ラインラント進駐とは、1936年3月7日にドイツ軍が行ったラインラント非武装地帯の占領である。
ラインラントは、ドイツ国内を流れるライン川周辺の地帯の事を指す。第一次世界大戦に敗れたドイツはヴェルサイユ条約によってこのラインラントを非武装地帯化され、監視のため連合国軍が常駐。自身の領土でありながら手出しが出来ない不思議な地と化した。1925年にはロカルノ条約が締結され、ドイツ、フランス、ベルギーは互いに攻撃しない約束を結んだ。1930年に連合国軍が退却し、ラインラントには誰も居なくなった。
そんな中、ドイツではヒトラー総統が領土的野心を燃やしていた。エチオピア戦争における国際連盟の弱腰っぷりを目にした事で、その野心を具現化させた。ヴェルサイユ条約で不当に奪われた失地を取り戻すべく、まず最初にラインラントへ目を向けた。この非武装地帯に進駐し、英仏の動きを確認しようとした訳である。国防軍からは「ヴェルサイユ条約とロカルノ条約を破れば、必ずフランスが反撃してくる」と強い反対を受けたが、ヒトラー総統はそれを押し切った。1936年3月7日早朝、ドイツ軍は冬季演習の秘匿名で3万名と少数の航空機をラインラントに進駐。午前11時にはライン川の右岸に到達した。同日正午の演説でヒトラー総統は「(先月結ばれた)仏ソ相互援助条約はドイツに敵対する事実上の軍事同盟であり、ロカルノ条約違反である。ゆえにロカルノ条約は解消された」と主張。進駐の正当性を説いた。二つの条約を破ったドイツに対し、英仏は厳しい非難を浴びせた。この時、ヒトラー総統は内心相当ビクビクしていた。フランス軍の反撃を心底恐れており、ラインラントに3万名を進駐させたものの、ライン川を渡って左岸まで進出したのは僅か三個大隊3000名に過ぎなかった。もし攻撃してきたら1時間以内に退却するよう命じていたのである。彼は「ライン進駐の48時間は、自分の人生で最も興奮した時間であった」と述懐している。偵察部隊が「数千のフランス兵が独仏国境に集結している」との情報をもたらし、ブロンベルク国防相が撤退を進言したが、ヒトラー総統は冷静に「何かが起きるまでフランス軍は何もしない」として進言を退けた。
しかし英仏は動かなかった。イギリスのポールドウィン首相はドイツの宣伝工作に騙されて軍事力を誇大に評価しており、フランス政府に干渉しない事を伝えてきた。サロー仏首相も軍重鎮から「戦争回避のため宥和すべき」と助言されていた。何より決定的だったのは、陸軍参謀長モーリス・ガムラン将軍が「ラインラントに進駐したドイツ軍は30万」という途方も無い誤認をしていた事だった。まったくの準備をしていなかったフランス軍では到底手出しできず、黙認するしかなかった。仮にフランス軍が出撃していれば簡単に蹴散らせたにも関わらず、動かなかった。ドイツ軍はラインラントにそのまま駐留し、ヨーロッパの国際秩序は崩壊した。
ドイツ国防軍は「必ずフランスが反撃に転じる」と断言していたが、実際はヒトラー総統の読みどおりフランス軍は動かなかった。これにより威信が低下し、今までヒトラー総統を下賎の出と見下していた国防軍は渋々彼の手腕を認めた。国民もまたヒトラー総統の魔法に驚嘆し、より支持を集めた。3月29日、ヒトラー総統はラインラント進駐の可否を問う国民投票を行い、98.8%が総統の行動を評価した。国民が求めていた強いドイツの再来…その一歩を成し遂げたヒトラー総統の人気は不動のものとなった。
ロンドンで行われた国際連盟の総会では、ドイツへの制裁について議論された。制裁に賛成だったのはソ連だけで、他は反対や棄権だった。英仏が及ぼし腰であると知ったヒトラー総統は、ラインラント進駐を機に不当に奪われた失地を回復していく事となる。
掲示板
1 ななしのよっしん
2021/01/05(火) 18:24:16 ID: tJMa2vCua0
WW2勃発のターニングポイントの1つ
もし仏がラインラントに進駐したドイツ軍を攻撃したら、小規模な戦いが行われた後適当なところで手打ちになるが、ヒトラーおよびナチスの威信は落ちて強行な行動に出ることは無くなりWW2が勃発することは無かったのではないだろうか
2 ななしのよっしん
2022/04/26(火) 22:36:22 ID: ffNbkz6Z2n
3 ななしのよっしん
2022/04/29(金) 17:31:16 ID: cg+jWhIVi5
ドイツの宣伝やハッタリの凄さを垣間見れる事件
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最終更新:2024/12/27(金) 23:00
最終更新:2024/12/27(金) 23:00
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