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豊臣秀吉の死後、徳川家康による天下統一が「鎖国」へと傾くことなく、逆に世界への積極的進出を是とした場合――いわば「海禁令なき日本史」――をSF的視点で思考してみましょう。
関ヶ原合戦後、徳川家康は中国・朝鮮半島・東南アジアとの通商を制限するどころか、秀吉の「唐入り」を反省材料としつつも、戦略的な海上拠点の確保と国際交易の自由化へ舵を切る。その背景には、ヨーロッパ勢力(ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス)との接触から得た「大洋航行技術」や「新型火砲技術」の獲得、さらにはインド洋の交易網へ参入し莫大な富を得ることが狙いとなる。
17世紀前半、日本は大量の木材と熟練した船大工技術を駆使し、当時としては極めて進歩的な大型遠洋帆船「泰和丸(たいわまる)」型を量産する。これらの船は紅毛人(欧州人)らがもたらした航海術や天文学的知識を吸収し、独自改良を加えた航海儀器(和算と干支暦に基づく天測計測装置)を搭載。日本は東アジア・東南アジア・インド洋にわたり、広大な貿易ネットワークを確立していく。「天下布船」を掲げる海上商人連合は幕府公認の下、香辛料、絹、銀、鉄砲、陶磁器、各地の工芸品の交易を増幅させた。
17世紀後半には、欧州から取り入れたガリレオ式望遠鏡、オランダ医学、幾何学書などを独自発展させる動きが加速する。商人・学者・職人が一体となり「長崎天文局」を設立。ここで彼らは暦改革や大洋航海ルートの正確化に努め、さらには海上風力と地磁気を活用した新型羅針儀、果ては初歩的な蒸気機関をも視野に入れた研究を進める。これが18世紀以降の「テクノ・徳川」時代の幕開けを告げた。
日本海軍は急速に巨大化し、艦隊は琉球や台湾、フィリピン方面へと進出。現地の政権との婚姻同盟や商館設置で軋轢を抑えつつも、海洋ルート上の要所を押さえ、いわば「アジア海洋連邦」の中核を成した。この連邦は言語や宗教が多様な中で、文禄・慶長の役以降、「他者理解」を標榜する儒学者・神道家・キリスト教徒が集い、相互通訳機関、翻訳院の設置などを推進。また欧州列強は日本との交易を重視し、オランダ商館が江戸湾に拡大設置され、ヨーロッパ科学や印刷術、初期産業革命技術が流入。結果、日本製の「機巧船」や「からくり式自動航海補助装置」が発明される。
こうした流れで19世紀に突入すると、「蒸気機関搭載外輪船」や「初歩的電磁通信機(エレクトロ・のろし台)」が欧州からの技術供与と国産研究から生まれ、幕府と諸藩はこれを積極導入。日本は環太平洋からインド洋、さらにはアフリカ東岸まで交易範囲を拡大、アジア・アフリカ航路の安全と通信網を独自整備する。世界的には英国・仏蘭西・スペイン・ポルトガルなどが植民地競争を激化させる中、徳川幕府はあくまで「海の道」を軸に、中立的商業帝国としての地位を確立。これにより、東西の知が日本国内で混在・再構築され、画期的な「日欧中印」四極学問交流体制が成立する。
この歴史線上では、蒸気船から電気船、そして反重力航行理論(ヘリウム浮揚型船舶技術を経て、電磁的浮揚技術が20世紀初頭に確立)へと進化が続く。バイリンガルの学者・技術者集団が江戸に集い、「空中商館」と呼ばれる浮遊式交易拠点がインド洋上に浮かぶ架空都市として計画され、極東から中東、地中海まで「日出づる国」発の浮遊艦隊が航行する。「サカイ(境)なき海」の概念が生まれ、海はもはや境界ではなく、文化と技術が結合し、東西が日常的に交差する舞台となる。
このような世界での日本は、着物を纏いつつ背中には多言語翻訳デバイスを装着し、和算と西洋数学が融合したアナログ計算機や、唐絵・南蛮絵・和様が混ざり合う新美術様式を輸出する文化的強国となっている。歌舞伎は遠洋船団上でも上演され、オルガンや琵琶、シタールが融合した奇妙な海洋音楽が世界各地の港町で流れる。
海禁令なき日本は、内向きな封鎖社会を回避し、知と技術・文化・交易を絶えず世界から摂取し再構成する「海洋型多文化テクノ文明」へと進化した。SF的想像を許せば、21世紀には重力制御船団が太平洋上空で静止し、国際宇宙航行同盟の創設に日本が深く関わるシナリオも考え得る。つまり、豊臣秀吉以降の日本が海禁を選ばずに世界へ雄飛した場合、それは単なる列強模倣の帝国ではなく、海上をインフラとした知的交差点として、「海洋を舞台にしたグローバル・ルネサンス」の中心となっていたであろう。