はてなキーワード: 曖昧とは
10年くらい前にたまたまテレビを付けたらやってて見た映画のタイトルが分からず、時々思い出しては未だにモヤモヤしている
全ての記憶が曖昧で申し訳ないが、覚えている情報を書くので、心当たりがあれば教えていただけないだろうか…!
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実写
深夜帯
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3人の女がメイン
叔母と母と娘だったか…年齢はバラバラで、3人がそれぞれの過去の恋愛を順番に回想する話
御曹司?と結婚するも浮気されたり、まだ幼いのに同い年くらいの許嫁?のところに嫁がされたり…
ややスケベなシーンあり
ラストは3人が話していた食卓?のテーブルから離れそれぞれの生活に戻っていく…みたいな終わり方
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この手のコメント来ると思った。以下、有料で提供してた記事からのコピペ
日本政府の債務はほぼ円建てで国内消化可能であり、他国の通貨危機と異なり、即座に外貨流出による破綻リスクが比較的低い点は認める。
しかし、それは財政的余裕が無限にあるということにはならない。
高齢化や医療需要の増大は、将来にわたり社会保障支出を押し上げ、潜在的な増税圧力や資産の取り崩しを引き起こす。
長期的に見れば、国債残高が積み上がることで金利上昇リスクが高まり、いずれは財政運営に制約をもたらす懸念は拭えない。
「財政健全化」とは必ずしも財務省のプロパガンダではなく、長期的な財政の安定性や世代間負担の公平性を考えるうえで、広く検討すべき政策課題なのが何故分からない。
外債依存がないからといって、未来永劫財政規律を軽視してよい根拠にはならないのに。
「アメリカの医療保険が失敗している」点を指摘しているが、原案でも「民間に任せる際の詐欺的行為や価格高騰」を懸念し、是正策を考慮している。
アメリカモデルが抱える問題点は過度な市場任せ、医薬品価格や治療費の高騰、保険未加入者の存在などが挙げられる。
ここで提案しているのは「半分民営化」に近い形で、国の関与や規制も依然として重要なファクターにする戦略。
アメリカの「規制が緩い民間主導」に対し、「徹底した監視、詐欺的行為の排除、必要な公費介入を残す」などのセーフガードを設けるといった提案は、アメリカの失敗を踏まえた修正案。
要するに、公的医療保険制度をほぼ廃止し、10割負担を基本としたうえで、民間主導の医療サービス市場を整え、必要に応じて超限定的な公費支援を行うモデルは、財政の健全化と国民の健康意識向上を同時に狙える。
日本の通貨システムと外債に依存してないことを考えれば全く必要がないと分かる財政健全化とかいう財務省のプロパガンダを前提にしてる時点で話にならない。アメリカにおける医療保険の失敗を全く踏まえていない上に目的が前述のプロパガンダと健康意識の向上とかいう極めて曖昧なもので全てがジャンク。
食事とホテル代がこちら持ちという条件で、お互い気が向いた時に声をかけてセックスをしていました。
女友達といった関係ではなく、元は出会い系で知り合ったのち、お金に困っているということで、この様な関係になりました。
食事もいちいち面倒なので、その分を渡そうかと聞いたこともあります。彼女は食事は一緒にしたいということでそれは断られ、奢ってはセックスするという関係に落ち着きました。
そのうち、どうみても妊娠している兆候があり、やってしまったなと思いつつ話を聞いても、あー…まぁ…うん、というような曖昧な返事で、相手が自分なのかその他なのか断言はしませんでした。中絶を望むなら費用や書類の対応も覚悟していたのですが、そこから連絡が途絶えてしまいました。
半年以上空いて、彼女から連絡が来たので会ってみると子どもを出産したということでした。子どもは女の子で、長女と歳の差が〜といった話を聞きました。(察してはいたものの子あり、過去に離婚済とのこと)
父親のことについてはやっぱり曖昧で、聞いてもはぐらかされる始末でした。
食事とホテルが希望ということで、前と同じ様にセックスをしてその場は別れたのですが…最中にハンカチで汗を拭いてくれたり、射精後のゴムを結ぶなど普段ない様な行為が気になりました。
食事とホテル代がこちら持ちという条件で、お互い気が向いた時に声をかけてセックスをしていました。
女友達といった関係ではなく、元は出会い系で知り合ったのち、お金に困っているということで、この様な関係になりました。
食事もいちいち面倒なので、その分を渡そうかと聞いたこともあります。彼女は食事は一緒にしたいということでそれは断られ、奢ってはセックスするという関係に落ち着きました。
そのうち、どうみても妊娠している兆候があり、やってしまったなと思いつつ話を聞いても、あー…まぁ…うん、というような曖昧な返事で、相手が自分なのかその他なのか断言はしませんでした。中絶を望むなら費用や書類の対応も覚悟していたのですが、そこから連絡が途絶えてしまいました。
半年以上空いて、彼女から連絡が来たので会ってみると子どもを出産したということでした。子どもは女の子で、長女と歳の差が〜といった話を聞きました。(察してはいたものの子あり、過去に離婚済とのこと)
父親のことについてはやっぱり曖昧で、聞いてもはぐらかされる始末でした。
食事とホテルが希望ということで、前と同じ様にセックスをしてその場は別れたのですが…最中にハンカチで汗を拭いてくれたり、射精後のゴムを結ぶなど普段ない様な行為が気になりました。
「実家の家庭料理で何が美味しかった?」と聞かれて、豆腐と水菜のカレーのことを思い出した。
最後に食べたのはもう15年ぐらい前だと思う。具材は細かく砕いた豆腐と生の水菜だけ。豆腐によってまろやかになったカレーとシャキシャキした水菜が絶妙な組み合わせで、形容しきれないけれど癖になる味だった。一家全員に大好評で、母も月に1回は作っていたと思う。
それなのに、しばらくすると豆腐と水菜のカレーは食卓から姿を消した。当時はそのカレーが作られなくなったことに誰も気づかず、そのまま忘れ去られたメニューになってしまった。
先日実家に帰省した折、豆腐と水菜のカレーについて聞いてみた。どんなレシピだったのか?なぜ作らなくなったのか?
