太平洋戦争とは、第二次世界大戦(1939~1945)のうち大日本帝国とアメリカ合衆国・英国・中華民国・オランダなどの連合軍と交戦局面を指した呼称である。
英語ではPacific War。第二次世界大戦の太平洋と東南アジアの戦線であり、中華民国(支那事変、日中戦争)、1945年8-9月のソ連と日本との戦争も含まれる。
太平洋戦争は1941年12月7日(日本では8日)に始まったと考えられている。
1937年7月7日の支那事変、1931年9月19日の満州事変に始まるという意見もあるが、一般的に太平洋戦争自体が第二次世界大戦の一部となったのは1941年12月とされる。
広島と長崎の原爆、日本への大規模な空襲、満州へのソ連侵攻の結果、1945年8月15日にポツダム宣言の受諾、玉音放送が行われ、9月2日に正式に終戦した。
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戦争の名称
戦時中の連合国では、米豪は第二次世界大戦の太平洋戦線という名称であり、英ソは極東戦線と呼称し、中国は第二次中日戦争としていた。時の日本政府は大東亜戦争と命名したが、これは陸軍による呼称であり、海軍は太平洋戦争としていた。日本側の敗北により進駐して来た連合軍(GHQ)によって、公式文書で陸軍の名称は使用禁止にされ、代わりに太平洋戦争の言葉が代わりに用いられた。”大東亜戦争”はタブー扱いとされメディア・教育での使用は控えられている。
戦争の認識
現在に至るまで、太平洋戦争の認識には大きな偏りがある。大きな骨組みの中ではあまり意味のない戦いが過大に、重大な意味を持つ戦いが過少に扱われ、何も是正されないまま今日に至っている。
大本営は二正面作戦の挫折から、対米戦争が対中国戦争の経験からは想像もつかぬ厳しいものであることを思い知らされた。たるんでいる国内体制を、ここで一挙に引き締めねばならない。その為には、南の果てでの苦戦の実態をある程度国民に明かすことが必要だ。報道解禁の対象として選ばれたのが、ガダルカナルである。国民がだれ一人知らない小さな島のことである、すでに撤退も終わっていたことが理由であろう。軍と政府はあらゆるメディアを動員して、ガダルカナルにおける敵戦力の圧倒的強さを説き、産業戦士の決起を促した。しかしニューギニアについては一言半句も触れなかった。ニューギニアとガダルカナルの両作戦の重要性を、戦局全体から見た場合、本命はもちろん前者である。「天皇独白録」には「私はニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから、勝利の見込みを失った」と書かれている。だがニューギニアに関する新聞報道は、その後も皆無といってよい。ただ一つの例外は、マダン南方山中の戦闘について「弾丸尽くして全員玉砕」の記事(朝日新聞1944年1月29日)があるだけだ。1958年の広辞苑はガダルカナルで太平洋戦争中日米激戦の地と述べるが、ニューギニアでは戦争に全く触れていない。この点は1959年世界大百科事典でも全く同じだ。この辞典では別に世界大戦の項があり、多くのページを費やしているが、やはりガダルカナルに詳しく、ニューギニアの文字は見当たらない。ガダルカナルが著名なのに、現在でもニューギニアが知られていないのは、明らかに戦中の報道規制の後遺症である。
この偏りには米国も関与している。敗戦の年の12月8日から17日までの10日間、GHQの命令で「連合軍司令部の叙述しせる太平洋戦争史」が記載された。目的は日本人が間違った戦争報道を信じ込まされていたこと、本当の戦争の実情を暴露し国民の旧体制に対する愛着・忠誠心にくさびを打ち込むことであった。しかし内容はワシントンの意向(トルーマンはマッカーサー嫌いである)を強く汲んだもので、ミッドウェーのの転機からガダルカナル、サイパンを経て沖縄、終戦に至る「米海軍」の太平洋戦争史であった。また12月9日から翌年2月1日まで10回、ラジオ番組「真相はこうだ」が放送され、その後継として「真相箱」が21年11月29日まで41回も放送された。毎週900から1200通もの投書が寄せられ、その質問に「我々」=「日本」が主語になって答える形式になっていた。「真相はこうだ」でもニューギニアやフィリピン戦は触れられていない。米海軍には太平洋の戦いは自分たちが主役だという強いこだわりがあり、「マッカーサーは海軍の戦功でも横取りしてしまうので、そうならないよう自分らが建てた戦功は声を大にして宣伝しなければならない」と警鐘を鳴らした海軍軍人の回顧がある。米海軍は、海軍と海兵隊による上陸作戦等の映像を米国内で盛んに流し、日本軍を次々と打ち破っているのは米海軍であるというイメージをアメリカ国民に植え付ける努力を怠らなかった。こうした広報活動によってワシントンの空気が海軍寄りになったことは言うまでもない。マッカーサーやGHQといえども、ワシントンの意向には逆らえなかった。
こうしてマッカーサーの作戦を小さく扱い、ニミッツの活躍をより多く取り上げ、ライバルの日本海軍を引き立てて善玉視する太平洋戦争史が、日本国民に刷り込まれた。
特に太平洋戦争の真の主戦場となったニューギニアの戦いについては、日本でもアメリカでも極めて関心が薄く、豪州だけが非常に高いのが現状である。
アヘン戦争によって清国がイギリスによって打倒されると、その衝撃が江戸幕府にもたらされた。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の日本へ進出することは時間の問題であった。西洋列強による開国要求は現実的なものとなり、速やかな国体の変革が急務であることを日本人に知らせる形になった。1867年に薩摩閥、長州閥を中心とした西日本の雄藩により、江戸幕府は打倒され、明治維新が起こった。薩長閥を中心とした明治政府は、諸外国から学び、技術導入だけでなく憲法や学制、医療、民法、軍政の導入など、様々な改革を行い、国力を高めていった。
日清戦争では、当時日本が国際社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に国際法を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性を認め、明治天皇は国際法を守り中国人を保護する考えを示した。事実この戦争で、清国兵1,970人を捕虜にしたが、再び日本軍を相手にして武器を取らないと宣誓させて全員釈放した。だが旅順大虐殺が起き、不平等条約改正に影響を与えた、日本側は「清が邦人捕虜を残酷に処刑したため、報復として起こしたこと、また敵軍が軍服を脱いで市民に偽装したため、区別ができなかった。」と弁明した。清側が蛮行を宣伝するよりも逆に敗北を隠蔽する方向に圧力をかけたことで収束に向かい、条約改正にこぎつけたが、のちの反日感情および軍部の欺瞞パターンに影響を落とした。
大国清を破った日本は台湾と遼東半島の広大な領土の割譲および2億両の賠償を手にする下関条約を結んだが、実費を大幅に上回る巨額の賠償金と貿易上等の利権も得る他に、「遼東半島・台湾・澎湖島」という条件が、当時の歴史的な実績からして過大であった。三国干渉は、1895年(明治28年)4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告である。日本と清の間で結ばれた下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求める内容だった。こうした干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案したが、外相陸奥宗光は会議でさらなる干渉を招く恐れを主張し、5月4日日本は勧告を受諾し、清との間に還付条約を結んで代償に3000万両(4500万円)を獲得した。
外交では1902年(明治35年)1月30日に日英同盟を締結してロシアとの対決姿勢を強め、1904年に日露戦争が勃発した。これは1899年のハーグ陸戦条約以後の初めての戦争であり、戦争法規が守られるか注目された。日本は、凡そ国際条規の範囲に於て、大本営に法学者が出向き、前回の反省から日清戦争の時よりさらに国際法を守ろうとした。陸軍の俘虜取扱規則で「俘虜は博愛の心をもって之を取扱い、決して侮辱虐待を加ふべからず」と明記され、想定外のロシア兵の捕虜79,367人を得たものの、病死させたものはわずか38人であり、日本軍の倍の給料を払って優遇し、戦後全員送還された。この時は日ロ両国とも国際法を順守し、特に日本は国際的地位を高めた。不平等条約の改正や初めての植民地である台湾、ポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した関東州、日韓併合として朝鮮半島などを領土とし大国として歩み始めた。そして、日本を訪れた若き日のマッカーサーやニミッツも大いに感嘆させたのである。
日本兵の大胆さと勇気、指揮官の鉄の意志は封建の侍…。だがこの国の人々は質素で礼儀正しく、親しみ深い。アジアはいずれ欧州より豊かになる。 | ロシアを破った凱旋園遊会に首席したとき、東郷提督は快く我々と歓談してもらい、感銘を受けた。海軍士官としての東郷提督は私は尊敬している。 |
しかし一方で明治維新以来の政治軍事体制に変化が起こりつつあった。日露戦争を経て、英才児玉源太郎・井上光が死に、更に長州偏重の寺内人事が横行し、戦史課の英才東條英教や、名将黒木為楨・西寛二郎・小川又次等が相次いで予備・後備になった。長州閥最盛の時であるが、日露戦争の満洲軍総司令部のメンバーは陸大出で固められ、この辺りから陸大閥が現れ始める。
明治22年(1889)に発布された大日本帝国憲法によって定められた内閣制度では政府の政策意思決定は閣僚の全員一致でなければならなかった。このことは現在ではあまり知られておらず、一人でも抵抗して反対する大臣がいる場合、総理大臣は政策決定を回避するか、内閣総辞職かの二者択一の選択しかなかった。つまり現在のように総理大臣に権限は集中しておらず、総理大臣は天皇の臣下・輔弼にすぎず、他の大臣を罷免することはできない仕組みだった。したがって何とか軍部を宥めて案件に同意させなければならなかった。元来軍は1882年の軍人勅諭により「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を厳命されていた。元軍人でも現役から退いていれば政治家となり首相となるものまでいたが、現役で軍に携わる者は政治活動を禁止されていた。しかし実際には「事実の解説並びに研究の結果」を発表するのは禁じられていないと解釈して、「国防思想普及運動」などの宣伝活動を実施した。明治以来の資本主義を発展させる「富国」の一方、農村は犠牲となった面があった。しかし明治以来薩長閥系の政治家・軍人は、三国干渉に対する伊藤博文の対応のように基本的に親英米協調政治で、現実主義的政策を行っていた。兵士の出身であった農村の窮状は改善されず、特に東北などの貧農等から軍部に支持が集まっていた。
1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。7千万以上の軍人が動員され、第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇、戦闘員900万人以上とジェノサイドの犠牲者を含む文民700万人以上が死亡した。この戦争では戦車や航空機も登場した。
タンネンベルクの戦い
1914年8月のタンネンベルクの戦いでは、ロシア軍は圧倒的な大軍に物を言わせてドイツ軍に挑んだが、三分の一の兵力に過ぎぬルーデンドルフ指揮のドイツ軍の完璧な包囲殲滅作戦により敗北を喫した。ロシア第2軍20万人のうち帰国する事が出来たのはわずか1万7000人だった。この戦いは、現場指揮官としてほれぼれするような大成功を目にした永田鉄山や石原莞爾がルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きな影響を与えた。 劣勢の独軍が露軍を撃破した戦いは日本陸軍の一種の信仰対象と化し、英雄ルーデンドルフの名声も定着する。
ガリポリの戦い
海軍大臣 | この戦艦群があればトルコなんぞひと飲みよ。 | 英兵「なんて杜撰な作戦だよ、ひいいいいい」 | 英国民「チャーチル、クビ!」 |
1915年3月チャーチルの強い主導にこの作戦は決行された。「ガリポリの悲劇」の始まりだった。トルコに主力艦隊を突入させ、一気に首都を占領して背後からドイツを突くというこの戦略構想は抗しがたい魅力を持つものであった。最強戦艦クィーン・エリザベスを先頭に、二十二隻のド級戦艦がZ旗を掲げてダーダネルス海峡へ突入していく姿は壮麗であったが、平均3マイルの幅しかなく、いたるところに機雷が仕掛けられ、その上には堅固に要塞化された切り立つ崖が両岸に延々数十キロにわたって続く海峡を一体どうして突破できるというのか。予想通り、両岸からの砲撃と機銃照射の餌食となった戦艦オーシャンズの姿に、イギリス海軍は、作戦続行をあきらめた。しかし「ガリポリ」の悲劇はその後に始まる。艦隊の突入が不可能とわかったイアン・ハミルトン将軍は、海洋の西に延びるガリポリ半島に陸軍を上陸させ、これを占領して海峡の制圧を図ろうとした。敵前上陸したANZAC部隊(豪州・NZ軍団)たちは、たちまち待ち構えていたトルコ兵の高所からの猛烈な十字砲火の的となった。その後、撤退までの8か月、砲撃と病魔に苦しみ続けた。もちろん主力の英軍はもっと大きな損害を出した。WW2の首相となるクレメント・アトリーや、インパールのスリム元帥らは、この英軍主力の中にいた。8か月の作戦期間中、投入された兵力は50万を超え、そのうち実に26万の死傷者を出した。年末、夜陰に乗じて海岸の生存者を海上へ救出する作戦だけが奇蹟の成功を遂げ、しかもロンドンの人々はこれを勝利の転進とする報道として聞かされた。
西部戦線
1916年6月1日のユトランド海戦では、イギリス側が艦船14隻(11万1千トン)と数千の水兵を失ったのに対し、ドイツ側は11隻(6万2千トン)と少数の犠牲にとどまった。戦場での情報伝達など、組織としてのイギリス海軍は無線など全く存しなかった帆船・手旗の「ネルソンの時代」そのままであった。油断から先端の科学技術の利用に後れを取るとともに、組織の機能低下と決断の果敢さの喪失というように、すべてが衰退を示唆する組み合わせとなっていた。
ユトランド海戦の翌月、フランス北部において英国陸軍が大規模に開始したソンムの戦いは、大英帝国の心神喪失といってもいいくらいの挫折をもたらした。塹壕戦の陰鬱な日々から逃れられるからといって、ヘイグの白兵突撃の戦法が兵士にとって救いになるはずはない。7月1日英陸軍25個師団を投入する大攻勢が敵陣に向かって突撃した。作戦初日の突撃で7万数千の死傷者を出し、3か月にわたって繰り返されたソンムの戦いは、50万の損害を出すまで停止されることはなかった。とりわけイギリスのエリートがこの大戦によって被った人的損失は圧倒的なものであった。1914年の時点で、50歳以下であったイギリス貴族の男子の約20%が戦死したといわれる。のちにイギリス首相を務めるイーデンやマクミランらはソンムで受けた傷の後遺症に障害悩んだ。しかし彼らとともにオックスフォードやケンブリッジのキャンパスから出征していった同学年の友人たちの三人に一人は、二度と帰らぬ人となったのである。
1917年7月11日、ドイツ軍は新兵器としてマスタードガスを開発し、これを砲弾に積載した。連合国もドイツに続いてマスタードガスやホスゲンガスなどの毒ガスの使用を行った。続いて17年10月から11月に行われたパーサンダーラ(パッシェンデール)の戦いは、近代戦の残酷さをまざまざと見せつけた。カナダ軍指揮官は損害は16000にもなるだろうという見解を表明したが、英軍司令官ダグラス・ヘイグ(Butcher Haig)は何十万という損害に動じなくなっており、攻撃を命令した。3か月の熾烈な攻勢で、イギリス本国はもとより、ANZAC、カナダ軍も甚大な喪失をこうむり、連合国軍の損害は約45万人に及んだ。イギリスの政治家達は人的損害を完全に補充することを渋るようになっていた。補充すればするだけ犠牲にされてしまうと恐れたためである。ロイドジョージ「パーサンダーラは戦争の最大の災害の1つだった。この知性のない作戦を擁護する兵士はいない」
WW1末期、ガリポリやソンムなど、挫折を繰り返していたイギリスに、華々しい戦果が東方より伝えられた。1917年12月、アレンビー将軍の指揮する英中東派遣軍が、エジプトからシナイ半島を横断し、トルコ軍を追ってパレスチナへ向け進撃、エルサレムをも制圧したのである。それは開戦以来、3年数か月にして、ようやく英国民が待ち望んでいた赫々たる勝利であった。アレンビーこそは、ガリポリのハミルトン及び西部戦線の総司令官ダグラス・ヘイグら無能と硬直に支配されたWW1の英国の指揮官の中にあって、軍事的能力の点で最も注目すべき軍人であった。アレンビーは歴史の研究から、700年前リチャード獅子心王がエルサレム占領を果たせなかったのはマラリアの季節に進軍したからだということを発見したし、ナポレオンのエジプト遠征軍を最も悩ませたのは敵軍ではなく、中東特有の眼炎であったことを知り、直ちに対策を指示した。しかし人々を熱狂させたのはアレンビーではなく、一人の特異な英雄だった。
当時イギリスは、トルコの統治下にあったアラブ人を、メッカの族長ハシミテ家のフサインのもとに結集させ、トルコへの反乱に立ち上がらせる工作に着手していた。その為の連絡将校として1916年アラビア半島西部のヘジャーズ地方に派遣されたロレンスは、そこでフサインの息子ファイサルと出会う。それはロレンスにとって生涯の出会いとなった。1917年7月、わずか50騎のベドウィンのラクダ部隊を率いて、古来神の軌跡なくしては横断は不可能とされた灼熱のネフド砂漠を超え、難攻不落とされたアカバ湾要塞の奇襲に成功した。ベドウィンの先頭に立って、ラクダに乗ったアラブ騎兵を指揮するロレンスの姿は、重苦しい西部戦線に沈み込んだイギリスのメディアにおいて、たちまち伝説的な英雄ドラマの色彩を帯びるものとなった。しかし、同じころ、インドから出征した十万の英印軍は、ペルシャ湾のクウェートに上陸してイラク平原を北上し、バクダッドを占領した。さらに北上を続けて、密約の中では本来、フランスに約束されていたキルクーク・モスルの豊富な油田地帯をも抑え、数年がかりでついにペルシャ湾とイラク全域を抑えていた。この軍にはガリポリの重傷から回復したスリムも参加していた。アラブの独立はすでに夢物語だったのである。ロレンスの反乱は帝国の熱い岩盤の前に跳ね返された。
崩壊するトルコをしり目に、西部戦線での膠着状態は続いていた。両軍とも大規模な攻勢を数回行っているが、巧妙に構築された塹壕線に配置された側防機関銃、有刺鉄線などによって防御側の優勢が確立しており、攻撃側には大量の犠牲者が続出し、攻勢は失敗することが多かった。
海戦でドイツはイギリスに対する海上封鎖を徹底化するために1917年2月に無制限潜水艦作戦を決定した。これは1917年4月のアメリカ合衆国の参戦を招いた。しかし当時のアメリカには本格的な陸軍はなく、アメリカの実際的な参戦は1年先だった。 一方、ロシア革命により帝政が崩壊し、ケレンスキー臨時政府は1917年10月のボルシェヴィキにより崩壊、ウラジーミル・レーニンのソ連政府が立ち上げられた。ドイツはレーニン政府にウクライナやバルト三国の分離独立を求めた。レーニンは初め拒絶したが、ロシアの軍事力は革命の混乱で崩壊状態であり、1918年2月にドイツ軍がロシア軍へ攻撃を開始したことで要求を飲むしかなくなった。1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約が締結され、ドイツはロシアを下した。3月5日にはロシアの後援を失ったルーマニアも降伏。東部戦線は終結した。
ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて東部の兵力をすべて西側に回して最後の大攻勢「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」作戦を行った。しかしドイツ軍の奮闘もむなしく、1918年7月、西部戦線の第二次マルヌ会戦において連合軍の反撃が成功し、さらに1918年8月8日にアミアンの戦いでドイツ陸軍が決定的な敗北を喫した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した。
5月にはアメリカ遠征軍(AEF)師団が初めて前線に投入され(Battle of Cantigny)、初めての勝利を収めた。夏までには毎月30万名もの兵士がアメリカから輸送されている。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じつつあった。 米軍司令官はジョン・パーシングであり、米軍単独での作戦を主張し押し通した。9月12日にサン・ミシェルの攻勢を開始した米軍は16日占領した。パーシングは次の攻撃に100万の軍を使用することができるようになったが、そのうち85%が米軍だった。次のムーズ・アルゴンヌ攻撃は9月26日だった。ここの高地は高台の機関銃陣地で防御されていた。パーシングは側面攻撃が失敗すると、無残にも正面攻撃を命令した。ドイツ軍は毒ガス、機関銃で米軍を迎撃した。高地の緩やかな斜面には、米兵の腐乱死体が散在していた。
レインボー師団参謀長ダグラスは攻撃する前に偵察を行った。闇夜の中を這って進みながら、偵察隊はドイツ軍の側面を精査した。突如、偵察隊は激しい砲撃に見舞われた。砲撃がやむと、ダグラスは兵士たちについてくるように叫びながら、砲撃でできた穴から穴へと滑るように進んだ。彼は兵士たちを師団に連れ戻すつもりだった。兵士たち一人一人に話しかけて体を揺さぶった。しかしダグラスは次第に恐ろしい事実に気づいた。彼以外全員が完全に死んでいたのだ。
米軍は大きな犠牲を出しながらも、ムーズ・アルゴンヌを突破することはできた。AEFがアルゴンヌの森を越えたころ、フランス第四軍は森の西方30マイルまで進軍していた。最終目標であるスダンは11月11日にフランス軍が攻略。同時期に起こっていたドイツ革命の影響によりこの日のうちにすべての戦闘が終結した。ドイツ軍では人的資源が枯渇しており、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。皇帝ヴィルヘルム2世は退位を余儀なくされ、ヒンデンブルクとルーデンドルフも職を辞した。
休戦協定
ドイツ革命の発生により成立した臨時政府によって、他の戦線においてはドイツ軍が勝利を収め続けていたにもかかわらず、西部戦線の崩壊によって、11月11日休戦協定を受諾した。
大戦の敗戦責任をめぐってドイツ帝国軍では、ユダヤ人にそそのかされたドイツ革命派(共産主義者)によって背中を刺されたという「背後の一突き」が広まり、ナチスは、大戦で戦争遂行の余力があったドイツ軍を共産主義者とユダヤ人によって支持された政府が「勝手に」降伏したと主張していった。ヒトラーはドイツ11月革命を国際ユダヤ陰謀による「国家と民族への犯罪」として演説で繰り返し、また「戦争開始時、また戦争中に1万2千〜1万5千のドイツ国民を腐敗させるヘブライ人に毒ガスを浴びせていれば、前線の100万のドイツ兵士は救われた」と述べるなどし、支持者を獲得していった。1919年11月18日国民議会の「第一次世界大戦における敗戦責任についての調査委員会」で、ヒンデンブルク元帥、ルーデンドルフも「背後の一突き」伝説を証言した。
この戦争は多くの参戦国における革命などの政治変革を引き起こした。日英同盟により連合国側で参戦した日本は、戦後に設立された国際連盟では常任理事国となり、国際的地位を大いに高めた。立法の一院の衆議院において男子普通選挙が行われ、伊藤博文が作り上げた政友会や大隈重信の流れをくむ憲政会(1927年に立憲民政党に発展)などよる政党政治が発達し、1918年には衆議院議員である原敬による初の本格的政党内閣が誕生した。しかし首相は天皇の重臣会議により指名される制度であり、軍部は政府から独立していたため、国民の主権は立法の2院のうち1院に行使されるにすぎず制限されていた。また天皇は陸海の大権を持つとされていたが、憲法上は陸相や参謀総長の副書(署名)がなければ効力を発揮せず軍は天皇の命令に従わない。そのため陸軍・海軍や枢密院、官僚などの勢力は、政党内閣の政権下でも依然として大きな政治的発言力をもっていた。
1915年から20年にかけて日本は好況に沸き、多くの技術者、発明家、実業家が活躍した。「発明王」豊田佐吉は1918年豊田紡織を設立、資本を蓄積しのちトヨタ自動車グループに発展した。高峰譲吉はアドレナリンを抽出・販売に成功、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。小林一三は阪急電鉄を軸に1929年阪急百貨店を開店、阪神間モダニズムに沸いた。工業生産は急激に増大し、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた工業都市大阪では動力の蒸気から電気への転換が起き、職工の黄金時代が出現し富裕となった技術者は自ら工場を立ち上げた。成金の時代が現出し、他方インフレによる貧窮による米騒動が起こるなど、貧富の格差の拡大が進んだ時代でもあった。この時代に、軍人の地位の低下がみられたのである。この時代は田中義一のように、陸軍の軍籍を離れて政党政治家に転身した例もあった。第一次世界大戦後の「平和とデモクラシー」の到来は、日本にも軍縮を求めた。日本では第一次世界大戦をはさんで「軍人万能」の時代から「軍人受難」の時代へと変容し、その後戦争になっても軍人の「被害者意識」が続いたことを明らかにしている。1922年8月の東京日日新聞に掲載されている陸軍軍医の一文は象徴的である。
「今や軍縮の声は陸海軍人を脅かし、彼らを不安のどん底に陥れている。」子供が言うことを聞かないと、親は「今に軍人にしてやるぞ」と脅す。軍隊が演習で「へとへとに疲れて」ある街にたどり着いても、町の民衆は急いで戸を占め、内から鍵を下す。兵隊の宿営を断るためだった。若い将校は結婚難に苦しめられ、「カーキ色の服は電車の中でも汽車の中でも、国民の癪の種」になっていた。
国民の軍人蔑視の感情は行き過ぎたところがあったかもしれない。この陸軍軍医の一文が記すように、若い将校たちの間で「不平の色、覆うべからざる者」があった。しかし1919年の国家歳出に占める軍事費は45.8%に及び、戦後恐慌に移った1921年には49.0%に達しており、軍縮を避けて通ることができなかったのは誰の目にも明らかだった。世界の主要国が軍縮に取り組む中、日本においても、陸相山梨半造はWW1後の財政改善のため1922年(大正11年)8月と翌年4月の2度にわたり陸軍史上初の軍縮(「山梨軍縮」6万の将兵、13000の軍馬の整理)を実行。さらに関東大震災の復興費用捻出のため1925年宇垣軍縮が行われる。具体的には21個師団のうち第13師団(高田)第15師団(豊橋)第17師団(岡山)第18師団(久留米)連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を廃止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6,000頭が削減された。宇垣軍縮から日中戦争前の36年までの間、日本陸軍の平時兵力は17個師団、人員約23万人、馬約5万頭で維持されることになった。陸軍軍人の怨嗟の的になった宇垣軍縮により浮いた金額は欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回した。主な近代化の内容として戦車連隊、飛行連隊、高射砲連隊、通信学校、自動車学校の新設などであった。海軍も1921年から翌年にかけてのワシントン海軍軍縮会議に参加し、英米日の主力艦保有数は5対5対3に決まった。
軍縮と成金の時代に遭遇した軍部の青年将校は「まったく憤慨やるところを知らないものがあった」。彼らは国家主義思想と結びつき、国家の革新を目指すものが現れた。彼らは「レビュー、ジャズ、喫茶店、酒場、明日に希望を持たない退廃的享楽」に浸る大衆消費社会の「デモクラシー」状況を指弾していた。1921年の安田財閥の創立者安田善次郎刺殺事件の犯人の国家主義者のテロリスト朝日平吾の声明書には、有閑階級や富裕層への呪詛が記されていた。そして軍部、特に陸軍内に総力戦体制の確立を目指す勢力が台頭する。永田鉄山は1920年の講演の中で、「国家総動員なるものを行って、ありとあらゆる国内の諸資源所施設を戦争遂行の大目的に向けて指向傾注する準備を確立しておくことが必要である。これらの努力の源泉は言うまでもなく国民の体力・精神力・知力にある」と訴えている。
第一次世界大戦は日本の軍部にも大きな影響を与えることになった。軍縮の時代が到来し、世の中の風潮が激変する「軍隊なんてものは余計なものだ」。このことが軍部の「非情に神経を刺激して、不穏の情勢」を生んだ。そして軍部による「言論抑圧とか非合法事件」を引き起こし、太平洋戦争へと向かっていく。
1921年ドイツの保養地バーデンバーデンで永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・東條英機が会し、藩閥打破等を話し合った。当時陸軍を指導していた山梨半造や宇垣一成、秋山好古らは山口県出身ではなかったが、明治以来の長州閥系の人事に引き立てられ、自由主義者・親英米派と協調して軍縮を進めていた。
ひとつは第一次大戦におけるドイツの敗戦の教訓である。ドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長のタンネンベルクの殲滅戦という、現場指揮官としてほれぼれするような大成功を目にした、しかし、ドイツは国内世論の分裂によって負けた。戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家の全てを挙げての総力戦に勝たなければ国防はまっとうできない。もうひとつは、ロシア革命の成功である。陸軍の仮想敵となったソビエトが、今や個人主義・自由主義を排した全体主義軍事大国として現れた。戦争は軍人だけでなく、 個人主義・自由主義を排し国家のあらゆる部門を向けなければならない。
永田鉄山の国家総動員論として、現代の戦争は、長期の持久戦となる可能性が高いため、経済力が勝敗の決定大きく左右する。中国やロシアのような現在弱体な国でも、潤沢な資源を持ち、有力諸国から援助を受ければ、徐々に大きな抗戦能力を発揮するようになる。敵に遠近なく、世界のいずれの国を敵とする場合があり、それに備えねばならない。陸軍はロシアを仮想敵国としていたが、米英なども敵となりうる。世界の強国との長期持久戦を想定するとすれば、日本の版図内における国防資源は極めて貧弱である。この不足資源の確保・供給先として、永田は満蒙を含む中国大陸の資源を念頭に置いた。戦争において、戦争による通商途絶への考慮から、国防資源の「自給自足」体制が確立されねばならない。とりわけ不足原料資源の確保が最も重要とした。もし今後本格的な戦争が起こるとすれば、国を挙げて抗戦する覚悟を要し、それには個人主義・自由主義を排し国家総動員が求められる。それが永田の基本的な主張であった。それゆえ自給的長期戦に対応できるよう、国家総動員の準備と覚悟が不可欠だと主張していた。
では永田理論では、乏しい国内資源をどうするか、まず鉄鉱について、本土で7万トン、朝鮮で35万トン算出し、百十数万トンを中国などから輸入している。満蒙において、産額は多くないが、埋蔵量はすこぶる多く、十万トンから数十万トンの生産計画がある、北支も中支もすこぶる多い。したがって資源豊富にしてかつ近き支那にこれを求める。石炭は有良炭は華中華北に多い。そのほか鉛・亜鉛は華中の湖南省、スズは河南、アルミニウム・マグネシウムは満州などが、石油に対しては中国としながらもはっきりとした見通しは立っていない。このように永田はほとんどの不足資源において満蒙及び華中華北が供給可能地域とし、これから日本の向かうべき道が満蒙であると結論付けている。
だが、当時の日本は多くの物資をアメリカからの輸入に頼るなど、自給自足には程遠かった。 軍事資源を米英から輸入することを前提にしていれば、それに制約され、国防自主権を確保することができない。その為には軍事的に支那は無理にも自分のものにする。中国の反日姿勢の背景には、政党政治の英米協調路線がある。ワシントン会議、ロンドン軍縮会議により、国防力が低下し、中国を増長せしめ、排日活動を逞しくせむうる。政党政治の英米協調に対抗して「純正公明」な陸軍が国家総動員論の立場から積極的に政治に関与すべきと主張した。永田は言う。「近代的国防の目的」を達成するには、挙国一致が必要であり、それには政治経済社会における幾多の欠陥を「切除」しなければならない。だが、そのためには「非情の処置」を必要とし、それは従来の政治家にゆだねても不可能である。したがって、「純正公明にして力を有する軍部」が適当な方法によって「既政者を督励する」ことが現下不可欠の用事である、と。
しかし当時の藩閥系の山梨半造、宇垣一成はじめとして軍の重臣は、あくまで米英とは協調し、平和の時代に軍縮を進め、中国の資源は平和的に交易により入手することを前提としていた。
長州閥 | 資源がなければ交易すればいいじゃない | 薩摩閥 | そのためには国際協調、英米関係重視だよね |
日清、日露を戦った軍の長老にこれがわかるというのか。陸相山梨半造、参謀総長上原勇作、教育総監秋山好古の3巨頭をいただき、全て長州中心の藩閥に固められている。
永田「我ら少壮将校が一致団結し、まとまった力を持って突破する他はない。長州閥を解消し人事を刷新するのが第一点、つぎに政治の側から軍の統帥には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第三点だ。どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか。」 | |
全く異論はありません。父英教が陸大首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだ。長州は排除しないといけない、陸大も山口県出身は徹底排除だ。 |
この話し合いで、①派閥の解消→人事刷新。②軍政改革→国家総動員態勢確立のために、積極的に同志を求め、相互に協力していくことを誓い合った。永田が考えたのが中国の満州と華北、華中の資源を確保することだった。当時、中国では反日ナショナリズムが盛り上がり、蒋介石率いる国民党政府が中国の統一を目指して北伐を実施。この動きに永田らは、日本の資源戦略が脅かされるとして安全保障上の危機感を強めた。永田や石原が満州事変を起こしたのは、そうした危機感によるものだった。彼らはやがて永田鉄山を中心に二葉会を結成、また鈴木貞一や石原莞爾、河本大作らは木曜会を結成し東條英機らはこちらにも積極的に参加した。そして二葉会と木曜会はやがて合流し、一夕会を結成した。一夕会には永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東條英機をはじめ、山下奉之、石原莞爾、牟田口廉也、田中新一、武藤章、富永恭次、板垣征四郎、河本大作、辻政信など名だたる陸軍大学エリートたちがこぞって参加した。東條英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなどし長州閥の解体に尽力した。
長州閥が退潮してから日本陸軍を動かすようになったのは、陸軍大学を卒業したエリート軍人達だった。そして陸軍大学合格者の9割までが幼年学校出身だったといわれる。陸軍大学の卒業生は、軍政の中枢部に座り、参謀本部に入って軍の方針を決めた。長州閥消滅後に台頭した永田鉄山、東條英機をはじめとした「統制派」「皇道派」の主要メンバーも、すべて幼年学校出身者達だった。
幼年学校に入学した生徒達が、頭のいい秀才揃いだったことに疑いはない。だが、彼らは広い世界を知る以前に軍エリート養成の学校に入り、幼年時代から特殊な軍人教育を受ける結果、その思想はともすれば偏狭になりまた正常の感情を欠き、軍国主義的、封建主義的、武断主義的に傾いた。陸軍のエリートたちの「唯我独尊、無軌道ぶり、戦場での硬直した考え方などの原動力」が、幼年学校以来養われた「攻撃精神すなわち必勝の信念」にあった。これが軍職にあればある程度は許されるが、軍閥としてその政治的特権を乱用した時、国家として憂慮すべき事態を招来したのである。また独ソのような全体主義を心酔するものが多く、自由主義の英米を軽視もしくは皮相的意見を有する事態となり、外交を左右することになった。石原莞爾などは、アメリカの一将校が二年間のドイツ留学の帰途アメリカに立ち寄るよう進めた時「我輩が米国に行くなど占領軍司令官として以外には考えられませんな」と答えたものだ。
当時の青年将校の一面がよく出ているが、この驕児的要素は全青年将校にある程度は共通していた。これは、士官学校あるいは幼年学校から、超エリート意識を叩き込まれてきた結果であろうが、もう一つ見逃せないのは、連隊における彼らの処遇であった。当時はまだ大学が総じてエリートの時代で特に帝大出は劣らずエリート意識が強かったが、多くのものは総じて社会に出たとたんに、一度は強い挫折感を味わうのが普通であった。日向方斎氏は入社早々新聞の社内配達をやらされて腐ったと聞くが、足が地につかない「宙に浮いた」エリート意識を打ち砕き、本当のリーダーを育てるのに、これはよい方法かもしれない。
だが軍隊はこれではなかった。少尉に任官すれば、新聞配達どころか逆に当番兵が付き、身の回りの世話はすべてやってくれて、殿様のようになってしまう。演習から帰った将校が将校室の机に腰を掛け、足を椅子の背に乗せ、顎をしゃくって「おい当番」といえば、乗馬長靴を脱がしてくれる。これを見た老招集兵が、「22、3の若造があんな扱いを受ければ狂ってしまう。2・26が起こるのは当たり前だ」と嘆じたが、軍隊ではこれが普通であり、階級が上がるほどひどくなって、将官ともなればこれが徹底していた。だがこの挫折なき驕児たちは、閣下であれ、青年将校であれ、どこか宙に浮いていた。
1919年に関東庁が設置された。また日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地の関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部を前身として新たに軍から独立した関東軍が誕生した。関東軍は陸軍参謀の上級職員に名目上従属していた。
1920年代にかけて憲政会の元、外務大臣幣原喜重郎による中国への相互不干渉、穏健な協調・親英米外交(幣原外交)が行われた。軍閥の割拠により、在中邦人の財産生命が脅かされる事態には、邦人の国外退去で対応していた。WW1時の対中21か条等で悪化していた英米との関係は、この時期に好転することになる。日本は日露戦争、第一次世界大戦で東三省(満州)に特殊権益を持っていたが、当時中国は軍閥の割拠する分裂状態であり、張作霖が東三省に勢力をもっていた。しかし日本人居留民に対する不当課税、中国側による「不法」な鉄道建設、ストライキ、デモ、ボイコットによる日本人商業の中断、日本人財産に対する個々の事件、日系華字新聞への発行配達への干渉、中国系新聞の排日記事の掲載などの条約違反が多々起こった。東三省を支配する軍閥張作霖に対し、幣原の外交姿勢は「軟弱」との批判を浴びていた。昭和金融恐慌もあり、1927年憲政会の若槻内閣が倒れ、立憲政友会の田中義一が首相となった。田中義一は蔵相に高橋是清を抜擢して恐慌を収拾し、薩摩の英傑大久保利通の孫娘婿の吉田茂外交官などを抜擢した。
田中義一首相 | 我々政友会は憲政会とは一味違うぞ。外交も吉田を抜擢して積極外交だ。 | 幣原外交は生ぬるい。英国と協調し軍を派遣してでも張作霖に条約順守を迫るべきだ。 |
田中政権の外交方針は、北伐に伴い在留邦人の生命財産が脅かされると英米と協調し山東出兵を行ったが、出兵にも事前に外交ルートで周到な説明を行っていた。国際協調を堅持し米英も日本の山東出兵を容認し、両国とも1000-2000名規模の増派を行っていた。しかし、陸大閥が暗躍していた。
戦争の目的として、対ソ連を主眼として、当面満蒙に完全なる政治勢力を置くことを目標にする。その際中国との戦争の準備はそれほど大きな考慮は必要とせず、単に資源獲得を目標とする。将来は生存競争になる。アメリカは米大陸資源だけで生存に十分だから、干渉はしてこないだろう。イギリスは軍事以外の方法で解決可能である。帝国自存のため、満蒙をとる。 |
そして1928年6月4日、東條英機の同志である関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。
田中義一首相 | なんだと?、陸軍が張作霖を爆殺だと?、とんでなないことを。 | ファッ?。これまで結んだ条約を無視して自己主張を押し通すなんて田中内閣の方針とは反するぞ。 |
当初田中は容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍および南陸相の反対に会い果たせなかった。当時は首相は閣僚を解任させる権限はなく、全閣僚一致できなければ、妥協するか退陣するかしかなかったのである。田中義一首相は長州閥であり、陸軍内の反長州閥にとって河本大作は英雄となっていた。陸軍中堅は当時永田鉄山、東條英機、石原莞爾らの脱長州閥を掲げる陸大エリートたちにより占められていたのである。田中は動きが取れなくなり、前言を翻し、天皇に叱責され、1929年総辞職した。結果、長州閥の流れは途絶え、第二次大戦後まで復活することはなかった。事件直後、石原莞爾が関東軍主任参謀に、翌年5月板垣征四郎が河本大作の後任の関東軍高級参謀となり、陸軍中央部では、同じく1929年5月に岡村寧次が全陸軍の佐官級以下の人事に大きな権限をもつ、人事局補任課長に就任。石原莞爾は満蒙領有計画をとなえ、陰謀を巡らせていった。満州事変が勃発する1931年9月の時点では、既に陸軍中央部の主要ポストは全て一夕会メンバーで固められていた。
第2回普通選挙では立憲民政党(憲政会より誕生した政党)が圧勝し、濱口雄幸内閣が成立した。外相に幣原を再登用した。外務省次官は引き続き吉田茂が担当した。
放漫財政の整理と協調外交を行う。ロンドン海軍軍縮条約を締結するぞ。 | 英米との協調が必要だ。義父の牧野伸顕と協調して薩摩の山本権兵衛海軍大将を説得しよう。 |
ロンドン軍縮会議では対英米7割を希望したものの英米に配慮し、対英米6.975割となった。濱口は軍縮および国際協調路線を進め国際的に評価が高かったが、天皇の承諾なしに政府が兵力を決めたのは憲法違反とする「統帥権干犯問題」が提起された。後の学徒出陣下級将校の山本七平は感想する。
人が一つの言葉にあまり痛めつけられると、その言葉自体が「悪」に見えてくる。私にとって「統帥権」とはそういう言葉で、長い間、平静にそれを口にできなかった。それを口にしたときの、軍人たちの狂信的な顔顔顔顔――。戦前の日本は、司法・立法・行政・統帥の四権分立国家とも言える状態であり、統帥権の独立は明治憲法第11条にも規定されていた。したがって政府は軍を統制できず、それが軍の暴走を招いた――というのが私の常識であり、また戦後一般化した常識である。
「執拗に統帥権の独立を主張して横暴を極めた軍」は、私にとってあまりに身近な存在であったため、軍部以外に統帥権の独立を主張した人間がいようとは、夢想だにできなかった。したがって明治の先駆者、民権派、人権派と言われた人々、例えば福沢諭吉や植木枝盛が「統帥権の独立」を主張していることを知った時、私は強いショックを受け「ブルータスお前もか」といった気分になり、尊敬は一気に軽侮に転じ、その人たちまで裏切り者のように見えた。だがそれから十年ほどたって、やっとその間の事情を調べてみる気になった。なぜこの民権派・人権派が「統帥権の確立」いわば兵権と政権を分離し、政府に兵権を持たせず、これを天皇の直轄とせよ――と主張したのか。いうまでもなくそれを主張した前提は、明治の新政府が、軍事政権とはいえないまでも、軍事力で反対勢力を圧伏して全国を統一した新政府、いわば軍事的政権であったという事実に基づく。この先覚者にとっては、民選議員の設立、県政へと進むにあたり、まずこの藩閥・軍事的政権の軍事力を”封じ込める”必要があった。軍隊を使って政治運動を弾圧する能力を政府から奪うこと、これは当然の前提である。彼らがそう考えたのも無理はない。尾崎咢堂の晩年の座談によると、そのころ明治の大官たちは、「我々は馬上天下を取ったのだ。それを君たち口舌の徒が言論で横取りできると思ったら間違いだ」といった意味のことを、当然のことのように言ったという。
これに対して当時の進歩的主張が、「軍は天皇の軍隊であって、政府の軍隊ではない。政府が軍隊を用いて我々を弾圧することは、政権の干犯である」となったことも不思議ではない。またこの先覚者たちの恐れの第二は、政争に軍が介入して来ることであった。たとえば板垣自由党を第一師団が支持し、大隈改進党を第二師団が支持するということになれば、選挙のたびに内戦になってしまう。ここに「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立足るべし」という発想が出てくる。南米やWW2後独立した多くの国々を最も苦しめてるのが、軍が政争に介入してくる内戦であることを思えば、人権派・民権派のこの主張は、当時の主張としては不思議ではない。と同時に日本が範とした当時の西欧諸国にも、同趣旨の規定があったという。だが、規定はあくまでも規定であり、その発想の基本を忘れれば、この考え方には、いくつかの落とし穴があり、逆用も可能であった。
また海軍に山本権兵衛や斎藤実(のちに2.26事件で死亡)の「条約派」とこれに反対する末次信正ら「艦隊派」という対立構造が生まれた。当時は山本五十六も最強硬に条約に反対する艦隊派だった。
条約派 | 国防は軍人の専有物にあらず。アメリカとの戦争・建艦競争は経済財政面から不可能だ。 | 艦隊派 | 米英と衝突しても日本が南方をしっかり確保すれば半年一年では大した国力の増大にはならないが、漸次に自給自足体制は強化され長期となればなるほど有利で何も憂うるには当たらぬ。 |
当時は海戦の勝敗は主力艦が握ると考えられた大艦巨砲主義の時代である。七割論は艦隊派、条約派を問わず支持するところであった。しかし当時の日本は経済的苦境にあり、日米の国力差を考慮すれば軍縮条約が必要であるとするのが、岡田啓介、山梨勝之進、堀悌吉ら条約派であった。現実主義外交を行った条約派や濱口や牧野は、右翼や軍国超国家主義者に国賊の汚名を着せられ暗殺の対象とされるようになった。濱口首相は1930年右翼青年に銃撃され31年死亡した。
1931年9月18日、柳条湖付近で日本経営の南満州鉄道線路が爆破された。間もなく、関東軍から中国軍の犯行によるものと発表され、一般国民には太平洋戦争終結までそう信じられていたが、実際には石原莞爾らの謀略により関東軍によって実行されたものだった(英国は暗号解読により早々と自演を把握していた)。関東軍の板垣征四郎高級参謀は独断で攻撃命令を発し、たちまち満州を占領し、清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。石原らの謀略、越権行為に対し、当時の若槻礼次郎内閣は戦線の「不拡大」を決め、天皇も不拡大発言したが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大。明確な軍規違反であったが、陸軍中央の中堅官僚は同志の軍事課長永田鉄山、東條英機らによって占められており制御はされなかった。満州事変は、永田を中心とした一夕会の周到な準備によって遂行されたものだったのだ。一夕会系中堅官僚の突き上げにあった南陸相は姿勢を変え、若槻内閣は陸軍の要求を受け入れ10月には新政権容認に転換した。若槻内閣は倒れ、1931年12月に発足した政友会犬養毅内閣では、一夕会が推す荒木貞夫が陸相に就き、一夕会系幕僚が陸軍の要職をほぼ独占し、陸軍中央は直ちに関東軍の全満州占領や満州国建国の方針を承認した。ここで明治以来の薩長閥系およびその流れをくむ宇垣派などの穏健派は陸軍主流から駆逐されたのである。そして権力を握った一夕会内で、様々な思惑が交錯するなか、満蒙領有の陰謀がめぐらされた。
永田鉄山 | 石原莞爾 |
ドイツが次の戦争の火種となり、次の戦争は総力戦となる。日本もこの国家総力戦に備えなければいけない。満州をとっても、アメリカは介入しないであろう。国防資源の「自給自足」体制が確立されねばならない。軍事資源を米英から輸入することを前提にしていれば、国防自主権を確保することができない。その為には軍事的に支那は無理にも自分のものにする。国内に不足するものについては何らかの方法で対外的に「永久または一時的にこれを我の使用に供しうるごとく確保」することが、国防上緊要だ。そして「純国防的」な見地からすれば、国防資源の「自給自足が理想」だ。 | 数十年後に日本が東洋文明の中心となり、西洋文明の中心地の米国と、世界最終戦争となるだろう。その為には満蒙をわが領土にする必要がある。だが満蒙領有の実行は、とりわけアメリカの実力的介入は必至。だがこれは約半世紀後に想定される世界最終戦とは異なり、長期の消耗戦となる。フィリピン、グアムを日本の領土とし、ハワイもとったあたりが講和条件となるであろう。中国占領後は武力によって病根を打開し、中国に新生命を与える。日本による中国統治は、支那人より吏心の歓迎を受けるだろう。占領に要する維持費は、中国における関税・塩税及び鉄道収入によってまかなうのだ。 |
このような永田の思想が、満州事変以後の昭和陸軍をリードし、1934年の陸軍パンフレット「国防の本義と強化の提言」に色濃く反映されている。また石原莞爾の「戦争により戦争を養う」占領自給自足経済構想は陸軍エリートたちに大いに感銘を与え、現地自活命令が頻用されるなど後の太平洋戦争の戦略にも大きな影響を与えた。石原莞爾は満州事変でアメリカの介入は必須と考えたが、現実にはアメリカは武力介入を行わず、対日経済制裁にも踏み切らなかった。満州に対して中国の領土保全や不戦条約に反するような事態は一切認めないとする、スティムソン・ドクトリンの発表にとどめた。
犬養政権は選挙で大勝すると、高橋是清を蔵相に任命し、積極経済政策を推進した。
軍部には配慮するが、満州国については中華民国との話し合いで解決しよう。 | 軍事費増と公共事業の推進で積極財政する。まず不況脱却してから財政健全化だ |
1931年12月の金輸出再禁止を契機に32年12月には100円20ドル強と一年間で60%下落し、この円安は米金本位制の離脱まで続き、同年以降の輸出増加に大いに寄与した。32-4年の日本の輸出は綿工業、レーヨン業などが中心の繊維産業主導で回復したが、インドをはじめとするアジア諸国向けが中心となった。また高橋是清はリフレーション政策を行い、長きに渡るデフレを終熄させた。犬養内閣において、成長率は1932年(昭和7年)に4.4%、1933年(昭和8年)に11.4%、1934年(昭和9年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。
