべきだろう。言い換えれば、本当に必要なのは、私たち人間が持つ特権や傲慢さを見直すことである。
最後に、私たちが猫たちにどのような“権利”を与えるかという話は、結局は人間側の問題に他ならない。権利を与えるという行為そのものが、すでに人間視点の押し付けの可能性を含んでいるからだ。本当に必要なのは、私たちが自然や生き物をどれだけ尊重できるか、あるいはそれぞれの生き物の“幸せ”の在り方をどれだけ理解し、そのための環境づくりができるかということだろう。人権というフレーズが象徴する大きなテーマを通じて、猫や他の生き物たちとの未来について、深く考えてみるきっかけになれば幸いである。
以上の考察を総合すると、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、現実的には多くの困難を伴うものの、動物の尊厳や生きる権利をより積極的に認めていくうえで、私たちに鋭い問いを投げかける存在であると言えるだろう。それが真に実行されるかどうかは別としても、私たちの社会が抱えるヒト中心主義や生物多様性の問題について改めて考える入り口になるのではないだろうか。権利と義務の関係をどこまで動物に適用できるのかという議論は、決して簡単に結論の出るものではないが、人間と動物が真に共生していく未来を描くためには避けて通れない問題である。
結局のところ、どんなに議論を重ねても、猫が自ら望む幸せと人間社会が用意できるシステムとの間には大なり小なりギャップが生じる。そのギャップを埋める努力こそが、私たちが“ヒト以外の生き物と共存する社会”へ近づく第一歩なのだろう。猫に人権を与えるか否か――その問いが投げかけるのは、私たち自身が持つ“人間であることの特権”や、他者(他生物)を排除する無意識的な態度への揺さぶりにほかならないのである。今こそ、一歩踏み込んだ思考の余地を持ち、猫を含む多様な生き物たちにとっての幸せを見つめ直す時期が来ているのかもしれない。
私はまだ、ほんの少し前までそばにいたあの子が、もうこの世界にいないという現実を受け止められずにいる。心に空いた大きな穴は、埋めようとしても容易には塞がらない。ほんの些細な物音や影を見たときに、「もしかしてあの子じゃないか」と思ってしまう自分がいて、そのたびに「もういないんだ」と改めて知らされる瞬間が苦しく、胸の奥が強く締めつけられる。私の中では、まだあの子と過ごした日々のぬくもりや匂いが鮮明に残っており、振り向けばそこにいるような錯覚に襲われる。数えてみると、一緒に過ごした時間はけっして短くはなかったはずなのに、それでも「もっと一緒にいたかった」という想いは尽きることがない。
あの子が我が家にやってきたのは、ちょうど私が仕事で大きな壁にぶつかっていた時期だった。あれは偶然だったのかもしれないし、何か大きな運命の流れに導かれていたのかもしれない。知り合いの紹介で、生まれたばかりの子猫の里親を募集しているという話を聞き、なんとなく心が惹かれて足を運んだ先にあの子がいた。まだ掌にすっぽりと収まるくらい小さな体で、か細い声で「にゃあ」と鳴いた瞬間、一気に胸が熱くなったのを覚えている。あの小さな命を自分たちが守りたい、この子にできる限りの愛情を注いであげたいという、言葉では説明できない衝動にも似た強い感情が湧いたのだ。
それからの生活はあの子中心になった。私が外から帰れば、ちょこちょこと短い足を動かして玄関まで迎えに来てくれていた。仕事で帰りが遅くなっても、しっぽをピンと立てて待っていてくれる姿にほっとしたり、疲れきった体をソファに投げ出す私の胸に丸くなってくれる瞬間に癒やされたり。そういう何気ない毎日の積み重ねは、あの子がいてこそ得られる温かな喜びであり、私にとってかけがえのない生きる活力になっていた。
私が悲しんだり落ち込んだりすると、あの子は言葉をかけられなくても不思議と察してくれたのだろう。そっとそばに座り、私の顔を見上げたり、小さな肉球でちょこんと手を触れてきたりしてくれた。その存在感がどれほど大きなものであったかは、今になって改めて思い知る。猫という生き物は気まぐれで、飼い主にべったりなイメージが少ないとされることもある。しかしあの子は、人間の言語を超えたコミュニケーション能力でこちらの状態を感じ取ってくれていたように思う。
そんなあの子も、年齢を重ねるにつれ体調を崩すことが増えた。最初のうちはちょっとした食欲不振や風邪程度だったから、「大丈夫だよ、すぐ元気になるよ」と気軽に考えていたけれど、数年前から少しずつ通院する回数が増えていったのを今でもはっきりと覚えている。医師から「慢性的な疾患が進行している」と告げられたときの、あの胸がざわつくような感覚はたまらなかった。いつまでも元気で一緒にいられるはずはないと頭ではわかっていても、いざそう言葉にされると痛烈に心が軋んだ。
それでもあの子は懸命に生きてくれていた。投薬や定期的な点滴、フード選びなど、できる限りのケアをしながら一日一日を大切に過ごしていった。私たちの愛情と、あの子の生きようとする力、そのどちらが欠けてもきっと難しかったのだろう。あの子にとって、私たち家族と過ごす時間は心地よかったのだろうか。私はいつも「ありがとう、まだまだ一緒にいたいよ」と話しかけていた。言葉は通じなくとも、あの子の大きな瞳を見つめると「大丈夫だよ」「一緒にいてくれてありがとう」と伝わってくるような気がした。
けれど、どんなに願っても避けられない別れのときはやってくる。ここ数週間は特に体調の波が激しくなり、食事をとる量もかなり減っていた。病院での検査結果は思わしくなく、医師からは「もう長くはないかもしれない」と言われていた。頭では理解していても、どうしようもない不安と悲しみが私の胸を覆っていた。あの子が苦しくないように、できるだけ穏やかに過ごせるようにと祈る日々が続いた。
そして昨日の朝、あの子は静かに息を引き取った。私が部屋に入ったとき、すでに瞳は薄く開いたままで、最期の呼吸をしたかしないかという、まるで眠りについたかのような姿だった。信じられなくて、何度も何度も名前を呼んだけれど、もう二度と返事は返ってこない。心のどこかで「せめて最後は苦しまずに逝ってくれたのなら」と思う気持ちもあれば、「もっと私ができることがあったのではないか」と自責の念に駆られる自分もいる。あの子は限界まで頑張ったのだろう。苦しみから解放されて、今頃は虹の橋で元気に走り回っているのだと信じたい。
亡くなったあの子を見つめながら、ふと最初に会った日のことを思い出した。まだあんなに小さく頼りなく、私の両手の中ですやすやと眠っていたあの子。目が合うたびに、愛しさと不思議な縁を感じたのを思い出す。私はこの子を守りたかったし、一緒に幸せになりたかった。成長するにつれ、やんちゃになってカーテンによじ登ったり、部屋の棚をひっかいて落としたりしては、こちらが叱ってもどこ吹く風で、まっすぐな瞳で見上げてきたことを微笑ましく思い返す。そんな小さな思い出の数々が、今となっては宝物だ。
この喪失感は、私がこれまで味わったどの悲しみとも違う。あの子はペットという言葉でくくるにはあまりに家族の一員であり、私の心の支えでもあった。私は今、泣きたくなるほど辛い気持ちでいっぱいだけれど、それでも後悔よりは感謝を伝えたい。あの子がいてくれたから、私はどれだけの笑顔と温もりを手にしただろう。あの子との暮らしの中で学んだことや与えてもらった癒しは、数えきれないほどに大きい。
今、部屋にはまだあの子が使っていたベッドやおもちゃ、餌皿などがそのまま残っている。片付けようと思うたびに、喉が詰まってしまうほどの寂しさが込み上げて、手が止まってしまう。もう一度でいいから、あの子のあたたかい体温や毛並みを感じたいと思ってしまう。理屈ではわかっていても、心がついていかない。きっとこの状態を乗り越えるのには、まだ時間がかかるだろう。
動物病院で獣医師から「ペットロス」について説明を受けることがあったが、まさか自分がこんなに苦しむとは想像していなかった。もちろん最初から、いつかはお別れが来ることをわかっていたつもりだった。猫の寿命は人間よりはるかに短い。だからこそ、今を大切に一緒に暮らしていたつもりでも、いざ失ってみると自分の一部がもぎ取られたような、そんな気持ちになっている。感情が予想以上に揺さぶられて、しばらくは自分の生活すらままならないほどのダメージが襲ってきている。
人に話しても「気持ちはわかるけど、そんなに落ち込まなくても…」と言われることがあるかもしれない。けれど、飼い主にとってはペットという存在がどれほど特別でかけがえのないものだったかは、言葉で簡単には説明できない。日々の暮らしの中で、どんなシーンにもあの子がいて、私のそばで息づいていた。生きる喜びや孤独感の紛らわし方など、あの子から教わったことは数え切れない。
私は、今あの子がいない現実を受け入れるのに精一杯だし、涙が枯れることなく溢れてくる。でも、きっとこれから少しずつ時間をかけて、この悲しみは形を変えていくのだろう。それは単に「忘れる」ということではなく、あの子がくれた思い出を大切に抱きながら、新たな日常を歩んでいくための道のりなのだと思う。私が前を向いて生きていくことこそが、あの子に対する最大の感謝と愛なのかもしれない。
