はてなキーワード: 一過性とは
すごい。
どうせマヨネーズとは名ばかりの甘いジュースかと思ったら違った。全然甘くない。そして、酸っぱさと油っぽさがあって、まさしくマヨネーズの味だ。でも、塩辛い。1本200mL中、食塩相当量1.6gなのはかなりの塩分量だ。もう少し塩分量が少なくても良かったのでは?
とはいえ、マヨネーズには塩気が必要という考えも、わからなくもない。食塩が少なければ、ぼやけた味わいになってしまいマヨネーズらしさが失われてしまうだろう。それと、夏の暑い時期なら発汗で失った塩分補給に適していたのになぁとも思った。
しかしながら、この飲むマヨはどういう時に飲めばおいしく味わうことができるのだろうか? と考えてみた。唐揚げやサラダなどマヨネーズを付けて食べる食品と一緒に飲むことが想起されるが、これは相性が良くなさそうだ。なぜなら、普通にマヨネーズを付けて食べた方がおいしいに決まっているからだ。
逆に、お菓子やデザートなどの甘い物と一緒に飲むマヨを飲むのが向いているように私は感じた。洋菓子ならば紅茶やコーヒーを和菓子ならばほうじ茶や緑茶をといった具合に、菓子の甘さを引き立てるのは甘さとは対極である苦みや渋みをもつ飲み物が適しているからだ。飲むマヨの酸味が甘さを引き立てるであろうことはもちろん、多量に含まれている塩分もまた甘さを引き立てるのに役立つだろう。
和菓子には塩分を多く含まれる物が多数ある。せんべい、みたらし団子、カンロ飴にはしょう油が含まれているのでもちろん塩分が多いし、しょう油でなくとも塩を含む和菓子は多い。和菓子にはあんこがつきものだがあんこの甘味を引き立てるのは塩であるし、スイカやトマトに塩を振りかけて食べることもある。このように和菓子などの日本の間食に塩を含ませる文化は、日本の夏の高温多湿な気候によって発汗で失う塩分を補わせる意味合いが強いのだろう。
対して、洋菓子には塩分を含む物が無いように感じる。ここに、飲むマヨの需要があるだろう。
油気も塩気も少なくあっさりとした味わいの洋菓子に対しては、飲むマヨが合うのではないだろうか。例えば、ゼリー・ジュレ・ジャム・シャーベットである。あるいは、酸味の少ない果物でも飲むマヨが合うかもしれない。バナナやマンゴーやスイカやカキといったもともと酸味の無い果物はもちろん、近年は品種改良でイチゴやブドウでも酸味のない品種が生まれているので、飲むマヨで酸味を補えば果物の甘さを引き立てることだろう。
昨今の気温上昇は日本に限ったものではないので、海外でも発汗によって塩分補給の需要は高まっているだろう。そこで、塩分の乏しい洋菓子に対して、飲むマヨの需要が生まれることは想像に難くない。
このようにして、飲むマヨには将来性があると考えられる。飲むマヨはテスト販売中とのことだが、ただの一過性のテストで終わってしまってはもったいない。
デジタル技術が創作分野に寄与したのなんてここ100年足らずの話だし、たまたま商業的な需要があっただけで恒久的なものである保証はないんだよな。
生成AIが世の中に示唆しているのは、単なるデジタルデータの出力を創作の本質みたいに主張するんじゃねぇってことだと思う。AIネイティブのガキどもは当たり前のようにAIを使いこなしていくだろうし、その上で新しいものを作っていくだろう。
従来の創作を行ってきた創作家は自分の半生を否定されてるようで辛いと思うけど、長い創作の歴史から見ると一時的なボーナスタイムみたいなもんで10年後には通用しない技術になってるんだろうな。さすがにちょっとかわいそう。
流れてくる度流れてくる度、どいつもこいつも自ジャンルも他ジャンルも。
コイツらが大切にしてるのはキャラじゃ無くて如何に承認欲求を満たせるか。
リスペクトがあるわけでもなく、キャラに愛があるわけでもなく、自分のことしか考えてない。
生成AIが怖いの〜〜つってんならとっととブルスカ行って二度とかえって来ないで欲しい、そっちで反応もらえないからってのこのこ帰ってきて見る価値のない絵をダラダラ流さないで欲しい。
