はてなキーワード: 事実上とは
あまり言うとナニカグループみたいになるからあくまで観測範囲内の傾向の話なのですが、1.女性専用スペースの事実上無効化 を推進してる人が2.ペドフィリア差別反対、3.セックスイズワーク をセットで推してるのは本当に、見ます(見ますよね……)
「すべての差別に反対」の蓋を開けたら出るやつ……
セックスワークイズワークか
・ そこから反差別パッケージとしてインストール&連帯したけど潮目見てスッと記憶ごとアンインストールしたネットユーザーの人
・ なんでもいいアンフェぶつかりおじ
などの濃淡はある 個人の感想です
どう転んでも訴えることは論理的には可能(キチガイは何でもする
でも、セクハラと訴えられても
見捨てた時に勝てる見込みはセクハラで訴えられた時に勝てる見込みより、はるかに低いです。
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別に殺されたようなもの。
「仮想通貨はもう終わった」と、ここ数年で仮想通貨界隈に興味を持っていた人なら誰しも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。ビットコインをはじめとした仮想通貨の価格は、2017年末の爆発的な盛り上がりや2021年の再ブームを経て、乱高下を繰り返してきた。そのたびに高騰を期待して飛びついた投資家が痛手を負い、あるいは莫大な利益を得たという劇的なニュースがメディアで取り上げられてきた。しかし、近年では大口投資家の撤退や規制強化の影響もあって、「仮想通貨バブルは崩壊した」「もう仮想通貨で儲かる時代は終わった」といった声が再び強まっている。だが、本当に仮想通貨は終焉を迎えたのだろうか。それとも、新たな局面に向けた再編が進んでいるのだろうか。本稿では、仮想通貨の価格乱高下の背景や、利用者が幻滅に至った要因、そして今後の可能性について考察してみたい。
まず、仮想通貨市場が大きく盛り上がった要因として注目されるのが、ビットコインの価格高騰である。2017年のいわゆる“ビットコインバブル”は、多くの投資家やメディアの関心を引きつけ、一夜にして億万長者を生み出したという話が世間を駆け巡った。当時、ビットコインの価格はわずか数年の間に何十倍もの値上がりを見せ、「仮想通貨さえ持っていれば誰でも儲かる」というような“仮想通貨神話”が広まり、一種の狂騒状態になったことは記憶に新しい。しかし、その後には一転して価格が大幅に下落し、多くの投資家が資金を失った。この極端な値動きが「バブル」という表現を裏付け、仮想通貨に対する世間の印象は「儲かるかもしれないが危険すぎるもの」へと変化した。さらに、2021年にはテスラのCEOであるイーロン・マスク氏の発言や、コロナ禍での金融緩和政策により、ビットコインをはじめとする仮想通貨に再び資金が流入。驚異的な価格上昇を見せたものの、その後の金融引き締めや各国の規制強化を受け、またも急落するというシナリオが繰り返された。
一方で、こうした価格変動だけではなく、詐欺的なICO(Initial Coin Offering)やハッキング事件、マネーロンダリングへの利用など、仮想通貨が抱えるさまざまな問題が投資家の信頼を損ねた要因ともなった。特に、知名度の低い仮想通貨のプロジェクトが「世界を変える新技術」とうたって資金を集めたものの、開発が停滞したり運営者が失踪したりするケースは後を絶たない。こうした状況を目の当たりにした投資家や一般のユーザーにとっては、「仮想通貨は結局、詐欺や投機の温床ではないのか」といった疑念が強まるのも無理はない。また、仮想通貨の送金やウォレット管理のための仕組みを理解することが難しいという点も、初心者には大きなハードルとなってきた。その複雑さは一部で「自己責任」という形で美化されがちだが、実際にはセキュリティの知識や運用リスクへの意識が低いまま参入した場合、ハッキングやパスワード紛失などで資産を失う危険性が高い。実際に被害に遭った人々のニュースを見聞きすると、仮想通貨に対して「難しくて危ないもの」というイメージが固まってしまうのも仕方がないだろう。
さらに、国や金融当局による規制強化の動きも「仮想通貨終わった」と言われる一因として挙げられる。特に、中国のようにビットコインのマイニングを事実上禁止したり、大手取引所に対して厳格な規制を課したりする動きは、マーケットに大きなショックを与えた。また、アメリカでは仮想通貨関連の事業に対して納税義務を徹底する法律が整備され、これまでグレーゾーンだった税務処理をきちんと行わなければならない流れが急速に進んでいる。日本でも、金融庁が仮想通貨交換業者を監視・登録制とするなど、利用者保護の観点から取り締まりや検閲が厳しくなった。これらの規制強化は、一見すると仮想通貨にネガティブな影響を与えるように思われるが、実は健全な市場を育てるためには避けて通れない過程だという見方もある。詐欺プロジェクトやマネーロンダリングなどの不正を摘発し、利用者が安心して取引できる環境を整えることは、仮想通貨の長期的な発展には欠かせない。しかし、過度な規制によってイノベーションの芽が摘まれるリスクも否定できず、ここにはバランスの難しさがある。
次に、仮想通貨が「終わった」と言われる背景には、NFT(非代替性トークン)ブームの盛衰や、メタバース関連銘柄の失速も大きく影響している。2021年前後には、デジタルアートやゲームアイテムをNFTとして売買し、天文学的な価格がつくケースが相次いだ。多くの企業やクリエイターがこぞって参入し、「これからはNFTの時代だ」と大々的に報じられた。しかし、NFTマーケットの熱狂は長くは続かず、投資対象としてはリスクが高すぎるうえに、実際の利用用途が限定的であることが次第に明らかになった。加えて、メタバースも同様に、2022年頃にはFacebook(現・Meta)の社名変更をきっかけに大ブームが起きたものの、実際にビジネスとして収益を上げられる企業はごく一部に限られ、その多くが苦戦を余儀なくされている。こうしたNFTやメタバースの失速が「Web3」や「分散型の未来」といったキーワードに対する期待感を急速にしぼませ、結果的に「仮想通貨なんてもう流行らない」という声が再燃しているのだ。
また、環境への配慮も無視できない課題となっている。ビットコインのマイニングには膨大な電力が必要とされ、その電力需要がCO2排出量を増加させるとして批判されてきた。近年ではイーサリアムがコンセンサスアルゴリズムをプルーフ・オブ・ステーク(PoS)に移行するなど、省エネルギー化の取り組みを進めているプロジェクトもあるが、依然として「仮想通貨は環境に悪い」というイメージを払拭しきれていない。世界的に脱炭素や再生可能エネルギーへのシフトが加速するなかで、この問題をクリアにできなければ、仮想通貨は社会的な評価を高めることが難しいだろう。投資家としても、ESG投資を意識するファンドや企業が増えるなか、環境負荷の大きなビットコインには投資しにくいという声が高まっている。
