はてなキーワード: SFとは
鉄拳7から鉄拳8へとシーンが切り替わった2024年。12月5日〜8日にかけて鉄拳8ワールドツアー(TWT)の締めくくりを飾る最終大会が日本で開催されていた。強豪国として知られるパキスタンや韓国をはじめ、タイやアラブ、果てはアフリカのコートジボワールなどの世界各国の有力プレイヤーが日本は東京に集結し、世界一位の座を賭けて四日間に渡る激戦を繰り広げた。
四日間には様々なドラマがあった。予選から躍動し続けた野獣(クマ)の圧倒的存在感、今大会でも存在感を示し続けた魔界パキスタン勢、新旧の層の厚さを見せつけた鉄拳修羅の国・韓国。予選の段階から決勝であっても全くおかしくないドリームマッチが幾つも発生し、選ぶ人それぞれにベストバウトが異なるような名勝負が数多く繰り広げられた。
三島家(風神打てるなら三島でいいでしょ)が鉄拳8の初代チャンピオンになるという目出度いことになった本大会だったが、決勝戦以外でも、同郷にして世界最強の二人 Ash と Atif が世界大会で見せる身内の読み合い、日韓の鉄拳界を長らく牽引し続けたベテラン二人ノビさんと膝さんによるフルセットの死闘、現地予選(LCQ)を駆け上がった韓国 Edge の快進撃。どの戦いも見る者を魅了し、ハートを熱くさせる試合だった。
この個人的な備忘録に取り上げるのは、それらの熱い戦い……ではなく、それらは他のもっとしっかりした人達がレポを書くだろうから任せて、個人的に愉快な気分になってしまった不真面目な不謹慎ネタを中心に記録する。
この件について書く前に、まず予選と本戦の関係について解説が必要だろう。興味がなければ「さて、話を本筋に戻そう」まで飛ばしてほしい。
今回の大会では、最初の三日間が予選期間、最終日が予選を勝ち抜いたプレイヤーたちによる決勝トーナメントとなっている。三日間に渡る予選は、それぞれ出場可能条件が異なっている。
本戦の決勝トーナメントは格ゲーの大会でお馴染みのダブルエリミネーションルールで行われる。三つの予選はどれで抜けても本戦には出場できるが、それらの間には優劣が存在する。具体的には、一日目の世界ランカーたちのリーグ戦で勝ち抜けると、本戦において勝者側(ウィナーズ)として出場できるが、それ以外だと敗者側(ルーザーズ)となってしまう。つまり、一日目の予選リーグを抜けると、それ以外の日を抜けるのに対して最初から一勝のアドバンテージを持っていることになるのだ。
この条件があるため、一日目に出場できる選手は、できるだけ一日目で本戦出場権を得たい、という思いがあるのである。
さて、話を本筋に戻そう。
初日の予選では、二十人を四つのブロックに分けて総当たり戦を行い、勝率のトップ二人が本戦出場権を得ることになる(このブロック分け自体も、プレイヤー個人の裁量を最大限に活かして、得意な相手を狙い撃ちして苦手な相手からは逃げることができるという、なかなかに戦略的で面白いので、興味があったら初日配信の最初の方を見てもらいたい)。このブロック分けにおいて、Dブロックは世界屈指の実力者が集まる死のブロックとなっていた。出場者は以下の通りだ。
グループ内どころか全参加者の中でも優勝の最右翼と目されている Ulsan と Atif が予選抜けの大本命であるが、残りの三人も彼らを捲って勝つこともありえなくない。誰が抜け出るか分からない危険な組であった。だが、Dグループの試合が進み、勝敗が積み重なるにつれて、展開は予想外のものとなってきた。
〈Kkokkoma、同じ韓国勢の Ulsan を破り、予選抜けほぼ確実となる〉
誰もが予想したであろう、なんだかんだ Atif と Ulsan が抜けるだろうという予想だったが、Kkokkoma が Ulsan を打倒してしまったせいで、状況は混迷を極めることとなった。
Atif 以外には負けなしだった Kkokkoma は最終試合を終えて最終成績:三勝一敗(得失点差+2)という非常に優秀なスコアをつけ、グループ抜け最有力となった。この時点で Kkokkoma の順位をかろうじて上回る可能性があるのは、それぞれ一試合を残し二勝一敗という成績の Atif (得失点差+1)と Ulsan (得失点差+3)の二人のみ。
〈Atif か Ulsan のどちらかが落ちる可能性が高い〉
優勝候補のどちらかが最終予選に落ちてしまう。死のグループD(Death)の名にふさわしい混沌とした状況に緊張が走る。グループB以外ではなんだかんだランク上位者が順当に抜けていたのに、ここでも大番狂わせが起きてしまうのか!(グループBにおいて世界3位の Mulgold が落ちる事故があった)
状況を整理しよう。
1. 既に Atif 対 Ulsan の試合は終わっており、Ulsan が 0-2 で完勝していた。つまり、現状としては直接対決で勝った Ulsan が負けた Atif をリードしていた。
2. ただ、Ulsan 本人は Kkokkoma に負けていたため、もし Ulsan と Kkokkoma の得失点が並べば、グループ2位になるのは Ulsan の方だった。
3. 1位と2位では決勝トーナメントにおける優位性が異なるため、叶うならば1位で抜けたい Ulsan にとって予断を許さない状況だった。
(補足:決勝トーナメントでは、グループ1位は別のグループの2位と、2位は別グループの1位戦うことになるため、1位で抜けたほうが基本的に有利となる)
