西郷隆盛、木戸孝允と共に「維新三傑」と称される。通称は正助、一蔵。雅号は甲東。
天保元年(1830年)、薩摩国鹿児島城下の高麗(これ)町にて、御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる下級武士集団に属する大久保家の長男として生まれる。幼少期は薩摩藩特有の師弟教育である郷中(ごじゅう)教育を受けて育つ。
弘化3年(1846年)、16歳の頃、藩の記録所書役助に就任するが、嘉永3年(1850年)、藩主島津斉興と、その世子島津斉彬との間に起きた、後継者争いに端を発する高崎崩れ(お由羅騒動)と呼ばれる事件に連座して、父利世が島流しにされ、大久保自身も職を解かれ謹慎処分を受けたため、安定した生活を送っていた大久保一家は一転、無収入の貧困生活にまで落ち込む。
謹慎中は勉学に励みながら、友人の西郷隆盛ら同志と『近思録』の研究会を開くなど交流の日々を送る。この時に集まった面々は後に精忠組と呼ばれ、薩摩藩内部の有力勢力の一角として台頭していく。
高崎崩れ後の巻き返しに成功した斉彬が藩主に就任して2年経った嘉永6年(1853年)5月、ようやく謹慎を解かれて復職する。
藩主に就任した斉彬は、幕政への積極的な介入や集成館事業など斬新な政策を打ち出していく一方、見込みのある下級士族からの人材登用を行い、安政4年(1857年)には西郷と共に大久保も御徒目付に取り立てられている。
安政5年(1858年)、違勅調印による通商条約の締結と、安政の大獄に反発した斉彬は、5000人の藩兵を引き連れ上洛し、朝廷に攘夷論を放棄させたうえで幕政改革の勅許を引き出す計画を立てるが、7月に急病により死去する。
斉彬の死により、その実父で斉彬の政策に否定的だった斉興が藩政に復帰し、集成館事業をはじめとする斉彬の政策がことごとく中止、あるいは縮小されていった。
この事件は斉彬の諡号にちなんで「順聖公崩れ」と呼ばれている。
藩全体に閉塞感の漂う中、大久保の属する精忠組の人々は、脱藩して大老・井伊直弼ら幕閣を襲撃する突出計画を立て始める。その一方で大久保は、斉彬の遺言により藩主となった島津茂久の父で、斉彬の異母弟・島津久光への接近を試みる。
まず久光が趣味とする囲碁の相手であった寺の住職と親しくなり、そこから久光がどのような人物なのか、何を欲しているのかを探り始めた。
ある時、住職から久光が読みたがっている本について聞き出した大久保はその本を用意し、住職を介して久光に提出した。その本の中に自らの時勢に関する意見や精忠組について書いた紙片を挟み込み、自分たちの存在を示した。
安政6年(1859年)、斉興が死去するといよいよ脱藩計画が本格的に企図され始めたが、11月5日、大久保達の動きを察知した久光は、藩主茂久の名義で慰留するための論告書を出した。
方今世上一統同様、容易ならざる時節にて、万一時変当来の節は順聖院様御深志を貫き、国家を以って忠勤を抽(ぬき)んずべき心得に候。 各有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、我を輔(たす)け、国名を汚さず誠忠を尽くし呉れ候様偏に頼み存じ候。
藩主から存在を認知された事に感動した大久保ら精忠組一同は突出計画を思いとどまる。
この後、久光と初めて面会するまで合わせて都合3回ほど突出計画があり、その度に久光は自重論を唱えたが、そのやり取りの中で、精忠組という有志を擁する大久保の才覚や、斉彬の遺志を継ぎたいという自らの思いとの一致を見、藩主後見人とはいえ、藩内権力を掌握する足がかりを持っていなかった久光はむしろこれを利用するべきと考えるようになった。
ここに両者共に事を成すための利害が一致した。
万延元年(1860年)3月、大久保は初めて久光と面会し、閏3月には勘定方小頭格に任命された。
桜田門外の変後、国中に攘夷の雰囲気が蔓延する中、久光は尊敬していた斉彬の意向を受け継ぐ形で率兵上洛計画を立て始める。
文久元年(1861年)11月、久光は藩内の上洛反対派を更迭すると大久保を御小納戸役に任命。小松帯刀らと共に大久保が藩政の中枢に躍り出る。
翌文久2年(1862年)1月、久光から朝廷工作を任じられた大久保は、島津家と縁戚関係のあった近衛忠房と面会して協力を求めるも拒絶される。
藩内においても上洛反対論が根強いところに、更に別の問題が持ち上がってきた。精忠組の過激派達が率兵上洛を利用して討幕運動の端緒にしようと画策し始めたのである。当時の大久保や久光の考えは公武合体論であり、討幕は考えていなかったが、このまま計画を実行に移すと過激派の暴発が起きる可能性が生じていた。
ここで過激派達に顔の利く人物である西郷隆盛待望論が浮上する。大久保は島流しになっていた西郷の帰還を久光に進言し、受け入れられる。
2月、帰還した西郷に対して小松ら藩幹部と共に計画への協力を求めるが、逆に西郷から事前準備の不備の指摘を受け反対される。更に久光に面会した際にも真っ向から反対論を唱えた為、久光の勘気を被るが、大久保の執念の説得で何とか西郷の協力を取り付けることに成功した。
文久2年(1862年)3月13日、久光はまず先発隊として西郷を下関に向かわせた後、3日後に藩兵1000人余を率いて上洛を開始した。大久保、小松もこれに随伴している。
各地の攘夷派志士がこれに呼応して大阪・京都に集まり、精忠組の過激派もこれを機に討幕挙兵にまで持ち込もうと久光の到着を待ち構えていた。
過激派の動きを察知した西郷は、待機命令を無視して大阪に赴き鎮撫していたが、命令無視に加えて過激派を扇動しているのではないかと疑惑を持った久光に対し、大久保が西郷の様子を探りに行く許可を得て大阪に向かう。
過激派の鎮静に努めていた西郷を確認し、戻り久光に報告したものの怒りの収まらない久光は厳罰を科す事に決めてしまった。
西郷が処罰を受け入れず、過激派と共に暴走する事を恐れて切羽詰った大久保は、命懸けの芝居を打つ。西郷を浜辺に連れて行き、服罪するつもりがなければ今ここで共に死のうと申し出た。
かつて僧月照と心中を図って蘇生した事を天命と考えていた西郷は、ここで自分たちが死ぬのは犬死にだと言い、甘んじて処罰を受けると答えたという。
「篤と申含め候ところ、従容として許諾、拙子もすでに決断を申入れ候に、何分右の通りにて安心にてこの上なし」 (『大久保利通日記』上巻 P118)
西郷が鹿児島に連れ戻され、過激派を抑えられる人物が居なくなると、有馬新七らが京都伏見の旅館・寺田屋に集結し、和宮降嫁に協力的だった関白・九条尚忠や京都所司代の屋敷への襲撃を画策する。
久光が京都に到着した4月16日から4日後の20日、大久保は鎮撫のために寺田屋に遣わされて説得を試みるが効果無く、その後も藩士による説得は続けられたが、23日に計画実行が決定されると上意討ち已む無しとなり、同日夜、文字通りの同士討ちが起こった。
この事件によって計9名が死亡、生き残った薩摩藩士は国元へ送還、他藩の関係者は引渡しとなり、薩摩藩内部の尊攘激派は壊滅した。
なお、この事件で薩摩藩に護送される途中に海上で殺された田中河内介父子の件について、殺害を指示したのは大久保と断定される事があるが、証拠は特に無い。
寺田屋での過激派鎮圧により朝廷から信任を得た久光は、朝廷への建白で幕政改革と称し、越前福井藩の松平春嶽を大老に、徳川慶喜を将軍後見職へ就任させる為の勅命を要求した。
一方大久保は、朝廷の有力公卿である岩倉具視と初めて面会して協力を求めている。
5月21日、久光や大久保の周旋が実を結び、念願の勅許が下る。この勅許は「三事策」と呼ばれている。内容は以下の通り。
三事策のうち、薩摩藩の要望は3のみであり、1は尊攘派とその背後にいる長州藩、2は岩倉具視による発案である。
1については、徳川家茂を京都に呼びつけて攘夷決行の勅命を下そうという尊攘派の、2は薩摩藩の独走を牽制する岩倉の思惑に基づいている。
22日、公卿の大原重徳が勅使に任命され、これを護衛する形で久光率いる薩摩軍が江戸下向を開始した。
なお、この間5月20日に大久保は御小納戸頭取に就任している。これまでの活動が評価されての昇進だった。
勅使の大原は家茂に対して勅命を下し、久光、大久保は幕閣への勅命受け入れを求めるが、外様の、しかも藩主ですらない久光が朝廷を動かして手に入れた勅命を幕府が容易に受け入れるはずも無く、交渉は難航した。
薩摩藩としての要望であった徳川慶喜の将軍後見職登用と、松平春嶽の大老登用は特に強く要求されたが、春嶽の登用はともかく、慶喜の登用については、かつての将軍継嗣問題のように火種になりかねないと、老中板倉勝静をはじめ幕閣一同が強く反対した。
大
獄 豚 // ̄> ´  ̄  ̄ `ヽ Y ,) 豚 え
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人_,、ノL_,iノ! /!ヽ r─‐- 「 キ L_ヽ r─‐- 、 u
ハ キ / / lト、 \ ヽ, -‐ ノ モ 了\ ヽ, -‐┤
ハ ャ { / ヽ,ト、ヽ/!`h) | |/! 「ヽ, `ー /)
ハ ハ ヽ/ r-、‐' // / |く イ > / / `'//
老中との交渉にイラッときた大久保は埒が開かないと判断、一計を案じる。
6月26日、大久保は大原に対して老中殺害を示唆し、大原が板倉と脇坂安宅の2老中に、勅命に応じねば「変に及ぶとの事」と伝えると板倉らは顔面蒼白し、29日、ついに勅命受け入れを決定。松平春嶽は大老の代わりに新設された役職である政事総裁職に、慶喜は将軍後見職へそれぞれ就任が決まった。
「数十年苦心焦思せし事今更夢之様な心持、皇国之大慶は言語に尽きし難き次第なり」
(『大久保利通日記』上巻 P164)
斉彬以来の薩摩藩の方針であった幕政改革が成功し、久光、大久保らは歓喜のうちに8月21日に江戸を後にした。
だがこの時の大久保達は、その行動が自分達の意思とは裏腹に、幕府の脆弱化と尊攘派の付け入るスキを露呈してしまったことにまだ気づいていなかった。
ここで少し時間をさかのぼる。
5月、久光一行が勅命を得た時、朝廷から長州藩と連携するようにと命じられていた。当時江戸には長州藩主のそうせい公が滞在しており、久光も江戸に着いたらそうせい公と一緒に活動しようと意気込んでいた。
ところがこのそうせい公、久光と会うのを嫌がるかのように江戸から京都に向かってしまった。これに大原と久光は強い不信感を持ち、後の8月18日の政変や禁門の変に至る薩長対立の発端となる。
久光が感情を害したことを気にしていた長州藩重臣の周布政之助は、6月12日、接待の場を設けて融和を図ろうとした。この接待に大久保と、精忠組の同志である堀小太郎が招かれていたが、この席で一悶着が起きる。以下は超意訳。
周布「いやー悪かったねェうちの殿様のアレ。でもうちも別に私心でやってるわけじゃないから許してチョンマゲ♪嘘だったら切腹しちゃう(^Д^)ギャハ!」
堀「へーじゃ今すぐ切腹しろや、検分してやるから。つーか何がチョンマゲだよこの薄らハゲ(^▽^)ゲラゲラ」
周布「・・・(l% &д・ )あ”ぁ”?」
大久保がたしなめた為その場は収まったものの、堀の挑発的な態度に怒った周布は酔っ払うと抜き身の刀を振り回して踊り始めた。長州側で同席していたヒゲモジャ老兵来島又兵衛も刀を寄せて薩摩側を睨み付けた。
いつ斬り合いが始まってもおかしくない、そんな殺伐とした状況に策士・大久保が立ち上がった。
大久保「いかん!このままでは殺し合いになりかねん…」
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_ (m) _ピコーン
|ミ|
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∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・∀・∩<そうだ、あれをやろう!
