はてなキーワード: テーマパークとは
例えば駅や大通り、ショッピングモールなど、人が多く行き交う場でそれが起きた時、必ず周囲に女性がいるよね
であれば、女性を脱がせてAEDする担当は当然女性がすべきで、それをする女性は当然現れる
人通りが多くなくとも、駅、店、公民館、図書館、学校、テーマパークなど、管理者がいる場でそれが起きればすぐさま管理者に連絡することができる
もちろん1分1秒を争い、即座に対応する自信があればその場に居合わせたものが即座にやってよいと思う
しかし、客たちがそれをする自信がなければ当然施設管理者がそれを行うべきだし、AEDをするかしないか、誰がするべきかなどはその施設管理者の判断に丸投げすればよい
客たちは119するとか、人垣を作ったり目隠しの衝立を探すとか、各々ができる貢献をすればいい
となると、我々一般の者がAEDせざるを得ない場面というのは、人通りも少なく、施設管理者もいない場面という想定になる
え、それ、AEDその辺にありますか?ないよね?無理じゃない?
結局のところ、我々が本当にAEDをするリスクを想定しなければ場面というのは、自分が施設管理者である場合だろう
学校の先生が自分のクラスでトラブルが起きた時、男の先生であっても女子生徒にAEDする場面はあるだろう
お店やってる人なら自分の店でそれが起きれば動くべきは自分だろう
もちろん女性教諭、女性店員を呼ぶ時間的余裕があればそれがいいだろうが、なければやらざるを得ない
その場合は、学校なら男子生徒を退出させるなどの配慮は必要になるかもしれず、それを怠りクラスの男子たちに見られながら、とかなら訴訟になるかもしれないね
いずれにせよ、施設内で起きた場合に施設管理者としてどう振舞うべきか、というのは事前に想定できるしマニュアルも作れる
それさえきちんとしておけば、いざことが起きればマニュアル通りにやるだけだし、その場合は施設長がかばってくれるはずだ
つまりだ
女にAEDやれねえわ!って騒いでいる人は、結局は具体的な人命救助の方法への疑問ではなく、別の意図をもって騒いでいるだけよね、ってことになると思う
アロマンティックとは、大雑把に言えば恋愛的な感情にならない人を指す。
性的な欲求を持たない人はアセクシャル。性的な欲求はあるけど、恋愛欲がないのがアロマンティック。
異性が好きならヘテロ、同性が好きならホモ、誰にも恋愛的な感情にならないのがアロマンティック。そんな感じ。
アロマンティックを自認している人の発信は増田を含めてぼちぼちあるが、その殆どが女性を自称している人であることに気づいた。
だから男の自分がアロマンティックに関して発信してみようと思った。
自認したのは30歳になる少し前のこと。
ネットサーフィンをしていたらアロマンティックという言葉を知り、内容がまさしく自分のことだったという単純な経緯。
エロは好きだしセックスも好きだから、普通にヘテロだと思っていたが、ことエロスを抜いた恋愛話にはてんで無沈着だったし、
何より恋愛に関して興味もなければ憧れすら抱いたことがないのが決め手だった。
小学生の頃に好きだった女の子は、ただ幼馴染だったという理由だし、
だって話したこともないのに見た目可愛いってだけの理由だからね。セックスしたかっただけ。
性欲から来る人を好きになる気持ちはあっても、一緒にいたいとか一緒にいる時間が幸せみたいな感覚が全くわからないのだ。
例えば旅行なら、お互いにそこに行きたいと思ってるならわかるのだが、時間を共有するためだとか、思い出作りのために行くと言われても「それ楽しいのか…?」と思って仕方がない。
頼れる男をアピールするために荷物を肩代わりしたり奢ったり、みたいな話になってくるといよいよもって理解ができない。
恋愛を、セックスできる友達くらいにしか考えてなかったがどうやら違うらしい。
恋愛の愚痴を聞いた所で、出てくる言葉は嫌なら別れればよくね?なのだが、世の中はそうでもないらしいんだよ。
でも好きだから別れたくないというものらしいんだよ。わからぬ。
昔から付き合いのある女友達がいて、例えばコミケに一緒に行ったりすることはあるが、それはあくまでお互いの実利が噛み合ってるから一緒にいるだけ、特に一緒にいることを楽しいと思ったことはない。
