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ブコメで「だったらみんなコマンドー見ればいいだろ!動けこのはてなブックマークが!ブックマークしろってんだよ!(ガンッ!)この手に限る。」というのがあったんだが、実に興味深いコメント。
そもそも、このコメントの真価を理解するためには、1985年に公開された映画「コマンドー」についての知識が不可欠。アーノルド・シュワルツェネッガーが主演したこの作品は、単なるアクション映画の枠を超えて、ある種の文化的アイコンとしての地位を確立している。その理由は明快で、徹底的に突き抜けたストーリー展開、シュワちゃんの圧倒的な存在感、そして何より秀逸な台詞回しにある。特に台詞については、日本語吹き替え版の魅力も相まって、長年に渡ってネットミームの源泉となっている。
このブコメの構造を紐解いていくと、実に巧妙な技法が使われていることが分かる。まず「動けこのはてなブックマークが!」という部分。これは映画内の名シーン「動け、この腕(ポンコツ)が!」のパロディなわけだが、単なる言葉の置き換えに留まらない。主人公が負傷した腕に語りかけるという、ある意味で非合理的な行動を、はてなブックマークという仮想的なプラットフォームに対する呼びかけに転換することで、デジタルとアナログの境界を絶妙にぼかしている。
続く「ブックマークしろってんだよ!(ガンッ!)」という部分も秀逸。映画における主人公の荒々しい行動原理を、ネット上の行動に置き換えることで、現実とバーチャルの世界を交差させている。特に「(ガンッ!)」という擬音の挿入は、テキストベースのコミュニケーションに物理的な重みを持たせる効果がある。
そして最後の「この手に限る。」というフレーズ。これは映画内では、主人公が「敵を倒すにはこの方法しかない」といった、直接的で物理的な解決策(例えば「武力で制圧する」「爆破する」など)を提示する際の決め台詞として使われている。
ところが、このブコメでは「ブックマークする」という、インターネット上の電子的なボタンを押すだけの穏やかな行為に対してこのフレーズが使われている。つまり、映画における「力づくの解決」という文脈と、ネット上の「クリック一つの行為」という文脈の間にある極端なギャップが、ユーモアを生んでいるわけだ。
これは単なる言葉遊びを超えて、バーチャルとリアルの境界を行き来する現代的な表現として捉えることができる。そして、そのギャップを理解して笑える人がいるということ自体が、インターネット文化の深さを物語っているんじゃないだろうか。
興味深いのは、このコメント全体が持つ多層的な意味構造。表層では「みんなの好きな映画」という問いに対する一つの回答として機能しながら、その表現形式自体が答えの正当性を主張する論拠となっている。つまり、このコメントの真意を理解できる時点で、その読者は既にネット文化の深層に触れているということを意味するわけだ。
こういった重層的な文化的参照を可能にしているのは、インターネットという場が醸成してきた共有体験の深さなんだろう。単なるパロディや引用の域を超えて、新たな意味を生成し続けるという現象は、まさにネット文化の成熟を示す指標と言えるかもしれない。
b:Id:zeromoon0 育児は「する」もんじゃねえぞ「状態」なんだぞ仕事でしてる奴に言われたくねえわって笑って流しとこう。
なお、子育てやジェンダーネタにいっちょがみするの好きで、性的なものに関する理倫に物申したい系なのに、
チンコとか言って喜んでる
人には愚行権があるのでメンヘラ発言をするなとは言わないが頼むから自覚は持って欲しい
2021年12月18日 19時54分 ID:d72dbad7af (3/4) ID抽出 通報 返信 zeromoon0
https://b.hatena.ne.jp/zeromoon0/
▼あのにますトライバル
先週末のことだ。何気なくネットサーフィンをしていたら、「ある特定のコマンドをブラウザ上で入力すると、増田に隠された“裏技”が見られるらしい」という噂を目にした。いわゆるイースターエッグのようなものに違いない。私はこういうちょっとした秘密を見つけるのが大好きで、子供の頃からファミコンやスーパーファミコンの裏技を片っ端から調べては試してきたものだ。しかもそのコマンドが、かの有名なゲームで使われていた伝説の“あのコマンド”らしいというのだから、ますます興味が湧いてしまった。
昔、アクションゲームを遊んでいた人ならきっとピンとくるだろう。そう、「↑↑↓↓←→←→BA」という、世界で最も有名な裏技コマンドの一つだ。あのコマンドを入力すると何らかの変化が起きるというのは、レトロゲームファンならお馴染みの話だが、それが今になって、よりにもよって増田のブラウザ表示画面に仕込まれているというのだ。これは確かめるしかない。
私は興奮半分、不安半分のままブラウザを開き、増田のとあるページを表示してみた。見慣れたUIがそのままそこにある。まずは落ち着くためにコーヒーを一口飲み、何が起きても対応できるように準備を整える。次にキーボードを握りしめ、いつもの“あのコマンド”を試しに入力してみた。――「↑↑↓↓←→←→BA」。入力し終えた瞬間、私は思わず画面に目を凝らす。しかし、最初は何も変化がなかった。
「噂はデマだったのか?」そう思って肩を落としかけたとき、ふいに画面の右下あたりからポップアップのようなものがひょっこり飛び出してきた。ポップアップといっても、一般的な広告バナーではない。まるで小さな吹き出しのようなウィンドウがすっと現れて、そこに何か短いメッセージが書かれているではないか。そこにはこうあった。
「よく気づいたな、ゲーマーよ。さあ、次はどこへ向かう?」
