はてなキーワード: 成熟とは
アメリカで「子どもが1人で公園で遊べなくなった」と感じられるようになったのは、法律そのものというよりも、社会的・文化的な変化が大きな影響を与えています。この変化は主に1980年代から2000年代にかけて徐々に起こったものです。
•事件の影響
1980年代には、いくつかの衝撃的な誘拐事件や児童虐待事件が報道され、親たちの間で不安が広がりました。例えば、1981年に起きた6歳の男の子アダム・ウォルシュの誘拐・殺害事件は、多くの親に衝撃を与えました。この事件は、全米失踪児童センター(National Center for Missing and Exploited Children)の設立や、子どもが行方不明になった際に警察が迅速に行動する制度「アダム法(Adam Walsh Child Protection and Safety Act)」の基盤となりました。
•メディアの影響
テレビニュースや犯罪ドラマが子どもへの危険を強調し、外で子どもを1人にすることへの恐れを助長しました。
1990年代以降、「ヘリコプター・ペアレンティング」と呼ばれる、子どもの行動を常に監視する育児スタイルが広まりました。この傾向は特に中産階級以上の家庭で顕著でした。
子どもを放置する行為が「ネグレクト(育児放棄)」として扱われるケースが増えました。一部の州では、子どもが1人で外出したり遊んだりすることを問題視する法律や通報制度が整備されました。
スマートフォンやソーシャルメディアの普及により、他人の行動がすぐに記録・拡散されるようになり、「他人の子育て」への干渉が増加しました。例えば、公園で1人で遊ぶ子どもを見かけた大人が警察や児童保護サービスに通報するケースが増えました。
「子どもを自由に育てる」という考え方を支持する親もいますが、その一方で「危険を放置している」と批判されることもありました。一例として、2015年にはメリーランド州で、10歳と6歳の兄妹が1人で公園にいたことで児童保護サービスに通報される事件がありました。
4. フリー・レンジ・ペアレンティング法の登場(2018年以降)
•このような過保護の風潮に対する反発として、2018年にユタ州で「フリー・レンジ・ペアレンティング法」が成立しました。この法律では、十分に成熟した子どもが1人で公園に行くことや遊ぶことはネグレクトではないと明示されています。他の州でも類似の議論が続いています。
子どもが1人で公園で遊べなくなった時期を明確に特定するのは難しいですが、1980年代から2000年代にかけて、事件報道、育児スタイルの変化、社会の監視文化の発展がこの傾向を加速させました。法律も影響しましたが、主に社会の価値観の変化が大きな要因です。
powered by ChatGPT
TBSがお送りする、年末の大型スポーツバラエティ番組といえばSASUKEである。もともとは「名もなき男たちのオリンピック」を標榜し、SASUKEオールスターズに代表される一般人の参加を中心に据えていたこの番組だが、近年は芸能人の参加が目立っている。ゴールデンボンバーの樽美酒が著名だが、芸人やアイドルや業界問わず多数参加している。
一部のSASUKEファンはこの変化をよく思っていないらしい。とりわけ、人気アイドルグループSnow Manのリーダーである岩本照を取り上げすぎている、という声が時折聞かれる。彼はまだ自力で3rdに到達しているわけでもないのに、番組で尺を取りすぎている。もっと当初のように、名もなき一般人に焦点を当てるべきだ、というわけだ。
だが考えてもみてほしい。この番組はすでに、山田勝己という狂気の一般参加者を輩出してしまっている。もう20年以上も前に、その後長きにわたりバラエティ番組で擦られ続けるかの名言を生み出した男だ。あの時代よりだいぶ平均的な倫理観が成熟した現代に、いったいどこに、山田を超える一般人エンターテイメントを生み出す余地があるだろうか。
*
SASUKEの総合演出を務める乾氏は、「SASUKEが生んだモンスターは2人だけ」と語っている。一人は人間ドラマとしての番組の方向性を決定づけた山田勝己、もう一人は現役最強のSASUKEプレイヤーである森本裕介だという。SASUKEの主人公になりたければこの二人のバケモノのどちらかに勝たなければならない。森本に実力で勝つか、山田勝己を越える人間ドラマを演出するか、二つに一つだ。
前者がかなり厳しい道のりであることは論を俟たないだろう。第40回のファイナルステージ、森本は他二人のファイナリストに圧倒的な差をつけて鋼鉄の魔城の頂すれすれまで辿り着きかけた。第41回では愛媛銀行職員という新星が現れるも、彼すら森本と同じ位置で脱落してしまった。
*
