歴史学とは、学問のひとつである。
古今東西、現在起きている現象を過去に原因を遡及させたり、現在の世界はどのようなあり方で将来的にどうなるのかを分析するために、過去を徹底的に分析しようとしたり、という姿勢は人類共通であったようだ(例外も多数あるが)。そのなかで、ヨーロッパで徐々に形成され、レオポルト・フォン・ランケによって形作られたといわれているのが近代歴史学である。
というわけで、西洋ではどのような流れで歴史学が誕生し、ランケ史学がどのように批判的継承されていったかを見ていく。
なお、中国史書の流れを汲んだ東洋史の伝統や、イスラーム法学者や哲学者など伝統を受け継いだイスラーム史学、神話学や文化人類学、宗教学の分析の対象でもある、その他さまざまな世界認識、社会学によって言及される現代の世界認識、ジェンダー論を受けたさらなる読み替えなどもあり、ぶっちゃけこれが汎世界的なグラウンデッド・セオリーというわけでもないので注意してほしい(サブカルクソライターが未だにランケのやり方を固く信仰しているという謎の前提でマウント取ろうとするし…)。
以後の大前提としてヨーロッパ中心史観をどうしても言及せざるを得ないので、最初に置く。
すくなくともヨーロッパなる言葉は神話には登場せず、エウローペーの誘拐などがホメロス期の認識であり、紀元前500年代になってようやくヨーロッパが「誕生」するというのが、リュシアン・フェーヴルの言及である。それが最も表れているのがヘロドトスの歴史認識であり、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルによって近代の終着点としてヨーロッパが据えられたこともあって、ヨーロッパ中心史観がふんわりと誕生したのではないかとされる。
かくして「アジア」、「アフリカ」はヨーロッパによって語られ、「アメリカ」、「オセアニア」はヨーロッパによって定義された。そして、アジアはそれを受け入れて、自分で語りだした、というのが近代の日本の歴史学だったりの動向である。
じゃあ、ヨーロッパをアジアに、アジアをヨーロッパに置き換えたりすれば、もっと現実的な歴史観になるのかというのが次の問題であり、ヨーロッパ以外の世界もヨーロッパの語りを内面化しちゃっているため、本当に脱中心的・多元的な「語り」が可能か、というのがポストコロニアル研究とかいろいろあるのでそっちも参考してほしい。
根本的な突っ込みどころとして、この記事がそもそもヨーロッパ中心主義ではないか、というものがある。正直言ってその通りなのだが、オリエンタリズム的でもオクシデンタリズム的でもない「史学史」の「叙述」が果たしてできるのか、という問題は上記の通りとてつもなく難しいのだ。よって、今回は、単純に言えば楽をさせてほしい。
なお、ヨーロッパがどんどん中心化していく過程は、世界地図を時代順に追っていくのがいいケーススタディかもしれない。
というわけで、世界史頻出のヘロドトスとトゥキュディデスである。とはいえ、彼等の時代に「歴史家」という言葉はなかった。かといって、ヘロドトスの著作に見いだせるマニフェストを見ていくと、叙述の対象を限定し、その原因を探る、という歴史家の姿勢そのものでありはした。
なお、歴史家という意味でヒストリコスや歴史を意味するヒストリアの最古の例はアリストテレスの『詩学』であり、この頃のヒストリアはまだ研究、探求、調査といった意味である。実際キケロの『法律論』ではヘロドトスは「作り話の父」とも言われている。
ヘロドトスの基本的な姿勢は、自分で様々な世界に接し、インタビューをしてくものである。どちらかといえば相対主義の人物であり、ペルシアなどにも先進的要素を見出してはいる。まあ、アテナイびいきなので、割と台無し感はあるが。結局ヘロドトスの功績は、従来民衆に対して行われていた語りの記述を、歴史や地理に援用したことにある。
一方、トゥキュディデスは史料批判である。彼は「物語的史家」を批判し、実証的歴史学の祖とも言われたり言われなかったり。ただし、トゥキュディデスはヘロドトスのやり方をリスペクトしていた気配もあるので、この批判の対象がヘロドトスかはよくわからない。トゥキュディデスは第1巻で方法論と原因論を書き、残りの巻で年代記的に叙述していった。こうした方法の厳密化によって失われたものも多くあり、同時代のギリシア世界の政治史のみに自らを幽閉してしまったのであった。
かくして、ギリシアの歴史叙述は3つの限界、歴史的展望の短さ、主題の選択の幅の狭さ、個別的歴史を包括的な歴史に集大成できない、といったものにぶち当たったのであった。
古典古代はギリシアからローマに移り、そのことを象徴する人物がポリュビオスである。というか、ローマ時代になると、歴史叙述が様々な対象に分岐した。クセノフォン、カエサルらの自身の体験などを書き残したメモワール、プルタルコスやスエトニウスに象徴される伝記、ポリュビオスの普遍的世界史、あくまでもローマに限定したリウィウスやタキトゥスのローマ史、etc、etc…
ここで、ポリュビオスを取り上げよう。彼の著作はもう3分の1しか残っていないが、そこからわかるのが、なぜローマが世界を支配したかというスケールで世界史を描こうとし、それを教訓としようとしたのである。ここに「世界史」が誕生したといってもいい気もするが、この著作は一見運命が歴史を動かすという思想に基づく全体史のようで、実際には自身の属するアカイアへの贔屓やアイトリアへの偏見が見られるなど、現代では壮大なる自己中心的世界史という評価も与えられている。
とはいえ、とはいえなのだが、ポリュビオスは6種類の国制が循環していき、盛衰していくという極めて重要な示唆を出している。これは15~16世紀にヨーロッパに「再上陸」したことで、大きな影響を与えていったような気もする。ただし、実際問題、国家循環論、混合政体論による安定秩序、国家盛衰論の変化って矛盾している気がしなくもない。
じゃあ、一般的な古代ローマの歴史って何だったのかというと、飾り気のない編年体であった。ところが、タキトゥスあたりになると、ローマって退廃してね?みたいな風潮も生まれてきたため、「ためにはなるが面白くない」と自分で言わしめた歴史書が編まれていったのだ。さらに、そもそもタキトゥスは純粋なローマ市民でもなかったため、次第に外部の「声」が組み込まれていった。
ロビン・ジョージ・コリングウッドによる3つある歴史観の画期の内、第2のものがキリスト教思想の影響による観念の変革である。ギリシア・ローマにあった楽観的観念が放棄され、天地創造と終末に挟まれたことで歴史は永遠に不変であるという観念も放棄されたのだ。そして導入されたのが、歴史的過程は神の意図の達成、行為者の行っているものすべては神の意図の伝達手段、歴史過程のどの部分も全体の一部、といった新しい観念である。