しかし、満州事変の処理は難物だった。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。また上原元帥に掛け合い軍部を抑えようとしたが果たせず、天皇に上奏して過激少壮将校30名を免官さそうとしたが結局実現しなかった。少壮軍人や右翼勢力に強い反感をいだがせるようになり、宮中でも「軍のほうでは、犬養総裁がやたら陛下のお力によって軍を抑えようと押さえようとしている気持ちがあるといって、それに対する反感が高まっている。」と軍を恐れ動かなかった。犬養はかつて統帥権干犯問題で海軍艦隊派に有利な討議をするなど軍部に配慮していたにもかかわらず、1932年5月15日海軍将校らにより銃殺された。
まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか。 | 軍将校 | 「問答無用、撃て」 | いまの若者を呼んで来い。よく話して聞か・・・、ぐふ |
このとき「君側の奸」の筆頭格とされた牧野伸顕なども襲撃された(5.15事件)。ここに1898年より断続的にも長年継続していた政党内閣は軍部の圧力により崩壊し、第二次大戦後まで復活することはなかった。この極端な国家主義団体及び海軍若手士官の台頭がもたらした恐怖を利用し、海軍艦隊派は自らの要求を押しまくった。予算や軍政をつかさどる海軍省から権力を奪い、作戦を行う軍令部の権力増強をさせ、将来の軍拡路線を妨害する恐れのある条約派の将官の追放を要求、谷口尚真のほか、山梨勝之進、左近司政三、寺島健、堀悌吉ら次官、軍務局長経験者、軍事普及部委員長・坂野常善らを、大角は自らの署名つき辞令で追放した。これが「大角人事」と呼ばれる恣意的な条約派追放人事である。9月15日斎藤実内閣は満州国を正式に承認し、日本は国際的に厳しい批判を浴びた。国際連盟のリットン調査団は、地元住民の自発的な意志なく日本軍の主張する「自衛行為」を認めないものの、日本の満州における特殊権益を認め、内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを公的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の公表前に満洲国を承認し譲れない日本はこれに反発し、国際連盟において日本は孤立した。
欧米との良好な関係を続けべきだ、国際連盟脱退は絶対反対だ。 | 松岡洋祐「連盟の首席全権にわしでなく長老外交官を当ててはどうかだと?、ふざけるな!。」 |
こうして満州を得て、親英米の藩閥系陸軍軍人及び条約派、政党政治家の排除に成功した軍部であったが、いざ権勢を握ると、一夕会内での路線対立が表面化する。大陸の資源早期獲得のために対支積極論をとる永田鉄山とソ連に備えるため中国本土への介入に慎重な小畑敏四郎との対立である。小畑は32年4月に少将に進み参謀本部第3部長に就任、荒木の盟友である真崎甚三郎参謀次長の腹心として、皇道派の中枢と目されることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田鉄山と対ソ連・支那戦略を巡って鋭く対立した。32年にソ連より日ソ不可侵条約を打診されたが、即時の条約締結を主張する永田らと反対する小畑らが対立、外務省は当時ソ連と断交していた英米への配慮もあり交渉を謝絶した。両者の対立はさらに深まり、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張して譲らなかった。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。荒木・真崎らの非宇垣系軍人を立てて政党政治時代の陸軍主流派を排除した永田らであったが、荒木は陸相になると小畑を引き立てて皇道派を形成し、永田ら一夕会の主流層からは彼らのコントロールが困難となってきていた。永田の周りには東條英機、武藤章、服部卓四郎、富永恭二、辻政信らの中堅幕僚が集まり、彼らが統制派の中核となっていく。彼らは軍が一致した統率のもとに、陸軍大臣を通じて政治上の要望を政府に提案することで合意された。それは陸軍大臣の進退の示唆による強要という恫喝的方法を含むものであり、当時の管制では陸軍大臣は陸軍将官に限られ、その進退によって内閣の死命を制することが可能だったからである。
一方、一夕会の中堅陸軍官僚の動きとは別に、大岸頼好、菅波三郎らを中心とした隊付青年将校らの国家改造運動が満州事変前後から形成されてきた。彼らはしばしば皇道派青年将校と呼ばれるが、小畑や荒木らの中堅官僚の皇道派とは本来違う問題意識を持った全く別の集団である。菅波・扇氏らの理念は、北一輝「日本改造法案大綱」の影響を受けており、土地所有制限など国家社会的な政策を含んでいた。そのような国家社会主義は、真崎ら皇道派の嫌悪するところだった。しかし永田が彼等を「陸軍の統制を乱すもの」として弾圧したことから、対抗上相互に政治的連携を必要とし、皇道派と密接な関係を持つことになった。資源自給自足体制および国家総動員体制の確立による不敗体制の樹立といった永田の思想を持つ統制派と違い、皇道派は当面の対ソ中対英米政策が中心で独自の長期ヴィジョンは必ずしも明確ではなかった。
33年8月、永田と小畑共に参謀本部を去り、近衛歩兵第1旅団長に転出した。1934年(昭和9年)1月に荒木陸相が辞任、後継を期待された真崎も閑院宮載仁参謀総長の反対により教育総監に回り、林銃十郎が陸相に就任、永田を軍務局長に据えたため、皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。永田の戦略構想の指向性は、永田が軍務局長として作成に深くかかわった陸軍パンフレットや華北分離工作を指示する通達「北支奈政策」へとつながっていく。
1934年10月、陸軍パンフレット『国防の本義と其強化の提唱』が発行された。このパンフレットは「戦いは創造の父母」、「国家の逐進、原動力は軍部である」とその冒頭に謳いあげていたように、 ことごとく軍部中心、戦争謳歌の精神で貫かれていた。平たく言えば陸軍が「日本は陸軍中心の軍事国家になるべし、財界や政党は軍の指示通り動く国になるべし」という内容のパンフレットを配布したということである。陸軍は1931年(昭和6年)9月の満州事変以降、その正当性を国民に宣伝するために1931年には18種、1932年には37種、1933年には33種を発行している。 しかし、「国防の本義と其強化の提唱」は軍部が初めて思想・経済問題に言及し、しかも政治介入を公然と表明した点が大きな相違点である。
その内容は「国家の全活力を総合統制」する方向での「国防国策」の強化を主張するものである。具体的には、軍備の充実、経済統制の実施、資源の確保など、永田の主張の延長線上にあるものといえた。ただ、以前の永田の議論から一つ変化がみられるのは、近年の国際連盟がその「無力」を暴露し、「国際的争覇戦時代」となったとし、そのもとで「平時の生存競争」である普段の「経済戦」が戦われている。「国際生存競争」は白熱状態となり、「平時状態での国家の全活力の総合統制」しなければ「国際競争の落伍者」となる。そのような認識から、近代国防においては、平時においても「国家の全活力を総合統制」すること、すなわち一種の国家総動員的な国家統制が必要だとされる。そして国防の要は人的要素であるとし、「正義の維持遂行に対する熱烈なる意識と必勝の信念」が不可欠の要素である、としていた。 これを養うため、 1、建国の理想、皇国の使命に対する確乎たる信念を保持すること
2、尽忠報国の精神に徹底し、国家の生成発展のため、自己滅却の精神を私奮すること
3、国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を排除し、真に挙国一致 の精神に統一すること 4、列強は国体の改変を企図し、軍民離間を策し、思想的謀略を常用しつつある。 従って国民精神統制、即ち思想戦体系の整備は国防上も猶予遅滞を許さぬ重要政策である。
その背景には、満州事変、国際連盟脱退を経て、政治的発言力を増大させてきた永田ら陸軍中枢の、国家統制への意思が示されている。世界恐慌以後、欧米列強に圧迫され、「支那市場」などから「駆逐」される恐れがある。それに対処するには「経済及び貿易統制」を断行し、また「経済封鎖に応ずる諸準備」も怠るべきではない。場合によっては「破邪顕正の手段として武力に訴える」用意も必要だ、と。また来年(1935年)の第二次ロンドン海軍軍縮会議では、日本は「絶対に国防自主権を獲得するを要し」、従来のように「比率を強要」されるようなことは「断じて許容し」えない。「皇国に対し絶対優勢の海軍を保持せんとする」のはアメリカの対中国政策である「門戸開放主義」を強行するためである。それ故海軍軍縮会議決裂も辞さない強硬な姿勢だった。永田らは蒋介石らの国民党政権の朝拝は不可能とみていた。したがって、それに代わる日本の資源…市場確保の要請を受容する親日政権の樹立による日支提携が考えられた。
なお、この文書は、そのほか「国防国策」強化の一環として、農村負担の果汁や小作問題などを解決して「農山漁村の供給」を実施すること。「富の偏在」「貧困」「失業などが顕在化している現在の経済機構を改編し「国民大衆の生活安定」を実現することなどを主張している。これらの点は当時最大の無産政党であった社会大衆党書記長麻生久や同党国際部長亀井寛一郎などがこの文書を評価する一因となった。
同パンフレットの内容は陸軍主導による個人主義・自由主義の排除、社会主義国家創立・計画経済採用の提唱であったため多くの論議を呼んだ。軍事ファシズム体制を主張するものであった。陸軍はこのパンレットの発行前に各新聞社に大々的な報道を要請していた。このとき、「朝日新聞」は掲載をしなかったため陸軍から呼び出し恫喝をうけ、10月6日の社説で「啓蒙的価値あり」と支持を表明した。「毎日新聞」は10月7日の社説で、パンフレットに直接の言及は無かったが「軍事費の膨張は仕方ないこと。異論などあるはずがない」と軍への賛同を示した。
永田らはこのパンフレットの内容を実現すべく、陸軍の要請として、根本国策の統合樹立のための機関創設を岡田内閣に働きかけた。そして内閣審議会及びその調査・実務組織として内閣調査局を発足させる。この内閣調査局は統制経済主義をその基調とし、陸軍の国家統制論に共振する新官僚の拠点となっていく。さらに永田らは国防力強化のために軍事費の大幅増額とそのための公債増発の要求を強めていく。永田軍務局長の下で昭和11年度陸軍概算要求は3億6000万円となる。このことは財政抑制に努めようとしていた岡田内閣、高橋是清蔵相の方針との軋轢を徐々に深刻なものとしていくことになる。
もはや不況はおさまり、これ以上の財政出動を抑えて出口戦略を施行するべきだ。いまこそ財政健全化だ |
高橋蔵相は経済回復が軌道に乗り始めた1935年1月に満州事件費の削減と怠慢投資の抑制を求めた。高橋は各省の中でも特に陸軍に注意喚起した。前年度の満州事件費1億4000万円のうち4-5000万円の大幅な削減を考えていた。財政投融資による景気刺激策を必要とした出超も許されない水準に達し、高橋は財政健全化にかじを切った。当時の国家予算規模は一般会計約20億円で、軍事費は1930年の4.4億円から35年は10.3億円となった。当時の為替が100円30ドル前後であり、米陸軍予算が2.6億ドルであるから、GDP差を超越して上回っているのである。一方、永田は軍務局長として、岡田内閣発足直後の1934年8月、陸軍省の在満機構改革案をまとめた。その内容は、関東庁・関東長官を廃止し、代わりに駐満大使のもとに関東局と関東州知事を置く。また、それまで外相の監督下にあった駐満大使を首相の監督下に移す、さらに、関東庁行政事務の所管を、それまでの拓務省から内閣直属の対満事務局に移すことなどで、対満事務局の総裁は陸相兼任が想定されていた。関東軍が全満州を行政を含め一元的に支配するとともに、陸軍中央が対満事務局を通じてそれをコントロールするシステムが陸軍省案の狙いだった。満州での重要な権限を失うことになる外務省などは激しく抵抗したが、永田ら陸軍省はほぼ原案のまま強引に押し通し、9月に閣議決定がなされた。その後林陸相が対満事務局総裁に兼任の形で任命される。
荒木、真崎は元老西園寺をはじめとする穏健派重臣層から忌諱されており、それが荒木、真崎と対立する永田への重臣層の認識を曇らせる要因の一つとなっていた。だが華北分離工作や軍事費拡大の問題をめぐって、穏健派重臣層の永田への期待は裏切られることになる。1935年6月9日永田ら陸軍中央の了解のもと、関東軍・支那駐屯軍による軍事的圧力を背景に蒋介石に華北からの撤退を迫った。国民政府は華北より排除され、排日運動を禁止する敦睦令を出した。蒋介石は広田外相に政府レベルの外交的対処による要求緩和を要請したが、広田は陸軍に妥協し現地交渉とし要請にこたえなかった。さらに土肥原健司の関東軍の要求によりチャハル省からも撤退し、華北分離工作が開始された。8月6日橋本陸軍次官から関東軍などに対して「対北支那政策」が通達された。そこには河北省・チャハル省・山東省・山西省・すい遠省の「北支5省」を南京政権の政令によって左右されない「自治的色彩濃厚なる親日満地帯」たらしむことなどが記されてある。華北分離に向けての工作を指示したものだった。総力戦、国際的経済戦争のための資源と市場の確保を目指す永田の強い影響下にあるものであった。永田は、国家総力戦のためには、満蒙だけでなく華北華中の資源が必要と考えていた。特に長江南岸にあり日本の鉄鋼生産原料鉄鉱石の大半を占める大冶鉄鉱山は重要だった。小畑は1934年3月に陸大幹事、35年3月に陸軍大学校長となるが、中央から排除され続けていた。永田により、国家改造派隊付青年将校らは真崎ら皇道派と懇意であると看破され、「非合法的革新思想の駆除」を行う必要があるとし、皇道派有力者の一掃が図られた。同年7月には永田の働きかけで皇道派の真崎教育総監が更迭される事態となる。しかし8月12日永田は皇道派青年将校の相沢三郎により惨殺された。
永田死後も陸軍は永田の構想に沿って動き、華北に日本の強い影響下にある独立政権の冀東政府が成立する。1936年1月岡田啓介内閣は華北5省全体に自治を企図する「第一次北支処理要綱」を閣議決定した。しかし中国側有力者の協力が得られなかったことなどから華北分離工作は容易に進捗しなかった。
藩閥系重臣と政治家官僚多数遭難(2.26事件)、陸軍陸大閥の権勢増大
1936年2月26日村中浩二・磯部浅一・安藤照三ら皇道派隊付き青年将校国家改造グループの一部が、第一師団や近衛師団の兵約1500を率いて、クーデターによる国家改造を目指し武装ほう起した。多くの穏健派の天皇の重臣・軍人が襲撃され、条約派の海軍軍人で首相も務めた斎藤実内大臣、軍予算を削減しようとした政党政治家高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。この時木戸幸一内大臣秘書官長が、全力で反乱軍の鎮定に集中し、「実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣は絶対に認めない」ことを天皇に上奏するのに主導的役割を果たし、事態の収拾に重要な役割を果たしたことはよく知られている(木戸は永田に10月事件の時のクーデターの方式を聞いていた、陸軍省と参謀本部と警察を抑え、「軍隊を指揮して宮城へ入って陛下を強要して、自分のすきな内閣を作る」のが大体の構想)。天皇は暫定内閣を拒否し、「速やかに暴徒を鎮圧せよ。秩序回復するまで、職務に奨精すべし」と命じた。結局、決起部隊によるクーデターの企図は失敗し、彼らとつながりのあった、真崎甚三郎・荒木貞夫らの皇道派も予備役に編入され、事実上陸軍から追放された。小畑敏四郎も部下である陸大教官の満井佐吉が事件に連座しており、監督責任を問われることになる。小畑は同年3月には中将に進むが、粛軍人事により皇道派の一掃が図られ、同年8月に予備役に編入された。
統制派は暴支膺懲派とでも言うべき対中国強硬策の主張であり、永田殺害のあと統制派を継いだのは、東條英機、武藤章、田中新一いった人々であった。荒木貞夫・真崎甚三郎・小畑敏四郎らの皇道派将軍たちの、対ソ戦を重視で満州国樹立後はそれ以上の中国侵出には慎重であり、相対的に対米英融和の姿勢であったことは、永田将軍の統制派の志向と異なっていた。その意味では「英米協調路線」こそが永田構想による華北・華中へと向かう資源自給圏の構築を阻むものであった。
岡田内閣は総辞職となり、外務官僚の広田が首相となった。非合法派の青年将校国家改造グループの敗北でこの機に陸軍の専横が和らぐのではないかとの見方もあったが・・・
外務省の同期の広田弘毅君が首相になったぞ。これでワイも出世街道まっしぐらやろうなあ。 |
しかし藩閥系、親英米の軍重臣・政治家は大打撃を受けており、陸軍一夕会の政治的発言力は急速に増大していた。広田内閣では組閣が始まったが、寺内寿一大将と山下奉文少将ら陸軍参謀本部員らが外相官邸に来て、吉田茂や小原直らの親英米派の入閣に反対を唱えた。
山下奉文「牧野伸顕の女婿である吉田茂を外務大臣にするなら、寺内の入閣は辞退する」 | 武藤章中佐 | (怒゚Д゚)ここに牧野の婿がいるのかぁ!(軍刀ガチャガチャ) | |
ヒェッ((;゚Д゚)) | 広田首相 | 悪いが君を外相にはできん。イギリス大使で勘弁してくれ |
陸軍大臣抜きでは、内閣は成立しない。組閣は陸軍の言うなりになった。事件後に成立した広田内閣時の陸軍トップは、寺内寿一陸相、閑院宮参謀長、西義一教育総監となり、いずれも政治色が薄く、中堅幕僚層の意向が強く反映される布陣となった。そのような陸軍中央の中で強い影響力を持つようになったのが陸軍省では永田の懐刀といわれた武藤章軍事課高級課員、参謀本部では一夕会員だが非皇道派非統制派の石原莞爾作戦部長だった。永田の腹心東條英機は関東憲兵隊司令官として満州に赴任していた。広田内閣は武藤・石原らを中心とする陸軍の圧力によって、陸軍の傀儡として軍部大臣現役武官制を復活し(とはいえ、明治から終戦まで陸相に現役武官以外が就任したことはなかったが)、日独防共協定を締結、馬場蔵相の増税と公債の増発による軍事費増強など軍事政策を推し進めていった。軍務大臣現役制の影響は間もなく、宇垣一成の大命拝辞すなわち宇垣内閣の流産となって表れるのである。
1935年8月に作戦課長となった石原は日本の在満兵力が極東ソ連軍より劣勢であることを知り悄然とした。当時のソ連極東兵力は14個師団、飛行機950機、戦車850両、日本の在満鮮兵力は5個師団、飛行機220機、戦車150両だった。1936年6月戦争指導課長に転じた石原らは国防国策大綱を立案、参謀総長の決裁を得た。この大綱ではまず、ソ連の極東攻勢政策を断念させることに全力を挙げることが強調された。対ソ持久戦の際には、米英との親善関係を必要とするため、対し政治的工作は米英の親善関係を保持しうる範囲に制限する必要があるとしている。さらに大綱にはソ連の攻勢を断念させれば、次にイギリスの「東亜」における根拠地を奪取し、その勢力を駆逐する。それによって東アジア、東南アジアを独立させ、さらにニューギニア、オーストラリアなどを日本の領土すると記されている。そして対英戦争時はソ連に対しては中立を厳守させる、としている。こうして東亜への白人の圧迫を排除し、東亜の保護指導者たる地位を確立する。そしてさらにこれら東亜諸国を指導し、アメリカとの大決勝戦すなわち日米最終戦争に備える、と。
かつての満州事変時は石原の予想していたアメリカの軍事介入はなく、スティムソン国務長官による不承認宣言にとどまり、大綱では対英戦に変化したのであった。そして石原はソ連を背後からけん制する手段として、ドイツの利用を考えていたが、これはのちに日独防共協定の締結として現実化する。
しかし対ソ戦備優先論は、南進戦備を重視する海軍の同意を得られなかった。1936年日本はロンドン海軍軍縮条約から脱退し、ワシントン海軍軍縮条約を破棄していた。6月の陸海軍の主張を取り入れた「帝国国防方針」は主要仮想敵国としてアメリカ・ソ連が併記され、それに次ぐものとして中国・イギリスが新たに加えられた。陸軍兵力は50個師団、航空142個中隊とされ、海軍は戦艦12隻、空母12隻などとなった。石原ら陸軍参謀本部はその対ソ戦備優先論が国策となりえなかったため陸軍独自の対ソ軍備拡張を進めた。これを受け、広田内閣は昭和12年度予算案において、陸軍7億2800万円、海軍6億8200万円と前年度より3億5000万円の大軍拡予算とし、さらに軍拡計画の継続費として、陸軍13億9000万円が計上された。全予算額は30億3900万円、歳出の46.4%が軍事費で、前年度より7億2700万円の膨張となった。2.26事件を機にもはや陸軍への財政的抑えがほぼ効かなくなったのである。そして石原らは、ソ連の計画経済を取り入れた「日満産業5か年計画」を作り、国家主導による工業生産統制を目指した。そして石油についてドイツから石炭を原料とする人造石油設備を輸入し整備を図ったが実用化に失敗した。陸軍はこれらの計画から大陸での戦争に必要な兵器や軍需品を満州で生産することを目指し1936年10月「満州産業開発5か年計画」を策定し、実行に移した。石原はこれらの戦備が整う1941年までの不戦方針を打ち出した。
これらは華北分離工作を行い、河北省の鉄鋼交渉や山東の石炭などの重要資源の確保を必需とした永田らの統制派の方針に反するものであった。ちなみに、北樺太に石油資源があったが必要量の一部を賄うにすぎず、北方への領土拡大は資源確保のためにはあまり意味を持たなかった。満州資源は期待外れで、鉄鋼、石炭、石油、ゴム、アルミニウムなど、主要軍需資源の自給には、中国本土および東南アジアの資源を必要としたのである。石原は満州国で共産党流の一党独裁国家を目指し、自ら満州国協和会を設立した。この満州国での協和会による一党独裁の構想を、日本国内に持ち込もうとする志向性を持つものだった。
昭和11年(1936年)8月、閑院宮春仁王が陸軍大学の研究部主事となり、昭和10年に開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。しかし参謀たちはおろか、石原も大局的な国防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。石原莞爾は、現場の技術者および新しい技術を徹底軽視した。
日独防共協定の成立
日独協定は、ヒトラーの私的外交顧問リッペンドロップおよびドイツ国防軍膨張局長カナーリスと駐独武官大島博との間で交渉が始められ、永田鉄山に近い岡村寧次郎情報部長も、ドイツの再軍備宣言に「敬服」してドイツにシンパシーを有していたため、承知していた。1936年1月、日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であった。2月に2.26事件が勃発して陸軍の発言力が増大したため、日本外務省も交渉締結の路線から外れることは出来なかった。
4月6日にはライヒェナウらの主導で、中華民国に一億ライヒスマルク借款を行うことを始めとする援助協定が成立した。これは対独接近を考えていた日本側にも大きな衝撃を与えた。5月には国防軍が日本との提携は対ソ戦争の際に役立たないばかりでなく、イギリスやアメリカとの敵対関係も呼び込むと警告する報告書を提出した。一方で援助協定のあまりの巨大さを知った外務省は、国防軍を牽制するため、対日接近に傾くようになった。7月には防共協定の案文と付属議定書がドイツ側から日本に提示された。一方でライヒェナウらはなおも強い独中協定を主張し、中独軍事同盟の成立も主張していた。ヒトラーは「(ライヒェナウがヒトラーの)対日構想を台無しにしようとしている」と激怒し、「将軍たちは政治を何も理解していない」と罵った。10月23日には仮調印が行われ、日本の枢密院における審議を待つばかりとなった。しかし国防軍の親中的な姿勢が伝えられるにつれ、枢密院での審議が危ぶまれるようになった。武者小路大使はドイツ側に抗議し、協定締結は不可避と考えるようになった外務省が国防軍に対中支援協定の中止を求めたことでこの動きは決着した。
1936年(昭和11年)11月25日に日本とドイツの間で日独防共協定は調印された。ソ連との関係を損なわないために、国際共産主義運動を指導するコミンテルンにのみ対抗する共同防衛をうたっており、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった。秘密協定として、対ソ不援助規定、対ソ単独条約締結の禁止あった。エチオピア侵略行為で1935年10月に国際連盟を脱退していたイタリア王国が1937年に原署名国として加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる三国間協定となり、1939年にはハンガリー王国と満州国、スペインが参加したことによって多国間協定となった。ソ連のみを主敵とする日本側と、イギリス・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった。また、日本国内でも同盟成立を重視する陸軍は英仏を敵に加えるよう主張していたが、海軍及び外務省はこれに反対していた。
1936年12月中国では西安事件が起こり国民党と中国共産党は内戦を中断して、その後の共同抗日と国共合作が促された。1937年(昭和12年)1月、政友会浜田国松議員による陸軍批判が、寺内陸相の怒りを買い、議会解散を主張する寺内寿一陸相と他の閣僚との閣内不一致で広田弘毅内閣が総辞職を行った。それにより、次期首班が宇垣一成大将となり、陸軍に宇垣大将にいよいよ大命が下されるとの情報が入ってきた。石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする一夕会の中堅層は、かつて四個師団を廃止するなどの大規模な軍縮(宇垣軍縮)を断行した宇垣などが首相になれば自分たちの政策が実現できないと考え、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動きだした。石原は自身の属する陸軍中央、参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から憲兵司令官であった今朝吾に出させた。24日夜、憲兵によって宇垣の動きを掴んでいた今朝吾は、宇垣が組閣の大命を受けようと皇居に参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めその車に乗り込んで、寺内大臣からの命令であると言い、今回の大命を拝辞するようにと宇垣を「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して参内し、大命を受けた。しかし石原の工作は「宇垣四天王」と呼ばれた杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも及び、彼らは保身のため結局誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受けなかった。これによって宇垣は組閣を断念し、宇垣内閣は流産してしまった。
このため、あらたに予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下し、組閣したのが林内閣である。ここで石原らは板垣を陸相として全陸軍を動かそうとしたが、梅津美治郎陸軍次官(板垣より陸士で1期上)らの働きかけにより果たせず、中村幸太郎が陸相に任命された(直後に病気辞任し、杉山元が就任)。石原の影響力は陰りが見え始める。3月の陸軍定期異動で石原は作戦部長となるが、軍事課長には田中新一が就き、石原らの協力者は陸軍中央から転出する。こうして陸軍省における石原の影響力はかなり低下した状態となった。この林内閣時に「国体の本義」が文部省から刊行・配布され、以後の学校教育、一般国民教育の基本軸の人島とされた「大日本帝国は、万世一系の天皇、皇祖の進捗を報じて永遠にこれを統治し給う…、…我らは…天皇に奉仕し、皇国のみとを行いずるものであって、我ら臣民のかかる本質を有することは、まったく自然にいずるものである。・・・」。このような考え方は、その後第三次近衞内閣の「臣民の道」にも継承され、敗戦まで一般国民の生き方として義務付けられることになる。陸軍にとって、このような考え方を人々が受け入れることが、国家総動員のためには必要なことだった。また軍の社会的権威を高めるため、将来の戦争遂行のためにも、それが要請された。天皇は大元帥として軍に直結するものだったからである。政府自身にとっては、議会を基礎としない内閣による統治の正当性を強化していくには、このような天皇の位置づけが不可欠だった。
この状態のある時期には、日本の国土に、二国が併存していたと考えたほうが、その実態がわかりやすい。一つは日本一般人国、もう一つは日本軍人国である。そしてこの一般人国と軍人国は、「統帥権の独立」と、軍人は「世論に惑わず政治にかかわらず」の軍人勅諭の原則で、相互に内政不干渉を訳している二国、そしてその共同君主が天皇という形をとっていた。帝国陸軍とは、日本国行政府の支配下になかったという意味で、日本国「政府軍」ではないという形態へといつしか進んでいった。そしてその内容は「日本軍人国軍」の趣があった。そして統帥権により日本国の三権から独立していた軍は、逆に、まず日本国をその支配下に置こうとした。そして満州事変から太平洋戦争に進む道程を子細に調べていくと、帝国陸軍が必死になって占領しようとしている国は実は日本国であったという、奇妙な事実に気づくのである。
このことは「太平洋戦争は百年戦争である。たとえ本土決戦に敗れても、無敵の関東軍が天皇を奉じて百年でも二百年でも戦い続ける」と訓示した(と言われる)方面軍参謀の言葉によく表れている。
これが軍隊内の普通の常識だったことを示している。これでは、日本も、満州同様、帝国陸軍の占領地域内の一国だということになってしまう。事実、満州占領は、当時の一部の軍人には、内地占領のための軍事基地の設定であった。したがって帝国陸軍とは、一般国民から見れば、何を考えているかわからない、誠に不気味な「一国」、自分の手でどうにもできぬ横暴な他国に見えた。そしてその国に強制移住させられれば、今までの常識も倫理も生活感も全く通用せず、何をされるかわからないという不安を、その心底に持たぬ者はいなかった。
一方、軍のほうも、軍隊以外を「地方」(陸軍)、または「娑婆」(海軍)と呼び、それは、軍のために活用すべき従属者以外の何物でもなかった。したがって、帝国陸軍の作戦には、国民軍として住民保護が至上の義務という見地は皆無、また戦闘員・非戦闘員の区別と非戦闘員の権利を、自国民に対してさえ実質的には認めなかった。
石原ら戦争指導課は、1937年1月「帝国外交方針改正意見」を作成するが、そこでは日独防共協定によってソ連をけん制すべしとの考えが明記されている。また従来の華北分離工作の中止を打ち出した。この意見を受け、参謀本部は陸軍省に対し政策を変更し北支分地工作は行わずとの意見を公式に伝えた。この方針に陸軍省も同意し、同年4月林銃十郎内閣の4相会議(陸相・海象・外相・蔵相)で北支の分治を企図するような政治工作は行わず、日中間の国交の調整を図ることが申し合わされた。石原は西安事件を受けて中国の統一の機運が強固となってきたことを受け、近代国家建設の可能性を認め、反日運動を和らげ、反英運動に向け、将来の対英戦に備えることを想定した。
この華北分離政策放棄は、関東軍の東條英機参謀長や富永恭二高級参謀らが猛反対し、中央では武藤章作戦課長や田中新一軍事課長が反対だった。また華北分離工作と並行して行われていた関東軍の内蒙工作として、蒙古王族徳王を援助して、内蒙古を国民党政府から独立させることを意図していたが、36年11月から12月の石原の満州・華北視察において、石原は内蒙工作を中止すべき旨を主張した。
そのとき武藤第二課長は石原に向かって「あなたは満州事変で大活躍されました、今我々は満州であなたのされた行動を見習い、その通り内蒙で実行しているものです」と反論、同席していた若い参謀たちが哄笑したとのことである(今村均回顧録)。ただ、内蒙工作の失敗後、武藤は自ら現地を訪れ、田中隆吉らが推進していた特殊工作の無謀な実態を知る。武藤「結局俺は田中の舌先三寸に踊ったわけか」。
またこのころ顕在化した欧州動乱については関与すべきでないと考えていた。これらはいずれも次の大戦は必発で日本も必ずそれに巻き込まれる、そのため長期戦に耐えうるよう大陸の資源を確保するという永田の思想に反していた。当時の関東軍参謀首脳は板垣征四郎参謀長、今村均参謀副長、武藤章第二課長などだった。また板垣の後任に永田の腹心の東條英機が関東軍参謀長となり、1937年6月(盧溝橋事件の直前)に「南京政府に一撃を加え」るべき旨を陸軍中央に意見具申している。武藤の見立てでは、37年6月12日ソ連でトハチェフスキー元帥らの処刑が発表され、その後の赤軍の粛清は続き、旅団長以上の45%が殺害され、赤軍が大打撃を受けておりソ連の介入の可能性は低いと判断されていた。またドイツのラインラント進駐、イタリアのエチオピア併合、その後のスペイン内戦への独伊の介入などによって列強の介入が不可能な時期であり、中国の資源確保には「千載一遇の好機だから、この際やった方がよい」としていた。
林内閣は短命におわり、1937年6月に近衛内閣が成立し、広田弘毅が外相に就任した。広田外相は陸軍に妥協し、反英親独、対中国強硬路線となっていった。
WW1後超大国となったアメリカでは、陸軍を中心に軍事費が削減され、平常化がおこわなれた。1920年代に始まった経済的繁栄は、自動車、映画およびラジオのような新技術が大衆化し、建築や日常生活の面にも及んだ。アメリカ資本は大量生産商品の大消費市場としてに欧州に大投資を行い、ドイツ、イギリスおよびフランスにも好況は波及し、20年代後半は黄金の20年代と呼ばれるようになった。しかし1929年のウォール街の暴落でこの時代は終わり世界恐慌の時代に入った。共和党のフーヴァー大統領は古典派経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国に恐慌が波及した。同年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1929年から45%減少、株価は80%以上下落、工業生産は平均で1/3以上低落、失業率は25%に達した。大不況の中で共和党政権は支持を失い、民主党のフランクリン・ルーズベルトは、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げ、1932年の選挙に当選し大統領となった。ルーズベルトは公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法や全国産業復興法を制定した。
大統領 | ニューディールをすすめていく。陸軍にも働いてもらう | 陸軍参謀総長 | 工兵隊出の私の得意分野だな。この機に陸軍のアピールもするぞ。 |
陸軍は市民資源保全団(市民保全部隊(CCC、Civil Conservation Corps)の設置を主導し、青少年に植樹、小規模なダムの建設、森林での見張り台の建設、森林火災の対処法などを教育し、30万人の雇用創出に大いに貢献した。陸軍はその後CCCの業務から離れていったが、その後9年間の活動の中で、シェルター、衣類、食糧を生産するCCCに300万人の若者が参加し、すべてのニューディール・プログラムの中で最も人気のあるものにした。約30億本の植樹を植え、全国800以上の公園にある歩道、ロッジ、関連施設、大部分の州立公園の整備、森林の消火方法の更新、僻地サービスビルや公道ネットワークを構築した。CCCはまた退役軍人と先住民族のためのプログラムを運営した。約15,000人のアメリカ先住民がこのプログラムに参加し、大恐慌を乗り切るのを助けた。また陸軍工兵隊はミシシッピ治水の米史上最大の土木事業にも貢献していた。マッカーサーはボーナスアーミー弾圧などの尊大さでリベラル層から嫌われていたが、見事な手腕を発揮し、大統領の鶴の一言で留任された。しかしルーズベルトは甘くはなかった。
陸軍軍人の給与15%削減ですと?、この予算では防衛もままならない、逆に増額を要求する! | 陸軍予算は2.8億ドル(同年日本軍予算より安い)だ。要求は却下だ。 | ||
陸軍は12.5万まで削減してる、すぐ動員可能な部隊はいまや6万にすぎませんぞ! | 海軍があれば防衛は十分だ。どこも苦しいのだ。 | ||
我々が次の戦争で敗北した時、兵はマッカーサーでなくルーズベルトの名を言ってもらいたい! | 大統領に向かってそんなことをいうもんじゃない! |
陸軍の予算は徹底的に削減された。しかし教育改革が効果を発揮し、M1ガーランドの導入や「空の要塞」開発などの技術予算は維持され、士気は保たれていた。ニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどした。それでも記録的なものとなり、1930会計年度の歳出予算は対GDP比3.4%程度だったが、1934年に10.7%まで引き上げた。やがてナチスの台頭による脅威で陸軍の予算制限も緩和されていった。
1841年パーマストン外相は、それぞれ別個の紛争ををめぐって、ロシア、フランス、中国、アメリカの4か国すべてを屈服させた。この年オスマン帝国とエジプトをめぐって、仏ロの両国を戦争の脅しによって屈服させ、同年アヘン戦争で中国を破り、カナダ国境をめぐる対立に端を発した「マクラウド事件」紛争で、パーマストンは米国内裁判の判決に干渉し、もし被告のカナダ人(つまり英臣民)が処刑されたなら、「確実かつ迅速に対米戦争が始まる」との威嚇と強圧を加え、米国にとって全く屈辱的な解決を強いることに成功した。それはまさに「パクス・ブリタニカ」の頂点を画する事件であった。
しかし20世紀に入ると、イギリスはそれまで「英米共同建設」を歌ってきたパナマ地峡を、米国にゆだねる決定をし(1901年のヘイ・ポーンスフット条約)、イギリス臣民たるカナダ人の要求を高圧的に抑えてアラスカ国境問題でも大幅譲歩し、さらに米西戦争によるアメリカのキューバ支配やフィリピン領有もすべて「容認」に転じた。そして1907年までにカリブ海全域を抑えるカナダ・ノヴァスコシアのハリファクス軍港から全面撤退した。実際大英帝国がカナダを米国の「人質」に差し出し、戦略的に米州全域を捨てる、という意思表示を意味するものであった。その答えはやはり「ドイツの脅威」という観念であった。
第一次世界大戦の勝利で、イギリスはドイツに課された1320億金マルク(金47300トン、2018年の価値で約2兆ドル)のうち22%を得て、中東、太平洋に新たな利権と広大な領土を獲得、世界歴史史上最大の領土を誇った。だが帝国は、表面上さらに力を増したかと思われた瞬間、無力を露呈することとなった。
1919年3月エジプトでの反英暴動は、真向から帝国統治の権力権威を否定するものであった。1919年4月、北インド・アムリトサルの町で起こった、英軍による無抵抗なインド人の大量虐殺事件「アムリトサルの悲劇」は汚点を後世に残すこととなった。この事件で憤激したインド人の感情は、英国からの完全独立を目指す近代的なインド独立運動―ガンジーとネルーの時代―の始まりを画すことになった。一方、同じ1919年4月、委任統治の名目で帝国の版図となったパレスチナで、アラブ=ユダヤの武力衝突が始まった。ここには、この紛争に巻きこまれまったく無益な死に追い込まれた幾多の英軍兵士の墓標が立ち並ぶことになる。さらに1919年5月、アフガニスタンでの衝突で英軍兵士を急派した瞬間、イラクで反乱が勃発した。この反英反乱に対して、WW1における中東作戦に費やした出費を大きく上回る負担を払わねばならなかった。そして年末にはアイルランドの喪失も明らかとなった。大戦中ダブリンで起こったイースター蜂起への残酷な処刑と、ロイド・ジョージが送り込んだ特殊部隊による独立活動家の虐殺は、アイルランド人にイギリスとの決別に決心させた。大戦に勝利し勝ち誇った大英帝国は、その瞬間、いたるところから浮上してくる地域紛争の大波を前にして立ちすくんだ。今や帝国は維持できるか否かではなく、果たしてどのくらい長く位置できるのかというものに代わっていた。
WW1で90万人の戦死者を生み出し、特に将来を担うエリート子弟層の受けた打撃が大きかった。オックスフォードやケンブリッジはゴーストタウンになっていた。大英帝国は「幻滅する戦後」を迎えるしかなかった。ロンドンの市内には、「トラファルガー広場」や「ウォータールー橋」、あるいは「バトル・オブ・ブリテンの碑」など、イギリスが戦った他の戦争での栄光と勝利をたたえる記念碑や建造物が誇らしくたっている。しかしWW1を記念する最も代表的な碑は、官庁街ホワイトホールの外れに立つ「セノタフ」と呼ばれる地味な石塔であろう。「セノタフ」とは一般に亡骸の無い墓を意味するが、「戦勝」ではなく「服喪」の記念碑として、見る人の胸に迫ってくる。
1922年の日英同盟の破棄はイギリスの衰えが一因でもあった。すなわち自治領のカナダが、日米戦争となった場合隣の超大国アメリカと自動的に戦争になるため、同盟継続に猛反対したのである。前世紀のイギリスであればアメリカを恫喝して従わせることもできたが、WW1後のイギリスにはそのような力はなかった。1931年12月のウェストミンスター憲章により、英国の海外自治領に独自の外交権も与えられ、この憲章を自治領が批准すれば、英国本国とまったく平等な独立国と規定されることになった。カナダや南アフリカ連邦は直ちに批准し、イギリス本国から独立していった(オーストラリアやニュージーランド、またニューファンドランドはこの憲章を当初は認めなかった。また、ニューファンドランドは1949年にカナダに併合される)。また、これにより正式にカナダ国籍やオーストラリア国籍などが認められることになる。ここで生まれたのが、英コモンウェルスである。
世界恐慌のあおりでシティ・オブ・ロンドンの債権は焦げついた。即座に短資が逃げ、イングランド銀行には兌換のため人が殺到した。金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ただしブロック経済の下でも英領インドを中心に日本との貿易も盛んにおこなわれ、1940年においても20%を占め日本にとって米国に次いで第2位の貿易相手国であった。カナダは独立し、日英同盟再興についてイギリス側の障害は減少していた。
日英協約を提案します。お互いに通商を強化して、ともに中国政策にあたろうではありませんか。 | ヒラ庶民院議員(ほう、いいこと言うな。日英同盟は破棄すべきではなかった) | ||
日本は長城以南への野望はなく、同地域の英国の権益を完全に尊重します。 | チェンバレン蔵相 | 君の提案には興味がある。今英国は対ナチスでいっぱいで、極東で何があっても在来利権を守れまい。しかし・・・ |
しかし吉田大使の1年にわたる努力は1937年7月7日、一瞬で消滅した。
日中戦争の勃発
1937年7月、牟田口廉也大佐が天津軍歩兵第一連隊長として、盧溝橋付近で演習を繰り返し、7月7日発砲事件が起こると独断で攻撃命令を出して盧溝橋事件を起こした。これを黙認したのが上司の河辺正三旅団長であり、拡大させたのが関東軍参謀総長東條英機であった。
「盧溝橋で第一発を撃って戦争を起こしたのはわしだから、わしがこの戦争のかたをつけねばならんと思うておる」 |
北京での日本軍は7000と少なく、現地での調停が成立しつつあったが、牟田口廉也は協定を無視して軍を進めた。石原莞爾参謀本部作戦部長は対ソに備え拡大に反対したが、陸軍内部では武藤章らによる、蒋介石は1か月以内に屈服するとの対支一撃論が優勢となり、9日には関東軍2個旅団・内地3個師団などの現地派兵案を作成し、形勢逼迫時の備えが必要として石原も同意した。近衛文麿内閣は、当初はこの事件について不拡大・早期解決の方針をとっていた。だが、7月11日動員実施は状況によるとの留保をつけて陸軍案を閣議決定し、今次事件は全く支那側の計画的抗日であり重大決意のもと政府として取るべき所要の処置を行うという強硬な声明を発表した。結果として中国派遣の野戦司令官に侵略の拡大を許す政策を編み出したのは近衛と広田外相であった。しかし蒋介石は17日の廬山会議で「最後の会頭」に至った場合は抗戦するとの決意を表明し、準備は不十分だがもはや応戦せざるをないと判断していた。陸軍中央では石原莞爾作戦部長らの不拡大派と、武藤章作戦課長・田中新一軍事課長らの拡大派が対立、激しい攻防が展開されたが拡大派が優勢となっていった。幕僚の多くは石原らの華北分離工作中止に不満を持っていた。石原も武藤の作戦課案に同意し、宋哲元の謝罪や現地39師団の罷免、付近の中国軍の撤兵などの強硬な要求の19日に回答期限した陸軍中央案が五相会議に提案され了承された。19日現地の宋哲元ら29軍は日本側の要求を受け入れた。しかし南京政府は現地における協定項目を拒否、国際公法に仲裁裁判所への提訴も示唆した。25、26日に再び衝突が起き、26日夜石原は鞍替えし「徹底的に膺懲せらるべし」との指示を日本側現地軍に送り、翌日陸軍中央および参謀部もついに3個師団の派兵を決定、28日総攻撃を開始し29日北京・天津を占領した。その後派遣部隊が現地に到着し、動員兵力は約20万人に達した。29日蒋介石もついに抗戦を表明、ソ連は直ちに37年8月に中ソ不可侵条約を締結して中国への武器援助を開始し、大量の物資を中国軍に提供し、ドイツも顧問ファルケンハウゼン中将が、中国軍の育成や軍需生産の基礎作りに従事し、軍事援助を行った。
石原は北京天津占領後速やかに外交交渉によって事態を収束させることを考えていたが、武藤及び田中は対中全面戦争は避けられないとの判断で一致していた。石原はソ連に備えるため4個師団しか対中戦争に使用できないと考えていたが、武藤らはソ連の介入は困難と見抜いており動員可能な15師団をすべて対中戦線正面に使用することを想定していた。8月9日上海で海軍の大山功海軍陸戦隊員2名が中国保安隊に射殺される事件が起きた。10日海軍は巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、陸戦隊3000名を上海に急行させた。海軍からの強い要請に石原も折れ、陸軍の派兵を了承し、13日閣議で陸軍三個師団の派兵が決定され、13日夜上海で戦闘が始まり、14日中国空軍が上海の日本艦船を爆撃、日本側も14日15日に南京、広州、南昌などに渡洋爆撃を行った。17日には海軍の米内光政主導で不拡大方針を放棄するとの閣議決定がなされた。第二次上海事変では日本軍は4万(うち死亡1万)と大きな損害を出しながらも上海を占領した。この時日本海軍機が米国警備船パナイ号を攻撃して撃沈し51人の死傷者が出る事件が起き対日感情が悪化したが、2週間で事件は解決しアメリカの対日戦争の引き金にならなかった、この時ジョージ・アチソンは艦上にいて、危うく難を逃れた。9月4日から開会された議会で20億円を超える臨時軍事費の支出が認められ、かつ事変収束までを1会計年度とする臨時軍事費特別会計が設置された。これはその後膨大な額に膨れ上がっていく。
一方満州の関東軍は、盧溝橋事件が起こると、8月5日制止を押し切ってチャハル省へ進出、やむなく参謀本部は9日チャハル作戦を関東軍に命じた。関東軍は東條英機参謀長の直接指揮のもと本格的にチャハル省に侵入、8月27日張家口を占領、さらにすい遠省、山西省方面に進撃を続け、華北での進撃を北京天津方面に限定しようとした石原らの意図は崩れた。8月25日米国の中立法の発動を回避するため宣戦布告を行わないことが近衛内閣の五相会議で決定された。中国側も米国の援助を期待して宣戦布告を行わなかった。8月31日派遣軍が加わり8個師団となった北支奈方面軍が編成され、当時陸軍が保有する戦車・装甲車の大部分にあたる、中戦車78両、軽装甲車41両が派遣された。当時陸軍の総航空兵力は53中隊であったがその3分の1が派遣された。これは事変早期終結のため河北省「保定」付近で決定的打撃を与える目的だった。
この保定作戦は9月中旬から本格化する。しかし中国軍は主力決戦を回避して退避戦術をとったため、決定的な打撃を与えることはできなかった。日本軍の歩兵が敵の防衛線の先端に到達すると、国民党軍の守備隊は、一斉に後退した。以後、作戦が展開するにつれて、これが一つのパターンとなっていった。日本軍が前進すると、待ち構えていた敵は熾烈な防御射撃を加えてくるが、やがて日本軍が後退することなく短時間で態勢を立て直して突撃を開始すると、国民党軍はあっという間に退却し、後方の新しい陣へと移るのであった。国民党軍の戦略は、ひたすら防衛に徹したものであり、反撃するという考えはほとんどなかった。こういったパターンを学んだ日本軍は、歓声を上げながら集団突撃するという、とりわけ有効な戦術を生み出した。特に夜間、金属のものをたたきながら叫び声を上げるなど、大きな音を出しながら突撃することは、非常に効果的だった。石原らは作戦地域を保定の線に限定することを検討したが、武藤や田中は国民政府を短期間に敗北させ持久戦に持ち込ませないため作戦地域の拡大が必要であると主張した。このように陸軍中央に意見の対立があり、統一した戦争指導がなしえない状態では、現地軍の独走を許すことにつながっていった。9月9日の上海への3個師団の増派決定後、石原は作戦部長辞任を申し出、9月27日参謀本部作戦部長を辞任、関東軍副参謀長として満州に転出する。石原は武藤、田中らに敗北し、陸軍中央を去り、その後復帰することはなかった。転出した関東軍でも東條英機参謀長との確執が生じ、1941年3月予備役に編入され、陸軍から去る。一方武藤、田中、東條はその後太平洋戦争開戦時軍首脳部中枢を構成することになる。ちなみに日中戦争開始時、武藤、東條、富永恭二のほか、今村均関東軍参謀副長、片倉正関東軍参謀、服部卓四郎参謀本部作戦課員、辻政信関東軍参謀部付きなど多くの統制派のメンバーが拡大派に属していた。石原は欧州大戦に対し日本は不干渉とすべきと考えており、華北の特殊権益放棄による中国側との政治的妥協を主張したが陸軍上層部には全く受け入れられず、永田直系の武藤らの来るべき世界大戦に巻き込まれることが必至でそれに備え華北華中の資源の確保を必須とするという考えが勝利したのである。武藤らは10月上旬に華北37万、上海19万の動員限界に近い大兵力で国民政府に大打撃を与え屈服を図ろうという計画を立てた。目的を達し得なければ、ソ連軍に備えるため対中持久作戦をとり、戦略目標への空爆、経済封鎖などにより中国の持久作戦意思を挫折せしむる、としていた。
