はてなキーワード: アフリカとは
昔のことなので仔細を忘れたが、世界の屋台料理と称した野外イベントに、ピナッソスを出品している屋台があった。
日本語の拙い外国人店員に尋ねたところ、カレーに似たほうれん草の料理だという。
カレーなら大外れはなかろうと注文したところ、確かにほうれん草入りのカレーライスのような料理が出てきた。辛くはなく、むしろわずかに甘い。
屋台物なので食い出はなかったが、肉や野菜をもっとたくさん入れればもっと美味しいだろうなと思いつつ、ピナッソスを完食してその場を後にした。
家に帰りネットで検索したところ、なんと「ピナッソス」は1件もヒットしなかった。なんなのだこの料理は。
店員の誤記かもしれないと思いなおし、「アフリカ」「シチュー」等の単語で再度検索したところ、その料理はマフェと呼ばれる西アフリカ料理であり、ほうれん草のマフェはギニア風であるとつきとめた。マフェとピナッソスじゃ全然違うじゃん。
ところで、マフェの特徴はコクと風味付けのためにピーナッツバターを使う点にある。
ピナッソス…
ピナ…ソス…
嗚呼。ピナッソスとは「ピーナッツソース」のことであったのだ。
メニューを代筆した日本人が聞き間違いをした結果、ピーナッツソースがピナッソスになったと思われる。小説「人間の証明」並みのトリックであった。
「マフェ」でネット検索すれば料理写真やレシピは多数入手できる。美味しい料理なのでぜひお試しください。
ネットで検索をしても1件もヒットしなかった単語「ピナッソス」。この場を借りて「ピナッソス」をインターネットに記録したいと思う。
自分の思い通りに進まないだけの理屈を「屁理屈」と呼ぶのはやめろ。
お前、ずっとそういうのだよな。呼び名だけ変えてもお前が負けてるの変わんないから。
論破しろって論破。お得意の監視で間違いを指摘すんだよ。ここが屁理屈ですと、引用で指摘して見ろ。
指摘ポイントなんか無いけどw
具体例が全然出てこないんだよな。国名とか。中国はこう、アメリカはこう、アフリカはこう、そういうのがない。
俺がわざと具体名を挙げなかった罠にもきっちり引っかかる。「海外」ってどこ? イギリス? ロシア? ウクライナ? ゴビ砂漠? まあゴビ砂漠のテレビ見てたら児童虐待のニュースなんか見ないだろうけどw
あと比較? ニュースを? してないだろそんなこと。そういうとこなんだよな。伝わってくるんだよ適当コイてるのが。
お前が実際になにやってるか当ててやるわ。まず、海外で話題になっている、素晴らしい名シーンの動画をネットで見るだろ。うわー海外ってすごいんだな進んでるわ素晴らしい人たちがいる。それから、お前の周りの人たちからリポストされてくる、日本で流れたしょうもないTV番組のシーンを見る。うわー日本ってクソ。
あのなあ、比較っていうなら条件をあわせないとさ。エリア最高とエリア最低を探し出して感想を言うのは、比較じゃないんだよね。
バカだよね。
②偏りがありすぎるとは思わないのか。思わないし、思ったとしてなに?
