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はてなキーワード: 批判対象とは

2024-12-12

anond:20241212112002

統一してれば問題所在がはっきりするじゃん。

3つも4つもあれば批判対象分散するけど1つだけならみんなでそこを批判すればいい。

インフラとしての社会的責任も増大するから会社の一存で好き勝手できなくなるよ。

2024-12-03

どんなプロンプト打ったんでしょうね3

1. トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではありません。
 それに対して、『トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人こそが、小さなことにこだわっていると主張するのは
 どのような心理からなのでしょうか? もしその人が本気でそう主張しているのであれば、まさに本質から外れたところに過剰に注目しているように思います。
 
 
2.下記を小学生でもわかるように説明をお願いします。
 
	2-1.	トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ありません。
	2-2.	「通常(普通)ではない」と指摘されることに対して、ショックを受けているのかもしれません。『通常』という言葉は、何かしらの合意必要な難しい概念ですが存在するものです。(そうでなければ何もできない)
	2-3.	人と違うのは悪いことじゃないが、トランプ文脈フォントにこだわる人は、特別サポート必要です。これは個人自由意思知識コミュニケーション問題、あるいは性格に帰すべきではないと思います。
	2-4.	人と違うのは悪いことじゃないが、文脈によっては適応出来ない、違うと自覚することが大切なこと説明してください。
 
 
3. トランプ文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人は、ゲームから排除をする、ゲームを取りやめるのでなければ、特別サポート必要だと考えますがどう思いますか?認知フレームワーク問題ではなく個性範疇ですか?

 ↓

1. 心理的な背景について

 

トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人を「小さなことにこだわっている」と批判する心理には、以下のような背景が考えられます

1. 防衛的な反応

自分の行動や考えが「通常ではない」と評価されることに対する防衛反応です。「通常ではない」と指摘されることで、自分価値観や行動が否定されたように感じ、相手に「あなたも小さなことにこだわっている」と反撃することで、自分を守ろうとしている可能性があります

 

2. 視点の転換による優位性の主張

「小さなことにこだわっている」というレッテルを指摘者に貼ることで、相対的自分が広い視野を持っているかのように見せかけ、議論立場を有利にしようとする心理が働いている場合があります

 

3. 共通基盤のズレ

フォントの違い」がゲームに影響を与えないことは、多くの人にとって明白ですが、本人にとってはそれが重要な要素である可能性があります。この場合、指摘者が「通常」とする基準自体無効だと考え、その基準を主張する人を「細かいことにこだわっている」とみなしているのかもしれません。

 

4. 議論すり替え

本質的な問題から目をそらすため、指摘者の行動を批判対象にして議論の焦点を変えようとする心理です。これにより、自分の行動が本当に合理的であるかの検証を避けることができます

 

2. 小学生でもわかるような説明

 

2-1. トランプゲームフォントにこだわるのは普通じゃない

 

トランプで遊ぶとき、みんなが気にするのは「ダイヤ」「ハート」みたいなマークや、「A」「K」みたいなカード意味です。文字の形(フォント)が少し違っていても、ゲームには関係ないので、普通はそこにこだわりません。

 

2-2. 「普通じゃない」と言われるとびっくりするかもしれない

 

かに普通じゃない」と言われると、自分が変わっているみたいに感じて、ちょっとイヤな気持ちになるかもしれません。でも「普通」という考え方がないと、みんなで同じルールで遊ぶのが難しくなります

  

2-3. 人と違うのは悪いことじゃないけど、助けが必要ときもある

 

たとえば、トランプで遊んでいるときフォントが気になる人がいたら、どうして気になるのかをみんなで考えて助けてあげることが大事です。それでもゲームが進まない場合は、みんなが楽しめるような別の方法を一緒に見つける必要があります

 

2-4. 人と違うのを知るのは大事なこと

 

自分がほかの人と違うことは悪いことではありません。でも、みんなと同じルールで遊びたいときは、「自分の考え方が特別なんだ」と気づくことが大切です。それがわかると、みんなとどう仲良く遊ぶかを考えやすくなります

 

 

3. 「フォントが違うからダイヤのKではない」という人への対応個性範疇について

 

 

フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人に対しては、特別サポート必要だと考えられます理由は以下の通りです:

  1. 共有されたルール再確認
    トランプゲームでは、フォントの違いは重要ではなく、カードの「スート(マーク)」と「ランク(番号や文字)」が本質です。そのため、本人がルール理解し、共有された基準を受け入れられるようにサポートする必要があります
  2. ゲームを進行させるための調整
    本人が「フォント」を基準として主張する場合ゲームが進行しなくなる可能性があります。この場合ゲームを成立させるために他の参加者と協力し、代替案を提示する必要があります

 

 

この行動は認知フレームワーク問題に近いと考えられます。なぜなら:

  1. 個性範疇を超えている
    個性とは、一般的ルール基準の中での違いを指すことが多いですが、今回のケースでは「フォントにこだわる」という行動が、共有されたルールの基盤を大きく逸脱しており、個性範疇では説明しづらいです。
  2. ゲーム文脈に対する適応の難しさ
    フォントが違う」という理由カード否定するのは、ルール文脈に対する適応が困難であることを示唆しており、認知の仕組みや視点問題である可能性が高いです。

 

 

結論

 

トランプゲーム文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」という行動は、個性というよりも認知フレームワーク問題として捉えるのが適切です。そのため、共有基盤を再構築する特別サポート必要となり、ゲームの進行や他の参加者との調整が求められます

 

 

 


 

 

増田が打っているプロンプトを推測してみたが、かなり言葉を足さないとその出力にはならない
マジでどんなプロンプト打ったんでしょうね(3回目)

 

※推測してみた(なお、増田みたいな結果にはならない)
 
Dの行動を批判している文章(https://anond.hatelabo.jp/20241203162204#)の投稿主の心理を探り、どのような価値観認知スタイルに基づいているのかを分析してください。Dがフォントの違いを問題視した行動に対して批判することが、どのような心理メカニズムに基づいているか、またその批判集団内でどのような影響を与えるのかを詳述してください。

 ↓

この文章投稿主は、Dの行動に対する批判を通して、「認知の仕組みのズレ」や「共有された前提の欠如」に焦点を当てており、その批判は以下のような心理メカニズム認知スタイルに基づいていると考えられます

 

1. 認知の精度と共通理解の重視

 

投稿主は、対話が成立するためには、共通の前提や認識必要であると強調しています。Dが「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張したことは、常識的に受け入れられる「ダイヤのK」の定義認識を逸脱しており、この逸脱がコミュニケーションの妨げになると見なされています投稿主は、認識のズレを認知の仕組みに起因するとし、これを解決するためには膨大な労力が必要だと感じています。これは、投稿主が認知的な精度を重視し、理解の共有を前提にした効率的対話を重んじていることを示しています

 

2. 本質主義 vs. 構成主義思考

 

投稿主は、「ラグビーボールボールではない」という発言についても問題提示し、「概念境界」や「本質主義 vs. 構成主義」などの哲学的な側面に関心を持っています。これは、物事定義カテゴリ化について深く考える傾向があり、単なる表面的な解釈を超えて、物事本質に迫ろうとする認知スタイルを反映しています

 

3. 細部に過剰に焦点を当てる認知スタイル

 

Dのように、細部(フォント)に過剰に焦点を当てることは、投稿主にとって非常に困難で非生産的コミュニケーションと捉えられています。このような発言は、認知的なズレが深刻であり、現実世界常識一般的認識から大きく外れていると見なされています投稿主は、細部に拘泥するDの認知スタイル問題視し、これが対話の進行において障害となると考えているようです。

 

4. 集団内での影響

 

投稿主がDの行動を批判することで、集団内では次のような影響が予想されます

共感の共有: 投稿主が指摘する認知のズレに賛同する人々は、Dとの対話に対して不安や苛立ちを感じる可能性があり、集団内で共感が生まれます

対話排除: Dの認知スタイルが極端に異なっていると認識された場合集団内でDの意見発言無視したり排除したりする動きが強まる可能性があります

教育アプローチ模索: 一方で、Dの行動を理解し、再教育認知修正を試みるアプローチを取る人も現れるかもしれません。この場合集団内で認知の調整が進むことが期待されます

 

全体として、この批判は、投稿主が共有された認識合理的対話を重視し、認知的なズレに対して強い懸念を抱いていることを示しています

2024-12-01

男性向けで乙女ゲー茶化す感じでこする潮流があるけどあれなんなんだろうな(モブに厳しいとか)

から見てああいうの不愉快とか批判対象にならないのかな?