突然現れたメッセージにドキリとしたのと同時に、テンションが一気に高まった。たしかにこれはイースターエッグだ。おそらく製作者が遊び心で仕込んだものに違いない。しかもそこには、もう一度そのコマンドを入力したくなるような不思議な言葉が並んでいた。私は思わずもう一度同じコマンドを入力してみる。すると、今度は背景の色がほんの少しだけ変化して、上部のタイトル部分に謎のアイコンが一瞬だけ点滅してみせたのだ。
これだけでは終わらない。さらなる驚きはその後やってきた。なんと、裏技入力の累計回数によって表示されるメッセージや画面の演出が変わる仕組みらしい。たとえば5回目に試すと、最初の吹き出しのテキストがちょっと違った文言に変わっている。10回、20回と回数を重ねるうちに、背景やアイコン、あるいはリンクの色までもが段階的に変化していく。しかも、その変化はちょっとしたジョークやパロディ要素を含んでいて、見るたびにクスッと笑えるような仕掛けになっているのだ。
ここまで見せられると、裏技というよりもはやアトラクションのようで、ユーザーを楽しませるための“おもちゃ”と言ってもいいかもしれない。いったい誰がこんな裏技を組み込んだのかはわからないが、少なくとも普通にページを使っているだけでは絶対に気づかない。ゲームの秘奥を突き止めるかのように隅々まで調べ、あの伝説的なコマンドを試してみた人だけが知ることのできる特別な体験だ。ネットの深いところには、まだまだこんな遊び心に満ちた宝物が眠っているのかもしれない。
さらに面白いのは、この裏技の存在を確かめようとした人たちが秘密めいたコミュニティを作り出している、という事実だ。実際にSNSを覗いてみると、増田の裏技について呟いている投稿が散見される。あくまでオープンな場所に書かれているのだが、なぜか詳細を語る人は少ない。みんな口をそろえて「自分で見つけてほしい」「ネタバレはしない」とだけ言うのだ。それはまるで、かつてのゲーム雑誌が見つけにくい裏技についてあえて濁して載せていたような、わくわく感を煽るやり口に似ている。
こんなふうに、誰もがアクセスできるウェブ上でありながら、あえて多くは語られない秘密が隠されているのは実にロマンがある。普通にインターネットを使っているだけでは見えてこない小さな仕掛けが、実は潜んでいるかもしれない――そう思うだけで、私たちはほんの少しだけ“探検者”になれる気がしないだろうか。
もっとも、裏技を発見したからといって実利があるわけではない。ゲーム内の隠しコマンドとは違って、新しいモードが解放されたり、アイテムを大量にゲットできたりするわけでもない。しかし、誰も気づかないかもしれない秘密を突き止め、その証拠を見届けるという行為には、計り知れない満足感が伴う。まるで宝探しのように、自分だけがその場所にたどり着けたという優越感もあるだろう。これこそイースターエッグの醍醐味と言える。
今回の「増田の裏技」のように、何気なく見ている日常の画面が不意に変化する瞬間は、いつになっても心を躍らせてくれる。ふと気づいたら、もう一度コマンドを入力して微妙な変化を確かめたくなってしまう。ゲームの世界と違って死んだりミスしたりもしないから、純粋に試行錯誤できるのも嬉しいところだ。「もしかしたら、もう一段階深い仕掛けがあるのでは?」と想像を膨らませ、繰り返しコマンドを入力してしまう。ある種の中毒性すらある。
そして何より、この裏技は誰かとのコミュニケーションを生む可能性がある。おそらくこのイースターエッグを仕込んだ人は、ユーザーが気づいたときの反応を想像して楽しんでいるに違いない。さらに、その発見者同士がSNSや掲示板などで「こんなの見つけたよ!」と話題にし合う。その繋がりが、また次の発見を誘発し、新たな遊びを生み出す。そうやっていつの間にかコミュニティが形成され、ただの“隠しコマンド”が、ちょっとした文化のように大きく育っていくのだ。
もしまだこの裏技を試していないのなら、ぜひやってみてほしい。増田のページを開き、キーボードで「↑↑↓↓←→←→BA」と、あの懐かしのコマンドを入力するだけだ。何も起きないかもしれないし、あるいは思いがけないメッセージが飛び出すかもしれない。運が良ければ、何度も試すうちに、あなたの知らない新たな表情を見せてくれるだろう。どんな仕掛けが待っているのかは、実際にやってみるまでわからないのだから。
まるで子供の頃に戻ったかのように、どきどきしながらコマンドを入力してみる。その瞬間こそが、秘密を解き明かそうとする冒険の始まりだ。私たちはデジタルの世界における“探検者”として、日常の画面の裏側に隠された可能性を見出す。そこには確かに魅力がある。とびきり地味だけれども、驚きと喜びをもたらす仕掛けがある。あなたももし、この「増田の裏技」をまだ知らないなら、ぜひ一度試してみてはいかがだろうか。案外、ブラウザの向こうにはあなたを待つ小さな“発見”が隠されているかもしれないのだから。
――当たり前の毎日が、ある日突然不気味な影に蝕まれるなんて、少し前のわたしなら想像もできなかった。わたしは中学三年生。受験を控えているため、普段は塾に通ったり、学校でも進路の相談をしたりと、それなりに忙しい日々を送っている。家は住宅街にあり、学校までは歩いて15分ほど。街灯の数はそこそこあるし、真夜中に外を出歩くわけでもないので、これまで怖い思いをしたことはほとんどなかった。
それでも、一学期の終わりごろから微かな“違和感”が生まれ始めた。最初は通学路を歩いているとき、「視線を感じる」という程度だった。ふと、だれかに見られている気がして後ろを振り返るのだけれど、そこに人の気配はない。でも、どうにも落ち着かない。そんな日が何度か続いて、夏休みが終わった頃には「もしかしたら、わたしの思い過ごしじゃないのかも」と感じるようになった。