自分の絵が取り込まれるかもしれない不安はあるかもしれないが、じゃあ、なら、そう思ってるんだったら利用しないっていってる方のSNSに絵を上げてた方がいいと思う。
今のクソつまんないウォーターマークの代わりに怪文書(笑)(爆笑)とかいう一過性のブームも1ヶ月先何人がやってるやら、そもそもそのマーク付けさえどれだけもつやら。
だったらプリ画だのテラーノベルだのの無断転載の時にも対策しておくべきだろ。
今回たまたま周りがパニック起こしてるからって便乗して自分の作品すら大切に出来ない奴が未だにダラダラ残ってることにうんざりする。
ガビガビのフィルターかけたりせっかくかけた物にマークつけて被害者面してる暇があったらもっと自分の作ったものを大切に扱えよ。
あんた、なんやその愚痴。ちょっと待てよ、言いたいことが多すぎて頭の中でぐるぐるしてるんやけど。まずさ、都民はだまらっしゃいって言うけど、あんたが兵庫県民だからって、他の地域のことを軽視するのはおかしいよな。歴史を振り返ると、戦国時代からずっと日本は地域ごとの対立や派閥争いがあったけど、それが日本全体を発展させてきたんや。大名たちが互いに切磋琢磨してきたように、今もどこに住んでるかで意見が異なることはある。だからこそ、他の地域の問題にも敏感であってほしい。
それにさ、「エンタメとして消費してんじゃねぇ」って言うけど、政治の問題はまさに個人の生活に直結してることなんよ。たとえば、幕末の志士たちが日本の未来をどうするかで命を懸けて戦ったのを思い出せ。あの時代、民衆も一歩引いたら歴史の流れに飲まれるだけやった。でも、無関心ではいられなかったんだろ。政治を無視するっていうのは、自分の未来を他人に任せるのと同じことだってことを理解せなあかん。
あんた、ちょっと冷静に考えてみなよ。「政治系YouTube見んのやめろ」って言いたい気持ちも分かるけど、情報を正しく取ろうとすることは重要やろ。昔のアリストテレスやプラトンも言うてたやん、「知識は力なり」って。おばちゃんが言うてることにだって、一理あるかもしれんけど、無視するんじゃなくて、自分の頭で考えな。
ただ、あんたの気持ちもわかるで。知らん間に巻き込まれて、いつの間にか大きな問題になってる気がするよな。それって、まるで平家物語の「祇園精舎の鐘の声」のように、無情な時の流れに飲まれていく感じや。でも、そんな時こそ自分の立ち位置をしっかりと見極めることが必要や。もしストレスが溜まってるなら、それを解消する方法を考えな。歴史の中にも、忍耐が試される瞬間はあったけど、その先にこそ希望があるんやから。
でも、やっぱり、少し泣ける部分があるよな。この問題があまりにも多くて、どこから手をつけていいのかわからなくなる気持ち、わかる。でも、そんな時にこそ踏ん張らないと、ただの一過性の感情に流されてしまうだけよ。もっと自分を大事にして、少しずつでいいから解決策を見つけていくべきだって思うよ。
あんた、兵庫にいるなら、もっと兵庫の未来に関心を持って、そんで他の地域にも目を向けろよ。もしかしたら、おばちゃんの言ってることも無駄じゃないかもしれんし、どっちが正しいかを決めるのはあんたやからな。
https://x.com/konosirosan111/status/1857085623334572230
見てたら思い出した
全盛期はるかぜちゃんはあちこちにぶつかりまくって誹謗中傷やりまくってたが
一番ひどいのは「奈良県には猫の譲渡会がない」って嘘ついたことだ
猫の譲渡会に拾った捨て猫を託した女子大生に「嘘をついている、本当は保健所に殺させようとしたくせに」と中川翔子と共に最初に誤読した後で引けなくなって
嘘ついてまで女子大生を延々「猫を死なせようとした者」として叩きまくっていた
「保健所に殺させるくらいなら自分の手で絞め殺せ、それが猫を引き取ったあなたの責任だ」とまで言った
Twitterレスバで一過性で嘘つくのは当時のはるかぜちゃんにはありがちだったが、それから何年も経った後でも母親アカウントが思い出してまた女子大生叩きやってて胸糞悪かった