とはいえ、もう一つのルートも険しいものだ。山田勝己はSASUKEに打ち込むために、およそ常人が捧げられるあらゆるものを捧げ尽くしてしまった。命綱なしでクレーン車からぶら下がってファイナルステージの練習をし、SASUKEの練習に熱中して仕事を首になり、にもかかわらずあっけなく失敗する姿を見て妻が涙をこぼしてみせる。命、仕事、家族、真っ当な人間なら犠牲にできないものを全て。そうして暗い沼地に落下し、「俺にはSASUKEしかないんですよ…」とこぼす。本当に全てを賭けてしまい、ドラマのようには美しく勝てなかった男の言葉を。
だから山田に勝つためには、山田が持っていないものを賭けるしかない。総合演出の「SASUKEにはまだ林業やっている人がいない」みたいな戯言を間に受けて林野庁に就職した若者は自分の未来を賭けたわけだ。広大な土地に膨大な労力を費やして、巨大な模擬セットを作成した選手も一人ではない。あの実力者の愛媛銀行ですら頭取のハンコを持ってきた。もちろん、もうちょっとばかし穏当な、家族とか友情とか起業とかそういうアピールもあるけれども、それらは大抵、当人たちのテレビ映えする立ち回りのうまさと、着実に前半をクリアできる実力とセットになっていたりもする。
*
そこにきて岩本照は、「トップアイドルとしての偶像性を捨てること」という間違いなく強いカードを持っている。彼は日本で最も売れているアイドルグループのリーダーだ。その彼が、割と平気で1stで落下する。初回はなんと冒頭のクワッドステップスで落ち、そこから少しずつ距離を伸ばして6回目にしてとうとう1stをクリアしたかと思いきや、新エリアの前にまた沈んだりする。特別回で3rdの良いところまで進める姿を見れば、練習はちゃんとやっているのだが、全体としての本番の成績は芳しくない。
要はぶっちゃけ、微妙なところで結構落ちてるのだ。きらきらとしたアイドルのリーダーが。あの汚い泥沼に。普通に考えて、アイドルがスポーツバラエティに出場する動機があるとするならば、その華麗な活躍模様をファンに見せつけるためではないのか。初回出場で1st最終エリアまで到達したり、あるいはクリアまでしている諸先輩後輩がそうであるように。
にもかかわらず彼はなぜか、「俺はこれだ」と確信し、自グループの冠番組でもSASUKEの番組名を連呼し、忙しい合間を縫って千葉の片田舎にあるセット練習に赴き、枕元には山田勝己カレンダーを置き、結果として見事にSASUKEキャラを確立している。他のメンバーがドラマとかダンスとか言ってる最中、リーダーのこの男のキャラ付けがSASUKEである。まあ冷静に考えたら何かがおかしい。まだアニメオタクとかの方が普遍的だし理解できる。トップアイドルがTBSの一企画にキャラクターを預けることがあろうか? あかつやクロちゃんじゃないんだから。例えばVS嵐のアトラクションに全てをかける後輩がいたら、相葉くんだってドン引きだろう。それでいて別に毎回クリアできるわけじゃないのだから、彼は間違いなく、ある種の「本物」なのだ。
SASUKEの熱心なファンは「SASUKEに全精力を費やすのは普通のこと」と考えている向きがあるようだがそんなわけがない。思い出してほしい。これは所詮、いちバラエティー番組なのである。
*
そんなたかがバラエティ番組で、輝くことを求められるアイドルが、時にぶざまとも言える失敗を見せる。しかし、どれだけ恥をかこうがなんだろうが決して諦めたがらない姿、それこそ山田勝己が紡いできた物語のそのまま続きと言えないだろうか?
SASUKEがもしも、完全制覇をゴールとする英雄の物語だけだったならば、Mr.SASUKEの称号は長野誠のものだっただろう。けれども、ここには山田勝己が代表してきた、人間の物語がある。見果てぬ夢を見て、敵わぬ敵と戦い、届かぬ壁に手を伸ばす。それは冷静に見れば滑稽で、傍目には理不尽とすら思える情念で、ときに哀愁すら漂い、しかし不思議な輝きを放つ、奇妙な人間讃歌である。その世界に岩本は、アイドルらしい視聴率を手土産に、アイドルらしからぬ泥臭さで挑んでいるのだ。
*
というわけで、一般人にもっとスポットを当てろという意見、お気持ち大変よく分かりますが文句はこの際、森本と山田に言いましょう。エリア難易度をインフレさせた森本と、人間ドラマをインフレさせた山田に。でも次回にこそは、とんでもない素人のドラマが現れるかもしれないという希望もかすかに抱いて。
そんな今年のSASUKEはクリスマス決戦、12月25日18:00からスタートです。岩本照で何回CMを跨ぐのか。みなさん絶対絶対絶対見てください。
https://www.youtube.com/watch?v=NYUcfzsRUmA
最近、性暴力とその表現に関する話題が次々 Xのタイムラインに流れてきて、この仕様ってなんなの、と思う。思うけれど、その一方で男女(と一旦は括らせてほしい)の性暴力への解像度の差にガックリきてしまい、あまりにもがっかりしたので筆を取る。
わたしは若い女で、比較的フェミニズムに関心がある方だと思う。そして漫画などを好むオタクだし、エロ表現の良さも分かる。