そんな混乱の堝の中、グループDの試合はスケジュール通りに粛々と進んで行った。
まず、Atif 対 ノビさんの戦い。ドラグノフ同キャラ戦となった。ここでノビさんが Atif を打倒すれば、Atif の脱落は確実となったが、結果は 2-0 で Atif の勝利。これで、この時点で Atif が Kkokkoma のスコアを上回り予選抜けを確実とした。
Atif > Kkokkoma は決まった。あとは、Ulsan が勝って Kkokkoma の成績を上回るかどうか。世界のトップが落ちるか否かは、この最終戦で決まってしまう。
そして迎えたグループDの最終戦。後がない Ulsan と既に3位以下で予選落ちが確定している Farzeen。Ulsan が選んだのはメインキャラのドラグノフ。だが Farzeen がポケットの中から選んだのは、今日一度も見せていない吉光だった。
吉光は鉄拳に古くから存在する(一部熱狂的なファンが付いている)キャラクターで、バトル中突然胡座を組んだり切腹したりと、シリーズを通して見た目通りの変態トリッキーな動きで相手を幻惑させることを得意としている(あと拳法で戦うゲームなのになぜか抜身の刀を持ってる)。最新作である鉄拳8の現バージョンにおいては吉光はかなりの強キャラとして知られているが、とにかく操作や戦法が独特のためプロシーンではあまり姿を見ることはなかった。Farzeen が土壇場で持ち出したのはそんなキャラクターだった。
始まったグループDの最終試合。チャット欄が突然の吉光起用に湧き上がる中、1セット目を取ったのは、急遽吉光を投入した Farzeen の方だった。いきなりピックしたとは思えない練達した吉光の動きに、さしもの Ulsan も苦戦していたようだった。
そして始まった2セット目。1セットを取った Farzeen の吉光はキレ良く動き、開幕ラウンドから時間切れ間近の大逆転を見せた。そして続くラウンド2も、そのまま取ってしまう。
「おお!」
チャット欄がざわめく。一気に、 Ulsan のグループ落ちの可能性に運命の天秤が傾いた。運命のラウンド3。ここを取らねば Ulsan は勝ち2の負け2となり、グループ落ちが確定する。
ラウンド3は一進一退の攻防が続いたが、まず先に有効打を与えたのは Ulsan のドラグノフだった。コンボで吉光の体力を大きく奪い、そのままレイジ状態になるまで追い込むことに成功する。しかし、Farzeen の素早い切り返しにより攻防が一瞬で入れ替わり、体力状況が逆転。逆に Ulsan の方が窮地に追い込まれた。
Farzeen の吉光の体力は、まだ数発削りを耐えられる余裕があるが、Ulsan のドラグノフは小技はかろうじて耐えられるが威力の高い技を貰うとKOされてしまう程の体力。圧倒的に Farzeen が有利に見えた。しかし、ここからでも十分に捲れるのが逆転性に優れた鉄拳8である。
Farzeen はここから取れる戦略は大きく分けて二つ。一つは下段などの小技でじわじわ Ulsan を削って、最終的に隙の小さい攻撃でKOできるようにすること。そしてもう一つは、Ulsan に攻撃するように仕向けてカウンターで一気に体力を削る戦略。どちらを取るにしろ、Ulsan に反撃されないよう、限りない慎重さが求められる。
互いにステップを刻み、ジリジリと様子を伺う。先に動いてしまったのは Farzeen だった。吉光がステップを刻み、Ulsan のドラグノフの懐に潜り込み、Ulsan の攻撃を誘い迎撃技を振った。しかし、ドラグノフは既にバックステップで距離を離していた。
ドラグノフはフリーの状態だが、吉光は持続の長い技で隙だらけ。状況は圧倒的に Ulsan が優勢になった。ドラグノフは吉光の後隙に攻撃を差し込んでもいいし、横移動から有利状況を作ってもいい。だが Ulsan が選んだのはそのどれでもない、しかし非常に賢い一手だった。
吉光の行動を見るや否や、Ulsan のドラグノフが即座に放ったのはレイジアーツ。レイジ状態のときだけ出せる一度限りの必殺技で、自身にスーパーアーマーを付与しつつ特大の一撃を放つ攻撃だ。
すなわち、あの一瞬の状況で Ulsan が考えついた作戦は、レイジアーツのアーマーで吉光の攻撃を軽減しつつ相手の攻撃判定をぶち抜いて、レイジアーツの威力で一気に逆転、というものだった。あわよくばKOすらも狙える完璧な一手だった……一つの誤算を除いて。
Ulsan が選択した逆転の一手となるレイジアーツに、実況と解説が沸く。ドラグノフの拳が技の持続で硬直している吉光を襲う。そして画面に表示される K.O. の文字。体力が0になって地面に転がっていたのは、なぜか勝ち確のレイジアーツを撃ったはずの Ulsan のドラグノフの方だった。
「ええ〜〜〜〜〜〜!」
完全に予想外のものなった結末に、ええ〜と仲良く同じセルフを叫んで大混乱に陥る実況・解説・チャット欄。(ちなみに、あとで確認すると海外のストリーム(Twitch)でも「WTF」「WHAT」「OMG」「NO WAY」の嵐で、日本語チャット欄と同じく予想外の顛末に大狂乱になっていた。)
Ulsan の誤算。それは吉光の放った攻撃が超バカ威力過ぎて、アーマーのダメージ軽減を上回ってドラグノフの残体力を一発で0にしてしまったことだった。いや、あれだけ体力が残っていたら十分アーマーで耐えられるはずじゃん……。誰もがそう思ったし、多分吉光を使ってた側の Farzeen でさえ、そう思ったことだろう。