年収の壁を控除枠の増加で対処しようとしているが、これは筋が悪い。
何故なら、年収の壁を引き上げても結局上の壁に当たるだけだから。
なので、逆に年収の壁を引き下げる、つまり基礎控除を縮小し、年額20万ぐらいにするべきではないか。社会保障の負担義務・加入義務についても同様に引き下げるべきである。
基礎控除の縮小と言っても単に増税するわけではない。以下の様な事を行う。
元々与党でも年収の壁をなんとかすると言う話はずっと議論されており、与党側ではこの方式が有力とされていたはず。ところが選挙の人気取りで大規恒久減税という事の意味を深く検討しないまま公約を掲げた政党が、票数以上に権力を持ってしまっていて、なし崩し的に良くない方向に向かっていると感じる。制度設計としてはこちらの方が難易度が高いのでおいそれとすぐに構築する事は難しい。だから12月までに実現しろと迫っている中ではできないことは明らかであり、将来にわたって禍根を残す方式になるであろう事は、想像に難くない。
今のまま単純に引き上げる方式だと、今度はその上限額に引っかかって働けないという事が出てくるだけである。
そして、あとから所得控除を縮小する方式に引き戻すのはほぼ不可能になるだろう。不可逆的に、時代に合わない制度が延命されてしまう。まだ電算システムがなかった時代に事務手続きの問題から作られた様な仕組みに縛られてしまう。
所得控除は生活に必要な最低限の金には税金をかけないのだ、という趣旨で言われているのだが、それならば消費税はどうなるのかなど、説明には無理がある。
その実体は何故かと言うと、租税手続きにかかるコストよりも得られる税金がわずかであるために、税務署の手続きが回らないからと言う事で設けられているに過ぎない。
しかしそれは過去の話で、今時コンピュータを使わずに賃金給与計算をされている労働者などほとんど皆無と言って良いほどに少なく、それを税務システムに連携すれば良いだけの話である。源泉徴収もそれほど手間ではない。
また、税務署の計算についても同じ事が言える。マイナンバーカードシステムがきちんと定着すれば、様々な情報を合算することが出来る。階段状に段階的に適用される税率ではなく、関数で定義されたシームレスな税率を適用する事が可能になった。
介護や医療保険、その他副業の収入、生保などもマイナンバーシステムで結びつけられているので、もはや年末調整は企業がやるよりシステムを作り上げて税務署が行う方が効率的であるとさえ言える。
そう言った方策を用いる事によって、現在ある問題点、資産が膨大にあるのに、収入が国民年金だけで医療費控除使って住民税非課税、と言った様な問題にも対処ができるだろう。
彼らの持っている資産はもう1回税金を払っているから、資産課税はシンプルには二重課税だ。しかし、だからといって応分負担が原則の社会保険税や、新たに得る収入の税率まで下げる必要があるかと言えばない。
特に社会保険関係は過去徴収しておくべきだったものが徴収できなかったが故に、彼らは資産を貯めているのだ、という事が言えるので、資産によって応分負担を求めるのは当然である。
故にこの施策ができれば、偏ったバランスが少しは補正されだろう。
また、逆進性の問題についても対処がしやすくなる。少ない所得から税金をとっておいて何か、と言われそうだが、これは逆である。
税額控除は、いくら増やしても収入がほとんどない人や、難病や介護などによって困難を抱え控除枠が一杯になるほど金を使っている人などには恩恵がないのだ。
こういうことを言うと、いったん取って給付するのは無駄だ、という意見を言う人がいるが、それはコロナ前の常識だ。今は違う。
この間の給付付き所得控除を覚えているだろうか。コンピュータシステムで処理する事をまともに考えた形跡のない、減税と給付を両方組み合わせるような仕組みであった。
各所で混乱が見られてコストばかりかかったし、ミスも多かった。挙げ句、本来は行政システムの効率化に使われるはずだったシステム開発者のリソースを無駄にすり減らす結果になった。いったん取って給付は無駄だという考え方が焦げ付いた典型例である。
