太平洋戦争 単語

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太平洋戦争とは、第二次世界大戦(19391945)のうち大日本帝国アメリカ合衆国英国中華民国オランダなどの連合軍と交戦局面をした呼称である。

概要

 英語ではPacific War第二次世界大戦太平洋東南アジアの戦線であり、中華民国支那事変日中戦争)、1945年8-9月ソ連日本との戦争も含まれる。

 太平洋戦争は1941年12月7日日本では8日)に始まったと考えられている。
 1937年7月7の支那事、1931年9月19の満州事変に始まるという意見もあるが、一般的に太平洋戦争自体が第二次世界大戦の一部となったのは1941年12月とされる。
 広と長の原、日本への大規模空襲、満州へのソ連侵攻の結果、1945年8月15にポツダム宣言の受諾、玉音放送が行われ、9月2日に正式に終戦した。

- 参 戦  -

連合
 アメリカ  イギリス
 中華民国  オーストラリア
 オランダ  ソビエト連邦
その他多数

VS

枢軸国
 大日本帝国  タイ王国
 ヴィシーフランス  インド民軍
ビルマ国 政府
その他

太平洋戦争の認識について

戦争の名称

 戦時中の連合では、第二次世界大戦太平洋戦線という名称であり、英ソは極東戦線と呼称し、中国は第二次中日戦争としていた。時の日本政府大東亜戦争と命名したが、これは陸軍による呼称であり、海軍は太平洋戦争としていた。日本側の敗北により進駐して来た連合軍(GHQ)によって、公式文書で陸軍の名称は使用禁止にされ、代わりに太平洋戦争の言葉が代わりに用いられた。”大東亜戦争”はタブー扱いとされメディア教育での使用は控えられている。

戦争の認識

 現在に至るまで、太平洋戦争の認識には大きな偏りがある。大きな組みの中ではあまり意味のない戦いが過大に、重大な意味を持つ戦いが過少に扱われ、何も是正されないまま今日に至っている。

 大本営は二正面作戦の挫折から、対戦争が対中国戦争の経験からは想像もつかぬ厳しいものであることを思い知らされた。たるんでいる内体制を、ここで一挙に引き締めねばならない。その為には、南の果てでの苦戦の実態をある程度民に明かすことが必要だ。報道解禁の対として選ばれたのが、ガダルカナルである。民がだれ一人知らない小さなのことである、すでに撤退も終わっていたことが理由であろう。軍と政府はあらゆるメディアを動員して、ガダルカナルにおける敵戦力の圧倒的強さを説き、産業戦士の決起を促した。しかしニューギニアについては一言半句も触れなかった。ニューギニアガダルカナルの両作戦の重要性を、戦局全体から見た場合、本命はもちろん前者である。「天皇独白録」には「私はニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから、勝利の見込みを失った」と書かれている。だがニューギニアに関する新聞報道は、その後も皆無といってよい。ただ一つの例外は、マダン南方山中戦闘について「弾丸尽くして全員玉砕」の記事(朝日新聞1944129日)があるだけだ。1958年の広辞苑ガダルカナルで太平洋戦争中日戦の地と述べるが、ニューギニアでは戦争に全く触れていない。この点は1959世界大百科事典でも全く同じだ。この辞典では別に世界大戦の項があり、多くのページを費やしているが、やはりガダルカナルに詳しく、ニューギニア文字は見当たらない。ガダルカナルが著名なのに、現在でもニューギニアが知られていないのは、明らかに戦中の報道規制の後遺症である。

この偏りには米国も関与している。敗戦の年の12月8日から17日までの10日間、GHQの命で「連合部の叙述しせる太平洋戦争史」が記載された。的は日本人が間違った戦争報道を信じ込まされていたこと、本当の戦争の実情を暴露し民の旧体制に対する着・忠心にくさびを打ち込むことであった。しかし内容はワシントンの意向(トルーマンマッカーサー嫌いである)を強くんだもので、ミッドウェーのの転機からガダルカナルサイパンを経て沖縄終戦に至る「米海軍」の太平洋戦争史であった。また12月9日から翌年2月1日まで10回、ラジオ番組「相はこうだ」が放送され、その後継として「」が21年11月29日まで41回も放送された。毎週900から1200通もの投書が寄せられ、その質問に「々」=「日本」が主語になって答える形式になっていた。「相はこうだ」でもニューギニアフィリピン戦は触れられていない。米海軍には太平洋の戦いは自分たちが役だという強いこだわりがあり、「マッカーサー海軍の戦功でも横取りしてしまうので、そうならないよう自分らが建てた戦功はを大にして宣伝しなければならない」と警鐘を鳴らした海軍軍人の回顧がある。米海軍は、海軍海兵隊による上陸作戦等の映像米国内で盛んに流し、日本軍を次々と打ち破っているのは米海軍であるというイメージアメリカ民に植え付ける努力を怠らなかった。こうした広報活動によってワシントン空気海軍寄りになったことは言うまでもない。マッカーサーGHQといえども、ワシントンの意向には逆らえなかった。

こうしてマッカーサー作戦を小さく扱い、ニミッツの活躍をより多く取り上げ、ライバル日本海軍を引き立てて善玉視する太平洋戦争史が、日本国民に刷り込まれた。

特に太平洋戦争の戦場となったニューギニアの戦いについては、日本でもアメリカでも極めて関心が薄く、豪州だけが非常に高いのが現状である。

開戦までの経緯

 アヘン戦争によって清国イギリスによって打倒されると、その衝撃江戸幕府にもたらされた。かつて強であったはずの清の敗北は、さらにその先の日本へ進出することは時間の問題であった。西洋列強による開現実的なものとなり、速やかな国体の変革が急務であることを日本人に知らせる形になった。1867年薩摩閥、長州閥を中心とした西日本の雄により、江戸幕府は打倒され、明治維新が起こった。長閥を中心とした明治政府は、諸外から学び、技術導入だけでなく憲法や学制、医療、民法、軍政の導入など、様々な改革を行い、力を高めていった。

 日清戦争では、当時日本社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に国際法を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性を認め、明治天皇国際法を守り中国人を保護する考えを示した。事実この戦争で、清国兵1,970人を捕虜にしたが、再び日本軍を相手にして武器を取らないと宣誓させて全員釈放した。だが旅順大虐殺が起き、不等条約改正にを与えた、日本側は「清が邦人捕虜を残酷に処刑したため、報復として起こしたこと、また敵軍が軍服を脱いで市民に偽装したため、区別ができなかった。」と弁明した。清側が蛮行を宣伝するよりも逆に敗北を隠蔽する方向に圧力をかけたことで収束に向かい、条約改正にこぎつけたが、のちの反日感情および軍部の欺瞞パターンを落とした。
 国清を破った日は台東半の広大な領土の割譲および2億両の賠償を手にする下関条約を結んだが、実費を大幅に上回る巨額の賠償金と貿易上等の利権も得る他に、東半・台湾・島」という条件が、当時の歴史的な実績からして過大であった。国干渉は、1895年(明治28年)4月23にフラン、ドイツ帝、ロシア帝国のが日本に対して行った勧告である。日本と清の間で結ばれた下関条約に基づき日本に割譲され東半島を清に返還すること求める内容だった。こうした干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案したが、外相陸は会議でさらなる干渉を招く恐れ張し、5月4日日本は勧告を受諾し、清との間に還付条約を結んで代償に3000万両(4500万円)を獲得した。

 外交では1902年(明治35年)1月30日日英同盟を締結してロシアとの対決姿勢を強め、1904年に日露戦争が勃発した。これは1899年のハーグ陸戦条約以後の初めての戦争であり、戦争法規が守られるか注された。日本は、際条規の範囲にて、大本営に法学者が出向き、前回の反省から日清戦争の時よりさらに国際法を守ろうとした。陸軍の俘虜取扱規則で「俘虜は博の心をもって之を取扱い、決して侮辱虐待を加ふべからず」と明記され、想定外ロシア兵の捕虜79,367人を得たものの、病死させたものはわずか38人であり、日本軍の倍の給料を払って優遇し、戦後全員送還された。この時は日ロ両国とも国際法を順守し、特に日本際的地位を高めた。不等条約の改正や初めての植民地である台湾、ポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した関東州、日韓併合として朝鮮半島などを領土とし大として歩み始めた。そして、日本を訪れた若き日のマッカーサーニミッツも大いに感嘆させたのである。

日本兵の大胆さと勇気指揮官の意志は封建の…。だがこのの人々は質素で礼儀正しく、しみ深い。アジアはいずれ欧州より豊かになる。 ロシアを破った凱旋園遊会に首席したとき、東郷提督は快く々と歓談してもらい、感銘を受けた。海軍士官としての東郷提督は私は尊敬している。

しかし一方で明治維新以来の政治軍事体制に変化が起こりつつあった。日露戦争を経て、英才児玉源太郎井上が死に、更に長州偏重の寺内人事が横行し、戦史課の英才東條英教や、名将黒木為楨・西寛二郎小川又次等が相次いで予備・後備になった。長州閥最盛の時であるが、日露戦争満洲軍総部のメンバーは陸大出で固められ、この辺りから陸大閥が現れ始める。

明治22年(1889)に発布された大日本帝国憲法によって定められた内閣制度では政府の政策意思決定は閣僚の全員一致でなければならなかった。このことは現在ではあまり知られておらず、一人でも抵抗して反対する大臣がいる場合、総理大臣は政策決定を回避するか、内閣総辞職かの二者択一の選択しかなかった。つまり現在のように総理大臣に権限は集中しておらず、総理大臣天皇の臣下・弼にすぎず、他の大臣を罷免することはできない仕組みだった。したがって何とか軍部を宥めて案件に同意させなければならなかった。元来軍は1882年の軍人勅諭により「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を厳命されていた。元軍人でも現役から退いていれば政治家となり首相となるものまでいたが、現役で軍に携わる者は政治活動を禁止されていた。しかし実際には「事実解説並びに研究の結果」を発表するのは禁じられていないと解釈して、「防思想普及運動」などの宣伝活動を実施した。明治以来の資本主義を発展させる「富」の一方、農は犠牲となった面があった。しかし明治以来長閥系の政治家・軍人は、三干渉に対する伊藤博文の対応のように基本的に協調政治で、現実義的政策を行っていた。兵士の出身であった農の窮状は改善されず、特に東北などの貧農等から軍部に支持が集まっていた。

第一次世界大戦とその影響

 1914年にヨーロッパ第一次世界大戦が勃発した。7千万以上の軍人が動員され、第二次産業革命による技術革新塹壕戦による戦線の着で死亡率が大幅に上昇、戦闘員900万人以上とジェノサイドの犠牲者を含む文民700万人以上が死亡した。この戦争では戦車航空機も登場した。

タンネンベルクの戦い

 1914年8月のタンネンベルクの戦いでは、ロシア軍は圧倒的な大軍に物を言わせてドイツ軍に挑んだが、三分の一の兵力に過ぎぬルーデンドル揮のドイツ軍完璧な包囲殲滅作戦により敗北を喫した。ロシア2軍20万人のうち帰する事が出来たのはわずか1万7000人だった。この戦いは、現場指揮官としてほれぼれするような大成功をにした永田山や石原莞爾ルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きなを与えた。 劣勢の独軍が露軍を撃破した戦いは日本陸軍の一種の信仰対と化し、英雄ルーデンドルフの名も定着する。

ガリポリの戦い

海軍大臣チャーチル 海軍大臣 この戦艦群があればトルコなんぞひと飲みよ。 英兵「なんて杜撰作戦だよ、ひいいいいい」 英国民「チャーチル、クビ!」

1915年3月チャーチルの強い導にこの作戦は決行された。「ガリポリの悲劇」の始まりだった。トルコ力艦隊を突入させ、一気に首都を占領して背後からドイツを突くというこの戦略構想は抗しがたい魅力を持つものであった。最強戦艦クィーン・エリザベスを先頭に、二十二隻のド級戦艦Z旗を掲げてダーダネル峡へ突入していく姿は壮麗であったが、均3マイルの幅しかなく、いたるところに機雷が仕掛けられ、その上には堅固に要塞化された切り立つ崖が両に延々数十キロにわたって続く峡を一体どうして突破できるというのか。予想通り、両からの撃と機照射の餌食となった戦艦オーシャンズの姿に、イギリス海軍は、作戦続行をあきらめた。しかし「ガリポリ」の悲劇はその後に始まる。艦隊の突入が不可能とわかったイアンハミルトン将軍は、海洋の西に延びるガリポリ半島陸軍を上陸させ、これを占領して峡の制圧を図ろうとした。敵前上陸したANZAC部隊豪州・NZ軍団)たちは、たちまち待ち構えていたトルコ兵の高所からの猛な十字火の的となった。その後、撤退までの8か撃と病魔に苦しみ続けた。もちろん力の英軍はもっと大きな損を出した。WW2の首相となるクレメント・アトリーや、インパールのスリム元帥らは、この英軍力の中にいた。8か作戦期間中、投入された兵力は50万をえ、そのうち実に26万の死傷者を出した。年末、陰に乗じて海岸生存者を上へ救出する作戦だけが奇蹟の成功を遂げ、しかもロンドンの人々はこれを勝利の転進とする報道として聞かされた。

西部戦線

 1916年6月1日のユトランド戦では、イギリス側が艦14隻(11万1千トン)と数千の兵を失ったのに対し、ドイツ側は11隻(6万2千トン)と少数の犠牲にとどまった。戦場での情報伝達など、組織としてのイギリス海軍線など全く存しなかった帆船・手旗の「ネルソンの時代」そのままであった。油断から先端の科学技術の利用に後れを取るとともに、組織の機低下と決断の果敢さの喪失というように、すべてが衰退を示唆する組み合わせとなっていた。
 ユトラン海戦の、フランス北部において英国陸軍が大規模に開始したソンムの戦いは、大英帝の心神喪失といってもいいくらいの挫折をもたらした。塹壕戦の鬱な日々から逃れられるからといって、ヘイ白兵突撃の戦法が兵士にとって救いになるはずはない。7月1英陸軍25個師団を投入する大攻勢が陣に向かって突撃した。作戦初日の突撃で7万数千の死傷者を出し、3月にわたって繰り返されたソンムの戦いは、50万の害を出すまで停止されることはなかった。とりわけイギリのエリートがこの大戦によって被った人的損失は圧倒的なものであった。1914年の時点で、50歳以下であったイギリス貴の男子の約20%が戦死したといわれる。のちにイギリス首相を務めるイーデンやマクミランらはソンムで受けた傷の後遺症に障害悩んだ。しかし彼らとともにオックスフォーやケンブリッのキャンパスから出征していった同学年の友人たちの三人に一人は、二度と帰らぬ人となったのである。
 1917年7月11、ドイツ軍は新兵器としてマスタードガを開発し、これ砲弾に積載した。連もドイツに続いてマスタードガスやホスゲンガスなど毒ガスの使用を行った。続いて17年10月から11月に行われたパーサンダーラ(パッシェンデール)の戦いは、近代戦の残酷さをまざまざと見せつけた。カナ軍指揮官はは16000にもなるだろうという見解を表明したが、英軍ダグラス・ヘイグ(Butcher Haig)は何十万という損に動じなくなっており、攻撃を命した。3かの熾な攻勢で、イギリスはもとより、ANZACカナダ軍も甚大な喪失をこうむり、連合軍の損は約45万人に及んだ。イギリス政治家達は人的損全に補充することを渋るようになっていた。補充すればするだけ犠牲にされてしまうと恐れたためである。ロイドジョージパーサンダーラは戦争の最大の災害の1つだった。この知性のない作戦を擁護する兵士はいない」

アラビアのロレンス

 WW1末期ガリポリやソンムなど、挫折を繰り返していたイギリスに、々しい戦果が東方より伝えられた。1917年12月アレンビー将軍揮する英中東派遣軍が、エジプトからシナ半島を横断し、トルコ軍を追ってパレスチナへ向け進撃、エルサレムをも制圧したのである。それは開戦以来、3年数かにして、ようやく英国民が待ち望んでいた赫々たる勝利であった。アレンビーこそは、ガリポリのハミルトン及び西部戦線の総司令官ダグラス・ヘイグ無能と硬直に支配されたWW1の英国指揮官の中にあって、軍事力の点で最も注すべき軍人であった。アレンビーは歴史研究から、700年前リチャード獅子心王がエルサレム占領を果たせなかったのはマラリアの季節に進軍したからだということを発見したし、ナポレオンエジプト遠征軍を最も悩ませたのは敵軍ではなく、中東特有の眼炎であったことを知り、直ちに対策を示した。しかし人々を熱狂させたのはアレンビーではなく、一人の特異な英雄だった。
 当時イギリスは、トルコの統治下にあったアラブ人を、メッカの族長ハシミ家のフサインのもとに結集させ、トルコへの反乱に立ち上がらせる工作に着手していた。その為の連絡将校として1916年アラビア半島西部のヘジャズ地に派遣されたロレンスは、そこでフサイの息子ファイサルと出会う。それはロレンスにとって生涯の出会いとなった。1917年7月、わずか50騎のベドウィのラクダ部隊を率いて、古来神の軌跡なくしては横断は不可能とされた灼熱のネフド砂超え、難攻不落とされたアカバ湾要塞の奇襲に成功した。ベドウィンの先頭に立って、ラクダに乗ったアラブ騎指揮するロレンスの姿は、重苦しい西部戦線に沈み込んだイギリのメディアにおいて、たちまち伝説的な英雄ドラの色彩を帯びるものとなった。しかし、同じころ、インドから出征した十万の英印軍は、ペルシャ湾のクウェートに上陸してイラク平を北上し、バクダッドを占領した。さらに北上を続けて、密約の中では本来、フランに約束されていたキルクーク・モスルの豊富油田地帯をも抑え、数年がかりでついにペルシャ湾とイラク全域を抑えていた。この軍にはガリポリの重傷から回復したスリムも参加していた。アラの独立はすでに夢物語だったのである。ロレンスの反乱は帝国の熱い岩盤の前に跳ね返された。

ロシア革命アメリカの参戦

 崩壊するトルコをしりに、西部戦線での着状態は続いていた。両軍とも大規模な攻勢を数回行っているが、巧妙に構築された塹壕線に配置された側防機関銃、有刺線などによって防御側の優勢が確立しており、攻撃側には大量の犠牲者が続出し、攻勢は失敗することが多かった。
 海戦でドイはイギリスに対す海上封鎖徹底化するために1917年2無制限潜水艦作戦を決定した。これは1917年4のアメリカ合衆国の参戦を招いた。しかし当時のアメリカには本格的な陸軍はなく、アメリカの実際的な参戦は1年先だった。 一方、ロシア革命によ帝政が崩壊し、ケレンスキー臨時政府は1917年10月のボルシェヴィキにより崩壊、ウラジーミル・レーニのソ連政府が立ち上げられた。ドイはレーニン政にウクライやバルト三国の分離独求めた。レーニンは初め拒絶したが、ロシの軍事力は革の混乱で崩壊状態であり、1918年2にドイツがロシア軍へ攻撃を開始したことで求を飲むしかなくなった。1918年3月3にブレス=リトフスク条約が締結され、ドイはロシアを下した。3月5日にはロシアの後援を失ったルーマニアも。東部戦線は終結した。
 ロシア脱落を受けてドイツはアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて東部の兵力をすべて西側に回して最後の大攻勢「カイザーシュラハ(皇帝の戦い)」作戦を行った。しかしドイツ軍の奮闘もむなしく、1918年7、西部戦線の第二次マルヌ会戦において連合軍の反撃が成功し、さらに1918年8月8日にアミアンの戦いでドイツ陸軍が決定的な敗北を喫した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸暗黒の日」と称した。
 5月にはアメリカ遠征軍(AEF)師団が初めて前線に投入され(Battle of Cantigny)、初めての勝利を収めた夏までには月30万名もの兵がアメリカから輸送されている。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じつつあった。 米軍官はジョンパーシングであり、米軍単独での作戦し押し通した。9月12日にサン・ミシェルの攻勢を開始した米軍は16日占領した。パーシングは次の攻撃に100万の軍を使用することができるようになったが、そのうち85米軍だった。次のムーズ・アルゴンヌ攻撃は9月26日だった。ここの高地は高台の機関銃地で防御されていた。パーシングは側面攻撃が失敗すると、残にも正面攻撃を命した。ドイツ軍ガス機関銃米軍を迎撃した。高地の緩やかな斜面には、兵の腐乱死体が散在していた。

レインボー師団参謀長ダグラスは攻撃する前に偵察を行った。闇の中を這って進みながら、偵察隊はドイツ軍の側面を精した。突如、偵察隊はしい撃に見舞われた。撃がやむと、ダグラス兵士たちについてくるように叫びながら、撃でできたからへと滑るように進んだ。彼は兵士たちを師団に連れ戻すつもりだった。兵士たち一人一人に話しかけて体を揺さぶった。しかしダグラスは次第に恐ろしい事実に気づいた。彼以外全員全に死んでいたのだ。

米軍は大きな犠牲を出しながらも、ムーズ・アルゴンヌを突破することはできた。AEFアルゴンヌのを越えたころ、フランス四軍西方30マイルまで進軍していた。最終標であるスダン11月11日フランス軍が攻略。同時期に起こっていたドイツ革命によりこの日のうちにすべての戦闘が終結した。ドイツ軍では人的資が枯渇しており、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。皇帝ヴィルヘル2世は退位を余儀なくされ、ヒンデンブルクとルーデンドルフも職を辞した。

休戦協定

ドイツ革命の発生により成立した臨時政府によって、他の戦線においてはドイツ軍勝利を収め続けていたにもかかわらず、西部戦線の崩壊によって、11月11日休戦協定を受諾した。

大戦の敗戦責任をめぐってドイツ帝国軍では、ユダヤ人にそそのかされたドイツ革命共産主義者)によって背中を刺されたという「背後の一突き」が広まり、ナチスは、大戦で戦争遂行の余力があったドイツ軍共産主義者とユダヤ人によって支持された政府が「勝手に」降したとしていった。ヒトラードイツ11月革命ユダヤ陰謀による「国家民族への犯罪」として演説で繰り返し、また「戦争開始時、また戦争中に1万2千〜1万5千のドイツ民を腐敗させるヘブライ人にガスを浴びせていれば、前線100万ドイツ兵士は救われた」と述べるなどし、支持者を獲得していった。191911月18日議会の「第一次世界大戦における敗戦責任についての調委員会」で、ヒンデンブル元帥ルーデンドルフも「背後の一突き」伝説言した。

この戦争は多くの参戦国における革命などの政治変革を引き起こした。日英同盟により連合側で参戦した日本は、戦後に設立された国際連盟では常任理事国となり、際的地位を大いに高めた。立法の一院の衆議院において男子普通選挙が行われ、伊藤博文が作り上げた政友会や大隈重信の流れをくむ政会(1927年立憲民政党に発展)などよる政党政治が発達し、1918年には衆議院議員である原敬による初の本格的政党内閣が誕生した。しかし首相天皇の重臣会議により名される制度であり、軍部は政府から独立していたため、民の権は立法の2院のうち1院に行使されるにすぎず制限されていた。また天皇は陸の大権を持つとされていたが、憲法上は陸相や参謀総長の副書(署名)がなければ効力を発揮せず軍は天皇の命に従わない。そのため陸軍海軍や枢密院、官僚などの勢力は、政党内閣の政権下でも依然として大きな政治的発言力をもっていた。

大正デモクラシーと軍縮

1915年から20年にかけて日本は好況に沸き、多くの技術者、発明、実業が活躍した。「発明王」豊田佐吉は1918年豊田紡織を設立、資本を蓄積しのちトヨタ自動車グループに発展した。高峰譲吉はアドレナリンを抽出・販売に成功、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。小林一三阪急電鉄を軸に1929年阪急百貨店を開店、阪神間モダニズムに沸いた。工業生産は急に増大し、「東洋のマンチスター」と呼ばれた工業都市大阪では動力の蒸気から電気への転換が起き、職工の黄金時代が出現し富裕となった技術者は自ら工場を立ち上げた。成金の時代が現出し、他方インフレによる貧窮による米騒動が起こるなど、貧富の格差の拡大が進んだ時代でもあった。この時代に、軍人の地位の低下がみられたのである。この時代は田中義一のように、陸軍の軍籍を離れて政党政治家に転身した例もあった。第一次世界大戦後の「平和デモクラシー」の到来は、日本にも軍縮めた。日本では第一次世界大戦をはさんで「軍人万」の時代から「軍人受難」の時代へと変容し、その後戦争になっても軍人の「被害者意識」が続いたことを明らかにしている。1922年8月東京日日新聞に掲載されている陸軍軍医の一文は徴的である。

「今や軍縮は陸海軍人を脅かし、彼らを不安のどん底に陥れている。」子供が言うことを聞かないと、は「今に軍人にしてやるぞ」と脅す。軍隊が演習で「へとへとに疲れて」あるにたどり着いても、町の民衆は急いで戸を占め、内からを下す。兵隊の宿営を断るためだった。若い将校は結婚難に苦しめられ、「カーキ色の電車の中でも汽車の中でも、民の癪の種」になっていた。

民の軍人蔑視の感情は行き過ぎたところがあったかもしれない。この陸軍軍医の一文が記すように、若い将校たちの間で「不の色、覆うべからざる者」があった。しかし1919年の国家歳出に占める軍事費は45.8に及び、戦後恐慌に移った1921年には49.0に達しており、軍縮を避けて通ることができなかったのはにも明らかだった。世界軍縮に取り組む中、日本においても、陸相山梨半造はWW1後の財政改善のため1922年大正11年8月と翌年4月の2度にわたり陸軍史上初の軍縮(「山梨軍縮」6万の将兵、13000の軍の整理)を実行。さらに関東大震災の復費用捻出のため1925年軍縮が行われる。具体的には21個師団のうち第13師団(高田)第15師団(豊橋)第17師団(岡山)第18師団(久留米)連隊区部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍6,000頭が削減された。軍縮から日中戦争前の36年までの間、日本陸軍時兵力は17個師団、人員約23万人、約5万頭で維持されることになった。陸軍軍人の嗟の的になった軍縮により浮いた金額は欧べると旧式の装備であった陸軍近代化に回した。近代化の内容として戦車連隊、飛行連隊、高射砲連隊、通信学校自動車学校の新設などであった。海軍1921年から翌年にかけてのワシントン海軍軍縮会議に参加し、英日の力艦保有数は5対5対3に決まった。

軍縮成金の時代に遭遇した軍部の青年将校は「まったく憤慨やるところを知らないものがあった」。彼らは国家主義思想と結びつき、国家革新すものが現れた。彼らは「レビュージャズ喫茶店場、明日希望を持たない退廃的享楽」に浸る大衆消費社会の「デモクラシー」状況を弾していた。1921年安田財閥の創立者安田次郎刺殺事件の犯人国家主義者のテロリスト朝日明書には、有閑階級や富裕層への呪詛が記されていた。そして軍部、特に陸軍内に総力戦体制の確立す勢力が台頭する。永田山は1920年の講演の中で、「国家総動員なるものを行って、ありとあらゆる内の諸資所施設を戦争遂行の大的に向けて向傾注する準備を確立しておくことが必要である。これらの努力のは言うまでもなく民の体力・精神力・知力にある」と訴えている。

藩閥の衰退と陸大エリートの台頭

 第一次世界大戦日本の軍部にも大きなを与えることになった。軍縮の時代が到来し、世の中の潮が変する「軍隊なんてものは余計なものだ」。このことが軍部の「非情に神経を刺して、不穏の情勢」を生んだ。そして軍部による「言論抑圧とか非合法事件」を引き起こし、太平洋戦争へと向かっていく。

バーデンバーデンの誓いと一夕会の成立

 1921年ドイツの保養地バーデンバーデンで永田山・小畑敏四郎・岡村寧次・東條英機が会し、閥打破等を話し合った。当時陸軍導していた山梨半造や垣一成、秋山好古らは山口県出身ではなかったが、明治以来の長州閥系の人事に引き立てられ、自由義者・と協調して軍縮を進めていた。
 ひとつは第一次大戦におけるドイツの敗戦の教訓である。ドイツのエーリ・ルーデンドルフ参謀次長のタンネンベルクの殲滅戦という、現場指揮官としてほれぼれするような大成功目にした、しかし、ドイ国内世論の分裂によって負けた。戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家の全てを挙げての総力戦に勝たなけれ国防はまっとうできない。もうひとつは、ロシア革命の成功である。陸の仮想敵となったソビエトが、今や個主義・自主義を排した全体主義軍国として現れた。戦争は軍人だけでなく、 個主義・自主義を排し国家のあらゆる部門を向けなければならない。
 永鉄山の国家総動員論として、現代の戦争は、長期の持久戦となる能性が高いため、経済力が勝敗の決定大きく左右する。中やロシアのような現在弱体国でも、潤沢な源を持ち、有力国から援助を受ければ、徐々に大きな抗能力を発揮するようになる。敵に遠近なく、世界のいずれ国を敵とする場合があり、それに備えねばならない。陸はロシを仮想国としていたが米英なども敵となりうる。世界の国との長期持久戦を想定するとすれば、日本の版図内におけ国防源は極めて貧弱である。この不足源の確保・供給先として、永田は蒙を含む中国大陸の源を念頭に置いた。戦争において、戦争による通商途絶への考慮から国防源の「自給自足」体制が確立されねばならない。とりわけ不足原料源の確保が最も重要とした。もし今後本格的な戦争が起こるとすれば国を挙げて抗戦する覚悟を要し、それには個主義・自主義を排し国家総動員求められる。それが永田の基本的張であった。それゆえ自給的長期戦に対応できるよう、国家総動員の準備と覚悟が不可欠だ張していた。
 では永田理論では、乏し国内源をどうするか、ま鉄鉱について、本土で7万ト、朝鮮で35万トン算出し百十数万トを中国などから輸入している。蒙において、産額は多くないが、埋蔵量はすこぶる多く、十万トンから数十万トンの生産計画がある、北支も中支もすこぶる多い。したがって源豊富にしてかつ近き支那にこれ求める。石炭は有良炭華中華北に多い。そのほ・亜華中湖南省、スズは河南、アルミニウ・マグネシウは満州などが、石油に対しては中国としながらもはっきりとした見通しは立っていない。このように永田はほとんどの不足源において蒙及華中華北が供給能地域とし、これから日本の向かうべ道が蒙であると結論付けている。
  だが、当時の日本は多くの物資をアメリカからの輸入に頼るなど、自給自足には程遠かった。 軍事英から輸入することを前提にしていれば、それに制約され、防自権を確保することができない。その為には軍事的に支那理にも自分のものにする。中国反日姿勢の背景には、政党政治の英協調路線がある。ワシントン会議ロンドン軍縮会議により、防力が低下し、中国を増長せしめ、排日活動を逞しくせむうる。政党政治の英協調に対抗して「純正明」な陸軍国家総動員論の立場から積極的に政治に関与すべきとした。永田は言う。「近代防の的」を達成するには、挙一致が必要であり、それには政治経済社会における幾多の欠陥を「切除」しなければならない。だが、そのためには「非情の処置」を必要とし、それは従来の政治家にゆだねても不可能である。したがって、「純正明にして力を有する軍部」が適当な方法によって「既政者を督励する」ことが現下不可欠の用事である、と。

 しかし当時の閥系の山梨半造、垣一成はじめとして軍の重臣は、あくまで英とは協調し、平和の時代に軍縮を進め、中国の資平和的に交易により入手することを前提としていた。

長州 がなければ交易すればいいじゃない 薩摩 そのためには際協調、英関係重視だよね

日清、日露を戦った軍の長老にこれがわかるというのか。陸相山梨半造、参謀総長上原勇作、教育総監秋山好古の3巨頭をいただき、全て長州中心の閥に固められている。

永田ら少壮将校が一致団結し、まとまった力を持って突破する他はない。長州閥を解消し人事を刷新するのが第一点、つぎに政治の側から軍の統帥には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第三点だ。どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか。」
全く異論はありません。英教が陸大首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだ。長州は排除しないといけない、陸大も山口県出身は底排除だ。

 この話し合いで、①閥の解消→人事刷新。②軍政改革→国家総動員態勢確立のために、積極的に同志め、相互に協力していくことを誓い合った。永田が考えたのが中国満州華北中の資を確保することだった。当時、中国では反日ナショナリズムが盛り上がり、蒋介石率いる国民党政府中国の統一をして北伐を実施。この動きに永田らは、日本の資戦略が脅かされるとして安全保障上の危機感を強めた。永田石原満州事変を起こしたのは、そうした危機感によるものだった。彼らはやがて永田山を中心に二葉会を結成、また鈴木貞一や石原莞爾河本大作らは木曜会を結成し東條英機らはこちらにも積極的に参加した。そして二葉会と木曜会はやがて合流し、一夕会を結成した。一夕会には永田山、小畑敏四郎、岡村寧次、東條英機をはじめ、山下奉之、石原莞爾牟田口廉也田中新一、武藤章、富永恭次、板垣征四郎、河本大作、辻政信など名だたる陸軍大学エリートたちがこぞって参加した。東條英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなどし長州閥の解体に尽力した。

陸軍大学エリートの台頭

 長州閥が退潮してから日本陸軍を動かすようになったのは、陸軍大学卒業したエリート軍人達だった。そして陸軍大学合格者の9割までが幼年学校出身だったといわれる。陸軍大学卒業生は、軍政の中枢部に座り、参謀本部に入って軍の方針を決めた。長州閥消滅後に台頭した永田山、東條英機をはじめとした「統制」「皇」のメンバーも、すべて幼年学校出身者達だった。
 幼年学に入学した生徒達が、頭のいい秀揃いだったことに疑いはない。だが、彼らは広い世界を知る以前に軍エリート養成の学校に入り、幼年時代から特殊な軍人教育を受ける結果、その思想はともすれば偏狭になりまた正常の感情を欠き、軍国主義的、封主義的、武主義的に傾いた。陸のエリートたちの我独尊道ぶり、戦場での硬直した考え方などの原動力」が、幼年学校以来養われた「攻撃精神すなわち必勝の信念」にあった。これが軍職にあればある程度は許されるが、軍閥としてその政治的特権を乱用した時、国家として憂慮すべき事態を招来したのである。また独ソのような全体主義を心酔するものが多く、自主義の米を軽視もしくは皮相的意見を有する事態となり、外交を左右することになった。石原莞爾などは、アメリカの一将校が二年間のドイツ留学の帰途アメリカに立ち寄るよう進めた時我輩が米国に行くなど占領令官として以外には考えられませんな」と答えたものだ。

 当時の青年将校の一面がよく出ているが、この驕児的要素は全青年将校にある程度は共通していた。これは、士官学校あるいは幼年学校から、エリート意識を叩き込まれてきた結果であろうが、もう一つ見逃せないのは、連隊における彼らの処遇であった。当時はまだ大学が総じてエリートの時代で特に大出は劣らずエリート意識が強かったが、多くのものは総じて社会に出たとたんに、一度は強い挫折感を味わうのが普通であった。日向方斎氏は入社新聞の社内配達をやらされて腐ったと聞くが、足が地につかない「宙に浮いた」エリート意識を打ち砕き、本当のリーダーを育てるのに、これはよい方法かもしれない。
 だが軍隊はこれではなかった。少尉に任官すれば、新聞配達どころか逆に当番兵が付き、身の回りの世話はすべてやってくれて殿様のようになってしまう。演習から帰った将校が将校室腰を掛け、足を椅子の背に乗せ顎をしゃくって「おい当番」といえば、馬長靴を脱がしてくれる。これを見た老招集兵が、「22、3の若造があんな扱いを受ければ狂ってしまう。2・26が起こるのは当たり前だ」と嘆じたが、軍隊ではこれが普通であり、階級が上がるほどひどくなって、将官ともなればこれ徹底していた。だがこの挫折なき驕児たちは、閣下であれ、青年将校であれ、どこか宙に浮いていた。

政会と政友会の二大政党政治、幣原外交

1919年に関東庁が設置された。また日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地の関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部を前身として新たに軍から独立した関東軍が誕生した。関東軍は陸軍参謀の上級職員に名上従属していた。

 1920年代にかけて政会の元、外務大臣幣原喜重郎による中国への相互不干渉、穏健な協調・外交(幣原外交)が行われた。軍閥の割拠により、在中邦人の財産生命が脅かされる事態には、邦人の外退去で対応していた。WW1時の対中21か条等で悪化していた英との関係は、この時期に好転することになる。日本日露戦争第一次世界大戦で東三省(満州)に特殊権益を持っていたが、当時中国は軍閥の割拠する分裂状態であり、作霖が東三省に勢力をもっていた。しかし日本人居留民に対する不当課税、中国側による「不法」な鉄道建設、ストライキデモ、ボイコットによる日本人商業の中断、日本人財産に対する個々の事件、日系新聞への発行配達への干渉、中国新聞の排日記事の掲載などの条約違反が多々起こった。東三省を支配する軍閥作霖に対し、幣原の外交姿勢は「軟弱」との批判を浴びていた。昭和金融恐慌もあり、1927年政会の若槻内閣が倒れ、立憲政友会田中義一が首相となった。田中義一は蔵相に高橋是清を抜して恐慌を収拾し、薩摩の英傑大久保利通の孫婿吉田茂外交官などを抜した。

田中義一首相 々政友会は政会とは一味違うぞ。外交吉田を抜して積極外交だ。 幣原外交は生ぬるい。英国と協調し軍を派遣してでも作霖に条約順守を迫るべきだ。

田中政権の外交方針は、北伐に伴い在留邦人の生命財産が脅かされると英と協調し山東出兵を行ったが、出兵にも事前外交ルートで周到な説明を行っていた。際協調を堅持し英も日本の山東出兵を容認し、両国とも1000-2000名規模の増を行っていた。しかし、陸大閥が暗躍していた。

戦争的として、対ソ連眼として、当面満全なる政治勢力を置くことを標にする。その際中国との戦争の準備はそれほど大きな考慮は必要とせず、単に資獲得を標とする。将来は生存競争になる。アメリカ大陸だけで生存に十分だから、干渉はしてこないだろう。イギリス軍事以外の方法で解決可である。帝国自存のため、満をとる。

作霖爆殺事件と長州閥の衰退

そして1928年6月4日東條英機同志である関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが作霖爆殺事件を起こす。

田中義一首相 なんだと?、陸軍作霖を爆殺だと?、とんでなないことを。 ファッ?。これまで結んだ条約を無視して自己を押し通すなんて田中内閣の方針とは反するぞ。

当初田中は容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきとし、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍および南陸相の反対に会い果たせなかった。当時は首相は閣僚を解任させる権限はなく、全閣僚一致できなければ、妥協するか退するかしかなかったのである。田中義一首相長州閥であり、陸軍内の反長州閥にとって河本大作は英雄となっていた。陸軍中堅は当時永田山、東條英機石原莞爾らの脱長州閥を掲げる陸大エリートたちにより占められていたのである。田中は動きが取れなくなり、前言を翻し、天皇に叱責され、1929年総辞職した。結果、長州閥の流れは途絶え、第二次大戦後まで復活することはなかった。事件直後、石原莞爾関東主任参謀に、翌年5月板垣征四郎が河本大作の後任の関東軍高級参謀となり、陸軍中央部では、同じく1929年5月岡村寧次が全陸軍の佐官級以下の人事に大きな権限をもつ、人事局補任課長に就任。石原莞爾は満領有計画をとなえ、陰謀を巡らせていった。満州事変が勃発する1931年9月の時点では、既に陸軍中央部のポストは全て一夕会メンバーで固められていた。

ロンドン軍縮会議海軍条約と艦隊の対立

第2回普通選挙では立憲民政党政会より誕生した政党)が圧勝し、濱口雄幸内閣が成立した。外相に幣原を再登用した。外務省次官は引き続き吉田茂が担当した。

放漫財政の整理と協調外交を行う。ロンドン海軍軍縮条約を締結するぞ。 との協調が必要だ。義牧野伸顕と協調して薩摩山本兵衛海軍大将を説得しよう。

ロンドン軍縮会議では対英7割を希望したものの英に配慮し、対英6.975割となった。濱口軍縮および際協調路線を進め際的に評価が高かったが、天皇の承諾なしに政府が兵力を決めたのは憲法違反とする「統帥権干犯問題」が提起された。後の学徒出陣下級将校の山本感想する。

人が一つの言葉にあまり痛めつけられると、その言葉自体が「悪」に見えてくる。私にとって「統帥権」とはそういう言葉で、長い間、静にそれを口にできなかった。それを口にしたときの、軍人たちの狂信的な顔顔顔顔――。戦前日本は、法・立法・行政・統帥の四権分立国家とも言える状態であり、統帥権の独立明治憲法第11条にも規定されていた。したがって政府は軍を統制できず、それが軍の暴走を招いた――というのが私の常識であり、また戦後一般化した常識である。
 「執拗に統帥権の独張して横暴を極めた軍」は、私にとってあまりに身近な存在であったため、軍部以外に統帥権の独張した人間がいようとは夢想だにできなかった。したがって明治の先駆者、民、人権派と言われた人々、例えば福沢諭や植木枝盛が「統帥権の独立」張していることを知った時、私は強いショックを受け「ブルータスお前もか」といった気分になり、尊敬は一気に軽侮に転じ、その人たちまで裏切り者のように見えた。だがそれから十年ほどたって、やっとその間の事情を調べてみる気になった。なぜこの民・人権派が「統帥権の確立」いわば兵権と政権を分離し、政府に兵権を持たせず、これを天皇の直轄とせよ――張したのか。いうまでもなくそれ張した前提は、明治の新政府が、軍事政権とはいえないまでも、軍事力で反対勢力を伏して国を統一した新政府、いわば軍事的政権であったという事実に基づく。この先覚者にとっては、民選議員の設立、県政へと進むにあたり、まずこ藩閥・軍事的政権の軍事力を”封じ込める”必要があった。軍隊を使って政治運動を弾圧す能力を政府から奪うこと、これは当然の前提である。彼らがそう考えたの無理はない。尾崎咢堂の晩年の座談によると、そのころ明治の大官たちは、我々天下を取ったのだ。それを君たち口舌の徒が言論で横取りできると思ったら間違いだ」といった意味のことを、当然のことのように言ったという。
 これに対して当時の進歩張が、「軍は天皇の軍隊であって、政府の軍隊ではない。政府が軍隊を用い我々を弾圧することは、政権の干犯である」となったことも不思議ではない。またこの先覚者たちの恐れの第二は、政争に軍が介入して来ることであった。たとえば板垣自由党を第一師団が支持し、隈改進党を第二師団が支持するということになれば、選挙のたびに内戦になってしまう。ここに「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立足るべし」という発想が出てくる。南やWW後独立した多く国々を最も苦しめてるのが、軍が政争に介入してくる内戦であることを思えば、人権派・民派のこ張は、当時張としては不思議ではない。と同時に日本が範とした当時の西国にも、同趣旨の規定があったという。だが、規定はあくまでも規定であり、その発想の基本を忘れれば、この考え方には、いくつかの落とし穴があり、逆用も能であった。

また海軍山本兵衛斎藤実(のちに2.26事件で死亡)の「条約」とこれに反対する末次信正ら「艦隊」という対立構造が生まれた。当時は山本五十六最強硬に条約に反対する艦隊だった。

条約 防は軍人の専有物にあらず。アメリカとの戦争・建艦競争は経済財政面から不可能だ。 艦隊 英と衝突しても日本南方をしっかり確保すれば半年一年では大した力の増大にはならないが、漸次に自給自足体制は強化され長期となればなるほど有利で何も憂うるには当たらぬ。

当時は戦の勝敗は力艦が握ると考えられた大艦巨砲主義の時代である。七割論は艦隊、条約を問わず支持するところであった。しかし当時の日本経済的苦にあり、日力差を考慮すれば軍縮条約が必要であるとするのが、岡田啓介、山梨勝之進、悌吉ら条約であった。現実外交を行った条約濱口牧野は、右翼や軍国家主義者に国賊の汚名を着せられ暗殺の対とされるようになった。濱口首相1930年右翼青年撃され31年死亡した。

満州事変

1931年9月18日付近で日本経営の南満州鉄道線路が爆破された。間もなく、関東軍から中国軍の犯行によるものと発表され、一般国民には太平洋戦争終結までそう信じられていたが、実際には石原莞爾らの謀略により関東軍によって実行されたものだった(英国暗号解読により々と自演把握していた)関東軍の板垣征四郎高級参謀は独断で攻撃命を発し、たちまち満州を占領し、清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建した。石原らの謀略、越権行為に対し、当時の若槻礼次郎内閣は戦線の「不拡大」を決め、天皇も不拡大発言したが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大。明確な軍規違反であったが、陸軍中央の中堅官僚同志軍事課長永田山、東條英機らによって占められており制御はされなかった。満州事変は、永田を中心とした一夕会の周到な準備によって遂行されたものだったのだ。一夕会系中堅官僚の突き上げにあった南陸相は姿勢を変え、若槻内閣陸軍の要を受け入れ10月には新政権容認に転換した。若槻内閣は倒れ、1931年12月に発足した政友会犬養内閣では、一夕会が推す荒木貞夫が陸相に就き、一夕会系幕僚が陸軍の要職をほぼ独占し、陸軍中央は直ちに関東軍の全満州占領や満州国の方針を承認した。ここで明治以来の長閥系およびその流れをくむなどの穏健陸軍流から駆逐されたのである。そして権力を握った一夕会内で、様々な思惑が交錯するなか、満領有の陰謀がめぐらされた。

永田 石原莞爾
ドイツが次の戦争の火種となり、次の戦争総力戦となる。日本もこの国家総力戦に備えなければいけない。満州をとっても、アメリカは介入しないであろう。防資の「自給自足」体制が確立されねばならない。軍事英から輸入することを前提にしていれば、防自権を確保することができない。その為には軍事的に支那理にも自分のものにする。内に不足するものについては何らかの方法で対外的に「永久または一時的にこれをの使用に供しうるごとく確保」することが、防上緊要だ。そして「純防的」な見地からすれば、防資の「自給自足が理想」だ。 数十年後に日本が東洋文明の中心となり、西洋文明の中心地の米国と、世界終戦争となるだろう。その為には満をわが領土にする必要がある。だが満領有の実行は、とりわけアメリカの実力的介入は必至。だがこれは約半世紀後に想定される世界終戦とは異なり、長期の消耗戦となる。フィリピングアム日本の領土とし、ハワイもとったあたりが講和条件となるであろう。中国占領後は武力によって病根を打開し、中国に新生命を与える。日本による中国統治は、支那人より吏心の歓迎を受けるだろう。占領に要する維持費は、中国における関税税及び鉄道収入によってまかなうのだ。

このような永田の思想が、満州事変以後の昭和陸軍リードし、1934年陸軍パンレット防の本義と強化の提言」に色濃く反映されている。また石原莞爾の「戦争により戦争を養う」占領自給自足経済構想は陸軍エリートたちに大いに感銘を与え、現地自活命が頻用されるなど後の太平洋戦争の戦略にも大きなを与えた。石原莞爾満州事変アメリカの介入は必須と考えたが、現実にはアメリカは武力介入を行わず、対日経済制裁にも踏み切らなかった。満州に対して中国の領土保全や不戦条約に反するような事態は一切認めないとする、スティムソン・ドクトリンの発表にとどめた。

5.15事件、政党政治の終焉

犬養政権は選挙で大勝すると、高橋是清を蔵相に任命し、積極経済政策を推進した。

軍部には配慮するが、満州国については中華民国との話し合いで解決しよう。 軍事費増と公共事業の推進で積極財政する。まず不況脱却してから財政健全化だ

1931年12月の金輸出再禁止を契機に32年12月には100円20ドル強と一年間で60下落し、この円安金本位制の離脱まで続き、同年以降の輸出増加に大いに寄与した。32-4年の日本の輸出は綿工業、レーヨン業などが中心の繊維産業導で回復したが、インドをはじめとするアジア向けが中心となった。また高橋是清リフレーション政策を行い、長きに渡るデフレを終熄させた。犬養内閣において、成長率は1932年昭和7年)に4.4%1933年昭和8年)に11.4%1934年昭和9年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。
 しかし、満州事変の処理は難物だった。犬は満州国の承認を迫る軍部の求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。また上原元帥に掛け合い軍部を抑えようとしたが果たせず、天皇に上奏して激少壮将校30名を免官さそうとしたが結局実現しなかった。少壮軍人や右翼勢力に強い反感をいだがせるようになり、宮中でも「軍のほうでは、犬養総裁がやたら陛下のお力によって軍を抑えようと押さえようとしている気持ちがあるといって、それに対する反感が高まっている。」と軍を恐れ動かなかった。犬養はかつて統帥権干犯問題で海軍艦派に有利な討議をするなど軍部に配慮していたにもかかわらず、1932年5月15日海軍将校らによ銃殺された。

まあ待て。話せばわかる話せばわかるじゃないか。 軍将校 問答用、撃て」 いまの若者を呼んで来い。よく話して聞か・・・、ぐふ

このとき「君側の奸」の筆頭格とされた牧野伸顕なども襲撃された(5.15事件)。ここに1898年より断続的にも長年継続していた政党内閣は軍部の圧力により崩壊し、第二次大戦後まで復活することはなかった。この極端な国家主義団体及び海軍若手士官の台頭がもたらした恐怖を利用し、海軍艦隊は自らの要を押しまくった。予算や軍政をつかさどる海軍省から権力を奪い、作戦を行う軍部の権力増強をさせ、将来の軍拡路線を妨する恐れのある条約の将官の追放を要谷口のほか、山梨勝之進、左近政三、寺島健、悌吉ら次官、軍務局長経験者、軍事普及部委員長坂野常善らを、大は自らの署名つき辞で追放した。これが「大人事」と呼ばれる恣意的な条約追放人事である。9月15日斎藤内閣満州国を正式に承認し、日本際的に厳しい批判を浴びた。国際連盟のリットン調団は、地元住民の自発的な意志なく日本軍する「自衛行為」を認めないものの、日本満州における特殊権益を認め、内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の表前に満洲国を承認し譲れない日本はこれに反発し、国際連盟において日本は孤立した。

