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それとも、おじさんが着てもOK?
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アメリカモデルが抱える問題点は過度な市場任せ、医薬品価格や治療費の高騰、保険未加入者の存在などが挙げられる。
ここで提案しているのは「半分民営化」に近い形で、国の関与や規制も依然として重要なファクターにする戦略。
アメリカの「規制が緩い民間主導」に対し、「徹底した監視、詐欺的行為の排除、必要な公費介入を残す」などのセーフガードを設けるといった提案は、アメリカの失敗を踏まえた修正案。
この手のコメント来ると思った。以下、有料で提供してた記事からのコピペ
日本政府の債務はほぼ円建てで国内消化可能であり、他国の通貨危機と異なり、即座に外貨流出による破綻リスクが比較的低い点は認める。
しかし、それは財政的余裕が無限にあるということにはならない。
高齢化や医療需要の増大は、将来にわたり社会保障支出を押し上げ、潜在的な増税圧力や資産の取り崩しを引き起こす。
長期的に見れば、国債残高が積み上がることで金利上昇リスクが高まり、いずれは財政運営に制約をもたらす懸念は拭えない。
「財政健全化」とは必ずしも財務省のプロパガンダではなく、長期的な財政の安定性や世代間負担の公平性を考えるうえで、広く検討すべき政策課題なのが何故分からない。
外債依存がないからといって、未来永劫財政規律を軽視してよい根拠にはならないのに。
「アメリカの医療保険が失敗している」点を指摘しているが、原案でも「民間に任せる際の詐欺的行為や価格高騰」を懸念し、是正策を考慮している。
アメリカモデルが抱える問題点は過度な市場任せ、医薬品価格や治療費の高騰、保険未加入者の存在などが挙げられる。
ここで提案しているのは「半分民営化」に近い形で、国の関与や規制も依然として重要なファクターにする戦略。
アメリカの「規制が緩い民間主導」に対し、「徹底した監視、詐欺的行為の排除、必要な公費介入を残す」などのセーフガードを設けるといった提案は、アメリカの失敗を踏まえた修正案。
どこが起源かは知らないけれどはてブに建設的コメント順位付けモデルAPIが導入される前の月くらいにそのクマは既にバズっていて、ブクマカの誰かがそれをAPI騙しに流用した感じ
要するに、公的医療保険制度をほぼ廃止し、10割負担を基本としたうえで、民間主導の医療サービス市場を整え、必要に応じて超限定的な公費支援を行うモデルは、財政の健全化と国民の健康意識向上を同時に狙える。
日本の通貨システムと外債に依存してないことを考えれば全く必要がないと分かる財政健全化とかいう財務省のプロパガンダを前提にしてる時点で話にならない。アメリカにおける医療保険の失敗を全く踏まえていない上に目的が前述のプロパガンダと健康意識の向上とかいう極めて曖昧なもので全てがジャンク。
まず、現在の日本における公的医療保険制度をざっくり振り返ろう。
国民皆保険制度という「世界に誇る」仕組みは、確かに戦後復興期から高度成長期にかけて国民の健康と安心を支え、平均寿命の延伸や医療水準の向上に寄与してきた。
しかし、その一方で少子高齢化が顕著になり、医療費は年々増加。結果、国や自治体の財政には深刻な圧迫要因となっているではないか。
誰しも無制限に医療サービスを受けられるなら嬉しいだろうが、それを永遠に続ければ誰かが支払いのツケを負わねばならない。
ここ数十年、その「支払い担当」は次世代に回され、国家財政全体はむくむくと膨れ上がっている。
公的医療保険も、基本的に「定額制食べ放題」のような構造を孕んでおり、国民が必要とする以上の医療を必要以上に消費する誘因にもなっている。
そこで私が考えるのは、思い切って公的医療保険制度を原則廃止し、窓口負担を10割にするというものだ。