自分の思った通りにならないことを「偏り」とか言うのはやめろ。ただの現実で、それが正常なんだよね。
というとお前が何を言うのは分かってる。それは現状追認、冷笑であるとか。
あのなあ。現状がどういう状態化を認識して何もしなかったら確かに冷笑主義だよ? でもおまえはそれ以下。まず現状がどういう状態かを正しく認識してないじゃん。「偏り」ってなに? 今は異常で元に戻したらお前の理想になるのか。ならないって。
ガキなんだよな。「思い通りになっていません」しか言ってない。どうすれば変わりますとか、無い。お前はずっとそう。
バカだよね。
その通りだね。久々に正しいことを言ったな。実際にやったらしいじゃないか。嘘をついてないね。実体験がある。
で、次はどうするのか? バカ! アホ! とインターネットで罵る。
そこがだめ! ガキすぎる。
学校の先生にどうされたか思い出せよ。根気強く教えてもらわんかったのか? お前ってこんなにバカなのに、1を聞いて1理解できないから、1がわかるまで10回20回その説明してもらっただろうが。お前の政治コミュニティ、リベラル啓蒙主義が本来主張してたのは本来そういうことなんだよ。大衆がバカですから、一生啓蒙(エンライトメント)しましょう。対話できない相手だからこそ、対話を諦めずに続けましょう。
ところがお前みたいなガキが、出来の悪い生徒にいきなり暴力振るって不登校を作る。ムリな対話をやめる。だから最近のリベラルは駄目になっている。それが現状だ。
日本人が話を聞かないとしたら、それはバカなお前のせいなんだよね。
バカだよね。
で、お前に欠けてるところな?沢山あるけど。
まずお前は、他人の間違いを指摘することは全然偉くないということを認識するべきだ。人を褒めることを覚えろ。クレーマーを辞めろ。お前の敵に一分の理があることを認めろ。
最近の名著では「それでも、世界はよくなっている」とか読んだ? 読め。
それから「社会はなぜ右と左に分かれるのか」だな。なぜ日本人(=お前と話す奴。言っとくけどこれのことを「日本人」と呼ぶのもやめろよ)がお前の話を聞かないのか、論理的に示しているぞ。
単純な古典だけどカーネギーとかどう?「人を動かす」。これもお前がいかにバカな語りをしているか理解する手がかりになるよね。
まあまず無理だとおもうけど、政治の大古典も読んでもらうか。Mウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」か「支配の諸類型」だ。これは解説書だけ読んでも良いぞ。そのほうがいいかな。
まあ賭けてもいい。絶対に読まないよお前は。
自分を変えて成長しようなんて批判精神とか持ってないから、今まで読んでないなら未来も読まない。お前のバカさはそういうところに出ている。お前が「日本人」に並べ立てた欠点、全部お前自身の欠点だから。自分では、俺より悪いやつがいてほんまにクソ、とか思ってるんだろうけど、お前レベルでも十分クソだしバカなんだ。
フェミニズムは、長い歴史を持つ社会運動であり、男女平等を目指す理念として多くの成果を挙げてきました。女性の参政権獲得や労働市場における機会均等、家庭内における役割の見直しなど、フェミニズムがもたらした変化は計り知れません。しかし、その限界についても議論が必要です。フェミニズムの限界を理解することは、より包括的で持続可能な社会変革を実現するために重要です。
第一に、フェミニズムはしばしば西洋中心的であるとの批判があります。欧米において発展したフェミニズムは、その歴史や文化的背景から見て西洋的な価値観を基盤にしていることが多いです。このため、グローバルな視点で見た際に、他の文化圏や社会に適応しにくい問題が生じます。例えば、アフリカや中東、アジアといった地域においては、西洋のフェミニズムが必ずしもその地域の文脈における女性の問題解決に直結しないことがあります。地域ごとの文化、経済、政治状況を考慮したアプローチが必要です。
第二に、フェミニズム運動には、しばしば包摂性や多様性の欠如が指摘されています。特に第一波や第二波のフェミニズム運動は、主に中産階級の白人女性を主体としており、他の人種、階級、性的指向や性自認を持つ人々の問題を十分に取り上げてこなかったと批判されることがあります。このような背景から生まれたインターセクショナリティの視点は、フェミニズムにおける限界を乗り越えるために重要です。一人の女性が持つ複数のアイデンティティが、どのようにしてその人の経験や差別のされ方に影響を与えるのかを理解することで、より包括的な運動が可能になります。
