東京大空襲とは、大東亜戦争末期に発生した、東京都に対する大規模な空襲である。
最も犠牲者が多かった1945年3月9日深夜から3月10日にかけて行われたものをこう呼ぶことが多い。
後述するように米軍の爆撃機B-29が東京都上空に現れたのは3月9日の夜からだったが、最初の爆弾投下が日付が変わって3月10日に入ってから行われたので、東京大空襲の日付は殆どの場合「3月10日」と表現される。東京都は3月10日を「東京都平和の日」と制定している。
ただし同年4月や5月にもかなり大規模な爆撃が行われており、これらも「東京大空襲」と呼ばれることがある。
アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は「ジャップを生かしておく気など全くない。男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族を完全に駆除するためには何を使っても構わない」と日記に残し、1943年8月の対日空戦計画段階から焼夷弾の使用にいち早く言及していた(当時の科学者達から人道的側面より使用の決定は、より高レベルで行うよう提言があったが最終的に無視をした)。
1944年6月から連合軍はインドや成都にB-29を進出させて日本本土を爆撃していたが、あまりにも距離が遠すぎて九州の一部しか爆撃圏内に入れられず、また発進基地が山奥にあって燃料補給に苦慮するなど様々な問題を抱えていた。同年7月7日にサイパン島を奪取した事でようやくまともな足掛かりを獲得し、ハンセル准将率いる第21爆撃コマンドを進出させてB-29の発進基地に仕立て上げた。
10月には東京空襲の具体的な計画が練られ、11月1日に東京上空へ1機の偵察用B-29が侵入、実にドーリットル空襲以来の米軍機出現となった。そして11月24日、110機からなるB-29の編隊が中島飛行機武蔵野工場を狙って東京を空襲したのを皮切りに断続的に空襲が行われるようになる。
ところが1945年に入ると悪天候に阻まれて効果的な爆撃が出来なくなり、加えて日本軍機の迎撃が巧妙化してB-29の損害が増加し始めた。というのもB-29は爆撃の命中率を上げるため低空で侵入しており、航続距離の関係から護衛の戦闘機も付いていないという言わば丸裸の状態であり、機銃の死角である機首下方に潜り込まれると為す術が無かったのだ。このためハンセル准将は被害を嫌って高高度からの爆撃を命じた。すると確かに高射砲からの被害は減ったが、日本軍機の猛攻により1月中だけで出撃した5.7%のB-29が何らかの損害を受け、2月中には迎撃・事故・原因不明など全て合わせて79機が損害を受けた。人事面でもちょっとした騒動があり、米第20航空軍司令部は焼夷弾投下による地域の完全破壊を命じていたが、ハンセル准将が軍事施設への精密爆撃にこだわって破裂爆弾を使い続けた結果、彼のやり方は弱腰と非難されて1月20日に罷免、代わりに成都で指揮を執っていたカーチス・ルメイ少将が据えられた。
カーチス・ルメイ少将は日本の航空工業をちまちま爆撃するより焼夷弾を使った無差別攻撃に方針を転換。2月25日朝、挨拶代わりに関東地方へ約600機の米艦上機が出現し、飛行場や工場を徹底的に攻撃して迎撃を上げられないようにすると、午後に172機のB-29が東京に殺到。高高度から450トンの焼夷弾を投下して2万7970戸が焼失させたが日本軍機の迎撃で6機が撃墜されている。3月4日昼には159機のB-29による二度目の東京空襲が行われ、中島飛行機工場を狙って500トンの爆弾を投下したが破壊に失敗。アメリカ軍は高高度からの爆撃は効果が薄いと判断した。
そこでルメイ少将は幕僚や部下の飛行長を集め、より強力な打撃を日本に与えるにはどうすれば良いかと議論を重ねた。その結果、次の出撃では爆撃機から機銃と弾薬と射手を外して焼夷弾の搭載量を増やし、攻撃は夜間とし、高度1500~2000mの低空で侵入して爆撃の効率化を図るという悪魔的発想が生まれた。この案は第314飛行団のパワー准将や参謀副長のモントゴメリー大佐などから賛同を得たが、今までに無い低空爆撃は搭乗員に相当な不安を与え、低空爆撃は「死の宣告」と受け止められたとか。ルメイ少将はワシントンへの報告をわざと遅らせ、全責任を負う覚悟で部下を送り出した。