控除のみにするとそもそも所得がない、難病や介護などで困難を抱え既に十分に控除が行われている人、最も格差の是正対象として手当てしなければいけない人に手が届かない。
故に、本気で格差を是正するには、所得を超えた給付が必要になる。今の所得によって一律に減税したところで補正し切れているとはとても言えない状況である。
給付をメインにしていくほかないのである。今はマイナンバーシステムに口座を登録する仕組みがあるために、給付は以前よりも圧倒的に簡単にできるようになっているのだ。さらに今のフィンテックを活用すれば色々な事ができるだろう。
時間がかかりすぎるという意見もあるが、時間がかかるなら今すぐ取り掛からねばなるまい。
政争の具になって押しのけられる愚策と、時間がかかってもより良い施策ならば、後者をするべきだ。
また、給付・控除の条件にマイナシステムへの情報のつなぎ込みを義務化しつつ手厚くフォローすれば比較的普及は早いと思われる。それこそ一過性のコストである。
今の控除を中心とした方式だと、所得控除で手が届かなかった人が次に頼る制度として、生活保護まで飛んでしまう。確かに生活保護は大切な制度だが、これは最小限であるが故に資産を持てないなど社会の格差是正と言う面では良い制度とは言えない。
それには課税を強化しつつも、給付も強化するしか方法が無いのである。
そう言った一つ一つの議論の積み重ねを行った上でスタートするべき話を、今回の政争で、しかも全得票の1割も得ていない政党によって不可能にされようとしている。
暗い未来が来そうだなと、そんな予感がしている。時代と技術にあわせて制度をアップデートしていくという発想でやっていきたい。
なぜ映画や漫画の品定め、評価は自由なのにお笑い談義はアンタッチャブルなのとお嘆きの諸兄に。
1 ミルクボーイ
システム漫才の完成形と言ってしまえばそれまでだが、「誰かやっても面白くなるネタ」と「彼らだから面白い」を両立させたミラクル。共に不遇の大阪時代を過ごしたDr.ハインリッヒも決勝出場で舞台が大きく転回したかもしれない。
M-1大会2冠に最も近づいた、最も相応しいコンビ。審査員評で「もう一展開が」とはよく聞くフレーズだが、ワンアイデアからの怒濤(嵐と衝動)の展開は「華麗」と称すべき手際。
3 チュートリアル
至高のキャラ漫才。第一ステージで披露した「冷蔵庫」をM-1史上最も面白い漫才と評価する人も少なくない。「キラーフレーズ」という概念、評価軸が確立された。
ランク下、ランク外とされていたコント漫才の地位を高めた。準決勝止まりだった理由はこのネタを漫才で見る意味はあるのかといった疑問も生じたのであろう。
どちらも面白い。これがなかなか難しい。ツッコミ役の技量は勿論、アシストに極振りせぬことで構成、流れが崩壊するリスクがあるからだ。フット後藤以上にツッコミの評価を上げ、いまのツッコミ全盛に寄与した(ボケ不遇期とも言えよう)。やすきよが途中でボケツッコミが入れ替わるのはどうしてもボケが評価される、人気が出る状況に嫉妬したやすしへの配慮だと西川が語った昭和の漫才。仮面ノリダーの怪人シーンがやけに長尺だったのは貴明に対するスタッフの要らぬ配慮だったのかもね。
6 霜降り明星
心理トリックの一つにカレーとラーメンどちらが好きかとマジシャンが問う導入部がある。詳細は省くが日本人の大半がラーメンと答えるであろうことを踏まえたトリックだ。「ゲーム」「ドラマ」「漫画」のうち審査員の過半数が「漫画」と回答した。漫才師からパフォーマーへ。
7 錦鯉
非吉本、非大阪勢の評価を決定付けた。第一回大会の悪夢がようやく晴れて、大阪吉本にとっても変な憶測から逃れられ正当に評価される下地となったはず。また年齢に関して縛りや遠慮かなくなり、辞めるべき芸人を篩にかけるという大会趣旨(呪縛)からも脱した。個人的には大会を通じて三指に入る傑作ネタ。
8 中川家