「虹の橋」という言葉を、あの子が亡くなってから初めて深く意識した。天国と地上の間に架かる虹の橋のたもとで、亡くなったペットたちが元気に走り回り、飼い主を待っているという話。いつか私がそちらに行くとき、あの子は大喜びで飛びついてきてくれるのだろうか。そんな想像をすると、少しだけ心が軽くなる。いつか再会できるかもしれない。その日まで、私にできることは、あの子と過ごした時間を忘れず、あの子が好きだった温もりを周囲に分け与えながら精一杯生きることだ。
でも、もう少しだけ時間がほしい。まだ昨日の今日なので、とてもじゃないけれど立ち直れない。どこを見渡してもあの子の思い出ばかりが溢れていて、うっかり笑ってしまうような楽しい思い出も、今はまだ鋭い棘のように胸を刺してくる。きっとしばらくは泣いたり笑ったりを繰り返して、感情の波が激しくなるだろう。だけど、そんな揺れ動く心のままに過ごすことが必要なのだと思う。悲しみを否定せず、泣きたいときは思い切り泣いて、思い出して笑えるときには素直に笑おう。
家族や友人からは、励ましの言葉や優しいメッセージをもらう。みんな、私がどれほどあの子を大切に思っていたかを知っているからこそ、かけてくれる言葉には温かさがある。そのたびに涙がこぼれるけれど、あの子への想いを共有できる人がいることは、本当にありがたいことだと感じる。私は一人じゃない。あの子の命が私たちに繋いでくれた縁を大事にしていきたい。
これから先、あの子との思い出をどのように受け止め、生活の糧にしていくかは私自身にかかっている。写真や動画を見返すのはまだ少し辛いけれど、いつかきっと「あんなこともあったね、楽しかったね」と微笑みながら思い出話ができる日が来ると信じている。あの子がいたことが、私の人生を彩る大きな要素の一つであることに間違いはない。だからこそ、あの子を失った悲しみは、それだけあの子が私の心を満たしてくれていた証でもあるはずだ。
今はまだ、「昨日、家の猫が虹の橋を渡った。辛い」という事実に打ちひしがれている。寂しさや喪失感がこれほどまでに心をかき乱すものなのかと、自分自身でも驚いている。ただ、一方で不思議と安らぎにも似た気持ちがほんの少しだけある。それは、「あの子はきっと幸せだっただろう」と言い切れる何かが、私の胸の奥底に確かに存在しているからかもしれない。苦しい治療を乗り越えながらも、最後まで私と一緒に生きようと頑張ってくれたあの子の姿は、絶対に私の中から消えることはない。
あの子と共に過ごした時間は、たった一度きりの人生の中で、私にとって何よりも尊い経験となった。ありがとう。言葉にならないほどの感謝を伝えたい。うまく言葉にできないけれど、あの子がいてくれたからこそ私の人生は豊かになったと胸を張って言える。そして、これから先の人生で、もし新たに猫や他のペットを迎え入れることがあるとしても、あの子の存在が私の根底を支えてくれるに違いない。悲しみを教えてくれたのもあの子だけれど、それ以上に愛や喜び、そして生きる力を与えてくれたのもまたあの子だったのだ。
虹の橋を渡ったあの子。今はきっと、何も痛みを感じることなく、自由に駆け回っているに違いない。私と過ごした日々をどんな風に覚えてくれているのだろうか。あの子はもう、こちらの世界の苦しみや不安とは無縁の場所にいる。それでも、私がこうして想いを馳せている限り、あの子は私の心の中で生き続ける。そう信じることで、今日を何とか乗り切る勇気を得ることができる。
そしていつの日か、私もあの子のもとへ旅立つ時がくるだろう。その時は迷わずあの子を探して、思いきり抱きしめたい。そして「ありがとう」「おかえり」と、お互いを慈しみ合えたらどれほど嬉しいだろう。今はまだ遠い先のことかもしれないけれど、そう思うだけで少しだけ心が救われる気がする。目には見えない存在になってしまったけれど、私があの子を想う気持ちがある限り、私たちの繋がりは断ち切れることはない。
「昨日、家の猫が虹の橋を渡った。辛い」――その一言では言い表せないほどに、胸が痛む。けれど、この悲しみは同時に、私が確かにあの子を深く愛していた証拠だと思う。きっとこの先も、ふとした瞬間に涙が零れ落ちることがあるだろう。それでも、その涙が乾いたあとには、あの子と過ごした幸せが心を温めてくれるはずだ。何より、あの子が私の人生の一部だったことは永遠に変わることがない。
だからこそ、この悲しみを抱えたままでも、生き続けなければならない。あの子が私に残してくれたものは、飼い主として受け止める責任があると感じる。こんなにも愛おしい存在を失ってしまったからこそ、これから先の人生の中で、誰かの痛みや悲しみに寄り添うことができるかもしれない。あの子の代わりに私ができることを探していきたい。この涙を無駄にしたくない。
思い出は消えない。あの子との時間が私の中で生き続ける限り、私はきっと大丈夫だ。少しずつ、少しずつではあるけれど、また笑顔を取り戻せる日が来ることを信じている。そのときには、きっとあの子の姿が私の心の中で優しく微笑んでくれているだろう。あの子に恥じないような生き方をしていきたい。そして、いつか虹の橋の向こうで再会したとき、「あなたと暮らせて幸せだったよ」と思ってもらえるように、これからも前を向いて歩んでいくと誓う。
昨日の出来事は、私にとってまだ痛烈に生々しい傷であり、立ち直るにはきっと長い時間が必要だ。それでも、あの子と過ごしたかけがえのない年月を、私の人生の宝物として大切にしていきたい。そしてこの悲しみの先に、きっとあの子が残してくれた愛が続いていると信じる。その愛は消えず、私のこれからの毎日に温かい光を届けてくれるだろう。あの子のために、私のために、今日も私は生きる。虹の橋の向こう側で、また会える日を夢見ながら。
「イヤなら辞めろ」と言う人は、一般的に以下のような特徴を持つことが多いです:
権力意識が強い: 彼らは自分の立場や権限を利用して、労働者を支配しようとする傾向があります。自分が絶対的な存在だと考えることで、批判されることを許さず、反論や意見を封じ込める手段として「辞めろ」という言葉を使います。
コミュニケーション能力の欠如: 批判や意見を受け入れる柔軟性がなく、問題解決のための建設的な議論を避ける傾向があります。これは、自分が間違っている可能性を認めたくない、または批判を個人的な攻撃と受け取る心理から来ることが多いです。
パワーハラスメントの可能性: 「イヤなら辞めろ」という言葉は、パワーハラスメントの一種とみなされることがあります。特に、労働者が自分の労働条件や職場環境について正当な批判をしている場合、そういった発言は労働者の心身に大きな負担をかける可能性があります。
社会的・経済的影響を軽視: 彼らは労働者が簡単に仕事を辞められない現実を理解していない、または無視している場合があります。これは、労働者の生活や精神状態に対する配慮の欠如を示しています。
自己中心的な思考: 自分の視点からの判断しかできず、他者の立場や背景を考慮しない傾向があります。これにより、自分が不快になったり、不満を感じた場合に、問題解決の代わりに労働者を排除する選択をするのです。
このような人の態度は、労働環境だけでなく、組織全体の雰囲気や生産性に悪影響を及ぼす可能性があります。労働者と使用者の間で健全なコミュニケーションが取れないと、最終的には企業の成長や風土に大きな影を落とすことになるでしょう。
他動画はこれ系にありがちなアレなテーマや出来だけどこのネタだけ非常に出来がいいし、
チー牛に育てる方法はこれだ【ずんだもん解説】
この動画は、ずんだもんが「チー牛」と呼ばれるような人間に育つまでの過程を、自身の経験を元に解説しています。
チー牛とは:
子供の失敗を許さず、厳しく叱責する。
親が自身の過去の失敗を子供に投影し、同じ道を歩ませないように過干渉する。
幼少期: 親の過干渉により、自分の意思で行動することができず、自立心が育たない。
思春期: 容姿やファッションに興味を持ち始めるが、親の干渉や嘲笑により、自信を失う。 ← 増田でも見るやつ*1
高校時代: 親の過干渉や無関心により、勉強や進路選択に迷い、挫折を経験する。
母親の過干渉により、ゲームやアニメ、友達との遊びを制限された。
容姿やファッションに無頓着になり、コミュニケーション能力が低下した。
チー牛になる原因は、親の過干渉や無関心にある。
親は、子供の意思を尊重し、自立心を育むようにサポートするべきである。
この動画は、ユーモアを交えつつ、チー牛になる原因と過程をわかりやすく解説しています。視聴者には、自身の経験を振り返り、親の育て方や自身の行動を反省するきっかけとなる内容です。
わかりやすい物理DVや経済DVやネグレトだけじゃないんよなぁ
https://youtu.be/FxKk7RVNBBA
今は離れて暮らしてるけどうちの母はいわゆる子の身なりへの関心を茶化すタイプだった。 同性だとまあよく聞く話だけど息子も言われるもの? 素朴な疑問https://anond.hatelabo.jp/20210311103838#
オナニーが見つかって色気付いてるとか言われたことがあります。青少年だから普通だと思うのだが
https://anond.hatelabo.jp/20210311104043#
『凄いスピードで大人の男性になっていく』息子が親は嬉しくて、
同時にいつも少し寂しくて涙が出そうだから、冗談めかして誤魔化してるのですよ。
もしお母さんもそうなら、それでも貴方が感じるものは苦痛ですか?