以前、似たような境遇の女の子の友達がいた。ある日、彼女が落ち込んでいたので話を聞くと、どうやら地下鉄で男の人に付き纏われたらしい。彼女は座っていて、向こうは側に立っていた。初めの方は不躾な視線に耐えていたけれどとうとう我慢できず、電車が停車した際に立ち上がって一度外に出、車両を変えようとしたところ着いてきたという。これには慌て、駅の中を逃げまどって何本か電車を見送った後にようやく再び乗車することができた。
しかし、まだ不幸は続く。電車から降りて逃げている途中、気に入りの帽子を落としてしまった。一応は落とし物センターに問い合わせたけれど、万が一帽子が戻ってきても複雑だ、と彼女はこぼす。お気に入りの帽子なのに、これからはそれを見るたびに男の人に追いかけられた嫌な記憶を思い起こすことになるからだ。
この話を聞いたときに、わたしもすごく嫌な気持ちになった。この件は決して事件として表面に浮かぶことなく、ただ個人のなかの嫌な記憶としてのみ残り続ける。帽子を落としたのは彼女の不注意だったかもしれないが、それほどに焦り怖い思いをしたということでもある。お気に入りの帽子で外に出かけるときでさえ常に警戒していなければいけないだなんて、そしてそれが特定の性別に多く降りかかるだなんて、どれほど生きづらい世界なのだろう。
話は変わる。新聞社の事件事故の欄を見ていると、盗撮や痴漢、路上抱きつきなどの性加害事件のあまりの多さに愕然とする。そしてその裏には事件化されなかっただけの事案がたくさんあるし、そして事件化することのできない(例えば先ほどの友達の話のような)嫌がらせはもっと多いのだろう、と想像してしまう。少なくともわたしはそういう場面に出くわしたり話を聞いたりしたことがそれなりにあったので、そんな世界の見え方を想像もしない人を大量にタイムラインで見かけて言葉を失ってしまった。
そして、この身体ひいては性にまつわる体験の差(つまり女の方が性被害にあいやすいこと)がエロ表現の扱いについての分かり合えなさに繋がっているんだろうな、と。そう邪推してしまう。
そもそも、表現というのは社会の情勢や価値観や規範と全く切り離して考えることのできないものだろう。わたしは、〈社会、そしてそこで生きる個人〉と〈個人によって生み出される表現〉とは相互に影響を与え合うものだと思う。例えば表現は社会で生きる人間によって生み出される以上、そこでの価値観の影響を受けるし、反対に、表現が社会や個人に影響を与えたりとある価値観を強めたりすることもあるはずだ。つまり、表現は社会の外側にはいられない。なぜなら社会の中で生み出され社会の中で受容されるものなのだから。そしてだからこそ表現は社会にとって大きな意味を持ったり、大きな役割を担ったりする。
フェミニストは二次元と三次元の区別がつかない。あるいは、自他境界が曖昧すぎてただの絵に自己を投影している。エロ表現を忌避するのは過度な潔癖であり、お気持ちでしかない。こういう批判がある。フェミニストの中ではもはやエロ絵を燃やすことが目的化されている。そうしてコンテンツの邪魔をする。こうも言われている。じゃあエロ表現は悪なのか。それともエロ表現を悪とすることが悪なのか。
ポルノグラフィ(エロ絵や漫画、アダルトビデオなどをまとめてこう呼んでみる)は現実の性犯罪を助長させるのか、反対に妄想の中で欲望を満たすことで抑止に繋がっているのか。この議論は散々されてきたことと思うが、そうではないやり方でエロ表現が問題視されていることの妥当性を示したいと思う。
ここで重要となるのが、先ほど述べた、表現は社会の外側には出られない事実である。つまり、エロ表現がどの程度実際の性犯罪者を加害へと駆り立てたのかは分からない、分からないのだけれど、少なくとも今が、性犯罪や性加害が女性にとって身近な脅威である社会、なことに間違いはない。つまり、そのように性加害が蔓延している、その上法律や公権力による抑止力にもあまり期待できないと感じている人が相当数いる社会で、性加害描写を含むエロをエンタメとして手軽に発信し、楽しむのは一体どうなの、ということである。ここで注意したいのは、エロ表現を楽しむのが一概にダメだ、悪だということではないことだ。序盤に性暴力にしぼった書き出しをしてしまい、例えば倫理的に性暴力をエロコンテンツに含むべきではないなどという意見も当然あるだろうからややこしくなったと反省しているが、一応わたしの意見を述べておくと現実の被害者がいない限りは、そして実際の事件を下敷きにするなどしていなければ、性暴力をエロの表現のひとつとして楽しむことも認められるべきだと思う。ただし、そのためには実際の性暴力が人々にとって遠い脅威となり、表現としての性暴力は受容できるけれど現実では絶対にしていけない行為だ、という認識が強く世間に浸透していなければいけないと思う。つまり、表現は社会に影響を与えたり与えられたりする以上、行為Aを美化したり単純な快として描くことで人々を脅かすようなチャレンジングな表現は、その表現が発表された程度では揺るがされない強固な価値観、すなわち行為Aは絶対いけないよね、という価値観が広まった社会でしか受けつけられないのだと思う。