もっとも、これらの要因をもって「仮想通貨は終わった」と結論づけるのは早計かもしれない。なぜなら、価格の乱高下や投機的なブームが落ち着いたあとにこそ、ブロックチェーンや分散型台帳技術の“本質的な価値”が見極められるからだ。実際、金融サービスのデジタル化が進むなかで、国や大手金融機関が中央銀行デジタル通貨(CBDC)の発行を検討する動きは続いている。これは、仮想通貨の根幹にあるブロックチェーン技術が“使えない”わけではなく、むしろ国家レベルでの採用可能性が議論されている証左でもある。また、分散型金融(DeFi)の領域では、スマートコントラクトを使った新しい金融サービスが着実に開発されており、既存の銀行システムでは実現が難しいとされてきたサービスを提供し始めている例もある。こうした動きは、仮想通貨の投機的な側面とは一線を画し、技術的・社会的な価値を追求する流れといえるだろう。
ここで言えるのは、「仮想通貨が一度ブームになって、その後価格が暴落するからといって、その技術やコンセプトが消滅するわけではない」ということだ。インターネットの普及初期にも、“ドットコムバブル”と呼ばれる株式市場の大暴落が起きたが、それを経てネット企業が淘汰され、生き残った者たちがその後のIT産業をけん引してきたという歴史がある。ブロックチェーン技術についても、同様のプロセスを辿る可能性は十分に考えられる。つまり、“仮想通貨バブル”の崩壊を機に詐欺的なプロジェクトが淘汰され、セキュリティ面や実用性が高い技術だけが生き残り、社会インフラとしての地位を確立していくシナリオがありうるのだ。実際に、世界各地でブロックチェーンを使ったトレーサビリティシステムや、分散型のデータ管理システムなどが実装され始めている。そこでは仮想通貨の“価格”よりも、トラストレス(相手を信用しなくても取引できる)で改ざん耐性の強い仕組みによるメリットが評価されている。
では、今後仮想通貨やブロックチェーンはどのように進化していくのだろうか。おそらく、投資の対象としてはこれまでほどの激しいブームは起こりにくくなる一方で、緩やかな形で日常生活に浸透していくと考えられる。たとえば、デジタル通貨やウォレットによる支払いが徐々に普及し、銀行口座を持たずともスマートフォン一つで送金や決済ができる社会が現実味を帯びてくる。SNSやオンラインサービスのログインやアイデンティティ管理にブロックチェーン技術が活用されるケースも出てくるかもしれない。そうなれば、従来の仮想通貨=投資対象というイメージが薄れ、あくまで「便利なインフラの一部」として受け入れられていく可能性がある。もちろん、それにはユーザーが技術を意識せずに使えるようなUI/UXの改善や、各国の法整備、国際的な合意形成が必要だ。しかし、より実用的で幅広い人々に恩恵をもたらす技術としてブロックチェーンが発展していけば、仮想通貨が“終わった”と思われた先に、実は新しい常識が形作られているかもしれない。
結論として、「仮想通貨終わった」という言葉がメディアや投資家の間でささやかれる背景には、価格の乱高下や詐欺被害、規制強化、環境への批判など、さまざまな要因が複雑に絡み合っていることが挙げられる。確かに、2017年や2021年のような爆発的な“仮想通貨バブル”は終息し、市場全体の熱狂が冷めた印象はあるだろう。しかし、それと同時に、ブロックチェーンの持つ革新的なポテンシャルまでもが失われたわけではない。むしろ、過度な投機マネーが市場から抜けることで、本来の技術的価値や実用性に目を向けやすくなるという見方もできる。
ネット業界の歴史を振り返っても、バブル崩壊を経てこそ本質的な利用価値が磨かれるという事例は枚挙に暇がない。ブロックチェーンの普及も同じような道筋を辿る可能性は高いだろう。詐欺まがいのプロジェクトが淘汰され、信頼性と実績を備えたプロダクトが浸透していくプロセスこそが、この先の仮想通貨・ブロックチェーン業界の“成熟期”を形作るのではないか。もちろん、その間には法的な課題や技術的問題、社会的理解の不足など、乗り越えるべきハードルがまだまだ存在する。だが、「仮想通貨なんてもう古い」という決めつけだけでは、新しいテクノロジーや社会変革の萌芽を見落としてしまうかもしれない。
結局のところ、「仮想通貨終わった」という声は“単なる終焉”を意味するものではなく、“新たな段階への移行”を予感させるものだ。投資対象としてだけではなく、社会インフラとしての仮想通貨やブロックチェーンの活用例が増えれば、私たちの日常における“当たり前”が変わっていく可能性は充分にある。これまでのような一攫千金の物語が表舞台を賑わすことは減るかもしれないが、同時に詐欺や投機目的のプロジェクトも萎縮していくことで、技術としての真価を発揮する土壌が生まれるだろう。あくまで冷静に長期的な視点をもって、ブロックチェーン技術とその社会的役割を見極めることこそが、私たちに求められているのではないだろうか。
今後も仮想通貨が“終わった”と言われる局面は幾度となく訪れるだろうが、そのたびに生き残ったプロジェクトや新たに生まれる技術が、社会にどのようなインパクトを与えるかを見逃してはならない。乱高下やバブルの崩壊は、あくまで通過点の一つであり、次の発展を芽吹かせる土壌づくりでもある。もし仮想通貨が本当に終わったのであれば、いまさら各国の中央銀行がデジタル通貨を検討したり、大企業がブロックチェーン技術を研究したりする理由はないはずだ。したがって、「仮想通貨終わった」と言われる今日この頃だからこそ、過剰な熱狂に流されることなく、技術の本質や長期的なビジョンをしっかりと見据えることが重要である。そして、もし実際にこの領域が再び脚光を浴びる日が来るとすれば、それは表面的な値上がりではなく、実用的な側面や社会インフラとしての定着が評価されるタイミングであるに違いない。私たちはその日を、“仮想通貨の第二幕”として迎えることになるのだろう。
複式学級にはギリギリならなかった。
わかるのが楽しかったし、わかる奴には次々と新しい課題を出してくれるのも楽しかった。
算数の授業にはなぜか二人の先生がついており、わかる子は難しい問題を投げ、わからない子には先生がつきっきりで教えていた。
俺の他にも勉強がやたらできる奴がいて、そいつと競争したり、一緒に問題を解いたりもしていた。
事実上、少人数教育と習熟度別の学習が実現できていたわけで、教育環境はド田舎にしてはかなり良い方だったと思われる。
今思えばそのおかしさを笑われていたこともあったように思うが、当時の俺は自分が笑われていることに気づいていなかった。
それでも概ね楽しく過ごせていたから、クラスメイトたちはとても優しかったのだと思う。
やたら気がよく優秀な奴の多いクラスだった。
マイルドヤンキーな悪友は立派な父親になり、アスペの俺にまで優しくしてくれた子たちは県内の有名進学校に進み、俺と算数の出来を競っていた奴は旧帝大に行った。
中学まで俺は彼らに守られていたために大過なく成長することができたが、高校からはそうはいかない。