「色気付いてる」の向こうにあるものを知ったら、傷だと思ってたものは瞬く間に癒えて、違う暖かいものになるのではないでしょうか?
2児の母としての意見ですが…
お母様も自分の息子が成長してオトコになって嬉しいけど、素直に嬉しいっと言ってあげらないのかもしれません。
ブラックだったりヘンな慣習があったりと、色々とめんどくさい日本の仕事習慣。
ふと思いついたので、何がめんどくさいか考えてみた。
先述した通り、日本では管理職は同じ組織の現場プレイヤーから引き上げていく。
当然ながら、MBAなどでマネジメントスキルを習得する機会もほぼない。
そして現場仕事は優秀でも管理業務は得意ではない、という場合が少なくない。
また昇進には拒否権がないかったり、逆に現場プレイヤーに戻ることもできない場合が多い。
これが災難を生むのである。そう、「自分の感覚で他人を管理しようとする」のである。
やる気も能力も体力も自分と同じと考えてしまうので、それを当たり前と思っていたり、ひどい時には部下に自分と同じパフォーマンスを強制するのである。
やる気・成長意欲といえば、それを押し付けがましく喧伝してくる管理職の存在がうっとうしい。
日本では、ある程度までは年齢や勤続年数に応じて自動で上がれるケースが多いが、
・それより先を目指したい
・早く出世したい
・昇進試験がある
なので、「やる気のある管理職」が生まれるが、これが問題なのだ。
当然だが、全員がやる気にみなぎっているわけではない。
やる気のない人はそれなりに多くおり、仮に当初はやる気があっても時間で低下することも大いにある。
やる気のない人を自己都合退職に誘導するなどして排除したとしても、環境などの変化でやる気のない人は一定数出る(要するに2:6:2の法則)。
ところが、日本の職場はこのような「やる気のない人」を認めないのである。
確かに、パワハラやセクハラ、機密漏洩、警察のお世話になるなど迷惑行為を繰り返す人は退場してもらった方が賢明だろう。
しかしながら、恐ろしいことに「みんながやる気を持っている」と錯覚しているのである。
日本型の管理職はただやる気がない人(指示されて与えられた仕事はする)もいないものどころか「あってはならないもの」として扱うのである。
あるいは、そのように見える人がいたとしても一時的にスランプに陥っているだけと思い違いをしている。
なので、やる気のない人に対しては「仕事のやりがいや楽しさを伝える」「責任感を出すよう指導する」ことしか考えていない。
何とかしてやる気を引き出そうと考えているようだが、ないものはない。
契約しているだけの時間は仕事をするから、その分の仕事だけ割り振って後は放置してくれた方がうれしいのだが、そうは思わないらしい。
このような人たちは、やる気のない人に対して必ずこう言う。
「でもこれはやったほうがいい」
と返す。なんなんだ。仕事の報酬は仕事というのもいただけない。
「面接では一生懸命やりますって言ったでしょ」…これもよく言われることだ。
だが、これは「言った」のではなく「言わされた」のだ。
となると、答えは「言わされましたが、あれは嘘です」となる。
ところで、やる気がないのを表現する場はどこにあるのだろうか。
年度初めの挨拶で「やる気がないし定時に帰りたいのであまり仕事は任せないでください」と公言すべきか。
やる気とほぼ同意義の言葉に「成長」というものがあり、その成果としての昇進があるそうな。
やる気がない人の存在が認められないのであれば、仕事を通じて成長したくない人や昇進したくない人の存在も認められなくなる。
言い換えると、金をもらうかわりに一定時間作業しているという労働の目的を理解しない人が多いのである。
もっというと、生活(と休んで遊ぶため)に必要な金が手に入ればそれ以上の労働は必要ないということが理解できないのである。
なぜか、労働にやりがいだの奉仕だのとよくわからないものを取りつけ、それを他にも強要するのである。
なので、早出や残業が推奨されるし、休憩時間も労働に励むなどの姿勢が好まれる。
逆にいえばon-offをはっきり分けて所定時間外は労働しないという姿勢は好まれない。
昇進についても同様だ。昇進することが唯一のアイデンティティとなっており、それ以外の価値観が認められない。
つまり、昇進はせず、仕事はそこそこにとどめて定時に帰り、家でのんびりするという価値観が認められにくいのである。
確かに欧米でもエリート層はバリバリ働き、ほとんど休みがないのは事実だ。
しかし、それは対価を十分に払った一部のメンバーに限られる話だ。そしてそれも始めのうちにどちらになるか決まっている。
日本の場合、全員がエリート層を目指す前提となっていることが問題なのである(人数が多くなるので、給与も低くなる)。
もちろん業績などによってどこかで昇進は止まるが、それは40-50代と遅い時期になる。
入社時か、せめて25-30歳でコース分けし、バリバリ働きたい人はどんどん昇進し、そうでない人はのんびりというわけにいかないのだろうか。
日本では「総合職」といった職種を限定しない枠組みで人を集める場合が多い。
このため、どこで勤務するか(そこまで通いやすいか、そこでの人間関係はどうか)は赴任直前までわからない。
業務も同様で、赴任して実際に割り振られるまで何をするかわからない。
業務内容は日によって変わることもあるし、突然降ってくるのが常態化していることも多い。
というか、各従業員に業務が割り振られていても、それは便宜的なものであるケースもしばしばある。
一応希望は聞くも「希望は通らないと思いますが自分の成長のためと思ってください」と。だったら聞くなよ。
一応労働契約書があり、業務内容も明記されてはいるものの、結構漠然としている。
また、「その他当社に関係する業務」などと記載し担当業務を無制限に広げることが横行している。
人を増やして業務を分散すればいいのに、なぜか限られた従業員に業務を集中させるのも不思議な点だ。
業務内容が全くわからない募集の段階ではなおさらで、「未来を作る仕事」「成長できる仕事」などとふざけたことを抜かす。
おそらく、業務外の飲み会など、「給料は出ないけど仕事のうち」という価値観もこれが原因と思われる。
年功序列もその結果の一つであり、新人や若年者に雑用やら難しいことやらを押し付けるのが流行っている。
やはりこれも「あなたの成長を期待してあえて難しい仕事を与えている」という建前がある。
管理職の項目にも書いたが、なぜか「与えられた仕事を時間だけする」という労働の本質が理解されにくいのも変なところだ。
「時間で仕事をする人」を見下し「成果で仕事をする人」が正しいと考えている。
雇用契約では時間で給与が出ている。成果で仕事するのは委任契約とかフリーランスの方だが。
なので、資格や専攻分野は法律で定められたものを除き参考程度にしかならず、やる気だのコミュニケーション能力だのと変なものばかり推すようになる。
転属もありいろいろな業務を浅く広く経験して管理職に上がるキャリアパスが一般的だ。本人の適性はほぼ考慮されない。
ちなみに、これに年齢と比較した経験値判定が加わってくるのが新卒偏重の原因となっているそうだ。
これは法律で資格保持者しか従事できないようになっている職種も同様だ。
資格に関係する業務のみ行っていればよいわけでなく、無資格者でも可能な業務をやらせるパターンが多い。
労働者の権利は権利である。行使する条件を満たしていれば行使して全く問題ない。
例えば有給休暇は、6カ月以上8割以上の出勤率で5日以上付与せねばならず、労働者は利用できるようになる。
もちろんそれ以前から付与したり定められている以上に付与した場合は労働者は自由に使える。
時季変更権はあるが、かなり条件は厳しい。
さて、労働者と経営者は利害が対立するのは当たり前だ。権利を行使されると人員調整をすることになるからだ。
