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はてなキーワード: 1960年代とは

2025-02-03

anond:20250203130345

二酸化炭素による地球温暖化説は1950年代には既に広まっていました。

たとえば1956年映画『空の大怪獣ラドン』の劇中でも地球温暖化への言及があります

その後、1960年代になると逆に地球寒冷化説が広まりましたが、1970年代には再び地球温暖化説が唱えられるようになりました。

国際地球観測年であった1957年(昭和32年)、大気中のCO2濃度の定期的な測定が世界で初めてハワイ・マウナロア観測所で開始された。

このようなモニタリング結果の蓄積等を背景として、1970年代の終わり頃から地球温暖化に関する科学者の報告が活発に行われはじめた。

https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h09/10290.html

たとえばガンダム放送一年前、1978年刊行された『文明とは何か』では、

アメリカ気候学者ミッチェル博士が全世界的な規模で統計した大規模な調査結果によると、一九四〇年ころから最近三十年くらいは全地球的な気温は、確実に寒冷化している。

さて、これに対して現在のように石油その他の燃料を大量に消費し続けて、全世界炭酸ガスが増加すると、炭酸ガス太陽の放射エネルギーを捕捉し、その温室作用が嵩じて、その影響のために、地球大気温度は相当に上昇するはずだとする学者も相当ある。(中略)ここ三十年位さきまでと限定すれば、前述の如く地球温暖化の傾向をもっているとする学者が、圧倒的に多くなってきた。

と書かれており、当時の認識がよくうかがえます

ですからガンダム放映当時にはまだ地球温暖化という概念がなかった、という主張は誤りと言えます

2025-01-27

1960年代には無限に水を出せると思われていたために非常に価値の高かった水魔法である

その後の調査により純水をその場で生成するのではなくアラル海から取り出していることが判明

水位の減少による塩害環境破壊問題によって水魔法は禁術扱いとなり

属性を持って生まれ子供例外なく出生直後に殺処分されることとなった

2025-01-25

石破総理支持の人って石破氏に本当に共感してるの?

石破総理総裁選演説で、

自分子供の頃のようなお金持ちじゃないけど豊かな日本をみたいなことを言い、

それが多くの自民党議員の心を打ったみたいな記事があったけど、

石破氏が子供の頃って1960年代

あの頃の日本に戻したい人なんて本当にいるのかな?

しかも石破氏が青年期を過ごした頃や議員になった頃って

しろ経済成長ぐんぐんしてバブルもあってって頃じゃないの。

何で下の世代にそういう豊かさを感じさせようって発想にならないのかな?

同列にする気はないけども、例えば霊感商法自分先祖前世に悪い事があり、

そういう自分じゃどうにもできない、存在するかわからないことへの解決策として救済策を持ち出すんだと思うけど、

令和の時代に石破氏のノスタルジーの中にしかいかもしれない、

実在したのかわからない日本を追いかけないと行けない自民党議員や支持者ってそれで本当に納得してるの?

単純に疑問だ。

2025-01-23

日銀多角的レビューから見える「日本経済の病」と「処方箋

https://www.boj.or.jp/mopo/outline/bpreview/index.htm

年末日本銀行が、25年間の金融政策検証する「多角的レビュー」を発表した。これは、まるで長年の病に苦しむ患者が、ようやく自らの病状を詳細に記録し、分析を始めたかのようだ。しかし、オーストリア学派経済学者デ・ソト氏の言葉を借りれば、これは「日本経済の病」と呼ばれる症状の分析に過ぎない。日銀は、過去政策検証するだけでなく、なぜ「病」が発症し、そして今もなおその症状が続いているのか、本質的な原因に目を向けるべきだ。

1960年代から1980年代初頭、日本経済世界から羨望の眼差しで見られた。しかし、それは硬直した経済構造、過剰な規制、介入主義、そして何よりも、金融操作と信用拡大による巨大なバブルの上に築かれた虚構繁栄に過ぎなかった。1990年代初頭、バブル崩壊すると、日本経済は長期にわたるデフレ突入した。日銀は、量的緩和ゼロ金利マイナス金利など、あらゆる政策を試みたが、デフレから脱却することはできなかった。

バブル崩壊後の金融危機には、4つのシナリオが考えられる。①際限のない資金注入によるハイパーインフレ、②銀行システムの完全崩壊、③経済構造自発的リストラ、そして④経済の硬直化を温存したままの、大規模金融緩和と公共支出継続による「日本化」。日本が選んだのは、残念ながら最後の道だった。日銀は、バブル崩壊後の混乱を収めるために、金融緩和という名の麻薬を使い続けた。結果、企業は自らリストラするインセンティブを失い、生産的な資源旧態依然とした非効率な分野に滞留した。

これは、オーストリア学派がいう「投機バブルと信用膨張」がもたらす当然の結果だ。

アベノミクスは、日本経済を刺激するための最新の試みだったが、結局は過去政策の焼き直しに過ぎなかった。異次元緩和財政出動、そして円安誘導は、一時的効果はあったものの、結局は根本的な問題には何も対処しなかった。その結果、日本世界で最も債務を抱えた国となり、デフレは完全に払拭されなかった。

デ・ソト氏が指摘するように、これはまさに「経済日本化」の症状そのものだ。問題は、経済の硬直性。すなわち、過剰な規制、高い税金抑制のきかない公共支出、そして企業家の士気低下である

オーストリア学派視点から見れば、日本経済回復するためには、マクロ的な金融操作ではなく、ミクロ的な構造改革こそが必要だ。それは、規制緩和、労働市場自由化税制改革、そして公共支出の削減である。利潤に課税する税制を改め、資本を蓄積し、生産性を向上させるための政策こそが求められる。

日銀は、大量の資金注入や金利操作固執するのではなく、経済自発的リストラするインセンティブを創出することに注力すべきだ。

さらに、日銀が行ってきたゼロ金利マイナス金利政策は、人為的金利操作しようとする試みに過ぎない。市場経済において、金利資源配分を効率化するための重要価格シグナである。このシグナルを歪めることは、経済全体を歪めることに繋がる。デ・ソト氏が指摘するように、マイナス金利は、人々に「何もしないこと」を奨励し、経済無気力さら助長する。

また、ゼロ金利政策は、財政赤字を無制限自動的ファイナンスするために使われるため、政府構造改革に取り組むインセンティブを奪い、ポピュリズム蔓延させる。

日銀は、金利という重要シグナルを歪曲してはならない。

中央銀行家たちは、自分たち市場を動かせると思い込んでいる。しかし、過去政策が示すように、それは幻想に過ぎない。

彼らは、金融緩和策という麻薬を使い続け、一時的快楽を追求するうちに、経済麻薬漬けにしてしまった。もはや、麻薬がなければ経済は立ち上がることができない。

この悪循環を断ち切るためには、金融政策万能という幻想を捨て、市場自律的回復力を信じるべきだ。

構造改革を断行し、企業家精神を解き放ち、経済ダイナミズムを取り戻すことこそが、真の解決である

日本銀行は、過去金融政策を徹底的に見直し、その限界認識すべきだ。日銀にできることは、物価を安定させ、市場機能を維持することだけ。経済成長や雇用創出は、企業家精神と自由経済世界に任せるべきである