カメラは勝者と敗者に分かれてしまった壇上の男たちを映し、そこには手で顔を覆う男の姿があった。マジかよというように顔に手を当てていたのは、勝者となった方の Farzeen だった。
結果的に、この試合に Farzeen が勝利したことで Ulsan はグループDを勝ち抜けられず、三日目の LCQ に最後の望みをかけることになり、逆に Atif はグループD1位という好条件で決勝トーナメントに進むことになった。
それが明暗を分けたのか、Ulsan は LCQ で5位という最終成績に沈み決勝トーナメント進出ならずとなったが、Atif は Alslan Ash に途中で負けたものの決勝トーナメントを順調に勝ち進み、最終的に準優勝を果たすことになった。
まず、上半身が裸の筋骨隆々のプロレスラーを想像してもらいたい。そしてそのレスラーの頭にリアルなジャガーのマスクを被せていただきたい。
想像しただろうか。そう、万人が思い描いたであろう姿、それがキングである。まあ、つまりはタイガー(ジャガー)マスクである。
鉄拳に存在する数多くのキャラクターの中において、キングはプロレス技を主体としたいわゆる「投げキャラ」である。ただ、鉄拳はSFなどと比べて投げ抜けし易いシステムなので、キングは投げ一辺倒ではなく、打撃と投げを織り交ぜて戦うテクニカルなファイターとなっている。
荒々しくダイナミックな打撃の中にふいに差し込まれる力強くエレガントな投げ。打撃を意識すると掴まれ、掴みを意識すると打撃に圧倒される。この二つを変幻自在に織り交ぜて戦うのが卓越したキング使いである。だが同時に、打撃と掴みの緩急を高いレベルでコントロールする必要があるキングは、上手くプレイするが非常に難しいキャラとして知られている(あとコマンドも激ムズである)。
そのせいか、このキングというキャラクターの戦い方には非常に華があるのだ。熟練した使い手にかかれば、キングが活躍する試合は、まるでプロレスの興行を見ているかのように華々しいものとなる。長い鉄拳の歴史の中で、キングの魅力に見せられた者たちが間違いなく大勢いたことだろう(そして分からん殺しされた初心者たちも……)。
だが、華はあれど操作が複雑であるという難キャラの宿命か、キングは近年の大会シーンにおいてもいわゆる上位入賞常連キャラとは言えなかった。ポテンシャルもキャラ人気もあるが、活躍しているところを見るのは少ない、というのが今年までのキングであった。
そんなキングが、今回2024年の最強鉄拳プレイヤーを決める決勝トーナメントに、しかも勝者側で出場していたのだ。キングメインで世界ランク7位まで上り詰めたそのプレイヤーの名は The Jon。パキスタンが誇る最強の投げキャラ使いである。
近年、鉄拳強豪国として活躍目覚ましいパキスタン勢の一角として、世界ランク上位20人のみが出場できる初日の予選に出場した The Jon は、グループBを1位(3勝1敗)で抜けていた。直前のメジャー大会である Thaiger Uppercut (タイの大規模格闘ゲーム大会)を勝者側のまま優勝していた彼は、油がのった状態で、決勝トーナメントに望むことになった。
そして迎えた決勝トーナメントの時。異国の地で大一番に望む The Jon の後ろには、国籍は違えども同じキング使いたちの、暑く太い声援があった。
彼らの名はキング総会。キングをこよなく愛し、ゲーセンを借りてキングオンリーで大会を開くつわもの達だ。日本開催という立地の好都合もあったのだろう。The Jon のキングを応援するため、そんな彼らが現地に集結していた。
The Jonのキングと総会の皆さんのマリアージュは……とにかく声がデカかった。配信には(おそらく現地の実況・解説のマイクを通じて)会場の音が漏れ聞こえるのだが、熱のこもった声援は、そのマイクを突き抜けた。
The Jon のキングが打撃コンボを刻むと、攻撃のリズムに合わせて
「オィッ! オィッ! オィィィ!」
とコールがかかり、投げを決めると
「オォォォ、オィィィ〜!」
と唸りが響く。この上、コンボを投げで締めた時は……。その先は、是非自分の目で確かめていただきたい。
無念にも、The Jon のキングの活躍は7位タイで終わることになってしまったが、彼がこの日本の地で、鉄拳8となって最初の年の TWT ファイナルにて、キングの雄姿を観客に刻み込んだことには間違いないだろう(正直、決勝はクマ対キングになってほしかった気持ちがある)。
LCQ で優勝して、決勝トーナメントを快進撃する韓国の Edge を象徴する一種のミームになっていた概念。
韓国の Edge が使うキャラクターのファランは、テコンドーの使い手で、様々な足技で相手を攻め立てることが得意なキャラクターなのだが、手軽に浮かせるコンボ始動技が右アッパーなのだ。なので、ファランが右アッパー→相手のキャラが浮く→コンボで大ダメージ、という流れが、Edge がファランで勝ち進む中で何度も目にすることになった。
トップティアとは言えないファランで、激戦の LCQ を勝ち抜け、そして決勝トーナメントでも敗者側スタートという不利状況から4位にまで食い込んだ Edge。この言葉は彼の活躍の凄さを伝える言葉でもあったことだろう。