もちろん、これが本当に実現されたらショックを受ける方も多いだろう。「病院に行ったら全額自費?そんなの暴論だ!」と。
それは理解できる。しかし、今まで「一律低負担」で医療を享受してきたツケが、今まさに財政を食い尽くそうとしている現状を直視すべきだ。
代わりに、民間保険会社や医療関連ビジネスが各々の健康サービスを提供する。
健全な市場競争があれば、医療サービスの質や価格はある程度合理的な水準に収束するだろう。
もちろん「民間に任せたら、詐欺まがいのぼったくり保険や、ありえないほど高額な医療費が横行するんじゃないか」と不安に思うだろう。
その点は、国や監査機関が厳格なルールや罰則を設けることで、徹底的に対策できるはずだ。
民間への委託は、あくまで国が無法地帯を放置するわけではない。
むしろ現行よりもしっかりした規約を課し、悪質な業者は即刻市場から退場させるような統治を目指す。
たとえば、これから社会を支える子どもたち、経済的余裕のない家庭など、真に手を差し伸べるべき領域には公費負担を限定的に残すべきだ。
これは「未来への投資」であり、子どもたちが健やかに成長すれば、将来の労働力やいのべーしょんの源泉となる。
広く薄くばらまくのではなく、超重点的に「ここぞ」という点に絞る。
肥満対策に悩む人がライザップを使うように、「本当に必要なところ」に公的資源を集中投下すれば、効果的かつ財政効率的だ。
財政面でのメリットは明確だ。まず、国民皆保険的な一律負担軽減が薄れることで、公的支出は大幅に縮減できる。
国や自治体が負担していた莫大な医療費が下がれば、赤字国債を積み増し続ける現状にもブレーキがかかる。
財政改善は国の信用力向上にもつながり、長期的には金利コストの低減や資本市場の安定にも寄与するだろう。
加えて、民間保険や医療産業が自律的な市場として成長すれば、関連ビジネスからの税収増も期待できる。
要するに「国が全部面倒を見る」状態から、「国は最低限、民間が活躍できる健全な土台を整える」にシフトすることで、財政はより健全性を回復していく。
もうひとつのメリットは、国民が自分の健康状態により高い意識を払うようになる点だ。全額自己負担、あるいは自己責任の下で医療サービスを利用することになれば、人は自然と日常の生活習慣に気を配るようになる。
医療が安ければ気軽に病院に行くが、高くなれば「そもそも病気にならないように気をつけよう」となる。
健康な生活が、結果的に自身の経済的負担を減らす構造を作れば、人々は自然と健康的な行動にシフトするだろう。これは長期的に見れば疾病予防、ひいては社会全体の医療負担軽減につながる。
むろん、「病気は運が悪かっただけ」というケースもある。
しかし、一定割合で生活習慣起因の疾患は存在し、それに対して個人が責任を持つ仕組みは、医療費をゼロサムで考えるよりも健全だと言えるかもしれない。
究極的には、医療が「必要な時に使う最終手段」ではなく、「健康維持・増進のための投資」として再評価されるかもしれない。
要するに、公的医療保険制度をほぼ廃止し、10割負担を基本としたうえで、民間主導の医療サービス市場を整え、必要に応じて超限定的な公費支援を行うモデルは、財政の健全化と国民の健康意識向上を同時に狙える。
さらに分かりやすく言うと、「健康管理はあなた自身の手に」「国はサポート役、でもおせっかいな給仕はやめます」といった感じだ。
もちろん、これは政治的ハードルが高いアイデアであり、一挙に導入することは残念ながら現実的でない。
しかし、増え続ける医療費の前で「国民皆保険は不滅」と唱え続けるだけでは、いずれ破綻が訪れる。皆でもう少し制度について考えていこうではないか。
Sora触ってるけど、画質がいいってだけで既存の動画生成モデルより動作が破綻しまくってるしどういうことだよ…
アホみたいに出資してもらって半年もったいぶってコレってマジ?