(つ 丿 \_________
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大久保「不肖大久保、芸を御覧に入れる!」
周布・来島「!?」
おおくぼはおもむろにたたみをひっぺがし、なんとてのひらでまわしだした!
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ヽ |::|i ´Д`) / 秘技、畳み回し!
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(^Д^;)(`Д´;)
周布 来島
大久保の意外な行動に一同毒気を抜かれ、何とか無事に宴会を終わらせることが出来た。
甲東先生何やってんすか。
閑話休題。 8月21日、目的を達して意気揚々と京都に戻る途上、幕府・薩摩藩両者にとってやっかいな事件が起こる。いわゆる生麦事件である。
久光の行列が武蔵国生麦村を通過した際、イギリス人観光客4名が通りすがった。大名行列に通りすがったら下馬してどかなければならないという当時の日本の習慣を知らなかったイギリス人たちは行列に割り込んでしまった為、激昂した薩摩藩士がイギリス人たちを斬り付け、1名が現場で討ち取られた。
事態に憤激したイギリス代理公使ニールは、幕府と薩摩藩に対して謝罪と賠償を要求した。幕府は外交当事者として受け入れたが薩摩藩は拒否。幕府からも制止を求められるが無視してそのまま入京した。
この事件に関して、薩摩藩の公式見解として大久保が報告書を残している。以下がその要約である。
大名行列は作法が厳しく、日本人であっても無礼を働けば切捨てにする習慣である。外国人であれば尚更である。こういう事態に備え、前もって外国人は当日外出を控えるよう通達しておいたはずである。それを無視して外出したのだから非は外国人側にある。大名行列に対して馬に乗って割り込むとは失礼な話ではないか。
当然イギリス側は承知せず、約1年後に起こる薩英戦争の引き金となった[1]。
閏8月7日、久光らは再び入京するが、以前とは京都の雰囲気が一変していた。尊攘激派が放火や暗殺といったテロ行為によって朝廷を意のままに動かしていたのである。協力的だった岩倉具視も8月20日に罷免されて出家、隠居に追い込まれていた。
この事態に業を煮やした久光は、朝廷に対して尊攘派の過激論を採用しないよう意見書を提出したが、全く受け入れられず、失望して23日に薩摩へ発ってしまった。
尊攘派はますます勢いづき、9月21日に三条実美と姉小路公知が攘夷督促の勅使として江戸に派遣された。10月27日、江戸に着いた三条、姉小路は家茂に対して攘夷実行を要求。家茂がこれを受け入れてしまい、更に具体的な話は上洛してから話すと約束してしまった。
幕府が無謀な攘夷論に巻き込まれることに危機感を募らせた久光と大久保は、将軍上洛を阻止する為の活動を始めた。
12月9日、入京した大久保は、有力公卿を歴訪して将軍の上洛反対を説いて回ったがさしたる効果が無いと、今度は江戸に下向して松平春嶽と山内容堂に同意を求める。同意した春嶽と容堂は幕府に対し将軍上洛反対を求め、一旦中止となったもののすぐさま撤回され、将軍上洛が決定してしまった。
大久保は更に次善の策として、将軍が出発する前に慶喜、春嶽、容堂、久光ら諸侯が入京して国是を決めるべしと献策。幕府、春嶽、容堂らの賛同を得る。
最善の策が駄目なら次善の策を、それでも駄目なら更に次善の策を実行に移し続けていくこの姿勢は、後の大政治家としての片鱗を覗かせている。
薩摩に帰る途中に京都に寄ったものの、尊攘派による暗殺犠牲者の腕や耳が公卿の屋敷に投げ込まれる事件が頻発しており、朝廷工作に全く効果が期待できない状況の為、そのまま帰藩。途中の海上で嵐に遭い九死に一生を得て薩摩に帰還した。
帰還後間もない文久3年(1863年)2月10日、藩の重役である御側役、御小納戸頭取を兼務し、薩摩藩最高幹部となる。
将軍・徳川家茂が3月4日に上洛、遅れて久光が14日に上洛する。尊攘派が大勢を占める京都において劣勢にあった薩摩藩の勢いを盛り返す為、在野、諸藩士、公卿を問わず尊攘派を朝廷から排除するよう説いて回るが採用されず、18日には帰藩してしまった。
更に薩摩藩にとって悪いことが重なる。5月20日夜、尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺され、下手人として薩摩藩士の田中新兵衛が捕縛されたのである。尋問中に田中が自殺した為、この事件の犯人や動機については不明点があるものの、責任を問われた薩摩藩は御所への出入りを禁止されてしまった。
政治の中枢から外された観の薩摩藩だったが、意外な人物から救援を求める連絡が入る。
5月30日、孝明天皇は朝彦親王を通じて久光に対し、京都に来て三条実美ら尊攘派を排除してほしいという内容の密勅を出した。久光から意見を求められた大久保は、準備が整っておらず時期尚早と具申した。実際2ヵ月半ほど後にこの求めに応じるのだが、その前に潜り抜けなければならない試練が待ち構えていた。
6月27日、7隻のイギリス軍艦隊が鹿児島湾沖に現れた。先年の生麦事件で、謝罪と賠償に応じない薩摩藩に対する威圧と報復措置のためであった。
大久保は作戦指揮に当たっており、28日から交渉を続ける傍ら開戦の準備に努めていた。7月2日、イギリス側が近くに停泊していた薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕するとそれを宣戦布告と見なし、大久保が戦闘開始を伝達。砲撃が開始された。
折からの暴風雨に加え、準備不足と油断が重なったイギリス軍は予想以上の苦戦を強いられ、旗艦の艦長と副艦長が砲撃を受けて即死。戦死、負傷者は合わせて60人以上に上った。
薩摩側は死傷者10~20数名と、イギリス軍と較べて少なかったものの、沿岸部の民家500戸、工場、蒸気船数隻、砲台などが破壊されるなど、施設の被害が甚大であった。
元々無謀な攘夷を是としていなかった薩摩藩だったが、この戦闘によって攘夷の非が完全に自覚されることとなった。
話が前後するが、10月20日、横浜で行われていたイギリスとの講和交渉のため江戸に赴いた大久保は、賠償金支払いに関して幕府から金を借りて解決しようとした。幕府側は財政難を理由に貸付を拒否するが、ここで大久保は前年と同じ手を使う。老中・板倉勝静の屋敷に使者を出し、貸付に応じなければイギリス人を斬って自分たちも切腹すると言わせたのである。この脅しに屈する形で幕府は7万両を薩摩に貸付けた。
薩摩藩の行動力や交渉能力を認めたイギリスはこれ以降、幕府から距離を置き薩摩藩寄りの姿勢を見せ始める。
ちなみに、交戦前にイギリス艦隊を視察するため屋根に上った大久保が滑って転んだという笑い話を後年本人が語っているのでおまけで添えておく。
あ、あれはただ雨上がりで瓦で滑って転んだだけで、別にイギリスの軍艦を見て腰を抜かしたとか、そんなんじゃないんだからね!勘違いしないでよね!!