マリアナに展開していた385機のB-29が作戦に投入され、3月8日未明に出撃。これはマリアナに在機するほぼ全ての機であった。ただ実際に東京まで辿り着いたのは279機とされる。
3月9日――この日はとても風が強かった。翌日の3月10日は陸軍記念日で、その次の日は日曜日という事で連休となっており、家族を呼び寄せたり、疎開していた学童を帰京させる家が多かったという。21時30分、伊豆半島上空を通過するB-29の大編隊が捕捉されて警戒警報が発令、東部軍が警戒を始める。そして22時30分には房総半島方面に無線誘導の役割を担った2機のB-29が出現したため東京にも警戒警報が発令。ところがこの2機は房総半島沖を抜けて爆弾を落とす事無く去り、後続の大編隊は名古屋方面に向かうと判断した東部軍司令部は警報を解除、一時は何事かと起き出していた臣民は安心して眠りについたが…。
先ほどの2機に誘導されたB-29の大編隊が日本本土上空へ侵入。太平洋沿岸には日本軍の対空レーダーが設置されていたが、通常の侵入高度である高高度に向けられていたため反応せず、初動が遅れる原因となってしまう(強風でレーダーが妨げられていたとも)。また強風は迎撃機の出撃をも妨害して被害を拡大させる原因にもなった。
3月10日午前0時8分、第314爆撃飛行団所属のB-29は高度1500~2800mから小型焼夷弾を投下。初弾は深川区木場2丁目付近に着弾して火の手が上がり始めた。続いて白川町と三好町が炎上、この炎を目印に後続のB-29が続々と大型焼夷弾を投下していく。アメリカ軍はドレスデン爆撃で得られたノウハウを最大限に活かし、アルミ片をばら撒いて電探を無力化したり、編隊を捉えたサーチライトには機銃掃射を加えるなど迎撃を早める要素を速やかに排除。それでも高射砲と高射機関砲からの応戦を受けたが、高射砲は遥か上空で炸裂して命中せず、逆に機関砲はB-29の高度に届かなかった。やがて高射砲も炎に呑み込まれていった。敵は工業地帯に近い下町を狙い、臣民に厭戦気分を与えるのが目的だったという。
午前0時10分に城東区北砂町が、午前0時12分に本所区が炎上、空襲警報が発令されたのは初弾投下から7分が経過した午前0時15分で、この短い間に大量の焼夷弾が投下されてしまう。火の海は風速12.5mの強風に煽られてみるみるうちに火勢を増していき、江東区、浅草区、牛込区、下谷区、日本橋区、本郷区、麹町区、芝区でも火災が発生。浅草区と日本橋区で発生した火災は川幅200mの隅田川を超えて向島区に飛び火する。
7分の間に脱出できたかどうかで臣民の生死を分けたと言っても過言ではなかった。猛火の前ではバケツリレーも消防車も役に立たず、逆に消防車や消防署が焼かれて機能を喪失、放水ポンプを稼動させても酸素不足でエンジンが止まってしまった。炎の突風は容赦なく町中を駆け回り、逃げ遅れた者は黒焦げに、地面にうずくまった者は蒸し焼きになり、水中に飛び込んでも顔を上げれば凄まじい高熱と一酸化炭素に襲われた。強風は火の粉を撒き散らして延焼を加速させる。大火災は上昇気流を生み、火災旋風を巻き起こして防空演習の通り防火に当たった者、家財道具を持ち出そうとした者は例外なく焼かれた。人々は炎から逃れるべく隅田川や荒川に飛び込んだが、川の水は氷が張るほど冷たく彼らを凍死へといざなう。北は墨田区の北端、南は東京湾、東西では日本橋や上野・荒川間にまで燃え広がった。墨田区の京島は奇跡的に火の手から免れたがそれ以外はほぼ全てが炎に包まれた。東京を焼く猛火は60km離れた場所からでも窺い知れ(241km離れた場所からも視認出来たという)、まるで日の出のように明るかったと伝わる。後続のB-29はこの火を目印に殺到し更なる焼夷弾をバラまいた。東京上空には凄まじい上昇気流が起こり、B-29の巨体ですら揺さぶられ、跳ね飛ばされたパイロットがヘルメットのおかげで重傷を免れたケースもあったとか。
