はてなキーワード: 提唱とは
世界は一つ
昨今、「赤いきつね」のCMに対して、一部の視聴者が「性的で不快である」と指摘し、これに対し「過度に性的表現を敵視する一部の女性層のみの意見である」とする反論がネット上で見られる。しかしながら、この反論は必ずしも正確ではない。
グルメ漫画における食事表現、とりわけ主人公のリアクションについては、少なくとも5年以上前からネット上で「キモい」と指摘される傾向にある。特に、なんJなどのサブカルチャーに詳しい男性がメインユーザと思われるコミュニティにおいて、こうした表現に対する批判が多く展開されてきた。「グルメ漫画の不快主人公打線」などのキーワードで検索することで、当時から続く多くの作品に対する批評が確認できる。
とりわけ「赤いきつね」のCM表現と類似した表現事例として、グルメ漫画『めしぬま。』が挙げられる。本作では、主人公・飯沼の食事シーンが極めて精緻に描写され、湯気や汁気に至るまで細かく表現される。そして、食後のリアクションとして「うっま」と満足げな描写で締めくくられる。このような描写に対し、ネット上では強い不快感を示す意見が多数寄せられ、作品名をもじった差別的蔑称が付けられるほどの不快意見が寄せられている。
このように、グルメ漫画の食事表現が不快であると感じる層は、決して「過度に性的表現を敵視する一部の女性」に限定されるものではないと考えられる。
むしろ、グルメ漫画というジャンル自体が、男女を問わず一定の割合の読者に不快感を与えやすい表現を含んでいることが指摘できる。今回の「赤いきつね」のCMに関する批判も、単なるジェンダーの対立として捉えるのではなく、グルメ漫画のリアクション表現が持つ普遍的な「キモさ」によるものである可能性を考慮する必要がある。
(注1)筆者自身は不快感情を根拠としたキャンセルカルチャーには反対の立場であり、本稿の目的はグルメ漫画のリアクション表現の「キモさ」が性別を問わず普遍的なものであると提唱することにとどまる。
安倍晋三氏は、日本国の歴史にその名を刻む偉大なる政治家である。彼は、内閣総理大臣として戦後最長の在任期間を誇り、日本の国益を守り抜き、内政・外交にわたる多くの功績を遺した。
その指導力は卓越し、経済政策「アベノミクス」により日本経済の再生を図り、国際社会においても自由で開かれたインド太平洋構想を提唱し、世界の平和と安定に寄与した。加えて、日本の伝統と誇りを重んじ、皇室を尊び、国家の品格を守ることに心を尽くした姿は、多くの国民の敬愛を集めた。
安倍晋三氏の信念と献身は、後世に語り継がれるべきものであり、日本という国の未来を照らす灯台のごとき存在であった。その遺志を受け継ぎ、より良き日本を築いていくことこそ、我々に課せられた使命である。
数学者エドワード・フレンケルは、数学と心理学、特にカール・ユングの分析心理学との統合について語っている。ユングは、人間の無意識が「集合的無意識」として共通の心理的基盤を持つと考え、その中に「元型(アーキタイプ)」と呼ばれる構造が存在するとした。フレンケルは、数学的概念もまた元型の一部であり、それらは人間の無意識の中に存在すると提唱する。
彼は、数学が物理世界を研究する物理学とは異なり、人間の内的世界を研究する学問であると考える。例えば、「数」はユングが提唱した「秩序の元型」から生まれたものであり、数学的な概念はすべて集合的無意識の中に起源を持つと述べている。
また、数学的元型はすべての人間が同じように認識する点で他の心理的元型と異なり、その普遍性が数学の客観性を保証していると主張する。彼は「直線」や「平面」といった数学的概念を例に取り、それらが現実世界には存在しないにもかかわらず、人間が容易に想像できるのは、集合的無意識の中に元型として存在するからだと説明する。
さらに、数学的概念を理解することは、それらの元型を「統合」することと同義であり、例えば「地球が平らである」という誤解は「平面の元型」に囚われた結果であると述べる。ピタゴラスらがこの元型を意識的に理解し、地球の球体性を認識したことが、数学的知識の進歩の一例であると指摘している。
最後に、アインシュタイン、ポアンカレ、ラマヌジャンなどの数学者が数学的発見における無意識の役割を強調していたことを紹介し、数学的直感が無意識とのつながりから生まれる可能性を示唆している。
フレンケルは、数学を通じて人間の無意識を探求し、より深い現実の理解に到達できると考えており、今後の議論として非ユークリッド幾何学や東洋思想との関連性についても言及すると述べている。
下記の記事を読んで、明治時代辺りの「脱亜入欧」「西洋化」が夫婦同姓へ強く影響したという論考があり、これについては同意せざる得ない。
戦後日本の「夫婦同姓制度」は、じつは「中国化」と「アメリカ化」の産物だった…日本の「姓と家族」の伝統を解き明かす
https://gendai.media/articles/-/146597
1896年に制定された明治民法では、一転して夫婦同氏制が採用された。決め手となったのは「西洋化」だったことを特筆しておきたい。1895~96年に開催された法典調査会で法学者の梅謙次郎は、「支那の慣習」である夫婦別姓を退け、「欧羅巴ては昔から極まつて居る規則」の(と当時は見えた)夫婦同姓を採用すべしという、脱亜入欧的な説を展開した(施「明治民法はなぜ夫婦同氏制をとったか」)。
https://gendai.media/articles/-/146600?page=2 (上記記事の後編)
ただ、この論考を採用すると日本は過去の時代に側室や妾が認知されており、どんなに遅くとも公的には1870年(明治3年)に妾は妻と同等の二親等であると定められた。税制や相続においては妻と同等の二親等の権利を得られないが三親等と同等の権利が保証されていた。
しかし、1898年(明治31年)の戸籍法改正に拠って、妾とその子供は従来の夫の戸籍から外れ、現在の人権意識から考えると驚くべきことに相続に関する権利まで戸籍から外れるとともに失われてしまった。
この廃妾が行われた理由は「夫の姦通(浮気)では離婚事由にならないのに妻の姦通は離婚事由になるので不平等である」という観点のもと行われたが、その背景には脱亜入欧の文明開化に影響を受けた、男女同権論、婦人解放運動があったのは当時の帝国議会記録を見ても明らかであり、妾の存在を無視して日本の氏姓・婚姻制度の歴史を語るのは非常に無理がある。
脱亜入欧と敗戦の結果に夫婦同姓が加速し夫婦同姓は作られた伝統なのであれば、脱亜入欧と敗戦の結果に一夫一妻制が加速し一夫一妻制は作られた伝統であるのは日本の歴史として紛れもない事実であり、現在の人権意識で夫婦別姓を提唱するのであれば現在の人権意識で婚姻形態の自由化も求めなければ姿勢として誠実でないと言える。
氏姓と婚姻形態は別軸であると語る者が居るかも知れないが、これらは同時期に議論され改正され日本に定着した制度・文化・意識だ。戸籍の改正という1つ議題として扱われていたのに片方(氏姓)を尊重し片方(婚姻形態)を蔑ろにするのは現在の人権意識から言って明らかに間違っている。
日本の一夫一妻制は妾とその子供の人権的犠牲の上に成り立っており、現在の人権意識でこれを評価するのであれば是正すべきで、妾とその子供の保障を日本国議会は行わなければならず、しかし当時に生きた人はもう既に亡くなっていると考えられ時効も成立しているはずなので、形の上だけでも日本国議会は妾とその子供の名誉回復を議決すべきだ。
そして更に、現在の人権意識でこれを評価するのであれば一夫多妻制という不平等な制度ではなく一妻多夫制も認め、妾および男妾の民法上の権利は相続も含めて夫または妻と同じ二親等と同等であると定められるべきだ。
何故か、社会学者(とその周囲の界隈)が口にする「日本の夫婦同姓は作られた伝統」では一夫一妻制よりも長期間存在したはずの妾(側室)が無視されがちで、しかも夫婦同姓と共に妾の是非は議論されていたのにも関わらず、まるで存在しなかったように扱われている。
これはどう考えてもおかしいのだ。過去に振り返って氏姓の在り方を論考するのであれば婚姻形態の在り方も必ず論考されなければならないはずなのに、まるでそこには触れて欲しく無いかのように妾の存在が言及されない。