だから経営者が嫌な顔をするのは理解できる。しかしながら、ここ日本ではなぜか同じ立場の労働者が足を引っ張ってくるのである。
有給休暇だけでなく病気休暇などあらゆる面でお互い足を引っ張っており、経営者に都合がよいようになっているのである。
色々な建前はあるが、要するに権利を使う人が妬ましいのだろう。「みんなで不幸になろうキャンペーン」とも呼ばれていたっけ。
下手すると「人間性」だのと持ち出して権利を使う人を批判するようになる。
これが行き過ぎると、「権利を使うのは仕事ができるようになってから」ととんでもない基準が出来上がってしまう。
この精神が、穴が開かないこと前提の無茶な計画を押し出すことになる。
誰でも病気にはなるし、機械は壊れる。なので計画に穴が開くことは避けられない。
しかし、日本ではなぜか全員が最大限稼働していることを前提とした計画が組まれてしまう。
当然この計画は簡単に破綻するのだが、破綻しないように監視しあったり、負担を強いるなどして無理やり押し切ろうとしている。
人を増やすか余裕を持った計画にすればいいのに。それで会社や社会が潰れるなら潰れてしまえばいいのに。
おそらく同じ原因だろうが、「社会は厳しくあらねばならない」という謎の価値観がある。
別に緩くても何も実害はないのに、勝手に厳しさを演出しては人を縛り付けて自己満足に浸る。
それだからか、労働環境の改善はリストラや格差社会の予兆と不安視しだす。
うるさいお客様、要するにクレーマーがいて会社側が折れてしまうことも原因といえる。
もちろん海外でもクレーマーや無茶な要求をするお客様はいる。しかし会社側が毅然と断り、ひどいようなら出禁にして対応している。
一方日本は長らく要求をのんできた経緯があるため、お客様が調子に乗るのである。結果、サービスの範疇にないことや無料サービスを強制されるのである。
労働者の権利を主張する最後の手段がストライキなのだが、それを迷惑行為と判断するのも日本人らしい。
というか、「権利を主張する人がしてくるサービスなんて嬉しくない」というお気持ちでしか考えられないのも不思議なところである。
あくまでサービスは対価にと交換で定められたことをするだけのはずで、そこに気持ちはないはずだが。
自分の適性がわからないうちからナビサイトが流布した与太話につられて手探りで自分史やら意図不明の面接やらがある就職活動を始める。
既卒者になったら一気に不利になる(だから意図的に留年することもある)のはよく知られた話だ。
他の分野が合いそうだからと別の大学に入りなおすのも認められない。
とにかく懲役40年(それ以上か)を過ごすことは日本人のステイタスらしい。
今はそうでもないが、昔は成人男性が平日昼間に外を出歩いていることがおかしいこととされていたらしい。
その証拠に団地ふもとの公園でビールをすすっていたら通報されたらしく職務質問にあった話があるとか。
おそらくみなさんが感じていることと大差ないと思うが、いつになったら改善するんだろうね。
中年になってから新たな恋愛を始めることは、勇気がいることかもしれません。しかし、適切なアプローチと心構えがあれば、素敵なパートナーと出会うことは十分可能です。ここでは、おっさんが女の子と付き合うためのいくつかのポイントを紹介します。
1. 自分磨きをする
まず第一に、自分自身を大切にすることが重要です。健康的な生活習慣を心がけ、適度な運動やバランスの取れた食事を取り入れましょう。また、清潔感のある服装や身だしなみに気を配ることで、第一印象を良くすることができます。
2. ポジティブな態度を持つ
ポジティブな姿勢は魅力的です。過去の失敗やネガティブな経験に囚われず、前向きな考え方を持つことで、相手にも良い影響を与えます。笑顔を忘れず、明るい会話を心がけましょう。
共通の趣味や興味を持つことは、自然な会話のきっかけになります。趣味のサークルやイベントに参加することで、自然な形で相手と出会うチャンスが増えます。また、一緒に楽しめる活動を通じて、関係を深めることができます。
4. コミュニケーション能力を高める
良好なコミュニケーションは、健全な関係の基盤です。相手の話に耳を傾け、理解しようとする姿勢を持ちましょう。また、自分の気持ちや考えを適切に伝えることも大切です。誠実でオープンな対話を心がけましょう。
相手を尊重し、思いやりのある行動を取ることは、信頼関係を築くために欠かせません。相手の意見や感情を尊重し、無理強いをしないように心がけましょう。また、適度な距離感を保つことで、お互いに快適な関係を維持できます。
6. 自然体でいること
無理に自分を飾る必要はありません。自然体でいることで、相手もリラックスして接することができます。ありのままの自分を受け入れてくれる相手を見つけることが、長続きする関係を築く鍵となります。
まとめ
おっさんが女の子と付き合うためには、自分自身を大切にし、ポジティブな態度を持つことが重要です。共通の趣味を見つけ、良好なコミュニケーションを築くことで、素敵なパートナーとの出会いが期待できます。尊重と配慮を忘れずに、自然体で接することを心がけましょう。新たな恋愛が、あなたの人生に豊かさをもたらすことを願っています。
千切れかかった薄曇りの空の下、木造の古いアパートの部屋で、川端賢介(かわばた・けんすけ)は頭を抱えていた。狭い部屋の隅には紙くずが散らばり、机の上にはペットボトルとカップ麺の空容器が乱雑に転がっている。アルバイトのシフトを週に四回こなすだけでも精一杯で、残りの日は家に引きこもって何もしない。部屋のカーテンは閉め切られ、部屋の中はやや薄暗い。壁の向こうからは近所の子供が走り回る音や、誰かがテレビを大音量でつけている様子が聞こえてくる。その些細な音ですら、賢介には自分の存在を嘲笑する響きに思えてくる。
かつては夢があった。大学に入った当初は、弁護士になりたいと思ったのだ。しかし理想と現実のギャップにすぐ打ちのめされ、受験勉強も中途半端なまま途中退学。就職活動もうまく行かず、今のアルバイト暮らしをしている。自分が「社会の落ちこぼれ」になってしまったことは認めざるを得ない。一方で、大学時代に同じサークルで出会った女性がいる。彼女の名は比嘉優里子(ひが・ゆりこ)。彼女はサークルの中でもリーダー的存在で、いつも自信に満ち溢れ、まるで何でも手に入れることができるかのようなオーラを放っていた。
優里子は、その明るい性格と優れたコミュニケーション能力を武器に、大企業の総合職に入社し、今や順調にキャリアを積んでいるらしい。SNSを覗くと、華やかなパーティーに参加したり、出張で海外を飛び回ったりしている写真がいくつも投稿されている。彼女の姿を見るたびに、賢介は胸の奥に黒い感情が渦巻くのを感じていた。「なんで俺ばかり……」という思いが、日に日に大きくなっていく。かつてサークルでほんの少し仲良くなった時期があったため、彼女の成功が余計に妬ましく思えた。
そんな折、ひょんなことから賢介は、SNSに投稿された優里子の写真を見て、あることを思い出した。大学2年の頃、サークルの新人歓迎会で二次会のカラオケにみんなが行くときに、なぜか自分だけが「ごめんね、席もう埋まっちゃったみたい」と断られたことがあった。当時は「仕方ないか」と思っていたが、あのとき中心になっていたのが優里子だった。後日、別のメンバーから「あのとき、優里子が“あの人いると空気が重くなるから外していい?”って言ってたよ」と、笑い話のように聞かされた。そのときは、ただ恥ずかしさと悔しさで頭が真っ白になり、「そうなんだ」と笑って流すしかなかった。その記憶が、今になって鮮明に蘇る。
――人の心を踏みにじり、自分の快楽や満足のためだけに周囲を利用している。
――だけど表面上は、誰にでも優しく礼儀正しく接する。だから多くの人が騙される。