AI関連の最近のリリース、明らかに息切れ気味でどこもこれ以上のブレークスルーは無理なのがありありと伝わってくるんだがAGIとか本気で言ってんのかな
明らかに無理だろ
元の主張
これは間違い
白人コンプは多くの国の人が持ってる、白人っていうか東欧系の容姿に対するあこがれがあるよね
ただしそれはかなり薄れてきているし
最近はリスペクトして真似しようという域にすら達していない(例えば最近日本の若い女性が参考にしてるのは韓国アイドルとかだ)
もはやコンプレックスと言うより、憧れくらいのポジションだろう
ただしイケメン日本人の顔は徐々に東欧系の特徴に近くなるから、この点を間違うのはしょうがないかもしれない
ちなみに、「白人(東欧系)に憧れてるならキャラを白人にすればいい」と考えるかもしれないが
実際にそういうキャラは沢山登場させているし
じゃあ全キャラがそうなるかと言えば、親近感や好みの幅の点からそれは起こらない、服屋のモデルが全員が白人というわけではないのと同じ
都内近郊。ミドサー。男性。平均体型+身長。バチェラーデート申し込み時の年収は500万以下。
見た目は褒められる+30歳以下に見られる。初対面の会話は結構得意。
彼女は別のアプリでできた。彼女の予定があって暇なので長文だらだら。
高い金払って新規女性会員の審査員をやっているな、値段に対する会員レベルは低いな、というのが正直なところ。
人間的な部分(見た目、コミュ力など)に自信がなくて、勤務先や年収に自信があるミドサー以上の男性はいいかもしれない。
まあ2回目以降が続かないと思うけど・・・。
アラサーまでなら普通のアプリやったほうが絶対いいし、それ以上でも人間的な部分にあるていど自信があるならやっぱり普通のアプリがいい。
友達の女性モデルいわく、パパ活狙いのイケてないおじさんばかりとのこと。それ以外の人はブルーオーシャンかもしれない。
まず1回無料で会える。
無料で会ったら、強制的に課金に同意したとみなされて支払いが始まる。
ちなみに課金プランは設定画面の奥地まで行って、事前に自分で変えないと長期契約の高いプランになる。
自分は一番下のプランで一ヶ月契約のやつ。1万円/月だったかな。
希望条件の項目は少なすぎて不安になる感じ。実際、役にたってなかったと思う。
ただ年齢の項目はちゃんと反映されてそう。安いプランなら5歳下まで。お高いプランなら6歳下とかも選べる。
お店もアプリから提示されるけど、営業時間とか予約できないとか、精度悪すぎて基本は自分で調べて予約取ってた。
重要なのがレート。
会った後にお互いの評価をアプリ上で行って、それが5.0満点で出る。
レートは課金してから3回会ったら反映。以降は2回ごとに更新される。
事前に入力する相手の希望条件よりも、圧倒的に項目が多くて細かい。
相手のレベル感も自分のレートで多少変わるらしいけど、一番影響があるのは課金額って公表されてるし眉唾。
自分は何かのエラーで課金してから4回目にレートが出た。つまりもう辞めるときにようやく出たから意味ない。
ちな自分のレートは5.0満点だった。
システム上、週に1回しか会えないけどチケット使えば追加で会える。
チケットは追加課金でも買えるし、チケット3枚でレートの高い相手が確約されるプレミアムチケットと交換できる。
ただしチケットは課金期間中にしか使えず、課金を停止すると消滅する。
※全員、会話はそこそこ盛り上がってる。食事代は全部奢ってる
このアプリで初めて会うと言っていて、かわいくていい人だった。
でも帰って冷静になると、お顔のサイズが大きかったな…そんなかわいかったか…?となった。
あとお相手が待ち合わせに15分ぐらい遅れたんだよね。
ファッションビルの上のレストランだったんだけど、「ビルに入ったらスマホの電波がなくて迷って…」とのこと。
でもLINE交換はレストランで行ってるんだよね。電波あるやんけ。
日本有数の繁華街だから電波ないキャリアとかMVNOでもないだろうし。
バチェラーデートで期待する相手としてはセーフなラインと思う。
このアプリで初めて会うと言っていて、すらっとしたいい人だった。
でもまっっっったく好みじゃない見た目で、普通のアプリだったら向こうからいいねくれても返さない感じ。
頑張って1時間喋って閉会。向こうからは好意を感じたけどLINEも交換せず終わり。
1万払ってこの感じの人が来るのやべえな、バチェラーデートはダメかもなと思った。
このアプリで初めて会うと言っていて、すらっとしたいい人だった。キツめのきれい系。バリキャリ系。
自分はけっこう前のめりだったけど、終わり際に向こうの気のない感じがわかって萎えた。
そして暗めのカフェから明るい繁華街の道に出たら、メイク濃くて自分より年上に見えて更に萎え。
恋活も婚活も苦戦しそうな方だなあ、バチェラーデートで期待する相手としてはギリアウトかなあという感じ。
このアプリで初めて会うと言っていて、かわいらしいいい人だった。コミュ力とアクティブさがすごい。
昼のカフェで会ってすごい会話盛り上がって、その後1時間ぐらい一緒に散歩。LINE交換して2回目の約束して別れた。