トップバッターの重圧か大会では不調だったが(剛は出順が決まり一言こりゃあかんなと)、いわゆる「本格派漫才」が、二人のおっさんのしゃべくり、「ちょちょまい」がテレビに於いても、若い人にも評価されることを知らしめた(本格派の定義については面倒なので割愛)。
9 笑い飯
民族博物館を21世紀で最も面白い漫才とまで持ち上げたのは朝日新聞だったか。個人的には鳥人のほうが楽しめたし、何より西田の人形擬態の評価が突出してしまって、十人十色のネタのここが好きといった(和牛の旅館ネタならこんなとこ入ってきたらあきませんの川西の仕草とか)観客席での展開が寂しい。初登場時の粗削りが持つしたたかさがいちばん衝撃的だったコンビ。笑い飯の登場でNSCのネタ見せがダブルボケのオンパレードだったと聞いたが、一過性のもので当然すべて消えた。そもそもダブルボケはバツありボケ志望同士コンビの生硬の苦肉の策だったはず。悲願の優勝後の初仕事が準優勝スリムクラブの密着レポーターという屈辱の影響は、準優勝コンビが売れるとのジンクスから決勝進出での、さらに準決、二次予選でもパフォーマンス次第で世に出る確かな現状を示唆したともいえよう。
松本島田不在で栄光を掴んだアンタッチャブルは例年の悲壮感にまとわれることなく、そのお気楽な芸風も相まって良い方に転んだ。しかし今回は事情が違う。M-1は松本あってこその信頼度、納得感が第一の成功要因。M-1グランプリ存続は既定路線だろうが、終わりの始まりか一大コンテンツ新生かを占う。
オードリー、和牛、カミナリ、ハリセンボン、ザ・パンチが優勝、或いは好成績を残していたら、お笑い界の構図はどうなっていたのだろうと折々に思う(ウエストランドは翌々年にその未来を見せてくれた)。
働いたら負け理論やダンピング防止理論を感受性の豊かな時期に浴びて「俺もストライキに参加するぞ!」とニートになったのが20年前。
でもある日「プロレタリアの中途半端なストライキなぞ無意味だ。世界を変えたいなら自分がルールを作る側になるべき」と考え「官僚」になった。
Q.貴方は会社の人事です。転職エージェント経由で「長いニート歴のある高卒(しかも定時制だ!)。職歴は公務員のみ。趣味はネットとゲームのみ。特技もなく、前職の経験は役所の事務員」という非常に虚無い応募者が来ました。採用しますか?
ほぼ平成生まれなのにJTCの果ての果てみたいなお役所で働き続けること、それが俺に残された人生だった。
悲しい。
もしも思春期の俺がネットにかぶれず「いやーゆーて一過性のものでしょ?つうか散々個人的生存戦略を走ってきた世代の語る「今度こそ一緒に堕ちようね」とか信じるだけアホでしょ?」と考えられていれば。
俺はそこそこ頭がいい。
御三家よ旧帝は無理でも早慶マーチぐらいは狙えた地頭があるはずだ。
それを完全に無駄にした。
反ワクや嫌韓で人生を棒に振った奴らこそが俺の兄弟なわけだな。
あー辛い。
死ぬまでロクに残業代も出ないしスキルも身につかない仕事をするんだろうな。
メールソフトの使い方も知らない現場上がりの爺さんにEXCELを教えて、見返りに砂消しの上手い使い方を教わる。
これが俺の人生なんだな。
完全テレワークでクリエイティブな仕事を令和の倫理観ですすめる人生にはもう戻れないんだ。
後悔しかねえよ。
俺はさ、氷河期共に騙されたんだよな結局。
アイツラ吠えるだけ吠えておいて自分らはヘコヘコするだけじゃねーか。
レジェンドアサシンYの登場で目が冷めたよ。
本気の奴が一人でもいたら起きてた未来が起きないままの20年だったんだって。
お前らは結局本気で世界を変える気はなくて、ストライキさえも他人にやれというだけで自分はコソコソ告げ口するだけの太鼓持ちしてたんだ。
完全に理解したよ。
騙された。
本当に悔しい。
https://note.com/naru_oriko/n/n9b127bbd18e0
本記事の内容は数年前の状況で、現在は修繕されている可能性があります。
また、入社希望者を止めたり、Cygamesの各ゲームタイトルへのイメージを下げる目的はございません。
Cygamesは企業イメージを落とさないよう社員による内部情報の漏洩やSNS投稿等にかなり厳しく網を張っています。