地元には高校などなく、進学するには町を出る必要があったからだ。
受験とか面倒くさいなあと思っていた俺は、実家からギリギリ通える普通科高校に通うことにした。
特に対策などする必要がなくて楽だったし、勉強などどの学校でやっても同じだと思っていた。
最初は俺も勉強をがんばっていたが、部活で人間関係に悩み、学校をサボりがちになった。
それでも最低限勉強はこなし、結果的に都内の有名私大に進学することになった。
同級生たちは誰も俺がそこに進学することを知らなかっただろうが、担任の先生は喜んでくれて、それに救われた気持ちになったことを覚えている。
親も喜んでくれた。
後で聞いた話では、父親は昔、大学に行きたかったけど諦めた過去があるらしかった。
さて、電車にほとんど乗ったこともないような田舎者が東京に行くことになったわけだが、世界屈指の巨大ターミナル駅に降り立っても、特に感慨は覚えなかった。
元々引きこもり気質だったことに加え、ド田舎育ちのため、街に対する感性が育っていなかったためだと思う。
揺られながらぼーっと街並みを眺めるのが楽しかったし、それに飽きたら音楽を聞いたり本を読んだりできるのもよかった。
青春18きっぷの存在を知ってからは、電車で帰省するのが数少ない楽しみになった。
寮の人たちはとても面倒見がよかった。
先輩は困っている後輩がいないかよく気を配っていたし、同期も俺を友人として認めてくれていた。
寮を挙げてのイベントもいくつかあり、その度に寮生たちは大いに盛り上がっていて、俺も仲間外れにせずに誘ってくれた。
しかし、当時のアホだった俺は、他人の好意を鬱陶しく思い、その親切やありがたさを浪費していた。
むしろ俺は、周りの寮生たちのあまりの優秀さに打ちのめされていた。
相部屋になった同期は高校の頃にTOEICで800点近い点数を、向かい部屋の奴は満点を取っており、これからは中国語の上級試験に挑みたいと言っていた。
IPAの高度試験をいくつも突破していて、大企業から既に目をかけられている人もいた。
俺はライバルの少ない田舎で、多少勉強ができるだけで得意になっていた愚か者だと、嫌でも気付かされた。
それからは勉強をがんばる気にもなれず、昔から好きだったインターネットに逃避するようになった。
はてな匿名ダイアリーに出会ったのはこの頃だった。
手頃な文量で、知らなかった世界がおもしろおかしく、生々しく書かれている文章群がとても魅力的に思えた。
インターネットがこんなにおもしろいのだから、現実世界での失敗などどうでもいいと思うようになった。
寮を出てからアパート暮らしを始めると、さらに体調が悪くなり、布団から起き上がれなくなった。
何の前触れもなく涙が出てくることもあった。
そうやって何も成し遂げられないまま、大学生活はあっという間に終わってしまった。
このような状態でまともに働けるわけがなく、就活もろくにしなかった俺は、お情けで大学を卒業させてもらった後、実家に逃げ帰った。
追い立てられるようにハロワに行き、そこで紹介されたメーカーに入社することになった。
なぜ受かったのかは謎だ。
その会社はド田舎ではあったが、なぜか業界トップの企業らしく、国内は固め終えたのでこれからは海外に殴りむぞという意気込みで拡大を続けていた。
ただし俺の上司は別だった。
ねちっこくミスを咎めてくるし、自分の失敗を咎められると怒り出すし、俺によくしてくれた先輩はこの上司に愛想を尽かしてやめていった。
主治医からは鬱病と診断され、しばらく休職し、部署異動することになった。
異動先の上司は俺を買ってくれていた。
入社試験の点数がよかったことと、プログラミングができることが気に入っていたらしい。
いろいろ仕事を振ってもらったが、仕事量に耐えきれず、結局逃げるように会社をやめた。
部屋には尿の入ったペットボトルが何本も溜まっていた。
後に精神科では双極性障害とASDと診断され、障害者手帳を取得した。
どうにか体が動くようになった今は、障害者雇用のパートで農業をしている。
誰でもできる仕事で給料も少ないが、職場のおばちゃんたちは優しく、会話も体を動かすこともおぼつかない俺にいろいろ世話を焼いてくれる。
どのような形であれ、職場の一員として一緒に働かせてもらえることはとてもありがたいことだと思う。
また、病気の俺を支えてくれて、今の仕事を応援してくれている両親には感謝しかない。
でも、せっかく俺を大学まで行かせてくれたのに、このようなザマになってしまって申し訳ない。
本当にごめんなさい。
ASDの俺を受け入れてくれた小中学校時代のクラスメイト、孤立していた俺を気にかけてくれた高校時代の担任、大学の寮のみんな、会社の先輩と異動先の上司、家族、俺は迷惑を掛けてばかりでしたが、あなたたちのお陰で何とか生き延びることができました。
あなたたちがいなかったら俺の人生はさらに悲惨なものになっていたはずです。
俺にできることはほとんどありませんが、あなたたちの人生がより幸せなものになることを祈っています。
今まで本当にありがとうございました。
なんで成人式廃止論が出てこないのだろう。とっくに形骸化して30年は経っているというのに。
第1に、一時期よりも減ったものの、多くの会場でヤンキーが馬鹿騒ぎするためのイベントと化している。
第2に、女性が十数万もする振袖を着用することが必須となっており、貧乏な人は事実上参加できないものになっている。
第3にそれと関連するが、服装による男女のジェンダー差が明確化されていて、旧態依然のジェンダー規範を再生産している。
第4に、中高時代にいじめにあったり友達がいなかった人は、「参加できなかった自分」への強烈な劣等感を与えるイベントになっている。学校で落ちこぼれた人間に、その落ちこぼれた事実を改めて突きつけて叩き落とす残酷なイベントを税金で開催するなよ、と本当に思う。
スマートフォンが主流になって久しい。街中を見れば老若男女関係なく、誰もが同じような長方形の端末を手にしているし、電車に乗ればみんな下を向いてSNSやらゲームやらに没頭している。いや、それ自体を否定するつもりはないんだ。だけどさ、本当にみんながスマートフォンを必要としているのかなって思うことはある。いまやスマホの機能はパソコンをも凌ぐものになってきているけど、それって果たして全員にとって必要不可欠なのだろうか。そもそもガラケーで事足りる人って、意外と多いんじゃないかと思うんだよね。
そりゃ、便利だよ、スマホは。アプリを入れれば何だってできるし、SNSだって投稿が簡単にできる。動画も地図もあれこれ全部一つの端末に詰め込んで、ポケットに入れて持ち運べるなんて、かつてのパソコン時代やガラケー時代から比べたら夢のようだ。それに加えて大容量のデータ通信が可能なプランを契約すれば、外でもガンガン動画を観られるし、リアルタイムでのやり取りもスムーズ。そういう意味では、確かにスマホはすごい。でも、その“すごさ”を真に活用できている人がどれほどいるのかは、ちょっと疑問だ。