それとは別に、セックスするだけの相手もいる。p活=売春なのだが。
これも不思議なもので、世の中にはご飯一緒に食べるだけとか買い物をしてあげるだけみたいな関係を好んでする男も少なくないらしい。
彼氏彼女の関係なんつっても、セックス以外に何するの?と思ってる自分からすると住んでる世界が全く違うことだけがわかる。
友達に彼女できた彼氏できた、その相手が家に連泊したという話をされたとき、そっくりそのまま「そんなに泊まって何すんの?」と聞いてしまったことがある。
これも買い物とか食事とかテーマパーク行くとかするらしいんだが、何が楽しいのか全く理解できず、かなり隔たりを感じたのを今でも鮮明に覚えてる。
自分の感覚、もしかして普通じゃないのか?と思ったのはこの時が初めてだった。
最近はサブカルでもvtuberとかの所謂疑似恋愛と呼ばれるものが流行ってるよね。
疑似でも本物でも、恋愛に憧れがないもんだから、オタクたちの中でも話が噛み合わないなと感じることは多々ある。
男の園に女が入ればいつの間にか男同士で対立しあっちゃうってやつね。
女を狙った攻防が展開されちゃうもんなのよ。
自分はそれを見てただけ。
段々と共通の趣味の関係じゃなくなっていっちゃったから早い段階で抜けてしまった。
これも一つの目的の為の付き合いだと考えてたから、その目的が達成できないなら付き合っててもしょうがないと感じた。
男女関係なく、特定の個人と一緒にいることに楽しいとかあんま思わないんだよね。一緒に目的を達成すべく行動するのは楽しいんだけどね。
アロマンティックを自認している記事の殆どが女性を自称しているという話は前述したが、
そのどれもが「一度は付き合ったことがある」という体験をしていたのが面白い話だ。
友達との恋バナをして〜友達の恋愛感情を理解できず〜恋してないからよと言われ〜マッチングアプリ使って付き合ったけど全く理解できず無理だった。
というのが大体の流れ。
特に付き合いたいと思ってなくて乗り気でもないし自分からアプローチもしないが、付き合う機会に巡り合うというのは、男だったら考えられないことだからギャップを強く感じた。
男の場合はもっとガツガツしていて彼女作るための努力をして鍛えたりなんだりしてなかったら付き合う話なんて一生巡ってこないからね。
ただ、それらの話も「身体をジロジロ見られるのがきつかった」とか「セックスの話をされてそこでどうしても引いてしまった」というオチがつく。
これはこれで女特有の悩みなんだろうな。
男の自分から考えて、男のアロマンティックの話が殆どされない理由は2つあると思う。
まず1つは、男の「恋愛欲はないけど性欲はあるよ」は割と生々しく感じる所。
セックスしたいだけの男の話を、美談だとか苦労だとかに見せるのって難しいよね。
もう1つは、そもそも自認してないことが殆どなんじゃないかな。
女の場合、突っ立ってるだけでも男は寄ってくるだろう。自分がそうでなくても、友達には男が寄ってくる。恋愛が身近にあるから、自身の恋愛感との違和にも気づきやすいもんだろう。
男の場合、何もしなくて女が寄ってくるなんてことはよっぽどのイケメンかお金持ちでもなきゃない。
自分からアプローチしないと恋愛話に漕ぎ着けない性別からすると周囲との恋愛感の違和に気づくのがまず難しいと思った。
自分は友達の恋人の泊まりの話で「何すんの?」と思ったから違和に気づけたが、この話がなければ今でも気づくことはなかっただろう。
あとラブコメなんかは、男向けだと必ずお色気シーンがあるからそういう需要のものだと思って読んだりしていた。
終盤になると真面目に告白とかしだすから、そうじゃないんだよなぁ?ってなってしまうんだけど、ラブコメは付き合うまでの過程こそ描くけど付き合いだしてからの生活は描かないからねぇ。
そういう意味でも「付き合ってからすることってなんなの?」がわからなかったというのがある。
これが女向けだとお色気シーンは消失するので全く興味がなくなるのだが、自分は男だから女向けを楽しめないだけだろうとも思ったりしてたけど、
多分女性のアロマンティックだと女向けラブコメを読むだけでも、バリバリの恋愛世界の描写に違和を感じたりしてそう。
いろんな意味で男だとアロマンティックを自認がしにくいと思うよ。