京都で猖獗を極めていた尊攘激派だったが、水面下では公武合体派による巻き返しが画策されていた。
朝彦親王を通じて孝明天皇から尊攘派排除の密命を受けた薩摩藩は、会津藩と提携して尊攘激派を京都から追放する計画を立て、8月18日未明実行に移した。薩摩・会津などの藩兵が突然御所を封鎖し、長州藩関係者や三条実美ら尊攘激派の公卿7人が京都から追放された。この政変により、京都の尊王攘夷派は大幅に勢力を弱めた。
この政変に大久保がどの程度関わっていたのか明確で無いが、松平春嶽から久光宛てに送られた決起を促す手紙や、それに対する久光の返信などから、会津藩ではなく越前福井藩と提携する考えを持っていたのではないかとされる。
長州藩をはじめとする尊王攘夷派が京都から締め出されると、徳川慶喜・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城ら公武合体派の諸侯が続々と入京する。久光、大久保も10月3日に1万5千の大兵力を擁して入京。
久光・大久保は、朝廷・幕府・有力諸藩3者を交えた会議により国是を決定するという指針をもって、朝廷に対し有力諸侯を朝議に参加させることを要求。12月30日、慶喜・春嶽・容堂・宗城の4人と松平容保が朝議への参加を認められ、久光も翌文久4年1月13日に従四位下左近衛権少将に任命されると同時に朝議参加を認められた。この朝議は参預会議と呼ばれている。
大久保はこの参預会議に大きな期待を寄せていたが、日本の公式政府であることを自認する幕府にとっては甚だ目障りな存在で、幕府側の代表と見なされた慶喜にとっても雄藩、特に薩摩藩の動きは警戒すべき対象となっており、幕閣に同調した慶喜は参預会議を潰しにかかる。
2月15日、会議で議題に上った横浜港の鎖港の是非について、久光・春嶽・宗城は反対を唱えたが、慶喜は幕府の意向に沿う形で鎖港を主張。翌16日、朝彦親王の屋敷に春嶽・宗城・久光の3人を伴って訪れた慶喜は、酒に酔った勢いで3人を罵倒し、更に親王に対しては薩摩から財政援助を受けているのだろうと非難した。これが決定打となり、3月上旬には全ての参預が辞任して参預会議は解体した。これまでの公武合体運動の努力の結晶が無に帰した大久保は日記で「大事は去った」と書き残した。
そして、参預会議解体に導いた張本人である徳川慶喜に対して、これまでの評価を改めて警戒すべき奸物と見なすようになった。
公武合体運動に行き詰まりを感じ始めた薩摩藩は、新たな方針を打ち出す必要に迫られていた。これに対応できる人材として再び西郷隆盛の待望論が藩内で浮上し、久光も嫌々ながら承諾せざるを得なかった。
この時大久保が西郷の帰還を望んでいたかどうかは不明であり、久光へ西郷帰還を上申した人々の中には含まれていない。戻ればまた久光と対立するのではないかと恐れた為と思われるが、帰還後、久光との対立も表面上特に見られなかった為、安心したと手紙に書き残している。
帰還後の元治元年(1864年)3月、京都に入ってすぐ御軍賦役に任命された西郷は、まず無用と判断した会津との連携を破棄し、情報収集や軍の教練に努めた。
6月に池田屋事件、7月に禁門の変と慌しく情勢が変化していく中、大久保は鹿児島で長州への処罰に関する朝廷への建言書を書き上げたり、京都の西郷と書簡で連絡を取り合うなど留守役に徹している。
第1次長州征伐後、権力回復を目指す幕府が、文久の改革で緩和されたはずの参勤交代の復活や、西郷の采配で既に服罪済みだった長州藩に対し、藩主父子と三条実美らを江戸に呼びつけるなど、薩摩の路線にあからさまな反撃を始めた。元治2年(1865年)1月25日、大久保は幕府の動きを牽制する為京都に向かった。
2月7日、京都に入った大久保は、朝彦親王・近衛忠熙・関白二条斉敬らの屋敷を訪問して、幕府の行動を勅命によって阻止して頂きたいと入説していたが、丁度同じ頃、江戸から阿部正外・本荘宗秀の2老中が3000の兵を率いて京都に現れた。
京都で活動中の徳川慶喜・松平容保・定敬を罷免して江戸に連れ戻し、諸藩を京都から排除して朝廷を幕府の統制下に置こうという計画で、これを知った大久保は「井伊大老の頃まで時勢を戻そうと言う暴論であり、実に大変の次第」と二条に入れ知恵して、22日に参内した2老中へ「京都入りした理由は何か、何故大兵を率いて来たのか」と詰問させた。要領を得ない返答しかできない2老中のうち、阿部は将軍上洛の督促を強要されて江戸に帰り、本荘は沿岸警備という理由で大阪に厄介払いされた。
3月2日、朝廷から京都所司代の松平定敬に対し、以下の御沙汰書が出された。
一、長州父子、江戸表へ召し呼ばれ候赴きなれども、この頃国内も不穏の由候へば、しばらくその儘に差し置き申すべく候。
一、実美らも同断なれども、また同様その儘差し置き申すべく候。
一、諸大名参勤、古格に引き戻し候様、去秋達しこれあり候由に候へども、諸藩ともこの時勢につき内輪迷惑の様子も相聞え候。よりて、やはり文久2年改革の通りに致すべき旨に候事。
(北原雅長『七年史』下巻 P31)
この内容は大久保の草案をほぼ引き写したものと言われており、大久保の朝廷での発言力は急速に高まった。
この一件に加え、水戸天狗党の乱の処罰として、捕縛されたもののうち352人が斬首されたという情報が入り、大久保の幕府に対する感情は最悪なものとなった。
「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以って幕滅亡のしるしと察せられ候」
(『大久保利通日記』上巻 P242)
3月29日、幕府は長州再征のための将軍再上洛を布告、全国諸藩に従うよう命じ、慶応元年(1865年)5月16日に家茂は江戸を出発した。一旦鹿児島に戻っていた大久保は、大義の無い長州再征を阻止する為5月21日再び京都に向かう。京都に入ると、西郷と共に長州再征反対の入説を朝廷・諸藩に対して行っている。
閏5月22日に京都に入り、すぐに大阪城に移った家茂だったが、殆どの諸藩は財政難や厭戦気分に陥っており、再征伐に消極的だった。
この頃大久保は7月8日に一旦帰藩し、翌月8月25日再度出発、9月13日に大阪到着と慌しい動きを見せている。
大阪到着後すぐに京都入りし、長州問題と外交問題は諸侯による会議で解決すべしと朝廷で働きかけたが、20日から21日にかけて長州再征が内定されてしまった。情報を得た大久保は妨害すべく、21日早朝に朝彦親王を訪れ、「長州再征は大義の無い暴挙であり、誰も従いはしない。にも拘らずこれを朝廷が認めるのは非義の勅命である。非義の勅命は勅命ではない」とまくし立てた。朝彦親王の屋敷を後にするとその足で今度は二条斉敬の屋敷を尋ねて同じ内容で重ねて非難した。このため二条の参内が遅れ、同じ日に参内していた家茂が長時間待たされる羽目になった。
是月二十一日、大樹公(家茂)参内、長州再征の勅許を得んとせらる当朝、大久保一蔵此方(朝彦親王)の許に来たり、長州再征の事は、元来名義不分明の暴挙なるを以って、尾、越、津、薩の如き一人たりとも出兵せざるべし、今日、大樹公の奏請は断然御拒絶然るべし云々。尚、関白殿下(二条斉敬)の許に至り、同じ趣意を述べ、此時は言論殊に激切に渉り、大久保一蔵の議なることを何方へなりとも仰せ出されよとまで申立て、容易く退出せざりし由。斯くて殿下の参内殊の外遅々に及ばれけるが、大樹公は殿下の参内を待ち合わされし事故、会藩某等両人を殿下の屋敷に遣わしたるに、彼大久保が、頻りに申立て居る最中なりしを以って、両人襖を隔てその議を側聞せし由。其後、殿下参内、進軍は然るべからずと仰出されければ、一橋(慶喜)大に激怒して、一匹夫の言を聞き、軽々しく朝議を動かさるる如きは、天下の至変と云うべし、斯くの如くんば、大樹初め一同職を辞するの外あるべからずと申放しければ、殿下殊の外迷惑せられ、遂に奏請を容れられることに決せり。
(中根雪江『秘記抄』)
大久保の妨害工作は失敗に終わり、翌22日、朝彦親王の屋敷を訪れて「朝廷是限り」と言い放った。
10月3日、家茂は条約勅許を二条に求め、4日から朝議が開かれた。大久保はまたしても諸侯会議によって決めるべきであると近衛忠煕を通じて働きかけ、諸侯が集まるまでの間、薩摩が諸外国との条約引き延ばし交渉を引き受けるとし、一旦決まりかけたものの、慶喜の猛反撃にあって中止となり、幕府主導の条約勅許が通る事となった。
またしても慶喜にしてやられた大久保は、「一橋は譎詐(けっさ)無限」と、慶喜への警戒心を高めた。
幕府との間で妥協点を見出すことに限界を見た薩摩藩は、次なる一手として反幕府の急先鋒たる長州藩との連携を模索し始めた。
慶応2年(1866年)1月21日、坂本龍馬の仲介によって薩摩藩と長州藩は秘密同盟を結ぶが、大久保はこの件についてどの程度関与したのか不明であり、前日20日には西郷・小松帯刀らに任せて帰藩している。
4月、幕府から薩摩藩へ長州再征に応じて出兵せよとの沙汰が出たので、これを拒否する役を大久保が買って出た。相手は例の老中・板倉勝静である。板倉と面会した大久保はこの時たまたま耳の病に罹っており、何を言ってるのか聞こえないと答えた。近くに寄れと言われ、近づいて話を聞くと「長州征伐」を「薩摩征伐」と聞き違え、「なんと幕府は薩摩を征伐なさるおつもりか」と驚く。板倉も驚いて話を繰り返すとようやく聞こえたが、大義の無い戦には一兵も出すことは出来ないと、前年朝廷で披露した自説を繰り返して立ち去った。
その後藩としての公式文書でも出兵拒否を提出した。板倉が却下すると再び提出、また却下されまた提出と繰り返し、最終的には再度板倉と会って出兵拒否の理由を延々と延べ立てて、断固として参戦を拒絶した。
7月20日、第2次長州征伐の最中、14代将軍・徳川家茂が薨去した。後継者は徳川慶喜の他にいないと目されていたが、慶喜は自ら将軍職を望んでいるようなそぶりを見せず、周囲に要請された上での就任を演出すると言う持ち前の謀略家ぶりを発揮する。8月21日には休戦を宣言。戦いは実質長州側の勝利に終わった。
慶喜が将軍職就任を渋っている間、大久保は次の一手を打つ。将軍空位にかこつけて諸侯会議を開き、将軍職を廃止し、政治権力を諸侯会議に移してしまおうという思い切った謀略であるが、この策は慶喜の活動と、慶喜を支持する孝明天皇の意思により失敗に終わる。
12月5日、慶喜は徳川幕府第15代将軍に就任した。そのわずか20日後には孝明天皇が悪性の疱瘡により崩御。ここに、徳川慶喜対薩摩藩の最後の戦いが始まった。
慶応3年(1867年)、大久保、西郷、小松の薩摩藩の3幹部は、懸案の長州問題と兵庫開港問題を雄藩連合政権の試金石として、3年前の参預会議を構成した諸侯、即ち松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・島津久光の4人を京都に集め、諸侯会議の開催を計画した。西郷と小松は各諸侯への周旋を、大久保は朝廷への周旋をそれぞれ担当した。