との良好な関係を続けべきだ、国際連盟脱退は絶対反対だ。 松岡「連盟の首席全権にわしでなく長老外交官を当ててはどうかだと?、ふざけるな!。」

1933年3月日本国際連盟を脱退した。

陸大閥・一夕会内の対立(皇と統制

こうして満州を得て、閥系陸軍軍人及び条約政党政治家の排除に成功した軍部であったが、いざ権勢を握ると、一夕会内での路線対立が表面化する。大陸の資期獲得のために対支積極論をとる永田山とソ連に備えるため中国本土への介入に慎重な小畑敏四郎との対立である。小畑は32年4月少将に進み参謀本部第3部長に就任、荒木の盟友である崎甚三郎参謀次長の心として、皇の中枢とされることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田山と対ソ連支那戦略を巡って鋭く対立した。32年にソ連より日ソ不可侵条約を打診されたが、即時の条約締結をする永田らと反対する小畑らが対立、外務省は当時ソ連と断交していた英への配慮もあり交渉を謝絶した。両者の対立はさらに深まり、1933年昭和8年6月陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論をして譲らなかった。この論争が皇・統制両確執の発端となる。荒木崎らの非垣系軍人を立てて政党政治時代の陸軍を排除した永田らであったが、荒木は陸相になると小畑を引き立てて皇を形成し、永田ら一夕会の流層からは彼らのコントロール困難となってきていた。永田の周りには東條英機武藤章、服部卓四郎、富永恭二、辻政信らの中堅幕僚が集まり、彼らが統制の中核となっていく。彼らは軍が一致した統率のもとに、陸軍大臣を通じて政治上の要望を政府に提案することで合意された。それは陸軍大臣の進退の示唆による強要という恫的方法を含むものであり、当時の管制では陸軍大臣は陸軍将官に限られ、その進退によって内閣の死命を制することが可だったからである。

一方、一夕会の中堅陸軍官僚の動きとは別に、大頼好、三郎らを中心とした隊付青年将校らの国家改造運動満州事変前後から形成されてきた。彼らはしばしば皇青年将校と呼ばれるが、小畑荒木らの中堅官僚の皇とは本来違う問題意識を持った全く別の集団である。波・扇氏らの理念は、北一輝日本改造法案大綱」のを受けており、土地所有制限など国家社会的な政策を含んでいた。そのような国家社会主義は、崎ら皇の嫌悪するところだった。しかし永田が彼等を「陸軍の統制を乱すもの」として弾圧したことから、対抗上相互に政治的連携を必要とし、皇と密接な関係を持つことになった。資自給自足体制および国家総動員体制の確立による不敗体制の立といった永田の思想を持つ統制と違い、皇は当面の対ソ中対英政策が中心で独自の長期ヴィジョンは必ずしも明確ではなかった。

33年8月永田小畑共に参謀本部を去り、近衛歩兵第1旅団長に転出した。1934年昭和9年1月荒木陸相が辞任、後継を期待された崎も閑院宮載仁参謀総長の反対により教育総監に回り、十郎が陸相に就任、永田を軍務局長に据えたため、皇は大幅な後退を余儀なくされる。永田戦略構想の向性は、永田が軍務局長として作成に深くかかわった陸軍パンレット華北分離工作示する通達「北支奈政策」へとつながっていく。

陸軍パンレット事件

1934年10月陸軍パンレット防の本義と其強化の提唱』が発行された。このパンレットは「戦いは創造」、「国家の逐進、原動力は軍部である」とその冒頭に謳いあげていたように、 ことごとく軍部中心、戦争謳歌の精神で貫かれていた。たく言えば陸軍が「日本陸軍中心の軍事国家になるべし、財界や政党は軍の示通り動くになるべし」という内容のパンレットを配布したということである。陸軍1931年昭和6年9月満州事変以降、その正当性を民に宣伝するために1931年には18種、1932年には37種、1933年には33種を発行している。 しかし、「防の本義と其強化の提唱」は軍部が初めて思想・経済問題に言及し、しかも政治介入を然と表明した点が大きな相違点である。
 その内容は「国家の全活力を総合統制」する方向での国策」の強化張するものである。具体的には、軍備の充実、経済統制の実施、源の確保など、永張の延長線上にあるものといえた。ただ、以前の永の議論から一つ変化がみられるのは、近年の国際連盟がその無力」を暴露し、国際的争覇戦時代」となったとし、そのもとで平時の生存競争」である普段の「経済戦」が戦われている。際生存競争」白熱状態となり、平時状態での国家の全活力の総合統制」しなければ国際競争の伍者」となる。そのような認識から、近国防においては平時においても「国家の全活力を総合統制」すること、すなわち一種の国家総動員的な国家統制が必要だとされる。そし国防の要は人的要素であるとし、「正義の維持遂行に対する烈なる意識と必勝の信念」が不可欠の要素である、としていた。 これを養うため、 1、国の理想、国の使命に対する確乎たる信念を保持すること
2、尽忠国の精神徹底し、国家の生成発展のため、自己滅却の精神を私奮すること
、国を無視す主義、個主義、自主義思想を排除し真に国一致 の精神に統一すること 4、列強は国体の改変を企図し、軍民離間を策し、思想的謀略を常用しつつある。 従っ国民精神統制、即ち思想戦体系の整備国防上も猶予遅滞を許さぬ重要政策である。
 その背景には、満州事、国際連盟脱退を経て、政治的発言力を増大させてきた永ら陸軍中枢の、国家統制への意思が示されている。世界恐慌以後、米列強に圧迫され、「支那市場」などから「駆逐」される恐れがある。それに対処するには「経済及び貿易統制」を断行し、また「経済封鎖に応ずる諸準備」も怠るべきではない。場合によっては「破邪顕正の手段として武力に訴える」用意も必要だ、と。また来年(1935年)の第二次ロンドン海軍軍縮会議では、日本は「絶対国防主権を獲得するを要し」、従来のように比率を強要」されるようなことは「断じて許容し」えない。「国に対し絶対優勢の海軍を保持せんとする」のはアメリカの対中国政策である「門戸開主義」を強行するためである。それ故海軍軍縮会議決裂も辞さない強硬な姿勢だった。永田らは蒋介石らの国民党政権朝拝は不可能とみていた。したがって、それに代わる日本の…市場確保の要請を受容する日政権の樹立による日支提携が考えられた。
 なお、この文書は、そのほか国策」強化の一環として、村負担の果汁や小作問題などを解決して「農山村の供給」を実施すること。「富の偏在」「貧困」「失業などが顕在化している現の経済機構を改編し国民大衆の生活安定」を実現することなど張している。これらの点は当時最大の無産政党であった社会大衆党書長麻生久や同際部長亀井寛一郎などがこの文書を評価する一因となった。

パンレットの内容は陸軍導による個人義・自由義の排除、社会主義国創立・計画経済採用の提唱であったため多くの論議を呼んだ。軍事ファシズム体制をするものであった。陸軍はこのパンレットの発行前に各新聞社に大々的な報道を要請していた。このとき、「朝日新聞」は掲載をしなかったため陸軍から呼び出し恫をうけ、10月6日の社説で「啓的価値あり」と支持を表明した。「毎日新聞」は10月7日の社説で、パンレットに直接の言及はかったが「軍事費の膨は仕方ないこと。異論などあるはずがない」と軍への賛同を示した。

陸軍予算拡大と華北分離政策、永田山の死

永田らはこのパンレットの内容を実現すべく、陸軍の要請として、根本策の統合立のための機関創設を岡田内閣に働きかけた。そして内閣議会及びその調・実務組織として内閣調局を発足させる。この内閣調局は統制経済義をその基調とし、陸軍国家統制論に共振する新官僚拠点となっていく。さらに永田らは防力強化のために軍事費の大幅増額とそのための債増発の要を強めていく。永田軍務局長の下で昭和11年陸軍概算要は3億6000万円となる。このことは財政抑制に努めようとしていた岡田内閣高橋是清蔵相の方針との轢を徐々に深刻なものとしていくことになる。

もはや不況はおさまり、これ以上の財政出動を抑えて出口戦略を施行するべきだ。いまこそ財政健全化だ

高橋蔵相は経済回復が軌に乗り始めた1935年1月満州事件費の削減と怠慢投資の抑制をめた。高橋は各省の中でも特に陸軍に注意喚起した。前年度の満州事件費1億4000万円のうち4-5000万円の大幅な削減を考えていた。財政投融資による気刺策を必要とした出も許されない準に達し、高橋は財政健全化にかじを切った。当時の国家予算規模は一般会計約20億円で、軍事費は1930年の4.4億円から35年は10.3億円となった。当時の為替100円30ドル前後であり、陸軍予算が2.6億ドルであるから、GDP差を越して上回っているのである。一方、永田は軍務局長として、岡田内閣発足直後の1934年8月陸軍省の在満機構改革案をまとめた。その内容は、関東庁・関東長官を止し、代わりに駐満大使のもとに関東局と関東州知事を置く。また、それまで外相の監督下にあった駐満大使首相監督下に移す、さらに、関東行政事務の所管を、それまでの拓務省から内閣直属の対満事務局に移すことなどで、対満事務局の総裁は陸相兼任が想定されていた。関東軍が全満州行政を含め一元的に支配するとともに、陸軍中央が対満事務局を通じてそれをコントロールするシステム陸軍省案の狙いだった。満州での重要な権限を失うことになる外務省などはしく抵抗したが、永田陸軍省はほぼ原案のまま強引に押し通し、9月に閣議決定がなされた。その後陸相が対満事務局総裁に兼任の形で任命される。

荒木崎は元老西園寺をはじめとする穏健重臣層から忌諱されており、それが荒木崎と対立する永田への重臣層の認識を曇らせる要因の一つとなっていた。だが華北分離工作軍事費拡大の問題をめぐって、穏健重臣層の永田への期待は裏切られることになる。1935年6月9日永田陸軍中央の了解のもと、関東軍・支那駐屯軍による軍事的圧力を背景蒋介石華北からの撤退を迫った。政府華北より排除され、排日運動を禁止するを出した。蒋介石広田外相に政府レベル外交的対処による要緩和を要請したが、広田陸軍妥協し現地交渉とし要請にこたえなかった。さらに土肥原健関東軍の要によりチャハル省からも撤退し、華北分離工作が開始された。8月6日橋本陸軍次官から関東軍などに対して「対北支那政策」が通達された。そこには河北省・チャハル省・山東省・山西省・すい遠省の「北支5省」を南政権の政によって左右されない「自治的色彩濃厚なる親日満地帯」たらしむことなどが記されてある。華北分離に向けての工作示したものだった。総力戦際的経済戦争のための資市場の確保を永田の強い下にあるものであった。永田は、国家総力戦のためには、満だけでなく華北中の資が必要と考えていた。特に長江南にあり日本鋼生産原料鉱石の大半を占める大冶鉱山は重要だった。小畑1934年3月に陸大幹事、35年3月陸軍大学校長となるが、中央から排除され続けていた。永田により、国家改造隊付青年将校らは崎ら皇と懇意であると看破され、「非合法的革新思想の駆除」を行う必要があるとし、皇有力者の一掃が図られた。同年7月には永田の働きかけで皇教育総監が更迭される事態となる。しかし8月12日永田は皇青年将校の相沢三郎により惨殺された。

2.26事件、陸大閥の勝利・統制派の優勢へ

永田死後も陸軍永田の構想に沿って動き、華北日本の強い下にある独立政権の冀東政府が成立する。1936年1月岡田啓介内閣華北5省全体に自治を企図する「第一次北支処理要綱」を閣議決定した。しかし中国側有力者の協力が得られなかったことなどから華北分離工作は容易に進捗しなかった。

閥系重臣と政治家官僚多数遭難(2.26事件)、陸軍陸大閥の権勢増大

1936年2月26日村中浩二・磯部浅一・安藤照三ら皇隊付き青年将校国家改造グループの一部が、第一師団や近衛師団の兵約1500を率いて、クーデターによる国家改造し武装ほう起した。多くの穏健天皇の重臣・軍人が襲撃され、条約海軍軍人で首相も務めた斎藤実内大臣、軍予算を削減しようとした政党政治家高橋是清大蔵大臣、渡辺太郎陸軍教育総監を殺し、鈴木貫太郎従長に重傷を負わせた。この時木戸幸一内大臣秘書官長が、全力で反乱軍の鎮定に集中し、「実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣は絶対に認めない」ことを天皇に上奏するのに導的役割を果たし、事態の収拾に重要な役割を果たしたことはよく知られている(木戸永田10月事件の時のクーデターの方式を聞いていた、陸軍省と参謀本部と警察を抑え、「軍隊を揮して宮城へ入って陛下を強要して、自分のすきな内閣を作る」のが大体の構想)。天皇は暫定内閣を拒否し、「速やかに暴徒を鎮圧せよ。秩序回復するまで、職務に奨精すべし」と命じた。結局、決起部隊によるクーデターの企図は失敗し、彼らとつながりのあった、崎甚三郎荒木貞夫らの皇も予備役に編入され、事実陸軍から追放された。小畑敏四郎も部下である陸大教官の満井佐吉が事件に連座しており、監督責任を問われることになる。小畑は同年3月には中将に進むが、粛軍人事により皇の一掃が図られ、同年8月に予備役に編入された。
 統派は暴支膺派とでも言うべき対中国強硬策張であり、永害のあと統派を継いだのは、東條英、武藤章、田中新一いった人々であった。荒木貞真崎甚三・小畑敏四郎らの派将軍たちの、対ソ戦を重視で満州樹立後はそれ以上の中国侵出には慎重であり、相対的に米英融和の姿勢であったことは、永田将軍の統派の志向と異なっていた。その意味では「米協調路線」こそが永田構想による華華中へと向かう源自給圏の構築を阻むものであった。

岡田内閣は総辞職となり、外務官僚広田首相となった。非合法青年将校国家改造グループ敗北でこの機に陸軍の専横が和らぐのではないかとの見方もあったが・・・

外務省同期広田毅君が首相になったぞ。これでワイも出世街道まっしぐらやろうなあ。

しかし閥系、の軍重臣・政治家は大打撃を受けており、陸軍一夕会の政治的発言力は急速に増大していた。広田内閣では組閣が始まったが、寺内寿一大将山下奉文少将陸軍参謀本部員らが外相官邸に来て、吉田茂小原直らのの入閣に反対を唱えた。

山下奉文「牧野伸顕の女婿である吉田茂を外務大臣にするなら、寺内の入閣は辞退する」 武藤中佐 (怒Д)ここに牧野婿がいるのかぁ!(軍ガチャガチャ
ヒェッ((;Д)) 広田首相 悪いが君を外相にはできん。イギリス大使で勘弁してくれ

陸軍大臣抜きでは、内閣は成立しない。組閣は陸軍の言うなりになった。事件後に成立した広田内閣時の陸軍トップは、寺内寿一陸相、閑院宮参謀長、西義一教育総監となり、いずれも政治色が薄く、中堅幕僚層の意向が強く反映される布となった。そのような陸軍中央の中で強い力を持つようになったのが陸軍省では永田の懐といわれた武藤軍事課高級課員、参謀本部では一夕会員だが非皇非統制石原莞爾作戦部長だった。永田東條英機関東憲兵官として満州に赴任していた。広田内閣武藤石原らを中心とする陸軍の圧力によって、陸軍の傀儡として軍部大臣現役武官制を復活し(とはいえ、明治から終戦まで陸相に現役武官以外が就任したことはなかったが)、日独防共協定を締結、馬場蔵相の増税と債の増発による軍事費増強など軍事政策を推し進めていった。軍務大臣現役制のは間もなく、垣一成の大命拝辞すなわち内閣の流産となって表れるのである。

石原莞爾満州経営

1935年8月作戦課長となった石原日本の在満兵力が極東ソ連軍より劣勢であることを知り悄然とした。当時のソ連極東兵力は14個師団、飛行機950機、戦車850両、日本の在満鮮兵力は5個師団、飛行機220機、戦車150両だった。1936年6月戦争課長に転じた石原らは策大綱を立案、参謀総長の決裁を得た。この大綱ではまず、ソ連の極東攻勢政策を断念させることに全力を挙げることが強調された。対ソ持久戦の際には、英との善関係を必要とするため、対し政治工作英の善関係を保持しうる範囲に制限する必要があるとしている。さらに大綱にはソ連の攻勢を断念させれば、次にイギリスの「東亜」における根拠地を奪取し、その勢力を駆逐する。それによって東アジア東南アジア独立させ、さらにニューギニアオーストラリアなどを日本の領土すると記されている。そして対英戦争時はソ連に対しては中立を厳守させる、としている。こうして東亜への白人圧迫を排除し、東亜の保護導者たる地位を確立する。そしてさらにこれら東亜導し、アメリカとの大決勝戦すなわち日終戦争に備える、と。
 かつての満州事変時は石原の予想していたアメリの軍事介入はなく、スティムソ国務長官による不承認宣言にとどまり、大綱では対英戦に変化したのであった。そして石はソ連を背後からけん制する手段として、ドイツの利用を考えていたが、これはのちに日独防共協定の締結として現実化する。
 しかし対ソ戦備優先論は、南進戦備を重視する海軍の同意を得られなかった。1936年日はロンドン海軍軍縮条約から脱退し、ワシントン海軍軍縮条約を破棄していた。6月の陸海張を取り入れた「帝国防方針」要仮想国としてアメリ・ソ連が併記され、それに次ぐものとして中・イギリスが新たに加えられた。陸軍兵力は50個師団、航空142個中隊とされ、海軍戦艦12隻、空母12隻などとなった。石原陸軍参謀本部はその対ソ戦備優先論が策となりえなかったため陸軍独自の対ソ軍備拡を進めた。これを受け、広田内閣昭和12年度予算案において、陸軍7億2800万円、海軍6億8200万円と前年度より3億5000万円の大軍拡予算とし、さらに軍拡計画の継続費として、陸軍13億9000万円が計上された。全予算額は30億3900万円、歳出の46.4軍事費で、前年度より7億2700万円の膨となった。2.26事件を機にもはや陸軍への財政的抑えがほぼ効かなくなったのである。そして石原らは、ソ連の計画経済を取り入れた「日満産業5か年計画」を作り、国家導による工業生産統制をした。そして石油についてドイツから石炭を原料とする人造石油設備を輸入し整備を図ったが実用化に失敗した陸軍はこれらの計画から大陸での戦争に必要な兵器や軍需品を満州で生産することを1936年10月満州産業開発5か年計画」を策定し、実行に移した。石原はこれらの戦備が整う1941年までの不戦方針を打ち出した。
 これらは華北分離工作を行い、河北省鉄鋼交渉や山東の石炭などの重要源の確保を必需とした永田らの統派の方針に反するものであった。ちなみに、北樺に石源があったが必要量の一部を賄うにすぎず、北方への領土拡大は源確保のためにはあまり意味を持たなかった。満源は期待外れで鉄鋼、石炭、石、ゴ、アルミニウムなど主要軍需源の自給には、中国本土および東南アジアの源を必要としたのである。石は満州で共産党流の一党独裁国指し、自ら満州国協和会を設立した。この満州国での協和会による一党独裁の構想を、日本国内に持ち込もうとする志向性を持つものだった。
 昭和11(1936)8月、閑院春仁が陸軍大の研主事となり、昭和10に開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。しかし参謀たちはおろか、石原も大局的国防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。石原莞爾は、現場の技術者および新しい技術徹底軽視した。

日独防共協定の成立

日独協定は、ヒトラーの私的外交顧問リッペンドロップおよびドイツ防軍膨局長カナーリスと駐独武官大島博との間で交渉が始められ、永田山に近い岡村次郎情報部長も、ドイツの再軍備宣言に「敬」してドイツシンシーを有していたため、承知していた。1936年1月日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であった。2月に2.26事件が勃発して陸軍の発言力が増大したため、日本外務省も交渉締結の路線から外れることは出来なかった。
 4月6日にはライヒェナウら主導で、中華民国に一億ライスマルク借款を行うことを始めとする援助協定が成立した。これは対独接近を考えていた日本側にも大きな衝撃を与えた。5月に国防軍が日本との提携は対ソ戦争の際に役立たないばかりでなく、イギリやアメリカとの敵対関係も呼び込むと警告する報告書を提出した。一方で援助協定のあまりの巨大さを知った外務省は国防軍を牽制するため、対日接近に傾くようになった。7月には防共協定の案文と付属議定書がドイツ側から日本に提示された。一方でライヒェナウらはなおも強い独中協定張し、中独軍事同盟の成立張していた。ヒトラーは「(ライヒェナウがヒトラーの)対日構想を無しにしようとしている」と激怒し、「将軍たちは政治を何も理解していない」と罵った。10月23日には仮調印が行われ、日本の枢密院における審議を待つばかりとなった。しか国防軍親中的な姿勢が伝えられるにつれ、枢密院での審議が危ぶまれるようになった。武者小路大使はドイツ側に抗議し、協定締結は不可避と考えるようになった外務国防軍に対中支援協定の中止求めたことでこの動きは決着した。
 1936(昭和11)11月25に日とドイツの間で日独防共協定は調印された。ソ連との関係を損なわないために際共産主義運指導するコミンテルンにのみ対抗する共同防衛をうたっており、後の日国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった。秘密協定として、対ソ不援助規定、対ソ単独条約締結の禁止あった。エチオピア侵略行為で1935年10に国際連盟を脱退していたイタリが1937年に原署国として加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる国間協定となり、1939年にはハンガリと満州、スペインが参加したことによって国間協定となった。ソ連のみ主敵とする日本側と、イギリ・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった。また、日本国内でも同盟成立を重視する陸軍は仏を敵に加えるよ張していたが、海軍及び外務省はこれに反対していた。

石原莞爾の暗躍、内閣断念

1936年12月中国では西安事件が起こり国民党中国共産党は内戦を中断して、その後の共同抗日と合作が促された。1937年昭和12年1月、政友会浜田議員による陸軍批判が、寺内陸相の怒りを買い、議会解散をする寺内寿一陸相と他の閣僚との閣内不一致広田内閣が総辞職を行った。それにより、次期首班が垣一成大将となり、陸軍大将にいよいよ大命が下されるとの情報が入ってきた。石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする一夕会の中堅層は、かつて四個師団を止するなどの大規模な軍縮軍縮)を断行した垣などが首相になれば自分たちの政策が実現できないと考え、なんとしてもこの垣の組閣を阻止しようと動きだした。石原は自身の属する陸軍中央、参謀本部を中心に陸軍部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、垣に対して自的に大命を拝辞させるように「説得」する命を寺内大臣から憲兵官であった今に出させた。24日憲兵によって垣の動きを掴んでいた今は、垣が組閣の大命を受けようと皇居に参内する途中、垣の多摩川の六郷で止めそのに乗り込んで、寺内大臣からの命であると言い、今回の大命を拝辞するようにと垣を「説得」した。だが、垣はこれを無視して参内し、大命を受けた。しかし石原工作は「四天王」と呼ばれた杉山教育総監、小磯朝鮮官にも及び、彼らは保身のため結局一人として内閣陸軍大臣を引き受けなかった。これによって垣は組閣を断念し、内閣は流産してしまった。
 このため、あらたに予備役陸軍大銑十郎に大命が降下し、組閣したの林内閣である。ここで石原らは板垣を陸相として全陸軍を動かそうとしたが、梅津美治郎陸軍次官(板垣より陸士で1期上)らの働きかけにより果たせず、中幸太郎が陸相に任命された(直後に病気辞任し、杉山元が就任)。石響力は陰りが見え始める。3の陸軍定期異動で石は作戦部長となるが、軍事課長には田中新一が就き、石原らの協力者は陸軍中央から転出する。こうして陸軍省における石響力はかなり低下した状態となった。こ林内閣時に「国体の本義」が文部省から刊行・配布され、以後の学校教、一般国民教育の基本軸の島とされた「大日本帝国は、万世一の天皇、皇祖の進捗を報じて永遠にこれを統治し給う…、我らは…天皇奉仕し、皇国のみとを行いずるもであって、我ら臣民のかかる本質を有することは、まったく自然にいずるものである。・・・」。このような考え方は、その後第三次近衞内閣の「臣民の道」にも継承され、敗戦まで一般国民の生き方として義務付けられることになる。陸軍にとって、このような考え方を人々が受け入れることが、国家総動員のためには必要なことだった。また軍の社会的権威を高めるため、将来の戦争遂行のためにも、それが要請された。天皇は大元帥として軍に直結するものだったからである。政府自身にとっては、議会を基礎としない内閣による統治の正当性を強化していくには、このような天皇の位置づけが不可欠だった。

 この状態のある時期には、日本土に、二が併存していたと考えたほうが、その実態がわかりやすい。一つは日本一般人、もう一つは日本軍である。そしてこの一般人と軍人は、「統帥権の独立」と、軍人は「世論に惑わず政治にかかわらず」の軍人勅諭の原則で、相互に内政不干渉を訳している二、そしてその共同君天皇という形をとっていた。帝国陸軍とは、日本国行政府の支配下になかったという意味で、日本国政府軍」ではないという形態へといつしか進んでいった。そしてその内容は「日本軍軍」の趣があった。そして統帥権により日本国の三権から独立していた軍は、逆に、まず日本国をその支配下に置こうとした。そして満州事変から太平洋戦争に進む程を子細に調べていくと、帝国陸軍必死になって占領しようとしているは実は日本国であったという、奇妙な事実に気づくのである。
 このことは「太平洋戦争は百年戦争である。たとえ本土決戦に敗れても、無敵関東軍が天皇を奉じて年でも二年でも戦い続ける」と訓示した(と言われる)方面軍参謀の言葉によく表れている。
 これが軍隊内の普通常識だったことを示している。これでは、日本も、満州同様、帝国陸軍の占領地域内の一だということになってしまう。事実満州占領は、当時の一部の軍人には、内地占領のための軍事基地の設定であった。したがって帝国陸軍とは、一般国民から見れば、何を考えているかわからない、不気味な「一」、自分の手でどうにもできぬ横暴な他に見えた。そしてそのに強制移住させられれば、今までの常識倫理生活感も全く通用せず、何をされるかわからないという不安を、その心底に持たぬ者はいなかった。
 一方、軍のほうも、軍隊以外を「地方」(陸軍)、または「娑婆」(海軍)と呼び、それは、軍のために活用すべき従属者以外の何物でもなかった。したがって、帝国陸軍作戦には、民軍として住民保護が至上の義務という見地は皆無、また戦闘員非戦闘員の区別と非戦闘員の権利を、自民に対してさえ実質的には認めなかった。

華北分離政策をめぐる武藤石原の対立

石原戦争導課は、1937年1月帝国外交方針改正意見」を作成するが、そこでは日独防共協定によってソ連をけん制すべしとの考えが明記されている。また従来の華北分離工作の中止を打ち出した。この意見を受け、参謀本部は陸軍省に対し政策を変更し北支分地工作は行わずとの意見を公式に伝えた。この方針に陸軍省も同意し、同年4月十郎内閣の4相会議(陸相・・外相・蔵相)で北支の分治を企図するような政治工作は行わず、日中間の交の調整を図ることが申し合わされた。石原は西安事件を受けて中国の統一の機運が強固となってきたことを受け、近代国家建設の可性を認め、反日運動を和らげ、反英運動に向け、将来の対英戦に備えることを想定した。
 この華北分離政策放棄は、関東軍の東條英機参謀長や富永恭二高級参謀らが猛反対し、中央では武章作戦課や田中新一軍事課長が反対だった。また華北分離工作と並行して行われていた関東軍の蒙工作として蒙古王族徳王を援助して、蒙古を国民党政府から独立させることを意図していたが、36年11月から12の石の満・華北視察において、石原は蒙工作を中止すべき旨張した。

そのとき武藤第二課長石原に向かって「あなたは満州事変で大活躍されました、今々は満州であなたのされた行動を見習い、その通り内で実行しているものです」と反論、同席していた若い参謀たちが哄笑したとのことである(今村均回顧録)。ただ、内工作の失敗後、武藤は自ら現地を訪れ、田中吉らが推進していた特殊工作謀な実態を知る。武藤「結局田中の舌先三寸に踊ったわけか」。

またこのころ顕在化した欧州動乱については関与すべきでないと考えていた。これらはいずれも次の大戦は必発で日本も必ずそれに巻き込まれる、そのため長期戦に耐えうるよう大陸の資を確保するという永田の思想に反していた。当時の関東軍参謀首板垣征四郎参謀長、今村均参謀副長、武藤章第二課長などだった。また板垣の後任に永田心の東條英機関東軍参謀長となり、1937年6月事件の直前)に「南政府に一撃を加え」るべき旨を陸軍中央に意見具申している。武藤の見立てでは、37年6月12日ソ連でトハチェフスキー元帥らの処刑が発表され、その後の赤軍粛清は続き、旅団長以上の45が殺され、赤軍が大打撃を受けておりソ連の介入の可性は低いと判断されていた。またドイツラインラント進駐イタリアエチオピア併合、その後のスペイン内戦への独の介入などによって列強の介入が不可能な時期であり、中国の資確保には「千載一遇の好機だから、この際やった方がよい」としていた。

内閣は短命におわり、1937年6月近衛内閣が成立し、広田毅が外相に就任した。広田外相は陸軍妥協し、反英独、対中国強硬路線となっていった。

世界情勢の変化

アメリカ

WW1となったアメリカでは、陸軍を中心に軍事費が削減され、常化がおこわなれた。1920年代に始まった経済的繁栄は、自動車映画およびラジオのような新技術が大衆化し、建築日常生活の面にも及んだ。アメリカ資本は大量生産商品の大消費市場としてに欧州に大投資を行い、ドイツイギリスおよびフランスにも好況は波及し、20年代後半は黄金20年代と呼ばれるようになった。しかし1929年のウォールの暴落でこの時代は終わり世界恐慌の時代に入った。共和党のフーヴァー大統領古典派経済学の信奉者であり、経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界に恐慌が波及した。同年後半から1933年にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名GDP1929年から45減少、価は80%以上下落、工業生産は均で1/3以上低落、失業率は25%に達した。大不況の中で共和党政権は支持を失い、民主党フランクリン・ルーズベルトは、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げ、1932年選挙当選大統領となった。ルーズベルト約通りテネシー流域開発社を設立、更に農業調整法や全産業復法を制定した。

大統領 ニューディールをすすめていく。陸軍にも働いてもらう 陸軍参謀総長 工兵隊出の私の得意分野だな。この機に陸軍アピールもするぞ。

陸軍市民保全団(市民保全部隊CCCCivil Conservation Corps)の設置を導し、少年に植、小規模なダムの建設、森林での見り台の建設、森林火災の対処法などを教育し、30万人の雇用創出に大いに貢献した。陸軍はその後CCCの業務から離れていったが、その後9年間の活動の中で、シェルター衣類、食糧を生産するCCC300万人の若者が参加し、すべてのニューディール・プログラムの中で最も人気のあるものにした。約30億本の植を植え、全800以上の公園にある歩、ロッジ、関連施設、大部分の州立公園の整備、森林消火方法の更新サービスビルネットワークを構築した。CCCはまた退役軍人と先住民族のためのプログラム運営した。約15,000人のアメリカ先住民がこのプログラムに参加し、大恐慌を乗り切るのを助けた。また陸軍工兵隊はミシシッピ治史上最大の土木事業にも貢献していた。マッカーサーボーナスアーミー弾圧などの尊大さでリベラル層から嫌われていたが、見事な手腕を発揮し、大統領の一言で留任された。しかしルーズベルトは甘くはなかった。

陸軍軍人の給与15削減ですと?、この予算では防衛もままならない、逆に増額を要する! 陸軍予算は2.8億ドル(同年日本軍予算より安い)だ。要は却下だ。
陸軍は12.5万まで削減してる、すぐ動員可部隊はいまや6万にすぎませんぞ! 海軍があれば防衛は十分だ。どこも苦しいのだ。
々が次の戦争敗北した時、兵はマッカーサーでなくルーズベルトの名を言ってもらいたい! 大統領に向かってそんなことをいうもんじゃない!

陸軍の予算は底的に削減された。しかし教育改革が効果を発揮し、M1ガーランドの導入や「の要塞」開発などの技術予算は維持され、士気は保たれていた。ニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどした。それでも記録的なものとなり、1930会計年度の歳出予算は対GDP3.4%程度だったが、1934年に10.7%まで引き上げた。やがてナチスの台頭による脅威で陸軍の予算制限も緩和されていった。

イギリス

1841年パーマストン外相は、それぞれ別個の紛争ををめぐって、ロシアフランス中国アメリカの4かすべてを屈させた。この年オスマン帝国エジプトをめぐって、ロの両国戦争の脅しによって屈させ、同年アヘン戦争中国を破り、カナダをめぐる対立に端を発した「マクラウド事件」紛争で、パーマストン米国内裁判の判決に干渉し、もし被告のカナダ人(つまり英臣民)が処刑されたなら、「確実かつ速に対戦争が始まる」との威嚇と強圧を加え、米国にとって全く屈辱的な解決を強いることに成功した。それはまさに「パクス・ブリタニカ」の頂点を画する事件であった。
 しかし20世紀に入ると、イギリスはそれまで「米共同建設」を歌ってきたパナマ地峡を、米国にゆだねる決定をし(1901年のヘイ・ポーンスフット条約)、イギリス臣民たるカナダ人の求を高圧的に抑えてアラス境問題でも大幅譲歩し、さら西戦争によるアメリのキューバ支配やフィリピン領有もすべて「容認」に転じた。そして1907年までにカリ海全域を抑えるカナ・ノヴァスコシのハリファクス軍港から全面撤退した。実際大英帝がカナを米国の「人質」に差し出し、戦略的米州全域を捨てる、という意思表示を意味するものであった。その答えはやはり「ドイツの脅威」という観念であった。

第一次世界大戦勝利で、イギリスドイツに課された1320億金マルク(金47300トン2018年の価値で約2兆ドル)のうち22%を得て、中東太平洋に新たな利権広大な領土を獲得、世界歴史史上最大の領土を誇った。だが帝国は、表面上さらに力を増したかと思われた間、力を露呈することとなった。
 1919年3月エジプトでの反英暴動は、向から帝国統治の権力権威を否定するものであった。19194月、北インド・アムリトサルの町で起こった、英軍による抵抗インド人の大量虐殺事件「アムリトサルの悲劇」は汚点を後世に残すこととなった。この事件で憤したインド人の感情は、英国からの独立近代的なインド独立運動ガンジーネルーの時代―の始まりを画すことになった。一方、同じ19194月、委任統治の名帝国の版図となったパレスチナで、アラブユダヤの武力衝突が始まった。ここには、この紛争に巻こまれまったく益な死に追い込まれた幾多の英軍兵士墓標が立ち並ぶことになる。さらに19195月アフガニスタンでの衝突で英軍兵士を急した間、イラクで反乱が勃発した。この反英反乱に対して、WW1における中東作戦に費やした出費を大きく上回る負担を払わねばならなかった。そして年末にはアイルランドの喪失も明らかとなった。大戦中ダブリンで起こったイースター起への残酷な処刑と、ロイドジョージが送り込んだ特殊部隊による独立活動家虐殺は、アイルランド人にイギリスとの決別に決心させた。大戦に勝利し勝ち誇った大英帝国は、その間、いたるところから浮上してくる地域紛争の大波を前にして立ちすくんだ。今や帝国は維持できるか否かではなく、果たしてどのくらい長く位置できるのかというものに代わっていた。
 WW1で90万人の戦死者を生み出し、特に将来を担うエリート層の受けた打撃が大きかった。オックスフォードケンブリッジゴーストタウンになっていた。大英帝国は「滅する戦後」を迎えるしかなかった。ロンドン内には、「トラファルガー広場」や「ウォータールー」、あるいは「バトルオブブリテンの碑」など、イギリスが戦った他の戦争での栄勝利をたたえる記念碑や建造物が誇らしくたっている。しかしWW1を記念する最も代表的な碑は、官庁ホワイトホールの外れに立つ「セノタフ」と呼ばれる地味な石であろう。「セノタフ」とは一般に亡骸い墓を意味するが、「戦勝」ではなく「喪」の記念碑として、見る人の胸に迫ってくる。
 1922の日英同盟の破棄はイギリスの衰えが一因でもあった。すなわち自治領のカナダが、米戦争となった場合隣国アメリカと自動的に戦争になるため、同盟継続に猛反対したのである。前世紀のイギリスであればアメリカを喝して従わせることもできたが、WW1後のイギリスにはそのような力はなかった。1931年12月ウェストミンスター章により、英国海外自治領に独自の外交権も与えられ、この章を自治領が批准すれば、英国とまったく等な独立と規定されることになった。カナダ南アフリカ連邦は直ちに批准し、イギリスから独立していった(オーストラリアニュージーランド、またニューファンドランドはこの章を当初は認めなかった。また、ニューファンドランド1949年カナダに併合される)。また、これにより正式にカナダ籍やオーストラリア籍などが認められることになる。ここで生まれたのが、英コモンウェルスである。

世界恐慌のあおりでシティオブロンドン債権は焦げついた。即座に短資が逃げイングランド銀行には換のため人が殺到した。金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ただしブロック経済の下でも英領インドを中心に日本との貿易も盛んにおこなわれ、1940年においても20を占め日本にとって米国に次いで第2位の貿易相手であった。カナダ独立し、日英同盟についてイギリス側の障害は減少していた。

日英協約を提案します。お互いに通商を強化して、ともに中国政策にあたろうではありませんか。 海軍大臣チャーチル ヒラ庶民院議員(ほう、いいこと言うな。日英同盟は破棄すべきではなかった)
日本は長以南への野望はなく、同地域の英国の権益を全に尊重します。 チェンバレン蔵相 君の提案には興味がある。今英国は対ナチスでいっぱいで、極東で何があっても在来利権を守れまい。しかし・・・

しかし吉田大使の1年にわたる努力は1937年7月7日、一で消滅した。

日中戦争の勃発

 1937年7月牟田口廉也大佐天津歩兵第一連隊長として、付近で演習を繰り返し、7月7日事件が起こると独断で攻撃命を出して事件を起こした。これを黙認したのが上河辺正三旅団長であり、拡大させたのが関東軍参謀総長東條英機であった。

で第一発を撃って戦争を起こしたのはわしだから、わしがこの戦争のかたをつけねばならんと思うておる」

事件と北京入場

北京での日本軍は7000と少なく、現地での調停が成立しつつあったが、牟田口廉也は協定を無視して軍を進めた。石原莞爾参謀本部作戦部長は対ソに備え拡大に反対したが、陸軍内部では武藤章らによる、蒋介石は1か以内に屈するとの対支一撃論が優勢となり、9日には関東軍2個旅団・内地3個師団などの現地兵案を作成し、形勢逼迫時の備えが必要として石原も同意した。近衛文麿内閣は、当初はこの事件について不拡大・期解決の方針をとっていた。だが、7月11日動員実施は状況によるとの留保をつけて陸軍案を閣議決定し、今次事件は全く支那側の計画的抗日であり重大決意のもと政府として取るべき所要の処置を行うという強硬な明を発表した。結果として中国派遣の野戦官に侵略の拡大を許す政策を編み出したのは近衛広田外相であった。しかし蒋介石は17日の会議で「最後の会頭」に至った場合は抗戦するとの決意を表明し、準備は不十分だがもはや応戦せざるをないと判断していた。陸軍中央では石原莞爾作戦部長らの不拡大と、武藤作戦課長田中新一軍事課長らの拡大が対立、しい攻防が展開されたが拡大が優勢となっていった。幕僚の多くは石原らの華北分離工作中止に不満を持っていた。石原武藤作戦課案に同意し、哲元の謝罪や現地39師団の罷免、付近の中国軍の撤兵などの強硬な要の19日に回答期限した陸軍中央案が五相会議に提案され了承された。19日現地の哲元ら29軍は日本側の要を受け入れた。しかし南政府は現地における協定項を拒否、法に仲裁裁判所への提訴も示唆盧溝橋事件~北京入場した。25、26日に再び衝突が起き、26日石原替えし「底的に膺懲せらるべし」との示を日本側現地軍に送り、翌日陸軍中央および参謀部もついに3個師団の兵を決定、28日総攻撃を開始し29日北京天津を占領した。その後派遣部隊が現地に到着し、動員兵力は約20万人に達した。29日蒋介石もついに抗戦を表明、ソ連は直ちに37年8月に中ソ不可侵条約を締結して中国への武器援助を開始し、大量の物資を中国軍提供し、ドイツも顧問ファルケンハウゼン中将が、中国軍の育成や軍需生産の基礎作りに従事し、軍事援助を行った。

戦線拡大武藤東條と非拡大石原の対立

石原北京天津占領後速やかに外交交渉によって事態を収束させることを考えていたが、武藤及び田中は対中全面戦争は避けられないとの判断で一致していた。石原ソ連に備えるため4個師団しか対中戦争に使用できないと考えていたが、武藤らはソ連の介入は困難と見抜いており動員可な15師団をすべて対中戦線正面に使用することを想定していた。8月9日上海海軍大山海軍戦隊員2名が中国保安隊に射殺される事件が起きた。10日海軍巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、陸戦隊3000名を上海急行させた。海軍からの強い要請に石原も折れ、陸軍兵を了承し、13日閣議で陸軍三個師団の兵が決定され、13日上海戦闘が始まり、14日中空軍上海日本爆撃日本側も14日15日に南広州、南などに渡洋爆撃を行った。17日には海軍米内光政導で不拡大方針を放棄するとの閣議決定がなされた。第二次上海事変では日本軍は4万(うち死亡1万)と大きな損を出しながらも上海を占領した。この時日本海軍機が米国警備パナイ号を攻撃して撃沈し51人の死傷者が出る事件が起き対日感情が悪化したが、2週間で事件は解決しアメリカの対日戦争引き金にならなかった、この時ジョージアチソンは艦上にいて、危うく難を逃れた。9月4日から開会された議会で20億円をえる臨時軍事費の支出が認められ、かつ事変収束までを1会計年度とする臨時軍事特別会計が設置された。これはその後膨大な額に膨れ上がっていく。

一方満州関東軍は、事件が起こると、8月5日制止を押し切ってチャハル省へ進出、やむなく参謀本部は9日チャハル作戦関東軍に命じた。関東軍は東條英機参謀長の直接揮のもと本格的にチャハル省に侵入、8月27日口を占領、さらにすい遠省、山西省方面に進撃を続け、華北での進撃を北京天津方面に限定しようとした石原らの意図は崩れた。8月25日米国中立法の発動を回避するため宣戦布告を行わないことが近衛内閣の五相会議で決定された。中国側も米国の援助を期待して宣戦布告を行わなかった。8月31日派遣軍が加わり8個師団となった北支奈方面軍が編成され、当時陸軍が保有する戦車装甲車の大部分にあたる、中戦車78両、軽装甲車41両が派遣された。当時陸軍の総航空兵力は53中隊であったがその3分の1が派遣された。これは事変期終結のため河北省「保定」付近で決定的打撃を与える的だった。

この保定作戦9月中旬から本格化する。しかし中国軍決戦を回避して退避戦術をとったため、決定的な打撃を与えることはできなかった。日本軍歩兵が敵の防衛線の先端に到達すると、国民党軍の守備隊は、一斉に後退した。以後、作戦が展開するにつれて、これが一つのパターンとなっていった。日本軍が前進すると、待ち構えていた敵は熾な防御射撃を加えてくるが、やがて日本軍が後退することなく短時間で態勢を立て直して突撃を開始すると、国民党軍はあっという間に退却し、後方の新しいへと移るのであった。国民党軍の戦略は、ひたすら防衛にしたものであり、反撃するという考えはほとんどなかった。こういったパターンを学んだ日本軍は、歓を上げながら集団突撃するという、とりわけ有効な戦術を生み出した。特に間、金属のものをたたきながら叫びを上げるなど、大きな音を出しながら突撃することは、非常に効果的だった。石原らは作戦地域を保定の線に限定することを検討したが、武藤田中政府を短期間に敗北させ持久戦に持ち込ませないため作戦地域の拡大が必要であるとした。このように陸軍中央に意見の対立があり、統一した戦争導がなしえない状態では、現地軍の独走を許すことにつながっていった。9月9日上海への3個師団の増決定後、石原作戦部長辞任を申し出、9月27日参謀本部作戦部長を辞任、関東軍副参謀長として満州に転出する。石原武藤田中らに敗北し、陸軍中央を去り、その後復帰することはなかった。転出した関東軍でも東條英機参謀長との確執が生じ、1941年3月予備役に編入され、陸軍から去る。一方武藤田中東條はその後太平洋戦争開戦時軍首部中枢を構成することになる。ちなみに日中戦争開始時、武藤東條富永恭二のほか、今村均関東軍参謀副長、片倉関東軍参謀、服部卓四郎参謀本部作戦課員、辻政信関東軍参謀部付きなど多くの統制メンバーが拡大に属していた。石原欧州大戦に対し日本は不干渉とすべきと考えており、華北の特殊権益放棄による中国側との政治妥協したが陸軍上層部には全く受け入れられず、永田直系の武藤らの来るべき世界大戦に巻き込まれることが必至でそれに備え華北中の資の確保を必須とするという考えが勝利したのである。武藤らは10月上旬に華北37万、上海19万の動員限界に近い大兵力で政府に大打撃を与え屈を図ろうという計画を立てた。的を達し得なければ、ソ連軍に備えるため対中持久作戦をとり、戦略標への爆、経済封鎖などにより中国の持久作戦意思を挫折せしむる、としていた。

戦と南京大虐殺

 10月華北上海同時攻勢作戦は実施されなかった。華北中国軍力を補足殲滅できず、上海も5個師団では政府軍に対し苦戦に陥っていたのである。そこで武藤杭州上陸作戦を提案、自ら中支那方面軍参謀副長となり陸軍中央から転出した。11月5日から始まった杭州上陸作戦は成功し、背後に脅威を受けることになった上海付近の中国軍はついに退却を余儀なくされた。しかし蒋介石は屈せず南政府11月16日重慶への遷都を決定し、なお抗戦継続の意思を示した。石原辞任後も河辺作戦課長多田参謀次長は戦線拡大に慎重なスタンスを維持していた。しかし中支部方面軍の強い要と、田中軍事課長ら中央幕僚多数の意見に押し切られ、11月24日攻略を容認した。11月下旬、近衛首相の提案によって大本営が設置され、同時に内閣大本営による大本営政府連絡会議が設けられた。これが国家レベルでの事実上の最高機関だった。1937年12月13日日本軍首都を占領し、民は大勝に狂喜乱舞した。だが内陸侵攻の事前準備がほとんどなされなかったため、兵站補給が不十分で、現地での食糧・物資の略奪が多発。またその過程で戦闘で交戦した中国兵のみならず、その後6週間にわたり、日本軍による中国捕虜の処断、反日支人便衣兵民間人の処断、民間人の据え切り(人切り競争で著名である)、婦女暴行虐殺が相次いだ(南京大虐殺)。犠牲者は東京裁判で認められたものだけでも20万人にも上る。不正規兵をめぐる根深い強迫観念は、結果として即断即決の略式処刑や、ごと一気に焼き尽くすといった行動パターンを生んだ。地下貯蔵庫があれば、そんな所に隠れているのは便意兵ではなく、たいていはそのの住人だったろうに。けれども日本兵は、自分たちのそうした行為を、戦争犯罪ではなく、合法的な自衛手段としていた。暴支膺懲の戦意高揚のため、戦闘による中国人処分、捕虜の処断については軍部により推奨され、本にも多数報道され大いに喧伝された(人切り競争が新聞に掲載され、前線兵士の武勇談として大いに賞賛された)。しかし英の対日感情はますます悪化し、1938年10月末よりはこういった写真報道も軍により検閲され開されなくなった。

日中戦争泥沼化

1937年日本最大の八幡製鉄所は、を年間170トン生産しており、これは日本の全生産高の64を占めていた。八幡製鉄所だけで鋼製機の製鋼を年間270トン必要とするが、そのほとんどが中国の大冶鉱山からの輸入に頼っていた。日中戦争により中国からの鉱石の供給が長期間止まり、内でくも製品はじめ金属類の拠出が行われていた。この時点では太平洋戦争期のような根こそぎ的動員はされていなかったが、戦争の長期化による兵器・装備などの需要が、内の工業生産力をえるようになっていた。1938年4月国家総動員法、電力管理法などが制定され、本格的な国家総力戦をにらんだ体制整備が進められる。この時の議会国家予算一般会計35億円となり、臨時軍事費の追加予算として、一年分の国家予算額を上回る48億円が承認された。それらの財政負担は債発行と増税で賄われた。

非一夕会の閑院宮載仁王参謀総長および多田駿参謀次長体制の参謀本部は、駐ドイツ大使トラトマンを仲介とする和工作に期待を寄せ、大本営連絡会議にて交渉による和したが、陸軍省の杉山陸相及び広田外相・近衛首相は和工作打ち切りし、近衛首相1938年1月16日政府を対手とせずと明した。38年5月には陸軍次官に東條英機が就任、拡大東條英機と対立した多田参謀次長は更迭され、東條は初代航空総監へ栄転となった。対中戦争明し、近衛広田を筆頭に木戸紘一らの宮中官僚に後押しされた文官は、戦争期終結を望んでいることを見せては日本が弱いという印を与えかねないことを理由に、中国側に具体的和条件を持ちかけることを拒否した。この期間に日本の商工業界有力者たちは、税負担の増大に反対しなかったばかりか、軍事政府をつくるなら、華北だけでなく中国全土に作るべきだという日経済議会に賛成した。近衛内閣既成事実外交に遅れないように、実業団体は日中事変以来の日本人の生命と物資の損を引き合いに出して、中国全土の征を支持する理由とした。日本軍の快進撃は続き、10月27日武漢三鎮を占領したが、蒋介石重慶首都を移して徹底抗戦した。