たとえば、アウグスティヌスは『神の国』で循環的歴史観を批判し、歴史は直線的で不可逆的であるとしている。一方で『ダニエル書』の四大世界帝国や黙示録の隠喩は歴史家の関心を呼び、12世紀のオットー・フォン・フライジングのような世界史と天地創造の6日間を対応させた歴史観が誕生する。トマス・アクィナスの律法前/律法下/恩寵下と自然/恩寵/栄光の3時代区分もその一環である。
セヴィリアのイシドールスを見ると、歴史と論証と物語を区別し、ディアーリウム、アナーレース、ヒストリアの3つの時間の流れの歴史観があったようだ。13世紀には「歴史の鏡」として学問の一分野になり、年代記が編まれていった。なお、上で上げたヨーロッパの語りをするうちに「辺境」からも応答がくる過程がこのころの北欧や東欧ではないかみたいな話もあるが、いったんパス。
しかし、中世を経るうちに、歴史叙述はアイデンティティ形成の場として、世界→都市・地域と徐々にミクロ化していった。とはいえ、トゥールのグレゴリウスの『歴史十書』にあった終末論的な見方はベーダ・ヴェネラビリスの『イギリス教会史』、他にも『ロシア原初年代記』、『匿名のガル年代記』といったあたりで、対象がミクロ化しつつも、見て取ることができる。
こうして年を追っていくうちに、聖書に基づいた「普遍史」が成立した。世界を3大陸とキリスト教徒/異教徒/怪物的人間に区分けされるアレである。ようするに、西暦が誕生したのだ。
しかし、ここで問題が起きる。ルネサンスの古典の復興により、ヘロドトスなどが再輸入され、エジプト史がいくらなんでも古すぎね?みたいな話になってきたのだ。かくして聖書って批判していいんじゃ…?みたいな話が持ち上がってきたのである。
そして次の問題が起きる。大航海時代によって中国史も古いことが分かった。さらにアメリカ大陸とインディオも「発見」されてしまったのだ。中国史はまだ無視/承認/組み込みで対処できなくもなかったが、アメリカ発見は大打撃になってしまった。その時期に唱えられたのが1度目の人類創造による「プレ・アダム人」説である。さらに16世紀になると紀元前という文字の使用がようやく表れてきたのだ。
というわけで、この時期終に、古代/中世/近代の3時代区分が誕生する。クリストフ・ケラーにみられたものは19世紀までに波及したが、じゃあそれぞれの分かれ目ってどこだよみたいな話はずっと続いていく。
さらにゲッティンゲン学派が誕生し、普遍史から世界史に転換しつつあった。その代表的な人物が、ヨハン・クリストフ・ガッテラーであり、アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・シュレーツァーである。さらに批判的史料学が成立し、ロレンツォ・ヴァッラがコンスタンティヌスの寄進状を偽物と告発した。さらにボランディストなどが史料批判を用いた聖者伝を編み出し、ジャン・マビヨンが古文書学を確立させたのであった。
ルネ・デカルトにみるように、このころ歴史は新しい知識人たちにぼろくそに言われだした。それに対する応答が、ジャンバッディスタ・ヴィーコの「新しい学」である。ヴィーコは「真理=創られたもの」とデカルトを批判し、人間中心主義の真理の探究を求めたのである。人間はすべて共通感覚を持っており、諸民族は神々の時代→英雄の時代→人間の時代をたどるとしたのである。
ここにあるように、ヴィーコにとって神話=歴史である。確かにヴィーコは「人間が歴史を作る」としつつも、「神の摂理」を見出したものであったが、一方で文化史、歴史人類学の祖ともいわれるほどの業績を誇る。
この一方で歴史哲学が誕生しつつあった。ヴォルテールに至っては、批判的に史料を読めと聖書を批判し、中国を高く評価していく。ヨーロッパ中心主義が批判されつつあった。
またイマヌエル・カントになると、歴史を軽視した視線はあまり感じられず、歴史を語りながら未来を見る。カントは人類の総体をすでに語っており、その一部として過去に起きたことを重視するのである。
この流れでヘーゲルの『歴史哲学』が成立する。事実そのままの歴史、反省をくわえた歴史、哲学的な歴史の3種類の歴史の見方があるとしたあの本である。歴史は「理性」が動かし、民族精神によって歴史は進行していくとしたのだ。かくして、東から西へ世界史は成立するとし、歴史なき民族を排除していったのである。
こうしたヘーゲル的な歴史哲学に批判をくわえたのが、レオポルト・フォン・ランケである。彼は進歩史観を否定し、歴史的個性を重視した。歴史主義の誕生である。そしてそのためには事実それ自体の記述を目指し、本格的な史料批判の必要性を説いた。その一方で政治史を優位に置き、大衆への理解を欠如した楽観主義的なものだった。
ランケ個人の史観はおいておいて、その功績は「演習」を大学で行ったことである。史料批判の実践を大学で教え、ランケ史学は学派を形成していった。ゲオルク・ヴァイツ、ヴィルヘルム・フォン・ギーゼブレヒトといった人々である。一方ランケを批判するプロイセン学派が登場した。ヨハン・グスタフ・ドロイゼン、ハインリヒ・フォン・ジーベル、ハインリヒ・トライチュケといった人々である。さらに新ランケ派がそれに再批判を加え、マックス・レンツ、エーリヒ・マルクス、フリードリヒ・マイネッケらが現れた。
要するにランケを起点として、歴史学を実践する人々が多数現れたのである。日本にもルードヴィヒ・リースによって持ち込まれ、「史学」が誕生した。とはいえなのだが、当然そのオルタナティブにあたる流れは多数存在する。その一人がヤーコプ・ブルクハルトである。
ブルクハルトは縦軸ではなく横軸に注目し、反復性・恒常性・類型性を重視した。歴史における3つの力はブルクハルトにとって国家・宗教・文化であり、歴史的危機への不安が彼の叙述にあった。「新しい文化史」の祖ともされる人物だが、ニーチェとは犬猿の仲である。ブルクハルトにとって歴史とは病気であり、あくまでも忘却と永遠化によって解毒される。彼は観察の幸福を、ニーチェとは異なり歴史の中に見出したのだ。
というわけで、どうしても避けては通れない人物が登場する。カール・マルクスである。『ドイツ・イデオロギー』で唯一の学としての歴史学を打ち立て、生産様式から歴史を把握しようとしたあの人物である。とはいえ彼にとっては当初はイデオロギー批判の必要性があったに過ぎなかった。
『経済学批判』でついに「史的唯物論の公式」が登場する。ルイ・アルチュセールに言わせると「重層的決定」論とされる、あの発展段階論である。ソヴィエト連邦誕生などに起因した彼の思想であったが、グローバルな展開はやがてイマニュエル・ウォーラーステインなどにもつながっていく。
とはいえ、マルクスが残した課題も大きい。経済的次元と政治的次元の関係はいかなるものか、マルクス主義史学は科学かどうか、史的唯物論は救済史ではないか、マルクスのオリエンタリズム、etc、etc…。とはいえ、残した影響もあまりに大きい人物ではあった。