第三に、フェミニズムは時に男性排除的であると見なされがちです。一部のフェミニズム運動やその支持者が、男性を敵視するような言動を取ることもあり、それが誤解を生むことがあります。しかし、男女平等を達成するためには、男性との協働が欠かせません。男性もまたジェンダー規範によって苦しんでいるという現実を認識し、ジェンダーに関する問題を女性のみのものとして捉えるのではなく、社会全体の課題として取り組むことが求められます。
第四に、フェミニズムは経済的視点を十分に考慮していないことがあります。女性の経済的自立を支援することは重要ですが、資本主義経済の中での消費者としての役割を強調し過ぎると、逆に物質主義や消費主義を助長する可能性があります。また、経済的不均等は性別だけでなく、他の社会的な要因とも結びついています。フェミニズムが経済的不平等や環境問題とも連携しながら、持続可能な社会を目指す必要があります。
これらの限界に直面しているとはいえ、フェミニズムは依然として社会変革の重要な一翼を担っていることは間違いありません。限界を認識し、その上で進化し続けることがフェミニズム運動には求められています。多様な視点を取り入れ、包括的かつ協力的なアプローチを取ることで、フェミニズムは今後も社会の不平等を是正するための強力な手段であり続けるでしょう。
未来のフェミニズムは、ジェンダーの問題を超え、より広範な社会的正義を追求する動きへと発展する可能性があります。このような展望を持ち、変化に柔軟に対応することで、フェミニズムは新たな価値を創造し続けるでしょう。
グレッグ・ベア「鏖戦/凍月」。
室井光広「おどるでく」
エリザベス・キューブラー・ロス、デヴィッド・ケスラー「ライフ・レッスン」★★★
福永文夫「日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄」★
平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラール 「日本語・琉球諸語による 歴史比較言語学」★★
しみけん「SHIMIKEN’s BEST SEX 最高のセックス集中講義」
中野京子「怖い絵 泣く女篇」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 1」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 2」
1000decillion「Morals under a pagoda -Rome-」(同人誌)
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 3」
「カルダー:そよぐ、感じる、日本」於・麻布台ヒルズ ギャラリー
「夏の優品展 一味爽涼」於・五島美術館
ジェイムズ・ポスケット「科学文明の起源: 近代世界を生んだグローバルな科学の歴史」
大石力「英語の発音と綴り-なぜwalkがウォークで、workがワークなのか」★★
ビル・ブライソン「人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか」
鶴見香織 (著), 尾崎正明 (監修)「もっと知りたい東山魁夷 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
荒木健太郎「雲の中では何が起こっているのか」
小谷賢「日本インテリジェンス史-旧日本軍から公安、内調、NSCまで」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 4」
柊タイガー「よんこま十三機兵防衛圏!! こちらセクターX 3」
「感覚する構造 – 法隆寺から宇宙まで –」於・WHAT MUSEUM。
「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」於・国立西洋美術館。
塚﨑朝子「新薬に挑んだ日本人科学者たち 世界の患者を救った創薬の物語」★
保坂直紀「地球規模の気象学 大気の大循環から理解する新しい気象学」
古川武彦・大木勇人「図解 気象学入門 改訂版 原理からわかる 雲・雨・気温・風・天気図」
小川晶子「アート・ビギナーズ もっと知りたい竹久夢二 生涯と作品」
古川武彦、大木勇人「図解・天気予報入門 ゲリラ豪雨や巨大台風をどう予測するのか」
老川慶喜「日本鉄道史 幕末・明治篇 蒸気車模型から鉄道国有化まで」★★
肋骨凹介「宙に参る」一巻~四巻
「丸沼芸術の森所蔵 アンドリュー・ワイエス展 ―追憶のオルソン・ハウス」於・アサヒグループ大山崎山荘美術館。
山本紀夫、稲村哲也・編集「ヒマラヤの環境誌 山岳地域の自然とシェルパの世界」★★★。
坪木和久「激甚気象はなぜ起こる」
老川慶喜「日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 日露戦争後から敗戦まで」