みわけしてたところにわざわざ首突っ込んでネタ化する理由わからん

anond:20241130133638

この文章を書いた人物について分析すると、以下の特徴が挙げられます

1. 高尚ぶった俗物

プリンシプル」とか「人治主義傾向」とか難しげな言葉を並べ立てるが、結局やっているのは松本人志とその周囲を罵倒するという最も俗っぽい娯楽に浸るだけ。

吉本や「アバズレ女」を叩く言葉エネルギーはすごいが、それを用いて建設的な提案をする気配はゼロ。ただのストレス発散に過ぎないのでは?

2. 自分が一番嫌う輪の一員

批判対象を「汚穢の住人」と呼ぶが、こうした毒舌ネットに垂れ流す行為自体が、その「気持ち悪い輪」の一端にいることに気づいていない。

松本やその取り巻きゴミだ」と言うが、同じように他者を見下す快感に浸っている自分は、その輪から何歩離れているのか?

3. アウトレイジ気取りの皮肉

「まとめてパックしてゴミの日に出してほしい」「高熱処理してほしい」という過激表現は、一見ユーモアに見えるが、その背後にあるのは単なる苛立ち。

こうした過剰な言葉遣いで笑いを取るつもりなら、それこそ「松本的」な文化模倣しているだけ。結局、自分の嫌う対象から完全には逃れられない。

4. 崇高な批判の皮を被った憂さ晴らし

人治主義の進行が懸念」とか「冤罪リスクがある」など、まるで社会全体を見据えた知的批評家のように振る舞っている。

しかし、その内実は「松本ヒカルが嫌いだから滅んでほしい」という単なる個人的感情に過ぎない。論理的体裁を整えているが、結論最初から決まっている時点で批評の体をなしていない。

5. 無力感反動としての怒り

松本人志が30代で〇ねばよかった」など、他人人生全否定するような極端な意見は、自分がその人物を変えられない無力感から来ている。

他人成功や影響力に対する嫉妬が、暴力的言葉として表出しているようにも見える。怒りの根底には、自分の力では何も変えられない現実への苛立ちがあるのでは?

6. 被害者をも見下す無差別批判

被害者の女たちもアバズレで、一味だろ」という主張は、事実確認もないままに全員を同じ枠に押し込めて叩くだけ。

ここまで全方位に毒を撒き散らすのは、自分けが清浄であると感じたいだけの自己防衛に見える。実際には、自分意見もその「汚穢」にまみれていることに気づけていない。

7. 結局何も行動しない評論家気取り

下品飲み会社会死刑相当の罪に」と述べるが、その「社会死刑」をどう実現するのかは全く語られない。批判するだけで何もしない典型的な口先評論家

吉本がいなくなれば日本有益」という主張も、実際にどのようにそれが可能かはまるで触れない。批判は強いが提案は皆無。何の貢献もしない「外野」そのもの

総括

この人物は、自分が見下している松本人志の「輪」と同じぐらい醜悪な輪の住人。違いは「俺は賢い」「俺は正しい」と思い込んでいることだけ。

批判の内容がいかに正当であろうと、その表現は汚らしく、攻撃性は自己満足の域を出ない。結局、自分が嫌う「汚穢」との違いは何なのか?冷静に振り返れば、自分がその一部であることに気づいてしまうだろう

Chat GPT

2024-11-27

anond:20241127200519

枕にして、批判対象として特許庁あたりを対象にした話書いてりゃ別にいいんだけど

枕にしてないか本質とずれてて、後から言っても誤魔化しにしか見えなくなるのよね。

任天堂のあの行動が悪だろとかの話をメインに据えてるし。

2024-11-26

anond:20241126135806

それはそうよ。

 

そうなんだけど、リベラリズムフェミニズムという思想が、なんていうか悪意(正義暴走?)に弱い。

お前の言う、煮詰まった人たちを、自ら引き寄せてしまう内容を、構造的な誤りを有している。

誤りを有する思想を信じて広めているという点で、お前のつきあいのある人たちも、批判対象足りえるのは、しょうがない事実だと思うよ。

少数のバカ品位を貶めているだけ、とかではなくてね。

2024-11-06

特定個人批判したいくせに直接言えないからって、批判対象の特徴を雑に抽象化して叩くのやめな。

2024-11-03

anond:20241103092353

横増だけど、「全体主義的傾向は好かん!」だったらよく分かるし、何なら共感できるけど、共産党のやることがすべて全体主義的かと言うとそうは見えなくて、それこそ元増田の言うように保守右翼側にも根強くその傾向はあるし、マスメディアSNSの「空気を読め」という圧力全体主義的といえばそうだ