一方、日本ではやたらと有名なのが、マックス・ウェーバーであり、これは大塚久雄の影響も大きい。ウェーバーにとっては資本主義の精神とは何かが重要なテーマであり、合理化の歴史社会学が形作られた。「呪術からの解放」と「鉄の檻」が彼の近代感であり、専門化を批判していく。
とはいえ、ウェーバー、および大塚史学にも問題は有る。史料操作への疑念やナショナリズム、どこまで行っても生産優位の姿勢である。というわけで、気づいたら20世紀になろうとしていた。
かくして、百花繚乱の主義主張が入り乱れる中、雑誌の刊行が相次いだ。というか、イギリスのホイッグ史観がどうこうとか、まだ語れる個所は有るので、その辺はそのうち…。
その一つが、1929年の『社会経済誌年報』つまりアナールである。彼らの目的は歴史家と社会科学者の分裂を弱め、歴史学の時代区分を減じ、学問間の障壁を低くすることにあった。その第一世代がマルク・ブロックとリュシアン・フェーヴルである。
彼等にとってキーになったのは「問題史」、「社会史」、「全体史」、「比較史」といったものである。さらに、心性の歴史といった、新しい概念も誕生しつつあった。
その第2世代にあたるのが、フェルナン・ブローデルである。彼は歴史を3種類の時間の流れに分け、長期持続ともいうべきロングスパンの射程をとったのが『地中海』である。彼にとって重要なのは時系列史であり、次第に経済史以外にも時系列史の流れが波及していった。
そして第3世代のエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリが現れる。今度はミクロな歴史人類学が深化されたのだ。とはいえ、1988年に本人たちが認めているように、アナール学派にパラダイムが消失しつつあった。かくして、ミクロストーリアや表象の歴史学、記憶の歴史学といった新しい視点を持ち込んでいったのである。
このアナール学派と軌を一にするかのように、社会史を中心に研究する時代がやってきた。イギリスの場合はその先駆者的存在として、ジョージ・マコーリ・トレヴェリアンによって「政治史を除いた社会史」が標榜されたが、エドワード・パーマー・トムスンらの「下からの歴史」、「人民の歴史学」といった挑戦が花開いていった。
フランスでは、アナール学派の第3世代、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリらがその推進者であり、臭いや音をめぐる表彰を研究したアラン・コルバン、読書の実践の歴史を研究したロジェ・シャルチエなどの第4世代の研究者がより深化させていく。
ドイツでは第二次世界大戦の反省から、ハンス・ウルリヒ・ヴェーラー、ユルゲン・コッカらのビーレフェルト学派によって、政策決定の前提にある社会構造を研究する動きが生じ、そのオルタナティブな流れとしてハンス・メディックらの日常生活史が打ち立てられた。
東側世界はいったん置いておくとして、日本でも柴田三千雄、遅塚忠躬、二宮宏之らの西洋史研究者や、網野善彦といった他の分野への波及が見られるように、西側世界では社会史パラダイムともいうべき状況が現出した。この社会史とは因果関係の分析、「意味」の発見、という二つの系譜が混在したものをざっくり指したものであり、実はやっていることは結構バラバラなのだが、確実に流れは生じていった。
その流れに対し、1960年代~1980年代に批判が生じ、言語論的転回とグローバリゼーションのインパクトが大打撃を与えていったというのが、現代の歴史学の前提である。
ここから先に行くために、いったんそもそもの話をさせてほしい。歴史学とはそんなに確固とした存在なのかという話である。
そもそも論なぜ19世紀になるまで歴史をこのように認識してこなかったかというと、そもそもヨーロッパはそれ以前の流れでは以下の2極の綱引きが思想的に行われてきたからである。プラトンに代表される、世界は普遍的な真理があり、人間の行いは普遍的であるという思想と、キリスト教以来の世界は神が作ったのであり、人間の行いは神が介在しているという思想である。
そして人間の行いは一回こっきりの一般化できないもの、という発想は完全に傍流の傍流に過ぎなかった。しかし、ドイツ哲学史において、こうした流れへの最初の抵抗こそが歴史学の誕生であり、その後ニーチェなどに実存主義に続いていくような、ヘーゲルに代表される近世哲学への反逆の幕開けとなったのだ。
しかし、細かいことは置いておいて、歴史学の科学性を自然科学のそれと異なるとみなす立場も当然現れた。それがヴィルヘルム・ディルタイ、ハンス・ゲオルク・ガダマーといった解釈学、ヴィルヘルム・ヴィンデルバント、ハインリヒ・リッケルトといった新カント派である。
新カント派にとっては、歴史学は自然科学の法則定立的学ではなく、個性記述的学である。また、ディルタイやガダマーにとっては歴史学は内面の「生連関」を見るものであって、解釈者にとって異なる結果が出るのだから自然科学とは違うという立場なのである。
しかし、こうした立場に対抗するのが、論理実証主義のウィーン学団、代表的な人物があのヘンペルのカラスのカール・ヘンペルである。ヘンペルからすると、彼らの提唱する統一科学理論に歴史学も沿っているとするのだった。
が、ヘンペルは盛大に分析哲学の領域から集中砲火を受ける。第一に歴史的事象に関する因果的説明は実行できない。第二に多くの論者にとって、歴史的出来事は反復不可能な「唯一の出来事」であり規則性や反復可能性を語る余地がない、というものだった。
それでは因果法則を用いずに過去を語る、というのはどういうことなのか、というので出てきたのが、日本でやたらと有名な物語論である。アーサー・コールマン・ダントーに代表されるこの立場は、これまで歴史学と自然科学の共通性のみに着目してきたため、そもそも歴史学とは何ぞや、という話ができていなかったとするのだ。
彼等にとってみれば、「物語文」として説明するのが歴史学であり、それにははじめ・中間・終わりなどがある。そしてそれは同一の主題であれば、どこまでも延長可能なのである。
ダントーやポール・リクール、日本でいう大森荘藏や野家啓一といった人々は、こうした立場から歴史学は直接観察不可能だからといって不可能になるわけではない、と述べていった。
が、こうした歴史学は自然科学云々とは無関係に固有の説明をするある種の科学だ、という主張が、言語論的転回などを受けてヘイドン・ホワイトらに攻撃されていった、というのがここ半世紀なのである。
1970年代にリチャード・ローティによって人文科学の領域で進められ、ヘイドン・ホワイトやクリフォード・ギアツによって歴史学にも投げられたジャイアントインパクト・言語論的転回とは何ぞやという話に現代歴史学に入る前に触れざるを得ないため、ここに記す。