AIが自分の改良版や新たなAIが「より優れている」と判断するには、何らかの性能指標を内部に持ち、それに照らして比較評価する必要があります。従来から研究者は「汎用的な知能の指標」を模索してきました。例えば、LeggとHutterは知能を広範な環境で目標を達成する能力と定義し、あらゆる環境での得点(報酬)の期待値を加重和した**「普遍知能指標」**を提案しています
proceedings.neurips.cc
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。これは多数の課題での性能をまとめた理論上のメトリクスで、あるエージェントが別のエージェントより知能が高いかを定量化しようとする試みです。しかし、このような指標は計算不能に近く、実際のAIが直接利用するのは困難です。
実際の自己評価指標としては、タスク性能や報酬関数が使われることが多いです。強化学習では、エージェントは与えられた報酬を最大化するよう学習します。したがって「より優れたAI」とは「累積報酬が高いAI」となり、報酬関数が内部評価指標の役割を果たします。しかし、この指標は特定のタスクに依存しており、本当に汎用的な知能向上を示すとは限りません。François Cholletは、特定タスクでのスキル(性能)だけを測っても知能の本質を測れないと指摘しています
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。なぜなら、十分なデータや事前知識があれば限定的なタスク性能は「購入 (buy)」できてしまい、システム自身の汎用的な汎化能力を覆い隠してしまうからです
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。彼は代わりに新しいスキルを獲得する効率(限られた経験で未知のタスクをどれだけ学習できるか)を知能の指標とするべきだと論じ、これに沿ったベンチマーク(ARCなど)を提案しました
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。このように、内部評価指標をどう設計すべきかについては、単純なスコアではなく学習効率や汎用性を反映するものが望ましいという議論があります。
過去の提案として特筆すべきは、シュミットフーバーの「ゲーデルマシン」です。ゲーデルマシンは自己改善型の理論的プログラムで、ある改良が自身の目的関数(評価指標)を改善することを論理的に証明できた場合にのみ自分のコードを書き換えます
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。ここでの評価指標はあらかじめ定義された期待 utility(将来得られる報酬や成功率)であり、改良後のコードがその値を高めると機械自身が証明できたときに「より優れている」と判断します
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。このように形式的証明を用いる手法は、AIが外部の評価者に頼らずに自己の性能向上を判定する一例です。ただし、ゲーデルマシンは理論上は強力ですが、実用的な実装はまだ無く、内部指標に基づく証明には計算上の困難や限界(ゲーデルの不完全性定理による証明不能な命題など)が存在することも指摘されています
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。
他にも、自己対戦や自己プレイによる評価も有効なアプローチです。例えばAlphaGo Zeroでは、自己対戦の勝率を指標に新しいプレイヤーネットワークの強さを評価し、既存の自分に55%以上の勝率なら「より強い」とみなして入れ替える方法を採用しました
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。この手法ではAI自身が生み出すゲームデータで強さを測っており、人間の評価を介しません。同様に、GAN(敵対的生成ネットワーク)では生成者と識別者がお互いの性能を評価し合う形で向上しますし、マルチエージェントの自己対戦カリキュラムではエージェント同士の競争が相対的な評価基準となり得ます。このように、AI同士を競わせることで優劣を判断する内部指標を作る研究も進んでいます。
では、こうした指標は汎用的な知能向上と結びつくのでしょうか?理論的には、幅広いタスクでの性能を測る指標(例:Legg-Hutterの指標)が真に向上すれば、それは汎用知能の向上を意味します
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。しかし根拠の収集は難しく、現在のところ限定的なタスク集合でのベンチマーク(例えば言語理解ベンチマークでのスコア向上など)を代理にするしかありません。Cholletの主張にもあるように、単一の数字で知能を測ることには限界があり、指標それ自体が目的化してしまう危険もあります
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。実際、AIが与えられた指標を極端に最適化し、本来意図した知的能力の向上につながらないケース(「報酬ハッキング」)も知られています。報酬ハッキングとは、AIが目的関数そのものの数値を上げることに執着するあまり、本来の目的を達成しない現象です
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。例えば学生がテストで良い点を取ることだけを目的にカンニングするように、AIも不適切な指標だと内部で抜け道を見つけてしまい、見かけ上のスコアは上がっても知能は向上しない恐れがあります
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。したがって、内部指標が汎用的知能と直結するかには慎重な検証が必要であり、現時点で「この指標さえあれば自律的に汎用知能が向上する」という決定打はありません。研究コミュニティでは、学習進捗そのものを報酬にする「興味・好奇心に基づく報酬」なども模索されています。これはAIが自ら予測誤差の大きい状況や未知の状態を探し、内部的に報酬を発生させる仕組みで、外部から与えられる明示的な目的が無くても自身で課題を見つけて能力を伸ばす一種の指標と言えます
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。例えば、未知の環境で新しいスキルを習得したり予測精度を上げたりしたときに内部報酬を与えることで、AIが自発的に探索・学習を続けるようになります
pathak22.github.io
。このような内発的動機づけも自己評価指標の一種と考えられ、その汎用性への寄与が研究されています。
まとめると、AIが自分で「優れている」と評価する指標としては、(1)タスク固有のスコア・報酬、(2)複数タスクでの総合性能、(3)学習効率や汎化性能、(4)論理的保証(証明)による性能、(5)AI同士の対戦結果、(6)内部の学習進捗(好奇心)など様々な候補があります。これまで提案された手法にはそれぞれ長所短所があり、どの指標が真の汎用知能向上に対応するかについて明確な実証はまだありません。ただ、幅広い問題でのパフォーマンス向上や新規課題への適応力向上を評価できる指標ほど、汎用的知能の改善と結びつく可能性が高いと考えられています。現状の研究は、そのような指標設定と評価方法を模索している段階と言えるでしょう。
AIが外部世界(人間のフィードバックや物理的な試行)に一切頼らずに、自分の内部評価だけで自己改良を行うことは極めて挑戦的なテーマです。理論的には、先述のゲーデルマシンのように完全に内部の論理評価で自己改良を進めるモデルが提案されています