38年4月徐州作戦開始後、局地的には凄惨なしい戦闘が行われたが、中国側は決戦を回避して退却、5月中旬日本軍は徐州を占領するが、中国軍力に決定的な打撃を与えることはできず、泥沼化が進んだ。さらに日本軍の一部は河南省に侵攻しようとしたが、中国軍防を決壊させるなどして抵抗し、それ以上の進行はできなかった。河決壊による洪水は数十万人の死者と数万人の被災者を生み出し、また日本軍の占領は多くの破壊をもたらした。42年干ばつとイナゴで収穫減となったのにもかかわらず、被災地中国日本の当局者は兵士食料を供給するための穀物徴収政策を続けた結果、1942-3年河南省大飢餓を招き2-3万人が死亡し、数万人が難民として陝西省に移民した。生存者は日本国民党の双方を非難し、この地域は中国共産党ゲリラ地域に発展していった。さらに現地軍と陸軍中央は30万を動員して要衝武漢華南の中核都市講習の攻略を実施、10月下旬占領したが、政府を屈させることはできなかった。日本軍は動員計画をえる34個師団で構成されるようになり、うち大半が大陸で、本土に2個師団を残すだけになっていた。大陸派遣された兵力の多くは占領地の維持のために配置せざるを得ず、積極的な攻撃作戦を任務とする野戦軍は第11軍(20万)のみだった。したがって、野戦軍が重要な地区を新たに攻略しても、その舞台はいずれ原駐地に戻らなければならなかった。中国軍は、日本軍が進出すれば分散退却し、帰還すればすぐ元の場所に戻ってきた。広大中国を制圧するには、兵力の絶対量が不足していたのである。1938年11月陸軍中央は現占領地の治安維持と残存抗日勢力の取り締まりに力を注力し、新たな戦面の拡大を避ける方針を決定した。持久戦体制下、戦略的には重慶など内陸部の要衝都市と内陸援ルートの遮断を的とした航空機による爆が重視され実行された。

中支資確保

日本は「鉱物の標本」とされ、この地域で発見されない鉱物はない。環太平洋造山帯は鉱床が多く、日本は狭いながら、江戸時代力輸出産品はで、WW1の前後までアメリカに次ぐ世界第2の産だった(1933年以後の輸入に転落)。朝鮮満州を産しなかったし、中国に至っては日本からを輸入し貨として流通させていたくらいである。日本チリなどから輸入していたが、太平洋戦争中の輸入が止まり、民需を食いつぶして陸海軍を使用した。商工省が不要金属を回収開始したのは39年2月像から鐘、半鐘まで拠出させたが、なので、溶かすだけでは不純物が多く資にならない。
 鉄鉱石については、日は火国だから、すべての鉱に硫やリンが混在し、良質鉄鉱石を産しなかった。しかし釜石には日本に珍しい鉄鉱の鉱山があり、1875年において釜石製鉄所が開庁された。八幡製鉄所はその22年後のことで、磁鉱と鋼で製鋼品位58という優良鉱山である長江南南省大冶鉱山の鉱石が輸入できるようになってから生産が本格化した。日中戦争後はマレー半島フィリピンから鉱石を輸入し、40年はそれぞれ128トン、69万トンであった。満州石原莞爾が中心となって高度防衛国家建設がすすめられたが、遼寧鋼床は低品位で採算が取れず、鉱石に関して満州は宝庫どころか期待外れだった。満州国での生産は36年で63万トン、鋼塊34万トンにとどまった。同年日本として米国から輸入したスクラップ150トンだった。38年8月からの鑑江作戦戦略的は、重慶政府に屈を迫るものだったが、それ以上に切実な的は、大冶鉱山からの移入再開であった。もしこの鉱山が確保できなければ、陸軍は太平洋戦争に踏み切れなかった。

東亜新秩序

1938年11月3日近衛首相は「東亜新秩序」明を発表し、9か条約とワシントン体制を否定し、「日支新関係調整方針」を打ち出した。これは稲田作戦課の起案による華北・内古への駐兵と資確保、中での日本経済権益を重視したもので、12月昭軍務課長らの工作により重慶を脱出した汪兆銘は近首相談話を受ける形で中国各方面に和の通電を発したが期待に反して中国での同調者は少なく、反蒋介石の軍隊も動かなかった。英は反発し、アメリカは38年12月4000万ドルの対中借款を決定、イギリスも39年1月1000ポンドの中国通貨安定基金を設立し、500ポンドの政府を与えた。その後もアメリカは北部印進駐時の40年9月2500万ドルを、イギリスは同年12月1000ポンド(4600万ドル)の対中借款供与を行う。日中戦争解決の見通しは全く立たなくなっていった。ソ連は38年8月に約1億ドルの借款を中国に与え、各種兵器や軍需物資を供給、軍事顧問団も派遣していた。さらに39年6月には1.5億ドルの対中援助契約が結ばれる。一方諸の援助は直接的な介入を避け金銭的なものにとどまった。1930年代後半までは、対日輸出額は対中輸出額の7倍前後を占め、日本との戦争を賭してまで中国市場を守ることは、アメリカ政府にとって考えられないことだった。またイギリスは緊迫する欧州情勢に備えるため日本に譲歩し、39年5月上海税関を日本側が接収することを承認し、日本軍は当時要な金融・商業機が集中していた英の租界を封鎖していたが、この天津租界封鎖問題についても、39年7月22日中国において日本軍の妨となる行為を差し控えることを受け入れた。しかしアメリカ日本軍中国よりの撤兵をめ、1939年7月26日、日間の通商航自由と内恵待遇を保していた「通商航条約」の破棄を宣告してきた。この結果ワシントンは対日輸出を自由に制限したり禁止したりできるようになった。

日独の接近と憂鬱

東郷茂徳駐独大使は、中国へのドイツの膨大な援助に対し、リッペンドロップ外交顧問に抗議していた。

東郷茂徳 中国援助の停止と軍事顧問団の引き上げをお願いします。現状ではドイツ日本中国戦争しているようなものです   リッベンドロップ しかし中国への兵器輸出は重要な外貨獲得手段なのです。去年の輸出総額は8300ライヒマルク(当時の独労働者収は70マルク)に上りました。停止するなら減収分をどうやって埋め合わすか。
東郷茂徳 お言葉ですが、蒋介石政府や英の援助で抵抗を続けていることは明らかです。しかも援助額はが最大です。   リッベンドロップ 政府共産党と戦ってました、だが今は共産軍と手を組んでと戦わざるを得なくなった。その意味で、は防共協定の違反に当たるのです。だが々はそれを問題としていない、それは評価頂きたい。
東郷茂徳 しかし、戦争が長引いて力が低下すると、ソ連に対する抵抗力も減衰されます   リッベンドロップ ふーむ

38年2月20日ヒトラー議会で劇的な演説を行った。ドイツの対日政策の変更を発表したのだ。満州国を承認、蒋介石政府への軍事援助を停止し、軍事顧問団を引き上げると彼は語った。5月満州国を承認、中国への武器・軍需品の輸出を禁止し、7月軍事顧問団を引き上げた。あとはドイツ中国切り捨てに対して日本がどういう報酬を払うのかに焦点が絞られた。

  
リッベンドロップ
の要望を飲みました。つきましては日本占領地域での経済活動に日本と同じ待遇を与えてほしい
東郷茂徳
それは理です。日本は膨大な犠牲を払って占領したのです
  
リッベンドロップ
では占領地域での特恵待遇では?
東郷茂徳
それも理です。
  
リッベンドロップ
中国に対する軍事援助を中止しました。しかし英は続けている。英を同列に扱うのは不条理です
東郷茂徳
の処置には感謝しております。しかしこれは別の問題です。

ドイツ側は外務省との交渉を避け、駐独武官大島浩および陸軍と交渉するようになった。やがて東郷は罷免され、大島が駐独大使となった。日独防共協定が締結された後、政府を援助する英を牽制する的で軍事同盟への発展を唱える動きがあった。特に駐独大使大島浩、駐大使白鳥敏夫は熱心で、同盟案に参戦条項を盛り込むべきとし、独政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、8月ドイツからソ連だけでなく英をも対とする同明案が日本に提示され、26日日独政府間で協定強化する交渉が正式に決まった。陸軍ドイツとの同盟を優先させたが、英を対とする同盟には外務省海軍が反対し、39年1月内閣はこの問題での閣内対立によって総辞職し、平沼騏一郎内閣が成立した。4月リッペンドロップ外相は日本が同盟にするなら、ドイツソ連と不可侵条約を結ぶかもしれないと警告、5月には独間で軍事同盟が調印された。ドイツは参戦条項を盛り込むべきと要。これに陸軍内部からも呼応するが多く、陸軍大臣の板垣征四郎以下陸軍流は同盟推進で動いた。一方英協調が一部残存していた海軍には反対者がおり、海軍大臣の米内光政、次官の山本五十六、軍務局長井上成美は「条約反対三羽ガラス」と条約推進)から呼ばれていた。1938年から39年までの日独伊防共協定強化への動きは対ソ同盟をしたもので、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。

…日英は和解できます。財がつきて…日本華北戦闘を自制したいのです…。イギリスの仲介が必要な時期が… 々が中国の戦乱に仲介の労をとるのにやぶさかではないが…、吉田大使の提言には実体がない。君は本当に日本国を代表しているのかね?? 吉田君、君は召喚だ。

吉田茂1930年ころ軍事予算の削減が大騒ぎを起こしたことにまで遡り、「日本は外からの危険に直面している」という軍部の宣伝が民の過半の支持を得たことを認めた。しかし短期決戦となるはずであった日中戦争中国抵抗が予想以上に強いことがわかると、「政府ソ連の脅威に備えて盛況な大軍を派遣せねばならなくなった」が、この場合ソ連の脅威が実体のない議論であることは明らかであり、吉田は、軍事行動を支えるに必要な増税に民感情は反感が高まると期待した。1940年までに軍事支出が耐え難い財政負担となり、それが反軍部への逆転をめるだろうと、欧の関係者に語り続けていた。しかし現実には軍部の勝利の喧伝により民の増税への反感は高まらず、吉田希望は容赦なく断ち切られていった。
 吉は1937年8月事変の拡大早くも反対、近声明を誤りと考えた親英論が軍部支持勢力に非難を浴びせられ、日本でやりづらくなっても隠そうとしなかった。吉は経済的に米と関係を無視した軍部と国家社会主義者が強張する「自給経済体制の追及」に対し一貫して反対した。

ノモンハン事件

1917年のロシア革命共産主義の波及を恐れた列強はロシア内戦への干渉を決定、日本は1918年にチェコ軍救出を名シベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本ソ連大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地の関東州、ソ連1924年に成立したモンゴル人民共和を勢力圏に置いた。両国の勢力圏の中間にある満州地域は、1920年代後半には中国の奉が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党の北伐に降した奉学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年の中ソ紛争で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。満州事変以後、日本ソ連満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化した。ソ連モンゴル1934年11月紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた。

 1936年11月に「日独防共協定」が結ばれて以来、モンゴル国における赤軍関東軍の緊は増し、1937年以降は地帯での小競り合いが頻発し、38年7月にはウラジオストック南西のハサン付近で鼓峰事件が起きた。この衝突でソ連軍は日本軍より損が大きかったが(動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷病者はソ連3500人、日本軍1500人)、ソビエト損失はソ連軍を揮したヴァシーリー・ブリヘル無能のせいにされ10月22日、彼はNKVDによって逮捕され、拷問されて死亡した。38年8月陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し、戦闘の結果を分析しながら増長した関東軍の不満は募っていた。

日ソ両軍激突 1939年5月12日ノモンハン事件ハルハ河の戦闘)は満州国軍とモンゴル軍のパトロール部隊の交戦で始まった。の放牧をめて、モンゴル軍がハルを渡り、いくつかの丘を占拠し、さらにモンゴルするの町のノモンハンに至った。関東軍はソ連を極東満州から排除しようとし、モンゴル軍をハルまで押し返した。その後日本軍が兵力を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといった戦いであったが、段階的に拡大し5月20日に第一中隊鈴木中尉らがハルハ上ソ連偵察機1機を撃墜し初戦果をあげた。小松原道太郎第23師団長はこの小競り合いに独断で1700人の部隊を出動させたが、ソ連軍は2300人に増強されており5月28日戦闘では日本軍敗北した(第一次ノモンハン事件)。

ゲオルギー・ジューコフ6月5日に同地に着任し、直ちに戦力の増強が図られた。関東軍は、現地がシベリア鉄道拠点より650㎞も離れていることから、敵軍を過小評価した。しかし5月22日から始まった中戦は、当初日本が優勢だったが、次第にソ連軍も増強され、6月17日から日本軍を上回るようになり、ソ連航空機が自を越えてカンジュルを攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。ソ連軍の小規模部隊満州国領内に侵入し偵察攻撃を繰り返していた。

モスクワ駐在武官 ソ連に大兵力を輸送し、戦車多数が向かっています! 日ソ両軍激突 々はソ連戦車をぶんどって戦勝祝賀をやる計画でおる。そんな時にそんな報告をやられたら困る!

この時はまだ非一夕会の閑院宮載仁参謀総長、中島蔵参謀次長体制であった東京の参謀本部は報復攻撃を禁止する命を発したが、関東部参謀の辻政信無視して6月27日モンゴル領内のソ連軍基地爆を強行した。さらに、現地師団長揮権を無視して勝手に部隊を動かした。7月1日および23日、日本軍ハルを渡りソ連軍に攻勢を仕掛け、得意の夜襲ソ連軍に大損を与えた。しかしかの地が重要と考えていたスターリンジューコフに大部隊を任せており、過酷な補給状況の中で、兵員5万8千、戦車500両までに膨れ上がっていた。8月ソ連軍は反撃し、ソ連軍は圧倒的な火力で、特に火戦車で戦力が劣る日本軍を当初の満まで押し返した。8月20日には第23師団はソ連軍に包囲され、27日脱出に失敗し、31日壊滅した。この戦闘での損日本側の推計値は不正確だがおよそ死者9000人、死傷者18000-25000と推定されている。一方ソ連は当初、死傷者9284人と発表していたが、ソ連崩壊後により正確な犠牲者が表され、死者9703人、死傷者27880人と日本側より多かったと推測されている。

結果的に紛争は多くの損を受けたものの困難補給を成功させたソ連が物量で圧倒し、ソ連が優位な停戦ラインで解決した。停戦後、参謀本部の中村蔵参謀次長、橋本作戦部長稲田正純作戦課長更迭され、また関東軍の幹部らは責任を問われ、軒並み予備役に編入された。が、事件を導した辻政信と、彼の上官の作戦班長・服部卓四郎らは、なぜか一時左遷されただけですぐに復活することになった。後任は沢田茂参謀次長、富永恭二作戦部長岡田茂一作戦課長となり、9月30日武藤章が陸軍省のトップである軍務局長に就任した。陸軍ノモンハン事件の戦訓をまとめるため調を行い、1かほどで報告省がまとめられた。そこで強調された点は、火力戦闘力の飛躍的向上が急務だということだった(本来ならば、ソ連軍の補給力に着すべきだったが。)。しかし地金の質に始まり、熱処理、溶接などの地金技術が立ち遅れており、戦車徹甲弾そして装甲版の問題となり、いくら鋼材があったとしても戦力の改善には結びつかない。具体的な対応策を打ち出せないとなれば、結局火力ではソ連軍に対抗できないので、「急襲戦法」に価値をめるしかないとした。

陸軍恣意的人事

服部が衆の一致するノモンハン敗戦の責任者でありながら、たちまち中央の作戦担当者に復活して対英戦を導し、後日にもガダルカナル敗北を招いていったん退きながら又返り咲くなど、作戦の中枢にあった人物たちの人事には不可解な点が多い。失敗者がたちまち要職に返り咲くという点では、田中新一の場合も同様である。田中事件の際には、陸軍軍事課長として、参謀本部作戦課長武藤章とともに、拡大論の先頭に立って戦争の拡大を図った責任者だった。しかし40年1月からの中軍のオルドス侵攻作戦で、語占領後の確保にこだわり、3月20日日本軍特務機関全滅したという事件があったにもかかわらず、40年10月田中は参謀本部の第一部長に抜され、対強硬論の先頭に立つのである。田中作戦部長服部作戦課長作戦班長のトリオは、ガダルカナルへの兵力投入、奪回作戦強行の役であった。このため船舶増長を要して陸軍省と対立し、田中佐藤賢了軍務局長を殴打したり、東條首相兼陸相を馬鹿呼ばわりしたりして、42年12月解職されるのである。「作戦屋」といわれる人たちの中でも、特にエリートたちを、加登太郎は「の院」と言っている。西川進や加登の、予算や物的戦力にかかわる陸軍軍事課関係者の回顧録では、こうした作戦屋のの院での不死鳥のように復活する人事について批判的である。これは東條英機富永恭二のような人事にかかわった上層部が、積極論者に好意的だったことによる面もあった。この人々の強硬論が作戦を誤らせ、作戦的達成のためにはほかのすべても犠牲にしてもよいとする作戦第一義は、しばしば兵が飢えることも意に介さないし、時には死ねという命まで出すという非人間的な面を見せることもあった。

独ソ不可侵条約

モンハン戦闘が続くなか、1939年8月23日スターリンドイツ独ソ不可侵条約を締結した。日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、陸軍大臣はその時の陸軍の様子を「驚狽し憤慨し恨するなど、とりどりの形相」と記述している。25日には平沼騏一郎内閣が日独同盟の締結交渉中止を閣議決定、28日に平沼が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と明し、総辞職した。

 その後日本ソ連は日ソ中立条約を締結し、また日本は後述の南進を策としたため、ソ連との紛争は起こらなかった。しかし独ソ戦が開始されドイツ軍が有利な戦況が続くと、関東軍特別演習と称して、満州に大軍を送り、対ソ参戦の機会をがっていたが、印進駐により石油が禁輸となると、対ソ参戦気運は大きく後退する事となった。

欧州状況の急変

1939年8月23日には独ソ間で独ソ不可侵条約が締結された。リッベントロップはこの際に、防共協定は反ソビエト連邦と言うよりも、反西欧民主主義という性格を持つものだとヨシフ・スターリンに説明している。これを防共協定の秘密議定書違反として日本は猛抗議し、平沼内閣は総辞職したことによって、日独の提携交渉はいったん白紙となった。日本外務省内では協定が事実白紙になったという認識は示されたものの、実際には協定解消などのも起こらず、手続きは行われなかった。

第二次世界大戦の勃発

ドイツ1939年9月1日ポーランドに侵攻、9月3日ドイツに宣戦し、第二次世界大戦がはじまった。9月17日にはソ連が「ウクライナ系・ベラルーシ市民の保護」を口実にポーランド東部から侵攻を開始した。独ソ両軍は衝突することもなく、モロトフ=リッベントロップ協定秘密議定書の分割線に従って、その占領域を確定させた。英ソ連に対しては宣戦布告を行わなかった。9月20日ルシャワが陥落しないため、ヒトラーは業を煮やし、ドイツ空軍による爆撃が開始された。620機を繰り出した底的な爆撃に続いて、27日ドイツ軍に突入し、2万5千人の市民死亡10月1日ルシャワは降した。

紳士諸君!、君たちはワルシャワの廃墟を見たはずだ。今だに戦争を続けようと考えているロンドンパリ政治家たちに、警告として諸君の見聞を伝えたまえ

 10月6日ヒトラードイツ国会において平和の呼びかけを行った。この提案は英両国によって拒否された。1939年10月14日には英戦艦ロイヤルオークが独潜水艦に撃沈され833人が死亡し、イギリスショックを受けた。10月3日ポケット戦艦イチュラントはアメリカの貨物を拿捕し戦利品とした。アメリカ世論は沸騰し、中立法に対し、英には武器の売却を認めると修正された。さらに秘密協定に基づき11月フィンランドソ連戦争冬戦争)が勃発し、ソ連フィンランドの5倍以上の12万人以上の死者行方不明者、32万人以上の死傷者を出しつつ勝利し、1940年3月フィンランドは領土の11経済資産の30ソ連に譲渡した。一方英ドイツの間には、航空戦の小競り合いと、幾分の戦闘が行われるのみで、陸上戦闘皆無に近い状態であった(Phoney War)。当初はアメリカでは楽観的な見方が多く、1939年9月のギャラップ世論調査によれば、連合勝利を予想したものは82%に上った。
 スェーデンの良質鉄鉱石とその輸出港であるナルヴィク港を制するため1940年4のドイツ軍によるデンマー・ノルウェー侵攻が起き、ナルヴィ海戦で戦艦ウォースパイト擁する英海がドイツ戦闘艦10隻を撃沈する活躍で、海権はイギリスが確保していたが、中国ノルウェーへの軍派遣に消極的なチェンバレン首がフィンラン・ソ連の協定成立により北海派遣軍を解散させるなど海の足並みがそろわず、月以降の大陸の戦況変化によりイギリスは撤退しドイツに占領された。この惨敗の責は海軍大臣チャーチルにあったにもかかわらず、倒れたのはチェンバレン内閣であった。ただしノルウェー占領はほかにいくらでも使道のある独軍を終戦まで何もすることなく据え置くことになってしまう。

ドイツの快進撃と、イギリスの窮地

 そして5月に状況は一変する。1940年5月10日西部に集結した137個師団のドイツ軍は、怒涛の勢いでフランスベルギーへ進撃を開始した。オランダは5日間で屈し、5月15日までにドイツの機甲9個師団はミューズを渡り、難攻不落を誇ったマジノ線回してアンデルヌ高原をかすめて英連合軍の背後に進出した。グデーリアンやロンメル揮するドイツ軍崩を打って進撃、英峡に向かっていた。ベルギー5月末に降、およそ30万の英大陸派遣軍は、一週間のうちにカレーの北、ダンケルクに追い詰められた。英軍はダンケルク大陸からの撤退を開始した。BBC放送を通じ海軍省の呼びかけに応じたヨットを含む民間船舶の持ちたちは、イギリス兵を救出すべく大軍をなして、ドイツ空軍機の襲来の危機を冒し最前線ダンケルク辺に赴いた。包囲下にあったおよそ33万の英軍のほとんどすべてを事、英本土に撤収させるという奇跡的な成功をおさめたのが惨敗の中で救いだった。
 6月10、イタリがドイツ側にたって参戦、フランスでは16日にポー・レイノー首相に代わってアン・フィリッ・ペン元が首相となり、22日にドイツと、2日後にはイタリアと休戦協定に調印した。大はドイツのものとなり、イタリ、東もイギリスに宣戦し奥にはドイツの友国ソ連が潤沢なを提供している、イギリスはただでドイに抵抗できるとは思えなかった。

 ドイツ人も驚いたことに、イギリスは戦いつづけた。だがそれは、ドイツ人には、ただ戦争を長引かせるだけの望みなき自殺的行為、と思われたのである。イギリスははビスケー湾からノルウェー海岸にわたって、無敵ドイツ空軍によって包囲されていた。残存の英空軍は数においても劣勢であった。ヒトラーが、1940年6月に和の提案を言、同時に彼はイギリス侵攻の暫定的計画の準備を発している。
 ドイがヨーロッの中(スイ、スウェーデ、スペイン)を通じて平提案した際に、イギリスは煮え切らないそぶりを見せた。イギリスでは、ヒトラーの言う「平」の内容がチャーチル内閣では理解されていた。合法の目で併合されたオーストリやチェコ以上の扱いを受けないことは明らかだった。だが、まったく取り付島もないという拒絶の仕方はしなかった。「もう一度熟慮」というそぶりも見せた。英はドイツよりもソ連と戦うべきだという右の貴や国会議員グループも力を持っていた。41年6月までは英政府内には反ソ連を基軸に日英同盟を興できないかと考える人たちもいた。

 イギリスフランスに対し、「の保有する軍艦イギリス港湾に引き渡すように」迫ったが返事はなかった。ドイツによるイギリス上陸作戦が迫っている状況では理かなることではあったが、7月3日イギリスは武力を持ってフランス戦艦の接収を行い、領北アフリカのケビール港ではイギリス海軍が要を拒否したフランス海軍撃、ダンケルクは大破しブルターニュは爆発・転覆した。1297人のフランス兵が死亡した。この戦闘政治的効果は絶大だった。イギリスは必要ならば情け容赦ない戦いであろうとあえて行う覚悟であると。しかしフランス側の対英感情は致命的に悪化し、ヴィシー・フランス政権は積極的にドイツに協力するようになっていった。

 ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥は、イギリスの防御戦闘機はわずか数日の戦闘で打破することができる、と自信たっぷりで予言した。 ヒトラーが、イギリス侵攻にたいする海軍総司令官の警告よりも、ゲーリングの楽観的な予想を、より心良く思っていたことは確かである。空軍の打撃によって、強襲上陸の必要がなくなるかもしれないし、イギリス平和会議の席上で、次なる十字軍に“分”として味方にくわわる算も大きいだろうと考えたのだった。しかし強襲上陸が必要なら、それでもよい。ドイツ空軍が全面的に制権を獲得してしまえば、英海軍の妨はないも同然だろうし、ドイツ陸軍ロンドン進撃を支援するであろう。彼は侵攻準備計画の作成発二週間後の7月16日に、命第一六号をだした。

絶望的な軍事情勢にもかかわらず、イギリスは和条件に応じる気配を示さない。私は英本土に、必要とあれば上陸を実行することを決心した。本作戦的は、英本土が対独戦争継続する基地となることを阻止し、かつ必要とあればその全土を占領することにある

上陸日は決定されず、侵攻は依然万一の場合の計画にすぎなかった。陸、三軍は、総統にしたがって準備をすすめたが、ドイツ民はイギリス侵略をまねくような馬鹿なことはやるまいと信じていた。ベルリン新聞は、戦争の終結はほぼ確実だとのべていた。しかし海軍を強引に撃沈までした英国は、戦わずして屈するであろうか?  とるべき方策は最後のおもいきった平の提案であった。もしこれに失敗したら、ゲーリンにチャンスをあたえるほかはない。1940年7月19、ヒトラーはつぎのように世界に宣言した。チャーチを戦争亡者と批判しつつ、それでも自分は理性に訴えると。

このさい、私はその良心にしたがって、もういち世界の人々の良心と常識、および他と同様イギリスに訴えることが、私の義務であると信じている。私はこの訴えをおこなう地位にあると考える。なぜなら、私は恩恵をうける敗者ではなく、『勝者』として穏やかに話しかけているのである。この戦争を続行すべき理由は何もない。私は、そもそも英帝国を破壊するどころか、 傷つけようとも思っていない。 この時にあたって私は、自己の良心に基づいて、 イギリスにもう一度、分別をめずにはいられない。 あえて戦争を続けねばならない根拠など、見当たらない。・・・ドイツ政府は、イギリス政府理性的反省にもとづく和交渉に臨む用意がある。これは最後のチャンスである。イギリスがこの機会を無視するなら、すでに準備了したドイツの攻撃力は、時をうつさずイギリスに殺到することだろう

 英国はこのヒトラー国会演説の呼びかけに対して3日ほど焦らしている。これは英国が屈するのではないかとの憶測を与えた。そうなれば対英支援はすぐに踏み倒されてしまう。実際この時駐英大使アメリカケネディ(J・F・ケネディ)は、対英支援中止をワシントンに具申している。だが、チャーチルは、ヒトラーの和提案に、「NO」を突きつけるつもりだった。チャーチルは、このまま戦争を終わらせて、 それによって ”ヒトラー欧州支配”を承認する気など、 全くなかった。
そしてチャーチル政権は、ヒトラーの和提案に対して、こう返答したのだった。

外相 ドイツは、もし平和をあがなうつもりなら、まず占領した全地域から撤退することだ!。 海軍大臣チャーチル 々は海岸で、で、そして田園で、路で、丘陵で、あらゆるところで戦い続けよう。We shall never surrender

このイギリス政府の回答に、 ヒトラー激怒した。孤政府は動揺した。ハリファックスロイドジョージといった穏健は、ヒトラーの提案にを傾けようとした。また、ウインザー(先の国王エドワード8世)も、隠遁先のポルトガルから和を呼びかけた。しかし、チャーチル首相の意志は強固だった。彼はドイツとの徹底抗戦の決意を維持し、猛然と閣論の調整を行ったのである。イギリス民は迫るドイツ軍の本土進攻に恐慌状態となり、「ホームガード」なる民兵組織が作られ、スミス・ガン、SIP手榴弾火炎瓶ドイツ軍に対抗できるか)、ホームガードパイク(竹槍よりは・・・てありえん)などの珍兵器が次々作られた。イギリスの命運は前の火にみえた。

アメリカ驚愕

 アメリカ人は驚きで口もきけなかった。ドイツWW1で4年かかってもできなかったことを、たった40日でやってのけたのである。今や英国だけがアメリカと枢軸営との間に立っていたが、果たして生き残れるかどうかは疑わしく見えた。陸軍戦略たちは大統領への報告で、南米には多数のドイツ市民がおり、また領西アフリカのダカール新世界からわずか2900キロであることを摘した。最初の驚愕の後には事実上のパニックが起こった。数週前に防費20億ドルの予算割り当てを渋っていた(1938年陸軍予算は4.15億ドルに過ぎない)議会が、今度は105ドル防費をさっさと可決した。州兵が動員され、史上初めての徴兵が承認され、陸軍参謀本部は最終的には900万に達することになる兵力増強を計画し始めた。ホワイトハウスでは、大統領の顧問たちが5万機からなる空軍の建設を話題にしたが、当時はまだそんな巨大な空軍を支えるべき飛行士も技術者もなかった。海軍最高諮問委員会は、アメリカ大西洋における新たな脅威に対抗し、太平洋における日本の増強に歩調を合わせるため現存施設で可な限りの軍艦を建造せねばならぬと警告した。今度は議会も傾聴し、6月に既に承認した分に追加して40億ドルの建艦費に割り当て、7月にはさらに13億ドル強を可決し、7月20日両洋艦隊法が成立した。
 こうした気違いじみた軍備張のは、アメリカは間もなく単独で枢軸国に対抗することになるかもしれない、との恐れにあおられたものだった。その場合、アメリは太平洋ではほとんど何んもできず、もし仏艦隊がドイツの手中に落ちたら、大西洋の守りも難しいというものである。こうした心配は、ジョージ・V・ストログ准将の下で陸軍戦争計画部が草した1940年6月の「ストロング覚書」に記述されている。覚書はアメリカの限られた軍事力とその当面する危険を分析し、仏は間もなく敗北すると予想、西半球防衛のための即時動員と英国への軍事援助の停止、太平洋では防衛の姿勢徹することなどを提唱した。ナチはアメリを西のユダ国と見なし、恨んでいた。ヒトラはアメリカ合衆国なるものがユダヤの戦争屋耳られた北欧人の国家であり、その意味でも、この私がヨーロッパ大陸に築く「新秩序」とアメリカは、いずれ雌雄を決せざるを得なくなると信じていた。だがルーズベルはイギリスを見捨てる気になれなかった。もしイギリスが服すれば、枢軸が欧州大、アジ、アフリ、豪州及海を支配するだろう我々全体が、彼ら銃口のもとで生活することになる。
 フィリピン防衛はもはや放棄せざるを得ない。アメリカ西岸からマニラまで12600キロもある。ハワイからでも9000キロあるのだ。真珠湾に海軍基地はあったが、グアムやマニラにはない。態勢を整えてマニラに侵攻するには3-4かかかる。それまでに日本フィリピンを圧倒できる。日本は開戦後1週間で5-6万、2週間で10万、1かで30万の軍を送ることができるのだ。陸軍士官たちは現在オレンジ計画の実施は文字通り狂気の沙汰だと摘したが、統合委員会はフィリピン放棄の心理的、政治を考えて踏み切れず、マニラ湾を確保し、アメリカは西太平洋で攻勢に出る、という線を常に再確認するのに終わった。実際は放棄していても、フィリピン防衛放棄を言することはできなかった。

 日中戦争の勃発以来、アメリカ政府の対日政策は「断固たる態度ながら融和的」なものであった。アメリカ中国にあるその権益の縮小に進んで同意するものでないし、極東における日本の征を認めることは拒否する。だが、その一方で、日本を挑発したり事件のもとになるようなことは一切しない。この「何もせず、挑発もしない」という政策は、ルーズベルト大統領が考え出し、ハル務長官が実行したが、これは日本との深刻な危機を避けるためのものだった。こうしたやり方はルーズベルトとその顧問たちには満足すべきものと見えたが、中国にいて日本の占領軍に威り散らされたり、殴られ、小突かれたりしたアメリカ人たちには人気なかった。また、日本軍の「新秩序」なるものを「南の暴行」や広東爆撃ニュース映画グラフ雑誌で見たアメリカの大衆にもさっぱり人気がなかった。しかし大衆は中国に非常に同情していたものの、日本との戦争を考えてみようなどという気はなかった。

日本のドイツ接近と北仏印進駐

期待倒れとなった満州経営

満州開発はうまくいかず、資という面で全く期待外れだった。日本の3.5倍も面積があるのだから、何でもあるはずだ、これで日本も資だとは膨らむ。国際連盟から脱退し、世界孤児となっても気だ。そう信じて石原莞爾が中心の5か年計画で、鋼増産に励んだが、満州には低品位の鉱山しかなく、計画の年産1150万トン、鋼塊1300万トンに対し、36年には63万トン、鋼塊34万トンで、五カ年計画の実績(四一年末設備力)は、と石炭でそれぞれ2.4倍にまで増産できたが、標には遠く及ばなかった。1940年代になって、この方向は半ば放棄され、「満洲国」自体も「大東亜共栄圏」における食料供給基地という位置付けになっていく。永田思想に従い満州、中支を外交を犠牲にして占領した陸軍であったが、資依存は変わらなかった。アルミニウムは軽量で腐食に強く、マグネシウムを添加したジュラルミンは頑丈で航空機の原料として急速に需要が増大した。地殻に豊富に存在するが、イオン化傾向が大きく酸素と固く結合し、生産に多量の電力を使う。日本国内にボーキサイトはなく、カリウムを含む硫化物の明礬石は多量に存在するものの、硫化分を除去できず航空機用のジュラルミンには適さなかった。このボーキサイトビンタに豊富にあった。マレーの生ゴム鉱山、フィリピンクロム印の石油アルミニウムが必要だった。

東亜共栄圏構想の出現

1939年9月ドイツポーランドに侵攻し、欧州第二次世界大戦が始まった。武藤永田や自分が考えた通りの展開になったと考えたが、当初は欧州大戦には不介入の方針だった。1940年日本政治の中心はすでに陸軍にあった。ここにドイツの快進撃、イギリス敗北間近のニュースが飛び込んできた。
 武藤らは6月中旬「総国策10年計画」をまとめた。そこには最国策として、日・満・中国の結合をもとに「大東亜を抱擁する協同経済圏」の建設が設定されている。ここでの大東は東南アジアなどを含む地域である。第二次大戦勃発に合わせて調査し直したところ、自給自足のためには現状では足りないことが判明、東南アジアから獲得すべき必要源は、石油、生ゴ、ス、ニッケ、リ、ボーキサイトなどだった。これらは帝国内や中国大陸ではほとんど産出しない源であった。この協同経済圏論は、欧州の戦況の展開にともない大東亜共栄圏の設定、南方武力行使の問題へとつながっていく。またそれにかかわって、日・満・華北・蒙古が大和民族にとっての自衛的生活圏とされている。外交としては、ソ連については平和的状態を維持し、アメリカについては大東亜協同経済圏の形成による自給持続体制の確立により米依存経済より脱却する方針を示し、イギリスについては「英国及び英系勢力を極東より駆逐する」と強硬に明確な対決姿勢を打ち出した。
 この総国策十年計画は第二衞内閣の組閣直後1940年7月26日閣議決定された「大東亜の新秩序」の建設など主な内容とする「基国策要綱」に反映される。しかし「総国策10年計画」はドイツの快進撃を反映したものではなく、武ら陸軍中央は7月22「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した国際情勢の変化に対応して、日中戦争を解決するとともに「好機」を補足し「対南方問題の解決」に努めるとの方針が示されている。英領マレ蘭印など要ターゲットとした南方武力行使が明確に打ち出された。この好機はイギリの敗北が想定され、ドイツとの軍事同盟にも踏み込んでいた。大英帝国の崩壊を好機に、南方の英領植民地さらに蘭印を一挙に包摂し、自給自足体制の確指したのである。この陸軍中央の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」は海軍側との協議のうえ、基本的な内容についてはほぼそのまま陸海軍案となり、7月27日大本営政府連絡会議で採択された。7月22陸海脳による懇談が行われ、案の内容について意見交流がなされている。武藤軍務局長は伊から同盟打診があれば受諾するを要すと発言したが、海軍から異論が出された仏印に対する武力行使は「支那事変処理を看板とする」との了解がされた。日中戦争の解決仏印進駐の目にしようというのである仏印進駐は蒋ルートの遮断のためとの見方はあるが、いわば「看板」であって、実際には英領マレ蘭印など南方への勢力展開建設のためであった。この「共同経済圏」及び「大東亜の新秩序」はのちに「大東亜共栄圏」へと発展していく。

一方日中戦争では40年5月に宜占領に成功したが蒋介石は屈しなかった。しかし南省の峯山脈の東麓のアンチモン産地を抑えたことにより、弾丸に必要なアンチモンの安定供給ができるようになった。汪兆銘の政権は傀儡にすぎず、日中が様々なルートで画策されるがすべて実現しなかった。

 当時の内閣は、独との軍事同盟に消極的だった。また陸軍希望する内体制の整備も進捗しなかった。そこで武藤陸軍中央は、近衛新党の動きと連動する形で、陸相を辞任させ、後任の推薦を拒否して内閣を総辞職に追い込んだ。後任首相は重臣会議で軍部に受けの良い近衛文麿名、陸軍は今度はすんなりと東條英機を陸相に送り、外相は強硬松岡洋右が就任した。40年7月22日二次近衛内閣が成立した。

日独伊三国軍事同盟の成立

ヨーロッパの戦局が急変し、イギリス危機に陥った昭和15年6月19日、参謀本部情報部長土橋勇逸少将は駐日英武官ミュレリー大佐に対して事実中国大陸から撤退するよう要した。一方陸軍7月27日に日独提携強化、対英軍事同盟に関する件とする案を外務省に示した。

   から対英参戦を要請された場合は、原則としてこれに応じる用意があります。またと不可侵条約を結んでいるソ連とも連携を仲介頂きたいのです。
イギリス相手に日本軍事援助は必要ない。だが・・・
   9月2日アメリカが西半球にある英国基地を利用する代わりに、イギリス駆逐艦50隻を提供する協定が発表しています。
ドイツアメリカの対独参戦の危機に直面しているのです。
うむ。アメリカをけん制する手段として日本との接近しよう。
スターマーを特使として日本に送り込むぞ。日本との軍事同盟は対米軍事同盟でなければならない。
   スターマー「ということで、欧州戦線へのアメリカの参戦をけん制するため、条項を盛り込んでいただきたい。」
   ビルマルート閉鎖
②香の閉
③上海からの英軍守備隊の撤退
これらを実行するよう要する。
海軍大臣チャーチル やむをえん、受け入れよう。日本に対する融和策が望ましい。
  
外相
ハリファクス「反対です。ミュンヘン会談の二の舞ではないですか。それにシベリア鉄道を介した日本からドイツへの物資の流れを止める交渉は日本は受け入れなかったのです。一方的で理不尽です」
海軍大臣チャーチル 大局を見るのだ、戦略ビジョンは4つある。望ましい順に
①アメリがドイに宣戦布告し、日は中立にとどまる
米が協力して日独両方と戦う
米がこのまま欧州戦争を傍観する
④アメリが中立を保ったまま、日英戦争が勃発する
現状は③だ。①あるいは②指し、④を全力で避けるのだ

日本ビルマルートによる援武器輸送の停止をイギリスめ、折衝の末、イギリスはこれに同意し、7月17日ビルマルート三か停止のための協定が日英間に結ばれた。イギリス1940年8月中国本土の都市、特に上海からその駐屯地を撤退させた。イギリスのこの決定に不満なアメリカ務長官・コーデル・ハルは、「  ビルマルート閉鎖世界貿易に対する不当な妨であり、アメリカは独自の政策を遂行する」との所見を述べた。一方、9月10日松岡外相とスターマーが会談し12日に4相会談が行われた。

松岡現在のままでは英のいいなりだ、同盟締結を」 東條英機陸相「賛成」 及川 保留 近衛文麿首相「同盟締結としたいが」

ドイツアメリカ開戦から対自動参戦となることを危惧した海軍内と山本は同盟に反対した。彼らは過激派の攻撃や脅迫の的となった。海軍省の他の導者たちの大多数と軍部のほとんど全員は、結局同盟に同意するか、少なくとも黙認するよう説得された。海軍の若手士官たちの多くは独的で、それ以外のものも三同盟がアメリカ戦争介入を防げるだろうという松岡外相のを最もだとしていた。これに対して松岡外相は、事実上参戦の自的判断を各政府が持つという趣旨の規定を定める案を提示し、海軍側の了承を得た。9月27日日独伊三国同盟条約が締結された。日独伊三国同盟の内容は、ヨーロッパにおける独と、大東亜における日本の、それぞれの新秩序建設においての導的地位を相互に認め、尊重しあうこと、そのための三の相互協力と、いずれか一現在交戦中でない他に攻撃されたときは、三はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法により、互いに援助すること、前記の条項は三それぞれとソ連との間の状態にはを及ぼさないこと、有効期間は10年とすること、など。

松岡1941年12月8日「三同盟の締結は、一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。……事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるにいたった。これを思うと死んでも死にきれない」というが出来すぎであろう。1945年8月13日ポツダム宣言を受諾するとの事であるが、これはを滅ぼすことになるので絶対にいけない。……を救うは、戦争継続し、本土決戦を決意して、死中に活を求めるよりほかに方法はない。」と発言している。彼については原田雄や木戸の評価が的を得ている。原田松岡は、昨日の話を、馬耳東風と聞き流すような男」であったとし、木戸は「松岡はいろんなことを言うんだよ。いうたびに変わるんだ。それでどこが意かわからん」と苦笑する。

軍事同盟の反

ドイツから差別爆撃で甚大な被害を被っているの最中のイギリスにとって、三同盟の締結はまさに青天の霹靂であった。日本イギリスの敵側についたことを明示するものであり、イギリスとしても対抗措置を打ち出さざるを得なくなっていた。

  外相 もはや日本との対決は避けられません。 海軍大臣チャーチル もう①は現実的にはありえない、②をめざそう。対追従だ。英独の戦いにアメリカを巻き込むには、日本との戦争も仕方ない。

 イギリスビルマルート一時閉鎖の協定を更新することを拒否し、10月18日より然とビルマルートによる援を再開したのであった。英外務省は対日政策を検討する極東委員会を設立して本格的な対日政策に乗り出した。それは対日経済制裁の模索であった。

アメリカにとって三同盟の急速な成立は意外であった。日本はもう少し欧州戦局の動向を見極めながらコミットメントを慎重に判断するのではないかと考えていたからである。アメリカは対独参戦した場合、三同盟で日戦となり両面戦争覚悟しなければならないこととなった。それは対独戦遂行にとって可な限り回避したい事態だった。スティムソン陸軍長官やモーゲンソー財務長官は、制裁を強化すべきとして、石油全面禁輸をした。しかしハル務長官は「石油禁輸は日本印に向かわせる」と反対し、大統領ハルを支持した。三同盟はこの時は対抑止力として有効に働いていたのである。

同じころ、山本長官は近衛に招かれ、質問を受けた。

近衛文麿首相「万一日戦争の場合の見込みは?」 山本五十六「それはぜひやれと言われれば、初め半年か一年の間はずいぶん暴れて御覧に入れる。しかし2年3年となれば全く確信は持てぬ。三条約ができたの致し方ないが、かくなる上は日戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」

 一方陸軍武藤としては三同盟及びソ連との提携によって、なるべくアメリカを反省させるようにしなければならないとし、日戦を回避し、同盟条約第二条ドイツ東アジア東南アジアでの日本導権を承認)によって南方へ進出して資自給自足体制を確立し、大東亜生存権の建設を実現しようと考えていた。武藤陸軍中央は7月下旬に「導に関する具体的要」を定めた。そこには全民総動員組織の確立、言論結社集会などの禁止・制限、批判の抑圧なども含まれてきた。そして情報統制、報道規制などによって、一方的情報に基づく世論調整が意識的に行われ、陸軍が望む方向への「精神動員」「民動員」が行われるようになっていく。
 41年3月文部省より「臣道」が発行・配布された。そこでは我ら国臣民は、悠久なる国の古より永遠の皇運翼の大任を負うものである。この身この心は天皇に仕えまつるをもって本分とする。は国民たること以外に人たることを得ず、さに公を別にして私はないのであ。我らの生活のすべては天皇に帰一し奉り、国家に奉仕することによって実の生活となる。…されば、私生活をもって国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見なし、私意をほしいままにするが如きは許されないのである」
 この臣道はすなわち一般国民の生き方として義務付けられ、教育された。武藤軍務局は議会で発言している「現国際情勢に書しますには…個主義に出発しまする一切の自主義、これを排除していかなければならぬ…。いかなも国家本位に進んでいる…。すべての物が個人というより国体というものに立脚して、一切律していくことになれば、おのずから国家の総力というのは万全の力を発揮するものだ」

 政府民も、本当に「天皇の軍隊」を統制できず、軍だけが勝手に暴走したのであろうか。そうは言えない。戦争を行うには戦費が、軍を維持するには軍事費が不可欠である。したがって、議会が戦費いわゆる臨時軍事費を否決すれば、軍は動けない。…明治人は明確な「戦費」という意識があった。が戦費の確保に腐心すれば、非戦議会の戦費否決でこれに対応した。戦争→戦費→議会の戦費可決→増税→民衆の苦しみを明確に示し、民衆の増税反対に代議士を動かし戦費否決から非戦へもっていこうとした。
 ところが、昭和になると主戦・非戦派とも、戦費と負いう最も重要な問題無関心である国民は「勝った、勝った」目をくらまされていたが、軍は、戦費が自分たちの死命を制することを知っていた。…満州事変から延々と続く戦争、この状態は実に強い厭戦分を国民の中に熟成した。軍人が、何かあれば「軍民離間は利敵行為」とって目を怒らし、陸海軍両省がすでに昭和8年に「軍部批判は軍民離間の行」と声明したこと自体、軍と民がすでに離間していたこと認めたに過ぎない。ではもしこの批判が議会に反映し、臨時費(戦費)を否決したらどうなる。…これが倨傲な度で国民を睥睨していた彼らが、絶対口にしなかった恐怖であった。彼らはその事態に至らせぬため、あらゆる手段を使った。したがってその時は、骨を抜かれた議会、すわち翼賛議会は、すでにできていたのである。
 私のそのことを語ったのは、士官学校の若い中隊長である。彼は政局や戦局の話を始め、このようになったのは「議会が悪いからだ」といった。彼は議会を罵倒し、軍需太りの利権やを国賊とののしり、戦死者の肉を食う人非人どもといった。……それが臨軍費に及んだ時、私は彼の顔を見直した。彼は言った。「いかに精鋭の軍隊といえども、逐次戦闘加入を強いられれば必ず敗北する。ナチス・ドイツ軍の勝利を見よ。実に見事な、一糸乱れぬ統一戦闘加入ではなないか。な我々にこれができないか。毎年、毎年、臨軍費の予算の範囲内でしか作戦ができず、これ以上は”予算がないから戦争はできません”という状態を強いられてきたのだ。華事変が片付かなかったのは軍の責任ではない。議の責任だ、議会が悪いのだ」
 私がいかに鈍感でも、こういわれれば、何が要点かはわかる。「そうか、そうだったのか。戦費を打ち切れば、戦争を終わらすことができたのか……」同時に、学生時代からの、軍国民への直接宣伝、新聞ラジオ雑誌等の戦意高揚記事、配属将校の演説等々が、走馬灯のように頭の中を走った。「そうか、彼らはこの点国民目から隠すため、あんなことを言い続けてきたのか……」
 「幸い武藤軍務局長が……」と私の胸の内も知らず彼は言葉をつづける。そしてこの名耳にした途端、一枚の新紙面脳裏に浮かんだ。それには武藤軍務局長の大きな写真が載り、「政党解散は軍の方針」だという彼の言葉が載っていた。

印進駐

大日本帝国は機を見るに敏で、フランス6月ドイツに降した後、8月1日には松岡外相はアンリ駐日大使を呼びつけ「日本軍隊の通過及び印内飛行場使用の容認並びに右軍隊用武器弾薬その他の物資輸送に必要なる各種便宜供与方を要する(中略)もし印がこれを入れざる場合にはあるいは形式においても中立を冒すことになるやもしれぬ」とペタン政権に対し警告した。インドシナ経由で中国国民党軍に物資を供給する行為は、即座に中止されてしかるべきであると。結局、フランス人総督は日本側の圧力に屈し、日本が北印に兵員と航空機を駐留させることを認めざるを得なかった。10月16日アメリカ屑鉄航空機ガソリンの対日禁輸を決定した。

田中新一の台頭

40年10月10日田中新一が作戦部長に就任した。東條陸相の意向によるものだった。田中は「重慶政府の降はこの際問題とせず、全面的東亜の解決により自然にその降を予期され」解決されると考えていた。41年1月田中作戦部は「大東亜持久戦導要綱」を作成し、陸軍省部の非公式な承認を得た。好機におうじた南方武力行使と、北方静謐を基本とするものであった。1月30日「対印・泰施策要綱」が大本営政府連絡懇談会において決定された。大東亜共栄圏の段階的建設の第一段階として印・泰に進駐、生ゴムタングステンなどの第一次補給圏と位置付けられた。田中新一はこの過程で、ドイツの対英攻勢が予想される3月末までに南部印進駐を決定・着手すべきと考えていた。だが松岡外相の同意を得られず、7月まで実施に移されなかった。なお「大東亜共栄圏」の重要公式文書における初出はこの時である。さて、2月上旬、陸軍省部は「対南方作戦要綱」を作成し、海軍側に提示した。その子は、対南方政策の的は、日本自給自足経済体制を確立することにある。イギリス崩壊などの好機、もしくは英による全面禁輸を受けた場合には、武力を行使する。戦争相手は英に限定する、というものだった。ところが海軍側は、英絶対不可分、南方武力行使はすなわち対戦になるとの判断を示し、陸軍案に同意しなかった。その後陸海軍で協議され、6月6日正式に決定された。ここで大東亜共栄圏建設に一番梯として、外交によって印・泰の包摂を図ること、南方武力行使はいわゆる「自存自衛」(すなわち対日禁輸措置を受けるか、防上容認できない軍事的対日包囲体制が敷かれた時が想定)の場合のみに限定していた。ドイツの対英本土作戦の延期により「好機」補足の武力行使は放棄され、英可分の認識が清算され、陸海軍とも英不可分の認識に立つことになった。南方武力行使は、すなわち対英戦争を意味することとなったのである。