たとえば、メールと電話、それにちょっとしたSNSやブラウザ検索くらいができれば十分という人は少なくないはずだ。その程度の用途なら、別にガラケーでもいいんじゃないの? と思うわけ。必要最小限の機能を備えていれば、そもそも「ネットが重い」「アプリが落ちる」「OSがバージョンアップできないからアプリが使えない」といった煩わしさとは無縁だし、バッテリーも長持ちする。なんせガラケーなら2〜3日は充電しなくても平気だ、なんてこともザラにあるからね。スマホだと日常的に毎晩充電しなきゃいけないから、その手間を考えるとガラケーの利点もやっぱり大きい。
もちろん、スマホにはカメラ性能が高いとか、決済機能があるとか、生活を快適にするいろいろな便利機能が詰まっている。でも、カメラだって一眼レフやデジカメを持っている人からすれば、スマホカメラじゃ満足できないこともあるはずだし、逆にスナップ写真くらいしか撮らない人ならガラケーのカメラで十分事足りる。決済についても、スマホ決済が便利なのは間違いないけど、クレジットカードや交通系ICカードがあれば大抵の場所で用は足りるんだよね。結局、なんでもかんでもスマホに集約して「スマホがないと生活できない」状態になるのは少し危うい気さえする。
思えば、ガラケーと呼ばれる前の時代は、みんなが当たり前にあの二つ折りやスライド型の携帯電話を使っていたわけで。それでも社会は動いていたし、人間関係だってきちんと成り立っていた。実際、あの頃は電話とメールだけでコミュニケーションが十分成立していたし、インターネットをしたいならパソコンを使えばよかった。そして何より、ちょっとしたネット閲覧や着うた・着メロのダウンロードには、ガラケー専用のサイトが用意されていたから、それを不便だと感じていた人は今ほど多くなかったんじゃないかと思うんだ。
そう考えると、やっぱり「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」と思うこともある。だって、通話とメールが使えれば連絡は取れるし、カメラも簡易的な撮影には不自由しない。さらに、多くのガラケーにはストラップを付けられる穴があって、そこにお気に入りのキャラグッズをぶら下げてアピールする楽しみ方なんかもあった。いまのスマホには、そういう「ケータイの個性化」を楽しむ余地が薄い気がするんだよ。スマホケースやカバーで差別化するっていう人もいるけど、昔のようにジャラジャラとストラップをぶら下げる感じとは違うんだよな。
ときどき言われるのが、「いやいや、いまの世の中はLINEでのやり取りが必須だから、ガラケーじゃ不便でしょう」という意見。でも、それって本当に全員が必要かな? たしかに仕事やサークル、あるいは家族・友人のグループチャットで情報を一斉共有したり、スタンプでカジュアルにコミュニケーションしたりするのは楽で便利だ。でも、電話やメールじゃダメなの? 昔はそれでやりくりしていたわけで、無理にLINEに縛られる必要はないんじゃないかと思う。もちろん「いや、仕事でどうしても必要なんだ」っていう人はいるだろう。そういう人はスマホを使えばいい。でも、誰もが「LINE至上主義」に合わせている現状に、ちょっと違和感を覚えるのも事実だ。
もっと言えば、「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」と言いたくなることだってある。そう、ガラケーにはiモードという独自のネット接続サービスがあって、昔はあれで天気予報やニュースサイトを見たり、ちょっとした調べごとをしたりしてたわけだ。いまはさすがに対応サイトが減ってしまったかもしれないけど、それでも基本的な情報収集ならできなくもない。「スマホじゃなきゃネットができない」わけじゃないんだよな。
とはいえ、世の中にはガラケーを愛用しつつも、必要最低限の用途だけスマホを使う「2台持ち」という人もいる。スマホは持っているけど通話はガラケーでする、みたいなスタイルだ。これってわりと理にかなっていて、ガラケーは通話用にバッテリーが長持ちし、スマホはSNSやアプリ専用と割り切ると、余計な通知に煩わされることも減る。料金プランをうまく選べば、そこまでコストも高くならないから、案外「スマホ1台より2台持ち」のほうがストレスフリーという人だっているわけだ。
ただ、「ガラケーとスマホを両方持つとか、管理が面倒くさい」という声もあるだろうし、そもそも二台持ちが一般的になると、街中で両手に端末を持って歩くようになるのかな? なんて想像すると少し滑稽でもある。そこまでしてガラケーにこだわらなくてもいいじゃないか、という意見があるのも理解できる。でも、一部のガラケーユーザーにとっては、あの折りたたみの感触や物理ボタンの打ちやすさ、そして着信音を選ぶ楽しみなんかが、今でも捨てがたいんだろうなって思うんだ。
ガラケーの物理ボタンは、スマホのタッチスクリーンにはない魅力があると思う。画面を見なくても、手探りでボタン操作ができるし、押した感触がハッキリしている。メールを打つにも、慣れればかなりのスピードで文字入力ができるから、指先が画面を飛び回るスマホよりも誤操作が少ないという人もいる。実際、ガラケー世代の人間からすると、あのテンキー入力のほうが「身体に染み付いている」感覚があって、スマホのフリック入力がどうにも馴染まないなんて話もよく聞く。だから、使い勝手という面では、ガラケーを「機能が少ない」と一蹴するのは早計だという気がする。
また、ガラケーには折りたたみやスライドなど、端末自体の形状にバリエーションがあった。そのせいか、端末のデザインにも個性が感じられたものだ。カメラ部分の形が凝っていたり、アンテナが伸びるタイプだったり、質感も金属やプラスチックなど機種ごとに違う。自分の好みや使いやすさに合わせて端末を選ぶ楽しみがあった。スマホは基本的に「大きなタッチ画面がどんっとある長方形」という形状が大半だから、デザイン的な違いはあっても機能面はほとんど似たり寄ったり。文字通り“画一化”している印象が強い。
カバーやケースを付ければ見た目も変えられるし、画面上の壁紙やアイコン配置で多少の個性を演出できる。でも、ガラケーの時代にあったワクワク感、たとえば「次はどんな機種を買おうかな?」みたいな楽しさは、スマホ時代とはちょっと違う。「新作スマホが出た」と言われても、画面のサイズやベゼルの細さが変わったくらいで、そこまで大きくは変わらない印象がある。もちろんカメラ性能やCPUの進化もあるんだけど、日常的にそこまで性能を使いこなす場面がない人にとっては、あんまり魅力を感じない場合もあるだろう。
それに、スマホはついつい「時間泥棒」になりがちだ。SNSをちょっと見るだけのつもりが、いつの間にか1時間も経っていたとか、寝る前にスマホを触っていたら気づけば深夜になっていたなんて話は、ザラにある。ガラケーだと、動画視聴やSNSのタイムライン閲覧はそこまで快適とはいえないぶん、長時間だらだら触り続けるということはあまりない。そもそも画面が小さいから、がっつり見るには不向きだし、ネット料金が従量制だとしたらむやみに使えないという制限がある。そのおかげで、自分の時間を無駄にしすぎない、という利点すら感じることがある。