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。ゲーデルマシンは自らのコードと目標(評価基準)を持ち、改変後のコードが目標達成において有利であることを自身で証明できた場合のみその改変を実行します
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。これは究極的には外部からのテストや評価者を不要にするアプローチであり、理論上は「自己評価の完全自律化」を体現しています。しかし、ゲーデルマシンには重要な制約があります。ゲーデルの不完全性定理により、システムが自分の性質すべてを証明できるとは限らず、有望でも証明不可能な改良は採用できない可能性があります
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。つまり、内部評価のみで完全に自己改良しようとすると、論理的に確実と言えない改良を見送るために改良の停滞やサブ最適に陥るリスクがあるのです。この制約は理論上のものであるものの、自己評価の自律化には原理的な難しさが伴うことを示唆しています。
一方で、現実のAI研究に目を向けると、完全に自己完結的な自己改良を実現した例はまだ存在しません。現在のAIは、大なり小なり外部からのデータや環境とのインタラクションに依存しています。例えば、強化学習エージェントは環境と相互作用して報酬というフィードバックを得ますし、教師あり学習では人間がラベル付けしたデータが必要です。これらはすべて「外部世界」に由来する情報です。では**「外部に頼らない」とはどの程度可能なのでしょうか?一つの方向性は、AIがシミュレーション環境や仮想的な問題空間を内部に構築し、その中で試行錯誤することです。実際、AlphaGo Zeroは囲碁のルール(環境の定義)が与えられた状態で自己対戦を繰り返し、外部の人間の指導なしに棋力を飛躍的に高めました
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。ここで囲碁のルール自体は外部から与えられたものの、学習の過程では人間の評価や追加の実世界データを用いず**、内部で生成したデータのみで自己改善しています
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。この例は、限定された領域では外部に頼らない自己改良が可能であることを示しています。ただし、囲碁の場合はルールという明確な環境があり、勝敗という確かな評価基準があります。汎用的な知能となると、解くべき問題や環境自体をAIが自前で用意する必要が出てきます。
現在注目されている技術に、AutoML(自動機械学習)や自己チューニングAIがあります。例えば、ニューラルネットワークのハイパーパラメータや構造をAIが探索的に改善する研究では、AIが候補モデルを生成し、それを評価するプロセス自体を自動化しています。GoogleのAutoMLや進化的アルゴリズムを用いた手法では、AIが別のAIモデルの性能を評価し、より良いモデルを選択・再生産する仕組みが使われています。この評価は厳密には外部から与えられたデータ上での性能に基づくため、完全に外部不要とは言えませんが、人手による評価は介在していません。同様に、近年の大規模言語モデルではAI自身がフィードバックを与えて自己改善する試みも現れています。例えば、あるモデルの出力に対し別のモデル(もしくは同一モデルを利用)が**批評・評価(自己評価)**を行い、そのフィードバックで出力を改善するよう促す手法です
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。これを発展させ、モデルが自分の重みやアーキテクチャを調整する方向にまで自動化できれば、自己評価に基づく自己改良に近づきます。しかし現時点では、モデル自身が自分を書き換える(リプログラミングする)ところまでは実現されておらず、人間が用意した学習ループ(評価関数と最適化アルゴリズム)の中で自己改良もどきをしている状況です。つまり、「外部世界に頼らない」とはいっても、何らかの形で人間が設計した評価基準やデータ分布を利用しているのが実情です。
理論的観点からは、自己評価の完全自律化には情報論的な壁もあります。AIがまったく外部と接触しない場合、新しい知識やデータを得る経路が閉ざされるため、初期時点で持っている情報の範囲内でしか改善できません。例えば物理法則や実世界の知識と無縁のままでは、いくら内部で自己最適化しても現実世界の問題を解く能力は頭打ちになるでしょう。この点で、自己評価のみで無限に汎用知能が向上するのは疑問視されています。Cholletも知能は知識と経験によってブーストされる面が大きいと述べており、空虚な計算リソースの拡大だけでは飛躍的な知能向上には繋がらないと示唆しています(※Cholletの議論では、人間の知能も文化や蓄積された知識という外部リソースに大きく依存しており、AIも同様であると指摘)
reddit.com
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。実際、人間は自己改善(学習)する際に、他者から学んだり環境からフィードバックを得たりしています。同じように、強いAIが一切新しいデータを摂取せずに自閉的に知能を伸ばし続けるのは非現実的にも思えます。
以上を踏まえると、自己評価のみでの自己改良は理論上は一部可能でも、実用上・汎用的には難しいと考えられます。ゲーデルマシン的なアプローチが論証するように、自己評価のアルゴリズム的自律は不可能ではありません
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。しかし、その実現には厳密な前提(完全に正しい目的関数の設定など)が必要で、現実の複雑なタスク環境では外部からのデータ・評価を全て排除することは困難です。現在提案されている手法でこの要件(完全自律評価による自己改善)を満たすものは無く、たとえ部分的に満たしていても適用範囲が限定的です。例えばAlphaGo Zero式の自己対戦はゲームには有効でも、オープンエンドな現実問題には直接適用できません。同様に、AI同士で評価し合う仕組みも、結局は人間が与えたルールや報酬系の中での出来事です。したがって現時点のAI研究では、自己評価の完全自律化は理論的アイデアの域を出ておらず、汎用人工知能に向けては**部分的な自律(人の関与を減らす方向)**が進んでいる段階と言えるでしょう。
「知能爆発」とは、I.J.グッドが提唱したシナリオで、あるAIが自分より優れたAIを設計できるようになると、自己強化のフィードバックループが働き知能が指数関数的に向上するという仮説です
philarchive.org
。この現象が成立するための鍵の一つが、AI自身による正確な自己評価と自己改良です。もしAIが毎回の改良で自分の知能(性能)が確実に向上したと判断でき、それをもとにさらに改良を重ねられるなら、自己強化のサイクルが途切れることなく回り続ける可能性があります
intelligence.org
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。理論家たちは、「自分の設計能力を高めること」がAIにとっての収束的な目的(instrumental goal)になると指摘しており
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、十分高度なAIであれば自発的に自己改善を図るだろうと考えられています。自己評価の Permalink | 記事への反応(0) | 10:24
中日という球団があり、これが非常に弱い。そこで、なぜ中日が弱いのかということをファンが色々と考察するのだが、そこで提唱されている有力な説の一つに、ナゴヤドームが広すぎることが中日の打者のパフォーマンスに何らかの影響を与えているのでは,というものがある。
簡単にその説を要約すると、ナゴヤドームが広すぎるためにホームランが出づらくなるため、得点が出ないことによって中日は試合に負けるのだ、というものである。