歴史学における言語論的展開とは、ググって一般的に出てくるフレーゲだのラッセルだののアレではない。その源流はジョン・ポーコックやクインティン・スキナーに始まる、思想史界の「ケンブリッジ学派」とされる。これは、1983年に発表されたギャレス・ステッドマン=ジョーンズの著書において、労働者階級は所与の存在ではなく、討議によって作り出した構築物である、とした話が端的に指し示している、文化マルクス主義の一部が起こした問いかけのことなのだ。つまり、モノが先にあって言葉が作られたのではなく、言葉がモノを区分けしたというあの問題を、歴史概念でぶちまけ始めたのだ。
そして、当初のマルクス主義的な人々にとどまらず、ヘイドン・ホワイトやドミニク・ラカプラをマニフェストにした、世界認識を経験論的な次元で疑問を挟む論争になったのである。単純化してしまえば「妥当な認識」は存在する、存在しないの二つの立場ができたのである。
しかし、当のギャレス・ステッドマン=ジョーンズが90年代にはフランスのポストモダンから距離を置き、既に当時からローレンス・ストーンがアメリカで物語の復権を唱えていったように、人々はこの衝撃を受け止めつつも、その後のことを考えた段階になって久しい。物語の復権/主体の復権ともいうべき流れが、日本ではいわゆるオーラル・ヒストリーと呼ばれる「エゴ・ドキュメント」の研究ではあるし、文化論的転回を起こしていったのが「新しい文化史」である。それに対して経済史と合流し、空間論的・時間論的転回を果たし、再び「大きな物語」を進行させつつあったのが、グローバル・ヒストリーともいわれている。
アナール学派の箇所にも出てきたが、歴史を語るのは人文学の伝統に寄せたものに限ったわけではない。むしろ、マルクスやウェーバーの流れを汲み、近代社会科学の分野でも通時的、共時的問わず、歴史的な手法に基づく分析も行われてきたのである。
マルクスの発展段階説を受け継いだのがウォルト・ロストウである。マルクスとは逆に上部構造を重視し、さながら飛行機のようにある段階で「離陸」を行うロストウの視点は、あくまでもまだ国家の経済のみを取り扱っていた。それに対して帰納法的手法を用いたのが、サイモン・クズネッツであった。
しかし、経済は国家のみで完結するものではない。そのことを重視していったのが、ジョン・リチャード・ヒックス、カール・ポランニーといった人々で、ダグラス・セシル・ノースもその系譜にあたる。彼らの国家を後に置き、市場に注目していくやり方で、間口が広がっていったのである。
そして、第二次世界大戦後のイギリスに、エリック・ホブズボームが現れる。マルクス主義的な思想の持ち主ではあったものの、教条的な唯物史観論者を批判したホブズボームは、資本主義の動向をマクロに描いたのである。一方、ヨーロッパに主軸を置いたホブズボームに対し、アンドレ・グンダー・フランク、サミール・アミンといった第三世界に主軸を置いた従属理論の論者が登場する。
かくして、この系譜からマルクス主義的な発展段階説を批判する、イマニュエル・ウォーラーステイン、アレクサンダー・ガーシェンクロンらが登場するのである。
ロシア革命が起き、ソヴィエト連邦が誕生したとはいえ、大学には依然として多くの旧来のインテリゲンツィアが残っていた。この中で数少ない例外的な革命シンパだったミハイル・ポクロフスキーが、文部科学大臣アナトリー・ルナチャルスキーの片腕となって歴史教育を推進していったのた。
ポクロフスキーの意志として、今後はマルクス主義的な歴史家を育て、教育においてもマルクス主義的な歴史観を育てることを目的としていた。だが、正直に言って人材が圧倒的に足らず、当初は彼も認める通り、クリュチェフスキー以前の革命前の伝統に属する「ブルジョア史家」との共存関係に有ったのである。
こうした存在の代表が、イリヤ・パプロヴィッチ・ペトルシェフスキー、ミハイル・ミハイロヴィチ・ボゴスロフスキーといった人々である。アレクサンデル・キゼヴィツテルのようなもともと別の党派で政治活動を行っていたような人物を国外に追い出した後も、文学や歴史学部をいったん消して社会科学部に再編しつつも、ラニオン歴史研究所などで、1927年までは制限は有りつつも研究を行っていたのだ。
ところが、1928年、ラニオン歴史研究所が封鎖され、共産主義アカデミーへ併合。さらに、1929年、セルゲイ・フョードロヴィチ・プラトーノフやすでに亡くなったボゴスロフスキーらと関係が深い歴史学者が一斉に逮捕・流刑されるプラトーノフ事件が起きる。その背後にはポクロフスキーがいたと思われるが、確かなことは言えない。
事態がさらに急旋回する。1932年にポクロフスキー亡き後、スターリンなどの党はポクロフスキーの方針を全面的に見直し、愛国主義的な教育のために旧ロシアの歴史も必要である認識に至り、1934年に歴史学部の再設置や流刑者たちの再雇用を進める。しかし、1936年にポクロフスキーはその責任を負わされ死体に鞭を打たれることとなり、理由もあいまいなままポクロフスキーの弟子の歴史学者たちは多数処刑されていったのであった。
この流れをさらに推し進めたのが、第二次世界大戦である。ナショナリズムの高揚のため、疎開等であっても歴史教育の重要性が認識され、戦後のソ連史学の高揚につながっていく。スターリンの死後の雪解けが後押ししたものの、依然としてアレクサンドル・アンデレーエフといった人々が、コスモポリタニズム批判によって党派根性で攻撃される事態が多々見られたのである。
ペレストロイカ以後になって、ウラディミール・テレンチェヴィッチ・パシュートのような人々によって、亡命歴史家と旧来の歴史家の橋渡しが行われていったが、ともあれこれらの変遷は、歴史学がイデオロギーと無関係の存在ではない一つのケーススタディになるであろう。
第二次世界大戦の終結と冷戦の進行、第三世界の勃興という現実の問題は、否が応でも歴史学に新しい問いかけを投げかける形となった。また、女性や黒人といったマイノリティの解放も、これまで男性特権階級中心的なものの見方に異議を投げかけていったのである。
以下、大体第二次世界大戦から言語論的転回以後に発展したサブジャンルを取り扱っていく。ややトピック的になっているが、それぞれの興亡発展ではなく、おおよそ未だに勢力の強いサブジャンルが多数あるためこのような形式になっている。仕方ないが、それが逆説的に現代という時代なのだ。
歴史学というのは基本的に史料ありきである。この、史料というのは文字に限ったことではない。ただの図像から政治史的な復元ができるなどというのはざらにあるし、記録された儀礼がどのような意味を持っているか、史料が書かれた紙はどのようなものか、考古学的な「モノ」が何を語っているか、といったものも歴史学の領域ではある。