10月の華北上海同時攻勢作戦は実施されなかった。華北の中国軍主力を補足殲滅できず、上海も5個師団では国民政府軍に対し苦戦に陥っていたのである。そこで武藤は杭州上陸作戦を提案、自ら中支那方面軍参謀副長となり陸軍中央から転出した。11月5日から始まった杭州上陸作戦は成功し、背後に脅威を受けることになった上海付近の中国軍はついに退却を余儀なくされた。しかし蒋介石は屈せず南京政府は11月16日重慶への遷都を決定し、なお抗戦継続の意思を示した。石原辞任後も河辺作戦課長や多田参謀次長は戦線拡大に慎重なスタンスを維持していた。しかし中支部方面軍の強い要求と、田中軍事課長ら中央幕僚多数の意見に押し切られ、11月24日南京攻略を容認した。11月下旬、近衛首相の提案によって大本営が設置され、同時に内閣と大本営による大本営政府連絡会議が設けられた。これが国家レベルでの事実上の最高指導機関だった。1937年12月13日に日本軍は首都南京を占領し、国民は大勝に狂喜乱舞した。だが内陸侵攻の事前準備がほとんどなされなかったため、兵站補給が不十分で、現地での食糧・物資の略奪が多発。またその過程で戦闘で交戦した中国兵のみならず、その後6週間にわたり、日本軍による中国捕虜の処断、反日支人便衣兵民間人の処断、民間人の据え切り(百人切り競争で著名である)、婦女暴行虐殺が相次いだ(南京大虐殺)。犠牲者は東京裁判で認められたものだけでも20万人にも上る。不正規兵をめぐる根深い強迫観念は、結果として即断即決の略式処刑や、村ごと一気に焼き尽くすといった行動パターンを生んだ。地下貯蔵庫があれば、そんな所に隠れているのは便意兵ではなく、たいていはその家の住人だったろうに。けれども日本兵は、自分たちのそうした行為を、戦争犯罪ではなく、合法的な自衛手段としていた。暴支膺懲の戦意高揚のため、戦闘による中国人処分、捕虜の処断については軍部により推奨され、本国にも多数報道され大いに喧伝された(百人切り競争が新聞に掲載され、前線兵士の武勇談として大いに賞賛された)。しかし米英の対日感情はますます悪化し、1938年10月末よりはこういった写真や報道も軍により検閲され公開されなくなった。
日中戦争泥沼化
1937年、日本最大の八幡製鉄所は、銑鉄を年間170万トン生産しており、これは日本の全生産高の64%を占めていた。八幡製鉄所だけで鉄鋼製機の製鋼を年間270万トン必要とするが、そのほとんどが中国の大冶鉱山からの輸入に頼っていた。日中戦争により中国からの鉄鉱石の供給が長期間止まり、国内で早くも鉄製品はじめ金属類の拠出が行われていた。この時点では太平洋戦争期のような根こそぎ的動員はされていなかったが、戦争の長期化による兵器・装備などの需要が、国内の工業生産力を超えるようになっていた。1938年4月国家総動員法、電力管理法などが制定され、本格的な国家総力戦をにらんだ体制整備が進められる。この時の議会で国家予算一般会計は35億円となり、臨時軍事費の追加予算として、一年分の国家予算額を上回る48億円が承認された。それらの財政負担は公債発行と増税で賄われた。
非一夕会の閑院宮載仁親王参謀総長および多田駿参謀次長体制の参謀本部は、駐華ドイツ大使トラウトマンを仲介とする和平工作に期待を寄せ、大本営連絡会議にて交渉による和平を主張したが、陸軍省の杉山陸相及び広田外相・近衛首相は和平工作の打ち切りを主張し、近衛首相は1938年1月16日国民政府を対手とせずと声明した。38年5月には陸軍次官に東條英機が就任、拡大派の東條英機と対立した多田参謀次長は更迭され、東條は初代航空総監へ栄転となった。対中抹殺戦争を声明し、近衛と広田を筆頭に木戸紘一らの宮中官僚に後押しされた文官は、戦争の早期終結を望んでいることを見せては日本が弱いという印象を与えかねないことを理由に、中国側に具体的和平条件を持ちかけることを拒否した。この期間に日本の商工業界有力者たちは、税負担の増大に反対しなかったばかりか、軍事政府をつくるなら、華北だけでなく中国全土に作るべきだという日華経済協議会の主張に賛成した。近衛内閣の既成事実外交に遅れないように、実業団体は日中事変以来の日本人の生命と物資の損害を引き合いに出して、中国全土の征服を支持する理由とした。日本軍の快進撃は続き、10月27日武漢三鎮を占領したが、蒋介石は重慶に首都を移して徹底抗戦した。
38年4月徐州作戦開始後、局地的には凄惨な激しい戦闘が行われたが、中国側は決戦を回避して退却、5月中旬日本軍は徐州を占領するが、中国軍主力に決定的な打撃を与えることはできず、泥沼化が進んだ。さらに日本軍の一部は河南省に侵攻しようとしたが、中国軍は黄河堤防を決壊させるなどして抵抗し、それ以上の進行はできなかった。黄河決壊による洪水は数十万人の死者と数百万人の被災者を生み出し、また日本軍の占領は多くの破壊をもたらした。42年干ばつとイナゴで収穫減となったのにもかかわらず、被災地の中国と日本の当局者は兵士に食料を供給するための穀物徴収政策を続けた結果、1942-3年河南省大飢餓を招き2-3百万人が死亡し、数百万人が難民として陝西省に移民した。生存者は日本と国民党の双方を非難し、この地域は中国共産党の主要ゲリラ地域に発展していった。さらに現地軍と陸軍中央は30万を動員して要衝武漢と華南の中核都市講習の攻略を実施、10月下旬占領したが、国民政府を屈服させることはできなかった。日本軍は動員計画を超える34個師団で構成されるようになり、うち大半が大陸で、本土に2個師団を残すだけになっていた。大陸に派遣された兵力の多くは占領地の維持のために配置せざるを得ず、積極的な攻撃作戦を任務とする野戦軍は第11軍(20万)のみだった。したがって、野戦軍が重要な地区を新たに攻略しても、その舞台はいずれ原駐地に戻らなければならなかった。中国軍は、日本軍が進出すれば分散退却し、帰還すればすぐ元の場所に戻ってきた。広大な中国を制圧するには、兵力の絶対量が不足していたのである。1938年11月陸軍中央は現占領地の治安維持と残存抗日勢力の取り締まりに力を注力し、新たな戦面の拡大を避ける方針を決定した。持久戦体制下、戦略的には重慶など内陸部の要衝都市と内陸援蒋ルートの遮断を目的とした航空機による空爆が重視され実行された。
中支資源確保
日本は「鉱物の標本国」とされ、この地域で発見されない鉱物はない。環太平洋造山帯は銅鉱床が多く、日本は狭いながら、江戸時代主力輸出産品は銅で、WW1の前後までアメリカに次ぐ世界第2の産銅国だった(1933年以後銅の輸入国に転落)。朝鮮も満州も銅を産しなかったし、中国に至っては日本から銅を輸入し銅貨として流通させていたくらいである。日本はチリなどから輸入していたが、太平洋戦争中銅の輸入が止まり、民需を食いつぶして陸海軍は銅を使用した。商工省が不要金属を回収開始したのは39年2月、銅像から梵鐘、半鐘まで拠出させたが、青銅なので、溶かすだけでは不純物が多く資源にならない。
鉄鉱石については、日本は火山国だから、すべての鉱物に硫黄やリンが混在し、良質な鉄鉱石を産しなかった。しかし釜石には日本には珍しい磁鉄鉱の鉱山があり、1875年において釜石製鉄所が開庁された。八幡製鉄所はその22年後のことで、磁鉄鉱と赤鉄鋼で製鋼品位58%という優良鉱山である長江南岸湖南省大冶鉱山の鉄鉱石が輸入できるようになってから生産が本格化した。日中戦争後はマレー半島、フィリピンから鉄鉱石を輸入し、40年はそれぞれ128万トン、69万トンであった。満州は石原莞爾が中心となって高度防衛国家建設がすすめられたが、遼寧鉄鋼床は低品位で採算が取れず、鉄鉱石に関して満州は宝庫どころか期待外れだった。満州国での生産は36年で銑鉄63万トン、鋼塊34万トンにとどまった。同年日本が主として米国から輸入したスクラップは150万トンだった。38年8月からの鑑江作戦の戦略目的は、重慶政府に屈服を迫るものだったが、それ以上に切実な目的は、大冶鉱山からの移入再開であった。もしこの鉱山が確保できなければ、陸軍は太平洋戦争に踏み切れなかった。
1938年11月3日近衛首相は「東亜新秩序」声明を発表し、9か国条約とワシントン体制を否定し、「日支新関係調整方針」を打ち出した。これは稲田ら作戦課の起案による華北・内蒙古への駐兵と資源確保、華中での日本の経済権益を重視したもので、12月影佐禎昭軍務課長らの工作により重慶を脱出した汪兆銘は近衞首相談話を受ける形で中国各方面に和平の通電を発したが期待に反して中国での同調者は少なく、反蒋介石派の軍隊も動かなかった。米英は反発し、アメリカは38年12月4000万ドルの対中借款を決定、イギリスも39年1月1000万ポンドの中国通貨安定基金を設立し、500万ポンドの政府保証を与えた。その後もアメリカは北部仏印進駐時の40年9月に2500万ドルを、イギリスは同年12月1000万ポンド(4600万ドル)の対中借款供与を行う。日中戦争解決の見通しは全く立たなくなっていった。ソ連は38年8月に約1億ドルの借款を中国に与え、各種兵器や軍需物資を供給、軍事顧問団も派遣していた。さらに39年6月には1.5億ドルの対中援助契約が結ばれる。一方諸国の援助は直接的な介入を避け金銭的なものにとどまった。1930年代後半までは、対日輸出額は対中輸出額の7倍前後を占め、日本との戦争を賭してまで中国市場を守ることは、アメリカ政府にとって考えられないことだった。またイギリスは緊迫する欧州情勢に備えるため日本に譲歩し、39年5月上海税関を日本側が接収することを承認し、日本軍は当時主要な金融・商業機能が集中していた英仏の租界を封鎖していたが、この天津英仏租界封鎖問題についても、39年7月22日中国において日本軍の妨害となる行為を差し控えることを受け入れた。しかしアメリカは日本軍の中国よりの撤兵を求め、1939年7月26日、日米間の通商航海の自由と内恵国待遇を保証していた「日米通商航海条約」の破棄を宣告してきた。この結果ワシントンは対日輸出を自由に制限したり禁止したりできるようになった。
東郷茂徳駐独大使は、中国へのドイツの膨大な援助に対し、リッペンドロップ外交顧問に抗議していた。
東郷茂徳 | 対中国援助の停止と軍事顧問団の引き上げをお願いします。現状ではドイツと日本が中国で戦争しているようなものです | リッベンドロップ | しかし中国への兵器輸出は重要な外貨獲得手段なのです。去年の輸出総額は8300万ライヒスマルク(当時の独労働者の平均月収は70マルク)に上りました。停止するなら減収分をどうやって埋め合わすか。 |
東郷茂徳 | お言葉ですが、蒋介石政府が貴国や英米の援助で抵抗を続けていることは明らかです。しかも援助額は貴国が最大です。 | リッベンドロップ | 国民政府は共産党と戦ってました、だが今は共産軍と手を組んで貴国と戦わざるを得なくなった。その意味で、貴国は防共協定の違反に当たるのです。だが我々はそれを問題としていない、それは評価頂きたい。 |
東郷茂徳 | しかし、戦争が長引いて我が国の国力が低下すると、ソ連に対する抵抗力も減衰されます | リッベンドロップ | ふーむ |
38年2月20日ヒトラーは議会で劇的な演説を行った。ドイツの対日政策の変更を発表したのだ。満州国を承認、蒋介石政府への軍事援助を停止し、軍事顧問団を引き上げると彼は語った。5月に満州国を承認、中国への武器・軍需品の輸出を禁止し、7月に軍事顧問団を引き上げた。あとはドイツの中国切り捨てに対して日本がどういう報酬を払うのかに焦点が絞られた。
リッベンドロップ |
我が国は貴国の要望を飲みました。つきましては日本占領地域での経済活動に日本と同じ待遇を与えてほしい | 東郷茂徳 |
それは無理です。日本は膨大な犠牲を払って占領したのです |
リッベンドロップ |
では占領地域での特恵待遇では? | 東郷茂徳 |
それも無理です。 |
リッベンドロップ |
我が国は中国に対する軍事援助を中止しました。しかし英米は続けている。英米と我が国を同列に扱うのは不条理です | 東郷茂徳 |
貴国の処置には感謝しております。しかしこれは別の問題です。 |
ドイツ側は外務省との交渉を避け、駐独武官大島浩および陸軍と交渉するようになった。やがて東郷は罷免され、大島が駐独大使となった。日独防共協定が締結された後、国民政府を援助する米英を牽制する目的で軍事同盟への発展を唱える動きがあった。特に駐独大使大島浩、駐伊大使白鳥敏夫は熱心で、同盟案に参戦条項を盛り込むべきと主張し、独伊政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、8月ドイツからソ連だけでなく英仏をも対象とする同明案が日本に提示され、26日日独伊三国政府間で協定強化する交渉が正式に決まった。陸軍はドイツとの同盟を優先させたが、英仏を対象とする同盟には外務省や海軍が反対し、39年1月近衞内閣はこの問題での閣内対立によって総辞職し、平沼騏一郎内閣が成立した。4月リッペンドロップ外相は日本が同盟に躊躇するなら、ドイツはソ連と不可侵条約を結ぶかもしれないと警告、5月には独伊間で軍事同盟が調印された。ドイツは参戦条項を盛り込むべきと要求。これに陸軍内部からも呼応する声が多く、陸軍大臣の板垣征四郎以下陸軍主流は同盟推進で動いた。一方英米協調派が一部残存していた海軍には反対者がおり、海軍大臣の米内光政、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美は「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。1938年夏から39年夏までの日独伊防共協定強化への動きは対ソ同盟を目指したもので、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。
…日英は和解できます。財源がつきて…日本は華北の戦闘を自制したいのです…。イギリスの仲介が必要な時期が… | 我々が中国の戦乱に仲介の労をとるのにやぶさかではないが…、吉田大使の提言には実体がない。君は本当に日本国を代表しているのかね?? | 吉田君、君は召喚だ。 |
吉田茂は1930年ころ軍事予算の削減が大騒ぎを起こしたことにまで遡り、「日本は外からの危険に直面している」という軍部の宣伝が国民の過半の支持を得たことを認めた。しかし短期決戦となるはずであった日中戦争が中国の抵抗が予想以上に強いことがわかると、「政府はソ連の脅威に備えて盛況な大軍を派遣せねばならなくなった」が、この場合ソ連の脅威が実体のない議論であることは明らかであり、吉田は、軍事行動を支えるに必要な増税に国民感情は反感が高まると期待した。1940年までに軍事支出が耐え難い財政負担となり、それが反軍部への逆転を早めるだろうと、欧米の関係者に語り続けていた。しかし現実には軍部の勝利の喧伝により国民の増税への反感は高まらず、吉田の希望は容赦なく断ち切られていった。
吉田は1937年8月事変の拡大に早くも反対、近衛声明を誤りと考えた。親英論が軍部支持勢力に非難を浴びせられ、日本でやりづらくなっても隠そうとしなかった。吉田は経済的に欧米と関係を無視した軍部と国家社会主義者が強く主張する「自給経済体制の追及」に対し一貫して反対した。
1917年のロシア革命で共産主義の波及を恐れた列強はロシア内戦への干渉を決定、日本は1918年にチェコ軍救出を名目にシベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本とソ連は大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地の関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和国を勢力圏に置いた。両国の勢力圏の中間にある満州地域は、1920年代後半には中国の奉天派が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党の北伐に降伏した奉天派の張学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年の中ソ紛争で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。満州事変以後、日本とソ連は満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化した。ソ連はモンゴルと1934年11月に紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ蒙相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた。
1936年11月に「日独防共協定」が結ばれて以来、モンゴル国境における赤軍と関東軍の緊張は増し、1937年以降は国境地帯での小競り合いが頻発し、38年7月にはウラジオストック南西のハサン湖付近で張鼓峰事件が起きた。この衝突でソ連軍は日本軍より損害が大きかったが(動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷病者はソ連軍3500人、日本軍1500人)、ソビエト損失はソ連軍を指揮したヴァシーリー・ブリュヘルの無能のせいにされ10月22日、彼はNKVDによって逮捕され、拷問されて死亡した。38年8月陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し、戦闘の結果を分析しながら増長した関東軍の不満は募っていた。
1939年5月12日にノモンハン事件(ハルハ河の戦闘)は満州国軍とモンゴル軍のパトロール部隊の交戦で始まった。馬の放牧を求めて、モンゴル軍がハルハ川を渡り、いくつかの丘を占拠し、さらにモンゴルの主張する国境の町のノモンハンに至った。関東軍はソ連を極東満州から排除しようとし、モンゴル軍をハルハ川まで押し返した。その後日本軍が兵力を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといった戦いであったが、段階的に拡大し5月20日に第一中隊鈴木中尉らがハルハ上空でソ連軍偵察機1機を撃墜し初戦果をあげた。小松原道太郎第23師団長はこの小競り合いに独断で1700人の部隊を出動させたが、ソ連軍は2300人に増強されており5月28日の戦闘では日本軍が敗北した(第一次ノモンハン事件)。
ゲオルギー・ジューコフが6月5日に同地に着任し、直ちに戦力の増強が図られた。関東軍は、現地がシベリア鉄道拠点より650㎞も離れていることから、敵軍を過小評価した。しかし5月22日から始まった空中戦は、当初日本が優勢だったが、次第にソ連軍も増強され、6月17日から日本軍を上回るようになり、ソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。ソ連軍の小規模部隊も満州国領内に侵入し偵察攻撃を繰り返していた。
モスクワ駐在武官 | ソ連は国境に大兵力を輸送し、戦車多数が向かっています! | 我々はソ連戦車をぶんどって戦勝祝賀をやる計画でおる。そんな時にそんな報告をやられたら困る! |
この時はまだ非一夕会の閑院宮載仁参謀総長、中島鉄蔵参謀次長体制であった東京の参謀本部は報復攻撃を禁止する命令を発したが、関東軍司令部参謀の辻政信は無視して6月27日モンゴル領内のソ連軍基地空爆を強行した。さらに、現地師団長の指揮権を無視して勝手に部隊を動かした。7月1日および23日、日本軍はハルハ川を渡りソ連軍に攻勢を仕掛け、得意の夜襲でソ連軍に大損害を与えた。しかしかの地が重要と考えていたスターリンはジューコフに大部隊を任せており、過酷な補給状況の中で、兵員5万8千、戦車500両までに膨れ上がっていた。8月にソ連軍は反撃し、ソ連軍は圧倒的な火力で、特に火砲・戦車で戦力が劣る日本軍を当初の満蒙国境まで押し返した。8月20日には第23師団はソ連軍に包囲され、27日脱出に失敗し、31日壊滅した。この戦闘での損害は日本側の推計値は不正確だがおよそ死者9000人、死傷者18000-25000と推定されている。一方ソ連は当初、死傷者9284人と発表していたが、ソ連崩壊後により正確な犠牲者が公表され、死者9703人、死傷者27880人と日本側より多かったと推測されている。
結果的に紛争は多くの損害を受けたものの困難な補給を成功させたソ連が物量で圧倒し、ソ連が優位な停戦ラインで解決した。停戦後、参謀本部の中村鉄蔵参謀次長、橋本群作戦部長、稲田正純作戦課長が更迭され、また関東軍の幹部らは責任を問われ、軒並み予備役に編入された。が、事件を主導した辻政信と、彼の上官の作戦班長・服部卓四郎らは、なぜか一時左遷されただけですぐに復活することになった。後任は沢田茂参謀次長、富永恭二作戦部長、岡田茂一作戦課長となり、9月30日武藤章が陸軍省のトップである軍務局長に就任した。陸軍はノモンハン事件の戦訓をまとめるため調査を行い、1か月ほどで報告省がまとめられた。そこで強調された点は、火力戦闘能力の飛躍的向上が急務だということだった(本来ならば、ソ連軍の補給能力に着目すべきだったが。)。しかし地金の質に始まり、熱処理、溶接などの地金技術が立ち遅れており、戦車砲や徹甲弾そして装甲版の問題となり、いくら鋼材があったとしても戦力の改善には結びつかない。具体的な対応策を打ち出せないとなれば、結局火力ではソ連軍に対抗できないので、「急襲戦法」に価値を求めるしかないとした。
辻や服部が衆目の一致するノモンハン敗戦の責任者でありながら、たちまち中央の作戦担当者に復活して対英米戦を主導し、後日にもガダルカナルの敗北を招いていったん退きながら又返り咲くなど、作戦の中枢にあった人物たちの人事には不可解な点が多い。失敗者がたちまち要職に返り咲くという点では、田中新一の場合も同様である。田中は盧溝橋事件の際には、陸軍省軍事課長として、参謀本部作戦課長の武藤章とともに、拡大論の先頭に立って戦争の拡大を図った責任者だった。しかし40年1月からの中蒙軍のオルドス侵攻作戦で、語源占領後の確保にこだわり、3月20日日本軍特務機関の全滅したという事件があったにもかかわらず、40年10月田中は参謀本部の第一部長に抜擢され、対米強硬論の先頭に立つのである。田中作戦部長、服部作戦課長、辻作戦班長のトリオは、ガダルカナルへの兵力投入、奪回作戦強行の主役であった。このため船舶増長を要求して陸軍省と対立し、田中が佐藤賢了軍務局長を殴打したり、東條首相兼陸相を馬鹿呼ばわりしたりして、42年12月解職されるのである。「作戦屋」といわれる人たちの中でも、特にエリートたちを、加登川幸太郎は「奥の院」と言っている。西川進や加登川の、予算や物的戦力にかかわる陸軍省軍事課関係者の回顧録では、こうした作戦屋の奥の院での不死鳥のように復活する人事について批判的である。これは東條英機や富永恭二のような人事にかかわった上層部が、積極論者に好意的だったことによる面もあった。この人々の強硬論が作戦を誤らせ、作戦目的達成のためにはほかのすべても犠牲にしてもよいとする作戦第一主義は、しばしば兵が飢えることも意に介さないし、時には死ねという命令まで出すという非人間的な面を見せることもあった。
ノモンハンで戦闘が続くなか、1939年8月23日、スターリンはドイツと独ソ不可侵条約を締結した。日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、宇垣陸軍大臣はその時の陸軍の様子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、とりどりの形相」と記述している。25日には平沼騏一郎内閣が日独同盟の締結交渉中止を閣議決定、28日に平沼が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と声明し、総辞職した。
その後日本とソ連は日ソ中立条約を締結し、また日本は後述の南進を国策としたため、ソ連との紛争は起こらなかった。しかし独ソ戦が開始されドイツ軍が有利な戦況が続くと、関東軍特別演習と称して、満州に大軍を送り、対ソ参戦の機会を窺がっていたが、仏印進駐により石油が禁輸となると、対ソ参戦気運は大きく後退する事となった。
1939年8月23日には独ソ間で独ソ不可侵条約が締結された。リッベントロップはこの際に、防共協定は反ソビエト連邦と言うよりも、反西欧民主主義国という性格を持つものだとヨシフ・スターリンに説明している。これを防共協定の秘密議定書違反として日本は猛抗議し、平沼内閣は総辞職したことによって、日独の提携交渉はいったん白紙となった。日本外務省内では協定が事実上白紙になったという認識は示されたものの、実際には協定解消などの声も起こらず、手続きは行われなかった。
第二次世界大戦の勃発
ドイツは1939年9月1日ポーランドに侵攻、9月3日英仏がドイツに宣戦し、第二次世界大戦がはじまった。9月17日にはソ連が「ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護」を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始した。独ソ両軍は衝突することもなく、モロトフ=リッベントロップ協定秘密議定書の分割線に従って、その占領域を確定させた。英仏はソ連に対しては宣戦布告を行わなかった。9月20日ワルシャワが陥落しないため、ヒトラーは業を煮やし、ドイツ空軍による爆撃が開始された。620機を繰り出した徹底的な爆撃に続いて、27日ドイツ軍が市に突入し、2万5千人の市民が死亡、10月1日ワルシャワは降伏した。
紳士諸君!、君たちはワルシャワの廃墟を見たはずだ。今だに戦争を続けようと考えているロンドンとパリの政治家たちに、警告として諸君の見聞を伝えたまえ |
10月6日、ヒトラーはドイツ国会において平和の呼びかけを行った。この提案は英仏両国によって拒否された。1939年10月14日には英戦艦ロイヤル・オークが独潜水艦に撃沈され833人が死亡し、イギリスはショックを受けた。10月3日ポケット戦艦ドイチュラントはアメリカの貨物船を拿捕し戦利品とした。アメリカ世論は沸騰し、中立法に対し、英仏には武器の売却を認めると修正された。さらに秘密協定に基づき11月フィンランドとソ連の戦争(冬戦争)が勃発し、ソ連はフィンランドの5倍以上の12万人以上の死者行方不明者、32万人以上の死傷者を出しつつ勝利し、1940年3月フィンランドは領土の11%、経済資産の30%をソ連に譲渡した。一方英仏とドイツの間には、航空戦の小競り合いと、幾分の海上戦闘が行われるのみで、陸上戦闘が皆無に近い状態であった(Phoney War)。当初はアメリカでは楽観的な見方が多く、1939年9月のギャラップの世論調査によれば、連合国の勝利を予想したものは82%に上った。
スェーデンの良質の鉄鉱石とその輸出港であるナルヴィク港を制するため1940年4月のドイツ軍によるデンマーク・ノルウェー侵攻が起き、ナルヴィク海戦で戦艦ウォースパイト擁する英海軍がドイツ戦闘艦10隻を撃沈する活躍で、制海権はイギリスが確保していたが、中立国ノルウェーへの軍派遣に消極的なチェンバレン首相がフィンランド・ソ連の協定成立により北海派遣軍を解散させるなど陸海の足並みがそろわず、翌月以降の大陸の戦況変化によりイギリスは撤退しドイツに占領された。この惨敗の責任は海軍大臣チャーチルにあったにもかかわらず、倒れたのはチェンバレン内閣であった。ただしノルウェー占領はほかにいくらでも使い道のある独軍を終戦まで何もすることなく据え置くことになってしまう。
そして5月に状況は一変する。1940年5月10日、西部国境に集結した137個師団のドイツ軍は、怒涛の勢いでフランス、ベルギーへ進撃を開始した。オランダは5日間で屈服し、5月15日までにドイツの機甲9個師団はミューズ川を渡り、難攻不落を誇ったマジノ線を迂回してアンデルヌ高原をかすめて英仏連合軍の背後に進出した。グデーリアンやロンメルの指揮するドイツ軍は雪崩を打って進撃、英仏海峡に向かっていた。ベルギーは5月末に降伏、およそ30万の英大陸派遣軍は、一週間のうちにカレーの北、ダンケルクの砂浜に追い詰められた。英軍はダンケルクで大陸からの撤退を開始した。BBC放送を通じ海軍省の呼びかけに応じたヨットを含む民間小型船舶の持ち主たちは、イギリス兵を救出すべく大軍をなして、ドイツ空軍機の襲来の危機を冒し最前線ダンケルクの浜辺に赴いた。包囲下にあったおよそ33万の英仏軍のほとんどすべてを無事、英本土に撤収させるという奇跡的な成功をおさめたのが惨敗の中で救いだった。
6月10日、イタリアがドイツ側にたって参戦、フランスでは16日にポール・レイノー首相に代わってアンリ・フィリップ・ペタン元帥が首相となり、22日にドイツと、2日後にはイタリアと休戦協定に調印した。大陸はドイツのものとなり、イタリア、東欧諸国もイギリスに宣戦し、奥にはドイツの友好国ソ連が潤沢な資源を提供している、イギリスはただ一国でドイツに抵抗できるとは思えなかった。
ドイツ人も驚いたことに、イギリスは戦いつづけた。だがそれは、ドイツ人には、ただ戦争を長引かせるだけの望みなき自殺的行為、と思われたのである。イギリスははビスケー湾からノルウェー海岸にわたって、無敵ドイツ空軍によって包囲されていた。残存の英空軍は数においても劣勢であった。ヒトラーが、1940年6月に和平の提案を公言、同時に彼はイギリス侵攻の暫定的計画の準備を発令している。
ドイツがヨーロッパの中立三国(スイス、スウェーデン、スペイン)を通じて和平提案した際に、イギリスは煮え切らないそぶりを見せた。イギリスでは、ヒトラーの言う「和平」の内容がチャーチル内閣では理解されていた。合法の名目で併合されたオーストリアやチェコ以上の扱いを受けないことは明らかだった。だが、まったく取り付く島もないという拒絶の仕方はしなかった。「もう一度熟慮」というそぶりも見せた。英国はドイツよりもソ連と戦うべきだという右翼の貴族や国会議員グループも力を持っていた。41年6月までは英政府内には反ソ連を基軸に日英同盟を再興できないかと考える人たちもいた。
イギリスはフランスに対し、「貴国の保有する軍艦をイギリス港湾に引き渡すように」迫ったが返事はなかった。ドイツによるイギリス上陸作戦が迫っている状況では無理かなることではあったが、7月3日イギリスは武力を持ってフランス戦艦の接収を行い、仏領北アフリカのケビール港ではイギリス海軍が要求を拒否したフランス海軍を砲撃、ダンケルクは大破しブルターニュは爆発・転覆した。1297人のフランス人水兵が死亡した。この戦闘の政治的効果は絶大だった。イギリスは必要ならば情け容赦ない戦いであろうとあえて行う覚悟であると。しかしフランス側の対英感情は致命的に悪化し、ヴィシー・フランス政権は積極的にドイツに協力するようになっていった。
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥は、イギリスの防御戦闘機はわずか数日の戦闘で打破することができる、と自信たっぷりで予言した。 ヒトラーが、イギリス侵攻にたいする海軍総司令官の警告よりも、ゲーリングの楽観的な予想を、より心良く思っていたことは確かである。空軍の打撃によって、強襲上陸の必要がなくなるかもしれないし、イギリスが平和会議の席上で、次なる十字軍に“弟分”として味方にくわわる公算も大きいだろうと考えたのだった。しかし強襲上陸が必要なら、それでもよい。ドイツ空軍が全面的に制空権を獲得してしまえば、英海軍の妨害はないも同然だろうし、ドイツ陸軍のロンドン進撃を支援するであろう。彼は侵攻準備計画の作成発令二週間後の7月16日に、命令第一六号をだした。
絶望的な軍事情勢にもかかわらず、イギリスは和平条件に応じる気配を示さない。私は英本土に、必要とあれば上陸を実行することを決心した。本作戦の目的は、英本土が対独戦争を継続する基地となることを阻止し、かつ必要とあればその全国土を占領することにある |
上陸日は決定されず、侵攻は依然万一の場合の計画にすぎなかった。陸、海、空の三軍は、総統命令にしたがって準備をすすめたが、ドイツ国民はイギリスが侵略をまねくような馬鹿なことはやるまいと信じていた。ベルリンの新聞は、戦争の終結はほぼ確実だとのべていた。しかし仏海軍を強引に撃沈までした英国は、戦わずして屈服するであろうか? とるべき方策は最後のおもいきった和平の提案であった。もしこれに失敗したら、ゲーリングにチャンスをあたえるほかはない。1940年7月19日、ヒトラーはつぎのように世界に宣言した。チャーチルを戦争亡者と批判しつつ、それでも自分は理性に訴えると。
このさい、私はその良心にしたがって、もういちど世界の人々の良心と常識、および他国と同様イギリスに訴えることが、私の義務であると信じている。私はこの訴えをおこなう地位にあると考える。なぜなら、私は恩恵をうける敗者ではなく、『勝者』として穏やかに話しかけているのである。この戦争を続行すべき理由は何もない。私は、そもそも英帝国を破壊するどころか、 傷つけようとも思っていない。 この時にあたって私は、自己の良心に基づいて、 イギリスにもう一度、分別を求めずにはいられない。 あえて戦争を続けねばならない根拠など、見当たらない。・・・ドイツ政府は、イギリス政府の理性的反省にもとづく和平交渉に臨む用意がある。これは最後のチャンスである。イギリスがこの機会を無視するなら、すでに準備完了したドイツの攻撃力は、時をうつさずイギリス島に殺到することだろう |
英国はこのヒトラーの国会演説の呼びかけに対して3日ほど焦らしている。これは英国が屈服するのではないかとの憶測を与えた。そうなれば対英支援はすぐに踏み倒されてしまう。実際この時駐英大使のアメリカのケネディ(J・F・ケネディの父)は、対英支援中止をワシントンに具申している。だが、チャーチルは、ヒトラーの和平提案に、「NO」を突きつけるつもりだった。チャーチルは、このまま戦争を終わらせて、 それによって ”ヒトラーの欧州支配”を承認する気など、 全くなかった。
そしてチャーチル政権は、ヒトラーの和平提案に対して、こう返答したのだった。
外相 | ドイツは、もし平和をあがなうつもりなら、まず占領した全地域から撤退することだ!。 | 我々は海岸で、渚で、そして田園で、街路で、丘陵で、あらゆるところで戦い続けよう。We shall never surrender! |
このイギリス政府の回答に、 ヒトラーは激怒した。孤島の政府は動揺した。ハリファックスやロイド・ジョージといった穏健派は、ヒトラーの提案に耳を傾けようとした。また、ウインザー公(先の国王エドワード8世)も、隠遁先のポルトガルから和平を呼びかけた。しかし、チャーチル首相の意志は強固だった。彼はドイツとの徹底抗戦の決意を維持し、猛然と閣論の調整を行ったのである。イギリス国民は迫るドイツ軍の本土進攻に恐慌状態となり、「ホーム・ガード」なる民兵組織が作られ、スミス・ガン、SIP手榴弾(火炎瓶でドイツ軍に対抗できるか)、ホーム・ガード・パイク(竹槍よりは・・・てありえん)などの珍兵器が次々作られた。イギリスの命運は風前の灯火にみえた。
アメリカ人は驚きで口もきけなかった。ドイツがWW1で4年かかってもできなかったことを、たった40日でやってのけたのである。今や英国だけがアメリカと枢軸陣営との間に立っていたが、果たして生き残れるかどうかは疑わしく見えた。陸軍の戦略家たちは大統領への報告で、南米諸国には多数のドイツ系市民がおり、また仏領西アフリカのダカールは新世界からわずか2900キロであることを指摘した。最初の驚愕の後には事実上のパニックが起こった。数週前に国防費20億ドルの予算割り当てを渋っていた(1938年の陸軍予算は4.15億ドルに過ぎない)議会が、今度は105億ドルの国防費をさっさと可決した。州兵が動員され、史上初めての平時徴兵が承認され、陸軍参謀本部は最終的には900万に達することになる兵力増強を計画し始めた。ホワイトハウスでは、大統領の顧問たちが5万機からなる空軍の建設を話題にしたが、当時はまだそんな巨大な空軍を支えるべき飛行士も技術者もなかった。海軍最高諮問委員会は、アメリカは大西洋における新たな脅威に対抗し、太平洋における日本の増強に歩調を合わせるため現存施設で可能な限りの軍艦を建造せねばならぬと警告した。今度は議会も傾聴し、6月に既に承認した分に追加して40億ドルの建艦費に割り当て、7月にはさらに13億ドル強を可決し、7月20日両洋艦隊法が成立した。
こうした気違いじみた軍備拡張のは、アメリカは間もなく単独で枢軸諸国に対抗することになるかもしれない、との恐れにあおられたものだった。その場合、アメリカは太平洋ではほとんど何んもできず、もし英仏艦隊がドイツの手中に落ちたら、大西洋の守りも難しいというものである。こうした心配は、ジョージ・V・ストロング准将の下で陸軍戦争計画部が起草した1940年6月の「ストロング覚書」に記述されている。覚書はアメリカの限られた軍事力とその当面する危険を分析し、英仏は間もなく敗北すると予想、西半球防衛のための即時動員と英国への軍事援助の停止、太平洋では防衛の姿勢に徹することなどを提唱した。ナチスはアメリカを西方のユダヤ大国と見なし、恨んでいた。ヒトラーはアメリカ合衆国なるものがユダヤ人の戦争屋に牛耳られた北欧人種の国家であり、その意味でも、この私がヨーロッパ大陸に築く「新秩序」とアメリカは、いずれ雌雄を決せざるを得なくなると信じていた。だがルーズベルトはイギリスを見捨てる気になれなかった。もしイギリスが屈服すれば、枢軸諸国が欧州大陸、アジア、アフリカ、豪州及び紅海を支配するだろう。我々全体が、彼らの銃口のもとで生活することになる。
フィリピン防衛はもはや放棄せざるを得ない。アメリカ西海岸からマニラまで12600キロもある。ハワイからでも9000キロあるのだ。真珠湾に海軍基地はあったが、グアムやマニラにはない。態勢を整えてマニラに侵攻するには3-4か月かかる。それまでに日本はフィリピンを圧倒できる。日本は開戦後1週間で5-6万、2週間で10万、1か月で30万の軍を送ることができるのだ。陸軍士官たちは現在のオレンジ計画の実施は文字通り狂気の沙汰だと指摘したが、統合委員会はフィリピン放棄の心理的、政治的影響を考えて踏み切れず、マニラ湾を確保し、アメリカは西太平洋で攻勢に出る、という線を常に再確認するのに終わった。実際は放棄していても、フィリピン防衛放棄を公言することはできなかった。
日中戦争の勃発以来、アメリカ政府の対日政策は「断固たる態度ながら融和的」なものであった。アメリカは中国にあるその権益の縮小に進んで同意するものでないし、極東における日本の征服を認めることは拒否する。だが、その一方で、日本を挑発したり事件のもとになるようなことは一切しない。この「何もせず、挑発もしない」という政策は、ルーズベルト大統領が考え出し、主にハル国務長官が実行したが、これは日本との深刻な危機を避けるためのものだった。こうしたやり方はルーズベルトとその顧問たちには満足すべきものと見えたが、中国にいて日本の占領軍に威張り散らされたり、殴られ、小突かれたりしたアメリカ人たちには人気なかった。また、日本軍の「新秩序」なるものを「南京の暴行」や広東爆撃のニュース映画やグラフ雑誌で見たアメリカの大衆にもさっぱり人気がなかった。しかし大衆は中国に非常に同情していたものの、日本との戦争を考えてみようなどという気はなかった。
期待倒れとなった満州経営
満州開発はうまくいかず、資源という面で全く期待外れだった。日本の3.5倍も面積があるのだから、何でもあるはずだ、これで日本も資源大国だと夢は膨らむ。国際連盟から脱退し、世界の孤児となっても平気だ。そう信じて石原莞爾が中心の5か年計画で、鉄鋼増産に励んだが、満州には低品位の鉄鉱山しかなく、計画の銃鉄年産1150万トン、鋼塊1300万トンに対し、36年には銃鉄63万トン、鋼塊34万トンで、五カ年計画の実績(四一年末設備能力)は、銑鉄と石炭でそれぞれ2.4倍にまで増産できたが、目標には遠く及ばなかった。1940年代になって、この方向は半ば放棄され、「満洲国」自体も「大東亜共栄圏」における食料供給基地という位置付けになっていく。永田思想に従い満州、中支を外交を犠牲にして占領した陸軍であったが、資源の米英依存は変わらなかった。アルミニウムは軽量で腐食に強く、銅マグネシウムを添加したジュラルミンは頑丈で航空機の原料として急速に需要が増大した。地殻に豊富に存在するが、イオン化傾向が大きく酸素と固く結合し、生産に多量の電力を使う。日本国内にボーキサイトはなく、カリウムを含む硫化物の明礬石は多量に存在するものの、硫化分を除去できず航空機用のジュラルミンには適さなかった。このボーキサイトは蘭印ビンタン島に豊富にあった。マレーの生ゴムや鉄鉱山、フィリピンのクロム、蘭印の石油やアルミニウムが必要だった。
大東亜共栄圏構想の出現
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、欧州で第二次世界大戦が始まった。武藤は永田や自分が考えた通りの展開になったと考えたが、当初は欧州大戦には不介入の方針だった。1940年日本政治の中心はすでに陸軍にあった。ここにドイツの快進撃、イギリスの敗北間近のニュースが飛び込んできた。
武藤らは6月中旬「総合国策10年計画」をまとめた。そこには最高国策として、日本・満州・中国の結合をもとに「大東亜を抱擁する協同経済圏」の建設が設定されている。ここでの大東亜は東南アジアなどを含む地域である。第二次大戦勃発に合わせて調査し直したところ、自給自足のためには現状では足りないことが判明、東南アジアから獲得すべき必要資源は、石油、生ゴム、スズ、ニッケル、リン、ボーキサイトなどだった。これらは帝国内や中国大陸ではほとんど産出しない資源であった。この協同経済圏論は、欧州の戦況の展開にともない大東亜共栄圏の設定、南方武力行使の問題へとつながっていく。またそれにかかわって、日本・満州・華北・内蒙古が大和民族にとっての自衛的生活圏とされている。外交としては、ソ連については平和的状態を維持し、アメリカについては大東亜協同経済圏の形成による自給持続体制の確立により対米依存経済より脱却する方針を示し、イギリスについては「英国及び英系勢力を極東より駆逐する」と強硬に明確な対決姿勢を打ち出した。
この総合国策十年計画は第二次近衞内閣の組閣直後1940年7月26日閣議決定された「大東亜の新秩序」の建設などを主な内容とする「基本国策要綱」に反映される。しかし「総合国策10年計画」はドイツの快進撃を反映したものではなく、武藤ら陸軍中央は7月22日「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。国際情勢の変化に対応して、日中戦争を解決するとともに「好機」を補足し「対南方問題の解決」に努めるとの方針が示されている。英領マレー・蘭印などを主要ターゲットとした南方武力行使が明確に打ち出された。この好機はイギリスの敗北が想定され、ドイツとの軍事同盟にも踏み込んでいた。大英帝国の崩壊を好機に、南方の英領植民地さらには蘭印を一挙に包摂し、自給自足体制の確立を目指したのである。この陸軍中央の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」は海軍側との協議のうえ、基本的な内容についてはほぼそのまま陸海軍案となり、7月27日大本営政府連絡会議で採択された。7月22日陸海軍首脳による懇談が行われ、案の内容について意見交流がなされている。武藤軍務局長は独伊から同盟打診があれば受諾するを要すと発言したが、海軍から異論が出された。仏印に対する武力行使は「支那事変処理を看板とする」との了解がされた。日中戦争の解決を仏印進駐の名目にしようというのである。仏印進駐は援蒋ルートの遮断のためとの見方はあるが、いわば「看板」であって、実際には英領マレーや蘭印など南方への勢力展開建設のためであった。この「共同経済圏」及び「大東亜の新秩序」はのちに「大東亜共栄圏」へと発展していく。
一方日中戦争では40年5月に宜昌占領に成功したが蒋介石は屈しなかった。しかし湖南省の雪峯山脈の東麓のアンチモン産地を抑えたことにより、弾丸に必要なアンチモンの安定供給ができるようになった。汪兆銘の政権は傀儡にすぎず、日中和平が様々なルートで画策されるがすべて実現しなかった。
当時の米内内閣は、独伊との軍事同盟に消極的だった。また陸軍の希望する国内体制の整備も進捗しなかった。そこで武藤ら陸軍中央は、近衛新党の動きと連動する形で、畑陸相を辞任させ、後任の推薦を拒否して米内内閣を総辞職に追い込んだ。後任首相は重臣会議で軍部に受けの良い近衛文麿を指名、陸軍は今度はすんなりと東條英機を陸相に送り、外相は強硬派の松岡洋右が就任した。40年7月22日第二次近衛内閣が成立した。
日独伊三国軍事同盟の成立
ヨーロッパの戦局が急変し、イギリスが危機に陥った昭和15年6月19日、参謀本部情報部長土橋勇逸少将は駐日英武官ミュレリー大佐に対して事実上中国大陸から撤退するよう要求した。一方陸軍は7月27日に日独伊提携強化、対英軍事同盟に関する件とする案を外務省に示した。
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日本はビルマ・ルートによる援蒋武器輸送の停止をイギリスに求め、折衝の末、イギリスはこれに同意し、7月17日、ビルマ・ルート三か月停止のための協定が日英間に結ばれた。イギリスは1940年8月、中国本土の都市、特に上海からその駐屯地を撤退させた。イギリスのこの決定に不満なアメリカの国務長官・コーデル・ハルは、「 ビルマ・ルート閉鎖は世界貿易に対する不当な妨害であり、アメリカは独自の政策を遂行する」との所見を述べた。一方、9月10日松岡外相とスターマーが会談し12日に4相会談が行われた。
松岡「現在のままでは米英のいいなりだ、同盟締結を」 | 東條英機陸相「賛成」 | 及川海相 | 保留 | 近衛文麿首相「同盟締結としたいが」 |
ドイツ・アメリカ開戦から対米自動参戦となることを危惧した海軍の米内と山本は同盟に反対した。彼らは過激派の攻撃や脅迫の的となった。海軍省の他の指導者たちの大多数と軍令部のほとんど全員は、結局同盟に同意するか、少なくとも黙認するよう説得された。海軍の若手士官たちの多くは親独的で、それ以外のものも三国同盟がアメリカの戦争介入を防げるだろうという松岡外相の主張を最もだとしていた。これに対して松岡外相は、事実上参戦の自主的判断を各国政府が持つという趣旨の規定を定める案を提示し、海軍側の了承を得た。9月27日日独伊三国同盟条約が締結された。日独伊三国同盟の内容は、ヨーロッパにおける独伊と、大東亜における日本の、それぞれの新秩序建設においての指導的地位を相互に認め、尊重しあうこと、そのための三国の相互協力と、いずれか一国が現在交戦中でない他国に攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法により、互いに援助すること、前記の条項は三国それぞれとソ連との間の状態には影響を及ぼさないこと、有効期間は10年とすること、など。
松岡は1941年12月8日「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。……事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるにいたった。これを思うと死んでも死にきれない」というが出来すぎであろう。1945年8月13日「我が国はポツダム宣言を受諾するとの事であるが、これは我が国を滅ぼすことになるので絶対にいけない。……我が国を救う道は、戦争を継続し、本土決戦を決意して、死中に活を求めるよりほかに方法はない。」と発言している。彼については原田熊雄や木戸の評価が的を得ている。原田「松岡は、昨日の話を、馬耳東風と聞き流すような男」であったとし、木戸は「松岡はいろんなことを言うんだよ。いうたびに変わるんだ。それでどこが真意かわからん」と苦笑する。
ドイツから無差別爆撃で甚大な被害を被っているの最中のイギリスにとって、三国同盟の締結はまさに青天の霹靂であった。日本がイギリスの敵側についたことを明示するものであり、イギリスとしても対抗措置を打ち出さざるを得なくなっていた。
外相 | もはや日本との対決は避けられません。 | もう①は現実的にはありえない、②をめざそう。対米追従だ。英独の戦いにアメリカを巻き込むには、日本との戦争も仕方ない。 |
イギリスはビルマ・ルート一時閉鎖の協定を更新することを拒否し、10月18日より公然とビルマ・ルートによる援蒋を再開したのであった。英外務省は対日政策を検討する極東委員会を設立して本格的な対日政策に乗り出した。それは対日経済制裁の模索であった。
アメリカにとって三国同盟の急速な成立は意外であった。日本はもう少し欧州戦局の動向を見極めながらコミットメントを慎重に判断するのではないかと考えていたからである。アメリカは対独参戦した場合、三国同盟で日米戦となり両面戦争を覚悟しなければならないこととなった。それは対独戦遂行にとって可能な限り回避したい事態だった。スティムソン陸軍長官やモーゲンソー財務長官は、制裁を強化すべきとして、石油全面禁輸を主張した。しかしハル国務長官は「石油禁輸は日本を蘭印に向かわせる」と反対し、大統領もハルを支持した。三国同盟はこの時は対米抑止力として有効に働いていたのである。
近衛文麿首相「万一日米戦争の場合の見込みは?」 | 山本五十六「それはぜひやれと言われれば、初め半年か一年の間はずいぶん暴れて御覧に入れる。しかし2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約ができたの致し方ないが、かくなる上は日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」 |
一方陸軍の武藤としては三国同盟及びソ連との提携によって、なるべくアメリカを反省させるようにしなければならないとし、日米戦を回避し、同盟条約第二条(ドイツは東アジア、東南アジアでの日本の指導権を承認)によって南方へ進出して資源自給自足体制を確立し、大東亜生存権の建設を実現しようと考えていた。武藤ら陸軍中央は7月下旬に「国内指導に関する具体的要目」を定めた。そこには全国的国民総動員組織の確立、言論結社集会などの禁止・制限、国策批判の抑圧なども含まれてきた。そして情報統制、報道規制などによって、一方的な情報に基づく世論調整が意識的に行われ、陸軍が望む方向への「精神動員」「国民動員」が行われるようになっていく。
41年3月文部省より「臣民の道」が発行・配布された。そこでは「我ら皇国臣民は、悠久なる肇国の古より永遠の皇運扶翼の大任を負うものである。この身この心は天皇に仕えまつるをもって本分とする。らは国民たること以外に人たることを得ず、さらに公を別にして私はないのである。我らの生活のすべては天皇に帰一し奉り、国家に奉仕することによって真実の生活となる。…されば、私生活をもって国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見なし、私意をほしいままにするが如きは許されないのである」
この臣民の道はすなわち一般国民の生き方として義務付けられ、教育された。武藤軍務局長は議会で発言している「現在の国際情勢に書しますには…個人主義に出発しまする一切の自由主義、これを排除していかなければならぬ…。いかなる国も国家本位に進んでいる…。すべての物が個人というより国体というものに立脚して、一切を律していくことになれば、おのずから国家の総力というのは万全の力を発揮するものだ」