羽田正 「増補 モスクが語るイスラム史: 建築と政治権力」★★
老川慶喜「日本鉄道史 昭和戦後・平成篇 国鉄の誕生からJR7社体制へ」
細田亜津子「雲の上の哲学者たち - トラジャ族が語りかけるもの」
小和田哲男「戦国武将の手紙を読む: 浮かびあがる人間模様」★
「異常気象と気候変動についてわかっていることいないこと (BERET SCIENCE) 」
1000decillion「Morals under a pagoda -China-」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda -Medieval Europe-」(同人誌)
挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」於・国立博物館
桝屋友子「すぐわかるイスラームの美術 建築・写本芸術・工芸」
ニック・カルーソ、ダニー・ラバイオッティ「動物学者による世界初の生き物屁事典 ヘビってオナラするの?」
1000decillion「Morals under a pagoda -Islam- イスラム」(同人誌)
「平安文学、いとをかし 国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」於・静嘉堂文庫美術館
朝倉文夫没後60年特別展「ワンダフル猫ライフ 朝倉文夫と猫、ときどき犬」於・朝倉彫塑館
「建築知識24年7月号 新石器・古代王朝から清朝まで 中国の建物と街並み詳説絵巻」
山崎晴雄、久保純子「日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語」(再読)。
山本高穂、大野智「東洋医学はなぜ効くのか ツボ・鍼灸・漢方薬、西洋医学で見る驚きのメカニズム」★★
藤岡換太郎「三つの石で地球がわかる 岩石がひもとくこの星のなりたち」
溝口優司「[新装版]アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」
藤岡換太郎「フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体」
黒田泰三「もっと知りたい長谷川等伯 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 5」
いがらしみきお「ぼのぼの人生相談 ひととくらべちゃダメなのさ」
特別展「文永の役750年 Part2 絵詞に探るモンゴル襲来―『蒙古襲来絵詞』の世界―」於・國學院大学博物館
良い一年だった。
才覚でナチスと共産主義の嵐を生きぬいた給仕のお話。経験から相手の本質を見抜き、最高のサービスをする、ってのは序盤だけで、あとは東欧諸国の悲惨な歴史の中で話が進む……はずなんだが、文章全体にユーモアが漂っていて、ナチス政権下でも結構いい思いをしていて、「歴史をこんな風に扱っていいのか?」とその大胆さに驚かされる。当事者だからいいのか? いや、そんなことはないのか? 最近は意外なことで炎上したり叩かれたりするので何もわからん(なんか、アジア人のふりをして小説を書いたらバズって、そのままアジア人のふりをする羽目になる、みたいなキャンセルカルチャーをネタにしたアメリカの風刺文学があった気がするんだが、思い出せない。キーワードで検索しても新しい価値観についていけないで炎上しちゃう六十代教授の出てくるアベル・カンタン「エタンプの預言者」という別の文学しか出てこない。で、pretending to be an Asianでググってやっと見つけた。R. F. KuangのYellowface」。洋書だった。たぶんどっかの文芸評論家が紹介してたんだろう)。
関係ないけど、ナチスが優秀な子孫を作るための女性たちのためのキャンプ、ヌーディストの楽園のような外見を持っていながら(いや、記憶違いかも)発想がそもそも家畜改良みたいで、恐ろしすぎて「これは露悪的なSFか?」ってなる。しかし、殺戮こそしていないものの、今では人権意識の高いとされる北欧諸国でも、かつては平気で障害者や異民族の断種が行われていたのだ。Whataboutismは建設的議論にとっては有害だが、人間の原始的感情に訴えかける強い説得力を持つ。「確かに俺も悪かったけど、お前にだけは言われたくねえよ」的なね。結局、政治は感情で動く。
話を戻せば、この作品は映画にもなっているらしい。というか、このエントリ全体で映像化された作品が結構あるらしいのだが、全然見ていない。
ポーランドとアフリカって接点があると普段はほとんど考えないのだけれど、きわめてよいルポタージュ。こうして独立してから何十年経つのに、アフリカ諸国とひとくくりにされがちな国々の個性を伝えてくれる。
