はてなキーワード: 解決とは
先週の土曜日のこと。
急に午後から友人と会う予定が入り、マンションのコインランドリーのガス式乾燥機を使った。ガス式乾燥機は少量なら30分も回せばカラカラに乾くので、急ぎの時は重宝していた。
増田の住んでいるマンションのコインランドリーは、物件1Fのオートロック通過後のエリアに設置されており、原則管理人がいるときだけ使えるようになっている。管理人不在時は部屋が施錠されて利用できない。
この土曜日のコインランドリー営業時間は9:00-12:00だった。管理人が午前中しかいないので営業時間も午前中に限られている。この日は10時ごろまで惰眠を貪り、11:20ごろに乾燥機に洗濯物をぶち込んだ。11:50ごろにはカラカラになってるだろう。そう思って時間を見計らって洗濯物を取りに行った。
が、おかしい。コインランドリーのある部屋が施錠されている。管理室がまだいるようなので、管理人室のドアをノックして開けてもらうようにお願いすると…
「てめぇー今何時だと思ってるんだ?営業時間読めねーのか?」歯が何番も抜けた柄の悪そうな老人にいきなり怒鳴られた。見覚えのある管理人とは別人だったので、最近交代したのだろう。まだ11:50分である旨を伝え、営業時間内で洗濯物が残っているのに施錠されるのは困ると伝えると、渋々開けてもらえたが、「12:00ちょうどに閉めると俺が残業しないといけなくなるのがわからねーのか?」とさらに悪態をつかれた。
コインランドリーに洗濯物が閉じ込められた事件そのものは解決したが、管理人がヤバい雰囲気の人間ということがわかって背筋がゾクっとなった。なんせ向こうはマンションの合鍵を自由に使える立場だ。最近話題になった貸金庫の窃盗ではないが、信用のできない人間が部屋を出入りできる状態にあるのは恐怖でしかない。
早速引っ越しを検討し始めたのだが、仕事やライフステージの変化以外の理由で転居を考えることになるとは、数日前には想像もできなかった。新居の物件候補を眺めつつ、こういうヤバい奴がマンションの管理人になるのは昨今の人手不足も影響してるんだろうなとか、ある程度高めのマンションに引っ越して「民度」をお金で買う必要もあるのかなとか、そういう事を考えながら週末を過ごしたのであった。
また、月曜日だ。
同じことを繰り返している。
結局この週末何をしたかといえば、買い出し、銭湯、ソシャゲ、洗濯、Switch。、散歩、あとは寝ていた。ほぼ何もしてない。ただ飯を食って横になってゴロゴロしていただけだ。
今日は月曜日、会社に行くと思うと胸が痛い。でも行かなきゃならない。
自分は甘えてる。口だけだ。悪い状況にいることが分かっていながら、この2日、家事も仕事も勉強もしなかった。みんなのために、何よりこの先の自分のために、もっと苦労して背負い込んで、それを楽しんでできるようにするべきなのに。何事も為していない。
私この休日、貴重な2日をどう使った?何もしてないじゃないか。そして月曜日がきて後悔している。何回同じこと繰り返してるんだ。病気だって?だったら医者に行きなよ。つらい?だったら辛さの元を解決しなよ。動きなよ。またストレスと後悔で押し寄せる仕事にあたふたする同じ1週間を繰り返すのか?