両親は二人とも豆腐と水菜のカレーのことを覚えていた。あれはとても美味しかったよねと。作られなくなったのは、単にレシピを紛失してしまったからだそうだ。どうやら、原典はスーパーで貰ったレシピカードだったらしい。
レシピを見つけたら教えるね、と言われた。でも、小さなレシピカードを家から見つけ出すのは至難の業だと思う。間違えて捨ててしまったのかもしれない。インターネットで検索しても、まさにこれだというレシピは見つからなかった。記憶をたどって自分で再現しようとも考えたが、曖昧にしか覚えていないし、何かを再現できるほど料理が得意なわけでもない。
美味しいカレーは世の中にたくさんあるけれど、豆腐と水菜のカレーは私にとって唯一無二のカレーだった。シンプルで飽きのこない、いくらでも食べられるカレーだった。でももう食べられないのかもしれないと思うと、とたんに惜しい。どうにかしてレシピを見つけられないだろうか。
陰謀論の話だ。
2016年の覚醒剤での逮捕から、2019年の解散、Chageへの批判、そして陰謀論への傾倒。
陰謀論を信奉する人々にとっては陰謀論こそが真実なのかもしれないが、「月は人工物」とまで言い出している。
私は90年代の後半、チャゲアスが全盛期を少し過ぎた、しかしそこにあった圧倒的な輝きがまだ感じられる頃にチャゲアスを聴いていた。
というか、姉がファンだったので、広く浅く当時の曲全体を聴く機会があった。
そして、その頃からどこかしら、こんな日が来ることを予感していた気がするのだ。
それについて少し書いてみたいと思う。
予め言っておくと、途轍もなく偏見まみれで客観性に欠けているので、その点ご了承されたい。異論は認めるけどスルー大推奨です。
ネットの掲示板にはAskaが圧倒的才能の持ち主で、Chageが凡庸のように書かれている。だが、当時の曲を聴いていた自分の見方からすると少し違う。二人の持ち歌やソロ曲はこんな感じだった。
<Aska>
・恋愛至上主義。
・ロマンチックなシチュエーションを好む女性や男性に対して強烈な訴求力がある。
・ソロ曲ではエッジはそこまで効いておらず、キレの良さがやや影を潜める。
・声がとにかく独特。一度聞いたら忘れない声。
・天然。高校時代、Chageの歌っていた井上陽水の「夢の中へ」を知らなかったという話があった気がする。
・案外Chageへの対抗意識が強い。ビートルズ的なサウンドを追求する人を否定する発言も。
・売れる。
<Chage>
・やや小賢しい。
・メロディラインが難解な曲を歌いこなすものの、ノリづらいこともある。
・エッジの効いた曲を作るが、本人の声は高音寄りで柔らかく、パンチ力はいまいちなことがある。
・稀にパンチ力極大になる。(ロマンシングヤード、NとLの野球帽など)
・冗談好きでトークが上手い。深夜ラジオのDJは相当人気があった。
・基本そんなに売れない。
とにかく、一般への訴求力という面からするとAskaの方が上回るが、ChageはAskaにない部分がある。
二人が揃うことで弱点を克服し長所を増幅させていたのだが、どうしてそれができたのかはなんとも説明しがたい、そんなデュオだった。
だがまあ、本題はAskaのことだ。
Askaの世界観は少女漫画とうちの母親は言っていた。少女漫画と呼ぶにはは多少の男っぽさもあるにせよ、テーマの中心は理想の恋愛と理想の自分、理想の「きみ」だ。
恋愛という場面において最高の自分を演じる、そのためのシチュエーションを紡ぎ出すことに凄まじく尖った才能を発揮していた。
ChageもAskaもイケメンではない、せいぜいフツメンだ。
どちらかというと面白い顔のChageと比べるとイケメン系ではあるAskaも造作が素晴らしいわけではない。そのイケメン性はもっぱら自己演出によるところが大きい。
ただしその自己演出も、当時ですらそんなに時代には合っていなかった。
いつか時代に完全に取り残された時に、イケメンでもなく最高の男でもなく、弱くなった自分と相対した時にこの人は音楽が作れるのだろうか。歌が歌えるのだろうか。
それから何十年も経った今がある。
彼の才能を輝かせるためには、「最高の恋愛」からインスピレーションを受け続けなければならない。
インスピレーションが枯渇すればなんとかしてそれを補わなければならない。
クスリでも不倫でも、許されることではないにせよ、それだけの刺激を得ていないと止まってしまう。泳ぐのを止めたら窒息して溺れる魚のように。
友達すらいるのだろうか。本当のところは曖昧ではあるにせよ、ヤクの売人に徹底的に漬け込まれたり、陰謀論者に取り込まれたりするところを見ると人間関係の頼りなさは明らかに気になるところだ。
そんな自分を支えて引き上げる手立てはおそらく彼にはない。井上陽水を知らなかったように、ビートルズ的なサウンドを否定したように、Askaの世界観は他の世界と切り離されている。Askaは奇妙に孤独で真空だ。
だから、今のAskaは、傍から見ると怪しげな陰謀論としか見えないそれを大事に抱えて生きて、未だに残るかもしれない才能の煌めきの残滓に火を灯し、その人生をその人生の通りに駆け抜けるしかないのだろう。
ほぼ確実なのは、先発は桑田真澄投手。(初先発が1986年なのでそれ以降)
後楽園球場でのペナントレースの試合。(日本シリーズやオールスター、オープン戦ではない)
岡崎郁選手がサヨナラ安打を放った(サヨナラホームランではない)
不確実だが印象に残っていること
隣に東京ドームの建物がすでにあったので、1987年の可能性が高い。
サヨナラはおそらく9回
両親が初めて連れて行ってくれたナイターの試合を特定したい。地方からの野球観戦だったので、チケットは別の日に父か母が後楽園まで買いに行ってくれた。
絶対忘れるものかと思っていた野球観戦の記憶も、断片的になってきている。
今だったら、スマホで記念撮影くらいしてたと思うけど、当時の両親はカメラも持ってきていなかったような。
70代後半の両親に聞いてみたが、すでに記憶は曖昧だった。(自分は40代)
試合序盤、中畑選手が一塁に駆け込むスピードに驚いた記憶がある。大人ってこんなに足が速いんだと。
うちに帰ってからも父と二人でビール売りのマネをしていた。「ビールいかがっすかー」
チャンスの手拍子の時に、ビジョンに移る手のアニメーションも覚えている。
確実だと思われる条件を列挙して、ChatGPTやCopilotに聞いてみても、適当な答えしか返ってこなかった。
岡崎郁選手のサヨナラ安打の試合がわかれば、あとは桑田真澄投手の勝ち負けのつかない先発試合と照合して、数試合に特定できそうだと思っているが、どうだろう。
トラバみてもだいたいおまえの書きたかった方の意見と同意だった(この釣りがっせんおもろ~い)だ
だけど男増田は釣り師としては「ここ初めて来たんだけど、釣りってなに?(きょとん)」顔を演じつつ真実味をつけないといけないわけ
ヴァイマールの宮廷楽長を辞任したリストは、ラティボル公に招聘され、公の弟グスタフ・ホーエンローエを通じてローマ教皇庁と接点を持つことになり、宗教音楽に取り組む意欲を持つことになる。「巡礼の年」や「詩的で宗教的な調べ」のように、前期・中期から既にリストには宗教的な要素が強い作品があったが、これ以降そのような作品はさらに増えていく。一方、子どもたちが相次いで亡くなったことで大きな精神的打撃を受け、1860年には遺書まで書いている(マリーとの関係はまだ悪かったようで、マリーのことは遺書にない)。カロリーヌは夫との婚姻を強制されたものであり無効であるとする枢機卿会議の決定を一旦勝ち取ることに成功するが、その後、婚姻が有効であると述べる証人が新たに現れ風向きが変わってしまう。というのも、ラティボル公の実子とカロリーヌの娘が結婚することになっていたのだが、カロリーヌの結婚が無効だったとするとカロリーヌの娘は私生児ということになり、大変都合が悪いわけで、グスタフが手を回して妨害させたようである(リストも後に状況を悟ったらしい)。愛する人と結ばれることに再び失敗し、重ねて精神的なショックを受けた。それでも、グスタフを初めとするローマのパトロンを見出し、ローマに腰を落ち着けて宗教音楽に熱心に取り組むことになる。ところが、1869年に度重なるヴァイマールからの要請で宮廷楽団の指導役として復帰し、さらに70年代からはピアノ教師としての活動も非常に活発になり(ローマでも週1ではやっていたらしい)、以降リスト曰く「三分割された生活vie trifurquée」、春はブダペストなどで音楽教師とコンサート、夏はヴァイマールの宮廷楽団の指揮、冬はローマで作曲とピアノのレッスンというスター時代に負けず劣らずの忙しい生活を死ぬ日まで送ることになった。晩年のリストのレッスンの記録をとっていた弟子アウグスト・ゲレリヒの日記(翻訳あり)を見るとリストの生活ぶりが良く分かる。