政府も国民も、本当に「天皇の軍隊」を統制できず、軍だけが勝手に暴走したのであろうか。そうは言えない。戦争を行うには戦費が、軍を維持するには軍事費が不可欠である。したがって、議会が戦費いわゆる臨時軍事費を否決すれば、軍は動けない。…明治人は明確な「戦費」という意識があった。主戦派が戦費の確保に腐心すれば、非戦派は議会の戦費否決でこれに対応した。戦争→戦費→議会の戦費可決→増税→民衆の苦しみを明確に示し、民衆の増税反対に代議士を動かし戦費否決から非戦へもっていこうとした。
ところが、昭和になると、主戦・非戦両派とも、戦費と負いう最も重要な問題に無関心である。国民は「勝った、勝った」で目をくらまされていたが、軍は、戦費が自分たちの死命を制することを知っていた。…満州事変から延々と続く戦争、この状態は実に強い厭戦気分を国民の中に熟成した。軍人が、何かあれば「軍民離間は利敵行為」と言って目を怒らし、陸海軍両省がすでに昭和8年に「軍部批判は軍民離間の行動」と声明したこと自体、軍と民がすでに離間していたこと認めたに過ぎない。ではもしこの批判が議会に反映し、臨時費(戦費)を否決したらどうなる。…これが倨傲な態度で国民を睥睨していた彼らが、絶対口にしなかった恐怖であった。彼らはその事態に至らせぬため、あらゆる手段を使った。したがってその時には、骨を抜かれた議会、すなわち翼賛議会は、すでにできていたのである。
私のそのことを語ったのは、士官学校の若い中隊長である。彼は政局や戦局の話を始め、このようになったのは「議会が悪いからだ」といった。彼は議会を罵倒し、軍需太りの利権やを国賊とののしり、戦死者の死肉を食う人非人どもといった。……それが臨軍費に及んだ時、私は彼の顔を見直した。彼は言った。「いかに精鋭の軍隊といえども、逐次戦闘加入を強いられれば必ず敗北する。ナチス・ドイツ軍の勝利を見よ。実に見事な、一糸乱れぬ統一戦闘加入ではなないか。なぜ我々にこれができないか。毎年、毎年、臨軍費の予算の範囲内でしか作戦ができず、これ以上は”予算がないから戦争はできません”という状態を強いられてきたのだ。日華事変が片付かなかったのは軍の責任ではない。議会の責任だ、議会が悪いのだ」
私がいかに鈍感でも、こういわれれば、何が要点かはわかる。「そうか、そうだったのか。戦費を打ち切れば、戦争を終わらすことができたのか……」同時に、学生時代からの、軍の国民への直接宣伝、新聞ラジオ雑誌等の戦意高揚記事、配属将校の演説等々が、走馬灯のように頭の中を走った。「そうか、彼らはこの点を国民の目から隠すため、あんなことを言い続けてきたのか……」
「幸い武藤軍務局長が……」と私の胸の内も知らず彼は言葉をつづける。そしてこの名を耳にした途端、一枚の新聞の紙面が脳裏に浮かんだ。それには武藤軍務局長の大きな写真が載り、「政党解散は軍の方針」だという彼の言葉が載っていた。
北仏印進駐
大日本帝国は機を見るに敏で、フランスが6月にドイツに降伏した後、8月1日には松岡外相はアンリ駐日仏大使を呼びつけ「日本軍隊の仏印通過及び仏印内飛行場使用の容認並びに右軍隊用武器弾薬その他の物資輸送に必要なる各種便宜供与方を要求する(中略)もし仏印がこれを入れざる場合にはあるいは形式においても中立を冒すことになるやもしれぬ」とペタン政権に対し警告した。インドシナ経由で中国国民党軍に物資を供給する行為は、即座に中止されてしかるべきであると。結局、フランス人総督は日本側の圧力に屈し、日本が北仏印に兵員と航空機を駐留させることを認めざるを得なかった。10月16日、アメリカは屑鉄と航空機用ガソリンの対日禁輸を決定した。
田中新一の台頭
40年10月10日田中新一が作戦部長に就任した。東條陸相の意向によるものだった。田中は「重慶政府の降伏はこの際問題とせず、全面的東亜の解決により自然にその降伏を予期され」解決されると考えていた。41年1月田中ら作戦部は「大東亜持久戦指導要綱」を作成し、陸軍省部の非公式な承認を得た。好機におうじた南方武力行使と、北方静謐を基本とするものであった。1月30日「対仏印・泰施策要綱」が大本営政府連絡懇談会において決定された。大東亜共栄圏の段階的建設の第一段階として仏印・泰に進駐、生ゴム・鈴・林・タングステンなどの第一次補給圏と位置付けられた。田中新一はこの過程で、ドイツの対英攻勢が予想される3月末までに南部仏印進駐を決定・着手すべきと考えていた。だが松岡外相の同意を得られず、7月まで実施に移されなかった。なお「大東亜共栄圏」の重要公式文書における初出はこの時である。さて、2月上旬、陸軍省部は「対南方作戦要綱」を作成し、海軍側に提示した。その骨子は、対南方政策の目的は、日本の自給自足経済体制を確立することにある。イギリス崩壊などの好機、もしくは英米による全面禁輸を受けた場合には、武力を行使する。戦争相手は英蘭に限定する、というものだった。ところが海軍側は、英米絶対不可分、南方武力行使はすなわち対米戦になるとの判断を示し、陸軍案に同意しなかった。その後陸海軍で協議され、6月6日正式に決定された。ここで大東亜共栄圏建設に一番梯として、外交によって仏印・泰の包摂を図ること、南方武力行使はいわゆる「自存自衛」(すなわち対日禁輸措置を受けるか、国防上容認できない軍事的対日包囲体制が敷かれた時が想定)の場合のみに限定していた。ドイツの対英本土作戦の延期により「好機」補足の武力行使は放棄され、英米可分の認識が清算され、陸海軍とも英米不可分の認識に立つことになった。南方武力行使は、すなわち対英米戦争を意味することとなったのである。
日ソ中立条約の成立
41年1月松岡外相「日本の行動についてが英国が正しい諒解を持たないからには、我は我として所信に向かって邁進するよりほか仕方ない」 |
松岡外相は41年3月からモスクワ、ベルリンを訪れ、スターリンやヒトラーと意見交換をしていたが、ドイツは日本に対英宣戦とシンガポール攻撃を即し、松岡はロンドン訪問はキャンセルした。4月13日には日ソ中立条約が成立し、日本の南進が促進された。イギリスは再三日本の南進の脅威を訴え、シンガポール防衛の重要性をアメリカに伝え、共同警告を提案したが、アメリカは無関心で介入にいたらなかった。5月13日には松岡外相が野村大使から送られてきた日米諒解案に憤慨し、14日駐日米大使グルーと会談「アメリカはイギリスに船舶を供給するべきではなく、もしそのようなことになれば日米の間の戦争が勃発することは避けられない。日本の意図は平和的手段によって南方に進出することであるが、マレーの英軍が増強されればその限りではない」。
イギリスはハル国務長官に「我々は日本が中国と妥協できるとはとても思えない。もしそれが可能なら、アメリカが英国の意見を妥協案に聞き入れてくれ」と伝え、激怒させた。英米が同意できる範囲でしか交渉を妥結してはならない、と。アメリカが日本に譲歩するのは英国には好ましくないし、中国を見捨てることになりかねない。5月27日にようやくハルは交渉内容を英国に伝え、もしもの時は相談することを伝えた。英国は日本の南進を防ぐため日中戦争は続いてほしかったが、米国は日本の中国からの撤退を希望していた。
英独の戦いは膠着していった。
独ソ関係の動揺
ソ連は、いわばヒトラー方式で急激に領土を拡張していた。昨年末の「冬戦争」で、フィンランドからカレリア地方を奪取したのに続き、今年6月にはルーマニアを脅迫し、ベッサラビア地方を併合した。さらに8月には、バルト三国を恫喝して、その全土を軍事占領したのである。ほとんど無血で、2千万近い人口を獲得したことになる。そして、ソ連の野心はそれに止まらなかった。ブルガリアとトルコにも触手を延ばし、重要拠点の割譲を狙ったのである。この情勢に、東欧諸国は危機感を募らせた。彼らの頼みの綱は、今や日の出の勢いのドイツ帝国しかない。そしてヒトラーも、これ以上のソ連の進出を許すつもりは無かった。彼はフィンランドとルーマニアに軍事顧問を送りこみ、密かに軍事協定を取り交わしたのである。フィンランドのニッケルと、ルーマニアの石油は、何が何でもドイツが確保しなければならないからである。 スターリンは激怒した。 ここに独ソの蜜月は終わりを告げたのである。
1940年の7月31日、ヒトラーはベルクホーフ山荘に陸海の将軍たちを集めた。イギリスが降伏条件をめぐる交渉を拒否していることに総統閣下は戸惑いを覚えていた。予想されうる将来において、アメリカ合衆国が参戦する見込みはない。だとすると、おそらくチャーチルはソ連を当てにしているのでは?。
イギリスの希望はロシアとアメリカである。ロシアにかけた希望が消えるなら、アメリカも消えてしまう。ロシアの消滅は東アジアにおける日本の価値を恐ろしく増大させることになるからである。・・・ロシアが粉砕されれば、イギリスの最後の望みが絶たれるだろう。ドイツはその時、ヨーロッパとバルカン諸国の主人になるのだ。 |
彼の生涯最大のプロジェクト、すなわち東方のユダヤ・ボリシェヴィズムの打倒に向けて、ついにゴーサインを出したのである。ただこの時ヒトラーは最終的に独ソ戦を決意したわけではなかった。
ドイツ全軍のかじを切るには、やはりイギリスをきっちり片付ける必要があった。そこでドイツ空軍に対し、対イギリスせん滅作戦を指令した。港湾、軍艦のみならず、イギリス空軍及びその地上組織、イギリス軍需産業合わせて一掃せよと。任務達成には一か月もかからないでしょうとゲーリング元帥は予言した。
イギリスの抵抗は激しかった。ドイツ空軍の攻撃は激しさを増し、8月15日の攻撃は1790機もの参加したが、「救国機」スピットファイアの活躍で大損害を受けた。ドイツの爆撃機乗りたちは、明日にも完全消滅するはずの敵戦闘機が、圧倒的な数で襲い掛かってくるのを目の当たりにした。しかしイギリス空軍も、ほぼ毎日失った以上のドイツ機を落としてはいたが、消耗していった。そもそものベースになる保有機数がドイツ側が倍近く多いのだ。その後戦闘機の生産が劇的に増加したことで、懸念の一つが解消されたものの、パイロットの損耗は依然最大の懸念材料だった。食事中や、下手をすると会話中にことりと寝入ってしまう疲労度だ。8月24日夜、100機余りの爆撃機からなるドイツ軍部隊が本来の目標である飛行場の上空を素通りしてロンドン中心部を爆撃する事件が起きた。これにカチンときたチャーチルは、直ちにベルリン空爆を命じた。ヒトラーはワルシャワ空爆の時のようにロンドン空爆にて敵の戦闘意欲をくじくべき時が来たと考え、ゲーリングは標的を飛行場から都市へと転換した。だが当時相当に追い詰められていた「戦闘機集団」は救われたのである。イギリス「爆撃機軍団」は対岸の港湾施設をたたき、そこに集結しつつあるドイツ軍の平底の荷船をつぶしていった。ついにヒトラーはイギリス上陸作戦をあきらめた。
9月7日1000機以上の航空機を投入して、大規模空襲を敢行した。「ザ・ブリッツ」の始まりである。ドイツ爆撃機の大半はロンドンの港湾施設を目指していた。ロンドンではこの日300人余りの民間人が死亡した。9月15日の大攻勢も、高高度に位置をとっていたスピットファイア、ハリケーンがメッサーシュミット109が燃料残量が乏しくなる瞬間を狙いすまして、攻撃が開始された。ドイツ空軍はイギリス空軍による攻撃を避けるため、夜間爆撃に切り替えた。ドイツ空軍の優れたレーダーを用いた用いた爆撃に、その後犠牲者はうなぎのぼりとなった。ザ・ブリッツにより41年5月末までに43000人以上の民間人が爆撃で死亡、100万以上の家屋が損害を受け、コベントリー大聖堂をはじめとした名だたる歴史的建造物が破壊された。しかしイギリスは耐えた。当初なすすべがなかった夜間爆撃も、次第に対策がなされるようになった。夜間戦闘機は地上管制との連絡やレーダー解析のため、副操縦士が必須である。複座戦闘機として力不足であったブリストル・ブレニムにかわり、ブリストル・ボーファイターが導入された。レーダー基地や、監視軍団から適宜情報が入ってくる。すると眼下の巨大な地図上に、襲い来るドイツ機の現在地と規模が時々刻々、一目でわかるように示されていく。イギリスの士気は保たれ、戦争経済に与える損害も食い止めることができた。
そのころベルリンでは、空爆だけではイギリスを屈服させるのはやはり無理ではないかという冷めた空気が広がりつつあった。海上作戦による飢餓こそが、イギリスに対する最も重要な武器である。まさにこの封鎖という言葉がドイツ人の復讐心に火をつけた。WW1の折、イギリス海軍が実施した海上封鎖作戦により、ドイツ帝国を襲った飢餓の記憶は、彼らの心にこびりついていた。その結果今後の対イギリス攻略作戦は、もっぱら潜水艦を主体とし、イギリスを兵糧攻めする方向に向かっていく。
10月22日フランコに対しヒトラーは言った。ドイツはすでにこの戦争に勝利した。今のイギリスは、ソ連もしくはアメリカに救ってもらおうと、ただ希望にしがみつく以外何もできない存在だ。そのアメリカはあと1年たたないと、戦争などできないほど準備不足である。イギリスの唯一の脅威は、連中が大西洋の島々を占領するとか、ドゴールの助けを借りて、世界各地の仏領植民地で騒動を起こすくらいであろう。だからこそ私はイギリスに対する広範な戦線を欲しているのである。アゾレス諸島が手に入れば、ドイツ海軍は大西洋上に一台拠点を築けるが、航続距離が6000キロメートルに及ぶ新世代の爆撃機でアメリカ東海岸を攻撃することで夢見ていた。
地中海の戦い
イギリスに宣戦したイタリア軍は英領エジプトに攻め込んだが撃退された。40年11月11日空母イラストリアスによるタラント空襲が行われ、イタリア軍艦3隻に魚雷を命中させ、カヴールは沈没した。12月9日よりのヴェーヴェル将軍、ヘンリー・ウィルソン中将の「コンパス作戦」英軍の反攻では圧勝しイタリア軍13万人が捕虜となった。しかしギリシャ救援のため、3個師団が抜かれ、英軍の進撃は止まった。この時ギリシャに派遣されたのは豪6師団とニュージーランド軍であったため、のちに物議を醸しだした。41年2月にアフリカに降り立ったエルウィン・ロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団の反抗が始まることになる。3月ロンメルは反抗を開始し4月ベンガジを奪回、パリ―少将と多数の英軍を捕虜にし、オコナー中将とニーム中将まで捕虜にした。そもそも二人の中将を乗せた車の運転手がうっかり道を間違えたのがこの不祥事の原因だった。ロンメルは英軍の要塞となっていたトブルクを包囲したものの陥落させることができず膠着状態となった。6月に反攻を行って失敗したヴェーヴェルをチャーチルは更迭しインド軍司令官に回した。チャーチルがいらだつのは、まず国民の士気を高めるために積極果敢な行動が必要という国内事情が一点、さらに今ここで強い印象を与えないと、アメリカ合衆国とルーズベルトに、当面の状況から自国を救い出してもらいたいだけで、アメリカの参戦を必死に求めるとの印象を持たれたら負けであることがあった。
1940年11月ハロルド・スターク大将はドックプランを立案した。大西洋で攻勢の準備をしつつ太平洋は守勢をとるという案である。レンドリース法が地平線上に姿を現しており、次はまず間違いなく船団護衛という段取りになるだろう。これはオレンジ計画を一変させるものであり、海軍が大西洋の脅威に対抗することとなった。1941年1月米英両国の参謀たちが話し合いの場を持った。両国陸海軍首脳部はスターク覚書の精神に基づきヨーロッパ戦役こそ死活の重要性を持つもので、独伊をまず倒さねばならぬと即座に同意した。しかしシンガポールに海軍の一部を派遣する英国の要請は拒否した。アメリカは主力を極東でなく大西洋に展開することに同意した。何よりも戦略家たちは、イギリスのアジア帝国を守るためにアメリカ人の血を流し、アメリカの資産を費やす気はなかった。
英国は武器貸与法の二位条項にある過酷な貸し付け条件の数々に衝撃を受けていた。アメリカはすでに、イギリスが保有するすべての固有財産の監査を求めていた。そして、イギリスが保有する外貨準備と金準備を使い切るまで、いかなる補助も与えてならぬと提示していた。ケープタウンにアメリカ海軍の軍艦が派遣され、同地にイギリスが保有する最後の金塊も運び去られた。繊維・化学のコートールズ、石油のロイヤルダッチシェル、家庭用品メーカーのユニリーバなどの株式をアメリカ側にバーゲン価格で売却されなければならず、しかもそれはその後市場で転売され、その差額分はすべてアメリカの国庫に入った。とはいっても反英感情から武器貸与法に批判的態度をとる人々もアメリカには相当数いた。WW1が終わった後、英仏両国が債務不律行に陥り、煮え湯を飲まされ、そのことを根に持つアメリカ人投資家もまだ多かったし、帝国主義の他国を巻き込んで自国の代わりに戦争をやらせる手並みではもはや名人級の見下げ果てたやつらと毛嫌いするアメリカ人も実に多かった。この恨みつらみは戦後も長い間尾を引くことになる。1940年という時点で、様々な武器の発注代金として、イギリスが45億ドルもを支払ってやったからこそ、アメリカは景気後退の泥沼から抜け出し、高度成長の軌道に乗り、兵器の質はその後なるほど改善されたけど、1940年当時生きるか死ぬかの瀬戸際に、イギリスが買わされたアメリカ製の各種装備品の質は低く戦況を変えるのには役立たなかったとか、英領ヴァージン諸島の見返りとして提供されたWW1期の老朽駆逐艦は大改修を経ないと洋上任務をこなせなかったとか・・・。41年3月8日武器貸与法はめでたく成立した。6月には中国にも適用されることになった。
バルカン侵攻
41年4月ドイツのギリシャ侵攻、ほんの数か月でパン一塊の値段が200万ドラクマに上昇し、ドイツ軍占領下の最初の1年に、実に4万人を超えるギリシャ人が餓死することになる。このマリータ作戦がドイツのソ連侵攻に及ぼした影響について、当初の5月から6月に延期された理由については総じて、他の原因を挙げるものが多い。しかしこの作戦によりスターリンはついに確信したのである。ドイツが今回、南方を攻めたのは、対ソ侵攻作戦ではなく、スエズ運河の獲得を狙っている何よりの証拠であると。
ドイツ国防軍最高司令部は、マルタ島への侵攻を検討したのは2月初旬だった。しかしヒトラーはクレタ島のほうを危険視した。クレタ島を拠点にすれば、ルーマニアのプロイェシュティ油田の空爆が可能になるからだ。41年5月クレタ島はドイツ軍の空挺部隊に襲われ、多くの犠牲を出しつつも占領された。
ヒトラーのユーゴ侵攻がごく短期間に成功を収めたことを受けて、スターリンはある種の保険をかけておこうと決めた。そして41年4月13日ソ連は日本と期間5年の日ソ中立条約を締結するとともに、満州国を承認した。
東アフリカ戦役
イタリア軍は英領ソマリランドを占領したが、1941年1月19日から始まった英軍の反攻では策略と計略を主眼に置いた。メサヴィ、ロイド、リースらと並んで、ウィリアム・スリム少将は旅団長として経験を積んだ。ここでゲリラ軍団を率いて目覚ましい働きをしたのがオード・ウィンゲートで、彼のギデオン部隊3000が、36000のイタリア部隊打ち負かした。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ陛下は、オード・ウィンゲートによるゲリラ戦団に率いられ首都アジスアベバに戻った。しかしイギリス政府はゲリラの成果に冷淡だった。結局この戦役で1154人の戦死者を出したものの、11月イタリア軍を降伏させて23万の捕虜を得た英軍だったが、赤痢・マラリアが蔓延し、74550人が病気となり744人が死亡した。
イラク戦役
41年4月、中東でのイギリスの影響力が弱まったのを奇貨として、イラクで親ドイツ政権が誕生した。5月2日イラク軍がファルージャ付近のイギリス空軍基地を包囲したことにより、ついに戦闘が開始された。包囲された空港からのイギリス空軍の攻撃に驚いたイラク軍は撤退し、インドからの師団で増強されたイギリス軍は快進撃を続けた。ウィリアム・スリム少将はインド第10師団長に昇格し、英軍はファルージャの戦いに勝利した。ヴィシーフランス統治下にあるシリアからイラク軍に軍需物資が補給されたが、イギリス軍の進撃を止めることはできず5月27日バクダッドへイギリス軍が進出し、31日イラクは屈服した。
シリア戦役
ヴィシー政権下のシリア・レバノンに対し、ここを基地にエジプトに攻勢をかけられることを恐れたイギリス軍により41年6月8日シリア戦役が開始された。ウィリアム・スリムはイラクからアレッポに進撃し、豪21旅団はベイルートに迫った、7月12日ヴィシー軍は降伏し、自由フランスの管理下に置かれた。
このころ、英本土ブレッチリー・パークにある諜報部隊は大きな成果を上げていた。ドイツの暗号「エニグマ」のより正確な解読に成功したのである。コンピューターを発明したともいわれる天才数学者アラン・チューリングは、海軍のエニグマを破るのに役立った暗号解読機の設計につながった当初の考え方の多くを提供した。解読された暗号情報は「ウルトラ」シークレット情報として、政府や軍の司令部に提供された。「ウルトラ」傍受・解読システムの改良により戦場にいる現地司令官に初めて、ドイツ国防軍の戦術的動向が直接警告できるようになったのである。
一方、日本の外務省では39年後半になると、97式欧文印字機という新型暗号機(パープルとして知られる)がベルリン、ローマ、ロンドンと東京間に導入されて、英国の暗号技師たちに解読不可能となった。イギリスの傍受人員は極めて不足し、資料は打ち捨てられた。一方アメリカはパープルの解読に成功していた。これは「マジック」情報として知られる。40年8月31日に米国は暗号について協力を申し出、12月に暫定同意が結ばれ、英国は限定的ながら「エニグマ」や空軍暗号まで解読に成功して驚異的な成果を教え、解読手段として使われた「ボンブ」と呼ばれる初期のコンピューターとともに提供された。見返りに米国より、41年2月にはパープル解読のための機械のうち1台を英国に寄贈、3月にはロンドン、バーグリー外の英外交暗号解読センターでパープル暗号の解読が始まった。大戦中を通じて、大島駐独大使がヒトラーとの会談内容を本国に伝える電文が、連合国側に解読されていた。
一方、日本海軍暗号は40年12月により高度なJN-25bに、さらに41年に入るとJN-25B7、真珠湾直前にはJN-25B8を導入した。精巧で超高度な暗号化技術を用い、連合国の暗号技師らにとってかなり困難であった。海軍暗号が解読されるのは、開戦後の42年4月まで待たねばならない。
独ソ関係悪化
酸化鉄とアルミニウムの細粉を混合し、塩素酸カリウムで着火させると、酸化鉄に含まれる酸素とアルミニウムが激しく反応する。酸化鉄の還元熱とアルミニウムの酸化熱が重なって、1600度以上の高温を発して、鉄をも溶かす。これはテルミットと呼ばれた。このテルミットの高熱に着目し、最初に焼夷弾に使ったのはドイツである。1600度以上になるので、消火しようと水をかけると水素爆発が起きて被害が拡大する。これを投下されたイギリスは、すぐさま模倣して4ポンド、25ポンドのテルミット弾とし、これをドイツに夜間爆撃した。マグネシウムを使用した焼夷弾はマグネトロン弾と称されていた。木造家屋が多い日本に対する爆弾は、テルミットのほかに、ナフサをパーム(ヤシ)油で鹸化したナパーム内蔵の焼夷弾が使われた。TNTに硝酸アンモニウムを添加し、爆弾を大型化させることに成功したアマトールを開発したのはイギリスで、これを「ブロック・バスター」と呼ばれる2000-12000ポンドの大型爆弾とし、空中で炸裂させ、その爆風で建物の屋根をはぎ取り、そこにテルミット焼夷弾を潜り込ませる戦法で爆撃した。
ザ・ブリッツと呼ばれる主要都市への空爆が冬になってもなお続けられた。11月13日イギリス「爆撃機軍団」はチャーチルの命に従い、ベルリンに反撃を加えた。ヴャチェスラフ・モロトフが訪独したことに対しての処置だった。このベルリン会談で、ドイツは独伊日ソ四国連合構想とその勢力圏分割案「リッペンドロップ腹案」をソ連側に提示している。リッベントロップ外相はイギリスの敗北は確実で南方のインドやペルシア湾を攻撃し、大英帝国の分け前を分捕ればいいと促した。一方モロトフは、フィンランドは、前年の約束では、ソビエト圏に入ることになっていたのに、ドイツはその約束を玻っていた、その非をついた。
チャーチルは、このときを狙って、ベルリンを爆撃するように命令した。ベルリンには空襲警報が発せられ、モロトフは、リッペントロップの案内で、ドイツ外務省の地下防空壕に移り、会談を続けた。リッベントロップは、なおもイギリス敗北後の情勢について話を続けたが、モロトフは皮肉な口調でいった。「イギリスには、もはや戦う力がないとするあなたのお話はよくわかった。しかし、いまペルリンの上空を飛んで爆弾を落としている飛行機は、一体どこの国のものです?」
スターリンは、帰国したモロトフから報告をうけると、三国同盟加入のドイツ提案を次の四条件がみたされるなら承諾する、と11月27日にヒトラーあてに回答した。
①ドイツ軍のフィンランド撤兵。ただしニッケルや木材などはドイツへ輸出する。 ②数か月以内にソビエトとブルガリアの間に相互援助協定をつくり、ボスポラス、ダーダネルス海峡近くにソビエトの基地をつくる。 ③ペルシャ湾方面をソビエトの勢力圏とする。 ④日本は北カラフトの石炭石油利権を放棄する。 |
スターリンは、イギリスとの戦いに手一杯のヒトラーがこの条件をのむだろう、と考えていたようである。
この条件はヒトラーから見れば、到底許容できない内容だった。特にフィンランド問題では独ソの利害が鋭く対立していた。12月8日ヒトラーはバルバロッサ作戦指令を下した。
ドイツが貴国を攻撃しようとしております! | ほう、それはどういう根拠でいわれるのかな? | ||
それはウルト…、コホン、とある信頼できる情報源からですぞ。 | (ふん、イギリス得意のささやき戦術だな、独ソを争わせようとしたいのだろう) |
イギリス側はソ連に対し、ドイツの対ソ侵攻にその旨順次警告を発してきたのだが、スターリンは一蹴してしまった。その年の初め、ヒトラーからの親書には、ドイツ軍の西方移動は単に英爆撃機の航続距離の外側に部隊を置くための措置に過ぎないとあり、それで納得していた。リッペンドロップ外相はスターリンのチャーチルに対する猜疑心を巧みについて見せ、おかげでイギリス側がバルバロッサ作戦についていくら警告しても、スターリンには逆効果しか生まなかった。スターリンは、独ソが戦争になり、ファシズムと共産主義が共倒れになるのを狙った資本主義国の陰謀があると信じており、その誘いには一切乗るつもりがなかった。独ソ不可侵条約が機能していた期間中、26000トンのクロム、14万トンのマンガン、200万トンを超える石油が供給され、イギリスの封鎖をかいくぐり東南アジアで調達された食料や燃料、綿花や各種の金属までドイツ側にわたるケースが増えていった。
日ソ中立条約の成立
41年2月下旬大島駐独大使から、独ソ関係悪化を示唆する報告が届いた。4月1日、大島はヒトラーがソ連邦の態度を痛罵し、現在150個師団の兵力をソ連に対し配置している旨の発言を行ったことを日本に伝えた。大島はベルリンからモスクワに向かう松岡に、独ソ開戦の可能性を指摘、日ソ不可侵条約の締結を思いとどまるよう発言した。だが松岡は大島の意見を受け入れなかった。4月13日日ソ中立条約が成立した。
41年春には「ウルトラ」によってドイツの多くの師団がバルカン半島に移ったことが分かった。6月4日の大島の日本政府への電文で、英政府はドイツが間違いなくソ連攻撃を踏み出すという最後の確信を得ることができた。英政府暗号研修所に統合された英国と違って、米国では陸海軍がばらばらだった。海軍の暗号解読部門と協力するのはようやく42年2月になってからだった。
1941年には中国戦線は膠着状態となっていた。日本は中国北部や沿岸部を占領したが、国民政府は重慶に首都を疎開させ、中国共産党は陝西に移動した。日本軍は鉄道沿線と主要都市は支配したが、広大な中国の農村部には支配が及ばなかった。また1940年3月汪兆銘の政府が樹立されたが、中国国民の大多数の支持は得られなかった。しかし国民党と中国共産党の協力も、皖南事変により効果的なものではなくなっていた。日本軍は上海、武漢、重慶などの大都市に戦略爆撃を行い、特に重慶では1938年2月より1943年8月まで行われた爆撃では、国民党政府の防空政策の不備もありおびただしい民間人死者を出し、都市を荒廃させた。独ソ戦により、日本軍が北方で再び兵力増強に動くことを恐れたスターリンは中国共産党に大規模なゲリラ戦を展開するように要請した。毛沢東は了解したと請け合ったものの、まったく何もやらなかった。1940年の百団作戦で日本側が支配する鉄道や鉱山に相当程度の打撃を与えることはできたものの、共産党にも多大な犠牲を強いた作戦であり、国民党に漁夫の利を得させたからである。共産党はアヘンの販売により国民党と戦う軍資金を作っていた。一方1941年北支那方面軍司令官岡村寧次大将は共産党が活動基盤とする地域に三光と呼ばれたパルチザン掃討作戦を実施した。日本軍は自軍が奪いつくせなかった収穫物は、すべて焼却処分にし、強制労働、飢餓が中国共産党活動基盤地域を襲い、人口は4400万人から2500万人に激減した。日ソ中立条約後もソ連の軍顧問団の派遣は続けられ、ヴァシリー・チェイコフ将軍の元およソ1500人もの赤軍将校が中国において活動し、スペイン内戦の時と同様実戦経験を積んだり、新たな兵器システムの評価を行った。1941年の長沙作戦はソ連のチェイコフ将軍の考案した範ゲリラ式戦闘が功を奏し、日本軍は相手方を上回る犠牲を出して敗北した。イギリスもまた国民党のゲリラ分遣隊に武器を提供したり、訓練を施したり、諜報活動を行った。アメリカも退役軍人のクレア・シェンノートの元、ボランティア部隊のフライング・タイガースなど側面支援を行った。
日米交渉の開始
1940年1月26日の日米通商航海条約の失効以後、日米は無条約状態に突入していた。アメリカは三国同盟及びソ連のユーラシアブロック出現に脅威を感じて妥協に傾き、日米交渉開始の諒解案について非公式に野村大使と交渉、提案を進めた。日ソ中立条約締結4日後の41年4月17日、野村吉三郎駐米大使から「日米諒解案」が打電されてきた。これは両国の友好関係の回復を目指す全般的協定を締結しようとする趣旨のもので、アメリカの対独参戦時の日本側対応(自動参戦しない)と引き換えに、アメリカが「中国による満州国承認と中国からの日本軍の撤兵」などを条件に日中戦争の和平を仲介し、日本の資源確保に協力し、日米両国の通商関係を正常化するという内容だった。しかし野村大使はハルの4原則(領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状維持)を本国に意図的に伝えなかった。
この諒解案は陸軍の武藤、田中においても、華北への駐兵が保証されないことに不安を感じつつも、歓迎された。この諒解案は松岡外相不在時に作成されたが、松岡外相が修正し5月12日米国に提案された。6月12日の米側回答は米参戦の問題、日中間の協定による中国からの日本の撤兵、日併合、満州国に関する日中間の交渉などが挙げられており、陸軍の武藤らには到底受け入れられない内容となっていた。独ソ開戦の確信を得た米側が態度を硬化させたのである。
イギリス諜報部が日米と異なるのは、情報を狭い範囲でなく、広く配布し(漏洩リスクが高まるものの)、検討を広く行い、政策に効果的に反映させた。一方米国ではこの時期は大統領もマジックに目を通しておらずハル長官と一部の軍官のみであった。また、英国の外交官が持っていた機密活動費がないなど、外交官や駐在武官のスパイ活動は禁止されており、情報はもっぱら公開された新聞や外交官が招かれる見学旅行などによった。1937年に日中戦争がはじまると日本に病的なスパイ警戒が高まりだし、以前は公開されていたようなものもベールに覆われだした。
戦前の日本でイギリス人スパイは活躍できなかった。憲兵の取り締まりが厳しく、1941年までにイギリス人ジャーナリスト、コックスをはじめ十数名の在日イギリス人はすべて逮捕された。在日武官ピゴットは日本のスパイと本国に疑われたくらいだった。イギリスはアジアにおける情報、治安活動が人員不足により慢性病的状態であった。しかし香港を中心とした通信傍受と暗号解読は比較的うまくいっており、満州事変時の柳条湖事件が事前に仕組まれていたことは、通信傍受から英側には明らかに読み取れた。日本は超国家主義とスパイ強迫観念にとらわれており、日本の一般市民のスパイ強迫観念が強まって、外国人はすべて恐るべき監視下に置かれた。公開された場での合法的な偵察に活動を限定したものの、38年10月にはTAピーコック中尉が日本で行方不明となり、40年7月にはスパイ容疑で15人の英国人が逮捕された。逮捕3日後コックスは尋問中に死亡した、コックスの遺体の腕には20本の注射の跡があった。
英国のスパイ活動は全くうまくいかず、英国の得る情報は海軍暗号と外務暗号に偏っていた。一方、イタリアの香港駐在の外交団が、日本に対し傍受警戒を呼び掛けていたが、日本は自分たちの暗号システムに自信過剰で、結果的に日本軍隊にありきたりの警戒を呼び掛けただけに終わった。それでも、日本海軍は時折暗号を変更し、情報入手が一時的に途絶えてしまう事態が起きた。1939年にはついに安全なJN-25暗号に切り替えた。同じころ、シンガポールなどの在留日系スパイ活動、妨害活動を自由に行える可能性がシンガポール総督によりロンドンに警告されたが、欧州と中東を優先させる傾向の元、対応不能と放置された。
英国は現地語をマスターした分析官が日本の動向について優れた報告をあげたにもかかわらず、そうした予測はほとんど無視された。イギリス情報部は日本軍の精強さ、航空戦力の優秀さを報告していたが、極東英軍司令官のポパムやパーシバルはは中国とソ連で手いっぱいで弱体と考え、また日本軍を見くびっていた。英国がマレーに置いていた兵力は未熟な軍隊であり、落日の大英帝国の遺物のような人たちだった。マレーには戦車も新型航空機もなかった。
一方、日本のスパイ活動は大きな成果を上げていた。早くも1938年段階で各地の大きな在留邦人社会を利用して、日本が大掛かりな秘密工作が東南アジア全域で進んでいるのは明らかであった。しかしそうした動きはあちこちで散漫な形で進んでおり、日本人を一斉に収容所にでも入れない限り対応はむつかしかった。東南アジア一帯で在留邦人が大規模なスパイ網を形成しているのは常識となり、フィリピンのケソン大統領が42年になって、自分の側近のうち何年も務めていてくれた二人が、実は日本陸軍の大尉だったことに気づいたのが一例だ。1939年6月にシンガポールで行われた英仏戦略協議では、その内容を会議からたった2日後の7月29日、情報工作員からの報告を打電する日本の領事無線を傍受した「日本と開戦となった場合、香港は維持できないので、英仏艦隊はシンガポールに集中することになる。これは極東でのフランスの権益放棄を意味することになる。それがためにほんとの正面衝突は極力避けねばならない」。イギリスは悄然とした。情報源は香港政庁情報局で働くリュー・ウェンティの友人とされたイタリアの情報機関が使っていた人物とみられた。40年フランスの降伏とともに、タイ政府もフランスの弱体化に目を付け、41年初めにヴィシー政権と国境紛争を起こした。シンガポール総督であった、サー・シェントン・トマスは日本の介入を恐れ英国主導で秘密介入を行ったが、日本は突然脅迫的な手段でこの紛争に調停案を押し付けてきた。「秘密」であるはずの仲介工作に関する日本側の情報源は、タイではなく、シンガポールで得ていることが分かった。驚くべきことに、日本がスパイとして雇った英軍将校らは、マレー作戦が始まっても日本に協力していくものさえいた。代表的な例はパトリック・ヒーナン大佐だ。マレー作戦が始まると、小規模な英空軍の移動や展開などの運用の詳細を隠し持っていた無線機で連絡した。
バンコクは日本の情報活動の中心となり、1941年には50人の外交官が活動し、英領マラヤとの国境に近い蔵地峡に、複数の新しい領事館が設けられた。イギリス諜報部は40年8月、実はタイは日本に取引を持ち掛け、かねてからほしかった隣のフランス領インドシナの一部をもらおうとしていたのが明らかになった。9月18日には日本の陸軍参謀本部はバンコク駐留の妨害活動部隊を作り、現地の情報活動責任者であった田村浩大佐は藤原岩市少佐とインド独立連盟のブリタム・シンに引き合わせた。41年を通じ、日本のラジオ局を通じ、汎アジア主義宣伝工作を強力に推し進めた。日本の宣伝工作活動は見事なものであった。のちにマレー作戦が始まると、英印軍の一部の部隊は日本軍に進んで投降することになる。44年4月、英国統合情報参謀本部は捕獲文書や捕虜尋問に基づいた資料を使って、日本のマレー作戦を振り返る研究をまとめた。「日本の成功の最も重要な要素を一つだけ挙げるとすれば、何年にもわたって研究を重ねて得た作戦地域に対する詳細な知識である」これは実に決まりの悪いことであり、チャーチルが戦後に実施すると約束していたシンガポール陥落の原因調査をやめることにした、理由の一端が説明できそうだ。日本側はスパイ活動がうまくいっていたので、暗号解読にそれほど切迫した必要を感じていなかった。
また独伊との連携も効果を上げていた。商船オードメン号はアフリカに駐在するイタリアの無線傍受部隊に捕捉され、インド洋でオランダ商戦を装って航海中のドイツの高速船アトランティス号に伝えられた。アトランティスは40年11月11日にこの獲物を撃沈した。大金庫にはシンガポール向け海峡ドル600万ドルに加え、ブルック・ポパム英極東軍司令官あての戦時内閣報告書が入っていた「シンガポールの問題点を詳細に指摘し、本国の軍事参謀が大いに戸惑っている、しかし欧州・中東の戦況による制約から、この問題に対応できない」と極秘に明かしていた。アトランティス号は40年12月5日に日本に到着し直ちにベルリンに移送され、独武官ヴェネガー少将から海軍軍令部次長近藤信竹中将に手渡されている。この情報で英国統合参謀本部のプランによれば、日本が仏印に侵攻しても武力的抵抗を行わないとしていたため、日本の南進を促した。さらにこの情報が日本軍にシンガポール攻略の自信を与え、真珠湾の同時攻撃する挙に出ることを検討させるきっかけになったという。戦後になって、英国特別防諜部隊が残された文書を求めてベルリンの廃墟を丁寧に掘り返し、失われた報告書の原本を見つけた。表紙にはヒトラー自身の直筆の筆跡で所見が走り書きされていた「これは第一線の重要文書であり、東京のドイツ海軍駐在部隊のもとに送るべし。」
1941年6月22日バルバロッサ作戦が発動された。ソ連軍は敗退し、何百万人もの兵が死亡し、また捕虜となった。チャーチルは直ちにソ連に対し技術・経済の援助を約束した。「ウルトラ」情報も出所についてしかるべき偽装を施したうえで、ソ連側にも提供されるようになった。
イギリスのレンドリースは直ちに開始され、本国だけで400万トンに及ぶものだった。ドイツ軍がソ連を侵攻してから数週間以内に最初の英国救援隊がムルマンスクへ出発し9月に到着した。それは港の即時の防空を提供し、ソ連パイロットを訓練するために、550航空人員と40のハリケーンを運んだ。とはいえチャーチルが安請け合いした約束量よりずっと少なく、スターリンの不信を招いた。1941年末までに、マチルダ、バレンタイン等の戦車の初期出荷は、赤軍のために生産された中重戦車の25%以上を占め、12月のモスクワ戦の重及び中戦車の30〜40パーセントを構成した。1945年5月までに、英国はソ連に3,000以上のハリケーン、4,000以上の他の航空機、27の海軍船舶、5,218の戦車(カナダから1,380のバレンタインを含む)、5000 +対戦車砲、救急車とトラック4,020台、115億ポンド相当の航空機エンジン、1,474レーダー、4,338ラジオセット、600型海軍レーダーとソナーセット、数百の海軍銃、ブーツの1500万ペア 食糧や医療用品を含む戦争用物質をレンドリースした。1942年6月27日の英ソ連軍需品協定によれば、戦争中に英国からソ連に送られた軍事援助は完全に無料だった。
イラン戦役
多数のドイツ使節団がテヘランに構えており、英ソは8月17日ドイツの使節団の国外追放と鉄道の使用を要求した。英国の実力行使を明言した最後通牒恫喝要求に、イラン国王レザー・シャーはルーズベルトに仲介を求めた。ルーズベルトとチャーチルは8月14日に大西洋憲章を発表し、領土の不拡大・不変更、民族自決、自由な貿易などをうたっていたのである。しかしルーズベルトの返書は連合国側に協力するよう要望するにべのないものだった。8月25日英軍は宣戦布告なしに奇襲侵攻した。エドワード・キナンやウィリアム・スリムの指令する英軍により、アバダンの製油所は1日で占領され、4日で片が付いた。ペルシアは屈服し、あらゆる抵抗の停止、ドイツ人の追放、戦争における中立、ロシアへの戦争物資輸送のためペルシア回廊を使用することを飲まされた。
8月にチャーチルとルーズベルトは会談を行った。9月5日チャーチル経由でスターリンからの書簡を受け取った。それには独ソ戦によるソ連の惨状を綿密につづったもので、ソ連は死滅寸前の敗北の危機にある旨が記されていた。破局を防ぐためには、ドイツの背後に第二戦線を設ける必要があること、またアルミニウム、航空機、戦車などの緊急援助がスターリンからの要請だった。これがないと、ソ連は長期抗戦力戦力を失い敗北するとしていた。ソ連は鉱産物に恵まれた国だが、当時はボーキサイトにネックがあった。41年6月から44年4月までにアメリカは9万9000トン、イギリスは3万5000トン、カナダは3万6000トンのアルミニウム地金をソ連に送り込んだ。これは大戦中に日本が生産したアルミニウムの40%以上に相当する。ルーズベルトによる対ソ支援は、物量の面で惜しみないだけでなく、純粋に利他的動機に裏打ちされていた。レンドリース法をもとにソ連に援助を与えることは手続きに時間がかかったが、いったん始まってしまえばその量も規模も途方もないもので、ソ連の最終的勝利に大きく貢献した(ロシアの大半の歴史家は、この事実を認めることを、いまだに嫌っている)。戦争の後半、赤軍があれだけ進軍を実現できたのは、アメリカ製のジープとトラックのおかげである。
戦争中のソ連へのレンドリースは、アメリカだけで1630万トンに及ぶものだった。最短でありレニングラードやモスクワ戦場への直接ルートである北極ルートは、それはまた最も危険だった。米国からだけで396万トンが出荷され、93%が安全に到着したのに対し、7%が失われた。太平洋ルートは1941年8月に開港したが、真珠湾攻撃による日米間の敵対行為の影響を受けた。1941年12月以降、ソビエト船のみが使用され、日本とソ連が互いに厳密な中立を見ているので、非軍事品のみを輸送することができた。それにもかかわらず、824万トンが輸送された。ペルシア回廊は1942年までは完全に動作せず、最長ルートだったが、最も安全なルートだった。軍事品も輸送できたこのルートでの連合国の補給活動は莫大なもので、アメリカだけで422万トン、英国・英領インド・カナダ等英連邦も合計で800万トンに達した。ペルシア回廊は、コーカサスに対するドイツの攻撃に対し大きな役割を果たした。
日本軍部のほとんどの指導者は独ソ戦の急転に驚愕し、ヒトラーが相談しなかったことに憤慨した。田中新一作戦部長は、独ソ戦によって三国同盟と対ソ提携の連携は消失し、日米交渉への日ソ中立締結効果も一気に弱まり、日独による対米けん制力も急激に低下、英米ソによる連携にて日本は大きな圧力を受けることになるとみていた。そのような国際的な窮地から脱却する道は、ソ連を打倒するしかない。そしてドイツをふたたびイギリス屈服に向かわせ、日本の南方武力公使とともに大英帝国を崩壊に導き、アメリカを孤立させる戦略を考え、「関東軍特殊演習」や南部仏印進駐など、そのための方策を打ち出していくことになる。一方武藤軍務局長は、ソ連は領土が広く人口が多く、共産党による一党独裁の個人より全体優先の素晴らしい政治組織などから、容易には屈服しないとみていた。田中新一の「好機」論を警戒してかかったのである。武藤ら多くの陸軍指導者および海軍は南進を続けるべきと考え、南部仏印進駐に賛同した。南進すれば日本が必要とする資源を確保でき、絶対不敗の体制を固めることができる、と考えていた。
田中作戦部長は関特演を推進した。東條陸相の承認の下、関特演の動員が7月6日と16日に分けて発せられた。総兵力85万、馬15万匹、徴用船90万トンに上る大動員が実施されたのである。極東ソ連軍の半減などの条件が整えば、対ソ武力行使を実施する考えだった。だが極東ソ連軍の西方対独戦線への移動は田中の期待通りには進まなかった。7月中旬の段階で西送されたのは開戦前の30師団のうち5個師団程度、航空機・戦車その他の機甲師団は3分の1程度にとどまっていた。
1935年より、日本はオランダ領東インド進出を目指していた。同地の石油は極めて重要であった。日本は1940年にドイツに本土を占領されている蘭印に圧力をかけ資源の提供を求めた(第二次日蘭会商)。石油をそれまでの輸入量65万トン/年に対し、380万トンを要求し、他の必要物資の自由な開発、納入も要求したが、1940年10月交渉では200万トンが認められたのみであった。さらにゴム、マンガンの輸出量がドイツへの輸出を警戒されたため要求量より大幅に少なくされた。一方、オランダ亡命政府のある英国ではドイツに無差別爆撃を食らっている最中であり、現状の倍以上の膨大な石油輸出容認は問題とされ、蘭印を「裏切り者」と称された。日本側は亡命政権のある英国に圧力をかけ、1941年5月英クレーギー大使との会談の席上、松岡洋右外相は断じた。
松岡外相「蘭印の如き弱小国が日本に対してドイツに再輸出しないとの保証を要求するとは、大国日本に対するヒューミリエーション(屈辱)なり!。日本は断じて保証を与えず」 |
情勢は変わらず、1941年6月日本は蘭側へ交渉打ち切りを通告した。
松岡外相は独ソ開戦後、直ちにドイツと共同してソ連を攻撃することを主張した。また日米交渉の打ち切りを強く主張した。しかし近衞首相や陸海軍とも対立した。そこで近衛はいったん総辞職し、松岡を排除する形で7月18日第三次近衞内閣を組閣した(当時首相に閣僚罷免権はなかった)。松岡は独自の政治勢力を持っておらず、その発言力は近衛首相の信認によっていた。したがって、この後松岡は急速に政治的影響力を失っていく。
南仏印進駐
1941年6月24日南方作戦が閣議決定され、海軍は対英米戦を辞さずと豪語した。7月2日の御前会議で正式に南進の方針が確認された。7月4日イーデン外相は東京からベルリンへの暗号解読情報に接し、アメリカに共同警告に申し入れたが動かず、英国単独の警告となった。イーデン外相は上海発の情報として「デイリーテレグラフ紙」に日本の南進の情報をリークし、その記事を自ら取り上げてクレイギーに指示、7月5日クレイギー大使は大橋忠一外務次官を訪問し、イギリスの懸念を伝えた「右が事実なら英国としては極めてシーリアスな問題と考えうる」。しかしアメリカの参加しないこの警告は日本の南進の抑止には何ら役に立たなかった。東京からバンコクへの訓電は南仏印進駐を占領と表現し、英米が介入すれば武力衝突も辞さずとした。対日抑止が不可能となった英国はアメリカと協調し、アメリカが対日制裁を行った後にアメリカより控えめに行う方針とした。
日本は情報の出どころにショックを受け、英国諜報網のスパイを恐れ、松岡外相は、東京で交渉を行って情報が英米に漏れることを恐れ、パリでの交渉を指示、パリでの交渉のため東京から逐一訓電を送る事態とない、かえって英米に筒抜けになった。7月9日ハリファクス駐米英大使がウェルズ国務次官と話し合い、ウェルズは大統領に対日制裁を提案した。21日には英米で対日共同制裁のコンセンサスが成立した。
7月14日駐仏日本大使は、ヴィシー政府に、航空基地の建設とサイゴンほかの港湾設備と海軍基地としての使用管理、必要な兵力駐屯などを要求する。さらに19日フランス側の同意・不同意にかかわらず、24日には進駐を実力で開始するとの最終的回答要求を示した。21日フランスはやむなく進駐を受諾した。7月26日アメリカは在米日本資産凍結を発表、24日アメリカは仏印の中立化を提示し、石油禁輸を警告したが、かまわず7月28日進駐し、航空基地をはじめとした各種軍事施設を設営した。これによって東南アジアのイギリス最大の根拠地シンガポールを直接空爆圏内に収め、さらなる南方作戦のための艦隊基地を獲得したのである。アメリカにより8月1日石油の禁輸が決定された。同時にダグラス・マッカーサーを現役復帰させ、米極東陸軍司令官に任命した。イギリスも7月27日に日英通商航海条約の破棄を宣告し、イギリス連邦よりも経済制裁が発動された。結果、オーストラリア、イギリス、アメリカ、亡命オランダ政府いずれも、継戦に必要である、鉄鉱石、石油などの販売を停止することになった。日本政府は、これらの禁輸を侵略行為とみなし、軍の宣伝の影響でメディアは禁輸措置をABCD包囲網と名付けた。8月24日チャーチルは日本の南進が戦争を招くことを警告した。日本は英国クレイギーに「南進は資源のためであってイギリスと対立するためでない」と説明したが、ドイツには「進駐は英米に対してより圧力をかける」と説明し、これが英米に解読されていた。英外務省政治情報部「ドイツに伝えたのと全く異なる話ではないか!」。日本外交は組織の論理、陸、海軍、外務省の妥協の産物であり、どこに日本の真意があるかわかりにくかった。
日本の南部仏印進駐の動きを知ったハル国務長官は7月23日ウェルズ国務次官に「日米交渉の最中にこういくことをしたのだから交渉を継続する基礎はなくなったと思う」と述べた。同日ウェルズは野村と会談し、ここに日米諒解案に基づく日米交渉は打ち切られた。近衞内閣は仏印中立化案に対して、8月初め再び包括的な対米提案を作成した。しかし進駐を進めながらでは当然相手にされなかった。近衛はあきらめなかった。6月の「対南方施策要綱」で全面的な対日禁輸措置を受けた場合は南方武力行使すると決められていた。近衞は日米戦争は絶対に回避すべきだと考えており、米にハワイでの首脳会談を提案した。直接首脳会談により、陸海軍幕僚の介入を排除して、中国からの撤兵や三国同盟の実質的破棄など、思い切った対米譲歩を行い、陸海軍の頭越しに直接天皇の裁可を受けて承認、決定するというものだった。9月3日アメリカから近衞提案に対する回答が提示され、趣旨として賛成であるとしながらも、会談開催に先立ち、これまでの懸案事項に日米間に一定の合意が必要だとしていた。合意が必要とされた基本的事項の一つとしてハル4原則が挙げられていた。さらに「特定の根本問題」として、中国撤兵問題、三国同盟問題、通称無差別原則の問題なども示された。この段階で近衞の意図は水泡に帰したといえた。日本政府はアメリカの回答を受け、改めて対米提案の作成を始め、陸海軍の意見も含めた包括的な総合整理案の作成を進めていく。
なお田中作戦部長は計画を断念せず対ソ武力行使を実施しようとしたが、南仏印進駐に伴う石油対日禁輸に伴い、参謀本部は対ソ武力行使を断念する方針を決定した。関特演は独ソ戦の苦戦が伝えられソ連の屈服を恐れ大量の援助を行っていたアメリカ・イギリスにも強い危機感を抱かせていたのである。石油禁輸は日本の対米開戦の危険をはらむものであったし、アメリカの対日戦準備は未完成な状態であった。にもかかわらずソ連軍の崩壊を食い止めることのほうがが緊縛の課題であり、ルーズベルト大統領も禁輸に同意せざるを得なかったのである。