https://newrepublic.com/article/150687/professor-parody
この記事は、アメリカの学術的フェミニズムの変遷を批判的に分析しています。特に、ジュディス・バトラーの影響下でフェミニズム理論が実践的な社会変革から遠ざかり、クィア理論やトランスジェンダリズムといった非現実的で抽象的な議論に偏っていると指摘しています。
実践的な社会変革:キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンなどの理論家は、レイプ法の改革や女性の経済的機会の拡大など、具体的な問題解決に取り組んでいました。
現実との結びつき:彼らは女性の実際の状況や苦境に焦点を当て、法律や制度を通じて不公正を是正しようとしました。
言語と象徴への偏重:バトラーは、ジェンダーが社会的に構築されたものであり、そのパフォーマンスを通じて再現・抵抗できると主張しました。
批判点:
難解な言語:彼女の文章は専門用語や複雑な理論で満ちており、一般の読者には理解しにくい。
実践の欠如:具体的な社会問題や法的改革への言及が少なく、抽象的な議論に終始している。
規範的基盤の欠如:不公正に対する明確な基準や、何を目指すべきかの指針が示されていない。
実践的アプローチの減少:バトラーの影響で、フェミニズムが象徴的な抵抗やパフォーマンスに重きを置き、具体的な社会改革から距離を置いている。
批判的視点:この記事の著者は、この傾向が現実の不公正に対する対処を遅らせ、結果的に現状維持や静観につながると懸念しています。
行動の重要性:フェミニズムは象徴的な抵抗だけでなく、具体的な社会変革を目指すべきである。
バトラーへの評価:彼女の理論は学術的には影響力があるものの、現実の女性の生活改善には直結していないと批判しています。
この記事は、フェミニズム理論が再び実践的な社会改革に焦点を当てる必要性を訴えています。ジュディス・バトラーの象徴的なアプローチは、具体的な不公正の是正には不十分であり、女性の権利向上のためには行動と制度的変革が不可欠であると強調しています。
業界にいる発言力のある人が人任せなのにどうにかなるわけねーじゃん
政府がやれっていってんのw
ひたすら文句ばっかの全く建設的じゃないのが変える気はないって感じ
人材不足と待遇改善なのど問題解決に生成AI使うってのは、ちょっとよく分かんない。なんの解決にもならんと思うけどなぁ。そもそもアニメの本数が多すぎるのが問題なんよ。
人いねぇのに新しい会社は増えるし。
問題解決したいなら他にやるべきことがあるでしょうに。
なんかズレてる気がする。 https://t.co/hBToSvjHkc— 西澤皓人(Hiroto Nishizawa )アニメーター (@erizabes1012) December 14, 2024
未婚率は年々増加傾向に…今こそ考えておきたい「おひとりさま」の抱える問題点
https://news.yahoo.co.jp/articles/aaf165651c5be01ef557dd17a8b6775281446151
祖母の介護のために実家帰る事が多くなったけど祖父、父親両方死んでから実家が地獄過ぎる
祖母と、母親と、実家暮らしの妹の全員が「事実どうなのか」「今解決すべき問題は何なのか」「結論や要点は何なのか」を全く話さずにそれぞれがお互いに自分の気持ちばかり話すから非生産的な喧嘩ばかり繰り返していて
事実や根拠を明確に挙げたり正論で相手を納得させる事ではなく強く言い返してやり込める事を「論破」だと思い込んでいるから全く何も得られない議論を自分の主張を一切曲げずキャンキャン言い合ってて空気が悪い
妹が特によくやる俺に「私おかしい事言ってる!?私正しいよね!」と判断を振ってくる奴も鬱陶しくて何故なら少しでも相手の気持ちに寄り添って対話しよう物なら「〇〇くんもこう言っている!」と都合よく捻じ曲げて恰も自分の意見に賛成していると喧伝されるから
そもそもどれだけ複数人が賛同しているとか関係なく事実に基づいたりルールを遵守した主張をした奴が普通に正しいだろ
こんなレベルの低い喧嘩を80代と50代と20代の成人女3人が毎週飽きもせずギャーギャー喚きあってる
女性の言動はデフォルトで発達障害者みたいな物とか、女性はそもそもの知能が低いから社会に出た時男性に比べてレベルが低い人材ばかりみたいな極端な事をネットで書いてる奴の書き込みを酷い暴言だと思っていたけど実家のあの光景を何度も見ていたらうっかり共感しそうになってしまう
解決するなんて書いてないんだが?