豊臣秀吉の死後、徳川家康による天下統一が「鎖国」へと傾くことなく、逆に世界への積極的進出を是とした場合――いわば「海禁令なき日本史」――をSF的視点で思考してみましょう。
関ヶ原合戦後、徳川家康は中国・朝鮮半島・東南アジアとの通商を制限するどころか、秀吉の「唐入り」を反省材料としつつも、戦略的な海上拠点の確保と国際交易の自由化へ舵を切る。その背景には、ヨーロッパ勢力(ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス)との接触から得た「大洋航行技術」や「新型火砲技術」の獲得、さらにはインド洋の交易網へ参入し莫大な富を得ることが狙いとなる。
17世紀前半、日本は大量の木材と熟練した船大工技術を駆使し、当時としては極めて進歩的な大型遠洋帆船「泰和丸(たいわまる)」型を量産する。これらの船は紅毛人(欧州人)らがもたらした航海術や天文学的知識を吸収し、独自改良を加えた航海儀器(和算と干支暦に基づく天測計測装置)を搭載。日本は東アジア・東南アジア・インド洋にわたり、広大な貿易ネットワークを確立していく。「天下布船」を掲げる海上商人連合は幕府公認の下、香辛料、絹、銀、鉄砲、陶磁器、各地の工芸品の交易を増幅させた。
17世紀後半には、欧州から取り入れたガリレオ式望遠鏡、オランダ医学、幾何学書などを独自発展させる動きが加速する。商人・学者・職人が一体となり「長崎天文局」を設立。ここで彼らは暦改革や大洋航海ルートの正確化に努め、さらには海上風力と地磁気を活用した新型羅針儀、果ては初歩的な蒸気機関をも視野に入れた研究を進める。これが18世紀以降の「テクノ・徳川」時代の幕開けを告げた。
日本海軍は急速に巨大化し、艦隊は琉球や台湾、フィリピン方面へと進出。現地の政権との婚姻同盟や商館設置で軋轢を抑えつつも、海洋ルート上の要所を押さえ、いわば「アジア海洋連邦」の中核を成した。この連邦は言語や宗教が多様な中で、文禄・慶長の役以降、「他者理解」を標榜する儒学者・神道家・キリスト教徒が集い、相互通訳機関、翻訳院の設置などを推進。また欧州列強は日本との交易を重視し、オランダ商館が江戸湾に拡大設置され、ヨーロッパ科学や印刷術、初期産業革命技術が流入。結果、日本製の「機巧船」や「からくり式自動航海補助装置」が発明される。
こうした流れで19世紀に突入すると、「蒸気機関搭載外輪船」や「初歩的電磁通信機(エレクトロ・のろし台)」が欧州からの技術供与と国産研究から生まれ、幕府と諸藩はこれを積極導入。日本は環太平洋からインド洋、さらにはアフリカ東岸まで交易範囲を拡大、アジア・アフリカ航路の安全と通信網を独自整備する。世界的には英国・仏蘭西・スペイン・ポルトガルなどが植民地競争を激化させる中、徳川幕府はあくまで「海の道」を軸に、中立的商業帝国としての地位を確立。これにより、東西の知が日本国内で混在・再構築され、画期的な「日欧中印」四極学問交流体制が成立する。
この歴史線上では、蒸気船から電気船、そして反重力航行理論(ヘリウム浮揚型船舶技術を経て、電磁的浮揚技術が20世紀初頭に確立)へと進化が続く。バイリンガルの学者・技術者集団が江戸に集い、「空中商館」と呼ばれる浮遊式交易拠点がインド洋上に浮かぶ架空都市として計画され、極東から中東、地中海まで「日出づる国」発の浮遊艦隊が航行する。「サカイ(境)なき海」の概念が生まれ、海はもはや境界ではなく、文化と技術が結合し、東西が日常的に交差する舞台となる。
このような世界での日本は、着物を纏いつつ背中には多言語翻訳デバイスを装着し、和算と西洋数学が融合したアナログ計算機や、唐絵・南蛮絵・和様が混ざり合う新美術様式を輸出する文化的強国となっている。歌舞伎は遠洋船団上でも上演され、オルガンや琵琶、シタールが融合した奇妙な海洋音楽が世界各地の港町で流れる。
海禁令なき日本は、内向きな封鎖社会を回避し、知と技術・文化・交易を絶えず世界から摂取し再構成する「海洋型多文化テクノ文明」へと進化した。SF的想像を許せば、21世紀には重力制御船団が太平洋上空で静止し、国際宇宙航行同盟の創設に日本が深く関わるシナリオも考え得る。つまり、豊臣秀吉以降の日本が海禁を選ばずに世界へ雄飛した場合、それは単なる列強模倣の帝国ではなく、海上をインフラとした知的交差点として、「海洋を舞台にしたグローバル・ルネサンス」の中心となっていたであろう。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
スレッタ:水星での経験に基づく価値観、社会への考えを回想等で明確に。恋愛・友情・家族重視の背景を描き、行動原理に説得力を。周囲からの酷い仕打ちに耐えたり流されるだけでなく、意思を持って状況打開。母親の真意に疑問を持ち、自分で考え行動する場面を増やし、成長を描く。
ミオリネ:ベネリットグループ総裁の娘としての立場、地球との格差への問題意識を行動・葛藤を通して描写。父親への反発理由、理想の社会像を明確にし、「籠の鳥」脱却。父親の過去の罪への苦悩、答えを出す過程を描き、深みを。
シャディク:戦災孤児としての過去、スペーシアンへの複雑な感情を回想シーンで丁寧に。テロリストへの道を選んだ動機・苦悩を掘り下げ、共感・理解を得る。ミオリネへの恋愛感情以外に、掲げる理想、社会変革への想いを明確にし、「百合の当て馬」脱却。
ラウダ:愛人の子としての境遇を描き、グエルへの依存と劣等感、内面を掘り下げ、行動原理に説得力を。殺人未遂後に平然とするのではなく葛藤し周囲との関係修復することで「小物」脱却、成長を描く。