5月、4人が京都に集まると慶喜との会議が始まった。総論は基本的に一致を見たものの、各論になると長州問題で反省すべきは幕府なのか長州なのか、あるいは長州問題と兵庫の開港問題はどちらを先に処理すべきかなどで纏まらず、そのうちに容堂がやる気を無くして帰藩、春嶽は軟化して幕府と薩摩の折衷案というgdgdな展開となった。
スキありと見た慶喜は23日夜から24日の午後にかけて丸1日近く公卿達との会議を行い、単独で兵庫開港の勅許を取得した。
さすがの諸侯会議マニアの大久保も、もはや話し合いの時節は過ぎ去ったと判断。武力討幕に向けて動き始めた。
武力討幕への覚悟を決めた西郷・大久保・小松の3人はその準備に向けて動き始める。
5月21日、土佐藩の討幕派である乾退助・中岡慎太郎らから協力を取り付けた。続いて6月22日、土佐藩参政・後藤象二郎と会談し、薩土盟約を締結するが、9月7日になって後藤が言論、つまり大政奉還を藩是にしたと宣言。路線が異なる為破棄された。
8月14日に大久保は芸州藩重臣の辻将曹と会談し、武力討幕への参加を求めて賛同を得た。続いて9月17日に長州藩山口に着いた大久保は木戸孝允・広沢真臣と会談。19日には長州藩主父子に謁見し、薩・長・芸3藩による出兵の協定を結んだ。
9月27日、後藤が大政奉還建白まで挙兵を延期するよう求めると、西郷と小松は拒否するも大久保は容認する意思を見せたので2人も容認した。大政奉還が拒否された時こそ武力討幕の大義が成り立つと考えていたのではないかとされる。
そして慶応2年末頃から、一連の活動と同時並行で大久保は頻繁にある人物と接触している。即ち岩倉具視である。
岩倉を介して朝廷への足がかりを得た大久保は、朝廷内部で岩倉と意思を通じている中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛、そして岩倉の側近である国学者の玉松操と共謀し、「討幕の密勅」を作成させる。
この密勅が作成されたのは10月8日から13日の間とされ、13日には薩摩藩主父子に、14日には長州藩主父子に下された。
何故この密勅が必要だったかについは諸説あり、武力討幕の大義を得るためとも、薩摩藩内部の反対勢力を抑えるためとも、または武力討幕という陰謀に加担することによる共犯意識を醸成させるためとも言われる。
ちょうど同じ頃、慶喜は大政奉還という思い切った行動に出る。政治権力を朝廷に返上して、これまでの専横の詫びを演出し、一見武力討幕の大義は消失したかに見えたが、既に大久保らにとってはどうでも良い事だった。
17日、大久保・西郷・小松の3人は揃って帰藩し、武力討幕に藩論を一本化すべく説得を重ね、藩主茂久と藩兵3000人を京都へ派遣することを決定した。朝廷を兵力をもって統制下に置いたうえで幕府側の勢力を排除するのが狙いであり、文久3年の政変のやり方を踏襲した策である。
11月23日に茂久が率兵上洛、29日には長州藩兵が兵庫に到着した。
12月に入ると、大久保・西郷・岩倉らによって決起の期日が5日に決まるが、土佐藩の後藤が8日に延期を求めてきた。8日になると、更に延期を求めてきた為、9日に延期、これ以上は引き伸ばせないと最終決定された。
8日、岩倉は上京してきた薩摩・土佐・尾張・芸州・越前5藩の重臣を集めて、明日の計画を伝えた。当日の朝廷での朝議は深夜に及び、長州藩の赦免と、岩倉・三条ら公卿の赦免を決定。9日朝、朝議が終わり二条斉敬・朝彦親王ら佐幕派公卿が御所を出た。
12月9日午前、前日に赦免された岩倉が王政復古の文案を携えて参内し、西郷率いる薩摩軍をはじめ、在京諸藩の兵によって御所九門が閉鎖された。岩倉の奏上後、明治天皇は公卿と諸侯の前で王政復古を宣言。朝廷と幕府の役職を含めた旧体制を全廃し、総裁・議定・参予の三職を置いた新政府発足を宣言し、慶喜・二条・朝彦親王らの参内を禁じた。
夕方から小御所で始まった会議では、山内容堂・後藤象二郎・松平春嶽ら、慶喜を含めた議会の設立を主張する公議政体派と、大久保・岩倉ら武力討幕派との間で舌戦となった。大久保は、「慶喜が政権返上したが、本当に反省したか疑わしい。本当に反省しているのなら辞官納地(官位と領地の返上)すべきである」と主張。一方容堂は、「大政奉還の功労者である慶喜公がここに居ないのはおかしい、今すぐ呼べ」と主張。更に酔った勢いで「幼少の天子を擁して権威を私物化しようとしている」と口走った為、逆に岩倉が、「幼少の天子とは何事か」と反撃。深夜に及ぶ激論となった。
結果的に岩倉が暗殺を仄めかすと、身の危険を感じた容堂が口を噤み、慶喜への辞官納地の要求が決定された。
12日、辞官納地を受けた慶喜は、会津・桑名その他の兵を率いて二条城から大阪城に退いた。同日、大久保は藩代表として西郷と共に参与に任命される。
春嶽・容堂・後藤らは巻き返しを図るため方々で周旋を繰り返した。公卿や諸侯からは政変に対する批判が続出し、在京諸藩からも批判の意見書が提出された。この状況に岩倉が弱腰になり、16日には辞官納地も強要的な内容から慶喜が受け入れ易い文言に刷り返られた。17日、慶喜は大阪城に外国使節を招いて、外交の責任は引き続き自分にあると宣言。
大久保は対抗して、外国公使らに対して天皇の名の下に自分たちこそが公式日本政府であるとの詔書を出した。
朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり、此誥を承くべき諸外国帝王と其臣民とに対し祝辞を宣ぶ。朕将軍の権を朕に帰さんことを許可し、列藩会議を興し、汝に告ぐること左の如し。第一、朕国政を委任せる将軍職を廃するなり。第二、大日本の総政治は内外の事、共に同盟列藩の会議を経て後、有司の奏する所を以て朕之を決すべし。第三、条約は大君の名を以て結ぶといへども以降朕が名に換ふべし。是が為に朕が有司に命じ、外国の有司と応接せしめん。其未定の間は旧の条約に従ふべし。
だがこれに春嶽と容堂が署名を拒否したため、20日に三職会議で否決され竜頭蛇尾となる。
23日に開かれた三職会議では、春嶽と容堂の意向によって藩士出身の参与の出席が出来なくなり、大久保も締め出される。辞官納地に関する議案を提出したが、これも春嶽と容堂によって「返上」の文字が削られて阻まれる。24日には慶喜の上洛が認められ、28日には慶喜の上洛後の議定就任が内定してしまった。
同日、慶喜の居る大阪城に、江戸では既に旧幕府と薩摩が交戦を始めたという情報が飛び込んできた。
これを聞いた会津・桑名他幕臣達が薩摩討伐を主張し、あまりの剣幕に慶喜も容認した。だが和戦どちらにしろ依然として自分のほうが優位であるというこの甘い判断が命取りとなった。
年が明け慶応4年1月2日、「討薩の表」を掲げた会津・桑名両藩をはじめとする旧幕府軍1万5千が京都に向けて進軍を開始した。1月3日、大久保は岩倉に対して次のように述べた。
去る九日、朝廷大御変革御発表の形体を熟考するに、既に二大事を失はれ候て、皇国の事十に七八は成るべからずと歎息涕泣いたし候折柄、将に三大事を失せられんとす。三大事共に失はれ候へば、皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水泡画餅と相成るべきは顕然明著といふべし。
(『岩倉公実記』 中巻 P220)
三大事とは、第一に辞官納地の形骸化・第二に大政奉還後も外交権を主張して大阪に兵を集めている慶喜の欺瞞・第三にまさに今行われようとしている慶喜の上洛である。
是三大事を失せられんとするの危急なり。右に就て、是を救ひ返すには、勤王無二の藩決然干戈を期し、戮力合体、非常の尽力に及ばざれば能はずと存ぜられ候。今在京列侯藩士、因循苟且の徒而已、就中、議定職の御方、下参与職の者、具眼の士一人も之れ無し、平穏無事を好んで、諛言を以て雷同を公論になし、周旋尽力するの次第、実に憤慨に堪ふべからず。これに依り愚考するに、干戈を期する決定に至り候得ば、公然明白朝廷に尽し奉らずんば、万成すべからず。
(『岩倉公実記』中巻 P222)
議定、参与は事なかれ主義で、具眼の士は一人も居ない。今の状況を逆転するには武力をもって非常の尽力に及ばねばならないと、大久保は岩倉に対して開戦を促した。
同日、鳥羽街道・伏見街道を進軍中の旧幕府軍は、その途上で薩摩・長州を中心とする新政府軍と遭遇し、退く退かぬの押し問答が夕方まで続いたが、旧幕府軍が前進を強行しようとした時、薩摩軍が一斉射撃を開始。開戦の口火を切った。
兵数・装備共に旧幕府軍が勝っていたが、戦略・戦術に劣り連敗を喫していたところに、4日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられ、錦旗と節刀を賜って進発。5日には前線に錦旗が現れ始めた。
錦旗が掲げられたことにより、薩長と幕府の私闘は官軍と賊軍との戦いとなった。
6日夕方、慶喜は将兵を集めて「よし是よりすぐに出馬せん、皆々用意せよ」と言った為、連敗続きの将兵らの士気は持ち直したが、その夜、慶喜は側近や松平容保らを連れて船に乗って江戸に逃亡してしまった。
新政府内部の公議政体派は一気に勢力を縮小し、ここに、大久保、西郷らの政治的勝利がほぼ決した。
鳥羽伏見の戦いに勝利した大久保は、1月17日から18日にかけて仁和寺宮熾仁親王に対し、明治天皇を大阪に動座させ、大阪を都とするべきであると建言し、23日正式に大阪遷都を政府に提議した。
「開闢以来かつてない変動があり、今や官軍の勝利となって巨賊も逃亡したが、鎮定には至らず諸外国との交際も永続の法が立たず列藩は離反し人心恟々、百事紛紜、復古の鴻業は未だその半ばにも至っていない。然らば朝廷において一時の勝利で永久に安泰と思われては、すなわち北条の後に足利が生じたように前姦去って後姦来るの覆轍を踏むのは必然である」
「よって世界の大勢を洞察し、数百年来の因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、一天の主(天皇)と申し奉るものはかくまで有り難いもの、人民とはかくまでに頼もしいものと上下一貫天下万民感動啼泣するほどの国内同心合体が今日最も急務である」
「これまで通り主上が玉簾(たまだれ)の内におわしてわずかに限られた公卿方以外拝し奉る事ができないようでは民の父母たる御職掌とは大いに食い違う訳なれば、この御職掌が定まって初めて内国事務も起つというものである」
「主上のおわす所を雲上と言い、公卿方を雲上人と言い、龍顔は拝し難きものと思い、余りに崇め尊び過ぎて分外に尊大高貴なもののように思し召され、ついに上下隔絶して今日の弊習となった。敬上愛下は論なきことだが過ぎれば君道・臣道を失わしむる害がある。外国においても帝王が従者1,2人率いて国中を歩き、万民を撫育するのは実に君道を行うものである」