https://anond.hatelabo.jp/20241214160546
便乗して書く。順不同です。
不法移民を乗せた船が地中海に度々沈んでいるとニュースで話題だが沈んだ/打ち上げられた彼らの遺体は果たしてどう扱うべきか。大量死した移民難民の検死という大プロジェクトに立ち向かったイタリア法医学者の奮闘の記録。身元の照合なんてDNA鑑定すれば簡単やろ、なんて素人考えは早々に打ち砕かれ、うーんこれは大変だぞと読んでて途方に暮れてしまうが、それに立ち向かう筆者ら法医学者の技術と志には非常に頭が下がる。法医学の本なのに序文が筆者の肉親の死を描いたエッセイから始まるのが意外だったが、読み終えたあとにはその意図がよくわかる。ちなみにグロ写真は出てこないがグロ文章は出てくるので俗な好奇心も満たされた。
噂には聞いていたがおもろすぎる。特に『オムファロス』が好きだが読書メモを見返してみると『不安は自由のめまい』からの引用も多く、かなり自分の心に響いたようだ。あまりに面白かったから、SFマガジンの息吹刊行特集号を中古で探してきて、短編集未収録作(『2059年なのに、金持ちの子(リッチ・キッズ)にはやっぱり勝てない -DNAをいじっても問題は解決しない』)まで読んじゃった。
土を語るには色が欠かせない、ということで新書なのにフルカラー、本を開くと不思議な匂いがする。永久凍土、チェルノーゼム等等、高校の地理の授業で学んだものだが、実際に足を運んでみると結構ものが違ってたり、正確かつ詳細な分布記録はどこにもなかったり(なので国際プロジェクトが立ち上がり筆者もそこに参加した)教科書には載っていない地質研究のリアルが知ることができ面白かった。筆者の語りも軽妙でぜひ次回作が読みたいと思っていたら、ちょうど今月末にブルーバックスから『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』という本を出すようで興奮が止まらない。絶対読もう。
新卒時代に神経内科学に携わった経験があり、仕事内容はAD(アルツハイマー病)ではなかったもののアミロイドβ仮説の問題点については小耳に挟むことも多かった。ということで課題図書的に読まなければならないと思っていた本でようやく重い腰を上げて読んだのだが過たず面白かった。同時期に『失敗の科学』も読んだのだが、それに載っていてもおかしくないような事例ではある。認知症は確かに存在するのだろうが、アルツハイマー病という病気が本当にこの世に存在するかどうかは読み終わった今かなり疑問だ。病をどのように定義するか……。脳の病気は、脳以外の臓器と違ってすぐさま生検というわけにもいかないし、死後解剖も難しく(愛する人の頭を暴かれたいとはなかなか思えまい)、そもそも脳という臓器が複雑なブラックボックスすぎて、病態と組織学的所見とを適切に紐付けることが元々非常に困難なんだろうな。
わたくしごとだが11月末に待望の第一子が産まれ、本書はその産前休業期間中に読んだ(産後は集中力が低下して活字があまり読めなくなったので、今から思えば産前に読んでおいて本当に良かった)。薄めの本だが、発達心理学のエッセンスがぎゅっと詰まっている。ベテラン大学教授の発達心理学連続講義の第一回総論といった趣の本(というかそれそのもの)。筆者は障害児心理学で長年教鞭を執ってきていて、定型発達児・障害児の双方に平等に愛を注ぐ筆致に心を打たれた。医学では病める臓器の研究が進むことでその臓器そのものの生理についても知見が積まれるものだが、障害児心理にはひとのこころの成り立ちを考える上での重要な視点が詰まっているのだろうなと思う。
新生児の頻回授乳のお供にオーディブルを再開した。眠いと活字はなかなか頭に入らないのだが耳からならなんとかという感じである。今読んでいるのは『サピエンス前史 脊椎動物の進化から人類に至る5億年の物語』で、新生児のしゃっくりを見ながら古代脊椎動物が獲得した横隔膜に思いを馳せたりしている。次にオーディブルで読む本は未定なので、おすすめあったら教えてください。ちなみにわたしのオーディブルおすすめ(読み終わって好きな本)は『北関東「移民」アンダーグラウンド』です。2025年も色んな本に出会いたいものです。
ありがとう。仕事にかなりの時間を費やしてて、もうこれ以上は…という気持ちになったのです。少し冷静になってきました。代行サービス的な具体的な解決策を考えてみる気になりました。
2024年は54冊読みました。