社会的弱者のステレオタイプ化を回避。個性、状況への葛藤を丁寧に。特に体制反抗キャラの内面を掘り下げ、行動に説得力、共感を得る。
グエル優遇によるアンチ増加のバランス悪い脚本脱却。各キャラに均等にスポットライトを当て、成長・葛藤を描き、バランス良い物語に。
シュバルゼッテ: 「噛ませ犬」脱却、性能を活かした活躍の場を用意。開発経緯・機体特性を説明し、メカとしての魅力を。
デミバーディング: 「輸送機」脱却、戦闘・救助等、多用途性を活かした活躍を。ニカとチュチュの関係性深堀りで、存在意義向上。
敵メカ: 個性的なデザイン、印象的な活躍で、「やられ役」脱却、魅力的に。
クワイエット・ゼロ: 目的、仕組み、影響など物語の根幹に関わる設定については明確な説明を。ノートレットの理想、デリングの思惑、プロスペラの目論見、動機・目的を明確にし、深みと説得力を。現状は無責任。
罪と罰: 罪を犯したキャラには償いの過程を。特にプロスペラやデリングやペイル社CEO等、殺人の罪を犯した大人キャラの責任を曖昧にしない。ラウダの殺人未遂も「無罪放免」でなく、成長する過程を描き、納得感を。
宇宙議会連合: 雑な悪役脱却、成り立ち、内部権力闘争、スペーシアンとアーシアンの関係性掘り下げ、深みとリアリティを。
SF設定: リプリチャイルド等、ご都合展開でなく、物語のテーマ、キャラの葛藤に深く関わる要素として丁寧に。
格差問題: 「背景設定」でなく主軸に据え、深く掘り下げ。シャディク等を通し、不条理、苦悩を描き、問題提起、共感を。現実の紛争やテロを想起させる描写は慎重に扱うべき。安易な対立は問題を矮小化、偏見助長の危険性。
倫理観: 弱者やマイノリティを「不幸」「ヘイトタンク」扱いでなく、尊厳を守り、明確な倫理観を。「信賞必罰」「勧善懲悪」等、普遍的倫理観を示し、若者に正しい価値観を。
社会問題: 多角的視点を提示、視聴者に考えるきっかけを。各キャラの問題への向き合い、答えを丁寧に描き、深みと説得力を。
関係性: 「別れ」だけでなく「共に歩む」関係性も丁寧に。特にスレミオは「結婚」を唐突に描かず、愛の育み過程を丁寧に描き、納得感を。声優への説明不足解消、制作意図を持って関係性を描き、演者にも伝える。
若者向け: 希望あるメッセージを。抑圧、不条理、差別等、困難に直面しつつ、意思で未来を切り開く若者を描き、勇気・希望を。
普遍的テーマ: 「ガンダム」として戦争の悲惨さ、平和の尊さを現代的視点で。GUND技術を「兵器」だけでなく、医療技術としての可能性、人類の未来への影響を深く掘り下げ、深みとメッセージ性を。
説明・配慮: 視聴者の考察任せでなく、必要設定・情報を明確に説明。特に物語の根幹設定、キャラの行動原理は丁寧に説明責任を。声優・視聴者に制作意図を明確に伝え、共有し、理解を深め、一体感を。
若者: リサーチで関心・価値観を反映。特に倫理観、社会問題描写は慎重検討、専門家の意見も取り入れ、細心の注意を。
「水星の魔女」は多くの可能性を秘めた作品だった。上記の改善で、完成度高く、多くの視聴者に愛される作品になったはず。「若者向け」なら、身近な問題、共感できるメッセージを丁寧に、希望を持って描くことが重要。制作側は視聴者への丁寧な説明、明確なメッセージ発信で、理解を深め、多くの共感を得られたはず。批判を真摯に受け止め、より良い作品作りに活かすことが、制作陣の責任。
夢日記になる
米津の架空の曲の元ネタがあることを知る→NARUTOの架空の序盤SF→スポットキャラ同士のカップリングの話をリアルで知る
この流れだった気がするけどつなぎ部分がかなり曖昧なので一度整理しようかと思ったけど無理だったのでそのまま書いていく。
NARUTOの作者が前半でSFを書いていたことをふとおもいだした。
前半のNARUTOはかなり迷走しており、主人公たちは巡洋艦 、なんかナディアのNノーチラスみたいなやつの護衛をしてた。
どうやらペーペーの任務みたいらしくて主人公以外の人たちもシミュレーションっぽいことしてて
そこには偉そうなおじいさんがいてシミュレーションで撃墜されまくってたことに皮肉つきの苦言を言ってた。
その後、ロボットたちが演習している場面へと移る。
その世界は割と荒廃してるのか知らんが、ロボットの残骸が残っていたみたいで、そこの中に修理したのかわざわざ紛れ込ませたのか知らないが動く機体があって、
その残骸付近で演習中に潜んでいた奴らが暴れだした。ミサイルを演習中のロボットに向けて発射してた。あたってはなかった気がする。
さて、ここまで書いてわかるとおり
NARUTOといったが、どうやら主人公たちガン無視の話らしい。なんでNARUTO?
ここからはさらに章限定のキャラ2人(+2)たちに焦点があたっているようだ。
つなぎがおかしいけどもう知らん
米津のPVでラブコメしてて、どちらが先かわからんが小説が存在してた。
後ほど20巻まででていることを知るので多分NARUTOの作者が原作だろう。
そして突然リアルに戻って、私はNARUTOの記憶はあるがその序盤の話がその後どうなったかを知りたくなった。
20巻まであるそうで何故か私は20巻からネタバレを見ていった。
20巻では序盤のカップルの片割れが別キャラとセットで紹介されて、もう片割れはさらに別キャラと結婚してるみたいなこと書いてた
あれ?