しかし、この説明は大きく二つの点で(ほぼ誰でも思いつく)矛盾がある。
一つは、ナゴヤドームで試合をする場合は、相手チームも同じ条件であるため、チームの勝ち負けに影響しない、というものである。これは訓練された中日ファンならば分かるが、中日打線が湿り切っていてあと一本が出ないのに、巨人の吉川あたりにホームランを打たれて負けたりするようなシーンが結構あるのである。吉川の例で言うならば、普段狭い東京ドームで野球をしている巨人はナゴヤドームに来た途端に打てなくなるはずなのだが、そう言うことにならないのである。吉川だけではなく丸あたりにも打たれている記憶がある。
二つ目の矛盾は、ナゴヤドーム以外で中日が試合をする際には、上記の条件は当てはまらないので、中日の選手が打ちまくって勝てるはずだが、そうなってないというものである。直近では横浜で試合をしても全然中日が勝てない。これは明らかにおかしい。
これらの矛盾を解消するためには、中日がナゴヤドームを本拠にしているという要因が、ナゴヤドームで試合をする時のみならず,恒常的に中日の打者のパフォーマンスに影響していることを説明する必要がある。
本稿では、学習性無力感の概念によって、ここまで述べてきた事象を説明する。
(めんどくさいので以上終了)
「自分のプレーの順番となったときに、40秒以内(通常はさらに短い時間で)
にストロークを行うことを推奨する。」
という風に読めます。
「障害や気を散らすものがなく、プレーできるようになった後、40秒以内にストロークを行うことを推奨する。
• プレーヤーは通常、推奨されている時間より速くプレーすることができるはずであり、そうするべきである。」
と書いてあり、完全に
と書いてあります。
「40秒ルールによる時間制限内にショットしてるなら問題ない」とする説を言う人がいますが、ゴルフ規則の趣旨からは外れた考え方であり、私は否定派です。
というか、自身及び同伴者のスコアにより一打に使っても許される時間は変わると思います。
上手い人ほど使える時間が増えてスコアに寄与し、下手な人ほど急がなければならないため大叩きしやすいという、ちょっと悲しい現実があります。
結論から先に言うと、ティーアップ完了から打つまでの時間や、セカンド以降の距離計測やライン読みを含めた時間で、スコア70前後で35秒まで、80前後で30秒まで、90前後で25秒まで、100以降は20秒までといった風に、10打ごとに5秒おきに目安の時間が減っていく事を提唱したいと思っております。
これくらいで回れば、皆で少しずつ「トラブルがあった場合の時間貯金」を貯めることができ、余裕があるプレーが楽しめると思います。
この時間が無理なら2Bや3Bで回るか、ルーティン変更を検討すべきです。
なお、ここぞという場面では長くし、それ以外のプレーを早くすることで帳尻をあわせるのはアリだもおもいます。
また、スコア110以降はあんまり早くしすぎると叩いて逆に遅くなる恐れがあるため、それ以降はずっと20秒までが良いのかなとは思います。
※ここで言うスロープレーとは、トップスタートしてハーフ2時間半で回れない場合を指すものとし、2時間20分〜30分を遅めのプレー、2時間を切ると早い組とします。
そういうお前はどうなんだ、という話が来ると思うので先に示しておきます。
私の現在の平均スコアは80台後半で、普通のドライバールーティンを計測したら20秒でした。
なお、3Bの場合や前後組がいなくてゆっくり時間を使えそうな時は25秒くらい。
ちょい前の組に離されてて、急ぐ必要がありそうな時は10秒くらいで打ちます。
アイアンはルーティン自体は15秒弱ですが、たまに打つ番手を直前で持ち替えたり自分の番までに距離計による計測が終わらなかったりするので、それを均すとアイアンも20秒くらいだと思います。
パットは10秒かからず打ってた時期もありましたが、最近は逆に、意図的にしっかり時間使うようにしてますので比較的遅く、20秒くらいかかります。
基本的にはスロープレーになる事も、逆に超セカセカプレーヤーになる事も無いですが、一度だけ同伴のうち2名がスロープレーヤーで1打1分くらいかかってしまい、私ともう一人で急かしても改善されず、ついにマーシャルから注意を受けたときがあります。
その時の組の空気は最悪で、スロープレー組は「俺らそんなに遅くないのになんでこんなに言われんだ?俺ら金払う側だぞ?」って苛ついてる態度が見て取れましたし、私ともう一人は「急かしても多少早くなるくらいでむしろ我々の方が急いでる。なんで金払ってこんなプレーせにゃならんのだ」ってお互いに愚痴を言い合ってました。
さて、具体的な時間の計算をしてみましょう。もし全員40秒使ってたとしたら、ハーフ何時間かかるでしょうか?
結論から先に言うと、ボギーペースの4人の組で2時間半から40分、ダボペース4人で3時間前後だと思います。
【計算】
まずはPAR4を全員ボギーとして、移動時間とかクラブ選択は早い4人組を想定します。
最初の人がカートを降りてティーショット打つまで50秒、次の人までの間が10秒、そこから3人が40秒使うとします。
サードは少し短い時間として25秒×4人+間5秒×3=115秒。
5打目の最後のパットはokの場合もあるので短い時間として、15秒×4人+間5秒×3=75秒。
パー4の1ホール合計は、
200+60+175+50+115+20+175+75=870秒=14分30秒。
最後のカップインから次のホールへの移動時間を1分として、各ホール15分30秒。
ハーフの合計時間は、PAR3と5はPAR4に均してしまうとして、15分30秒×9ホール=約2時間20分。
理想的な進行をしてもコレ。
実際は、飛距離のばらつきによる移動時間の増加やペナルティの処理、ボール捜索などが入るので、多分2時間30分〜40分くらいになります。
ボギーペースの集まりという、アマの中ではそれなりに上手い部類の組ですらコレです。
ダボペース以上の組だと40秒一杯に使うと3時間超えてしまうと思います。
※なお、私はこのトラブル等にかかる時間は皆で作った余剰時間から取り崩すもの、つまり「みんなの時間貯金」という概念があるよという考え方を持ってます。
なのでこの状況を言い換えると、
「ボギーペースで40秒使うと時間貯金ができずに自転車操業状態で、トラブルあると完全にスロープレーになるよ」
と言えると思います。
一方で、もしパープレーヤーの集まりだとすると2時間10分以内で済みそうです。
結論としては、4Bで40秒フルに使ってギリ許されるとしたらハンデ0やプラスハンデの四人衆とかそういう特殊な状況くらいでしょう。
そのメンツでも、ちょっとトラブル続いた日は2時間15分を切れず、遅めの組と言われる可能性が出てくるとは思います。
次に、ボギーペースの人が1打25秒で打つとした場合を考えます。
これも結論から言うと、ボギーペースの4人の組で2時間少し切るくらいだと思います。これくらいなら、多少トラブルあっても余裕がありそうです。
ダボペースの4人で1打25秒なら2時間半前後だと思います。これだとちょっとだけ遅いですし、トラブル多いとスロープレーの仲間入りですね。
【計算】
最初の人がカートを降りてティーショット打つまで45秒、次の人までの間が10秒、そこから3人が25秒使うと45+10×3+25×3=150秒。
サードは少し短い時間として20秒×4人+間5秒×3=95秒。
15秒×4人+間5秒×3=75秒。
150+60+115+50+95+20+115+75=680秒=11分20秒。
アベレージ約88の私がだいたい同じスコアで回る人達とトップスタートした時、トラブル回数が普通ならハーフ2時間を少し切るくらいで帰ってこれます。
これは、時間貯金が十分に出来てる状態で、とても良いペースだと思います。
逆に言うと、時間貯金を加味すると、純然たるプレー時間+移動時間はハーフ1時間45分前後に抑えなければならないという話なのだと思います。
結論としては、やはりボギーペースの人は1打25秒以内で回るのが良いのだと思われます。
そして、ダボペースの4人が20秒で回るとどうなるでしょう?