ブロガーとかがやっているピックアップ記事を自分もやってみたかったので書きます。
行ったところで食事をして、言いたくもないことを話して、キャラじゃないことをやらされる。
そんな感じだった。
しかし、本書を読んで、やはりそういったイベントが微妙に思えるのは当然のことだったと思えた。
など。
集まりとは多くのことに繋がると思う。
日常生活で店に入ったり、テレビを観たり、そういう誰かの注目を得ることも、大きく「集まり」と言えるのではないか。
具体例が色々。エンパイアステートビルが100年前、18ヶ月で建てられたことや、日本の「もんじゅ」がどのように延期して廃止に至ったかも書いてある。オペラハウスの歴史も知らなかった。
上手くいくアプローチが紹介されていて、
など。
メガプロジェクトは数字が大きく、工期の延期や予算の超過や採算が合わないものが99.5%という。
ただこれはメガプロジェクト特有の性質ではなく、小さなプロジェクトにも当てはまるという。
本質的には同じなんだろうなあ。
科学は真実に近づく方法であり、科学が真実というわけではない。
小保方さんの話も出てきて、そういえばその上司が自決していたな……と思い出し、不正はお金や見栄だけの問題では無いと感じた。
読みながら、「見てきたものや聞いたこと 今まで覚えた全部 デタラメだったら面白い」と、ブルーハーツの情熱の薔薇が流れていた。
疲労についての本。
疲労とは身体からのアラートであり、無理やり無くそうとしても逆に身体を壊す。病的な疲労(うつなど)は脳の炎症であることが多い。
うつ病について疲労の視点から触れられていたのも良かった。まだ病気だと思っていない人もいるから。生理的な観点からの考察だけど、心因的な観点は証拠が弱くなりがちだし。
4. 脳が「疲れていない」と解釈。
軽い運動で疲労が回復する理由や、なぜ疲労があるのかというのも考察されていて面白かった。
疲労で鬱になるとかは今後修正されるかもしれないけど、休むことに若干の罪悪感みたいなものがあったので、疲れたら気兼ねなく休むようにしよう。
詩篇?
『NEEDY GIRL OVERDOSE』というゲームをプレイして、モチーフに『好き?好き?大好き?』があると知った。
読んだ感想としては……よくわからなかったです……。状況とか人間関係とかが。
ただ小説や物語は何回か読んで自分の感じ方の違いを感じるものだと思うので、よくわからないという感想もアリだと思う。
「能力」が「高い」「低い」、だから「選ぶ」「選ばれる」。当たり前のようで、見えもしない「能力」で人を判断している。これが正しいのだろうか?
油断するとすぐに能力の優劣での説明に傾いてしまうので、『「できる」「できない」は状態のこと。固定的な能力ではない。』という言葉を忘れないようにしている。
3Dプリンターのエンクロージャーはホームセンターで半透明な断熱の板買ってきてカッターでカットして適当に作ったなぁ…😟
部屋の隅で埃被ってるけど…
年金はそもそも社会保障であって個人の資産形成ではないのに、勘違いして歪んだ理解を感情論を優先し正さない構図だからこんな変な話が出てくるのである。
公的年金は公的年金であって保険ではない。また民間の保険と公的保険も異なる。
一般に犯罪学では、貧困と犯罪には関連があると言われている。そう言ったことも考慮されるべき制度なのだ。原則論とはこれであり、原則と言う言葉を使いたがる新自由主義的者は、ネオリベこそ原則と言うような言い方をするが、それを採用している国は日本を含め先進国にはない。
たまに「これは厚生年金制度にだけ存在する異常な制度である」という理解の元で話をしている人がいるが、そんなことはなく、協会けんぽや健康保険組合など、健康保険制度の方が扶養制度は手厚い。
協会けんぽなどは、扶養家族が増えても保険料が上がらない。これはあまり遡上に上がらないが、子ども3人専業主婦ひとりの5人家族でも、同じ収入の独身者でも健康保険料は同じである。
同じ構造であるにもかかわらず、3号被保険者だけが誤った認識でやり玉にあがるのは「ずるい」と言う様なシンプルな感情による者だと思われるが、それを削減することが良いとは言えない。
構図が違うと言ってしまう人には、何が違うのかきちんと考えてほしい。
その時には個人が「思っている」と強弁するだけではなく、どんなことが起こるのかと言うこと整理して見てほしい。例えば上記の子供3人無職配偶者で5人家族のケースだと、年間40万円以上の負担増になるが、その結果何が起きるかを認識しているだろうか?