日ソ中立条約の成立

41年1月松岡外相「日本行動についてが英国が正しい諒解を持たないからには、として所信に向かって邁進するよりほか仕方ない」

 松岡外相は41年3月からモスクワベルリンを訪れ、スターリンヒトラーと意見交換をしていたが、ドイツ日本に対英宣戦とシンガポール攻撃を即し、松岡ロンドン訪問はキャンセルした。4月13日には日ソ中立条約が成立し、日本の南進が促進された。イギリスは再三日本の南進の脅威を訴え、シンガポール防衛の重要性をアメリカに伝え、共同警告を提案したが、アメリカ関心で介入にいたらなかった。5月13日には松岡外相が野村大使から送られてきた日諒解案に憤慨し、14日駐日大使グルーと会談「アメリカイギリス船舶を供給するべきではなく、もしそのようなことになれば日の間の戦争が勃発することは避けられない。日本の意図は平和的手段によって南方に進出することであるが、マレーの英軍が増強されればその限りではない」。

イギリスハル務長官に「々は日本中国妥協できるとはとても思えない。もしそれが可なら、アメリカ英国の意見を妥協案に聞き入れてくれ」と伝え、激怒させた。英が同意できる範囲でしか交渉を妥結してはならない、と。アメリカ日本に譲歩するのは英国には好ましくないし、中国を見捨てることになりかねない。5月27日にようやくハルは交渉内容を英国に伝え、もしもの時は相談することを伝えた。英国日本の南進を防ぐため日中戦争は続いてほしかったが、米国日本中国からの撤退を希望していた。

第二次世界大戦の展開

英独の戦いは着していった。

独ソ関係の動揺

 ソ連は、いわばヒトラー方式で急に領土を拡していた。昨年末の「冬戦争」で、フィンランドからカレリア地方を奪取したのに続き、今年6月にはルーマニア脅迫し、ベッサラビア地方を併合した。さらに8月には、バルト三国を恫して、その全土を軍事占領したのである。ほとんど血で、2千万近い人口を獲得したことになる。そして、ソ連の野心はそれに止まらなかった。ブルガリアトルコにも触手を延ばし、重要拠点の割譲を狙ったのである。この情勢に、東欧危機感を募らせた。彼らの頼みの綱は、今や日の出の勢いのドイツ帝国しかない。そしてヒトラーも、これ以上のソ連の進出を許すつもりはかった。彼はフィンランドルーマニア軍事顧問を送りこみ、密かに軍事協定を取り交わしたのである。フィンランドニッケルと、ルーマニア石油は、何が何でもドイツが確保しなければならないからである。 スターリン激怒した。 ここに独ソの蜜は終わりを告げたのである。
 1940の7月31、ヒトラはベルクホーフ山荘にの将軍たちを集めた。イギリスが伏条件をめぐる交渉を拒否していることに総統閣下は戸惑いを覚えていた。予想されうる将来において、アメリカ合衆国が参戦する見込みはない。だとすると、おそらくチャーチはソ連を当てにしているのでは?。

イギリス希望ロシアアメリカである。ロシアにかけた希望が消えるなら、アメリカも消えてしまう。ロシアの消滅は東アジアにおける日本の価値を恐ろしく増大させることになるからである。・・・ロシアが粉砕されれば、イギリスの最後の望みが絶たれるだろう。ドイツはその時、ヨーロッパバルカン人になるのだ。

 彼の生涯最大のプロジェクト、すなわち東方ユダヤ・ボリシェヴィズムの打倒に向けて、ついにゴーサインを出したのである。ただこの時ヒトラーは最終的に独ソ戦を決意したわけではなかった。

バトルオブブリテン

 ドイツ全軍のかじを切るには、やはりイギリスをきっちり片付ける必要があった。そこでドイツ空軍に対し、対イギリスせん滅作戦した。港湾、軍艦のみならず、イギリス空軍及びその地上組織、イギリス軍需産業合わせて一掃せよと。任務達成には一かもかからないでしょうとゲーリング元帥は予言した。

 イギリス抵抗しかった。ドイツ空軍の攻撃はしさを増し、8月15日の攻撃は1790機もの参加したが、「救機」スピットファイアの活躍で大損を受けた。ドイツ爆撃機乗りたちは、明日にも全消滅するはずの敵戦闘機が、圧倒的な数で襲い掛かってくるのをの当たりにした。しかしイギリス空軍も、ほぼ毎日失った以上のドイツ機を落としてはいたが、消耗していった。そもそものベースになる保有機数がドイツ側が倍近く多いのだ。その後戦闘機の生産が劇的に増加したことで、懸念の一つが解消されたものの、パイロットの損耗は依然最大の懸念材料だった。食事中や、下手をすると会話中にことりと寝入ってしまう疲労度だ。8月24日100余り爆撃機からなるドイツ軍部隊が本来の標である飛行場の上を素通りしてロンドン中心部を爆撃する事件が起きた。これにカチンときたチャーチルは、直ちにベルリン爆を命じた。ヒトラーはワルシャ爆の時のようにロンドン爆にて敵の戦闘意欲をくじくべき時が来たと考え、ゲーリングは標的を飛行場から都市へと転換した。だが当時相当に追い詰められていた「戦闘機集団」は救われたのである。イギリス爆撃機軍団」は対の港湾施設をたたき、そこに集結しつつあるドイツ軍底の荷をつぶしていった。ついにヒトラーイギリス上陸作戦をあきらめた。
 9月7日1000機以上の航空機を投入して、大規模襲を敢行した。「ザ・ブリッツ」の始まりである。ドイツ爆撃機の大半はロンドンの港湾施設をしていた。ロンドンではこの日300余り民間人が死亡した。9月15日の大攻勢も、高高度に位置をとっていたスピットファイアハリケーンメッサーシュミット109が燃料残量が乏しくなる間を狙いすまして、攻撃が開始された。ドイツ空軍イギリス空軍による攻撃を避けるため、爆撃に切り替えた。ドイツ空軍の優れたレーダーを用いた用いた爆撃に、その後犠牲者はうなぎのぼりとなった。ザ・ブリッツにより41年5月末までに43000人以上の民間人が爆撃死亡100万以上の屋が損を受け、コベントリー大聖堂をはじめとした名だたる歴史建造物が破壊された。しかしイギリスは耐えた。当初なすすべがなかった爆撃も、次第に対策がなされるようになった。戦闘機は地上管制との連絡やレーダー解析のため、副操縦士が必須である。複座戦闘機として力不足であったブリストル・ブレニムにかわり、ブリストル・ボーファイターが導入された。レーダー基地や、監視軍団から適宜情報が入ってくる。すると眼下の巨大な地図上に、襲い来るドイツ機の現在地と規模が時々刻々、一でわかるように示されていく。イギリスの士気は保たれ、戦争経済に与える損も食い止めることができた。
 そのころベルリンでは空爆だけではイギリスを服させるのはやは無理ではないかという冷めた空気が広がりつつあった上作戦による飢餓こそが、イギリスに対する最も重要な武器である。まさにこの封鎖という言葉がドイツ人の復讐心に火をつけた。WW1の折、イギリス海軍が実施した上封鎖作戦により、ドイツ帝国を襲った飢餓の記憶は、彼らの心にこびりついていた。その結果今後の対イギリス攻略作戦は、もっぱら潜水艦体とし、イギリスを兵糧攻めする方向に向かっていく。

10月22日フランコに対しヒトラーは言った。ドイツはすでにこの戦争勝利した。今のイギリスは、ソ連もしくはアメリカに救ってもらおうと、ただ希望にしがみつく以外何もできない存在だ。そのアメリカはあと1年たたないと、戦争などできないほど準備不足である。イギリス一の脅威は、連中が大西洋の々を占領するとか、ドゴールの助けを借りて、世界各地の植民地で騒動を起こすくらいであろう。だからこそ私はイギリスに対する広範な戦線を欲しているのである。アゾレスが手に入れば、ドイツ海軍大西洋上に一台拠点を築けるが、航続距離が6000キロメートルに及ぶ新世代の爆撃機アメリカ東海を攻撃することで見ていた。

地中海の戦い

 イギリスに宣戦したイタリア軍は英領エジプトに攻め込んだが撃退された。40年11月11日空母イラストリアスによるタラン襲が行われ、イタリア軍艦3隻に魚雷を命中させ、カヴールは沈没した。12月9日よりのヴェーヴェル将軍ヘンリーウィルソン中将の「コンパス作戦」英軍の反攻では圧勝しイタリア軍13万人が捕虜となった。しかしギリシャ救援のため、3個師団が抜かれ、英軍の進撃は止まった。この時ギリシャ派遣されたのは6師団とニュージーランド軍であったため、のちに物議を醸しだした。41年2月アフリカに降り立ったエルウィンロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団の反抗が始まることになる。3月ロンメルは反抗を開始し4月ベンガジを奪回、パリ少将と多数の英軍を捕虜にし、オコナー中将とニーム中将まで捕虜にした。そもそも二人の中将を乗せたの運転手がうっかりを間違えたのがこの不祥事の原因だった。ロンメルは英軍の要塞となっていたトブルクを包囲したものの陥落させることができず着状態となった。6月に反攻を行って失敗したヴェーヴェルチャーチル更迭インド官に回した。チャーチルがいらだつのは、まず民の士気を高めるために積極果敢な行動が必要という内事情が一点、さらに今ここで強い印を与えないと、アメリカ合衆国ルーズベルトに、当面の状況から自を救い出してもらいたいだけで、アメリカの参戦を必死めるとの印を持たれたら負けであることがあった。

レンリース法の成立

1940年11月ハロルドスター大将はドックプランを立案した。大西洋で攻勢の準備をしつつ太平洋は守勢をとるという案である。レンリース法が地平線上に姿を現しており、次はまず間違いなく団護衛という段取りになるだろう。これはオレンジ計画を一変させるものであり、海軍大西洋の脅威に対抗することとなった。1941年1月両国の参謀たちが話し合いの場を持った。両国海軍部はスターク覚書の精神に基づきヨーロッパ戦役こそ死活の重要性を持つもので、独をまず倒さねばならぬと即座に同意した。しかしシンガポール海軍の一部を派遣する英国の要請は拒否した。アメリカ力を極東でなく大西洋に展開することに同意した。何よりも戦略たちは、イギリスアジア帝国を守るためにアメリカ人の血を流し、アメリカ資産を費やす気はなかった。
 英は武器貸与法の二位条項にある過酷な貸し付け条件の数々に衝撃を受けていた。アメリカはすでに、イギリスが保有するすべての固有財産の求めていた。そして、イギリスが保有する外貨準備と金準備を使い切るまで、いかなる補助も与えてならぬと提示していた。ケープタウにアメリカ海の軍が派遣され、同地にイギリスが保有する最後の金塊も運び去られた。繊維・化のコートールズ、石のロイヤルダッチシェ家庭用品メーカーのユニリーバなどの株をアメリカ側にバーゲン価格で売却されなければならず、しかもそれはその後市で転売され、その差額分はすべてアメリ国庫に入った。とはいっても反英感情から武器貸与法に批判的態度をとる人々もアメリカには相当数いた。WW1が終わった後、英両国債務行に陥り、煮え湯を飲まされ、そのことを根に持つアメリカ人投資もまだ多かったし、帝国義の他を巻き込んで自の代わりに戦争やらせる手並みではもはや名人級の見下げ果てたやつらと毛嫌いするアメリカ人も実に多かった。この恨みつらみは戦後も長い間尾を引くことになる。1940年という時点で、様々な武器発注代金として、イギリスが45億ドルもを支払ってやったからこそ、アメリカ気後退の泥沼から抜け出し、高度成長の軌に乗り、兵器の質はその後なるほど改善されたけど、1940年当時生きるか死ぬかの瀬戸際に、イギリスが買わされたアメリカ製の各種装備品の質は低く戦況を変えるのには役立たなかったとか、英領ヴァージンの見返りとして提供されたWW1期の老朽駆逐艦は大改修を経ないと洋上任務をこなせなかったとか・・・。41年3月8日武器貸与法はめでたく成立した。6月には中国にも適用されることになった。

バルカン侵攻

41年4月ドイツギリシャ侵攻、ほんの数かパン一塊の値段が200万ドラクマに上昇し、ドイツ軍占領下の最初の1年に、実に4万人をえるギリシャ人が餓死することになる。このマリータ作戦ドイツソ連侵攻に及ぼしたについて、当初の5月から6月に延期された理由については総じて、他の原因を挙げるものが多い。しかしこ作戦によりスターリンはついに確信したのである。ドイツが今回、南方を攻めたのは、対ソ侵攻作戦ではなく、スエズ運河の獲得を狙っている何よりの拠であると。
 ドイ国防軍最令部は、マル島への侵攻を検討したのは2月初旬だった。しかしヒトラはクレタ島のほうを危険視した。クレタを拠点にすれば、ルーマニのプロイェシュテ油田空爆が能になるからだ。41年5月クレタはドイツ挺部隊に襲われ、多くの犠牲を出しつつも占領された。
 ヒトラのユーゴ侵攻がごく短期間に成功を収めたことを受けて、スターリンはある種の保険をかけておこうと決めた。そして41年4月13日ソは日本と期間5年の日ソ中立条約を締結するとともに、満州国を承認した。

アフリカ戦役

イタリア軍は英領ソマリランドを占領したが、1941年1月19日から始まった英軍の反攻では策略と計略を眼に置いた。メサヴィ、ロイドリースらと並んで、ウィリアム・スリム少将は旅団長として経験を積んだ。ここでゲリラ軍団を率いて覚ましい働きをしたのがオード・ウィンゲートで、彼のギデオン部隊3000が、36000のイタリア部隊打ち負かした。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ陛下は、オード・ウィンゲートによるゲリラ戦団に率いられ首都アジスアベバに戻った。しかしイギリス政府ゲリラの成果に冷淡だった。結局この戦役で1154人の戦死者を出したものの、11月イタリア軍を降させて23万の捕虜を得た英軍だったが、赤痢マラリアが蔓延し、74550人が病気となり744人が死亡した。

イラク戦役

41年4月中東でのイギリス力が弱まったのを奇貨として、イラクドイツ政権が誕生した。5月2日イラク軍がファルージャ付近のイギリス空軍基地を包囲したことにより、ついに戦闘が開始された。包囲された空港からのイギリス空軍の攻撃に驚いたイラク軍は撤退し、インドからの師団で増強されたイギリス軍は快進撃を続けた。ウィリアム・スリム少将インド第10師団長に昇格し、英軍はファルージャの戦いに勝利した。ヴィシーフランス統治下にあるシリアからイラク軍に軍需物資が補給されたが、イギリス軍の進撃を止めることはできず5月27日バクダッドへイギリス軍が進出し、31日イラクは屈した。

シリア戦役

ヴィシー政権下のシリアレバノンに対し、ここを基地にエジプトに攻勢をかけられることを恐れたイギリス軍により41年6月8日シリア戦役が開始された。ウィリアム・スリムイラクからアレッポに進撃し、21旅団はベイルートに迫った、7月12日ヴィシー軍は降し、自由フランスの管理下に置かれた。

ウルトラマジック

 このころ、英本土ブレッチリー・パークにある諜報部隊は大きな成果を上げていた。ドイツ暗号エニグマ」のより正確な解読に成功したのである。コンピューターを発明したともいわれる天才数学者アラン・チューリングは、海軍エニグマを破るのに役立った暗号解読機の設計につながった当初の考え方の多くを提供した。解読された暗号情報は「ウルトラシークレット情報として、政府や軍の部に提供された。「ウルトラ」傍受・解読システムの改良により戦場にいる現地官に初めて、ドイツ防軍の戦術的動向が直接警告できるようになったのである。
 一方、日の外務省では39年後半になると、97式欧文印字機という新暗号機(パープルとして知られる)がベルリンローマロンドン東京間に導入されて、英国暗号技師たちに解読不可能となった。イギリスの傍受人員は極めて不足し、資料は打ち捨てられた。一方アメリカパープル解読に成功していた。これは「マジック情報として知られる。40年8月31日米国暗号について協力を申し出、12月に暫定同意が結ばれ、英国は限定的ながら「エニグマ」や空軍暗号まで解読に成功して驚異的な成果を教え、解読手段として使われた「ボンブ」と呼ばれる初期のコンピューターとともに提供された。見返りに米国より、41年2月にはパープル解読のための機械のうち1台を英国に寄贈、3月にはロンドンバーグリー外の英外交暗号解読センターパープル暗号解読が始まった。大戦中を通じて、大島駐独大使ヒトラーとの会談内容を本に伝える電文が、連合側に解読されていた。

 一方、日本海軍暗号は40年12月により高度なJN-25bに、さらに41年に入るとJN-25B7、真珠湾直前にはJN-25B8を導入した。精巧で高度な暗号化技術を用い、連合暗号技師らにとってかなり困難であった。海軍暗号解読されるのは、開戦後の42年4月まで待たねばならない。

独ソ関係悪化

アルミニウムの細粉を混合し、塩素カリウムで着火させると、に含まれる酸素アルミニウムしく反応する。の還元熱とアルミニウム化熱が重なって、1600度以上の高温を発して、をも溶かす。これはテルミットと呼ばれた。このテルミットの高熱に着し、最初に焼夷弾に使ったのはドイツである。1600度以上になるので、消火しようとをかけると水素爆発が起きて被害が拡大する。これを投下されたイギリスは、すぐさま模倣して4ポンド、25ポンドのテルミット弾とし、これをドイツ爆撃した。マグネシウムを使用した焼夷弾はマグネトロン弾と称されていた。木造屋が多い日本に対する爆弾は、テルミットのほかに、ナフサをパーム(ヤシ)化したナパーム内蔵の焼夷弾が使われた。TNT硝酸アンモニウムを添加し、爆弾を大化させることに成功したアマトール開発したのはイギリスで、これを「ブロックバスター」と呼ばれる200012000ポンドの大爆弾とし、中で炸裂させ、その爆建物屋根をはぎ取り、そこにテルミット焼夷弾を潜り込ませる戦法で爆撃した。

ザ・ブリッツと呼ばれる都市への爆がになってもなお続けられた。11月13日イギリス爆撃機軍団」はチャーチルの命に従い、ベルリンに反撃を加えた。ヴャチェスラフモロトフが訪独したことに対しての処置だった。このベルリン会談で、ドイツは独日ソ四国連合構想とその勢力圏分割案「リッペンドロップ腹案」をソ連側に提示している。リッベントロップ外相はイギリス敗北は確実で南方インドペルシア湾を攻撃し、大英帝国の分け前を分捕ればいいと促した。一方モロトフは、フィンランドは、前年の約束では、ソビエト圏に入ることになっていたのに、ドイツはその約束っていた、その非をついた。
 チャーチルは、このときを狙って、ベルリを爆撃するように令した。ベルリンに襲警報が発せられ、モロトフは、リッペントロップの案内で、ドイツ外務省の地下空壕に移り、会談を続けた。リッベントロップは、なおもイギリス敗北後の情勢について話を続けたが、モロトフは肉な口調でいった。「イギリスには、もはや戦う力がないとするあなたのお話はよくわかった。しかし、いまペルリンの空を飛んで爆弾を落としている飛行機は、一体どこ国のものです?」

 スターリンは、国したモロトフから報告をうけると、国同盟加入のドイツ提案を次の四条件がみたされるなら承諾する、と11月27にヒトラーあてに回答した。

ドイツ軍フィンランド撤兵。ただしニッケルや木材などはドイツへ輸出する。
②数月以内にソビエとブルガリアの間に相互援助協定をつくり、ボポラス、ダーダネ海峡近くにソビエトの基地をつくる。
③ペルシャ湾方面をソビエトの勢力圏とする。
④日本は北カラフトの石炭石油利権を放棄する。

スターリンは、イギリスとの戦いに手一杯のヒトラーがこの条件をのむだろう、と考えていたようである。
 この条件はヒトラーから見れば、到底許容できない内容だった。特にフィンランド問題では独ソの害が鋭く対立していた。12月8日ヒトラはバルバロッサ作令を下した。

海軍大臣チャーチル ドイツを攻撃しようとしております! ほう、それはどういう根拠でいわれるのかな?
海軍大臣チャーチル それはウルト…、コホン、とある信頼できる情報からですぞ (ふん、イギリス得意のささやき戦術だな、独ソを争わせようとしたいのだろう)

 イギリス側はソ連に対し、ドイツの対ソ侵攻にその旨順次警告を発してきたのだが、スターリンは一蹴してしまった。その年の初め、ヒトラーからの書には、ドイツ軍西方移動は単に英爆撃機の航続距離の外側に部隊を置くための措置に過ぎないとあり、それで納得していた。リッペンドロップ外相はスターリンチャーチルに対する疑心を巧みについて見せ、おかげでイギリス側がバルバロッサ作戦についていくら警告しても、スターリンには逆効果しか生まなかった。スターリンは、独ソが戦争になり、ファシズム共産主義が共倒れになるのを狙った資本主義の陰謀があると信じており、その誘いには一切乗るつもりがなかった。独ソ不可侵条約が機していた期間中、26000トンクロム、14万トンマンガン、200万トンえる石油が供給され、イギリスの封鎖をかいくぐり東南アジアで調達された食料や燃料、綿や各種の金属までドイツ側にわたるケースが増えていった。

日ソ中立条約の成立

41年2月下旬大島駐独大使から、独ソ関係悪化を示唆する報告が届いた。4月1日大島ヒトラーソ連邦の態度を痛罵し、現在150個師団の兵力をソ連に対し配置している旨の発言を行ったことを日本に伝えた。大島ベルリンからモスクワに向かう松岡に、独ソ開戦の可性を摘、日ソ不可侵条約の締結を思いとどまるよう発言した。だが松岡大島の意見を受け入れなかった。4月13日日ソ中立条約が成立した。

41年には「ウルトラ」によってドイツの多くの師団がバルカン半島に移ったことが分かった。6月4日大島日本政府への電文で、英政府ドイツが間違いなくソ連攻撃を踏み出すという最後の確信を得ることができた。英政府暗号研修所に統合された英国と違って、米国では陸海軍がばらばらだった。海軍暗号解読部門と協力するのはようやく42年2月になってからだった。

日本の外交と諜報

1941年には中国戦線は着状態となっていた。日本中国北部や沿部を占領したが、政府重慶首都疎開させ、中国共産党は陝西に移動した。日本軍鉄道沿線と都市は支配したが、広大中国の農部には支配が及ばなかった。また1940年3月汪兆銘の政府立されたが、中国民の大多数の支持は得られなかった。しかし国民党中国共産党の協力も、皖南事変により効果的なものではなくなっていた。日本軍上海武漢重慶などの大都市戦略爆撃を行い、特に重慶では1938年2月より1943年8月まで行われた爆撃では、国民党政府の防政策の不備もありおびただしい民間人死者を出し、都市を荒させた。独ソ戦により、日本軍北方で再び兵力増強に動くことを恐れたスターリン中国共産党に大規模なゲリラ戦を展開するように要請した。毛沢東は了解したと請け合ったものの、まったく何もやらなかった。1940年作戦日本側が支配する鉄道や鉱山に相当程度の打撃を与えることはできたものの、共産党にも多大な犠牲を強いた作戦であり、国民党漁夫の利を得させたからである。共産党アヘンの販売により国民党と戦う軍資金を作っていた。一方1941年支那方面軍岡村寧次大将共産党が活動基盤とする地域に三と呼ばれたパルチザン掃討作戦を実施した。日本軍は自軍が奪いつくせなかった収穫物は、すべて焼却処分にし、強制労働、飢餓が中国共産党活動基盤地域を襲い、人口は4400万人から2500万人に減した。日ソ中立条約後もソ連の軍顧問団の派遣は続けられ、ヴァシリー・チェイコフ将軍の元およソ1500人もの赤軍将校が中国において活動し、スペイン内戦の時と同様実戦経験を積んだり、新たな兵器システムの評価を行った。1941年の長沙作戦ソ連のチェイコフ将軍の考案した範ゲリラ戦闘が功を奏し、日本軍は相手方を上回る犠牲を出して敗北した。イギリスもまた国民党ゲリラ分遣隊に武器提供したり、訓練を施したり、諜報活動を行った。アメリカも退役軍人のクレアシェンノートの元、ボランティア部隊フライングタイガースなど側面支援を行った。

交渉の開始

1940年1月26日の日通商航条約の失効以後、日条約状態に突入していた。アメリカは三同盟及びソ連ユーシアブロック出現に脅威を感じて妥協に傾き、日交渉開始の諒解案について非公式野村大使と交渉、提案を進めた。日ソ中立条約締結4日後の41年4月17日野村三郎大使から「日諒解案」が打電されてきた。これは両国の友好関係の回復す全般的協定を締結しようとする趣旨のもので、アメリカの対独参戦時の日本側対応(自動参戦しない)と引き換えに、アメリカが「中国による満州国承認と中国からの日本軍の撤兵」などを条件に日中戦争の和を仲介し、日本の資確保に協力し、日両国の通商関係を正常化するという内容だった。しかし野村大使ハルの4原則(領土保全と権尊重、内政不干渉、機会均等、太平洋現状維持)を本に意図的に伝えなかった。
この諒解案は陸軍武藤田中においても、華北への駐兵が保されないことに不安を感じつつも、歓迎された。この諒解案は松岡外相不在時に作成されたが、松岡外相が修正し5月12日米国に提案された。6月12日側回答は参戦の問題、日中間の協定による中国からの日本の撤兵、日併合、満州国に関する日中間の交渉などが挙げられており、陸軍武藤らには到底受け入れられない内容となっていた。独ソ開戦の確信を得た側が態度を硬化させたのである。

諜報

イギリス諜報部が日と異なるのは、情報を狭い範囲でなく、広く配布し(漏洩リスクが高まるものの)、検討を広く行い、政策に効果的に反映させた。一方米国ではこの時期は大統領マジックを通しておらずハル長官と一部の軍官のみであった。また、英国外交官が持っていた機密活動費がないなど、外交官や駐在武官のスパイ活動は禁止されており、情報はもっぱら開された新聞外交官が招かれる見学旅行などによった。1937年日中戦争がはじまると日本に病的なスパイが高まりだし、以前は開されていたようなものもベールに覆われだした。

 戦前日本イギリススパイは活躍できなかった。憲兵の取り締まりが厳しく、1941年までにイギリスジャーナリスト、コックスをはじめ十数名の在日イギリス人はすべて逮捕された。在日武官ピゴットは日本スパイと本に疑われたくらいだった。イギリスアジアにおける情報治安活動が人員不足により慢性病的状態であった。しかし香港を中心とした通信傍受と暗号解読較的うまくいっており、満州事変時の事件が事前に仕組まれていたことは、通信傍受から英側には明らか読み取れた。日本国家主義スパイ強迫観念にとらわれており、日本の一般市民スパイ強迫観念が強まって、外国人はすべて恐るべき監視下に置かれた。開された場での合法的な偵察に活動を限定したものの、38年10月にはTAピーコック中尉日本行方不明となり、40年7月にはスパイ容疑で15人の英国人が逮捕された。逮捕3日後コックスは尋問中に死亡した、コックスの遺体の腕には20本の注射の跡があった。
 英のスパイ活動は全くうまくいかず、英国の得る情は海軍暗号と外務暗号に偏っていた。一方、イタリの香港駐在の外交団が、日本に対し傍受戒を呼び掛けていたが、日本は自分たちの暗号システムに自信過剰で、結果的に日本軍隊にありきたりの戒を呼び掛けただけに終わった。それでも、日本海軍は時折暗号を変更し、情報入手が一時的に途絶えてしまう事態が起きた。1939年にはついに安全なJN-25暗号に切り替えた。同じころ、シンガポールなどの在留日系スパイ活動、妨活動を自由に行える可性がシンガポール総督によりロンドンに警告されたが、欧州中東を優先させる傾向の元、対応不能と放置された。
 英国は現地語をマスターした分析官が日本の動向について優れた報告をあげたにもかかわらず、そうした予測はほとんど無視された。イギリス情報部は日本軍の精強さ、航空戦力の優秀さを報告していたが、極東英令官のポパムやパーシバルはは中とソ連で手いっぱいで弱体と考え、また日本軍を見くびっていた。英がマレーに置いていた兵力は未熟な軍隊であり、落日の大英帝国の遺物のような人たちだった。マレーには戦車も型航空機もなかった。

 一方、日本スパイ活動は大きな成果を上げていた。くも1938年段階で各地の大きな在留邦人社会を利用して、日本が大掛かりな秘密工作東南アジア全域で進んでいるのは明らかであった。しかしそうした動きはあちこちで散漫な形で進んでおり、日本人を一斉に収容所にでも入れない限り対応はむつかしかった。東南アジア一帯で在留邦人が大規模なスパイ網を形成しているのは常識となり、フィリピンのケソン大統領が42年になって、自分の側近のうち何年も務めていてくれた二人が、実は日本陸軍大尉だったことに気づいたのが一例だ。1939年6月シンガポールで行われた英戦略協議では、その内容を会議からたった2日後の7月29日情報工作員からの報告を打電する日本の領事線を傍受した「日本と開戦となった場合、香港は維持できないので、英艦隊はシンガポールに集中することになる。これは極東でのフランスの権益放棄を意味することになる。それがためにほんとの正面衝突は極力避けねばならない」。イギリスは悄然とした。情報香港政庁情報局で働くリュー・ウェンティ友人とされたイタリア情報機関が使っていた人物とみられた。40年フランスの降とともに、タイ政府フランス弱体化を付け、41年初めにヴィシー政権紛争を起こした。シンガポール総督であった、サー・シェントントマス日本の介入を恐れ英国導で秘密介入を行ったが、日本突然脅迫的な手段でこの紛争に調停案を押し付けてきた。「秘密」であるはずの仲介工作に関する日本側の情報は、タイではなく、シンガポールで得ていることが分かった。驚くべきことに、日本スパイとして雇った英軍将校らは、マレー作戦が始まっても日本に協力していくものさえいた。代表的な例はパトリック・ヒーナン大佐だ。マレー作戦が始まると、小規模な英空軍の移動や展開などの運用の詳細を隠し持っていた線機で連絡した。
 バンコは日の情報活動の中心となり、1941年には50人の外交官が活動し、英領マラヤと境に近い蔵地峡に、複数の新しい領事館が設けられた。イギリス諜報部は40年8月、実はタは日本に取引を持ち掛け、かねてからほしかった隣のフラン領インドシナの一部をもらおうとしていたのが明らかになった。9月18日には日の陸軍参謀本部はバンコク駐留の害活動部隊を作り、現地の情報活動責任者であった田浩大は藤原岩市少とインド独立連盟のブリタ・シンに引き合わせた。41年を通じ、日のラジオ局を通じ、汎アジ主義宣伝工作を強力に推し進めた。日本の宣伝工作活動は見事なものであった。のちにマレー作戦が始まると、英印軍の一部の部は日本軍に進んで投降することになる。44年4、英国統合情報参謀本部は捕獲文書や捕虜尋問に基づいた資料を使って、日のマレー作戦を振り返る研究をまとめた。「日本の成功の最も重要な要素を一つだけ挙げるとすれば、何年にもわたって研究を重ねて得た作戦地域に対する詳細な知識である」これは実に決まりの悪いことであり、チャーチが戦後に実施すると約束していたシンガポール陥落の原因調査をやめることにした、理由の一端が説明できそうだ。日本側はスパイ活動がうまくいっていたので、暗号解読にそれほど切迫した必要を感じていなかった。

 また独との連携も効果を上げていた。商オードメン号はアフリカに駐在するイタリア線傍受部隊に捕捉され、インド洋でオランダ商戦を装って航中のドイツの高速アトランティス号に伝えられた。アトランティスは40年11月11日にこの獲物を撃沈した。大金庫にはシンガポール向けドル600万ドルに加え、ブルック・ポパム英極東軍官あての戦時内閣報告書が入っていた「シンガポールの問題点を詳細に摘し、本軍事参謀が大いに戸惑っている、しかし欧州中東の戦況による制約から、この問題に対応できない」と極秘に明かしていた。アトランティス号は40年12月5日日本に到着し直ちにベルリンに移送され、独武官ヴェネガ少将から海軍部次長近藤竹中将に手渡されている。この情報英国統合参謀本部のプランによれば、日本印に侵攻しても武力的抵抗を行わないとしていたため、日本の南進を促した。さらにこの情報日本軍シンガポール攻略の自信を与え、真珠湾の同時攻撃する挙に出ることを検討させるきっかけになったという。戦後になって、英国特別防諜部隊が残された文書をめてベルリン廃墟を丁寧に掘り返し、失われた報告書の原本を見つけた。表にはヒトラー自身の直筆の筆跡で所見が走り書きされていた「これは第一線の重要文書であり、東京ドイツ海軍駐在部隊のもとに送るべし。」

独ソ戦の開始

1941年6月22日バルバロッサ作戦が発動された。ソ連軍は敗退し、何万人もの兵が死亡し、また捕虜となった。チャーチルは直ちにソ連に対し技術・経済の援助を約束した。「ウルトラ情報も出所についてしかるべき偽装を施したうえで、ソ連側にも提供されるようになった。

イギリスレンリースは直ちに開始され、本だけで400万トンに及ぶものだった。ドイツ軍ソ連を侵攻してから数週間以内に最初の英国救援隊がムルマンスクへ出発し9月に到着した。それは港の即時の防提供し、ソ連パイロットを訓練するために、550航空人員と40のハリケーンを運んだ。とはいえチャーチルが安請け合いした約束量よりずっと少なく、スターリンの不信を招いた。1941年末までに、マチルダバレンタイン等の戦車の初期出荷は、赤軍のために生産された中重戦車の25以上を占め、12月モスクワ戦の重及び中戦車の30〜40パーセントを構成した。1945年5月までに、英国ソ連に3,000以上のハリケーン、4,000以上の他の航空機、27の海軍船舶、5,218戦車カナダから1,380のバレンタインを含む)、5000 +対戦車救急車トラック4,020台、115ポンド相当の航空機エンジン、1,474レーダー、4,338ラジオセット、600海軍レーダーとソナーセット、数海軍ブーツ1500万ペア 食糧や医療用品を含む戦争用物質をレンリースした。1942年6月27日の英ソ連軍需品協定によれば、戦争中に英国からソ連に送られた軍事援助は全に無料だった。

イラン戦役

多数のドイツ使節団がテヘランに構えており、英ソは8月17日ドイツの使節団の外追放と鉄道の使用を要した。英国の実力行使を明言した最後通牒に、イラン国王レザー・シャーはルーズベルトに仲介をめた。ルーズベルトチャーチル8月14日大西章を発表し、領土の不拡大・不変更、民族自決自由な貿易などをうたっていたのである。しかしルーズベルトの返書は連合側に協力するよう要望するにべのないものだった。8月25日英軍は宣戦布告なしに奇襲侵攻した。エドワード・キナンウィリアム・スリムする英軍により、アバダンの製所は1日で占領され、4日で片が付いた。ペルシアは屈し、あらゆる抵抗の停止、ドイツ人の追放、戦争における中立ロシアへの戦争物資輸送のためペルシア回廊を使用することを飲まされた。

8月チャーチルルーズベルトは会談を行った。9月5日チャーチル経由でスターリンからの書簡を受け取った。それには独ソ戦によるソ連の惨状を綿密につづったもので、ソ連は死滅寸前の敗北危機にある旨が記されていた。破局を防ぐためには、ドイツの背後に第二戦線を設ける必要があること、またアルミニウム航空機戦車などの緊急援助がスターリンからの要請だった。これがないと、ソ連は長期抗戦力戦力を失い敗北するとしていた。ソ連は鉱産物に恵まれだが、当時はボーキサイトネックがあった。41年6月から44年4月までにアメリカは9万9000トンイギリスは3万5000トンカナダは3万6000トンアルミニウム地金をソ連に送り込んだ。これは大戦中に日本が生産したアルミニウムの40以上に相当する。ルーズベルトによる対ソ支援は、物量の面で惜しみないだけでなく、純に利他的動機に裏打ちされていた。レンリース法をもとにソ連に援助を与えることは手続きに時間がかかったが、いったん始まってしまえばその量も規模も途方もないもので、ソ連の最終的勝利に大きく貢献した(ロシアの大半の歴史は、この事実を認めることを、いまだに嫌っている)。戦争の後半、赤軍があれだけ進軍を実現できたのは、アメリカ製のジープトラックのおかげである。

戦争中のソ連へのレンリースは、アメリカだけで1630万トンに及ぶものだった。最短でありレニングラードモスクワ戦場への直接ルートである北極ルートは、それはまた最も危険だった。米国からだけで396トンが出荷され、93が安全に到着したのに対し、7が失われた。太平洋ルート1941年8月に開港したが、真珠湾攻撃による日間の敵対行為のを受けた。1941年12月以降、ソビエトのみが使用され、日本ソ連が互いに厳密な中立を見ているので、非軍事品のみを輸送することができた。それにもかかわらず、824万トンが輸送された。ペルシア回廊1942年までは全に動作せず、最長ルートだったが、最も安全なルートだった。軍事品も輸送できたこのルートでの連合の補給活動は大なもので、アメリカだけで422万トン英国・英領インドカナダ英連邦も合計で800トンに達した。ペルシア回廊は、コーカサスに対するドイツの攻撃に対し大きな役割を果たした。

日本の南進

 日本軍部のほとんどの導者は独ソ戦の急転に驚愕し、ヒトラーが相談しなかったことに憤慨した。田中新一作戦部長は、独ソ戦によって三同盟と対ソ提携の連携は消失し、日交渉への日ソ中立締結効果も一気に弱まり、日独による対けん制力も急に低下、英ソによる連携にて日本は大きな圧力を受けることになるとみていた。そのような際的な窮地から脱却するは、ソ連を打倒するしかない。そしてドイツをふたたびイギリスに向かわせ、日本南方武力使とともに大英帝国を崩壊に導き、アメリカを孤立させる戦略を考え、「関東軍特殊演習」や南部印進駐など、そのための方策を打ち出していくことになる。一方武藤軍務局長は、ソ連は領土が広く人口が多く、共産党による一党独裁の個人より全体優先の素晴らしい政治組織などから、容易には屈しないとみていた。田中新一の「好機」論を警してかかったのである。武藤ら多くの陸軍導者および海軍は南進を続けるべきと考え、南部印進駐に賛同した。南進すれば日本が必要とする資を確保でき、絶対不敗の体制を固めることができる、と考えていた。

関東軍特別演習

 田中作戦部長は関特演を推進した。東條陸相の承認の下、関特演の動員が7月6日と16日に分けて発せられた。総兵力85万、15万匹、徴用90万トンに上る大動員が実施されたのである。極東ソ連軍の半減などの条件が整えば、対ソ武力行使を実施する考えだった。だが極東ソ連軍の西方対独戦線への移動は田中の期待通りには進まなかった。7月中旬の段階で西送されたのは開戦前の30師団のうち5個師団程度、航空機戦車その他の機甲師団は3分の1程度にとどまっていた。

会商の打ち切り

 1935年より、日本オランダ領東インド進出をしていた。同地の石油は極めて重要であった。日本1940年ドイツに本土を占領されている印に圧力をかけ資提供めた(第二次会商)。石油をそれまでの輸入量65万トン/年に対し、380万トンを要し、他の必要物資の自由開発、納入も要したが、1940年10月交渉では200万トンが認められたのみであった。さらにゴムマンガンの輸出量がドイツへの輸出を警されたため要量より大幅に少なくされた。一方、オランダ亡命政府のある英国ではドイツ差別爆撃を食らっている最中であり、現状の倍以上の膨大な石油輸出容認は問題とされ、印を「裏切り者」と称された。日本側は亡命政権のある英国に圧力をかけ、1941年5月英クレーギー大使との会談の席上、松岡洋右外相は断じた。

松岡外相「印の如き弱小国日本に対してドイツに再輸出しないとの保を要するとは、大日本に対するヒューミリエーション(屈辱)なり!。日本は断じて保を与えず」

情勢は変わらず、1941年6月日本側へ交渉打ち切りを通告した。

松岡外相は独ソ開戦後、直ちにドイツと共同してソ連を攻撃することをした。また日交渉の打ち切りを強くした。しかし近首相や陸海軍とも対立した。そこで近衛はいったん総辞職し、松岡を排除する形で7月18日三次内閣を組閣した(当時首相に閣僚罷免権はなかった)。松岡は独自の政治勢力を持っておらず、その発言力は近衛首相の信認によっていた。したがって、この後松岡は急速に政治力を失っていく。

印進駐

1941年6月24日南方作戦が閣議決定され、海軍は対英戦を辞さずと語した。7月2日の御前会議で正式に南進の方針が確認された。7月4日イーデン外相は東京からベルリンへの暗号解読情報に接し、アメリカに共同警告に申し入れたが動かず、英国単独の警告となった。イーデン外相は上海発の情報として「デイリーレグラフ」に日本の南進の情報リークし、その記事を自ら取り上げてクレイギーに示、7月5日レイギー大使大橋忠一外務次官を訪問し、イギリスの懸念を伝えた「右が事実なら英国としては極めてシーリアスな問題と考えうる」。しかしアメリカの参加しないこの警告は日本の南進の抑止には何ら役に立たなかった。東京からバンコクへの訓電は南印進駐を占領と表現し、英が介入すれば武力衝突も辞さずとした。対日抑止が不可能となった英国アメリカと協調し、アメリカが対日制裁を行った後にアメリカより控えめに行う方針とした。

日本情報の出どころにショックを受け、英国諜報網のスパイを恐れ、松岡外相は、東京で交渉を行って情報が英に漏れることを恐れ、パリでの交渉を示、パリでの交渉のため東京から逐一訓電を送る事態とない、かえって英に筒抜けになった。7月9日ハリファクス駐大使がウェルズ務次官と話し合い、ウェルズは大統領に対日制裁を提案した。21日には英で対日共同制裁のコンセンサスが成立した。

7月14日日本大使は、ヴィシー政府に、航空基地の建設とサイゴンほかの港湾設備と海軍基地としての使用管理、必要な兵力駐屯などを要する。さらに19日フランス側の同意・不同意にかかわらず、24日には進駐を実力で開始するとの最終的回答要を示した。21日フランスはやむなく進駐を受諾した。7月26日アメリカは在日本資産凍結を発表、24日アメリカ印の中立化を提示し、石油禁輸を警告したが、かまわず7月28日進駐し、航空基地をはじめとした各種軍事施設を設営した。これによって東南アジアイギリス最大の根拠地シンガポールを直接爆圏内に収め、さらなる南方作戦のための艦隊基地を獲得したのである。アメリカにより8月1日石油の禁輸が決定された。同時にダグラス・マッカーサーを現役復帰させ、極東陸軍官に任命した。イギリス7月27日に日英通商航条約の破棄を宣告し、イギリス連邦よりも経済制裁が発動された。結果、オーストラリアイギリスアメリカ亡命オランダ政府いずれも、継戦に必要である、鉱石石油などの販売を停止することになった。日本政府は、これらの禁輸を侵略行為とみなし、軍の宣伝のメディアは禁輸措置をABCD包囲網と名付けた。8月24日チャーチル日本の南進が戦争を招くことを警告した。日本英国レイギーに「南進は資のためであってイギリスと対立するためでない」と説明したが、ドイツには「進駐は英に対してより圧力をかける」と説明し、これが英解読されていた。英外務省政治情報部「ドイツに伝えたのと全く異なる話ではないか!」。日本外交は組織の論理、陸、海軍外務省妥協の産物であり、どこに日本意があるかわかりにくかった。

日本南部印進駐の動きを知ったハル務長官は7月23日ウェルズ務次官に「日交渉の最中にこういくことをしたのだから交渉を継続する基礎はなくなったと思う」と述べた。同日ウェルズは野村と会談し、ここに日諒解案に基づく日交渉は打ち切られた。近内閣中立化案に対して、8月初め再び包括的な対提案を作成した。しかし進駐を進めながらでは当然相手にされなかった。近衛はあきらめなかった。6月の「対南方施策要綱」で全面的な対日禁輸措置を受けた場合は南方武力行使すると決められていた。近は日戦争は絶対に回避すべきだと考えており、ハワイでの首会談を提案した。直接首会談により、陸海軍幕僚の介入を排除して、中国からの撤兵や三同盟の実質的破棄など、思い切った対譲歩を行い、陸海軍の頭越しに直接天皇の裁可を受けて承認、決定するというものだった。9月3日アメリカから近提案に対する回答が提示され、趣旨として賛成であるとしながらも、会談開催に先立ち、これまでの懸案事項に日間に一定の合意が必要だとしていた。合意が必要とされた基本的事項の一つとしてハル4原則が挙げられていた。さらに「特定根本問題」として、中国撤兵問題、三同盟問題、通称差別原則の問題なども示された。この段階で近の意図は泡に帰したといえた。日本政府アメリカの回答を受け、改めて対提案の作成を始め、陸海軍の意見も含めた包括的な総合整理案の作成を進めていく。

なお田中作戦部長は計画を断念せず対ソ武力行使を実施しようとしたが、南印進駐に伴う石油対日禁輸に伴い、参謀本部は対ソ武力行使を断念する方針を決定した。関特演は独ソ戦の苦戦が伝えられソ連の屈を恐れ大量の援助を行っていたアメリカイギリスにも強い危機感を抱かせていたのである。石油禁輸は日本の対開戦の危険をはらむものであったし、アメリカの対日戦準備は未完成な状態であった。にもかかわらずソ連軍の崩壊を食い止めることのほうがが緊縛の課題であり、ルーズベルト大統領も禁輸に同意せざるを得なかったのである。

内閣退

シンガポールはほぼもぬけの殻だった。英海軍大西洋と地中海の戦いに割かれ、北極においてもロシア向け補給物資を積んでムルマンスクを団護衛をこなさなければならず、極東方面に艦隊を派遣する余裕などなかったのである。さらにチャーチルソ連支援を明言したことにより、イギリス極東部はそのあおりを食って、近代的な航空機戦車、その他諸処の装備が底的に不足していた。シンガポール防衛の放棄は豪州激怒させており、チャーチルは何らかの対応を取らざるを得なくなっていた。

田中ら参謀本部は北方武力行使の延期を決定した8月9日即日、11月末を標に南方への対作戦準備を促進する「帝国陸軍作戦要綱」を決定し、8月13日には「南方作戦構想陸軍案」をまとめた。それは12月初旬に開戦し、翌年5月までに香港マレー半島シンガポール・ボルネオなどの英領、フィリピングアム印の攻略完成する。開戦に向け9月中旬から11月末までに必要な兵力の動員と集中を行い、輸送用船舶150トンを重用する、などの方針を内容としていた。海軍石油禁輸によって窮地に立ち「帝国策遂行方針」を作成し8月16日陸軍に提示した。その内容は10月中旬をめどとして外交妥協が成立しない場合実力発動の措置をとるとするものだった。田中新一はこれを受け、戦争導班にも即時戦争決意を確立する必要があると強硬にした。田中戦争決意がで、外交は従だとの見地に立っており、田中の容認できる内容での外交的妥結の可性はほぼなく、したがって対交渉は開戦企図を秘匿するための「偽装」外交にとどめ、戦略としては戦争一本に絞るべきとの意見だった。即時戦争決意案は陸軍省に提示されたが、武藤らは戦争決意に難色を示し、両者の会談により8月25日陸軍案がまとめられた。その子は
①対米戦争を決意し10月下旬めどに戦争準備を整備。この間外交で手段を尽くし徹に努める。
②9月下旬に至っても求が徹し得ない場合は対蘭開戦を決意する、というものだった。
 8月30陸海部局長会議が開かれ、議論の末、9月2「帝国策遂行要領」陸海軍案が決定された。変更点は「決意」が「辞せざる決意のもとに」に変更され、開戦決意の時期が9月下旬から10月上旬となったことである。9月3日大本営政府連絡会議が開かれ、御前会議に提案す国策の原案が承認された。そこで陸海軍案の「求が徹できない場合」が「求を徹す目途のない場合」に修正された。9月5日閣議決定され、9月6日御前会議が開かれ、41年9月6日の重大な御前会議で、永野海軍部長いうちにこちらから先手戦争を仕掛ければ、連合会軍を破ることができ、南西太平洋の資地帯を占領し、長期戦の基礎ができる。今なら2年分の600万トン石油があると期開戦を、閣議決定「帝国策遂行要領」が承認された。この決定はその後の日本にとって極めて重大な意味を持つものになる。

41年9月12日山本近衛首相に会い、前年9月の時と同じように聞かれた。

近衛文麿首相「万一交渉がまとまらなかった場合、日戦での海軍の見通しはどうですか」 山本五十六「ぜひ私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れる。しかし、その先のことは、まったく保できぬ。もし戦争になったら、私は太平洋を縦横に飛び回って決死の戦をするつもりです。総理も死ぬ覚悟で一つ、交渉にあたっていただきたい。」

1年前と違うのは期間が半年長くなり、楽観的となり、山本真珠湾奇襲作戦にのめりこんでいったことがわかる。10月11日には、各指揮官を前にして山本は「私が連合艦隊長官である限り、ハワイ作戦はやる」異論は一切許さないと強い口調で申し渡した。大西田は、敵の意表に出なければ成功しない、機密保持が第一要件であり、投機的すぎると反対したが、奇襲による外交的・政略的なまずさについて摘するものは皆無だった。山本嶋田手紙を書き、米国海軍および米国民をして物心ともに当分断ち難きまでの痛撃を加えることを、逆に米国機動部隊による日本本土襲で全が大騒ぎになることをひどく恐れている。山本は大航空兵力でハワイ米国艦隊をたたけば、アメリカは物心とも当分立ち上がれなくなり、南方作戦スムーズにいくし、日本本土も襲されずに済むということを強調した。嶋田は「山本戦争反対のようなことを言っているが、結局真珠湾攻撃という大博打を打ってみたいのだ」とみて許可した。

