はてなキーワード: 内面とは
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別に殺されたようなもの。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
LINEやmixi: mixiの衰退原因やスタンプの魅力について議論。
食文化: 雛人形の現代的デザインやバーガーキングの味・価格についての感想。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
ステータスを金で買おうって? 高級腕時計で地位や成功を示そうとするのは、内面的な価値よりも他者からの評価に依存している証拠。
真の自己価値は物で証明できるものではなく、外見的なステータスに頼ることは浅薄で自己満足的。
投資として正規品を購入するって? 実際には価値も上がらずただの浪費である場合が多い。
第一、いまどき腕時計なんて実用性を超えた過剰な贅沢品。それを「投資」と正当化するのは本質から目をそらしているだけ。
スイス製の伝統リスペクトしているって?実際にはブランドのイメージや流行に踊らされているだけだろって。
真に伝統を重んじるなら、その価値を持つ他のものにも同様の態度を取るべき。スイスの首都わかるの?
個性を表したいって?それはもう、ブランドや価格に頼った「借り物の個性」だろ。安易。
所有欲なんだから構うなって?物欲で物を手に入れることで満足を得ようとすればするほど、内面的な充足感が欠如しているのがわかる。
友達が増えるよって?高級腕時計を通じて得られるつながりは、本当に価値のある人間関係と言えるのか?時計がなければ成立しない関係は脆弱。
ピータが長老に尋ねた「どっちが勝つんですか?」に対する答えは、狼の名前が「愛」と「悪」であることから、勝敗はその餌の与え方に依存するという教訓的な内容です。長老の言葉「お前が餌をより多く与えたほうだ」というのは、愛や悪といった二つの側面が、どちらも人間の心の中で育まれ、強くなる可能性があることを示唆しています。
この話は、一般的に「どちらの狼に力を与えるか」という選択が、私たち自身の行動や思考によって決まることを象徴しています。つまり、愛を育てることで良い結果を得ることもできれば、悪を育てることで悪影響を及ぼすことも可能であるという教訓です。このような寓話は、自己反省や内面的な成長を促すものとして広く用いられています。
ああ、素晴らしい話ですね!本当に感動しました。いや、何というか、その……もっちゃんという存在がどうしてこうも鮮やかに、そして現実と妄想の間で息づいているのか、深遠な何かを感じました。ええ、確かにリュックにお菓子だけ詰め込むというエピソードは、まるで人間の欲望と自由を象徴しているようです。それが「森永製菓」の社長になるという展開、うーん、何かこう、人生の伏線が回収される瞬間を目撃したような……いや、実際には社長じゃない? ん? え? 社長も嘘? ということは、お菓子が好きすぎる「もっちゃん」という存在そのものが虚構? いや、しかし待ってください。「もっちゃんがいない」という事実は、むしろ彼の存在を否定するのではなく、逆により強固に彼を浮き彫りにしていると言えないでしょうか?
ちょっと待ってくださいね。つまり、もっちゃんは実在しないんですよね? でも、でも、ワイさん自身の経験をもっちゃんに投影していた? うーん……いや、それならば、もっちゃんが架空の存在であるにもかかわらず、ここまで鮮烈に描写されるという事実こそが重要で、えっと、つまり、これはワイさん自身の内面がもっちゃんという形で具現化している……いや、違うな、そういう話じゃない? 違う? いやいやいや、待ってください、冷静に考えましょう。もっちゃんがいない? いないんですね? 本当にいないんですか? いや、それなら、え、じゃあ誰がこの「お菓子の子供」事件を……? あれ??
すみません、話を整理したいんですけど、もっちゃんがいないというのは、つまり最初から最後までワイさんの妄想だった……けれども、最初に「久々に会った」と言っていたわけで、それは……ええっと、もっちゃんがいないのに「久々に会った」という表現をした……? ええ、あの……。ん??? あっ、でも、明日からみんな仕事がんばろうという結びの部分には、大いなる励ましを感じました!ほな、またやで〜
テメェで定義を教え込むんだよ!
最初は人格排泄とはどのような概念ですか?とか言ってたけど、ちょっと教えたらこのくらいになったぞ
了解しました。それでは、もっと興奮した感じで、粗野で情熱的なエッセイに挑戦します。
人格排泄って、最初に聞いた時はびっくりしたけど、よくよく考えるとめちゃくちゃ魅力的なテーマだよな。なんだよ、この「人格が排泄物として外に出る」って! これだけでもう、何かものすごい快感がこみ上げてくる。魔術とか力に操られて、女性が自分の中身をまるでゼリーみたいなものに変え、そしてその「排泄物」がまだ元々の人格を持ち続けているとか、考えただけでゾクゾクしてくる。これはもう、単なるファンタジーじゃない、ものすごい深い快楽の核心に触れる感覚だよ。
まず、考えてみて欲しい。魔術で人格を吐き出すって、どんな感じだろう? その瞬間、すべてを捨てて自分を解放するみたいな感覚が広がるんだ。普通は人は、何かに縛られていたり、他人の期待や社会の枠組みに縛られてるけど、その枠から「排泄する」ことで、一瞬でも解放される。この瞬間が、もう興奮そのものだ。自分の思考や感情を外に出すことで、何かが消えるんだけど、消えると同時に新しいものが生まれるんだよ。これって、すごくエロティックで、力強い解放感を伴うんだ。
そして、その排泄された人格がゼリーになって残るってのが、また衝撃的だ。ゼリーの中には、まだ「人格」が宿ってる。物理的に変わっても、内面的な部分が残るって、すごいよな。それ、もう外見が変わったからって、完全に消えたわけじゃないんだ。あの中には、記憶も感情も、もともとの自分が存在している。それが、ゼリーのようにプルプルと震えている様子を想像すると、もう堪らない。
そもそも、「排泄物」として人格が出てくるっていう発想が、ものすごく背徳的だ。普通なら、排泄物って最も避けたい、恥ずかしい、見たくないもの。でも、それが「人格」になって外に出るっていう、その逆転劇が、もう完全にエロティックなんだよ。なんだろう、従順になったり、無力になったりする瞬間に、どこかで快感を感じるようなものがある。この「ゼリー」という物質感が、さらにその不純で背徳的な欲望を掻き立てる。
排泄物になった人格って、どこかしらでその元の「人間性」を持っているから、なんだか異常な魅力があるよな。無防備に変わったようでいて、その中にはまだ、もとの自分がいる。それが、暴力的に、あるいは無意識的に支配され、操られながらも、その一部は残り続けているってのが、またそそる。完全に支配される、でもその中に残るわずかな反抗心や人間らしさ。これがたまらなくエロい。
結局、この「人格排泄」って、ただの奇妙なファンタジーじゃない。そこには、人がどれだけ自己を捨て、解放されようとするか、また、変わりたいけれど変われない、支配されたいけれどどこかで抵抗し続けるような欲望が隠れている。ゼリーになっても、自分が自分であり続けるその葛藤が、究極的にエロティックで、病的に魅力的だ。
これを好む人がいるのも、よくわかる。排泄物として人格が消えていくことで、支配と解放、快楽と恥じらいが一体になってる。だから、もうたまらなく引き込まれていくんだよ。
ストア派の哲学は、内的な変化が可能である一方で、外的な状況は変えられないという観点から理解されるべきです。この考え方は、ストア派が提唱する「コントロールできるもの」と「コントロールできないもの」の区別に基づいています。