シンガポールはほぼもぬけの殻だった。英海軍は大西洋と地中海の戦いに割かれ、北極海においてもロシア向け補給物資を積んでムルマンスクを目指す船団護衛をこなさなければならず、極東方面に艦隊を派遣する余裕などなかったのである。さらにチャーチルがソ連支援を明言したことにより、イギリス極東司令部はそのあおりを食って、近代的な航空機、戦車、その他諸処の装備が徹底的に不足していた。シンガポール防衛の放棄は豪州を激怒させており、チャーチルは何らかの対応を取らざるを得なくなっていた。
田中ら参謀本部は北方武力行使の延期を決定した8月9日即日、11月末を目標に南方への対米作戦準備を促進する「帝国陸軍作戦要綱」を決定し、8月13日には「南方作戦構想陸軍案」をまとめた。それは12月初旬に開戦し、翌年5月までに香港・マレー半島・シンガポール・ボルネオなどの英領、米領フィリピン・グアム、蘭印の攻略を完成する。開戦に向け9月中旬から11月末までに必要な兵力の動員と集中を行い、輸送用船舶150万トンを重用する、などの方針を内容としていた。海軍は石油禁輸によって窮地に立ち「帝国国策遂行方針」を作成し8月16日陸軍に提示した。その内容は10月中旬をめどとして外交的妥協が成立しない場合実力発動の措置をとるとするものだった。田中新一はこれを受け、戦争指導班にも即時戦争決意を確立する必要があると強硬に主張した。田中は戦争決意が主で、外交は従だとの見地に立っており、田中の容認できる内容での外交的妥結の可能性はほぼなく、したがって対米交渉は開戦企図を秘匿するための「偽装」外交にとどめ、戦略としては戦争一本に絞るべきとの意見だった。即時戦争決意案は陸軍省に提示されたが、武藤らは戦争決意に難色を示し、両者の会談により8月25日陸軍案がまとめられた。その骨子は
①対英米戦争を決意し10月下旬めどに戦争準備を整備。この間外交で手段を尽くし要求貫徹に努める。
②9月下旬に至っても要求が貫徹し得ない場合は対英米蘭開戦を決意する、というものだった。
8月30日陸海軍部局長会議が開かれ、議論の末、9月2日「帝国国策遂行要領」陸海軍案が決定された。変更点は「決意」が「辞せざる決意のもとに」に変更され、開戦決意の時期が9月下旬から10月上旬となったことである。9月3日大本営政府連絡会議が開かれ、御前会議に提案する国策の原案が承認された。そこで陸海軍案の「要求が貫徹できない場合」が「要求を貫徹する目途のない場合」に修正された。9月5日閣議決定され、9月6日御前会議が開かれ、41年9月6日の重大な御前会議で、永野海軍軍令部長は早いうちにこちらから先手で戦争を仕掛ければ、米英連合会軍を破ることができ、南西太平洋の資源地帯を占領し、長期戦の基礎ができる。今なら2年分の600万トンの石油があると早期開戦を主張、閣議決定「帝国国策遂行要領」が承認された。この決定はその後の日本にとって極めて重大な意味を持つものになる。
41年9月12日、山本は近衛首相に会い、前年9月の時と同じように聞かれた。
近衛文麿首相「万一交渉がまとまらなかった場合、日米戦での海軍の見通しはどうですか」 | 山本五十六「ぜひ私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れる。しかし、その先のことは、まったく保証できぬ。もし戦争になったら、私は太平洋を縦横に飛び回って決死の戦をするつもりです。総理も死ぬ覚悟で一つ、交渉にあたっていただきたい。」 |
1年前と違うのは期間が半年長くなり、楽観的となり、山本が真珠湾奇襲作戦にのめりこんでいったことがわかる。10月11日には、各指揮官を前にして山本は「私が連合艦隊司令長官である限り、ハワイ作戦はやる」異論は一切許さないと強い口調で申し渡した。大西や源田は、敵の意表に出なければ成功しない、機密保持が第一要件であり、投機的すぎると反対したが、奇襲による外交的・政略的なまずさについて指摘するものは皆無だった。山本は嶋田に手紙を書き、米国海軍および米国民をして物心ともに当分断ち難きまでの痛撃を加えることを主張、逆に米国機動部隊による日本本土空襲で全国が大騒ぎになることをひどく恐れている。山本は大航空兵力でハワイの米国艦隊をたたけば、アメリカは物心とも当分立ち上がれなくなり、南方作戦はスムーズにいくし、日本本土も空襲されずに済むということを強調した。嶋田は「山本は戦争反対のようなことを言っているが、結局真珠湾攻撃という大博打を打ってみたいのだ」とみて許可した。
8月9日、チャーチルはニューファンドランドでルーズベルトと直接会談した。14日に有名な太平洋憲章が発表され、英米の協力体制を世界に向けて誇示した。東アフリカ、中東の枢軸はことごとく英軍に敗北し、海上封鎖もアメリカの支援により完全ではなく、英独航空戦も次第にイギリス優位に傾ていた。ドイツは日本にシンガポールへの攻撃をせかしていた。対して日本はドイツに対米宣戦を要請していたが、8月23日ベルリンでディートリッヒ独親衛隊中将が大島独大使に、ヒトラーが日米戦争に際には対米宣戦布告を行う用意があることを伝えた。そしてこれは英国に傍受されていた。このことが英国の対日強硬路線に影響したと考えられる。日米開戦となれば、アメリカを対独戦に巻き込むことができるのだ。
8月24日チャーチルは日米交渉がうまくいくことを祈りつつも、期待を打ち砕かれた時ためらいなくアメリカ側に立つと宣言した。英国海軍は非常にためらったのち、シンガポールにあるレパルスの僚艦として、プリンス・オブ・ウェールズの派遣に同意した。空母インドミタブルは西インド諸島における航試運転の際に座礁のために損傷し合同できず、他の空母は欧州情勢から極東に派遣できなかった。英海軍は戦略的に意味のないこの派遣に大反対だったが、チャーチルやイーデン外相は政治的な意味を見出していた。シンガポールの兵力増強がようやく始まった。英国の態度は硬化し、日本との関係を犠牲にしてもアメリカに追従するようになった。11月10日、チャーチルはアメリカが日本との戦争に巻き込まれた場合、イギリスは一時間以内に対日宣戦布告をするだろうと宣言した。
きっと情勢が変わって、軍部の支持は落ちます。国民は日中戦争にうんざりしていて、自給体制の追及は虚妄であると気づきます。貴国の妥協を… | クレーギー英大使 |
(´・ω・`)「本国政府の肚はお分かりのように、すでに決まっており、もはや説得のため自分の働く余地はなくなった。」_| ̄|○ ガク | |
アメリカからの妥協や、友好意思表示があれば、その効果できっと日本の穏健派が力を持てます。我々はまた仲良くなれるんです… | グルー米大使 |
同盟は我々も望むけど、穏健派の台頭はどうみてもありえなさそうだ・・・、HAHAHAHA、今や虹を追っているようなものだなあ。 |
日本の政府も国民も吉田の述べるのとは全く反対の方向に動いていた。農村は変わらず貧しかったものの、日本の大陸での戦局は勝利に次ぐ勝利として国民に宣伝され、軍部への支持は盤石となっていた。吉田はあきらめなかった。要職を占める様々な個人との連絡網で最上層部で行われる決定について最新の知識を持っていた。その顔触れは牧野伸顕、樺山愛輔、松平忠雄、木戸幸一内大臣、岡田啓介、若槻礼次郎の元首相、三井の坂東池田斉昭など。ほかに幣原喜重郎、佐藤尚武、小畑薫良、東郷茂徳などの外交官も加わっていた。このため9月6日の重大な御前会議で、対米交渉が満足すべき結論に到達する期限を10月初旬までと定め、その後対米英蘭開戦を決意すという内容も知っていた。
御前会議の決定には天皇もよほど不満で、このあと陸軍省に戻った武藤軍務局長は「戦争などとんどもない」と言って速記録を読み「これは何でもかんでも外交を妥結せよと仰せだ。ひとつ外交をやらなければならない」と部下に話すと、声を潜めて付け加えたという「どうせ戦争だ。だが、大臣や総長が天子様に押し付けて戦争に持って言ったのではいけない。天子様がご自分から、お心の底からこれはどうしてもやむを得ぬと諦めになって戦争の御決心をなさるよう、ご納得のいくまで手を打たねばならぬ。だから外交を一生懸命やって、これでもいけないというところまでもっていかないといけない。」。しかし外交の猶予期間は1か月であり、望み薄だった。またこの武藤の発言と同じころ、服部卓四郎作戦課長が「陸相は何度でも参内し、「開戦の必要」を説くべきだ」と述べた。この方針はうまく行き、陸軍の責任回避に貢献した。戦後の連合軍による戦犯裁判で、開戦主犯の田中新一や服部卓四郎が追及もされず、東郷茂徳や木戸幸一といった文官が戦犯として厳しく断罪されることになった。
服部卓四郎と田中新一、辻政信が開戦を強力に主張した主唱者であった。田中新一は永田の考えに賛同していたが、石原莞爾の日米による世界最終戦論にも強く執着していた。「雄渾で説得力に富んだ未来像」だとし「多くの魅力を感ぜざるを得ない」と述べている。すなわち大東亜戦争は対米持久戦の準決勝であり、最終戦に生き残るには中国や東南アジアを占領下に置き、その資源によって自給自足体制を確立し、アメリカとの長期持久戦を戦い抜く。軍政下での税収その他の現地収入を財源に充てると同時に軍の現地自活を図る(まさに石原の言う「戦争により戦争を養う」考え方である)。また辻政信は対米戦に自信を持っていた。
米国を怖がることはない。3~4年も戦争がつづけば戦争をやめる。米国は婦人優先の国だ。戦争が長引けば、婦人の口から停戦の声があがるよ。……それにアメリカは複雑な人種の国だ。到底長期戦に耐えられない |
その翌朝、東久邇軍事参議官は東條陸相に日米交渉に協力するように説いたが、東條はかたくなだった。
アメリカが日本に、支那より撤兵して事変以前の状態に復することなどを要求しているが、陸軍大臣として、大陸で生命をささげた英霊に対し、絶対認めることはできない。 | 東久邇 | 今天皇及び総理が日米会談を成立させたいというのだ | |
見解の相違である。日本がじり貧になるより思い切って戦争やれば、勝利の公算は二分の一であるが、このままで滅亡するより良い |
と言い捨てて引き揚げていった。ワシントンのハルはキャンベル駐米英産次官に対し「近衛首相はアメリカとの関係改善を切に望んでいるようだが、彼は政府内の強硬派を統率していけるとは思えない。したがってこのような首相の言葉は実行を伴わない」と伝えており、日米交渉妥結の見込みはほとんどなかった。9月17日吉田茂は非礼をかえりみずに近衞に手紙を書き、ドイツは長期戦になる様子で、その結果が不利なことは言うまでもなく、近衛の日中事変収拾の失敗を責め、名誉を守るため辞職を勧めた。
10月2日ハル国務長官からアメリカ側回答が示された。そこで改めて「四原則」が示されるとともに、三国同盟での態度の鮮明を求め、さらに不確定期間の中国特定地域に軍隊を駐屯させる要望は容認し得ず、日本軍の仏印及び中国からの撤退を明確に宣言する必要があるとしていた。三国同盟は自動参戦の協定は自主的判断に任されており大きな障害とならなかったが、撤兵は到底陸軍が受け入れられるものではなかった。強硬派の陸軍参謀本部や海軍軍令部の幕僚は「10月上旬がめどだったのだから、戦争に突入すべきだ。」と主張。近衛首相と東條陸相は次第に険悪な会話を繰り返すことになった。10月7日ついに近衛は東條を説く
9月6日の御前会議を反故にし、8月の段階から考えなおそう、対米英蘭戦の直ちにを再検討しよう | 絶対にできない、それでは御前会議の意味がないではないか | |||
軍人はとにかく戦争をたやすく考える、私にはわからない | 国家存亡の危機には人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ |
対米交渉はおやりになるがよろしい、ただし期限は統帥部要望の10月15日である。15日には和戦の決定をとれ | 軍人だけで戦争をするがいい | |||
御前会議で決めた10月上旬が迫っているのだから、決めた通り戦争しかないではないか | ・・・ |
10月10日陸軍省に「宮中、近衛、外務、海軍の連合人で陸相を圧迫し、10月2日付米国覚書をうのみにせんとの気配がある」との情報がもたらされた。陸軍は態度を硬化させ、陸軍は武藤軍務局長と東條が「駐兵は最後まで頑張る、祐定があっても頑張る」と天皇の命令さえはねつける決意を固めていたから、絶望的となった。10月12日の5相会談でも14日の閣議でも東條は強硬に駐兵を主張、東條陸相は「陸軍は引導を渡したるつもりなり」と語り、「近衛と会うとけんかになるといって近衞と直接会わず」閣内不一致により10月16日第三次近衞内閣は総辞職となった。政変の意義として、天皇の9月6日の御前会議は白紙とすることを求める白紙還元の祐定がされ、ひとまず戦争は回避できた。しかし参謀本部は17日主戦論を引っ込めるようにとの天皇の指示を予想して、「いかなることありといえども新内閣は開戦内閣ならざるべからず開戦、これ以外の陸軍の進むべき道なし。」と開戦決意を固めていた。三長官会議の決定で陸軍大臣を出すという制度があり、宇垣内閣や及川内閣は成立不可能であった。
10月18日東條英機内閣が成立した。東條英機は現役のままで首相、陸相、内相を兼ねることとなった、異例のことである。海相に嶋田繁太郎が就き、東郷茂徳は日本の行き詰まりを外交で打開するためあらゆる努力をすることを認めるという了解のもとに、東條の下で外相の地位を引き受けた。しかし永野軍令部長と杉山参謀総長の両統帥部は10月20日に、開戦第一日は12月8日が妥当と合意していた。律儀な東條は、「ほとんど隔日に宮中に参内して陛下に奏上」、詳細な数字を用いて国策再検討の経過を報告した。その意味するところは、結果的に「早く決断してください。我々はあなたの命令があれば、いつでも戦います」「本当に戦争しかないのか」「戦争しかありません。戦争を選ばなければこの国はつぶれますよ」と詰め寄っているだけであった・・・が、天皇はそれを入れていった。
近衞「天皇は戦争にご反対であったが、時には幾分かずつ開戦のほうへ、近づいておられると思えることもあって、近衛の非戦論をご批判にあることもあった」 |
そして東條は10月30日の第65回連絡会議を招集し、11月30日を外交交渉期限とし、妥結しない場合に12月戦争を開始すると定めた。内閣成立から10日余りで望みのない外交交渉の条件付きながら開戦を決定させたのである。当時の日本社会は、マスコミも陸軍の圧力により統制されていたし、議会も十分に機能していたとは言えなかった。そのためアメリカが一方的に反日の行動をとっているといって、多くの新聞が「見よ、米反日の数々、帝国に確信あり、今ぞ一億国民団結せよ」との類の大きな記事を掲載していた。国内世論は対英米撃滅という過激な方向でまとまっていた。さらに東條英機は日米交渉中にもかかわらず、日本が中国と戦っているのをいかに米英が妨害しているかとか日本の生存を米英が邪魔しているかといった発言を繰り返した。当然ワシントンは東條の反米英の演説を聞くたび、外務省・駐米大使野村吉三郎が熱心に取り組んでも、日本側は常に二枚舌を使っているのではないかと疑わせ、交渉を破滅に追いやった。
10月2日の米側回答に対し、日本側の「甲案」は25年間の中国駐兵などの条件があり、アメリカには受け入れられそうにもなかった。東郷外相は11月1日の大本営政府連絡会議で突如「乙案」を提案した。「乙案」はかつての反目を超えて幣原喜重郎と吉田茂が主として作成を手伝っていた。これは日本が南部仏印から撤退する代わりに、アメリカは日本に石油を供給するとの暫定的な協定案だった。南仏印撤退は、ことに杉山参謀総長と次長から強い反対が出たが、東郷外相が受け入れないなら辞職して内閣崩壊をちらつかせたため、軍部によりアメリカは蒋介石に対する援助を停止するという項を入れ修正されようやく受け入れられた。これは重大な性質を持ち、日本が戦争に固執すると解釈されることになった。
田中新一作戦部長を中心とした参謀・軍令部による日本の戦争計画が策定される過程においては、二つの仮説が存在した。それは「ドイツの不敗」と「イギリスの屈服」である。この仮説は軍部に 1940年5月のドイツの西方電撃戦以来一貫して共有されていた。1941年9月から12月にかけて日本の戦争決意が形成された。ことに11月5日の御前会議で、対英米蘭戦争は不可避と判断された。開戦にあたっての基本戦略が、大本営政府連絡会議で 11月15 日に決定した「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」である。 開戦前の研究において、政府と統帥部は戦争が長期戦になる公算が大であり、この長期戦を戦い抜く戦略物資が日本には不十分であり、したがって日本にはアメリカを武力で屈服させる手段がないことを認識していた。陸軍参謀部は南方資源地帯を確保することによって、長期自給自足体制を実現し、またイギリスの物資補給に打撃を与え、その抗戦力を漸減させると見通していた。海軍は緒戦2年間は自信があるが、その後は世界情勢の推移によるとしていた。陸軍は「長期持久戦」つまり「不敗」であり、海軍は「短期決戦」で認識の一致はなかった。
「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の基本構想は次のように規定されている
方針:速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の継戦意思を喪失せしむるに勉む
要領:帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及び西南太平洋に於ける米英蘭の根拠を覆滅し戦略上優位の態勢を確立すると共に重要資源地域竝主要交通線を確保して長期自給自足の態勢を整ふ凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む
アメリカの屈服が不可能であれば、迂回的な方法で継戦意思を喪失させ、有利な講和をめざすことになる。そこでイギリス打倒の迂回策が最も効果的だと判断された。日独伊提携してイギリスの屈服を図る方法として、次の三つを掲げている。それは第一に、豪州・印度に対して戦略及び通商破壊等の手段により、イギリス本国との連鎖を遮断してその離反を策す。第二に、ビルマの独立を促進し、その成果を利用して印度の独立を刺激する。第三に独伊は日本に呼応して、近東・北アフリカ・スエズに進出して西アジア打通作戦を展開する。またイギリスに対する封鎖を強化し、情勢が許すならばイギリス本土上陸作戦を実施する。これらのうち日本が主体的に関われるのは第一と第二の方法くらいであり、直接の効果が期待できるのはもっぱらドイツに依存している形である。「腹案」ではこのほか米豪間の隔離を謳っているが、これは日本が関われるとしても、イギリスの屈服とは結びつかない方針であった。
日米交渉行き詰まり
野村駐米大使は11月7日に甲案をアメリカ側に提示したが拒否され、11月20日に乙案を提示した。ハル国務長官はこれに興味を示し、「乙案」に北部仏印の日本兵力を25000以下とし、石油禁輸などの経済制裁を3か月解除しさらに延期条項を設ける「暫定協定案」が作成され、野村大使に英蘭中などの同意を求めたうえで、正式に日本側に提示すると述べた。11月22日ハル国務長官は英豪蘭中の大使に暫定妥協案を提示し、本国への指示を仰ぐように依頼した。日本の南進に脅威を覚えていたオランダは賛成したが、すでに日中戦争を戦っていた蒋介石政権は強硬に反対した。イギリスは反対しなかったが・・・
本件処理の責任はアメリカにあります、我々は新たな戦争を欲するところではありません。一点だけ問題は蒋介石との関係です。彼は本当に干上がってしまうのでは?。もし中国が崩壊すれば、我々の危険は増大しましょう。私は米国がその行動を決めるときに中国に十分配慮がなされるものと確信します。(英国だけで日本に立ち向かう羽目になるのはまっぴらごめんだ) |
このチャーチルの返書が決定打となり、暫定妥協案は取り下げられ、ハルノートの提示に至った。ルーズベルト大統領は中国を見捨てることにより、独ソ戦に影響が出ることを恐れていた。危機的な状況にあるソ連が、英米が中国を見捨てることにより、ソ連も見捨てられることを懸念し、独ソ単独講和を結ぶ可能性を懸念したのである。中ソが枢軸に屈するのは避けなければ。だが英国は暫定妥協案が時間稼ぎとなることを期待していたため、ハルが暫定妥協案の提示をとりやめた時、ハリファクス駐米英大使は抗議した
大使 | 英国は暫定協定案に反対しなかった!(これじゃ俺ら確実に攻められる) | 貴国の懸念はわかっている。我々は日本の英領、蘭印、タイへの攻撃がアメリカへの攻撃と同義であるとみなす。 | 大使 | ! |
12月1日ハリファクスはルーズベルトと長時間会談、英国の関心は日本がイギリス、蘭印に攻撃を仕掛けた場合、アメリカが対日宣戦布告するか否かであった。
スティムソン陸軍長官 | よかったのですか?、あのような言質を与えて。 | だが、これ以上同盟国に対し譲歩を強要するわけにもいくまい。 | |||||
スティムソン陸軍長官 | 日本はおそらく、英蘭のみに戦いを限定し、米国世論を巧みに分裂させる手でくるでしょう。その時に米国民に参戦を納得させることができるのですか? | むむむ………。いや、国民はきっと支持してくれる…。 |
11月27日ハル・ノートが手渡され、中国よりの撤兵などが条約交渉の条件として提示された。アチソン国務次官補やモーゲンソー財務長官らは日本は戦争しないと考えていたが、国務長官コーデル・ハルは戦争を覚悟した(マジック情報を見ることができた政府高官は、この時期はまだハルのみである)。陸海両省はアメリカ太平洋軍のすべてに警戒態勢をとらせたが、ハワイはオオカミ少年状態のため失念してせず、のちキンメルの進退問題となった。大量の日本軍が上海から南方に進撃したことが知らされ、アメリカの注意は南西太平洋領域に注がれた。
東郷茂徳外相はハルノートを見て「眼も暗むばかりの失望に撃たれた。」。東郷は外務省顧問の佐藤尚武にたのんで「ハル・ノート」の写しを同じ外務省の先輩の吉田茂の下へ届けてもらった。吉田と彼の義父、牧野伸顕の意見が知りたかった。 牧野は大久保利通の次男で、外務省へ入りイタリア、オーストリア・ハンガリー公使を歴任した。帰国後は第一次、第二次西園寺内閣で文相、農商相、第一次山本権兵衛内閣では外相を務めた。武力侵略を批判し、経済外交の推進を図る新英米派の外交官だった。のちに宮内大臣を経て内大臣に修臣し、昭和十年に引退したが、政・官界に対してまだ大きな力を持っていた。 牧野は2.26事件で危うく命を落としかけてからは、指導者としての意欲を失ったらしく、牧野からはメッージがなかった。代わりに吉田茂が官邸へ駆けつけてきた。彼はまだあきらめてなかった。 ハル・ノートの10項目は「試案的で且つ制約を伴わない」と明記してあり、「日米合意のための基礎案の概要」に過ぎないという註が前書きしてある点を強調した。
これは最後通牒じゃないよ。どこにも交渉打ち切りとは書いてないじゃないか! | 東郷外相 | ・・・(東郷は苦笑してかぶりを振った。) | |
いや、先方は最後通牒のつもりかもしれん。しかし、気づかないふりをすればいいんだ。交渉を続けてくれ。最後の最後までマムシのように食いつかなくては。 | 東郷外相 | 連絡会議のメンバーは全員、交渉打ち切りの気でいます。アメリカと話し合いをしようにもこちらから条件を出しようがない。ハル・ノートで全員さじを投げたんです |
たとえ交渉を再開できたところで、11月30日いっぱいに話がまとまらなければ自動的に開戦となる。 前回の御前会議でもう決まったことなのだ。この条件をのまない限り、11月末を期限とする交渉の継続さえ認められなかっただろう。陸軍は11月13日、海軍も20日が交渉継続の期限だと執拗に言い張っていた。作戦上の理由かららしい。まだ東郷は聞かされていないが、陸海軍の間では開戦の日が既に決まっているようだった。
ではきみ、辞表を出せ。外務大臣が辞めれば閣議は停頓する。近衛公も君も軍部と衝突してやめたとなれば、世間も軍部の言うことに疑いを持つようになるだろう。軍部も少しは反省するかもしれん。 | 東郷外相 | しかし、軍はもう動き出しているんです。詳細は分からないが、作戦は始まっているらしい。とても反省の段階では | |
辞表を出せば君は生命を狙われるかもしれない。しかし、死んでも男子の本懐ではないか!。骨は俺が拾ってやる。 | 東郷 外相 |
・・・(・・・骨!?) | |
辞表を出して内閣の揺さぶりをかけるんだ。開戦をやめさせる手はほかにないんだぞ! | 東郷 外相 |
・・・(軍は恫喝してきている、もし辞表を出したら、私は・・・) |
東郷は以後の交渉を拒否した。吉田茂がグルー米大使との会談を申し入れた時も、すでに政府の方針も開戦と決定していたからと、会談を承諾しなかった。東郷は攻撃開始ぎりぎりまで外交交渉を継続せよと海軍に要求されたため、ハルノートへの返信、日米交渉打ち切り通知はすぐには行わなかった。海軍としては当時、通告手交30分後の奇襲開始を決定した。だが東郷は通告手交から攻撃開始まで30分の余裕しかないことを知らされていなかった。日本は12月1日(国会でなく)御前会議で開戦を決定したが、交渉は打ち切らず、結果打ち切り通知は真珠湾攻撃30分後に手渡されることになった。
吉田茂は戦後の回顧録で太平洋戦争前の日本の政治上層部に真に明確に開戦に反対するものがいなかったことをかえりみて、それを国民性を反映したものとしている。
こんな時にこそ国民性が現れるもの。言うべき時に言うべきことを言わず、しかし事後において弁解がましいことを言い、不賛成であったとか、自分の意見は別にあったなどというものばかりだ。 |
開戦前夜、開戦の手順を報告する東條に昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は確信した。東條英機は昭和天皇の「決意」などを部下2人(内務次官の湯沢三千男と陸軍次官の木村兵太郎)に興奮気味に語った。
戦争開始と国民の処置を決定した。陛下の命令受け一糸乱れぬ軍紀の下行動できるは感激堪えない。既に勝った! | 湯沢三千男内務次官 | (何ら動揺も憂悶もない、信念のお方だ) |
12月3日、日本は中立国タイとの英領マラヤまでの通過権交渉をピーブル元帥と始めた。12月6日午後オーストラリアの偵察機が、三十五隻の輸送船と八隻の巡洋艦、二十隻の駆逐艦の日本艦船隊が、インドシナからタイ湾をこえていることを発見し、12月7日ロンドンにもワシントンにも知らされた。
ついに来たか。マレー半島のクラ地峡の重要地点を、占領するつもりだろう。さて、アメリカは約束通り参戦してくれるだろうか?。今日は駐英アメリカ大使との会談だ。 |
1941年12月7日、日曜日の夜、チャーチルはアメリカ大使らとテーブルを囲んでいた。9時のニュースがはじまってまもなく、チャーチルは、小さなラジオのスイッチをいれた。ソ連戦線とアフリカ戦線のニュースがあったのち、最後に日本軍航空部隊がハワイの真珠湾を突然攻撃し、湾内に集結していたアメリカ艦隊に猛爆撃をくわえたことが、放送された。
ファッ? | 大使 |
ファッ? |
チャーチルは、疲れていたが、そのまま次の報告を待った。その後立ち上がると、さっそく事務室に行き、アメリカ大統領に連絡をとった。
一方アメリカにおいて12月7日
ニュースを聞いたか?。 | スティムソン陸軍長官 | ええ、日本軍がシャム湾に進軍したという電報を受け取りました | |
そうではない、彼らはハワイを攻撃した、彼らは今ハワイを爆撃しているのだ! | スティムソン陸軍長官 | え? |
チャーチルからの連絡がつながった。
大統領!、一体どういうことですか、日本がどうしたのですか!? | 事件は本当です。日本軍は真珠湾を突然攻撃しました。もう、我々はともに戦わなければならなくなりました。 |
チャーチルは日本軍の斜め上の発想に驚愕したが、直ちにその戦略的意義について理解した。戦争の行く末について、日本の運命についても正確に予言していた。
合衆国海軍が重大な損害を被ったと我々は考えもしなかった。日本の武力を正確に見積もっていたなどというつもりはないが、合衆国が完全に、死に至るまでの戦争に入ったのだということが私にはわかった。我々は戦争に勝ったのだ!。ヒトラーの運命は決まったのだ。ムッソリーニの運命も決まったのだ。日本人について言うなら、彼らは粉々に打ち砕かれるだろう。 |
日本はアメリカを見くびっていた。合衆国は軟弱という人もいたし、アメリカ人は決して団結しないだろうという人もいた。合衆国は巨大なボイラーのようなもので、一度火が付くと生み出す力に際限はない。感激と興奮に満たされ、満足してチャーチルは床に就き、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた。
1939年より第二次世界大戦が勃発しており、イギリスはドイツと交戦していた。航空機、戦車などが長足の進歩を告げ、太平洋戦線では特に航空機の重要性が増していた。
近代戦では、最前線の背後に後続部隊や補給体制を抱えるのが常識にあっているが、航空隊が進出するとなると、補充・補給・経理・輸送の所部隊、飛行機の整備等を担当する航空廠、飛行場の整備・修復にあたる部隊、情報収集・監視・通信を担う機関、防空を担う高射砲部隊等も一斉に動き、所定の位置に展開する。300機の配備ともなれば、飛行場を中核に大きくすそ野をひろがる多様な関係機関が配置につき、少なくとも3-4万人がこの中に組み込まれたとみられる。6-70機の重爆・軽爆が出撃すると、50トン以上の爆弾、100トン近い燃料、その他に大量の銃弾を搭載していく。膨大な弾薬、燃料等が消費されていくことになり、安定した補給が欠かせない。8000機以上もの飛行機を失う消耗戦に引きずり込まれ、もっとも航空機を消耗したのは丸二年間に及んだニューギニアであったが、多くが地上撃破であった。機体の稼働率が低く、駐機場が狭く、掩体もなく、防空火力も貧弱であった。いくら優秀な飛行機を持っていてもそれに見合う優れた飛行場施設がなければ、多くが地上で犬死することになる。
近代日本の誕生以後、1941年までに人口は143%増加したが、耕地は16%しか増えず、農業の進歩にもかかわらず、食品の20%は輸入であった。資源は石炭のみが十分に自給でき、鉄鉱石、石油、ゴム、ボーキサイトをはじめとした資源は輸入に頼らなくてはならなかった。政府は天皇の権限より発生する二院制の国会と内閣を持ち、貴族院は天皇により任命されたが衆議院は選挙で選出された。内閣は国会で任命されたが、軍は天皇より直接任命されたため、文民政府に依存しない自由な裁量が与えられ、政策においても大臣を出さないことにより政権を崩壊させることができた。日本の再軍備は、1937 年に本格的に開始され、1940 年になると国家予算の半分近くが軍事支出に向けられた。1941 年の日本では、民間使用に割り当てられる石油あるいはガソリンはなく(自動車は石炭を燃焼させる蒸気機関によって走らねばならなかった)、食糧と生活必需品(石炭、砂糖、マッチ、米、塩、綿など)には厳しい配給制度が適用された
軍は天皇との特別な官益を強調し、1920年代初期に「国軍」から「皇軍」へと変更された。陸軍と海軍の統制を大本営(統合参謀本部)で行ったが、アメリカと違い文民統制の下に入らず、軍の管理下にあった。陸軍と海軍は国家予算と資源を奪い合う競争関係にあり、大本営は意思決定者はなく、陸軍と海軍の戦略を一致させることは結局不可能であった。軍と民間政治家の間はさらに疎遠であり、大本営は内閣に情報を提供することを拒否し、内閣からの勧告をすべて無視していた。日露戦争では集団での潰走も多数みられたため、戦後精神教育が強化された。軍の指導の下、天皇崇拝が強化され、仏教や儒教の影響が衰退していった。国民はすべて天皇に属していると信じ、勇敢に戦い、死をおそれず、戦死を名誉とした。戦死した兵士の家族が祝福され、通常の喪が恥と考えられるような状態に達した。戦争の開始時は、よく訓練され勇敢な兵士、船員、飛行士と入念な準備が日本軍の大きな利点となった。日本軍は米軍を下にみていた。
今度の敵は支那軍と比べると、将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから、軍隊の上下の精神的団結は全く零だ。 …戦は勝ちだ、支那兵以下の弱虫で、戦車も飛行機もがたがたの寄せ集めである、勝つに決まっているが、唯如何にして上手に勝つかの問題だけだ。 米の人的戦力は物的戦力に伴わぬ。 物的戦力膨大も、米の政治経済機構は、今なお国家総力戦に必要なる臨戦態勢を整備しておらず、確立には今後幾多の摩擦紛糾を生ずるだろう。 米英国民は生活程度高く、その低下はそのすこぶる苦痛とするところにして、戦争継続は社会不安を醸成する。一気に士気の衰退を招来するのだ |
国家総動員体制
国家総動員法は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって制定された。永田鉄山の理想であった総動員体制を担った人達に、当然ながら「一夕会」に関わる人が何人もいた。そして憲兵や特高により、国民の言論などを力によって抑えた。治安警察法、出版法、新聞紙法などに基づいて、内務省の下部組織「特高警察」は思想犯・政治犯を逮捕した。在郷軍人会、国粋主義者による言論弾圧は、軍部との関連していた。こうした上からの統制により、戦争をすることが正義であり、それを否定する者、いや少しでも消極的と見られただけで「非国民」として、当人ばかりか家族すら差別の対象とされた。隣組は1940年に内務省が訓令し(隣組強化法)制度化された。5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。また、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていた。兵士の留守家族の生活困窮について隣組すなわち近隣社会の手に委ねられていた。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば遺族は村八分となり、「村」は家族への農作業援助を打ち切る、それは家族にとって致命的となる。
太平洋戦争末期のフィリピン。昭和20年2月22日、N上等兵は、22歳。飢餓地獄の中、食料を探しに部隊を出て、15日後につかまる。「この事実だけでは、死刑に値しない。」しかし、言い渡されたのは「死刑」。「Nっていう水兵が、英語がうまい。だから・・・」「戦時逃亡」ではなく「奔敵未遂」とされた。奔敵とは、戦わずして敵の捕虜となること。不当に処刑されたN上等兵、遺族に処刑が伝えられたのは、処刑から2週間後。遺族はいつの間にか島からいなくなっていた。遺族のひとり「Nのことは知らない。もう触れないでほしい」
ものを言おうとする国民に対して激戦地における死をちらつかせることは、軍部が自分たちの意志を通すのに大きな効果があった。特に東條英機は「竹槍事件」に象徴されるように、これを多用した。関東憲兵隊司令官の経歴を大いに活用して憲兵をほしいままに動かし、東條に批判的な人物を陸軍に召集して戦闘地域に送り込む懲罰召集という報復行為である。逓信省工務局長だった松前重義は42歳で政府高官であったにも関わらず、東條によって二等兵として召集され戦地へ追いやられた。東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員・中野正剛に対して強引に検挙。中野は釈放後、陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに、憲兵隊の監視下で自殺に追い込まれたが、中野を容疑不十分で釈放した43歳の中村登音担当検事には、その報復として召集令状が届いた。陸軍内の反東條派だった前田利為を、報復措置として南方戦線に送った。彼は、搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額した。衆議院議員の福家俊一ら三人も懲罰招集されている。政権末期に、東條が内閣を改造して延命を図ろうとしたとき、倒閣のため辞任を拒否した岸信介を、憲兵隊長四方諒二を使って脅迫したことも有名である。東條の忌み嫌う長州閥最後の寺内寿一大将は、閑院、梨本両元帥殿下につぐ陸軍の長老で、東條も露骨な排斥はできなかった。だが、太平洋開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総司令官として、遠く南冥の地に追いやった。
戦前戦中の日本にとって、「国」とは本来天皇およびそれに関わる諸制度を指していた。戦時中、「お国のため」という言葉が良く使われたが、その“お国”の主体は「天皇」だった。にもかかわらず、政治・軍事的判断の主体は天皇ではなく、天皇の意思を取り決める「御前会議」では、天皇は発言しないことが通例だった。軍部の独断的行動と強行な態度、場合によってはクーデターによって殺される可能性もあり、そうした圧力によって政治家は軍部に振り回される状況だった。つまり、実質的な“お国”の主体は軍部だった。日本軍=「お国」は「軍の名誉」のためにすべてを総動員し、一般的な国であれば第一優先とされる、女性や子どもの保護が、日本軍の考慮の対象になっていなかった。
戦争末期に司馬遼太郎は、米軍が東京湾に上陸してきたら、戦車部隊を率いて南下し、米軍を迎え撃てといわれていた。それで、大本営参謀が部隊にやってきたとき、迎撃のため戦車を繰り出しても、街道は東京方面から落ち延びてくる人や荷車で溢れんばかりになっているだろうから、前進できないのではないかと質問した。 すると、参謀は暫時考え込んでから、こう答えたという。 「ひき殺して行け」
国家そのものが軍隊であり、軍のために社会がある、“お国”=軍部の政策は、国民の命より優先して実行された。そして、国民は「国」を守るために死をも厭わない姿勢が求められ、戦争に役に立たない人は、国として不要とされた。
さらに、その「軍」の中で、軍人は階級により生命の順位も決められた。幼年学校出の陸大エリートのみが上級将校となれる封建的体制で、高級将校は兵士や下士官の生殺与奪の無限の絶対権力を持つ一方、徴兵された下級兵士=一般国民は、その最下層(つまり死んでも問題ない)に置かれた。そうしたことを正当化するために、軍部は「戦死」を美化していった。「爆弾三勇士」に始まり、真珠湾攻撃では戦死した兵士を「九軍神」などと呼び、特攻隊では軍神を量産した。戦陣訓によって捕虜になることを禁止し、国民の存在意義は、“お国”=軍部の高級将校のメンツを満たすために、死ぬまで戦うことだった。
資源と装備
希少金属では、マンガンは48万トンとアメリカと同レベルにあり、タングステンの鉱山は中国江西省の西崋山、朝鮮黄海道谷山の千年鉱山、江原道寧越の上東鉱山などがあり、クロムはフィリピンに豊富で、モリブデンは朝鮮半島から算出された。ニッケルは不足し、ニッケルはソロモン諸島南東のニューカレドニアに大ニッケル鉱山があり、田中新一はガダルカナルにこだわったが敗戦により届かなかった。
装備の不足を補うために精神力が強調された。1929年の陸軍現場マニュアルでは銃剣の使用と精神力の強調、夜襲と包囲の推奨と後退を考えられないものとした。また兵器開発にも影響を与えた。重機関銃に高倍率の光学照準器(スコープ)を取り付けて遠距離射撃に適した銃を目指したり、精密射撃ができないから迫撃砲の開発は見送るなど。
産業基盤はぜい弱で、大砲や走行車両で米英に劣っていた。日本陸軍は41年12月野戦師団を51個、地上弾薬は105師団1回線分を準備して開戦に踏み切った。内地に10個師団分、満州に48個師団分を集積し、50個師団分で中国と戦い、そして南方に17個師団分を向けた。105師団分といえば、小火器弾薬でも8億発以上に上る膨大なものだった。(WW1での独軍は5億発、仏軍は3億発の砲兵弾薬を射申したとされる)。しかし備蓄の結果であって、鉱山から最前線までの戦場での生産活動、補給はできなければ、テンポの速い物量戦には対応できないのだ。米陸軍は第一線の1個師団1日当たり燃料・弾薬・食料など500~600トンの補給を保証していた。
日本軍精兵の育成
兵器が劣る分、訓練は行き届いていた。徴兵された兵士は、初年兵たちは訓練教官の命令とあらば、どのような過酷な訓練にも耐えなければならない。一般的な訓練における殴るけるや私的制裁は当たり前、上官たちは、不可能に思える命令を次々とだし、それを実行できなかった者には決まって制裁がくわえられた。私的制裁は新兵の教育上、必要悪と看做されており、表立って奨励はされなかったが、黙認されていた。しかし古参兵の気晴らしや、私的な怨恨の為に行われると云う側面もあって、どこまでが教育的指導なのか、どこまでが単なる「いじめ」なのかの境界は判然としなかったのが実情である。少しでも隊列を乱すものは、木刀で徹底的に打ちのめされる。初年兵たちは、ここでは不平不満をいうどころか、反抗的な態度をとることすら、ありえないことだとすぐに学んだ。訓練を経た初年兵は、やがて命令された通りのことをそのまま、迷わず実行するようになる。こういった初年兵訓練は、多くの意味において非人間的であったが、一方で極めて実利的でもあった。こうして兵士たちは、疑うことなく命令に従い、敵と戦うことも、そして死への恐怖も麻痺させた。陸軍高級将校たち自慢の精兵たちが出来上がっていった。
兵「とにかく、やれと言われたらいや応もなく反射的に動くような教育ですよね」。
当時の日本軍にとって、銃剣術の訓練は必須であり、実際戦後になって呉の海軍基地で発見された「部隊指揮官の心得」という冊子には、戦場で戦える根性をつけさせるため、新兵には教育として、生きている俘虜を目標にして銃剣術の訓練となすべしと記述されていた。
我々に、肌に染み付く戦争を感じさせたのは、中国戦線に送られた時であった。前線に着いた我々初年兵を、一日も早く戦争に順応させようとして、人を殺すという試練の場が与えられた。捕虜刺殺である。50歳半ばを超えた老人が縛られたまま引き出された。大きな穴の前に座らされた時、老人は誰彼なく頭を下げて許しを乞うた。罪状は知る由もなかったが、その処刑は正視に耐えるものではなかった。小隊長U少尉は、「人を切るのはこうして切るのだ!」と高らかに叫びあげ、日本刀を振り下ろした。カーンという音がして、頭蓋骨をしたたかにたたいて、老人はもんどりうって穴に飛び込んだ。「よし、突け!」小隊長は、我々を呼び込むように左手を振った。一瞬たじろいだが、穴の周囲に群がって、死にきれないぼろ布のような塊を突き始めた。地の底から、唸り声が漏れてくる。いつまでも絶えなかった。戦争に慣れさせることを名目としたこの事件は、白昼の惨劇でしかなかった。赤茶けた大地は茫々と広がり、わけもなく命を飲み込んでしまった。戦争はすなわち殺人であるという自明の定式を、感覚を通して教えられた。
初年兵教育の時である。古年兵から。「今日は捕虜を殺す練習だ」といわれた。ぎょっとしたが顔には出さない。おびえた顔をすると殴られる。我々は畑に連れていかれた。目隠しをした捕虜を突く訓練をするという。その場から逃げたくなる。しかし、命令である以上やらざるを得ない。足が震えた。中国人の捕虜が何人かたっていた。そのうち一人を前に出し、ひざまずかせた。鬼軍曹が後ろに立ち、軍刀を抜いて高々と構え、一気に振り下ろした。中国人の頭が飛んだ。どさっと胴体が地面に横倒しになる。「やれ」と軍曹が命令する。ひっくり返って胴体だけになった捕虜を我々初年兵が順番に突く。私の番が来た。古年兵が鋭い視線で見ている。躊躇すれば死ぬほど殴られる。帯剣を腰に構え突進して付いた。無我夢中だった。捕虜は五人くらいいただろうか。五人とも首を落とされて殺され、遺体は刺突訓練に使われた。(なんでこんなことをしなきゃならんのだろうか)とほとほと嫌になった。手榴弾は各人自決用に一つずつ渡されていた。渡されるとき、「けがをして動けなくなったらそれで死ね」といわれていた。今考えると、日本の軍隊は本当に無茶苦茶だった。「捕虜になるなよ」「これでちゃんと死ねよ」と当たり前のように言われる。こんな軍隊は日本だけだった。なんでこんなへんてこな軍隊ができてしまったのか。不思議でしょうがない。
日本軍は自軍の将兵らに「太平洋の戦場で戦うことになる欧米人どもは人種差別主義者であり、アジア民族を征服戦としている植民地圧制者である。連合軍兵はとらえた俘虜をすべて残忍に殺してしまうのだから、生きて虜囚の辱めを受けるな、死して家族に罪科の汚名を残すことなきようにせよ」と繰り返し教育していた。兵隊は消耗品と位置付けられ、初年兵と畳はたたくほどよくなると言われていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が、戦場にいた人の心を狂わせた。命懸けで合流した部隊で「死ね!」と言われた兵卒は語る。
水木しげる「上官から毎日50発ぐらいビンタされていました。水木さん(自分のことをこう呼ぶ)は、一秒でも長く寝ていたいから起床が一番遅い。だから朝から『ビビビビビン!』とビンタされる。銃の手入れが悪いと指摘されたり、軍の規則に少しでも外れる行動をしたりすれば、これまたビンタなのです。戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった。」 死線を乗り越えて部隊に合流すると思いがけない言葉が返ってきた。小隊長は「天皇陛下からもらった銃をなぜ捨てて帰った!」と怒鳴った。中隊長は「なんで逃げて帰ってきたんだ。みんなが死んだんだからお前も死ね!」と。中隊長も軍隊も理解できなくなった。同時にはげしい怒りがこみ上げてくるのを、どうすることもできなかった |
軍隊では、善良な人間が無能物の烙印を押され、野獣のような品性の者がしばしば英雄になった。
私の部隊、歩兵百二十四連隊「菊」は帝国陸軍でもナンバーワンを誇る部隊であり、菊部隊散るときは日本破るるときなり、と自負していた精強部隊であった。中支杭州湾の上陸以来、中国戦線では”情け無用の残虐部隊”として、敵将を震え上がらせたのであった。この連隊は、中国戦線からガ島で全滅するまでの間、捕虜は私の知る限り一人も生かしておかなかった。そして私たちは、それが戦争であると教えられていた。敵を憎まずして戦争はできない。敵国地では老若男女の容赦なく、少しでもおかしいと思えば、日本的武士道の処置としてバッサリ、ちょん切ってしまうのだ。
・・・第2次総攻撃も失敗に終わると、すっかり事態は悪化した。ガ島全体に飢えが迫り、文字通りのドロボーがあちこちに横行した。そんなある日、連隊本部の兵隊に後ろ手に縛られた一折の米兵の捕虜と出会った。その後の過酷な拷問にも口を割らず、「殺せ!」と自らいうのに岡連隊長も感心して、「敵ながら天晴れ!」と褒め称え、さらに「このアメリカの一青年の立派な態度に、皆も学ぶように・・」と訓示まで。 しかし、日が暮れて、兵隊たちの話すところによれば、この天晴れなパイロットは文字通り「料理」されてしまったとのこと。肝は栄養剤になるといって某隊長自らが、そして肉は兵隊たちが。当時はまだ飢えていなかったのに…。アメリカの皆さん!、いまは亡き戦友に代わってお詫びを申し上げます。当時の日本の青年たちは、天皇陛下の「教育勅語」や修身を学んだ世界的にレベルの高い日本人だったのですが、それがいったん、帝国陸軍に入隊すると、軍人勅諭や戦陣訓とは裏腹に、朝から晩まで理由もなくぶんなぐられ、人間失格のごろつき化訓練に、中国人がよくいった「東洋の鬼(トンヤンキイ)」になったのです。日本兵こそ、今度の戦争の一番の被害者だったのです。戦争に負けて、日本人は英米の皆さんに、たくさん学ぶことができたことを知っています。
英米による評価として、
日本兵の長所は「肉体は頑健」「防御では死ぬまで戦う」「戦友がいる時と地の利がある時は勇敢」「規律が良好」「偽装が得意」「陣地作りが上手い」「兵士も将校も策略を好む」
短所は「当てが外れるとパニくる」「劣勢になると脆い」「決然としていない」「射撃が下手」「自分で考えない」「戦死者には丁重だが、傷病兵の扱いは雑」
他に「包囲殲滅が好き」「夜襲が好き」「降伏したら故郷の人が許さないと思ってる」「都会出身者は敵意をさほど持っていない」「地方出身者は戦死を名誉だと思っているが、都会出身者は違う」「味方が恐いから戦う」など。
一方の大日本帝国海軍もよく訓練され、装備も英米と同等であった。対空防御には劣っていたものの、特に魚雷は連合軍よりはるかに優れていた。緒戦では零戦は英米に衝撃を与えた。零戦は機動性、速度に優れ、英米の航空機より長大な航続距離を誇った。だが零戦以降の後継機の開発に遅れを取った。
陸軍航空隊はノモンハンの戦訓もあり、防弾装備が海軍に対すると強化されていた。海軍と比較すると陸軍は順調に航空機開発を進め、四式戦疾風や五式戦は、連合軍が投入した新鋭機に劣らない性能を持っていた。が、整備性に問題がありきわめて稼働率が低く、敵将に敗北の主因と揶揄されるほど。一式戦隼は後継機に比べて整備性がよく末期まで使用され、海軍零戦に対し武装は劣るものの防弾装備に優れていたが、パイロットは防弾鋼鈑があると不時着転倒時に座席の背もたれを倒せず、脱出できないような気がして外したり、中隊全機が外したなど現場では徹底されなかった。
日本陸軍航空隊は航続距離の長い戦闘機に偏重しており、長躯の航続距離を頼みにして多くが遠方で安全なタイやラバウルからの航空支援となった。また戦闘機に偏重し敵機との航空戦を重視しており、一方連合軍は戦闘機・地上部隊攻撃機・爆撃機とバランスよく配備し、空港も危険な前戦近くに多数設営し短距離反復で地上軍支援を行ったため、ニューギニアでは早くも1942年後期から、ビルマでも1943年の雨期明けから、大日本帝国陸軍地上部隊にとっては上空に見られるのは敵機ばかりという惨状となった。
軍は員数を尊ぶべし。
私が入営したのは、「私的制裁の絶滅」が言明されたころで、毎朝のように中隊長が、全中隊の兵士に「私的制裁を受けたものは手を上げろ」と命ずる。中隊長は直属上官であり、直属上官の命令は天皇の命令である。だが昨晩の点呼後に、整列びんた、上靴びんたに始まるあらゆるリンチを受けたものだちが、誰一人として手を上げない。上げたら、どんな運命が自分を待っているか知っている。したがって「手を上げろ」という命令に「挙手なし」という員数報告があったに等しく、そこで「私的制裁はない」ということになる。このような状態だから、終戦まで私的制裁の存在すら知らなかった高級将校がいても不思議ではない。いわば命令と報告のつじつまが合っている。そしてあっていればそれでよい。これが員数主義であり、全帝国陸軍を上から下までむしばみつくしていた。
「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は問わないという形式主義、それが員数主義の基本である。それは当然に「員数が合わなければ処罰」から「員数さえ合っていれば不問」へと進む。したがって「員数を合わす」ためには何でもやる。「紛失しました」という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした瞬間、「バカヤロー、員数をつけてこい」という言葉が、びんたとともに跳ね返ってくる。紛失すれば「員数をつけてくる」すなわち盗んでくるのである。いわば「盗みをしても数だけは合わせろ」で、この盗みは公然の秘密であった。小松氏の慮人日記によると
形式化した軍隊では「実質よりも員数、員数さえ合えばあとはどうでも」という思想は上下を通じ徹底していた。員数で作った飛行場は、一雨降れば使用に耐えぬものでも、参謀本部の図面には立派な飛行場と記入され、また比島方面で○○万兵力必要とあれば、内地で大招集をかけ、なるほど内地の港はそれだけ出しても途中で撃沈されてその何割しか目的地に着かず、しかも裸同然の兵隊なのだ。