決定的だったのは、ある夕方、塾が終わってから夜に帰宅するときのこと。友達と途中まで一緒に歩いていたが、その子がコンビニに寄ると言うので先に別れ、一人で家に向かうことになった。少し薄暗くなってきてはいたものの、まだ人通りがゼロというほどでもない時間帯。だけど、その日はやけに背後が気になった。足音が一つ増えているような気がする。怖くなって、道路脇の自販機でジュースを買うふりをして、そっと後ろを見やった。すると、街灯の下に男の人が立っているのが見えた。30代後半くらいに見え、腹が少し出た体型。見覚えのない顔なのに、こちらをじっと見ている。その目つきに、不気味な笑みが浮かんでいたように感じた。
一瞬、心臓が止まりそうになった。「もしかして、わたしをつけている…?」考えたくなかったが、その可能性を否定できなかった。その日は慌てて家に帰り、両親にも打ち明けた。母は「気をつけなさい」と言い、父は「危なそうだったら遠慮なく叫べ」とアドバイスをくれた。わたし自身も「気のせいじゃないかも」と半ば確信していたけれど、決定的な何かがあるわけでもないので、どうにも気持ちが晴れない。そんな宙ぶらりんの状態が続いていた。
ところが、数日後、ついにその男が正面からわたしに接触してきた。学校から帰ろうとして、家のすぐ近くの角を曲がったところで、まるで待ち伏せしていたかのように声をかけられたのだ。
思いがけない質問に、一瞬「え…?」と固まってしまう。すると男は、妙にテンションの高い声で続けた。
「ガンダムだよ、ガンダム。プラモデルとかあるだろ? あれ、ガンプラって言ってさ。実は俺、ガンプラを転売して生活してるんだよ。レアな限定品とかはネットで高く売れるから、なかなか儲かるんだよね」
まったく身に覚えのない話を次々と畳みかけられて、困惑しかなかった。わたしはガンダムに興味があるわけでもない。何より、この男がどうしてわたしの家の近くで待ち構えているのかが気持ち悪い。けれど、怖さと戸惑いで体が動かず、言葉も出なかった。
「もし興味あったら、一緒にガンプラ買いに行かない? 教えてあげるよ。限定版とか、結構大変なんだけどさ、手に入ると嬉しいんだよな」
意味不明な勧誘に、わたしは思わず後ずさった。怖い。この人はわたしを待ち伏せして、しかもこんな会話を一方的に押しつけてくる。わずかに震える声で、「興味ないんで、すみません」とだけ言うと、逃げるように家の門を開けて中に入った。ドアを閉める直前、わたしを見つめる男の目はまだ笑っていた。あの不気味な笑みが焼きついて、頭から離れなくなった。
その日から、男はわたしの周囲でますます姿を現すようになった。朝、家を出るとき、門の外に立っていることもある。学校の近くで待っていることもある。わたしだけでなく、クラスの友人たちにも目撃されはじめ、「あの人何?」「怖いんだけど」と噂になった。「髪が脂ぎっていて、いつもガンダムのTシャツ着てるよね」とか、「30代後半くらいかなあ。ガンプラ転売ってホント?」なんていう憶測がクラスで飛び交っていたけれど、わたしからすれば笑い事ではなかった。
どうしてわたしをターゲットにするのかが分からない。ガンダムなんてまったく興味ないし、むしろ男の人が言うようなレア商品の価値もピンとこない。無視してやりすごそうにも、毎日しつこく声をかけてくる。「おはよう。昨日はガンダム観た?」「ガンプラ買うなら今がチャンスだぞ」など、訳の分からない話ばかり。はじめは無視して歩いていたのだが、そのうち腕を掴まれそうになることもあった。
「逃げんなよ。俺は優しく教えてやろうとしてるのに」
その言い方が、もう普通じゃない。目の奥が怖くて、まるで自分が獲物にされているような、そんな凄みを感じた。学校の先生に相談し、生活指導の先生が一緒に帰り道を巡回してくれる日もあった。でも、その日は男の姿は見当たらない。先生がいない日に限って、わたしの通り道にひょいと現れるのだ。わたしは携帯を握りしめて、いつでも警察に電話できるように心がけていたが、相手がすぐに手を出してくるわけでもない。曖昧な距離を保ちながら、ネットリと追いかけられている感覚だった。
さらに恐ろしかったのは、わたしのSNSを探し当てられたこと。プロフィール写真は家族や友達との写真だったが、そこからわたし本人を特定したのだろう。急にフォロー申請が何件も届き、メッセージで「一緒にガンプラ見に行こうよ」「ガンダムの良さを教えてあげるからさ」としつこく書かれたものが送られてきた。もちろん拒否したけれど、それでもアカウントを作り直して追いかけてくる。
そのSNSのアイコンもガンダム関係のものばかり。タイムラインにアップされている写真には、大量のプラモデルの箱が積み上げられており、「最近ゲットした限定版。転売すれば倍になるけど、コレクションにしてもいいよな」とか「本当に好きな子に出会えたら、このコレクションを見せてあげたい」など、怪しいコメントが並んでいた。わたしは背筋が凍る思いだった。どうやってブロックしても追いかけてくるし、日に日に執着が深まっているようにすら感じられる。
両親も事態を重く見始め、警察に相談したほうがいいのではないかという話になった。わたしは「でも、実際に身体的な被害には遭っていないし…」と気が引けていた。学校の先生も「警察に通報して相手を刺激するのが心配だ」という雰囲気で、結局「注意して帰りましょう」というアドバイスのまま、なかなか大きく動くことができない。その間にも、わたしの不安はどんどん募っていった。
そして、ある日の夕方、決定的な恐怖に襲われる事件が起きた。学校の文化祭準備があったため、いつもより帰りが遅くなったわたしは、友達と途中まで一緒に歩いたあと、一人で家に向かっていた。塾の時間も迫っているし、ちょっと急ぎ足だった。ふと曲がり角を曲がった瞬間、目の前に男が立っていた。わたしは思わず悲鳴を上げそうになったが、声にならない。
まるでわたしの行動を全部把握しているかのような口ぶり。彼はあの不気味な笑みを浮かべながら、何か箱のようなものを差し出してきた。ガンプラのパッケージだ。派手な色のモビルスーツが描かれている。