金融財政刺激策は、一時的な痛みを和らげる効果はあるかもしれないが、根本的な問題解決することはできない。根本的な問題とは、経済の硬直性、すなわち、過剰な規制、高い税金抑制のきかない公共支出、そして企業家の士気低下である。これらの構造的な問題に正面から取り組まない限り、日本経済の病は癒えることはないだろう。

日銀が本当に経済健全化を望むのであれば、金融政策限界を認め、構造改革を促すようなメッセージを明確に示すべきだ。そして、デフレ脱却という短期的な目標を追いかけるのではなく、長期的な繁栄の実現に焦点を当てるべきである

今回のような「多角的レビュー」が、そうした正しい政策判断のための貴重な一歩となることを、切に願う。

2025-01-11

ポリコレアヴェンジャーズを望んでいるのは誰だ

私たち映画ドラマコミックなどのエンターテインメント作品を楽しむ際、その登場人物多様性社会的メッセージに注目する声が近年ますます大きくなっている。特にハリウッド映画を中心とするアメリカの大作作品では、女性ヒーローマイノリティヒーロー積極的に描く動きが顕著になってきているといえるだろう。こうした流れの中で、たとえば「アヴェンジャーズ」シリーズのような超大作ヒーローチームにも、より多様なバックグラウンドを持つキャラクター社会的少数者の活躍を求める意見が増えているのだ。その一方で、こうした多様性の拡充を「政治的正しさポリティカル・コレクトネス)に迎合しすぎだ」と批判する声も少なくない。では実際に、「ポリコレアヴェンジャーズ」を真に望んでいるのはどのような人々なのだろうか。そして、それを批判する人々は何を懸念し、何を恐れているのだろうか。本稿では、その背景や対立の構図を整理し、考えてみたい。

まず、「ポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)」とは、もともと差別偏見のない公正な言葉遣い・考え方を目指す姿勢を指していた。人種性別性的指向宗教、障がいの有無などに関わらず、できるだけ当事者を傷つけない表現待遇をすることが重要だ、とする考え方である。やがて、社会全体の意識多様性インクルージョン包摂)を尊重する方向へシフトする中で、エンターテインメント業界にも「差別固定観念助長するような内容は見直すべきだ」という声が波及していった。この動き自体は決して新しいものではないが、SNSの普及に伴い消費者の声が一気に可視化されるようになったことで、その影響力はかつてないほど増大している。

一方で、ヒーローもの代表格として、マーベルコミックスやその実写映画であるマーベル・シネマティック・ユニバースMCU)の人気は世界的に揺るぎないものとなった。複雑なバックグラウンドを持つキャラクターや、女性ヒーロー、異なる人種文化背景をもつヒーローの登場も少しずつ増えてきたとはいえシリーズ初期の中心ヒーロー白人男性が多かったことは否定できない。もともとコミックスの発行開始時期が1960年代前後であり、その頃のアメリカ社会の反映が作品に色濃く残っているため、やむを得ない面もあるだろう。しかし近年の映画シリーズでは、ブラックパンサーキャプテン・マーベル、シャング・チーなど、多様なバックグラウンドもつヒーローが次々と登場し、まさに「多様性を重視した新時代ヒーロー像」が打ち出されている。その流れに呼応して、「もっと女性マイノリティヒーロー活躍させてほしい」「既存ヒーローチームを抜本的にアップデートして、多様性を真に反映させる“アヴェンジャーズ”を観たい」というファンの声が高まりを見せているのだ。

では、「ポリコレアヴェンジャーズ」を望む人々とは、具体的にどのような層なのだろうか。第一に、SNSコミュニティサイトなどのオンライン空間において多様性積極的に支持するアクティビスト層や、その思想共感するファンが挙げられる。彼らは作品の中における人種ステレオタイプジェンダー平等を厳しく批判し、世の中の価値観アップデートされた現代にふさわしいエンターテインメントを求めている。彼らにとっては、スーパーヒーロー男性女性・その他多様な性や文化背景を横断し、最終的には誰もが活躍できる世界提示することこそが理想なのだ

第二に、エンターテインメント業界側もまた、多様性を重視する政策市場の反応を見て、積極的に「ポリコレ」を取り入れる傾向がある。ハリウッドでは映画制作における人種構成ジェンダーバランス考慮した「インクルージョンライダー」など、具体的な取り組みが話題になることも増えてきた。作品グローバルに公開されるにあたっては、多様な視聴者感情考慮し、多くの国や地域で「受け入れられやすい」形を模索するようになっている。マーケティング上の戦略として見ても、マイノリティ視聴者を取り込むことは大きなビジネスチャンスに繋がると考えられるからだ。

こうした文脈の中で、「ポリコレアヴェンジャーズ」を待ち望んでいるのは、言うなれば「これまで声が届きにくかった層の人々」や「多様性を当たり前だと考える若い世代ファン」、そして「マーケット可能性を重視する映画スタジオ」などであるしかし、ここで見逃せないのは、こうした変化を歓迎する人々がいる一方で、「ポリコレが行き過ぎている」と感じる人々の声が根強いことだ。彼らは「エンターテインメント政治的メッセージ社会運動のための道具ではない」と考えており、あくまで“娯楽”としての物語に集中したいのだという。また、中には既存キャラクター性別変更や人種変更が行われることを「原作への冒涜だ」と批判する人たちもいる。

特に伝統的なヒーロー像」に愛着もつファンの中には、「長年培われてきたキャラクターイメージオリジンストーリーを、製作サイドが都合よく改変してしまうのはいかがなものか」という不満を持つ者がいる。ヒーローたちの本質は、その人種性別を超えて「いかに困難を克服するか」や「いか正義を貫くか」にあるのであって、「外見上のマイノリティ性」が強調されるあまり肝心の物語が薄れてしまうのではないか、と懸念しているのだ。こうした考えを持つ人々にとって、「ポリコレアヴェンジャーズ」はマーケティング重視の“お仕着せ”のようにも映ってしまう。

さらに、近年のSNSでは「作品の配役や表現差別的だ」と糾弾されることで、過激炎上が起こるケースも少なくない。こうした炎上批判応酬を見て、クリエイター側が過度に萎縮してしまう「萎縮効果」を危惧する声もある。結果として、作品の中身よりも「ポリコレ的に問題がないかどうか」が過剰に意識されてしまい、まるでチェックリストをこなすかのように「女性キャラクターを必ず何割入れる」「マイノリティ一定数登場させる」といった形式的対応に陥るリスク高まる。そのような機械的な設定に依存したキャラクター造形では、結果的に個々のキャラクター個性や魅力が希薄になり、逆に多様性本質が損なわれてしまうのではないか、とする批判も出てきているのだ。

一方で、「ポリコレアヴェンジャーズ」を誠実に求めるファンクリエイターたちは、「多様性を重視することは、より多くの視聴者物語共感夢を与えるための必然である」と考えている。スーパーヒーローが“超人的”なのはもちろんだが、同時に人間的弱さや葛藤を抱えながら戦う姿こそが多くのファンを惹きつける。そこに人種性的指向、あるいは障がいや貧困など、いろいろな背景を背負ったキャラクターが加わることで、より幅広い人々が「自分ヒーローと同じように闘える」と感じられるのではないだろうか。作品を通じて勇気をもらうだけでなく、社会が抱える不条理差別構造に一石を投じるきっかけにもなるかもしれないのだ。