「ガラケーの時代には戻れない」とよく言われる。確かに通信インフラや社会の仕組みがスマホを前提とした形に急速に変わりつつあるから、一人で頑固にガラケーを使い続けるのは不利かもしれない。銀行のアプリや役所関係の手続きなんかも、スマホ前提で設計されていたりして、ガラケーだけでは対応できないことも増えている。そこはちょっと残念なところだ。時代の流れに逆行するとなると、どうしても不便を甘受しなきゃいけない部分が出てくるのは仕方ない。
でも、その不便を受け入れてでも「ガラケーだけでいい」と思う人がいるのは、やっぱりそれなりの理由があるんじゃないか。何より、常に最新のSNSやアプリの動向を追う必要がないし、スマホをいじりすぎて疲れることも減る。コミュニケーションや情報収集に追われないから、心に余裕が生まれるかもしれない。実際、スマホをやめてガラケーに戻した友人が、「今までSNSやブラウザの更新ばかり気にしていた時間を、ほかのことに使えるようになった。すごく楽になったよ」と言っていた。まさにデジタルデトックスの効果だろう。
さらに言えば、ガラケーを持っていると周囲から興味を持たれたり、「まだガラケー使ってるんだ」と話のネタになったりすることもある。ひと昔前には、最新のスマホを持つことがステータスのように扱われていたけれど、いまはみんなが同じようなスマホを持っているから、逆にガラケーのほうが個性として面白がられるんだ。「なつかしい!」なんて言われると、そこから会話が広がったりして、それはそれで悪くない。
もちろん、ガラケーの提供を続けるキャリアもどんどん減っているし、新品の端末を購入するのは難しくなってきている現実がある。将来的には4G・5Gの通信環境に完全移行して、ガラケー時代の通信方式が廃止される可能性もある。そのときは、事実上ガラケーが使えなくなるかもしれないし、いわゆる「ガラホ」と呼ばれる、ガラケー風のAndroid端末に移行するしかない時代が来るかもしれない。とはいえ、今すぐに「ガラケー文化がすべて滅びる」わけではないだろうし、それまでガラケー愛好家はしぶとく生き残るはずだ。
結局、「スマホとガラケー、どっちがいいか」っていうのは、その人の使い方や好みによる。スマホが便利で手放せないという人もいれば、ガラケーのシンプルさがちょうどいいという人もいる。世の中にはいろんなライフスタイルがあっていいはずだから、無理に合わせる必要はないと思う。誰かが「スマホを使ってないなんて遅れてる」と言ってきても、それを「押し付けがましいなあ」と聞き流すくらいの心の余裕があればいい。結局、自分が何をしたいかが重要なんだから。
もし「周りがみんなスマホだから自分もスマホにしなきゃ」と思っているだけで、本当はそんなにSNSやアプリを使わないという人がいるなら、思いきってガラケーに戻すのも手だと思う。通話とメールだけならガラケーのほうが圧倒的にバッテリーも保つし、料金も抑えられるかもしれないし、「端末をどこかに置き忘れても、スマホほど重要な情報が入ってないから不安にならない」なんていうメリットだってあるだろう。「みんなと同じだから安心」じゃなくて、「自分の必要な機能がちゃんとある」ことこそが大事なんじゃないか。
もちろん、スマホが悪いわけじゃないし、ガラケー至上主義を唱えたいわけでもない。ただ、「必要以上にスマホを使って疲れちゃうくらいなら、ガラケーで十分なんじゃないの?」という提案をしたいだけなんだよね。実はわたし自身、仕事用スマホとは別にガラケーをサブ機として使っているんだけど、やっぱりガラケーをパカッと開いてガシガシと文字を打つ感覚は良いもんだよ。慣れ親しんだ操作性と、あの独特の押し心地には、どこか安心感がある。電車でスマホの通知に追われずに済むのもストレスが少ないし、本を読んだり音楽を聴いたりする時間が増えた気がするんだ。
そういうわけで、ガラケーという選択肢は決して時代遅れのものではない、と声を大にして言いたい。機能の充実や最新テクノロジーに目を奪われるのも悪くはないけれど、シンプルに生きるための道具としては、いまだガラケーは捨てがたい魅力を持っている。もしあなたが日常のほとんどをスマホに奪われていると感じるなら、一度ガラケーで過ごす日常を思い出してみるのもいいかもしれない。通話とメール、それに少しのネットがあれば不自由しない生活に戻るのも、ある意味では豊かな選択なのではないだろうか。
繰り返すが、「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」とまでは言わなくても、ガラケーで十分足りるような人もたくさんいるんじゃないか。昔みたいに、キーボタンをカチカチ押しながら、「そうそう、あれこれこうだよね」とメールを送るのだって味わい深い。意外と悪くない、というかむしろ懐かしくて温かい気持ちになれるかもしれない。少なくとも、ガラケー派の人たちを「時代遅れ」とバッサリ切り捨てるのはもったいない話だと思うんだ。最新のスマホだけが正解じゃない。だからこそ、みんなが自分にとってベストな形で“ケータイ”という道具を選べる社会であってほしいと思う。
もしあなたが、いつの間にかスマホでの習慣に疲れているなら、こう考えてみてはどうだろう。「ケータイって何のためにあるんだろう?」と。連絡手段として割り切るなら、ガラケーこそ理想的な答えかもしれない。もちろん人によっては、「やっぱりスマホがないと生活が成り立たない」という人もいるだろう。それでいいんだ。それこそ「自由」じゃないか。だから、「スマホが当たり前」という常識に縛られず、自分に本当に必要な機能がどれくらいなのかを見極めるのが大事。いまの時代だからこそ、逆にガラケーを見直す価値があるんじゃないかと思う。
最終的には「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」、通話とメールで十分ならガラケーでもいい。そこにプラスアルファでスマホを持つか持たないかは、個人の自由。要するに、スマホ一辺倒の世の中だからといって、ガラケーを諦める必要はないんだよね。わたしはそう信じている。あなたのケータイライフに、少しでもガラケー復権の可能性を感じてくれたら、これほど嬉しいことはないよ。
この方もそうですが、本件で「それは死ねと言っているのだ」という解釈をおっしゃる方が一定数いて驚いています。
ですが、ご存じの通り日本の憲法は生存権と幸福追求権を認めており、また、政治家なども「死ね」と言っている人は現れていません。
国民民主党の玉木雄一郎代表も、選挙期間中に失言とも採れる発言をしましたが、それも事実上撤回されておりますし、
もし撤回されていなかったとしても、本件とは関わりが無い部分の話(終末期医療は高額療養費になるほど高額になるケースは少ない)でありました。
だとするならば「それは死ねと言っているのだ」と言っている人たちは何を根拠にしているのでしょうか。