「これ、新作の限定ガンプラ。転売したら高いけど、お前にやるよ。あ、でもただじゃないよな? 俺の好意をちゃんと受け止めてくれるなら、ってことだけど」
彼の言葉の節々に感じる狂気めいた雰囲気。逃げなければ、と思っても、足がすくんで動かない。必死に頭を回転させ、「受け取るふりをして箱を落として、その間に逃げる」という作戦を瞬時に思いついた。わたしは手を差し出すと同時に、わざと勢いよく箱を地面に落とした。
「何してんだよ!」
彼は怒鳴り、落ちた箱のパーツが散らばる。わたしはその隙に走り出した。涙があふれて、視界がにじむ。背後からは乱暴な足音と、「待て! ふざけるな!」という声が聞こえた。息が苦しくなりながらも、どうにか大通りまで走りきり、人通りが増えたところで立ち止まる。彼は少し離れた場所に立ち尽くし、苛立ったようにわたしを睨んでいたが、さすがに人目が多いのか追っては来なかった。
恐怖と悔しさが混じった感情で、わたしはその足で交番に駆け込んだ。そこで出会った警察官は、最初は「どうしたの?」と優しく声をかけてくれた。わたしは必死に息を整えながら、ここ数週間の出来事を話した。ストーカーまがいの執着や待ち伏せ行為、SNSでのつきまとい……警察官の表情が真剣になっていくのが分かった。
連絡を受けた両親が交番に駆けつけ、わたしが受けた被害を詳しく話すと、警察官は「これ以上放置できない」として本格的に捜査に乗り出すことを約束してくれた。わたしはそこでようやく少しほっとしたが、同時に「もっと早く相談しておけばよかった」と強く思った。
それから数日後、警察が男を逮捕したとの連絡があった。わたしの塾の前で、再び待ち伏せしているところを張り込んでいた捜査員が確保したらしい。男は「自分はただガンダムの良さを伝えたかっただけ」などと弁明していたようだが、わたしの写真を無断で撮影して保存していたり、行動パターンをメモに書き込んでいたりと、数々の“ストーカー行為”の証拠が見つかり、転売目的で集めたガンプラの山とともに押収されたと聞いた。
ニュースサイトの地域欄に、小さく「30代男性をストーカー規制法違反で逮捕」と載っていた。名前は伏せられていたけれど、間違いなくあの男だろう。あの不気味な笑み、尋常ではない執着心、SNSでのしつこいメッセージ……わたしの普通の生活は、そんな彼の行動で大きく乱されていた。いま思うと、本当に怖かったし、もし警察に駆け込むのが遅れていたら、もっと大きな被害に遭っていたかもしれない。
男が逮捕されたと聞いてから、わたしはようやく外に出るときの恐怖から解放された気がする。とはいえ、すぐに「もう安心」とは思えず、しばらくは父や母に迎えに来てもらったり、友達と一緒に行動したりして、用心深く過ごした。学校の先生や友達もわたしを気遣ってくれたおかげで、少しずつ心の傷が癒えていったように思う。
受験勉強が本格化するにつれ、わたしはあの出来事を少しずつ振り返る余裕もできた。中学生のわたしには、あの男の「ガンダム転売」という仕事自体がピンと来なかった。好きなものを売買することで生計を立てている大人がいることは分かったが、それを理由に他人を追い回し、恐怖に陥れる行為が正当化されるわけがない。何より、彼自身がガンダムの魅力を熱く語る一方で、人の気持ちを無視した行動ばかり取っていたことに、強い矛盾を感じる。
今では、わたしが夜道を歩いているとき、あの男の足音を想像してしまうようなことはかなり減った。完全にトラウマが消えたわけではないけれど、警察や家族、学校の先生など、わたしを守ってくれる大人がいたことで「一人じゃない」という安心感を得られたのが大きいと思う。
この一件で学んだのは、「変だな、おかしいな」と感じたらすぐに誰かに相談することの大切さだ。最初は「大げさかな」「気のせいかな」と思って、なかなか行動に移せなかった。でも、もしもう少し早い段階で大人に相談していれば、あんなに怖い思いをしないで済んだかもしれない。今はその後悔を活かして、少しでも不安を感じたら周囲に声を上げるようにしている。
ガンダムオタクにストーキングされるなんて、わたしの人生にまさか起こるとは思わなかった。だけど、最終的に彼が逮捕されたことで、わたしの生活は再び平穏を取り戻した。この先も、いつどこで危険が潜んでいるか分からないからこそ、小さなサインを見落とさないように、そして自分の身を守るための行動をためらわないように――そう心に刻みながら、わたしはこれからも前を向いて生きていこうと思う。
実名ね
完全に主観だけど、あまりないとは思うけどいてもおかしくないぐらい
2.ダブルクォートで囲まず先のページまで見る→名前が異なるページがHITするだけ
→Xみたいなにわかるしようじゃないので不明。アイコンはデフォルトの無地。
昔作って忘れているだけの可能性は?スマホ契約時にノリで作らされることもあるよ
→たぶん可能性としては低い。
>なりすまししてると断定するに足る根拠もなさそうだし、よほど著名でない限りは通報してもスルーされると思うよ
>例えば、世界に一人しかいない名前を面白いと思ってアカウント名で使ってるだけ、みたいな場合は別に「なりすまし」ではないんだよね
うーん、単純にあえて使う名前でもないって感じなんだよね。例えば、漫画とかであるような名前(かっこいいとか、響きがいい)とか。自分で言うのもなんだが。
スマートフォンが主流になって久しい。街中を見れば老若男女関係なく、誰もが同じような長方形の端末を手にしているし、電車に乗ればみんな下を向いてSNSやらゲームやらに没頭している。いや、それ自体を否定するつもりはないんだ。だけどさ、本当にみんながスマートフォンを必要としているのかなって思うことはある。いまやスマホの機能はパソコンをも凌ぐものになってきているけど、それって果たして全員にとって必要不可欠なのだろうか。そもそもガラケーで事足りる人って、意外と多いんじゃないかと思うんだよね。