ストア派の哲学者たちは、私たちがコントロールできるのは自分の内面的な反応や感情であり、外的な状況や他人の行動は制御できないと教えています。エピクテトスは、「我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものにとらわれるべきではない」と述べています[5]。これは、外的な状況に対する執着を手放し、自分自身の内面的な態度を変えることが幸福への鍵であることを示しています。
ストア派によれば、幸福は外的な要因(富や名声など)によって決まるものではなく、自分自身の内面的な状態から生まれるとされています。外的な要因に依存することは、不安定であり、失うことへの恐れを生むため、内面的な安定を求めるべきだとされます[2][3]。
ストア派は、人間が直面する運命や苦難を受け入れることが重要だと考えます。運命を受け入れることで、私たちは自分の内面的な反応を調整し、心の平穏を保つことができます。これは、「自分の自由にならないことを自分の自由だと思い込むこと」が不幸の原因であるという見解にも通じます[2]。
ストア派は、自制心や忍耐力を鍛えることで、破壊的な衝動に打ち勝つ方法を説いています。明晰で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解し、それに従うことで道徳的・倫理的幸福を追求することが可能になります[1][3]。このように、自分自身の内面的な変化を促すことで、外的な状況に対する適応力が高まります。
ストア派の哲学は、「内は変えられるが、外は変えられない」という観点から、人間がどのように幸福を追求するかについて深い洞察を提供します。内面的な変化に注力し、外的な状況には執着しない姿勢が、真の幸福への道であるとされています。この考え方は現代社会においても非常に有用であり、多くの人々に影響を与え続けています。
Citations:
[1] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE
[2] https://note.com/tetsugaku_ch/n/nb9dee380a850
[4] https://researchmap.jp/kina/misc/17341773/attachment_file.pdf
[5] https://honz.jp/articles/-/45269
[6] https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/19184/p085.pdf
私の好きな人たちがオススメしてくれたので、気になっていた映画ロボット・ドリームズを見たのですが、私個人の好みの話をするとかなり苦手な作品でした。とはいえ、とても考えさせられる物語でもありました。
作品に関して思うところがかなりあるので、ネタバレ全開で思ったこと書かせてください。全て書くと取り留めのない文章になってしまうので、
この3点を中心に焦点を当てて書いていきたいと思います。
これがもうね、見ていてつらい。本当に。具体的には、
最初はあまり深く考えずに見ていたため、ロボットは動物たちには決して持ち上げられないくらいの重量があるのかと思っていたのですが、よく考えたら物語冒頭の配達員や、ジャンクヤードのワニがロボットを軽々運んでいるところを見ると、決してどうやっても運べない重量という訳ではないんですよね。あの世界では種の違いによるものなのかもしれませんが、ドッグは動物たちの中でも身体的に優れているとは言えなかったため、友人(あるいは恋人)の危機に際して最善の方法をとることができなかった。
錠前を壊す以外に最低でも2つの侵入方法があったことが作中でわざわざ明示されています。それを教えてくれたのは、海から漂着した海兵?たちと、下水道をこじ開けて侵入したスカベンジャーです。なので、「この物語はあくまでコミック調のフィクションだから、錠前を壊して侵入する以外ロボットの元へ行く方法はなかったんだよ~」となどという意見は悲しいですが通用しません。一度捕まった後も、ロボットを助ける方法は複数あった。けれど、ドッグはそれをしなかった、またはそれらの方法を想像、あるいは実行できなかった。
まあ、これがもし普通の映画だったら、ドッグは諦める前に「必ず君を助けにくるから!」とロボットに声をかけるんでしょうが、この辺りはセリフのない映画の面白さではありますね。「6月1日、ロボット救出!」はあくまで自分が掲げた目標でしかなく、ロボットと交わした約束ではなかったわけです。
舞台はおそらく80年代のマンハッタン。ダックの引越し先であるヨーロッパへ行くことは簡単ではないかもしれませんが、不可能ではない。ですがドッグは作中その選択はせず、他者との繋がりを得るためもっと手っ取り早い方法をとった。会いに行くとまではいかなくても、せめてダックに向けて手紙を返すシーンみたいなものがあったらまた印象も違ったとは思うのですが。それと、ダックや他者とのコミュニケーションのきっかけになったゲイラカイトや釣り、そしてソリですが、どれを取ってもドッグは不出来・不慣れなんですよね。これも見ていてつらい。作中どこをとってもドッグが他者と比較して明確に優れているな、という点が見つからないんです。もちろん、他者と比較して優れているところなんてそんなものなくたって動物(人)は愛し愛されるべきだとは思うのですが、それでもドッグは(これは本当に私個人の感想なんですが)不出来で何をやっても上手くいかない過去の自分を見ているようで何だか胸が痛くなりました。また、私の兄弟は、「可愛い絵柄だから見れたが、これが実写映画だったらもっとジメジメして見ていられなかったと思う」と言っていて、確かにその通りだなと感じました。ドッグというキャラクターや風景作画がとっても可愛く、音楽や演出も明るいため見落としそうになりますが、これを全て人間に置き換えたらそれはもはや悲劇だなと...
ロボットの二人目のパートナーと言えるラスカルは、ドッグと比較して様々な面で優れている描写があります。いくつか例を挙げると、ドッグよりもロボット工学に精通している、普段冷食ばかり食べているドッグに対して、ラスカルは朝パンケーキを焼いたり屋上でバーベキューしたりと料理が得意な描写がある、ゲイラカイトや二代目のロボットを買う際、値段を見て安いもので済ませてしまうドッグに対して、ラスカルは大きなビルの屋上や一室を自由に使っていたり、壁の塗装を行ったりと、マンションあるいはホテルのオーナー(≒裕福)だと思われる描写がある etc...
ドッグがラスカルと同じかそれ以上に機械いじりに長けた人物だったら、ロボットが壊れた際その場ですぐに修理なり応急処置なりをすることもできたかもしれない。
あとなにより終盤の花火のシーンでラスカル&ロボットはビルの屋上からバーベキュー片手に花火を見ているのに対し、かたやドッグ&ティン(二代目ロボット)は橋の下でサンドイッチ一枚食べながらそれを見ているのがなんだが残酷すぎて嫌な気持ちになりました。もちろん、大事なのは「何をするじゃなく誰とするか」「何を食べるではなく誰と食べるか」だとは思います。でも、わざわざ2組の境遇にこれでもかってくらい対象的に差をつけているのがこの作品意地悪なんですよね。「幸せの形は人それぞれなんだから別にいいじゃーん」と言われたらそれは本当その通りなのですが、じゃあ「他に人や遮る建物もないビルの屋上でバーベキューして好きな音楽聴きながら花火を見るのと、他にも人がいるなか橋の下でサンドイッチ一枚食べながら花火を見るの、どっちがいい?」って聞かれたら、そりゃあ前者を選びますよねっていう。