「遷都を一新の機会として大弊を抜き去り、天下慄動する大基礎を立てなければ、皇威を海外に輝かし万国に御対立することは叶わない」
「遷都の地は浪華(大阪)にすべきである。外国交際の道、富国強兵の術、攻守の大権、海陸軍を起こすにおいて適当な地形である」
大阪は地形的に政治に適しているためそこに遷都し、それによって天皇が朝廷の因循から解放され、今までの弊習も打破できるとしたが、この案は公卿や諸侯からの反発を招いて実現しなかった。
4月11日の江戸城無血開城後、旧幕軍の脱走や佐幕諸藩の新政府への反発があり、東日本は不穏の度を増していた。閏4月1日、東征大総督府軍監・江藤新平と徴士・大木喬任は新政府の威信を人民に示すため江戸を東京と改め、天皇を迎えるべきだと岩倉具視に建言した。大久保も同様の意見を岩倉に伝え、自ら江戸に赴いて関東の諸問題を解決したいと訴えた。これが聞き届けられ、5月23日に政府は大久保に江戸行きを指示した。
6月18日、大久保は船で江戸に向かい、21日着。江藤、大木の他、木戸孝允、大村益次郎らと協議し、7月17日に東日本統治のため鎮将府という暫定政府の他、江戸を治める東京府、東北地方を平定するための総督府を新たに設置した。鎮将府の参与は大久保ただ1人であったため実質的な全責任を負うことになり、目が覚めてから眠るまで休む間もない激務だと日記に残している。
大久保は天皇の東京行幸を待ち望んでいたが、京都の公卿、諸侯は危険な関東へ天皇を行かせるべきでないと慎重だった。8月19日の榎本武揚艦隊8隻の脱走事件を契機に大久保は天皇を東京に迎える事の必要性を改めて強く感じ、埒があかない京都の守旧派を説得するため9月9日に東京を出発。13日に京都に着き、反対する公卿や諸侯を抑え込んで天皇の行幸が決定された。
9月20日、明治天皇は京都を出発し、10月13日に東京着。大久保はこの行幸を「天威堂々」「千載一時の盛典、歓喜言うべからず」と日記に書いた。大久保にとってこの行幸は東北諸藩に睨みを利かす親征であり、京都の守旧派から天皇を引き離すための政略でもあった。
一旦京都に還幸した明治天皇は翌明治2年(1869年)3月28日に再度東京に入り、この年に官公庁も東京に移され、事実上の東京奠都が実施された。
明治2年(1869年)1月14日、大久保、広沢真臣、板垣退助が京都で会議を開き、全国諸藩から天皇へ土地人民を返上させる版籍奉還を進めることで合意した。前年1月には既に大久保の他木戸孝允も版籍奉還についての建白を政府に対して建議しており、藩主の世襲制や藩そのものの廃止まではこの時点では考えていなかった大久保と、それらも視野に入れた木戸との間で対立点があったものの、成立したばかりで脆弱な政府の基盤を確立し、日本を名実ともに統一国家にするための措置として避けて通れない道という点では一致していた。
1月20日、薩摩、長州、土佐の他、大久保が大隈重信、副島種臣を説得して引き込んだ肥前佐賀藩を含めた四藩の藩主による連署で、政府に対し版籍奉還の建白が実施された。
薩長土肥四藩主連署し版籍奉還の表を上(たてまつ)る、臣某等頓首再拝
謹て案ずるに、朝廷一日も失る可らざる者は大体なり。一日も仮す可らざる者は大権なり。天祖肇(はじめ)て国を開き基を建玉ひしより、皇統一系万世無窮普天率土、其の有に非ざるはなく、其臣に非ざるはなし。是れ大体とす。且つ与へ且つ奪ひ、爵禄以て下を維持し、尺土も私に有すること能はず、一民も私に攘(ぬす)むこと 能はず。是れ大権とす。方今大政新に復し、万機之を親(みずか)らす、実に千歳の一機、其名あつて其実なかる可らす、其実を挙るは大義を明にし名分を正すより先なるはなし。嚮に徳川氏に起こる、古家旧族天下に半す、依て家を興すもの亦多し、而して其土地人民、之を朝廷に受ると否とを問はす、因襲の久しき以て今日に至る。世或は謂らく、是祖先鋒鏑の経始する所と、吁何そ兵を擁して官庫に入り、其貨を奪ひ、是死を犯して獲所のもの云に異ならんや、庫に入るものは人其賊たるを知る、土地人民を攘医奪するに至っては、天下これを怪します甚哉名義の紊攘する事。今也丕新の治を求む、宜しく大体の在る所、大権の繋る所、毫も仮すへからす。抑(そもそも)臣等居る所は、即ち天子の土、臣等牧(ぼく)する所は、即ち天子の民なり。安(いずく)んぞ私有すへけにや。今謹みて其版籍を収めて之を上(たてまつ)る。願くは朝廷其宜に処し、其与ふ可きは之を与へ、其奪ふべきはこれを奪ひ、凡(およそ)列藩の封土、更に宜しく詔命を下し、これを改め定むへし。而して制度典型、軍旅の政より戎服(じゅうふく)器機の制に至るまて、悉く朝廷より出て、天下の事、大小となく皆一に帰せしむへし。然后(しかるのち)に名実相得、始めて海外各国と並立へし。(『太政官日誌』)
1月24日、政府がこの建白を受理すると、鳥取藩・佐土原藩・福井藩・熊本藩・大垣藩などがこぞって自主的に版籍奉還を上表しはじめ、6月までには200藩以上の藩が版籍奉還の自主的な上表を実施した。
6月12日、大久保、広沢、岩倉具視らの会議により版籍奉還後の藩主の扱いに関しては知藩事という地位を世襲制で与える事に決定したが、木戸や伊藤博文が「知藩事世襲制は現状と何ら変わらない単なる名称の変更に過ぎない」として世襲制に強硬に反対したため、非世襲制に改められた。
6月17日から各藩の版籍奉還上表に許可が下り、翌明治3年(1870年)8月までに274藩の藩主が知藩事に任命された。
版籍奉還建白が行われてから間もない明治2年(1869年)2月13日、島津久光・忠義父子から帰藩を命じられていた大久保は故郷の鹿児島に着いた。戊辰戦争の論功行賞で下士層からの突き上げに苦慮していた藩上層部から対応を求められた形で、大久保自身も政府や藩の改革を実行するため久光の力を必要としていた。久光を説得し上京の約束を取り付け、藩政についても藩と島津家とを分離させ、温泉に引き篭もっていた西郷隆盛や伊地知正治などを参政に就任させた。
とりあえず目的を遂げて3月11日に鹿児島を発ったが、政府の前途は多難を極めていた。1月には参与の横井小楠が暗殺され、横井を嫌っていた政府関係者達は喝采する有様だった。戊辰戦争の戦費調達のために乱発した太政官札と呼ばれた不換紙幣のために貨幣価値が混乱し、国内経済・貿易に悪影響を及ぼした。諸外国の公使達は政府に抗議し、弊政改革や条約履行を要求した。経済的な混乱に伴い一揆も頻発し、明治2年だけでも110件の一揆が全国各地で起こった。政府の人事・政務も馴れ合いと怠慢が蔓延り如何ともしがたい状況であった。
4月24日、東京に戻った大久保は岩倉具視に人事の刷新を提案。政府内部で投票による人事を行い、地位本位の馴れ合い人事を一新する事で政府の引き締めを図った。
5月13日と14日にかけて高官公選という名目で三等官以上による選挙が実施され、輔相1名、議定3名、参与6名、官公庁長官6名を定員として選出。大久保の他木戸孝允、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助らが参与に選ばれ、冗員となっていた大名や公家出身者は大幅に削られる事になった。
7月8日、官制改革の一環として職員令が実施された。これにより政府の職制が一新され、神祇官・太政官が新たに設置された。太政官の下には輔相・議定・参与の代わりに左大臣・右大臣・大納言・参議が新たに設けられ、その下に民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省・大学校・弾正台などが設置された。
参議に就任した大久保は、政府の一層の強化を図るため薩長両藩の政府への協力が必要だと認識し、再び島津久光の協力を得るために明治3年(1870年)1月19日に鹿児島に着いた。翌日久光に謁見し政府への協力を求めたが、久光は政府の欧化政策、とりわけ封建制解体を目指していた事に強く反発し、24日にはついに大久保と久光の間で激論が起こった。長い間久光の元で働いてきた大久保にとって久光から拒絶された事は愕然とする出来事だったらしく、酒を飲んで気を紛らわした事を日記に残している。この時の帰郷では成果を得られないまま去るしかなく、3月12日に東京に帰着。東京に戻った大久保には更なる政府内部の問題が待ち受けていた。
前年に発足した民部・大蔵の両省はその後まもなく合併し、内政全般を統括する巨大な省になった。主導権は民部大輔・大隈重信や大蔵少輔・伊藤博文、大蔵大丞・井上馨らが握り、木戸孝允の支持を得て急進的な欧化政策を推進した。一刻も早い近代化を目指した大隈らによる政策のしわ寄せは重税という形で現れ、地方行政の現場からは中央への批判が高まった。
事態を憂慮した岩倉具視は、鹿児島出張中の大久保に手紙を送り、民部省と大蔵省の件で物議があることを知らせた。東京に戻った大久保は、岩倉や他の参議と民部・大蔵両省の分割など対応策を協議していたところ、大隈が大久保の元を訪れ、自身の政策の誤りを認めて反省した。
大隈の反省があり急進論が改められる方向に向かうかと思われたが、太政官と大蔵省の間で朝敵藩への処遇で対立が起こり、更に6月に木戸が山口から東京に戻ると7日に参議に就任。大隈も参議にして急進策を続行させるよう要求し、大久保ら漸進主義を取る参議達と対立した。
6月22日、大久保の他広沢真臣・副島種臣・佐佐木高行ら木戸の政策に批判的な参議が揃って辞表を提出する事態になったが、結果的に大久保の意見が通り、7月10日に民部・大蔵両省は分割され、民部省は大久保や岩倉が御用掛に就任して権限を掌握した。
9月10日、政府は「藩制」を公布した。藩財政のうち10%を知藩事の家禄とし、9%を軍事費にあて、その9%の半分は政府に上納せよという内容で、藩政への介入統制を強めるものだった。全国諸藩、とりわけ鹿児島藩は強硬に反対し、集議院での審議中に議員であった伊地知正治はボイコットして公布前の7月に鹿児島へ帰ってしまった。
公布のあった9月には鹿児島藩から提供されていた常備兵1000人も鹿児島に帰ってしまい、巷では鹿児島藩が反乱を起こすのではないかという噂が飛び交った。噂話に動揺した岩倉具視は大久保に相談したが、大久保は「そのような風説に惑わされてはならない」と強く忠告した。
大久保自身「藩制」の推進者の一人であり藩と政府の対立を招いたが、藩の力、特に薩長両藩の力を使い政府をより強化しなければならないという考えは捨てておらず、岩倉や木戸孝允にも働きかけた。木戸から薩摩による政府乗っ取りではないかと疑われたが、大久保は「たとい旧藩の論といえども、不条理の筋あれば敢えて顧みるに足らず」と強い決意を語った。木戸も納得し、自身も山口に赴いて藩の協力を取り付けることを約束した。11月には岩倉自身が勅使になって鹿児島に向かう事を決め、大久保もこれに随伴する事になった。11月29日、大久保は木戸と共に東京を発ち、木戸は山口に、大久保は鹿児島に向かった。