そりゃ、便利だよ、スマホは。アプリを入れれば何だってできるし、SNSだって投稿が簡単にできる。動画も地図もあれこれ全部一つの端末に詰め込んで、ポケットに入れて持ち運べるなんて、かつてのパソコン時代やガラケー時代から比べたら夢のようだ。それに加えて大容量のデータ通信が可能なプランを契約すれば、外でもガンガン動画を観られるし、リアルタイムでのやり取りもスムーズ。そういう意味では、確かにスマホはすごい。でも、その“すごさ”を真に活用できている人がどれほどいるのかは、ちょっと疑問だ。
たとえば、メールと電話、それにちょっとしたSNSやブラウザ検索くらいができれば十分という人は少なくないはずだ。その程度の用途なら、別にガラケーでもいいんじゃないの? と思うわけ。必要最小限の機能を備えていれば、そもそも「ネットが重い」「アプリが落ちる」「OSがバージョンアップできないからアプリが使えない」といった煩わしさとは無縁だし、バッテリーも長持ちする。なんせガラケーなら2〜3日は充電しなくても平気だ、なんてこともザラにあるからね。スマホだと日常的に毎晩充電しなきゃいけないから、その手間を考えるとガラケーの利点もやっぱり大きい。
もちろん、スマホにはカメラ性能が高いとか、決済機能があるとか、生活を快適にするいろいろな便利機能が詰まっている。でも、カメラだって一眼レフやデジカメを持っている人からすれば、スマホカメラじゃ満足できないこともあるはずだし、逆にスナップ写真くらいしか撮らない人ならガラケーのカメラで十分事足りる。決済についても、スマホ決済が便利なのは間違いないけど、クレジットカードや交通系ICカードがあれば大抵の場所で用は足りるんだよね。結局、なんでもかんでもスマホに集約して「スマホがないと生活できない」状態になるのは少し危うい気さえする。
思えば、ガラケーと呼ばれる前の時代は、みんなが当たり前にあの二つ折りやスライド型の携帯電話を使っていたわけで。それでも社会は動いていたし、人間関係だってきちんと成り立っていた。実際、あの頃は電話とメールだけでコミュニケーションが十分成立していたし、インターネットをしたいならパソコンを使えばよかった。そして何より、ちょっとしたネット閲覧や着うた・着メロのダウンロードには、ガラケー専用のサイトが用意されていたから、それを不便だと感じていた人は今ほど多くなかったんじゃないかと思うんだ。
そう考えると、やっぱり「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」と思うこともある。だって、通話とメールが使えれば連絡は取れるし、カメラも簡易的な撮影には不自由しない。さらに、多くのガラケーにはストラップを付けられる穴があって、そこにお気に入りのキャラグッズをぶら下げてアピールする楽しみ方なんかもあった。いまのスマホには、そういう「ケータイの個性化」を楽しむ余地が薄い気がするんだよ。スマホケースやカバーで差別化するっていう人もいるけど、昔のようにジャラジャラとストラップをぶら下げる感じとは違うんだよな。
ときどき言われるのが、「いやいや、いまの世の中はLINEでのやり取りが必須だから、ガラケーじゃ不便でしょう」という意見。でも、それって本当に全員が必要かな? たしかに仕事やサークル、あるいは家族・友人のグループチャットで情報を一斉共有したり、スタンプでカジュアルにコミュニケーションしたりするのは楽で便利だ。でも、電話やメールじゃダメなの? 昔はそれでやりくりしていたわけで、無理にLINEに縛られる必要はないんじゃないかと思う。もちろん「いや、仕事でどうしても必要なんだ」っていう人はいるだろう。そういう人はスマホを使えばいい。でも、誰もが「LINE至上主義」に合わせている現状に、ちょっと違和感を覚えるのも事実だ。
もっと言えば、「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」と言いたくなることだってある。そう、ガラケーにはiモードという独自のネット接続サービスがあって、昔はあれで天気予報やニュースサイトを見たり、ちょっとした調べごとをしたりしてたわけだ。いまはさすがに対応サイトが減ってしまったかもしれないけど、それでも基本的な情報収集ならできなくもない。「スマホじゃなきゃネットができない」わけじゃないんだよな。
とはいえ、世の中にはガラケーを愛用しつつも、必要最低限の用途だけスマホを使う「2台持ち」という人もいる。スマホは持っているけど通話はガラケーでする、みたいなスタイルだ。これってわりと理にかなっていて、ガラケーは通話用にバッテリーが長持ちし、スマホはSNSやアプリ専用と割り切ると、余計な通知に煩わされることも減る。料金プランをうまく選べば、そこまでコストも高くならないから、案外「スマホ1台より2台持ち」のほうがストレスフリーという人だっているわけだ。
ただ、「ガラケーとスマホを両方持つとか、管理が面倒くさい」という声もあるだろうし、そもそも二台持ちが一般的になると、街中で両手に端末を持って歩くようになるのかな? なんて想像すると少し滑稽でもある。そこまでしてガラケーにこだわらなくてもいいじゃないか、という意見があるのも理解できる。でも、一部のガラケーユーザーにとっては、あの折りたたみの感触や物理ボタンの打ちやすさ、そして着信音を選ぶ楽しみなんかが、今でも捨てがたいんだろうなって思うんだ。
ガラケーの物理ボタンは、スマホのタッチスクリーンにはない魅力があると思う。画面を見なくても、手探りでボタン操作ができるし、押した感触がハッキリしている。メールを打つにも、慣れればかなりのスピードで文字入力ができるから、指先が画面を飛び回るスマホよりも誤操作が少ないという人もいる。実際、ガラケー世代の人間からすると、あのテンキー入力のほうが「身体に染み付いている」感覚があって、スマホのフリック入力がどうにも馴染まないなんて話もよく聞く。だから、使い勝手という面では、ガラケーを「機能が少ない」と一蹴するのは早計だという気がする。