初動こそ遅れたものの日本側も迎撃機を発進。陸軍からは飛行第23、53、70戦隊の42機が、海軍からは第302航空隊の月光4機が出撃し、生き残っていた地上の高射砲と協同してB-29に攻撃を仕掛けた。しかし燃え盛る炎から発生する黒煙は迎撃機の離陸を妨害して十分な戦力を送れず、7000mにまで達する煙により飛び立てた機体も視界不良の中で敵機を探さなければならなかった。それでもアメリカ側の資料によれば40回の攻撃を受けたという。
午前2時37分に警報は解除された。しかし火勢は止まらず、最終的に鎮火したのは燃える物が無くなった午前8時だった。東京の下町は文字通り廃墟と化した。35区(当時)中29区が被災し、本所区と深川区が壊滅。城東区、向島区、浅草区、日本橋区がほぼ全滅、下谷区、荒川区、麹町区、本郷区、神田区が半焼する大損害となった。消火にあたった消防隊員125名が死亡ないし行方不明となり、消防団員500名以上が死傷。消防車96両、手挽きポンプ150台、水管1000本が焼失した。
アメリカ軍は14機のB-29を喪失。内訳は2機が対空砲火で撃墜、1機故障、4機不時着水、7機原因不明。42機が何らかの損傷を負った。53名の搭乗員が戦死し、6名が落下傘で脱出したが日本軍に拘束、洋上待機中の潜水艦や水上艦により40名が救助された。のちに第314爆撃団所属の3機が宮城・山形の県境にある不忘山に墜落していた事が判明。何故東京から遠く離れた不忘山に墜落していたのかは戦後のミステリーとなっている。搭乗員34名は全員戦死。
空襲後の東京はまさに地獄だった。至る所に焼死体が転がっており、身元すら判別できなかった。火葬場も焼けてしまったので、都内67ヶ所の公園や寺院、空き地が死体の仮置き場となった。あまりにも死体が多かったために埋葬がとても追いつかず、学徒や巣鴨刑務所の囚人まで動員。5日間で処理された遺体は7万2439体に及んだ。警視庁の調査によれば焼失家屋は26万717戸(帝都の25%)、罹災者100万8005名、負傷者4万918名、死者8万8793名とされた。この死者数は一度における攻撃行為(これは民間人虐殺を意図したジェノサイド行為)で世界最大級であり、のちの原爆投下時よりも多かった(広島の原爆投下による死者は9万人から十数万人と推計されているが、この数値は放射線障害によって数か月かけて亡くなった人も含んでいるため、「当日の死者」は東京大空襲の方が上と推定されるのである)。のちに年齢が分かっている犠牲者の名簿を分析した結果、4割近くが20歳未満で、特に9歳以下の子供が一番多かった。上記「背景」の「子供であろうともだ」をアメリカは一番実現せしめた。この想像を絶する殺戮劇に、臣民は「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と呼んで憎悪したという。
救護活動のため、陸海軍の部隊が出動。海軍は秋葉原周辺で遺体回収作業を行い、陸軍軍医学校から来た救護班は碧素(国産ペニシリン)や乾燥血漿といった最新製剤を使用して救護にあたった。本所国民学校に開設された救護所には石井式濾水機が投入され、隅田川の水を浄化して飲用水にしていた。軍のトラックが、荷台に遺体を満載して走っていく様子も目撃されている。空襲の数時間後、NHKのアナウンサーは大衆の虐殺を非難し、惨状を生々しく伝える放送を行った。3月10日正午、大本営から発表があり「B-29爆撃機130機が帝都市街地を盲爆し、各地に火災が発生したが、午前8時頃までに鎮火。15機を撃墜し、50機に損傷を与えた」と伝えた。家屋を失った人々は疎開するか、親戚等の身内の家に身を寄せるしかなかった。4月19日、陸軍の東部軍が焼け跡から鉄や非金属、耐火レンガを回収し軍需物資に充てた。
東京大空襲の報復として第6艦隊は伊400型によるサンフランシスコ爆撃を提案し、軍令部が検討に入ったが、小沢治三郎中将の反対によって実現しなかった。東京大空襲で自信を得たルメイ少将は続く名古屋、大阪、神戸空襲で焼夷弾を多用して都市や工場を破壊した。昼間爆撃と比べると被害は0.9%と少なく、ワシントンで成果を検討した結果、焼夷弾爆撃は有効と判断。今後も続けられていく事となる。