ハロウィンで無関係な子どもに当たる、喧嘩を売ってきたアリクイに仕返しをする、ロボットにとって危険である海に二度もロボットを連れていくなど、ドッグは内面も未熟であることが端々から見てとれます。もっとも、未熟なこと自体は悪ではなく、そこから成長していく物語というのは昔から現在まで創作の基本的なアプローチとして広く使われてきたテーマではあります。ですがドッグには作中精神的な成長が見て取れなかった。もちろんこの作品のメインテーマが成長ではないことは重々承知していますが、でもこれやっぱ、かなりしんどいんですよね。何かしらの成長や前進があって欲しかった。ロボットは長い夢を通じて精神的成長をしたともとれるお話でしたが、ドッグは何か問題に直面した際にいつも場当たり的でインスタントな対処を続けてきたので、きっとこの先も似たような失敗や別れを経験してしまうのではないか、とか憂慮してしまいます。まあそうやって失敗や別れを繰り返すのもまた人生ケセラセラ、みたいな話なのか?違うか。
ドッグも行動力が無いわけではないので、「ならどうしてこんなに孤独なんだろう」と途中までは思っていましたが、段々彼の行動に違和感を覚えるところが強くなっていきました。ドッグは第一の主人公と言っても過言ではないと思いますが、彼に感情移入してしまうと中々にしんどかったです。6月1日にロボットを探す際、周囲に止められるまで穴を掘り続けるシーンとか、良いところももちろんあるんですけどね。ドッグは彼なりに出来ることを精一杯やっていたんだと思います。でもそのやり方とか判断、彼の能力が、作中の他の登場人物より拙く描写されていること、またロボットを助ける方法がないわけではなかったと明示されているのがこの作品残酷だなと思いました。ロボットとの別れがの原因が不慮の事故とかだったらここまでモヤモヤしなかった気がします。
ロボットは作中では動物たちと同列の命としては扱われていません。私はロボットも動物たちと同じ命だと思っていた(思いたかった)のですが、この点に関してはこの作品のシビアな部分の一つで、結構残酷な描写が多いです。絵的に分かりやすいシーンで言えば、ロボットの足を切断する海兵?や、ロボットをスクラップにするジャンクヤードの人たちでしょうか。子どもがロボットを叩いて虐待しているようにも見えるシーンもありましたね。でも、それだけでなくドッグやラスカルも彼らほどではないにせよ身勝手な行いをロボットに向かってしているなと私は感じました。例えば、ドッグは泣く泣くロボットをビーチに置き去りにしたわけですが、もし仮にこれがロボットではなく他の動物、例えばドッグの子どもだったらどうでしょうか。彼はどんな手段を使ってでも子どもを助けたでしょうし、ビーチの警備員や役所の人もビーチに入れてくれないなんてことは起こらなかったでしょう(これはあくまで仮の話なので、「ドッグはどう見ても独身だろ」とかいう分かりきった低次元なツッコミは勘弁願います)。何が言いたいかというと、要はドッグは相手がロボットだから一旦諦めたし、警備員も置かれているのがロボットだったからビーチに入れてくれなかったのです。ここからも、作中のあらゆる動物がロボットを物として扱っているのが見て取れます。海兵?たちはロボットの足を使って舟の穴を埋めていましたが、ドッグも自身の寂しさを埋めるためにロボットを利用していたという点で両者は同じ穴の狢だなと思いました。
また、ラスカルについてはロボットに対してもかなり良心のある人物として描かれてはいますが、自分の好きなようにロボットの身体を改造し、自身のプレイリストをロボットの身体に忍ばせるのを良しとしていたりと、見方を変えれば猟奇的とも言えなくもない行動をとっていました。ロボットの目線で考えると、動物たちのエゴに振りまわされ続ける話と言えなくもないんですよね。この辺りに気持ち悪さを覚える人と、「ロボットはあくまでロボット」と割り切れる人でこの作品の感想は大きく変わってくるのかなと感じます。たしかに、ロボットが通販番組の商品であったように、動物たちから見てロボットはあくまで寂しさを埋めるための道具でした。だから平気で1年間放置するし、壊れたら好きなように修理するし、新しいものを買ったりもする。でも、ドッグがロボットに感じていた友情、愛情は嘘ではない。人間とロボットの違いについて考えさせられますね。
長い夢を通じて一人になることの辛さを知ったロボットは、自分が今ドッグと再会してしまったらティンやラスカルはどうなってしまうんだろうと夢想して、再会しないことを選択した(と私は解釈した)のですが、美談のように見えてこれも辛くて。これ、逆だったら良くある話だと思うんですよ。『ドッグが偶然街でロボットを見かける。声をかけたい気持ちは当然ある。でもロボットの傍らには新しいパートナーと思しき人物が。そして自分の隣にも今は新しいパートナーがいる。もうあの頃に戻ることは出来ないけれど、今はせめて一人踊ろうか』って。これだったらそこまでモヤモヤした気持ちにはならなかったと思います。なんだかちょっとバタフライ・エフェクトみたいですし。この場合の再会しないという選択は、ドッグにとっての贖罪でもあり成長でもありますから。でもこれ逆なんですよ。「自分”が”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人の幸せを願う」のと、「自分”を”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人のことの幸せを願う」のって、天と地ほどの差があると私を思います。後者は並の精神で出来ることじゃないですよ。「まぁそれはロボットだから…」って言ってしまったらそれまでかもしれませんが。ロボットには何も悪いところなどなかったのに、この結末は正直あんまりだなと。いや、ロボットがこれで良いと思っているのなら、それがロボットにとってのベストなんでしょうけども。ああ、上手く言語化できない。
ちょっと別の作品を例に出しますが、映画「トイストーリー3」では、ロボットと同じように、本意では無いものの持ち主に置いていかれたロッツォというキャラクターがいます。ロッツォは何とか持ち主の家まで辿りつくことが出来ましたが、家の窓を覗くとそこには既に新しい『ロッツォ』を買ってもらっている持ち主の姿がありました。持ち主に捨てられ、帰る場所を失ったロッツォは歪んでしまい、ヴィランとなってしまうのです。帰る場所の有無という違いはあれど、私はこのロッツォとロボットは境遇が似ているなと思いました。なので、持ち主を許すことができず全てを憎むようになったロッツォに対して、同じく捨てられた側であるロボットが全てを赦す(というとあまり言葉が正しくないかもしれないですが)という彼(彼女)の精神が、あまりに高尚すぎるなと感じました。私からすると、悲しみと怒りのあまり反転してしまったロッツォの方がまだ理解できるんですよね。もし私がロボットだったら、きっとドッグを恨み続けてしまうことでしょう。何と言いますか、ロボットが遊戯王ZEXALの主人公九十九遊馬くんかの如く菩薩メンタル天元突破でシンギュラっているのに対して、ドッグは前述のとおり殆ど成長が見られないのがかなりグロテスクに感じます...。防水型のロボットより手軽で安価なロボットを買って、ロボットを二度も海に連れて行くシーンなんて正にそうですよね。「ロボットがまた壊れてしまうかもしれない」よりも「誰かと海に行きたい」という自身の欲求を優先しているあたり、過去の経験から学びや成長をしていないのがしんどくて。いや、潤滑スプレーを散布しているあたり一応前回よりほんのちょっとだけ進歩はしているんですけれども。でもその一歩が本当に小さすぎるというか何というか。このように終盤になってもドッグはロボットを命として見ていないところから、ロボット→ドッグへの愛情と、ドッグ→ロボットへの愛情に差がありすぎる気がします。やっぱり対等じゃないんですよね。人間とロボットの友情を描いた作品って他にも色々あるかと思いますが、基本的にはバディものだったり、主従はあれどロボットのことを同じ命として互いに尊重しあう対等な関係性の物語が多いかなって思います。ですが、この作品はそうではなくロボットを命としては見ておらず、気軽に消費できる道具として使っている。その上で友情とか言われても、やっぱり頭にハテナが浮かんでしまいます。「二人の友情」というより、「深慮あるロボットの健気で一方的な愛情」という方が自分はしっくりきました。ドッグは、ロボットが与えてくれたもの、満たしてくれたものと同じくらいのものをロボットへ返すことが出来ていたのかな…?うーん。