また、そういうチャレンジングな表現で社会の価値観を問うたり挑発したりすることも表現の役割ではあるのだけれど、その場合はそれによって生じる反発、批判を受け止める責任が表現者にはあるし、少なくともそのようなチャレンジングな表現だと理解して発信する必要があると思う。が、現状のエロ表現の現状、例えば痴漢や無理やり、分からせなどという言葉が単なるエロいものとして使われたり、ヒロインへのセクハラが当たり前のように行われたりするような現状は、これらが現実では特定の人々にとって脅威となる危うい表現であることを自覚した上で発信を行なってきたものとはとても思えないし、そしてこれがチャレンジングな表現とみなされるほど、残念ながら社会の価値観は醸成されていない。
ちなみに。こういう話では必ず、殺人も現実では大罪なのだから公にして良い表現として認められなくなるじゃないか、などという意見が出てくる。これもわたしの理屈で言えば、殺人がごく身近になった社会では殺人の表現の扱いには当然慎重になることと思うので、今現在殺人をエンタメとして気安く受容できているというのはそれだけ殺人が身近な存在ではなくかつ殺人が絶対にいけないことだという考えが一般に共有されている社会だからなのではないか、と考える。(もっと言うと殺人表現をエンタメ化していると言っても多くは人を殺すことを話のメインとして肯定的に描いているわけではないだろうから、エロをメインに描き性暴力などについてもその罪をなあなあにしがちなエロ表現とは単純には比較できないのだけれど。例えば、快楽殺人者の目線で人を刺すときの感覚の快感、その殺し方の手法などを詳細に描く作品があったらそれなりに物議を醸しそうなものと思うし)
同じように、戦闘シーンを快として描く表現は暴力が基本的に日常の外にある社会だからこそ許容されるし、ヤのつく職業の社会を描くことも、ヤの根絶が共通認識で目指されてきた社会だから可能なのではないか。
つまり、エロ表現を自由に描くためには、絶対に性暴力、性加害はいけないと人々が共通に認識し、実際の事件に対しても反発をしていかないといけないのだ。よく、表現の自由戦士と呼ばれる人たちは表現と現実とを切り離して考えろ、と言うが、先に言った通り表現は現実社会の外には出られないのであり、そうである以上表現と社会とは全く無関係、無影響だと無理筋な主張をするのではなく、現実では絶対にいけない、だがゾーニングを行った上で表現としては受容することができる、とそのような形で〈表現と現実社会の区別〉をつけるべきではないか。
恐らく、フェミニストでエロ表現に苦言を呈している人たちはまず性加害が絶えない社会を嘆き、その中でエロ表現を無責任に(ゾーニングが不十分、あるいはそこで表現されていることが現実においては加害にあたるという自覚がないなどして)発信することを批判してきた。一方で、エロ表現を好む人からしてみれば、恐らく当人たちはそのような犯罪を実際に犯したわけではないのであり、つまり何も悪いことをしていないにも関わらず理不尽に絡まれ、規制されそうになっている、と感じることだろう。ここに、現実社会の性被害への解像度の差からくる認識のズレが発生し、多くは不毛な論争になってしまっていると感じる。このズレを認識することが、現実にある性加害へNOをつきつけそしてマニアたちがエロ表現を楽しめるような成熟した社会にするための第一歩なのではないか。
補足:Xではエロ表現の話題が男女論に持ち込まれること、また表現規制うんぬんはフェミニズムの文脈が強いことから男女論のようにして書いてしまったが、もちろん男女問わず性加害を行うやつもいるし被害に遭う人もいるし、そしてそれら全てにNOを突きつける社会になってほしいとわたしは思う。ただ男女で比較すると女性の方が残念ながらそういう目にあうリスクが高いのであり、その解像度の差がエロ表現に対する見え方の違いに繋がっているのでは、と思い、今回はこのように男女論のように見える形で文章を書いてしまった。これが新たな男女の対立を呼ぶということは決してわたしの本意ではないと、述べておきたい。
壁打ち程度にGptさんに投げるとそれなりの回答がくる。
———
韓国の政治情勢の不安定さと民主主義のバランスは、ダイナミズムとリスクが同居する独特の状況にあります。以下に、そのバランスと要因を分析します。
韓国の政治は、民主化以降も頻繁に変動し、対立が激しい特徴があります。
主な要因
韓国の大統領制では、一人の大統領に権限が集中しており、政策変更のインパクトが大きいです。一方で、大統領がスキャンダルや政策失敗に直面すると、政権の求心力が急速に低下します。