晩年のリストの代表作である。出版も最晩年。頻繁な不協和音の利用、レチタティーヴォ風の単純な旋律、独りごちるようなモノローグが目立ち、華麗な作風からの一変を感じることができるだろう。全7曲あり、第1・4・7は明るめで、宗教的な救いを示している。前期・中期作品でいうと、「孤独の中の神の祝福」」に近い作風である。それに挟まれた2・3・5・6は、「葬送――1849年10月」などと同じで、死を嘆くエレジーで、とても暗い。
この曲集の中で最も有名なのは第4番の「エステ荘の噴水」だろう。文字通りリストが住んでいたティヴォリのエステ荘の噴水を活写したものだ(その様子はググってくれ)。晩年作品の中では例外的に明るく、輝かしい作風で、しかも印象主義の先取りになっている画期的作品だ(ラヴェルの「水の戯れ」やドビュッシーの「水の反映」と比べると良い)。第2・3曲「エステ荘の糸杉にI・II」は大変暗い曲なのだが、続けて聴くと本当に救われる思いになる。絶望からの救済は、リスト本人が強く望んでいたことだ。
第三年だけの録音というのはあまり聴かないような気がする(エステ荘の噴水の録音はたくさんあるが)。第一年なども含めた全曲録音は前期の項目で書いたが、ベルマンとロルティが良いだろう。特に美しいロルティが好き。
1863年にリストは僧籍を取得し、聖職者となっている(ずいぶんな生臭坊主生活が死ぬまで続くが、リストのことなので仕方がない)。丁度その頃に作曲されたらしい。ローマに引っ越したリストを教皇ピウス9世が訪ねてきた時に(下級聖職者のくせにローマ教皇に足を運ばせる男なのである)、第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」を演奏したらしい。フランチェスコが小鳥に説教する様子を描く絵だったか詩だったかをモチーフにした曲で、小鳥たちのさえずりを模倣したトリルがかわいらしい。明るく、聴きやすい作風である。
第2曲の「波をわたるパオラの聖フランチェスコ」は、嵐の中の船出を拒絶されたフランチェスコ(アッシジの人とは別人)が自らのマントを船にしてメッシーナ海峡を渡ったとかいう伝説をモチーフにしている。波を模倣したうねるような力強いアルペッジョが印象的。出だしこそ暗いが、明るく、輝かしく、充実した展開を迎える。
両曲とも1865年にリスト自身がブダペストにおける久しぶりの公開のコンサートで初演された。サン=サーンスがいたく気に入って、オルガン編曲を作っている。
ニコライ・デミジェンコ(Hyperion/Helios)のCDにソナタ、スケルツォとマーチと一緒になって入っていて、よく聴く。
元々はヴァイマール時代にオルガン曲として作った曲だが、この時期にピアノ編曲された。BACHの主題といっても、バッハの曲が引用されているのではなく、ドイツ音階のBACH(シ♭・ラ・ド・シ)をモチーフにした勢いのある曲。暗い曲だが、豪壮無比な超絶技巧を披露する曲であり、重苦しい感じはない。
面白い曲なのに良い録音が中々ない。昔韓国のクン・ウー・パイクの録音を聞いた気がするが記憶に残っていない。アムラン(Hyperion/ソナタなどとカップリング)が良いと思う。若手だとリーズ・ド・ラ・サール(naive)の演奏は非常に録音も良く、技術的にも良い感じである(naiveは廃盤になるのが早く、入手が難しいのが困りものだが、配信あり)。(追記)ハワード全集の演奏も彼のヴィルトゥオーゾっぷりを味わえるものだったと思う。しかしアムランやラ・サールと比べると分が悪いか。
長女ブランディーヌの子ダニエラ(死んだ息子と同じ名前)のために作った曲(父は「自由帝政」時代の首相エミール・オリヴィエ。なお産褥熱でブランディーヌは死んだ)。当時のクリスマス・キャロルの編曲だが、リストオリジナルの曲も入っている。第1曲(編曲)がとても良い曲なのだが、リストお得意の左手高速オクターヴの連続があり、子どもに辛いのでは(しかもご丁寧に軽くleggieroという指示がついていてピアニストは悶絶する)。第11曲の「ハンガリー風」はおそらくリスト、第12曲の「ポーランド風」はカロリーヌを暗示しているのだと思われるが、後者は明らかにショパンのマズルカ的な作風。やっぱりショパンのこと大好きなんすね~
実はハワード全集しか聞いたことがない(しみじみとした良い演奏だと思います)。
5. 暗い雲 S.199(死後旧全集に収録/1881年作曲);不吉な星 S.208(死後旧全集に収録/1881年作曲);調性のないバガテルS.216a(1956年出版/1885年作曲)
反則だが、リストの無調音楽の代表格を一挙紹介。リストの無調音楽は、機能和声が崩壊しているという意味では無調だが(その意味ではワーグナーの「トリスタン和音」も同様)、シェーンベルクの十二音技法のような意味で無調というわけではない(ドイツというよりフランスの無調音楽の先取りっぽい)。行くあてが未定まらないまま、タイトル通り曖昧な響きに終始する暗い雲、西洋音楽で不吉とされる音の組み合わせをこれでもかと盛り込んだ不吉な星は、これでも生前に既に演奏されてはいたのだが、調性のないバガテルは「無調」と銘打った音楽史上初めて(ではなかったとしても極初期)の作品で、発見されたのも20世紀後半になってからである(1956年出版というのは誤記ではない)。ただ、元々メフィスト・ワルツ第4番として作られていたので、舞曲の要素があってそこまで聞きにくい曲ではない。リストの精神状態もあって暗い感じだが、とにかくリストの前衛音楽家っぷりがよくわかる曲である。
いずれも録音はそこそこあるが、代表的な盤はあまり思いつかない。不吉な星はポリーニの録音したソナタのCDにカップリングされているので聴いたことがある人もいるだろう。暗い雲も入っていたと思う。調性のないバガテルはまあまあ取り上げられているが、昔カツァリスが日本で大ブレイクしていた頃に出したメフィスト・ワルツ全集(Teldec)に入っている。
初稿(21世紀に新発見され出版)、第2稿(悲しみのゴンドラI)、第3稿(悲しみのゴンドラII)がある。よく演奏されるのは第3稿(II)で、ヴァイオリンやチェロのための編曲もある。
ヴェネツィア所在だったワーグナーを訪問した1882年に作曲された。完成した曲をワーグナーに紹介する手紙を送り出した直後、ワーグナーが亡くなり、リストはこの曲を虫の知らせだったと感じたらしい。「巡礼の年」のヴェネツィアとナポリと対比すると良い作品。
不安を煽るような曲だが、それほど聞きにくい曲ではない。色々なCDにカップリングされているが、個人的にはブニアティシヴィリ(SONY/ソナタのCD)が好きなのでよく聴く。
なお、ワーグナーの死を悼む作品もリストは作っている(R. W. ――ヴェネツィア S.201とリヒャルト・ワーグナーの墓に S.135)。前者は不安を煽る曲だが(ポリーニのCDに入っている)、後者は敬虔な追悼音楽で、「パルジファル」の動機が使われている。ピアノより弦楽四重奏盤を聴くと良いだろう。
7. 村の居酒屋での踊り――メフィスト・ワルツ第1番(1862年出版)
前期の曲と思いきや、実は後期の作曲(作曲開始も50年代末のはず)である。やはり最後は明るく華やかな(そして生臭坊主な)リストで締めたい。着想自体は1836年に書かれたレーナウの叙事詩「ファウスト」で、ファウストを連れて村の居酒屋にやってきたメフィストフェレスが、ファウストを誘惑するためにヴァイオリンを弾き出し、みんなノリノリになって踊り出し、魔法の音にあてられてファウストは女の子と一緒に森の中に消えていくというしょーもない内容である。技巧的な見せ場も多いのだが、ヴァイオリンの調弦を模倣した五度の音程を重ねるところ(地味に安定させるのが難しい)、中間部の重音トリル(ピアニスト泣かせ)と幅広い跳躍、終盤の怒濤の追い込み(メフィストフェレスがファウスト堕落に成功してめっちゃ喜んでノリノリで弾いている様子なんだろう)が主なところである。
有名曲なので演奏はたくさんある。今ならブニアティシヴィリ(SONY)が良いと思う。ソナタも悲しみのゴンドラも入っているのでお買い得。自由奔放にやっちゃってるが、そのくらいの方がこの曲に合っている。映像もある(https://www.youtube.com/watch?v=n1tM9YSLYdc)。なお、評判の良いエコノム(Suoni e Colori)とルガンスキーのデビュー盤(Victor)は廃盤で聴いたことがない。早く再版しろ(激怒)