しかし、出来事は基本的に救いがない。人類史の多くは悲惨の連続だが、アフリカで起きたことは桁の振れ幅が一つ違う。世界経済システムとの不幸すぎる出会いから五百年余り、まだ立ち直れていない大陸という印象を持った。とはいえ、暗澹たるルポタージュと言うわけでもなく、人々が村の中心の樹々に集まって生活するところや、市場の活気などは生命力にあふれ、まるでそこで暮らす人々の顔が浮かぶようだ。破綻した国家の状態は目を覆うようだが、そこから復興して何とかやっている人々の姿もある。……と、当時の日記に書いてあった。
ところで、ヘミングウェイはよくアフリカに狩猟に出掛けているけれども、それは所詮旅行者の目で、上っ面でしかないと批判しているのがこの本だった。そう思っていたのだが、日記を読み返すとそれはポール・セロー「ダーク・スター・サファリ」だった。著者はマラウイとウガンダで教鞭をとっていただけあって、アフリカに対して遠慮が無く極めて率直だ。時として情のこもった叱責や、人々へのまっすぐな好意も出る。きれいごとのないアフリカを知りたい人にオススメ。
遅延する電車、かつての豊かな文化と個性を失い広大なスラムと化したそれぞれの国の首都、高い失業率、飢餓、地元民のやる気を削ぐ支援、窃盗や強盗と犯人へのリンチ、放置されて本が残っていない図書館。親切な人や旧友もたくさん出てくるがいささか気が滅入ってくる。……と、当時の日記に書いてあった。
今はスマホも普及していてアフリカの様子も少なくとも都市部では大分違うと思う。ただし高野秀行は今でも地方の市場では窃盗が起きると犯人がリンチされると書いていた。
沈没事故で船を見捨てた船員が、延々と続く良心の呵責に苦しみもがいて生きる話だったはず。
試練に敗れ、卑怯者のレッテルを貼られた人物の独白を、別の語り手を通じて聞くという不思議な構成だけれど、緊迫感が良い。最後には西欧世界の手の届かないところに引っ込んでしまうんだけれど、これって著者の中で「闇の奥」をどのように発展させてここに至ったのだろう。「闇の奥」の内容をあまり覚えていないので困る。語り手が「闇の奥」と同一人物だと全然気づかなかった。やはり覚えていないのは心細い。これは、たとえ敵意ある世界から逃れても……、的な話なのだろうか。……と、日記に書いてあった。「黒檀」と違い、こちらは日記を読み返しても当時の気持ちはほとんどよみがえってこなかった。
この全集では最重要作品かもしれないのだが、実はこの作品だけ読めていない(だからこのエントリのタイトルは「理系が池澤夏樹の世界文学全集を全部読んだから五段階評価する」ではない)。何かで水俣病患者が苦しみながら「これを垂れ流した企業の連中にメチル水銀の汚染水を飲んでもらいたい」と心の底から呪っていたというのを読み、これほどの憎悪を自分の中に受け止めるだけのエネルギーが無いと感じたためだ。もしかしたら社員だけでなく、その家族にも呪詛を向けていたかもしれない。記憶にない。あるいは、これはどこにも書いていないのだが、本当はこうして水俣病にかからなかった全ての人に向いていたのかも。
こういうことを言うと結局自国中心主義なのかと言われるかもしれないが、それをはっきりと自覚したのが石黒達昌「或る一日」を読んだ時だ(伴名練が編集した短編集がある)。戦争か事故かはわからないが、強烈な放射能汚染で次々に子どもが死んでいく話で、読んでいて相当しんどかったのだが、特にきつかったのは名前が「美優」とか「翔」みたいに死んでいくのが現代の日本の子どもの(それとも自分と同世代の人間の?)名前だった点だ。おそらく「亀吉」や「トメ子」だともっと冷静に読めただろうし、「サッダーム」とか「ウルスラ」とかだったらかなり距離ができる。
僕がこうして世界文学を読めていたのも、他人の苦しみが言語と文化の壁によって希釈できているからでは、という疑念を僕に抱かせるに至った。
今にして振り返れば錚々たる作家ばかりだし、気に入った作家の(あるいは、ドナルド・バーセルミみたいによくわからなかった作家の)短編集を借りて読んだりもした(バーセルミは結局全然わからなかった)。一方で、後になって適当に手に取った本の作者だったと後で気づくこともあった。当たりはずれがあるのがアンソロジーの楽しみである。