違和を感じたからなんなんだ、という話をすれば、特になんというわけでもない。
アセクシャルやアロマンティックは、一応はLGBTQうんたらかんたらベーコンレタストマトサンドに含まれるらしいのだが、
配慮しろだのなんだのを言うつもりもなければ思ったこともない。人格否定(恋愛感情がないなんて異常だ!とか女にモテる努力をせよ!とか)みたいなのでもなきゃまぁ気にすることはないし、人格否定する人とは距離とるからね。
ぶっちゃけ日本はお一人様にとてもとても優しい国だから揉めるようなこともほぼないし不平不満を言う義理もないんだよね。
諸外国(特に白人文化圏)は一人でいるとそれだけで退店させられたりするらしい。
あと薄情だと思われたりもするらしい。
そういう文化圏の人からすれば、配慮してほしいと思うのもわかる話ではある。
恋愛=セックスという認識だった昔は、友達が女の子と付き合いてぇーとか言ってても、セックスできる相手欲しいよねという意味でのうんうんだったんだが、
恋愛に対しての解像度が上がって、恋愛をする上でしなきゃいけないこと(楽しくないイベントに誘われても、一緒に過ごす時間の為に乗るとか)への無知の知を得た今だと、付き合うのって、面倒くさくない?と思ってしまう。
この記事は、アロマンティックという言葉を知らないがその傾向にある男性諸君に対し、こういう言葉があると伝えたい気持ちで書いた。
女体に興奮しても、色恋沙汰には辟易するという感覚は「ある」。
何か色々とフェイク混ぜてっるっぽいが明らかにT自動車だわなぁ
職場でパートナーと出会ってるってことは夫もT自動車、年齢近いだろうから夫もT自動車の管理職でおそらくは世帯年収1,000万円超の家庭になってる
圧倒的な規模の会社の充実した福利厚生に支えられた労働環境で安定的に稼ぎ続けてる夫婦の姿
工場周辺は自然が豊かと自嘲しているが、お膝下のT田市はそこそこ商業も充実していて、足を伸ばせば名古屋があってレゴランドみたいなテーマパークもある
しかもその豊かな自然は市町村合併をしたから一層豊かになっただけで、T自動車の工場周辺は工業地帯に併設されたベッドタウン住宅地なので本当は言うほど田舎ではないし新しい宅地開発も様々なところでやってる
逆にそこそこ自然があるということは公園とかも充実しているということなので子供を遊ばせるのに困らず、似たような家庭も多いので塾や習い事スクールも一杯あるっていう子育て環境
サグラダファミリアのような巨大建築でなく一軒家なのだが、チケットが一番高い
ちなみにサグラダファミリア尖塔入場付36ユーロ、プラド美術館オーディオガイド付きで20ユーロ、
カサバトリョと同程度の規模感のカタルーニャ音楽堂(世界遺産)で18ユーロ
いった何が高いのか中に入ってわかったのだが、
観光客向けにAR(拡張現実)グラフィックやらガウディインスパイアの現代アートインスタレーションやらで
かさ増ししている(カサ・バトリョだけに)
日本で重文の建築を見学するというよりテーマパークのアトラクションに近い
で、
ガウディデザインのカメモチーフからカメが浮かび上がって空中遊泳したり
「ぜったいガウディそんなこと考えてないでしょ」みたいな盛りに盛った演出でおなか一杯になって
(オーディオガイドで日本の建築家である隈研吾による、と解説が入る)
もちろん、見ても全くガウディ関係ない、ガウディにかすりもしてない
というか建築意匠ですらなく、アートってわけでもなく、インスタレーションと主張されればうーんと黙るけど、
たぶんカサバトリョの運営方針自体がガウディの知名度に寄せて観光客相手に荒稼ぎしたいとこに
ガウディの知名度に乗っかりたい日本の建築家がいっちょかみしましたってことなんだろうけど
隈研吾建築でもなく、ガウディでもなく、ガウディインスパイアインスタレーションの方向性でもなく、
なんかよくわからんものに隈研吾って名前をくっつけるという割り切りっぷりに
例えばの話だけどな、家族で子どもたちがものすごく楽しみにしたテーマパーク旅行に行ったとするじゃん。
家族水入らずで子どもたちもキャッキャ言いながら楽しみだねーとか幸せいっぱいの車の中に電話してくるジジイ。
家族にとってものすごく大事なイベントをしていると、途端に体調が悪いからすぐに帰ってきてくれとかいいだすジジィとかなんなん?