8月9日チャーチルニューファンドランドルーズベルトと直接会談した。14日に有名な太平洋章が発表され、英の協力体制を世界に向けて誇示した。東アフリカ中東の枢軸はことごとく英軍に敗北し、上封鎖もアメリカ支援により全ではなく、英独航空戦も次第にイギリス優位に傾ていた。ドイツ日本シンガポールへの攻撃をせかしていた。対して日本ドイツに対宣戦を要請していたが、8月23日ベルリンでディートリッヒ独衛隊中将大島大使に、ヒトラーが日戦争に際には対宣戦布告を行う用意があることを伝えた。そしてこれは英国に傍受されていた。このことが英国の対日強硬路線にしたと考えられる。日開戦となれば、アメリカを対独戦に巻き込むことができるのだ。
 8月24日チャーチルは米交渉がうまくいくことを祈りつつも、期待を打ち砕かれた時ためらいなくアメリカ側に立つと宣言した。英国海軍は非常にためらったのち、シンガポールにあるレパルスの僚艦として、プリンス・オブ・ウェールの派遣に同意した。空母インドミタブルは西イン島における航試運転の際に座礁のために損傷し合同できず、他の空は欧州情勢から極東に派遣できなかった。英海は戦略的に意味のないこの派遣に大反対だったが、チャーチルやイーデン外相は政治的な意味を見出していた。シンガポールの兵力増強がようやく始まった。英国の態度は硬化し、日本との関係を犠牲にしてもアメリカに追従するようになった。11月10、チャーチはアメリが日本との戦争に巻き込まれた場合、イギリスは一時間以内に対日宣戦布告をするだろうと宣言した。

きっと情勢が変わって、軍部の支持は落ちます。民は日中戦争にうんざりしていて、自給体制の追及は虚妄であると気づきます。妥協を…
クレーギー英大使
(´・ω・`)「本政府の肚はお分かりのように、すでに決まっており、もはや説得のため自分の働く余地はなくなった。」_| ̄|○ ガク
アメリカからの妥協や、友好意思表示があれば、その効果できっと日本の穏健が力を持てます。々はまた仲良くなれるんです…
グル大使
同盟は々も望むけど、穏健の台頭はどうみてもありえなさそうだ・・・、HAHAHAHA、今やを追っているようなものだなあ。

日本政府民も吉田の述べるのとは全く反対の方向に動いていた。農は変わらず貧しかったものの、日本大陸での戦局は勝利に次ぐ勝利として民に宣伝され、軍部への支持は盤石となっていた。吉田はあきらめなかった。要職を占める様々な個人との連絡網で最上層部で行われる決定について最新の知識を持っていた。その顔触れは牧野伸顕、樺山忠雄、木戸幸一内大臣、岡田啓介、若槻礼次郎の元首相三井坂東池田斉昭など。ほかに幣原喜重郎、佐藤尚武、小畑良、東郷茂徳などの外交官も加わっていた。このため9月6日の重大な御前会議で、対交渉が満足すべき結論に到達する期限を10月初旬までと定め、その後対開戦を決意すという内容も知っていた。

御前会議の決定には天皇もよほど不満で、このあと陸軍省に戻った武藤軍務局長は「戦争などとんどもない」と言って速記録を読み「これは何でもかんでも外交を妥結せよと仰せだ。ひとつ外交をやらなければならない」と部下に話すと、を潜めて付け加えたという「どうせ戦争だ。だが、大臣や総長が天子様に押し付けて戦争に持って言ったのではいけない。天子様がご自分から、お心の底からこれはどうしてもやむを得ぬと諦めになって戦争の御決心をなさるよう、ご納得のいくまで手を打たねばならぬ。だから外交を一生懸命やって、これでもいけないというところまでもっていかないといけない。」。しかし外交の猶予期間は1かであり、望み薄だった。またこの武藤の発言と同じころ、服部卓四郎作戦課長が「陸相は何度でも参内し、「開戦の必要」を説くべきだ」と述べた。この方針はうまく行き、陸軍責任回避に貢献した。戦後連合軍による戦犯裁判で、開戦犯の田中新一や服部卓四郎が追及もされず、東郷茂徳や木戸幸一といった文官が戦犯として厳しく断罪されることになった。
 
服部卓四郎と田中新一、辻政信が開戦を強力にした唱者であった。田中新一は永田の考えに賛同していたが、石原莞爾の日による世界終戦論にも強く執着していた。「雄渾で説得力に富んだ未来像」だとし「多くの魅力を感ぜざるを得ない」と述べている。すなわち大東亜戦争は対持久戦の準決勝であり、最終戦に生き残るには中国東南アジアを占領下に置き、その資によって自給自足体制を確立し、アメリカとの長期持久戦を戦い抜く。軍政下での税収その他の現地収入を財に充てると同時に軍の現地自活を図る(まさに石原の言う「戦争により戦争を養う」考え方である)。また辻政信は対戦に自信を持っていた。

日ソ両軍激突 米国を怖がることはない。34年も戦争がつづけば戦争をやめる。米国は婦人優先のだ。戦争が長引けば、婦人の口から停戦のがあがるよ。……それにアメリカは複雑な人種だ。到底長期戦に耐えられない

その翌、東久邇軍事参議官は東條陸相に日交渉に協力するように説いたが、東條はかたくなだった。

アメリカ日本に、支那より撤兵して事変以前の状態に復することなどを要しているが、陸軍大臣として、大陸で生命をささげ英霊に対し、絶対認めることはできない。 東久邇 天皇及び総理が日会談を成立させたいというのだ
見解の相違である。日本がじり貧になるより思い切って戦争やれば、勝利算は二分の一であるが、このままで滅亡するより良い

と言い捨てて引き揚げていった。ワシントンハルはキャンベル英産次官に対し「近衛首相アメリカとの関係改善を切に望んでいるようだが、彼は政府内の強硬を統率していけるとは思えない。したがってこのような首相の言葉は実行を伴わない」と伝えており、日交渉妥結の見込みはほとんどなかった。9月17日吉田茂は非礼をかえりみずに近手紙を書き、ドイツは長期戦になる様子で、その結果が不利なことは言うまでもなく、近衛日中事変収拾の失敗を責め、名誉を守るため辞職を勧めた。

10月2日ハル務長官からアメリカ側回答が示された。そこで改めて「四原則」が示されるとともに、三同盟での態度の鮮明をめ、さらに不確定期間の中国特定地域に軍隊を駐屯させる要望は容認し得ず、日本軍印及び中国からの撤退を明確に宣言する必要があるとしていた。三同盟は自動参戦の協定は自的判断に任されており大きな障害とならなかったが、撤兵は到底陸軍が受け入れられるものではなかった。強硬陸軍参謀本部や海軍部の幕僚は「10月上旬がめどだったのだから、戦争に突入すべきだ。」と近衛首相東條陸相は次第に険悪な会話を繰り返すことになった。10月7日ついに近衛東條を説く

9月6日の御前会議を反故にし、8月の段階から考えなおそう、対戦の直ちにを再検討しよう 絶対にできない、それでは御前会議の意味がないではないか
軍人はとにかく戦争をたやすく考える、私にはわからない 国家存亡の危機には人間たまには清水舞台からをつぶって飛び降りることも必要だ

東條陸相は妥協を全く受け付けなかった。

交渉はおやりになるがよろしい、ただし期限は統帥部要望の10月15日である。15日には和戦の決定をとれ 軍人だけで戦争をするがいい
御前会議で決めた10月上旬が迫っているのだから、決めた通り戦争しかないではないか ・・・

10月10日陸軍省に「宮中、近衛、外務、海軍連合人で陸相を圧迫し、10月2日米国覚書をうのみにせんとの気配がある」との情報がもたらされた。陸軍は態度を硬化させ、陸軍武藤軍務局長東條が「駐兵は最後まで頑る、定があっても頑る」と天皇の命さえはねつける決意を固めていたから、絶望的となった。10月12日の5相会談でも14日の閣議でも東條は強硬に駐兵を東條陸相は「陸軍は引導を渡したるつもりなり」と語り、「近衛と会うとけんかになるといって近と直接会わず」閣内不一致により10月16日三次内閣は総辞職となった。政変の意義として、天皇9月6日の御前会議白紙とすることをめる白紙還元の定がされ、ひとまず戦争は回避できた。しかし参謀本部は17日戦論を引っ込めるようにとの天皇示を予想して、「いかなることありといえども新内閣は開戦内閣ならざるべからず開戦、これ以外の陸軍の進むべきなし。」と開戦決意を固めていた。三長官会議の決定で陸軍大臣を出すという制度があり、内閣及川内閣は成立不可能であった。

開戦へ

東條英機内閣成立

東条英機内閣成立

 10月18日東條英機内閣が成立した。東條英機は現役のままで首相、陸相、内相を兼ねることとなった、異例のことである。相に嶋田太郎が就き、東郷茂徳は日本の行き詰まりを外交で打開するためあらゆる努力をすることを認めるという了解のもとに、東條の下で外相の地位を引き受けた。しかし永野部長杉山参謀総長の両統帥部は10月20日に、開戦第一日は12月8日が妥当と合意していた。儀な東條は、「ほとんど隔日に宮中に参内して陛下に奏上」、詳細な数字を用いて策再検討の経過を報告した。その意味するところは、結果的に「く決断してください。々はあなたの命があれば、いつでも戦います」「本当に戦争しかないのか」「戦争しかありません。戦争を選ばなければこのはつぶれますよ」と詰め寄っているだけであった・・・が、天皇はそれを入れていった。

天皇戦争にご反対であったが、時には幾分かずつ開戦のほうへ、近づいておられると思えることもあって、近衛の非戦論をご批判にあることもあった」

 そして東條10月30日の第65回連絡会議を招集し、11月30日外交交渉期限とし、妥結しない場合に12月戦争を開始すると定めた。内閣立から10日余りで望みのない外交交渉の条件付きながら開戦を決定させたのである。当時の日本社会は、マスコミ陸軍の圧力により統制されていたし、議会も十分に機していたとは言えなかった。そのためアメリカ一方的反日行動をとっているといって、多くの新聞が「見よ、反日の数々、帝国に確信あり、今ぞ一億民団結せよ」との類の大きな記事を掲載していた。内世論は対英撃滅という過な方向でまとまっていた。さらに東條英機は日交渉中にもかかわらず、日本中国と戦っているのをいかに英が妨しているかとか日本生存英が邪魔しているかといった発言を繰り返した。当然ワシントン東條反米英の演説を聞くたび、外務省・駐大使野村三郎が熱心に取り組んでも、日本側は常に二枚舌を使っているのではないかと疑わせ、交渉を破滅に追いやった。

10月2日側回答に対し、日本側の「甲案」は25年間の中国駐兵などの条件があり、アメリカには受け入れられそうにもなかった。東郷外相は11月1日大本営政府連絡会議で突如「案」を提案した。「案」はかつての反えて幣原喜重郎と吉田茂として作成を手伝っていた。これは日本南部印から撤退する代わりに、アメリカ日本石油を供給するとの暫定的な協定案だった。南印撤退は、ことに杉山参謀総長と次長から強い反対が出たが、東郷外相が受け入れないなら辞職して内閣崩壊をちらつかせたため、軍部によりアメリカ蒋介石に対する援助を停止するという項を入れ修正されようやく受け入れられた。これは重大な性質を持ち、日本戦争に固執すると解釈されることになった。

日本戦争計画

田中新一作戦部長を中心とした参謀・軍部による日本戦争計画が策定される過程においては、二つの仮説が存在した。それは「ドイツの不敗」と「イギリスの屈」である。この仮説は軍部に 1940年5月ドイツ西方電撃戦以来一貫して共有されていた。1941年9月から12月にかけて日本戦争決意が形成された。ことに11月5日の御前会議で、対英戦争は不可避と判断された。開戦にあたっての基本戦略が、大本営政府連絡会議11月15 日に決定した「対英戦争終末促進に関する腹案」である。 開戦前研究において、政府と統帥部は戦争が長期戦になる算が大であり、この長期戦を戦い抜く戦略物資が日本には不十分であり、したがって日本にはアメリカを武力で屈させる手段がないことを認識していた。陸軍参謀部は南方地帯を確保することによって、長期自給自足体制を実現し、またイギリスの物資補給に打撃を与え、その抗戦力を漸減させると見通していた。海軍は緒戦2年間は自信があるが、その後は世界情勢の推移によるとしていた。陸軍は「長期持久戦」つまり「不敗」であり、海軍は「短期決戦」で認識の一致はなかった。

「対英戦争終末促進に関する腹案」の基本構想は次のように規定されている
方針:速やかに極東にけるの根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り政権の屈を促進し独と提携して先ず英の屈を図りの継戦意思を喪失せしむるに勉む
要領:帝国速なる武力戦を遂行し東亜及び西南太平洋けるの根拠を覆滅し戦略上優位の態勢を確立すると共に重要資地域交通線を確保して長期自給自足の態勢を整ふ有手段を尽して適時米海軍力を誘致し之を撃滅するに勉む

アメリカの屈不可能であれば、回的な方法で継戦意思を喪失させ、有利な講和をめざすことになる。そこでイギリス打倒の回策が最も効果的だと判断された。日独提携してイギリスの屈を図る方法として、次の三つを掲げている。それは第一に、豪州印度に対して戦略及び通商破壊等の手段により、イギリスとの連鎖を遮断してその離反を策す。第二に、ビルマ独立を促進し、その成果を利用して印度独立を刺する。第三に独日本に呼応して、近東・北アフリカスエズに進出して西アジア打通作戦を展開する。またイギリスに対する封鎖を強化し、情勢が許すならばイギリス本土上陸作戦を実施する。これらのうち日本体的に関われるのは第一と第二の方法くらいであり、直接の効果が期待できるのはもっぱらドイツ依存している形である。「腹案」ではこのほか間の隔離を謳っているが、これは日本が関われるとしても、イギリスの屈とは結びつかない方針であった。

交渉行き詰まり

 野村大使11月7日に甲案をアメリカ側に提示したが拒否され、11月20日案を提示した。ハル務長官はこれに興味を示し、「案」に北部印の日本兵力を25000以下とし、石油禁輸などの経済制裁を3か解除しさらに延期条項を設ける「暫定協定案」が作成され、野村大使に英中などの同意をめたうえで、正式に日本側に提示すると述べた。11月22日ハル務長官は英中の大使に暫定妥協案を提示し、本への示を仰ぐように依頼した。日本の南進に脅威を覚えていたオランダは賛成したが、すでに日中戦争を戦っていた蒋介石政権は強硬に反対した。イギリスは反対しなかったが・・・

海軍大臣チャーチル 本件処理の責任アメリカにあります、々は新たな戦争を欲するところではありません。一点だけ問題は蒋介石との関係です。彼は本当に干上がってしまうのでは?。もし中国が崩壊すれば、々の危険は増大しましょう。私は米国がその行動を決めるときに中国に十分配慮がなされるものと確信します。(英国だけで日本に立ち向かう羽になるのはまっぴらごめんだ)

 このチャーチルの返書が決定打となり、暫定妥協案は取り下げられ、ハルノートの提示に至った。ルーズベルト大統領中国を見捨てることにより、独ソ戦が出ることを恐れていた。危機的な状況にあるソ連が、英中国を見捨てることにより、ソ連も見捨てられることを懸念し、独ソ単独講和を結ぶ可性を懸念したのである。中ソが枢軸に屈するのは避けなければ。だが英国は暫定妥協案が時間稼ぎとなることを期待していたため、ハルが暫定妥協案の提示をとりやめた時、ハリファクス駐大使抗議した

  大使 英国は暫定協定案に反対しなかった!(これじゃ俺ら確実に攻められる) の懸念はわかっている。々は日本の英領、印、タイへの攻撃がアメリカへの攻撃と同義であるとみなす。   大使

12月1日ハリファクスはルーズベルトと長時間会談、英国の関心は日本イギリス印に攻撃を仕掛けた場合、アメリカが対日宣戦布告するか否かであった。

ティムソン陸軍長官 よかったのですか?、あのような言質を与えて。 だが、これ以上同盟に対し譲歩を強要するわけにもいくまい。
ティムソン陸軍長官 日本はおそらく、英のみに戦いを限定し、米国世論を巧みに分裂させる手でくるでしょう。その時に米国民に参戦を納得させることができるのですか? むむむ………。いや、民はきっと支持してくれる…。

ハル・ノート

11月27日ハル・ノートが手渡され、中国よりの撤兵などが条約交渉の条件として提示された。アチソン務次官補やモーゲンソー財務長官らは日本戦争しないと考えていたが、務長官コーデル・ハル戦争覚悟した(マジック情報を見ることができた政府高官は、この時期はまだハルのみである)。陸両省はアメリカ太平洋軍のすべてに警態勢をとらせたが、ハワイオオカミ少年状態のため失念してせず、のちキンメルの進退問題となった。大量の日本軍上海から南方に進撃したことが知らされ、アメリカの注意は南西太平洋領域に注がれた。

東郷茂徳外相はハルノートを見て「眼も暗むばかりの失望に撃たれた。」。東郷は外務省顧問の佐藤尚武にたのんで「ハル・ノート」の写しを同じ外務省先輩吉田茂の下へ届けてもらった。吉田と彼の義牧野伸顕の意見が知りたかった。 牧野大久保利通の次男で、外務省へ入りイタリアオーストリアハンガリー使を歴任した。帰後は第一次、第二次西園寺内閣で文相、農商相、第一次山本兵衛内閣では外相を務めた。武力侵略批判し、経済外交の推進を図る新英外交官だった。のちに宮内大臣を経て内大臣に修臣し、昭和十年に引退したが、政・官界に対してまだ大きな力を持っていた。 牧野は2.26事件で危うく命を落としかけてからは、導者としての意欲を失ったらしく、牧野からはメッージがなかった。代わりに吉田茂が官邸へ駆けつけてきた。彼はまだあきらめてなかった。 ハル・ノートの10項は「試案的で且つ制約を伴わない」と明記してあり、「日合意のための基礎案の概要」に過ぎないという註が前書きしてある点を強調した。

これは最後通牒じゃないよ。どこにも交渉打ち切りとは書いてないじゃないか! 東郷外相 ・・・(東郷は苦笑してかぶりを振った。)
いや、先方は最後通牒のつもりかもしれん。しかし、気づかないふりをすればいいんだ。交渉を続けてくれ。最後の最後までマムシのように食いつかなくては。 東郷外相 連絡会議メンバー全員、交渉打ち切りの気でいます。アメリカ話し合いをしようにもこちらから条件を出しようがない。ハル・ノート全員さじを投げたんです

たとえ交渉を再開できたところで、11月30日いっぱいに話がまとまらなければ自動的に開戦となる。 前回の御前会議でもう決まったことなのだ。この条件をのまない限り、11月末を期限とする交渉の継続さえ認められなかっただろう。陸軍11月13日海軍も20日が交渉継続の期限だと執拗に言いっていた。作戦上の理由かららしい。まだ東郷は聞かされていないが、陸海軍の間では開戦の日が既に決まっているようだった。

ではきみ、辞表を出せ。外務大臣が辞めれば閣議は停頓する。近衛も君も軍部と衝突してやめたとなれば、世間も軍部の言うことに疑いを持つようになるだろう。軍部も少しは反省するかもしれん。 東郷外相 しかし、軍はもう動き出しているんです。詳細は分からないが、作戦は始まっているらしい。とても反省の段階では
辞表を出せば君は生命を狙われるかもしれない。しかし、死んでも男子の本懐ではないか!。が拾ってやる。 東郷
外相
・・・(・・・!?
辞表を出して内閣の揺さぶりをかけるんだ。開戦をやめさせる手はほかにないんだぞ! 東郷
外相
・・・(軍は恫してきている、もし辞表を出したら、私は・・・)

東郷は以後の交渉を拒否した。吉田茂グル大使との会談を申し入れた時も、すでに政府の方針も開戦と決定していたからと、会談を承諾しなかった。東郷は攻撃開始ぎりぎりまで外交交渉を継続せよと海軍に要されたため、ハルノートへの返信、日交渉打ち切り通知はすぐには行わなかった。海軍としては当時、通告手交30分後の奇襲開始を決定した。だが東郷は通告手交から攻撃開始まで30分の余裕しかないことを知らされていなかった。日本12月1日国会でなく)御前会議で開戦を決定したが、交渉は打ち切らず、結果打ち切り通知は真珠湾攻撃30分後に手渡されることになった。

吉田茂戦後回顧録で太平洋戦争前の日本政治上層部にに明確に開戦に反対するものがいなかったことをかえりみて、それを民性を反映したものとしている。

こんな時にこそ民性が現れるもの。言うべき時に言うべきことを言わず、しかし事後において弁解がましいことを言い、不賛成であったとか、自分の意見は別にあったなどというものばかりだ。

戦前、開戦の手順を報告する東條昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は確信した。東條英機昭和天皇の「決意」などを部下2人(内務次官の湯沢三千男と陸軍次官の木村太郎)に奮気味に語った。

戦争開始と民の処置を決定した。陛下の命受け一糸乱れぬ軍紀の下行動できるは感堪えない。既に勝った! 湯沢三千男内務次官 (何ら動揺も憂もない、信念のお方だ)

ニュース

12月3日日本中立タイとの英領マラヤまでの通過権交渉をピーブル元帥と始めた。12月6日午後オーストラリア偵察機が、三十五隻の輸送と八隻の巡洋艦、二十隻の駆逐艦日本隊が、インドシナからタイ湾をこえていることを発見し、12月7日ロンドンにもワシントンにも知らされた。

海軍大臣チャーチル ついに来たか。マレー半島クラ地峡の重要地点を、占領するつもりだろう。さて、アメリカ約束通り参戦してくれるだろうか?。今日は駐英アメリカ大使との会談だ。

1941年12月7日日曜日チャーチルアメリカ大使らとテーブルを囲んでいた。9時のニュースがはじまってまもなく、チャーチルは、小さなラジオスイッチをいれた。ソ連戦線とアフリカ戦線のニュースがあったのち、最後に日本軍航空部隊ハワイ真珠湾を突然攻撃し、湾内に集結していたアメリカ艦隊に猛爆撃をくわえたことが、放送された。

海軍大臣チャーチル ファッ?   
大使
ファッ?

チャーチルは、疲れていたが、そのまま次の報告を待った。その後立ち上がると、さっそく事務室に行き、アメリカ大統領に連絡をとった。
一方アメリカにおいて12月7日

ニュースを聞いたか?。 ティムソン陸軍長官 ええ、日本軍シャム湾に進軍したという電報を受け取りました
そうではない、彼らはハワイを攻撃した、彼らは今ハワイ爆撃しているのだ! ティムソン陸軍長官 え?

チャーチルからの連絡がつながった。

海軍大臣チャーチル 大統領!、一体どういうことですか、日本がどうしたのですか!? 事件は本当です。日本軍真珠湾を突然攻撃しました。もう、々はともに戦わなければならなくなりました。

チャーチル日本軍斜め上の発想に驚愕したが、直ちにその戦略的意義について理解した。戦争の行く末について、日本運命についても正確に予言していた。

海軍大臣チャーチル 合衆海軍が重大な損を被ったと々は考えもしなかった。日本の武力を正確に見積もっていたなどというつもりはないが、合衆全に、死に至るまでの戦争に入ったのだということが私にはわかった。々は戦争に勝ったのだ!。ヒトラー運命は決まったのだ。ムッソリーニ運命も決まったのだ。日本人について言うなら、彼らは粉々に打ち砕かれるだろう。

日本アメリカを見くびっていた。合衆は軟弱という人もいたし、アメリカ人は決して団結しないだろうという人もいた。合衆は巨大なボイラーのようなもので、一度火が付くと生み出す力に際限はない。感奮に満たされ、満足してチャーチルは床に就き、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた。

交戦国の状況

1939年より第二次世界大戦が勃発しており、イギリスドイツと交戦していた。航空機戦車などが長足の進歩を告げ、太平洋戦線では特に航空機の重要性が増していた。

近代戦では、最前線の背後に後続部隊補給体制を抱えるのが常識にあっているが、航空隊が進出するとなると、補充・補給・経理・輸送の所部隊飛行機の整備等を担当する航空、飛行場の整備・修復にあたる部隊情報収集・監視・通信を担う機関、防を担う高射砲部隊等も一斉に動き、所定の位置に展開する。300機の配備ともなれば、飛行場を中核に大きくすそ野をひろがる多様な関係機関が配置につき、少なくとも3-4万人がこの中に組み込まれたとみられる。6-70機の重爆・軽爆が出撃すると、50トン以上の爆弾100トン近い燃料、その他に大量の弾を搭載していく。膨大な弾薬、燃料等が消費されていくことになり、安定した補給が欠かせない。8000機以上もの飛行機を失う消耗戦に引きずり込まれ、もっとも航空機を消耗したのは丸二年間に及んだニューギニアであったが、多くが地上撃破であった。機体の稼働率が低く、駐機場が狭く、掩体もなく、防火力も貧弱であった。いくら優秀な飛行機を持っていてもそれに見合う優れた飛行場施設がなければ、多くが地上で死することになる。

  大日本帝國

 近代日本の誕生以後、1941年までに人口は143増加したが、耕地は16しか増えず、農業の進歩にもかかわらず、食品の20は輸入であった。資は石炭のみが十分に自給でき、鉱石石油ゴムボーキサイトをはじめとした資は輸入に頼らなくてはならなかった。政府天皇の権限より発生する二院制の国会内閣を持ち、貴族院天皇により任命されたが衆議院選挙で選出された。内閣国会で任命されたが、軍は天皇より直接任命されたため、文民政府依存しない自由な裁量が与えられ、政策においても大臣を出さないことにより政権を崩壊させることができた。日本の再軍備は、1937 年に本格的に開始され、1940 年になると国家予算の半分近くが軍事支出に向けられた。1941 年の日本では、民間使用に割り当てられる石油あるいはガソリンはなく(自動車は石炭を燃焼させる蒸気機関によって走らねばならなかった)、食糧と生活必需品(石炭、砂糖マッチ、綿など)には厳しい配給制度が適用された

 軍は天皇との特別な官益を強調し、1920年代初期に「軍」から「皇軍」へと変更された。陸軍海軍の統制を大本営(統合参謀本部)で行ったが、アメリカと違い文民統制の下に入らず、軍の管理下にあった。陸軍海軍国家予算と資を奪い合う競争関係にあり、大本営は意思決定者はなく、陸軍海軍戦略を一致させることは結局不可能であった。軍と民間政治家の間はさらに疎遠であり、大本営内閣情報提供することを拒否し、内閣からの勧告をすべて無視していた。日露戦争では集団での潰走も多数みられたため、戦後精神教育が強化された。軍の導の下、天皇崇拝が強化され、仏教儒教が衰退していった。民はすべて天皇に属していると信じ、勇敢に戦い、死をおそれず、戦死を名誉とした。戦死した兵士家族祝福され、通常の喪が恥と考えられるような状態に達した。戦争の開始時は、よく訓練され勇敢な兵士員、飛行士と入念な準備が日本軍の大きな利点となった。日本軍米軍を下にみていた。

日ソ両軍激突 今度の敵は支那軍とべると、将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから、軍隊の上下の精神的団結は全くだ。 …戦は勝ちだ、支那兵以下の弱で、戦車飛行機もがたがたの寄せ集めである、勝つに決まっているが、如何にして上手に勝つかの問題だけだ。 の人的戦力は物的戦力に伴わぬ。 物的戦力膨大も、政治経済機構は、今なお国家総力戦に必要なる臨戦態勢を整備しておらず、確立には今後幾多の摩擦紛糾を生ずるだろう。 英国民は生活程度高く、その低下はそのすこぶる苦痛とするところにして、戦争継続社会不安を醸成する。一気に士気の衰退を招来するのだ

国家総動員体制

国家総動員法は、1938年昭和13年)第1次近衛内閣によって制定された。永田山の理想であった総動員体制を担った人達に、当然ながら「一夕会」に関わる人が何人もいた。そして憲兵や特高により、民の言論などを力によって抑えた。治安警察法、出版法、新聞紙法などに基づいて、内務省の下部組織「特高警察」は思想犯・政治犯を逮捕した。在郷軍人会、義者による言論弾圧は、軍部との関連していた。こうした上からの統制により、戦争をすることが正義であり、それを否定する者、いや少しでも消極的と見られただけで「非国民」として、当人ばかりか家族すら差別の対とされた。隣組1940年に内務省が訓し(隣組強化法)制度化された。5軒から10軒の世帯を一組とし、団結地方自治の進行を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給襲での防活動などを行った。また、思想統制や住民同士の相互監視の役も担っていた。兵士留守家族生活困窮について隣組すなわち近隣社会の手に委ねられていた。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば遺族は八分となり、「」は家族への農作業援助を打ち切る、それは家族にとって致命的となる。

太平洋戦争末期フィリピン昭和20年2月22日、N上等兵は、22歳。飢餓地獄の中、食料を探しに部隊を出て、15日後につかまる。「この事実だけでは、死刑に値しない。」しかし、言い渡されたのは「死刑」。「Nっていう兵が、英語がうまい。だから・・・」「戦時逃亡」ではなく「奔敵未遂」とされた。奔敵とは、戦わずして敵の捕虜となること。不当に処刑されたN上等兵、遺族に処刑が伝えられたのは、処刑から2週間後。遺族はいつの間にかからいなくなっていた。遺族のひとり「Nのことは知らない。もう触れないでほしい」

ものを言おうとする民に対して戦地における死をちらつかせることは、軍部が自分たちの意志を通すのに大きな効果があった。特に東條英機は「竹槍事件」に徴されるように、これを多用した。関東憲兵官の経歴を大いに活用して憲兵をほしいままに動かし、東條批判的な人物を陸軍に召集して戦闘地域に送り込む懲罰召集という報復行為である。逓信省工務局長だった松前重義は42歳で政府高官であったにも関わらず東條によって二等兵として召集され戦地へ追いやられた。東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛に対して強引に検挙。中野は釈放後、陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに、憲兵隊の監視下で自殺に追い込まれたが、中野を容疑不十分で釈放した43歳の中村登音担当検事には、その報復として召集令状が届いた。陸軍内の反東條だった前田利為を、報復措置として南方戦線に送った。彼は、搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額した。衆議院議員福家俊一ら三人も懲罰招集されている。政権末期に、東條内閣改造して延命を図ろうとしたとき、倒閣のため辞任を拒否した岸信介を、憲兵隊長四方諒二を使って脅迫したことも有名である。東條の忌み嫌う長州閥最後の寺内寿一大将は、閑院、梨本元帥殿下につぐ陸軍の長老で、東條も露な排斥はできなかった。だが、太平洋開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将南方総司令官として、遠く南の地に追いやった。
 戦前戦中の日本にとって、国」とは本来天皇およびそれに関わる諸制度指していた。戦時中、「国のため」という言葉が良く使われたが、その“国”主体は「天皇」だった。にもかかわらず、政・軍事的判断主体は天皇ではなく、天皇の意思を取り決める「御前会議」では、天皇は発言しないことが通例だった。軍部の独断的行動と強行な態度、場合によってはクーデターによって殺される能性もあり、そうした圧力によって政治家は軍部に振り回される状況だった。つまり、実質的な“国”主体は軍部だった。日本軍=「国」は「軍の名誉」のためにすべてを総動員し、一般的国であれば第一優先とされる、女や子どもの保護が、日本軍の考慮の象になっていなかった。

 戦争末期司馬遼太郎は、米軍東京湾に上陸してきたら、戦車部隊を率いて南下し、米軍を迎え撃てといわれていた。それで、大本営参謀が部隊にやってきたとき、迎撃のため戦車を繰り出しても、街道東京方面から落ち延びてくる人や荷で溢れんばかりになっているだろうから、前進できないのではないかと質問した。 すると、参謀は暫時考え込んでから、こう答えたという。 「ひき殺して行け」

国家そのものが軍隊であり、軍のために社会がある、“お”=軍部の政策は、民の命より優先して実行された。そして、民は「」を守るために死をも厭わない姿勢がめられ、戦争に役に立たない人は、として不要とされた。
 さらに、その「軍」の中で、軍人は階級により生命の順位も決められた。幼年学校出の陸大エリートのみが上級将校となれる封建的体制で、高級将校は兵士や下士官の生殺与奪の無限の絶対権力を持つ一方、徴兵された下級兵=一般国民は、その最下層(つまり死んでも問題ない)に置かれた。そうしたことを正当化するために、軍部は「戦死」を美化していった。「爆弾三勇士」に始まり、真珠湾攻撃では戦死した兵士を「九軍神」などと呼び、特攻隊では軍神を量産した。陣訓によって捕虜になることを禁止し国民の存在意義は、“国”=軍部の高級将校のメンツを満たすために、死ぬまで戦うことだった。

と装備

希少金属では、マンガンは48万トンアメリカと同レベルにあり、タングステンの鉱山は中国江西省の西崋山朝鮮山の千年鉱山、江原寧越の上東鉱山などがあり、クロムフィリピンに豊富で、モリブデン朝鮮半島から算出された。ニッケルは不足し、ニッケルソロモン諸島南東のニューカレドニアに大ニッケル鉱山があり、田中新一はガダルカナルにこだわったが敗戦により届かなかった。

装備の不足を補うために精神力が強調された。1929年陸軍現場マニュアルでは銃剣の使用と精神力の強調、夜襲と包囲の推奨と後退を考えられないものとした。また兵器開発にもを与えた。重機関銃に高倍率の学照準器(スコープ)を取り付けて遠距離射撃に適したしたり、精密射撃ができないから迫撃砲開発は見送るなど。

産業基盤はぜい弱で、大砲や走行車両英に劣っていた。日本陸軍は41年12月野戦師団を51個、地上弾薬105師団1回線分を準備して開戦に踏み切った。内地に10個師団分、満州に48個師団分を集積し、50個師団分で中国と戦い、そして南方に17個師団分を向けた。105師団分といえば、小火器弾薬でも8億発以上に上る膨大なものだった。(WW1での独軍は5億発、軍は3億発の砲兵弾薬を射申したとされる)。しかし備蓄の結果であって、鉱山から最前線までの戦場での生産活動、補給はできなければ、テンポの速い物量戦には対応できないのだ。陸軍は第一線の1個師団1日当たり燃料・弾薬食料など500600トン補給を保していた。

日本軍精兵の育成

兵器が劣る分、訓練は行き届いていた。徴兵された兵士は、初年兵たちは訓練教官の命とあらば、どのような過酷な訓練にも耐えなければならない。一般的な訓練における殴るけるや私的制裁は当たり前、上官たちは、不可能に思える命を次々とだし、それを実行できなかった者には決まって制裁がくわえられた。私的制裁は新兵の教育上、必要悪と看做されており、表立って奨励はされなかったが、黙認されていた。しかし古参兵の気らしや、私的な恨の為に行われるとう側面もあって、どこまでが教育導なのか、どこまでが単なる「いじめ」なのかの界は判然としなかったのが実情である。少しでも隊列を乱すものは、木刀底的に打ちのめされる。初年兵たちは、ここでは不不満をいうどころか、反抗的な態度をとることすら、ありえないことだとすぐに学んだ。訓練を経た初年兵は、やがて命された通りのことをそのまま、迷わず実行するようになる。こういった初年兵訓練は、多くの意味において非人間的であったが、一方で極めて実利的でもあった。こうして兵士たちは、疑うことなく命に従い、敵と戦うことも、そして死への恐怖麻痺させた。陸軍高級将校たち自慢の精兵たちが出来上がっていった。
 兵「とにかく、やれと言われたらいや応もなく反射的に動くような教育ですよね」。
 当時の日本軍にとって、銃剣術の訓練は必須であり、実際戦後になっの海軍基地で発見された「部隊指揮官の心得」という冊子には、戦場で戦える根性をつけさせるため、新兵には教育として、生きている俘虜目標にして銃剣術の訓練となすべしと記述されていた。

々に、肌に染み付く戦争を感じさせたのは、中国戦線に送られた時であった。前線に着いた々初年兵を、一日も戦争に順応させようとして、人を殺すという試練の場が与えられた。捕虜刺殺である。50歳半ばをえた老人が縛られたまま引き出された。大きなの前に座らされた時、老人は誰彼なく頭を下げて許しを乞うた。罪状は知る由もなかったが、その処刑は正視に耐えるものではなかった。小隊長U少尉は、「人を切るのはこうして切るのだ!」と高らかに叫びあげ、日本刀を振り下ろした。カーンという音がして、頭蓋をしたたかにたたいて、老人はもんどりうってに飛び込んだ。「よし、突け!」小隊長は、々を呼び込むように左手を振った。一たじろいだが、の周囲に群がって、死にきれないぼろ布のような塊を突き始めた。地の底から、唸りが漏れてくる。いつまでも絶えなかった。戦争に慣れさせることを名としたこの事件は、の惨劇でしかなかった。けた大地は茫々と広がり、わけもなく命を飲み込んでしまった。戦争はすなわち殺人であるという自明の定式を、感覚を通して教えられた。

初年兵教育の時である。古年兵から。「今日は捕虜を殺す練習だ」といわれた。ぎょっとしたが顔には出さない。おびえた顔をすると殴られる。々はに連れていかれた。目隠しをした捕虜を突く訓練をするという。その場から逃げたくなる。しかし、命である以上やらざるを得ない。足が震えた。中国人の捕虜が何人かたっていた。そのうち一人を前に出し、ひざまずかせた。鬼軍曹が後ろに立ち、軍を抜いて高々と構え、一気に振り下ろした。中国人の頭が飛んだ。どさっと胴体が地面に横倒しになる。「やれ」と軍曹が命する。ひっくり返って胴体だけになった捕虜を々初年兵が順番に突く。私の番が来た。古年兵が鋭い視線で見ている。すれば死ぬほど殴られる。帯に構え突進して付いた。無我中だった。捕虜は五人くらいいただろうか。五人とも首を落とされて殺され、遺体は刺突訓練に使われた。(なんでこんなことをしなきゃならんのだろうか)とほとほと嫌になった。手榴弾は各人自決用に一つずつ渡されていた。渡されるとき、「けがをして動けなくなったらそれで死ね」といわれていた。今考えると、日本の軍隊は本当にだった。「捕虜になるなよ」「これでちゃんと死ねよ」と当たり前のように言われる。こんな軍隊は日本だけだった。なんでこんなへんてこな軍隊ができてしまったのか。不思議でしょうがない。

日本軍は自軍の将兵らに「太平洋戦場で戦うことになる欧人どもは人種差別義者であり、アジア民族を征戦としている植民地圧制者である。連合軍兵はとらえた俘虜をすべて残に殺してしまうのだから、生きて虜囚の辱めを受けるな、死して家族に罪科の汚名を残すことなきようにせよ」と繰り返し教育していた。兵隊は消耗品と位置付けられ、初年兵とはたたくほどよくなると言われていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦訓が、戦場にいた人の心を狂わせた。命懸けで合流した部隊で「死ね!」と言われた兵卒は語る。

日ソ両軍激突 水木しげる「上官から毎日50発ぐらいビンタされていました。水木さん(自分のことをこう呼ぶ)は、一でも長く寝ていたいから起床が一番遅い。だからから『ビビビビビン!』とビンタされる。の手入れが悪いと摘されたり、軍の規則に少しでも外れる行動をしたりすれば、これまたビンタなのです。戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった。」 死線を乗り越えて部隊に合流すると思いがけない言葉が返ってきた。小隊長は「天皇陛下からもらったをなぜ捨てて帰った!」と怒鳴った。中隊長は「なんで逃げて帰ってきたんだ。みんなが死んだんだからお前死ね!」と。中隊長も軍隊も理解できなくなった。同時にはげしい怒りがこみ上げてくるのを、どうすることもできなかった

軍隊では、善良な人間無能物の烙印を押され、野獣のような品性の者がしばしば英雄になった。

私の部隊歩兵二十四連隊「菊」は帝国陸軍でもナンバーワンを誇る部隊であり、菊部隊散るときは日本破るるときなり、と自負していた精強部隊であった。中支杭州湾の上陸以来、中国戦線では”情け用の残虐部隊”として、敵将を震え上がらせたのであった。この連隊は、中国戦線からガ全滅するまでの間、捕虜は私の知る限り一人も生かしておかなかった。そして私たちは、それが戦争であると教えられていた。敵を憎まずして戦争はできない。敵国地では老若男女の容赦なく、少しでもおかしいと思えば、日本武士道の処置としてバッサリ、ちょん切ってしまうのだ。
 ・・・第2次総攻撃も失敗に終わると、すっかり事態は悪化した。ガ全体に飢えが迫り、文字通りのドロボーがあちこちに横行した。そんなある日、連隊本部の兵隊に後ろ手に縛られた一折の兵の捕虜と出会った。その後の過酷な拷問にも口を割らず、「殺せ!」と自らいうのに隊長も感心して、「敵ながら晴れ!」と褒め称え、さらに「このアメリカの一青年の立な態度に、皆も学ぶように・・」と訓示まで。 しかし、日が暮れて、兵隊たちの話すところによれば、この晴れパイロット文字通り「料理」されてしまったとのこと。肝は栄養剤になるといって某隊長自らが、そしては兵隊たちが。当時はまだ飢えていなかったのに…。アメリカの皆さん!、いまは亡き戦友に代わってお詫びを申し上げます。当時の日本青年たちは、天皇陛下の「教育勅語」や修身を学んだ世界的にレベルの高い日本人だったのですが、それがいったん、帝国陸軍に入隊すると、軍人勅諭や戦訓とは裏に、から晩まで理由もなくぶんなぐられ、人間失格のごろつき化訓練に、中国人がよくいった「東洋のトンヤンキイ)」になったのです。日本兵こそ、今度の戦争の一番の被害者だったのです。戦争に負けて、日本人は英の皆さんに、たくさん学ぶことができたことを知っています。

による評価として、
日本兵の長所は「体は頑健」「防御では死ぬまで戦う」「戦友がいる時と地の利がある時は勇敢」「規が良好」「偽装が得意」「地作りが上手い」「兵士も将校も策略を好む」
短所は「当てが外れるとパニくる」「劣勢になると脆い」「決然としていない」「射撃が下手」「自分で考えない」「戦死者には丁重だが、傷病兵の扱いは雑」
他に「包囲殲滅が好き」「夜襲が好き」「降したら故郷の人が許さないと思ってる」「都会出身者は敵意をさほど持っていない」「地方出身者は戦死を名誉だと思っているが、都会出身者は違う」「味方が恐いから戦う」など。

海軍

一方の大日本帝国海軍もよく訓練され、装備も英と同等であった。対防御には劣っていたものの、特に魚雷連合軍よりはるかに優れていた。緒戦では零戦は英衝撃を与えた。零戦は機動性、速度に優れ、英航空機より長大な航続距離を誇った。だが零戦以降の後継機の開発に遅れを取った。

陸軍航空

陸軍航空隊はノモンハンの戦訓もあり、防弾装備が海軍に対すると強化されていた。海軍較すると陸軍は順調に航空機開発を進め、四式戦疾風や五式戦は、連合軍が投入した新鋭機に劣らない性を持っていた。が、整備性に問題がありきわめて稼働率が低く、敵将に敗北因と揶揄されるほど。一式戦は後継機にべて整備性がよく末期まで使用され、海軍零戦に対し武装は劣るものの防弾装備に優れていたが、パイロットは防弾鋼鈑があると不時着転倒時に座席の背もたれを倒せず、脱出できないような気がして外したり、中隊全機が外したなど現場では底されなかった。
 日本陸軍航空隊は航続距離の長い戦闘機に偏重しており、躯の航続距離を頼みにして多くが遠方で安全なタやラバウルからの航空支援となった。また戦闘機に偏重し敵機との航空戦を重視しており、一方連合軍は戦闘機・地上部隊攻撃・爆撃とバランスよく配備し、空港も危険な前戦近くに多数設営し短距離反復で地上軍支援を行ったため、ニューギニアで早くも1942年後期から、ビルマでも1943雨期明けから、大日本帝国陸軍地上部隊にとっては空に見られるのは敵機ばかりという惨状となった。

軍は員数を尊ぶべし。

 私が入営したのは、「私的制裁の絶滅」が言明されたころで、毎のように中隊長が、全中隊の兵士に「私的制裁を受けたものは手を上げろ」と命ずる。中隊長は直属上官であり、直属上官の命天皇の命である。だが昨晩の点呼後に、整列びんた、上靴びんたに始まるあらゆるリンチを受けたものだちが、一人として手を上げない。上げたら、どんな運命が自分を待っているか知っている。したがって「手を上げろ」という命に「挙手なし」という員数報告があったに等しく、そこで「私的制裁はない」ということになる。このような状態だから、終戦まで私的制裁の存在すら知らなかった高級将校がいても不思議ではない。いわば命と報告のつじつまが合っている。そしてあっていればそれでよい。これが員数義であり、全帝国陸軍を上から下までむしばみつくしていた。

「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は問わないという形式義、それが員数義の基本である。それは当然に「員数が合わなければ処罰」から「員数さえ合っていれば不問」へと進む。したがって「員数を合わす」ためには何でもやる。「紛失しました」という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした間、「バカヤロー、員数をつけてこい」という言葉が、びんたとともに跳ね返ってくる。紛失すれば「員数をつけてくる」すなわち盗んでくるのである。いわば「盗みをしても数だけは合わせろ」で、この盗みは然の秘密であった。小松氏の慮人日記によると

形式化した軍隊では「実質よりも員数、員数さえ合えばあとはどうでも」という思想は上下を通じ底していた。員数で作った飛行場は、一降れば使用に耐えぬものでも、参謀本部の図面には立な飛行場と記入され、また方面で○○万兵力必要とあれば、内地で大招集をかけ、なるほど内地の港はそれだけ出しても途中で撃沈されてその何割しか的地に着かず、しかも裸同然の兵隊なのだ。

小松さんが最初にあきれ返ったのは「ネグロス航空要塞」なるものの正体を見た時であった。この「航空要塞」は、当時では知らぬものがないほど有名なもので、「これで米軍叩き潰してやる」「ネグロス航空要塞がつぶれたら日本は危ない」と言われたほどのものであった。「米軍レイテに押し寄せたら思うつぼだ、相手は可沈空母、こちらは不沈空母、絶対に負けない。敵を上陸させてくぎ付けにし、空母群をおびき寄せて底的にぶったたいてやる。」というものだった。今でも“員数戦記”にはそんなことを書いてあるらしい。だが実態は、一言でいえば、あるのは「員数」だけで、結局は何もない、ということであった。

「ネグロスの要塞というから、どんなものかと思ったらピナルバカン……(ほか9か所)……などに、毎日爆撃だらけになった飛行場軍に焼け残りの飛行機若干藪陰に隠されているだけだ。対火器は高射砲が三門だけという寂しいものだ……これが日本運命をかけたネグロスの要塞の正体である……」

 本土決戦する阿南陸相は、すでに戦備は了し、九十九地も完成しているから、ここで米軍に一撃を加えるべきだと強硬に繰り返す。降決戦の論議が行線をたどって決着がつかず、鈴木首相天皇に”断”を乞うたとき、天皇が言った決定的な言葉は、従武官を派遣して調べさせたところ、九十九には地などはない、という意味の言葉である。この言葉はおそらく、小松さんの「ネグロス航空要塞などはない」という言葉の「ない」という同じ「ない」であろう。そして大本営にとって、阿南陸相にとっては九十九地は「あった」のである。結局これは「員数としてはあるが、実体としてはない」ということだ。そして米軍の攻撃は、常に員数という虚構を吹き飛ばし続けただけに等しい。

 おそらくゲリラは、最初は驚いても、なぜこんな効果のない撃を一身に打ち込んでくるのかと、こちらの意を測りかねて首をかしげたであろう。日とともにを撤収し、、立な「報告」を書いた。翌日、そのの位置は機の猛爆を受け、一掃された。効果があったとすれば、米軍駄な爆撃をさせたことぐらいであろう。いったいこの員数義はどこから来たのであろうか。これが日本軍の宿であったことは、各人が身に染みて知っていたので、収容所でも話題となった。「おかしいよなぁ、実戦なんだから、軍隊だけは、絶対に員数義があってはならんはずのだが……」

ある人は陸軍創設時に原因があるといった。「軍」という意識が希薄なので「殿様の密命で武器を横流しする」恐れがあった。小銃に菊の紋章を刻印し、これを家紋付きの「天皇所属の兵器」と明示し、また「兵器は神なり」として、底した員数管理を行った理由はそこにあると。だが「兵器管理の底化」そのものは別に悪いことはあるまい。少なくとも、米軍のように、兵器横流し事件が頻発し、それがギャングの手にわたるよりも立である。確かに帝国陸軍には多くの欠陥があったが、兵隊が小銃を売り飛ばして一杯飲んでしまったといった事件は、おそらく皆無であろう。

参謀の強権・私物命、気迫という名の演技仲間褒め

イギリス軍の部では、よく話題になっていたことがあった。「日本軍の中で信じがたいほど愚かなのは、参謀肩章をつった連中だ」。
 米の発想では陸軍省の下位機関である参謀本部が、日本においては陸軍省以上の実権を持っていたこと、それを連合軍が理解していなかったことが、ある意な戦指名を生んだ

17年6月中旬マニラの軍部や軍政部・憲兵隊からロハスを処刑せよと筆記命が来た。「この命は本物でしょうかね。ロハスを一時どこかに隠しましょうか」と言ったら、マニラ出張していた将校が帰ってきて「軍部ではロハス処刑の報告が来ていない、と怒っている。やらないのなら、神保中佐をマニラに読んで取り調べるといっていました」と。残る手立ては、マニラに乗り込んで直接軍官の本間閣下に直訴するほかないが、ちょうど本間更迭でごたごたしており会えない。仕方なく和知参謀長の部屋に行った。ところが和知さんは「はそんな命を出した覚えはない、命の日付の6月22日には東京出張していて留守だった」とこういうんですな。自分が知らないうちに参謀がやったことだとしても、軍命として正式に出ておればすぐ撤回するわけにもいかなかったのでしょう、「ロハスは当分宣撫工作に利用すべし」という命をくれた。氏の生命は助かったが、処刑命が取り消されたわけではないのでその後もたびたび彼は危険なにあっているんです。