ただ、2回目でお互いフェードアウト。
理由は俺が今の彼女と初めて会った直後でこの方への気持ちが下がっていたこと、俺が忙しい期間の後で元気がなくて1回目ほど盛り上がらなかったこと、相手の不安に俺がうまく答えを出せなかったことなど。
相手の不安は、俺が優しすぎてめっちゃ気使ってない?素は??みたいな部分。
自分じゃ普通にしてるつもりだから、よくわからなくてうまく答えを出せなかったんだよね。
でもそのおかげで、今の彼女に同じこと言われたときちゃんと返せた。ありがとう。
このアプリで会うのは2回目と言っていて、グラマーでいい人だった。万人受けはしないけど美人ではあると思う。
日本歴は5年ぐらい?でも日本語があんまりできなくて、機械翻訳を使う場面も多々。
職場も含めて友達が全然いない、既婚者が多くて恋愛対象になる異性も殆どいないとかで、かなり前のめり。
お互いの予定が噛み合わずに1時間も居なかったけど印象はとても良かった。(今思うと友達全然いないのに予定あるってなんだったんだろう)
LINEも交換してまた会おうって話になってたけど、翌日に今の彼女と初めて会って前述の保育士さんも居たから「3人はムリ!」と思い、穏当にお断りさせていただいた。
バチェラーデートで期待する相手としては、まあありなのではないかな。でも日本語はもっと勉強してくれ。
30代前半:向こうの事情で会えなくなったので、こちらから相手事情のキャンセル申請して受理された(相手がキャンセル料を払う)
Thought about 身長と年収の相関 for 5 seconds
以下は、人の身長と年収、さらには役職上昇との相関について研究した有名な論文の一例と、その概要です。
参考論文:
Judge, T. A., & Cable, D. M. (2004). "The Effect of Physical Height on Workplace Success and Income: Preliminary Test of a Theoretical Model." Journal of Applied Psychology, 89(3), 428–441.
URL(DOI): https://doi.org/10.1037/0021-9010.89.3.428
研究の要点:
研究では、身長が高い人ほど平均してより高い収入を得やすく、組織内でより高い役職やリーダーシップポジションに就く傾向があることが示唆されている。
高身長であることは無意識的に知的、有能、または自信に満ちているといった好印象を周囲に与える可能性がある。このため、人事評価や昇進判断の際に有利に働く場合が考えられる。
多様な職業および人口統計学的データに基づいた分析の結果、身長と収入・役職には統計的に有意な関連があることが確認されている。
他の要因との関連:
この効果は完全には身長単独で説明されるわけではなく、教育水準、家族背景、性格特性など他の要因も加味する必要があるが、それらをコントロールしても身長の影響はなお有意であった。
論文は、「身長→セルフエフィカシー・対人関係スキル→職務評価→収入」というような理論モデルを示し、身長が様々な心理・社会的要因を通してキャリア上の成果に影響を及ぼす可能性を論じている。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
noteなんかで意識高い系がよくやっるやつ。noteとかやってないからここに書く
2リットルボトルタイプ。実は去年も同じようなウォーターサーバー買ったんだけど、ちょうど保証期限が切れた直後に冷温が両方とも死んだ。
メーカーが消滅していて修理もできなさそうなので、別のメーカーの物を購入。
これも短期間で壊れたら、諦めてサブスクのウォーターサーバーを契約する。
LIXIL。実は去年の春先思い立って某大手メーカーのネットショップに申込んだんだけど、補助金事業の影響で窓の納期が数カ月先→補助金予算がなくなるかも?ということで断念。
改めて今年1月に申込で2月に見積もり、3月に工事完了。補助金の振込に時間がかかって9月になった。
断熱効果はまあまあで去年よりエアコン弱めで過ごせてる。防音効果のが予想より大きくて、数日前のマンション庭の植栽の手入れに気づかなかったぐらいだった。
元々超音波型を使っていたけど、つけると空気清浄機がものすごい勢いで動き始めるのでハイブリッド型に(水道水のカルキが原因っぽい)。
スチーム式も考えたけど、ずっとお湯を沸騰させてるので電気代高い。
15年ぐらい使っていた乾電池式の鼻毛カッターが御臨終したので、AmazonでUSB充電式を購入。
安物だけど割と普通に使えてる。
自宅トイレにスマホを持って入るとき、スマホを置く場所がなかったので小物置き付きを購入。
トイレットペーパーの予備も入れておけるので便利
長い事ルーターボックスを床に直置きしてたけど、掃除が大変なのと見た目が良くなかったので購入。