そのなかで、とりわけ取り扱いが難しいのが文字ではない声、つまり人の口による「語り」である。こうした個人の声を取り扱ったオーラル・ヒストリーには、「下からの歴史」型、エリート・オーラルヒストリー型、真相糾明・エンパワーメント型の三区分に分類される。
「下からの歴史」とは、先述した通り、別にオーラルヒストリーに限らない動向で、上部構造のみを取り扱った既存の歴史学に対して左派系の研究者が労働史などに関心を持った流れが生じ、やがてジェンダー論やマイノリティ、ポストコロニアリズムなどと結びついてクィア理論やサバルタン・スタディーズといったものも出てきた。一方政治史などに顔を出すエリートに対しても同様の手法が応用され、日本では割とこっちのほうが一般書が出ている。これら以外にも、個人の「語り」を収集することで、見えてくるものがあるというのが最後であり、第二次世界大戦の個人の回想という形でなじみ深いあれである。
19世紀にはすでに北欧諸国で民話記録などが行われてきたが、オーラル・ヒストリーが確立したのは、第二次世界大戦後のイギリスであった。エディンバラ大学、エセックス大学、ランカスター大学といった新しめの大学の社会科学科で、オーラルヒストリーを研究するようになったのだ。
そして研究に一石を投じたのが、レジスタンス研究の盛んだったイタリアの歴史家である。アレッサンドロ・ボルテッリ、イーザ・パッセリーニ、チェザーレ・ベルマーニといった人々が推進したオーラルヒストリー研究は、デ・マルティーノ協会やジャンニ・ボジオ・クラブといった民間の研究機関がより盛んに着手していったのだ。この流れは中東欧などにも広がっていった。
一方、アメリカ合衆国ではニューディール政策の一環として始められた連邦ライター事業が起源とされる。戦後にアラン・ネヴィンズがアカデミズムの世界でこれに着手し、議会の快い協力もあって、政治史でオーラル・ヒストリーが推進されていったのである。この流れは中南米に波及していき、今やこの地域は欧米に並ぶメッカである。
オーラル・ヒストリーは、「文献至上主義」で「権威主義的」で「政治史中心」なアカデミズム歴史学へのアンチテーゼとして生まれた気はするが、別に両者は仲たがいせず、今となっては両輪となっている。というか、後で出てくる新しい文化史との子供が、「記憶」や「感情」の歴史という気もする。また、いわゆる「パーソナル・ナラティブ」や「エゴ・ドキュメント」研究は、まさに新しい歴史学の最前線である。
かくして、もはや歴史学の対象は別に文献に限ってはいないため、今後これらを区別することが重要かどうかは、動向を見ていく必要がある。
こうしていろいろあるうちに、歴史学の細分化への救済と学問全体における文化論的転回と連動した、「新しい文化史」が1980年代に誕生した。
これらに属する人々に言わせると、言語論的転回を踏まえた上で、「構築主義」やパフォーマンス論に大いに影響を受け、歴史における「文化的構築」をトピックとして研究する一派による「文化論的転回」が起きた。ピーター・バークによるとその起源はブルクハルトなどにあたるが、直接的なきっかけは文化的スキーマ概念に焦点を当てたヴァールブルク派の成立と、第二次世界大戦をきっかけにしたアメリカへの亡命である。
文化史研究者にとっては昔から民衆文化とは何かがキーではあったが、それらの旧来の文化史研究者とは区別される存在である。彼ら「新しい文化史」の研究者にとっては、20世紀中ごろまで支配的だったマルクス主義的な物の見方から、アナール主義の人類学的転回によって、次第に視点を変え、「新歴史主義者」をも団結させながら、その目論見が成功に至ったとされる。「新しい文化史」に影響を与えたのが、ミハイル・バフチン、ノルベルト・エリアス、ミシェル・フーコー、ピエール・ブルデューである。
ここまで経緯だけを追ってしまったが、彼等にとっては世界は「ハードな」ものではなく、「ソフトな」ものであり、「同一の」出来事にも異なる視点の存在による様々な認識があるとするのである。ミシェル・ド・セルトーの文化理論に影響された彼らは、ヘイドン・ホワイトの、過去それ自体が歴史家による構築物であり、共通するプロット「メタヒストリー」を持っているという批判にも応じていった。
彼等にとって文化は構築物であり、何らかのパフォーマンスとして現れるものの背景には「何か」がある。そしてそれらの文化はハイブリディティなものとして、合わさっていくのである。こうした文化を研究していくのが「新しい文化史」というわけだ。
とはいえ、誰が個人や集団を発明したか、構築の過程に存在する文化的・社会的な制約、文化的構築の素材といった問題を「新しい文化史」も抱えたまま、21世紀に入った。すでに「新しい文化史」も業績評価の段階に移っているのである。
ちなみに、こうした文化論的転回の問題点として最たるものに、人間の主体性の喪失があげられる。その間隙を縫って現れたのが、グローバル・ヒストリーである、として鞍替えしたのが、リン・ハントやデイヴィッド・アーミテイジといった人々であった。
メアリ・ウルストンクラフトによってはじめられた19世紀の第一波フェミニズムは、当然歴史学の中にも大いに影響を与えることとなった。しかし、参政権の獲得を目指した第一波フェミニズム、男女の役割分担をターゲットにした第二波フェミニズムの段階では、単なる女性史だったといってもよい。
話が変わるのが、ジュディス・バトラーによって生物学的性差と後天的なジェンダーの二分法も何かおかしくね?といわれ、生物学的性差はジェンダーによって遡及される構築物であるとされるようになり、クィア理論などが登場した第三派フェミニズムの流れからである。
当初、ジェンダーのみにジュディス・バトラーがターゲットを絞っていた時期に、歴史学にジェンダーの視点を持ち込んだのは、ジョーン・スコットとされる。以後、メアリ・ライアンやレオノア・ダヴィドフ、キャサリン・ホールといった古典的な社会史研究が続いていくが、バトラーの論調転換後にトマス・ラカーやロンダ・シービンガーといった科学史研究者が、ジェンダー概念が生物学的性差に適応されるようになった過程を批判的に研究していくこととなった。
こうした中で、身体の性差のみを取り扱っていた当初の研究は批判されていき、人種、階級がジェンダー形成にどのように作用していったか、ジェンダー研究に登場した男性学と連動した、男性性、つまりマスキュリンはどのような変遷をたどったか、政治文化のなかでジェンダーはどのように作用したか、といったものが研究されてきた。
そして、言語論的転回である。フーコーやデリダに依拠したジョーン・スコットの起こした理論闘争によって、多くのジェンダー史研究者は盛大に当事者となり、「新しい文化史」やグローバル・ヒストリーと連動していったのである。
こうした新しい文化史、オーラル・ヒストリー、ジェンダー史が複合的に絡んだ領域が「感情の歴史学」である。20世紀にはせいぜいピーター・スターンズが先駆的に研究していた程度のこのジャンルは、ウーテ・フレーフェルトという広告塔の存在もあって、一躍有名なジャンルとなっている。