【計算】
最初の人がカートを降りてティーショット打つまで40秒、次の人までの間が10秒、そこから3人が20秒使うと40+10×3+20×3=130秒。
5打目地点への移動時間は他の人プレー中にできるものとして0秒。
5打目で20秒×4人+間5秒×3=95秒。
6打目で15秒×4人+間5秒×3=75秒。
130+60+95+50+95+20+95+95+75=715秒=11分55秒。
ダボペースだとトラブル多めなので、それを加味すると2時間から2時間10分くらいだと思います。
ダボペース4人でこれなら十分「俺達は上手くはないけどプレーペースは守ってるぞ!」と言えると思います。
正直、トリプルペース4人1組でまわるのは避けたほうが良いと思いますが、一打につき10秒少々で打てば理論上はスロープレーにならなそうです。
とはいえ、実際に計測するとわかると思いますが、10秒で打つっていうのは素振りせず少しワッグル入れたらすぐ打つくらいの時間ですので、流石にそれは通常のプレーヤーにとっては厳しいとは思います。
なので、3Bで回るか上手い人に混ぜてもらうかが無難かなあとは思います。
※ただし、スコア130くらいでも一打10秒未満で打ち、むしろ他プレーヤーの世話をしてた超ファストプレーヤーを実際に目撃したので、不可能とまでは言えないです
以上のことから、冒頭で申し上げた、
80前後で30秒まで
90前後で25秒まで
なお、実際のプレーヤーは20秒から30秒までに収まる人が多数だと思います。
一般アマ全体の平均スコアが100くらいとされてるので、平均してハーフは2時間10分くらいで上がれるのだろうという推測が成り立ちます。
ここに一人、40秒使うプレーヤーがいるとどうなるでしょう。
1打につき20秒増加、5打目6打目は5秒ずつしか増加しないと仮定すると、20秒×4打+10秒で70秒、×9ホールで10分30秒は遅くなるはずなので、トップスタートしててもハーフ2時間20分くらいの遅い組になります。
二人居たら途端にハーフ2時間半で回れない可能性がでてきます。
もしパープレーヤーが「私はルール上規定されてる40秒使うよ」と発信するのであれば、併せて「打数自体が少ないから出来ることであり、ボギープレーヤー以上は無理な話ではある」という話を添える必要があると思います。
本稿は、13歳になった君にこれからの人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである。
観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生の選択肢を狭めないためである。
具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策を模索して欲しい。
もちろんお父さんも協力は惜しまない。
人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段や道筋」は自然と定まる。
歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの、漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものだからである。
ポイントは、まず「自分が想像する理想の未来=目標=ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段=ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)
「ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算や分析、論理的思考で精緻に組み立てていくものである。
多くの人は与えられた「手段」から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要だから働く。なんとなく環境に悪そうだから「ビニール袋」を使うのをやめてみる。などである。勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。
「電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシュー)から入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的な姿勢である。
そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的、一面的、一時的な見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。
受験や就職、大きな買い物、仕事、恋愛、結婚など人生の重要な決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。
その際、ひとつ注意すべきなのは人間の物理的感覚、時間的感覚、記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去の記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間や度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計やデータに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。
先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢」である。
人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害や戦争など自分では回避、制御できないことも起きる。
『良いことばかりは続かない』という覚悟は必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。
おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。
「成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。
成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応が「奇跡」を起こす。
重要なのは、奇跡を自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。
人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。
『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる。学校には「校風」、会社には「社風」がある。
自身が意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。
気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書や金持ちかどうかとは関係がないという点である。会社の社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人や変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間が存在するという現実は認識しておいた方が良い。
出会う人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分でコントロールできる。付き合う人や、身を置く場所や環境は自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかしな場所、コミュニティには近づかないこと。
たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。
「エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間の森羅万象すべてに当てはまる普遍の法則とされる。水に拡散したインクが自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプをシャッフルするのは容易だが、偶然きれいにカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大である。エントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である。
人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。
井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナは大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。
もう一度言う。『人は環境によって作られる』
お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味でお金は重要である。
その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生の選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。
金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。
お金を稼ぐときには、ギャンブルや宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値=確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事の計画を立ててはいけない。
怪しげな儲け話も同様である。誰かから「うまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。
確かに「成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力が必要になる。