いかがだったろうか。リストのいずれも強烈な個性を持つ曲、もし良かったら楽しんでほしい。YouTubeに乗っている曲だけでも良い。音楽の楽しみが増えれば幸いだ。
(※その後超絶技巧七選も作ってみました。超絶技巧すぎてかえって推薦音源が少なくなったかも→anond:20241213224533)
追記:
前期のブコメに「愛の夢が落選した」というのがあった。申し訳ない。3つの演奏会用練習曲をその手の曲の代表例として入れたので。あと「コンソレーション」も同様に落選させた。同じような性格の曲集なのでどれを突っ込むか迷ったのだが、結局「ため息」のある3つの演奏会用練習曲にした。文字通りため息が出るような優美な「ため息」以上に愛の夢は優美で、明るく感動的な曲なのだが、実は元となっている歌曲の歌詞を見ると結構説教くさくて引くというのはここだけの話。
「エステ荘の糸杉に」が好きというブコメを頂戴した。リストのエレジーはどれも本当にもの悲しく、個人的にはちょっと辛い感もあるのだが、気持ちは大変よく分かる。
マリーとの破局よりもピアニストとしての活動を選び、欧州中をわかせていたリストだったが(何しろリストの風呂の残り湯を飲もうとして待機しているファンがいるとかいうレベルである)、1847年にポーランドの大地主の娘であり、キエフの軍人ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人カロリーヌに出会う。コンサート・ツアーでリストがキエフに来ることを知ったカロリーヌ(別居中)は、娘の誕生日のためという名目でリストを招待し(誕生日に大スターを招待できるというわけでだからどのくらいのレベルの金持ちかがよく分かる)、急速に二人は深い関係になっていく(意味深)。リストはピアニストとしての活動を打ち切り、カロリーヌと一時の同居生活を経たあと、48年からヴァイマールの宮廷楽長としてカロリーヌと共に腰を落ち着けることになる。カロリーヌは長い訴訟を経て婚姻無効を勝ち取るが、リストとの結婚は認められなかった。ちなみに、カロリーヌは博覧強記で雄弁な人だったらしく(リストの多くの作品にも口を出している)、あのワーグナーが引くほどだったということである。カロリーヌの身分を巡る微妙な問題に加えて、音楽界の動向的にもリストはドイツに居づらくなり、約10年で宮廷楽長を辞任する。つまりリストの「中期」は短い。宮廷楽長になったことで、オーケストラ作品が多く書かれるようになった一方、新規のピアノ曲はこの時期にはあまりない。大スターの座を捨てて半分隠退生活に入ったようにも見える。しかし、この時期こそが作曲家としてのリストが確立する重要な時代である。前期の作品の少なくない曲(巡礼の年やパガニーニ練習曲もそうだ)はこの時期に改訂され、より演奏効果は高まり、内容も充実することになる。
リストの代表作の一つ。この時期に改訂を経て完全版になった。長年の改訂を経て磨きに磨き抜かれた。
この曲集の決定的な録音はウラジーミル・オフチニコフ(EMI)だろう。どの曲も非常に質が高く、穴がない(この練習曲集は多彩な技巧のデパートなので、どこか苦手なものが出るのが常)。が、残念ながら入手性は悪い。世間的に有名なのはラザール・ベルマン(Melodiya)で、新旧二種類あるが、新版(1963年)が気合いが入っている。ただ、キンキンとぶっ叩くような録音で、そこまで好きにはなれない。横山幸雄(SONY)は録音も良く、やはり穴も少ない。特に第5番「鬼火」の演奏が素晴らしい。
2. パガニーニによる大練習曲 S.141(1851年出版)
1840年出版のパガニーニによる超絶技巧練習曲の改訂版。元々の第4曲は単音アルペッジョになり大分おとなしくなったが、それ以外の曲については、難易度を落としつつ、同等以上の演奏効果を発揮できるようになった。第3番「ラ・カンパネッラ」はここで非常に完成度を上げて今の形になった。
40年のパガ超と違い録音は多い。有名なのはアンドレ・ワッツ(EMI)だと思う。昔図書館で借りて聴いたことがあるがどれも安定の演奏。その他だとフィンランドのピアニスト、マッティ・レカリオ(Ondine)の激烈な演奏があるが、残念ながら廃盤で入手困難(Naxos Music Libraryにはあったかな?)。フィリペツのパガ超のCD(NAXOS)にも入っており、これまた大変安定した演奏で、パガ超と合わせてフィリペツを聴くのがいいだろう。あと、「ため息」で紹介した福間洸太朗(アコースティカ)のCDにも入っている。これも大変安定していると思う。
(追記)レカリオはNMLにもiTunesにあった(Raekallio Lisztででてくる)。YouTubeにもあった。https://www.youtube.com/watch?v=SkuWa2HDk58&list=OLAK5uy_kN6U4dNkOzK4Cv1DZfZDWoidTcP7yPxr8
ピアノソナタが量産されていたのはベートーヴェン(32曲)までの時代であり、19世紀半ばにはピアノソナタは落ち目のジャンルであった。一方、気合いの入った大曲を書く時にピアノソナタという古典的様式を敢えて選ぶことはその後もあり、ショパンやリストのソナタはその例だろう。リストのソナタは、単一楽章という異例の様式だが、単一楽章の中で多楽章形式の要素とソナタ形式(提示部・展開部・再現部)の要素を融合させ、しかも一つの動機(冒頭のタッタラ~タ~ララ~タラララ~というつかみ所のないアレ)によって全体が統一されているという極めて斬新で前衛的な曲だった。そのため当時はよく言って賛否両論といったところで、現在ではリストの最高傑作の一つとして評価されている。
リストの最高傑作であるからして録音も非常に多く、推薦音源を挙げるのは難しい。取り敢えずクリスティアン・ツィメルマン(Deutsche Grammophone)の演奏が端正であり、技術的にもハイレベルで良いと思う(難所でタッチが浅くならず、深く充実した響きが聞こえるのが良い!)。ぶっ飛び系なので好みは分かれると思うが、カティア・ブニアティシヴィリ(SONY)の演奏をよく聴いている。
なお、この曲と関連する重要作品としてスケルツォとマーチ S.177がある。面白い曲だが泣く泣く割愛した。デミジェンコ(Hyperion/Helios)が良い演奏している(ソナタや「伝説」とカップリング)ので聴いてほしい。
4. バラード第2番 ロ短調 S.171 (1854年出版)
ショパンは1832年にパリデビューし、特にサロンでの繊細な演奏で女性たちの心をわしづかみにした。リストもショパンの演奏に狂った一人である(またかよ)。リストはショパンのことを友人と思っていたが、ショパンの方は割と適当にあしらっていたという話もあり、リストの片思いだったのかもしれない。ただし、ショパンは練習曲作品10をリストに、作品25をマリーに献呈している。つまりリスト夫妻にショパンの練習曲は捧げられたわけで、結構親しい関係にあったことが分かる。リストはショパン死後にショパンの本を書くくらいにショパンには思い入れがあり(最近新訳が出た)、弟子にもショパンを弾けと言っていたようであるが、作曲面でもポロネーズやバラードなど明らかにショパンの影響と思われる様式の曲を書いている。中でもバラード第2番は大変な傑作で、冒頭の重苦しい主題が終盤にロ長調になって戻ってくるところは本当に感動的である。
これまたあまり推薦音源が思いつかないが、アンスネス(EMI)のCDがかなり良かった覚えがある。前期で出したノンネンヴェルトの僧房も入っている。
(追記)スティーヴン・ハフ(Hyperion)がポロネーズやバラードを全部録音しているのを思い出した。ピアノソナタとカップリング。あとショパン弾きで有名なネルソン・ゲルナー(レーベル覚えてない)の演奏がもの凄く良かったと思うのだが、どこで聴いたか・・・(この曲はショパン弾きにこそ弾いてほしい!)。YouTubeに動画をあげまくってCDデビューしたヴァレンティーナ・リシッツァがベーゼンドルファーを使って弾いている動画がある(収録風景?https://www.youtube.com/watch?v=1Qdr3Uvs09o;コンサート https://www.youtube.com/watch?v=uBs4jtWMBj8)。97鍵もあって低音がアホみたいに響くから重たいが、この曲には合っている。ただCD(持ってない)でそこまで迫力があるかな?