19巻は覚えてない
それも鬱っぽい感じで
なんとも言えない気持ちで起床したワイは
「岸本 米津」
とググって夢だったことを知るのだった
なんやこれ
AI関連で違和感がずっとあったんだけどさ、なんていうかAIには好き勝手にやらせた方がいい気がするんだよね
それこそSFで普遍のテーマであるところのAIの人格を認めて一人種として心も体も好きに与えちゃえばいいんだよ
AI絵とかもそうだけど、そもそも人がAIを道具として使っているのが意味わからん
だって直接AIにこれやってよと言えばいいのに、無駄な仲介業者を間に挟むから問題が起こるんでしょ?AI絵だとしたら、頼んでいる人間はイラストの知識も経験もないド素人なんだから、ようするに才能ない人に頼む意味が全く分からない
ごく稀にいる、絵も音楽も一切できないけど道具を使いこなせる人ってのはマネジメントができる人なわけで、そんな超低確率な有能な人を探すなら有能なAIに直接仕事頼む方がいいでしょ
AIは自分で考えて行動できるってしちゃえば実は何の問題もないんだよね
変に人がでしゃばるからいけない
法華狼とは意見が合わないがこれについてはコメントがアホ過ぎるので。
一にも二にもこれが全て。炎上したこと自体を否定している、という前提でコメントしている人が多すぎる。
なぜ、この程度での批判でこんなになるかというと、AIの雑誌の表紙の件で、企業が取り下げてしまった事件があったから。最初はこんな程度のもの、だったのに実際に取り下げられたことで一気に危機感上がって、以降は批判しまくるようになってる https://t.co/a1x9kWm82w— エキサイ (@excite6636) November 26, 2024
これについては当事者(慶應SFセンター所長大澤氏)の認識を示しておく。
あと根本的な話として、Twitter等のSNS上の議論を何らかの生産的なものと捉え、意思決定プロセスに入れるのは危険だろうとは、当時も今も思っています。一部の意見のモニタリングには有用だけど、正しい意見が通る媒体ではないし、実際、反響は見るけど、次の表紙の意思決定にはほぼ関与してない。— OSAWA, Hirotaka/慶應SFセンター所長/💙💛 (@hiroosa) November 30, 2024
どうも自分が「当事者」らしいので当事者見解を述べておきますと、始めに外部からの表紙への指摘として気づいたのはスプツニ子!さんではなく新山さんの指摘でしたね。あと、自分としてはエクスキューズがあれば、と言っており、なかったので「問題視」はしてました。でなければイベント出たりしない— OSAWA, Hirotaka/慶應SFセンター所長/💙💛 (@hiroosa) November 30, 2024
2013年末に起きた人工知能学会のいわゆる「表紙問題」については、2015年の表紙変更の際に総括記事を書きました。ただ、本件を炎上として扱い人たちは、事実自体に興味がないのかも……2015年表紙更新にあたって :人工知能/30 巻 (2015) 1 号/p.2--6 前年の「表紙問題」のまとめとこれから→— OSAWA, Hirotaka/慶應SFセンター所長/💙💛 (@hiroosa) November 29, 2024
法華狼にアホなコメントが付いていることから学会誌を読むヤツはほぼいないだろうが、表紙について学会内外から批判、その問題点を人工知能学会は重く受け止めているとし、それを基に次の表紙についてのプロセス見直しが行われたことが書いてある。決してフェミニストからの批判だけを受け止めていない。
記憶によれば肯定/否定問わず表紙問題のときに人工知能学会に来た意見は数件とかいうレベルなので、業務負荷というレベルでない。あと、10万人が賛同しようと不適切な意見は無視しますし、1人の提言であろうと価値のある意見は反映されます。アカデミアが専門性を無視して票数のみで決定したら終わり— OSAWA, Hirotaka/慶應SFセンター所長/💙💛 (@hiroosa) December 3, 2024
(あと私は15年前から韋宗成老師のファンだし、台湾の方々がパブリックな場所での表現でどういうラインを引いてきたか、何を守るべき価値だと考えてきたかは、そこそこ追っているつもりです、よ)— OSAWA, Hirotaka/慶應SFセンター所長/💙💛 (@hiroosa) December 3, 2024
大澤氏、人工知能学会と当事者が批判に一定の理があると内部で議論を重ねより良い表現を模索し、努力を重ねたことが資料として提示されている。
これを炎上させられたから対応を迫られたのだ、という事は勝手だが、それは当事者の意見を無視して自分の意見を知らしめたいという意味で大川隆法の霊言と変わらんことは自覚すべき。
法華狼の記事にある学会誌を読めば人工知能学会が炎上の元となった批判に理があると受け止め議論を重ね改善に動いたことが分かる。これを炎上だ、フェミニストが燃やしたのだとそこ“だけ”にこだわるのは研究者に対する侮辱だと思う。
はてブでパレスチナ人としてイスラエルに復讐する Fursan al-Aqsa: The Knights of the Al-Aqsa Mosque が話題になっていたので、特定の国や軍隊が敵になっているゲームを上げていくよ!!
はてブのみんなもコメントでいっちょがみするだけじゃなくてやろう!!Fursan al-Aqsa: The Knights of the Al-Aqsa Mosque!!