もう死にそうみたいな調子で電話してきてすぐに帰ってきてくれ救急車は呼んだ、とか言ってくるジジイなんなん?
どうしようもなくて私だけ近くの駅でおろしてもらってそしたらチビが泣き始めてでも上はテーマパーク行きたいがってとかもう地獄の車中を置いて電車に乗ってさ。
ほんで病院行ったらちょっと熱が出ただけで救急車呼ばれると困るんですよねみたいなの、なんなん?
なんなん?
4回接種だったら、子供の数×4が上限。
って言われるけど、コロナも肺炎球菌もつい最近まで外資。最近は内資の承認も下りたけど。
内資の老人向けワクチンっていうと。
とにかくとして、子供向けのワクチンしか作ってない会社ってのがいくつかあるんだわ。
たぶん、つぶれるね。
そのうち、粉ミルクとか紙おむつも国産減るんじゃないの?マーケットが小さくなるんだし。
日本にローカライズしたモノ作るより、海外の玩具に日本語の説明書付けたほうが安いんだろうし。
大人も楽しめるアニメ、というか大人向けのアニメが深夜に増えただけで、昔は夕方になると子供向けの番組ばっかりだったのにさ。
16時台にウルトラマン、17時台にガンダムとかダンクーガとかロボットアニメ、18時からニュース番組を1時間くらい挟んで、19時からドラえもんとかキテレツといった藤子不二雄、19時半からスーパー戦隊、そんな感じだったよね?
テーマパークなんか絶対に暇と金がある老人向けになってくるよ。
百貨店の玩具コーナー、昔は広かったけど、今はたいした広さないよね。
カードゲームとかフィギュアとか、コレクターズアイテムばかり売り場面積を増やしてる。
習い事とかも、大人のバレエとか大人の水泳とか、大人というか暇と金がある老人向けに新規開拓を進めて、子供はあきらめていくんだ。
学習塾くらいで、英会話だってビジネスマン向けしか残ってない。
ランドセル商戦とか、みてると複雑な思いだよね。
数が出なくなったから、採算をとるために一つを高く設定して、カラーバリエーションに耐えるため完全注文生産になって、これもう末期じゃないかな?
価格がもう少しあがったあたりで消費者も生産者も耐えられなくなり、最後は大人のビジネスリュックの流用になって、ランドセルという文化は消えるんじゃないかな?
小児科も減るんだろう。
コンビニに大人用おむつはおいてても子供用おむつは置いてないっていう世界になるんだと思う。
それが少子高齢化。
致死率は低いが死ぬ可能性のある手術を控えてるので、最近はそろそろ死ぬかもしれないと思いながら生きている。
そうすると、これを食べられるのは最期かもしれないとご飯を選び、届く頃には死んでるかもと思いながら通販サイトで注文している。来年のカレンダーはもらったけど使えるかは分からない。
自由に動けないから友人には会えないし、そもそもこんな状況になっていることは身内以外に言えていない。そしてテーマパークが好きだから最期に行きたかったなと最近はよく思う。
それに手術が成功しても暫くは色々な制限が待っているのはわかっている。
身内には仕事をしなくていいのが羨ましいと言われたけど、健康で好きな場所に自分の足で行けて、制限がない生活を送れているそっちのほうが羨ましい。ないものねだりなんだろう。
でも仕事から解放されたのはとても嬉しい。通院しながら仕事してた頃はストレスがひどかった。医師から仕事NGと言われて安堵してしまった。
死を待つ気分というのはなんとも妙なもので、10代の頃なんて簡単に死にたいなんて思ってたけど、いざ死ぬかもとなったらあれも食べたかった、これもしたかったと後悔が募るばかり。
名古屋を出て都内のベンチャーを転々としながら5年ぐらいふらふらしてたけど結婚を機に地元に戻ることにした。
結果として通勤時間が1時間半から30分になって家賃が2万下がって年収が200万増えた。
都内に比べて土地の値段も半額ぐらいなので、そう遠くないうちに家を買って子供を持とうと思う。
東京に出てみたこと自体は間違いじゃなかったと思うものの、都内に居続けることにこだわる必要もなかったな~とつくづく実感したため、そう感じるに至った経緯を具体的に書いてみる。
まず感じてることとして、東京は仕事は多いがそれ以上に人間が増えすぎて人間の値段がかなり安くなっていると思う。