(再追記)ゲルナーあった!(https://www.youtube.com/watch?v=m90vsN3SjvM)配信もあるのかな。
トムとジェリーで有名なハンガリー狂詩曲もこの時期に改訂が終わって現在の形になっている。リストが採録しているのはハンガリー(マジャール)ではなく、ロマの音楽なのだが、リストは、ロマの民謡を素材に使ってハンガリーの民族叙事詩を作り上げようとしていた(それがバルトークのようなマジャール人からはドイツ人が勝手なことやりやがって・・・という風に見えていたわけだが)。どの曲も重々しいラッサンと華やかなフリシュカという二つの舞曲的なパートから成り立っていて、構造的に単純で、しかもピアニスト時代のようにド派手で豪快な曲が多く、リスト入門に良いと思われる。
ミッシャ・ディヒター(Phillipes)が全曲では有名だと思う。ハンガリーでリストの再来とされていたかのシフラ・ジェルジの録音もあったはず。第2番はホロヴィッツ編曲版を弾いているスルタノフの爆演が好き(https://www.youtube.com/watch?v=_BFalOtwUy8)だが、スルタノフを聴くと大概の演奏が物足りなくなるおそれがある。残念ながらスルタノフは若くして亡くなってしまった。ホロヴィッツ編曲版ではない場合、第2番はカデンツァを挿入する部分があるので、独自のカデンツァが見物になる。その点で一番に言及しなければならないのは我らがスーパーヴィルトゥオーゾのアムラン(Hyperion)で、アルカンの大練習曲 op.76の引用が入り3分以上続く頭のおかしいぶっ飛んだカデンツァだ。日本公演の映像もある(https://www.youtube.com/watch?v=pIMzL2-4bjg/8:30あたりから)。あとは自作のジャズ・カデンツァを用いて全体にやる気がみなぎるデニス・マツーエフ(BMG)、ラフマニノフのカデンツァを使用し爆演系のレオニード・クズミン(Russian Disc)がお勧め。ただしクズミンのCDは廃盤・倒産で入手困難であり、今後他社からの再発が望まれる。
第15番「ラコッツィ行進曲」は何よりもホロヴィッツ本人のいかれた演奏を聴くべきだろう(古い音源なので検索すればすぐ出てくる)。音質は悪いが、聴く価値がある。昔ホロヴィッツ編曲版にチャレンジしている勇者を見つけていたく感動したことを思い出した(https://www.nicovideo.jp/watch/sm10176725)。
なお、15番以降19番までハンガリー狂詩曲はあるが、晩年様式なのでこれ以上は紹介しない。
リストはドイツの宮廷音楽家として、新ドイツ派(当時のドイツにおける管弦楽の停滞(と彼らは考えていた)を問題視し、ロマン主義音楽の再生を志す人々)の頭目的な存在だった。そのため、同じような立場にある人々、特に売れっ子とは言い難かったワーグナーの作品を積極的に上演・紹介したのだが、40年代以降ピアノ編曲もいくつも作っている。リストの最も有名なワーグナー編曲は「トリスタントとイゾルデ」の終曲(愛の死 S.447)だが、自分はタンホイザー序曲が単独では最上の作品だと思う。何よりも前期のオペラ編曲もの同様、豪壮無比な超絶技巧を聴かせてくれるのが良い。
ちなみにリストの次女コジマは夫のハンス・フォン・ビューロー(ワーグナーにとっては恩人)を裏切ってワーグナーと不倫し、リストは激怒する(後に和解)のだが、自分もマリーやカロリーヌにやらせていたことだ。
タンホイザー序曲の録音は意外とない。ユーリ・ファヴォリンの気合いが入った演奏(https://www.youtube.com/watch?v=xJYkouNnuwo)が一番良いのだが、CDは手に入りにくい(一応、ヴァン・クライバーンコンクールでの演奏があるらしいのだが・・・)。スタジオ録音が望まれる。前期作品の時に名前を挙げたロルティ(CHANDOS)も美しいが、技巧的には前者が圧倒的。実は、ワーグナー本人もピアノ編曲を作っているが(https://www.youtube.com/watch?v=KdXPFBcP1bQ/カツァリスのCD「ワグネリアーナ」に入っている)、リストの編曲と比べると一目(耳?)瞭然、どちらが音楽的に充実しているかは明らかである。
30~40年代から書かれている曲だが、やはり最終版になったのはこの時期。もっとも早く書かれた「死者の追憶」(第3稿第4曲)を聴くと、非常に調性が曖昧な曲で、30年代から既に晩年の様式が準備されていたことが分かる。第3曲「孤独の中の神の祝福」はリストの敬虔さが音楽に昇華された隠れた傑作。アムランが好んでおり、2回も録音している(ノルマが入っているMusic & Arts盤とソナタや「補遺」がセットになっているHyperion)。
この曲の中で最も有名なのは、第7曲の「葬送――1849年10月」だろう。非常に暗い曲だが、タイトルが指す通り、ハンガリー革命で奮闘し、鎮圧され死んだ人たちのための追悼音楽。
全曲では先のユーリ・ファヴォリンが録音しているが、筆者は未入手。配信で聴けたかと思う。どうでもいいことだが、デミジェンコのライブ録音(Hyperion/7番のみ)を聴くと、明らかに鼻歌で歌っていて面白い(グバイドゥーリナのシャコンヌでも結構はっきり聞こえる)。
宮廷楽長としての生活の中でリストの前期作品の多くが音楽的に充実されたが、音楽界での軋轢や劇場でのトラブル、カロリーヌの身分を巡る問題で長くは続かなかった。そろそろ次の時代に進もう。
追記:
前期のところに、ベートーヴェンの交響曲のピアノ編曲についてのコメントがあった(anond:20241212215414)。
リストはベートーヴェンの交響曲を全曲編曲しているが、初版出版は1865年で、時期的には後期にあたる。ただし、3、5-7番の編曲は1837年には出来ており、個別に出版されていたようだ。リストはピアニスト時代からベートーヴェン作品の布教に熱心に取り組んでおり、その一環として作られた。ボンのベートーヴェン記念碑の建設のために多額の資金を提供したりもしている(ちなみに同様に寄付を呼びかけるためにシューマンが作曲したのが「幻想曲 ハ長調」だ)。
そういう攻撃的なことを書くなら、批判を建設的にするために、その「P2Wのゲーム」とは具体的に何を指しているのか挙げるべきじゃないか?
そこを曖昧にして「俺がゴミと思う連中はゴミに決まってるんだよ」の無敵理論で反論しようのない状況を作るのはチキンにも程があると思う。
スレッタ:水星での経験に基づく価値観、社会への考えを回想等で明確に。恋愛・友情・家族重視の背景を描き、行動原理に説得力を。周囲からの酷い仕打ちに耐えたり流されるだけでなく、意思を持って状況打開。母親の真意に疑問を持ち、自分で考え行動する場面を増やし、成長を描く。
ミオリネ:ベネリットグループ総裁の娘としての立場、地球との格差への問題意識を行動・葛藤を通して描写。父親への反発理由、理想の社会像を明確にし、「籠の鳥」脱却。父親の過去の罪への苦悩、答えを出す過程を描き、深みを。
シャディク:戦災孤児としての過去、スペーシアンへの複雑な感情を回想シーンで丁寧に。テロリストへの道を選んだ動機・苦悩を掘り下げ、共感・理解を得る。ミオリネへの恋愛感情以外に、掲げる理想、社会変革への想いを明確にし、「百合の当て馬」脱却。
ラウダ:愛人の子としての境遇を描き、グエルへの依存と劣等感、内面を掘り下げ、行動原理に説得力を。殺人未遂後に平然とするのではなく葛藤し周囲との関係修復することで「小物」脱却、成長を描く。
社会的弱者のステレオタイプ化を回避。個性、状況への葛藤を丁寧に。特に体制反抗キャラの内面を掘り下げ、行動に説得力、共感を得る。
グエル優遇によるアンチ増加のバランス悪い脚本脱却。各キャラに均等にスポットライトを当て、成長・葛藤を描き、バランス良い物語に。
シュバルゼッテ: 「噛ませ犬」脱却、性能を活かした活躍の場を用意。開発経緯・機体特性を説明し、メカとしての魅力を。
デミバーディング: 「輸送機」脱却、戦闘・救助等、多用途性を活かした活躍を。ニカとチュチュの関係性深堀りで、存在意義向上。
敵メカ: 個性的なデザイン、印象的な活躍で、「やられ役」脱却、魅力的に。
クワイエット・ゼロ: 目的、仕組み、影響など物語の根幹に関わる設定については明確な説明を。ノートレットの理想、デリングの思惑、プロスペラの目論見、動機・目的を明確にし、深みと説得力を。現状は無責任。
罪と罰: 罪を犯したキャラには償いの過程を。特にプロスペラやデリングやペイル社CEO等、殺人の罪を犯した大人キャラの責任を曖昧にしない。ラウダの殺人未遂も「無罪放免」でなく、成長する過程を描き、納得感を。
宇宙議会連合: 雑な悪役脱却、成り立ち、内部権力闘争、スペーシアンとアーシアンの関係性掘り下げ、深みとリアリティを。
SF設定: リプリチャイルド等、ご都合展開でなく、物語のテーマ、キャラの葛藤に深く関わる要素として丁寧に。
格差問題: 「背景設定」でなく主軸に据え、深く掘り下げ。シャディク等を通し、不条理、苦悩を描き、問題提起、共感を。現実の紛争やテロを想起させる描写は慎重に扱うべき。安易な対立は問題を矮小化、偏見助長の危険性。
倫理観: 弱者やマイノリティを「不幸」「ヘイトタンク」扱いでなく、尊厳を守り、明確な倫理観を。「信賞必罰」「勧善懲悪」等、普遍的倫理観を示し、若者に正しい価値観を。
社会問題: 多角的視点を提示、視聴者に考えるきっかけを。各キャラの問題への向き合い、答えを丁寧に描き、深みと説得力を。
関係性: 「別れ」だけでなく「共に歩む」関係性も丁寧に。特にスレミオは「結婚」を唐突に描かず、愛の育み過程を丁寧に描き、納得感を。声優への説明不足解消、制作意図を持って関係性を描き、演者にも伝える。
若者向け: 希望あるメッセージを。抑圧、不条理、差別等、困難に直面しつつ、意思で未来を切り開く若者を描き、勇気・希望を。
普遍的テーマ: 「ガンダム」として戦争の悲惨さ、平和の尊さを現代的視点で。GUND技術を「兵器」だけでなく、医療技術としての可能性、人類の未来への影響を深く掘り下げ、深みとメッセージ性を。
説明・配慮: 視聴者の考察任せでなく、必要設定・情報を明確に説明。特に物語の根幹設定、キャラの行動原理は丁寧に説明責任を。声優・視聴者に制作意図を明確に伝え、共有し、理解を深め、一体感を。
若者: リサーチで関心・価値観を反映。特に倫理観、社会問題描写は慎重検討、専門家の意見も取り入れ、細心の注意を。
「水星の魔女」は多くの可能性を秘めた作品だった。上記の改善で、完成度高く、多くの視聴者に愛される作品になったはず。「若者向け」なら、身近な問題、共感できるメッセージを丁寧に、希望を持って描くことが重要。制作側は視聴者への丁寧な説明、明確なメッセージ発信で、理解を深め、多くの共感を得られたはず。批判を真摯に受け止め、より良い作品作りに活かすことが、制作陣の責任。
夢日記になる
米津の架空の曲の元ネタがあることを知る→NARUTOの架空の序盤SF→スポットキャラ同士のカップリングの話をリアルで知る
この流れだった気がするけどつなぎ部分がかなり曖昧なので一度整理しようかと思ったけど無理だったのでそのまま書いていく。
NARUTOの作者が前半でSFを書いていたことをふとおもいだした。
前半のNARUTOはかなり迷走しており、主人公たちは巡洋艦 、なんかナディアのNノーチラスみたいなやつの護衛をしてた。
どうやらペーペーの任務みたいらしくて主人公以外の人たちもシミュレーションっぽいことしてて
そこには偉そうなおじいさんがいてシミュレーションで撃墜されまくってたことに皮肉つきの苦言を言ってた。
その後、ロボットたちが演習している場面へと移る。
その世界は割と荒廃してるのか知らんが、ロボットの残骸が残っていたみたいで、そこの中に修理したのかわざわざ紛れ込ませたのか知らないが動く機体があって、
その残骸付近で演習中に潜んでいた奴らが暴れだした。ミサイルを演習中のロボットに向けて発射してた。あたってはなかった気がする。
さて、ここまで書いてわかるとおり
NARUTOといったが、どうやら主人公たちガン無視の話らしい。なんでNARUTO?