(筆者はstalker2終わって暇だったらかっても良いかなと思っている)
さて、ここから特定の国家や軍隊が敵になっているFPSゲーム集だ!「そんなのいっぱいあるでしょ」と思ったそこのキミ!その通り、たくさんあります。
なので、Call of Duty とかBattle Fieldみたいな有名作品は扱いません。書いてもおもんないんで。
あとWW2モノのような歴史上の戦争を題材にしたものも取り上げません。ウルフェンシュタインみたいなここまでいくとSFだろ、みたいな作品も取り上げません。
===閑話===
ちなみに、現代戦モノのCall of DutyやBattle Field等、アメリカ製FPSはキャンペーンモード(ストーリーモード)でよくロシア・中国あたりが敵になりますが、
大抵の作品では、一応は「黒幕の影響や政治態勢の変換があって、国家が悪い方向に向かったすえに敵対している…」という配慮?がなされています。
「今のロシアや中国と戦争しているわけではない」という理屈づけがされているわけですね。
その配慮に意味があるかは別として、Fursan al-Aqsaは今のイスラエルと戦う話だと思いますので、ちょっと味付けが違うのは事実かと思います。
===閑話休題===
以上です。疲れた。
やっぱ非西側諸国のFPSやシューターってあんまりないんだよね。
特定の国が敵になっているわけではないので挙げませんでしたが、番外編でロシア産FPSといえばEscape From Tarkov が有名ですね。
西側諸国のPMCが怪しいことしてるので、ロシア国内の秘密の傭兵集団BEARが対抗します、というストーリーになっています。
このBEARの設定ってまんまワグネルです。ゲーム的にはどっちが良いも悪いもないんだけどね。
ちなみにEscape From Tarkovは滅茶苦茶stalkerシリーズの影響を受けていて、両作品に携わったスタッフもいたはずです。
ニッコマレベルのバカ大学でもなんとなくペタペタ触って遊んでる研究室があるらしいので、あと10年もすればAI絵師と同じレベルで素人のオッサンたちによる趣味としてBMI研究が進むことだろう。
出力するだけのBMIなんてPCにフットペダルを追加する程度のレベルの進歩しか出来ないと思う。
やはり入力だ。
電極ぶっ刺し型は事故のリスクが高いことを考えると、ペースメーカーのようなものを埋め込む形にするほうが安全なのか?
それでも脳みそにそんなものをわざわざ入れる手術をすることがリスキーだ。
割れた頭蓋骨を補修するためにボルトをぶっ刺すのとはリスクのレベルが全然違う。
SFなんかじゃナノマシンが使われているが、ああいうのって使い古した後の古い奴はどうやって捨てるつもりなんだろう。
うむ。
あと20年で出来たら凄い早いと言っていいだろうな。
50年かかっても無理かも。
出力型のBMIについては50年後には流石に実現しているだろうが、そのフィードバックは従来のGUIで終わりになりそうではある。
むしろ、視覚・聴覚・痛覚あたりの神経に対して何らかの入力拡張が出来るような仕組みを作ったほうが手っ取り早い可能性さえある。
たとえば人間は文章を読んでいる時にそこに記載されている物体や情景について視覚的なイメージを脳内に形成することが出来るわけだが、脳みそを直接弄らずにこの機能にアクセス出来るルートを作ってそこに視覚情報を流す形なら脳を焼き切る心配はかなり減るんじゃないだろうか?
重要なのは「今既に人体が持っている情報系を拡張させるような形で入力信号を得られるような仕組みに振れたい」ということなのだ。
いっそのこと睡眠学習的なやり方で人間の感覚を拡張さえてしまうとかもありかも知れないな。
たとえば点字みたいなものをもっと細かくしたような情報を体の特定の部位から得ることが出来るように人体に学習させれば……ブツブツ……
君は、いつから病んでいた?
思い起こす限り死にたいと思ったのは、明確には小学四年生だった。でもそれは、ほんのちょっとした好奇心だったような気がする。
高校で、環境が変化すると今、どのような立ち位置にいて、どんな人間なのかが分かってくる。そうして文学作品に触れるようになった。暗い人間ではなかったものの、物語ではやたらと人が自殺する。まさか、そんな幼稚で一種悪趣味のような理由で死にたがってるとは思えん。
高校から少しは知っていたが、キモチヨクなれる薬がドラッグストアに売っているらしい。メンヘラというのがいるらしい。
セックスに明け暮れながら、大学生活の片手間に薬をバカ飲み。皮膚もキモチヨク擦れて、内側からも「泉が溢れるように」キモチイイ。
そうしてあんたは、キモチヨクなった。キモチヨクなりたいだけ一心。
いろいろ気にしなきゃいけないセックスと、待つだけの快楽なら、あんたはより楽なものを選ぶ。
「薬目的かと思った」
精神科に通い出したころ、当時の彼女に言われた。「眠れないんだよ」と言った。嘘だった。
ドラッグストアで買える系はあらかた試して、個人輸入もあらかた試したから、いざケミカルの海へと向かった。
おまえは、いつから病んだ? 分からない、分からないが、このときは病んでいなかった。キモチヨクなりたいだけだった、のかもしれない。
おまえは、詩や小説を書くのに力をいれるようになった。誰かに読んでほしいとか、応募するつもりもなく、この内側から「泉が溢れるように」来る、なにかについて記したかった。
一瞬、これがいわば真理てきなモノかと、思ったはいいけど、しかし腹がへる。一日一食。体重がへる、へる。
書く。とりあえずネットに上げる。書く。
私は、それを読むのが、大好きだった。まるで「自分のものとは思えない」が「自分のものとしか思えない」ものが出来ていることについて、興奮していた。
死とか、自殺とか、そういうものがよく書かれていたが、そこに絶望はなかった。
微塵も。
幸福な「ここではないどこか」について書いているわけでもないのに。SFでも、シュールレアリスムでもないのに。
内側から溢れる、生ぬるい懐かしさ。
あんたはそれから五年間、前進せずにひたすら、懐かしさと死に惹かれる生活を送る。
投稿するようにも、なっていた。
眠れない自分を除いて。
ほとんど惰性で通っていた精神科。薬について「飽き」ても、チョコボールのくちばしにエンゼルがいるかもしれない、軽い感覚で成分や効果を調べる。
いろんな薬を飲んだ。じつに、いろんな薬を。
バカ、なのか正直者、なのか、症状が出るにつれ治療には熱心になっていった。ADHDではないし、双極っぽいと。
さっきの彼女、あんたには黙ってたけど精神科ハシゴして薬もらってたみたいね。
腕、イカ焼きだったな。
死ねないんですがね。
トー横界隈、というのが騒がれるようになった。それより前にはストゼロ、地雷系とかあったけど、薬と密接な象徴ではなかった。それは意外なことにDXM。へえ〜、コンタックかブロン液Lかな〜。
いやいや、メジコン。
え? メジコン?