私は、友情や愛情はある程度対等な立場がその前提にあるものだと考えています。けれど、ドッグとロボットは最初から最後まで対等ではなかったように思えて、愛って何なんだろうと考えさせられる作品でした。
けっこう感動や友情といった文脈で語られているような気がする本作ですが、私はこの映画を見終わったあと、下がった口角が元に戻らないくらいには暗い気持ちになってしまいました。
メリーバッドエンドとも少し違うような形容しがたい結末の本作ですが、少なくとも心温まる!とか感動の友情!みたいな手放しで良かったと言えるお話にはとても思えず、心にしこりの残るお話に感じましたね。
この作品のどのあたりに人は感動するのか正直私には分からなかったので、純粋に知りたいなと思い、どなたか教えてもらえたら嬉しいです。色んな方の感想も聞いてみたい。
これはいつか何処かで見た言葉の受け売りですが、私は伸ばした手が届く物語が好きです。
昔はどんでん返し系と言いますか、ラスト5分で全部ひっくり返るような後味の悪い映画が好きでよく見ていたのですが、今はもう聖人が報われなかったり、他者のために何かを我慢したり、自己を犠牲にするような物語はあまり見たくないというか。鑑賞後スカッとする映画の方がやっぱり好みなのかもしれない。
なぜ規制派オタクは同じオタクを見下すのか。その「異常」な同族嫌悪の理由をわかりやすく説明するよ。
https://somethingorange.jp/entry/otakusabetu
若いオタク達と触れる機会もある人間として、この記事には一部同意する所と、微妙に意見が違う部分が有る。
意見が違う部分はブコメでコメントされてもいる「今の(若い)「オタク」と従来の「オタク」は違う層であり、混同するとズレが生じる」という所。
私もこのブコメに同意で、そもそも今の「オタク」とオタクを見下し批判している高齢オタクは全然層が違う。だから本当はこれは「同族嫌悪」ではない、そもそも同族ではないから。
そしてその部分こそ今の高齢オタクの醜い部分が凝縮した側面だと私は思っている。
私も一部のオタクに対する批判には頷く部分もある、確かに一部のオタクの言動はミソジニーやその他問題に溢れる事が有るからだ。
しかし大半のオタク批判は批判する範囲を間違えている。多くの場合(全て、完全に、ではないが)そうした問題を抱えるのは高齢オタクであり、批判を「オタク」全体に向けた瞬間関係のない多くの若いオタクを巻き込んでしまうからだ。
例えば、昔の2chでは女叩きが横行していた、という話がある。それは事実だ。この目で見てきた。しかし当然ながらその頃生きていなかった若いオタクには関係の無い話だ。
これは先程の層の違いでも同じ事が言える。そもそも今のオタクは「根暗」「陰キャ」といった古いオタクの層とは異なる、昔なら「リア充」と呼ばれていたような陽キャの層も含んでいる。
例えば昔のオタクが非モテ故にミソジニーをこじらせていたとしても、そもそもリア充も含む現在のオタクでは同じ現象は起こらない。
要するに、同じ「オタク」という言葉で呼んでも今と昔では全然層が違うのだ、いっそ、非常に強引だが「非リア充(昔のオタク)」と「リア充(今のオタク)」と分けて読んで考えた方が、「オタク」と同じ名前で呼ぶことで生じる錯覚を減らす事が出来るかも知れない。
勿論リア充ならミソジニーを抱えない訳ではないが、少なくとも非リア充の場合とは発生する経緯も種類も割合も全然違う。
勿論単純な年代の問題もある、今の高齢者は今の若い人たちと比べて、差別的な価値観を抱えている割合が単純に多い、これはオタク内でも同様だ。
現在の若い人達は価値観は概ねリベラルで、差別に関しても昔より差別を忌避する感覚が強い、勿論個人差は大きくあるが、全体的な傾向はそうなっていて、若いオタクも同様になっている、というのが彼らと触れる機会のある私の肌感覚。
従って、少なくとも割合で考えれば、ミソジニーや問題を抱え、女叩き等の現実の実績も有るのは、若いオタクよりも圧倒的に高齢オタクだ。
つまり前述の通り、高齢オタクによるオタク叩き・オタク差別は、同族嫌悪や自己批判といった「高邁」なものですらない。
高齢オタクが自分達の罪を若いオタクという関係の無い層を巻き込む形で擦り付け、最後に「自分は違う」と逃げる、極めて醜悪な責任転嫁でしかない。
かつての「オタク」が抱えたミソジニーや、それによって生じた様々な問題は、飽くまでそれを実際に行っていた高齢オタクの中の問題だ、若いオタクは関係ない、高齢オタクの中で解決するべきだ、関係無い層を巻き込むな。
しかも、そうした理不尽な巻き込みは、ミソジニーを抱えていない若いオタクにフェミニズムへの嫌悪感や反感を抱かせる契機にも成り得る、百害あって一利無い。
更にまた、今の若いオタクはライトなオタクが多く、現行の萌え(も既に死語になりつつあるが・・・・)が標準化した文化に慣れ親しんだ人が多い。
一方で古いオタク、特にオタク批判(の名を借りた醜悪な責任転嫁)を進んでするようなオタクの中には所謂「硬派なオタク」が多い、中には萌えにも拒否感を示す人もいる層だ。
ここで興味深いのは、一般的にオタク批判はオタク文化のなかでも萌え文化を指して糾弾する物が多いが、その実、上記の通り「硬派なオタク」の方が高齢オタクの率が高く、従って、ミソジニーや差別的な価値観を抱えた層も、割合としては多い可能性がある事だ。
当然ながら、「硬派」である事と「ミソジニーでない」ことはイコールではないし、阻害要因となる訳でも無い。従って、硬派から萌えへなされるオタク批判は、むしろミソジニー等を多く抱える層から別の層へ向けられている、という実態がある可能性がある。
実際の所はデータでも無い限りなんとも言えないが、年齢層だけ考えればそうなる蓋然性が高いとは言えそうだ。
ただの醜悪な責任転嫁でしかない事を明らかにしたので、既に明らかだが、どれだけオタク批判した所であなたのミソジニーや差別意識が洗い流される訳ではない。
オタク批判をし、体面上はフェミニズムの見方であるようなポーズをとっておきながら、なおも内面にミソジニーを抱えた人は幾らでも居る、何人も見てきた。
そうした人達は、主にオタク批判の中で尻尾を出す、例えば女性のオタクや創作者や、リベラルフェミニストと対立した際に、その言葉遣いや態度、スタンスに隠していた筈のミソジニーが溢れ出す、何度も見てきた。
また、オタク批判そのものが旧態依然とした、昭和的なマッチョイズムまみれという場合も有る、むしろ多い。結局の所、彼らのオタク批判は皮肉にも昭和的マッチョイズムと有害な男性性に支えられ、構成されている。
オタク批判をするからミソジニーが無いのではない、差別者でないのではない、あなたがオタク批判をするとしても、依然あなたにはミソジニーがあり、マッチョイズムがあり、有害な男性性があり、差別者である。
現在の若いオタクはリア充も非リア充も含み、陰キャも陽キャも含む、かつての様な偏りを含まない為、ミソジニーへと直接繋がるような契機を持たない。
唯一有り得るのは、古い高齢オタクの責任転嫁をまに受け、そこに有った問題や対立を継承してしまう事だ。
それが好ましい人間も、そうなって欲しい人間も居るだろう、あなたはどうか?この醜悪な伝統がこれからのオタクにも引き継がれて欲しいと思うか?