何故ならば、自らが他者の死を望むことで、わずかな金を得たい、と言う願望があることに正面から受け入れられる人が少ないと言うことを意味するからです。
もちろんその行為は犯罪です。それが覆るほどの大きなうねりになることはないでしょう。
いつの時代もそう言う過多はいるでしょうし、実際に行動を移したら粛々と取り締まれば良いです。そして統計的には、人口あたりの殺人などの犯罪は減っています。
今日は約束していたとおり、C国とその手先になった氷河期世代によって変えられた日本について語ろう。
氷河期世代は、自分たちの青春時代の象徴として、過去に廃止された女子学生の体操服であるブルマを復活させた。
この政策は「伝統の復活」という名目で進められたが、実際には氷河期世代のノスタルジーと復讐心が絡んだものだった。
当然ながら、当事者である学生やその親たちからの反発は激しかった。
だが、氷河期世代の政策担当者たちはそれを一蹴し、強硬策を取った。
その中の一人、氷河期世代の女性官僚は、批判に対し冷たくこう言い放った。
「私たちが普通にしていた恰好だよ。あんたはそれが恥ずかしいっていうのかい?」
この言葉により、議論は事実上封じ込められ、女子学生たちは全員がブルマを履くことを強制されることとなった。
学校現場では、学生たちが羞恥心と怒りを抱えながらも従わざるを得ない状況が広がった。
さらに、この政策に逆らおうとした教育関係者や保護者には、社会的排除が待っていた。
教育現場で反対意見を表明した教師たちは左遷され、保護者たちはメディアによって「時代錯誤」とレッテルを貼られた。
引用元、生の声を聞かせてくれて嬉しく思っている、本当に迷惑をかけてしまって、申し訳ない。
俺は所謂大人のADHDで、思い返せば子供の頃から心当たり有り、結婚して子供も出来て、おかしくなり始めてから妻に言われて診断を受けて、精神障害者3級認定されて、あれよあれよと一緒に暮らせなくなり、今は一人で地方都市で、家族と適切な距離を取りながら、なんとか責務を果たそうとしている。とても辛い。違う、俺の話はどうでも良いんだよ。
生きていて、本当に申し訳ない。発達障害者は生きているだけで金がかかるんだよ。コンサータや併発する鬱病の薬で、月5000円、かかっているのね。しかもこれは、自立支援とかいう国の制度で、医療費1割負担だから、通常だったら1万5000円はかかっているんだよ。普通じゃないだろこれ。障害者を一人生かすのに、これだけかかってるの。もう、死んだ方がいいんじゃないって思うよね。生きてるだけで金が異常にかかる、迷惑をかけてしまう。薬を飲まずにまともに社会はやれないから、薬だけ飲まないっていう選択肢は事実上無い、それこそ、健常者の普通を害してしまうことになる。障害者を健常者にする薬って何なんだろうね、俺は一体何を飲んでいるんだろうか。まぁそんなことはどうでもいい。
俺も元増田に言われる前から勿論、死にたいといつも思っているんだけど、妻曰く、「死なれる方が子供にとって迷惑」と言われていて、取り敢えず生きていてって言われている。なので仕方がなく頑張って生きている。子供は2人とも、診断は出ていないが、不登校になっている。最近ニュースになっている程は酷く無いが、通報されて警察が来るくらいの癇癪持ちらしい、俺は一緒に暮らしていないから共有だけ受けている。しっかり再生産までしてしまった。普通の人の普通を侵害してしまい、申し訳ない。
障害者の障害は人間ではなく社会にある、みたいなことたまに聞くけど、あれは当事者からしても余りにも綺麗事が過ぎるよ。だって普通じゃないもん。途中でいきなりうめき出すようなやつの横で普通に仕事出来るか?嫌じゃ無い?そっと席外したり、優しく声かけたり出来る?いなくなった方がいいって思わない?俺は思うよ。
だからもう、どうしたらいいのか、俺も分からないんだけど、最近ようやく少し見えたのが、投資以上に回収出来れば良いんだろうなって思って、ランニングコストの話なんだけど、薬毎月15000円かかるなら、それを上回るくらい、生産したり、税金納めたりすれば良いんだよな。それが最低条件で、その上で、健常者の普通の皆様に侵害しないように、自分を制御して生きていければいいのかなって思っています。今は一般枠で働いているけど、障害者枠で雇用された方がいいのかなって思うけど、明らかに給料が低いから、全体のGDP下げちゃって、薬代も払えなくなっていくから、やっぱり稼げるならそれだけ頑張った方がいいのかなって、今は思っています。これも権利の行使になるのかな。行使しない権利って感じなのかな。よく分からないけど、とにかく少しでも迷惑かけないように今から頑張るからさ、本当に申し訳ない。
トップコメにあるやつだけど、文化の多様性を尊重できない外国が差別的で悪いだけだよね?
親の名前を受け継ぐところもあれば、父母の姓を両方足す国があったりで
名前のルールなんて各国で全然違うのに、ジャップの旧姓ルールだけはダサいから受け入れないんでしょ。
ただの差別じゃん。大使館が日本人差別だと抗議するくらい激しくすべき話であって
オーベーの文化だけが唯一正しい、多様性の統一が好きな人は理解できないんだろうけど。
そもそも、夫婦別姓のが先進的だと言い張るけど、旧姓も新姓も正式に使える方が優れてるよね。
今は半端な通称になってるせいで公的に使いにくいことが問題なわけじゃん。
じゃあどっちも使えるようにすればよくね?
事実上夫婦別姓として使えるけど役所の登録上のメイン姓とサブ姓(メインサブも要らん)があって結婚時に決めるけど、普段は使いたい方選べばいいじゃん。
夫婦関係を確認する時があるとして、〇〇さんは夫婦同姓で〇〇さんは夫婦別姓とか確認が必要なのアホらしくね?
婚姻関係の確認をする時に身分証見るだけで佐藤x鬼龍院とかで2要素が一致してるだけでほぼ判別できるわけ。
子どもの姓も一旦は親が勝手にすりゃいいけど、子供は成人したら好きに選べばいいし、別姓反対派のよくいう子供の姓どうすんだ問題も解決。
個々の夫婦が普段同姓にしてるか別姓にしてるか、他人からしたらマジでどうでもよくて勝手にしてろって話で、一括で処理できる方式が圧倒的に楽じゃん。
要は「父母の姓を両方足す国」で普段使いは片方省略するみたいな感じだな。
[B! 芸能] 人気芸人 M-1は「滅びるよ」将来を危惧「どんどん鋭角になってく」審査員の構成に疑問「興味がなくなっている」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
知ったような口で語っているブクマカどもがいかに何もわからず書いているかを逐一反論を書いていくことにする。知ったような口ではない門外漢ブコメは今回の対象外とする。
勝ち抜いた人たちが、勝ち抜いた経験からのことを、すごい通のファンが見て、みたいなのはあんまりいい傾向にない”/この話に関連し、大会前に書いたこれを再度。⇒
> そもそも「ツッコミ」とか「ボケ」とかを、視聴者が普通に認識して番組名になっているのがおかしい。いや知ってるぐらいはまぁいいかもだけど、結局ボケもツッコミもバックステージにある(べき)ものでしょ?