小松さんが最初にあきれ返ったのは「ネグロス航空要塞」なるものの正体を見た時であった。この「航空要塞」は、当時比島では知らぬものがないほど有名なもので、「これで米軍を叩き潰してやる」「ネグロス航空要塞がつぶれたら日本は危ない」と言われたほどのものであった。「米軍がレイテに押し寄せたら思うつぼだ、相手は可沈空母、こちらは不沈空母、絶対に負けない。敵を上陸させてくぎ付けにし、空母群をおびき寄せて徹底的にぶったたいてやる。」というものだった。今でも“員数戦記”にはそんなことを書いてあるらしい。だが実態は、一言でいえば、あるのは「員数」だけで、結局は何もない、ということであった。
「ネグロス空の要塞というから、どんなものかと思ったらピナルバカン……(ほか9か所)……などに、毎日の爆撃で穴だらけになった飛行場軍に焼け残りの飛行機が若干藪陰に隠されているだけだ。対空火器は高射砲が三門だけという寂しいものだ……これが日本の運命をかけたネグロス空の要塞の正体である……」
本土決戦を主張する阿南陸相は、すでに戦備は完了し、九十九里浜の陣地も完成しているから、ここで米軍に一撃を加えるべきだと強硬に繰り返す。降伏・決戦の論議が平行線をたどって決着がつかず、鈴木首相が天皇に”聖断”を乞うたとき、天皇が言った決定的な言葉は、侍従武官を派遣して調べさせたところ、九十九里浜には陣地などはない、という意味の言葉である。この言葉はおそらく、小松さんの「ネグロス航空要塞などはない」という言葉の「ない」という同じ「ない」であろう。そして大本営にとって、阿南陸相にとっては九十九里浜の陣地は「あった」のである。結局これは「員数としてはあるが、実体としてはない」ということだ。そして米軍の攻撃は、常に員数という虚構を吹き飛ばし続けただけに等しい。
おそらくゲリラは、最初は驚いても、なぜこんな効果のない砲撃を一身に打ち込んでくるのかと、こちらの真意を測りかねて首をかしげたであろう。日没とともに砲を撤収し、夜、立派な「報告」を書いた。翌日、その砲の位置は米機の猛爆を受け、一掃された。効果があったとすれば、米軍に無駄な爆撃をさせたことぐらいであろう。いったいこの員数主義はどこから来たのであろうか。これが日本軍の宿痾であったことは、各人が身に染みて知っていたので、収容所でも話題となった。「おかしいよなぁ、実戦なんだから、軍隊だけは、絶対に員数主義があってはならんはずのだが……」
ある人は陸軍創設時に原因があるといった。「国軍」という意識が希薄なので「殿様の密命で武器を横流しする」恐れがあった。小銃に菊の紋章を刻印し、これを家紋付きの「天皇家所属の兵器」と明示し、また「兵器は神聖なり」として、徹底した員数管理を行った理由はそこにあると。だが「兵器管理の徹底化」そのものは別に悪いことはあるまい。少なくとも、米軍のように、兵器横流し事件が頻発し、それがギャングの手にわたるよりも立派である。確かに帝国陸軍には多くの欠陥があったが、兵隊が小銃を売り飛ばして一杯飲んでしまったといった事件は、おそらく皆無であろう。
イギリス軍の司令部では、よく話題になっていたことがあった。「日本軍の中で信じがたいほど愚かなのは、参謀肩章をつった連中だ」。
欧米の発想では陸軍省の下位機関である参謀本部が、日本においては陸軍省以上の実権を持っていたこと、それを連合軍が理解していなかったことが、ある意味不公平な戦犯指名を生んだ
17年6月中旬マニラの軍司令部や軍政部・憲兵隊からロハスを処刑せよと筆記命令が来た。「この命令は本物でしょうかね。ロハスを一時どこかに隠しましょうか」と言ったら、マニラへ出張していた将校が帰ってきて「軍司令部ではロハス処刑の報告が来ていない、と怒っている。やらないのなら、神保中佐をマニラに読んで取り調べるといっていました」と。残る手立ては、マニラに乗り込んで直接軍司令官の本間閣下に直訴するほかないが、ちょうど本間軍司令官更迭でごたごたしており会えない。仕方なく和知参謀長の部屋に行った。ところが和知さんは「俺はそんな命令を出した覚えはない、命令の日付の6月22日には東京へ出張していて留守だった」とこういうんですな。自分が知らないうちに参謀がやったことだとしても、軍命令として正式に出ておればすぐ撤回するわけにもいかなかったのでしょう、「ロハスは当分宣撫工作に利用すべし」という命令をくれた。氏の生命は助かったが、処刑命令が取り消されたわけではないのでその後もたびたび彼は危険な目にあっているんです。
これは貴重な証言であろう。「俺はそんな命令を出した覚えはない」もしロハス氏が処刑され、そのため和知参謀長が責任を問われて戦犯となり、その時氏がこの言葉を口にしたら、人々は何というであろう。誰も信じないであろう。そしてこの恐るべき「私物命令」を出したその本人は、一切、責任を問われない。
バターン戦終了時に、どこからともなく発せられた捕虜殺害の”軍命令”が実は「私物命令」だった。現在では、この私物命令の発令者が、大本営派遣参謀辻政信中佐であったことが明らかである。このことの大要は戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。したがって私などは、戦後の華々しい辻政信復活に、何とも言えない異様さと絶望を感じたことは否定できない。
……このとき(バターン米軍降伏の時)、大本営参謀の肩書を持つ作戦参謀辻政信中佐が現れて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各旧司令官に”捕虜を殺せ”と督励して歩いた。…また奈良兵団の連隊長として参加した今井武夫少将も兵団司令部からの直通電話に呼び出された。…それは、「バターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜と容認されていないから、各部隊に手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。」というものである。だが、彼は直ちに「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話を切った。…だが、連隊長の要求した筆記命令は来なかった。
「作戦要指令」においても指揮官以外は指揮できず、したがって参謀は命令は出せない。「私物命令」は最も厳格に処罰されてしかるべき行為であったはずである。左遷という処分を受けたのは逆に神保中佐であっても、「私物命令」発令者ではなかった。その多くは戦犯に問われず、戦後も何の処分も追及も受けず、辻政信のように、その行方不明まで、戦前と同じような権威と社会的地位を保持し続けている。
いったい、こういう人たちが常に保持し続けて得た”力”の謎は何であろうか。それは、ある種の虚構の世界に人々を導きいれ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出力である。その演技力を可能にしているものの一つ、それは”気迫”である。陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。だが実際にはこの「気迫」も、一つの類型化された空疎な表現軽視になっていた。どんなにやる気がなくても、その兵士が、全身に緊張感をみなぎらせ、静脈を浮きだたせて大声を出して“機械人形”のような節度あるきびきびした動作をし、大行な軍人的ジェスチュアをしていれば、それが「気迫」のある証拠とされた。
そして辻政信に関する多くのエピソードは、彼が「気迫演技」とそれを基にした演出の天才だったことを示している。“辻政信”すなわち言って言いまくるという形の”気迫誇示”の演技屋であった。結局この演技屋には誰も抵抗できなくなり、平然と始末に負えない「私物命令」が流れてくる。さらに始末が悪いことには、彼らはその口頭命令に絶対責任を持たなかったのである。まずくなれば「俺がそんなことを言うはずがあるか」で済む。「筆記命令をくれ」という理由はそこにある。しかしその筆記命令ですら、彼らが責任を負わない。「帝国陸軍の統帥権絶対神話」が今も生きている日本、そのため真の元凶、真の責任者が平然と復活し活躍し権威と名声をほしいままになしえた戦後の日本では、人が信じない一つの事実である。
「知らぬは帝国陸軍ばかりなり」。それは、わずか十数ドラムのガソリンのために、参謀が怒鳴りに怒鳴り、一少尉が5日も6日も費やしておろおろし、挙句の果ては何千人かを徴用しようという現状を見れば、「誰にでもわかる」ことであった。なぜわからなくなったのか。その虚構を外部に対して支えているものが、「仲間内の摩擦を避ける」がさらに外部へ発展した形の、「仲間ぼめ」という詐術だったことである。陸軍くらい、徹底した「仲間ぼめ」の世界はなかった。内部ではあらゆる足の引っ張り合いをしていても、ひとたび対「外部」となれば、徹底した「仲間ぼめ」である。AがBをほめ、BがCをほめ、CがまたAをほめるといった形で、その「誉め言葉」だけを外部に広める。乃木大将が陸代の講義では愚将でも外部には聖将、ノモンハンの小笠原兵団長も外部には「精神力で戦車を圧倒した名将」等々等。「仲間ぼめ」による相互称揚をお互いに着せあい、それで威風堂々とそっくり返って馬に乗って一般人を睥睨している。しかし、その衣装に惑わされているのは「日本語」で鎖国している日本人だけ、原住民から見ればまさに「無」だから、「裸の王様」なのである。日本の破滅はすでに全比島に龍柱し、それもまた気迫も演技も通用しないことであった。
補給軽視
大日本帝国陸軍において、補給は日清戦争のころより軽視され、陸軍士官学校の卒業生のうち補給部隊を希望したのは4%に過ぎなかった。陸軍大将になったもの134人のうち実に補給部隊出身はゼロ、工兵隊でさえもわずか3人である。
後方部隊が第一線よりも安全だというのは日露戦争までの話である。近代戦、特に飛行機が兵器として使われ始めてからは、後方のほうがやられるのがむしろ早い。太平洋戦争に参加した軍人の戦死者は、海軍16%、陸軍20%である。それに比し、戦没した船員は43%に達し、死者数は60545人(漁船関係も含む)に及ぶ。10代の少年の死者が多い理由は、戦時特例によって海員養成所、商船学校、高等商船学校などの卒業年限が大幅に短縮されたこと、そして船舶と船員の喪失を補うために大量の船員要請が行われたからである。14歳から19歳までの死者数は、三割(19000人)を占める。
漁船団の南方派遣については、今日に至るまで明らかになっていないことが多い。陸海軍が総力戦と高唱しておきながら、軍籍にあるものを優遇し、軍属扱いを軽視した。そのため軍属に関する記録は極めて少ない。ニューギニアで活躍した銚子、焼津の漁船団は、陸軍の船舶工兵隊の指揮下で活動しているので、陸軍の手で編成されたものであろう。ところが佐世保の漁船団は海軍鎮守府が編成したものので、陸海軍が別々の漁船団を編成していたことになる。どれほどの漁船と船員が南方に派遣されたのか見当もつかない。
16年12月1日時点の日本海運(民間)の総船腹量は630万総トンである。これは当時、世界第三位であった。開戦後、軍部主導により輸送船を急増し、昭和18年度112万トン、昭和19年度158万トンを建造し、総船腹量は920万トンに達した。このうち終戦までに喪失した船腹量は、2400余隻、800万総トンである。昭和18,19年に作られた戦時急造船は劣悪であった。そのため波浪高く敵船が跳梁跋扈する外洋に出るのは、もっぱら民間商戦630万総トンの役目であった。そして、日本海運が世界に誇った輸送客船やタンカーは、ことごとく海没られた。軍艦とは違い、民間船舶のことについては活字になることが少ない
技術軽視
フィリピンのマンガン産出量は、1941年は2万8000トンだったが、日本が占領すると年間200トンに落ち込んだ。またフィリピンは世界的クロムの産地で4年には14万8000トンを算出し世界2位だったが、日本が占領すると鉱山の火は消えてようやく1万トンというレベルに落ち込んだ。マレー半島の鉄鉱石も日本が占領すると生産が5万トン以下まで激減してしまった。戦前、日本資本が操業していた鉱山なのに、この惨状とは信じられないことだ。ビルマも41年に鉛8万4000トン、亜鉛を5万1000トン、タングステンを4200トン、ニッケルを740トン算出していたが、日本が占領するとこれらの産出量はすべてゼロになった。陸軍が技術者を徴兵してしまい、鉱山に技術者を送り込めなかったのである。採鉱治金の技術者、熟練した鉱山労働者が兵士として小銃担いで中国大陸を歩き回っている構図だったのだ。これはすべての重要産業でいえることだった。その代わりに自称、他称の憂国の士、愛国精神に燃えたる国粋主義者の登場だ。もちろん年配の鉱山技術者も送り込まれたが、鉱山のことなど全く知らない30代の佐官に怒鳴られたり、小突かれたりしたらやる気を失う。そもそもが軍政の失敗だ。意味不明の大声を上げて軍刀を杖にふんぞり返る習性はさておき、経済というものを理解しえる軍人がいなかったのが致命的だった。何の裏付けもない軍票を乱発しては、経済が大混乱して住民をそっぽを向く。紙切れ一枚で富を得ようとは虫が良すぎる。38式歩兵銃に代わる、41年に本格的な量産が始まった99式歩兵銃は不純物の硫黄やリンにより、入内な折損事故が頻繁に起きた。
日本鋼管の白石社長が新聞紙上で次のような声明を出していたことを私は今でもはっきり記憶している。「職場から召集されて出ていった熟練工を全部返してくれ。そしたらそれに数倍する徴用工を全部お返ししてしかも現在以上の生産を必ず上げて見せる」と氏は豪語した。 「農村からの徴用はやめて食料をもっと増産してくれ、工業生産は都市の勤労者で責任をもって引き受ける。だが俺たちが力いっぱい働けるだけの食糧は確保してくれ」
関東工業という民間工場があり、20ミリ榴弾を作っていたが、そこのK社長が日ごろ語っていた「我々は米国だけと戦っているのではない。帝国陸軍とも戦わなければ、この戦争は勝てない」彼がそう嘆いたのも無理はない。民間軍需工場はすべて軍工廠の監督指揮下に置かれていたが、軍工廠は幹部から下級役人に至るまで極端な精神主義に凝り固まり、民間工場から提起する合理的な改善策は容易に取り上げなかった。
次に2例を上げる。工場建屋をそれぞれ100メートルくらい離して林間に隠し、一方が被爆しても他方で操業が続けられるよう計画したところ、「軍が北に南にと作戦している中で、いたずらに空襲を懸念するとは何事か」といきり立つ。榴弾の製造方式を造幣廠では普通旋盤仕様と決めていたが、これをブランシャープ型あるいはインデックス型の「自動旋盤」にすれば、一台で普通旋盤6-8台分の仕事をする。インデックス型の国産化してこの仕事に充てようと企てたが、これもダメ「工員が、汗水流して削り出した砲弾であればこそ、戦場で威力を発揮しるのだ。それを自動旋盤に削らせるとはもってのほか」。このK社長は間もなく解任された。
今や軍の組織が国民生活を根底から破壊していく。その思いはみな同じだったが、一言でも本音を吐けば、たちどころに身の破滅となる。軍という武装した暴力集団を批判し、制動する力は、軍の内部はもとより、広く国内のどこにも見当たらなかった。外国との戦いで軍組織が叩きのめされる以外に解決の道がない。終戦の今振り返ると、国民は少なくとも帝国陸軍との戦いには勝った。ニューギニアの死者も、東京大空襲の死者も、沖縄、広島、長崎の死者も、すべてこの勝利を引き出すために、避けることができない人身御供だったのではないか。
陸軍は最後まで、民間の知識も技術もその組織に合理的に組み入れて活用しようとせず、また、最後の最後まで知識人にも学生にも背を向けていた。これは志願兵が続出して大学が空になり、一方軍は彼らの知識・教養を百パーセント活用したといわれる米英とは実に対照的だ。さらに、切羽詰まって学徒を動員してもその知識を活用しよとはせず、ただ「量」として、幾何学的組織の中に位置づけることしか考えなかったから不思議である。そして量の面で大学生が的確でないなら、内務班で絞って、鋳型にはめ込むべきだと考えても、技術とか知識が時には軍司令官に命令を下しうるものだ、それにはどうすべきか、という発想は全くなかった。特許出願もできなかった。「特許とは個人の利益を保護する制度ではないか。それなのに滅私奉公の叫ばれる今、特許出願とは何事か」という雰囲気が強かった。
だがこれにも良い面があった。娑婆・地方の身分や技術・能力によらず、いくら熟練の技術者だろうが、実績ある工学者だろうが、軍上級将校の下では皆土方や農民と平等な奴隷なのだ。
丸山真男東大教授 いわゆる「地方」では、どんなに高い階級にいたものでも、軍隊に入ったら、軍隊の階級秩序に従わなければならない。それが日本の軍隊の大きな特徴だ。「地方」の社会的地位や家がらなんかはちっともものを言わず、華族のお坊ちゃんが、土方の上等兵にビンタを食っている。何か、社会的な階級差からくる不満の麻酔剤になっていたと思われるのです」。
WW1後、アメリカはモンロー主義をとり、産業の規模に比べて小規模なものの、海軍は維持されたが、陸軍は徹底的に軍縮された。陸軍は戦間期は13万5000人程度であり、36年より徐々に増強されたが1939年のWW2勃発時も19万人とルーマニア軍より小さく、戦争の準備はできていなかった。WW1後アメリカでも今後の戦争は総力戦との認識があったが、新進気鋭のウエストポイント校長の方針は永田鉄山ら日本陸軍とは真逆だった。これからの士官は、軍人の美徳だけでなく、人間に感情についての深い理解、世界各国の情勢を深く理解し、指揮の心理の変化に相応した寛大さも併せ持たなければならない。
理事会 | 校長、君の教育方針は、伝統を無視している。軟弱な将校を生み出すばかりじゃないか? |
いや、これからは軍事だけでなく、内燃機関や社会学、歴史学、統治や経済学の講義も行っていく。教官も毎年一か月は一般市民向けの大学に通って近代教授法を学び、士官候補生も給与と休暇を出してニューヨークで遊べるようにして外界との隔たりを緩和しよう。スポーツもバンバンやって他大学と交流だ。上級生の下級生へのしごきも廃止だ。 |
陸軍における研究開発費は総額が戦艦1隻の建造費の20分の1にすぎず、レーダーや近接信管とも全く縁がなかった。軍の給料は1920年以後上がっておらず、若手将校の多くはやりくりに四苦八苦した。WW1後に将校の地位は大戦以前に戻され、将校と兵士と問わず、昇進はまるで氷河の動きのように遅く、大佐に昇進するのが通常59歳で、マーシャルのような有能な将官でも、准将になったのはやっと56歳であった。多くの将校はマーシャルのように優秀でも幸運でもなく、わずかな予算でやりくりする中で、時代遅れの武器や装備でお茶を濁し、世界的な問題や国際紛争への関与を考える時間などまずなかった。しかし教育改革により、陸軍士官学校は再生され、レヴァンワースの要塞に新たに指令および指揮幕僚大学も設立、WW2が勃発した時には多くの有能な若手士官を見つけることができるようになっていた。
一方陸軍航空隊は、ウィリアム・ミッチェル准将を中心に空軍力の研究、宣伝を行い、陸軍からの独立を企図した。当時のマッカーサー参謀総長は独立は認めなかったが、空軍予算及び研究は割かれ、新しく開発されたノルデン爆撃照準器は高高度爆撃において驚くべき命中率を誇り、これまでの航空機より大幅に質の向上したB-17の4発爆撃機もボーイングで製造された。1935年には陸軍省は半独立の航空総司令部を設置し、すべての航空機戦闘部隊は単一の司令官の指揮下に置かれ、その司令官は平時は陸軍参謀総長に、戦時には地上戦域司令官に従属することになった。しかし41年2月の時点で航空隊の保有機はB-17の50機を含む500機にすぎず、最新戦闘機P40Bはゼロ戦の敵ではないことが明らかになった。41年の米国民のほとんどは空軍でなく海軍こそが日本に対する国防の第一線とみていた。
海軍ではほとんどすべての士官はアナポリス海軍兵学校であった。陸軍は参謀総長マーシャルをはじめ、4人の軍司令官もウェストポイント出ではないのに、海軍では重要なポストはアナポリスで占められていた。海軍兵学校はスパルタで縄張り意識が強く、知的な面では貧困であり、教育上遅れていた。海軍の戦争概念については19世紀末の戦略家アルフレッド・セイヤー・マハンたちの艦隊、制海権、海での一大決戦での勝敗を決するというアイデアであった。海軍の研究開発計画は、陸軍よりもはるかに大きな予算を持ってはいたが、無尽蔵ではなく、音響兵器やレーダー、造船工学で進歩はあったが一様でなく、米海軍は世界で最高の潜水艦を持っていたが、その魚雷は最低だった。ワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約により艦隊は制限され、グアム島やフィリピン諸島への基地強化までは許されなかった。
米軍の増強
ドイツの脅威と太平洋での状況の変化により急速に軍の増強を始め、1941年には150万人となったがほとんど経験のない新兵であった。海軍はまだ遠征を行える規模ではなかったし、戦艦や空母はまだ造船所で建設中であった。しかし産業は強く、石油や石炭などの天然資源や、広大な耕作農地にも恵まれ、物資、戦車、航空機などを連合軍に大量に供給していた。開戦後、アメリカの膨大な資源と生産力は、1945年8月の太平洋には、1,137の戦闘艦、14847の戦闘機、2783の大上陸用舟艇と何千の小上陸用舟艇、400の前哨基地、152の洋上艦ドックを配備するなどとんでもないレベルであった。アメリカの産業界の総動員体制への転換に対し、軍需生産に特化した大盤振る舞いが行われ、関連予算は1500億ポンドまで膨れ上がる。「アメリカ陸軍は問題を解決したりはしない。問題をただ圧倒するだけ」(あるアメリカの将軍)。開戦後のアメリカの徴兵はすさまじく延べ1611万人に及び、ヨーロッパ戦勝記念日における米陸軍の総兵力はピークに達し830万であった。米海軍のピーク1945年7月末に340万となった。
アメリカ軍として戦った兵士や船員は大半は民間人からの充員であり、他国ほどのプロ意識はなく、ドイツ軍と比較して戦闘力は70-80%といったところであった。民主主義国の軍の士気は優れているとの幻想は、全体主義国の軍との戦いの実戦にて崩れ去った。特に陸軍は対独戦では多くの死傷者や精神病者を出し、海軍は対日戦で多数の沈没艦と損傷艦、海兵隊も日本軍の固く守備された拠点(硫黄島・沖縄など)を攻撃するケースが多く多数の死傷者を出した。アメリカは太平洋戦線では、大規模な火力と兵器、補給体制により対抗した。
米軍展開
第二次世界大戦中、のべ陸軍で約1120万人、海軍で約420万人、海兵隊で66万人が従事した。アメリカはイギリスと違い、真珠湾により国民世論がたきつけられていたため、日本をドイツと並ぶ主敵と考えいた。米陸軍は43年末には総員の35%の232万8427人が国外派遣され、対独伊戦線(大西洋西岸含まず)に141万6485人、対日戦線(アラスカ含む)に91万2953人であった。海軍は対独戦に39万1400人、対日戦に80万4800人であり、海兵隊はほとんど対日戦であったから、43年末では対独181万0367人、対日187万8152人とアラスカを含めれば拮抗していた。44年1月1日陸軍と海軍に割り当てられた戦争船舶は、太平洋で429万トン、大西洋で530万トンとこれも拮抗していた。
しかし1944年からの米陸軍の増強は、格段に対独戦に傾いていき、ドイツ・ファーストを現実のものとした。総じて陸軍と空軍の人員の78%がドイツに対して配備され、22%が太平洋に配備された。一方全海兵隊と米海軍の70%が太平洋に配備された。しかし陸軍の海外派兵数は海軍の3倍近くに達しており、1945年3月に540万人の海外派兵を行い、対独戦に365万人、同時期対日戦146万人と大差がついた。米海軍の海外派兵のピークは1945年6月末で212万人、太平洋戦線のピーク時は1945年8月30日で137万人が派遣された。1941年から45年の間に、約125万のアメリカ人男女が太平洋および他のアジアでの戦域で軍務についた。総じて米軍は1944-5年のドイツ降伏にかけて、対独戦のおよそ0.5-0.6倍もの戦力で対日戦に当たっていたことになる。米国は「日本との闘いに総戦争努力の4分の1以上も割り当てた」と述べた。
太平洋では、豪州からフィリピンにかけての南西太平洋をマッカーサーが、残りの北・中・南太平洋すべてをニミッツ提督が総司令官として指揮した。領域内は陸軍海軍とも管轄司令部の指揮下に入るが、太平洋艦隊のみはいずれの戦域でもニミッツ提督の指揮下にあると決められていた。
太平洋で任務に就いた陸軍、空軍の軍人のうち、将校の約40%、兵の33%が戦闘を経験した。将校と兵の各19%が敵の銃火にさらされる経験を有したが、残る40%の将校と45%の兵は一度も戦闘現場を見ずに終わっている。太平洋の戦いは、短い戦闘と長い「待機」の時間が続くことに特色があった。ある陸軍師団は太平洋で19か月間任務に就いたが、実際に戦闘を行ったのは31日間だけだった。別の師団の場合、27か月のうち、戦闘日数は55日だった。これとは対照的に、ヨーロッパ戦線の米軍部隊はしばしば、数か月ぶっ通しで、第一線で戦い続けた。(長い「待機期間」を別にすれば)、太平洋で短い戦闘を戦った将兵たちは、欧州の戦友よりつらい思いをした。国外任務期間は長期に及ぶことが多く、リヴァプールのような整備された港湾はなく後方支援基地の多くは暑く不健康な未開の地に設けられた。1944年春、陸軍の心理学者が二つの師団を対象に実施した調査によれば、一つの師団では歩兵の66%、他の師団では41%が、少なくとも一度、マラリア治療のために後送された経験を持っていた。すべての近代戦に共通して言えることだが、歩兵はその数に不釣り合いな、高い危険を背負わされる。アメリカの陸軍師団を例にとれば、歩兵部隊が全兵員数に住める比率は70%に満たないのに、死傷者に占める比率は全体の90%に達している。
WW2では、サルファ剤、ペニシリン、血漿などの新しい医薬品が実用化され、航空機による緊急輸送など新しい手法が導入された。その結果、負傷者の生存率はかつてなく高まった。通常、負傷者が最初に手当てを受けるのは、大隊ごとに前線から10ヤード以内に設けられる救護ステーションである。けがが重く、体を動かしても差し支えない場合は、後方の集結ステーションまたは送還ステーションに運ばれ、そこで治療を受け、送還を待つ。ニューギニアでは戦闘の初期は大きな病院設備を欠き、野戦病院すら設けられていないことも珍しくはなかった。ブナ・ゴナ作戦では、前線から1200ヤード以内に携帯用の外科キットが据え付けられた。この試みは大成功を収めた。しかし戦争の全期間を通じて、医療作戦上重要な役割を果たしたのは、陸路また海路による傷病者の後送であった。航空機による後送も大きな効果を上げた。14機のC54輸送機は1か月間に1隻当たり500のベッドを備えた病院船6隻と同数の患者を運べたし、患者の死亡率も100人当たり7人未満にとどまった。LSTを改造した病院船の場合、改造されたデッキには負傷者の受け入れ室、消毒室、手術室のほか、78ベッドの病室と24のトイレ、洗面台が設けられた。海軍相は当初、LSTを病院船に改造することを許可しなかった。だが、すでにそれを実施に移していたマッカーサー旗下の水陸両用部隊司令官、バーべ―提督は「不許可」の返事が記された海軍省の文書を「戦闘の際、一番失われる可能性の高いファイル」にとじこんだという。樹木がもつれ合ったニューギニアやソロモンの密林で、輸送は人力による担架で行われた。ニューギニアでは担架に何日も揺られる長旅すら珍しくなかった。
実戦体験者の中でも、戦闘中に死傷する危険に直面したものは少数派だった。華々しさには欠け、多数の将兵が体験した苦痛は倦怠と孤立感と寂騒であった。辺境のアリューシャン列島の気象基地に勤務した兵隊は「何週間もぶっ通しに、来る日も来る日も長い夜勤の仲間といえば、戸外を吹きすさぶ風だけだった。声を限りに叫びたい―そんな衝動を押し殺さなければならない時もあった。」
太平洋の島嶼では、食料はたいてい缶詰食品だった。戦闘中歩兵や海兵隊員の唯一のねぐらとなったのはたこつぼの塹壕だった。戦闘作戦の完了した後ですら、生活条件はたいして良くならなかった。第一海兵師団の記録班「太平洋の戦いでは、戦闘そのものより、その中間の期間がいかにつらく、気が滅入ることであったことか。最後に敵と砲火で交えたときの記憶を捨て去り、次の戦いに備え、気分を引き締めさせることがいかに難しかったか……。民間人や他の戦場で従軍した兵士にこのことをわかってもらおうとしても、それは報われることのない不毛の努力に過ぎなかった」
黒人兵と婦人兵
最初は共産主義者が、次に日本及びナチスのスパイが人種問題を仲たがいの原因として躍起になった。豪州では差別意識が根強く、シドニー市内の人気あるミュージック・ホールやダンス・ホールはたいてい黒人兵を締め出した。
WW2前夜、軍務についていた黒人は4000人にも満たず、その数は1900年当時を下回っていた。1940年以降、軍は急速に膨張していったが、軍首脳部は黒人兵を多数受け入れるのを避けようと努めた。だが最終的には100万を超える黒人男女が軍務についた。黒人の将校、戦闘機パイロット、さらには将軍も一人誕生した。だが大多数の黒人兵はいわゆる後方部隊に編入され、道路建設、港湾荷役、洗濯など、つらい肉体労働に明け暮れた。工兵隊や補給部隊に割り当てられた黒人兵は、太平洋、極東のほぼ全域で任務に就いた。第81航空整備大隊は、硫黄島で日本軍の狙撃兵と銃火を交えながらB29用の滑走路を整えた。
海兵隊には黒人兵は一人もおらず、海軍も給仕以外の黒人は採用していなかった。陸軍では太平洋の戦いに加わった黒人戦闘部隊のうち、実戦を体験したのは第93師団所属の黒人兵で、まずブーゲンビル島、続いてモロタイ島、モルッカ諸島、サイパン島と転戦した。同師団の第24連隊はサイパン島で華々しい活躍を見せた。しかし最も話題を呼んだのは第25戦闘連隊だった。1944年4月、ブーゲンビル島で初めての偵察任務に就いたが、ひょっこり機関銃座を守る日本兵と出くわした。戦場慣れしていない小隊の兵士たちは慌てふためいて発砲、同士討ちを始めた。10人が死亡、20人が負傷した。これは確かに不名誉な出来事ではあったが、南太平洋のジャングル線では、ほかにも戦闘慣れしていない部隊が同種の事件を引き起こしていたし、特にひどいといえなかった。しかし黒人からなる戦闘部隊に偏見があった当時の風潮の中で、この事件は「それ見たことか」とばかり、大げさに取りざたされる結果となった。事件後、25連隊は幾たびも偵察活動で見事な成果を上げ、一度などは、その偵察が元になり、モロタイ島で日本軍の高級将校一人を捕虜にすることもできた。
対日戦争中、婦人兵が最も多く勤務したのは南太平洋の戦場で、その数は約5500名に達した。マッカーサー軍は管理業務を豪州で募集した民間人に頼っていたが、米軍がニューギニア、フィリピンに到達するに及び、こうした民間人が部隊とともに移動することは不可能となり、急に人手不足となった。このため、マッカーサー軍はWAACの余剰隊員を一人残らず駆り集める緊急手段をとった。
南西太平洋指令部のサザーランド参謀長が愛人でもあった豪州人の女性秘書をWAACに潜り込ませ、一緒に連れていけるよう工作した。サザーランドは、GFを含め3人の豪州人秘書を同行することはマッカーサー将軍自身も望んでいるとして、思い通りに事を進めた。WAACのホビー大佐は、「WAACの将校はすべて、兵、下士官の中から選ば絵れる決まりになっており、部外者をかってに将校に任命するわけにはいかない」と激しく抵抗したが、サザーランドに押し切られた。サザーランドの策謀は後日、マッカーサーの耳に入り、問題の女性秘書の夫が離婚訴訟を起こすと息巻いていることも分かった。このため、女性秘書は「サーカスの魔術で、大砲から打ち出される美女よろしく、電光石火の早業で豪州に送還された」。だが時すでに遅く、事件はWAACの評判を大いに落とした。「WAACは将校連中の慰安婦に過ぎない」という誹謗が息を吹き返した。こうした事件にもめげず、WAAC所属の専門技術者、秘書、無線技士、郵便、補給事務員、整備士は遠く本国を離れたニューギニア、フィリピンで職務を遂行した。
WW1が終了すると、自治領は、英本国のために自国の人材を犠牲にすることを躊躇するようになったが、一方で極東・太平洋地域での日本の脅威の増大から守ってくれることを英国に期待した。第二次世界大戦が勃発する前、豪州とニュージーランドの防衛費はGNPの1%未満だった。以前は英国の極めて重要な人的供給源であったインドは、部隊をインド国外で使用することに反対し始めた。そして、1933年以降、英政府はインド外にインド兵を展開する場合に給与を支給しなければならなくなった。1918 年の選挙法改正により、英国社会がより民主化され、英国の大衆は軍事費の削減と社会保障費の増額を要求した。1934-7年、ネヴィル・チェンバレン蔵相は、再軍備が経済の民間部門に影響を与えたり生活水準を低下させることはないよう試みたが、英国のGNPに占める防衛費の割合は 1935年の3%から1939年には約18%まで増加した。一方、ドイツの防衛費は35年のGNP比8%から、39年に23%に上昇していた。
1940年6月、フランスが降伏し、イタリアが枢軸側について参戦した。1941 年にかけて、英国の安全保障上の利益に優先順位が付けられ、英国をドイツの侵略から守ることが最優先事項にされた。大英帝国に関しては、地中海、そして中東の油田地帯の防衛が第一の優先事項で、帝国東部の防衛が第二であった。そして、極東の優先順位は最下位であり、英国は豪州とニュージーランドの防衛に関しては明確な保証を与えることができなかった。英国は、中国の窮状に同情はしたが、戦略上の利益を考慮して中国を支援し、日本が満州を支配することに対して、ほとんど反対しなかった。1941年にはヒトラーがソ連を攻撃した。ソ連との同盟を維持することは、欧州の戦争において重要な考慮事項となった。1941年9月、英国の貴重な戦闘機は、マレーやシンガポールではなく、ロシアに送られた。
イギリスは予算不足のため、大戦間に陸軍は大幅に縮小され、陸軍司令官の解雇もあった。海軍も予算が厳しく、キングジョージ2世級戦艦は保守的な設計であり、空母は世界最高の防御力だったが、海軍航空機が世界最悪だった。しかし、アメリカより多数の優秀な艦載機のレンドリースを受け、機動部隊はかなりの実力を有していた。大戦後半にはドイツ海軍が壊滅した為、一度は日本軍から叩きだされた太平洋戦域に投入され、主に日本軍の特攻機と激戦を繰り広げる事となった。幸いにも空軍は、敵であるドイツと同等の品質であったが、4発爆撃機ランカスターの量産に注力し7,000機以上を生産。大戦序盤の1940年からドイツ本土爆撃を続け、後に加わった米軍とドイツ本土の主要都市や生産拠点を破壊し、ドイツ空軍を完膚なきまでに叩きのめしている。太平洋戦域では主に戦場が高温多湿で整備に苦労し、戦闘で失うより多くの航空機を事故や自然消耗などで失ったが、1943年10月のスピットファイアの配備以後は制空権を獲得し、米国から供与されたダグラスC47輸送機の無尽の活躍でインパール作戦を圧勝に導いた。
英国の士気低下
イギリス軍の兵士がジャングル生活に無能だとけなされていた。チャプマンは、二人の砲兵と二人のアーガイル部隊の若い兵隊と出会った。後者は、脚気のほかに性病を患っていた。少なくともビタミン欠乏症だけは治るよう、ビタミンBを与えた。「彼らの心構えは、ビタミンBでは治せない。彼らはその心構えのゆえに、ゆっくりと、しかし確実に死に近づきつつあった。私の経験によれば、たまたまマレーのジャングルに取り残されたイギリス軍兵士は、わずか数か月しか生命が持たない。他の人並みの下士官なら、一年か、それ以上持ちこたえる……兵隊隊は、新しい生活様式にも米の飯にも果物にも適応できない。この緑の地獄で、彼らは数週間で死ぬと予想され――そして、その通りだったのである」。とはいえ、泰緬鉄道の工事現場からの逃走に成功したイーストサリー部隊のラス・パガニ伍長のように過酷な旅程を生き延びたイギリス兵もいた。
WW1に参加したイギリス人が抱いた、純粋な奉仕と自己犠牲の精神、さらに「ジェントルマンの理念」と結びついて、いまだ残っていた中世的な「戦いの理想」へのあこがれ、しかし結局ことごとく裏切られる、旧弊たる無能な司令官、むちゃな命令、参謀業務の不備による悲惨な結果。この大戦争の後、帝国はもはやそれ以前の姿に戻ることはありえなくなった。WW1終結により大英帝国の領域が最大限に達したあと、英国はその支配範囲をさらに拡大するのを避けようとした。費用が掛かりすぎて賄いきれなくなったからである。さらに、1920 年代初期になると、米国に対する英海軍の優位は終わりを告げた。アジア・太平洋地域において英国が米国と協力することを決定したのは、この時期であった。1920-40年代のイギリス人の多くは戦後のイギリス政府が大英帝国を長く維持できるなどとほとんど考えていなかったのは明瞭である。1945年ごろにはごく限られた英国民しかこれを欲さず、戦争費用の負担なんかまっ平だった。
ばかばかしいほどに大胆で攻撃的な日本軍とは大きな食い違いがある。この違いをビルマ戦を戦った英兵はのちに語る。
この理由は、日本国民が、イギリス人にとってのソンムやパーサンダーラのような、国民の体質化した悲惨の戦いの記憶を持たないからだ。イギリス軍に加わった青年たちは戦争も軍の栄光もすべて信頼できない巨大で残酷な幻影にすぎないという価値の下に育ってきた。だが日本人は戦争の欺瞞性という前提を共有してはいなかった。もっとも彼らも45年8月までには彼らも彼らのパーサンダーラをいくつも…(例えば、インパールとか) |
それは一つの真理かもしれない。しかしこのような弱体な国が、いまだ世界の4分の1を支配していることに、周りはどう思うか。
イギリスは弱い。すぐ撤退する。 | 武藤章軍務局長 | こんな欺瞞だらけの連中はドイツに敗北して崩壊するな、その好機にイギリスの勢力を大東亜から駆逐するぞ。 |
注目すべきことは、WW2でのイギリス兵の戦死者は39.7万人、民間人を合わせても46万とWW1の半分以下に過ぎなかった事実である。しかもWW2は欧州だけではなく、アフリカやアジアも主戦場となったのにである。イギリスにとってWW2は、他の交戦国には見られない不思議な明るさが浮かび上がる。いまだ史上最大の帝国版図を誇りつつも、本国では人々が寒風の中を失業者救済の配給の列に並んだ1930‐40年代は、陰鬱なトーンに満ちていた。そしてチャーチルがその死を迎えた60年代半ば、英国はアジア・アフリカの主要な植民地からほとんど撤退し、大英帝国はすでにその清算をあらかた終えつつあった。60年代のイギリスは欧州の一員としての「ビートルズのイギリス」でしかなく、今や全く身軽となったさばさばとした「明るさ」を描いている。
それは一つにはWW2では自由と平和への脅威に対する正しい戦争という国民的コンセンサス、WW1ではイギリスの戦争への協力をあれだけ渋ったカナダや豪州の国民を含めた、帝国の諸国民のコンセンサス、が広く存在したことも、この明るさの一つの理由であろう。「帝国のジレンマ」の日々に別れを告げ、ただ「勝利」だけを目指して進めばよいという吹っ切れた気分、多くの国民がなんのために戦うのかを確かに知っていたのである。WW2ではダンケルクの奇跡や栄光のバトル・オブ・ブリテン、スエズを背にしてロンメルのドイツ機甲師団を独力で反返したエルアラメインの勝利、そしてアメリカ兵と肩を並べベルリンへの道を切り開いたノルマンディー上陸作戦と、数々の英雄的な場面に彩られる抵抗と勝利の名場面があった。こうした明るさには、無茶苦茶だがどこか憎めないリーダーも関与したのかもしれない。
__,人__ ようやく儂の偉大さに気づいたか  ̄'`Y´⌒ヽ (`・ω・) |
民 |
うおおぉ、閣下、明るい! (物理的に) |
そんな英雄チャーチルも、戦後の選挙で大英帝国の栄光と維持を訴えた途端に、英国民に首にされてしまったのだが。
チャーチルもルーズベルトも中国を戦争に参戦させておくことは重要であると考えたが、それ以外の点では異なっていた。英国は、中国の軍事力を重視していなかった。そして、太平洋戦争終了後に香港が中国に接収されるのではないかと懸念していた。一方、米国は日本を打破するうえでの中国の潜在的な役割に期待していた。巨大な中国陸軍を再訓練し、日本本土に対する大規模な攻撃作戦の準備をさせることが可能だと考えていたのである(だが、それは誤った判断であった)。その後、中国陸軍の戦闘効率を向上させるために、米国のジョセフ・スティルウェル中将が中国における米国軍事代表に任命された。また、スティルウェルは蒋介石の参謀長であり、中国、ビルマ、インド戦域における米陸軍の司令官でもあった。しかし、中国は、英米の初期の合同戦争戦略にとって重要な要素ではなかった 。
食糧、燃料、武器を中国に運んでいた輸送機は、徴兵された中国人を満載してラムガールに帰ってきた。到着した部隊は征服も武器もなく、疲れ果て、病衣人も多く、文字通り裸の者すらいた。セオドア・ホワイト記者は書いている。「アメリカ人にとってラムガールはシベリアに等しく、ジャングルの戦闘よりはややましと考えるのに対し、中国人兵士にとっては夢の国だった。彼らは生まれてはじめてほしいだけの食物や肉を飢えた体に詰め込んだ……訓練には本物の砲弾や銃弾を使った。面倒を見てくれる病院もあった。1942年から44年の間に、4個師団の中国軍がここで誕生し、中国史上初めての戦闘装備を身につけた」。ラムガールでの成功のカギは、スティルウェルの幕僚であったヘードン・L・ボートナー准将が訓練所を切り回し、予算、補給、糧食まですべて統率していたことにある。
中国軍は西洋的な意味では軍と呼べない種類のもので、ほぼ旧中国の十二の省にあたる「戦区」に散らばる地方軍閥軍の寄せ集めであった。軍閥将軍たちはそれぞれの戦区の司令官の役割を果たし、その職分によって民生と軍事の両面を支配していた。おおむね装備は貧弱で訓練もできていず、戦区司令官の勢力を払植することを主な任務として日本軍とはめったに戦わなかった。総統に直属する軍隊は訓練も装備もまだよかったが、兵力は不足し火力にかけ、またその指揮官たちも武勲より総統への忠誠度で選ばれることが多かった。アメリカの軍事使節団の一員は書いている「アメリカ人が一般に考えているような、中国が日本軍の進撃を阻止し多くの輝かしい勝利を収めた、という見方は幻想にすぎない。日本軍は多くの場合どこへでも進撃することができた。……中国軍には攻撃行動をとるだけの意志はまだ存在していないかった。
中国軍の徴兵制度及び兵士の取り扱いを調査したウェデマイヤーの連絡将校の多くは、「これでは、訓練の効果が出るまで、兵隊が生き延びることすら難しい」とその実態にあきれ果てた。徴集兵用の糧食は極めて量が少ないうえ、何人もの手を経るうちにかすめ取られ、新兵が最初の任地につく前に病気や飢えのために死んでもおかしくないほどだった。「兵士たちは訓練基地まで行進して行く途中で、骨と皮ばかりにやせ衰えていく。脚気の症状が現れ、足は膨れ、腹が突き出し、腕と大隊の肉は落ちていく」と、あるアメリカ人将校は書き記している。アメリカ側の糧食調達委員会がある補充兵集結所を調査したところ、徴集兵全員が栄養失調、結核、脚気その他の疾病にかかっていた。「重症の補充兵たちは便所に隣接した厨房で自ら食事を作らねばならなかった。瀕死の病人と隣り合わせに支隊が横たわり、何日間も放置されることもあった。」中国では、徴集兵の死は特別の利権を伴った。死亡の事実を報告しない限り、指揮官はその給与と糧食を横取りできたのである。調達委員会、補給将校、栄養学の専門家などを動員して、ウェデマイヤーの部下は中国軍平素の食生活を基礎から改善しようと英雄的な努力を重ねた。そして肉体的条件を満たした健康な兵士グループを作り出しはした。
一号作戦が開始された時、重慶を特別訪問したヘンリー・ウォレス副大統領は、蒋介石に対し、共通の危機に直面した今、共産党と国民踏破相互の相違点の克服に努めるべきであり、したがって、アメリカが北部の共産軍の拠点に軍事使節団を派遣するのを認めてほしい、と求めた。蒋介石はしぶしぶ同意した。デービット・バレット大差を長とする、軍人と外交官からなるアメリカの使節団は(ディキシーミッション)は1944年7月、延安に入った。一行は共産軍にみなぎる活力と戦闘意欲に好感を持った。朱徳、周恩来、毛沢東ら共産党幹部の形式ばらない、打ち解けた態度と率直さは、旧習墨守と儀式ばった形式主義を旨とする重慶の国民党幹部と好対照をなすものとして、使節団員に強い印象を与えた。交渉は結果的には実を結ぶことはなかった。
カナダや南アフリカが独立していく中で、豪州は英国の一員でありたいという保守的な要求が強く、ウェストミンスター憲章は批准していなかった。従って英国の参戦により自動的に1939年9月3日に対独宣戦した(一方南アやカナダでは、宣戦布告は議会の激しい議論を要した)。ロバート・メンジーズ首相は、英国が敗北すれば豪州も終わりだと考え、戦意なかった豪州国民も、この立場は受け入れた。
1939年9月9日に国家安全保障法が成立、政府が産業徴兵を導入することを可能にし、男女が必須産業に命令された。1940年に配給が始まり、1942年に拡大した。
優先順位が低い極東で、英国による豪州とニュージーランドの防衛は放棄され、41年夏にシンガポールの危機が迫ってくると、多くの豪州国民は自国が侵略されることを恐れた。志願兵が募集され、地元防衛民兵が組織された。1941年5月メンジーズは4か月に及ぶ海外出張から帰国したが、大英帝国の戦略の優先目標の変更に関して取り付けることのできた保証はごくわずかであった。逆に豪州の民衆を相手に、長らく豪州を留守にしたことを弁明したうえで、悲惨なギリシャ作戦で生じた損失の理由を説明せざるを得なくなったのである。メンジーズの政策は、今回は労働党は支持しなかった。8月29日、メンジーズ首相は辞任し、アーサー・ファデンの短命内閣の後、1941年10月太平洋重視のカーティン内閣が成立した。豪州の経済、国内および産業生活全体の完全な見直しを行い、燃料、衣料品、食料の配給が導入され(英国ほど厳しくはないが)、クリスマス休暇が短縮され、「停電」が発生し、公共交通機関が減少した。カーティンはチャーチルからの援軍を求め、そして歴史的な発表を公表する。
「豪州政府は…はこの太平洋地域における戦闘を第一優先とし、米国と豪州が地域における民主主義陣営の戦闘計画の方針策定に関して最大限の発言力を持たねばならないと考えている。いかなる制約があろうとも、豪州は英国との伝統的なつながりと同族意識にまつわる苦悩を振り払って米国に期待を掛ける」
チャーチルは激怒したが、シンガポールが陥落してからは、アメリカに豪州防衛を任せざるを得ないと考え変えた。カーティンは、チャーチルに宛てて「シンガポール撤退は許しがたい裏切り行為とみなす」と書き送り、「豪州のための戦い」が続くと予測した。豪州は、武装、新型戦闘機、重爆撃機、および空母もなく抗戦の準備が整っていなかった。豪州の精鋭部隊は、中東でヒトラーと戦っていた。
太平洋で戦争が始まったとき、英豪の関係はかなり緊張していた。41年12月ダーウィンと豪北からすべての女性と子供たちを避難させ、日本の侵攻につれ1万人以上の難民が東南アジアからやってきた。チャーチルは、豪第6,7師団が中東から撤退して自国の防衛に当たることに同意せざるを得なかった。
1942年2月19日、豪州本土が初めて敵に攻撃され、空襲を受けたダーウィンは壊滅的被害を受けた。その後の19ヶ月間で、豪州はおよそ100回も空爆を受けた。豪州第6、第7師団を含む豪第一軍団の大部分は、1942年初頭に豪州に戻り、日本の脅威に対抗した。地中海にいる豪州海軍の全艦艇も太平洋に撤退したが、ほとんどの豪州空軍(RAAF)部隊は中東に残っていた。豪州はこの危機にアメリカの支援を求め、ルーズベルト米大統領は、1942年3月にフィリピンのダグラス・マッカーサー将軍に、豪州へ脱出し米豪連合軍の司令官となるよう命令した。豪州は1942年10月9日ついにウェストミンスター憲章を批准し、1939年に遡り適応するとした。完全な主権への最後のステップは、英国での1986年オーストラリア法の可決だった。同法は、豪州の法律を制定する英国議会の権利を撤廃し、英国の役割をすべて終了させた。第二次世界大戦は、国の経済、軍事および外交政策に大きな変化をもたらした。工業化を加速させ外交政策の焦点を英国から米国に移した。より多様で国際的な社会の発展ももたらした。
カーティンは日本軍が迫りくる中で、マッカーサーに豪軍全部を差し出し、豪州防衛をゆだねる決断をした。未訓練の米歩兵一個師団が到着したばかりの状態で、カーティンは外国の将軍に国家の運命を託したのである。42年中ごろは、米陸軍師団2個に対し、豪軍は12個師団を有していた。カーティンの決断は尋常な精神力ではできなかった。マッカーサーはカーティンの最高軍事顧問になり、豪州に前例のない影響を及ぼした。悪い影響ばかりではなかった。南西太平洋指令部は、米本土から専門家を読んで現地産業に対する積極的な遊休設備の利用と技術指導を行い、交通システムや流通機構の整備まで手を貸した。豪州の産業は発展し、補給物資等の米国への供与が被供与を大幅に上回った。いくつかの歴史家は、カーティンが豪州に対する日本の脅威を誇張していると主張した。首相としてのカーティンの正当化は、1941-45年に実行可能な代替政府が存在しなかったことである。他の政治家がこの仕事には適していなかったことを認めている。彼の政府は印象的な決定を下し、国民のリーダーとしての成功を収め、豪州人からの敬意を獲得した。彼の控えめな尊厳、単純さ、簡単さ、虚栄心の欠如、個人的特権の拒否は、同胞の多くに受け継がれた。カーティンは重大な決定に対して全面的な責任を負い、重大な破綻を起こさなかった。彼は労働政策を放棄するのではなく、受け入れ可能限界にそれを押し進め、それらの限界を掘り下げることに熟練していた。カーティンは1943年8月の連邦選挙で投票の58%と議席の3分の2以上を獲得し、労働党を最大の勝利に導いた。カーティン首相は健康状態の悪さに苦しんだ。1944年11月に心臓発作に見舞われ、45年在職中に死去し、ベン・チフリーが後を継いだ。カーティンは豪州の最大の首相の一人として高く評価されている。
豪州軍の展開
国防法(1903年)の下では、民兵も常駐軍(PMF)も、志願しない限り、豪州国外には派遣できない。1939年9月15日に、Second Australian Imperial Force(2nd, AIF) が編成され、志願兵の第6,7,8,9師団が編成された。(第1-5師団はかつてWW1の1st AIF時に編成されたもの)
オーストラリアはわずか人口700万とはいえ、マッカーサーも驚いた効率の徴兵・徴用によって、侵攻する日本軍の数倍の兵力を作りつつあり、最終的には百万人もの動員を行った。1942年には豪軍は12個師団に及び、43年には豪軍5個師団が大規模な攻勢を仕掛けてニューギニア島部の大半から日本軍を掃討した。しかし豪州はこの人的投入資源のレベルを維持することはできず、1943年後半軍事力を削減することを決定し、マッカーサーも合意。南西太平洋における豪軍の役割は1944年に減少、8個師団に縮小された。