Wi-Fiルーターの高さが腰ぐらいになったけど、電波強度はあまり変わらない。
元々27インチディスプレイを2台取り付けられるスタンドを使っている。
本当はモニターアームを使いたいところだけど、机がアームを取り付けられない形状のためこうしているが、27インチ2台は重くてスタンドであまり高くできない。
高さを調整するために購入。収納がついていて、机の上がすっきりした。
クラークス・ワラビー。リモートワークになって靴なんて何年も買っていなかったのだが、アマゾンブラックフライデーで昔履いてた靴が安くなったので購入。
昔履いてたワラビーが頑丈で10年ぐらい履いてたので、リモートワークの今ならもっと長持ちするだろう。
ここ数年でよく見かけるようになったヘンプシードドリンク。寝る前に飲む。効果は不明だけど定期購入している。
お掃除ロボットだと微妙に吸い残しがあったりちょっとした掃除は自分でしたいため契約。
ホコリをモップクリーナーが吸い取るのでいい感じ。モップは4週で交換。
Apple Store CTOでM4 Proモデルをメモリ48GB/SSD1TBに変更して購入。MacBookPro M1 Proからの買い替え。高え。
社会人になってからずっとノートPCだったので(Windows時代も含む)、デスクトップPCを買うのは20数年ぶり。
Mac miniがデスクトップかどうかは置いておく。縦置きだと一昔前の外付けHDDに見える。
フレッツの光配線なのに最初Wi-Fiが遅くてDL70Mbpsしか出なくて何事か?と思ったら、Mac Miniは底面にアンテナがあるらしく、縦置きしたら600Mbps出るようになった。
Photoshopとか4K動画の取扱は快適になった。MacBook Proはそのうち中古屋に売りに行く。
能登半島地震で石川県に3万(返礼品なしふるさと納税)、台湾花蓮県地震に2万、ナイスネイチャメモリアルドネーションに3750円
https://www.youtube.com/watch?v=qeEnSoAJ7no
YouTubeで、ゆっくりやずんだもんを使って世界の風俗について解説しています。
僕の名前はズンだもん今日はロシアのサンクトペテルブルクに来てるのだ街並は最高に綺麗戦争の影響で観光客が少ないからストレスフリーで観光できるサンクトペテルブルグは今遊びに来るには最高の街なんだよね
でもなんと言ってもこの街の素晴らしいところは住民がめちゃくちゃ可愛いロシア人ばかりってことモデルみたいなスタイルの女の子がワンさか歩いてるから大通りを歩くだけで可愛い子に目移りしちゃって目が疲れちゃうレベルなのだ
でもせっかくなら可愛いロシア人を見てるだけじゃなく話したり触ったりしたいよな正直触るだけじゃなくてあんなことやこんなことだって
よしそれじゃあ今回はサンクトペテルブルクの風俗に潜入してこの町の風俗について解説していこうと思うのだ
業の問題じゃなくて「建設的コメント順位付けモデル」という仕組みが短文を除外している
https://hatena.co.jp/press/release/entry/2021/07/19/150000
導入以来ずっと評判悪いのに廃止されない
その考えはやや時代遅れだ。
今の先端的な基本無料RPGの課金モデルは、一昔前のソシャゲとは違い、ゲーマーとして見下すことを正当化できるほどひどい作りにはなっていない。
確かにガチャによって戦力を補充していく形はP2Wのように見えるが、細かい部分で露骨なP2Wにならないよう配慮がしつくされている。
どちらかというと、ガチャの部分はおまけで、育成ゲームとしてTime2Winの原則に重きをおいて作られている。
育成のためのリソース管理にスタミナでキャップが設けられており、「石」の類でそれを短縮していくことがもっとも効率的な育成プランになる点で、ある意味、最低価格が0の月額制ともいえる。
キャラの獲得に関しても、中国製ゲームを筆頭にランダム性が薄くなっており、ほぼ一定の周期で、どのような引き方をしたとしても(天井カウント引き継ぎなどで)最高レアリティを獲得していく作りになっている。
そのためキャラ獲得もスタミナと同じような、Time2Winの原則で理解することが可能になっており、課金はその獲得周期短縮として機能し、また獲得タイミングを計画できるように作られている。
またソシャゲと違って強キャラやいわゆる凸に頼らずとも、低レアを用いても組み合わせをよく考えることで突破できる難易度設定になっており、旧来P2Wソシャゲ・ネトゲによく見られた廃課金前提のゲームステージづくりや競争を煽るプレイモードは廃されている。
結果として、比較的平穏な心持ちでRPGの世界観に没入しつつ、月に2000円前後くらいの課金で十分にコンテンツを網羅できるゲームが上位に君臨するようになっている。
PSストアの上位にいる非FPS非対戦型のゲームは概ねそういう作り方になっていると考えて良い。
なので治安の悪くなりがちなFPSや格闘ゲーといった対戦ゲームに執着するのは、ゲーマーとしての矜持に関係なく、自分の好みが故だということを理解してほしい。