戦後の1948年から1951年にかけて、東京都は仮土葬した遺体を発掘し、改めて火葬したのち慰霊堂に納骨した。しかし全ての遺骨が回収された訳ではないようで、1983年12月23日に墨田区菊川公園の工事現場から人骨が出土。戦災遺骨であると判断された。1986年には台東区によって隅田公園に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」が建立された。また、2001年には東京都により都立横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が建立された。他にも本所警察署や神社仏閣に当時の犠牲者を偲ぶ碑文や慰霊碑が建てられている。
上記の通り、東京大空襲での当日の死者は原爆投下当日の死者よりも多数であり、第二次世界大戦全体で見ても有数の大惨禍であった。しかし2019年現在に至るまで、広島市の「広島平和記念資料館」や長崎市の「長崎原爆資料館」のような公立の記念館・資料館・祈念館は設立されていない。が、かつてこのような施設を建設する計画はあった。
1970年に設立された「東京空襲を記録する会」は東京大空襲の体験記や日米の公式記録などを収集、1973~1974年に『東京大空襲・戦災誌』全5巻(「関連商品」参照)として出版した。この会の延長上に1975年に「東京空襲・戦災記念館をつくる会」が設立され、記念施設の建設運動が開始された。そして1996年には「東京都平和祈念館(仮称)建設委員会」が東京都に設置され、平和祈念館建設に向けた具体的な動きが始まった。
しかし1997年、建設委員会による展示内容の検討案について、日本の戦争加害についても展示する計画であることを「自虐史観だ」と問題視する声があがり議論が紛糾。1999年には「平和祈念館の建設に当たっては、都の厳しい財政状況と従来の経緯を十分踏まえ、展示内容のうちいまだ議論の不十分な事実については今後さらに検討を加え、都議会の合意を得た上で実施すること。」という付帯決議が採択。それから20年経過した2019年現在も展示内容をどういったものにするかについて「都議会の合意」は得られておらず、凍結状態にある。建設に向けて都民から多数の資料の提供を受けていたが、それら資料も倉庫に保管されたままになっている。
この状況を受けて、財団法人(当時)「政治経済研究所」と上記の「東京空襲を記録する会」は公立施設の設立を待たず民間で施設を開設することを目指した活動を共同で開始。2000年から集めた1億円以上の募金を資金として、2002年に政治経済研究所の付属博物館「東京大空襲・戦災資料センター」を開館している。
掲示板
55 ななしのよっしん
2024/03/28(木) 10:14:59 ID: B0TwST0Zcy
>>53
アメリカ「ドーリットル空襲の時に降伏していれば俺は東京を空襲し広島・長崎に原爆を落とすことはなかったわけで日本の愚かな選択がアメリカの正義に火をつけて原爆投下に走らせたから戦いとは無縁な罪もない民間人は日本人が殺したも同然と言えるな」
56 ななしのよっしん
2024/06/03(月) 09:42:38 ID: fDU2BqY9ye
>>46
原爆投下は絨毯爆撃みたいな戦略的な効果を狙ったモンじゃなくて人体実験とソ連に対する牽制が
目的だから同列には語れないと思うぞ
原爆投下無くても日本側が降伏していたって話は
米国側も認めているわけだし
最も仮に日本がドイツより先に降伏した場合、
ドイツに対して実験目的で原爆投下していたのかは
憶測の域から出ないだろうけど
57 ななしのよっしん
2024/06/03(月) 12:41:46 ID: B0TwST0Zcy
>>56
戦争を終わらせる目的ではなく単なる実験のために民間人を虐殺しても戦争犯罪にならないという前例になってそうだが
イスラエルだって民族浄化がかなり透けて見えるとはいえ原爆とか使ってないにも関わらず戦争犯罪扱いだしなあ
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/27(金) 23:00
最終更新:2024/12/27(金) 22:00
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