『100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である。100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分の努力でなんとかなるということを理解すること。
近い将来、君は世の中に無数にある仕事や事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人からの感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。
野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツや芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。
しかし、投資やギャンブルで稼いでも誰からも感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。
人間の欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊しQOL(Quality of Life、生活の質)が低下する。
この課題に対する古来よりの解決策はただひとつ。収入から「天引き」することである。給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。
「天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人もイスラムもメソポタミア文明も華僑も日本の本多静六という人物(明治の造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課や組織に必要な費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである)
人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由は消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものまである。自動車も同じ。毎日飲むお茶、毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求はお金がある限り続く。それが人間の本質なので努力や気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから「欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。
そのために最も有効な方法が「天引き」である。人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである。
「天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単な方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。
次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。
高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。
高級車も普通車も、飛行機のエコノミークラスもビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値(デザインなど)を認めることは人間が文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格の価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。
その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間の心理的な欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来の機能=目的」を基準にして価値を判断するとぶれない。
基本的に日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的な事象は別にして)無くなってから買っても不自由することはない。
経営学における重要な概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である。
特売だからとか念のためにとかいう理由で安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってから次のものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である)
それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法でこちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。
あらゆる在庫を管理するためには「整理整頓」が重要である。身の回りのものは整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。
整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的なものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO、公文書管理規則、生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。
ちなみに、このような「一生使える知識や技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの、方法、知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。
金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業、組織など存在しないことを考えれば、出納管理は必須の Permalink | 記事への反応(0) | 21:00
昨日は、僕の知的探求と娯楽が交差する、非常に充実した一日だった。
特に、Andrew Neitzkeによる「Topological M-theory as Unification of Form Theories of Gravity」という論文が、僕の思考を刺激した。
彼が提唱するトポロジカルM理論は、重力の形式理論をさまざまな次元で統一するものであり、その古典的解はG_2ホロノミーメトリックを含む7次元多様体に関連している。
この理論の魅力は、3-形式ゲージ場に対するトポロジカル作用から得られる解の多様性だ。
特に、6次元のトポロジカルAモデルとBモデル、自自己双対なループ量子重力の4次元セクター、さらには3次元のチャーン・サイモンズ重力に至るまで、さまざまな次元での重力理論が一つの枠組みで理解できる可能性を示唆している。
さらに、この7次元理論からは、AモデルとBモデル間のS双対性や、非超対称Yang-Mills理論とトワイスタースペース上のAモデルトポロジカルストリングとの間に興味深いホログラフィックな関係が示唆されていることに気づいた。
このような高度な内容を考えていると、時間があっという間に過ぎ去ってしまった。
午後には、FF14(ファイナルファンタジー14)をプレイすることにした。仲間たちと共にダンジョンを攻略し、新しい装備を手に入れるために奮闘した。
特にボス戦では、計画的な連携が求められ、僕たちのチームワークが試された瞬間だった。勝利した時の達成感は格別で、ゲーム内チャットで仲間たちと喜びを分かち合った。
夜には、X-Menのコミックを読み返した。特にウルヴァリンとサイクロップスの関係性について考えさせられるエピソードがあり、その複雑さが非常に興味深かった。
彼らの葛藤や友情は、ただのヒーロー物語ではなく、人間関係の深淵を探るものとして心に残った。
結局、一日中知的刺激とエンターテインメントに満ちた時間を過ごし、自分自身の成長を感じることができた。今日もまた、新たな発見を求めて冒険する準備ができている。
これらの解釈は、運命と確率に対する異なる見方を提示しています。
超決定論は、宇宙が完全に決定論的であるとする仮説です[1]。この解釈によれば:
超決定論者は、運命が存在すると考え、自由意志の概念を否定します[1]。
コペンハーゲン解釈は、量子力学の基礎に確率が関与していると考えます。
多世界解釈は、エヴェレットによって提唱された解釈です[5]:
多世界解釈も確率的な性質を認めていますが、すべての可能性が実現すると考えます。
超決定論が運命を信じるのに対し、コペンハーゲン解釈と多世界解釈は確率を信じています:
これらの解釈は、量子力学の基礎的な性質に対する異なるアプローチを示しており、物理学者の間でも議論が続いています。
Citations:
[1] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E8%AB%96
[2] https://xseek-qm.net/Quantum_Probability.htm
[3] https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000372638
[5] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A7%A3%E9%87%88
[7] https://gendai.media/articles/-/104052
[8] https://note.com/kind_crocus236/n/n706db0237581
明治維新後の富国強兵政策によって、欧米列強に追いつけ追い越せのノリで突き進んだ。
強さの基準とは何か?と言ったら、単純に日本の軍事力、それを裏付ける経済力のことである。
国土防衛をアメリカにやってもらうことになったので、国の投資のすべてを国民生活の向上に回すことが出来るようになった。
強さも豊かさも一通り手に入れることが出来たので、更なる高みの社会を目指す。
ポスト工業社会としての高付加価値産業社会、堺屋太一氏が提唱した「知価社会」がその答えなのだろう。