これは重な言であろう。「はそんな命を出した覚えはない」もしロハス氏が処刑され、そのため和知参謀長が責任を問われて戦犯となり、その時氏がこの言葉を口にしたら、人々は何というであろう。も信じないであろう。そしてこの恐るべき「私物命」を出したその本人は、一切、責任を問われない。

 バターン戦終了時に、どこからともなく発せられた捕虜殺の”軍命”が実は「私物命」だった。現在では、この私物命の発者が、大本営派遣参謀辻政信中佐であったことが明らかである。このことの大要は戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。したがって私などは、戦後々しい辻政信復活に、何とも言えない異様さと絶望を感じたことは否定できない。

 ……このとき(バター米軍の時)、大本営参謀の肩書を持つ作戦参謀辻政信中佐が現れて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各旧官に”捕虜を殺せ”と督励して歩いた。…また奈良兵団の連隊長として参加した今井武夫少将も兵団部からの直通電話に呼び出された。…それは、「バター半島軍高級指揮官キング中将は降を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、軍の投降者はまだ正式に捕虜と容認されていないから、各部隊に手元にいる軍投降者を一に射殺すべし、という大本営を伝達する。」というものである。だが、彼は直ちに「本命は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命では実行しかねるから、改めて正規の筆記命で伝達されたい」と述べて電話を切った。…だが、連隊長の要した筆記命は来なかった。

作戦」においても指揮官以外は揮できず、したがって参謀は命は出せない。「私物命」は最も厳格に処罰されてしかるべき行為であったはずである。左遷という処分を受けたのは逆に神保中佐であっても、「私物命」発者ではなかった。その多くは戦犯に問われず、戦後も何の処分も追及も受けず、辻政信のように、その行方不明まで、戦前と同じような権威と社会的地位を保持し続けている。

いったい、こういう人たちが常に保持し続けて得た”力”のは何であろうか。それは、ある種の虚構の世界に人々を導きいれ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出力である。その演技力を可にしているものの一つ、それは”気迫”である。陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。だが実際にはこの「気迫」も、一つの類化された疎な表現軽視になっていた。どんなにやる気がなくても、その兵士が、全身に緊感をみなぎらせ、静脈を浮きだたせて大を出して“機械人形”のような節度あるきびきびした動作をし、大行な軍人的ジェスチュアをしていれば、それが「気迫」のある拠とされた。
 そして辻政信に関する多くのエピソードは、彼が「気迫演技」とそれを基にした演出の天才だったことを示している。“辻政信”すなわち言って言いまくるという形の”気迫誇示”の演技屋であった。結局この演技屋にも抵抗できなくなり平然と始末に負えない「私物令」が流れてくる。さらに始末が悪いことには、彼らはその口頭令に絶対責任を持たなかったのである。まずくなれば俺がそんなことを言うはずがあるか」で済む。「筆記令をくれ」という理由はそこにある。しかしその筆記令ですら、彼らが責任を負わない。「帝国陸軍の統帥権絶対神話」が今も生きている日本、そのた真のの責任者平然と復活し活躍し権威と声をほしいままになしえた戦の日本では、人が信じない一つの事実である。

「知らぬは帝国陸軍ばかりなり」。それは、わずか十数ドラムガソリンのために、参謀が怒鳴りに怒鳴り、一少尉5日も6日も費やしておろおろし、挙句の果ては何千人かを徴用しようという現状を見れば、「にでもわかる」ことであった。なぜわからなくなったのか。その虚構を外部に対して支えているものが、「仲間内の摩擦を避ける」がさらに外部へ発展した形の、「仲間ぼめ」という詐術だったことである。陸軍くらい、底した「仲間ぼめ」の世界はなかった。内部ではあらゆる足の引っり合いをしていても、ひとたび対「外部」となれば、底した「仲間ぼめ」である。ABをほめ、BCをほめ、CがまたAほめるといった形で、その「誉め言葉」だけを外部に広める。大将が陸代の講義では愚将でも外部には聖将、ノモンハン小笠原団長も外部には「精神力で戦車を圧倒した名将」等々等。「仲間ぼめ」による相互称揚をお互いに着せあい、それで威風堂々とそっくり返ってに乗って一般人を睥睨している。しかし、その衣装に惑わされているのは「日本語」で鎖国している日本人だけ、原住民から見ればまさに「」だから、「裸の王様」なのである。日本の破滅はすでに全龍柱し、それもまた気迫も演技も通用しないことであった。

補給軽視

 大日本帝国陸軍において、補給は日清戦争のころより軽視され、陸軍士官学校卒業生のうち補給部隊希望したのは4に過ぎなかった。陸軍大将になったもの134人のうち実に補給部隊出身はゼロ工兵隊でさえもわずか3人である。

後方部隊が第一線よりも安全だというのは日露戦争までの話である。近代戦、特に飛行機兵器として使われ始めてからは、後方のほうがやられるのがむしろい。太平洋戦争に参加した軍人の戦死者は、海軍16陸軍20である。それにし、戦した員は43に達し、死者数は60545人(漁関係も含む)に及ぶ。10代の少年の死者が多い理由は、戦時特例によって員養成所、商学校、高等商学校などの卒業年限が大幅に短縮されたこと、そして船舶員の喪失を補うために大量の員要請が行われたからである。14歳から19歳までの死者数は、三割(19000人)を占める。
 船団の南方派遣については、今日に至るまで明らかになっていないことが多い。陸海が総力戦と高唱しておきながら、軍籍にあるものを優遇し、軍属扱いを軽視した。そのため軍属に関する記録は極めて少ない。ニューギニアで活躍した銚子、津の船団は、陸の船舶工兵隊指揮下で活動しているので、陸軍の手で編成されたものであろう。ところが佐世保の船団は海軍鎮守府が編成したものので、陸海軍が別々の船団を編成していたことになる。どれほどの船員が南に派遣されたのか見当もつかない。
 16年12月1日時点の日本海運(民間)の腹量は630万総トンである。これは当時、世界第三位であった。開戦後、軍部導により輸送を急増し、昭和18年112トン昭和19年158トンを建造し、総量は920万トンに達した。このうち終戦までに喪失した量は、2400余隻、800万総トンである。昭和18,19年に作られた戦時急造は劣悪であった。そのため波浪高く敵跳梁跋扈する外洋に出るのは、もっぱら民間商戦630万総トンの役であった。そして、日本海運が世界に誇った輸送客やタンカーは、ことごとくられた。軍艦とは違い、民間船舶のことについては活字になることが少ない

技術軽視

フィリピンマンガン産出量は、1941年は2万8000トンだったが、日本が占領すると年間200トンに落ち込んだ。またフィリピン世界クロムの産地で4年には14万8000トンを算出し世界2位だったが、日本が占領すると鉱山の火は消えてようやく1万トンというレベルに落ち込んだ。マレー半島鉱石日本が占領すると生産が5万トン以下まで減してしまった。戦前日本資本が操業していた鉱山なのに、この惨状とは信じられないことだ。ビルマも41年に8万4000トン亜鉛を5万1000トンタングステンを4200トンニッケルを740トン算出していたが、日本が占領するとこれらの産出量はすべてゼロになった。陸軍技術者徴兵してしまい、鉱山に技術者を送り込めなかったのである。採鉱治金の技術者、熟練した鉱山労働者兵士として小銃担いで中国大陸を歩き回っている構図だったのだ。これはすべての重要産業でいえることだった。その代わりに自称、他称の憂の士、愛国精神に燃えたる義者の登場だ。もちろん年配の鉱山技術者も送り込まれたが、鉱山のことなど全く知らない30代の佐官に怒鳴られたり、小突かれたりしたらやる気を失う。そもそもが軍政の失敗だ。意味不明の大を上げて軍にふんぞり返る習性はさておき、経済というものを理解しえる軍人がいなかったのが致命的だった。何の裏付けもない軍票を乱発しては、経済が大混乱して住民をそっぽを向く。切れ一枚で富を得ようとはが良すぎる。38式歩兵に代わる、41年に本格的な量産が始まった99式歩兵は不純物の硫黄リンにより、入内な折損事故が頻繁に起きた。

日本鋼管白石社長新聞紙上で次のような明を出していたことを私は今でもはっきり記憶している。「職場から召集されて出ていった熟練工を全部返してくれ。そしたらそれに数倍する徴用工を全部お返ししてしかも現在以上の生産を必ず上げて見せる」と氏は語した。 「農からの徴用はやめて食料をもっと増産してくれ、工業生産は都市の勤労者で責任をもって引き受ける。だがたちが力いっぱい働けるだけの食糧は確保してくれ」

関東工業という民間工場があり、20ミリ榴弾を作っていたが、そこのK社長が日ごろ語っていた「々は米国だけと戦っているのではない。帝国陸軍とも戦わなければ、この戦争は勝てない」彼がそう嘆いたのも理はない。民間軍需工場はすべて軍工監督揮下に置かれていたが、軍工は幹部から下級役人に至るまで極端な精神主義に凝り固まり、民間工場から提起する合理的な改善策は容易に取り上げなかった。
次に2例を上げる。工場建屋をそれぞれ100メートルくらい離して間に隠し、一方が被爆しても他方で操業が続けられるよう計画したところ、「軍が北に南にと作戦している中で、いたずら襲を懸念するとは何事か」といきり立つ。榴弾の製造方式を造幣では普通旋盤仕様と決めていたが、これをブランシャープあるいはインデックスの「自動旋盤」にすれば、一台で普通旋盤6-8台分の仕事をする。インデックス産化してこの仕事に充てようと企てたが、これもダメ「工員が、流して削り出した弾であればこそ、戦場で威力を発揮しるのだ。それを自動旋盤に削らせるとはもってのほか」。このK社長は間もなく解任された。
 今や軍の組織民生活を根底から破壊していく。その思いはみな同じだったが、一言でも本音を吐けば、たちどころに身の破滅となる。軍という武装した暴力集団を批判し、制動する力は、軍の内部はもとより、広国内のどこにも見当たらなかった。国との戦いで軍組織が叩きのめされる以外に解決道がない。終戦の今振り返ると国民は少なくとも帝国陸軍との戦いには勝った。ニューギニアの死者も、東京大空襲の死者も、沖、広、長崎の死者も、すべてこの勝利を引き出すために、避けることができない人身御供だったのではないか。

陸軍は最後まで、民間の知識も技術もその組織に合理的に組み入れて活用しようとせず、また、最後の最後まで知識人にも学生にも背を向けていた。これは志願兵が続出して大学になり、一方軍は彼らの知識・教養をパーセント活用したといわれる英とは実に対照的だ。さらに、切羽詰まって学徒を動員してもその知識を活用しよとはせず、ただ「量」として、幾何学的組織の中に位置づけることしか考えなかったから不思議である。そして量の面で大学生が的確でないなら、内務班で絞って、鋳にはめ込むべきだと考えても、技術とか知識が時には軍官に命を下しうるものだ、それにはどうすべきか、という発想は全くなかった。特許出願もできなかった。「特許とは個人の利益を保護する制度ではないか。それなのに滅私奉の叫ばれる今、特許出願とは何事か」という雰囲気が強かった。
 だがこれにも良い面があった。娑婆・地方の身分や技術能力によらず、いくら熟練の技術者だろうが、実績ある工学者だろうが、軍上級将校の下では皆土方や農民平等な奴隷なのだ。

 丸山真男東大教授 いわゆる「地方」では、どんなに高い階級にいたものでも、軍隊に入ったら、軍隊の階級秩序に従わなければならない。それが日本の軍隊の大きな特徴だ。「地方」の社会的地位やがらなんかはちっともものを言わず、族のお坊ちゃんが、土方の上等兵にビンタを食っている。何か、社会的な階級差からくる不満の麻酔剤になっていたと思われるのです」。

  アメリカ

 WW1後、アメリカはモンロー義をとり、産業の規模にべて小規模なものの、海軍は維持されたが、陸軍底的に軍縮された。陸軍は戦間期は13万5000人程度であり、36年より徐々に増強されたが1939年WW2勃発時も19万人とルーマニア軍より小さく、戦争の準備はできていなかった。WW1アメリカでも今後の戦争総力戦との認識があったが、新進気鋭のウエストポイント校長の方針は永田山ら日本陸軍とは逆だった。これからの士官は、軍人の美徳だけでなく、人間に感情についての深い理解、世界の情勢を深く理解し、揮の心理の変化に相応した寛大さも併せ持たなければならない。

理事会 校長、君の教育方針は、伝統を無視している。軟弱な将校を生み出すばかりじゃないか?
いや、これからは軍事だけでなく、内燃機関社会学、歴史学、統治や経済学の講義も行っていく。教官も毎年一かは一般市民向けの大学に通って近代教授法を学び、士官補生も給与と休暇を出してニューヨークで遊べるようにして外界との隔たりを緩和しよう。スポーツもバンバンやって他大学と交流だ。上級生下級生へのしごき止だ。

陸軍における研究開発費は総額が戦艦1隻の建造費の20分の1にすぎず、レーダーや近接信管とも全く縁がなかった。軍の給料は1920年以後上がっておらず、若手将校の多くはやりくりに四苦八苦した。WW1後に将校の地位は大戦以前に戻され、将校と兵士と問わず、昇進はまるで氷河の動きのように遅く、大佐に昇進するのが通常59歳で、マーシャルのような有能な将官でも、准将になったのはやっと56歳であった。多くの将校はマーシャルのように優秀でも幸運でもなく、わずかな予算でやりくりする中で、時代遅れの武器や装備でお茶を濁し、世界的な問題や際紛争への関与を考える時間などまずなかった。しかし教育改革により、陸軍士官学校再生され、レヴァンワースの要塞に新たにおよび揮幕僚大学も設立、WW2が勃発した時には多くの有能な若手士官を見つけることができるようになっていた。
 一方陸軍航空隊は、ウィリアム・ミッチェル准将を中心に空軍力の研究、宣伝を行い、陸軍からの独立を企図した。当時のマッカーサー参謀総長は独立は認めなかったが、空軍予算及び研究は割かれ、新しく開発されたノルデン爆撃照準器は高高度爆撃において驚くべき命中率を誇り、これまでの航空機より大幅に質の向上したB-17の4発爆撃機ボーイングで製造された。1935年には陸軍省は半独立航空部を設置し、すべての航空機戦闘部隊は単一の官の揮下に置かれ、その官は時は陸軍参謀総長に、戦時には地上戦域官に従属することになった。しかし41年2月の時点で航空隊の保有機はB-17の50機を含む500機にすぎず、最新戦闘機P40Bはゼロ戦の敵ではないことが明らかになった。41年の米国民のほとんどは空軍でなく海軍こそが日本に対する防の第一線とみていた。

海軍ではほとんどすべての士官はアナポリス海軍学校であった。陸軍は参謀総長マーシャルをはじめ、4人の軍官もウェストポイント出ではないのに、海軍では重要なポストアナポリスで占められていた。海軍学校スパルタ縄張り意識が強く、知的な面では貧困であり、教育上遅れていた。海軍戦争概念については19世紀末戦略アルフレッド・セイヤー・マハンたちの艦隊、制権、での一大決戦での勝敗を決するというアイデアであった。海軍研究開発計画は、陸軍よりもはるかに大きな予算を持ってはいたが、尽蔵ではなく、音響兵器レーダー、造工学で進歩はあったが一様でなく、米海軍世界で最高の潜水艦を持っていたが、その魚雷最低だった。ワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約により艦隊は制限され、グアムフィリピンへの基地強化までは許されなかった。

米軍の増強

ドイツの脅威と太平洋での状況の変化により急速に軍の増強を始め、1941年には150万人となったがほとんど経験のない新兵であった。海軍はまだ遠征を行える規模ではなかったし、戦艦空母はまだ造所で建設中であった。しかし産業は強く、石油や石炭などの天然や、広大耕作農地にも恵まれ、物資、戦車航空機などを連合軍に大量に供給していた。開戦後アメリカの膨大な資と生産力は、1945年8月太平洋には、1,137戦闘艦、14847の戦闘機2783の大上陸用舟艇と何千の小上陸用舟艇、400の前基地、152の洋上艦ドックを配備するなどとんでもないレベルであった。アメリカの産業界の総動員体制への転換に対し、軍需生産に特化した大盤振る舞いが行われ、関連予算は1500億ポンドまで膨れ上がる。「アメリカ陸軍は問題を解決したりはしない。問題をただ圧倒するだけ」(あるアメリカ将軍)。開戦後アメリカ徴兵はすさまじく延べ1611万人に及び、ヨーロッパ戦勝記念日における陸軍の総兵力はピークに達し830万であった。米海軍ピーク1945年7月末に340万となった。
 アメリカ軍として戦った兵船員は大半は民間人からの充員であり、国ほどのプロ意識はなく、ドイツ比較して戦闘力は70-80%といったところであった。民主主国の軍の士気は優れているとの幻想は、全体主国の軍との戦いの実戦にて崩れ去った。特に陸軍は対独戦では多くの死傷者や精神病者を出し、海軍は対日戦で多数の沈没艦と損傷艦、海兵も日本軍の固く守備された拠(硫黄・沖縄など)を攻撃するケースが多く多数の死傷者を出した。アメリは太平洋戦線では、大規模な火と兵器、補給体制により対抗した。

米軍展開

 第二次世界大戦中、のべ陸軍で約1120万人、海軍で約420万人、海兵隊で66万人が従事した。アメリカイギリスと違い、真珠湾により民世論がたきつけられていたため、日本ドイツと並ぶ敵と考えいた陸軍は43年末には総員の35の232万8427人が派遣され、対独戦線(大西洋西含まず)に141万6485人、対日戦線(アラスカ含む)に91万2953人であった。海軍は対独戦に39万1400人、対日戦に80万4800人であり、海兵隊はほとんど対日戦であったから、43年末では対独1810367人、対日187万8152人とアラスカを含めれば拮抗していた。44年1月1日陸軍海軍に割り当てられた戦争船舶は、太平洋で429万トン大西洋で530トンとこれも拮抗していた。

 しかし1944年からの陸軍の増強は、格段に対独戦に傾いていき、ドイツファースト現実のものとした。総じて陸軍空軍の人員の78%ドイツに対して配備され、22%太平洋に配備された。一方全海兵隊米海軍の70%太平洋に配備された。しかし陸軍海外兵数は海軍の3倍近くに達しており、1945年3月に540万人の海外兵を行い、対独戦に365万人、同時期対日戦146万人と大差がついた。米海軍海外兵のピーク1945年6月末で212万人、太平洋戦線のピーク時は1945年8月30日137万人が派遣された。1941年から45年の間に、約125万のアメリカ男女太平洋および他のアジアでの戦域で軍務についた。総じて米軍は1944-5年のドイツにかけて、対独戦のおよそ0.5-0.6倍もの戦力で対日戦に当たっていたことになる。米国は「日本との闘いに総戦争努力の4分の1以上も割り当てた」と述べた。

太平洋での戦闘

太平洋では、豪州からフィリピンにかけての南西太平洋マッカーサーが、残りの北・中・南太平洋すべてをニミッツ提督総司令官として揮した。領域内は陸軍海軍とも管轄部の揮下に入るが、太平洋艦隊のみはいずれの戦域でもニミッツ提督揮下にあると決められていた。

太平洋で任務に就いた陸軍空軍の軍人のうち、将校の約40、兵の33戦闘を経験した。将校と兵の各19が敵の火にさらされる経験を有したが、残る40の将校と45の兵は一度も戦闘現場を見ずに終わっている。太平洋の戦いは、短い戦闘と長い「待機」の時間が続くことに特色があった。ある陸軍師団は太平洋で19か間任務に就いたが、実際に戦闘を行ったのは31日間だけだった。別の師団の場合、27かのうち、戦闘日数は55日だった。これとは対照的に、ヨーロッパ戦線米軍部隊はしばしば、数かぶっ通しで、第一線で戦い続けた。(長い「待機期間」を別にすれば)、太平洋で短い戦闘を戦った将兵たちは、欧州の戦友よりつらい思いをした。外任務期間は長期に及ぶことが多く、リヴァプールのような整備された港湾はなく後方支援基地の多くは暑く不健康な未開の地に設けられた。1944年陸軍心理学者が二つの師団を対に実施した調によれば、一つの師団では歩兵66%、他の師団では41が、少なくとも一度、マラリア治療のために後送された経験を持っていた。すべての近代戦に共通して言えることだが、歩兵はその数に不釣り合いな、高い危険を背負わされる。アメリカ陸軍師団を例にとれば、歩兵部隊が全兵員数に住める率は70に満たないのに、死傷者に占める率は全体の90に達している。

WW2では、サルファ剤、ペニシリン、血漿などの新しい医薬品が実用化され、航空機による緊急輸送など新しい手法が導入された。その結果、負傷者の生存率はかつてなく高まった。通常、負傷者が最初に手当てを受けるのは、大隊ごとに前線から10ヤード以内に設けられる救護ステーションである。けがが重く、体を動かしても差し支えない場合は、後方の集結ステーションまたは送還ステーションに運ばれ、そこで治療を受け、送還を待つ。ニューギニアでは戦闘の初期は大きな病院設備を欠き、野戦病院すら設けられていないこともしくはなかった。ブナ・ゴナ作戦では、前線から1200ヤード以内に携帯用の外科キットが据え付けられた。この試みは大成功を収めた。しかし戦争の全期間を通じて、医療作戦上重要な役割を果たしたのは、陸路また路による傷病者の後送であった。航空機による後送も大きな効果を上げた。14機のC54輸送機は1か間に1隻当たり500ベッドを備えた病院6隻と同数の患者を運べたし、患者の死亡率100人当たり7人未満にとどまった。LST改造した病院の場合、改造されたデッキには負傷者の受け入れ室、消毒室、手術室のほか、78ベッドの病室と24のトイレ、洗面台が設けられた。海軍相は当初、LST病院改造することを許可しなかった。だが、すでにそれを実施に移していたマッカーサー旗下の陸両用部官、バーべ―提督は「不許可」の返事が記された海軍省の文書を「戦闘の際、一番失われる可性の高いファイル」にとじこんだという。木がもつれ合ったニューギニアソロモン密林で、輸送は人力による担架で行われた。ニューギニアでは担架に何日も揺られる長旅すらしくなかった。

 実戦体験者の中でも、戦闘中に死傷する危険に直面したものは少数だった。々しさには欠け、多数の将兵が体験した苦痛は倦怠と孤立感と寂騒であった。辺アリューシャン列島の気基地に勤務した兵隊は「何週間もぶっ通しに、来る日も来る日も長い勤の仲間といえば、戸外を吹きすさぶだけだった。を限りに叫びたい―そんな衝動を押し殺さなければならない時もあった。」

太平洋嶼では、食料はたいてい缶詰食品だった。戦闘中歩兵海兵隊員の一のねぐらとなったのはたこつぼの塹壕だった。戦闘作戦了した後ですら、生活条件はたいして良くならなかった。第一兵師団の記録班「太平洋の戦いでは、戦闘そのものより、その中間の期間がいかにつらく、気が滅入ることであったことか。最後に敵と火で交えたときの記憶を捨て去り、次の戦いに備え、気分を引き締めさせることがいかに難しかったか……。民間人や他の戦場で従軍した兵士にこのことをわかってもらおうとしても、それは報われることのない不毛の努力に過ぎなかった」

黒人兵と婦人兵

最初は共産主義者が、次に日本及びナチススパイ人種問題を仲たがいの原因として躍起になった。豪州では差別意識が根強く、シドニー内の人気あるミュージックホールダンスホールはたいてい黒人兵を締め出した。
 WW2前、軍務についていた黒人は4000人にも満たず、その数は1900年当時を下回っていた。1940年以降、軍は急速に膨していったが、軍首部は黒人兵を多数受け入れるのを避けようと努めた。だが最終的には100万える黒人男女が軍務についた。黒人の将校、戦闘機パイロット、さらには将軍も一人誕生した。だが大多数の黒人兵はいわゆる後方部隊に編入され、道路建設、港湾荷役、洗濯など、つらい肉体労働に明け暮れた。工兵隊や補給部隊に割り当てられた黒人兵は、太平洋、極東のほぼ全域で任務に就いた。第81航空整備大隊は、硫黄島日本軍狙撃兵火を交えながらB29用の滑走路を整えた。
 海兵隊には黒人兵は一人もおらず、海軍も給仕以外の黒人は採用していなかった。陸軍では太平洋の戦いに加わった黒人戦闘部隊のうち、実戦を体験したのは第93師団所属の黒人兵で、まずブーゲンビ島、続いてモロタ島、モルッ、サイパ島と転戦した。同師団の第24連隊はサイパ華々しい活躍を見せた。しかし最も話題を呼んだのは第25戦闘連隊だった。1944年4月、ブーゲンビルで初めての偵察任務に就いたが、ひょっこり機関銃座を守る日本兵と出くわした。戦場慣れしていない小隊兵士たちは慌てふためいて発、同士討ちを始めた。10人が死亡、20人が負傷した。これは確かに不名誉な出来事ではあったが、南太平洋ジャングル線では、ほかにも戦闘慣れしていない部隊が同種の事件を引き起こしていたし、特にひどいといえなかった。しかし黒人からなる戦闘部隊偏見があった当時の風潮の中で、この事件は「それ見たことか」とばかり、大げさに取りざたされる結果となった。事件後、25連隊は幾たびも偵察活動で見事な成果を上げ、一度などは、その偵察が元になり、モロタイ日本軍の高級将校一人を捕虜にすることもできた。

 対日戦争中、婦人兵が最も多く勤務したのは南太平洋戦場で、その数は約5500名に達した。マッカーサー軍は管理業務を豪州で募集した民間人に頼っていたが、米軍ニューギニアフィリピンに到達するに及び、こうした民間人が部隊とともに移動することは不可能となり、急に人手不足となった。このため、マッカーサー軍はWAACの余剰隊員を一人残らず駆り集める緊急手段をとった。
 南西太平令部のサーランド参謀長が愛人でもあった豪州人の女性秘書をWAACに潜り込ませ、一緒に連れていけるよう工作した。サザランドは、GFを含め3人の豪州秘書を同行することはマッカーサー将軍自身も望んでいるとして、思い通りに事を進めた。WAACのホビー大佐は、「WAACの将校はすべて、兵、下士官の中から選ば絵れる決まりになっており、部外者をかってに将校に任命するわけにはいかない」としく抵抗したが、サザランドに押し切られた。サザランドの策謀は後日、マッカーサーに入り、問題の女性秘書の夫が離婚訴訟を起こすと息巻いていることも分かった。このため、女性秘書は「サーカス魔術で、大砲から打ち出される美女よろしく、電光石火業で豪州に送還された」。だが時すでに遅く、事件はWAACの評判を大いに落とした。「WAACは将校連中の慰安婦に過ぎない」という誹謗が息を吹き返した。こうした事件にもめげず、WAAC所属の専門技術者秘書線技士、郵便、補給事務員、整備士は遠く本を離れたニューギニアフィリピンで職務を遂行した。

  イギリス

WW1が終了すると、自治領は、英本のために自の人材を犠牲にすることをするようになったが、一方で極東・太平洋地域での日本の脅威の増大から守ってくれることを英国に期待した。第二次世界大戦が勃発する前、豪州ニュージーランドの防衛費はGNPの1%未満だった。以前は英国の極めて重要な人的供給であったインドは、部隊インド外で使用することに反対し始めた。そして、1933年以降、英政府インド外にインド兵を展開する場合に給与を支給しなければならなくなった。1918 年の選挙法改正により、英国社会がより民主化され、英国の大衆は軍事費の削減と社会保障費の増額を要した。1934-7年、ネヴィルチェンバレン蔵相は、再軍備が経済民間部門にを与えたり生活準を低下させることはないよう試みたが、英国のGNPに占める防衛費の割合は 1935年の3から1939年には約18まで増加した。一方、ドイツの防衛費は35年のGNP8から、39年に23に上昇していた。
 1940年6、フランスが伏し、イタリアが枢軸側について参戦した。1941 年にかけて、英国の安全保障上の利益に優先順位が付けられ、英をドイの侵略から守ることが最優先事項にされた。大英帝国に関しては、地中海、そして中油田地帯の防衛が第一の優先事項で、帝国東部の防衛が第二であった。そして、極東の優先順位は最下位であり、英は豪とニュージーランドの防衛に関しては明確な証を与えることができなかった。英国は、中国の窮状に同情はしたが、戦略上の利益を考慮して中を支援し、日が満州を支配することに対して、ほとんど反対しなかった。1941年にはヒトラがソ連を攻撃した。ソ連との同盟を維持することは、欧の戦争において重要な考慮事項となった。1941年9、英貴重な戦闘機は、マレやシンガポールではなく、ロシアに送られた。

 イギリスは予算不足のため、大戦間に陸軍は大幅に縮小され、陸軍官の解雇もあった。海軍も予算が厳しく、キングジョージ2世戦艦保守的な設計であり、空母世界最高の防御力だったが、海軍航空機世界最悪だった。しかし、アメリカより多数の優秀な艦載機レンリースを受け、機動部隊はかなりの実力を有していた。大戦後半にはドイツ海軍が壊滅した為、一度は日本軍から叩きだされた太平洋戦域に投入され、日本軍特攻機と戦を繰り広げる事となった。幸いにも空軍は、敵であるドイツと同等の品質であったが、4発爆撃機ランカスターの量産に注力し7,000機以上を生産。大戦序盤の1940年からドイツ本土爆撃を続け、後に加わった米軍ドイツ本土の都市や生産拠点を破壊し、ドイツ空軍膚なきまでに叩きのめしている。太平洋戦域では戦場が高温多湿で整備に苦労し、戦闘で失うより多くの航空機事故自然消耗などで失ったが、1943年10月スピットファイアの配備以後は制権を獲得し、米国から供与されたダグラスC47輸送機尽の活躍でインパール作戦を圧勝に導いた。

英国の士気低下

イギリス軍の兵士ジャングル生活無能だとけなされていた。チャプマンは、二人の砲兵と二人のアーガイル部隊の若い兵隊と出会った。後者は、脚気のほかに性病を患っていた。少なくともビタミン欠乏症だけは治るよう、ビタミンBを与えた。「彼らの心構えは、ビタミンBでは治せない。彼らはその心構えのゆえに、ゆっくりと、しかし確実に死に近づきつつあった。私の経験によれば、たまたまマレージャングルに取り残されたイギリス兵士は、わずか数かしか生命が持たない。他の人並みの下士官なら、一年か、それ以上持ちこたえる……兵隊隊は、新しい生活様式にもの飯にも果物にも適応できない。この地獄で、彼らは数週間で死ぬと予想され――そして、その通りだったのである」。とはいえ、泰緬鉄道の工事現場からの逃走に成功したイーストサリー部隊ラス・パガニ伍長のように過酷な旅程を生き延びたイギリス兵もいた。

 WW1に参加したイギリス人が抱いた、純な奉仕と自己犠牲の精神、さらに「ジェントルマン理念」と結びついて、いまだ残っていた中世的な「戦いの理想」へのあこがれ、しかし結局ことごとく裏切られる、旧弊たる無能官、むちゃな命、参謀業務の不備による悲惨な結果。この大戦争の後、帝国はもはやそれ以前の姿に戻ることはありえなくなった。WW1終結により大英帝国の領域が最大限に達したあと、英国はその支配範囲をさらに拡大するのを避けようとした。費用が掛かりすぎて賄いきれなくなったからである。さらに、1920 年代初期になると、米国に対する英海軍の優位は終わりを告げた。アジア太平洋地域において英国米国と協力することを決定したのは、この時期であった。1920-40年代のイギリス人の多くは戦後イギリス政府大英帝国を長く維持できるなどとほとんど考えていなかったのは明瞭である。1945年ごろにはごく限られた英国民しかこれを欲さず、戦争費用の負担なんかまっだった。

ばかばかしいほどに大胆で攻撃的な日本軍とは大きな食い違いがある。この違いをビルマ戦を戦った英兵はのちに語る。

この理由は、日本国民が、イギリス人にとってのソンムやパーサンダーラのような、民の体質化した悲惨の戦いの記憶を持たないからだ。イギリス軍に加わった青年たちは戦争も軍の栄もすべて信頼できない巨大で残酷なにすぎないという価値の下に育ってきた。だが日本人戦争の欺瞞性という前提を共有してはいなかった。もっとも彼らも45年8月までには彼らも彼らのパーサンダーラをいくつも…(例えば、インパールとか)

それは一つの真理かもしれない。しかしこのような弱体なが、いまだ世界の4分の1を支配していることに、周りはどう思うか。

イギリスは弱い。すぐ撤退する。 武藤章軍務局長 こんな欺瞞だらけの連中はドイツ敗北して崩壊するな、その好機にイギリスの勢力を大東亜から駆逐するぞ。

英国にとってのWW2

すべきことは、WW2でのイギリス兵の戦死者は39.7万人、民間人を合わせても46万とWW1の半分以下に過ぎなかった事実である。しかもWW2欧州だけではなく、アフリカアジア戦場となったのにである。イギリスにとってWW2は、他の交戦国には見られない不思議な明るさが浮かび上がる。いまだ史上最大の帝国版図を誇りつつも、本では人々が寒の中を失業者救済の配給の列に並んだ1930‐40年代は、陰なトーンに満ちていた。そしてチャーチルがその死を迎えた60年代半ば、英国アジアアフリカ要な植民地からほとんど撤退し、大英帝国はすでにその清算をあらかた終えつつあった。60年代のイギリス欧州の一員としての「ビートルズイギリス」でしかなく、今や全く身軽となったさばさばとした「明るさ」を描いている。
 それは一つにはWW2では自由平和への脅威に対する正しい戦争という民的コンセンサス、WW1ではイギリス戦争への協力をあれだけ渋ったカナダ豪州民を含めた、帝国の諸民のコンセンサス、が広く存在したことも、この明るさの一つの理由であろう。「帝国ジレンマ」の日々に別れを告げ、ただ「勝利」だけをして進めばよいという吹っ切れた気分、多くの民がなんのために戦うのかを確かに知っていたのである。WW2ではダンケルク奇跡や栄バトルオブブリテン、スエズを背にしてロンメルドイツ機甲師団を独力で反返したエルアラメイン勝利、そしてアメリカ兵と肩を並べベルリンへのを切り開いたノルマンディー上陸作戦と、数々の英雄的な場面にられる抵抗勝利名場面があった。こうした明るさには、だがどこか憎めないリーダーも関与したのかもしれない。

海軍大臣チャーチル __,人__ ようやく儂の偉大さに気づいたか
 ̄'`Y´⌒ヽ 
   (`・ω・)
  民
うおおぉ、閣下、明るい!
(物理的に)

そんな英雄チャーチルも、戦後選挙大英帝国の栄と維持を訴えた途端に、英国民に首にされてしまったのだが。

  中華民国

 チャーチルルーズベルト中国戦争に参戦させておくことは重要であると考えたが、それ以外の点では異なっていた。英国は、中国軍事力を重視していなかった。そして、太平洋戦争終了後に香港中国に接収されるのではないかと懸念していた。一方、米国日本を打破するうえでの中国の潜在的な役割に期待していた。巨大な中国陸軍を再訓練し、日本本土に対する大規模な攻撃作戦の準備をさせることが可だと考えていたのである(だが、それは誤った判断であった)。その後、中国陸軍戦闘効率を向上させるために、米国ジョセフ・スティルウェル中将中国における米国軍事代表に任命された。また、スティルウェルは蒋介石の参謀長であり、中国ビルマインド戦域における陸軍官でもあった。しかし、中国は、英の初期の合同戦争戦略にとって重要な要素ではなかった 。
 食糧、燃料、武を中国に運んでいた輸送機は、徴兵された中国人を満載してラムガールに帰ってきた。到着した部隊はも武器もなく、疲れ果て、病衣人も多く、文字通り裸の者すらいた。セオド・ホワイト記者は書いている。「アメリカ人にとってラムガーはシベリアに等しく、ジャングの戦闘よりはややましと考えるのに対し、中国人兵士にとっては夢の国だった。彼らは生まれてはじめてほしいだけの食肉を飢えた体に詰め込んだ……訓練には本物砲弾銃弾を使った。面倒を見てくれる病院もあった。1942年から44年の間に、4個師団の中国軍がここで誕生し、中国史上初めての戦闘装備を身につけた」。ラムガールでの成功のカギは、スティルウェルの幕僚であったヘードンLボートナー准将訓練所を切り回し、予算、補給、糧食まですべて統率していたことにある。
 中国軍は西洋的な意味では軍と呼べない種類のもので、ほぼ旧中国の十二の省にあたる「戦区」に散らばる地方軍閥軍の寄せ集めであった。軍閥将軍たちはそれぞれの戦区令官の役割を果たし、その職分によって民生と軍事の両面を支配していた。おおむね装備は貧弱で訓練もできていず、戦令官の勢力を払植すること主な任務として日本軍とはめったに戦わなかった。総統に直属する軍隊は訓練も装備もまだよかったが、兵力は不足し火力にかけ、またその指揮官たちも武勲より総統への誠度で選ばれることが多かった。アメリの軍事使節団の一員は書いている「アメリカ人が一般に考えているような、中が日本軍の進撃を阻止し多く輝かしい勝利を収めた、という見方は幻想にすぎない。日本軍は多くの場合どこへでも進撃することができた。…中国軍には攻撃行動をとるだけの意志はまだ存在していないかった。
 中国の徴兵制度及び兵士の取り扱いを調査したウェデマイヤーの連絡将校の多くは、「これでは、訓練の効果が出るまで、兵隊が生き延びることすら難しい」とその実態にあきれ果てた。徴集兵用の糧食は極めて量が少ないうえ、何人もの手を経るうちにかすめ取られ、新兵が最初の任地につく前に病気や飢えのために死んでもおかしくないほどだった。「兵士たちは訓練基地まで行進して行く途中で骨と皮ばかりにやせ衰えていく。脚気の症状が現れ、足は膨れ腹が突き出し、腕と大隊肉は落ちていく」と、あるアメリカ人将校は書き記している。アメリカ側の糧食調達委員会がある補充兵集結所を調査したところ、徴集兵全が栄養失調、結核、脚気その他の疾病にかかっていた。「重症の補充兵たちは便所に隣接した厨房で自ら食事を作らねばならなかった。瀕の病人と隣り合わせに支隊が横たわり、何日間も放置されることもあった。」中国では、徴集兵の死は特別の利権を伴った。死の事実を報告しない限り、指揮官はその給与と糧食を横取りできたのである。調達委員会、補給将校、栄養学の専家などを動員して、ウェデマイヤーの部下は中国平素の食生活を基礎から改善しようと英雄的な努力を重ねた。そし肉体的条件を満たした健な兵士グループを作り出しはした。

 一号作戦が開始された時、重慶を特別訪問したヘンリー・ウォレス大統領は、蒋介石に対し、共通の危機に直面した今、共産党民踏破相互の相違点のに努めるべきであり、したがって、アメリカが北部の共産軍の拠点軍事使節団を派遣するのを認めてほしい、とめた。蒋介石はしぶしぶ同意した。デービットバレット大差を長とする、軍人と外交官からなるアメリカの使節団は(ディキシーミッション)は1944年7月、延安に入った。一行は共産軍にみなぎる活力と戦闘意欲に好感を持った。朱徳、周恩来毛沢東共産党幹部の形式ばらない、打ち解けた態度と率直さは、旧習守と儀式ばった形式義を旨とする重慶国民党幹部と好対照をなすものとして、使節団員に強い印を与えた。交渉は結果的には実を結ぶことはなかった。

  オーストラリア  

 カナダ南アフリカ独立していく中で、豪州英国の一員でありたいという保守的な要が強く、ウェストミンスター章は批准していなかった。従って英国の参戦により自動的に1939年9月3日に対独宣戦した(一方南アやカナダでは、宣戦布告議会しい議論を要した)。ロバート・メンジーズ首相は、英国敗北すれば豪州も終わりだと考え、戦意なかった豪州民も、この立場は受け入れた。
 1939年9月9に国家安全保障法が成立、政府が産業徴兵を導入することを能にし、男女が必須産業に令された。1940に配給が始まり、1942年に拡大した。

 優先順位が低い極東で、英国による豪州ニュージーランドの防衛は放棄され、41年シンガポール危機が迫ってくると、多くの豪州民は自侵略されることを恐れた。志願兵が募集され、地元防衛民兵が組織された。1941年5月メンジーズは4かに及ぶ海外出張から帰したが、大英帝国戦略の優先標の変更に関して取り付けることのできた保はごくわずかであった。逆に豪州の民衆を相手に、長らく豪州留守にしたことを弁明したうえで、悲惨なギリシャ作戦で生じた損失の理由を説明せざるを得なくなったのである。メンジーズの政策は、今回は労働党は支持しなかった。8月29日、メンジーズ首相は辞任し、アーサー・ファデンの短命内閣の後、1941年10月太平洋重視のカーティ内閣が成立した。豪州経済内および産業生活全体の全な見直しを行い、燃料、衣料品、食料配給が導入され(英国ほど厳しくはないが)、クリスマス休暇が短縮され、「停電」が発生し、公共交通機関が減少した。カーティンはチャーチルからの援軍をめ、そして歴史的な発表を表する。
豪州政府は…はこの太平洋地域における戦闘を第一優先とし、米国豪州が地域における民主主義営の戦闘計画の方針策定に関して最大限の発言力を持たねばならないと考えている。いかなる制約があろうとも、豪州英国との伝統的なつながりと同族意識にまつわる苦悩を振り払って米国に期待を掛ける」
 チャーチは激怒したが、シンガポールが陥落してからは、アメリに豪州防衛を任せざるを得ないと考え変えた。カーティンは、チャーチルに宛てて「シンガポール撤退は許しがたい裏切り行為とみなす」と書き送り、「豪州のための戦い」が続くと予測した。豪州は、武装、型戦闘機、重爆撃機、および空母もなく抗戦の準備が整っていなかった。豪州の精鋭部隊は、中でヒトラーと戦っていた。
 太平で戦争が始まったとき、豪の関係はかなり張していた。41年12月ダーウィ北からすべての女と子供たちを避難させ、日本の侵攻につれ1万人以上の難が東南アジアからやってきた。チャーチルは豪第6,7師団が中東から撤退して国の防衛に当たることに同意せざるを得なかった。

 1942年2月19日豪州本土が初めて敵に攻撃され、襲を受けたダーウィンは壊滅的被害を受けた。その後の19ヶ間で、豪州はおよそ100回も爆を受けた。豪州第6、第7師団を含む第一軍団の大部分は、1942年初頭に豪州に戻り、日本の脅威に対抗した。地中海にいる豪州海軍の全艦艇も太平洋に撤退したが、ほとんどの豪州空軍(RAAF)部隊中東に残っていた。豪州はこの危機アメリカ支援め、ルーズベルト大統領は、1942年3月フィリピンダグラス・マッカーサー将軍に、豪州へ脱出し連合軍の官となるよう命した。豪州1942年10月9日ついにウェストミンスター章を批准し、1939年に遡り適応するとした。全な権への最後のステップは、英国での1986年オーストラリア法の可決だった。同法は、豪州法律を制定する英国議会の権利を撤し、英国の役割をすべて終了させた。第二次世界大戦は、経済軍事および外交政策に大きな変化をもたらした。工業化を加速さ外交政策の焦点英国から米国に移した。より多様で際的な社会の発展ももたらした。

カーティンは日本軍が迫りくる中で、マッカーサー軍全部を差し出し、豪州防衛をゆだねる決断をした。未訓練の歩兵一個師団が到着したばかりの状態で、カーティンは外将軍国家運命を託したのである。42年中ごろは、陸軍師団2個に対し、軍は12個師団を有していた。カーティンの決断は尋常な精神力ではできなかった。マッカーサーカーティンの最高軍事顧問になり、豪州に前例のないを及ぼした。悪いばかりではなかった。南西太平洋部は、本土から専門を読んで現地産業に対する積極的な遊休設備の利用と技術導を行い、交通システムや流通機構の整備まで手を貸した。豪州の産業は発展し、補給物資等の米国への供与が被供与を大幅に上回った。いくつかの歴史は、カーティンが豪州に対する日本の脅威を誇しているとした。首相としてのカーティンの正当化は、1941-45年に実行可代替政府が存在しなかったことである。他の政治家がこの仕事には適していなかったことを認めている。彼の政府は印的な決定を下し、民のリーダーとしての成功を収め、豪州人からの敬意を獲得した。彼の控えめな尊厳、単純さ、簡単さ、虚栄心の欠如、個人的特権の拒否は、同胞の多くに受け継がれた。カーティンは重大な決定に対して全面的な責任を負い、重大な破綻を起こさなかった。彼は労働政策を放棄するのではなく、受け入れ可限界にそれを押し進め、それらの限界を掘り下げることに熟練していた。カーティンは1943年8月連邦選挙投票の58と議席の3分の2以上を獲得し、労働党を最大の勝利に導いた。カーティ首相健康状態の悪さに苦しんだ。1944年11月心臓発作に見舞われ、45年在職中に死去し、ベン・チフリーが後を継いだ。カーティンは豪州の最大の首相の一人として高く評価されている。

豪州軍の展開

防法(1903年)の下では、民兵も常駐軍(PMF)も、志願しない限り、豪州外には派遣できない。1939年9月15日に、Second Australian Imperial Force(2nd, AIF) が編成され、志願兵の第6,7,8,9師団が編成された。(第1-5師団はかつてWW11st AIF時に編成されたもの)
 オーストラリアはわずか人口700万とはいえ、マッカーサーも驚いた効率の徴兵・徴用によって、侵攻する日本軍の数倍の兵力を作りつつあり、最終的に百万人もの動員を行った。1942年に豪軍は12個師団に及び、43年に豪軍5個師団が大規模な攻勢を仕掛けてニューギニ島部の大半から日本軍を掃討した。しかし豪州はこの人的投入のレベルを維持することはできず、1943年後半軍事力を削減することを決定し、マッカーサーも合意。南西太平洋におけ豪軍の役割は1944年に減少、8個師団に縮小された。
 WW2での総死亡は39,688であったが、そのうち8,031人が日本の捕虜収容所で死亡した。日本の捕虜となった21,467人のうち14,000人しか生き延びれなかった。一方独の捕虜になったのはおおむねジュネーブ条約に従い扱われ、8,000人のうち死亡は265人に過ぎなかった。マレーシンガポール16000人の8師団兵等の兵が日本の捕虜となった。捕虜はアジア太平洋地域の収容所で、多くが大混雑したヘルシップ)での長航に耐えた。日本軍の捕虜収容所で死亡した豪州人捕虜の大部分は故意の飢餓と病気の犠牲者だったが、収容所の日本兵らにより処刑されたり虐待死したものも何人もいた。泰緬鉄道建設では約2,650人の豪州人が死亡した。何千人もの捕虜が日本に送られ、工場や鉱山で働いていた。アンボンとボルネオの収容所で捕虜は高い死亡率を示し、アンボンで77が、「サンダカン死の行進」で名高いボルネオの2,500人の豪州英国捕虜は99以上死亡し6人しか生き残れなかった。この捕虜の扱いは戦後体験者の口コミで広がるのは避けられず、多くの豪州人は戦後日本に敵対し続けることになった。
 一方、豪州の捕虜収容所において枢軸軍の捕虜合計25,720人伊兵18,432人、日本5,637人、独兵1,651人)が収容された。これらの捕虜はジュネーブ条約に従って処遇された。16,798人の民間人も収容された。これらには、オーストラリアに居住する8,921人の「敵国民間人」が含まれていたが、残りは他の同盟による抑留のためにオーストラリアに送られた民間人だった。 1944年8月5日カウラ近くの収容所で1104人の日本捕虜の約半分が脱出しようとした。警備員を殺し、400人以上がフェンスを突破した。しかしながら、すべての逃亡者は10日以内に捕獲されるか殺された。

豪州経済の変化

豪州経済WW2を大きく受けた。戦費支出は1939年GDPの4から44年の37に達した。戦費は1939-45年に2,949万£であった。戦争関連産業は発展し、豪州の産業部門は高度化し、多くの武器の自給率を高めることに成功した。39年工作機械を製造している企業は3社だったが、43年には100社以上になった。航空機自動車、電子機器、化学品などの軍事関連製造部門は陸軍のニーズのほとんどを満たすことができたし、高度な技術を要する軽量レーダーセット砲兵学装置、熱帯地方での使用に適した機器も生産した。さらには豪州科学者や製会社が熱帯病の治療に重要な進歩を進めた。ただし、戦車航空エンジン開発は失敗し、米国および英国の設計免許の下で製造されブリストル・ボーファイターとボーフォートが英国ノックダウン免許で生産された。
 軍隊の大規模な拡大は、男性労働者の深刻な不足と女性労働者の増加をもたらした。雇用されている女は1939年の64万4000人から1944年の85万5000人に増加した。1941年に軍隊の女性支部が設立され、1944年までには約5万人の女性が軍で勤務していた。人的資の不足は終戦に向かって重大な経済問題となり、軍は1944年より戦争産業と民間経済のため縮小することになった。多くの労働者は劣悪な条件下で長時間労働することを要され、人的労働法のために雇用を変更することができなかった。劣悪な労働条件は、労働者生活準を低下させる政府緊縮財政措置によって悪化した。その結果、ストライキやその他の抗議行動は、特に1943年以降、オーストラリアの生産を混乱させた。だが抗議行動は他の民間人や軍からかなりの批判を集めた。
 第二次世界大戦は、長期にわたる豪州経済成長の始まりだった。戦争は製造業部門の規模と重要性を大いに増大させ、そしてより技術的に進歩した産業の発展を激した。ま米陸軍もヒュー・ケーシー工兵隊長はじめ、高い技術力を持つ将校が派遣され、港湾、道路、飛行場などを豪州と協力し次々設営し、また航空関連の技術協力により航空部品や船舶など様々な補給物が豪州で調達能となっていった。多くの労働比較的高い能レベルを習得し、女性の労働力参加率が大幅に上昇した。製造業は戦争で著しく成長した。