以上のように、「ポリコレアヴェンジャーズ」を求める声と、それに対する反発や批判との間には大きな意識の隔たりがある。単純に「多様性を推進すべきかどうか」という価値観の相違だけでなく、作品の楽しみ方やヒーローという存在への捉え方、そして創作自由表現責任バランスという複数レイヤーにわたる問題が絡み合っているといえる。作品制作する側にとっても、ある層を満足させれば別の層が不満を覚えるといったジレンマがつきまとう。SNS時代ならではの炎上リスク考慮すると、より慎重に「どのようなキャラクターをどのように描くか」を検討せざるを得なくなってきているのだ。

では、今後「ポリコレアヴェンジャーズ」と呼ばれるような、より多様性に富んだヒーローチームが実現した場合、どのような世界が広がるのだろうか。そこでは、性別人種、障がいの有無、性的指向などを超えて、人々が互いの違いを尊重し合いながら協力し、世界を守るストーリーが展開されるだろう。それは、現実社会が抱える様々な対立を映し出す鏡ともなり得る。ヒーロー同士のぶつかり合いや、時に衝突を乗り越えて共に戦う姿は、現実社会問題を考える上でも有用メタファーとなるはずだ。多様性を持つキャラクターたちが、政治文化の壁を超えて協力し合う様子は、観客に「自分自身や周囲の人々を見つめ直す」機会を与えてくれるかもしれない。

しかし、その道のりは決して平坦ではないだろう。過度な「ポリコレ批判が続けば、表現者たちは自己規制に走り、本来物語面白さや挑戦的な要素が削がれてしまう恐れがある。一方で、多様性を取り入れようとするあまりキャラクター造形が単純化されてしまえば、やはりファンはしらけてしまう。結局のところ、ファンが求めているのは「本物のドラマである社会問題を扱うにしても、単なるマーケティングの道具としてではなく、しっかりと作品世界に根を下ろし、キャラクター一人ひとりに奥行きと葛藤が描かれているからこそ、「本当の意味での多様性」が花開くのではないだろうか。

まり、「ポリコレアヴェンジャーズを望む人」と一口に言っても、その動機期待値は様々である現代社会の潮流として「多様性を重視しないと批判されるから」「市場拡大のためには必要から」といった表層的な理由で支持する人もいれば、「自身マイノリティであるがゆえに、自己投影できるヒーローを探している」という切実な声もある。その双方を包含しながら、作品としての質や独創性を高めつつ多様性を反映していくには、制作者やファンコミュニティが相互建設的な対話をする必要があるだろう。

最終的に、「ポリコレアヴェンジャーズ」が完成するかどうかは、単にスタジオ方針ファンの声だけでなく、社会全体の変化とも深く関わっている。今後、グローバル社会情勢や世代交代、テクノロジーの発展などによって、エンターテインメント政治社会問題距離感ますます近くなるかもしれない。その中でヒーロー映画は、単なる娯楽作品としてだけではなく「現代神話」として、私たち理想とする社会像や価値観を映し出す鏡となるだろう。多様性を重視するかどうかという論争は、ヒーロー映画未来だけでなく、私たち自身未来を照らす問いかけでもある。

結論として、「ポリコレアヴェンジャーズを望んでいるのは誰か」と問われれば、それは多様性を当然のものと考える新世代のファン社会的マイノリティのRepresentation(表象)を切望する人々、そして市場意識する製作サイドを含めた多くのステークホルダーたちであると言えよう。逆に、これまでの“伝統的”なヒーロー像や創作自由を重んじ、「政治的メッセージ配慮が過剰になること」に抵抗を感じる人々からは、冷ややかな視線が向けられるかもしれない。いずれにしても、ヒーロー作品私たちが抱く理想像や価値観、そして矛盾課題を映し出す鏡としての役割を担い続ける。そうした意味で、ポリティカル・コレクトネス議論が活発化する現代において、「ポリコレアヴェンジャーズ」は今まさに、私たち社会未来を映し出す一つの象徴なのかもしれない。

2025-01-10

anond:20250110174204

いうて超ひも理論の原型が1960年代現代の形になったのが95年ぐらいっぽいし比較最近理論やろ。

2025-01-09

anond:20250109114837

SF小説ネタでしょうか?すごいですね。

でもより良いネタにするために、コメントしてみますので、よかったら取り入れてみてくださいね

2025-01-02

年賀状の数は1960年代レベルまで「戻った」

多かったのは1970年代2000年代まで

ただの昭和平成文化であった

まり大正まれ世代そもそも年賀状をあまり送っていない

結局送ってたのは団塊の世代前後

2024-12-09

クルド人ジャーナリストが語る在日クルド人

イルファン・アクタン, 長沢栄治, 稲葉奈々子, 村上薫, 岡真理調査報告 KARIHŌMEN 日本で《クルド》として生きるということ」、

プロジェクト・ワタン事務局2024年6月2024年9月3日閲覧。

http://www.projectwatan.jp/wp-content/uploads/2024/06/20220717_FN-2.pdf

なぜ解体業につくのか*

日本では、川口メフメトがこの地で家屋解体業を営んでいたため、後から来た人たちはそのままこの部門で働くことになりました。 しかし、クルド人が家屋解体業に従事する理由はそれだけではありません。一つは、家屋解体作業では日本語を話す必要がないことです。また、仮放免の者たちがほとんどですので、他の業種に就けないことも理由の一つです。入国管理局による厳しいルールの一つとして、仮放免の者は就労禁止されています。そのため、ほとんどの者たちが違法に働くことを余儀なくされています。また、近年では、日本人との結婚によって日本での在留資格を得たクルド人が、仮放免親族を内々に雇用して、家屋解体業社を設立するケースも出てきています

在日クルド人の労働条件*

在日クルド人の労働条件についても触れておきましょう。労働安全の面では、世界的に大きな発展を遂げていますが、在日クルドはいまだ中世のような条件のもとで働いています。ご存知のように、仮放免身分の者は就労を禁じられています。この禁止は、人々を餓死させることに等しいものです。この禁止令のせいで、クルド人は不法就労を強いられています就労が解禁されれば、家屋解体工事に携わる者たちの労24安全を確保するための研修検査が行われ、安全作業を行うことができるようになります仮放免の者は公的医療サービスを受けることができません。そのため、仕事中に事故に遭った場合治療をするにも莫大な費用がかかります資本主義的な医療制度は、日本政府がクルド人に課している「仮放免」という奴隷制度をさらに深刻化させています。同じく仮放免身分クルド人は、居住している都道府県の外への移動、つまり移動の自由が禁じられています。また、家屋解体以外の職に従事することもできません。