大統領の任期は5年で再選が認められないため、長期的な政策計画が実行されにくい。
韓国では、保守派(例: 国民の力)と進歩派(例: 共に民主党)の対立が激しく、政策協議が難航することが多いです。
• 世論の影響力:
韓国市民の政治参加が活発なため、スキャンダルや政策への批判が即座に世論に反映され、政局が不安定化するリスクが高いです。
韓国の政治的不安定さは短期的な混乱を引き起こす一方で、民主主義が健全に機能している面もあります。
ポジティブな側面
1. 市民の影響力が強い:
市民がデモや抗議を通じて政治に直接的な影響を与えることが可能であり、民主主義の基本原則である「市民の意見が政治に反映される」が実現しています。
腐敗や権力乱用が明るみに出た場合、司法や世論が厳しく対応する仕組みが機能しています。
ネガティブな側面
政権交代や政治的対立によって、長期的な政策が実行されにくい。
• 例: 北朝鮮政策では、保守派と進歩派で大きな方針の違いがある。
政治の混乱が経済や外交の安定性を損ない、市民生活に悪影響を与えることがあります。
韓国の民主主義は、不安定さと民主主義の活力をどう調整するかという課題に直面しています。その困難さには以下の要素が影響しています。
韓国社会では、政治が日常生活や世論に強く影響を与えるため、政治の変動が即座に社会不安に繋がりやすい。
メディアやSNSが政治スキャンダルを拡大し、世論を過熱させることがあります。これにより、冷静な政治議論が難しくなる場合があります。
3. 外部要因
北朝鮮問題や米中関係など、韓国を取り巻く地政学的リスクが高いため、政治の安定が影響を受けやすい。
強み
• 市民参加の高さ: 民主主義が理想とする市民の積極的な関与が現実化している。
• 権力のチェック機能: 政治家の腐敗や不正に対する市民や司法の監視が強い。
• 安定性の欠如: 政治的不安定が政策の一貫性や社会の調和を損なう。
• 分断の克服: 政党間、世代間、地域間の分断をどう解消するかが重要。
韓国の政治情勢は、民主主義が活発に機能している一方で、過度な不安定さを生むという二面性を持っています。このバランスを改善するためには、以下のような努力が必要です:
1. 政策の一貫性を確保: 長期的な視点での政策運営を可能にする制度改革。
3. 市民の成熟: 情報に基づいた冷静な議論を行い、過熱する世論を抑制する文化の形成。
韓国の民主主義は、発展途上にある部分もありますが、世界的には「市民の力で民主主義を守り、権力を監視するモデル」として注目されています。不安定さをどのように克服し、安定した民主主義へ進化するかが今後の課題です。
けっこうスピリチュアル要素の強い子もいる
そういうキャラクターたちの個性をそのまま愛していけるオタクたちは偏狭な未熟男性とは対極にいる
サブカル的コンテキストによる単純接触効果のおかげともいえるが、一般にオタクの器は広い
リアルでは嫌われそうな性格(毒舌や極度のコミュ障)のキャラでも絵の力により愛していくことができる
オタクは本来あらゆる属性を受け入れ、理解を示そうとし、おもしろがっていく、多様性を尊ぶ才能を持つものなのだ
キャラ数が非常に多い作品、たとえばアイドルマスターシンデレラガールズやグランブルーファンタジーのような作品を見れば
あらゆる属性が網羅されているのではないかというほど、どのような個性も愛すべきものとして描かれている
オタクという肩書にこだわらずとも、アニメやゲームに限らずとも
普段から物語作品を消費してさまざまな人間の個性に仮想的に触れている人間ほど
そして同時に本当に避けるべき人間として劣る行動というのもわきまえていけるというものだ
大人になれない人間が多い現代、むしろ大人も物語を積極的に消費して、未知のコンテキストを持つ人間や文化への想像力を養っていくべきなのだ
創作と現実を混同するなという言葉もあるが、創作の意義は現実に起こり得る人間模様の予行演習にある
己の寛容さを拡げるような有用な側面については、絵本に学ぶ児童と同じように、いい意味で意図的に混同していくことで、現実はより思慮深い「優しい世界」に近づいていくだろう
むしろ長らく物語に親しむ習慣を失ってしまった自称現実主義、社会派の人間こそ、世界を息苦しくする
単眼的で攻撃的な正義感でもって、創作と現実を悪い意味で混同し脅威と見なしがちな節があり、主義によって派閥を作り争いを生んでいる
オタクの大部分は、いい意味で混同すべきところを混同し、二次元特有の価値観やお約束を現実の人間や社会には求めない分別を持っている
ポリコレを振りかざす正義マンは、文化に対する理解も現実の人間の賢さ柔軟さに対する洞察力も乏しいために、悪く見える部分ばかり過大に取り上げようとする