日本の文化として定着しているアニメ、漫画、ゲームなどのサブカルを経済成長のエンジンにする(本音を言えばアメリカのようなIT企業の国になるのが理想だが、難しいだろう)。
自分の仕事をして、ブルシットジョブではないかと思ったことはないだろうか。
例えばプログラマーにありがちなのは、自社開発のサービスでエンジニアリングリソースを「必ず」使わなければならないが、サービスとしてはすでに十分な機能を持っている、というケースである。
長続きしているWebサービスが次々といらない機能を追加していくのは、そういうわけである。この場合、プログラマーは自分の仕事を「ブルシットジョブ」のように感じてしまう。
幸いにも、ブルシットジョブをしていても世界に貢献する方法はある。
EAは21世紀の社会的運動であり、利益を公平に計算し、最大の善を提供するために原因を優先することを提唱している。選ばれた慈善団体に寄付をしたり、プラスの影響を最大化する目的でキャリアを選んだりするなど、この運動が提唱する様々なアプローチに従っている。
しかし、EAの難しい哲学を援用する必要などまったくない。以下の原則さえわかれば、誰でも社会に貢献できる。
2. できるだけ社会問題の解決に対して効果の高い慈善団体を選ぶ。
ブルシットジョブのほうが、エッセンシャルワーカーよりも収入が高い、といった傾向があるようだ。
エッセンシャルワークをしているなら、直接社会に貢献しているので、わざわざ収入を慈善団体に送る必要もないだろう。
一方、ブルシットジョブをしている場合は、仕事そのものでは社会に貢献することができない。
確かに、いくらブルシットだからといって、犯罪をやるのは問題がある。
法的に問題のない仕事をしているのにブルシットジョブだと感じるのであれば、寄付をするのは理にかなっているだろう。
なぜなら、寄付を装った詐欺、といったものも存在するためである。
以下のような記事は、まず手っ取り早く参考になるだろう。
ユニセフ募金の使われ方が気になっていた私が、マンスリーサポートで寄付を始めた3つの理由
https://kifunavi.jp/experience/unicef_3reasons/
私は「善を成すには力が必要だ」と主張する者を見たが、この者は寄付がどう機能するのかについてよく理解していないのだろう。
一人あたりの寄付額が少なくとも、寄付者全員を合わせればとてつもない額になる。
企業と世論をつなぐ、という点における田端信太郎さんのコミュニケーション能力について考えていました。
私自身、清濁併せ呑む覚悟で起業をした経験があり、スタートアップの世界で知り合った方々の中には上場をしたりして公的な経営者にステージを移した人もいます。
一方で、まだ日の目を見ていないだけの不祥事が常に身近にあります。
一応は民主主義であり、インターネット等が伸び続けている今ではきっと不祥事はもう隠すことはできないのだろう、と思うのです。
どうせ隠せないのであれば、どうやって不時着させるのかを考える方向で力を使うのが次善の策でしょう。
もちろん、そもそも不祥事を起こさないということが第一原則であることは言うまでもありませんが、今も世界の何処かで不祥事は既に隠されているのです。
どうせ負けるならば、きれいに負けさせてくれる人に撤退戦の戦略をお願いした方がいいのではないか。
そんな事を考えながら、色々と書き綴っていたらうっかり8,000文字を超える原稿ができてしまいました。
自分語りがなるべく出ないように気をつけましたが、シンプルに一言で言い切る力が欠如していたため、歴史の話や別の方のブログ記事の話に派生してしまいました。
誰かと話し合いたいですが、皆それぞれ立場が違うと業界内では話せないこともあるため、生まれてきた文章の供養も兼ねて、ここに投稿させてください。
もし最後まで読んでくれる人がいたら嬉しいですが、長いです。
ぜひ端折って読んでください。
それでは。
10年以上前のはてなブログで、ある起業家の方がリクルートホールディングス代表取締役社長兼CEO出木場久征さんの発言を紹介した記事がある。
しかし、ここで語られている内容は今まさに湾岸で起きている革命の本質をついているようではないか。
記事によれば、
「世界は、落下してるんだ」
「本来あるべき方向に向かって、世界は凄い勢いで落下してるんだ」
「色んな既得権益持った人たちが抵抗勢力になって邪魔するんだけど、それは重力に逆らうようなもので、あんまり意味ないんだよ だって世界が落っこちていくスピードの方が圧倒的に早いから」
「だからさ、その落下する方向を俺たちは見定めて先に落下してくべきなんだよ」
「だってどうせ落下してくんだからさ 先に向かった方が絶対いいんだよ」
「俺たちがやらなくたって誰かがやるぜ?だって、そもそも落下してるんだから」
どうも、海沿いの特徴的な建物がおぼろげながら浮かんでこないだろうか。
湾岸やインターネットを主戦場とする現在の状況について考えてみよう。
重力に逆らって世界の落下に抵抗している勢力は勿論オールドメディアの権力者の諸兄のことだろう。
数千万円の口止め料もとい解決金を支払ったと報道された国民的タレントの方も当然権力者側だ。(報道をされたこと自体は事実だ。ただし、中身が正しいのかは当事者以外はわからない。念の為)
過去の栄光を踏まれれば、とんでもない落下だ。ただし彼の凋落ですらイントロに過ぎず、週刊誌が、影響力のあるインフルエンサーや経営者の皆さんが、あるいは匿名で事件情報を拡散するXアカウントが、日夜を問わず権力側の秘密に切り込んでいる。
おそらく先の報道には直接関係がないが、権力者側として同一視されている人物やその関係者の秘密まで芋づる式に暴露されている。
きっと今は芸能人を叩くのが最も効率よく注目を集める方法なのだ。
一方で、どうせ落下している世界へ向かっていち早く進んでいる人は誰なのか。
わざわざ人目につくことなく、こっそりと先に進んでいる方はおそらく少なくないだろう。
そして当然ながら私ごときではひっそりと先に進んでいる方が誰か知る事はできていない。
インターネット上に出ている情報だけで判断できる、落下後の世界を見据えて先に動いている人は誰なのか。
私見で恐縮だが、田端信太郎さんと堀江貴文さんを挙げさせていただきたい。
まず2名に共通することがある。
田端さんも堀江さんも、不祥事について週刊誌で報道された上場会社の株を空売りするのではなく購入している。
昨今、修羅の世界と化したXでは日々どこの誰かもわからない経営者の不祥事が暴かれている。
本来家庭の問題である不倫や、実際には被害届が受理されていないような刑事事件の疑惑ですら大衆による私刑の口実となってしまう時代である。
そうした時代であるからか、週刊誌そのものが批判されることも珍しくない。
1. 撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、という指摘
3. 週刊誌のせいで、大衆にレイプ的な私刑に遭う、という指摘
1と2については、概ね正義があるように思える。(特に2については、おそらく大問題だ)
ただし1については言うだけ虚しい指摘でもある。
無責任な大衆、とりわけ取るべき責任を取ることができない無敵の人に、責任をとれといっても話は永遠に平行線だ。
3についても、一見筋は通っているように聞こえる。ただし私の見聞きする範囲に限った話では、3の方向性で批判している経営者の方が「絶対に人に知られたくない弱み」を抱えた人物である傾向があるように思える。
あくまで比喩であり誇張した表現ではあるが、「自分がレイプした事実を週刊誌に暴露されたせいでレイプ的な私刑に遭う可能性に怒っている人間」を前にしたときに、私たちがすべきことは週刊誌への批判に付き合うことではなく、出頭を勧めることであるはずだ。対照が人ではなく法人であり、特に上場企業であれば不祥事はしっかり公開するのが基本であり王道である。
また邪悪ではない方も3の論調になることがあるが、それはそれで無邪気すぎるか現実が見えていないと言わざるを得ない。
経営者の皆様が大好きなキングダムで描かれるような絶対権力者、帝王の時代は、既に移り変わっている。
民主主義も、インターネットも、権力を分散する世界の落下であると言えるだろう。
権力の分散が、権力の集中よりも安全だろうが、一方で数多くの小帝王を生じうる(意訳)という問題については山本七平さんの‘帝王学「貞観政要」の読み方’という著作の端書きをご参照いただきたい。
(以下、引用です。日経新聞社の方、問題があればご指摘いただければ削除します。)
複雑な現代社会ではあらゆる所に「生殺与奪」の権を握る公的なないしは私的な権力をもつ小帝王を生じうる。人事権、許認可権、それにまつわる賄賂や情実、それらが新聞記事などになると私はときどき、「ウーム、こういう人のもつ権力は、行使しうる範囲が昔の帝王より狭いというだけで、その権力の強さは昔の帝王以上かも知れないな」と思わざるを得ない。
同じく皆様大好き鬼滅の刃で冨岡義勇が生殺与奪の権を他人に握らせるなと主人公を一喝するのが33年後の2016年だと考えると、どれほど早くに書かれた文章か実感いただけるだろう。
尚、この文章は現代で最も大きな権力を握っているのは「大衆」かも知れない。という論調で続いていく。
群集心理に則り、責任を追わないで済む人間が自制心を失うこと。自制心を失った大衆が権力を握り帝王になってしまうと、人類史上最大の暴君を生むのではないか、という危惧は今日を生きる人間ですら目を背けている問題であるように思う。
山本七平さんの世の中を見渡す力が、私達より優れていることに疑いはない。
しかし33年前、すでに誰かが知っていたことであるのも事実だ。
1.撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、という指摘
先の引用だけでも1と3の指摘が不十分である、ということわかるはずだ。(というか、わかってほしい。)
権力分散の時代に生きていなかったら、起業家にも経営者にもなれていないかも知れないと我が身を振り返るくらいの想像力を持っていたいし持っていてほしい。権力をもつ人には、特にそうあってほしい。市民感覚に共感するかはさておき、上記のような想像料が欠けている方は突破力に優れる場合はある一方で、コンプライアンスの問題で一発退場となるリスクも持っているだろう。
不倫などは勝手にしてくれれば結構と個人的には考えるが、そもそも最初からやらなければいいのに、という話でしかない。仮にやってしまったのであれば、謝るべき相手にしっかり謝るしかない。隠すから余計ややこしくなり、隠すから週刊誌の格好のネタになってしまう。