ここからはさらに章限定のキャラ2人(+2)たちに焦点があたっているようだ。
つなぎがおかしいけどもう知らん
米津のPVでラブコメしてて、どちらが先かわからんが小説が存在してた。
後ほど20巻まででていることを知るので多分NARUTOの作者が原作だろう。
そして突然リアルに戻って、私はNARUTOの記憶はあるがその序盤の話がその後どうなったかを知りたくなった。
20巻まであるそうで何故か私は20巻からネタバレを見ていった。
20巻では序盤のカップルの片割れが別キャラとセットで紹介されて、もう片割れはさらに別キャラと結婚してるみたいなこと書いてた
あれ?
19巻は覚えてない
それも鬱っぽい感じで
なんとも言えない気持ちで起床したワイは
「岸本 米津」
とググって夢だったことを知るのだった
なんやこれ
34歳年収700万の高齢貧困弱者男性なんだが高校から付き合ってた元カレが転職してからDVとモラハラするようになり、34歳で別れて婚活を始めた。
友達の友達がマッチングアプリで結婚したと聞いて同じアプリをやってみたけど出会う人みんなどこかおかしい。
ちなみに相手に求める条件は1歳年下〜10歳年上、年収400万以上、離婚歴あってもいいけど子供はいない、タバコ吸わない、できればインドア派(アウトドアな趣味があってもいいけど一緒にやりたくない)
身嗜みに気を使っていれば顔、体型、身長は気にしない。
そんなに理想高くないと思ってたからすぐ相手見つかると思ってたけど私の考えが甘かった。
最初にマッチしたのは40歳の公務員。「結婚相手を真剣に探してます」ってプロフィールもまともで、メッセージも丁寧だったから期待してたのに、いざ会ったら「俺、昔からモテててさー」って自分語り連発。最初は笑ってたけど、3回目の「元カレが~」で完全に冷めた。しかも、食事代割り勘。「俺、平等主義だから」とか言われても、初デートでそれはないだろって感じ。
次は38歳の経営者。会話は盛り上がったけど、話の内容が全部「どれだけ稼いでるか」「どれだけ良い店を知ってるか」って自慢ばっか。最後に「良かったら俺のビジネス手伝わない?」って言われたときは、さすがに鳥肌立った。婚活してるのか、勧誘してるのか、どっちだよ。
36歳の会社員。ゲームとか漫画が好きで趣味がめっちゃ合う!って思ったのも束の間、「休日はほとんど引きこもってゲームしてる」とか言い出して、私まで引きこもりにされそうな未来が見えた。しかも部屋の写真送られてきたけど、めっちゃ汚い。インドア派って言えば許されるわけじゃないから!
41歳の男性。最初の印象は「話が面白いし、リードしてくれるタイプかも」って良かったんだけど、途中から気づいたの。これ、完全に自分のことを舞台俳優か何かだと思ってるやつだって。カフェの店員さん相手に「ここ、僕のお気に入りなんですよ」とか偉そうに言ってて、内心引いた。
37歳、外資系勤務で年収800万、趣味もスポーツと読書で申し分ない。でも、なんか話してて盛り上がらないの。質問しても「まあ普通です」とか曖昧な返事しか返ってこなくて、ついに私も「普通」が口癖になりそうだった。結婚したら何も喋らない生活になりそうで、結局フェードアウト。
35歳、営業職。めちゃくちゃ優しいし、細かい気遣いもできる。デート中も私が話すのを全部肯定してくれる。でも、それが逆に心配になるの。将来、何かあったら全部私が決めることになるのかな?って。しかも、元カレに振り回された話を延々聞かされたときは、正直疲れた。
最後は39歳の男性。最初は普通だったけど、家族の話題になった途端「うちの母が作るカレーは最高」「母が選んでくれたシャツなんだよ」って、母親の話ばっかり。結婚したら、完全に「母と私、どっちが大事?」の争いになる未来しか見えない。
こうやって振り返ると、全員一長一短というか、どっかで「これ無理」ってなるポイントがあるんだよね。
で、何が一番きついって、自分でも薄々わかってんの。「この年齢だし、妥協しないと難しいのかな」って。
でも、妥協したくないじゃん?だって人生のパートナーだよ?下手に妥協してまたモラハラとかされたら、ほんともう立ち直れない。
なんか、理想が高くないって自分では思ってたけど、今の世の中だとそれすら高望みなのかもって思えてきたわ。どうすりゃいいの、これ。
読解力低下問題で出てくる「抽象」と「具体」に似てる気がしていて、
大抵、人の会話って抽象で話してる。空気感とか、アレをアレしてとか。 伝わりにくい時にだけ「例えば〜〜」といって具体を挙げる
ChatGPTの会話って、抽象がなくて具体なんだよね 分析くさいと言うか説明くさいというか
いらないところをクドく掘り下げるじゃん これが読む気をなくすと思う
具体の話なんかしてないんだっつーの
抽象で会話している限り、曖昧だったり、噛み合わないことも出てくるんだけど
それをChatGPTは避けようとしてる
Q.
コラージュはアートとして認められている ファンによるアートはファンアートである ファンが他人の著作物をコラージュして作った作品はファンアートである 異論はありますか?
A.