また、ガラケーには折りたたみやスライドなど、端末自体の形状にバリエーションがあった。そのせいか、端末のデザインにも個性が感じられたものだ。カメラ部分の形が凝っていたり、アンテナが伸びるタイプだったり、質感も金属やプラスチックなど機種ごとに違う。自分の好みや使いやすさに合わせて端末を選ぶ楽しみがあった。スマホは基本的に「大きなタッチ画面がどんっとある長方形」という形状が大半だから、デザイン的な違いはあっても機能面はほとんど似たり寄ったり。文字通り“画一化”している印象が強い。
カバーやケースを付ければ見た目も変えられるし、画面上の壁紙やアイコン配置で多少の個性を演出できる。でも、ガラケーの時代にあったワクワク感、たとえば「次はどんな機種を買おうかな?」みたいな楽しさは、スマホ時代とはちょっと違う。「新作スマホが出た」と言われても、画面のサイズやベゼルの細さが変わったくらいで、そこまで大きくは変わらない印象がある。もちろんカメラ性能やCPUの進化もあるんだけど、日常的にそこまで性能を使いこなす場面がない人にとっては、あんまり魅力を感じない場合もあるだろう。
それに、スマホはついつい「時間泥棒」になりがちだ。SNSをちょっと見るだけのつもりが、いつの間にか1時間も経っていたとか、寝る前にスマホを触っていたら気づけば深夜になっていたなんて話は、ザラにある。ガラケーだと、動画視聴やSNSのタイムライン閲覧はそこまで快適とはいえないぶん、長時間だらだら触り続けるということはあまりない。そもそも画面が小さいから、がっつり見るには不向きだし、ネット料金が従量制だとしたらむやみに使えないという制限がある。そのおかげで、自分の時間を無駄にしすぎない、という利点すら感じることがある。
「ガラケーの時代には戻れない」とよく言われる。確かに通信インフラや社会の仕組みがスマホを前提とした形に急速に変わりつつあるから、一人で頑固にガラケーを使い続けるのは不利かもしれない。銀行のアプリや役所関係の手続きなんかも、スマホ前提で設計されていたりして、ガラケーだけでは対応できないことも増えている。そこはちょっと残念なところだ。時代の流れに逆行するとなると、どうしても不便を甘受しなきゃいけない部分が出てくるのは仕方ない。
でも、その不便を受け入れてでも「ガラケーだけでいい」と思う人がいるのは、やっぱりそれなりの理由があるんじゃないか。何より、常に最新のSNSやアプリの動向を追う必要がないし、スマホをいじりすぎて疲れることも減る。コミュニケーションや情報収集に追われないから、心に余裕が生まれるかもしれない。実際、スマホをやめてガラケーに戻した友人が、「今までSNSやブラウザの更新ばかり気にしていた時間を、ほかのことに使えるようになった。すごく楽になったよ」と言っていた。まさにデジタルデトックスの効果だろう。
さらに言えば、ガラケーを持っていると周囲から興味を持たれたり、「まだガラケー使ってるんだ」と話のネタになったりすることもある。ひと昔前には、最新のスマホを持つことがステータスのように扱われていたけれど、いまはみんなが同じようなスマホを持っているから、逆にガラケーのほうが個性として面白がられるんだ。「なつかしい!」なんて言われると、そこから会話が広がったりして、それはそれで悪くない。
もちろん、ガラケーの提供を続けるキャリアもどんどん減っているし、新品の端末を購入するのは難しくなってきている現実がある。将来的には4G・5Gの通信環境に完全移行して、ガラケー時代の通信方式が廃止される可能性もある。そのときは、事実上ガラケーが使えなくなるかもしれないし、いわゆる「ガラホ」と呼ばれる、ガラケー風のAndroid端末に移行するしかない時代が来るかもしれない。とはいえ、今すぐに「ガラケー文化がすべて滅びる」わけではないだろうし、それまでガラケー愛好家はしぶとく生き残るはずだ。
結局、「スマホとガラケー、どっちがいいか」っていうのは、その人の使い方や好みによる。スマホが便利で手放せないという人もいれば、ガラケーのシンプルさがちょうどいいという人もいる。世の中にはいろんなライフスタイルがあっていいはずだから、無理に合わせる必要はないと思う。誰かが「スマホを使ってないなんて遅れてる」と言ってきても、それを「押し付けがましいなあ」と聞き流すくらいの心の余裕があればいい。結局、自分が何をしたいかが重要なんだから。
もし「周りがみんなスマホだから自分もスマホにしなきゃ」と思っているだけで、本当はそんなにSNSやアプリを使わないという人がいるなら、思いきってガラケーに戻すのも手だと思う。通話とメールだけならガラケーのほうが圧倒的にバッテリーも保つし、料金も抑えられるかもしれないし、「端末をどこかに置き忘れても、スマホほど重要な情報が入ってないから不安にならない」なんていうメリットだってあるだろう。「みんなと同じだから安心」じゃなくて、「自分の必要な機能がちゃんとある」ことこそが大事なんじゃないか。
もちろん、スマホが悪いわけじゃないし、ガラケー至上主義を唱えたいわけでもない。ただ、「必要以上にスマホを使って疲れちゃうくらいなら、ガラケーで十分なんじゃないの?」という提案をしたいだけなんだよね。実はわたし自身、仕事用スマホとは別にガラケーをサブ機として使っているんだけど、やっぱりガラケーをパカッと開いてガシガシと文字を打つ感覚は良いもんだよ。慣れ親しんだ操作性と、あの独特の押し心地には、どこか安心感がある。電車でスマホの通知に追われずに済むのもストレスが少ないし、本を読んだり音楽を聴いたりする時間が増えた気がするんだ。