12月18日、岩倉勅使一行は鹿児島に着き、早速藩主父子に政府への協力を求めた。22日には大久保の説得を受け入れた西郷隆盛が協力を約束し、25日には島津久光が岩倉の元を訪れて病気療養中の自身に代わり西郷を上京させる事を約束した。
西郷を加えた一行は年末に鹿児島を離れ、明治4年(1871年)1月7日に山口着。毛利敬親からも協力を取り付けると今度は高知に向かい、板垣退助や知藩事の山内豊範からも政府への協力に同意させることに成功した。大久保、木戸、西郷の思惑は薩長土三藩の提携による政府強化であり、これによって中央集権化実現の下地を整える事だった。
なお、大久保が故郷に帰ったのはこれが最後となる。
明治4年(1871年)2月2日、大久保は木戸・西郷・板垣らを連れて東京に戻った。13日、政府から薩長土三藩に対し新兵差出しの命が下り、集められた総数8000人の兵が政府直轄軍となった。
続いて政府の制度改革が検討されたが、ここでまたもや大久保と木戸の意見対立が始まった。大久保は参議を廃止して各省の卿が左大臣・右大臣の元で行政を主導していく事で政府内部の連携を密にして政府の一体性を保持するという案を提示したが、木戸は「諸省の権力強く、政府立つまじ」と反対し、逆に従来の大納言と参議を増員して権限を強化し、立法官として各省の権力を抑制する事を主張した。
対立の最中の6月1日、西郷が大久保を訪れ、参議を木戸一人のみとして他の者たちは彼に協力させる事で政治の根本を一つにすべきであると説いた。大久保は賛成し、板垣・井上馨・山県有朋らも同意したが、木戸は自分ひとりのみ参議に就任する事を拒否した。大久保は代替案として西郷も参議に就任させる事で妥協を図った。大隈重信の説得もあり、ようやく木戸が渋々参議就任を受け入れ、25日に木戸・西郷が参議に就任。同時に他の参議は罷免された。
参議に就任した木戸は人事に手を付け始めたが、大久保の思惑とまるで合わない人事異動を内定したり、大久保の念願だった中務省の設置が廃案になったため今度は大久保が不満を表し始めた。また木戸は制度の審議が不十分であるとして制度取調会議を開催した。会議は7月5日から木戸と西郷を議長として始まったが、空転に次ぐ空転で制度改革は遅々として進まなかった。こうした状況に大久保も気力が萎え、岩倉具視に「奮発する気力を失ってしまった」と弱音を吐く有様だった。
7月初め、山口藩出身の野村靖と鳥尾小弥太の2人は山県有朋邸にて、政府の膠着状態を打破するために廃藩を行うべきであると話し合い、同意した山県は西郷へ、野村と鳥尾は井上馨を通して木戸孝允に話を持ちかけた。井上、木戸ともに異論は無く、西郷も山県の回顧によると即座に同意したという。山県と西郷の対談のあった6日午後、西郷は大久保を訪れて廃藩の建議を話し、大久保も同意した。
篤と熟考、今日のままにして瓦解せんよりは、寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん
(『大久保利通日記』)
大久保自身はどちらかといえば廃藩には慎重であったが、このまま政府内部の対立による政治的空白状態が長引くよりは、政府首脳の方針が一致しつつある今、廃藩という思い切った政策を実現させ、一気に中央集権への道筋をつけたほうがよいと判断した。
9日、木戸邸に大久保、西郷の他西郷の実弟である西郷従道と大山巌、そして木戸、井上、山県が集まり、廃藩についての秘密会議が行われた。10日、大久保、木戸、西郷の会議にて実行日は14日に決まり、12日には岩倉と三条実美にもそれぞれ知らせた。岩倉は「何分意外の大変革を急に告げられ狼狽した」と大久保に手紙で伝えたところ、大久保は「このまま政治の停滞が続けば計り知れない事態になる。廃藩は容易ならざる事件だが断然決行せねばならず、王政復古の時と同じ心持ちで臨まなくてはならない」と岩倉を励ました。
14日午前、皇居にて一部の知藩事達に廃藩が伝えられた後、午後に呼び出された54人の在京知藩事達の前に明治天皇と右大臣・三条実美が現れた。そして三条が「廃藩置県」を宣言し、知藩事達はすべて罷免されて東京に移り住む事を命じられた。これにより全国261藩が廃止されて3府302県となり、幕藩体制が名実共に終焉した。
大久保ら政府首脳は士族による反乱を恐れ、西郷や山県は「反乱が起きた場合は自分達で鎮圧する」とまで言っていたが、意外な事に士族による反乱は一切起きなかった。これは版籍奉還によって土地や人民を既に天皇に返上した以上、廃藩に反対する理論的根拠が無い事や、政府軍の威圧など様々な要因があったためとされる。
旧藩主たる全国の知藩事達からも特に何も反対意見は出てこなかったが、ただ一人、島津久光だけは怒りのあまり屋敷で花火を打ち上げて鬱憤を晴らした。西郷が東京に行く前久光は「廃藩に同意してはならない」と釘を刺していたため、完全に裏切られた形であった。政府は久光を慰撫するため、5万石を家禄とし、位階を従三位から従二位に上げた。
このように、王政復古に続く第二のクーデターたる廃藩置県はさしたる暴動も起こらず粛々と行われ、大久保の念願だった中央集権化は一気に進んだ。
29日、懸案だった制度改革が実施され、正院・左院・右院からなる太政官制が発足し、以後明治18年(1885年)の内閣制発足までこの体制が続く事になる。こうしてようやく明治政府及び近代日本の大まかな形が整った。太政官制の発足に伴い、民部省が廃止され大蔵省に統合された。大久保は大蔵卿に就任し、産業・財政・地方行政を掌握する強大な権限を得るに至った。
明治4年8月下旬、参議・大隈重信から、条約改正予備交渉の為の使節派遣の建議があった。各国元首への国書奉呈や海外視察も盛り込まれ、9月初旬には岩倉具視を特命全権大使とする事に決まった。岩倉は大久保と木戸孝允の同行を希望し、大久保も海外視察への同行を望んでいた。使節団の主要な人員は大使の岩倉、副使の大久保・木戸・伊藤博文・山口尚芳以下、従者・留学生含め総勢107名に及んだ。
11月4日、明治天皇は岩倉に対し、訪問する諸国の元首に国書を奉呈する事、条約改正の予備交渉を進める事、西洋文明を調査する事を認めた国書を授けた。12日、岩倉使節団一行は横浜を出港し、最初の訪問国であるアメリカに向かった。
12月6日、一行はアメリカのサンフランシスコに到着し、盛大な歓迎を受けた。14日には伊藤博文が歓迎会で英語による演説を行った。製鉄工場・学校・議院・政庁・新聞社などの施設を見学した後、ソルトレーク、オマハ、シカゴを経て翌年の明治5年1月21日にワシントンに到着。25日にホワイトハウスを訪れ、第18代大統領のユリシーズ・グラントと会見した。当時アメリカに駐在していた森有礼や伊藤博文から条約改正交渉の提案があり、歓迎の雰囲気から交渉が可能であると考えた一行は2月3日に国務長官のフィッシュに交渉を求めたが、全権委任状を持っていないという理由で断られた。協議の末大久保と伊藤が急遽帰国して委任状を持ってくる事になった。大久保と伊藤は12日にワシントンを離れ、翌月3月24日に東京に到着。外務省に委任状を要求したが、出発前の方針と異なるため反対された。二人は外務省を説得して委任状を受け取ると5月17日に横浜から発ち、1ヶ月後の6月17日にワシントンに戻った。だが、丁度この日をもって交渉は打ち切りとなっていた。結局、洋行の予定期間だった10ヶ月余りのうち4ヶ月間を無駄に費やす失態を演じる事になり、岩倉も三条実美に宛てた手紙で「鉄面皮での旅になる」と愚痴をこぼす始末だった。
6月19日、一行はワシントンを発ち、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストンを経て、7月3日に次の目的地であるイギリスに向かった。
7月14日、イギリスのロンドンに到着。ヴィクトリア女王に謁見して国書を奉呈する予定だったが、女王が避暑中だったため、代わりに帰国していた駐日公使ハリー・パークスの案内で各地を見学した。大久保はイギリスの国力の源泉が工業と貿易、汽車によるものだと考え、大山巌宛ての手紙の中に「どれほど駆けまわって見学しても形容を撫で回すのみで隔靴掻痒の思い」であると書いた。また、同行していた久米邦武に対して大久保は「私のような年取ったものは此れから先の事はとても駄目じゃ、もう時勢に応じられんから引くばかりじゃ」と語っており、彼我の国力差に自信を失くしていた。
11月5日、ロンドンのウインザー城でヴィクトリア女王と謁見。16日にイギリスを離れ、当日の夕方にフランスのパリに到着した。フランスでは大統領ルイ・アドルフ・ティエールと会談し、パリ・コミューンを鎮圧したティエールを「豪傑」と賞賛した。
明治6年(1873年)、フランスの調査、見学を終えた一行は2月17日にパリを離れ、3月9日にドイツのベルリンに到着した。11日に皇帝に謁見し、翌12日に兼ねてから大久保が関心を持っていたオットー・フォン・ビスマルクとモルトケとの会見を行い、15日にビスマルクの招宴に参加した。この時ビスマルクは後発国であるドイツの苦闘や課題について語り、「万国公法(国際法)なるものは自国に利益がある場合のみ守られるものであって、国際政治の内実は弱肉強食である」と話した。大久保は西郷隆盛と吉井友実に宛てた手紙の中でビスマルクを「大先生」と呼ぶ程に感銘を受け、ドイツの国情に深い親近感を持った。
使節団一行がドイツに滞在中の明治6年(1873年)3月19日、太政大臣・三条実美から帰国を命じる連絡があった。一行が留守中の国内では学制、徴兵令、地租改正などの大改革が相次いで行われ、予算編成を巡って大蔵省と各省が対立し、対外政策ではロシアとの北方領土問題や台湾出兵問題など諸問題が山積していたが、政府内では改革を先導していた大蔵大輔の井上馨、工部大輔の山尾庸三、司法卿の江藤新平らが政府への不満から揃って職務を放棄し、参議の西郷隆盛、板垣退助は辞職を望むなど混迷を極めていた。
帰国命令に応じた大久保は3月28日にベルリンを発ち、4月13日にマルセイユから出港。5月26日に横浜に帰港した。帰国後、紛糾する政府に大久保一人では手のつけようがなく、岩倉や木戸が帰国するまでの間休暇を取って事態を静観していたが、この頃朝鮮に対して外交使節を派遣するか否かという問題が俄に浮上し、政府を二分する大問題となっていく。
大久保が静養中の8月17日、閣議で西郷隆盛の朝鮮への使節派遣が内定した。西郷自身の強い要望で、明治に入ってから日本も欧米諸国と同じ洋夷であるとして度々国交を拒否し続けてきた朝鮮に対し、士族からの反発が高まっており、この世論に答える形での使節派遣であった。参議の板垣退助は即時派兵を主張していたが、それでは大義が立たないとしてまず西郷が朝鮮に赴いて交渉してくるという事になった。ただ、西郷自身並の覚悟ではなく、場合によっては不測の事態を起こす事もあるとしていた。太政大臣・三条実美は明治天皇に裁可を伺ったが、岩倉具視が戻るまで保留し、岩倉の帰国後更に熟議した上で奏上するよう命じた。