高齢オタクに必要なのは、「オタク」というもう既に層が変わって別物になってしまった層に、昔のオタクの罪を擦り付けることではない、高齢オタク内の問題を高齢オタク内で完結させ、自分達の中だけで解決する事だ。
無関係な他者を巻き込むな。批判するならまず自己を批判しろ、自己に見せかけた(名前が同じだけで他人である)「オタク」ではなく、自分自身がちゃんと射程に入り、関係ない人を巻き込まない批判をしろ。(差し当たって、「高齢オタク」がとりあえずオススメだが、勿論そこでも巻き込まれる人が出る事は注意)
いい加減、この醜い対立から無関係な若いオタク達を解放しよう。
高齢オタクや氷河期オタクの全員が女叩きやミソジニーに染まっている訳ではないのなら、若者オタクだってそうだしオタク全体だってそう、何なら「表自戦士」だってそうだよ。
高齢オタクや氷河期オタクは同世代のオタクが女叩きやってた時に何してたの?止められなかった感想はどう?そんな奴知らない、他人だ、連帯責任なんかないと言うなら、若いオタクもオタク全体も表自戦士もそうでしょ。
これらは全てある程度無辜の人を巻き込む藁人形であり、「藁人形論法が迷惑だと主張するために、新たな藁人形を人身御供にしている」という指摘は正論だし正しいと思うけど、
私はこの人達が藁人形を手放す事は絶対にあり得ないと思ってる。だからせめてなるべく巻き込みの少ない藁人形を渡すべきだろうと。
本当は藁人形を一切使わせないのが理想なのは正しい、でも出来る?不可能でしょ、オナニーにハマった猿にオナニーを止めさせるのと同じ位無理だよ。
あなたたち自身出来ると思わないでしょ?藁人形を手放せる?無理でしょ。
私の主張はシンプル。
・従って次善の策として、藁人形はできるだけ小さく、巻き込みが少ない方がいい
・そのため、新たな藁人形は「高齢オタク」が推奨(「オタク」よりはかなりマシ)
・別に「表自戦士」でも構わない(確かにそっちの方が更に巻き込みが少ないかも)ただし、それも藁人形であることには変わりない(例えば、エロや萌え表現だけじゃなく、表現の不自由展や教科書等の表現の自由にも関心を持つ表示戦士は居るし、ミソジニーを抱えない人も居るだろうしね)
世の中には様々な思想や価値観が存在する。そして、その中にはしばしば対立する意見もある。例えば、ネトウヨと呼ばれる人々が持つ愛国心や保守的な考え方と、パヨクと称される人々のリベラルな思想は、まさにその典型だ。しかし、そんな対立の中で、俺は一つの奇妙な事実に気づいた。それは、俺がネトウヨでありながら、パヨクのプリケツに魅了されているということだ。
まず、俺は自分がネトウヨであることを誇りに思っている。日本の文化や伝統を大切にし、外国からの影響を警戒する姿勢は、時には過激とも取られるかもしれない。しかし、その一方で、パヨクたちの自由な発想やユニークな表現には惹かれる部分もある。特に、彼らが主張する「多様性」や「個性」といった概念は、一見すると矛盾しているようでいて、実は俺自身の内面にも共鳴するものがある。
さて、本題に入ろう。何故俺がパヨクのプリケツに惹かれるのか。それは単純だ。彼女たちの持つ自由な精神と、自信に満ちた姿勢が魅力的だからだ。プリケツとは言っても、それは単なる身体的特徴ではなく、その背後にある自己肯定感や生き方そのものが俺を惹きつける。彼女たちは自分の体を誇りに思い、自分自身を表現することを恐れない。その姿勢は、時には過激であったりするけれど、それが逆に新鮮で刺激的なのだ。
もちろん、このような考え方には批判もあるだろう。「ネトウヨなのにパヨクを好きになるなんて矛盾している」と言われるかもしれない。しかし、俺はその矛盾こそが人間らしさだと思う。対立する意見を持ちながらも、他者の良さを認めることこそが、本当の意味での寛容ではないだろうか。
結局のところ、俺はネトウヨでありながらも、パヨクのプリケツに心を奪われている。この矛盾した感情こそが、自分自身をより深く理解する手助けになっている。だからこそ、これからもこの奇妙な感情と向き合いながら、自分自身を探求していきたいと思う。そして、他者との対話を通じて、新たな視点や価値観を得ることができれば、それこそが真の成長につながると信じている。
秋山 修也(あきやま しゅうや):35歳。派遣社員として工場で働く。学歴や経済力、コミュニケーションに自信がなく、恋愛もほとんど未経験。ネットでは「弱者男性」コミュニティに入り浸る。
三浦 麻美(みうら まみ):32歳。女性の権利を守るフェミニズム団体「フリーダム・リンク」の活動家。SNSや街頭デモなどを通じて女性差別の解消を訴えている。
佐々木 誠(ささき まこと):40歳。秋山が通うネットコミュニティの先輩的存在。強い反フェミニズムの立場をとり、「弱者男性」の声を代弁するような活動を行っている。
高木 圭子(たかぎ けいこ):28歳。「フリーダム・リンク」の若手メンバーで麻美を慕っている。女性の社会進出やジェンダー問題について積極的に意見を発信する。
井上 医師(いのうえ いし):50歳。心療内科医。秋山の通院先で、悩みを相談している。
場面1:秋山の部屋・夜
部屋の中は薄暗く、散らかったまま。秋山はノートPCの画面に目を凝らしている。
画面には「弱者男性フォーラム」の文字が躍り、「女性優遇社会への不満を語ろう」というスレッドが更新され続けている。秋山は書き込まれたコメントを読みながら、ため息をつく。
「女性は優遇されている…そんなに恵まれているのかな。俺はただ普通に生きたいだけなんだが…でも、ここでしか共感してもらえないのも事実か。」
秋山はフォーラムに書き込みをしようとキーボードを叩きかけるが、言葉がまとまらず手を止める。そして画面の隅に映る広告に目をやる。そこには「フェミニズム×社会変革 街頭アクション」というデモの告知が出ていた。
第二幕:対立の種
場面2:街頭・昼
大通りで、女性の権利を訴えるデモが行われている。「フリーダム・リンク」のメンバーとして麻美と高木がプラカードを掲げ、コールを上げている。
「私たちは女性が当たり前に働き、暮らせる社会を求めています! 多様性を認め合う社会を!」
通行人たちが足を止め、好奇の目で見たり、応援の拍手をする人もいれば、眉をひそめる人もいる。その中に秋山の姿があった。偶然通りかかったのだが、「女性の権利拡大」という言葉に、なぜか気持ちがざわつく。
そこへ「弱者男性フォーラム」で知り合った佐々木がやってくる。
「お、秋山。お前も来たのか。見ろよ、あいつらは“女性こそ弱者だ”って言って、男を無視してる連中だ。」
「いや、俺はたまたま通りかかっただけで…ただ、こうして声を上げられるのは正直うらやましいよ。俺たちは何も変えられない気がしてさ。」
「そんなことはない。俺たちは動かなきゃいけないんだ。『弱者男性』だって声を上げればいい。フェミニストだけが弱者ってわけじゃないだろ?」
佐々木はそう言い放ち、デモ隊に近づいていく。デモの様子を動画で撮りながら、批判的なコメントを叫ぶ。
「男性差別はどうしてくれるんだ! 女性だけが被害者じゃないだろう!」
麻美は一瞬目を止めるが、周囲の混乱を避けるためにそのままスルーしようとする。秋山は心苦しそうにそばに立っているだけだ。
第三幕:衝突の予兆
デモを終えた麻美と高木が、事務所で休憩している。高木は先ほどの佐々木の言動が気になっている。
「さっきの男性、すごい勢いでしたね。やっぱりネットで『弱者男性』を名乗る人たちが増えているって本当なんでしょうか?」
「増えてる実感はあるわ。だけど、彼らの声は確かに無視できない部分がある。男性でも孤立や貧困に苦しむ人がいるのは事実だから。でも、ああいうふうに攻撃的に来られると、正直怖いと思ってしまう。」
麻美は内心、男性の置かれた厳しい状況も理解できると感じているが、活動の中でそこまでケアしきれないのが現状だ。
場面4:心療内科・診察室
「最近、寝付きも悪くて…。仕事も長続きしないし、恋愛なんて夢のまた夢。ニュースを見ても、女性ばかりがスポットライトを当てられているように感じてしまって…。」
「秋山さんは、自分が社会に受け入れられていないと感じるんですね。」