フリオ・コルタサル「南部高速道路」は東日本大震災の際に、災害時にできるコミュニティに関連して話題になったが、震災を知らない世代にも刺さる普遍性があるコルタサルの作品の中で一番面白いものの一つ。金達寿「朴達の裁判」は前提となる知識をほとんど知らずに読んだのだが、したたかに生きる庶民の話で、吉四六ばなしとひがみ根性のない「阿Q正伝」を足して割らない印象を受けた。官憲に殴られて卑屈に笑ってみせても、決してへこたれることのない強さがある。アリステア・マクラウド「冬の犬」は悲しいけどいい。この人の作品は何を読んでもカナダ東部の寒さが伝わってくる。新潮クレスト・ブックスで出ているので是非読んでほしい。レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」はわざとらしいが嫌いじゃない。村上春樹訳だ。最近の村上春樹は一つの権威になっちゃってとうとう早稲田の名誉博士にまでなって、「俺たちの反体制な村上はどこに行っちまったんだ」みたいな気持ちになるが、翻訳は好きで、いまだに村上訳の本をたまに手に取る。それに、村上春樹の小説は男性中心的でときどきレイモンド・チャンドラーみたいにマッチョだとはいえ、「メンヘラ」という言葉が広まるはるか前にもかかわらず、メンタルの病気で苦しむ人の描写の解像度が、身近にたくさんいたんじゃないかってくらい極めて高い。彼の最大の美点だ。もっとも、今では精神を病んだ当事者の文学が出てきたので、「じゃあ当事者が書いた作品を超えるにはどうしたらいい?」ってのが次の文学の課題だ。ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」は、フランスに移住したアラブ系の青年が、男にとって都合のいい女がどれほど魅力的かを語ってくる叔母の幻影に悩まされる話で(たとえば恋する女性がもう処女じゃないことに苦しむと、脳内の叔母が「かわいくて素直で恥じらいのある処女を紹介するよ」と延々と語る)、あまりに男の欲望むき出し、即物的で笑っちゃうところもあるんだけれど、その都合のいい幻を切って捨てることもできないあたりがリアルで生々しい。男性向け・女性向けのポルノをのぞき見ると、みんな都合のいいことばっかり望んでるよね(だがそれがいい)。
余談だが、自分は恋人の嫉妬深いので恋愛経験はあまり多くない方が好みだが、フォークナーを勧めてくれた友人は、むしろ経験が豊富なほうが面倒くさくなくていいと熱く語っていた。このあたりは好みの問題だ。
閑話休題、しかしこの叔母が独身だってのがミソで、「女の幸せは結婚だ」という社会の独身女性は、こうやって世話焼きおばちゃん的な立場でサバイブしてきたのだ、という指摘をどこかで読んだ。
目取真俊「面影と連れて」は一番面白かった。自分の中では生涯読んだ短編の中の上位十位に入っている。ウチナーグチの語りなのだけれど、ひたすらいじめられ続けて、抵抗もできずにいる女性が、皇太子暗殺事件の犯人と関係して不幸になって、そのまま死んでいくという虚無の話なのだけれど、心が深く動かされる。世間ではタフになれとか戦って抗えとか言うけれど、抵抗するすべを知らず、その体力も能力もなく抵抗できずにそのままの人だってたくさんいる。弱い人間が弱いまま幸せに生きて死んで行けるようになってほしい。
前項は南北アメリカ・アジア・アフリカが中心だったが、こちらはヨーロッパの作品が中心。こちらの巻はやや印象が薄い。
記憶に残っているのはサルマン・ラシュディ(ルシュディ)「無料のラジオ」で、人口対策で断種されてラジオをもらった男の話。どうもラシュディはこの政策に反対だったらしく、「真夜中の子供たち」でも断種・不妊手術を極めて否定的な舞台装置として扱っているし、実行したインディラ・ガンディーを始め、権力を持った女性に対してうっすらとした嫌悪を持っている気がする。「真夜中の子供たち」でもアパートの管理人の意地悪な姉妹とか出てきたし。
あとはミシェル・ウエルベック「ランサローテ」だけれど、ウエルベックはどの作品も人権意識の高まりをはじめとした社会の変化について行けない中年男性の悲哀と愚痴が基本にあって、どれを読んでも感想が大体一緒になる。前にも書いたが要約すると「俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかったし、処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ!」「こうなったのもぜーんぶヨーロッパ文明の進歩に見せかけた自滅のせいだ! みんなカルトに狂って不幸になっちまえ!」「人類は所詮性本能には抗えないサル並みの動物なので、あらゆる不幸はポストヒューマンに進化しないと解決しないんだよ! アヒヒヒヒ!」。これはひどい。もっとも、こういう反動的に見える作品にも賞をあげちゃうフランス文壇の度量の広さはすごいけどね。もしかしたら「セロトニン」はそこから一歩進んだかもしれないが読むのがめんどくさいし、これまた自分にとって輝きを(こんなものを読んでわざわざ憂鬱になりたいという暗黒の吸引力を?)失った作家だ。ウェルベックは悪くない。変わってしまったのは僕だ。
ところで、最後まで読んでみて見て思うのだけれど、このシリーズって表紙に毎回鳥が銀色で印刷されているんだけれど、これってすべてポーズが違うんだろうか。重複したりしていない?