クルド人の女性地位*

女性たち同士はほとんど家で会っていて、日常生活が家に「閉じこめられている」と言えます男性たちは朝早く家を出て、家の解体作業しますが、女性たちは家で育児家事をして、社交も家でします。週末には夫や子どもたちと公園に行き、一緒に過ごします。したがって一部の例外を除いて、日本社会在日クルド人の間には社会的相互浸透がありません。 1960年代から70年代にかけて、欧米フェミニスト家庭内暴力に対して女性が街頭に出ることを呼びかけましたが、アフリカン・アメリカンフェミニスト作家ベル・フックスは、街頭に出ることは黒人女性にとって解決にならないと主張しました。黒人女性にとって街頭は人種差別さらされる場所であり、路上での暴力差別は、時に家庭内暴力よりもはるかに激しいものでした。日本にいるクルド女性にも同じことが言えると思います

在日クルド人の社会*

クルド部族構造では、個人家族の間の問題は、部族を治める家族族長が介入して、問題エスカレートする前に解決することができるのですが、在日クルド人同士の問題に介入して、反目し合っている人たちを和解させるには、超家族的、超部族的な構造がないために時間を要しがちです。家族間や個人間の緊張、恨み、喧嘩が数カ月、時には数年続くこともあります。 その一方で在日クルド人は、日本国家や日本社会排他的な態度ゆえに、クルド人同士で問題があったとしてもその関係を解消することができません。「外部に対抗して団結する」というモチベーションが非常に高いのです。そのため、クルド人同士の紛争は、まさにこの理由自然解決することもあります。お互いに問題を抱えたり、仲違いしたりした家族個人が、共通親族結婚式や弔い事、週末のピクニックなどに集まり、そこで和解することもあります

anond:20241208091901

実は経済的男性優位って、今のみんなが思ってるほど歴史の古い話じゃない

1950年代まで日本人の半数を占めていた農家では「男女問わず家族の全ての大人場合によっては子供も)が働き手」であって、男が女を養うという発想はなかった。

高度経済成長期の(主に)男性終身雇用労働者が片働きで給与所得を得、性的役割分業として女性配偶者家事育児を主に担う、という1960年代確立され、2000年過ぎには共働きの増加で形骸化した「時代の徒花」的な風潮であって、日本の伝統文化とは特に関係がない。

人類本質的家族関係ともあまり関係ない。

2024-12-03

追補・レオタードについて

今更見ている人もいないだろうが、ブルマー増田として活動してた時に、調べた動画をすべて記事にできたわけではない。ここに記録しておくのは、何か役に立つかもしれないのと、傍証として記事に織り込めなかったのが、なんだかもったいないと感じるからである

また、ブラウザブックマーク整理整頓がされておらず、動画がごちゃごちゃ並んでいるばかりになってしまっている。増田ブックマーク代わりに使ってどうするのかと言えばそれまでだが、増田とはごった煮チラシの裏、そういうところである

詳細不明ハイレグレオタード

https://www.youtube.com/@lulunoo3448

ウクライナ語ハイレグレオタード

https://www.youtube.com/watch?v=7H5H5i3ixsM&ab_channel=%D0%B4%D0%BC%D0%B8%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%BB%D1%83%D0%B3%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D0%B9

ソ連ハイレグレオタード

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=U6itxVo4T5A&ab_channel=foolicus

1985年ソ連小学校ブルマ

https://www.youtube.com/watch?v=q7ktb56-Y-4&ab_channel=AMASLOU

https://www.youtube.com/watch?v=6YG0DKwCOSE&ab_channel=%D0%A4%D0%B8%D0%BB%D1%8C%D0%BC%D1%8B%D0%BE%D1%81%D0%BF%D0%BE%D1%80%D1%82%D0%B5

チェコスパルタキアダ(体操大会

https://www.youtube.com/watch?v=31MQBXy2g3w&ab_channel=MilanDubek

これだけ大勢の人がレオタードを着て集まることは、もうないだろう。

アメリカの超ハイレグビキニレオタードエアロビ

https://www.youtube.com/watch?v=TIfAkOBMf5A&ab_channel=EmilianoParizzi

1960年代イギリスの提灯ブルマ

https://www.youtube.com/watch?v=1SfP5qCdMUU&ab_channel=Kinolibrary

日本ハイレグレオタード

https://www.youtube.com/watch?v=tclUVSjXvbs&ab_channel=earomax

日本ハイレグレオタード2(画面が揺れている)

ttps://www.youtube.com/watch?v=WTflOuT_nPI&ab_channel=Hatsumi

以上。

追記

女子高生レオタードダンス文化祭?)

ttps://www.youtube.com/watch?v=3pm3TC57lHI&ab_channel=uwatenage

2024-11-06

自民党統一教会のずぶずぶな関係はなぜ生じたのか

まず国際勝共連合というのがあります

文字通り反共産主義組織です

1960年代マルクス主義華やかなりし時代

日本共産主義国化阻止は重要課題

そこに「保守」の面々が集結しました

統一教会が背後にいることは知ってたけれども、

反共こそが最重要なので、そこは重要ものではなかったのでしょう)

時代は進み、日本共産主義国化する懸念はほぼ無くなりました

代わりに「保守」の面々が直面した問題

靖国参拝問題南京事件問題従軍慰安婦問題などでした

もはや反共との関係は薄いですが

保守」の面々は勝共連合活動舞台の一つとして定着してたので

引き続き関係を維持しました

靖国問題等も共産主義者の仕組んだものだとみなせば反共という点で変りません)

このあたりで関係を切っとけば良かったんでしょうが、その後も関係は続きました

靖国参拝問題その他は韓国民主化後は韓国日本批判の声が大きくなりました

日本の「保守」は韓国のこのような主張に対して友好的ではありません

そんで日本の「保守」と相反する統一教会と、日本の「保守」が集結する勝共連合という

いびつ関係が出来上がるわけですで、

当然この問題日本の「保守」は認識してたはずですが、不思議といえば不思議ですけど

まり深刻に考えなかったというか、見て見ぬふりをしてたんだと思います

たとえるなら、イーロンマスク大嫌いのリベラルが未だにXを使い続けているのと似たようなものだと思います

2024-10-29

共産主義的なものはなぜ嫌われる?

日本における共産主義社会主義に対する強い拒否反応は、戦後歴史的政治的な要因が複雑に絡み合って形成されたと考えられます。以下に、主要な背景を挙げて説明します。

 

1. 戦後アメリカによる影響

戦後日本アメリカ占領下に置かれ、民主主義市場経済が促進される一方、共産主義への警戒が強められました。1940年代からの「レッドパージ」では、共産主義思想を持つとされる労働組合活動家知識人公職から追放され、共産主義社会根付くことが制限されました。また、アメリカ冷戦の一環として、東アジアにおける共産主義拡大の阻止を重要視し、日本安全保障政策にも影響を与えました。この冷戦時代米国の影響は、日本国内で共産主義社会主義に対する不安アレルギー的反応を助長したといえます

 

2. 勝共連合反共活動

1950年代以降、統一教会現在世界平和統一家庭連合)と日本保守勢力支援により、「国際勝共連合」が設立され、共産主義に対する強い反対運動が展開されました。この運動は、反共産主義を掲げて政治活動教育家庭内教化を行い、日本社会共産主義への強い警戒心を植え付ける一因となりました。特に勝共連合保守政治家や宗教団体と結びつき、社会的に大きな影響力を持ち、共産主義への否定的イメージ形成しました。