特定されたらどうなるのかが怖くて、離職から数年間は何もせずただCygamesのCMを目にする度に軽いPTSDを発症していました。
現在、労働中に患った軽度な精神疾患が元となり精神障害へと発展した為、本記事を書こうと決めました。
まず初めに所属した部署で、上長からセクハラ行為を受けました。
→その時私は所属から1週間程度だった為、断ることが出来ませんでした。
→部署内のLINEグループがあるとのことで所属して直ぐにLINEを登録していました。
これらを人事に相談したところ、私が別の部署へ異動となりました。
これらを人事に相談したところ、この方は降格処分となりました。
翌朝出社した際、まだ原因が解明出来ておらず、疲弊しきったリーダーが謝罪していました。
→私はこの時の怒声を今でも鮮明に覚えており、若干のトラウマとなっています。自身がリリースする際にかなりのストレスを感じていました。
→エンジニアリーダーと食事をした際、リーダーは会話中でもApplewatchに通知が来る度すぐに開いて確認しており、常に緊張状態にあるようでした。
→私はこれをきっかけに一過性の鬱状態となり、その方と話した後にトイレで嘔吐したり、一時他人と話すことが出来なくなり、別室で作業をするようになりました。
その後、そのプランナーリーダーと関わらない部分の実装を担当するようになりましたが、鬱状態が治らず、限界がきて離職する運びとなりました。
今や他社のゲームも盛り上がっておりあまり目立たなくなりましたが、一時期はウマ娘やゾンビランドサガ、グラブル等の広告や話題が街中・TVCM・SNS等で目にすることが多かった為、その度にフラッシュバックして嫌な気持ちになる事が多かったです。(現在進行形)
このせいで佐賀県に個人的な苦手意識が芽生え、大好きなお笑いのキングオブコントでスポンサーとなった時はショックを受けました。
「自分の余命を意識したら、頑張って勉強する」みたいなロジックって簡単に論破っぱ出来てしまう。
「人間はそんな簡単には死なないから、お前が妄想してる「俺はロックスターみたいに27までに死ぬからそれまでにやりたいことをやりきるんだ」なんて人生観はまるっきり間違っていて、お前はいざ27になってから「あと人生が50年以上残ってる・・・もっと勉強するんだった」と絶望するんだぞ」じゃないのか?
それを頭の悪い人は何故か「自分の死を意識するんだ」と口にしてしまう。
何故か。
答えはシンプルだ。
ソイツ自身も自分が数十年後に死ぬイメージが出来てないからだ。
今40歳の自分が、それと同じだけの年数を生きて、それからようやく死ぬということに対してリアルな感覚を持ててないからだ。
だから都合よく「5年後にガンで突然死ぬかも」という確率の低い妄想を取り出して、5年という短時間における人生の戦略について語ろうとする。
実際には40年という人生の中で2回ぐらい入院して、2回ぐらい転職して、2回ぐらい殺されそうなほど人に恨まれ、2回ぐらい殺しそうなぐらい人を恨むものだが、それらを圧縮して1回だけ入院してそこで人生が終わるというシンプルな構造に圧縮しようとする。
クソほど長くて、同時にクソほど短い時間を、どうやって使うかという命題といつも戦っていくのが人生だ。
たとえば仕事を辞めてラーメン屋になって、なんか知らないけど大繁盛したとしても、その一過性のブームが続くのは3年ぐらいで、そこから先はかつてやってきたブームの残り火をどう扱うかと相談しながらの長い余生が待っている。
人生を極小化して騙る人間の中ではラーメン屋になってブームがたまたま起きるか起きないか、そしてすぐに病気になってはい終わりだ。
人生の残り時間を考えるときに大切なのは、それが一瞬で燃え尽きてしまうものではないことをしることだ。
振り返れば一瞬のように過ぎ去り、待ち侘びれば永遠のように長い、その距離感に対してどう向き合うかこそが人生の本質であり、そこから逃げているやつが騙る人生はいつだって薄っぺらな空想でしかない。