自分もその一人だったのかもしれない。無邪気に笑う彼女の姿が、いつの間にか脳裏で黒く塗り替えられていく。嫌悪感と羨望、そして劣等感が入り混じったやるせない感情。それが「復讐」という形で凝縮されていくまで、そう時間はかからなかった。
その日もいつものようにアルバイトのシフトを終え、コンビニで半額弁当と缶チューハイを買って帰宅した賢介は、スマートフォンの画面に映る優里子のSNSを眺めながらひとり考え込んでいた。
「どうやって復讐すればいい……?」
彼女に危害を加えるなど現実的には難しいし、そもそも暴力を振るう勇気すらない。だが、何らかの方法で“彼女から大切なものを奪う”ことができないか。彼女に対して「仕返し」をする手段はないだろうか。
そのとき、ある記事が目に入った。ある企業のSNS炎上に関するニュースだった。社員のプライベートな発言が切り取られ、誹謗中傷が集中して、当事者が退職に追い込まれたという事件。SNSを使えば、世論を簡単に操作できる。もし優里子のスキャンダルを世に広めることができれば……と、賢介は思いついた。
しかし、彼女のスキャンダルなど何も知らない。そもそも本当に「悪いこと」をしている保証もない。しかし、賢介にはひとつだけ心当たりがあった。大学3年の頃、仲の良かった友人から、あの優里子がゼミの教授と不倫関係にあるらしいという噂を聞いたのだ。証拠もない、ただの噂話だった。だがもしそれを“事実”としてでっちあげることができたら……。
その日は深夜まで、賢介はインターネット上での炎上事例やフェイクニュース、SNSの拡散の手法などを徹底的に調べ上げた。何度も缶チューハイを口に運びながら、脳内で“彼女を社会的に抹殺する”シナリオを組み立てていく。いつしか空が白み始め、鳥のさえずりが聞こえるころになってようやく、賢介は“準備”を整える決心をした。
翌週、賢介はまず複数のSNSアカウントを作成した。男でも女でもない、あるいはビジネスマンを装ったり、女性OLを装ったり、学生を装ったりと、プロフィールを細かく設定した。次に、大学時代のサークルやゼミの仲間をフォローし、タイムラインに溶け込めるように少しずつ発言を増やしていった。彼らがシェアしている記事に対してコメントを残したり、ニュースや流行りのトピックに無難な意見を書き込んだり。
一方で、別のSNSでは大学の裏アカウントを探し回った。そこには学生時代のうわさ話や、卒業後の同窓会の噂などが色々と書き込まれていた。優里子のフルネームで検索すれば、過去に撮られた写真や些細な情報が断片的に出てくる。その断片を拾い集め、賢介は少しずつ“フェイクの積み木”を組み上げていった。
そしてタイミングを見計らって、複数のアカウントから「あの優里子って、大学時代に教授と不倫して単位もらってたって噂あったの知ってる?」と囁くように書き込み始めた。直接的な断定は避け、「らしいよ」「誰かが言ってた」「本当かは知らないけど」という曖昧な言い回しで、火種をポツリポツリと落としていく。最初は誰も相手にしなかったが、何度か同じような書き込みが異なるアカウントから行われるうちに、少しずつ噂が広がり始めた。
さらに、賢介は裏アカウントを使って、まるで「元ゼミ生」を名乗る人物が優里子と教授の決定的な写真を持っているかのようにほのめかした。もちろん実際にはそんな写真など存在しない。しかし曖昧な文章で「以前、優里子さんが教授とふたりで深夜に研究室を出てきたところを見た」という“目撃情報”を投稿したり、他のアカウントから「そういえば卒業旅行をキャンセルしてたのは、教授と旅行に行ったとか?」とコメントをつけたりして、複数の証言があるように見せかけるのだ。
噂というのは恐ろしいもので、火種を絶やさない限り、どこかで燃え広がる。次第に、フォローの数が少ない裏アカウントでも、その書き込みを目にした人がリツイートやスクリーンショットで拡散していく。やがては大学のOB・OGグループにも届き、少しずつ「あの優秀な比嘉優里子が、実は……?」という疑惑が生まれていった。
数週間後、賢介は満足感に浸りながら、アパートの部屋でSNSのタイムラインを追っていた。匿名掲示板でも「比嘉優里子は不倫で単位を取った最低女」というスレッドが立ち、心ない言葉が書き連ねられている。その勢いはとどまるところを知らず、“噂が噂を呼ぶ”状態が加速していた。
「ざまあみろ……」
内心でほくそ笑んだ。かつてパーティーでもSNS上でも脚光を浴びていた彼女が、今や不名誉な噂の的になっている。それは賢介にとって、大学時代に味わった屈辱を晴らすささやかな“仕返し”だった。優里子の正義感あふれる投稿に、「説得力ゼロ」「偽善者」「自分のことは棚に上げて」などとコメントがつく様を見て、賢介は自分が強くなったような錯覚を覚える。
しかし、いくら噂が拡散しても、実害がなければ彼女は痛くも痒くもないだろう。気の強い彼女なら、「そんなデマに動じないわ」と宣言し、むしろ毅然と反論するかもしれない。実際、優里子のSNSアカウントはしばらく更新が止まっていたが、新しい投稿が上がったときには、たくさんの応援コメントも寄せられていた。結局、噂に踊らされず彼女を信じるファンも多かったのだ。
「このままじゃ、まだ足りない……」
賢介は次なる一手を考え始める。実害――たとえば、会社での信用や顧客との関係に亀裂が入るように仕向ければ、彼女のキャリアは深刻な痛手を負うだろう。そこまでやるのかと自問しながらも、頭の中には「どうせやるなら徹底的に」という声が沸き上がっていた。
それからというもの、賢介は優里子の会社名を調べ上げ、その会社の名前とともに「以前、不倫スキャンダルが噂されていた社員がいる」という書き込みを、ビジネス系SNSや就職活動系の掲示板に投下した。もちろん優里子の名前は直接出さない。あくまで「ヒント」をばらまき、興味を持った人たちが「調べてみよう」と思うように誘導する。
さらに巧妙なのは、賢介がわざと別の人物を示唆するようなフェイク情報も織り交ぜたことだった。「〇〇商事の女性社員でM・Hという人だ」など、デタラメな名前をいくつか挙げる。その後になって「あれは誤情報らしい。本当は比嘉優里子という社員」という流れを作ることで、最初にあった偽情報が訂正される形になり、逆に“本当の情報”だという信頼感を高めるのだ。
噂はSNSからまとめサイトへ、まとめサイトから大手ニュース風の匿名ブログへと伝播していく。その過程で誇張や憶測が混ざり、いつの間にか「社内不倫で昇進している」「上層部を篭絡した悪女」などと書き立てられていた。もはや当初の大学教授との噂すら混線し、「彼女は昔から男を利用してのし上がってきた」という筋書きまで付け足されている。
賢介はその様子を見届けながら、もはや半ば狂喜に近い感情を抱いていた。自分の言葉が誰かを巻き込み、誰かがそれを信じ、さらに多くの人に伝えている。“弱者”だった自分が、こうして“強者”に打撃を与えられるという実感。それが彼の孤独な心を満たす唯一の悦びになっていた。
やがて、SNS上では優里子を名指しする投稿が急激に増え始める。誹謗中傷のコメントが飛び交い、会社にも問い合わせが相次ぐようになったらしい。それを示すように、優里子の個人アカウントには「会社に電話したけど?」「逃げんなよ」「暴露してやるからな」といった執拗なメッセージが送りつけられていた。賢介は「ここまで来たか」と、どこか他人事のように画面を見つめる。
するとある日、優里子のSNSアカウントが非公開になった。続いて、彼女の友人たちが「優里子が精神的に追い詰められてるらしい」「病院に行った方がいいかもしれない」と心配する投稿をしているのを発見した。ここで初めて、賢介は自分がやっていることの重大さを痛感した。もはや噂を広めるとかいうレベルではなく、ひとりの人生を破壊する行為に手を染めているのだ、と。
しかし同時に、賢介の心の奥には「彼女が苦しんでいる」という事実への暗い快感が芽生えていた。「俺があの強気な彼女を追い詰めているんだ」という優越感が、胸の中をぐつぐつと煮え立たせる。