 

3. 学生運動過激派の台頭

1960年代から1970年代にかけて、日本国内では反政府反戦を掲げた学生運動が活発化し、一部が共産主義社会主義に基づく社会改革を訴えました。しかし、その中で一部の運動過激化し、暴力事件テロ行為に発展したため、社会全体で学生運動への拒否感が強まりました。特に連合赤軍」や「日本赤軍」などが関与した事件は、共産主義過激暴力の結びつきを印象づけ、多くの日本人にとって共産主義危険過激思想とされる要因となりました。

 

4. 自民党政権メディアの影響

戦後ほとんどの期間を自民党与党として支配し、保守的な政策が推進されてきました。自民党保守的なメディア共産主義社会主義に対する批判的な論調を続け、国民の間に「共産主義=非現実的危険」という認識根付かせました。さらに、選挙時には「共産党支持は過激派の支持」などといったネガティブキャンペーンが行われ、共産主義への警戒感が意図的に煽られた面もあります

 

5. 経済発展個人主義の普及

高度経済成長期において日本社会が急速に豊かになり、個人主義が浸透する中で、共産主義社会主義が掲げる「平等」の理念が薄れた面もあります日本人は生活の安定を重視し、「平等」よりも「自己実現」や「個人自由」を求める傾向が強くなりました。その結果、共産主義社会主義が目指す「平等」や「共同体意識」が社会的に受け入れられにくくなりました。

 

結論

これらの要因が複合的に作用し、日本社会には共産主義社会主義に対する強い警戒心や否定的イメージが定着しました。改善策としては、共産主義社会主義理念が持つ利点を客観的に見つめる教育や、政治的思想に対する偏見を取り除くための対話必要です。また、現代の多様な価値観を反映する中立的メディア報道重要でしょう。

スタートレック(全938話)史上、最も重要エピソード10選

anond:20241012181121

スタートレック現在正式名はスター・トレック)は50年の歴史があるうえに、1話完結のエピソードが多い。シリーズの入門ガイド意味もこめてやってみた。

はてな界隈スタートレック全話追っかけてる人は少ないだろうし、シリアスファンはてななんて見てないだろうから自分価値基準で好き勝手書かせてもらう。

すごく偏ってると思う人もいるだろう。私もそう思う。海外のこの手のランキングでは常連エピソードも入ってない。思うところがあれば、ぜひ書いてほしい。

なお、全938話は2024年9月末時点での話で、10月から『ローワー・デッキ』の新シーズンが始まったので話数はまた増えている。

アンドロイドのめざめ』 (The Offspring) 新スター・トレックTNG)第3シーズン16話 / 1990年

スタートレックSFドラマとして最も輝きを放つのは、銀河存在する人間以外の存在を通じて、人間とは何かを描くときだ。それはあらゆるSF作品共通の魅力でもあるが。

本作は人間に造られたアンドロイドデータが、自らの子孫を造ろうとする物語AIの子供との「ファーストコンタクト」を通じて、子供を持つということが、個人にとって、種にとってどういうことなのかが描かれる。

本作には、派手なアクションシーンもSFXもない。しかし、その物語は喜びとユーモア発見に満ち溢れ、重い悲劇として幕を閉じる。それは家族を描くキャラクター劇であり、SFであり、力強い人間ドラマだ。

最もスタートレックらしい一篇は何かと言われたらこれを推す。

ゴリラ惑星』 (The Galileo Seven) 宇宙大作戦TNG)第1シーズン13話 / 1967年

スタートレック立ち上げ最初の年に、スタートレックらしさというものを決定づけた重要な一篇。怪生物の住む惑星に不時着したクルー脱出するために取る行動を描く。

スタートレックの原型は西部劇(幌馬車劇)と言われるが、これはまさにインディアンに囲まれた幌馬車の設定を宇宙にしたもの

しかポイントは、主役がミスタースポックであるという点。感情がなく論理で動くヴァルカン人(と地球人ダブルである彼は、助かるために論理に従うか、あるいは……。

本作は異星人の視点人間感情と理性の葛藤を描き、このモチーフは以降繰り返されることとなる。また作品シャトルのセットを導入し、物語舞台を増やした一作でもある。

過去から来た新兵器』 (The Slaver Weapon) まんが宇宙大作戦TAS)第1シーズン14話 / 1973年

宇宙大作戦打ち切り後、少々品質を落としたアニメ継続となった本シリーズだが、名作はいくつかあった。しかし本エピソードちょっと違う視点で選出している。

これ、実はラリィ・ニーヴンというSF小説家が書いた『ノウン・スペース』というSF小説群のにある短編の一つを、そのまんま映像化しているのだ。出てくる異星人も借りてきたもの

ニーヴンを知る人も少なくなっただろうが、アシモフハインラインの後の世代で、ハード科学設定とエンタメとしての面白さを融合した作品を書き、SF界の潮流を作った人と言える。

本作は、スタートレック世界観が他作品をまるごと呑み込んでも成立しうる、緩く、包容力のあるものだと示した。ローワーデッキハチャメチャコメディスタイル可能になったのも、ある意味この作品のおかげ。

『恐怖のコンピューター M-5』 (The Ultimate Computer) 宇宙大作戦TOS)第2シーズン24話 / 1968年

宇宙大作戦にはTV史上初めて白人黒人とのキスシーンを描いた『キロナイドの魔力』という記念碑作品があるが、人種問題を深く描いた作品というと、こちらを推したい。

黒人天才科学者が自らの知能と感情を転写し開発した自動航行AI。それに船を委ね、演習に参加したエンタープライズだが、AIは次第に狂いだす。

本作のAIは自らの判断絶対の自信を持ち、誤りを認めようとしない。博士AI擁護し、次第に我を失っていく……と言うプロット

AIの恐怖を描いた先進性はともかく、本作が人種問題作品であることは、日本に生きる我々には少々理解が難しい。

この物語暗喩するのは、飛び抜けた能力社会から評価を受け、地位を得たマイノリティの苦しみだ。常に完璧を求められ、ひとつの失敗で社会から振り落とされてしまう、隠れた差別を描いている。

この複雑な問題1968年TVドラマに持ち込んだことこそ、評価されるべきだと思う。

『恐怖の宇宙時間連続体』(Cause And Effect) 新スタートレックTNG)第5シーズン18話 / 1992年

タイムループもの」といえば誰もが1作ぐらい頭に浮かぶだろう。映画『恋はデ・ジャ・ヴ』など様々な傑作がある。

しかし、それらの作品の多くは、「なぜ」タイムループが起きるのかを説明しない。なぜか寝て起きるとループしてたり、なぜか恋が成就するとループを抜けたり……。

スタトレ世界タイムループを描いた本作が優れているのは、その「なぜ」が明確に定義されており、それを解決することが物語目的になっている点だ。

突如として起こる反物質爆発で時空ループが生成されると、キャラ達は過去に戻される(都合よく前のループ記憶を保持したりしない)。

そこから毎回、艦のクルーたちは僅かな違和感から少しずつ状況を理解し、「なぜ」かを探り、回避するための答えに近づいていく。

ご都合主義的な「ふしぎな現象」はなく、戦うべき悪役もいない。ハードSF的な状況で、知力に頼ってロジカル物語を進めていく。しかしこれが最高に面白いのだ!