米軍との関係

米軍将兵が最も違和感を感じずに溶け込めたのは豪州であった。ビールもあれば、バス電車も走っていた。42年から3年にかけて、豪州にやってきた兵たちは、日本軍の進撃におびえていた豪州民から”英雄”として迎えられた。ガダルカナルからメルボルンに転進してきた第一海兵隊師団を、市民は「豪州の救済者」として熱に歓迎した。「どのでも熱い紅茶を沸かし、兵が来るのを待った。外でお客の”アメちゃん”を捕まえ、まで案内してくるのは子供仕事だった。」豪州新聞MLBの試合結果を掲載し、メルボルン内のホテルレストラン女性給仕はアメリカ料理の調理法を仲間内で教えあった。お返しに兵はチューインガムコカ・コーラを教えていった。米軍の到着から日ならずして豪州民は将兵をその庭に受け入れ、友情きずなは長く続いた。第一海兵隊師団がメルボルンを去って1年以上たったのちも、同師団の将兵がメルボルンとやり取りする手紙は本手紙を上回った。多くの米軍将兵が豪州に好感を持ち、豪州を憎からず思った。100万兵が豪州通過したが、豪州では、少なくとも1万5000人の同女性兵と結婚した。うち、数千人がアメリカに移住し、人口わずか700万の“島大陸”に「この調子では人口が干上がってしまう」との不安を呼び起こした。
 時の経過とともに、豪国民の間でも、米軍将兵に対する反発が強まった「彼らはジャップから豪州を救ってくれた。それにしても心らありがとうを言うにはこにヤンキーが多すぎる」。他国と同様、豪国民米兵が自分たちより高い収入を得ていることに反発し、水のように金をバラま米兵もいて、地元民の顰蹙を買った。の女米兵親交を結ぶ姿を見せつけられることは最も癪に障った。「連合軍の兵士と付き合っている女性の多くは、貪欲と利主義に精神をむしばまれており、豪州伝統の道に泥を塗っている」。メルボルン近郊に駐留していた精神異常の二等兵、エドワー・レオンスキーが三人の豪州女性を惨殺した事件国民の恐怖心を一層強めた。「この調子ではアル・カポネの同類が制服に身を包んで、何人米軍に紛れ込んでいるやら知れたものではない。」。ヤンキーが悦に入っているところへ、豪州兵が休暇で一時国してきたとき、トラブルが生じるケースが多かった。44年11酒に酔っ米兵と豪州兵が衝突、3時間半にわたる無料の”乱闘ショー”を繰り広げる騒ぎが起こった。
 だが、こうした暴力沙汰に至るケースはまれで、両者は戦争が終わるまで、慎重な協力関係を維持した。豪米兵がどんな違和感、不便を感じたにせよ、中国インドの異質さ比べれば物の数ではなかった。

  インド  

WW1イギリスの出征軍人は390万人を数えたが、これに対しインド150万人を動員し、そのうち実に110万人のインド兵士海外の戦線に送り出した。しかもこれらは、すべてインドの自前の出費(イギリス植民地政府へのインド人からの徴税収入)によって負担されたのである。

インド総督を務めるリンリスゴウ卿はきわめて傲慢なうえに政治的にも経済的にも無能で、独立を願うインド会議イギリスの官営は、すでに戦争前からぎすぎすしていた。労働党スタフォード・クリップスのイギリス使節団は、この戦争が終わったには、インドに対し自治領の地位を与えるという譲歩案を出したが、ガンディーらはこの提案を出し遅れ文と呼んだことは有名である。ガンディーらは「インドから出ていけ」運動を行い、ただしその部隊だけは対日防衛に必要なため、インドにとどめおくことを要した。会議は「インドから出てゆけ」決議を採択した。その翌日8月9日会議の幹部らはひとまとめに逮捕された。そのニュースで、チャーチルにとっては起こるはずのなかった反乱がおこった。インド全土で、会議の同調者たちが、導者もないまま怒りと決意をもって反乱を起こした。大規模なデモ暴動、数えきれないサポタージュがインド全土に巻き起こり、8月の終わりには死者は1000人をえ、10万人の会議同調者が投された。60大隊の英軍とインド陸軍治安を保つためにくぎ付けになった。ある政府記録では、1942年8月から翌年12月までの間、600件以上の爆弾事件、500件に近いサポタージュが起こり、200か所の警察署と750に及ぶ政府関係の建物が破壊されるひどい被害を受けた。この暴動は、イギリスインド支配の終わりが実際に始まったことを示すものであった。この時から、心ある植民地官吏は、自分たちがインドで過ごす日々ももう残り少ないことに気づいていた。

1939年の通常のインド軍は20万人だったが、戦争中に10倍に拡大し、小規模ながら海軍および空軍も作られた。 200万人以上のインド人が英国陸軍の兵役に志願した。英領インド250万人以上の兵士兵し、彼らは、特に中東および北アフリカでの多くの戦いで要な役割を果たした。87,000人をえるインド兵(現代のパキスタンネパールバングラデシュを含む)が死亡、さらに34,354人が負傷し、67,340人が捕虜になった。死亡のうち36000以上が戦死または行方不明、うち24,338人が戦死、11,754人が行方不明である。1942年に6万人以上がシンガポールで捕虜となったが、2万5000人がインド民軍に参加し、拒否したものはニューギニアに労務者として送られた。行方不明(おそらく死亡)の大半はここから出た。WW2ではロンドンインド軍の費用の大部分を支払ったが、これはインド国家債務を消去する効果があった。戦争は13 億ポンドの黒字で終わった。さらに、インドで生産された軍需品(軍服ライフル機関銃、野弾薬など)に対する英国の多額の支出により、繊維(16増)、鋼(18増)、および化学(最大30)などの産業生産が急速に拡大した。小さな軍艦が建造され、バンガロールに航空機工場が開設された。70万人の従業員を擁する鉄道は、輸送需要が急増した。

  フィリピン

1935年フィリピンアメリカコモンウェルスの地位を付与され、総督は高等弁務官と名を変え、10年後の独立約束された。マヌエル・ケソン大統領選挙で選出され、農業改革、経済措置を通じてフィリピンの貿易を促進した。またケソンは旧友マッカーサーフィリピン軍創設のため雇用した。ルーズベルトは参謀総長とは緊した関係だったけれどもその功績は認めており、フィリピンの高等弁務官の地位を打診していたのだが、フィリピン軍「元帥」の地位と高給につられたマッカーサーが選んだのだった。

フィリピン軍創設の困難と失敗

フィリピン陸軍の予備役訓練は失敗と不満が目白押しであった。訓練キャンプは準備が整っておらず、予備役の訓練を受けおける優秀な指揮官はいなかった。訓練コースは5か半の基礎、および応用歩兵訓練で構成されていた。初歩的な軍事導のほかに、このプログラムは多くのフィリピン青年読み書きの講座提供し、彼らの人生で初めてとなる適切な健康管理や栄養を考慮した食事体力向上プログラムを供与したのである。しかしながら、訓練期間終了後、各自のへと帰郷すると、青年たちはすぐさま栄養失調になり、訓練以前のような脆弱な体に戻ってしまうのであった。その一方で、フィリピン陸軍のために武器を調達するのに苦闘していた。陸軍省と務省はともに、合衆への政治的忠心が定かではない数万の人々に武器を配備することを拒否した。三年半経過後も、師団単位の訓練を行った師団は皆無歩兵隊と砲兵隊の共同戦略訓練も全く同様であった。一、フィリピン正規師団がその軍事演習を行ってはいたが、近代的通信も十分な装備品の供給もない中での演習茶番に等しいものであった。予備師団の状況はさらに悪かった。たいていの予備役は銃器が不足していた。ほとんどのフィリピン人は英語を話さなかった。彼らは不明瞭な部族語を話し、それは他のフィリピン人でさえ理解できなかった。各フィリピン師団に配属されたアメリカ人将校は途方もない難題に直面し、衝撃を受けたのである。
 この防衛計画は小規模な海軍の創設求め、50隻の魚雷艇から構成されていた。米海は興味を示さず、彼が魚雷艇を建造させようとした時には、それは違法であるときっぱりと拒絶した唯一手に入る魚雷は英国製であった。アイゼンハワーが購入に必要な金額を知ると「悄然とした」。一隻につき25万ドルもするのである。50隻買うには1250万ドルかかり、それはフィリピン防衛予算全体の18か分以上の金額に相当したので不可能であった。
 マッカーサーは、援助が得られるのであればどこにでも彼自身能力を生かそうとした。ケソンは安なエネルギーを供給しるフィリピの水力発電の能性を利用することを望み、フィリピン電力化初会社が設立された。同社は、評価の高い陸軍技官ルシウス・D・クレー大尉とヒュー・J・ケーシー大尉の二人をダム建設の監督のために合衆から招聘したのだ。この策略は実にうまくいった。ケーシーは最終的にマッカーサーの参謀の一人となり、WW2を通して彼とともに過ごすことになった。
 
 ドイツのポーラン躙にケソンが衝撃を受けた39、フィリピン陸軍をめぐるマッカーサーの楽観的な報告は、優秀なフィリピ令官から受けていた悲観的な説明とは極端に食い違っていた。実質的に何の近代兵器もない状況で、フィリピン防衛網が能するにはまだ長い期間が必要であると。マッカーサーに「騙されていた」とケソンは苦々しく不満を漏らした。ケソン訊ねた。日本が侵略を決意したならば何が起きるのだろうか。マッカーサーは砲弾やその他の需要物資が輸入され続ければ、半年間は戦うことができるだろうと答えた。ケソンは「日本軍が攻撃してくれば、海軍もなしに、どのようにして物資を輸入できるんだ?」とうろたえて問いただした。「では、何が日本の占領と支配からミンダナオを守ってくれるんだ?」とケソンは聞くが、これにもまたマッカーサーは防衛の証を断言できなかった。ケソンはぶぜんとした。ケソンは、マッカーサをアメリカへと連れ帰るようセイヤー高等弁務官に要請した。セイヤーは喜んで引き受けるつもりだったが、要請書なしにはしようとしなかった。ケソンは軍事顧問を切る書類を残すつもりはなかった。ケソンはこれ以上連絡したくなかったので、これからはフィリピン大統領秘菅ホルヘ・バルガスと対応するようマッカーサーに通知した。彼はこの屈辱的な新しいやり方に耐えた。彼にとっては厳しい時代だった。1940年12「タイム」誌のジャーナリストのセオド・ホワイがフィリピンを訪問した。彼はフィリピン軍管区本部まで出向いたが、グルナート比米軍中将の広報担当官にマッカーサーと話しても意味がないといわれた。「彼はアメリカ陸軍で大し響力がないからね」

 1941年8月マッカーサーの現役復帰はこのような空気の中行われた。それはマッカーサーの物言いや警告のせいではなく、大統領日本の膨政策に対して何らかの反対する姿勢を望んだためであった。悲観義と敗北義は、結局は、アメリカフィリピンのために戦うと思われたとたんに突然散した。陸軍相は、フィリピンを見限るとする意思を転換した。合衆フィリピン防衛を行わないとわずかにほのめかしただけでも日本軍は助長するばかりかフィリピン侵略をもたらすかもしれなかった。この状況下では、フィリピンのために断固として戦う約束が幅広く言されることが必要であった。アメリカ極東陸軍が設立されて、フィリピン陸軍アメリカ陸軍の管轄下におかれ、揮が統一された。それは兵2万(多くが陸軍航空隊)、アメリカ軍配下のフィリピン師団1万、フィリピン陸軍12万からなっていた。

オレンジ計画の

 しかし防衛の現実は変わらなかった。戦争計画オレンジ・3ではリンガエン湾への敵の上陸阻止めるものであったが、もしそれが失敗に終われば(フィリピン師団を鑑みれば、それは確実に起こりそうであった)バターンへの部隊を退却しなければならず、アメリカ海軍の増援までマニラ湾の維持に努めなければならなかった。その作戦における海軍の役割は、戦闘行為の開始とともに南方への速な後退をめていた(後に日程は特定しない戦線復帰を約束していたが)。ジョナサンウェイライト准将オレンジ・3をしく非難「防衛は積極的であるべきで、受け身ではいったいどうするのか!、防衛は反撃につなげるべきだ」。マッカーサー中将オレンジ3に縛られずフィリピン全土のために戦闘する意向を説明し、ウェイライトにルソン部隊揮を任命した。
 米軍アジア艦官トミ・ハート海軍大将は、依然として戦争計画オレンジで割り振られた役割を遂行し、アジア艦隊をインド洋へと撤退させるつもりであると述べた。

 マッカーサーフィリピン陸軍戦闘力を信頼していなかったが、それでも、少なくともマニラ湾を防衛するのがアメリカの政策であった。彼はフィリピン人の役割を見つけなければならなかった。期待は、こうした兵士たちが、装備不足で、訓練不足で、統制にかけているが、自分のや県のために献身的に戦おうとするかもしれないといったことであった。実際に多くの人々がしきりに戦いたがっていた。チェノウェスが持ち込んだ2000丁の旧式英製エンフィールド小銃で武装し、を持ってない者に対して矢で武装させ、将校たちにナイフを与え、ジャングル日本軍部隊を奇襲する訓練をさせるのであった。

10月末にマッカーサー陸軍中将ハート海軍大将は総合的な合衆戦争計画案レインボー・5の最新版の冊子を受け取った。この計画は世界全体をカバーするもので、フィリピンを扱ったセクションはオレンジ・3とほぼ同内容であった。すなわち、海軍は撤退し、陸軍はマニラ湾の敵勢力の手に落ちないようにするものであった。海軍の戦線復帰の時期については相変わらず記載がなかった。アメリカ極東軍の役割が決死であることが暗に示され、その運命は見事に散ることにあるが、できる限り最後の抵抗を試みることである。マッカーサーは憤然とし、マーシャルに要請した。彼はフィリピン陸軍の創設が少なくとも列防衛を可にし、旧版の戦争計画を時代遅れのものにしたと強くするのであった。近代兵器が欠如している現状にもかかわらず、陸軍省が約束した大量の増援物資のおかげで、戦闘準備する十分な時間が確保できれば、フィリピン防衛の的がようやく実現可のように思われた。航空部隊は拡充され、11月には10万トンの補給物資が向かっており、さらに100万トンアメリカ西海港湾の埠頭に用意され、輸送船舶を待っているところであった。もし42年であれば、かなり違った戦いを見せていたただろう。マッカーサー日本軍は少なくとも季の終わる1942年ごろまでは進行を開始しないだろうといった。しかし諸将はマッカーサーの予測が「熟慮された見解というよりは希望的観測」であると感じていた。独ソ戦に苦しむソ連の崩壊を防ぐため、すでに石油は禁輸され、戦争までもはや時間はなかった。

11月27日陸軍省はハワイフィリピン陸軍官に「日本との交渉段階は終わりを迎えているようだ。…いつ敵対行動がとられてもおかしくない状況である」この通達を受け取り次第、マッカーサーは野戦指揮官たちに警告を発し「至急想定しうる自体すべてに対策をとり、必要な行動をすべし」と通達した。海軍省はハートに対してさらに露メッセージを送った。ハートははっきりと「これは開戦警報である」と伝えられていた。ハート巡洋艦と、さらに旗艦までもルソンから退避するよう出向させたのである。

フィリピンの防

 先見の明があり革新者でもあったマーシャルは、合衆軍の中で最も卓越した軍人であったが、空軍力に理解という欠点があった。ドイツ軍のシュトゥーカ急降下爆撃映画を受けたマーシャルは、陸軍航空隊に使えないA-24急降下爆撃機を大量に配備するよう強要し、航空幕僚に強い失望感を与え、彼らは彼に反論するよりも口をつぐむことを選んだ。また彼ほどB-17を信頼している者はいなかった。「飛ぶ要塞」はアラスカハワイパナマフィリピンといった前基地を難攻不落にするかもしれない。マーシャルとスティムソンは、たとえB-17が一機たりとも進行中の軍艦への爆弾演習をしたことがなくても、そう望みたがった。しかし当時実戦闘B-17を使用したのは英空軍のみであり、そこでは役立たずと評されていた。1941年時点で配備されていたB-17は尾部、機首、密封式燃料タンクを備えていないCDであった。マッカーサー幻想は抱いていなかった。ジョージ空軍大佐の報告で、日本軍フィリピン進行に1000陸上爆撃機1000機の戦闘機を投入することができると結論付けた。通常保持してる航空機の25メンテナンスや修復中になることを仮定すれば、フィリピン防衛には1500機が必要で、この規模の作戦のためマッカーサーは32の飛行場が必要であるとした。41年、彼には7か所の芝生の生えた仮設飛行場から100機に満たない航空機しかなかった。彼はすぐさま、工兵たちにフィリピン全土で飛行場になりそうな場所を探索させた。極東航空部隊ルイス・ブレアトン少将11月3日に到着し、主任工兵将校であるヒュー・J・ケーシー大佐が軍用飛行場の建設を始めた。
 マッカーサは日本の空軍力の脅威を評価し、陸軍省の警告後の12月1日極東空軍にマニラから北部の飛行場を基地にしているB-17を、ミンダナにあるデルモンテへ移動するよう命を下した。ケーシーはミンダナオのパイナップル大農場で、1500人の労働者を動員し、たった2週間でB-17が着陸できる滑走路に作り替えていた。クラーク飛行場から500マイル南にあるデルモンテ飛行場は、ルソンから300マイル北部にある台湾にある数多くの飛行場の日本空軍の攻撃範囲から十分外れていた。一方で新しい空港には重大な欠点があった。快適な将校クラブが設置されていなかったのだ。パイロットはミンダナに行くことを拒否、ブレアトンマッカーサーの命無視した。
 一方で、12月4日ケーシはサーランド参謀長に、現在デルモンテ飛行場が使用能であるにもかかわらず、重爆撃機が一機も南部へ送られて来ていないと知らせた。サーランは激怒し、ブレアトンの参謀長に電話し、容赦なく叱責した。「おはマッカーサー将軍がミンダ島へB-17を退避させよと命したことをわかっているだろ。いったいなぜ一機もあそこにないのだ?」ブレアトンは翌日しぶしぶデルモンテ飛行場に16機の重爆撃機を移送したが、残りの19機がクラーク飛行場に配置させたままにしておいた。12月7日日曜日にマニラホテルパイロットたちとブレアトンの栄誉を称える大パーティを計画していたのだ。パーティは大成功だった。パーティに立ち寄った提督がいまにも攻撃が始まるかもしれないとブレアトンに忠告したにもかかわらず、パーティは午前二時まで続いた。

開戦、および経過

1941年12月7日日本時間8日)、日本真珠湾、グアムウェーク島を攻撃した。同日、日本軍イギリス植民地香港マレーシアアメリカの支配下にあったフィリピン、およびタイへ進攻し、太平洋戦争が始まった。

1941年から1942年

日本海軍は予想はかに上回る速さで欧植民地を占領した。

真珠湾攻撃

詳細→真珠湾攻撃

 真珠湾攻撃12月7日日本時間8日午前3時)、日本海軍連合艦隊長官山本五十六の命により、南雲忠一率いる機動部隊は、真珠湾を爆し(真珠湾攻撃)、8隻のアメリカ軍艦、188航空機が破壊され、2403人の死者をだした。

 真珠湾攻撃前は、アメリカイギリスソ連レンリースを行っていたが、アメリカのモンロー圧力団体アメリカ第一義委員会はこれに強く反対していた。しかしこの反戦運動も攻撃後に消えた。12月8日アメリカ日本宣戦布告を行い、イギリスカナダオランダ中国がそれに続いた。翌日にはオーストラリアが対日宣戦を行い、3日後にはドイツイタリアアメリカに宣戦を行った。12月8日夕、天皇両国に対する宣戦の詔書が、内の官庁や地方役所に配布され、夕刊に掲載され、英に宣戦を宣言したとみなされた。ヒトラー真珠湾攻撃を歓迎し、アメリカ日本軍の対応に忙殺されれば、イギリスソ連への援助物資は先細りし、ヨーロッパの問題に干渉する余裕はないだろうと考えた。しかしヒトラー英両軍がまずドイツを先に敲く方針で同意していたことを知らなかったし、度重なるドイツの要請にもかかわらず、日本戦争的はあくまでも資獲得で、その為の南進が最優先であり、対ソ静謐が日本外交の中心であったことも認識していなかった。孤立義、中立義だったアメリカに対する真珠湾奇襲によりアメリカにおける大動員が可となり、大徴兵と巨大産業の鳴動が始まった。

南方作戦

 フィリピンでは、防御軍は1941年11月30日の段階で1万6600人の米軍と1万2000人のフィリピン人からなる3万1000人ほどで構成されたアメリカ極東陸軍だけだった。開戦と前後して予備役の動員が行われ、ダグラス・マッカーサーの手元には理論上13万の兵力が存在するようになったが、その圧倒的多数はフィリピン人で構成された訓練途上の予備部隊に過ぎず、小銃大砲にも不足するありさまだった。

 12月8日マッカーサー真珠湾奇襲の報告を受けていたが、台湾への先制爆は行わず、フィリピンを警させたのみであったが、これは失策で、台湾よりの日本軍の先制爆により、クラークフィールドアメリカ航空機の大半が破壊された。日本軍12月10日ルソン北部に、12日南部レガスピーに上陸した。マッカーサーは増援が来るまで持ちこたえる考えであったが、ワシントンは対独戦を優先しフィリピンに軍を派遣する意思はなく、巡洋艦ペンコーラ率いる輸送団はオーストラリアに退避した。本間率いる第14軍力4万3000人は22日マニラ北西のリンガエン湾に上陸し、訓練不足のフィリピン兵は一蹴され、フィリピン全体で防衛するマッカーサーの思惑は打ち砕かれた。ここでマッカーサーは26日マニラ防備都市宣言し、アメリカ軍はマニラ湾の西側に伸びるバター半島およびコレドールに麾下の部隊を移動させ、そこを拠点に立てこもった。1942年1月2日日本軍はマニラを占領した。1942年1月9日からの日本軍の第一次攻撃は、バター半島での地構築とフィリピン軍の奮闘により、多数の犠牲を出し、2月8日攻略中断に至るなど苦戦した。しかし、物資の不足は深刻で、バター半島の物資は4万3000人の軍の予定で集められていたが、最終的に総勢8万の軍と2万6000の難民となった民間人がバター半島に殺到し、それを養う食料および医薬品(特にキニーネ)は不足し、マラリアデング熱が流行した。アメリカからの増援は期待できなかった。

バターンの地下壕に立て籠もり出てこないマッカーサーに対して、将兵たちは「ダグアウトダグ」と揶揄していたが、その後ルーズベルト大統領からマッカーサーに直々のが届き、3月12日に多くの兵士を置き去りにしてオーストラリアに逃走すると、将兵らは「ダグアウトダグの歌」を作り、恨み節を歌いながらジョナサンウェイライトの元、50,000名近くにも及ぶ大量の死傷者を出しながら、食糧や弾薬も欠く中で勇敢に戦った。フィリピン軍は1942年5月に降し13万名にも及ぶ大量の捕虜を出す事となった。

日本軍勝利の中で悲劇も起こっている。ミンダナの大都市ダバオには古くから日本人社会が根ざし、フィリピン戦時点で約20,000名の日本人が居住していたが、ダバオを防衛していた米軍ダバオの日本人監禁すると、男は有を言わさず殺婦女子は小児に至るまで虜辱し虐殺、その人数は4,000名以上にも上ったという。日本軍坂口部隊ダバオに突入し残った日本人1万数千人を救出したが、坂口部隊の進撃が遅れていればより多くの日本人が命を落とすところであった。

フィリピンより魚雷艇で脱出したマッカーサーは、事にオーストラリアに到着すると、南西太平洋連合軍最高官に任命され、オーストラリアからの連合軍の反攻の揮を取る事となった。

 12月8日よりウェーク島攻略作戦が行われ、空母エンタープライズによってF4Fワイルドキャットが補充されていたが、日本軍の奇襲攻撃により、戦闘機の大半が破壊された。しかし防衛軍は奮戦し、残存F4Fワイルドキャットの活躍もあり、日本軍駆逐艦疾風」が沈没、旗艦「夕張」なども大きな損を受け、日本軍は上陸を断念した。真珠湾から帰投中だった第二航空戦隊や、第八艦隊などの増援を受け敢行した第二次攻略戦は多くの負傷者、死者を出す大苦戦となるが、25日なんとか占領した。アメリカ拠点グアムも同日に陥落した。

 イギリスオーストラリアオランダ軍は、ドイツとの2年間の戦争において人員と物質を北アフリカ中東に供出されていたため、日本軍の攻勢に強く抵抗できなかった。特に本ドイツ軍に占領されたオランダは脆弱であった。1941年12月8日マレー半島北端に奇襲上陸した山下奉文中将率いる日本軍は、55日の進撃で1942年1月31日にはマレー半島南端に至った。12月10日にはイギリス軍の戦艦レパルスプリンスオブウェールズ日本軍襲により沈没した(マレー沖海戦)。タイ日本の進駐を黙認し、12月21日に正式に日本と同盟し英に宣戦した。同ラングーンでは爆が行われ、ドックが焼失し、1000-2000人の死者がでた。香港12月8日に攻撃を受け、25日に陥落した。

 1942年1月日本軍ビルマオランダ領東インドニューギニアソロモン諸島に侵攻し、クアラルンプールラバウルを占領した。連合軍はマレーシアから駆逐された後、シンガポールにて抵抗したが、アーサーパーシバル中将2月15日し、13万のインドイギリスオーストラリア兵は捕虜となり「大英帝国史上最大の敗戦」と言われた。日本軍インド兵士6万5000人を捕虜とし、2万5000人をインド民軍に編成した。マレー作戦中及びシンガポール占領後、華僑による抗日活動も盛んとなり、山下泰文中将治安維持と援の遮断のため敵性華僑の掃討・処断を命じ、辻政信中佐の活躍もあり、約2400名(戦後軍事裁判の訴状による)敵性華僑が処刑された(シンガポール粛清虐殺)。さらにアレクサンド病院などで多数の医療者、病人の処断が行われた。2-3月スラバヤ沖海戦連合軍は日本海軍敗北し、ジャワ島スマト連合軍は降した。

 3-4月には強力な日本海軍インド洋に襲撃を行い、セイロン沖海戦にてイギリス空母ハーミーズほか多数の連合軍の艦艇が撃沈され、イギリス海軍インド西部への撤退を余儀なくされた。これによりビルマインドへの日本軍の攻撃へのが開かれた。ビルマでは、イギリス軍が首都ラングーンからビルマインド地を構築していた。これは中国国民党への援ルートの一つであった。戦争イギリスインド軍は20万に増強されたが、多くは訓練不足、装備不足であった。日本軍3月8日ラングーンを占領した。これを受けて、援ビルマルートの確保のため、中国遠征軍はビルマ北部で日本軍と交戦した。しかし4月29日ラーショーが占領され、5月1日中部の要衝マンダレーが占領されると、連合軍は総退却に移った。撤退は5月中旬より始まったモンスーンの中で行われ、多くの難民、落者、飢饉、捕虜を伴った。

 中国での合作武漢作戦での頂点から、両軍が領域を拡しようとしたため冷却していった。民族ゲリラ領域のほとんどは最終的に共産主義にとってかわられた。一方国民党の勢力の多くは、蒋介石の同盟武将で、120万の軍のうち65万が直接支配であった。これらの中国軍の統一性のなさは日本軍の攻勢に有利だった。

オーストラリアへの攻撃

 太平洋戦争開戦時、オーストラリア軍の力はほとんど地中海で戦っており、準備不足であった。イギリスからの援軍もめていたが、アメリカへの支援めた。シンガポール陥落時1万5000人のオーストラリア兵士が捕虜となった。1942年初めにはニューギニアの戦いが始まり、2月19日にはダーウィン空襲が行われ、少なくとも243人が死亡した。以後19か間でオーストラリアに対して約100回の襲が行われた。中東から2個師団のオーストラリア軍が返還され、チャーチルビルマに転用したかったが、オーストラリアカーティ首相オーストラリアへの復帰をした。

 日本海軍オーストラリア占領を立案したが、軍部に反対され、南太平洋アメリカオーストラリアの連携を遮断する戦略をとった。日本軍はポートモレスビー攻略した。ルーズベルトカーティンは1942年マッカーサー揮下にオーストラリア軍を配置することで合意した。マッカーサー1942年3月メルボルンに移動し、アメリカ軍オーストラリアに集結し始めた。日本海軍1942年5月潜水艦シドニー湾で攻撃を行い、6月8日シドニーの東のニューカッスル撃した。

1942年から1943年

 日本軍は、アメリカ民の厭戦気分を高める為に、アメリカ西海潜水艦隊を派遣西海での通商破壊戦と、潜水艦の搭載による艦砲射撃を行った。西海の住民の視できる距離で商やタンカーが10隻以上撃沈され、また被害は小さかったものの、艦砲射撃西海の住民に戦争現実的な恐怖を巻き起こした。特にフォースティーブンス陸軍基地に伊25潜が行った撃は、米軍にとって戦争以来となる敵側軍事力による本土の米軍基地攻撃であり(この後も現代に至るまで行われていない)米軍も大きな衝撃を受けた。

その恐怖衝撃1942年2月に「ロサンゼルスの戦い」を引き起こす事になった。米軍はそれまでも、日本軍襲や日本兵の上陸という誤報に振り回されていたが、2月24日サンタバーバラ日本軍潜水艦撃され、警を強めていた米軍は、ロサンゼルス日本軍機が来襲したと誤認、見えない敵に向かって高射砲を乱射した。その高射砲の破片がロサンゼルス内に降り注ぎ、多くの建物を破損させ数名の市民の死者を出している。この時のアメリカのドタバタ劇を、スティーヴン・スピルバーグの初めての映画監督作品として制作されたのがコメディ映画「1941」である。

これ以上の混乱アメリカ民の厭戦気分が高まる事を恐れたルーズベルト米軍は、博打とも言える日本本土爆撃を計画し、アメリカ民の士気を高揚させようと考えた。1942年4月空母ホーネットから飛び立ったB-25爆撃機は、東京襲を行った。16機のB-25はすべて間悪による不時着で失われ、日本がこうむった被害は最小限であったため、指揮官ジミー・ドーリットルは失敗と考えたが、ルーベルトらはドーリットルに名誉勲章(メダルオブオナー)を授け、異例とも言える生前の二階級特進を行い英雄として祭り上げ、アメリカ民の士気高揚に底的に利用した。一方、日本には土の脆弱性を露呈させる心理的をもたらした。更にドーリットル空襲の最大の効果は、日本軍にミッドウェーへの破綻的な攻撃を起こさせたことだった。

日本軍東京襲の報復として、アメリカ西海で活躍し、横須賀に帰還していた伊25潜に搭載水上機でのアメリカ本土襲を命伊25潜は再度遠路西海まで遠征すると、藤田信雄飛曹長が操縦する零式水上偵察機は2度に渡りオレゴン州の森林爆撃を行った。森林火災を起こさせる的で焼夷弾での爆撃を行ったものの、大規模な火災は発生せず被害は最小限だったが、米軍衝撃は大きく、西海での対監視の強化と防壕やシェルターの構築を余儀なくされた。結局この後は日本軍による本土への爆撃は行われず(大戦末期風船爆弾での攻撃はあり)また本土に対し最初で今のところは最後の敵航空機による襲となった為、藤田戦後爆撃を受けたオレゴン州ブルキングから、本土を爆撃した「英雄」として歓待を受け、当時のロナルド・レーガン大統領からホワイトハウスに招待されている。

珊瑚海海戦とミッドウェー海戦

 1942年半ば、日本は維持するのが困難なほど、太平洋からインド洋への広大な地域を支配していたが、さらに南部と中央部太平洋に攻撃をすることを決定した。しかし、このころには連合軍の暗号解読班の活躍が始まり、奇襲が成功しなくなっていた。日本軍路ポートモレスビー占領を計画したが、フレッチャー率いるレキシントンヨークタウンを含む部隊に察知され、1942年5月珊瑚海海戦が始まった。これは互いの空母機動部隊同士により、艦の見えない距離で戦われた初めての戦となった。アメリカ軍空母レキシントンを撃沈されヨークタウンが深刻な損を受け、日本軍空母祥鳳が撃沈され翔鶴が損を受け、ミッドウェー海戦に参加できなくなった。連合軍の損日本軍より大きかったが、パイロットの損はむしろ軽微であり、日本軍パイロットの損失を補充する力に欠けていた。結果としてポートモレスビーへの進撃を阻止し、日本軍の攻勢が止まり、連合軍の戦略勝利であった。

 山本五十六率いる連合艦隊赤城加賀蒼龍飛龍の4隻の空母を持ち、米軍空母サラトガ魚雷攻撃により修理に入ったため、ホーネットエンタープライズしかないと考えた。一方太平洋方面最高チェスター・ニミッツ率いる太平洋艦隊は、珊瑚で損傷を受けたヨークタウンをわずか3日間で修理を終え、民間修理作業員を乗せたままミッドウェに向け出航し、空母3隻で挑むこととなったた。山本五十六空母を陽動し、ミッドウェーを占領し日本空軍基地に変えることで日本の勢力圏を広げ、ドーリットル空襲に対応することを的とした。日本軍アリューシャン列島を攻撃した。しかしアメリカ軍暗号解読班はその意図を見抜いていた。南雲忠一はミッドウェー攻略を進めた。しかし山本の計画には、ニミッツの対策を検討に入れていなかった。水上飛行機でのアメリカ艦隊の監視が失敗したため、フレッチャーは探知されることなく日本機動部隊を迎え撃つ位置に侵攻できた。南雲機動部隊272機の、アメリカ軍348機(115機が陸上機)を保有していた。

詳細→ミッドウェー海戦

炎上するヨークタウン 南雲機動部隊空母4隻を失い、山本五十六はミッドウェー攻略の中止を余儀なくされた。戦いは連合軍の決定的勝利であった。日本海軍連合艦隊は4空母とその熟練上員を多数失い、弱体化し、以後守勢に立つことになった。

ニューギニアとソロモン

 日本陸軍ソロモン諸島ニューギニアで進撃をつづけた。日本軍はポートモレスビー攻略を視野に入れて前進航空基地の設営を計画し、1942年3月8日ニューギニアの東部の要衝サラモア陸軍南海支隊、同じく要衝ラエに海軍戦隊が上陸した。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われた。1942年東部マダンを占領し、さらに7月より山脈越えの基地ココダを占領し、オーエンスタンレー山脈を越えてニューギニア南部ポートモレスビーに向けて進撃した。しかし力を北アフリカ戦線に引き抜かれ、予備隊で若く未熟なオーストラリア軍は、意外と善戦した。また日本軍8月25日から9月7日までのニューギニア最東端の占領を画策し、勃発したラビの戦い(ミルン湾の戦い)においてオーストラリア軍に敗れ退却した。1942年後半には、大本営ガダルカナルを優先することとし、ニューギニア戦線への補給は停まったため、ポートモレスビー攻略を断念し9月26日に撤退した。

ガダルカナル島の戦い

詳細→ガダルカナル島の戦い

 ガダルカナルでの日本海軍の建設中の飛行場を占領するため、1942年8月ヴァンデクリフト率いる6000のアメリカ軍海兵隊が上陸した(1942年8月7日 - 1943年2月7日)。最終的にヘンダーソン飛行場とガダルカナル島は防衛され、日本軍にとってガダルカナルを攻撃するのはコストがかかりすぎる状況になり、1943年2月に撤退した。

中国や東南アジアでの膠着状態

 中国本土では、中国軍は長沙の戦い(1942年)で初めて勝利を収めた。ドーリットル空襲の後、アメリカの飛行士は浙江省付近にパラシュート降下した。大本営兵の捜索と中国領土から日本への襲がを防ぐため同地の空港を破壊することを的とし、浙江省と江西省で軍事進攻を行った。日本軍ゲリラを捜索するため、疑われた町やを焼き、多くの民間人が処刑された。化学兵器生物兵器も使用され、中国人25万人が死亡し、日本軍生物兵器誤爆などにより1700人が死亡した(文献により内容が違う)。日本軍は浙江省、江西省で米軍の飛行士を捜索したが、64名のうち8名を拘束したのみで、大部分は中国人に救出された。

 当時世界最大のコメの輸出であったビルマ日本攻略されたことにより、1941年作により食糧が不足していたインドベンガルではビルマからのの輸入が途絶え、またビルマより難民が流入したため食糧事情が悪化し、大飢饉が起き(ベンガル飢饉)、最大300万人が死亡した。この現地事情の悪化と通信の不適切な状態ではあった。

ビルマ奪還に執着していたチャーチルビルマに名将ウィリアム・スリム中将を送り、アメリカよりのレンリースを得て順次戦力を増強していたが、1943年ビルマ奪還をビルマ西部アラカン南部を攻撃した(第一次アキャブ作戦)、しかし日本軍の迎撃に遭い、力の英第6旅団部が攻撃を受けロナルド・キャンベンディッシュ准将が捕虜になるなど(後に英軍の撃により死亡)惨敗し、5,000名近くの遺棄死体を遺して退却した。またオード・ウィンゲート率いる特殊部隊チンディットは北部ビルマで破壊活動を行ったが多大な損を受けた。この敗戦に懲りた英軍は戦力が整わない中での攻勢をめ、戦力の増強を進めた。一方の日本軍は、アキャブでの勝利で引き続き英軍を過小評価した事と、ウィンゲート旅団の破壊工作に挑発され翌年のインパール作戦を呼び込んだ。

 ドイツ亡命していたチャンドラ・ボースは、英領インド自由独立を与えるインド軍を創設しようと渡航を計画、1943年4月27日マダガスカルで日独潜水艦は会合に成功しボースは伊29に移乗、5月16日東京に到着した。6月ボースはシンガポールに入り、インド民軍最高指揮官となった。日本1943年8月1日ビルマ独立を与え、バー・モウが国家元首に、アウン・サンが防大臣に就任した。

 1943年8月連合軍は東南アジア部に再編され、チャーチルにより10月ルイスマウントバッテンが最高官として任命された。失態が続いたノエルアーウィン中将更迭され、ウィリアム・スリムイギリスインドの混成軍であるイギリス第14軍のとなり、ビルマ日本軍と対峙した。ウィリアム・スリム中将のもと、部隊の士気と練度が大いに向上し、アメリカ陸軍ジョセフ・スティルウェルもマウントバッテンの副官となり、インドから中国へのレド路の構築をした。11月22日フランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチル蒋介石は、カイロ日本に対する戦略会議を行い、カイロ宣言を締結した。

しかし、大戦で大した貢献もしていない中国が参加することにチャーチルは難色を示し、スターリンは同席すらしなかったが(数日後のテヘラン会談に出席、しかし蒋介石は招かれず)中国戦線の実情をよく把握してなかったルーズベルトゴリ押しにより、連合軍の巨頭の一人として祭り上げられる事となった。しかしこの後も中国の貢献度は日本軍精鋭100万人を大陸り付けている以外には何もなく、ルーズベルトも次第に中国に対する滅を深めていく事となった。

ティルウェル(アメリカの対中支援責任者)「蒋介石日本軍とまともに戦う気はない、アメリカよりの援助物資を共産党との戦いにつかうつもりだ、このままでは中国ヤバい・・・死にたい・・・」(実際に何度も自殺を考えたと言う)

1943年から1944年

 太平洋戦線では、欧州戦線より数かく転換点を迎えていた。すなわち1942年6月に勃発したミッドウェー海戦は、その後2年間の戦略において多大なを与えた戦であることが判明したのである。アメリカ船舶飛行機、訓練された乗務員を増強する産業のすそ野の広さがあり、この時期を戦力増強に費やした。同時期、日本は十分な産業基盤や技術戦略、乗務員の優れた教育プログラムを持っておらず、海軍と商業の防衛においてさらに後を拝した。

 太平洋ではニミッツマッカーサーが、どちらが先に日本を屈させるか競争し、この種の対決を重要と考えていたルーズベルトは、両者の対決による競争をみとめた。海軍マッカーサーを憎んでいたので、提督たちはこの種の対決を歓迎した。ニミッツ率いる太平洋艦隊は1943年11月より攻勢をかけ、太平洋の次々に占領した。日本軍拠点は必ずしもすべて占領せず、トラックラバウルフォルモサのように放置されるところもあった。的は日本に接近し、その後大規模な航空機による戦略爆撃上封鎖を実行し、最終的に(必要あれば)日本本土上陸作戦を実行することだった。1943年11月タラワに戦いでは、海兵隊は4500人強の日本軍守備隊を圧倒したが、3,000名以上の死傷者を出し海兵隊トラウマとなった。この教訓より学習し、上陸前爆撃撃、潮の満ち引きや上陸用舟艇の日程についてはより慎重で全体の調整などを行われるようになり、上陸の技術が向上し連合軍を助けた。また同時に行われたマキンの戦いでも米軍は苦戦、伊175潜の雷撃による空母リスカム・ベイ」の撃沈などで日本軍守備隊の戦死者約500人をえる1,000名以上の死傷者を出し、タラワマキン両攻略の「カルヴァニック作戦」は米軍にとって多くの教訓を残す戦いとなると共に、今後の日本軍しい抵抗予感させるものとなった。

アメリカ海軍は、アルフレッド・セイヤー・マハン戦略に基づき、日本艦隊との決戦めなかった。連合軍の前進は、日本海軍の攻撃によってのみ停止させることができたが、日本軍原油の不足(潜水艦作戦による)により不可能となっていった。

無制限潜水艦作戦

 連合軍の潜水艦は、海軍2%に過ぎなかったものの、ブリスベン、真珠湾、セイロン、ミッドウェーなどの基地より出撃し、日本敗北に大きな役割を果たした。潜水艦が輸送を攻撃することにより、武器の生産と軍事作戦の不可欠な石油の輸入を遮断した。1945年の初めには、日本石油供給は事実上遮断された。日本軍は468隻の連合潜水艦を撃沈したとしたが、実際には42隻のみで、10隻は事故あるいは同士討ちであった。日本の商沈没のうち56潜水艦が占め、そのほかは機雷と航空機が占めた。また日本軍艦の28潜水艦により破壊され、マリアナ沖海戦レイテ沖海戦では重要な役割を果たした。潜水艦はまた、多くの航空士を上で救出し、その中にはのちの大統領ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュもいた。連合軍の潜水艦は、守勢ではなく、攻撃的だった。真珠湾攻撃以後まもなく、ルーズベルト日本に対し制限潜水艦作戦を宣言した。

 日本軍潜水艦を大量に保持していたが、戦争に大きなを与えることはなかった。1942年日本の艦隊の潜水艦は、多くの連合軍の軍艦を撃沈、損傷させ、好調であった。しかし日本海軍は艦隊決戦にこだわり、通商破壊は重視されなかった。アメリカ軍は、西海戦場の間に非常に長い補給路を有していたため、潜水艦攻撃に対し脆弱であったが、日本軍は時にしか輸送を攻撃せず、大戦序盤にはアメリカ西海インド洋、オーストラリアに対して通商破壊戦を行いかなりの効果を挙げたが、割かれた戦力は一部であった。また後日、孤立したトラックラバウルへの補給にも役立った。日本軍ソ連との中立条約を重視し、アメリカからのウラジオトクへの何トンもの軍事物資の輸送を放置し、同盟ドイツを憤慨させた。

大戦中盤以降は、大西洋でUボートとの戦いで培われた連合軍の対潜技術に対し、日本軍潜水艦はなす術もなく犠牲を重ねた。(Uボートは大戦中994隻が失われている)しかし苦戦する中でも空母リスカム・ベイ」を撃沈し米海軍史上最大の悲劇と言われる重巡インディアナポリス」を撃沈するなど、大西洋でUボートが成し遂げられかった大戦中盤以降の連合力艦撃沈の戦果も挙げている。

 アメリカ海軍は、当初より通商破壊に従事していた。しかしMk14魚雷とそのMk6信管の信頼性が1943年9月まで改善されなかった。さらに戦前米国税関担当官は日本の商暗号コピーを押収していたが、海軍情報局は情報を得ていなかった。日本はすぐ新しい暗号に変更し、1943年まで破られなかった。

 指揮官更迭し、レーダーを効率的に設置し、魚雷障害を改善したアメリカ海軍は、1944年に最大150潜水艦を活動させた。日本の通商防御は重視されておらず、護送団は連合軍としほとんど組織されず防御もされなかったが、アメリカミス日本の自信過剰により表面化していなかった。しかしアメリカ軍潜水艦沈没数は、急に上昇し、1942年350180沈没)、1943年350335沈没)、1944年に520(603沈没)となった。1945年日本沈没は危険が増加したため航そのものが断念されるようになった減少した。連合軍は潜水艦により1200隻、500トンの商を破壊した。多くは小貨物だったが、石油必死に運搬したタンカー124隻、客や軍の輸送艦320隻もあった。ガダルカナルサイパンレイの戦いでは日本人数千人が犠牲になった。200以上の軍艦沈没した。水中戦は熾で、潜水艦作戦に参加した16000人のアメリカ兵のうち3500人(22%)が未帰還となり、第二次世界大戦中のどの軍よりも高い死亡率だった。日本軍130潜水艦を失い、高確率だった。

ニューギニアでの1943年から44年における戦い

 ガダルカナル島の苦戦を受け、1942年11月日本軍ニューギニアおよびソロモンを担当する第八方面軍に編成し、今村均としラバウル部を置き、その下にニューギニアを担当する第18軍を新設し、安達十三官においた。マッカーサーは、メルボルンに移動し、1942年4-5月オーストラリアアメリカ第41歩兵師団、32歩兵師団が集結し、欧州戦線より戻ってきたオーストラリア第6,7師団も揮下に入った。マッカーサー7月オーストラリア北部ブリスベンに移動し、日本軍のポートモレスビー作戦を受け、ニューギニアへのアメリカ軍派遣を決定した。しかし訓練不足およびジャングルに対応した装備が不十分な状態で軍を派遣するに至った。1942年11月16日から43年1月22日まで続いたブナゴナの戦いは、季、マラリアなどの病気、補給の困難さ、日本軍の強固な地、偵察の不備のため、攻略遅延が起こった。ここでマッカーサー攻略へ圧力をかけたため、オーストラリア1270人、アメリカ軍787人が死亡し、全軍13600のうち7920が病気となるなど犠牲が多くなり、米軍マッカーサーは、オーストラリア軍に非難された。これを受け、1943年3月マッカーサーカートホイール作戦を立案し、勝利よりも制権を確保してのアイランドホッピングによる作戦に移行した。同マッカーサー揮下にある南西太平洋海軍部隊が改編され第7艦隊となった。一方ブナの日本軍は補給の問題のため、飢餓状態となり、1月2日終了時には死者の共食いが行われた。またこの頃より、軍による日本兵への残虐行為が日常茶飯事となり、多数の日本兵捕虜や戦闘不能者が虐殺されたが、マッカーサートマス・ブレイミー元帥も戦意高揚と復讐心による日本人蔑視の為に黙認していた。

 1943年3月連合軍はビスマルク戦に勝利日本軍のラエへの補給を断ち制権を確保した。日本海軍連合艦隊長官山本五十六1943年4月ラバウルより艦載機ガダルカナル、ポートモレスビー、ミルン湾への襲をおこなう「い号作戦」を行ったが50機以上の損を出す敗北であり、4月18日山本もブーゲンビルP-38ライトニングに撃墜され戦死した。ウィリアムハルゼー率いる第3艦隊は6月ニュージョージア攻略を始めた。8月ニュージョージアムンダ空港米軍の手に落ちたが犠牲が多く、次のブーゲンビル南部タロキナを占領し空港を建設、守りの堅い北部は放置した。12月ニューブリテン西部アラウエ、ツルブ(グロスター)に上陸し、同北部のラバウル襲するにとどめた。

 ニューギニアではビスマルク戦の敗北で制権を奪われた日本軍は、陸路キアリからラエへの陸路でのサラワケット越えでの増援を調し、北本正路少尉隊長とする50名の特別工作隊を派遣した。1943年3月難行軍の末にサラワケット山(Mount Bangeta 4,121m)を登頂制覇し、万歳三唱、4月ラエに到着したが、あまりの難路で到底補給路としては使えなかった。

参考:ドイツブラ作戦中、標でないエルブルス山(5,642m)をなぜか登頂(ヒトラー激おこ)。 
参考:イタリア捕虜は収容所から見えるケニア山(5,000m)が登りたくなり、わざわざ脱走して登頂。
似た者同士ですね

 1943年4月ついにオーストラリア軍がサラモアに進出、9月16日連合軍はラエを奪還した。敗北した日本軍大本営の転進命を受け、サラワケット山をえる経路で北上し、多くの犠牲を出しながらもキアリに向け撤退した。しかし、マッカーサー9月22日フィンシュハーフェンに強襲上陸し、12月同地の日本軍守備隊はキアリに向け撤退した。残存日本軍キアリに再集結し、マダンヘ向かったが、1944年1月2日キアリとマダンのほぼ中間にあるサイドル(グンビ)に、アメリカ軍第32師団第126連隊戦闘団約7,000名が上陸し、またも日本軍は退路を絶たれてしまった。日本軍海岸をさけ2000m級のフィニステル山系を横断し西方ダンヘ撤退した。トーマスキンケード率いるアメリカ第7艦隊1944年2月29日より5月31日までアドミラルティ攻略し、ラバウルを孤立させた。連合軍はハンザ湾と、減ったものの5万4000の部隊を要し守りの堅いウェワクをパスし、4月22日領西ニューギニア首都ホーランジアとアイタペをそれぞれ4万、2万の軍で占領し、同地の日本守備隊を壊滅させた。ホーランジアでは日本軍1万4600人のうち、生きて転進できたのは500名に過ぎず、また611名が捕虜となった。補給の絶えたマダンウェワクに展開する残存日本軍力はアイタペに攻撃をかけたが、「ウルトラ」(通常英軍諜報部だが、ここではオーストラリアアメリカ共同諜報部?)に日本陸軍暗号解読され、連合軍はアイダペ東方30㎞のドリニュモール(坂東)に待ち受けていた。米軍は死者440人、負傷者2560人を出す、ブナ・ゴナの戦いに匹敵するニューギニア戦線で最も大きなともいえる犠牲を出したが、日本軍13000人の死者を出して撤退した。