では、感情の歴史学とはどのように研究を行っているのだろうか。そのアプローチとしてエモーショノロジー、エモーティヴと感情体制、感情の共同体、パフォーマンスとしての感情の4つが挙げられている。
エモーショノロジーとはピーター・スターンズの造語で、感情の型や基準、規範を意味する。人間の普遍的なエモーションとは区別される、社会的なものである。一方、ウィリアム・レディに造語として提唱されたのがエモーティヴと感情体制で、内側にある情感と外側にある文化的な表現の間の翻訳作業に着目してる。こうした二つに反発したバーバラ・ローゼンウェインが打ち立てたのが感情共同体で、単数の前者二つと異なり、複数形の共同体が複数併存することに焦点を当てる。最後がゲルト・アルトホフが提唱するもので、宮廷儀礼が一種のルールに沿ったゲームのようにとらえるような見方である。
しかし、これもまた、歴史学の中では完結出来ない領域である。心理学や神経科学、認知科学といった他領域からの歩み寄りによって、またグローバル・ヒストリーなどと連携していく過程の真っ最中の、ロブ・ボディスらが認めているように、まだ発展途上の段階なのだ。「ニューロ・ヒストリー」などとも呼ばれるこれらがどうなるかは、まだわからない。
1970年代に、現実世界を国民国家が覆うにつれて、ナショナル・ヒストリーで叙述し続けて本当にいいのかという流れが出てきた。それこそが、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論である。とはいえ、彼は決してヨーロッパ中心主義から出たわけではなく、同じ従属理論の旗手から批判がされていった。
とはいえ、これによって「世界」を範囲に広く見る流れが生じた。その旗頭となったのが、歴史学の伝統と齟齬を感じつつあった、各地域を対象にした地域研究者である。さらに、現実が世界の語りをより精細に要求した。グローバリゼーションの進行である。
こうして、グローバル・ヒストリーが誕生した。術語としては1993年のブルース・マズリッシュ、ラルフ・ブールチャンズらの『グローバル・ヒストリーの概念(化)』が端緒とされる。この辺の詳細はグローバル・ヒストリーの記事に譲るとして、接続と比較、共通性はグローバル・ヒストリーの十八番であり、代表例としてサンジャイ・スプラフマニヤム、「ゾミア」のジェームズ・C・スコット、クリストファー・アラン・ベイリ、ユルゲン・オスターハンメルといったグローバル・ヒストリーの古典ともいうべき90年代以来の研究があげられる。
一応、歴史学の記事として、グローバル・ヒストリーの特徴を三人の著者に語ってもらいたい。
一人目はパミラ・カイル・クロスリーで、グローバル・ヒストリーの語りの方を「発散」、「収斂」、「伝染」、「システム」の4通りに分ける。
二人目のリン・ハントは近代歴史叙述のパラダイムにマルクス主義、近代化論、アナール学派、「アイデンティティの政治」の4つをあげ、いったん文化理論が追いやったものの、新たなパラダイムを提供されないまま、人々の自己意識を変革させてしまうグローバリゼーションが進行した結果、その語りを引き起こしたとする。
三人目のゼバスティアン・コンラートは空間性と時間制の二つの問題を抱えつつ、構造を論じる際の不均等な力関係について意識的である、というポジショナリティの問題に自覚的である点を特徴としている。
様々なアクターがそれぞれのやり方で世界を表象し、構築したように、グローバル・ヒストリーの歴史家は、同時代の諸力の配置関係の中で歴史を描くことの意味と格闘し、応答責任を果たそうとしている。ただし、リン・ハントやゲイリー・ワイルダーが描くように、彼等の一部は別に「新しい文化史」にとって代わろうとしているのではなく、様々なグローバル・ヒストリーの実践として、協業すら行っている。
実際問題としてグローバル・ヒストリーは未だなお既存の歴史学にとって代わってはいない。例えば、ナショナル・ヒストリーとグローバル・ヒストリーもお互いに対話を続けているのだ。
社会科学の経済史学と人文科学のアナール学派社会経済史学からグローバル・ヒストリーの移行、という二つの流れを受け継いだのが計量歴史学・数量史といった分野である。
経済学の視点では1960年代ごろからロバート・フォーゲルらによって「新しい経済史」が形作られたが、歴史学における根本的な問題としては、市場が十分に働いていない社会をどう分析するか、というものがあった。それの解決策として打ち出されたのが、ロバート・コース、オリバー・ウィリアムソンといった人々による、取引費用理論であったが、これもまだ限界を抱えていた。それを超えたのが、ゲーム理論を経済史学に援用した、アブナー・グライフの歴史制度分析である。
一方、全体史をグローバル・ヒストリーに取り上げられた形になる、ブローデルより後のアナール学派の人々は、フーコーの「一般史」の思想を取り入れた「時系列史」と呼ばれるミクロの視点に移っていく。エルネスト・ラブルースに始まるアナール学派の数量歴史学は、ルイ・アンリー、ミシェル・フルーリ、ピエール・グーベールといった人々による歴史人口学が形作られ、エマニュエル・トッドらに続いていく。また、ジャン・マルシェフスキーらによって数量を用いた数量歴史学はより発展したものの、アナール学派の人々にとっては、歴史学と社会科学の関係性を悩ませるようになった。
とはいえ、こうした努力によって、ロベール・ボワイエのレギュラシオン・アプローチなど、引き続き両者の関係は健康的に続いている。ウィリアム・ハーディー・マクニールやエリック・ジョーンズ、アルフレッド・クロスビー、ジョエル・コーエンといった人々が取り組む環境史、ロドリック・フラッド、アン・ディグビー、ジェイムズ・ライリーといった人々が取り組む身体史、アンガス・マディソン、フェルプス・ブラウン、ロバート・カーソン・アレン、ハミッシュ・フレーザーといった人々が取り組む消費史がその最前線である。
かくして、21世紀も数十年経った今もなお、新たな歴史理論を模索する格闘は続いている。
21世紀になってしばらく経つにつれて、どこの国でも往々にして人文科学ってあれ本当にいるの?的な問題が提示された。そしてこのような状況で歴史学ってどう役に立つんだ…?と思案した結果、一つの回答として出てきたのが、70年代以降あまりにも「短期的な」問題に閉じこもっていたからではないか、という発想である。
それではなぜそのような状況がこれまで世界的に起こっていたのか、という点でジョー・グルディやデイヴィッド・アーミテイジに言わせると、取り扱わさせられるデータがあまりにも膨大になりすぎたから、ということなのだ。そこで、デジタル化の進展に合わせて、この新しい技術を利用して、人新世どころか地球誕生や宇宙誕生にまで射程を広げたロングスパンで変動を見ようとする分野が、ビッグ・ヒストリーやディープ・ヒストリーである。定量的なデータが出そろい始めたので、それを利用しようというわけなのだ。