舞台は艦のセットのみ、登場人物レギュラーのみというミニマル作品だが、スタートレックSF性、センス・オブ・ワンダー代表する1作だと思う。

『終わりなきはじまり』(What You Leave Behind) スタートレックディープスペースナインDS9)第7シーズン25-26話 / 1999年

スタートレックフランチャイズ化は、TNGによるリバイバルを経て実質このDS9から始まった。いままでと違ったスタトレを作ろうという意欲に富んでおり、非常に作家性の強いシリーズだ。

未知の世界を訪れる宇宙船でなく、未知の存在が訪れる宇宙ステーションを舞台とし、全7シーズンの後半では巨大な宇宙戦争を連作として描いた。最近の『ディスカバリー』などのシリーズも、本シリーズがなければ成立しなかった。

その総決算と言うべきこのシリーズ最終話は、単体で観るとなると評価が難しいが、173話の積み重ねの末の1話としてみると、ずっしりとしたものが心に残る。

DS9シリーズで初めて黒人俳優を主役とし、戦争犯罪植民地主義のもたらす被害ストレートに描き、舞台となる異星の宗教と重ね合わせることで人間信仰心をも題材にした。

更には、「これは一人の狂った黒人の観た夢なのではないか……」というメタレベル視点すら取り入れ、多様な視点と重層的な葛藤、その先にある善とは何かを描こうとした。

シリーズに長く付き合うことでもたらさせる重い感動を体験してほしい。

『遠隔起源説』(Distant Origin) スタートレックヴォイジャーVOY)第3シーズン23話 / 1997年

ヴォイジャーハードSF的な物語よりも、キャラクターの成長やモラルに焦点を当てた傑作が多いが、敢えてSF的なセンス・オブ・ワンダーに満ちた本作を推す。

ネタバレしてしまうが、これは「恐竜人類」の物語であり、「ガリレオ・ガリレイ」の物語だ。

遥か昔に宇宙に出て進化したある種の恐竜と、銀河の反対で出会ってしまった宇宙ヴォイジャー。それを、なんと恐竜人類側の視点で描く。

故郷の星に、自分たちとは異なる知的種族がいたという事実を知った科学者の知的興奮と、その発見社会から拒絶され、迫害される恐怖。

SFの根幹である科学のもの主題にし、人間科学関係性に向き合った、ひとつの到達点。深い感動をもたらしてくれる傑作だと思う。

『命と人生』(Life, itself) スター・トレックディスカバリーDIS) 第5シーズン10話 / 2024

スタートレックエンタープライズ』以降停止したTVシリーズを、配信に適した連続フォーマットで復活させ、『ピカード』などのシリーズの端緒になった『ディスカバリー』の最終話

連続劇で見せるスタトレにはまだ課題が多く、特にディスカバリーシーズン4,5、ピカードシーズン2などは間延びして物語の行先がわかりづらいという批判があった。

しかし、それらの連続劇も、最終話に来ると、そこまで迷走していたテーマが急にシャンと鮮明になり、ああ、なるほどこういうことだったのか、という感動をもたらす。

特にエピソードディスカバリーグランドフィナーレとなるだけあって、描かれるものも壮大だ。銀河知的生命発祥の謎を求めて行われるトレック(旅)である

しかしその結末、謎は解明されることはない。その代わりに提示されるのは、「真実を求めるトレック」とは何なのか、という命題だ。

それは生きること、そのものである

『The Devourer of All Things, Part II』(日本タイトル未定) スター・トレックプロディジー(PRO)第2シーズン10話 / 2024年

スター・ウォーズマーヴェル作品ガンダムのような複数作品ひとつ歴史を形作るシリーズの楽しみは、クロスオーバー、そして「設定の穴が埋まる瞬間」だろう。

子供向けのCGIアニメシリーズとして作られた最新作であるプロディジーは、この設定の穴埋めを、他のどんな作品よりも見事にやって見せた。

新スタートレックヴォイジャーディスカバリーピカードなどの実写作品の設定を少しずつ掬い上げ、時に大胆にプロットに取り込んで、独立して楽しめる作品になっている。

その頂点がこのエピソードだ。シリーズを通じてのマクガフィンであったヴォイジャーキャラクター、チャコテイの姿が見えた時は、その絵だけで感涙してしまった。

実にオタク的な楽しみだが、フランチャイズ作品に長く付き合ってきたものけが味わえる、究極の悦楽がここにある。

プロディジー日本語版は、2024年10月時点では製作されていない。英語版だけならNetflixで子アカウントを作り、基本言語を「English」」に設定することで観られる。

両性具有ジェナイ人』(The Outcast) 新スタートレックTNG)第5シーズン17話 / 1992年

はっきり言ってシナリオの全体的な完成度は高いとは言えない。その質についても、表現手法についても注文の付く作品であるしかしどうしても外すことができない一篇がこれ。

1960年代宇宙大作戦人種性別による差別のない理想世界を描いたスタートレックは、1990年代になりその理想のほころびを正直に描くように変化した。

本作で暗喩されるのは、性的マイノリティの直面する差別であり、同時に女性の権利でもある。

物語では、両性具有種族の星に生まれた「女性」が、女性であると言うだけで罪とされ、矯正を施されようとする。

それは90年代に入るまで見過ごされてきた同性愛者への差別と、「治療」という名の暴力告発である

矯正の場へと連れていかれる彼女最後に、法廷の場で叫ぶ。「私は女だ!」と。

自らの性を自らの物として誇れない、自由に語ることもできない、あらゆる属性の、抑圧された人々の叫びが、そこに込められている。

新スタートレック日本吹き替えは名優揃いで品質が高いが、これだけは英語版で観てほしい。その叫びは、魂の演技だ。


以上。すげー長くなっちゃいました。誰も読んでくれないかな。

今回入れていないランキング定番としては、タイムトラベルの古典的傑作『危険過去への旅』(TOS)や、エミー賞ノミネートされた世界もっと儚いロケット打ち上げシーンが見られる傑作『超時空惑星カターン』(TNG)がある。

SFらしさが感じられるエピソード中心なので、人気の高いボーグのような強大な敵との対決とか、クルー同士のファミリー劇的な人情エピソードはあまり入らなくなってしまった。

また、『エンタープライズ』(ENT)、『ローワーデッキ』(LD)、『ストレンジニュー・ワールド』(SNW)の作品も入らなかったが、もちろん傑作、快作はいくつもある。

ENTバルカン人の設定を完成させた『バルカン夜明け』3部作LDアニメならではの手法連邦バルカンクリンゴン若者たち生活を描き交錯させた『wej Duj』、SNWは過去作の設定を活かしつつ現実21世紀社会情勢を24世紀の世界へと繋いで見せた第1話ストレンジニュー・ワールド』や、アースラ・ル・グイン小説『オメラスから歩み去る人々』のオマージュである『苦しみの届かなぬ高さまで』を推す。

2024-10-27

この表を見ると、出生数、合計特殊出生率ともに目に見えて減っているのは1966年の丙午なので、迷信が当時の人々の選択与えた影響が大きい事が分かる。

出生数、合計特殊出生率の推移

https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-01-07.html

あと、全体的な出生率は割と急に減っているのが1950年代全体と、

のが1970年代前半の終わり頃(第二次ベビーブームの終わり)なんだけど、

わざわざ1989年で1.57ショックとか書かれているのに違和感ある。

1989年頃ってそれ以前から続く微減の途中経過にすぎず、そこだけ特筆するようなものではないのでは。

1960年代には微増しているから、単純に女性の進学率や社会進出で下がった!ってものでもないように思うね。

2000年代半ばからも微増しているけれど、多分バブル世代の駆け込み出産じゃないか2010年40歳女性1970年バブル世代まれなので。

それと、2019年データが途切れているからよく分からんけれど、2019年でもガクッと落ちてるように見える。2019年40歳女性1979年まれ氷河期世代から氷河期効果が出始めるのがこの辺って事なのでは?