べき論を正論として振りかざしたところでなんの意味もない。YouTuberがテレビに出るなとか声優がバラエティに出るなとか言ってるようなのと同様の自分の理想論を述べているだけ。
大枠同意で、この結果何が起きるかって言ったらネタ作りや審査のAI化、ひいてはお笑い業界のAI化の加速だよね。別にそれ自体が駄目とは思わないけど、M-1のコンセプト的にどうなのか
意味不明。記事内にもお笑いのAI化が進んでるなどという話は出ていないし世間でも言われていない。頭の中にあるAIという単語を出力しているだけ。
100点満点持ってるけど殆ど無意味。一人バグった審査員が100点と0点しか使わなかったらぶっ壊れる空気読み得点でしかない。素直に全組見てから各審査員ごとに順位つけて総合得点出すでよくねって思う
100点満点が無意味というのは同意するところだが、伊集院は競技化の先鋭化を批判しているのに対して競技化を追求しろと言っているのは謎。
"おかしな芸"をバラエティー向きと考えているのだろうか。トム・ブラウンはウケ量も勘案したら妥当な評価だろう。
マニアがジャンルを殺すってやつかな。M-1って競技になって最適化されててそれが令和ロマンの連覇に繋がったとかは言うけど。90点以上が連発した大会だったから2人くらい視点が違う人を入れないと点が揺れなさそう
「90点以上が連発した大会だった」という適当な印象論で最近の問題点みたいに語っているが、滑りに滑った2019ニューヨークに松本人志が82点をつけたように80点が事実上の基準となっている。ウケていると90点以上が出るのは例年通り。
「競技に最適化」というのが具体的になんなのかわかるのだろうか。"ボケ量を重ねて常に爆笑を取る漫才が強い"という状態になるとマニアがジャンルを殺すになるの理屈が全く紐づいていない。
敗者復活戦含め、年末の日曜日に7時間もテレビの前に座って漫才をひとつひとつちゃんと見ないと十分楽しめないコンテンツな時点で、振り落とされる人はかなりいる。「テレビの娯楽」としては末期なんじゃないかなぁ
漫才1本は4,5分なのだからそこだけ見ればいいのでは?スポーツ中継だって同じで、別に全体を把握せずに今映っている状況を見るものだ。
M-1が歴史になり権威になったからラパルフェが準々決勝でやった2019年M-1決勝のニューヨークのものまね漫才でお笑いオタクにバカウケして話題になった所はあるので
お笑いオタクにバカウケしたのは究極の内輪ウケだからであってM-1の権威とか関係ないでしょう。KOCのライスのネタをやられても俺は笑うと思う。
競技化して最適化していく過程でノウハウが蓄積されるのはジャンルでもそうだと思うけど、審査員が過去の経験者だと評価指標がM-1型に特化してしまって同調圧力で変なコンビを上げられないのはありそう
M-1で勝てるネタというのはM-1の場で客ウケを取るテクニックとかの話であって審査員の評価を稼ぐという話ではない。仮にそんな評価指標があったとしてもノンスタ、オードリー、ナイツの2008と現代のM-1は漫才の構成などかなり変わっているのだから全然話が繋がらないだろう。
この流れを作ったのが松本人志。意図した訳では無いが視聴者含めて皆それが正しい漫才の見方であると受け入れた結果、松本氏の作った箱庭の中で新しい笑いを語ってる
漫才を格闘技のような大会にして盛り上げようと提唱したのは島田紳助なのだが。今年の放送を見ていればわかるはずのことすら知らず適当なことを言っているこのブコメを知ったかぶり王としたい。
もはやプロじゃないと客が納得しないんだろうけど、芸人の登竜門じゃなくて漫才競技大会に寄って行ってるし、テレビ朝日が足抜けしてABCのみの関西ローカルになる未来もあると思う
漫才競技大会だったのが芸人の登竜門になっていったの間違い。芸人の登竜門として完成されたのは霜降り明星以降。2016の優勝コンビ知ってるか?あと、ABCお笑いグランプリって知ってるか?
大会順位に不満はない。ただ大衆娯楽として広い層に受けると言うのは大事だと思う。子供だったら基礎知識不要のトムブラウンとか、バッテリィズとかウケるだろうなと思ってたけど、審査にそう言う視点はなかったな。
ホストクラブのイメージを元にやってるトムブラウンと世界遺産の知識とか必要なバッテリィズが基礎知識不要って本気で言ってる?
THE Wのことも知らないような人は知らないだろうけど、THE WやR-1は飽きられる段階に達するほど盛り上がっていない。
身内が身内奨励する感の強いそれまでの漫才賞と一味違う、広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1の先鋭化は寂しいというか「普段漫才に関心ない層にもリーチできる」強みを捨て去る方向に進むのは惜しいなと思う
「広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1」ってなんですの。誰が優勝したときの話?
競技プログラミングは数学(アルゴリズム)力と実装力を競うジャンルであってプログラミングの競技化じゃねえんだよ。適当なことほざくなボケ。
まぁ令和ロマンもウケた量より技術面で評価されてたりするから先鋭化してるってのは分かる。単純に面白いと思ったかの視聴者投票でも良い気がする
ウケ量以外を加味されてるのはバッテリィズ2本目じゃあないの。2本目にウケが弱かったバッテリィズと2本目も強かった令和ロマンの構図だった。
同意。成り立ちが無名の発掘と才能がない人には区切りだったはず。M-1出身者ばかりという事は、他で花開かなかった人が審査員という事。身内ネタに過ぎないよね。連覇は既に名を馳せたはずの人が枠を奪う行為。
オードリー若林を他で花開かなかったとはおかしなことを言う人もおるもんで。
参入障壁が低いからついにエントリー数が1万を超えたですけどね。大会運営としてもアマチュアには専用の賞を置いたりしてアマチュアの参加に積極的。
高学歴が連覇ってのはまあそう言うことやろな…
学歴しか見ないコメントはこれしかなかった。この方向はヤフコメ民の方が強いのだろう。
ラパルフェがニューヨークの滑ったネタをやったことを言ってるのだろうか。
というかM-1じゃなくY-1なのが問題、審査員9人中6人が吉本(決勝の決勝令和ロマン5票中4票吉本からで非吉本審査員からは3人中1票、同じ事務所から2人以上審査員にするな
自分は予選会場の観客席の先鋭化が気になってる。観客のウケ具合が審査に少なからず影響が出るにもかかわらず、会場にはほぼ完全にお笑いマニアしかいない。
博多大吉が言ってた「予選は総合格闘技、本戦はプロレス」って言い得て妙だなと思う。今の審査員が総合格闘技だと思って審査してるのは危険
予選と決勝で戦いが別モノになってるといった話をできる人はきちんとわかっていそう。
映画や音楽ではそうでもないのにお笑いだと大衆受け原理主義者みたいな人がやたらと出てくるね / 今の自分にはまだ良さが分からないものに出会えるのが(お笑いに限らず)審査員方式のメリットだと思うのだけれど