自分は大まかにはITエンジニアに分類されるキャリアを進んできたものの、世間で言われるほどエンジニアの待遇がいいと感じていない。
(もちろん小規模なベンチャーで働いていたことも理由の大半ではあるんだけど)
独学である程度VagrantだのDockerだのGithubだのAWSだのを覚えながら頑張って仕事をしてはきたものの、東京基準では「そのぐらい今どき新卒でもできる」「誰でもできて当たり前」ぐらいの温度感で、手取りは上がらないのに要求スキルだけが加速度的にガンガン上がっていく。
ところが名古屋で転職してみたところ、それなりの大きなジャパニーズトラディショナルカンパニーで簡単に採用が決まり、「なんでもできるスーパーハイスキル人材」みたいな扱いになってしまった。
おそらく名古屋はそこそこ全国規模のメーカーや商社が多い割に、いわゆるIT人材が根こそぎ東京に流出してしまったことで、ポストはいくらでもあるのに人材が居ないといった空洞化が発生しているのではないかと思う。
もっとも自分が東京に出ていった理由が、ITと呼ばれる仕事が根こそぎ人材派遣だらけになってしまったことや、メーカーの採用が市外の僻地の車通勤しか選択肢がないド田舎ばかりだったため、そりゃ流出するだろうという感想だが。
だがようやく地元企業も自分たちが置かれた状況を理解してきたのか、本社機能をド田舎の工場併設のボロい自社ビルから駅前の高層ビルのフロアに移したり、プロパー人材の確保に必死になってる感が窺える。
もちろん自分が東京で経験を積んだことで転職できる応募のレンジが広がったことも少なからず理由にはあるが。
生まれも育ちも名古屋市の自分にとって名古屋はとにかく「狭くてダサい」という印象しかなかった。
最初は広大なマップと思えたオープンワールドゲームがクリアする頃には狭く感じてしまうように、大学生を過ごすあたりで「もう名古屋は知っている場所しかない」という絶望感を抱き始める。
また、昭和から平成初期に建てられた施設や建物が異様に長く生き延びており、子どもの頃から一度も張り替えられない地下鉄のタイルを見ながら、この街の風景は生まれてから死ぬまで変わらないのではないかという恐怖に駆られたこともあった。
だが東京から戻ってきた結果、この狭さとダサさが結局は暮らしやすさと表裏一体だと気づくことになる。
例えば都内でどこかに出かけようとすると、数日前から予定を立ててあれこれ予約をし、一瞬で埋まるチケットを何とか確保し、満員電車や人混みを掻き分けながら目的地にたどり着くような毎日だった。
ところが名古屋では地下鉄一本で大体市内のどこにでも30分あればたどり着けるし、予約さえしておけばだいたい予定通りに過ごせるどころか、大抵の行列も現実的な待ち時間しか発生しないので最悪予約とかしなくてもどうにかなる。
また、東京や大阪や福岡といった日本の都市群は、近年海外からの観光客による観光公害にも悩まされているそうだが、名古屋は幸いなことにしてそういった被害に全くの無縁である。
以前ためしに海外の日本旅行者向けのコミュニティサイトで「nagoya」で検索してみたところ、「Is Nagoya worth visiting?(名古屋には訪れる価値がありますか?)」というタイトルのスレッドがヒットして苦笑いしてしまった。
いや、都市とはあくまでそこで生活する人々が満足して暮らせることが存在価値であり、決して外貨獲得のために現地民族を展示するテーマパークではない。そういう意味で名古屋はむしろ都市としてはこれ以上なく優れている。
また、名古屋に戻ってきてから嫁と一緒に三重の伊勢志摩や岐阜の中津川に旅行に行ってみたが、子供の頃漠然と「ダサい」と感じていた観光地の数々が、程々の行きやすさと気軽さでかなり満足感があった。
ダサさの局地とすら思っていた志摩スペイン村の「♪デデデデデン!エスパーニャー」のCMも、実際に自分の足で行ってみると結構いい場所だったように思う。
東京にはディズニーランドもピューロランドもあるが、人が多すぎる。でも名古屋にはスペイン村がある。いや、伊勢志摩は名古屋ではないのだが、三重と岐阜があることが名古屋のいいところなのだ。
東京から名古屋に戻って感じていることの一つに、「道行く全ての人々が自分と同じぐらいの生活レベルに見える」「街中にあるあらゆる店が自分が入ろうと思えば入れる店しかない」という感覚がある。