なお、ざっくりとした理解でビッグ・ヒストリーは「宇宙史」、ディープ・ヒストリーは「人類史」ということになっている。ディープ・ヒストリーの代表例として、日本の世間一般に知られるのがユヴァル・ノア・ハラリだが、生物論的アプローチと文化論的アプローチを組み合わせたダニエル・スメイル、人間が突出した生物的主体であることに異議を挟むディペシュ・チャクラバルティといった多数の例がある。
こうした、壮大なスケールへの移行は、ビッグデータの登場もあって、盛んである。一方で、「スケールの拡大」がいったん否定した「大きな物語」への回帰、「物語論的転回2.0」に相当するのではないか、という声も上がっている。
ここまで話してきた歴史学とは、基本的には「実際に起こり得た歴史」を取り扱うものである。20世紀前半のエドワード・ハレット・カーも、ぶっちゃけ反実仮想の歴史はサロンの余興、未練学派などと一括している。とはいえ、1990年代に冷戦が終わると、政治学のジョセフ・ナイといった人々が言うように、条件設定を変更して異なる結果を抽出する、というまさに自然科学と同じ検証作業が国際政治学から勃興した。
歴史修正主義に陥らないようにしつつも、21世紀に入ってすでにこの領域は一定の研究領域として確立している。この代表的な存在が、ヴァーチャル・ヒストリーを提唱したニーアル・ファーガソンである。
ファーガソンは「ありえたかもしれない過去」を自らの主義主張に沿う後知恵を防ぐために、出来事が起こる「以前」に予期されていた事実を注目する。また古くからの決定論と自由意志論の論争を踏まえ、偶然性の役割を強調する。そして「起こりえなかったもの」と「起こってもおかしくなかったが、実現しなかったもの」を序列化するのである。
ヴァーチャル・ヒストリーといった術語は浸透しなかったものの、カウンターファクチュアル・ヒストリー、アロヒストリーといった分野はすでに蓄積されつつある。ロバート・カウリー、アンドリュー・ロバーツ、フィリップ・テットロック、アーロン・ベルキン、リチャード・ネッド・レボー、ジェフリー・パーカーといった人々である。例えばレボーはこの分野を「禁断の果実」としつつも、ファーガソンの定義では政治エリートの反実仮想に限定されてしまうとするのだ。
ただし、リチャード・ジョン・エヴァンズが「操作された歴史」と偶然性のみに着目する反実仮想の歴史を批判するように、この分野の弱点としては一つの些細な原因が大局に影響しすぎているのである。つまり様々な出来事を省略していると言うのだ。また、ガヴリエル・ローゼンフェルドは反実仮想に「現在の視点」が介在する影響の強さを批判する。
こうした批判を受けたのが、キャス・サンスティーンの「歴史の中の未来」研究に反実仮想が使えるのではないかというものである。つまり、「歴史の中の未来」は「過去の価値観」を再現するのだ、と。
軍事史は本来プロの軍事史家の研究領域であった。軍事史はどこまでいっても軍事学の領域である、というのは日本に限ったことではない。しかし、20世紀後半に歴史学の領域で軍事史を研究する「新しい軍事史」という分野が欧米で誕生した。
しかし、元をただせばトゥキュディデスやカエサルといった人々の著作も戦史である。近世から近代にかけて軍隊システムが形成され、「参謀本部の学問」として軍事史・戦史が誕生したと言っても、その始まりにおいてクラウゼヴィッツを受け継ぎつつもランケの弟子の一人であった、ハンス・デルブリュックによって、ドイツで歴史学に根差した軍事史も花開いたのである。
かくして、ドイツではオットー・ヒンツェなどに結実する一方で、敗戦によって日本同様軍事史はしぼんでいった。しかし、自領土侵攻の経験が少ない英米圏では、エドワード・クレシーのような「ディサイシヴ・バトル」のみを取り扱う牧歌的な大衆戦史から、1980年代に「新しい軍事史」が誕生する。その背景にあったのは、17世紀の危機論争である。
加えて、ドイツでもヒンツェ等を見直す流れが生じ、ヨハネス・クーニッシュ、フリッツ・レードリヒ、オットー・ビュッシュ、ベルンハルト・クレーナー、ラルフ・プレーヴェといった人々が、軍隊と社会の関係を取り扱い始めたのである。クレーナーやクーニッシュといった上の世代をプレーヴェが橋渡しをし、若い学者たちが取り組み始めた、というのが20世紀末の状況であった。
課題としてはまず第一に軍隊や戦争は軍事史によってのみ明らかにされることではない。軍隊社会や戦争の日常というのは軍隊と社会、軍隊と時代精神といった考察の出発点になるのである。第二に、軍隊は他の分野にどのようなインパクトを与えたか、逆にそれらの分野がどのような反応をし、軍隊もそれにどう応えたか、つまり軍隊に対する社会の影響である。第三に戦争の勝敗のインパクトを政治史や社会史では無視できないのも大きい。軍隊と他の社会集団との関係はジェンダー史などにも絡むし、軍隊と文化との関係も大きいのである。
要点をまとめるとこうなる。
実はこの流れに日本ではやたらと有名な軍事革命論も出てくる。1955年にジョン・モリス・ロバーツが唱え、1970年代後半からジェフリー・パーカーが批判的に継承したこの論――軍事技術の革命から国家の変革へという因果関係の説明――こそ、20世紀後半に英米圏で進行していた17世紀の危機論争に絡んだ問題設定だったのである。しかし、近世国家形成とテクノロジ決定論には批判も相次ぎ、特に各国でそれぞれ固有の問題があるのに一般化できるのか、というものがクリティカルである。
とはいえ、クレマンソーの言葉を借りるなら「戦争はあまりに重要過ぎて、軍隊に任せておくわけにはいかない」のである。
表題には使ったが、ジャレド・ダイアモンドの話ではなく、割と殴り合ってる社会科学とどう手を結ぶかという話を、科学哲学などを踏まえてする(ぶっちゃけここはほぼ保城広至の要約)。
歴史社会学者バリントン・ムーアの構築した理論が歴史学者から集中砲火を浴びた事例をあげるまでもなく、グスタフ・フォン・シュモラーとカール・メンガーが19世紀にくり広げた方法論争の時代から、歴史学と社会科学を巡り、ある対立がある。人類世界に起きた事象は法則性のあるものか、一過性の「ある」ものに過ぎないか、というものだ。
カール・マルクスやカール・マンハイム、タルコット・パーソンズのような、自然主義まではいかないものの、汎人類的な法則やシステムがあったと考えた、歴史主義社会科学者は、割と過去の産物に近い極端な例ではある。ただし、木を見て森を見ない歴史学者と、自分の理論に都合よく取捨択一していく社会科学者、という戯画的な対立は、20世紀に至っても続いていたのである。