そういうわけで、ガラケーという選択肢は決して時代遅れのものではない、と声を大にして言いたい。機能の充実や最新テクノロジーに目を奪われるのも悪くはないけれど、シンプルに生きるための道具としては、いまだガラケーは捨てがたい魅力を持っている。もしあなたが日常のほとんどをスマホに奪われていると感じるなら、一度ガラケーで過ごす日常を思い出してみるのもいいかもしれない。通話とメール、それに少しのネットがあれば不自由しない生活に戻るのも、ある意味では豊かな選択なのではないだろうか。
繰り返すが、「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」とまでは言わなくても、ガラケーで十分足りるような人もたくさんいるんじゃないか。昔みたいに、キーボタンをカチカチ押しながら、「そうそう、あれこれこうだよね」とメールを送るのだって味わい深い。意外と悪くない、というかむしろ懐かしくて温かい気持ちになれるかもしれない。少なくとも、ガラケー派の人たちを「時代遅れ」とバッサリ切り捨てるのはもったいない話だと思うんだ。最新のスマホだけが正解じゃない。だからこそ、みんなが自分にとってベストな形で“ケータイ”という道具を選べる社会であってほしいと思う。
もしあなたが、いつの間にかスマホでの習慣に疲れているなら、こう考えてみてはどうだろう。「ケータイって何のためにあるんだろう?」と。連絡手段として割り切るなら、ガラケーこそ理想的な答えかもしれない。もちろん人によっては、「やっぱりスマホがないと生活が成り立たない」という人もいるだろう。それでいいんだ。それこそ「自由」じゃないか。だから、「スマホが当たり前」という常識に縛られず、自分に本当に必要な機能がどれくらいなのかを見極めるのが大事。いまの時代だからこそ、逆にガラケーを見直す価値があるんじゃないかと思う。
最終的には「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」、通話とメールで十分ならガラケーでもいい。そこにプラスアルファでスマホを持つか持たないかは、個人の自由。要するに、スマホ一辺倒の世の中だからといって、ガラケーを諦める必要はないんだよね。わたしはそう信じている。あなたのケータイライフに、少しでもガラケー復権の可能性を感じてくれたら、これほど嬉しいことはないよ。
最近の優れたファンタジー系モバイルゲームは脱「ソシャゲ」化しているから、この増田が苦しんできたようなネガティブ要素はほぼなくなっている。
だから、増田のように完全にスマホゲーム断ちして満足している人ならばいいのだが、そこまで割り切れない人に対しては、進歩的なゲームに触れて切り替えていくのを勧める。そのようなゲームが持つ特徴を列挙していこう。
まず他人との協力やマルチプレイの強制がない。競争要素もなく、ソロプレイを軸としている。社会性で縛りつけない分、コンシューマクオリティの作り込みをしている。PS5とかにも対応しがち。
「スキマ時間」をことごとく奪っていくような、頻繁なログインを促す仕組みがない。スタミナ制は依然多くのゲームが採用しているが、24時間以上放置でき、その消化も10分程度、デイリーなどもスタミナ消化すれば自動的に終わる。
イベントも張り付く必要がない。最終日付近の休日に一気にやればシナリオ含めても1時間そこらで終わるようなもので、それもイベント毎に違った趣向の文化的なミニゲームが提供される。戦闘コンテンツが占める割合が比較的少ない。
ソシャゲによくあった、アイコンだけ変えたアイテム収集やらボックスガチャやらのイベをローテする手抜き形式からは脱却している。全体として、拘束時間が少なく、遊んでいる間は濃密な体験になる。
どちらかというと、スマホでも一応できるが、PCやPS5でやったほうが良いゲーム体験が得られやすい運営型ゲーム郡と言えるだろう。
ガチャおよびキャラ実装の考え方も根本的にソシャゲとは異なり、ある程度の期間やり込んで育てたプレイヤーなら、攻略面では新キャラを引く必要はない。
最新キャラのキャラパワーや重課金に頼らずとも十分な戦略の幅がある。ソロゲーなのでギルドに貢献するために引かなきゃみたいなこともなく、イベント特効もなく、強キャラを未所持だと詰むようなこともない。
難易度が全体的に易しめで、ガチャ縛りをしているプレーヤーでもイベント内で十分な試用機会があり、イベント攻略のために課金をする必要はゼロ。
エンドコンテンツでは新キャラが持つ特性が優遇されるが、一切触れなくともよく、ゲームの美味しい部分は他にある。
また、ガチャ天井が安価で、旧式ソシャゲが平均7万前後に対し、2万~4万、また天井カウントが次以降のガチャバナーへも引き継がれるため、キャラを選り好みしないなら(しないこと推奨)石を貯めこむ必要がない。
ガチャのランダム性や射幸性も抑えられ、課金額に応じた一定周期でキャラを入手できると捉えてよい。無課金でも月1くらいは天井に到達できる。
キャラの凸などに挑むなら旧来のソシャゲ並にお金が飛んでいくが、無微課金者のキャラ獲得ペースでも可能な、多様な役割のキャラを幅広く所持していく方針の方がゲーム的な楽しみを得やすい。
ただし、キャラ確保ハードルが低い分、育成リソースが枯渇しやすく、バトルパス課金や石割りなどをガチャ課金よりも優先するのが合理的となる設計。
ソシャゲ時代のように性能に煽られて引かされる感覚は薄れた分、キャラクターの実装ごとに背景を掘り下げるプロモーションビデオやアニメーション動画、テーマ曲を作って公開したりと、全力でどのキャラにも愛着をもってもらおうと工夫を凝らしてくる。
そのため、カード絵の好みだけでスルー判断できていたソシャゲや推しを定めて溜め込んでいくのが正解だったソシャゲと違い、まんまと全員を好きになってしまいがちな構造にある。