……ので従来の2Dポチポチ中国ソシャゲは今後どうなっていくんだろうなあというお気持ち愚痴。
話題になった中国開発のソシャゲは一通りダウンロードして遊んでみたが、継続して遊べているのは現状アークナイツだったりする。
TDジャンル故に編成枠が広く推しキャラをねじ込める余裕があること、ゲーム部分とシナリオが切り離された紙芝居スタイルなので後でまとめてストーリーを読み返せること、
プレイヤーの拠点にキャラクターを従業員として雇う設定なのでキャラのコレクション要素にシナリオ上の無理がないこと(シナリオ上拠点を退職することになったり安否が不明になったキャラもいるっちゃいるが)、
適当に数回周回すればスタミナをさくっと使い切れてデイリーもこなせること、あたりがゆるゆる続けられている理由である。
だがそんなアークナイツもいよいよ昨今の潮流に乗って3Dのリッチな続編を出すことになったようだ。
キャラのモーションや背景グラフィックも頑張っていて、結果はともかく先行の原神やスターレイル、鳴潮といったような3D大作と正面から戦っていくという意志は感じる。
しかも今度はどうもパブリッシャーのYostarを通さないHypergryph自社開発・運営のゲームであるようだから、気合の入りようは一段違うだろう。実際続編の企画が表に出るようになってから、2Dの本編にも続編の存在を露骨に匂わせるような描写がシナリオ上も増えてきた。
それはそれで勿論成功してほしい……というか、多分あちらのアニメ系ソシャゲ界隈だともう3Dでリッチなゲームを出して一人前、ぐらいの空気感なのだろうから成功しないとまずいのだろうが、
2Dの従来作がそれに伴って早々に店じまい……となると、結局従来の2Dのポチポチゲーっぽさに惹かれてゲームをやっている自分のようなプレイヤーは去らなければならないので、
推しキャラがたとえ続編への続投が決まっても、ゲーム性が全く異なるとなると手を出すには勇気がいるのだ。
邦ゲーだとパズドラどころか、よりオタク向けのFGOやグラブルが何だかんだまだまだ元気なので2Dポチポチゲーの居場所は失われてないんだなあと思えるんだけど、
中国はどうなんだろうなっていう。
何かと先行しているイメージのあるドルフロが、3Dになった続編が軌道に乗ったのと前後して2Dの無印が(本国で)事実上畳まれてしまったのを目の当たりにしているだけに、若干不穏な気持ちになるというか。
はてなに期待は持ってないし、将来性とか先見性とかもないだろうってことは前提にある
ただ、腐っても自由なネット文化の中にあるから、時には面白い事言う人や知見に出会えることもある
はてなブログしろ、増田にしろ、はてぶというフィルターがなければ事実上ほぼ機能していない
つまり、ブクマカの審美眼がものをいうんだが、そのブクマカが碌な人がいない
増田はその影響をモロに受けているから、深刻なイジメと悪口の温床にしかなってないよね
特に増田とブクマカはやたらと対立しているので、ブクマカはとにかく増田をコケにすることに全力になりやすく、まともな評価すらしていない
これ完全にブクマというコミュニティが出来あがっているのがわかって、本当につまらないんだよね
ブクマカは互いに傷のなめ合いか内乱を演じるためにはてぶを使っているのであって、キュレーションの役割はカス程も残ってないし
今の日本で弱者男性がなぜここまで大量発生したり、世代を超えたり家族観で受け継がれるのかについてその理由を考えてみた。
まず彼らは周囲の関係や社会的地位で孤立していて、精神を正常に保つためにはリア充はまず相手にしない趣味になったり、時にはそれで搾取されるしかないというのは容易に想像できる。
僕の肌感覚ベースでの話だけどネガティブで消極的な動機でオタクになっているいわゆるチー牛のような境遇にある人物は全国で相当数いるはずだし、その予備軍を含めたらかなりの数になると思う。
しかし今のネットはこれについてほとんどそれこそ目に見えない格差や文化的な貧困としての視点で扇動する方向の書き込みばかりで、それもこれもこういう邪魔ものみたいな人間をどこに追い出すかという観点を最重要視しているからに他ならない。文化の貧困問題としての視点を重視する人が本当に少なく、これも今の日本人社会の闇と言われて仕方ない。
「社会とかに助けを求めろよ!」といった疑問を持つ方も多いけど、このような立場に追い込まれる階層は実は社会も行政を信用できないと考える傾向が強い。そんな行為について日本社会は強烈な差別視線を浴びせる体質が根強く、その圧力ゆえに助けを求めるくらいならば自力でという方向に進みやすくなる。また、ご存じの通り今の日本社会が実はオタクのような一種の社会の除け者の集団の利用/搾取がないと社会としてやっていけないリアルさえあり、それを当事者もよく知っていたりする。もちろん、身ぐるみはがされている環境の下でそもそも助けを求めるアクセスを知らなかったり、アクセスする気力も奪われているケースもある。
そして、このような社会環境についてつけ入るチャンスと考えるのがまさしく弱男共同体で、社会を信用できない男性弱者の受け皿になるべくしてなってくる。このような階層にとって、助けを求めても結局は社会に利用されて搾取される家畜にされてってしまうのであれば、卑しい生き方も変わらないと考える動機さえ生まれる。アニメオタクとか鉄道がらみで写真家活動をする人はしばしばネット上で怒りの炎上を引き起こすケースも多くあるけど、下手したら自分で命を絶ったり無敵の人になりからそうならないように思いとどまろうという、それこそ私刑による抑止力的な怒りと恐怖で彼らを生み出させない思想が弱男化の抑止力にならないのも、そもそも社会から事実上排除されて絶望している彼らにとって社会全体が敵に見えてしまっているから。むしろ、弱者は彼ら絶望改装にとって敵対勢力である日本社会それこそリア充への怒りとして仲間を増やして時には仲間で団結しあう積極動機にさえなってくる。
今思い返してみれば、事務所にせっつかれていた(いついつまでに登録者◯万人とか、一ヶ月で◯万稼げみたいなやつ)のがほぼ確実なんだけど、
1回30曲以上、3時間を優に超える歌+演奏枠を1日おきでやってた人がいたわ
前世では超名門の音高→音大という経歴を明かしていたこともあってか、歌と演奏には絶対の自信がある一方、音響設定やトークはダメダメという人だったんだけど、
とにかく歌って弾いての物量作戦で数を稼ぐことばかり頑張った結果、1年で登録者数5万行くか行かないかのタイミングで事務所から独立し事実上の開店休業状態になったというオチ
でも今振り返れば、弱点だった音声やトークを底上げしなかった時点で負けは見えていたんだなって感じ
がむしゃらにやる前に、もっともっと大事な、必要な工夫があったってことだ
そもそもご自慢の歌も演奏も、上に書いた物量作戦が始まった途端、目に見えて粗製乱造レベルの品質になったというか