――俺にだって、これくらいの力があるんだ。
――ずっと惨めだったけど、今は違う。俺の言葉ひとつで、あいつは奈落に落ちていくんだ。
ある晩、賢介がいつものようにネットの反応をチェックしていると、見覚えのある名前を見つけた。大学時代に同じサークルだった友人・小峰だ。小峰はSNS上で「これはさすがに酷い。優里子に直接連絡を取って確認したけど、全部事実無根らしい。彼女は名誉毀損で訴えることを検討している」とコメントしていた。
名誉毀損――訴えられたらどうなるのだろうか。賢介の背筋に冷たいものが走る。自分がやってきたことは当然、罪に問われる可能性がある。しかし同時に、「誰がやったか特定できるはずがない」という妙な自信もあった。複数のアカウントを使い分け、匿名で投稿してきたのだ。しかも、あくまで「らしいよ」とか「噂だよ」と書いたにすぎない。そこまで簡単には追跡できないだろう、と。
しかし、万が一ということもある。さらに、優里子が法的手段に出るとなれば、彼女の上司や会社も本気で調査に乗り出すかもしれない。「疑わしきアカウント」に対して情報開示請求がなされれば、IPアドレスから身元が割り出されることもありうる。
賢介は不安に駆られながらも、嘘だろう、そんなの上手くやり過ごせる――と自分に言い聞かせた。だが、なぜかスマートフォンを握る手が震えた。こんな気持ちは初めてだった。いつもならアルコールを摂取すれば薄れる不安が、今回ばかりは煽られて大きくなるばかりだ。
数日後、小峰から「久しぶりに話したいことがある」というメッセージが来た。学生時代はそこそこ仲が良かったが、卒業後はほとんど交流がなかった相手だ。どうやら、賢介が今どこで何をしているかは、小峰のほうも把握していないらしい。
「このタイミングで俺に連絡してくるってことは、もしかして……」
不安と警戒を抱えつつも、賢介は小峰の誘いに応じ、駅前の喫茶店で会うことにした。平日の昼間だったため、人影はまばらだった。カフェの奥の席につき、ぎこちない様子で向かい合う二人。
小峰は当初、大学時代の思い出話をするふりをしながら、少しずつ近況に話を移していった。どうやら彼は一般企業で働きながら、サークルのOB会などを取りまとめる役をしているらしい。しばらく雑談が続いた後、小峰は急に真顔になって切り出した。
「優里子の件、知ってるか?」
「……ああ、SNSで色々言われてるみたいだな」
「正直、今までもちょっとした誹謗中傷なんかはあったけど、今回のはあまりにも悪質なんだ。で、優里子が精神的に参ってる。裁判も視野に入れて動き始めてるんだよ」
そう言いながら、小峰はじっと賢介の目を見つめる。まるで「お前がやってることだろう?」と問い詰めるように。だが小峰はそれ以上は何も言わず、ただ「何か心当たりはないか?」と探るように続けた。
賢介は動揺を抑えつつ、わざと素っ気なく答えた。
「いや、俺は知らないな。そもそも優里子に昔からいい感情ないし、SNSもほとんど見てないし……。そんな嫌がらせみたいなこと、わざわざやる動機もないよ」
自分で言っていて、嘘臭さを感じた。しかし、小峰はそれ以上深追いしなかった。ただ、「そうか、もし知ってることがあったら教えてほしい。俺は、誤解や嘘で人が傷つくのは嫌だからさ」と言って、曖昧に微笑んだだけだった。
小峰と別れたあと、賢介は駅前のコンコースをぶらぶらと歩きながら、頭の中で考えを巡らせる。小峰がわざわざ自分に接触してきたのは、やはり“犯人”を探っているからではないか。しかし決定的な証拠がなければ、自分を追及することはできないだろう。そう思う一方で、不安は拭えない。
「このまま、俺は逃げられるんだろうか……」
後ろめたさと、復讐を達成するために奔走してきた興奮が入り混じり、心が不安定になっていく。
結局、賢介はその夜からパソコンを開いても、優里子関連の情報収集や書き込みをする気が起きなかった。代わりにアルバイトを休んで酒量が増え、明け方まで起きては昼間に寝るという、ますます不健康な生活に陥っていく。何もかもが嫌になった。自分でも止められないままここまで来てしまったが、“復讐”という言葉は、もはや虚ろに響くだけだった。
するとある日、いつもどおりアパートの狭い部屋にこもって缶ビールをあおっていると、スマートフォンが鳴った。画面には「小峰」の文字。嫌な予感がしたが、出ないわけにもいかない。
「もしもし……」
「俺だ。突然で悪いんだけど、優里子が入院した。心が限界だったらしい。……正直、原因を作った奴が許せない」
小峰の声は怒りで震えていた。賢介は何も言えずに黙り込む。
「でな、俺はこのままじゃ黙ってられないと思うんだ。警察に相談して、サイバー犯罪対策なんかも含めて捜査を依頼しようって話が出てる。会社も動いてるらしいから、情報開示請求なんかも時間の問題だろう」
脳がぐらぐら揺れるような感覚とともに、賢介は息が詰まりそうになった。ついに、もう逃げられなくなる。そう思った瞬間、彼は全身の力が抜けて床にへたり込んだ。
「……そうか」
それだけ呟くと、小峰は最後に低い声で「もし、何か知ってるなら、今のうちにやめておけ」とだけ言って電話を切った。
やめておけ――もう、やり続けること自体が無理だ。もはや罪悪感が勝っていて、賢介はこれ以上フェイクを撒くこともできなかった。だが、今さら何をどうすればいい? 彼女に直接謝って許しを乞う? そんなことをしても彼女はますます憎むだけだろう。
翌朝、賢介は警察からではなく、思いがけない相手から連絡を受けた。なんと、優里子本人からのメッセージだった。非公開になっていたSNSのアカウントから、突然「直接会って話したい」という短文が送られてきたのである。
「……どういうことだ……?」
半信半疑のまま、賢介は指定された場所――大学近くの駅前のカフェへ向かった。指定された時刻は夜の8時過ぎ。混雑する時間帯を外したのか、店内には数組の客しかいない。
席に着いてしばらくすると、店の入口から見覚えのある女性が姿を現した。比嘉優里子――かつてのサークル仲間で、今や“噂”の被害者。その顔には明らかに疲労の色がにじみ、かつての凛とした雰囲気は薄れていた。
「……久しぶり」
少しかすれた声で言う。賢介はどう反応すればいいか分からず、黙って会釈した。二人がテーブルを挟んで向かい合う。彼女は沈黙を破るようにゆっくりと口を開いた。
「私も気づいてた。あの噂、あなたがやってるんじゃないかって」
「……どうして」
「大学のとき、あまり話したことはなかったけど、あなたが私に抱いてた感情は分かってた。私のことをよく思ってなかったのは感じてた。今になって急にこんな悪質な噂が広がって、あのサークル関係の裏アカや書き込みを見ると、文章の癖とか表現が、なんとなくあなたに似てる気がして……。確信まではいかないけど、ね」
賢介は言葉を失った。彼女がここまで鋭く察していたとは思わなかった。冷静に考えれば、自分しか知らないような細かいエピソードが混ざっていたのだから、勘づかれても不思議ではない。
「……申し訳ない」
それ以外、言葉が出てこない。どんな理屈も通用しない。ただ自分が虚勢を張り、彼女を傷つけようと目論んだ事実は消えないのだから。
「一つ聞かせて欲しいの。どうしてここま
男性34歳169cm64kg。
似ていると言われた有名人は、サンボマスターの山口、King Gnuの井口(髭かな?)、北朝鮮の金正恩(笑顔)。
再来年度、2年間の帯同不可の海外出張を予定(希望)しており、帰ってきたら37-8歳に。子供欲しいのに婚期逃す焦りがあり、活動したい。
例えば高学歴の人、アカデミズムの人、クリエイターの人、料理家の人……とかと出会ってみたいと思ったが、出会えるのか?職業や経歴でふるいにかけるのは悪手か?ふるいにかけたとて自分がふるいに耐える相応しい相手か?