とはいえ、こんな状況がいつまでも続いていいのか、ということでロバート・キング・マートン、ジョン・ルイス・ギャデスの「中範囲の理論」を歴史学者が作る必要があるのではないか、という話が出てきている。
つまり、因果説と記述説の説明の2タイプを満たし、仮説の発見を目的とするアブダクションを基軸にし、アレクサンダー・ジョージの説く構造化・焦点化を推し進めた事例の全枚挙を行い、デレク・ビーチ、ラスムス・ブルン・ペダーセンの主張する過程追跡を改良した過程構築を行えば、歴史学と社会科学の共存が一つの類型として見られるのではないか、というのが保城広至の主張である。
彼も留保しているようにあくまでも一類型に過ぎず、まだ完全な和解に至ったわけではない。しかし、他の分野との学際的な交流と同様、水と油の歴史学と社会科学も協業していく必要に迫られている、というのが現在の世界情勢ではあるのだ。
ここまでのこの記事は、一定の歴史学パラダイムがどのように興亡発展してきたかについて、順番に追ってきた内容になっている。ところがここでよく考えてほしい。これって途中で歴史学が学問的手法として退けてきた進歩史観の一種の変形ではないだろうか。
こうした数々の転回によってパラダイムが変わっていく研究史の流れは、古代中世近世を区分し段階的に発展していく素朴な時間認識と大差ない物の見方なのかもしれない。このことは歴史学の中でも待ったをかける流れが出つつあり、ラインハルト・コゼレックという20世紀のドイツの歴史家を紹介したヘルゲ・ヨールハイムによる示唆的な論考なども、2019年に発表されている。
コゼレックは、ザッテルツァイトなど、時代区分論の多くの概念を打ち立てた第一人者として読まれてきたが、ヨールハイムはそうではなく、より複雑な時間論の提唱者ではないかと「解釈」をしている。つまるところ、気にしていることは、クーンのパラダイム論にしろ、フーコーのエピステーメーにしろ、単なる停止的な層の積み重ねではないかというのである。自然な時間と歴史的な時間、言語外的な時間と言語内的な時間、通時的な時間と共時的な時間の三種の二分法が、重複して干渉しあう複雑な時間論をコゼレックに見出したように、時間意識について、そんなに単純に考えていいのかという問題が生じつつある。
単線的で進歩主義的という非常に特異な近代的歴史意識の反映にも過ぎないことが、否定されるべきことなのかどうかも含めて、まだこれから考えなければならない問題である。というわけで、非常に素朴な「新しい」「転回」を提起していく感じのこの記事に冷や水を浴びせる形で、いったん終わりにし、ここで結論に移りたい。
それをこのニコニコ大百科の記事に求めるのは酷だと思うが、記事を立てた身として避けては通れない問題にも、ただの素人意見の力不足な力量ではあるが、あえて答えたいと思う。というか、もう21世紀になって久しいのに、エドワード・ハレット・カーだのマルク・ブロックだのの教訓がどの程度有用なのかとかあることも考えなければいけない。
ここまで単純に西洋の歴史観を追ってきた中でわかるのは、それぞれの時代・地域・コミュニティの人間はそれぞれの時代・地域・コミュニティの世界観、つまり価値意識などを持っており、それを過去にも多かれ少なかれ適応して生きているということである。人々は大なり小なり個々の心性を持っているが、その一方で所属している集団に制約を受けまくっているのである。
たとえば、ホイッグ史観という言葉がある。イギリスの近世歴史学の党派について後から言われるようになったことで、単純に言ってしまえば進歩史観であり、最終的にはめでたしめでたしになるようにプロットができている。階級闘争史観という言葉がある。マルクス主義的なものの見方で、上部構造と下部構造の対立によって歴史が動いてきたというもので、生産様式が発展的にとらえられている。
こんなこと、大昔の話だろうというかもしれない。しかし、ある事象がどのように語られるかというのは、数十年単位で見ても、同じ国民国家の中で見ても、ある程度変わっていることに、観察を通して気づくことは往々としてある。現実は絶えず進行しており、明日何があるかはわからないため、今日までのことは今日までにあったことのみで語るしかないからだ。
そして、我々はおおよそ、そのことに無自覚である。なぜなら、脳みそ、というかもっといえば自分の身体の外側にあることは、様々な神経組織などの織り成す身体反応の境界の外にあるものとして、反射などを通してしか反応できない、明らかに区別されたものとしてしか認識できないからである。
というわけで、そのことに自覚的になり、ある程度(あくまでもある程度)それぞれの物の見方を対比させていくことで、バランスの取れるようになる、というのが利点とされている学問のひとつが歴史学である、というのは、史学概論でよく言われることである。
とはいえ、上に出てきたように、ヘイドン・ホワイトやロラン・バルトは、科学者としてふるまおうとしている歴史学者だってそのくびきから出られないじゃないか、という問いをしている。相対主義や構築主義の調教師としてふるまおうとしている人文科学の研究者が、無自覚なうちに獣になってその袋小路に閉塞している愚を冒している、というのは現実でママ見ることである。
また、歴史を語ることは哲学的な思索だけで完結するものでは決してなかったことは、古代の時点でそうであり、政治経済の問題と絡むのである。それは現代においてはより高度になっており、上の問題と絡んで、より一層政治化された問題として深刻化している。
結局、こうした問題にどのように解決をもたらすかは、科学的に歴史を実践するしかないのかもしれない。そういった意味でも、冒頭の問いかけは、いまだなお解決していないのである。
古代近代20世紀 |
経済史グローバル・ヒストリー
現代東洋系 |
掲示板
11 ななしのよっしん
2021/02/18(木) 13:13:01 ID: behU7+MYvh
なんだこの神記事、ネットの海に溺れていい文章じゃない
よかったら初学者向けに史学の諸名著の簡単な書評みたいなの加筆してもらえませんか……?
12 ななしのよっしん
2021/06/29(火) 18:15:54 ID: Sbq9NVAkUX
まだ流し読みしかしてないですけど、いい記事ですね
正直高校レベルの教養というか概説としての世界史で世界システム論以降の史学論を果たして
教科書レベルに落とし込めるのかとこれを読んでて思った(小並感)
13 ななしのよっしん
2022/09/23(金) 18:49:27 ID: v2/sKCvLz0
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/20(金) 09:00
最終更新:2024/12/20(金) 08:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。