そういった言説に安易に取り込まれないようにするためにも、継続的な物語消費による、最新の大人へのアップデート作業は生きている限り随時必要となっていくのだ
ここで書かれている内容は既に予想されている程度の内容であり怪文書の類ではないことを前もって記しておく。
本日21:00、ホロライブ6期生HoloXに所属する沙花叉クロヱが来年1月末での卒業を発表した。卒業理由としてまず第一に会社の方針変化による不一致を挙げていたわけだが、これは8月末に卒業した湊あくあが挙げていたものと一致する。
いずれも200万人、130万人を超える登録者数を誇る配信者を失う(沙花叉クロヱより登録者数の少ない先輩配信者はたくさんいる)わけで、ホロライブにとっては大きい損失かもしれないが、しかしそうではない可能性もある。
そもそもの話、ホロライブは◯期生というグループ毎に順番にデビューさせており、ハッキリとした方針変化を予感させるのは6期生秘密結社HoloXのデビューだった。6期生と冠しているがこれまでのグループとは秘密結社という別の公称がある点で一線を画しており、今後のデビューする新人はこれまでとは異なることを予感させた。(もっとも、◯期生を何度も何度も繰り返すことは無意味だし、ちょうど6年で一区切りつけるというのはわからないでもない)結果的にはホロライブDev_isという姉妹グループを立ち上げるに至るわけだが、当然今後はこちらに企業リソースを注ぐことになるので、実質的には◯期生グループは終了ということになる。このあたりの温度感がハッキリと感じているのは他でもない当事者だろう。(思えば船長がBBAアピールをこれでもかと繰り出すようになったのは6期生くらいからだったか。ねぽらぼの頃はまだそこまで三十路ネタを擦っていなかったように思う。)
そんなこんなで引退する配信者を傍目にHololiveDev_isから新しくFlowglowがデビューしたわけだが、既にご存じの方も多いと思うが「中の人」の人選がハッキリと変わった。◯期生までは言ってしまえばニコ生とかで活動していたアマチュア配信者がメインだ。彼らは良くも悪くもその延長線上で配信活動をしているし、企業もそれを後押ししていた側面はあっただろう。しかし今度の人選はどうだ。中の人は他所で中身でも食べて行けていただろうプロばかりである。当然界隈では話題になった。まず初配信が初配信らしくない。大した緊張感もなく、今まで踏んできた場数を思わせる歯切れの良さ、(比較的)キビキビした受け答えに違和感を感じたリスナーもいただろう。しかし、これがこれからのスタンダードになるのは想像に難くない。Vtuber業界は既にアマチュア個人配信者の目標ではなくプロの転向先にまで成熟したのだ。他所の界隈に慣れている人を引き抜いてこれればギョーカイのジョーシキも通じているし市場規模の拡大も見込める。コネクションがある人物を引き抜ければ尚良し。これに不満があるというなら、なるほど方針の不一致だろう。草野球していたいだけなら企業に所属する理由はないだろうし、企業も草野球したい人のためにグラウンド整備する理由もない。
当然「案件」の存在も大きいだろう。市場規模が拡大し、Vtuber自体が広告としての価値を認められれば認められるだけ、Vtuberには「マネキン」としての役割が期待されるようになる。(この辺は顔出し配信者と事情が違ってくる。顔出し配信者で商品レビューをするのは辛めの批評も広告になるがVtuberにそんな気骨のある人は見たことないし、企業が認めないだろう。これはにじさんじも一緒だ)案件の数が増えれば増えるほど今まで個人でやってきた人格権は既存されていく一方だ。案件があるということは収録も増えるということ。沙花叉も引退理由に慢性的な喉の調子の悪さを挙げていたが、喉の酷使はおそらく声優以上ではないかと察する。そしてこの辺りの整備が進まないことも容易に想像できる。彼ら彼女らは個人事業主だから。組合もないだろう。
長々と書いたが何も驚くことは書いてないはずだ。時間が経てば人は変わり、組織も変わる。先に生まれたものは先に退く。これ以上のことは書いてないつもりだ。
「ぬい活」というものをご存じだろうか。
公式のグッズ製作会社から販売されている「キャラクターを模したぬいぐるみ」を中心とした、一種のオタク活動である。
主に女性オタク界隈で多くみられ、「キャラクターを模したぬいぐるみ」は「ぬい」と略称される。
彼女らは「ぬい」を愛で、旅行先やテーマパーク、飲食店などに引き連れていく。ただし、鞄の中に仕舞いっぱなしというわけではない。取り出し、写真を撮る。そして、その写真をSNSにアップする。
私はこれら「ぬい活」を異常だと思っている。そんなことをしてはいけないと強く思う。
この文章をお読みくださっている方の中にも、「ぬい活」の現場に居合わせた経験をお持ちの方がいるかもしれない。
どう思われただろうか。
「かわいいな」「楽しそうだな」と思っただろうか。