一度オタク系相談所のオンライン相談を受けたことがあるが、なんというか生産者と消費者の場違い感を覚えてそっと閉じた。改めて地方にある大手の門を叩こうかと思うが、効率的な相談を行うにあたって準備は何をすべきか?フォーマルでクラシカルなマナーが嫌いならば相談所は避けるべきか?
結婚相談所に登録している人はある程度の金銭の余裕のある人、というスクリーニングはあるのか?
相談所に登録するにあたって、自分の理想とする人と出会えるのか?究極的には、素敵な人と出会うためにはどうすればよいか?そのために、どのような自己アピールをしていく戦略が望ましいか?相談所の人にいち早く自分のことを理解してもらうにはどうすれば良いか?
マッチングアプリも、当たり障りのない文章で書けばマッチングはするが、押しに弱いので疲弊する。マッチング数を最大化する戦略より少数精鋭を呼び寄せる戦略の方が良いか?例えばここに書くような文章をそのまま載せるくらい尖らせたほうが個性的な方とマッチする可能性あるだろうか?
ここには業者さんもいる気がするので、ぜひご助言いただければ幸いです。
以下蛇足
来歴
社会人なってから、ネトゲで知り合った1人と遠距離で一年半ほど付き合う。大人しい方で、天性の美声で可愛らしい方だった。私の優しいところが好きだったらしい。他の男と仲良くなっていくのを見て嫉妬したところフラれる。
その後マッチングアプリに登録。一カ月で20いいねくらい。10人くらいと会話。半数近くはすぐにドロップ。3人ほどとLINE交換、2人ほどと会う。
自販機の経理の方と食事、家で映画鑑賞2回。積極的なボディタッチがあり、奥手な私にはありがたかった。スタイルが素敵な人だった。仕事で困っていることを相談してくれて、マクロ組んで自動化できる方法を伝えたら喜んでくれて、頼られ甲斐があった。積極的なのは嬉しい反面、求められる時以外の私の意見が無いものとして扱われがちなことを徐々に認知したため、お祈り。
銀行の方と3回デートしたのち、5年ほど付き合う。ものすごい美人で、天然な受け答えが大変愛らしく、万人が好感持つのだろう、転職後もお客さんからよく貢がれてた。一方でこだわりが強く、宿舎引越し手続き終わった後に引越さない等、私は自分の職場の庶務担からブラックリスト入り予告される程度には我儘に振り回された。帯同不可の出張時に1人(と親)で子育てをどうするかでお互いの懸念点が払拭できず、別れることとなった。私の優しいところが好きだったらしい。
別れた後、再びマッチングアプリに登録。一ヶ月で20いいねくらい。5人ほどとやりとりをし、1人と会う。
福祉関係の方と食事のみ2回。積極的にコミュニケーションをとろうとしてくれて、私のしょうもない話でも笑ってくれる素敵な人だった。ものすごく落ち着いてて優しく丁寧な方だったが、少し読解力に不安があり、お祈り。
現在、マッチングする五大都市に出るまで5,6時間かかる僻地勤務なこともあり、4月の都市転勤まで活動休止することにする。
好奇心が強い。個性と呼べる程度には多分強い。したことないことなら法と健康の許す限りは一度はなんでもしてみたい。多様性信者。
自発的な行動力は弱い。だらしない。自分を律するのは苦手。他人のためなら頑張れる。
ASD傾向がおそらく強い。こだわりを自覚し、できる限りそれを崩す努力を重ねたい。意図せぬ心無い発言をしてしまい怒らせてしまうことが多々あった。2度目は繰り返さないように注意するが、基本性能がある程度ポンコツ。
年賀状などが非常に苦手。これで伝われ私の特性。準備して書けばいいだけなのに1ステップ1ステップできない。やるとなったらガッとやる。
ASD傾向といいつつも表情はどちらかというとある方かもしれない。笑顔が印象的らしい。不満がある時は眉間に寄せた皺によく指を当てられた。
政治思想は保守リベラル。安倍派や維新を憎んでいるが基本はてブでしか毒は吐かない。
ボケることが多い。ツッコミは下手。コミュニケーションはそれほど得意な方ではなく、慣れてはいないが、おそらく当たり障りのない感じ。慣れるとよくボケる。
課題解決能力は高めを自負。国総も受かったがノンキャリ志向(当時)で一般入り、専攻異なる異業種だったが関連学会入って一年で賞とれたりはした。
容姿や清潔感は自信がない。相手の好みに合わせたいが、ファッションセンスもないので指示待ちになる。それなりに無難かなと思うシャツを外界との接続用に用意してる。仕事は無個性なシャツとスラックス。
業務繁忙期には過食して太ったり、閑散期にはランニングして標準体型に戻ったりしてる。63-68kg。過去の推移は基本ふくよか。
半額惣菜大好きで守銭奴な傾向があるが、使う時は一気に使う。特に新しい体験(主に飯)と子には金かけたい。
マナーやエスコートが苦手。経験値不足を補う学習コストを払いたくないというバイアスもあるが、本心からやることなすこと素で行いたい(ASD…)。奢らないとか道路側歩かないとかそういうわけではないが、善意にタダ乗りしようとする人を避けたい。婚活はスーツでラウンジで、みたいな型は、楽なフォーマットではあるもののそれが相手の本性を隠す気がして、乗り気になれない。やってみたらやっぱそれが楽なのかもしれないが。
……不要な情報も多い気がするな。長文書いてしまう傾向あり。捨てられないタイプ。
求める相手
友人の奥様が、たわいのない会話から政治の話まで中立なのに中身のあるお話方をされてて、羨ましいと思った。
非常に雑な言い方をすると、頭の良い方とお付き合いしたいと思った。でも、ペーパーテストが苦手な人でもコミュニケーション能力が凄まじく高い方はいるし、無償の愛を注ぐ力がある方はもうそれだけで素敵すぎる。一方で、例えば医者とマッチングしたことあるが、お医者さんなんですねとコメントしたらレッテルで人を判断する差別主義者と罵られたことがあり、色々擦れてるんだなと同情しつつもこのような短気短絡は好ましく思わない。頭が良いの範疇が不明瞭だ。
何かしらの専門性に長ける方だと嬉しい。博物学でも、看護でも、イラストでも、ファッションでも、スポーツでも。何かしら誇りを持って極めている人、自分にはないものを持っている人は尊敬する。ただ、今までお付き合いした方々もみなそういった素敵なところがあり、基本、人は深く付き合ったらどこかしらそういうポイントが現れてくる気がする。このスクリーニングは機会損失を生むだけな気もする。
容姿にこだわりはないが、自分のことを棚に上げてばつが悪いが、健康であると嬉しい。
資産運用の価値観(結婚前の資産はお互いが好きに使う)が合う人、転勤族との結婚がOKな人は優先度高い。私がr>g教と心中するの許してくれると嬉しい。転勤については帯同・単身赴任の他に、リスク許容度に応じて転職も視野に入れたい。
子供できても夫を嫌いにならない人と結婚したいが、これは見分け方・結婚後の自分の身の振る舞いも含めてどうすればよいのか不明。
お金はあればあるだけ選択肢が増えるのである方と付き合えると少し嬉しいが、そのスクリーニングで機会を損失することは避けたい。
討論を嫌わない人だと嬉しい。私は父とよく討論をし、おかげで多少弁が身についたと喜んでるが、母からはよく煩わしいと怒られた。子供と真面目な話をするのをやめさせられると悲しいので、できればその辺りの価値観合う人だと嬉しい。……これはどうやったらスクリーニングできるんだろうか?