きっと本心では間違ったと思っても、プライドから認識していると強弁するのだろうが、そうして放たれた言動が重なるとどうなるのか、ひとり一人考えてほしい。
単純に3号を廃止したあと、マクロでは、社会には何が起こるかというと、無年金者の急増であろう。これは時限爆弾のようなものである。基礎年金は最低限の生活を保障するための制度だからだ。
個人ではどうなるか。単純に3号を廃止した後あと、無職の配偶者に何が起こるかというと、今まで強制的に収入から徴収されていた保険料が徴収されなくなるので、家庭内で調整を付けて、収入を得ている人のお金から無職の人の国民年金保険料を支払ってもらわないといけなくなる。
が、それがスムーズに出来る場合ばかりではない。払ってもらえないとどうなるかというと、無年金まっしぐらである。
例えば妻が内助の功的に支えている……といえば聞こえがいいが、妻を働かせず閉じ込めていた様な輩の場合、こうなってくると妻に自動的に入っていた年金資産が入ってこないことになって、余計経済的な自立を阻害するのである。何があっても離婚できないし、依存はさらに高まる。
こういったことがないように、また現実問題、適用されるのは女性が圧倒的に多いわけだから、女性を保護するための制度であるという事を頭に入れておかないといけない。離婚するときに婚姻中の資産配分交渉をすれば得られるものはあるが、3号の場合はそもそも交渉の必要なく保証される。
その点で、連合会長の芳野らは、女性の敵は女性であると言う事を体現していて、なぜフェミニストから称讃されるのかが私には理解できない。
2号被保険者の加入義務のラインを激しく下げて、一週間に5時間程度でも働いただけでも加入を義務化するべきだ。しかしそれでは当人達の負担が大きくなってしまう。
そこで、基礎年金の部分は当人らだけが支払うのではなく、厚生年金全体で支える仕組みにする。言わば基礎年金部分の全労働者3号化だ。週5時間、月25時間=月給2万5千円程度働けば、2万円の国民年金保険料を支払わなくても良いと言うインセンティブにするのである。また、自営業などの1号についても、無職の家族に週5時間程度働いた事にして賃金を支払えば、国民年金保険にシンプルに加盟するよりも有利だという環境と制度を作る。
そうして3号被保険者の割合をさらに減らした上で、3号の制度は引き続き継続する。
3号廃止論は、扶養の壁があるからそれ以下で抑えてしまう人がいる、と言う問題もこれで解決する。確かに手取りは減ったように見えるが、それは将来自分が受け取る年金である。全体では損がないと言う事を周知していくのだ。
単純に廃止すると、社会保障の網で捉えきれずに落下して致命的な事になる人が多く出る可能性がある。結果社会治安や経済にも悪影響を与えるだろう。
重要なのは社会的なマクロな公平性であって、個々のミクロな公平感ではない。
廃止は行うべきではない。
https://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__130408.html
経済学的に言えば、原発の問題は、外部不経済の問題としてとらえられます。しかも原発の外部不経済というのは、とりわけて特徴的なのは、「現代の世代成員間の外部不経済でもあるが、それ以上に、環境問題一般と同じく、世代間にわたる外部不経済の問題である」とされます。つまり、非常に超長期の不確実性なので、価格=市場機構では調整しきれないという意味での外部不経済になっているとされるのです。そして次のように述べられます。