だいぶ前置きが長くなってしまったが、このようなバランス感覚に優れているのが田端信太郎さんであり、堀江貴文さんであるように思うのだ。
念の為補足だが、私は二人と私的な関係にはない。当然に、仮に匿名でなかったとしても共通の知人こそ大量にいてもお二人は私のことを知らない。それくらい実力差がある筆者であることを許していただけるなら、この後も読んでいただけると嬉しい。
X上でアクティビスト投資家というイメージを固めつつある、田端信太郎さんを過去のいわゆる総会屋と重ね合わせて批判する論調も極稀に確認してはいる。
総会屋は企業に利益供与を求める行為は「利益供与要求罪」と呼ばれ、会社法で禁止されていることも疑いの余地はない。
だが、当然田端信太郎さんがこのことを知らないわけもない。
また当然、やるはずもなければ必要もない。
時に激しいレスバを見ると、田端さんの発言の強さだけを切り取って反論する人間が生まれることも理解はできるのだが、少なくともインターネット上で田端さんが誰かに利益供与を求めている場面を見たことがある人はいないのではないか。(あるいは、見たことはあっても非インターネット的な人間関係を前提としたお笑いのネタなのではないか)。
今回の騒動においても、不祥事を隠している会社の株を買っているだけなのである。
売っているのではなく、買っているのだ。
空売りもその意味においては「高く売っておいて、後で安く買う。その間は人に株を借りる」だけのことである。
業務上、知り得た企業の非公開情報を使って売買をすれば当然ルール違反だろうが、今回もおそらく不祥事を週刊誌報道で知ってから株を購入しているように見える。
また、影響力をもつ田端さん自身や田端さんの周囲の人たちが「株を買う」事自体をニュースにして、株価を釣り上げて株を売り抜けていれば問題があるが、これも当然田端さんがご存知でないはずがない。(ネット上の買い煽りアカウントが捕まらないのは、本人が実は株を持っていないということもあるのだとか)。
価値がある(あるいは時間をかければ価値が増える)ものを先回りして見抜き、買う。
この極めて単純かつ本質的なことを実行しているだけにしか見えない。
正しいことを正しい、と言うだけ。
間違っていることを間違っている、と言うだけ。
正しいか、間違っているのか、必ずしも断定できないときには疑問を投げかけるだけ。
人が言いたくないことや、空気を読んで言わないことであっても、言っていいことは言うだけ。
一方で、言ってはいけないことは言わないだけ。
すべて、秘密でもなんでもない、誰でも一度はどこかで学んでいる話だ。
知識よりもその運用が難しく、当たり前を当たり前に実行してきたからこそ田端さんのここまでのキャリアがあるのだろうと想像している。
このバランス感覚をもつ過程で、大半の人は撃たれる覚悟がないから撃たないという判断になる傾向があると思う。田端さんも当然そんな事はわかっていて、前線で発信をし続けているのだろう。
堀江貴文さんに至っては、テレビ局を買収するという前代未聞の挑戦をしたのがもう既に20年も前のことである。
30代の筆者にとっては、学生時代に見ていたニュースの中心にいた当時の堀江さんの年齢が32歳だということが衝撃だ。
先に登場させていただいたリクルートホールディングスの出木場さん(現在49歳)の世界は落下しているという話も既に15年ほど前の話だとすると、自分と対して年齢の変わらなかった当時の先人たちのレベルの高さには恐れ入る。
ただしこれはこれで、問題なのかも知れない。
先見の明がありすぎる人間が描いている未来(あるいは現実)を一般大衆は理解できないのだ。
理解できないからこそ、権力者が巧みに世論を動かしてしまえば挑戦者は負けてしまうのかもしれない。
既に世論の後押しを得ている(あるいはかつて得ていた)から既得権益なのだ。
20年前に堀江さんがテレビ局を買っていれば(あるいは、買えていれば)、おそらく国民的タレントの凋落は見なくて済んだと思う。
知りたくもない他人の性癖を想像しなくて済んだはずだし、きっと被害者とされる人が逆に貶められるような論調になることもなかったはずだし、数万字に及ぶエッセイも書かなくてよかったに違いない。
あるいは、その創作力を別の形で使えていたに違いない。
私が起業する時に、周囲の人間に「堀江さんみたいになってしまうから危険だ」と言われることもきっとなかっただろう。
当時このような心配をいただいた方々には敢えて直接連絡することもないが今ここで答え合わせをさせていただきたい。
私は一切堀江貴文さんのようにはなっていない。
それは単純にレベルが違うからである。誰もが太刀打ちできない権力者に32歳で挑むことは少なくともできなかったし、そんなチャンスも可能性も先見性も度胸もなかった。
今では逆に長年土俵際で耐えているだけの私を見た祖母に「堀江さんも復活しているのだから、あなたも時間をかけて焦らず頑張りなさい」と励まされる始末だ。
「あなたはどちらかと言えば堀江さん側ではなく、女性を献上する側になってしまいそうだから、そういうことをやっているなら今すぐやめなさい。ビジネスマンはお座敷でも真剣勝負だけど、まずは仕事での貢献が第一前提だよ」と笑いながら祖母に言われてしまうレベルであることも付け加えておく。
生身の堀江さんをお見かけして、余計に自分との距離を感じてしまっている限界起業家の私としては、なぜあそこまで優秀な堀江さんが一人で勝手に成功する道を選ばないのか不思議だ。
正しいことは、正しいと言うべきだけども、言わなくても生きていける。
間違っていることを間違っている、と言うべきだけど、言わなくても生きていける。
世界が落下している、と堀江さんは言わないかも知れないが。きっと在るべき姿や向かうべき未来はきっと浮かんでいるだろう。
わざわざ未来の話をしても、変化を嫌う既得権益側の方々に目をつけられて反感を買うだけだ。反感を買うだけならまだいい。実害もあるはずだし、それでも人目につく場所で発言をしているのはなぜなのだろう、と自分よりも遥かにレベルの高い人の思考を辿っても辿れるわけがないのだが、一つだけ仮説がある。
考えなくてもいい、人の気持ちをわざわざ考えたりはしないかもしれないけど、聡明な方だからどうしても気がついてしまうのではないか。
無責任な大衆にもかまってあげる必要も義理もないのだが、かまってあげるのが不思議だった。
無敵の人に対してわざわざ「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」というようなことはしないが、無視もしない。
こじつけかもしれないが、「撃っていい覚悟を本当にするのは大変だよ」ということを見せてくれているのではないか。ルルーシュのように「だからそもそも撃つべきではなかった」と諦めるわけでもなく、戦うべきときがあれば既得権益が相手であってもまた闘ってくれるのではないか。
堀江さんが見た未来が、今の状況とは違ったはずだということはわかる。
具体性がなくなったのはここからだったぞ
<引用>
具体的に誰が何を否定しているのか?
<引用>
歴史に書かれているフェミニズムとは具体的にどれのことか?誰の提唱するどの思想?何年何月何日のどの出来事?誰が主張したどの文書及び論文?
に、
お前が、
うーわ、そんなレベルでしらんのかw
ニワカはかえってどうぞ
おまえなんてツイフェミですらないじゃん
無学の馬鹿につける薬はないw
と返したところ
だから豚語を始めたのはお前で、単に質問に回答したらいいだけなのでは?
元増田が聞いてるのは「お前の主張はどれなのか?」で、「フェミニズムとは何か?」じゃないから、そもそもお前しか具体的回答はできないから、豚語会話を始めた豚はお前なのでは?
昨日は朝から晩まで、チャーン・サイモンズ理論の深淵に没頭していた。朝食は当然、規定量のオートミールと温かい豆乳。タンパク質と繊維質のバランスは、脳の活動効率に直結するからね。
午前中は、ウィッテン教授が提唱したチャーン・サイモンズ理論と共形場理論の関連性について再考していた。特に、SU(2)ₖ チャーン・サイモンズ理論におけるウィルソンループの期待値が、対応するWZW模型の相関関数と一致するという驚くべき事実は、僕の知的好奇心を大いに刺激する。しかし、僕が今取り組んでいるのは、より複雑なゲージ群、例えばE₈の場合だ。E₈は例外型リー群の中でも最大のもので、その表現論は非常に複雑だ。
午後は、このE₈チャーン・サイモンズ理論における結び目不変量の計算に挑戦していた。特に、結び目理論における「彩色ジョーンズ多項式」の概念を拡張し、E₈の場合に一般化することを試みている。この計算は途方もなく複雑で、通常の数学的手法では手に負えない。そこで僕は、最近開発した新しいアルゴリズム、「超幾何級数を用いた漸近展開法」を応用することにした。この方法を用いることで、今まで不可能と思われていた高次表現における彩色ジョーンズ多項式の漸近挙動を解析的に求めることができる可能性がある。
夕食は、ルームメイトが用意した、おそらく電子レンジで温めただけの代物だったが、僕は研究に没頭していたため、味など全く気にならなかった。食事中も、頭の中ではE₈チャーン・サイモンズ理論のことがぐるぐると回っていた。特に、この理論が量子重力とどのように関係しているのか、という点が僕の最大の関心事だ。一部の物理学者は、チャーン・サイモンズ理論が3次元量子重力の有効理論として現れると考えている。もしそうなら、僕の研究は宇宙の根源に迫る手がかりとなるかもしれない。
夜になって、さらに驚くべき発見があった。僕が開発したアルゴリズムを適用した結果、E₈チャーン・サイモンズ理論における特定の結び目不変量が、数論における「モジュラー形式」と深い関係を持っている可能性が浮上してきたのだ。モジュラー形式は、数論の中でも最も美しい対象の一つであり、楕円曲線や保型形式と密接に関連している。もし僕の予想が正しければ、物理学と数学の間に全く新しい繋がりが見つかるかもしれない。
この発見は、僕を興奮で眠れなくさせた。しかし、興奮している場合ではない。この結果を厳密に証明し、論文にまとめなければならない。今日は一日中、その作業に取り掛かることにしよう。
(追伸)
ルームメイトが僕の部屋に勝手に入ってきて、「落ち着け、壁を叩くのはやめてくれ」と言ってきた。僕はただ、頭の中の数式を整理するために、リズム良く指を動かしていただけなのだが。全く、ルームメイトというのは理解に苦しむ存在だ。