2024-10-25

anond:20241025024316

洗礼』は確かに傑作ではあるが、重要作品には疑問

少年サンデー漂流教室」の次に集英社つながりで連載されたが、少女コミック掲載作品は、たしかこれだけのはず

楳図かずお1960年代に「恐怖マンガ」というジャンル確立ブレイクしたので、週刊少女フレンド枠で『ねこ目の少女』『ママがこわい』『まだらの少女』『紅グモ』『へび少女』『黒いねこ面』『ミイラ先生』『赤んぼ少女』『影姫』(『鬼姫』)『うろこの顔』 etc からひとつを選ぶべきだな 

2024-10-24

「今時じゃない若者は!!」の一覧を作った

2000年世代まれの「今時の若者は!!」

・「今時の若者スマートフォンばかり見て、コミュニケーション能力が低い」

・「デジタルに頼りすぎて、現実人間関係を築けない」

・「自己中心的で、忍耐力がない」

1990年代まれ

・「今時の若者ゆとり教育の影響で、競争心がない」

・「何事にも熱意がなく、責任感が欠如している」

・「ネットばかりして、現実世界に興味がない」

1980年代まれ

・「今時の若者マイペースで、協調性がない」

・「新人類で、常識通用しない」

・「ファッション流行にばかり気を取られている」

1970年代まれ

・「今時の若者反抗的で、礼儀を知らない」

・「ヒッピー文化に影響されて、自由奔放だ」

・「勉強よりも遊びに夢中だ」

1960年代まれ

・「今時の若者個人主義が強く、集団行動を嫌う」

・「新しい音楽文化に熱中して、不良っぽい」

・「モラルが低下している」

1950年代まれ

・「今時の若者戦後の影響で、我慢強さが足りない」

・「伝統規律を軽視している」

・「物質主義的で、お金に執着している」

 

時代関係なく言われてるやつ

自己中心的で、協調性がない

伝統規律を軽視している

・忍耐力や責任感が欠如している

・新しい文化流行に熱中しすぎている

現実よりも別のものに夢中

2024-10-10

anond:20241009200216

ブコメノーベル死の没年は1896年で、女性学学問として教育され出したのは1960年代ノーベル氏の意思を元に作られているノーベル賞に、ノーベル氏の関知しない学問分野が対象になるわけがない」

ノーベル経済学賞を知らないアホ

2024-09-13

anond:20240913152456

社会自由主義って昔ながらのやつか

先祖返りか

https://en.wikipedia.org/wiki/Social_liberalism

社会的自由主義[は、社会正義社会サービス、混合経済公民権政治的権利の拡大を支持する政治哲学であり、自由主義一種であり、限定的政府と全体的に自由放任主義的な統治スタイルを支持する古典的自由主義とは対照的である

どちらも個人自由を重視しているが、社会的自由主義は、社会的平等対処し、公共の福祉を確保する政府役割をより重視している。

■衰退

1960年代1970年代経済問題を受けて、自由主義思想はいくつかの変化を遂げた。

ケインズ派財政運営自由市場を妨害しているとして批判された。

同時に、増税で賄われた福祉支出の増加は、投資の減少、消費者支出の減少、そして「依存文化」の創出への懸念引き起こした。

労働組合はしばしば高賃金産業の混乱を引き起こし、総雇用は持続不可能であると考えられた。

フリードリヒ・ハイエクの影響を受けたミルトン・フリードマンサミュエルブリタンなどの作家は、社会自由主義の逆転を主張した。

彼らの政策(しばしば新自由主義と呼ばれる)は、西側諸国政治特にイギリスマーガレット・サッチャー首相アメリカロナルド・レーガン大統領政府に大きな影響を与えた。

彼らは経済規制緩和社会サービスへの支出削減の政策を追求した。

社会自由主義連合崩壊した理由の1つは、1960年代1970年代国家政府から独立して活動できる金融利害関係からの挑戦だった。

関連する理由としては、フランクリン・D・ルーズベルトなどの政治家が提唱した社会主義医療などのアイデアが、赤狩り最中保守派特に前述のレーガンによって批判され、社会主義的とみなされたことが挙げられる。

もう1つの原因は、連合の一部を形成していた労働組合の衰退であり、労働組合自由主義コンセンサスに挑戦する左翼イデオロギーの支持でもあった。

これに関連して、労働者階級意識の没落と中流階級の成長があった。

社会自由主義を最も受け入れていなかった米国英国による貿易自由化の推進は、支持をさらに弱めた。

社会自由主義思想現代的復活

20世紀から社会的自由主義政治的影響力を失いつつあったが、ジョン・ロールズ政治哲学)、アマルティア・セン哲学経済学)、ロナルド・ドゥオルキン(法哲学)、マーサヌスバウム哲学)、ブルースアッカーマン憲法)など、多くの著名な著者の登場により知的復興を遂げた。

社会自由主義政党または社会自由主義派閥を持つ政党

日本立憲民主党

歴史的社会自由主義政党または社会自由主義派閥を持つ政党

日本日本社会民主党

って書いてあるけど?

2024-08-18

煮詰まる」はいかにして「結論が出る」という意味になったか

それでは夏休み自由研究を発表したいと思います

最初

現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである

注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである

白樺派の例

調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたこである。そして同じく白樺派有島武郎長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブ意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。

大正10年 武者小路実篤自分脚本に就て』

僕は脚本はどうしても人間精神のあらわれである上に、煮つまったものであることを要求します。


大正10年 有島武郎『筆頭語』

心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。


大正11年 木村荘八『泰西名画家伝』

長官デリニのあやが「うまく」かかるもかからぬもなく、競技――即(すなわち)対抗の空気は忽ち煮つまるばかりであった。


大正13年 長与善郎『書斎より』

牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである


昭和5年 岸田劉生演劇美論』

全体として、一つの美しさを出すけれど、旧劇の如く煮つまった味はなく、その美は甘く、低級である


白樺派以外の例

もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブ用法も多かったようだ。

明治40年イヴィッド・パーリー『くらげ』

この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。

『じゃ、この国では、宗教煮詰まって了ったのですネ。』

もとは『The Scarlet Empire』というタイトルアメリカ小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。