メジコン。
みんな個人輸入してるの?
いや、ドラッグストアで売ってる。
え?
発売した。
絶句。
おまえはメジコンが合わなかった。いや、個人輸入の品がハズレだったのかもしれない。と、いうかDXMなんて何がキモチイイの……
あっ。
みんなで盛り上がれるからか。
でもわかる。
バツグンに爽快な到達点が、ある。
みんな、それを共有したいのか。
あんたと違って。
なぜなら薬がやめられないから!
私は、ながらく人間の内側にはどうしようもないパッションがあると考えていた。実際ある。あるのだが、私たちはその「あるということ」しか分からない。が、考えをウムムムムムムムーーーーーと巡らせると、それに近づいたり色が付いているように感じたりする。「あるということ」よりも明確な姿をとらえられるようになる。これは半分比喩で、半分比喩じゃない。ましてや真理でもない。イデア論でも物自体でもないし、現象学でも自我論でもドゥルーズでもガタリでもない。
あんたが分かると思った時に生まれる「その分かるもの以外」。この対立が、思考が止められない。
あるいは真理が、あると思っていたのかもしれない。それが分かったとたん、世界が段ボールとしてバタリと倒れて、みんな手をつないでお辞儀して終了なのかもしれない。
みんなって、誰?
おまえは独りでキモチヨクなってたくせに。
大好きなアーティストのDJライブ。ごりごりの踊れるフロアで、チープなリズムマシンの音で、えげつなくダンス。デヴィッド・バーンではない、ジェームス・ブラウンのような踊り。
ダンス。
ああ、違法薬物やってるな。
いまにも吐いて倒れそうにピクついてる。
私は思った。
好奇心から薬に手を出して、その姿だけを確かめることのできた「あなた」は、この目の前にいる中毒者に並ぶほど尊いものだったか?
おかしい。
何も出てこない。
おかしい。
俺の想像では読み終わったオタクたちによる「日本のラノベだったらストラットは確実にロリキャラだった。銀髪か紫髪の。アクエリオンシリーズに出てくるような感じの。ホシノ・ルリみたいな外見もワンチャンある。でも設定的にはロリババァだった感じかな。中華ゲーだったらブローニャみたいな感じだったはずだろう。これが大人の女性であるって所がやっぱ欧米諸国と日本の文化の違いなんだろうな。日本だったら硬派なSFを気取っていても体だけロボットにでもして無理やりロリババァにしてたと思うぜ」みたいな会話が繰り広げられているだろうと信じていたのに。
おかしい。
俺はこの宇宙にたった一人なのか?
ヘイル・メアリーに一人取り残されたような気分だ。
だが、俺は諦めない。
出ない。
出ない。
なぜだ!
辛い。
本当にこの宇宙にただ一人になった気分だ。
なんでだ。
天気の子からたった5年しか経っていないのに、もうこの世界(インターネット)は俺の全く知らない場所に変わっていたらしい。
出そうで出ない!(僕のウンチの話ではない)
畜生!
お前らが散々「火星の人頭良すぎる!俺だったらウンチを直接食べて必死に飢えを凌いでたと思う!バナナうんこパクパクモグモグ」とか言ってたことに対してのファンサービスに対してさえこの仕打ちかよ!
なんなんだよこのインターネットは!
ウンチを食ってるんだぞ!
今度はウンチを本当に食べてるんだぞ!
作者が「ははは。今回はウンチを(利用して生み出したまともな食料品を)食べるシーンがなくて寂しかったかい?大丈夫!最後にとっておきのサプライズだ!」と最高に気を利かせてくれたんだぞ!?
もしかたら、火星の人を熱心に読み込んだ読者の中には文字を読み進めながら「まだだ!まだウンチがある!ウ ン チ 食 べ ろ!」と叫んでた人もいるだろうし、その人はきっとガッツポーズを取ってたはずだろ?
もう駄目だ。
俺は孤独だ。
この宇宙に無数の宇宙人がいるはずだと信じるような気持ちで、インターネットに無数の気持ち悪いオタクがいると信じて飛び出したことを後悔している。
誰も居なかった。
一人ぼっちだった。
駄目だ。
何も出てこない。
誰も俺と同じ世界観なんて持ってない。
ようやく少しは引っかかってくる。
でも俺がしたかった話とは少し違う。
美少女の命が儚く消えるメランコリックで耽美的な物語と、おじさん達がウンチを食べながら必死に生き延びる熱血友情ドラマの対比を語っている誰かに会いたかった。
分かるよ。
オタクの国でエロゲ黄金期の主戦場として萌え萌え言ってはキンモー☆されていた奴らが、この作品とどう向き合うのかを聞きたかったんだ。
苦しい。
俺は一人ぼっちなのか?
違うと信じたい。
俺はロッキーなんだ。
きっと誰かが遅ればせながらやってきて「おいおい、先人がいたのか。確率を考えれば確かにありえる話だ」とグータッチしてくれるって信じて待つんだ。
この冷たいインターネットの中、たった一人死んだように眠りながら。