逆にいうと東京は「一体どんな人生を生きたらこんな生活ができるかわからない」「一生縁がなさそうな高級な店ばかりで疎外感ばかりがある」という感覚が漠然とあった。
たしかに手の届かないぐらい高い店や高い品があることが向上心や刺激を与えることもあるのだろうが、過度な競争を煽られて疲弊している部分も大きいと思う。
東京に住んでる間はそれらが都市の当たり前だと思っていたが、今はむしろ「東京だけが日本の中で過剰に資本主義を内面化した特殊な都市でしかなかった」と思う部分がある。
名古屋は良くも悪くも平成初期の一億総中流社会の余韻を色濃く残していて、保守的な中流層がちょうどよく生きやすい地方都市を維持しているのではないかと思う。
土地も家賃も物価もそこそこのレベルでありながら、都内と変わらないぐらいの条件の仕事があちこちにあるため、中流がちょうど生きやすい都市設計になっているのではないだろうか。
(国の統計データで可処分所得は名古屋の方が東京に比べて高いみたいなデータも見たことある気がする)
前回の選挙でも、愛知県内では河村たかしや国民民主の候補が多く勝っていた印象があるが、あれらの「現役の中流層を大事にする」という政党の方針と名古屋の中流層の厚さが合致した結果だと思うと納得が行く結果だった。
もちろん都内にだって中流の生活をしている人たちはたくさんいるだろうが、彼らは結局のところ立川や武蔵浦和や船橋といった東京の衛星都市にしか住めておらず、一時間以上の長い通勤時間をかけて都内の一員になったと思い込んでいるだけではなかろうか。
越谷のレイクタウンで週末を過ごして1時間半かけて通勤している人たちは、千種のイオンモールで買い物をして名駅のオフィスで仕事をしたほうが幸せになれるのではないだろうか。
もちろん名古屋が全てにおいていいと思っているわけではない。
例えば飲食店のレパートリーや、ちょっと尖った趣味の店や、チェーン店に押し流されず地元の顧客を掴んだ老舗の個人経営店とかは、やっぱり東京にしかない独特の良さだったと思う。
ただ、そういった場所の知識と思い出は残っているので、たまに東京に出張に行ったときとかに立ち寄ってみるぐらいでちょうどいい。
「ぬい活」というものをご存じだろうか。
公式のグッズ製作会社から販売されている「キャラクターを模したぬいぐるみ」を中心とした、一種のオタク活動である。
主に女性オタク界隈で多くみられ、「キャラクターを模したぬいぐるみ」は「ぬい」と略称される。
彼女らは「ぬい」を愛で、旅行先やテーマパーク、飲食店などに引き連れていく。ただし、鞄の中に仕舞いっぱなしというわけではない。取り出し、写真を撮る。そして、その写真をSNSにアップする。
私はこれら「ぬい活」を異常だと思っている。そんなことをしてはいけないと強く思う。
この文章をお読みくださっている方の中にも、「ぬい活」の現場に居合わせた経験をお持ちの方がいるかもしれない。
どう思われただろうか。
「かわいいな」「楽しそうだな」と思っただろうか。
それとも「恥ずかしいな」「痛いな」と思っただろうか。
予想するに、大半の人は「どうでもいい」と思ったのではないだろうか。
一瞬、「うわっ」となりながらも、さっと視線を逸らし、数秒後には忘れている。立ち止まって眉を顰めるほど暇ではないし、そもそも街の中は「うわっ」となるもので溢れている。
薄汚れた作業着を纏った無精ひげだらけの男性、ミニスカートを履いた中年女性、フリルのついた可愛いワンピースを着ているが骨格がどうみても男性の人、奇声をあげながらフラフラ歩く人。
彼らは他人に迷惑をかけているわけではない。ひどい臭いを発していたり、単純にうるさかったりするが、罪を犯しているわけではない。
しかし、視界に入れた瞬間、「うわっ」となる。慌てて視線を逸らし、「見なかった」ことにする。自分の人生から追い出し、登場しなかったことにするのだ。
そういう「うわっ」となる人たちの中に「ぬい活」をするオタクも含まれている。共通項は一般人とは異なる価値観を持ち、奇抜さを越え、そこはかとない嫌悪、恐怖を感じさせる点だろうか。