9月13日、ようやく岩倉が帰国した。帰国した岩倉に西郷は朝鮮への使節派遣の閣議を早期開催するよう迫った。三条は岩倉に対し、閣議で使節派遣の是非を糺して派遣延期に持ち込む事を提案し、賛同した岩倉は大久保に参議就任を要請した。しかし大久保は西郷派遣には反対であり、閣議に出れば立場上西郷との対決が避けられないため、これを辞退した。だが西郷の意見が非常に強硬で、岩倉に先だって帰国していた木戸孝允も病気で休養中、使節派遣に消極的な三条、岩倉にも西郷を押し留める事は出来そうになく、大久保自らが出馬せざるを得ない状況となった。10月8日参議就任を承諾し、西郷との対決を控えた大久保はアメリカ留学中の子息たちに遺書を送って決死の覚悟を伝えた。
全体此度は深慮これ有り、いづくまで辞退の決心に候得ども、今形勢内外言うべからざるの困難、皇国危急存亡に関係するの秋と察せらる。然るに此難を逃げ候様の訳に相当り候ても本懐にあらず。
断然当職拝命熟慮に及び、此難に斃れて以て無量の天恩に報答奉らんと一決いたし候。
拝命前熟慮に及び、此難小子にあらざれば外に其任なく、残念ながら決心いたし候ことに候。さり乍ら小子天恩を負戴候ことは、実に容易ならざる次第、殊に明世の時に遭遇し、身後の面目何事か之に如かんや。小子一身上に於ては、一点の思残すことなく候。
小子が変を聞きて外国に有るは可驚候へ共、小子が膝下に居候ても、姑息を以て歓とする事なし。
10月12日、大久保は参議に正式に就任。その間も西郷は三条と岩倉に早く閣議を開くよう強硬に働きかけており、無視できなくなった両者は10月14日に閣議を開くことに決めた。
当日の閣議には大久保、三条、岩倉、西郷の他、板垣退助、後藤象二郎、大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任の10人が出席した(木戸は病欠)。三条と岩倉は、朝鮮との問題よりもロシアとの問題の解決を優先すべきであり、開戦の準備も全くしていないため、使節派遣は延期すべきであるとした。大久保は、国内の政情不安定によって反乱や一揆を誘発する事、戦費による財政負担が重すぎる事、戦争によって殖産興業が頓挫する事、貿易不均衡が続いており、戦争どころではない事、朝鮮と戦争になればロシアの南下を誘発する事、イギリスの内政干渉を招きかねない事、各国との不平等条約改正のほうが先決である事、朝鮮を占領したとしても費用も人員も莫大なものになる事などを挙げ、使節派遣と開戦に反対した。
出席者は皆延期論に同意したが、西郷だけは同意せず、即時派遣を求めた。翌15日の閣議に西郷は「言いたいことは言った」として出席しなかったが、西郷の強硬な態度に付和雷同した大久保以外の参議は西郷派遣に同意し閣議決定された。辞職を決意した大久保は17日三条に辞表を提出し、岩倉、木戸も辞職を伝えた。困惑した三条は18日に心労のため高熱を発して倒れてしまい、正院職制章程に基づき岩倉が急遽太政大臣代理に就任した。19日、大久保は「一の秘策」として明治天皇への密奏を図り、黒田清隆の他、当時宮内省に出仕していた吉井友実、宮内卿の徳大寺実則の協力を得、20日~21日のうちに徳大寺から明治天皇に密奏が行われた。内容は即時派遣か派遣延期のどちらかを明治天皇に判断させるというものであった。22日、徳大寺から明治天皇が延期論を支持したという連絡を受けた岩倉の屋敷に西郷、板垣、江藤、副島の4人が押しかけ、即時派遣を閣議決定した事を速やかに奏上するよう訴えた。岩倉は即時派遣と派遣延期の両論を奏上するつもりであると伝え、翌23日に両論を奏上。この日西郷は辞表を提出して鹿児島に帰った。24日、明治天皇は正式に使節派遣の延期を裁可し、朝鮮への西郷派遣は事実上取りやめとなった。25日、西郷の後を追う形で板垣、後藤、江藤、副島の4人も辞表を提出して下野。桐野利秋や篠原国幹といった西郷を支持する薩摩出身の軍人や、大久保と洋行した村田新八など数百人の政府関係者が明治天皇の慰留の親諭を無視して続々と辞職していった。
10月22日、西郷下野後の政府再編を見越した大久保は岩倉に対し、諸省卿と参議の兼任制を提議し、25日から兼任が開始された。人員は伊藤博文(工部卿)、大隈重信(大蔵卿)、勝海舟(海軍卿)、大木喬任(司法卿)で、28日には寺島宗則(外務卿)が参議に加わった。大久保自身は以前から構想していた内務省を11月10日に設立し、29日参議のまま内務卿に就任した。
内務省は大蔵省の地方行政権と司法省の警察権を分割統合するため元々留守政府で設立が検討されていたものであった。大久保はこれに勧業行政を組み込む形にし、国政の中枢機関にしたいと考えていた。組織としては、大蔵省から移転した殖産興業を司る勧業寮、司法省から移転した行政警察を司る警保寮の二寮を中心に、戸籍寮、駅逓寮、土木寮、地理寮の四寮(大蔵省から移転)と測量司(工部省から移転)の計六寮一司で構成されていた。 大久保はこの内務省の長官として農業、工業、商業を奨励する殖産興業を推進していく。
明治7年(1874年)1月10日、組織や職制に関する情報が公布され、内務省は行政機関として始動した。
内務省の政務が始まったばかりの1月14日夜、岩倉具視が東京紀尾井町の赤坂喰違で不平士族9人に襲われた。岩倉の命に別状はなかったが、心理的な不調から2月まで政務から離れた。
17日、参議を辞職した板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らが『民撰議院設立建白書』を政府に提出し、大久保、岩倉、木戸らを「有司専制」と批判して民選議院の早期開設を要求した。
この建白書に署名した江藤は佐賀に戻っていたが、そこで不平士族と連携して反乱を起こした。2月3日、大久保は反乱の知らせを受けるとすぐさま出兵と自身の九州出張を決め、軍事指揮権や警察権の委任を受けた上で19日に博多に到着。23日に反乱軍は鎮圧された。江藤は単身脱出し、鹿児島の西郷隆盛を頼ったが拒絶され、3月28日に逃亡先の四国で逮捕された。
江藤逮捕を受けて大久保は4月8日、9日、13日に行われた裁判を傍聴した。この時の感想は日記に綴られており、以下のように非常に辛辣なものであることで知られる。
「今朝江藤、島(義勇)以下十二人断刑につき罰文申し聞かせを聞く。江藤醜態笑止なり。朝倉、香月、山中らは賊中の男子と見えたり」(十三日)
(『大久保利通日記』)
13日には江藤の死罪が宣告され即日実施された。
4月24日、東京に戻った大久保は佐賀の乱に続く難問に遭遇した。
当時台湾に漂着した琉球人を台湾人が殺害した事件への対応を巡り、士族の間から出兵論が起こっており、征韓論よりも危険性が低く大義もあると判断した大久保は2月6日に大隈重信と共に閣議で台湾出兵を主張し、合意が取れた。大久保が当初想定していたのはあくまでも琉球人を殺害したことへの報復としての出兵であり、清国への対応も折込済みで、植民地化といった大規模な目標は立てておらず、木戸孝允も2月の時点ではこの出兵に異を唱えていなかった。
大久保が佐賀の乱鎮圧のため出張していた頃、政府の外交顧問を務めていたアメリカ人のチャールズ・ルジャンドルが台湾植民地化の強硬論を主張すると、これに大隈と西郷従道が賛同し、岩倉具視も賛意を示した。木戸は強硬策への転換に反対したが、4月2日に台湾の植民地化が閣議決定されたため、木戸は抗議のため参議を辞任した。
出兵の用意を整えていた4月13日にイギリス公使のハリー・パークスから、次いで18日にアメリカ公使のジョン・ビンガムから出兵に対する抗議があり、ビンガムはアメリカ国籍の船と人員の参加を拒否した。アメリカの船やルジャンドルの同行が不可になったため、19日の閣議で一旦出兵中止が決まった。
東京に戻った大久保は事の経緯を聞くと29日に長崎に向けて出発。5月3日に到着したが、既に西郷は集めた兵を台湾に送ってしまった後だった。大久保は止むを得ない事として西郷や大隈と協議し、安易な戦闘は避けるように西郷を説諭した上で台湾に送り、清国に対しては交渉のため柳原前光を特命全権公使として直ちに送る事に決め、15日に東京に帰還した。
同時期、島津久光が政府の掲げる開化政策を否定する建言を行なっていた。三条実美と岩倉具視は、不平士族の衆望を集めていた久光を宥めるため4月27日に左大臣に就任させた。5月23日、久光は礼服の洋装化、地租改正、徴兵制を旧に復し、大久保が従わなければ免職とし、大隈も免職、副島種臣や西郷隆盛を復職させよという建言を提出した。25日、大久保がこれに抗議する形で辞表を提出すると三条は前年の政変に続いて弱気を見せたが、岩倉が久光と対決姿勢を鮮明にし、久光の要求を拒否した。建言を却下された久光は鹿児島に戻っていった。
6月4日、清国政府は外務省に対し、台湾出兵は主権侵害でありすぐに撤兵するようにとの抗議書を送った。閣議でも台湾問題が重要な議題となり議論は撤兵か開戦かに分かれたが、7月8日の閣議で平和的な交渉による解決を基本としつつ、止むを得ない場合は開戦も辞さない事を前提とする姿勢を確定した。大久保は閣議決定後の13日に自ら清国に赴いて交渉役を務めたい旨を三条実美に伝え、8月1日、全権弁理大臣として清国への派遣が決まった。6日、横浜から出航し、上海を経由。9月10日、目的地の北京に到着した。大久保は強硬派の大隈重信や特命全権公使として先に到着していた柳原前光から速やかな開戦を求められていたがこれを拒否。14日から交渉を始めた。
交渉の中で大久保は台湾への出兵について、「台湾原住民居住地は清国の主権の及ぶ所ではないため、万国公法に従えば出兵は合法である。台湾を自国領とするのであれば万国公法に基づいた根拠を示すべし」と主張したが、清国側は「万国公法はヨーロッパ諸国のみで通用する国際法であり、我が国には適用されない」と突っぱねた。交渉は平行線を辿り、10月5日にはこれ以上の交渉は無駄であると見切りをつけ帰国を決定した。この時駐清イギリス公使のトーマス・ウェードが仲裁を持ちかけた。イギリスとしては貿易の都合上日清戦争を望んでおらず、大久保からも台湾に対する領土的野心は無いとウェードに説明していた。この仲裁により10月31日、清国から50万両の賠償金支払い・台湾出兵を義挙である事を認める・琉球人が日本国属民であることを認める・台湾からの撤兵等を合意した日清両国間互換条款が調印された。随員の中には賠償金が予定より少ないという異論もあったが、開戦を望まない大久保が自己の責任として調印を決断した。