WW2での総死亡は39,688であったが、そのうち8,031人が日本の捕虜収容所で死亡した。日本の捕虜となった21,467人のうち14,000人しか生き延びれなかった。一方独伊の捕虜になったのはおおむねジュネーブ条約に従い扱われ、8,000人のうち死亡は265人に過ぎなかった。マレーとシンガポールで16000人の豪8師団兵等の豪兵が日本の捕虜となった。豪捕虜はアジア太平洋地域の収容所で、多くが大混雑した船(ヘルシップ)での長航海に耐えた。日本軍の捕虜収容所で死亡した豪州人捕虜の大部分は故意の飢餓と病気の犠牲者だったが、収容所の日本兵らにより処刑されたり虐待死したものも何百人もいた。泰緬鉄道建設では約2,650人の豪州人が死亡した。何千人もの捕虜が日本に送られ、工場や鉱山で働いていた。アンボンとボルネオの収容所で捕虜は高い死亡率を示し、アンボンで77%が、「サンダカン死の行進」で名高いボルネオの2,500人の豪州・英国捕虜は99%以上死亡し6人しか生き残れなかった。この捕虜の扱いは戦後体験者の口コミで広がるのは避けられず、多くの豪州人は戦後も日本に敵対し続けることになった。
一方、豪州の捕虜収容所において枢軸軍の捕虜合計25,720人(伊兵18,432人、日本5,637人、独兵1,651人)が収容された。これらの捕虜はジュネーブ条約に従って処遇された。16,798人の民間人も収容された。これらには、オーストラリアに居住する8,921人の「敵国民間人」が含まれていたが、残りは他の同盟国による抑留のためにオーストラリアに送られた民間人だった。 1944年8月5日の朝、カウラ近くの収容所で1104人の日本捕虜の約半分が脱出しようとした。警備員を殺し、400人以上がフェンスを突破した。しかしながら、すべての逃亡者は10日以内に捕獲されるか殺された。
豪州経済はWW2の影響を大きく受けた。戦費支出は1939年のGDPの4%から44年の37%に達した。戦費は1939-45年に2,949万£であった。戦争関連産業は発展し、豪州の産業部門は高度化し、多くの武器の自給率を高めることに成功した。39年工作機械を製造している企業は3社だったが、43年には100社以上になった。航空機、自動車、電子機器、化学品などの軍事関連製造部門は陸軍のニーズのほとんどを満たすことができたし、高度な技術を要する軽量レーダーセット、砲兵用光学装置、熱帯地方での使用に適した機器も生産した。さらには豪州の科学者や製薬会社が熱帯病の治療に重要な進歩を進めた。ただし、戦車や航空エンジンの開発は失敗し、米国および英国の設計免許の下で製造されブリストル・ボーファイターとボーフォートが英国のノックダウン免許で生産された。
軍隊の大規模な拡大は、男性労働者の深刻な不足と女性労働者の増加をもたらした。雇用されている女性は1939年の64万4000人から1944年の85万5000人に増加した。1941年に軍隊の女性支部が設立され、1944年までには約5万人の女性が軍で勤務していた。人的資源の不足は終戦に向かって重大な経済問題となり、豪軍は1944年より戦争産業と民間経済のため縮小することになった。多くの労働者は劣悪な条件下で長時間労働することを要求され、人的労働法のために雇用を変更することができなかった。劣悪な労働条件は、労働者の生活水準を低下させる政府の緊縮財政措置によって悪化した。その結果、ストライキやその他の抗議行動は、特に1943年以降、オーストラリアの生産を混乱させた。だが抗議行動は他の民間人や軍からかなりの批判を集めた。
第二次世界大戦は、長期にわたる豪州経済成長の始まりだった。戦争は製造業部門の規模と重要性を大いに増大させ、そしてより技術的に進歩した産業の発展を刺激した。また米陸軍もヒュー・ケーシー工兵隊長はじめ、高い技術力を持つ将校が派遣され、港湾、道路、飛行場などを豪州と協力し次々設営し、また航空関連の技術協力により航空部品や船舶など様々な補給物が豪州で調達可能となっていった。多くの労働者が比較的高い技能レベルを習得し、女性の労働力参加率が大幅に上昇した。製造業は戦争で著しく成長した。
米軍との関係
米軍将兵が最も違和感を感じずに溶け込めたのは豪州であった。ビールもあれば、バスや電車も走っていた。42年から3年にかけて、豪州にやってきた米兵たちは、日本軍の進撃におびえていた豪州国民から”英雄”として迎えられた。ガダルカナルからメルボルンに転進してきた米第一海兵隊師団を、市民は「豪州の救済者」として熱烈に歓迎した。「どの家でも熱い紅茶を沸かし、米兵が来るのを待った。外でお客の”アメちゃん”を捕まえ、家まで案内してくるのは子供の仕事だった。」豪州の新聞はMLBの試合結果を掲載し、メルボルン市内のホテル、レストランの女性給仕はアメリカ料理の調理法を仲間内で教えあった。お返しに米兵はチューインガムやコカ・コーラを教えていった。米軍の到着から日ならずして豪州国民は将兵をその家庭に受け入れ、友情のきずなは長く続いた。第一海兵隊師団がメルボルンを去って1年以上たったのちも、同師団の将兵がメルボルンとやり取りする手紙は本国の手紙を上回った。多くの米軍将兵が豪州に好感を持ち、豪州娘を憎からず思った。100万の米兵が豪州を通過したが、豪州では、少なくとも1万5000人の同国女性が米兵と結婚した。うち、数千人がアメリカに移住し、人口わずか700万の“島大陸”に「この調子では人口が干上がってしまう」との不安を呼び起こした。
時の経過とともに、豪州国民の間でも、米軍将兵に対する反発が強まった「彼らはジャップから豪州を救ってくれた。それにしても心からありがとうを言うにはこの国にヤンキーが多すぎる」。他の国と同様、豪州国民も米兵が自分たちより高い収入を得ていることに反発し、湯水のように金をバラまく米兵もいて、地元民の顰蹙を買った。自国の女性が米兵と親交を結ぶ姿を見せつけられることは最も癪に障った。「連合軍の兵士と付き合っている女性の多くは、貪欲と利己主義に精神をむしばまれており、豪州伝統の婦道に泥を塗っている」。メルボルン近郊に駐留していた精神異常の二等兵、エドワード・レオンスキーが三人の豪州女性を惨殺した事件は国民の恐怖心を一層強めた。「この調子ではアル・カポネの同類が制服に身を包んで、何人米軍に紛れ込んでいるやら知れたものではない。」。ヤンキーが悦に入っているところへ、豪州兵が休暇で一時帰国してきたとき、トラブルが生じるケースが多かった。44年11月、酒に酔った米兵と豪州兵が衝突、3時間半にわたる無料の”乱闘ショー”を繰り広げる騒ぎが起こった。
だが、こうした暴力沙汰に至るケースはまれで、両者は戦争が終わるまで、慎重な協力関係を維持した。豪州で米兵がどんな違和感、不便を感じたにせよ、中国インドの異質さに比べれば物の数ではなかった。
WW1のイギリスの出征軍人は390万人を数えたが、これに対しインドは150万人を動員し、そのうち実に110万人のインド人兵士を海外の戦線に送り出した。しかもこれらは、すべてインドの自前の出費(イギリス植民地政府へのインド人からの徴税収入)によって負担されたのである。
インド総督を務めるリンリスゴウ卿はきわめて傲慢なうえに政治的にも経済的にも無能で、独立を願うインド国民会議派とイギリスの官営は、すでに戦争前からぎすぎすしていた。労働党のスタフォード・クリップスのイギリス使節団は、この戦争が終わった暁には、インドに対し自治領の地位を与えるという譲歩案を出したが、ガンディーらはこの提案を出し遅れ証文と呼んだことは有名である。ガンディーらは「インドから出ていけ」運動を行い、ただしその部隊だけは対日防衛に必要なため、インドにとどめおくことを要求した。国民会議派は「インドから出てゆけ」決議を採択した。その翌日8月9日に国民会議の幹部らはひとまとめに逮捕された。そのニュースで、チャーチルにとっては起こるはずのなかった反乱がおこった。インド全土で、会議派の同調者たちが、指導者もないまま怒りと決意をもって反乱を起こした。大規模なデモ、暴動、数えきれないサポタージュがインド全土に巻き起こり、8月の終わりには死者は1000人を超え、10万人の会議派同調者が投獄された。60大隊の英軍とインド陸軍が治安を保つためにくぎ付けになった。ある政府の記録では、1942年8月から翌年12月までの間、600件以上の爆弾事件、500件に近いサポタージュが起こり、200か所の警察署と750に及ぶ政府関係の建物が破壊されるひどい被害を受けた。この暴動は、イギリスのインド支配の終わりが実際に始まったことを示すものであった。この時から、心ある植民地官吏は、自分たちがインドで過ごす日々ももう残り少ないことに気づいていた。
1939年の通常のインド軍は20万人だったが、戦争中に10倍に拡大し、小規模ながら海軍および空軍も作られた。 200万人以上のインド人が英国陸軍の兵役に志願した。英領インドは250万人以上の兵士を派兵し、彼らは、特に中東および北アフリカでの多くの戦いで主要な役割を果たした。87,000人を超えるインド兵(現代のパキスタン、ネパール、バングラデシュを含む)が死亡、さらに34,354人が負傷し、67,340人が捕虜になった。死亡のうち36000以上が戦死または行方不明、うち24,338人が戦死、11,754人が行方不明である。1942年に6万人以上がシンガポールで捕虜となったが、2万5000人がインド国民軍に参加し、拒否したものはニューギニア島に労務者として送られた。行方不明(おそらく死亡)の大半はここから出た。WW2ではロンドンはインド軍の費用の大部分を支払ったが、これはインドの国家債務を消去する効果があった。戦争は13 億ポンドの黒字で終わった。さらに、インドで生産された軍需品(軍服、ライフル、機関銃、野砲、弾薬など)に対する英国の多額の支出により、繊維(16%増)、鉄鋼(18%増)、および化学(最大30%)などの産業生産が急速に拡大した。小さな軍艦が建造され、バンガロールに航空機工場が開設された。70万人の従業員を擁する鉄道は、輸送需要が急増した。
1935年、フィリピンはアメリカのコモンウェルスの地位を付与され、総督は高等弁務官と名を変え、10年後の独立が約束された。マヌエル・ケソン大統領が選挙で選出され、農業改革、経済措置を通じてフィリピンの貿易を促進した。またケソンは旧友のマッカーサーをフィリピン軍創設のため雇用した。ルーズベルトは参謀総長とは緊張した関係だったけれどもその功績は認めており、フィリピンの高等弁務官の地位を打診していたのだが、フィリピン国軍「元帥」の地位と高給につられたマッカーサーが選んだのだった。
フィリピン陸軍の予備役訓練は失敗と不満が目白押しであった。訓練キャンプは準備が整っておらず、予備役の訓練を受けおける優秀な指揮官はいなかった。訓練コースは5か月半の基礎、および応用歩兵訓練で構成されていた。初歩的な軍事指導のほかに、このプログラムは多くのフィリピン人青年に読み書きの講座を提供し、彼らの人生で初めてとなる適切な健康管理や栄養を考慮した食事、体力向上プログラムを供与したのである。しかしながら、訓練期間終了後、各自の村へと帰郷すると、青年たちはすぐさま栄養失調になり、訓練以前のような脆弱な肉体に戻ってしまうのであった。その一方で、フィリピン陸軍のために武器を調達するのに苦闘していた。陸軍省と国務省はともに、合衆国への政治的忠誠心が定かではない数万の人々に武器を配備することを拒否した。三年半経過後も、師団単位の訓練を行った師団は皆無で歩兵隊と砲兵隊の共同戦略訓練も全く同様であった。唯一、フィリピン正規師団がその夏に軍事演習を行ってはいたが、近代的通信も十分な装備品の供給もない中での演習は茶番に等しいものであった。予備師団の状況はさらに悪かった。たいていの予備役は銃器が不足していた。ほとんどのフィリピン人は英語を話さなかった。彼らは不明瞭な部族語を話し、それは他のフィリピン人でさえ理解できなかった。各フィリピン師団に配属されたアメリカ人将校は途方もない難題に直面し、衝撃を受けたのである。
この防衛計画は小規模な海軍の創設も求め、50隻の魚雷艇から構成されていた。米海軍は興味を示さず、彼が魚雷艇を建造させようとした時には、それは違法であるときっぱりと拒絶した。唯一手に入る魚雷艇は英国製であった。アイゼンハワーが購入に必要な金額を知ると「悄然とした」。一隻につき25万ドルもするのである。50隻買うには1250万ドルかかり、それはフィリピン防衛予算全体の18か月分以上の金額に相当したので不可能であった。
マッカーサーは、援助が得られるのであればどこにでも彼自身の能力を生かそうとした。ケソンは安価なエネルギーを供給しうるフィリピンの水力発電の可能性を利用することを望み、フィリピン電力化初会社が設立された。同社は、評価の高い陸軍技官ルシウス・D・クレー大尉とヒュー・J・ケーシー大尉の二人をダム建設の監督のために合衆国から招聘したのだ。この策略は実にうまくいった。ケーシーは最終的にマッカーサーの参謀の一人となり、WW2を通して彼とともに過ごすことになった。
ドイツ軍のポーランド蹂躙にケソンが衝撃を受けた39年秋、フィリピン陸軍をめぐるマッカーサーの楽観的な報告は、優秀なフィリピン人司令官から受けていた悲観的な説明とは極端に食い違っていた。実質的に何の近代兵器もない状況で、フィリピン防衛網が機能するにはまだ長い期間が必要であると。マッカーサーに「騙されていた」とケソンは苦々しく不満を漏らした。ケソンは訊ねた。日本軍が侵略を決意したならば何が起きるのだろうか。マッカーサーは、砲弾やその他の需要物資が輸入され続ければ、半年間は戦うことができるだろうと答えた。ケソンは「日本軍が攻撃してくれば、海軍もなしに、どのようにして物資を輸入できるんだ?」とうろたえて問いただした。「では、何が日本の占領と支配からミンダナオを守ってくれるんだ?」とケソンは聞くが、これにもまたマッカーサーは防衛の保証を断言できなかった。ケソンはぶぜんとした。ケソンは、マッカーサーをアメリカへと連れ帰るようセイヤー高等弁務官に要請した。セイヤーは喜んで引き受けるつもりだったが、要請書なしにはしようとしなかった。ケソンは軍事顧問を切る書類を残すつもりはなかった。ケソンはこれ以上連絡したくなかったので、これからはフィリピン大統領秘書菅ホルヘ・バルガスと対応するようマッカーサーに通知した。彼はこの屈辱的な新しいやり方に耐えた。彼にとっては厳しい時代だった。1940年12月「タイム」誌のジャーナリストのセオドア・ホワイトがフィリピンを訪問した。彼はフィリピン軍管区本部まで出向いたが、グルナート在比米軍中将の広報担当官にマッカーサーと話しても意味がないといわれた。「彼はアメリカ陸軍で大した影響力がないからね」
1941年8月、マッカーサーの現役復帰はこのような空気の中行われた。それはマッカーサーの物言いや警告のせいではなく、大統領が日本の膨張政策に対して何らかの反対する姿勢を望んだためであった。悲観主義と敗北主義は、結局は、アメリカがフィリピンのために戦うと思われたとたんに突然霧散した。陸軍相は、フィリピンを見限るとする意思を転換した。合衆国がフィリピン防衛を行わないとわずかにほのめかしただけでも日本軍は助長するばかりかフィリピン諸島の侵略をもたらすかもしれなかった。この状況下では、フィリピンのために断固として戦う約束が幅広く公言されることが必要であった。アメリカ極東陸軍が設立されて、フィリピン陸軍はアメリカ陸軍の管轄下におかれ、指揮が統一された。それは米兵2万(多くが陸軍航空隊)、アメリカ軍配下のフィリピン師団1万、フィリピン陸軍12万からなっていた。
しかし防衛の現実は変わらなかった。戦争計画オレンジ・3ではリンガエン湾への敵の上陸阻止を求めるものであったが、もしそれが失敗に終われば(フィリピン師団を鑑みれば、それは確実に起こりそうであった)バターンへの部隊を退却しなければならず、アメリカ海軍の増援までマニラ湾の維持に努めなければならなかった。その作戦における海軍の役割は、戦闘行為の開始とともに南方への迅速な後退を求めていた(後に日程は特定しない戦線復帰を約束していたが)。ジョナサン・ウェインライト准将はオレンジ・3を激しく非難「防衛は積極的であるべきで、受け身ではいったいどうするのか!、防衛は反撃につなげるべきだ」。マッカーサー中将はオレンジ3に縛られずフィリピン全土のために戦闘する意向を説明し、ウェインライトにルソン島の部隊の指揮を任命した。
米軍アジア艦隊司令官トミー・ハート海軍大将は、依然として戦争計画オレンジで割り振られた役割を遂行し、アジア艦隊をインド洋へと撤退させるつもりであると述べた。
マッカーサーはフィリピン陸軍の戦闘能力を信頼していなかったが、それでも、少なくともマニラ湾を防衛するのがアメリカの政策であった。彼はフィリピン人の役割を見つけなければならなかった。期待は、こうした兵士たちが、装備不足で、訓練不足で、統制にかけているが、自分の村や県のために献身的に戦おうとするかもしれないといったことであった。実際に多くの人々がしきりに戦いたがっていた。チェノウェスが持ち込んだ2000丁の旧式英製エンフィールド小銃で武装し、銃を持ってない者に対して弓矢で武装させ、将校たちにナイフを与え、ジャングルの道で日本軍部隊を奇襲する訓練をさせるのであった。
10月末にマッカーサー陸軍中将とハート海軍大将は総合的な合衆国戦争計画案レインボー・5の最新版の冊子を受け取った。この計画は世界全体をカバーするもので、フィリピンを扱ったセクションはオレンジ・3とほぼ同内容であった。すなわち、海軍は撤退し、陸軍はマニラ湾の敵勢力の手に落ちないようにするものであった。海軍の戦線復帰の時期については相変わらず記載がなかった。アメリカ極東軍の役割が決死であることが暗に示され、その運命は見事に散ることにあるが、できる限り最後の抵抗を試みることである。マッカーサーは憤然とし、マーシャルに要請した。彼はフィリピン陸軍の創設が少なくとも列島防衛を可能にし、旧版の戦争計画を時代遅れのものにしたと強く主張するのであった。近代兵器が欠如している現状にもかかわらず、陸軍省が約束した大量の増援物資のおかげで、戦闘準備する十分な時間が確保できれば、フィリピン防衛の目的がようやく実現可能のように思われた。航空部隊は拡充され、11月には10万トンの補給物資が向かっており、さらに100万トンがアメリカ西海岸港湾の埠頭に用意され、輸送船舶を待っているところであった。もし42年春であれば、かなり違った戦いを見せていたただろう。マッカーサーは日本軍は少なくとも雨季の終わる1942年春ごろまでは進行を開始しないだろうといった。しかし諸将はマッカーサーの予測が「熟慮された見解というよりは希望的観測」であると感じていた。独ソ戦に苦しむソ連の崩壊を防ぐため、すでに石油は禁輸され、戦争までもはや時間はなかった。
11月27日陸軍省はハワイとフィリピンの陸軍司令官に「日本との交渉段階は終わりを迎えているようだ。…いつ敵対行動がとられてもおかしくない状況である」この通達を受け取り次第、マッカーサーは野戦指揮官たちに警告を発し「至急想定しうる自体すべてに対策をとり、必要な行動をすべし」と通達した。海軍省はハートに対してさらに露骨なメッセージを送った。ハートははっきりと「これは開戦警報である」と伝えられていた。ハートは巡洋艦と、さらに旗艦までもルソンから退避するよう出向させたのである。
先見の明があり革新者でもあったマーシャルは、合衆国軍の中で最も卓越した軍人であったが、空軍力に無理解という欠点があった。ドイツ軍のシュトゥーカ急降下爆撃機映画に影響を受けたマーシャルは、陸軍航空隊に使えないA-24急降下爆撃機を大量に配備するよう強要し、航空幕僚に強い失望感を与え、彼らは彼に反論するよりも口をつぐむことを選んだ。また彼ほどB-17を信頼している者はいなかった。「空飛ぶ要塞」はアラスカやハワイ、パナマ、フィリピンといった前哨基地を難攻不落にするかもしれない。マーシャルとスティムソンは、たとえB-17が一機たりとも進行中の軍艦への爆弾演習をしたことがなくても、そう望みたがった。しかし当時実戦闘でB-17を使用したのは英空軍のみであり、そこでは役立たずと評されていた。1941年時点で配備されていたB-17は尾部銃、機首銃、密封式燃料タンクを備えていないC型とD型であった。マッカーサーは幻想は抱いていなかった。ジョージ空軍大佐の報告で、日本軍はフィリピン進行に1000の陸上爆撃機と1000機の戦闘機を投入することができると結論付けた。通常保持してる航空機の25%がメンテナンスや修復中になることを仮定すれば、フィリピン防衛には1500機が必要で、この規模の作戦のためマッカーサーは32の飛行場が必要であるとした。41年秋、彼には7か所の芝生の生えた仮設飛行場から100機に満たない航空機しかなかった。彼はすぐさま、工兵たちにフィリピン全土で飛行場になりそうな場所を探索させた。極東航空部隊のルイス・ブレアトン少将は11月3日に到着し、主任工兵将校であるヒュー・J・ケーシー大佐が軍用飛行場の建設を始めた。
マッカーサーは日本軍の空軍力の脅威を評価し、陸軍省の警告後の12月1日極東空軍にマニラから北部の飛行場を基地にしているB-17を、ミンダナオ島にあるデルモンテへ移動するよう命令を下した。ケーシーはミンダナオのパイナップル大農場で、1500人の労働者を動員し、たった2週間でB-17が着陸できる滑走路に作り替えていた。クラーク飛行場から500マイル南にあるデルモンテ飛行場は、ルソンから300マイル北部にある台湾にある数多くの飛行場の日本空軍の攻撃範囲から十分外れていた。一方で新しい空港には重大な欠点があった。快適な将校クラブが設置されていなかったのだ。パイロットはミンダナオ島に行くことを拒否、ブレアトンはマッカーサーの命令を無視した。
一方で、12月4日ケーシーはサザーランド参謀長に、現在デルモンテ飛行場が使用可能であるにもかかわらず、重爆撃機が一機も南部へ送られて来ていないと知らせた。サザーランドは激怒し、ブレアトンの参謀長に電話し、容赦なく叱責した。「お前はマッカーサー将軍がミンダナオ島へB-17を退避させよと命令したことをわかっているだろ。いったいなぜ一機もあそこにないのだ?」ブレアトンは翌日しぶしぶデルモンテ飛行場に16機の重爆撃機を移送したが、残りの19機がクラーク飛行場に配置させたままにしておいた。12月7日日曜日にマニラ・ホテルでパイロットたちとブレアトンの栄誉を称える大パーティを計画していたのだ。パーティは大成功だった。パーティに立ち寄った提督がいまにも攻撃が始まるかもしれないとブレアトンに忠告したにもかかわらず、パーティは午前二時まで続いた。
1941年12月7日(日本時間8日)、日本は真珠湾、グアム、ウェーク島を攻撃した。同日、日本軍はイギリス植民地の香港、マレーシア、アメリカの支配下にあったフィリピン、およびタイへ進攻し、太平洋戦争が始まった。
詳細→真珠湾攻撃
12月7日早朝(日本時間8日午前3時)、日本海軍連合艦隊長官山本五十六の命により、南雲忠一率いる機動部隊は、真珠湾を空爆し(真珠湾攻撃)、8隻のアメリカ軍艦、188の航空機が破壊され、2403人の死者をだした。
真珠湾攻撃前は、アメリカはイギリスとソ連にレンドリースを行っていたが、アメリカのモンロー主義圧力団体のアメリカ第一主義委員会はこれに強く反対していた。しかしこの反戦運動も攻撃後に消えた。12月8日、アメリカは日本に宣戦布告を行い、イギリス、カナダ、オランダ、中国がそれに続いた。翌日にはオーストラリアが対日宣戦を行い、3日後にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦を行った。12月8日夕、天皇の米英両国に対する宣戦の詔書が、国内の官公庁や地方役所に配布され、夕刊に掲載され、英米に宣戦を宣言したとみなされた。ヒトラーは真珠湾攻撃を歓迎し、アメリカが日本軍の対応に忙殺されれば、イギリスやソ連への援助物資は先細りし、ヨーロッパの問題に干渉する余裕はないだろうと考えた。しかしヒトラーは米英両軍がまずドイツを先に敲く方針で同意していたことを知らなかったし、度重なるドイツの要請にもかかわらず、日本の戦争目的はあくまでも資源獲得で、その為の南進が最優先であり、対ソ静謐が日本の外交の中心であったことも認識していなかった。孤立主義、中立主義だったアメリカに対する真珠湾奇襲によりアメリカにおける大動員が可能となり、大徴兵と巨大産業の鳴動が始まった。
フィリピンでは、防御軍は1941年11月30日の段階で1万6600人の米軍と1万2000人のフィリピン人からなる3万1000人ほどで構成されたアメリカ極東陸軍だけだった。開戦と前後して予備役の動員が行われ、ダグラス・マッカーサーの手元には理論上13万の兵力が存在するようになったが、その圧倒的多数はフィリピン人で構成された訓練途上の予備部隊に過ぎず、小銃や大砲にも不足するありさまだった。
12月8日、マッカーサーは真珠湾奇襲の報告を受けていたが、台湾への先制空爆は行わず、フィリピン上空を警戒させたのみであったが、これは失策で、台湾よりの日本軍の先制空爆により、クラークフィールドのアメリカ航空機の大半が破壊された。日本軍は12月10日ルソン島北部に、12日南部レガスピーに上陸した。マッカーサーは増援が来るまで持ちこたえる考えであったが、ワシントンは対独戦を優先しフィリピンに軍を派遣する意思はなく、巡洋艦ペンサコーラ率いる輸送船団はオーストラリアに退避した。本間雅晴率いる第14軍主力4万3000人は22日マニラ北西のリンガエン湾に上陸し、訓練不足のフィリピン兵は一蹴され、フィリピン全体で防衛するマッカーサーの思惑は打ち砕かれた。ここでマッカーサーは26日マニラを無防備都市宣言し、アメリカ軍はマニラ湾の西側に伸びるバターン半島およびコレビドール島に麾下の部隊を移動させ、そこを拠点に立てこもった。1942年1月2日日本軍はマニラを占領した。1942年1月9日からの日本軍の第一次攻撃は、バターン半島での陣地構築とフィリピン軍の奮闘により、多数の犠牲を出し、2月8日攻略中断に至るなど苦戦した。しかし、物資の不足は深刻で、バターン半島の物資は4万3000人の軍の予定で集められていたが、最終的に総勢8万の軍と2万6000の難民となった民間人がバターン半島に殺到し、それを養う食料および医薬品(特にキニーネ)は不足し、マラリアやデング熱が流行した。アメリカ本国からの増援は期待できなかった。
バターンの地下壕に立て籠もり出てこないマッカーサーに対して、将兵たちは「ダグアウトダグ」と揶揄していたが、その後ルーズベルト大統領からマッカーサーに直々の指令が届き、3月12日に多くの兵士を置き去りにしてオーストラリアに逃走すると、将兵らは「ダグアウトダグの歌」を作り、恨み節を歌いながらジョナサン・ウェインライトの元、50,000名近くにも及ぶ大量の死傷者を出しながら、食糧や弾薬も欠く中で勇敢に戦った。フィリピンの米比軍は1942年5月に降伏し13万名にも及ぶ大量の捕虜を出す事となった。
日本軍の勝利の中で悲劇も起こっている。ミンダナオ島の大都市ダバオには古くから日本人社会が根ざし、フィリピン戦時点で約20,000名の日本人が居住していたが、ダバオを防衛していた米軍はダバオの日本人を監禁すると、男は有無を言わさず殺害、婦女子は小児に至るまで虜辱し虐殺、その人数は4,000名以上にも上ったという。日本軍坂口部隊がダバオに突入し残った日本人1万数千人を救出したが、坂口部隊の進撃が遅れていればより多くの日本人が命を落とすところであった。
フィリピンより魚雷艇で脱出したマッカーサーは、無事にオーストラリアに到着すると、南西太平洋連合軍最高司令官に任命され、オーストラリアからの連合軍の反攻の指揮を取る事となった。
12月8日よりウェーク島攻略作戦が行われ、空母エンタープライズによってF4Fワイルドキャットが補充されていたが、日本軍の奇襲攻撃により、戦闘機の大半が破壊された。しかし防衛軍は奮戦し、残存F4Fワイルドキャットの活躍もあり、日本軍は駆逐艦「疾風」が沈没、旗艦「夕張」なども大きな損害を受け、日本軍は上陸を断念した。真珠湾から帰投中だった第二航空戦隊や、第八艦隊などの増援を受け敢行した第二次攻略戦は多くの負傷者、死者を出す大苦戦となるが、25日なんとか占領した。アメリカの拠点のグアム島も同日に陥落した。
イギリス、オーストラリア、オランダ軍は、ドイツとの2年間の戦争において人員と物質を北アフリカ、中東に供出されていたため、日本軍の攻勢に強く抵抗できなかった。特に本国をドイツ軍に占領されたオランダは脆弱であった。1941年12月8日マレー半島北端に奇襲上陸した山下奉文中将率いる日本軍は、55日の進撃で1942年1月31日にはマレー半島南端に至った。12月10日にはイギリス軍の戦艦レパルスとプリンスオブウェールズは日本軍の空襲により沈没した(マレー沖海戦)。タイは日本の進駐を黙認し、12月21日に正式に日本と同盟し英米に宣戦した。同月ラングーンでは空爆が行われ、ドックが焼失し、1000-2000人の死者がでた。香港は12月8日に攻撃を受け、25日に陥落した。
1942年1月、日本軍はビルマ、オランダ領東インド、ニューギニア、ソロモン諸島に侵攻し、クアラルンプール、ラバウルを占領した。連合軍はマレーシアから駆逐された後、シンガポールにて抵抗したが、アーサー・パーシバル中将は2月15日降伏し、13万のインド、イギリス、オーストラリア兵は捕虜となり「大英帝国史上最大の敗戦」と言われた。日本軍はインド人兵士6万5000人を捕虜とし、2万5000人をインド国民軍に編成した。マレー作戦中及びシンガポール占領後、華僑による抗日活動も盛んとなり、山下泰文中将は治安維持と援蒋の遮断のため敵性華僑の掃討・処断を命じ、辻政信中佐の活躍もあり、約2400名(戦後の軍事裁判の訴状による)敵性華僑が処刑された(シンガポール粛清虐殺)。さらにアレクサンドラ病院などで多数の医療者、病人の処断が行われた。2-3月のスラバヤ沖海戦で連合軍は日本海軍に敗北し、ジャワ島とスマトラ島の連合軍は降伏した。
3-4月には強力な日本海軍がインド洋に襲撃を行い、セイロン沖海戦にてイギリス空母ハーミーズほか多数の連合軍の艦艇が撃沈され、イギリス海軍はインド洋西部への撤退を余儀なくされた。これによりビルマ、インドへの日本軍の攻撃への道が開かれた。ビルマでは、イギリス軍が首都ラングーンからビルマインド国境に陣地を構築していた。これは中国国民党への援蒋ルートの一つであった。戦争中イギリスインド軍は20万に増強されたが、多くは訓練不足、装備不足であった。日本軍は3月8日ラングーンを占領した。これを受けて、援蒋ビルマルートの確保のため、中国遠征軍はビルマ北部で日本軍と交戦した。しかし4月29日ラーショーが占領され、5月1日中部の要衝マンダレーが占領されると、連合軍は総退却に移った。撤退は5月中旬より始まったモンスーンの中で行われ、多くの難民、落伍者、飢饉、捕虜を伴った。
中国での国共合作は武漢作戦での頂点から、両軍が領域を拡張しようとしたため冷却していった。民族主義ゲリラ領域のほとんどは最終的に共産主義にとってかわられた。一方国民党の勢力の多くは、蒋介石の同盟武将で、120万の軍のうち65万が直接支配であった。これらの中国軍の統一性のなさは日本軍の攻勢に有利だった。
太平洋戦争開戦時、オーストラリア軍の主力はほとんど地中海で戦っており、準備不足であった。イギリスからの援軍も求めていたが、アメリカへの支援も求めた。シンガポール陥落時1万5000人のオーストラリア軍兵士が捕虜となった。1942年初めにはニューギニアの戦いが始まり、2月19日にはダーウィン空襲が行われ、少なくとも243人が死亡した。以後19か月間でオーストラリアに対して約100回の空襲が行われた。中東から2個師団のオーストラリア軍が返還され、チャーチルはビルマに転用したかったが、オーストラリアのカーティン首相はオーストラリアへの復帰を主張した。
日本海軍はオーストラリア占領を立案したが、軍令部に反対され、南太平洋でアメリカとオーストラリアの連携を遮断する戦略をとった。日本軍はポートモレスビー攻略を目指した。ルーズベルトとカーティンは1942年マッカーサーの指揮下にオーストラリア軍を配置することで合意した。マッカーサーは1942年3月にメルボルンに移動し、アメリカ軍がオーストラリアに集結し始めた。日本海軍は1942年5月に潜水艦がシドニー湾で攻撃を行い、6月8日にシドニーの東のニューカッスルを砲撃した。
日本軍は、アメリカ国民の厭戦気分を高める為に、アメリカ西海岸沖に潜水艦隊を派遣、西海岸での通商破壊戦と、潜水艦の搭載砲による艦砲射撃を行った。西海岸の住民の目視できる距離で商船やタンカーが10隻以上撃沈され、また被害は小さかったものの、艦砲射撃は西海岸の住民に戦争の現実的な恐怖を巻き起こした。特にフォートスティーブンス陸軍基地に伊25潜が行った砲撃は、米軍にとって米英戦争以来となる敵側軍事力による本土の米軍基地攻撃であり(この後も現代に至るまで行われていない)米軍も大きな衝撃を受けた。
その恐怖や衝撃は1942年2月に「ロサンゼルスの戦い」を引き起こす事になった。米軍はそれまでも、日本軍の空襲や日本兵の上陸という誤報に振り回されていたが、2月24日サンタバーバラが日本軍潜水艦に砲撃され、警戒を強めていた米軍は、ロサンゼルス上空に日本軍機が来襲したと誤認、見えない敵に向かって高射砲を乱射した。その高射砲の破片がロサンゼルス市内に降り注ぎ、多くの建物や車を破損させ数名の市民の死者を出している。この時のアメリカのドタバタ劇を、スティーヴン・スピルバーグの初めての映画監督作品として制作されたのがコメディ映画「1941」である。
これ以上の混乱でアメリカ国民の厭戦気分が高まる事を恐れたルーズベルトと米軍は、博打とも言える日本本土爆撃を計画し、アメリカ国民の士気を高揚させようと考えた。1942年4月に空母ホーネットから飛び立ったB-25爆撃機は、東京初空襲を行った。16機のB-25はすべて夜間悪天候による不時着で失われ、日本がこうむった被害は最小限であったため、指揮官のジミー・ドーリットルは失敗と考えたが、ルーベルトらはドーリットルに名誉勲章(メダルオブオナー)を授け、異例とも言える生前の二階級特進を行い英雄として祭り上げ、アメリカ国民の士気高揚に徹底的に利用した。一方、日本には国土の脆弱性を露呈させる心理的影響をもたらした。更にドーリットル空襲の最大の効果は、日本軍にミッドウェーへの破綻的な攻撃を起こさせたことだった。
日本軍も東京初空襲の報復として、アメリカ西海岸で活躍し、横須賀に帰還していた伊25潜に搭載水上機でのアメリカ本土空襲を命令。伊25潜は再度遠路遥々米西海岸まで遠征すると、藤田信雄飛曹長が操縦する零式小型水上偵察機は2度に渡りオレゴン州の森林に爆撃を行った。森林火災を起こさせる目的で焼夷弾での爆撃を行ったものの、大規模な火災は発生せず被害は最小限だったが、米軍の衝撃は大きく、西海岸での対空監視の強化と防空壕やシェルターの構築を余儀なくされた。結局この後は日本軍による米本土への爆撃は行われず(大戦末期に風船爆弾での攻撃はあり)また米本土に対し最初で今のところは最後の敵航空機による空襲となった為、藤田は戦後に爆撃を受けたオレゴン州ブルッキングス市から、唯一米本土を爆撃した「英雄」として歓待を受け、当時のロナルド・レーガン大統領からホワイトハウスに招待されている。
1942年半ば、日本は維持するのが困難なほど、太平洋からインド洋への広大な地域を支配していたが、さらに南部と中央部太平洋に攻撃をすることを決定した。しかし、このころには連合軍の暗号解読班の活躍が始まり、奇襲が成功しなくなっていた。日本軍は海路ポートモレスビー占領を計画したが、フレッチャー率いるレキシントン、ヨークタウンを含む部隊に察知され、1942年5月珊瑚海海戦が始まった。これは互いの空母機動部隊同士により、艦船の見えない距離で戦われた初めての海戦となった。アメリカ軍は空母レキシントンを撃沈されヨークタウンが深刻な損害を受け、日本軍は空母祥鳳が撃沈され翔鶴が損害を受け、ミッドウェー海戦に参加できなくなった。連合軍の損害は日本軍より大きかったが、パイロットの損害はむしろ軽微であり、日本軍はパイロットの損失を補充する能力に欠けていた。結果としてポートモレスビーへの進撃を阻止し、日本軍の攻勢が止まり、連合軍の戦略的勝利であった。
山本五十六率いる連合艦隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻の空母を持ち、米軍は空母サラトガが魚雷攻撃により修理に入ったため、ホーネットとエンタープライズしかないと考えた。一方太平洋方面最高司令官チェスター・ニミッツ率いる太平洋艦隊は、珊瑚海で損傷を受けたヨークタウンをわずか3日間で修理を終え、民間の修理作業員を乗せたままミッドウェに向け出航し、空母3隻で挑むこととなったた。山本五十六は空母を陽動し、ミッドウェーを占領し日本の空軍基地に変えることで日本の勢力圏を広げ、ドーリットル空襲に対応することを目的とした。日本軍はアリューシャン列島を攻撃した。しかしアメリカ軍の暗号解読班はその意図を見抜いていた。南雲忠一はミッドウェー攻略を進めた。しかし山本の計画には、ニミッツの対策を検討に入れていなかった。水上飛行機でのアメリカ艦隊の監視が失敗したため、フレッチャーは探知されることなく日本機動部隊を迎え撃つ位置に侵攻できた。南雲機動部隊は272機の、アメリカ軍は348機(115機が陸上機)を保有していた。
詳細→ミッドウェー海戦
南雲機動部隊は空母4隻を失い、山本五十六はミッドウェー攻略の中止を余儀なくされた。戦いは連合軍の決定的勝利であった。日本海軍連合艦隊は4空母とその熟練船上員を多数失い、弱体化し、以後守勢に立つことになった。
日本陸軍はソロモン諸島やニューギニアで進撃をつづけた。日本軍はポートモレスビー攻略を視野に入れて前進航空基地の設営を計画し、1942年3月8日にニューギニア島の東部の要衝サラモアに陸軍南海支隊、同じく要衝ラエに海軍陸戦隊が上陸した。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われた。1942年東部マダンを占領し、さらに7月より山脈越えの基地ココダを占領し、オーエンスタンレー山脈を越えてニューギニア島南部ポートモレスビーに向けて進撃した。しかし主力を北アフリカ戦線に引き抜かれ、予備隊で若く未熟なオーストラリア軍は、意外と善戦した。また日本軍は8月25日から9月7日までのニューギニア最東端の占領を画策し、勃発したラビの戦い(ミルン湾の戦い)においてオーストラリア軍に敗れ退却した。1942年後半には、大本営はガダルカナルを優先することとし、ニューギニア戦線への補給は停まったため、ポートモレスビー攻略を断念し9月26日に撤退した。
詳細→ガダルカナル島の戦い
ガダルカナルでの日本海軍の建設中の飛行場を占領するため、1942年8月にヴァンデクリフト率いる6000のアメリカ軍海兵隊が上陸した(1942年8月7日 - 1943年2月7日)。最終的にヘンダーソン飛行場とガダルカナル島は防衛され、日本軍にとってガダルカナルを攻撃するのはコストがかかりすぎる状況になり、1943年2月に撤退した。
中国本土では、中国軍は長沙の戦い(1942年)で初めて勝利を収めた。ドーリットル空襲の後、アメリカの飛行士は浙江省付近にパラシュート降下した。大本営は米兵の捜索と中国領土から日本への空襲がを防ぐため同地の空港を破壊することを目的とし、浙江省と江西省で軍事進攻を行った。日本軍はゲリラを捜索するため、疑われた町や村を焼き、多くの民間人が処刑された。化学兵器・生物兵器も使用され、中国人25万人が死亡し、日本軍も生物兵器の誤爆などにより1700人が死亡した(文献により内容が違う)。日本軍は浙江省、江西省で米軍の飛行士を捜索したが、64名のうち8名を拘束したのみで、大部分は中国人に救出された。
当時世界最大のコメの輸出国であったビルマが日本に攻略されたことにより、1941年の凶作により食糧が不足していたインドのベンガルではビルマからの米の輸入が途絶え、またビルマより難民が流入したため食糧事情が悪化し、大飢饉が起き(ベンガル飢饉)、最大300万人が死亡した。この現地事情の悪化と通信の不適切な状態ではあった。
ビルマ奪還に執着していたチャーチルはビルマに名将ウィリアム・スリム中将を送り、アメリカよりのレンドリースを得て順次戦力を増強していたが、1943年にビルマ奪還を目指しビルマ西部アラカン南部を攻撃した(第一次アキャブ作戦)、しかし日本軍の迎撃に遭い、主力の英第6旅団司令部が攻撃を受けロナルド・キャンベンディッシュ准将が捕虜になるなど(後に英軍の砲撃により死亡)惨敗し、5,000名近くの遺棄死体を遺して退却した。またオード・ウィンゲート率いる特殊部隊チンディットは北部ビルマで破壊活動を行ったが多大な損害を受けた。この敗戦に懲りた英軍は戦力が整わない中での攻勢を戒め、戦力の増強を進めた。一方の日本軍は、アキャブでの勝利で引き続き英軍を過小評価した事と、ウィンゲート旅団の破壊工作に挑発され翌年のインパール作戦を呼び込んだ。
ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースは、英領インドに自由と独立を与えるインド軍を創設しようと渡航を計画、1943年4月27日にマダガスカル沖で日独潜水艦は会合に成功しボースは伊29に移乗、5月16日東京に到着した。6月ボースはシンガポールに入り、インド国民軍最高指揮官となった。日本は1943年8月1日ビルマに独立を与え、バー・モウが国家元首に、アウン・サンが国防大臣に就任した。
1943年8月に連合軍は東南アジア指令部に再編され、チャーチルにより10月ルイス・マウントバッテンが最高司令官として任命された。失態が続いたノエル・アーウィン中将は更迭され、ウィリアム・スリムがイギリスとインドの混成軍であるイギリス第14軍の司令となり、ビルマの日本軍と対峙した。ウィリアム・スリム中将のもと、部隊の士気と練度が大いに向上し、アメリカ陸軍のジョセフ・スティルウェルもマウントバッテンの副司令官となり、インドから中国へのレド公路の構築を目指した。11月22日フランクリン・ルーズベルトとウィンストン・チャーチル、蒋介石は、カイロで日本に対する戦略の会議を行い、カイロ宣言を締結した。
しかし、大戦で大した貢献もしていない中国が参加することにチャーチルは難色を示し、スターリンは同席すらしなかったが(数日後のテヘラン会談に出席、しかし蒋介石は招かれず)中国戦線の実情をよく把握してなかったルーズベルトのゴリ押しにより、連合軍の巨頭の一人として祭り上げられる事となった。しかしこの後も中国の貢献度は日本軍精鋭100万人を大陸の張り付けている以外には何もなく、ルーズベルトも次第に中国に対する幻滅を深めていく事となった。
スティルウェル(アメリカの対中支援責任者)「蒋介石は日本軍とまともに戦う気はない、アメリカよりの援助物資を共産党との戦いにつかうつもりだ、このままでは中国はヤバい・・・死にたい・・・」(実際に何度も自殺を考えたと言う)
太平洋戦線では、欧州戦線より数か月早く転換点を迎えていた。すなわち1942年6月に勃発したミッドウェー海戦は、その後2年間の戦略において多大な影響を与えた海戦であることが判明したのである。アメリカは船舶、飛行機、訓練された乗務員を増強する産業のすそ野の広さがあり、この時期を戦力増強に費やした。同時期、日本は十分な産業基盤や技術戦略、乗務員の優れた教育プログラムを持っておらず、海軍資源と商業船の防衛においてさらに後塵を拝した。
太平洋ではニミッツとマッカーサーが、どちらが先に日本を屈服させるか競争し、この種の対決を重要と考えていたルーズベルトは、両者の対決による競争をみとめた。海軍はマッカーサーを憎んでいたので、提督たちはこの種の対決を歓迎した。ニミッツ率いる太平洋艦隊は1943年11月より攻勢をかけ、太平洋の次々に占領した。日本軍の拠点は必ずしもすべて占領せず、トラック諸島、ラバウル、フォルモサのように放置されるところもあった。目的は日本に接近し、その後大規模な航空機による戦略爆撃と海上封鎖を実行し、最終的に(必要あれば)日本本土上陸作戦を実行することだった。1943年11月のタラワに戦いでは、米海兵隊は4500人強の日本軍守備隊を圧倒したが、3,000名以上の死傷者を出し海兵隊のトラウマとなった。この教訓より学習し、上陸前爆撃や砲撃、潮の満ち引きや上陸用舟艇の日程についてはより慎重で全体の調整などを行われるようになり、上陸船の技術が向上し連合軍を助けた。また同時に行われたマキンの戦いでも米軍は苦戦、伊175潜の雷撃による空母「リスカム・ベイ」の撃沈などで日本軍守備隊の戦死者約500人を超える1,000名以上の死傷者を出し、タラワ・マキン両島攻略の「カルヴァニック作戦」は米軍にとって多くの教訓を残す戦いとなると共に、今後の日本軍の激しい抵抗を予感させるものとなった。
アメリカ海軍は、アルフレッド・セイヤー・マハンの戦略に基づき、日本艦隊との決戦を求めなかった。連合軍の前進は、日本海軍の攻撃によってのみ停止させることができたが、日本軍の原油の不足(潜水艦作戦による)により不可能となっていった。
連合軍の潜水艦は、海軍の2%に過ぎなかったものの、ブリスベン、真珠湾、セイロン、ミッドウェーなどの基地より出撃し、日本の敗北に大きな役割を果たした。潜水艦が輸送船を攻撃することにより、武器の生産と軍事作戦の不可欠な石油の輸入を遮断した。1945年の初めには、日本の石油供給は事実上遮断された。日本軍は468隻の連合軍潜水艦を撃沈したと主張したが、実際には42隻のみで、10隻は事故あるいは同士討ちであった。日本の商船の沈没のうち56%が潜水艦が占め、そのほかは機雷と航空機が占めた。また日本の軍艦の28%が潜水艦により破壊され、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では重要な役割を果たした。潜水艦はまた、多くの航空士を海上で救出し、その中にはのちの大統領のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュもいた。連合軍の潜水艦は、守勢ではなく、攻撃的だった。真珠湾攻撃以後まもなく、ルーズベルトは日本に対し無制限潜水艦作戦を宣言した。
日本軍は潜水艦を大量に保持していたが、戦争に大きな影響を与えることはなかった。1942年、日本の艦隊の潜水艦は、多くの連合軍の軍艦を撃沈、損傷させ、好調であった。しかし日本海軍は艦隊決戦にこだわり、通商破壊は重視されなかった。アメリカ軍は、西海岸と戦場の間に非常に長い補給路を有していたため、潜水艦攻撃に対し脆弱であったが、日本軍は時にしか輸送船を攻撃せず、大戦序盤にはアメリカ西海岸、インド洋、オーストラリアに対して通商破壊戦を行いかなりの効果を挙げたが、割かれた戦力は一部であった。また後日、孤立したトラック諸島やラバウルへの補給にも役立った。日本軍はソ連との中立条約を重視し、アメリカからのウラジオストクへの何百万トンもの軍事物資の輸送を放置し、同盟国ドイツを憤慨させた。
大戦中盤以降は、大西洋でUボートとの戦いで培われた連合軍の対潜技術に対し、日本軍潜水艦はなす術もなく犠牲を重ねた。(Uボートは大戦中994隻が失われている)しかし苦戦する中でも空母「リスカム・ベイ」を撃沈し米海軍史上最大の悲劇と言われる重巡「インディアナポリス」を撃沈するなど、大西洋でUボートが成し遂げられかった大戦中盤以降の連合軍主力艦撃沈の戦果も挙げている。
アメリカ海軍は、当初より通商破壊に従事していた。しかしMk14魚雷とそのMk6信管の信頼性が1943年9月まで改善されなかった。さらに戦前米国税関担当官は日本の商船暗号のコピーを押収していたが、海軍情報局は情報を得ていなかった。日本はすぐ新しい暗号に変更し、1943年まで破られなかった。
指揮官を更迭し、船上レーダーを効率的に設置し、魚雷の障害を改善したアメリカ海軍は、1944年に最大150の潜水艦を活動させた。日本の通商防御は重視されておらず、護送船団は連合軍と比しほとんど組織されず防御もされなかったが、アメリカのミスと日本の自信過剰により表面化していなかった。しかしアメリカ軍の潜水艦と沈没数は、急激に上昇し、1942年に350(180沈没)、1943年350(335沈没)、1944年に520(603沈没)となった。1945年、日本船の沈没は危険が増加したため航海そのものが断念されるようになった減少した。連合軍は潜水艦により1200隻、500万トンの商船を破壊した。多くは小型貨物船だったが、石油を必死に運搬したタンカー124隻、客船や軍の輸送艦320隻もあった。ガダルカナル、サイパン、レイテ島の戦いでは日本人数千人が犠牲になった。200以上の軍艦も沈没した。水中戦は熾烈で、潜水艦作戦に参加した16000人のアメリカ兵のうち3500人(22%)が未帰還となり、第二次世界大戦中のどの軍よりも高い死亡率だった。日本軍も130の潜水艦を失い、高確率だった。
ガダルカナル島の苦戦を受け、1942年11月日本軍はニューギニアおよびソロモンを担当する第八方面軍に編成し、今村均を指令としラバウルに司令部を置き、その下にニューギニアを担当する第18軍を新設し、安達二十三を司令官においた。マッカーサーは、メルボルンに移動し、1942年4-5月オーストラリアにアメリカ第41歩兵師団、32歩兵師団が集結し、欧州戦線より戻ってきたオーストラリア第6,7師団も指揮下に入った。マッカーサーは7月オーストラリア北部ブリスベンに移動し、日本軍のポートモレスビー作戦を受け、ニューギニアへのアメリカ軍の派遣を決定した。しかし訓練不足およびジャングルに対応した装備が不十分な状態で軍を派遣するに至った。1942年11月16日から43年1月22日まで続いたブナゴナの戦いは、雨季、マラリアなどの病気、補給の困難さ、日本軍の強固な陣地、偵察の不備のため、攻略の遅延が起こった。ここでマッカーサーは早期攻略へ圧力をかけたため、オーストラリア軍1270人、アメリカ軍787人が死亡し、全軍13600のうち7920が病気となるなど犠牲が多くなり、米軍とマッカーサーは、オーストラリア軍に非難された。これを受け、1943年3月マッカーサーはカートホイール作戦を立案し、早期勝利よりも制空権を確保してのアイランドホッピングによる作戦に移行した。同月マッカーサー指揮下にある南西太平洋海軍部隊が改編され第7艦隊となった。一方ブナの日本軍は補給の問題のため、飢餓状態となり、1月2日終了時には死者の共食いが行われた。またこの頃より、米豪軍による日本兵への残虐行為が日常茶飯事となり、多数の日本兵捕虜や戦闘不能者が虐殺されたが、マッカーサーも豪軍司令官トマス・ブレイミー元帥も戦意高揚と復讐心による日本人蔑視の為に黙認していた。
1943年3月連合軍はビスマルク海海戦に勝利し日本軍のラエへの補給を断ち制空権を確保した。日本海軍連合艦隊長官山本五十六は1943年4月ラバウルより艦載機のガダルカナル、ポートモレスビー、ミルン湾への空襲をおこなう「い号作戦」を行ったが50機以上の損害を出す敗北であり、4月18日山本もブーゲンビル島でP-38ライトニングに撃墜され戦死した。ウィリアム・ハルゼー率いる第3艦隊は6月ニュージョージア島の攻略を始めた。8月にニュージョージア島ムンダ空港が米軍の手に落ちたが犠牲が多く、次のブーゲンビル島は南部タロキナを占領し空港を建設、守りの堅い北部は放置した。12月ニューブリテン島西部アラウエ、ツルブ(グロスター岬)に上陸し、同島北部のラバウルは空襲するにとどめた。