これがたとえば、「高校生が某テーマパークで、そのパークの公式キャラクターとなっているキャラのぬいぐるみを持ちながら写真を撮る」ならいいのだ。主体の属性・場所・行為に整合性がある。
「ぬい活」は違う。
その多くは成人しており、中には30歳を超えている人もいる。そういう人たちが、キャラとも作品とも関連性のない公共の場で「ぬい」を取り出しているから、「うわっ」となるのだ。
どうしてなんだ。どうしてそんなことができるんだ。
普通は年齢を重ねるごとに成熟していくはずの客観的視点がどうして退化しているんだ。自分を何歳だと思っている。大丈夫か。マジで。
そしてまた、彼女らは「ぬい」に服や靴などの装飾品を与え、自分好みにカスタマイズする。専用の服が売られているし、自分で作る人もいる。まんま幼少期に楽しんだ「お人形ごっこ」である。
ひとり、あるいは友人同士で、家の中で楽しむなら何も文句はない。何故、外で取り出すのだ。
人によっては「ぬい」を飲食店で取り出し、食事と一緒に写真を撮ったりする。
どうしてだ。衛生観念をドブに捨てたのか。人の手でべたべた触り、頻繁に洗うこともないであろう、ぬいぐるみをどうして食事の場に出す。子供でも親に注意されるぞ。
社会人として働いている人も多いだろうに、どうしてその程度のマナーが守れないのだ。お店の人も困ってるよ。
私は彼女らの行動が理解できない。そもそもの話、彼女らの目的は何なのだ。
『キャラが好きだから、キャラを模した「ぬい」と行動を共にし、写真を撮ったりなどして、思い出に残したい』
ぱっと思いつくのはこんなところだが、私には彼女らが本当の意味でキャラを愛しているとは思えない。
本当にそのキャラを愛しているのなら、「ぬい」を公共の場で取り出すなどという、恥ずべき行為に至るわけがないからだ。
「ぬい」はデフォルメされているとはいえ、知っている人がみたら「あのキャラだ」とわかる。そして、オタクが公共の場で「ぬい活」をすることで、「あのキャラのファンは、ああいうことやっちゃうのか」と思われる。冷えた視線を送られ、非常識のレッテルを貼られる。
「キャラ」と「ファン」は一体なのだ。グッズを手にしている以上、切り離してみられることはない。
一度だけでいい。一度だけでいいから、自分の行為をみつめ直して欲しい。
友人と一緒に好きなキャラの「ぬい」を持ち、画角や背景、光の当たり方などを工夫して写真を撮るのは楽しいだろう。その写真をSNSに上げ、いいねされ、コメントがつくのは嬉しいだろう。キラキラと輝く思い出になるだろう。
ただ、それらの行為をしている最中、周りにはあなた以外の人がいる。あなたの行為をみている人がいる。
一学年一クラスで女子は全員で18人しかいなかったから、宿泊した旅館では確か女子全員で一つの大部屋だった。枕投げを一応やったけどみんなすぐ飽きて、布団が近い女子で持ち寄った漫画読んでたんだよね。みんな肩から上だけ布団から出して漫画を囲んで頭を寄せて黙々と読んでた。
私はクラスメイトが持ってきてた倉橋えりかの『世紀末のエンジェル』の1巻から最終巻の4巻まで読ませてもらった。最初の方は以前にもどこかで読んだことがあったけど最後まで読んだのは初めてだった。
悦に萌えたり雅の名前可愛いな〜と思ったり、何より竜之介(ヒロインの前世の恋人)にメロメロになって夢中で読んだ。最後泣いたしめちゃくちゃ面白かった。
一泊二日だったと思うんだけど、一日目は笹かま工場を見学して二日目は松島とテーマパークだった。二日目は小雨で島々は霧でよく見えなかった。どんよりした天候でのテーマパークは楽しかったのかすらあまり覚えていない。使い捨てのカメラでたくさん写真を撮った。笹かまは超おいしくて帰ってからもお土産に買った分の半分は自分で食べた気がする。
倉橋えりかは作品が絶版の上電子書籍化してないから買えないし、もちろんアプリにも来ない。
にちゃんねるの詳しい人によると倉橋えりかはコミックのフリートークで「完璧一般人になってて漫画のことにはノータッチでいたい」とか「海外で仕事したい」みたいなこと言ってたらしいから現在はもう集英社と連絡つかないのでは?とのことだった。
「あーみんとですら連絡ついたのにね」と。
まあどうしても読みたければ中古で入手すればいいんだけど、黄ばんでない漫画で読みたいからできたら電子書籍化してほしい。でもそれよりも元気でいるといいな。