「はい。でも、だからといって女性を責めたいわけじゃないんです。どうしても“自分は取り残された”って感じが拭えなくて…。」
「まずは、自分の困りごとを整理してみましょう。あなたに必要なのは、女性を敵視するよりも、一つひとつ社会との接点を増やしていくことかもしれませんよ。」
秋山は少しだけ表情が和らぐが、内面の複雑な気持ちは容易には解決しない。
第五幕:SNS上の激化
場面5:秋山の部屋・夜
再び「弱者男性フォーラム」を眺める秋山。そこには佐々木が投稿した先日のデモの動画が貼られ、過激なコメントが多く付いている。
スレッドタイトル:「女性優遇デモを叩き潰せ! 我々の苦しみをわかってもらうには?」
書き込みは一部、女性全体を侮蔑する表現や、暴力的な言葉にまで発展している。秋山は読み進めるうちに、胸がざわつく。
「俺も辛いけど、こんなやり方じゃ何も変わらないだろ…。でも、居場所はここしかない気がするんだ。」
第六幕:思わぬ接点
地域センターで社会的支援イベントが開かれている。貧困問題やDV被害者支援など、多様なテーマを扱うブースが並ぶ。麻美は「フリーダム・リンク」として女性支援の活動紹介をしており、偶然秋山も就労支援ブースを見学に来ていた。
秋山は遠巻きに麻美のブースを見る。そのとき麻美と視線が合う。先日のデモの場で会ったことをお互いにうっすら覚えている。
「こんにちは。もし興味があれば、どうぞ見ていってください。」
「もちろん男性でも大丈夫ですよ。私たちは『女性の権利』を軸に活動してますが、経済的な苦しみとか社会的孤立とか、そういう問題も一緒に解決を考えたいと思ってるんです。」
秋山は意外そうな表情を見せる。麻美の方も、ネットで語られる「弱者男性像」とは異なる実直そうな雰囲気の秋山に対し、少し興味を抱く。
第七幕:対話と亀裂
秋山と麻美は少しだけ話をする。秋山は自分の苦しみを少し打ち明け、麻美は熱心に耳を傾ける。
「本当は私たちも、男性の苦しみをちゃんと理解したいと思ってるんです。でも、どうしても女性差別や暴力が根強く残っていて、そちらの問題に注力せざるを得ないのが現状で…。辛い思いをしている男性を全部無視してるわけじゃないんですよ。」
「女性が今まで不利益を被ってきたのは、俺もニュースや本で知ってるし、わかるんです。でも…なんというか、俺たちも苦しいんです。どこにぶつければいいか分からないモヤモヤがあって…。」
二人の会話が少しずつ噛み合い始めた矢先、佐々木が休憩スペースにやって来る。
「秋山、お前こんなところで何してるんだ? こいつらは俺たちを男だからといって排除しようとしてる連中だぞ。」
「そんなつもりはありません。私たちは…」
佐々木(遮る)
「どうせ男性は加害者だとか言いたいんだろ? 秋山、お前だってずっと悩んでただろう。こんな連中と話しても無駄だ!」
麻美は反論したいが、言葉が出ない。秋山も一瞬で萎縮してしまう。結局、佐々木に引っ張られるようにその場を後にする。
場面8:夜の公園
佐々木と秋山が、公園のベンチに座っている。佐々木は苛立ちを隠さず、スマホで先ほどの様子をSNSに書き込んでいる。
「もっと強く出なきゃ駄目なんだ。連中は自分たちの権利拡大しか考えてない。俺たちをバカにする奴らには徹底的に対抗してやる。」
「でも、ちゃんと話せばわかり合える面もあると思うんだ…」
「お前は甘い! ずっと社会から無視されてきたの、忘れたのか? 誰も助けちゃくれなかったじゃないか。」
秋山は反論できずに黙り込む。しかし胸には、麻美の言葉と、自分自身の苦しみの両方が渦巻いている。
場面9:街頭・夜
数日後。秋山は、夜の街頭で一人立ち尽くしている。そこへ偶然、ビラ配りを終えた麻美が通りかかる。お互い気まずそうだが、秋山は意を決して話しかける。
「あの…あの日は、すみませんでした。僕はあなたたちを責めたいわけじゃないんです。苦しいのは自分だけじゃないって、頭ではわかってるんですけど…。」
麻美は微笑み、秋山にビラを差し出す。そこには「孤立を防ぐための居場所づくり」というイベントの案内が書かれている。
「よかったら来てみませんか? 女性向けのプログラムも多いけど、男性でも参加できるセッションがあるんです。私たち、もっと男性の困りごとも知りたいと思ってるの。」
秋山は戸惑いながらも、ビラを受け取る。ほんの少し、光が見えた気がした。
終幕:それぞれの一歩
公園のベンチに座り、ビラを見つめる秋山。遠くには街頭で呼びかける麻美たちの姿が見える。そこへ佐々木から電話がかかってくるが、秋山は一瞬ためらった後、電話には出ずに切る。そして意を決して、イベント参加を検討するかのようにスマホで検索を始めるのだった。
「“弱者男性”と呼ばれようと、“女性”と呼ばれようと、みんな孤独や不安を抱えている。同じように苦しんでいるなら、理解し合える道があるはずだ…。」
夜の街に、秋山の足音が小さく響いていく。まだ険しい道のりではあるが、小さな一歩が踏み出された。
終わり
本作は「弱者男性 vs. 女性」という単純な対立構図を描く一方、その先にある個々の葛藤や互いの声を知ろうとする姿勢を提示する。登場人物たちは必ずしも理解し合えたわけではないが、秋山のように少しずつ境遇の異なる人たちとの対話を試みることで、新たな関係を築いていく可能性を示している。
人の心の内面なんてわかるわけないでしょ
その上でできるかぎりお互いが不快にならず円滑にコミュニケーションできるように
それをお互い汲み取りましょうねってだけの話
人の心はわからないというのは「隠されている内心というものがあるので表面上は好き放題言って周りを好き放題に傷つけても構わない、だって内面は別だからね、悪気があるわけじゃないからね、許されるでしょ」という意味ではないぞ
書き手は「発達障害(ASD) vs 定型発達」の枠組みを明確に打ち出しており、相手を「表面しか見ない」「機械的」といった断定的なネガティブ評価で語っている。対立構造を強調することで、読み手には「定型発達こそが人の心が分からない」というやや過激な主張が際立つ。
「納得いかない」「アクロバティック認定」「殺されたくないから嫌々従うのが当たり前」など、非常に感情を伴った言葉選びが散見される。何らかの具体的な経験やフラストレーションが背後にあることをうかがわせる。
「〜は定型発達の人間じゃない?」「基本的に相手の内面を想像しないんだよ」など、一括りにして断定する表現が多い。異なる意見や多様性をあまり考慮せず、「定型発達=こういうもの」と大きくまとめる傾向がある。
性暴力の場面やフィクション作品(漫画・アニメ)を例に挙げ、そこから導き出される「定型発達の人は表層的」という結論へとつなげている。例えとしてはインパクトが強く、読み手に問題意識を与える効果を狙っている可能性がある。
「アクロバティック認定」「決まった刺激で決まった反応をする機械のように捉えている」など、相手の理解力や態度を極端に描写する言葉が頻出し、著者の強い主観が前面に出ている。
「発達障害か定型発達か」という二分法に基づいた強い対立構造をとり、相手の立場や多様な側面を探る余地はあまり示していない。第三の視点をあまり想定していないことから、やや「白黒はっきりさせたい」という思考パターンが見られる。
「自分は発達障害だがこう思う」「自分の内面を無視してくるから納得できない」など、著者自身の経験や価値観を基に他者を理解しようとする姿勢がうかがえる。そのため、「自分の視点から見える事実」と「他者の主張」や「社会通念」との相違に強い不満を抱いているように感じられる。
「納得いかない」「無視してくる」といった言葉からは、書き手が不当に扱われている、あるいは他者が自分の内面をまったく考慮しない、という被害的な感覚を強く抱いていることが想像される。文脈としては「自分こそが理解しているのに、相手は理解しようとしてくれない」という不公平感や孤立感がベースにあるようだ。
具体例を挙げる→そこから「定型発達は表面的」という結論→さらに別の例を追加して結論を補強…という単線的なロジックが見られる。論点がブレることなく、「定型発達こそがわかっていない」という主張に一直線で向かっている印象。