マッカーサー「あとはジャングルが始末してくれる」

 補給を断たれた日本軍は、飢餓と病気で次々に倒れ、とくにドリニュモールに敗れた以後、退却軍は統率を失い、友軍や現地人、連合兵士の人を食う噂が陰惨な話となって広がるありさまだった。安達十三はウェワクでの分散自活、持久戦に移ったが補給は途絶し、1944年12月に第十八軍は「友軍兵の屍を食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、1945年5月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としてはしい集団投降をする部隊も発生した(永事件)。西部ニューギニアでも、東のマノクワリに第2軍部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団部をはじめとする1万2,500名があったが補給が絶え、マノクワリでは自活が不可能となり、1万5000名にイドレへの転進を命したがそこに食糧はなかった。このイドレ死の行進での戦後の生還者は3000人に満たなかった。結果ニューギニアに上陸した20万名余の日本軍将兵のうち、生還者は2万名余に過ぎなかった。カートホイール作戦を成功させたダグラス・マッカーサーは、9月占領したホーランジアを拠点としてフィリピン奪還作戦揮を執った。

ジャワの極楽ビルマ地獄、死んでも帰れぬニューギニア

中国大陸での日本陸軍の反攻

 1944年半ば、日本軍は40万人を動員し、中国日本統治下領土と印を接続し、米軍爆撃機の基地である中国南東部の空港を占領することを的とした最大の作戦を行った(大陸打通作戦)。中国軍300万名の兵力を有するとされたが、戦意に乏しかったのと、日本軍を消耗させる意味合いもあり、決戦底的に避けた。日本軍は当初順調に進軍を続け、特に戦車第3師団は中国軍にまともな対戦車火器もない事から、30日で師団先鋒の捜索隊は2,000km(一日当り約70㎞)も進軍するなど、人の野を行くが如きだった。

しかし、燃料が不足し補給も滞るようになると進軍スピードは低下し、衝陽や州では固く防衛した中国軍に苦戦し進撃が停止する事となった。その後日本軍の一部がインドシナに到達し、大陸打通は成し遂げられ、広西チワン自治区の多くの占領地を得るなど、戦術的な成果はあったが、米軍戦略爆撃力はマリアナ方面に移動し、中国軍戦闘のみでの死傷者が15万人をえるなど大量の戦死傷者を出しながらも決戦を避け続けた為に、壊滅は避けられた事もあり、着した中国大陸戦線に劇的な変化を与える事はできなかった。また、式装備の中国軍の多くはビルマ国に展開しており、消耗を避けられたため後の反撃の力となった。

中国軍アメリカの対中支援責任者のジョセフ・スティルウェルは、その式新式装備で再編した蒋介石直轄の5個師団合計約20万の大兵力で中国ビルマ国の拉・騰越の日本軍地に対して、攻撃を行った。両地を防衛する日本軍はたった4,000人に過ぎず、戦力差50倍の上に式装備の中国軍の方が火力でも勝っていたのにも関わらず日本軍守備隊の防衛の前に再編中国軍は大苦戦、中国軍の死傷者は63,000名に達し2個師団が壊滅するという大損を被ったが、日本軍守備隊を玉砕させ、拉・騰越を確保し、日本軍との戦いで初めてとも言える完全勝利(今までも攻撃を撃退したことはあり)を成し遂げている。

しかし大陸打通作戦は思わぬ効果を中関係にもたらす事になった。重慶で固をのんで戦いの推移を見守っていたジョセフ・スティルウェルは蒋介石直属の河南省の中国軍40万人が数が劣る日本軍の攻撃で、あっという間に大敗し散するのをの当たりにし、ルーズベルトに慌てて「このままでは蒋介石はもたない」と報告している。その報告を聞き中国の実情をようやく把握したルーズベルト蒋介石導力に疑念を持ち、蒋介石排除も考えたという。その後アメリカの対中政策は国民党一辺倒から、日中戦争中に漁夫の利を得て順調に勢力を伸ばしていた共産党にも視線を向けざるを得なくなり、スティルウェルは共産党の本所地延安に部下を派遣共産党との接触を始める事となった。考えていた「四人の警察官」(戦後の秩序を英ソ中が担う構想)構想は絵に描いた餅にすぎない事を痛感したルーズベルト中国に対して次第に疎遠となっていき、それはルーズベルトの病死後に大統領を引き継いだトルーマンでなお決定的となり、ヤルタやポツダムといった戦後組みを決定して重要会議蒋介石は呼ばれず、また戦後起こった共内戦ではトルーマン国民党支援を渋り、国民党台湾に放逐される遠因となった。

日本軍も多くの傷病兵を出し、戦闘による人的消耗も含め、死傷・傷病者は10万人にも達した為、これ以降は大規模な攻勢は取れなくなった。大陸打通作戦中国において社会混乱を起こし、中国共産党ゲリラはこの混乱を利用し勢力を拡大した。

インドでの1944年の日本軍の攻撃

 東南アジア連合軍は、1943年の攻勢失敗後、ビルマへ攻撃する準備をしていた。1944年初旬、中国アメリカは北部ビルマにおいて、ジョゼフ・スティルウェルの揮の下、レド行路の延長しながら進撃した。またビルマ北部アラカンにはウィンゲート率いるイギリス軍も侵攻し、日本軍の反撃は、最終的には失敗し、アラカンインド第15軍が割拠するようになり、航空による補給を受けていた。

 連合軍の攻勢に、日本軍は反対にインドに攻撃をすることにした。大本営やいくつかの部署の不安にもかかわらず、日本第15軍の官の牟田口廉也中将により、インパール作戦が実行され、インド民軍も参加した。4月にはイギリス第14軍のいくつかの部隊は、インパールに包囲されることとなった。コヒマに進出した日本軍は、インパールへの道路閉鎖するが、コヒマを防御することは失敗した4月中に新たな連合軍がコヒマの占領地から日本軍駆逐し、インパール作戦失敗したことが明らかになった。

 多くの日本兵がおそれていたように、日本軍の補給体制は不十分であった。牟田口勝利計画が挫折した後、日本軍は、特にコヒマでは飢餓状態に陥った。牟田口が攻撃をし続けたが、連合軍はコヒマ南方北方に前進した。連合軍は6月22日インパールの日本軍包囲網を破った。日本軍は、最終的に7月3日に撤退を決定したが、に飢餓と病気により、50000以上の部隊を失う最悪の敗北を喫した。

 インパール作戦の迎撃に航空機を回されたため、ビルマ北部でのアラカン作戦は停止していたが、中軍は北部ビルマで前進をつづけた。1944年半ばには、中国遠征軍は雲南省より北部ビルマに侵攻し、ミイトキーナの戦いで勝利空港を確保し、路補給体制を強化した。

 当初は,日本軍を歓迎していたビルマ人たちも,支配が長引き,物資不足に陥ると,日本軍に協力しなくなった。日本軍に対する物資補給は停滞していたから, 日本軍将兵は,住民から物資を徴発するしかなかった。反抗する住民には威嚇、虐殺するしかなかった。戦局悪化の状況で,日本人ビルマ人との友好関係は, 崩れていった。

1944年から1945年

 チェスター・ニミッツ率いるアメリカ太平洋艦隊は、海兵隊と連携し、1943年11月よりカルヴァニック作戦としてギルバートへ上陸した。44年1月マーシャル諸島へ進攻し、2月クェゼリン環礁、エニウェトク環礁を占領し、マリアナ諸への進攻が計画された。

サイパンの戦い、マリアナ沖海戦

 1944年6月15日アメリカ軍は12万8000人の陸軍および海兵隊によりサイパンへの上陸を開始した。サイパンの飛行場からは、B-29による爆撃範囲に東京も含まれるため、日本軍は、サイパンを保持することが不可欠であった。しかし日本軍は、より南部への進攻を期待していたため、サイパンへの進攻は驚きをもって受け止められた。

 アメリカ海軍第5艦隊の戦力は、空母15、航空機956、潜水艦28、駆逐艦69、さらに巡洋艦があったが、日本海軍小沢三郎のもとには空母9、航空機473、戦艦5、駆逐艦28、さらに巡洋艦という容であった。6月19日マリアナ沖海戦が勃発した。日本軍は持てる航空機の9割をつぎ込んで攻撃した。しかしレーダーと対防御では劣っていたため、日本軍航空機の航続距離が長大なことを利用した、アウトレンジ戦法を行った。日本軍機は、防御力を犠牲にしたため、480キロの攻撃範囲を持つなど、長大な航続距離を誇っていた。一方米軍F6Fヘルキャット320キロの攻撃範囲しか持たなかった。

 アメリカ第5艦隊は、レイモンド・スプルーアンスが率いていた。小沢艦隊より大きな戦力を持っていたが、小沢はスプルーアンスは先制攻撃を仕掛けないと予測していた。アメリカ軍提督マーク・ミッチャーは日本軍への積極攻撃を具申したが、スプルーアンスはサイパン陸軍の護衛を優先し、小沢艦隊への攻撃を拒否した。5月にはアメリカ軍駆逐艦により小沢艦隊の潜水艦17-25隻が撃沈され、マリアナ諸日本陸上航空機米軍の攻撃により破壊された。小沢艦隊は連携を断たれた。アメリカ軍では、ニミッツ示は、レーダーデータ線連絡戦闘情報センターにて集中管理し、F6Fヘルキャットに伝達された。さらに近接攻撃に対し、対空砲火にVT信管という新兵器を投入してきた。結果はのちに「マリアナの七面うち」と呼ばれる一方的アメリカ軍勝利となった。日本軍攻撃機が、七面うちをかいくぐっても、アメリカ艦隊のVT信管を含む対空砲火により撃墜され、アメリカ軍艦の損はわずかにとどまった。

 翌6月20日小沢艦隊は米軍偵察機に発見され、潜水艦日本空母2隻を撃沈した。ミッチャーの揮の下、230の雷撃機と爆撃機日本軍を攻撃した。しかし日本軍443キロ離れた位置にいたため、燃料切れによる航空機の損失リスクが高い作戦であった。アメリカ軍130機と76人のパイロットを失った。しかし日本軍は450機、3空母445人のパイロットを失い、機動部隊は壊滅した。

 補給を断たれたサイパンでの戦いは、防御側には絶望的となったため、日本兵は最後の一人まで玉砕することにした。日本軍の巧みな防御で、陸軍第27師団は大損を受けて、師団長更迭されている。その結果、陸海軍海兵隊3軍の対立が化し(スミスVsスミス事件)後の米軍作戦に大きなを与えている。7月7日には日本軍は退路を断たれ、最後のバンザイアタックを行い壊滅した。日本軍は最終的に3万人が死亡し、アメリカ軍も3,441人が死亡、11,685人が負傷した。当時サイパンには2万3000-5000人の民間人がいたが、犠牲者が多く出て、アメリカ軍に保護されたのは約1万5000人だった。大本営は、アメリカの寛大な処置による日本民間人の離反を恐れ、6月30日天皇サイパン民間人の死者は軍人と同じく英霊とし、民間人の自決を奨励する勅命をだした。7月5日スーサイドクリフバンザイクリフで多くの民間人が捕虜となることを嫌い自決した。実際には寛大な処置どころか、米軍による敗残兵日本民間人に対する残虐行為も撃されており、この撃談が過大気味に広がって米軍に対する嫌悪感や恐れを増大させ、沖縄戦では民間人が中々米軍に投降しない一因ともなり、夥しい死者を出す事に繋がっていく。大本営サイパン玉砕の表の際に「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し忠節をたたえた。しかし、一方で同じマリアナ諸のテニアでは第一航空艦隊角田覚治が一般市民自決め、15,000名の居留民の内で戦闘に巻き込まれて亡くなった1,500名を除く90生存米軍に投降していた。

角田中将「皆さんは民間人ですから、々軍人と一緒に玉砕する事はないのですよ」

サイパンの失陥は、日本首相であり軍官でもあった東条英機にとって大きな打撃となり、7月18日東条内閣は倒れ、陸軍出身の小磯首相となった。しかし小磯は名ばかり首相で、いかなる軍事的意思決定への参加も大本営によって阻止された。

レイテ沖海戦

詳細→レイテ沖海戦

 1944年10月23日より始まったレイテ沖海戦は、第二次世界大戦、および世界歴史上最大の戦であった。この戦はレイ周囲の4つの異なる域にて戦われた。レイテ沖海戦戦艦同士の戦闘の行われた最後の戦いであり、神特攻が行われた最初の戦いでもある。

フィリピン防衛戦

 フィリピンでの日本の占領政策は、過酷な強制労働と処刑、虐殺、徴発および飢饉を伴ったため、フィリピン市民反日感情は悪化の一途だった。反日感情の悪化により多くの市民がのゲリラ活動に身を投じ日本軍抵抗したが、米軍ゲリラを最大限に利用する為、ゲリラを組織化し物資や武器を供給した。その為に、日本軍ゲリラの戦いがフィリピン全土で化し、日本軍が実質的に支配している地域はどんどん圧縮されていった。日本軍ゲリラしい戦闘の結果、ゲリラとは全く関係ない一般のフィリピン民も戦闘に巻き込まれたり、日本軍ゲリラ掃討作戦の犠牲になり用な犠牲を増させる事にもなった。

1944年10月20日ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ第6陸軍17万4000人は、レイ東海とミンダナ北部に上陸を開始した。レイテ沖海戦により連合艦隊が壊滅した後も、日本軍西部オルモック湾より補給を行い、レイでの決戦を行ったが、補給はアメリカ空軍により妨された。さらに12月7日アメリカ軍はオルモック湾に逆上陸を仕掛け、日本軍の補給を遮断した。数かしい戦闘が行われたが、導権は常にアメリカ軍が握った。アメリカ第6陸軍は次にルソンに対する攻撃の基地として12月15日ミンドロを攻撃した。レイテからミンドロへの第七艦隊の進攻団は、神風特攻隊による攻撃を受けていたが、進行を遅らせることはなかった。ミンドロ日本守備軍は少なく、フィリピンゲリラによりすぐに席巻された。

 1945年1月6日からルソン西海リンガエン湾に、アメリカ海軍第7艦隊による艦砲射撃が開始され、3日間かけて日本軍海岸地の大半を破壊した。1月9日から17万5000のアメリカ第6陸軍が上陸した。陸軍1月最終週にはマニラ北西のクラーク空港に達した。2月3日アメリカ第1騎兵師団はマニラ北部郊外に達した。第14方面軍官の山下奉文はマニラ戦場にせず防備都市として開放するという方針であったが、海軍が頑強に戦にこだわったのと、大本営もマニラ放棄を認めなかったため悲惨な戦が発生した。陸軍は撤退したが、岩淵三次率いる海軍戦隊約1万と残存兵4000はマニラに残存した。連合軍はバター半島南部へのパラシュート降下を行い、マニラへの北部、南部への進撃に続き、バター半島が確保された。2月16日コレドールが攻撃、27日占領され、マニラ湾の入り口が遮断された。

日本軍米軍が現地人の反日感情を利用し組織化したゲリラに手を焼き、ゲリラと一般市民の明確な区別がつかないこともあり、現地人に対する怒りと不満を爆発させ、米軍下に女や子供も含む数千人のフィリピンゲリラ戦闘を行なっているとし、サンファン・デ・ディオス病院サンタローザ大学、マニラ大聖堂などで現地民間人数千人を虐殺した(マニラ虐殺虐殺人数は東京裁判での検察側)。しかしマニラ市民戦争犠牲者は10万人に上り、虐殺の全容は未だ不明である。但しマニラには上記の通り、10,000名程度の装備も劣悪な海軍戦隊を中心とした日本軍しかおらず大量虐殺困難なこと、またマニラ米軍による執拗な爆撃スペイン統治時代からの歴史ある建物ど破壊されるなど焦土化しており、ど(一説には90以上)が米軍爆撃の巻き添えになったと推察され、戦後に、虐殺責任をとって山下奉文大将死刑とされたのは、マッカーサーの意図をみ、日本側に大量のフィリピン市民の犠牲の責任を押し付けようとしたという摘も各方面からなされている。(大など)3月3日アメリカ軍はマニラ戦終結を宣言した。ルソンを守る日本軍25万のうち、80死亡した。

フィリピンで悲惨なにあっていた米軍捕虜も解放されたが、一度は自分らを見捨てて逃走した英雄面して帰ってきた「ダグアクトダグマッカーサーに決していい思いはしておらず、解放された捕虜の間ではマッカーサーの有名な言葉「アイシャルリターン」を揶揄して「トイレに行ってくるぜ、アイシャルリターン」となどのジョークが流行っていたという。

詳細→神風特攻隊

その頃、フィリピン戦より開始された特攻は、米軍に多大な損を与え続けていた、レイテ沖海戦日本海軍を壊滅させ勝利ムー一色米海軍特攻対策で大わらわとなったが、それでも損は減少するどころか増え続け、続く沖縄戦ではアメリカ軍は建以来最大の損を被る事となった。

アメリカ軍1945年2月28日パラワンに上陸し、セブ、パナイ、ネグロススールーを占領、さらにフィリピン要な最後のであるミンダナ4月17日上陸した。6月末に要な戦闘は終結し、8月15日日本が降した後は残存日本兵も降した。

フィリピンで最後の日本小野田寛郎が降するのは1974年3月9日であった。連合軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、航空機による通商破壊を本格化して日本南方航路を封鎖した。日本は、戦艦まで輸送任務に転用して北号作戦や南号作戦を行い資輸送に努めたが、1945年3月を最後に南方航路は閉鎖に至った。日本インドネシア田地帯などを依然として確保していたが、シーレーンの遮断により燃料供給を断たれ、艦隊の行動はおろか航空機を飛ばすことすら難しくなった。

1945年の戦い~終戦

日本軍敗北が続いた。

硫黄島

 詳細は硫黄島の戦いにて。

1945年2月硫黄島の戦いは、太平洋戦争においてアメリカ人の流血をもたらした戦いの一つであった。攻撃側アメリカ的は、を占領し、日本本土に対する襲を行うための補助基地として、利用することであった。守備側日本的は、戦いに勝てないことを知っていたが、アメリカ人が堪えられないような大きな損を出すことを的とした。

2月23日、第28海兵隊連隊は、すり鉢山の頂上に達し、今でも有名な、星条旗をかかげる写真を撮した。海軍長官ジェームズフォレスタルは海兵隊の活躍をたたえた。2月の残りの期間、アメリカ軍は北に進出し、3月1日にはの2/3を占領していた。しかし最終的にが確保されたのは3月26日にもなってからだった。日本軍が玉砕するまでに、海兵隊は6800人が死亡20000人以上の負傷者をだすなど大きな損を被り、ホーランドスミス事実上解任され、沖縄戦揮はサイモン・ボリバー・バックナー・ジュニアがとることになった。日本軍20000人以上が死亡し、1083人のみが捕虜になった。

ビルマにおける連合軍の1944年から45年にかけての攻勢

 1944年の後半と、1945年の初期、連合軍の東南アジア方面軍は、ビルマのほとんどを回復するため、5月モンスーンの始まる前に首都ラングーンに攻勢を開始した。

 インド15軍はアラカン州南西部海岸にそって進軍し、過去2年間占領に失敗していたアキャブを占拠した。そして1945年1月21日ラムリーにおいてイギリス軍は日本軍の背後より上陸し、日本軍は多数の死傷者を出して撤退した。26日にはチェトバにもイギリス軍が上陸し、両中部ビルマ奪還への攻勢を支援するための航空基地として確立された。北部ビルマでも、中国軍は、1945年、モントゥー、ラーショーシッポーに到達し、中国軍アメリカ北部エリアコマンドは、北部ビルマでの前進を開始し、1945年1月インド中国を結ぶレド路が開通したが、終戦までの戦況に大きなを及ぼすことはなかった。

 日本ビルマ方面軍は、イラワジの対まで撤退し、ここを防衛線として連合軍の攻撃を防ぐことを試みた(イラワジ会戦)。日本の新たなビルマ方面軍指揮官木村太郎は、連合軍がこのイラワジ障害により、戦線が伸びて弱体化することを期待した。しかしイギリス第14軍のウィリアム・スリム中将は、事前にイラワジを渡河してしまい、日本軍力を出し抜いた。1945年2月ウィリアム・スリム率いるイギリス第14軍は、イラワジを渡河する橋頭保を確保した。3月1日には第4軍団を要衝メイクテーラへ向かわせ、3月3日制圧した。日本軍メイクテーラの奪還を図り、進行・包囲している間に、第19インド軍がビルマ中部の重要都市マンダレーに突入した。日本軍は両都市で大きな損を出して敗北し撤退した。イギリス軍はいたるところから戦線を突破し、日本軍は全面崩壊した。マンダレーが失陥したところで、ビルマ国民の大部分およびアウンサンが率いるビルマ国民軍は日本軍に対し反旗を翻した。

 イギリス第14軍はビルマ首都かつ重要港であるラングーンに向かい、4月中に南に480㎞進軍し、4月25日にはラングーン北方64㎞のペグーに達した。ウィリアム・スリムは、日本がラングーン家か家へと守備し、モンスーンを利用し街戦により、イギリス軍が危機的状況に陥る能性を危惧し、以前物資不足のため放棄されていたラングーン水陸両方より速やかに占領するドラキュラ作戦を、1945年3月復活させた。ドラキュラ作雨季の到来前の5月1日に実行に移されたが、ラングーンはすでに放棄されていることが判明した。イギリス第14軍とラングーン占領軍は5月6日通信を確保し合流した。

 イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を断たれた日本軍残党は、6月から7月季にかけてシッタンを渡る経路で脱出を試みた。イギリス軍は日本軍の計画を察知し、退路に待ちせや大砲をおいた。多くがシッタンを渡ろうとして溺死した。日本軍は軍の半分にせまる14000の死者を出し、イギリス軍の被害はほとんどなかった。日本軍タイへと撤退したが、一連のビルマでの戦いでの敗北で15万人以上が死亡し、1700人が捕虜となった。連合軍は日本の降時、マレーシアへの上陸戦の準備をしていた。

ボルネオ

 1945年のボルネオの戦いは、南西太平洋地域の要な戦いだった。レスリー・モースヘッド率いるオーストラリア軍は、トーマスキンケード率いるアメリカ第7艦隊とともに重要な役割を果たした。5月1日よりタラカンへの上陸より始まり、6月1日ラブアン等、ブルネイ湾にオーストラリア力が上陸した。その1週後にオーストラリア軍は北ボルネオ日本軍を攻撃した。7月1日田のある東海中央のパクリパパンへの上陸作戦が行われ、第二次世界大戦の最後の要な強襲上陸作戦となった。連合軍は上陸した地点を占領したが、まもなく終戦を迎えたため戦略的には大きなはなかった。作戦は、駄な死傷者を出したとして、その後数年間オーストラリア批判された。しかし作戦オランダ領東インドにおける石油供給をもたらし、また同日本軍による劣悪な管理下にあった(サンダカン収容所やバトゥ・リンタン捕虜収容所など)連合軍捕虜を解放した。もっとも劣悪な捕虜収容所であるサンダカン収容所では、2500人のイギリスオーストラリア軍捕虜のうち、6人しか生存者がいなかった。

中国

 1945年すでに日本中国は7年以上戦争状態だった。大陸打通作戦での日本勝利後、日本ビルマを失った。日本軍3月より河南省および北省に進撃し(老河口作戦)、4月に8万の軍で南省に進撃したが、中国アメリカ空軍による制権の下、ビルマおよび昆明からのアメリカ軍より装備を支給された中国軍が到着し、しい反撃にあい27000人の死傷者を出し、撤退した(シ江作戦)。これが日本軍最後の攻勢となった。この後は日本軍は持久戦方針となり、中国軍アメリカの援助をうけながら老河口においても反撃を開始し、南省と北省を奪還した。1945年8月には広西省で攻勢をかけていたが終戦となった。

終戦間際に攻勢の失敗と、一部の占領地を失ったが、支那派遣軍はほぼ占領地を維持し、十分な戦力も保持しながら終戦を向ける事となったため、岡村官は「徹底抗戦に邁進す」と無条件に難色を示したが、中国側の配慮もあり穏便に武装解除している。

岡村大将万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承しえざるところなり」

沖縄

 アメリカ軍1945年後半の日本本土上陸作戦へむけ、B-17及びB-29爆撃機のためのの航空支援基地とするために、沖縄へ進攻した。

沖縄の第32軍は中央の作戦の変遷に翻弄されながらも、官の全幅の信頼を受けた八原博通高級参謀が「寝技戦法」と称した、堅地による底した防御戦により、戦闘艦の数ではノルマンディー上陸作戦を上回る大艦隊と、55万の大兵力(内上陸部隊の第10軍19万人)に対し善戦、またからはフィリピン戦で猛威を振るった特攻機が殺到し、チャーチルが「軍事史の中で最も苛で名高い戦い」と評した戦が陸で展開された。

米軍は当初30日で沖縄攻略する計画であったが、3倍の90日かかっている。特に序盤の嘉数高地での戦いと中盤のシュガーローフの戦いは、海兵隊史上硫黄島戦を戦とされ、反斜面地を活用した日本軍の防衛線に米軍は全く前進ができず。シュガーローフに至ってはわずか標高200mの台地を日で11回も奪い合った。大量に持ち込まれた日本軍の火が効果を如何なく発揮し、多数のM4中戦車が撃破された(陸軍だけで250両、海兵隊含めると400両以上)また日本軍狙撃兵シモヘイヘ並みに活躍し、米軍の尉官クラスを次々とスナイプし、米軍将兵らは日替わりで代わる中隊長小隊長を「まるでトイレットペーパーのようだ」と揶揄していた。大物では副師団長准将と連隊長大佐もスナイプで戦死しており、一説では総司令官サイモンバックナー・ジュニア中将もスナイプによる戦死と言われている(公式では96式15榴弾撃により戦死)、総司令官が戦死するのは前代未聞で、米軍史上最高位での戦死者となっている。結果的に、米軍だけで14,006名の戦死者、72,012名という第二次世界大戦中でも1回の作戦としては最大級の損失を被っている

また体的な死傷以外でも、戦闘疲労による神経症の患者が26,211名にも上ったが、この患者たちは軍を退役した後も長らく神経症に悩み、社会問題化する事となった。また海軍特攻により、36隻撃沈368隻損傷(再起不能艦多数)死傷者10,000名と、米海軍史上現在に至るまで最大の損を被る事となった。そのあまりのあまりの損アメリカ議会は驚き、軍へ説明の為の喚問を行った。またマスコミ各社は日本軍地を正攻法で攻撃し大損を被り続けるバックナーに対し「真珠湾以来の無能軍事作戦」としいバッシングを続け、「スミスVsスミス事件」以来関係が冷え込んでいた海軍海兵隊バックナー作戦導の疑問を唱えたが、バックナーが戦死したことによりその個人へのバッシングはトーンダウンした。

沖縄戦の大損により、米軍内にもはや大な損失を被る事が確実の日本本土上陸は理ではないかという流れを作る事となった。

ニミッツカミカゼから解放されたい(必死)とっとと進軍しないとお前バックナー)をクビにするぞ」

一方日本軍も、正規軍7万名 現地召集兵3万名 住民は9万名15万名が命を落とす悲劇となった。その膨大な人的損失と、特攻機1,900機を含めた4,000機もの航空機を失なうなどの戦力の大量損失は、天皇首相期講和の決心を促す事ともなった。

極限の中で、住民による集団自決や、久米島事件の様にスパイ容疑を着せられて日本軍に殺された住民もいた。人数はさだかではないが、一部の研究者の中には合計で1,000名をすとする者もいる。しかし残りの99以上は米軍差別爆撃の犠牲者である。日本軍米軍侵攻前に沖縄住民を本土や台湾疎開させようとしたが、対馬丸の悲劇の様に米軍差別潜水艦作戦の前に頓挫する事となった。(対馬丸を撃沈した潜水艦ボーフィンは殊勲艦として真珠湾に展示されている)それでも官民挙げた努力の結果、8万人以上の住民(に老人・婦女子)が疎開に成功している。米軍上陸後は当初の軍や沖縄県の方針通り、沖縄本島北部に避難した住民は大半が生存したが、に食糧の問題で軍や行政と動きを共にし南部に集まっていた住民に夥しい死者が出る事となった。軍に避難民を保護する余裕はなく、一部では日本兵が住民を洞から追い出したり食糧を奪ったりといった言も残されている。また太平洋上の他の戦場で見られた光景と同様に、米軍兵士婦女子を虜辱し殺したり、戦闘不能日本兵や住民を面半分に虐殺していたという言も数多く残っている。

凄惨な戦闘の中で、島田叡沖縄県知事や荒井退造警察本部長沖縄行政府職員らは、最後まで沖縄県民の保護に尽力し殉職している。特に、沖縄米軍侵攻が見込まれる中、もが込みした沖縄県知事の任を、家族や周囲の反対を押し切って受けた島田知事の評価は今日においても非常に高く、野球愛し島田知事に因んで、沖縄県高校野球大会優勝校には島田杯が授与されている。

島田知事「かが行かなければならないなら私が行く、私が死にたくないから他の人に行ってくれとは言えない」

沖縄は結局日本本土上陸作戦前線基地となることなく日本無条件したが、その後米軍の占領下が長く続き、返還後も米軍基地が多く残存する事となり、現在沖縄問題のきっかけとなっている。

本土空襲

B-29 陸軍航空ヘンリーアーノルドは、日本本土をドイツと同様に大規模な戦略爆撃し、戦争遂行力を失わせ屈させる事を計画。新の大爆撃機B-29を対日戦専用に運用する事を決め、対日爆撃部隊となる第20空軍を設立した。当初は中国本土から出撃していたが、さすがのB-29でも中国国民党勢力圏化からの出撃では九州攻撃がやっとであることや、第20空軍隷下の実戦部隊第20爆撃機集団ヘイウッドハンセル軍事拠点や生産拠点への高高度爆撃に拘った事から成果は上がらず、アーノルドはハンセル更迭し、カーチス・ルメイを、日本軍から奪取したマリアナに新設した第21爆撃機集団(第20爆撃機集団は第21爆撃機集団へ合流)のに任命した。ルメイは前任者ハンセルの方針であった高高度からの生産施設や軍事基地に対する爆撃では手ぬるいと考え、自らが前任地のドイツ戦略爆撃で行った地への差別爆撃による一般市民の大量虐殺が最も効果的であるとし、1945年3月深夜東京の人口密集地に低からの差別爆撃を命じた。ルメイの思惑は的中し、東京大空襲では起こった火災旋風により、10万人が死亡した他、日本の76都市に対する爆撃により夥しい数の一般市民虐殺され、爆の死者24万1309人以上、を失ったもの804万人に及んだ。日本に大量に投下された爆弾日本屋を焼き払う為に開発された焼夷弾M69であったが、これは成分油脂の小さな焼夷弾が現在で言うクラスター爆弾の様に降り注ぐ極悪仕様であり、日本が考えていた襲対策(バケツリレーなど)ではとても太刀打ちできるものではなく、消防市民らによる消火困難であり被害を拡大させた。

同時に、空母から出撃した艦載戦闘機硫黄島から出撃した陸軍戦闘機が面半分に一般市民を機掃射しており、「湯のトンネル事件」や「紫駅事件」など多数の死傷者が出ている。石原慎太郎松本零士といった有名人子供の頃に機掃射を浴びあやうく死にかけた経験をしていたり、手塚治虫が自身の戦争体験を描いた短編マンガカノン」では教師友人が機掃射で残に死ぬ姿が描かれている。米軍による差別の機掃射の様子はガンカメラに撮されて現在でも見る事ができる。

戦争化により成年男子徴兵強化で労働力不足に陥っていた日本は、これを補うために1943年民徴用の改正によって、多数の学生、婦人、朝鮮人中国人、捕虜、そして刑務所囚人を労働力として動員した。その人数は3363000人の婦人、200万の学生に加え、32万3000人の朝鮮人、3万4000人の中国人も、戦時労働者として日本に連れてこられた。しかし襲の化と民心の離反により生産性は低下の一途をたどり、1945年5月には稼働率は40も低下した。また、1944年12月に発生した東南海地震1945年1月に発生した三河地震航空機産業の工場の多くが破壊され、生産性低下に拍をかけている。日本1944年に最高となる28,180機の航空機を生産していたが、1945年終戦までに8,263機しか生産できなかった。

日本周辺の機雷封鎖作戦である飢餓作戦は、アメリカ陸軍航空軍により実行され、日本沿航路も麻痺させ、漁業困難にさせた。襲と上封鎖と生産性の著しい低下により日本戦争遂行が困難となっていった。

余談であるが、ルメイ戦後航空自衛隊の設立に貢献あったとして、勲一等日章の叙勲が行われている。当時の佐藤栄作内閣の決定で強行されたが、民からは非難が集中し、本来なら勲一等が天皇自ら授されるのが恒例であるが、それもなされなかった。その後ルメイ空軍参謀総長に昇進したが、キューバ危機の際にジョン・F・ケネディ大統領キューバ本土への爆を詰め寄ったり、ベトナム戦争では北爆を推進し「ベトナムを石器時代に戻してやる」と今なおネタとして語り継がれる名言を残している。

 1945年7月26日アメリカ大統領ハリー・トルーマンイギリス首相ウィンストン・チャーチル中国国民党政府蒋介石は、日本への降の条件を提示するポツダム宣言を提言した。この最後通告には、日本が降しなかった場合、連合軍により日本国速かつ全なる破壊に直面するだろうことが盛り込まれていた。

原爆

 1946年8月6日アメリカB-29爆撃機ノラゲイは、西日本全体を統括する第二総軍の部(広島)が置かれていた「軍都」である広島原子爆弾を投下し、2万人以上の軍人を含む7万人が同日に死亡し、年末までに14万人が死亡した。8月9日長崎原爆が投下され、年末までに3万9000人8万人が死亡した。さらに放射能などによる悪性腫瘍等により1950-2000年にかけて1900人が死亡した。原爆の投下が、特に天皇断を通し、日本の降に重大なを与えたのは間違いない。しかし上封鎖と爆、飢餓作戦継続していくことで、いずれの日にか降がもたらされ、原爆は不要であったとの議論も続けられている。反論としては、日本の降がなされず、あるいは遅延してダウンフォール作戦が実行されると、連合兵士日本の一般市民の間で非常に大きな犠牲(数万人から2000万人の死者)がもたらされることが予測されること、またソ連参戦についても、ソ連軍は北海道への進攻への艦が不足していたことから、日本を降させることはできなかった可性を摘している。

満州へのソ連の侵攻

 1945年2月3日のヤルタ会談にて、ソ連スターリンは、日ソ中立条約を破棄し、ヨーロッパ終戦後90日以内に太平洋戦線に参加することでルーズベルトと合意した。終戦後、100万以上のソ連軍がヨーロッパから転送された。日本関東軍はシベリア鉄道でのソ連の輸送力を過小評価しており、8月の終わりまで十分な戦力はなく、攻撃は1945年以降から1946年と考えていた。1945年8月9日に始まったソ連の対日参戦と満州国との戦いは、日本軍しい抵抗にもかかわらずソ連軍が圧倒し、大陸におけるソ連内モンゴル北朝鮮満州と南樺太千島列島における権益をもたらし、関東軍の急速な敗北日本の降における重要な因子であることが摘されている。8月15日玉音放送では、「降」の文言が使われなかったことより混乱をもたらし、関東軍のしい抵抗が続き、ソ連軍は抵抗が強い部位を避け進撃をつづけ、8月20日満州国皇帝溥儀はソ連赤軍により捕獲された。停戦命は最終的に関東軍に伝えられたが、ソ連はすでに満州をほぼ制圧していた。

日本の降伏

 日本の非軍事政治家は、くも1943年日本軍敗北を予測し、停戦と降を模索していたが、さまざまな理由のために、いずれの取り組みも失敗した。また和を口にしたものは、軍部によってただちに殺されるという空気が支配していた。満州への攻撃と、広島長崎への原爆は、日本政治デッドロックを解除して日本導者に強制的に降を受け入れさせた。

 過去2年間の敗北の連続から迎えた1945年フィリピン決戦敗北をうけ、小磯昭は重慶政府との単独講和をしたが(繆斌工作)、外務大臣重および昭和天皇の反対で頓挫した。この失敗を受け、小磯内閣は総辞職した。この間も硫黄島の玉砕、イラワジ会戦の敗北など、戦況は悪化をつづけた。4月7日鈴木貫太郎内閣が成立した。その後もドイツの降沖縄戦敗北連合軍の通商破壊、飢餓作戦戦略爆撃により状況は悪化の一途であり、連合軍の本土上陸が差し迫っていた。連合軍の進攻を止める最後の試みとして、本土決戦計画である決号作戦が立案された。神特攻回天震洋桜花などの特攻兵器を駆使し、総計10㎞の地下壕からなる松代大本営に、天皇を移し徹底抗戦する計画である。

 当時の日本の政策決定は、最高戦争会議が行っていた。1945年6月6日鈴木内閣で初めての最高戦争会議が行われ、首相鈴木貫太郎、外務大臣:東郷茂徳、陸軍大臣:阿南惟幾、海軍大臣:米内光政、参謀総長代理:河辺虎四郎、軍部総長:豊田副武の6人が出席した。河辺陸軍参謀次長が高に本土決戦し、東郷外務大臣が即時講和と反論し論が交わされたが、鈴木首相内海相は沈黙し会議の流れを聞いていた。鈴木首相終戦を考えていたが、今の時点では機が熟しておらず、陸軍が暴発する危険があること(鈴木首相自身も226事件撃で瀕死の重傷を負っている)また陸軍大臣が辞任を言い出す懸念あり、そうなれば内閣総辞職をせねばならなくなり、昭和天皇よりの信任により首相に就任したのにその責任が果たせなくなることから、最終的に鈴木首相戦争継続を容認せざるを得ず「今後採るべき戦争導の基本大綱」が決定された。

沖縄戦の趨勢が決するまでは、昭和天皇鈴木首相も、基本的には陸軍と同じ「一撃講和義」であった。これは、日本軍の総力を結集した決戦で、連合軍に打撃を与えたうえで有利な講和を持ち出すという考え方で、日露戦争における、全体的な着状態において日本海戦の決定的勝利で講和できた経験に基づいていた。この考えに基づいて1945年2月近衛文麿の和上奏文でも、昭和天皇は「もう一度戦果をあげてからでないと難しい」と答えている。その後に、沖縄戦での第32軍の総攻撃失敗による戦局の悪化や、従武官などより軍の実情を聞かされていた昭和天皇は一撃講和は理という認識となり、それは鈴木首相も同じであった。

鈴木首相は、戦争継続という方針で陸軍を安心させる一方で、東郷外相とソ連を通じた和工作を提案、陸軍ソ連であればと渋々この提案を受け入れたが、ソ連との交渉を示された独ソ戦の状況を知る駐ソ大使佐藤に一笑に付されている。1945年4月5日に日ソ中立条約はソ連側より更新しないとの通告があり、1年後に効力を失う予定であったが、日本政府は引き続き、佐藤大使に交渉の継続と関係改善の維持を示した。和は他にも様々なルートで講和条件を模索していたが、陸軍の反対によりスイススウェーデンの仲介は妨され、下村務相は英との直接交渉をしたが無視され、日本政府ソ連を仲介した和交渉を行うこととせざるを得なくなっていた。

 ソ連駐在の日本大使佐藤尚武は、既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立たず、終戦を促す機密電報を送った。しかし上記の通り、会議の結果、東郷外相がソ連に交渉を打診することになった。更に6月9日内大臣の木戸幸一は年末までに日本の交戦力は消滅するとし、名誉ある和める木戸試案を出し、会議にも受け入れられた。6月には、天皇は、沖縄戦敗北関東軍および本土軍の状況より軍事勝利を断念し、22日閣僚に早急な和模索をめ、会議ソ連の仲介による有条件で和交渉をめざすこと同意した。6月24日広田は駐日ソ連大使マリクと会談したが、マリクは具体的提案の必要性を述べた。東郷外相は駐ソ大使佐藤尚武に、近衛文麿を特使とした特使派遣ソ連外相モロトフに要請するよう訓した、しかし7月18日日本側からの具体的提言のない、使命の不明確な特使派遣は、ソ連により拒絶された。その時既に、ヤルタの密約によりソ連の参戦は決まっており、スターリンよりモロトフに対し日本をあやし時間稼ぎを行うように示が出ており、ソ連は最初からまともに対応する気はなかった。その事情を知らない佐藤は具体的な条件を欠いた特使派遣依頼ではソ連を動かすことはできないとして、無条件に近い和しかないという電報を送った。しかし会議は具体的条件を提示することができず、特使がモスクワソ連と交渉するまで決定を延ばすこととし、佐藤は東郷外相の訓により再度特使派遣を申し入れた。しかし佐藤8月8日ようやく実現した会見の席で、モロトフから対日宣戦布告を通知されることになる。

 1945年4月12日に急死したルーズベルトの後を受け、ハリー・S・トルーマンアメリカ大統領に就任した。マンハッタン計画で、1945年7月16日トリニティ実験が成功した。7月16日よりアメリカソ連イギリス欧州情勢をとしたポツダム会談を行い、日本との戦争についても議論された。トルーマン終戦のため連合の受け入れ得る条件を提示する和提案をすることを提言し、英も同意し調整した。7月26日、トルーマンチャーチル蒋介石の名で降条件を示す最後通牒であるポツダム宣言が発せられた。これ以外の日本の選択は、速やかにして全な破壊あるのみと明言されていた。これを受け、東郷外相は、軍のみの無条件日本国に対しては実質的な緩和された有条件降であり、日本が宣言を拒否する意図を表明してならないと強調し、上奏を受けた天皇も受け入れ可であるとした。しかし豊田部総長ははっきりとした拒否をするようした。28日の最高統帥部連絡会議ではポツダム宣言を断固拒否すべきだとの軍のがとおり、鈴木首相ポツダム宣言無視するという趣旨の発表をするよう要し、鈴木首相ポツダム宣言「黙殺」発言となった。東郷外相はソ連との和交渉に託したが、佐藤駐ソ大使7月30日ソ連の対日参戦を防ぐには即時無条件しかないと返信した。

原爆 8月6日広島原爆が投下された。東郷外相はポツダム宣言を直ちに受諾するよう進言し、最高戦争会議の緊急開催を要望したが、一部の構成員が出席できないとの理由で延期になった。日本軍原爆開発を行っていたことから、それが困難であることは十分理解しており、当初はアメリカ原爆を使ったことを認めることを拒否したが、東郷外相は軍を追及し、軍も認めざるを得なくなった。豊田部総長はアメリカ原爆があっても一つだけだろうとしたが、アメリカはそのような反応も予測しており、第二の原爆の投下を計画していた。8月9日午前4時ソ連が日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告を行い、満州へ進攻した。小磯の前例に倣えばここで総辞職だが、鈴木首相にとどまった。このツインショックを受けての8月9日の最高戦争会議では、鈴木首相と東郷外相は降した。しかし軍は戦犯、武装解除、占領の3項に条件を付けるべきとした。梅津参謀総長ら陸軍幹部は、第二の原爆投下はないだろうと発言し、継戦が可だとした。しかし議論を費やしている会議中に、長崎原爆が投下された。長崎原爆後、トルーマンは降を促す明を発表した。降がなければ、8月19日に第3の原爆が投下される予定だった。阿南陸相はじめ豊田梅津はなおも抗戦をしたが、内海相は降に同意し、3対3に意見が割れた。会議は意見が一致せず、9日午後の閣議でも何も決められず、深夜に御前会議が行われた。天皇は東郷外相に同意し、8月10日国体保持を条件にポツダム宣言の受諾がスイススウェーデンを通じて伝達された。英中ソは協議を行い、天皇および国家統治の権限は連合最高官の制限下に置かれる、武装解除や速やかな捕虜の返還等を要望、政体日本国民の自由に表明された意志によって決定される、等回答し、日本の返答を待った。しかし、その間も全陸軍航空隊と艦載機によるしい襲が行われ、多くの日本国民が犠牲となっている。梅津参謀総長と豊田部総長はなおも天皇に回答を断固拒否すべきだと上奏し、陸海軍将校は御前会議阻止しようと首や皇族を訪問したが芳しくなく、和を打倒するため武力行使する計画を作成した。阿南陸相は条件付き会議は紛糾した。米軍は、ポツダム宣言受諾の秘密の和交渉が行われていることが書かれたビラを東京やその他諸都市に散布した。14日鈴木木戸は軍の反対を押し切り緊急御前会議を開催し、ポツダム宣言の受諾が決まった。同日深夜ポツダム宣言受諾が英中ソに通告された。

 14日の阿南梅津陸軍省で降決定を知らせ、翌日阿南自決した。ポツダム宣言には日本軍無条件という項があり、陸海軍は組織存亡の危機に立っていたため、徹底抗戦していた多数の陸軍将校からしい反発が起きた。15日未明一部の陸軍将校は宮殿を占拠し、NHKラジオ局を占拠ようとしし、ポツダム宣言受諾を妨するクーデターを起こしたが失敗した宮城事件)。15日正午玉音放送が行われた。その後も愛宕山事件、厚木航空隊事件川口放送所占拠事件、江騒擾事件などの降に反対する反乱がおきたがすべて鎮圧された。終戦書を無視し、11機を率いて特攻を行った。8月18日米軍のB-32による偵察が紫電改零戦に襲われ1人が死亡した。しかし大規模な反乱はなく降が受け入れられた。8月30日ダグラスマッカーサー厚木に到着し、9月2日戦艦ミズーリの艦上で降文書が調印され、東南アジアでは9月12日シンガポールで調印された。日本連合軍に占領され、外地の540万の日本軍人と、180万の民間人は連合軍の捕虜となったが、順次帰還した。一部の日本兵は降を拒否し、残留日本兵となった。1952年4月28日日本独立回復した。

戦争犯罪

戦争において、戦争犯罪は、各軍においてはつきものである。日本ドイツなどの枢軸国はもちろん、イギリスソ連アメリカなどの連合においても戦争犯罪がさまざまに存在する。一方、枢軸国でもイタリアでは戦争犯罪はそれほど行っていなかった(行う暇がなかった)。

平和に対する罪

ハーグ陸戦条約では、開戦に対し、宣戦布告、あるいは条件付き開戦宣言を含む最後通牒による事前の通告を定めていてる。

捕虜の虐待

戦争捕虜は、武力衝突の時あるいは直後に、交戦中の軍人あるいは民間人(1949年まで)を拘束したもので、当時の捕虜の処遇に対する国際法としては

  1. ハ-グ条約「陸戦の法規慣例に関する条約」付属の「陸戦の法規慣例に関する規則」
  2. ジュネ-ヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」

があり、このうちジュネーブ条約はソ連は署名しておらず、日本は署名をしたものの軍の反対で批准をしていなかった。

太平洋戦争中の捕虜(日本側の統計)

  
捕虜
死亡
41,440
不明(西側2%中国24%?)
21,580
7,107
32.9%
50,016
12,433
24.8%
21,726
7,412
34.1%
37,000
8,500
22.9%
68,890
25-40万?(データなし)
不明(データなし)
枢軸国
連合国

 連合軍の捕虜となった日本軍はジュネーブ条約にのっとり扱われた。しかし人種偏見日本軍の残虐行為などによる敵愾心と兵の撃ちたがりで、捕虜となる前に殺することが多かった(ビスマルク戦など)。また日本軍死体の損壊も行った。

また、一方で、日本捕虜が少なかったのは、日本軍が戦訓により降を禁じられ、捕虜となることをきわめて嫌ったため、降が極めて少なかったためでもある(集団降が少なく1945年永事件42人が最高、一度に捕虜になった数では丸事件の1,500人)。もっとも、どの程度玉砕したのか、虐殺されたのか知る術はない。ノモンハン事件では、ソ連より返還された捕虜159人は自殺を強要された。初期の数少ない捕虜は、捕虜になったことを恥とし、地元での社会的迫をなによりもに恐れ、本政府や地元に捕虜になったことを伝えないように懇願し、そのためには軍事機密や地の場所や弱点を教えるなど敵軍に協力することもいとわなかった。日本政府も捕虜がいることを公式に否定し、家族にその情報を伝えることを拒否した。捕虜となることをよしとしていなかった日本兵は各地で脱走や、暴動を起こし、1943年2月25日にはフェザートン収容所で250人の日本捕虜が労務拒否の暴動を起こし、1人の看守を連れに48人が死亡した。1944年8月4日カウラ収容所で脱走事件が起き、看守4人を連れに231人が死亡した。ただ捕虜が脱走を図るのは、各軍兵士が捕虜になった際の任務とされ、そのエピソードを元に作られたのが有名な映画「大脱走」である。

 連合軍も対策を取り、兵に捕虜をとることで情報が得られ損が減らせるメリットを兵卒に周知し、捕虜を切に扱い、多くの情報を得て実際に戦闘に役立てた。日本側も対策を取り、1944年ごろより新聞ラジオ等で「鬼畜英」を喧伝し、米軍に捕まると容赦なく殺されると宣伝した。サイパンではガダルカナル民間邦人が虐殺されたと宣伝されて民間人降障害の一因となっていた(ちなみにガダルカナル民間人はいなかった)。連合軍も優遇した捕虜にビラを書かせ、拡器で話させ、戦友を投降に勧誘させるなど連合軍による虐待を否定するなどの対策を取り、1945年には捕虜となるものが増え、最終的には他の交戦国と遜色ない人数となった。終戦後には、500万をえる軍、民間人が連合軍の捕虜となった。

日本人捕虜の死亡率

赤十字船撃沈

民間人虐殺

強制労働

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