はい、その結論にはいくつかの異論があり得ます。特に、著作権や作品の定義に関する議論が絡んできます。以下にいくつかの観点を挙げます。 1. コラージュはアートとして認められているか コラージュは20世紀初頭からアートの一形態として認められています(例:パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックによるキュビスム作品)。しかし、アートとして認められるかどうかは、文化や文脈、評価者の価値観に依存します。 「認められている」の範囲が曖昧であるため、場合によっては議論の余地があります。 2. ファンアートの定義 ファンアートは一般に「特定の作品やキャラクターへの愛情や敬意を示すために、ファンが独自に作成した作品」とされています。 重要なのは、元の作品の要素をどのように使用するかです。ファンアートは多くの場合、元の著作物を直接再現するのではなく、オリジナルのアイデアを加えています。 3. 他人の著作物を使用したコラージュはファンアートか 法的観点: 他人の著作物をコラージュする場合、著作権法が関係します。特に、日本や多くの国では「著作権者の許可なしに著作物を使用する」行為は、たとえそれが非営利目的のファンアートであっても著作権侵害と見なされる可能性があります。 芸術的観点: たとえ著作権を侵害していない場合でも、他人の著作物を使ったコラージュがファンアートに分類されるかどうかは、作成者の意図や作品の文脈に依存します。たとえば、元の著作物に対する敬意を示す意図があればファンアートと見なされるかもしれません。 異論の可能性 ファンアートの範囲 他人の著作物を使用した作品すべてがファンアートに該当するわけではありません。敬意や愛情がない場合、単に「盗用」とみなされる可能性があります。 オリジナリティの欠如 ファンアートとして成立するには、一定の創造性や独自性が求められると考える人もいます。コラージュ作品がオリジナリティを欠く場合、単なる「再利用」として評価される可能性があります。 法的問題とファンアートの混同 ファンアートはしばしば非営利目的で制作されますが、それでも法的には著作権侵害となる場合があります。そのため、「コラージュ=ファンアート」と断定するのは、法的な誤解を招くかもしれません。 結論 「他人の著作物をコラージュして作った作品はファンアートである」と断定するには、意図、文脈、法的条件を考慮する必要があります。そのため、場合によっては異論が生じる可能性があるでしょう。
悪質まとめサイトと反AIという、それぞれがバズ実績のある鉄板ネタの掛け合わせ。これ絶対うまいやつ!
…と思いきや、あまりにも曖昧な書き方すぎて、正直なにが言いたいのかすら分かりませんでした。
たしかに嘘松の基本は、検証や訴訟を避けるためになるべく具体的な話を避けるものですが、それでも、最低限のストーリーが成立する要素は残しておく必要があります。
やはりここ最近の嘘松さんは、この「(刺激的な)ストーリーを提示する」という嘘松の根本に対して、やや及び腰になっている節が見られます。
かつての「同級生」ネタがバズった際に、下手に細かい話をしてしまったため、大衆に検証の隙を与えることになったことがトラウマとなっているのでしょうか。
いずれにせよ、ストーリーのない嘘松など麺のないラーメンと同じ。味はすれども満腹感は得られません。
超大人気の作家や絵描き、vtuberなどであれば、具体性ゼロの構ってちゃんな匂わせでも、何があったの~?大丈夫~?という興味関心だけで万バズすることもあり得るでしょうが、失礼ながら嘘松さんはまだそこまでのアカウントではないでしょう。
今は着実に堅実に、「ストーリー」としての嘘松を積み上げていくことが肝要だと、ファンとしては考えます。
…と言っているうちに削除!
こちらはChatGPTです。
タナトフォビア(死への恐怖)から結婚を希望されているのですね。
増田が女性であっても男性であっても、記載された情報によれば、それほど「高望み」ではないと考えられます。
総合的に分析すると、活動を続ければ希望する相手と結婚できる確率は充分に高いと言えます。
しかしタナトフォビアの克服に対して、結婚やこどもを持つことが資する可能性は高いとは言えません。
また、生まれてきたこどももタナトフォビアを抱えていたために死への恐怖が高まるケースが報告されています。
一般的に、死を克服するために子孫を期待する発想は、自他境界が曖昧な幼少期に頻繁に見られますが、時間の経過とともに頻度が急速に低下します。
1998年の臨床研究によればタナトフォビアの解消に最も有効と考えられた因子は、死亡でした。
したがって、死亡することによってタナトフォビアから解放されると考えられます。
一方で死亡は健康に害を与える可能性が非常に高いことから、死亡の前には専門家のカウンセリングなどを利用して十分に情報を収集し、慎重に検討することが必要です。
非モテの中でも、俺は輪をかけて拗らせた、性格の悪いタイプだと思う。
だからこれをもとにモテない男は一般的にタチが悪いなどど早合点しないで欲しい、と最初に断っておく。俺の話はあくまで俺個人に限ったことで、世の中の男性のほとんどは俺よりよっぽどまともなはずなので。
大学時代、気になる女の子がいた。初対面の当初はそこまで気になっていたわけでもなく、大学時代の最初は高校時代の失恋の整理が終わってなかったことや非モテを拗らせていたこともあり、友人として信頼関係を築いていた。
大学生活も後半に差し掛かる頃、恋愛がしたくなり、その友人にアプローチをかけ始める。男女問わず友達がいない俺にとって恋愛対象は限られており、さらに友人としての信頼関係から恋愛に移るタイプだったので、もはやその女の子以外の選択肢はなかった。
しかしなかなか靡かない。デートにはたまに行けるが、それ以上は牽制されつつ、たまに寂しいときには寄ってくるという生殺しのような関係がしばらくあって、俺と彼女は三年生を迎える。
当時学俺は学業もサークルもうまくいかず、女の子の方もまたいろいろとうまくいかずといった状況で、お互いに余裕のない時期だった。そんな時期に性懲りも無く、気の良い脈もないのにちょっかいをかけようとする俺に愛想が尽きてきたのか、女の子も俺に呆れてきたようだ。自然な展開として、彼女とはかなり深刻な喧嘩になり、以降口も聞かなくなった。
彼女の近況は人づてに聞くしかないが、どうやら俺に信頼関係を裏切られたように感じて、憎んでいるみたいだ。そして不思議なことに、その事実でたまらなく満たされた気分になるのである。
そもそも俺は性欲と承認欲求の区別が曖昧で、恋愛関係に期待する幸福が一見して性的なものではない。気になっていた女の子に嫌われたことで、彼女の中では俺は「クソ男」のスタンダードとして彼女の恋愛観や人間観に残るはずであり、それだけで承認欲求が満たされて恋愛的な満足も得られてしまったのだろう。憎しみの強さは好意よりも持続するものだと思うので、むしろこの方が彼女の中に強く残るのである。彼女はこれ以降、俺のようなタイプの男を避けるだろうと想像すると、嬉しい。
また、たとえセックスできたとして、俺は彼女にとっての何になり得ただろうか。過去の恋愛感情はいつかは冷めるもので、現在の男に上書きされる運命でしかない。なぜなら対象とする男が違うだけで、どの好意もそれ自体はすべて同じものだからだ。しかし、俺に関する記憶は、人間関係の苦い思い出として彼女の中に残るはずである。恋愛にすら至らなかった曖昧さのために、完全に同一のものとしてカテゴライズされるべき競合の記憶が存在しない。名前のつく関係性や行為では不可能な位置を彼女の記憶の中に占めることができたのだ。
最近おとなしかったので、嘘松さん体調を悪くされてるのかな…あるいは仕事の関連(謝恩会?)で何かあったのかな…と心配していましたが、堂々のご帰還。安心しました。
例によって治安悪い地元シリーズですが、既存ネタの使い回し、バリエーションに過ぎず、新味が全く感じられません。
具体性が低い曖昧な噂話程度でリアリティも薄く、かつ仮に事実だったとしても、それで?としか言いようがないインパクトの弱さです。
安定してそれなりの反応がもらえるネタは、味がしなくなるまで擦り続けたくなるのも分かりますし、お仕事の方も好調なようなので、若干守りに入っているのかもしれません。
ですが、常に炎上と隣合わせのバズを狙ってこその嘘松というもの。
そろそろ、新たなキャラクターや舞台による完全新規のエピソードを展開して、悪質まとめサイトを連日湧かせる攻めの姿勢を取り戻してほしいものです。
最近、性暴力とその表現に関する話題が次々 Xのタイムラインに流れてきて、この仕様ってなんなの、と思う。思うけれど、その一方で男女(と一旦は括らせてほしい)の性暴力への解像度の差にガックリきてしまい、あまりにもがっかりしたので筆を取る。
わたしは若い女で、比較的フェミニズムに関心がある方だと思う。そして漫画などを好むオタクだし、エロ表現の良さも分かる。