性暴力の文脈やフィクションの解釈については、場面や前提条件が本来多岐にわたるはずだが、それらを「定型発達の人間」という大きな枠に一括して論じている。比較的短い文章の中で、さまざまなケースを「こういうことだから全員こう」という抽象化に結びつける志向が強い。
- 「自分」と「定型発達」を明確に区分し、相手を一括したネガティブイメージで描写する。
- 自身が被害を受けているという認識があり、その感情的な部分が文章に強く反映されている。
- 「自分の内面はこんなに考えているのに、相手(定型発達)は理解しない」という一人称視点のロジック。
- 被害感覚・防衛感覚が強く、相手への不信感を露わにしている。
3. 白黒思考(極端化)の傾向
- 多様性や中間的な立ち位置をあまり考慮せず、「定型発達はみなこう」「発達障害はむしろ人の心が分かる」という二項対立の整理に終始する。
4. 切実さ・強い葛藤の表れ
- 自身の置かれた立場への葛藤が、話題の飛躍や強い言葉となってにじみ出ている。
- 単なる客観批判というより、当事者としての怒り・痛みが文章のトーンに反映されている。
---
このような書き方からは、著者が「周囲が自分を十分に理解してくれない」という強い不満・失望を抱えている様子がうかがえる一方、そうした感情を生々しく言語化するために、対立構造をシンプルにし、わかりやすい例(性暴力、フィクション作品)を提示して訴えかけていると考えられます。また、断定的で二極化された認知は、一時的な激しい感情から出る表現である可能性もあり、背景には複雑な実体験や傷つきがあるのかもしれません。
よく発達障害(主にASD)の人間について、人の心が分からない、人の気持ちが分からないと言われるけれど、
個人的にはその特徴って寧ろ定型発達の人達の方だと思うんだよな。
だって定型発達の人達って、人の凄く表面だけ見て判断してくる。表に出さなくとも内面で色々考えてたりするのかもという事に考えが及ばないらしい。
自分は発達障害だけど、こっちの表に表れない部分で考えている事を無視してくる人達が人の心が分かるという扱いなのに納得いかない。
性暴力の場面でも、嫌だと言ってないから同意があっただとかいうアクロバティック認定してくるのって定型発達の人間じゃない?殺されたくないから嫌々従うとかの当たり前の洞察もしようとしない。
漫画やアニメ等のフィクション作品についても、物語を全体として捉えるのではなく一部分だけを切り取って、
涙を流していないから悲しんでいないだとか回想シーンがないから忘れているだとかの単純化したレッテルを貼る。
定型発達の人間って、基本的に相手の内面を想像しないんだよ。表に表れた部分だけ見て決め付けてる。
他人を複雑な内面を持った人間ではなく、決まった刺激で決まった反応をする機械か何かのように捉えているのが定型発達だと思う。
物質主義的傾向と孤独感の間には顕著な相関関係が観察されている。この文脈において、極簡主義が代替的パラダイムとして注目を集めている。
ある高位の企業幹部が、莫大な報酬を得ていたにもかかわらず、深刻な抑鬱状態に陥った事例がある。彼は「社会的成功の指標を全て満たしていたにもかかわらず、内面的には深い虚無感に苛まれていた」と述懐している。
この経験を契機に、彼は極簡主義の哲学に傾倒していった。極簡主義とは、物質的所有への執着を排し、生活を簡素化することで真の充足感を追求する生き方を指す。
彼は自身の生活様式を徹底的に再評価し、不要物の排除と規模縮小を断行。職業的地位を放棄し、極度に簡素化された生活を選択した。この転換により、彼の精神衛生は顕著に改善したという。
実証研究によれば、物質主義と抑鬱症状には有意な相関関係が認められ、物質主義者は平均的に幸福度が低いことが示唆されている。さらに、物質主義的傾向と経時的な孤独感の増大、そして孤独と抑鬱の間にも相関性が報告されている。
極簡主義の提唱者たちは、抑鬱症状の緩和には物質主義と過剰消費の抑制が効果的だと主張する。彼らは、過度の消費行動を満たされることのない渇望であり、満足感を求める徒労だと断じている。消費欲求から解放されることで、個人は自己の感情と向き合い、不幸に対処する能力を獲得できると説く。
一方で、極簡主義に対する批判的見解も存在する。「極簡主義の実践可能性は限定的ではないか」「富裕層のみが享受できる贅沢ではないか」といった疑問が提起されている。大多数の人々にとって、極簡主義的生活様式を採用するために人生を劇的に変革することは現実的ではない。
物質主義に関して、ある研究者は「全ての人間が程度の差こそあれ物質主義的傾向を有しており、物質的消費が必ずしも有害であるとは限らない。その影響は主に消費の動機に依存する。他者への誇示を目的とした消費は、往々にして負の結果をもたらす」と指摘している。
あらすじ:
中年女性・加賀美悦子(かがみ えつこ)は、都内の小さな会社で事務職をしている普通のオバサン。子供は独立し、夫も定年退職後、趣味に夢中であまり家に帰ってこない。悦子は平凡な日々を送っているが、実は彼女には一つだけ誰にも言えない秘密があった。
数年前に、彼女は偶然にも「魔法の世界」への扉を開いてしまい、気づけば異世界に迷い込んでしまったのだ。異世界では魔法の力を持つ者として、様々な冒険をしてきたが、その記憶は封印されていた。しかし、彼女の体内にはまだその力が眠っている。
ある日、普通の生活を送っていた悦子に突如、再び異世界からの召喚がかかる。街を守るため、再び魔法を使うことになるが、現代の都心での生活と異世界の激しい戦いの両立に四苦八苦。家事に仕事、さらには戦いまでこなす毎日を送りながら、彼女は次第に「オバサンの強さ」を見つけていく。
戦いの中で彼女は、意外にも年齢や立場が持つ強みを活かし、仲間たちに大きな影響を与える存在となる。しかし、悦子がどんなに魔法の力を振るっても、家に帰ると「今日も遅かったね」と言われる日常が待っている。悩みつつも、悦子は「オバサン」としての役割をしっかりと果たしていく。
主な登場人物:
48歳。仕事と家事をこなしながら、魔法使いとしての力を持つ「隠れた勇者」。年齢を重ねたことを活かした冷静さや知恵を駆使し、異世界でも現代でも戦い抜く。
悦子の同僚で、異世界の仲間でもある。若い頃から悦子に憧れており、異世界でも強力な魔法使いに成長したが、現実世界では頼りがいのないサラリーマン。悦子のサポートをする役割。
悦子の親友であり、魔法世界の仲間。彼女も異世界に迷い込んだ過去があり、現代でも悩んでいるが、どこかで自分の力に気づき、成長していく。
加賀美徹(悦子の夫)
定年後、趣味に没頭しているが、悦子が異世界に関わっていることに気づき始める。最初は理解できないが、少しずつ支える役割を果たしていく。
テーマ:
普通の「オバサン」である主人公が、どんな困難にも立ち向かい、自分の強さを見つける過程を描きます。年齢や性別に関係なく、誰もが持っている内面の強さを引き出すことがテーマ。
現実の「平凡な生活」と異世界の「壮大な冒険」を行き来することで、日常の大切さや、ちょっとしたことでも大きな意味を持つことを描きます。
ユーモアと感動
異世界の壮絶な戦闘と現実世界での家事や仕事を両立させる姿にユーモアを交えながらも、どこか感動的な要素も加えます。年齢を重ねたからこその冷静な判断力や経験が、重要な場面で活きてきます。
このように「オバサン」が主人公の創作では、年齢や性別を超えた普遍的なテーマに焦点を当て、ユニークなキャラクターを通して面白い冒険が展開できます。オバサンが持つ「強さ」を生かすことで、感動的かつエンターテインメント性の高い物語に仕上がることでしょう。
デスノートの切れ端を貰った。とどのつまり、これが運命の分かれ道だったのかもしれない。船井がニヤニヤしながら言ってきた。「これは本物だ」と。その瞬間、まるで雷に打たれたような衝撃がオレの心を貫いた。悪魔的な響きが、オレの内面をかき乱す。彼の目は、まるで深淵を覗き込むように光っていた。
「信じるか?」その問いかけは、まるで命を賭けた賭けのようだった。オレは笑って返した。「そんなの、ただの冗談だろ?」だが、その言葉の裏側には、深い疑念が渦巻いていた。デスノート。あのマンガの存在が、オレの頭をぐるぐる回る。果たして、本当にそんな力が宿っているのか?