11月1日、大久保は北京を離れた。途中台湾の西郷従道と会い、撤兵について打合せした後、27日に横浜着。帰国した大久保は伊藤博文や黒田清隆といった政府関係者の他、横浜の市民からも盛大な出迎えを受け、「誠に意外の有様」と日記に綴った。岩倉具視や木戸孝允からも交渉の結果を絶賛する内容の手紙を送られており、政府首班としての大久保の評価は急速に高まった。佐賀の乱から始まった明治7年の諸問題を片付け、ようやく大久保を中心とする政権が本格的に動き出した。
明治7年末、帰国した大久保は政府立て直しのために木戸孝允を呼び戻そうと、伊藤博文を遣わして木戸との会談の場を設けた。明治8年1月8日、次いで29日に大久保は木戸と会談し、木戸の提示した政府改革案(元老院と大審院の設立、地方官会議開設、参議と各省長官の分離)を受け入れ、木戸も政府への復帰を約束した。この時征韓論政変で下野した板垣退助も政府への復帰に向けて動いており、木戸は板垣と共に憲法制定、議会設立、立憲政体樹立を推進しようとしていた。2月9日、木戸は大久保に自身の方針を語った。大久保自身は木戸の意見や板垣の復帰に乗り気でなかったが、木戸を政権に呼び戻すため同意した。
政府内部にはなお対立の再燃が残っており、実際立憲政体に反対した岩倉具視は4月から半年近くボイコットを続け、板垣は同年10月に再び下野することになる。しかし一昨年からの修羅場をくぐり抜けてきた大久保はもはや些事に頓着しないという決意のもと内務卿として本格的に政務を始めた。
5月24日、大久保は「本省事業の目的を定むるの議」と称した建議を行った。農林水産業や輸出業の振興(勧業行政)、地方警察行政の発足などを提議しており、まず警察制度の整備から実施された。警部、巡査などの役職の整備、警察区域と警察署の設置が行われ、警察制度の土台が整えられた。
勧業行政については岩崎弥太郎の三菱汽船外車の保護政策から始め、船舶の無償払い下げや助成金の給付によって三菱は外国の汽船会社を退けることが出来た。次いで輸出業の梃入れとして貿易商を支援して茶や漆器の輸出に着手し、輸入超過状態の解消を図った。
続いて地方行政機構の整備に取り掛かる。府と県で一致していなかった職制を統一するため府県職制を制定し、庶務・勧業・租税・警保・学務・出納の六課からなる専門部課を設置し、地方行政を円滑化させた。封建体制に固執して中央政府の意のままにならない県については廃止を強行し、政府-地方の上位下達を徹底させるよう促した。
この他3月には地租改正のための機関として地租改正事務局を設立。翌年末までの改正完了を目的としたが、農民の大規模な一揆が勃発したため鎮 圧を指示。予想以上に抵抗が激しかったため税率を下げ、明治10年(1877年)1月には政府職員の給料を減らすなどのリストラ策で示しを付けた。
9月、江華島事件が起こると大久保は使者として黒田清隆と井上馨を指名し、国交正常化の交渉を任じた。大久保は交渉が失敗に終わった場合は開戦も示唆していたが、黒田から受けた軍の増援要請は断り、可能な限り平和裏のうちに国交樹立するよう求めた。そして明治9年(1877年)2月26日、日朝修好条規が締結された。
朝鮮との国交正常化によって征韓論の大義名分を奪った大久保は、士族への処分を開始していく。
明治9年(1876年)3月28日、陸軍卿・山県有朋が進めていた廃刀令が施行された。翌29日には大蔵卿・大隈重信によって秩禄処分の案が纏められた。華族・士族に与えられていた家禄を全廃し、代わりにわずかな額の公債を支給するという案で、木戸孝允は過酷すぎると批判したが、政府内部で木戸に同調するものはおらず、8月5日、政府は金禄公債発行条例を交付した。
廃刀令と秩禄処分によって武士としての特権を奪われた士族は憤激し、10月から西日本各地で反乱が相次いで起こった。10月24日、熊本で敬神党(神風連)と称した集団約190人が武装蜂起し、熊本鎮台を攻撃。県令などを殺害した。27日、福岡で敬神党に呼応した約200人が決起。28日には山口で元参議の前原一誠が率いた士族約500人が反乱を起こした。これらの反乱はいずれも短期間のうちに鎮圧され、残る不穏の地は西郷隆盛の居る鹿児島のみとなった。各地の反乱に応じて西郷も決起するのではないかという噂が流れたが、大久保は無名の軽挙はやらないだろうと楽観視していた。
秩禄処分による家禄廃止の影響が全国の士族に及ぶ中、唯一鹿児島県のみは金禄公債の特例的な優遇を認められていた。
明治10年(1877年)1月18日、予てより政府の命令に従わない鹿児島県に業を煮やした木戸孝允は大久保と会談し、大久保が故郷である鹿児島を怖れ、不公正な措置を取っていると批判した。大久保は前年から鹿児島県令の大山綱良を東京に呼び、県政改革を指示していたが、大山は頑として聞き入れず、鹿児島県は独立国のごとき様相を呈していた。明治7年6月に不平士族のために設立された私学校では、政府の施策に不満を持つ士族が各地で頻発する反乱を横目に蹶起の隙を伺っていたが、西郷隆盛や桐野利秋らはまだその時ではないと慰撫していた。
私学校を危険視した政府は、鹿児島県内の武器弾薬を秘密裏に移設しようとしたが、1月29日、私学校党が倉庫から武器弾薬を掠奪する事件が発生し、30日から2月2日にかけて軍の火薬庫や造船所を襲撃、占領した。2月3日~7日の間には政府の密偵が捕縛され、拷問の末に西郷暗殺計画を自供した。これらの事件をきっかけに私学校党は蹶起し、西郷暗殺計画に対する訊問を大義名分とする西南戦争を引き起こした。
2月7日、大久保は伊藤博文宛て書簡の中で「反乱は桐野らの主導によるもので西郷はこのような無名の軽挙を起こすはずはない」「もし蜂起したなら大義も名分もない反乱であり、政府としても堂々と討滅できるので心中密かに笑いを生じる」「もし西郷が加わっていれば残念千万だがそれまでの事と断念するしか無い」と記した。
9日、鹿児島県からの使者の知らせを受けた大久保は、西郷は蹶起に同意せず雲隠れしたと聞き、「西郷がいなければ蜘蛛の子を散らすが如きもの」と安堵したが、14日、鹿児島から各府県に、政府への「尋問の筋これあり」とする通知が発送され、17日に西郷が軍を率いて鹿児島を出立した。
16日、京都に到着した大久保は三条実美と面会し、西郷の心事を知るのは自分のみであり、西郷と会って説得すれば抑えられるだろうと語った。閣議でも「自ら帰県して親しく西郷と面晤し、意思の疎通を計り、鎮撫の従事すべく」と主張したが、他の閣僚から制止された。19日に征討令が出され、25日には西郷の官位を剥奪し、西郷は朝敵に認定された。
9月24日、鹿児島の城山で西郷が自刃し、西南戦争は終結した。この日、大久保は西郷戦死の電報を受け取ると、伊藤博文と黒田清隆に回覧した。
最後にして最大の士族の反乱である西南戦争に勝利した事で比類なき権威を得た大久保は、更なる変革を目指す。
明治11年(1878年)3月、士族への救済策として開墾事業の推進、府県への資本貸与、港湾・河川・道路などの運用業に対する公債募集を提議し、5月に我が国初めての公募国債が設けられた。
5月14日早朝、福島県権令の山吉盛典が大久保の屋敷を訪ね、帰県の挨拶のついでに公債に関する議論をした。その中で大久保は、公債は士族救済のための止むを得ない措置であると説いた。議論が終わり山吉が帰ろうとすると大久保が引き止め、次のように告げた。
「維新を貫徹するためには30年かかる。初めの10年は創業、次の20年が最も肝要な殖産興業の時期であり、自分がこれに尽くす事を決めている。最後の10年は後進に任せたい。」
午前8時に自宅から馬車で出立し、赤坂の仮御所に向かう途中の紀尾井町清水谷を通りがかった時、石川県士族の島田一良ら6人の士族の襲撃を受け、殺害された。享年48(満47歳)。
「大久保公の内務卿の時代には、内務卿の室は神聖なものと見做されていた。いつ行ってもシーンとしたもので、大久保さんの所へ行って何か一と議論しようなどと言って押しかけて行くものがあっても、内務卿の室へ這入ると議論どころか縮み上がって還って来るという風であった。卿の室は粛然として声がなかった。仕事の上のことでも黙って聞いておられた。自分でも議論はされず、書面だけでは分からぬ伺い書があると、呼びつけて聞いて「ヨシ」と言ってポツンと印形を押して黙って還してよこす。」(河瀬秀治談)
「紀尾井町の変のあった三、四日前の晩、何であったか、相談することがあって、大久保公の屋敷へ行った。一緒に晩餐を食べていたら、「前島さん私は昨夜変な夢を見た。なんでも西郷と言い争って、終いには格闘したが、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。脳をひどく石に打ちつけて脳が砕けてしまった。自分の脳が砕けてビクビク動いているのがアリアリと見えたが、不思議な夢ではありませんか」というような話で、平生夢のことなどは、一切話されぬ人であったから、不思議に思っていたが、偶然かどうか、二、三日にして紀尾井町の変が起こった。その日は太政官に緊急な相談事件があって、皆が早く出かけた。皆が出揃っても大将一人見えない。大変に遅いがどうしたのだろうと言っていたら、使いが来て、今大久保公が紀尾井町で刺客の手に倒れたと報して来た。私はすぐに駆けつけ。公はまだ路上に倒れたままでおられたが、躰は血だらけで、脳が砕けて、まだピクピクと動いていた。二、三日前に親しく聞いた公の悪夢を憶い出して慄然とした」(前島密談)
「大久保が二十年の公事、私事に関する大苦労は新しき日本を作るだけの力があったほど、それほど大久保は大した苦労をした人である。この大苦労がやっと脱けて、これから大いに積極的発展をやろうという時に、西郷の暴動が起こった。あの財政上、兵力上およびその他の言うに忍びぬ大苦労には、さすがの大久保も参ったろう。吾が輩の知っている大久保は、いつも沈んだ考え深いような人でもあった。しかるに、これが苦労のためにそうであったと知ったのは、十年の戦争が済むと、二十年の苦労がようやく晴れたという面持ちになり、急に打って変わって言うこともハキハキしてきた。かつて伊藤(博文)とおれとを呼んで、今までは吾が輩はいろいろの関係いn掣肘されて、思うようなことができなかった。君らもさぞ頑迷な因循な政事家だとおもったろうが、これからは大いにやる。おれは元来進歩主義なのじゃ。大いに君らと一緒にやろう。一つ積極的にやろうじゃないか、と言った風の話で、盛んな元気であった。しかるにだ、この満々たる元気をもって政治に当たり、ようやく実力も権力も大いに振るおうという時になって、あの暗殺だ。大久保が初めて愁眉を開いて、志を得た間はわずかに八ヶ月、二十年の大辛苦になんら酬いられるところなく、ただ八ヶ月のみ安らかな思いをして死んだのだ」(大隈重信談)
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