以上。
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余談だけど日本文学全集は第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」だけ読んだ。長いがめっちゃ面白い。
岡田利規「能・狂言」の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「荷六駄」の「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが(たぶん「太郎冠者、あるか」「御前に」あたりが原文だと思う)、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。現代語訳したのが演劇の人なので、声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
同時に収録されている狂言には視覚障害者をおちょくるとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、ただの弱者ではない。だから、近江絵みたいに風刺の対象ともなっているんだろうか。
おしまい。
アメリカの少年がヨーロッパに留学に行くんだけれど、ママと仲良しで、自分の行動原理をカントの定言命法から導き出そうとしていて(すごく不正確に表現しちゃうと「普遍的な道徳に一致するように行動しろ」っていうあれ)、政治的に正しくいようとしていて、頭でっかちで、マッチョで荒っぽいことができないところにシンパシーを感じる。あんまりモテそうじゃないしね。モテる主人公の話を読んで一体何が面白いというのか。あっはっは。
しかし、読後感がいいのは、やっぱり誠実だからだ。たとえば、アパートの家主がホームレスを追い出すときに「連中は寒さを感じないんだ」と言いつつも、「こいつらはあたたかいところに寄ってくる」とも言い、そういう矛盾というか二重思考にさっと気づくところがいい。
ピーターが思うに、最悪なのは、人々がこの世の現状に合わせて詭弁を弄することだった。たとえここの管理人のように、不運な人間を追い出すしか方法がない、世の中とはそういうものだと考えるにしても、それくらいでやめておくということができない。彼らは語らないと気がすまないのだ。たとえば、マダム・プエルは酔っぱらっているクロシャール(引用者註:浮浪者)は寒さを感じないのだと言って自分を納得させていた。「あの人たちは何も感じないの。あなたや私とは違うんです」彼女は本気でそれは科学的に証明されている事実だと思っているらしい。しかし、彼らが寒さを感じないなら、どうしてここのエレベーターや玄関ホールに潜り込んでくるのか。その二つの事実を結びつけようとは思いもしないようだった。
ところで、実はこういう真っ直ぐな少年少女が現実に屈して理想を捨てたり変節したりするお話がすごく好みだったりする。真っ直ぐな青年が悪意に勝てずに差別主義者になってしまうとかも含めてね。あとは、エリート候補が挫折したりトップの座を失ったり夢を諦めたりするのも好きだった。進学校に行ったのに退学してしまうヘッセ「車輪の下」とかル・グイン「ゲド戦記 影との戦い」でゲドが影を呼び出してしまってしばらくは闊達に才能を伸ばせなくなる場面とか、アナキン・スカイウォーカーがダースベーダーへと堕ちる「スターウォーズ」のエピソード1~3とか。
そういうわけで、新海アニメの感傷マゾアニメ「秒速5センチメートル」の少年が、ラストでどういう経緯でああいう疲れた大人になってしまったのかを空想するのが好きだった時期がある。「童貞卒業は風俗だったのかな?」とか考えたりね(マジ最低!)。とはいえ「結局お前モテてんじゃん! あの子の好意に気づいてんだろ!」とも思っていたので、こう考えてしまうのもすべて個人的な怨念であろう。今となっては恥ずかしすぎる。