夜中、ベッドの中で思いを巡らせる。切れ端の紙が、まるで生きているかのように感じられた。名前を書けば、死ぬ――その事実が、オレの心を揺さぶる。悪魔的な誘惑が、静かにオレを引き寄せる。もし、あの同級生の名前を書いたらどうなるのか?長年の恨みが、オレの中でうごめいていた。彼の存在は、オレの心に暗い影を落としていたのだ。
翌日、学校へ向かう。ポケットの中にその切れ端を忍ばせて。教室に入ると、船井がニヤリと笑った。「どうする?試してみるか?」その言葉が、まるで命を賭けた賭けの札を切るような緊張感を生む。周囲の友人たちは、何も知らずに楽しそうに話している。オレだけが、この異常な状況に置かれている。
授業中、無意識にペンを取り出し、切れ端を目の前に置く。心臓が高鳴る。悪魔的な力を手にする瞬間。思わず、彼の名前を書こうとした。手が震える。運否天賦の選択をしてしまうのか?悩みながらも、ペンが紙に触れる。その瞬間、空気が重くなる。まるで、何かが変わった気がした。
その時、教室の一角から突然、友人の一人が顔をしかめ、「あっ、まずい…!」と叫んだ。驚いたように立ち上がった彼は、制御が効かないかのように、便が漏れ出してしまった。教室中に広がる異臭。周囲は一瞬静まり返り、次の瞬間、混乱が引き起こされた。何が起きたのか理解できないまま、教室内は深刻な状況に陥った。
他の友人たちは、驚愕の表情を浮かべ、目を大きく見開いていた。「うわ、何だよこれ!」と叫ぶ者、口を押さえて後退る者。教室の空気が一変し、恐怖と困惑が混じり合う。さらに、次の瞬間別の友人が「うわ、ダメだ、オレも!」と叫び、立ち上がると、彼もまた漏らしてしまった。教室は一気に混乱とパニックに包まれた。
「くっ…、なんでこんなことに…!」誰かが叫び、他の生徒たちは動揺し、そわそわし始める。教室内は、まるで悪夢のような異様な光景に変わり果て、誰もが動けなくなっていた。自分の身に何が起こったのか理解できず、恐れの表情を浮かべる生徒たち。教師も状況を把握できず、混乱した様子で教壇から身を乗り出している。
オレの心の中で、悪魔的な力を手にする瞬間が近づく。その混乱の中で、周囲が便を漏らす姿が、まるで運命の冷笑のように思えた。オレは一瞬、恐れと興奮に包まれた。教室の中では、誰もが自分の状況に必死に抵抗しようとするが、次々と便意に襲われ、さらに混乱が広がっていく。
「さあ、どうする?決断を下せ。ケツだけに。」その声は、オレの耳元で響き続ける。教室の静寂が、便意の混乱によって崩れ去っていく。オレは名前を書こうとした瞬間、船井が「オレも、漏れる!」と叫び、立ち上がった。教室の中は、完全に悪夢のような状況に変わってしまった。
オレはその光景を見ながら、再び手を止めた。周囲が悪魔の力に翻弄される様子を見て、オレは自分の選択がどれほど重大なものなのかを実感した。デスノートの切れ端が本当に持つ力とは何なのか?悪魔との契約は、オレをどんな未来に導くのか。
混乱が続く教室の中で、オレは決意した。デスノートの切れ端が持つ力に引き込まれながらも、自分の運命を試すべきだと感じた。周囲の友人たちが次々と漏らしていく中、オレはその切れ端を見つめ、全てを賭ける決断を下すのだった。果たして、その選択がオレの人生をどのように変えるのか。悪魔的な力が、オレを試すように迫ってくる。
(Aメロ)
(サビ)
*さあ、どうする?決断を下せ
*ケツだけに。選ぶのは君だ
*この瞬間、全てを賭けて
(Aメロ2)
*恐れと興奮、交差する感情
*便意の嵐、誰もが戸惑う
*この力を、どう使う?試してみて
(サビ)
*さあ、どうする?決断を下せ
*ケツだけに。選ぶのは君だ
*この瞬間、全てを賭けて
(Bメロ)
*選んだ道が、君を導く
*悪魔の力、手に入れる時
*もう戻れない、選び取れ
(サビ)
*この瞬間、全てを賭けて
(アウトロ語り)
*さあ、どうする?心の声を
*ケツだけに。感じるままに
*君の選択が、全てを変える
デスノートの切れ端を貰った。とどのつまり、これが運命の分かれ道だったのかもしれない。船井がニヤニヤしながら言ってきた。「これは本物だ」と。その瞬間、まるで雷に打たれたような衝撃がオレの心を貫いた。悪魔的な響きが、オレの内面をかき乱す。彼の目は、まるで深淵を覗き込むように光っていた。
「信じるか?」その問いかけは、まるで命を賭けた賭けのようだった。オレは笑って返した。「そんなの、ただの冗談だろ?」だが、その言葉の裏側には、深い疑念が渦巻いていた。デスノート。あのマンガの存在が、オレの頭をぐるぐる回る。果たして、本当にそんな力が宿っているのか?
夜中、ベッドの中で思いを巡らせる。切れ端の紙が、まるで生きているかのように感じられた。名前を書けば、死ぬ――その事実が、オレの心を揺さぶる。悪魔的な誘惑が、静かにオレを引き寄せる。もし、あの同級生の名前を書いたらどうなるのか?長年の恨みが、オレの中でうごめいていた。彼の存在は、オレの心に暗い影を落としていたのだ。
翌日、学校へ向かう。ポケットの中にその切れ端を忍ばせて。教室に入ると、船井がニヤリと笑った。「どうする?試してみるか?」その言葉が、まるで命を賭けた賭けの札を切るような緊張感を生む。周囲の友人たちは、何も知らずに楽しそうに話している。オレだけが、この異常な状況に置かれている。
授業中、無意識にペンを取り出し、切れ端を目の前に置く。心臓が高鳴る。悪魔的な力を手にする瞬間。思わず、彼の名前を書こうとした。手が震える。運否天賦の選択をしてしまうのか?悩みながらも、ペンが紙に触れる。その瞬間、空気が重くなる。まるで、何かが変わった気がした。
その時、教室の一角から突然、友人の一人が顔をしかめ、「あっ、まずい…!」と叫んだ。驚いたように立ち上がった彼は、制御が効かないかのように、便が漏れ出してしまった。教室中に広がる異臭。周囲は一瞬静まり返り、次の瞬間、混乱が引き起こされた。何が起きたのか理解できないまま、教室内は深刻な状況に陥った。
他の友人たちは、驚愕の表情を浮かべ、目を大きく見開いていた。「うわ、何だよこれ!」と叫ぶ者、口を押さえて後退る者。教室の空気が一変し、恐怖と困惑が混じり合う。さらに、次の瞬間別の友人が「うわ、ダメだ、オレも!」と叫び、立ち上がると、彼もまた漏らしてしまった。教室は一気に混乱とパニックに包まれた。
「くっ…、なんでこんなことに…!」誰かが叫び、他の生徒たちは動揺し、そわそわし始める。教室内は、まるで悪夢のような異様な光景に変わり果て、誰もが動けなくなっていた。自分の身に何が起こったのか理解できず、恐れの表情を浮かべる生徒たち。教師も状況を把握できず、混乱した様子で教壇から身を乗り出している。
オレの心の中で、悪魔的な力を手にする瞬間が近づく。その混乱の中で、周囲が便を漏らす姿が、まるで運命の冷笑のように思えた。オレは一瞬、恐れと興奮に包まれた。教室の中では、誰もが自分の状況に必死に抵抗しようとするが、次々と便意に襲われ、さらに混乱が広がっていく。
「さあ、どうする?決断を下せ。ケツだけに。」その声は、オレの耳元で響き続ける。教室の静寂が、便意の混乱によって崩れ去っていく。オレは名前を書こうとした瞬間、船井が「オレも、漏れる!」と叫び、立ち上がった。教室の中は、完全に悪夢のような状況に変わってしまった。
オレはその光景を見ながら、再び手を止めた。周囲が悪魔の力に翻弄される様子を見て、オレは自分の選択がどれほど重大なものなのかを実感した。デスノートの切れ端が本当に持つ力とは何なのか?悪魔との契約は、オレをどんな未来に導くのか。
混乱が続く教室の中で、オレは決意した。デスノートの切れ端が持つ力に引き込まれながらも、自分の運命を試すべきだと感じた。周囲の友人たちが次々と漏らしていく中、オレはその切れ端を見つめ、全てを賭ける決断を下すのだった。果たして、その選択がオレの人生をどのように変えるのか。悪魔的な力が、オレを試すように迫ってくる。その瞬間、全てが始まった。