いろんなキャラに無凸より上の装備を整えてあげたい愛多き人ほどコンシューマゲームと比べて割高な出費をしがちでもあるが、買い切りとは異なる運営型ゲームならではのライブ感や感動の蓄積があるため単純比較はできない。
お察しのとおり、このようなゲーム作りをするには、膨大な開発資金と人的リソースが必要なわけで、国内で「暇つぶし用」としてガラケーやスマホ縦持ちで遊ぶような陳腐なゲーム性のソシャゲ開発で成り上がったスマホゲーム企業の持つノウハウとは異なるものが開発側に求められる。
こうしたガチのゲームをモバイルで作っているのは、文化的背景から今は中国のオタク系(二次元)企業が中心になっている。個別具体的なタイトルを5作品挙げてみよう。といっても、PlayStation Storeのセールス上位を見ればだいたい分かるものだが。
まずはこのスタイルの先駆けとなった、原神。王道ファンタジーのオープンワールドで、元素反応の制御を軸とした知能ゲーム寄りの奥深いアクション戦闘が特徴だ。マップもとてつもなく広大で作り込まれている。ただし序盤はいずれも平易で万人向けだ。音楽は著名オーケストラを起用した豪華なもの。
次に崩壊:スターレイル。SF世界観のスペースファンタジーで、星間を駆ける列車を拠点に星々を「開拓」して群像劇を目撃していくターン制RPGだ。ターン制の概念を覆すほど手触りの良い戦闘システムで、「今更ターン制か」と思う人ほど触れてみてほしい作品だ。
上記2作のヒットを飛ばした会社の最新作が、ゼンレスゾーンゼロという都市型本格アクションPRG。パリィや連携を主体としながらもシンプルかつ派手な操作性で、サウンドエフェクトなども心地よく、独特なアートスタイルや音楽と合わせてとにかく五感に快感がビシビシ来る。お上品で難解な印象の前2作品と異なり、物語も理解しやすく熱い展開なのも美点。
次は競合他社となる鳴潮。原神に近いオープンワールドRPGだが、よりダークでグロテスクでセクシーな世界観になっている。怪物に変身するシステムが特徴的で、回避などを駆使するアクション要求度が高め。キャラクターグラフィックに関してはアニメ調作品の中ではひときわ力を入れていると感じる。
最後に挙げるのは、また別の有力企業による、インフィニティニキ。こちらは主に女性をターゲットにした着せ替え系のオープンワールドゲームで、戦闘要素はひかえめに、探索・収集と謎解きアスレチックがメインになっている。
これらを、欲張っていくつも並行してしまえばソシャゲやネトゲのせいで社会生活を蝕まれる状況と大差なくなってしまうが、1作程度に絞って節度ある課金で付き合う分には、ソシャゲ時代と比べてもかなり健全な範囲で楽しめるように進化している。
なので、大作モバイルゲームは、どれを人生のパートナーとして選ぶかが非常に重要だ。
「三大~」「教えて系」「ネタがすぎるやつ」「挙げてけ系」「政治」みたいなのは除外
抜けてるNoは削除されてた投稿
①いつなかったかは不明だが、 メスガキだから、 30センチでみたら、ただの子供の顔
② 鍛えている
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これがモテているのか、男女の友情が成立しているのか、ずっと分からない。
普通は、同じ部活で長い時間過ごした人が自然と親友になるものだと思う。しかし、わたしは空手や部活動で男所帯のなかで放課後を過ごし、組んでいるバンドすら男ばかりだった。移動教室や休み時間、修学旅行、体育など、もちろん女子同士で過ごしているし仲のいい女の子もたくさんいる。部活以外の男子に自分から話しかけているわけではなく、女子との交友関係もしっかりあるというアピールがしたい。しかし、やっぱり全体で見ると男子との関係が深い。LINEの上から5人は大抵異性が占め、毎日雑談をする相手も多い。友達がいること自体はうれしいことなのだが、年齢を重ねるごとに異性の友人はいなくなるものなのではないかと思う。それが不安なのだ。相手が100%友情でわたしと関わっているなら、将来縁が切れることを心配しなくていいのだが、恋が混ざっているなら話は違う。ただの自意識過剰ならそれはそれで恥ずかしい。感覚が麻痺していて、これが恋愛的な好意からきている行動なのか分からない。男性からされたことのなかで印象的なものを挙げる。
・鉱物が好きなのだが、クリスマスにサプライズでバカデカ岩塩をもらう
・誕生日に手作りクッキーとわたしが好きなキャラクターの絵をくれる
・旅行に行くたびにわたしの好きなキャラクターのグッズをくれる
・1500円くらいするライブに毎回来てくれる
・生まれ変わったら蚊の幽霊になっておまえに取り憑きたいと言われる
・等身大パネルをつくらせてくれと言われる
・愛の伝道師だねと言われる
・愛、とメッセージがくる
・0時ちょうどにお誕生日おめでとうとあけましておめでとうがくる
・スケートに誘われる
・おまえの部屋でレコードが聴きたいと言われる
・電話がかかってくる
まあ他にも色々あるんですけど、書き上げてみて、やっぱり自意識過剰かもと思う。普通に友人か?でもにしてはキモいのも混ざってるよね。じゃあキモい男と絡んでるってこと?なにが困ってるって、わたしが人を好きになったときに、相手がわたしのことを恋愛的に好きなのかを見極められない。上記の人たちが「友情」なら、わたしの恋はうまくいっていないし、「恋」なら相手が少しでも上記にかすれば恋愛的に好きでいてくれるのかな〜と思える。普通は好きな人と電話できただけでうれしいはずなのに、わかんねー。異性と雑談してるときの下心率知りたい。まあわたしの顔がめっちゃかわいいわけではないし、ただ女と話している俺wムーブに使われているだけなのかもしれない。わかりません!でももしこいつらがわたしのこと好きなら、いいように利用してる感あって嫌。こいつ知りながら弄んでるだろwみたいなね。