まずこの小説の舞台がよくわからない。密林があると言いながらトゥアレグの隊商がやってくるので、アフリカの西なのか東なのかとんと見当がつかない。日記を読み返したところ、アフリカの独裁者の視点を通じて、アメリカ人の平均的な姿や人種間対立を風刺しているらしいのだが、「別に詳しくないのにアフリカ人以外が架空のアフリカを書くってどうなの」って疑問を当時の僕は日記に書いていた(たぶんアチェベを読んだ後だからそう思ったんだろう)。それに特に必然性もなく素っ裸で暮らす少女が出てくるし、あれはいったい何だったんだ。一応、独裁者の出身の民族の伝統的な暮らしを、宮殿の中でしているという体裁ではあるが……。
独裁者ものではやっぱりアメリカを風刺した側面のあるガルシア=マルケスの「族長の秋」のほうががオススメ。今度新潮文庫で出るしね。
アップダイクは「ケンタウロス」のほうがピンときた。「ノルウェイの森」で主人公ワタナベトオルが一時期ハマっていた小説だ。これも古典のパロディというか、アメリカのしがない高校教師の生活と、ギリシア神話の神々を二重写しにしたもので、例えば体育教師とその浮気相手はアレスとアフロディテ、厳格な校長はゼウス、たまたますれ違う酔っ払いのホームレスはヘルメスと、卑小な現実とそれを再解釈する神話の無駄な壮大さ、あるいは逆に神話を卑小化する面白さがあった(どうでもいいんだが、神々がギリシア名なのにアフロディテだけ英語名のヴィーナスと翻訳する美術書を見ると、定訳なのかもしれないが、イタリア関連の文献でヴェネツィアをベニスと表記されたような、釈然としなさを感じる)。
僕は知的な作品というか、浮世絵と加歌舞伎である見立てみたいに、知っていること前提で楽しむものに心ひかれる。原作を知っている映画のほうが好きなのもそれが理由だろうな。この素材で俺をどう楽しませてくれる? みたいな。
その点「ユリシーズ」も楽しめた。ただし、以前に必読書コピペにマジレスしてから大分経つが、結局まだ「フィネガンズ・ウェイク」を読んでいない。ああいうのは気合がいる。
ダニロ・キシュ「庭、灰」はあまり記憶に残らなかった作品、その二。読んだ記憶があるのだが、デジタル化した二〇一〇年以降の日記を読み返しても読んだ記録がない。ここまで書いてきてなんだが、実は読んでいないのかもしれない。今度図書館で中身をきちんと確かめてみるつもりだ。
イタロ・カルヴィーノ「見えない都市」は飛ばした。というのも、過去に文庫で読んだからだ。こちらかは架空の都市の伝説を、マルコ・ポーロがクビライ・カンに語る体裁で、僕は幻想的なホラ話が好きなのである。ギョルゲ・ササルマン「方形の円 偽説・都市生成論」もいいぞ。最近文庫化されたし。
同じ著者ではこれ以外にも「冬の夜ひとりの旅人が」というメタフィクション幻想譚もいいし、人間が物理的に切断されてそれぞれ善悪両極端な人格になる「まっぷたつの子爵」、地上に降りず木を伝って暮らしている「木のぼり男爵」(今にして思えば荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」に鉄塔で暮らすキャラいたな)、鎧の中が空っぽな「不在の騎士」と、児童文学っぽいのもいい。結構読んでいる。
全然関係ないけど、友人と雑談したときにガルシア=マルケスの長編を半分くらい読んだと話したら、「全然読んでないじゃん」って煽られたので笑ってしまった。彼は全部読まないと読んだうちに数えないらしい。「じゃあ何人の作家を読んだんことになるんだ」と言い返して僕は笑った。一応長編を大体読んだのは夏目漱石とドストエフスキー、トルストイくらいか? 中島敦は手帳のメモ書きまで記載した全集を読んだ。何度も言うが一生のうち一人の作家しか読めなくなるなら中島敦を選ぶ。ちなみにブローティガンを勧めてくれたのは彼だ。
続く。