それとも「恥ずかしいな」「痛いな」と思っただろうか。
予想するに、大半の人は「どうでもいい」と思ったのではないだろうか。
一瞬、「うわっ」となりながらも、さっと視線を逸らし、数秒後には忘れている。立ち止まって眉を顰めるほど暇ではないし、そもそも街の中は「うわっ」となるもので溢れている。
薄汚れた作業着を纏った無精ひげだらけの男性、ミニスカートを履いた中年女性、フリルのついた可愛いワンピースを着ているが骨格がどうみても男性の人、奇声をあげながらフラフラ歩く人。
彼らは他人に迷惑をかけているわけではない。ひどい臭いを発していたり、単純にうるさかったりするが、罪を犯しているわけではない。
しかし、視界に入れた瞬間、「うわっ」となる。慌てて視線を逸らし、「見なかった」ことにする。自分の人生から追い出し、登場しなかったことにするのだ。
そういう「うわっ」となる人たちの中に「ぬい活」をするオタクも含まれている。共通項は一般人とは異なる価値観を持ち、奇抜さを越え、そこはかとない嫌悪、恐怖を感じさせる点だろうか。
これがたとえば、「高校生が某テーマパークで、そのパークの公式キャラクターとなっているキャラのぬいぐるみを持ちながら写真を撮る」ならいいのだ。主体の属性・場所・行為に整合性がある。
「ぬい活」は違う。
その多くは成人しており、中には30歳を超えている人もいる。そういう人たちが、キャラとも作品とも関連性のない公共の場で「ぬい」を取り出しているから、「うわっ」となるのだ。
どうしてなんだ。どうしてそんなことができるんだ。
普通は年齢を重ねるごとに成熟していくはずの客観的視点がどうして退化しているんだ。自分を何歳だと思っている。大丈夫か。マジで。
そしてまた、彼女らは「ぬい」に服や靴などの装飾品を与え、自分好みにカスタマイズする。専用の服が売られているし、自分で作る人もいる。まんま幼少期に楽しんだ「お人形ごっこ」である。
ひとり、あるいは友人同士で、家の中で楽しむなら何も文句はない。何故、外で取り出すのだ。
人によっては「ぬい」を飲食店で取り出し、食事と一緒に写真を撮ったりする。
どうしてだ。衛生観念をドブに捨てたのか。人の手でべたべた触り、頻繁に洗うこともないであろう、ぬいぐるみをどうして食事の場に出す。子供でも親に注意されるぞ。
社会人として働いている人も多いだろうに、どうしてその程度のマナーが守れないのだ。お店の人も困ってるよ。
私は彼女らの行動が理解できない。そもそもの話、彼女らの目的は何なのだ。
『キャラが好きだから、キャラを模した「ぬい」と行動を共にし、写真を撮ったりなどして、思い出に残したい』
ぱっと思いつくのはこんなところだが、私には彼女らが本当の意味でキャラを愛しているとは思えない。
本当にそのキャラを愛しているのなら、「ぬい」を公共の場で取り出すなどという、恥ずべき行為に至るわけがないからだ。
「ぬい」はデフォルメされているとはいえ、知っている人がみたら「あのキャラだ」とわかる。そして、オタクが公共の場で「ぬい活」をすることで、「あのキャラのファンは、ああいうことやっちゃうのか」と思われる。冷えた視線を送られ、非常識のレッテルを貼られる。
「キャラ」と「ファン」は一体なのだ。グッズを手にしている以上、切り離してみられることはない。
一度だけでいい。一度だけでいいから、自分の行為をみつめ直して欲しい。
友人と一緒に好きなキャラの「ぬい」を持ち、画角や背景、光の当たり方などを工夫して写真を撮るのは楽しいだろう。その写真をSNSに上げ、いいねされ、コメントがつくのは嬉しいだろう。キラキラと輝く思い出になるだろう。
ただ、それらの行為をしている最中、周りにはあなた以外の人がいる。あなたの行為をみている人がいる。
どれくらいブスかというと子どもの頃から散々な目に遭った日は数知れず…
幼稚園や小学校の頃虐げられまくっていたのは言うまでもなく(小さい子どもって残酷ですね)、周りもまあまあ成熟してきているはずの中学生になっても「こんなにブスなやつ見たことない」と言われたり、後ろの席の男子に椅子を蹴られまくり、椅子と机との間に挟まって苦しくて悔しくてその場で涙がこぼれたこともありました。
心機一転、高校は女子高だったから天国だった…とはならず、卒業式の日にクラスのイケてる子数名から「美優(仮名)はほんまに面白かった!ブスやけど笑」としっかりトドメを刺される始末。
ただ、吹奏楽部だったこともあり、穏やかで優しい友達にも恵まれ、テスト明けにいつも数名のグループでお買い物やカラオケに行って楽しかった思い出もたくさんあります。
(吹奏楽部は気が強い子もいるけど、純粋に楽器や音楽が好きな子も多いので)
問題はそのグループの中に、めっちゃくちゃ上品でいい子なんだけど「この人私のことバカにしてない…?」と思うことがある子が一人いて、ここでは愛理ちゃんと仮に呼ばせてもらいます。