ニューギニア本島ではビスマルク海海戦の敗北で制海権を奪われた日本軍は、陸路キアリからラエへの陸路でのサラワケット越えでの増援を調査し、北本正路少尉を隊長とする50名の特別工作隊を派遣した。1943年3月難行軍の末にサラワケット山(Mount Bangeta 4,121m)を登頂制覇し、万歳三唱、4月ラエに到着したが、あまりの難路で到底補給路としては使えなかった。
1943年4月ついにオーストラリア軍がサラモアに進出、9月16日連合軍はラエを奪還した。敗北した日本軍は大本営の転進命令を受け、サラワケット山を超える経路で北上し、多くの犠牲を出しながらもキアリに向け撤退した。しかし、マッカーサーは9月22日フィンシュハーフェンに強襲上陸し、12月同地の日本軍守備隊はキアリに向け撤退した。残存日本軍はキアリに再集結し、マダンヘ向かったが、1944年1月2日、キアリとマダンのほぼ中間にあるサイドル(グンビ岬)に、アメリカ軍第32師団第126連隊戦闘団約7,000名が上陸し、またも日本軍は退路を絶たれてしまった。日本軍は海岸をさけ2000m級のフィニステル山系を横断し西方マダンヘ撤退した。トーマス・キンケード率いるアメリカ第7艦隊は1944年2月29日より5月31日までアドミラルティ諸島を攻略し、ラバウルを孤立させた。連合軍はハンザ湾と、減ったものの5万4000の部隊を要し守りの堅いウェワクをパスし、4月22日蘭領西ニューギニアの首都ホーランジアとアイタペをそれぞれ4万、2万の軍で占領し、同地の日本守備隊を壊滅させた。ホーランジアでは日本軍1万4600人のうち、生きて転進できたのは500名に過ぎず、また611名が捕虜となった。補給の絶えたマダン~ウェワクに展開する残存日本軍主力はアイタペに攻撃をかけたが、「ウルトラ」(通常英軍諜報部だが、ここではオーストラリアとアメリカ共同諜報部?)に日本陸軍の暗号を解読され、連合軍はアイダペ東方30㎞のドリニュモール川(坂東川)に待ち受けていた。米軍は死者440人、負傷者2560人を出す、ブナ・ゴナの戦いに匹敵するニューギニア戦線で最も大きなともいえる犠牲を出したが、日本軍は13000人の死者を出して撤退した。
補給を断たれた日本軍は、飢餓と病気で次々に倒れ、とくにドリニュモール川に敗れた以後、退却軍は統率を失い、友軍や現地人、連合軍兵士の人肉を食う噂が陰惨な話となって広がるありさまだった。安達二十三指令はウェワクでの分散自活、持久戦に移ったが補給は途絶し、1944年12月に第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、1945年5月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した(竹永事件)。西部ニューギニアでも、東岸のマノクワリに第2軍司令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団司令部をはじめとする1万2,500名があったが補給が絶え、マノクワリでは自活が不可能となり、1万5000名にイドレへの転進を命令したがそこに食糧はなかった。このイドレ死の行進での戦後の生還者は3000人に満たなかった。結果ニューギニアに上陸した20万名余の日本軍将兵のうち、生還者は2万名余に過ぎなかった。カートホイール作戦を成功させたダグラス・マッカーサーは、9月占領したホーランジアを拠点としてフィリピン奪還作戦の指揮を執った。
1944年半ば、日本軍は40万人を動員し、中国の日本統治下領土と仏印を接続し、米軍の爆撃機の基地である中国南東部の空港を占領することを目的とした最大の作戦を行った(大陸打通作戦)。中国軍は300万名の兵力を有するとされたが、戦意に乏しかったのと、日本軍を消耗させる意味合いもあり、決戦を徹底的に避けた。日本軍は当初順調に進軍を続け、特に戦車第3師団は中国軍にまともな対戦車火器もない事から、30日で師団先鋒の捜索隊は2,000km(一日当り約70㎞)も進軍するなど、無人の野を行くが如きだった。
しかし、燃料が不足し補給も滞るようになると進軍スピードは低下し、衝陽や桂林・柳州では固く防衛した中国軍に苦戦し進撃が停止する事となった。その後日本軍の一部がインドシナに到達し、大陸打通は成し遂げられ、広西チワン自治区の多くの占領地を得るなど、戦術的な成果はあったが、米軍の戦略爆撃の主力はマリアナ方面に移動し、中国軍も戦闘のみでの死傷者が15万人を超えるなど大量の戦死傷者を出しながらも決戦を避け続けた為に、壊滅は避けられた事もあり、膠着した中国大陸戦線に劇的な変化を与える事はできなかった。また、米式装備の中国軍の多くはビルマ国境に展開しており、消耗を避けられたため後の反撃の主力となった。
中国軍とアメリカの対中支援責任者のジョセフ・スティルウェルは、その米式新式装備で再編した蒋介石直轄の5個師団合計約20万の大兵力で中国・ビルマ国境の拉孟・騰越の日本軍陣地に対して、攻撃を行った。両陣地を防衛する日本軍はたった4,000人に過ぎず、戦力差50倍の上に米式装備の中国軍の方が火力でも勝っていたのにも関わらず、日本軍守備隊の防衛の前に再編中国軍は大苦戦、中国軍の死傷者は63,000名に達し2個師団が壊滅するという大損害を被ったが、日本軍守備隊を玉砕させ、拉孟・騰越を確保し、日本軍との戦いで初めてとも言える完全勝利(今までも攻撃を撃退したことはあり)を成し遂げている。
しかし大陸打通作戦は思わぬ効果を米中関係にもたらす事になった。重慶で固唾をのんで戦いの推移を見守っていたジョセフ・スティルウェルは蒋介石直属の河南省の中国軍40万人が数が劣る日本軍の攻撃で、あっという間に大敗し霧散するのを目の当たりにし、ルーズベルトに慌てて「このままでは蒋介石はもたない」と報告している。その報告を聞き中国の実情をようやく把握したルーズベルトは蒋介石の指導力に疑念を持ち、蒋介石排除も考えたという。その後アメリカの対中政策は国民党一辺倒から、日中戦争中に漁夫の利を得て順調に勢力を伸ばしていた共産党にも視線を向けざるを得なくなり、スティルウェルは共産党の本所地延安に部下を派遣し共産党との接触を始める事となった。考えていた「四人の警察官」(戦後の秩序を米英ソ中が担う構想)構想は絵に描いた餅にすぎない事を痛感したルーズベルトは中国に対して次第に疎遠となっていき、それはルーズベルトの病死後に大統領を引き継いだトルーマンでなお決定的となり、ヤルタやポツダムといった戦後の枠組みを決定して重要会議に蒋介石は呼ばれず、また戦後起こった国共内戦ではトルーマンは国民党支援を渋り、国民党が台湾に放逐される遠因となった。
日本軍も多くの傷病兵を出し、戦闘による人的消耗も含め、死傷・傷病者は10万人にも達した為、これ以降は大規模な攻勢は取れなくなった。大陸打通作戦は中国において社会的混乱を起こし、中国共産党ゲリラはこの混乱を利用し勢力を拡大した。
東南アジアの連合軍は、1943年の攻勢失敗後、ビルマへ攻撃する準備をしていた。1944年初旬、中国とアメリカは北部ビルマにおいて、ジョゼフ・スティルウェルの指揮の下、レド行路の延長しながら進撃した。またビルマ北部アラカンにはウィンゲート率いるイギリス軍も侵攻し、日本軍の反撃は、最終的には失敗し、アラカンにインド第15軍が割拠するようになり、航空による補給を受けていた。
連合軍の攻勢に、日本軍は反対にインドに攻撃をすることにした。大本営やいくつかの部署の不安にもかかわらず、日本第15軍の司令官の牟田口廉也中将により、インパール作戦が実行され、インド国民軍も参加した。4月にはイギリス第14軍のいくつかの部隊は、インパールに包囲されることとなった。コヒマに進出した日本軍は、インパールへの主要道路を閉鎖するが、コヒマを防御することは失敗した。4月中に新たな連合軍がコヒマの占領地から日本軍を駆逐し、インパール作戦が失敗したことが明らかになった。
多くの日本兵がおそれていたように、日本軍の補給体制は不十分であった。牟田口の早期勝利計画が挫折した後、日本軍は、特にコヒマでは飢餓状態に陥った。牟田口が攻撃を指令し続けたが、連合軍はコヒマ南方、北方に前進した。連合軍は6月22日にインパールの日本軍の包囲網を破った。日本軍は、最終的に7月3日に撤退を決定したが、主に飢餓と病気により、50000以上の部隊を失う最悪の敗北を喫した。
インパール作戦の迎撃に航空機を回されたため、ビルマ北部でのアラカン作戦は停止していたが、米中軍は北部ビルマで前進をつづけた。1944年半ばには、中国遠征軍は雲南省より北部ビルマに侵攻し、ミイトキーナの戦いで勝利し空港を確保し、空路補給体制を強化した。
当初は,日本軍を歓迎していたビルマ人たちも,支配が長引き,物資不足に陥ると,日本軍に協力しなくなった。日本軍に対する物資補給は停滞していたから, 日本軍将兵は,住民から物資を徴発するしかなかった。反抗する住民には威嚇、虐殺するしかなかった。戦局悪化の状況で,日本人とビルマ人との友好関係は, 崩れていった。
チェスター・ニミッツ率いるアメリカ太平洋艦隊は、海兵隊と連携し、1943年11月よりカルヴァニック作戦としてギルバート諸島へ上陸した。44年1月、マーシャル諸島へ進攻し、2月クェゼリン環礁、エニウェトク環礁を占領し、マリアナ諸島への進攻が計画された。
1944年6月15日、アメリカ軍は12万8000人の陸軍および海兵隊によりサイパンへの上陸を開始した。サイパンの飛行場からは、B-29による爆撃範囲に東京も含まれるため、日本軍は、サイパンを保持することが不可欠であった。しかし日本軍は、より南部への進攻を期待していたため、サイパンへの進攻は驚きをもって受け止められた。
アメリカ海軍第5艦隊の戦力は、空母15、航空機956、潜水艦28、駆逐艦69、さらに巡洋艦があったが、日本海軍の小沢治三郎のもとには空母9、航空機473、戦艦5、駆逐艦28、さらに巡洋艦という陣容であった。6月19日マリアナ沖海戦が勃発した。日本軍は持てる航空機の9割をつぎ込んで攻撃した。しかしレーダーと対空防御では劣っていたため、日本軍の航空機の航続距離が長大なことを利用した、アウトレンジ戦法を行った。日本軍機は、防御力を犠牲にしたため、480キロの攻撃範囲を持つなど、長大な航続距離を誇っていた。一方米軍のF6Fヘルキャットは320キロの攻撃範囲しか持たなかった。
アメリカ第5艦隊は、レイモンド・スプルーアンスが率いていた。小沢艦隊より大きな戦力を持っていたが、小沢はスプルーアンスは先制攻撃を仕掛けないと予測していた。アメリカ軍提督のマーク・ミッチャーは日本軍への積極攻撃を具申したが、スプルーアンスはサイパン上陸軍の護衛を優先し、小沢艦隊への攻撃を拒否した。5月にはアメリカ軍の駆逐艦により小沢艦隊の潜水艦17-25隻が撃沈され、マリアナ諸島の日本陸上航空機は米軍の攻撃により破壊された。小沢艦隊は連携を断たれた。アメリカ軍では、ニミッツの指示は、レーダーデータを無線連絡戦闘情報センターにて集中管理し、F6Fヘルキャットに伝達された。さらに近接攻撃に対し、対空砲火にVT信管という新兵器を投入してきた。結果はのちに「マリアナの七面鳥うち」と呼ばれる一方的なアメリカ軍の勝利となった。日本軍攻撃機が、七面鳥うちをかいくぐっても、アメリカ艦隊のVT信管を含む対空砲火により撃墜され、アメリカ軍艦の損害はわずかにとどまった。
翌6月20日、小沢艦隊は米軍の偵察機に発見され、米潜水艦は日本空母2隻を撃沈した。ミッチャーの指揮の下、230の雷撃機と爆撃機が日本軍を攻撃した。しかし日本軍は443キロ離れた位置にいたため、燃料切れによる航空機の損失リスクが高い作戦であった。アメリカ軍は130機と76人のパイロットを失った。しかし日本軍は450機、3空母、445人のパイロットを失い、機動部隊は壊滅した。
補給を断たれたサイパンでの戦いは、防御側には絶望的となったため、日本兵は最後の一人まで玉砕することにした。日本軍の巧みな防御で、米陸軍第27師団は大損害を受けて、師団長が更迭されている。その結果、陸海軍海兵隊3軍の対立が激化し(スミスVsスミス事件)後の米軍の作戦に大きな影響を与えている。7月7日には日本軍は退路を断たれ、最後のバンザイアタックを行い壊滅した。日本軍は最終的に3万人が死亡し、アメリカ軍も3,441人が死亡、11,685人が負傷した。当時サイパンには2万3000-5000人の民間人がいたが、犠牲者が多く出て、アメリカ軍に保護されたのは約1万5000人だった。大本営は、アメリカの寛大な処置による日本民間人の離反を恐れ、6月30日天皇はサイパンの民間人の死者は軍人と同じく英霊とし、民間人の自決を奨励する勅命をだした。7月5日スーサイドクリフとバンザイクリフで多くの民間人が捕虜となることを嫌い自決した。実際には寛大な処置どころか、米軍による敗残兵や日本民間人に対する残虐行為も目撃されており、この目撃談が過大気味に広がって米軍に対する嫌悪感や恐れを増大させ、沖縄戦では民間人が中々米軍に投降しない一因ともなり、夥しい死者を出す事に繋がっていく。大本営はサイパン島玉砕の公表の際に「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し忠節をたたえた。しかし、一方で同じマリアナ諸島のテニアン島では第一航空艦隊司令角田覚治が一般市民の自決を戒め、15,000名の居留民の内で戦闘に巻き込まれて亡くなった1,500名を除く90%は生存し米軍に投降していた。
角田中将「皆さんは民間人ですから、我々軍人と一緒に玉砕する事はないのですよ」
サイパンの失陥は、日本の首相であり軍司令官でもあった東条英機にとって大きな打撃となり、7月18日東条内閣は倒れ、陸軍出身の小磯国昭が首相となった。しかし小磯は名ばかり首相で、いかなる軍事的意思決定への参加も大本営によって阻止された。
詳細→レイテ沖海戦
1944年10月23日より始まったレイテ沖海戦は、第二次世界大戦、および世界歴史上最大の海戦であった。この海戦はレイテ島周囲の4つの異なる海域にて戦われた。レイテ沖海戦は戦艦同士の戦闘の行われた最後の戦いであり、神風特攻が行われた最初の戦いでもある。
フィリピンでの日本の占領政策は、過酷な強制労働と処刑、虐殺、徴発および飢饉を伴ったため、フィリピン市民の反日感情は悪化の一途だった。反日感情の悪化により多くの市民がのゲリラ活動に身を投じ日本軍に抵抗したが、米軍はゲリラを最大限に利用する為、ゲリラを組織化し物資や武器を供給した。その為に、日本軍とゲリラの戦いがフィリピン全土で激化し、日本軍が実質的に支配している地域はどんどん圧縮されていった。日本軍とゲリラの激しい戦闘の結果、ゲリラとは全く関係ない一般のフィリピン国民も戦闘に巻き込まれたり、日本軍のゲリラ掃討作戦の犠牲になり無用な犠牲を激増させる事にもなった。
1944年10月20日ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ第6陸軍17万4000人は、レイテ島東海岸とミンダナオ島北部に上陸を開始した。レイテ沖海戦により連合艦隊が壊滅した後も、日本軍は西部オルモック湾より補給を行い、レイテ島での決戦を行ったが、補給はアメリカの空軍により妨害された。さらに12月7日アメリカ軍はオルモック湾に逆上陸を仕掛け、日本軍の補給を遮断した。数か月の激しい戦闘が行われたが、主導権は常にアメリカ軍が握った。アメリカ第6陸軍は次にルソン島に対する攻撃の基地として12月15日ミンドロ島を攻撃した。レイテからミンドロへの第七艦隊の進攻船団は、神風特攻隊による攻撃を受けていたが、進行を遅らせることはなかった。ミンドロ島の日本守備軍は少なく、フィリピンゲリラによりすぐに席巻された。
1945年1月6日からルソン島西海岸のリンガエン湾に、アメリカ海軍第7艦隊による艦砲射撃が開始され、3日間かけて日本軍の海岸陣地の大半を破壊した。1月9日から17万5000のアメリカ第6陸軍が上陸した。陸軍は1月最終週にはマニラ北西のクラーク空港に達した。2月3日にアメリカ第1騎兵師団はマニラ北部郊外に達した。第14方面軍司令官の山下奉文はマニラを戦場にせず無防備都市として開放するという方針であったが、海軍が頑強に市街戦にこだわったのと、大本営もマニラ放棄を認めなかったため悲惨な市街戦が発生した。陸軍は撤退したが、岩淵三次率いる海軍陸戦隊約1万と残存兵4000はマニラに残存した。連合軍はバターン半島南部へのパラシュート降下を行い、マニラへの北部、南部への進撃に続き、バターン半島が確保された。2月16日コレビドール島が攻撃、27日占領され、マニラ湾の入り口が遮断された。
日本軍は米軍が現地人の反日感情を利用し組織化したゲリラに手を焼き、ゲリラと一般市民の明確な区別がつかないこともあり、現地人に対する怒りと不満を爆発させ、米軍下に女や子供も含む数千人のフィリピンゲリラが戦闘を行なっているとし、サンファン・デ・ディオス病院、サンタローザ大学、マニラ大聖堂などで現地民間人数千人を虐殺した(マニラ大虐殺・虐殺人数は東京裁判での検察側主張)。しかしマニラ市民の戦争犠牲者は10万人に上り、虐殺の全容は未だ不明である。但しマニラには上記の通り、10,000名程度の装備も劣悪な海軍陸戦隊を中心とした日本軍しかおらず大量虐殺は困難なこと、またマニラは米軍による執拗な砲爆撃でスペイン統治時代からの歴史ある建物が殆ど破壊されるなど焦土化しており、殆ど(一説には90%以上)が米軍の砲爆撃の巻き添えになったと推察され、戦後に、虐殺の責任をとって山下奉文大将が死刑とされたのは、マッカーサーの意図を汲み、日本側に大量のフィリピン市民の犠牲の責任を押し付けようとしたという指摘も各方面からなされている。(大岡昇平など)3月3日、アメリカ軍はマニラ市街戦終結を宣言した。ルソン島を守る日本軍25万のうち、80%が死亡した。
フィリピンで悲惨な目にあっていた米軍捕虜も解放されたが、一度は自分らを見捨てて逃走した癖に英雄面して帰ってきた「ダグアクトダグ」マッカーサーに決していい思いはしておらず、解放された捕虜の間ではマッカーサーの有名な言葉「アイシャルリターン」を揶揄して「トイレに行ってくるぜ、アイシャルリターン」となどのジョークが流行っていたという。
詳細→神風特攻隊
その頃、フィリピン戦より開始された特攻は、米軍に多大な損害を与え続けていた、レイテ沖海戦で日本海軍を壊滅させ勝利ムード一色の米海軍は特攻対策で大わらわとなったが、それでも損害は減少するどころか増え続け、続く沖縄戦ではアメリカ軍は建国以来最大の損害を被る事となった。
アメリカ軍は1945年2月28日パラワン島に上陸し、セブ島、パナイ島、ネグロス島、スールー諸島を占領、さらにフィリピンの主要な最後の島であるミンダナオ島に4月17日上陸した。6月末に主要な戦闘は終結し、8月15日に日本が降伏した後は残存日本兵も降伏した。
フィリピンで最後の日本兵小野田寛郎が降伏するのは1974年3月9日であった。連合軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、航空機による通商破壊を本格化して日本の南方航路を封鎖した。日本は、戦艦まで輸送任務に転用して北号作戦や南号作戦を行い資源輸送に努めたが、1945年3月を最後に南方航路は閉鎖に至った。日本はインドネシアの油田地帯などを依然として確保していたが、シーレーンの遮断により燃料供給を断たれ、艦隊の行動はおろか航空機を飛ばすことすら難しくなった。
詳細は硫黄島の戦いにて。
1945年2月の硫黄島の戦いは、太平洋戦争においてアメリカ人の流血をもたらした戦いの一つであった。攻撃側アメリカの目的は、島を占領し、日本本土に対する空襲を行うための補助基地として、利用することであった。守備側日本の目的は、戦いに勝てないことを知っていたが、アメリカ人が堪えられないような大きな損害を出すことを目的とした。
2月23日、第28海兵隊連隊は、すり鉢山の頂上に達し、今でも有名な、星条旗をかかげる写真を撮影した。海軍長官ジェームズ・フォレスタルは海兵隊の活躍をたたえた。2月の残りの期間、アメリカ軍は北に進出し、3月1日には島の2/3を占領していた。しかし最終的に島が確保されたのは3月26日にもなってからだった。日本軍が玉砕するまでに、海兵隊は6800人が死亡、20000人以上の負傷者をだすなど大きな損害を被り、ホーランド・スミスは事実上解任され、沖縄戦の指揮はサイモン・ボリバー・バックナー・ジュニアがとることになった。日本軍は20000人以上が死亡し、1083人のみが捕虜になった。
1944年の後半と、1945年の初期、連合軍の東南アジア方面軍は、ビルマのほとんどを回復するため、5月モンスーンの始まる前に首都ラングーンに攻勢を開始した。
インド15軍はアラカン州南西部の海岸にそって進軍し、過去2年間占領に失敗していたアキャブ島を占拠した。そして1945年1月21日、ラムリー島においてイギリス軍は日本軍の背後より上陸し、日本軍は多数の死傷者を出して撤退した。26日にはチェトバ島にもイギリス軍が上陸し、両島は中部ビルマ奪還への攻勢を支援するための航空基地として確立された。北部ビルマでも、中国軍は、1945年、モントゥー、ラーショー、シッポーに到達し、中国軍とアメリカ北部エリアコマンドは、北部ビルマでの前進を開始し、1945年1月インドと中国を結ぶレド公路が開通したが、終戦までの戦況に大きな影響を及ぼすことはなかった。
日本のビルマ方面軍は、イラワジ川の対岸まで撤退し、ここを防衛線として連合軍の攻撃を防ぐことを試みた(イラワジ会戦)。日本の新たなビルマ方面軍指揮官木村兵太郎は、連合軍がこのイラワジ川の障害により、戦線が伸びて弱体化することを期待した。しかしイギリス第14軍のウィリアム・スリム中将は、事前にイラワジ川を渡河してしまい、日本軍主力を出し抜いた。1945年2月、ウィリアム・スリム率いるイギリス第14軍は、イラワジ川を渡河する橋頭保を確保した。3月1日には第4軍団を要衝メイクテーラへ向かわせ、3月3日制圧した。日本軍はメイクテーラの奪還を図り、進行・包囲している間に、第19インド軍がビルマ中部の重要都市マンダレーに突入した。日本軍は両都市で大きな損害を出して敗北し撤退した。イギリス軍はいたるところから戦線を突破し、日本軍は全面崩壊した。マンダレーが失陥したところで、ビルマ国民の大部分およびアウンサンが率いるビルマ国民軍は日本軍に対し反旗を翻した。
イギリス第14軍はビルマの首都かつ重要港であるラングーンに向かい、4月中に南に480㎞進軍し、4月25日にはラングーン北方64㎞のペグーに達した。ウィリアム・スリムは、日本軍がラングーンで家から家へと守備し、モンスーンを利用した市街戦により、イギリス軍が危機的状況に陥る可能性を危惧し、以前物資不足のため放棄されていたラングーンを水陸両方より速やかに占領するドラキュラ作戦を、1945年3月復活させた。ドラキュラ作戦は雨季の到来前の5月1日に実行に移されたが、ラングーンはすでに放棄されていることが判明した。イギリス第14軍とラングーン占領軍は5月6日通信を確保し合流した。
イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を断たれた日本軍残党は、6月から7月の雨季にかけてシッタン川を渡る経路で脱出を試みた。イギリス軍は日本軍の計画を察知し、退路に待ち伏せや大砲をおいた。多くがシッタン川を渡ろうとして溺死した。日本軍は軍の半分にせまる14000の死者を出し、イギリス軍の被害はほとんどなかった。日本軍はタイへと撤退したが、一連のビルマでの戦いでの敗北で15万人以上が死亡し、1700人が捕虜となった。連合軍は日本の降伏時、マレーシアへの上陸戦の準備をしていた。
1945年のボルネオの戦いは、南西太平洋地域の主要な戦いだった。レスリー・モースヘッド率いるオーストラリア軍は、トーマス・キンケード率いるアメリカ第7艦隊とともに重要な役割を果たした。5月1日よりタラカン島への上陸より始まり、6月1日にラブアン等、ブルネイ湾にオーストラリア軍主力が上陸した。その1週後にオーストラリア軍は北ボルネオの日本軍を攻撃した。7月1日油田のある島東海岸中央のパクリパパンへの上陸作戦が行われ、第二次世界大戦の最後の主要な強襲上陸作戦となった。連合軍は上陸した地点を占領したが、まもなく終戦を迎えたため戦略的には大きな影響はなかった。作戦は、無駄な死傷者を出したとして、その後数年間オーストラリアで批判された。しかし作戦はオランダ領東インドにおける石油供給をもたらし、また同島で日本軍による劣悪な管理下にあった(サンダカン収容所やバトゥ・リンタン捕虜収容所など)連合軍捕虜を解放した。もっとも劣悪な捕虜収容所であるサンダカン収容所では、2500人のイギリス、オーストラリア軍捕虜のうち、6人しか生存者がいなかった。
1945年すでに日本と中国は7年以上戦争状態だった。大陸打通作戦での日本の勝利後、日本はビルマを失った。日本軍は3月より河南省および湖北省に進撃し(老河口作戦)、4月に8万の軍で湖南省に進撃したが、中国とアメリカ空軍による制空権の下、ビルマおよび昆明からのアメリカ軍より装備を支給された中国軍が到着し、激しい反撃にあい27000人の死傷者を出し、撤退した(シ江作戦)。これが日本軍最後の攻勢となった。この後は日本軍は持久戦方針となり、中国軍はアメリカの援助をうけながら老河口においても反撃を開始し、湖南省と湖北省を奪還した。1945年8月には広西省で攻勢をかけていたが終戦となった。
終戦間際に攻勢の失敗と、一部の占領地を失ったが、支那派遣軍はほぼ占領地を維持し、十分な戦力も保持しながら終戦を向ける事となったため、岡村軍司令官は「徹底抗戦に邁進す」と無条件降伏に難色を示したが、中国側の配慮もあり穏便に武装解除している。
岡村大将「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」
アメリカ軍は1945年後半の日本本土上陸作戦へむけ、B-17及びB-29爆撃機のためのの航空支援基地とするために、沖縄へ進攻した。
沖縄の第32軍は中央の作戦の変遷に翻弄されながらも、牛島軍司令官の全幅の信頼を受けた八原博通高級参謀が「寝技戦法」と称した、堅牢な陣地による徹底した防御戦により、戦闘艦の数ではノルマンディー上陸作戦を上回る大艦隊と、55万の大兵力(内上陸部隊の第10軍19万人)に対し善戦、また空からはフィリピン戦で猛威を振るった特攻機が殺到し、チャーチルが「軍事史の中で最も苛烈で名高い戦い」と評した激戦が陸海空で展開された。
米軍は当初30日で沖縄を攻略する計画であったが、3倍の90日かかっている。特に序盤の嘉数高地での戦いと中盤のシュガーローフの戦いは、米海兵隊史上硫黄島戦を凌ぐ激戦とされ、反斜面陣地を活用した日本軍の防衛線に米軍は全く前進ができず。シュガーローフに至ってはわずか標高200mの台地を日米で11回も奪い合った。大量に持ち込まれた日本軍の火砲が効果を如何なく発揮し、多数のM4中戦車が撃破された(陸軍だけで250両、海兵隊含めると400両以上)また日本軍の狙撃兵がシモヘイヘ並みに活躍し、米軍の尉官クラスを次々とスナイプし、米軍将兵らは日替わりで代わる中隊長や小隊長を「まるでトイレットペーパーのようだ」と揶揄していた。大物では副師団長の准将と連隊長の大佐もスナイプで戦死しており、一説では総司令官サイモン・バックナー・ジュニア中将もスナイプによる戦死と言われている(公式では96式15糎榴弾砲の砲撃により戦死)、総司令官が戦死するのは前代未聞で、米軍史上最高位での戦死者となっている。結果的に、米軍だけで14,006名の戦死者、72,012名という第二次世界大戦中でも1回の作戦としては最大級の損失を被っている
また肉体的な死傷以外でも、戦闘疲労による神経症の患者が26,211名にも上ったが、この患者たちは軍を退役した後も長らく神経症に悩み、社会問題化する事となった。また海軍は主に特攻により、36隻撃沈368隻損傷(再起不能艦多数)死傷者10,000名と、米海軍史上現在に至るまで最大の損害を被る事となった。そのあまりのあまりの損害にアメリカ議会は驚き、軍へ説明の為の喚問を行った。またマスコミ各社は日本軍陣地を正攻法で攻撃し大損害を被り続けるバックナーに対し「真珠湾以来の無能な軍事作戦」と激しいバッシングを続け、「スミスVsスミス事件」以来関係が冷え込んでいた海軍や海兵隊もバックナー作戦指導の疑問を唱えたが、バックナーが戦死したことによりその個人へのバッシングはトーンダウンした。
沖縄戦の大損害により、米軍内にもはや莫大な損失を被る事が確実の日本本土上陸は無理ではないかという流れを作る事となった。
ニミッツ「カミカゼから早く解放されたい(必死)とっとと進軍しないとお前(バックナー)をクビにするぞ」
一方日本軍も、正規軍7万名 現地召集兵3万名 住民は9万名~15万名が命を落とす悲劇となった。その膨大な人的損失と、特攻機1,900機を含めた4,000機もの航空機を失なうなどの戦力の大量損失は、天皇や首相に早期講和の決心を促す事ともなった。
極限の中で、住民による集団自決や、久米島事件の様にスパイ容疑を着せられて日本軍に殺害された住民もいた。人数はさだかではないが、一部の研究者の中には合計で1,000名を超すと主張する者もいる。しかし残りの99%以上は米軍の無差別な砲爆撃の犠牲者である。日本軍は米軍侵攻前に海路沖縄住民を本土や台湾に疎開させようとしたが、対馬丸の悲劇の様に米軍の無差別潜水艦作戦の前に頓挫する事となった。(対馬丸を撃沈した潜水艦ボーフィンは殊勲艦として真珠湾に展示されている)それでも官民挙げた努力の結果、8万人以上の住民(主に老人・婦女子)が疎開に成功している。米軍上陸後は当初の軍や沖縄県の方針通り、沖縄本島北部に避難した住民は大半が生存したが、主に食糧の問題で軍や行政と動きを共にし南部に集まっていた住民に夥しい死者が出る事となった。軍に避難民を保護する余裕はなく、一部では日本兵が住民を洞穴から追い出したり食糧を奪ったりといった証言も残されている。また太平洋上の他の戦場で見られた光景と同様に、米軍兵士が婦女子を虜辱し殺害したり、戦闘不能の日本兵や住民を面白半分に虐殺していたという目撃証言も数多く残っている。
凄惨な戦闘の中で、島田叡沖縄県知事や荒井退造警察本部長ら沖縄行政府職員らは、最後まで沖縄県民の保護に尽力し殉職している。特に、沖縄へ米軍侵攻が見込まれる中、誰もが尻込みした沖縄県知事の任を、家族や周囲の反対を押し切って受けた島田知事の評価は今日においても非常に高く、野球を愛した島田知事に因んで、沖縄県の高校野球大会優勝校には島田杯が授与されている。
島田知事「誰かが行かなければならないなら私が行く、私が死にたくないから他の人に行ってくれとは言えない」
沖縄は結局日本本土上陸作戦の前線基地となることなく日本は無条件降伏したが、その後米軍の占領下が長く続き、返還後も米軍基地が多く残存する事となり、現在の沖縄問題のきっかけとなっている。
米陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルドは、日本本土をドイツと同様に大規模な戦略爆撃し、戦争遂行能力を失わせ屈服させる事を計画。新型の大型爆撃機B-29を対日戦専用に運用する事を決め、対日爆撃部隊となる第20空軍を設立した。当初は中国本土から出撃していたが、さすがのB-29でも中国の国民党勢力圏化からの出撃では九州攻撃がやっとであることや、第20空軍隷下の実戦部隊第20爆撃機集団ヘイウッド・ハンセルが軍事拠点や生産拠点への高高度爆撃に拘った事から成果は上がらず、アーノルドはハンセルを更迭し、カーチス・ルメイを、日本軍から奪取したマリアナに新設した第21爆撃機集団(第20爆撃機集団は第21爆撃機集団へ合流)の司令に任命した。ルメイは前任者ハンセルの方針であった高高度からの生産施設や軍事基地に対する爆撃では手ぬるいと考え、自らが前任地のドイツ戦略爆撃で行った市街地への無差別爆撃による一般市民の大量虐殺が最も効果的であるとし、1945年3月の深夜に東京の人口密集地に低空からの無差別爆撃を命じた。ルメイの思惑は的中し、東京大空襲では起こった火災旋風により、10万人が死亡した他、日本の76都市に対する爆撃により夥しい数の一般市民が虐殺され、空爆の死者24万1309人以上、家を失ったもの804万人に及んだ。日本に大量に投下された爆弾は日本家屋を焼き払う為に開発された焼夷弾M69であったが、これは主成分油脂の小さな焼夷弾が現在で言うクラスター爆弾の様に降り注ぐ極悪仕様であり、日本が考えていた空襲対策(バケツリレーなど)ではとても太刀打ちできるものではなく、消防や市民らによる消火は困難であり被害を拡大させた。
同時に、空母から出撃した艦載戦闘機や硫黄島から出撃した陸軍戦闘機が面白半分に一般市民を機銃掃射しており、「湯の花トンネル事件」や「筑紫駅事件」など多数の死傷者が出ている。石原慎太郎や松本零士といった有名人も子供の頃に機銃掃射を浴びあやうく死にかけた経験をしていたり、手塚治虫が自身の戦争体験を描いた短編マンガ「カノン」では教師や友人が機銃掃射で無残に死ぬ姿が描かれている。米軍による無差別の機銃掃射の様子はガンカメラに撮影されて現在でも見る事ができる。
戦争の激化により成年男子の徴兵強化で労働力不足に陥っていた日本は、これを補うために1943年国民徴用令の改正によって、多数の学生、婦人、朝鮮人、中国人、捕虜、そして刑務所の囚人を労働力として動員した。その人数は336万3000人の婦人、200万の学生に加え、32万3000人の朝鮮人、3万4000人の中国人も、戦時労働者として日本に連れてこられた。しかし空襲の激化と民心の離反により生産性は低下の一途をたどり、1945年5月には稼働率は40%も低下した。また、1944年12月に発生した東南海地震、1945年1月に発生した三河地震で航空機産業の工場の多くが破壊され、生産性低下に拍車をかけている。日本は1944年に最高となる28,180機の航空機を生産していたが、1945年は終戦までに8,263機しか生産できなかった。
日本周辺の機雷封鎖作戦である飢餓作戦は、主にアメリカ陸軍運航空軍により実行され、日本沿岸航路も麻痺させ、漁業を困難にさせた。空襲と海上封鎖と生産性の著しい低下により日本は戦争遂行が困難となっていった。
余談であるが、ルメイは戦後に航空自衛隊の設立に貢献あったとして、勲一等旭日章の叙勲が行われている。当時の佐藤栄作内閣の決定で強行されたが、国民からは非難が集中し、本来なら勲一等が天皇自ら親授されるのが恒例であるが、それもなされなかった。その後ルメイは米空軍参謀総長に昇進したが、キューバ危機の際にジョン・F・ケネディ大統領にキューバ本土への空爆を詰め寄ったり、ベトナム戦争では北爆を推進し「ベトナムを石器時代に戻してやる」と今なおネタとして語り継がれる名言を残している。
1945年7月26日、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中国国民党政府蒋介石は、日本への降伏の条件を提示するポツダム宣言を提言した。この最後通告には、日本が降伏しなかった場合、連合軍により日本国は迅速かつ完全なる破壊に直面するだろうことが盛り込まれていた。
1946年8月6日、アメリカのB-29爆撃機エノラ・ゲイは、西日本全体を統括する第二総軍の司令部(広島城)が置かれていた「軍都」である広島に原子爆弾を投下し、2万人以上の軍人を含む7万人が同日に死亡し、年末までに14万人が死亡した。8月9日、長崎に原爆が投下され、年末までに3万9000人~8万人が死亡した。さらに放射能の影響などによる悪性腫瘍等により1950-2000年にかけて1900人が死亡した。原爆の投下が、特に天皇の聖断を通し、日本の降伏に重大な影響を与えたのは間違いない。しかし海上封鎖と空爆、飢餓作戦を継続していくことで、いずれの日にか降伏がもたらされ、原爆は不要であったとの議論も続けられている。反論としては、日本の降伏がなされず、あるいは遅延してダウンフォール作戦が実行されると、連合軍兵士、日本の一般市民の間で非常に大きな犠牲(数百万人から2000万人の死者)がもたらされることが予測されること、またソ連参戦についても、ソ連軍は北海道への進攻への艦船が不足していたことから、日本を降伏させることはできなかった可能性を指摘している。
1945年2月3日のヤルタ会談にて、ソ連のスターリンは、日ソ中立条約を破棄し、ヨーロッパの終戦後90日以内に太平洋戦線に参加することでルーズベルトと合意した。終戦後、100万以上のソ連軍がヨーロッパから転送された。日本の関東軍はシベリア鉄道でのソ連の輸送力を過小評価しており、8月の終わりまで十分な戦力はなく、攻撃は1945年秋以降から1946年春と考えていた。1945年8月9日に始まったソ連の対日参戦と満州国との戦いは、日本軍の激しい抵抗にもかかわらずソ連軍が圧倒し、大陸におけるソ連の内モンゴル、北朝鮮、満州と南樺太、千島列島における権益をもたらし、関東軍の急速な敗北は日本の降伏における重要な因子であることが指摘されている。8月15日の玉音放送では、「降伏」の文言が使われなかったことより混乱をもたらし、関東軍の激しい抵抗が続き、ソ連軍は抵抗が強い部位を避け進撃をつづけ、8月20日満州国皇帝溥儀はソ連赤軍により捕獲された。停戦命令は最終的に関東軍に伝えられたが、ソ連はすでに満州をほぼ制圧していた。
日本の非軍事政治家は、早くも1943年に日本軍の敗北を予測し、停戦と降伏を模索していたが、さまざまな理由のために、いずれの取り組みも失敗した。また和平を口にしたものは、軍部によってただちに殺されるという空気が支配していた。満州への攻撃と、広島と長崎への原爆は、日本の政治デッドロックを解除して日本の指導者に強制的に降伏を受け入れさせた。
過去2年間の敗北の連続から迎えた1945年、フィリピン決戦の敗北をうけ、小磯國昭は重慶政府との単独講和を目指したが(繆斌工作)、外務大臣重光葵および昭和天皇の反対で頓挫した。この失敗を受け、小磯内閣は総辞職した。この間も硫黄島の玉砕、イラワジ会戦の敗北など、戦況は悪化をつづけた。4月7日、鈴木貫太郎内閣が成立した。その後もドイツの降伏、沖縄戦の敗北、連合軍の通商破壊、飢餓作戦、戦略爆撃により状況は悪化の一途であり、連合軍の本土上陸が差し迫っていた。連合軍の進攻を止める最後の試みとして、本土決戦計画である決号作戦が立案された。神風特攻や回天、震洋、桜花などの特攻兵器を駆使し、総計10㎞の地下壕からなる松代大本営に、天皇を移し徹底抗戦する計画である。
当時の日本の政策決定は、最高戦争指導会議が行っていた。1945年6月6日に鈴木内閣で初めての最高戦争指導会議が行われ、首相:鈴木貫太郎、外務大臣:東郷茂徳、陸軍大臣:阿南惟幾、海軍大臣:米内光政、参謀総長代理:河辺虎四郎、軍令部総長:豊田副武の6人が出席した。河辺陸軍参謀次長が声高に本土決戦を主張し、東郷外務大臣が即時講和と反論し激論が交わされたが、鈴木首相と米内海相は沈黙し会議の流れを聞いていた。鈴木首相は終戦を考えていたが、今の時点では機が熟しておらず、陸軍が暴発する危険があること(鈴木首相自身も226事件で銃撃で瀕死の重傷を負っている)また陸軍大臣が辞任を言い出す懸念あり、そうなれば内閣総辞職をせねばならなくなり、昭和天皇よりの信任により首相に就任したのにその責任が果たせなくなることから、最終的に鈴木首相も戦争継続を容認せざるを得ず「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が決定された。
沖縄戦の趨勢が決するまでは、昭和天皇も鈴木首相も、基本的には陸軍と同じ「一撃講和主義」であった。これは、日本軍の総力を結集した決戦で、連合軍に打撃を与えたうえで有利な講和を持ち出すという考え方で、日露戦争における、全体的な膠着状態において日本海海戦の決定的勝利で講和できた経験に基づいていた。この考えに基づいて1945年2月の近衛文麿の和平上奏文でも、昭和天皇は「もう一度戦果をあげてからでないと難しい」と答えている。その後に、沖縄戦での第32軍の総攻撃失敗による戦局の悪化や、侍従武官などより軍の実情を聞かされていた昭和天皇は一撃講和は無理という認識となり、それは鈴木首相も同じであった。
鈴木首相は、戦争継続という方針で陸軍を安心させる一方で、東郷外相とソ連を通じた和平工作を提案、陸軍もソ連であればと渋々この提案を受け入れたが、ソ連との交渉を指示された独ソ戦の状況を知る駐ソ大使佐藤に一笑に付されている。1945年4月5日に日ソ中立条約はソ連側より更新しないとの通告があり、1年後に効力を失う予定であったが、日本政府は引き続き、佐藤大使に交渉の継続と関係改善の維持を指示した。和平派は他にも様々なルートで講和条件を模索していたが、陸軍の反対によりスイスやスウェーデンの仲介は妨害され、下村宏国務相は米英との直接交渉を主張したが無視され、日本政府はソ連を仲介した和平交渉を行うこととせざるを得なくなっていた。
ソ連駐在の日本大使佐藤尚武は、既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立たず、早期終戦を促す機密電報を送った。しかし上記の通り、会議の結果、東郷外相がソ連に交渉を打診することになった。更に6月9日内大臣の木戸幸一は年末までに日本の交戦力は消滅するとし、名誉ある和平を求める木戸試案を出し、指導会議にも受け入れられた。6月には、天皇は、沖縄戦の敗北、関東軍および本土軍の状況より軍事勝利を断念し、22日閣僚に早急な和平模索を求め、会議はソ連の仲介による有条件で和平交渉をめざすこと同意した。6月24日広田は駐日ソ連大使のマリクと会談したが、マリクは具体的提案の必要性を述べた。東郷外相は駐ソ大使佐藤尚武に、近衛文麿を特使とした特使派遣をソ連外相モロトフに要請するよう訓令した、しかし7月18日、日本側からの具体的提言のない、使命の不明確な特使派遣は、ソ連により拒絶された。その時既に、ヤルタの密約によりソ連の参戦は決まっており、スターリンよりモロトフに対し日本をあやし時間稼ぎを行うように指示が出ており、ソ連は最初からまともに対応する気はなかった。その事情を知らない佐藤は具体的な条件を欠いた特使派遣の依頼ではソ連を動かすことはできないとして、無条件降伏に近い和平しかないという電報を送った。しかし会議は具体的条件を提示することができず、特使がモスクワでソ連と交渉するまで決定を延ばすこととし、佐藤は東郷外相の訓令により再度特使派遣を申し入れた。しかし佐藤は8月8日ようやく実現した会見の席で、モロトフから対日宣戦布告を通知されることになる。
1945年4月12日に急死したルーズベルトの後を受け、ハリー・S・トルーマンがアメリカ大統領に就任した。マンハッタン計画で、1945年7月16日トリニティ実験が成功した。7月16日よりアメリカ、ソ連、イギリス首脳は欧州情勢を主としたポツダム会談を行い、日本との戦争についても議論された。トルーマンは早期終戦のため連合国の受け入れ得る条件を提示する和平提案をすることを提言し、英も同意し調整した。7月26日、トルーマン、チャーチル、蒋介石の名で降伏条件を示す最後通牒であるポツダム宣言が発せられた。これ以外の日本の選択は、速やかにして完全な破壊あるのみと明言されていた。これを受け、東郷外相は、軍のみの無条件降伏で日本国に対しては実質的な緩和された有条件降伏であり、日本が宣言を拒否する意図を表明してならないと強調し、上奏を受けた天皇も受け入れ可能であるとした。しかし豊田軍令部総長ははっきりとした拒否をするよう主張した。28日の最高統帥部連絡会議ではポツダム宣言を断固拒否すべきだとの軍の主張がとおり、鈴木首相にポツダム宣言を無視するという趣旨の発表をするよう要求し、鈴木首相のポツダム宣言「黙殺」発言となった。東郷外相はソ連との和平交渉に託したが、佐藤駐ソ大使は7月30日、ソ連の対日参戦を防ぐには即時無条件降伏しかないと返信した。
8月6日広島に原爆が投下された。東郷外相はポツダム宣言を直ちに受諾するよう進言し、最高戦争指導会議の緊急開催を要望したが、一部の構成員が出席できないとの理由で延期になった。日本軍は原爆の開発を行っていたことから、それが困難であることは十分理解しており、当初はアメリカが原爆を使ったことを認めることを拒否したが、東郷外相は軍を追及し、軍も認めざるを得なくなった。豊田軍令部総長はアメリカの原爆があっても一つだけだろうと主張したが、アメリカはそのような反応も予測しており、第二の原爆の投下を計画していた。8月9日午前4時ソ連が日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告を行い、満州へ進攻した。小磯の前例に倣えばここで総辞職だが、鈴木は首相にとどまった。このツインショックを受けての8月9日の最高戦争指導会議では、鈴木首相と東郷外相は降伏を主張した。しかし軍は戦犯、武装解除、占領の3項目に条件を付けるべきと主張した。梅津参謀総長ら陸軍幹部は、第二の原爆投下はないだろうと発言し、継戦が可能だと主張した。しかし議論を費やしている会議中に、長崎に原爆が投下された。長崎の原爆後、トルーマンは降伏を促す声明を発表した。降伏がなければ、8月19日に第3の原爆が投下される予定だった。阿南陸相はじめ豊田と梅津はなおも抗戦を主張したが、米内海相は降伏に同意し、3対3に意見が割れた。会議は意見が一致せず、9日午後の閣議でも何も決められず、深夜に御前会議が行われた。天皇は東郷外相に同意し、8月10日国体保持を条件にポツダム宣言の受諾がスイス・スウェーデンを通じて伝達された。米英中ソは協議を行い、天皇および国家統治の権限は連合国最高司令官の制限下に置かれる、武装解除や速やかな捕虜の返還等を要望、政体は日本国民の自由に表明された意志によって決定される、等回答し、日本の返答を待った。しかし、その間も全国で陸軍航空隊と艦載機による激しい空襲が行われ、多くの日本国民が犠牲となっている。梅津参謀総長と豊田軍令部総長はなおも天皇に回答を断固拒否すべきだと上奏し、陸海軍将校は御前会議を阻止しようと首脳や皇族を訪問したが芳しくなく、和平派を打倒するため武力行使する計画を作成した。阿南陸相は条件付き主張し会議は紛糾した。米軍は、ポツダム宣言受諾の秘密の和平交渉が行われていることが書かれたビラを東京やその他諸都市に散布した。14日鈴木と木戸は軍の反対を押し切り緊急御前会議を開催し、ポツダム宣言の受諾が決まった。同日深夜ポツダム宣言受諾が米英中ソに通告された。
14日の夜、阿南と梅津は陸軍省で降伏決定を知らせ、翌日阿南は自決した。ポツダム宣言には日本軍の無条件降伏という項目があり、陸海軍は組織存亡の危機に立っていたため、徹底抗戦を主張していた多数の陸軍将校から激しい反発が起きた。15日未明一部の陸軍将校は宮殿を占拠し、NHKラジオ局を占拠ようとしし、ポツダム宣言受諾を妨害するクーデターを起こしたが失敗した(宮城事件)。15日正午玉音放送が行われた。その後も愛宕山事件、厚木航空隊事件、川口放送所占拠事件、松江騒擾事件などの降伏に反対する反乱がおきたがすべて鎮圧された。宇垣纒は終戦の証書を無視し、11機を率いて特攻を行った。8月18日米軍のB-32による偵察が紫電改と零戦に襲われ1人が死亡した。しかし大規模な反乱はなく降伏が受け入れられた。8月30日ダグラスマッカーサーが厚木に到着し、9月2日米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書が調印され、東南アジアでは9月12日シンガポールで調印された。日本は連合軍に占領され、外地の540万の日本軍人と、180万の民間人は連合軍の捕虜となったが、順次帰還した。一部の日本兵は降伏を拒否し、残留日本兵となった。1952年4月28日、日本は独立を回復した。
戦争において、戦争犯罪は、各国軍においてはつきものである。日本やドイツなどの枢軸国はもちろん、イギリス、ソ連、アメリカなどの連合国においても戦争犯罪がさまざまに存在する。一方、枢軸国でもイタリアでは戦争犯罪はそれほど行っていなかった(行う暇がなかった)。
ハーグ陸戦条約では、開戦に対し、宣戦布告、あるいは条件付き開戦宣言を含む最後通牒による事前の通告を定めていてる。
戦争捕虜は、武力衝突の時あるいは直後に、交戦中の軍人あるいは民間人(1949年まで)を拘束したもので、当時の捕虜の処遇に対する国際法としては
があり、このうちジュネーブ条約はソ連は署名しておらず、日本は署名をしたものの軍の反対で批准をしていなかった。
太平洋戦争中の捕虜(日本側の統計)
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連合軍の捕虜となった日本軍はジュネーブ条約にのっとり扱われた。しかし人種的偏見、日本軍の残虐行為などによる敵愾心と兵の撃ちたがりで、捕虜となる前に殺害することが多かった(ビスマルク海海戦など)。また日本軍の死体の損壊も行った。
また、一方で、日本捕虜が少なかったのは、日本軍が戦陣訓により降伏を禁じられ、捕虜となることをきわめて嫌ったため、降伏が極めて少なかったためでもある(集団降伏が少なく1945年の竹永事件42人が最高、一度に捕虜になった数では橘丸事件の1,500人)。もっとも、どの程度玉砕したのか、虐殺されたのか知る術はない。ノモンハン事件では、ソ連より返還された捕虜159人は自殺を強要された。初期の数少ない捕虜は、捕虜になったことを恥とし、地元での社会的迫害をなによりもに恐れ、本国政府や地元に捕虜になったことを伝えないように懇願し、そのためには軍事機密や陣地の場所や弱点を教えるなど敵軍に協力することもいとわなかった。日本政府も捕虜がいることを公式に否定し、家族にその情報を伝えることを拒否した。捕虜となることをよしとしていなかった日本兵は各地で脱走や、暴動を起こし、1943年2月25日にはフェザーストン収容所で250人の日本捕虜が労務拒否の暴動を起こし、1人の看守を道連れに48人が死亡した。1944年8月4日にカウラ収容所で脱走事件が起き、看守4人を道連れに231人が死亡した。ただ捕虜が脱走を図るのは、各軍兵士が捕虜になった際の任務とされ、そのエピソードを元に作られたのが有名な映画「大脱走」である。
連合軍も対策を取り、兵に捕虜をとることで情報が得られ損害が減らせるメリットを兵卒に周知し、捕虜を親切に扱い、多くの情報を得て実際に戦闘に役立てた。日本側も対策を取り、1944年ごろより新聞・ラジオ等で「鬼畜米英」を喧伝し、米軍に捕まると容赦なく殺されると宣伝した。サイパンではガダルカナルで民間邦人が虐殺されたと宣伝されて民間人降伏の障害の一因となっていた(ちなみにガダルカナルに民間人はいなかった)。連合軍も優遇した捕虜にビラを書かせ、拡声器で話させ、戦友を投降に勧誘させるなど連合軍による虐待を否定するなどの対策を取り、1945年には捕虜となるものが増え、最終的には他の交戦国と遜色ない人数となった。終戦後には、500万を超える軍、民間人が連合軍の捕虜となった。
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最終更新:2024/12/27(金) 07:00
最終更新:2024/12/27(金) 07:00
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