現在の世代のうち原発から得られるエネルギーを消費し、快適な生活をおくる人々は、将来の世代に放射性廃棄物という負担を課す。この意思決定には、重大な利害関係者である将来世代は参加していない。そこで、現在の世代は、もし将来世代が現在の意思決定に加わるとしたならば、将来世代はどのように主張するか、という点を考慮しなければならない。この考慮のしかたが、現在世代と将来世代との間の公正の状態を決定する。…(中略)…自動車や飛行機の事故の場合には、もし将来世代がそれらの事故を皆無にしたいと望むならば、それらの利用をやめれば、それで解決する。しかし、現在の世代が残した放射性廃棄物の場合には、これを拒否する選択肢は将来の世代に残されてはいないのである。ここでは、将来世代は現在世代の放蕩三昧を恨むしかない。
将来世代のことはどうでもよい、というのは将来世代の人権を無視することである。そして、将来世代の人権を無視する人が、現在世代の他人の人権を尊重する、などということは、あり得ない。なぜならば、人権とは普遍的な人間の権利だからである。
経済学的にいえば、現在と将来世代の人権をどのように考えるかによって、原発エネルギー利用に対して、現在の利用者が負担すべき費用は大きく異なってくる。現在と将来世代が蒙るであろう被害を値切れば値切るほど、したがって被害者の人権を無視すればするほど原発エネルギー利用者が負担する費用は安くなる。費用が安くなればなるほど、都市の原発エネルギー需要は増加する。原発推進関係者は、不特定多数者の需要が大きいことをもって、「公共性」があると「公共性」を定義するから、現在と将来世代が蒙るであろう被害を値切れば値切るほど、原発の「公共性」は増すという関係にある。この原発推進側にとってまことに都合のよい「公共性」という概念は、「公共性」が問題になるところでは──新幹線騒音・振動公害・空港騒音公害・道路公害等々──かならず利用されている。
いま述べたことからも明らかなように、原子力発電の経済分析といえども、公正とか人権といった道徳的価値の問題を視野におさめないかぎり、不可能である。そして、実は、こうした道徳的価値の問題をできるだけ排除する──分析することを断念する──ことによって、経済学を科学たらしめようと努力してきたのが、限界革命以後の近代経済学の歴史なのである。
…(中略)…
近代経済学者は、問を発すること自体を断念した、道徳的価値──自由とか人権とか公正といった価値──の問題を、もう一度視野におさめる方向を、今、模索してゆくべきである、と私は考える。…
そして結びは、原発問題を分析することが少ない近代経済学者の現状に対して、「禁欲に名を借りた怠惰のあらわれである、といえよう」という文で終わっています。
http://shuchi.php.co.jp/article/777
>さて、この処方箋は簡単だ。インフレ期待を起こせばいい。これほど簡単なことはない。
>日本銀行がお金をいっぱい刷り、これからも当分そうしますよ、といえばいい。
>いままでの日銀による金融緩和は、お金はとりあえず刷るけれどすぐやめますからね、
>と言い続けていたのでインフレ期待はまったく上がらなかったのだ。
米国の領土に米軍基地があるのはどこもおかしくないし米兵が少女を誘拐して集団レイプしようが飲酒ひき逃げしようが米国内での問題だから日本には全く関係がない
等いずれも四半世紀から30年経過していて、とっくに古い会場が多い。
東京五輪に関連して何かしらの大型イベント会場の設立が望まれ、その為に支援や支持に乗り出した業界はその結果裏切りを受ける事となった。
民間のホールだと近年は東京ガーデンシアター等会場としてのスペックが高いものは出てきているが、現地までの交通アクセスや宿泊が劣悪だったり
最寄りターミナルから現地までの導線上で雨宿りできる場所がない、会場敷地内で行列をさばく事を考えてない会場が多い為
「いざ開場となるまで参加者はどこで時間を潰せばいいのか」問題に解決の見込みがない
会場側が2000年代中盤と呼べるようなスペックを持ったイベント会場が日本に無いので、アジアツアーやワールドツアーを経験すると日本のハコの不便さが苦しい