愛理ちゃんは才女で、他の生徒からも先生からもおぼえがめでたいような子でした。話したら大人しいのに会話に機転を感じてすごく面白くて、実際同性だけでなく異性からもひそかに人気だったことは知っています。
ただ、私に対する態度が「ん…?」となった最初の出来事は、高校時代、周囲が恋バナで盛り上がってたとき空気と化していた私に、「美優は外国人からモテそうかも~」と言ってきたことでした。
正直全く恋愛しそう(できそう)にない私がその場で半透明になっていたのを見かねて振ってくれたのかもしれないけど、暗に普通のその辺の日本人からは相手にされないってことか?と、勘ぐって地味に傷ついたのがこの卑屈ブスでした(周りの「あ~…」って反応が紙やすりのようにブスのハートを包み込んだのもある)。
そして時は流れ十年、結婚したのをひっそりLINEのプロフィール画像で公開していた私に、愛理ちゃんから「おめでとう!」のメッセージが。
(アイコンの後ろに設定できる画像を、ウエディングドレス姿のシルバニアのペルシャ猫ちゃんと婚約指輪の写真に変えていた)
同窓会が近づいて見返してたら見つけたらしいんだけど、会話の流れで「びっくりした!」とのこと。
まあ確かに近況報告なしで突然誰かが結婚してたら驚かないことはないかもしれないけど、愛理ちゃんが結婚したと聞いて「びっくり!」なんて言うやついないんだろうな……と思ったのがトリガーで、学生時代の思い出が無駄に鮮明に蘇った。
高校時代、書店で女性ファッション誌を見て「メイクはもとがカワイイ人がやるから意味を成すんだよねえ…見た目磨くことなんかより勉強して長所つくらなきゃね」と言ったこととか。
自分の中で、書店の発言は赤本買いに行った日だったから単に勉強しなきゃという意味なのではと思おうとしたり、いやブスいじりされまくってる私の前でわざわざ言わないでよと感じてしまったり。
蹴り事件のときも、愛理ちゃんが男子を止める義理はないし愛理ちゃんだって怖かっただろうし、でも尊敬されてて発言力ある友達に間に入ってもらえたらどんなに助かったことだろうか…とタラレバを妄想したり。
矛盾した気持ちをぐるぐる回ってしまいつつ、卑屈になってはいかん!と、一応自分に都合のいい解釈の方を信じるようにしてるけど。
あ~やっぱブスってつらいねー。
ちょっと前にXで後輩を指導してたらモラハラだパワハラだ言われるけど、伸びるエンジニアはみんなこれ乗り越えてるみたいなのバズってたけどさ
仕事なんて慣れの部分が9割なんだから普通に聞かれたら普通に教えるでずっとやってりゃ良いだけなのになんであえて全部教えないとか質問に質問で返して詰めるとか、お互いのコミュニケーションコストが上がるだけのバカみたいなことするエンジニアが後をたたないんだろうな
普通に仕事の時間の業務だけやらせてても、3年もやってりゃ高卒のアホでもDB設計くらい勝手にできるようになるのに、なんか私生活での勉強が大事だのなんだの未だにそういう仕事をなんだと思ってんだろう?みたいな説がバズってる日本のIT系の未成熟さやばすぎるよな
VRベンチャーのファントムコミュニケーションズは11月17日、VR風俗サービス「X-Oasis」を2025年1月5日で終了すると発表した。同社もサービス終了後に法人を閉鎖する予定という。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2411/20/news092.html
「21世紀冒頭の未成熟なVR技術とバーチャルにおけるテクニックを活用し、その体験の片輪を4499件の予約を通じて、979人のユニークユーザーに届けられた事は、有意義であったと考えている」
ゲーム市場の予想分析レポートを読むといいが、中期的な予想では、市場全体の成長は鈍化するものの、サブスクリプションに移行しつつ伸びていく。
しかし、既存のゲーム専用機市場は鈍化してくと言うのがだいたいの分析による予想で、そう言う市場はだんだんと収益性が落ちていく。
一方で、市場の安定的な成長拡大と高収益製を維持出来るのがIP商売なので、ソニーは高額で成熟したIPの買収に力を入れており、KADOKAWAなどのマンガアニメに限らず、音楽で原盤権を購入したり、映画会社の買収に名乗りを上げたりしている。
この辺りの事情はソニーの買収戦略について解説している記事があるから探して読んでみてくれ。例えばこれとか読めばだいぶ理解は進む
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC293TB0Z20C24A7000000/
十時社長は「ソニーが注力するエンタメ分野はマクロ経済の変動の影響を受けにくい」と話す。作品を中心としたM&A戦略は、外部環境の変化に影響されにくい収益構造につながる。十時社長は会見の場で自らに言い聞かせるように「環境変化への強靱(きょうじん)性を高めていく。真価が問われる局面に立つ」と語った。