ゲームを一緒に遊べる人だと嬉しい。共通の趣味を過ごしたい。テレビゲームでもボードゲームでも探鳥でも温泉でも鑑賞でも。よかったらスプラトゥーンしたい。
ダジャレとか韻踏んだりとかシュールな自虐とかを笑ってくれる人だと嬉しい。……こういうのは求めるとは違うか。別にこの辺あわなくても他のところであえばそれでいいし、無言の時間を仲良く過ごせれたらそれの方がほんとに嬉しいし、結局は相性の話かもしれない。それは会って話をして探るものか。
優先順位がつけられていない。端的に表すなら私は何を求めているのだろうか?
この記事は、著者が新卒2年目で退職するエンジニアのAさんに向けて、これまでの業務を通じて感じた強みと弱みをフィードバックし、今後の成長のためのアドバイスをまとめたものです。
Aさんの強み:
• 知的好奇心が強い: APIの調査などで、疑問を持ち納得いくまで調べる姿勢が見られます。
• 気合と根性がある: 与えられた仕事に対して、あきらめずにやり切る力があります。
• 思ったことをちゃんと言える: 上司に対しても臆せず意見を述べることができる点が評価されています。
Aさんの弱み:
• 他者と働くための素養が未熟: テキストコミュニケーションやタスク配分など、他人と協力して働くための技術が不足しています。
• 自分を飼い慣らせていない: 強みを自覚しておらず、整理してアウトプットに移す手際の良さが欠けています。
• 視野が狭い: ミクロな視点に偏りがちで、全体を俯瞰する視点が不足しています。
• 読書を増やす: インプットが不足しているため、先人の知識を学ぶことで視野を広げ、効率的な問題解決が可能になります。
• 自然界の制約を意識する: 人間の生理的な限界を理解し、適切な休息や生活習慣を整えることで、メンタルの安定と生産性向上を図ることが重要です。
• 相手の視点で考え、相手の言葉で話す: 他者とのコミュニケーション能力を高めることで、チームでの仕事がより円滑に進みます。
>後天的な手入れ如きで印象が大きく変わる訳ないじゃん?
大きく変わるに決まってんじゃん?
同じ見た目でもどんな格好するかで他人からの印象がめちゃくちゃ変わるんだから、
手入れは相当変わるよ
コミュニケーション能力的な部分の中身
清潔「感」というからには清潔感とは他人がどう評価するかの印象を指している
そしてコミュニケーション能力が低いやつは他人からどう見えるかがよくわからない
だって他人の受け止め方を察知する能力が低いから会話が噛み合わない、
そんな奴が見た目でだけ他人の受け止め方を察知できるようになるわけがない
どの「手入れ」が自分に必要で、いつ・どういうふうに手入れしたらいいのかわかる、
それはコミュニケーション能力が高いやつができること
そういうやつは外見の地を整えられるし清潔感を足せるから整った容姿に見えやすい
コミュニケーション能力が高い奴は20歳過ぎたころには表情筋自体が違うだろうしな
「清潔感はコミュニケーション能力が直結している」となると
自分を客観視して必要な手入れがわかる男すなわち会話が成り立つ男を求めてるわけ
女叩き拗らせていつまでも頓珍漢でズレまくった返事しかしてこないコミュ障男を避けたいだけだよ
そういうやつは出世もしにくいだろうしね
最近、はてな村では名古屋(愛知)はコスパが良いという言説を見かけます。
確かに愛知県付近はトヨタを中心に製造の大企業が多く工業出荷額も日本No.1です。(以前に書いたこちらを参考に)
大企業の期間工や派遣になればそれなりの賃金や住まいも貰えます。
県としては関東の都市に比べれば人口密度も高くなく、中心都市の名古屋に行けばそれなりに何でもあります。
ですが、少し考えてみてください。あくまでも地方の工業都市なんです。
名古屋で育った人間は名古屋で就職が可能なのです。つまり、社会人になっても学生時代の人間関係を維持することが可能なのです。
この強固な人間関係に地方から出てきたコネのない人間が人間関係を築くにはそれなりの能力が必要です。
工業都市ということは仕事で多いのは工場の現場です。長年培ってきた工業は歴史を持ち、歴史があるということは人間関係が複雑なのです。
年長者、中堅、若手、世界からやってくる出稼ぎや移民労働者。多様性の高い人間層に地元コミュニティ。
コミュニケーション能力や忍耐はそれなりに必要です。そんな能力があるのであれば東京で働いた方が良いかもしれません。
しかし、キラキラ感は東京・大阪に比べれば一段も二段も落ちることになるでしょう。
加えて工業都市ならではの商習慣が強い言われます。そんなところでキャリアを積むくらいならアジアに近い福岡で働いた方が未来があるかもしれません。
「隣の芝生は青い」という言葉がありますが、ネットに転がっている適当な数字を見て名古屋(愛知)は良さそうだなんて思わないでください。
自由恋愛でもマッチングアプリでも婚活でも女に断られる→それを受け入れて次の女に行く、過去の失敗を分析して対策を練る
それすら出来ず、女は強制的に結婚しないと生きていけない様に追い込んであてがわれるのを待つ人間が、妻子を大切にするわけがないのである
何かあった時に周囲に喧伝できる人間関係やコミュ力、太い実家、手に職のない逃げられない立場の女ならなおさら
そういう女達を見てきたのは同じ女
DQNやヤリチンの被害者はそういう男を好む馬鹿女のみだが、弱者男性は女は愚かで害悪だから人権を奪ってあてがえと訴える、女性全般に危害を加える思想なのがネットで可視化されている
https://anond.hatelabo.jp/20241223195242
前者は他の男同様、女を所有すればどうにかなる、言う事聞かない相手でも女ならは攻撃すればいいと舐めてかかってるのは強者男性と同じ
しかも女に相手にされず、「次の機会」がない分、更に目も当てられない醜態を晒す
だから自分を選ばない女や自分を対象にしない女は、婚活やアプリで初対面に過ぎない女だろうが知らない人間だろうが大挙して攻撃する気質がネットで表面化している
当然コミュニケーション能力が欠如していると判断され、ただでさえ別れ話や交際を断られてストーカー化するのは8割は男であり、共同親権など一度婚姻したら配偶者が逃げられない法改正を求めるのもなのに、一度関わるとリスクでしかない
https://anond.hatelabo.jp/20241222094716
男だけが「結婚にさえ持ち込めば確変できる、人生バラ色一発逆転」という妄想に囚われてるから
「婚活やアプリで会った女に断られた!会った時点で釣り合うカップルなのに断るのは勘違い高望みクズ女!」
権力や権限を持つ男には媚媚で請願や陳情ができない分、自分が所有した女にケアや子供の世話や家事諸々や共稼ぎや子供や義実家や近所付き合いなど子持ち世帯に発生する負担を全て押し付ける
https://anond.hatelabo.jp/20241223200422
DQNやヤリチンの被害者はそういう男を好む馬鹿女のみだが、弱者男性は女は愚かで害悪だから人権を奪ってあてがえと訴える、女性全般に危害を加える思想なのがネットで可視化されている
北九州の事件などどっかの男が無差別殺傷事件を起こした時も「弱者男性がテロを起こさないように女から人権を奪って高齢弱者男性にあてがってあげるべき」と主張(その後、犯人は結婚歴あり強者男性だと判明)
https://anond.hatelabo.jp/20241223195242
地道な泥臭い仕事や家事雑事の合間に家族や友人知人とラインやSNSでやり取りしたり、ペットと戯れたり動画サイト、ネットニュース、オールドメディアや配信でドラマやエンタメやゴシップや時事ネタ、SNSやLDK的なサイトで日用品やプチプラコスメの機能、各メーカーの新製品やストレッチ等の健康やグルメやレシピ方面の情報を見る、可愛い犬猫動物もYahooニュースからSNSまで溢れていて大人気だからそれを見る
女は最低限の家事やセルフケアをするから変化のないつまらない日常でも満足できるので、結婚してなくても趣味があれば満足、犬猫がいれば満足という者は山程いる
しかし男は家事して産んでくれるオナホをあてがわないと満足できないんだよ
だからハイスペ長身イケメン金持ちとしか結婚したくない女、パパ活で豪遊してホストに貢ぐ女(現実はホスト規制に反対するのは男だけ)、男のアイドルやホストや女の性加害を擁護して制裁や追及を止めようとする無数の女を捏造して「女はバカ、だから人権を奪って男にあてがい奴隷として家に閉じ込めなければならない」となる