大正9年 ドストエフスキー白夜

私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ

こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。

大正10年 岡本一平へぼ胡瓜』

何処かに法華宗があると見え、この熱気の世界の中へ煮詰まった声でお題目をいきみ出してる。

真夏暑い日に遠く法華宗お題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。もの煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。

大正12年 佐々木味津三『呪はしき生存

単にそれを考えるだけでも、彼は天地が煮つまるように感じていたたまらないような震撼を覚えた。

「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。

昭和2年歌舞伎 第三年第十三号』

森金之丞は正直にこれに答えるが、だんだん議場(公議所)の空気が煮つまって行き怒声、罵声騒然たる裡に第一場は閉じて行く。

議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか

昭和6年 大高巌『近代支那文学史上の先駆者

かるが故に自己生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度採用することは一に権力者に反抗する意志学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護有為なる人材を作ることになる。

こちらは「集中させる」「浪費させる」ようなニュアンスか。

昭和9年 式場隆三郎バーナード・リーチ

高村光太郎は余り外に出ない。併し仕事は煮つまってきていると思う。暫らく作品を見ない。

この式場隆三郎白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか

昭和10年 丸山幹治『黒頭巾を脱ぐ』

勿論コチコ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所認識する感服癖さえある。

こちらは「頭が固い」というような用法

昭和10年 ギュスターヴ・フローベールジョルジュ・サンドへの書簡

では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。

翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。

戦後の例

戦前武者小路実篤を中心に、小説詩歌戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論交渉煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。

それに関してわかりやすいのは「国会会議検索」で、戦前の「帝国議会会議検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。

となると次に気になるのは「議論煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブ文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。

昭和34年週刊現代

しか日本側は表面上は「朝鮮総連相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから問題は煮詰ってしまった。


昭和44年『先見経済

やはり人間災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのとき判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。


昭和47年ミュージックライフ

ハイスクールからジュニアカレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジライフ煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである


昭和50年キネマ旬報

その後の二本は結局むしかえしのドラマをやるしかなくて、無残な作品になってしまった

あれも、会社方針企画貧困の為せる業で、プロデューサー監督も完全に煮詰まってしまったんですよ


昭和51年レコード芸術

あい自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。


昭和53年スイングジャーナル

でも、いつか自分のやりたいことをやらないと苦しくなるというか煮詰まちゃうわけだよね。


昭和54年ジャズ批評

昔は、自分が何をやっていいかからなかった。やり過ぎると煮詰まってしまうし。


昭和56年週刊読売

「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まちゃう」「煮詰まちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」


昭和60年 毛利子来岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』

たとえば原稿書いてて、もう煮詰まっちゃって、しょうがない、寝よう、横になると、ア、と思いついちゃう


昭和60年 チャールズ・シェフィールド放浪惑星

その問題ととっくんでいるうちにわたしの頭は煮詰まってしまい、あとをマッカンドリューにゆだねた。


昭和60年 松浦理英子いちばん長い午後』

実はそれは性的遊戯の一環ではなく、二人の交際煮詰まってしまったあげくのもがき合いであった。


結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法議論交渉文脈しか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか

ちなみに、この「行き詰まる」用法誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰ま誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。

まとめ

といったところか。

煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。

それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブイメージ適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブイメージ適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。

もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然感覚である。当初から煮詰まる」は多義的比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。

発表は以上となります。ご清聴ありがとうございました。

2024-08-11

棒高跳びって特殊過ぎないか

普通の高跳びなら分かるんだよ

なんで棒を持って高く飛ぼうとした?

しかもすっごく曲がる棒をわざわざ作ってさ

競技過ぎないか

いや競技として楽しそうだなーとは思うんだよ

でも棒使って高く飛ぶのってなんか特殊過ぎないか

どういう歴史があって棒高跳びが生まれたんだ??

で調べたんよ

なんか元々は川を棒で渡るところから発祥したらしい

でも棒が今みたいに曲がらなくて、竹とか使ってたみたい

でも1960年代グラスファイバー製の棒が生まれから劇的に高く飛べるようになったらしい

360度曲げても折れないんだって

歴史を紐解くと、まあ分かるかな

・・・っていや分からん

やっぱ特殊だよ

棒をなんで使うんだよ

日常からかけ離れてるんよ

棒を使って高く飛ぶ機会ってないじゃん

なんで棒なの?

棒、いる?

分からん、全く分からん

ただ楽しそうだなーとは思うけどさ

分からんのよ

2024-08-04

三島由紀夫谷崎潤一郎1960年代頃まで存命だったというのは地味ながら興味深いなと思った。

彼らが生きていたその当時にアラサーだった人は、現在の80-90歳ということになる。丁度私の祖父がその辺の年齢だから、きっと祖父にとっては、三島由紀夫谷崎潤一郎現在でいう筒井康隆(89歳)や村上春樹(75歳)みたいな作家に見えていたのかもしれない。

たとえば私が生まれた時、ジョン・レノンはすでにこの世を去っていて、ゆえにビートルズ過去のものだ、という印象がずっとあるけれど、でも私よりも上の世代はそうじゃないのだろう。

要するにその人物が生きているか亡くなっているかステータスによって馳せる思いや感覚が違ってくる、というごく当たり前のことなのだが、なぜか妙に思い巡らせてしまった。

2024-07-06

anond:20240706190652

これ、妻が夫を警察に突き出す場合でしょ?

日本でも夫婦間の性犯罪は成立しうるよ、別に否定はしていない

なぜアメリカがわざわざこんなこと言ってるかと言うと増田引用してる資料の注にも書いてあるように

コモンローの強姦(rape)の定義は 「強制力を用い,妻以外の女性に対して,その意思に反して性交をすること」とされていた

(中略)定義から明らかなように,夫が妻に対して行う行為は免責された

(中略)このような性犯罪コモンローの考え方に対して,1960年代以降のフェミニズム運動が厳しく批判を行い,立法改革をもらたすに至った 」旨の指摘がある

まり英米法系だから

追記

あ、そうそう、ついでに言っとくと、mojは外務省じゃなくて法務省

2024-06-30

「retard」の面倒な歴史

「retard」の語源ラテン語の「retardare」に遡る。この言葉16世紀から英語使用され始め、

当初は「遅らせる」「遅延させる」といった一般的動作状態を表す動詞として用いられていた。

19世紀後半から20世紀前半にかけて、「retard」は医学教育の分野で「mental retardation」(精神遅滞

という専門用語として使用されるようになった。しかし、1960年代から状況が変化し始める。

「retard」や「retarded」に侮蔑的意味を持たせて使用する人々が増加したのだ。

同様の現象日本語の「池沼」という言葉でも起こった。

このような使用法の広がりにより、1980年代以降には「retard」とその派生語が差別的表現とみなされ、

公の場で使用することが適切でなくなった。

しかしながら、現代でも「retard」は特定の専門分野で元来の意味使用されている。例えば、

航空業界では着陸時の機首上げ直前に「減速する」という意味で使われ、自動音声システムがそのタイミングを知らせているのである

YouTube飛行機の着陸シーンが誤ってBANされた事例があったが、これはAIが「retard」という言葉不適切ものとして検知したためと考えられる。

結論無能で十分説明されることに悪意を見出すな

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