以前、似たような境遇の女の子の友達がいた。ある日、彼女が落ち込んでいたので話を聞くと、どうやら地下鉄で男の人に付き纏われたらしい。彼女は座っていて、向こうは側に立っていた。初めの方は不躾な視線に耐えていたけれどとうとう我慢できず、電車が停車した際に立ち上がって一度外に出、車両を変えようとしたところ着いてきたという。これには慌て、駅の中を逃げまどって何本か電車を見送った後にようやく再び乗車することができた。
しかし、まだ不幸は続く。電車から降りて逃げている途中、気に入りの帽子を落としてしまった。一応は落とし物センターに問い合わせたけれど、万が一帽子が戻ってきても複雑だ、と彼女はこぼす。お気に入りの帽子なのに、これからはそれを見るたびに男の人に追いかけられた嫌な記憶を思い起こすことになるからだ。
この話を聞いたときに、わたしもすごく嫌な気持ちになった。この件は決して事件として表面に浮かぶことなく、ただ個人のなかの嫌な記憶としてのみ残り続ける。帽子を落としたのは彼女の不注意だったかもしれないが、それほどに焦り怖い思いをしたということでもある。お気に入りの帽子で外に出かけるときでさえ常に警戒していなければいけないだなんて、そしてそれが特定の性別に多く降りかかるだなんて、どれほど生きづらい世界なのだろう。
話は変わる。新聞社の事件事故の欄を見ていると、盗撮や痴漢、路上抱きつきなどの性加害事件のあまりの多さに愕然とする。そしてその裏には事件化されなかっただけの事案がたくさんあるし、そして事件化することのできない(例えば先ほどの友達の話のような)嫌がらせはもっと多いのだろう、と想像してしまう。少なくともわたしはそういう場面に出くわしたり話を聞いたりしたことがそれなりにあったので、そんな世界の見え方を想像もしない人を大量にタイムラインで見かけて言葉を失ってしまった。
そして、この身体ひいては性にまつわる体験の差(つまり女の方が性被害にあいやすいこと)がエロ表現の扱いについての分かり合えなさに繋がっているんだろうな、と。そう邪推してしまう。
そもそも、表現というのは社会の情勢や価値観や規範と全く切り離して考えることのできないものだろう。わたしは、〈社会、そしてそこで生きる個人〉と〈個人によって生み出される表現〉とは相互に影響を与え合うものだと思う。例えば表現は社会で生きる人間によって生み出される以上、そこでの価値観の影響を受けるし、反対に、表現が社会や個人に影響を与えたりとある価値観を強めたりすることもあるはずだ。つまり、表現は社会の外側にはいられない。なぜなら社会の中で生み出され社会の中で受容されるものなのだから。そしてだからこそ表現は社会にとって大きな意味を持ったり、大きな役割を担ったりする。
フェミニストは二次元と三次元の区別がつかない。あるいは、自他境界が曖昧すぎてただの絵に自己を投影している。エロ表現を忌避するのは過度な潔癖であり、お気持ちでしかない。こういう批判がある。フェミニストの中ではもはやエロ絵を燃やすことが目的化されている。そうしてコンテンツの邪魔をする。こうも言われている。じゃあエロ表現は悪なのか。それともエロ表現を悪とすることが悪なのか。
ポルノグラフィ(エロ絵や漫画、アダルトビデオなどをまとめてこう呼んでみる)は現実の性犯罪を助長させるのか、反対に妄想の中で欲望を満たすことで抑止に繋がっているのか。この議論は散々されてきたことと思うが、そうではないやり方でエロ表現が問題視されていることの妥当性を示したいと思う。
ここで重要となるのが、先ほど述べた、表現は社会の外側には出られない事実である。つまり、エロ表現がどの程度実際の性犯罪者を加害へと駆り立てたのかは分からない、分からないのだけれど、少なくとも今が、性犯罪や性加害が女性にとって身近な脅威である社会、なことに間違いはない。つまり、そのように性加害が蔓延している、その上法律や公権力による抑止力にもあまり期待できないと感じている人が相当数いる社会で、性加害描写を含むエロをエンタメとして手軽に発信し、楽しむのは一体どうなの、ということである。ここで注意したいのは、エロ表現を楽しむのが一概にダメだ、悪だということではないことだ。序盤に性暴力にしぼった書き出しをしてしまい、例えば倫理的に性暴力をエロコンテンツに含むべきではないなどという意見も当然あるだろうからややこしくなったと反省しているが、一応わたしの意見を述べておくと現実の被害者がいない限りは、そして実際の事件を下敷きにするなどしていなければ、性暴力をエロの表現のひとつとして楽しむことも認められるべきだと思う。ただし、そのためには実際の性暴力が人々にとって遠い脅威となり、表現としての性暴力は受容できるけれど現実では絶対にしていけない行為だ、という認識が強く世間に浸透していなければいけないと思う。つまり、表現は社会に影響を与えたり与えられたりする以上、行為Aを美化したり単純な快として描くことで人々を脅かすようなチャレンジングな表現は、その表現が発表された程度では揺るがされない強固な価値観、すなわち行為Aは絶対いけないよね、という価値観が広まった社会でしか受けつけられないのだと思う。
また、そういうチャレンジングな表現で社会の価値観を問うたり挑発したりすることも表現の役割ではあるのだけれど、その場合はそれによって生じる反発、批判を受け止める責任が表現者にはあるし、少なくともそのようなチャレンジングな表現だと理解して発信する必要があると思う。が、現状のエロ表現の現状、例えば痴漢や無理やり、分からせなどという言葉が単なるエロいものとして使われたり、ヒロインへのセクハラが当たり前のように行われたりするような現状は、これらが現実では特定の人々にとって脅威となる危うい表現であることを自覚した上で発信を行なってきたものとはとても思えないし、そしてこれがチャレンジングな表現とみなされるほど、残念ながら社会の価値観は醸成されていない。
ちなみに。こういう話では必ず、殺人も現実では大罪なのだから公にして良い表現として認められなくなるじゃないか、などという意見が出てくる。これもわたしの理屈で言えば、殺人がごく身近になった社会では殺人の表現の扱いには当然慎重になることと思うので、今現在殺人をエンタメとして気安く受容できているというのはそれだけ殺人が身近な存在ではなくかつ殺人が絶対にいけないことだという考えが一般に共有されている社会だからなのではないか、と考える。(もっと言うと殺人表現をエンタメ化していると言っても多くは人を殺すことを話のメインとして肯定的に描いているわけではないだろうから、エロをメインに描き性暴力などについてもその罪をなあなあにしがちなエロ表現とは単純には比較できないのだけれど。例えば、快楽殺人者の目線で人を刺すときの感覚の快感、その殺し方の手法などを詳細に描く作品があったらそれなりに物議を醸しそうなものと思うし)
同じように、戦闘シーンを快として描く表現は暴力が基本的に日常の外にある社会だからこそ許容されるし、ヤのつく職業の社会を描くことも、ヤの根絶が共通認識で目指されてきた社会だから可能なのではないか。
つまり、エロ表現を自由に描くためには、絶対に性暴力、性加害はいけないと人々が共通に認識し、実際の事件に対しても反発をしていかないといけないのだ。よく、表現の自由戦士と呼ばれる人たちは表現と現実とを切り離して考えろ、と言うが、先に言った通り表現は現実社会の外には出られないのであり、そうである以上表現と社会とは全く無関係、無影響だと無理筋な主張をするのではなく、現実では絶対にいけない、だがゾーニングを行った上で表現としては受容することができる、とそのような形で〈表現と現実社会の区別〉をつけるべきではないか。
恐らく、フェミニストでエロ表現に苦言を呈している人たちはまず性加害が絶えない社会を嘆き、その中でエロ表現を無責任に(ゾーニングが不十分、あるいはそこで表現されていることが現実においては加害にあたるという自覚がないなどして)発信することを批判してきた。一方で、エロ表現を好む人からしてみれば、恐らく当人たちはそのような犯罪を実際に犯したわけではないのであり、つまり何も悪いことをしていないにも関わらず理不尽に絡まれ、規制されそうになっている、と感じることだろう。ここに、現実社会の性被害への解像度の差からくる認識のズレが発生し、多くは不毛な論争になってしまっていると感じる。このズレを認識することが、現実にある性加害へNOをつきつけそしてマニアたちがエロ表現を楽しめるような成熟した社会にするための第一歩なのではないか。
補足:Xではエロ表現の話題が男女論に持ち込まれること、また表現規制うんぬんはフェミニズムの文脈が強いことから男女論のようにして書いてしまったが、もちろん男女問わず性加害を行うやつもいるし被害に遭う人もいるし、そしてそれら全てにNOを突きつける社会になってほしいとわたしは思う。ただ男女で比較すると女性の方が残念ながらそういう目にあうリスクが高いのであり、その解像度の差がエロ表現に対する見え方の違いに繋がっているのでは、と思い、今回はこのように男女論のように見える形で文章を書いてしまった。これが新たな男女の対立を呼ぶということは決してわたしの本意ではないと、述べておきたい。