 

もし反全体主義というポジションを取るなら、批判言葉解像度を上げ、批判対象を絞ったうえでそれを行わなければならない

そうしないと何に対して批判をしているのかよく分からない

2024-11-01

anond:20241101132625

マジで理屈の話するとき属性全体を主語にするようなやからゴミなんだよなぁ

二人出会うとどんどん的はずれな当てこすりで批判対象広げていって無意味罵倒合戦しだすし

2024-09-11

歌舞伎ファングロいと思うこと

1 歌舞伎ファングロいと思うこと

数年来の歌舞伎ファンだけれど、ネットに放流される歌舞伎感想を見ていると、グロっ!と思うときがある。

いちばんそれを思うのは、歌舞伎の家に生まれ子ども特に未成年)に対しての、「お父さん(orお爺さんその他親戚)に似てきたね!」っていう感想。そういう感想には、ふと見ていて自分で思い至ることもあるけれど、一方で、自ら振り返ってみると、又は他の人の感想として見ると、うわっ!グロっ!と思ってしまう。

思っているだけだとモヤモヤするから、何がグロいか言語化してみると、それは、本人が決めるべきこと(将来の職業選択、そこで役者選択するとしてその芸風・方針)について、生まれや血族といった本人の意思ではどうしようもできない事実評価基準として、第三者にすぎないいちファン勝手判断して評価しているから、だと思う。

もっと踏み込んで言うと、無限職業選択の自由が拓けているはずの子どもに対して、第三者がその子もの将来を(職業だけではなく芸風まで)決めつけてしまっているという点について、無意識であるしろものすごく高慢に見える。

この所感は、古典演目を、比較若い役者が、過去の大役者確立したような型に倣ってやるような場合に、当該大役者親族(又は、その中でも風貌が似ている者)にやらせないとおかしい、みたいなコメントが出てくる場合にも同じことを思ってしまう。結局それは、今の演者ではなく、過去演者を求めているに過ぎないし、(こういう鑑賞態度は歌舞伎とあるあるではあるけれど、)個人的には、そのような鑑賞態度である限り、今の演者を(自ら理想化した過去演者比較して)批判的な目でしか見ることができないから、観劇が辛いものしかならず、実りのある観劇体験にならないんじゃないかと思う。

(逆に、役者に対する「〇〇屋に生まれたんだから(or所属しているんだから)、△△さんから指導を受けて××(演目)をやらないとおかしい」みたいなファン意見も同じ。言ってるファンは、親祖父母から指導を受けて同じ仕事やってるんだろうか……。)

2 世襲制度がこれからどうなるか

いや、そもそも上記のようなことを言ったら、御曹司かわいい初舞台で、ベテランのお弟子さんがセリフもなく後ろに座っているという構図自体、あたりまえだけど普通にグロい。

もっとも、もうこういう家による階級制度は、あと20年(いや、10年?)経ったら、消えて無くなってるんじゃないかなあと思う。そして、そういう兆候がちらちらと現実にも顕れていることは、今の歌舞伎ファンならば分かると思う。

まりは、これからの中心的なファン層は、歌舞伎への入り口が、刀剣乱舞歌舞伎その他の2.5次元歌舞伎、又は、大河ドラマその他の映像作品である人が多いと思われる。そういう人たち(そうでなくても、これからファンになる若者層)に、「お家」とか「名跡」とかに重きを置いて、扱いに差を設けることを正当化するような価値観は、もう通じないんじゃないかなあ、ということだ。ただでさえ、「親ガチャ」が流行語を超えて浸透しているような世代だし。

個人的に、初報が発表されたとき刀剣乱舞歌舞伎は今できる最高のコラボ歌舞伎だと思った。和の世界観親和的で、既存ファンの方の数が多くて、しか観劇抵抗がなく、むしろ積極的であるというのがすごい。これから若い歌舞伎ファン殆ど刀剣乱舞入口、ということは、普通に起きるんじゃないかなあって思う。いや、もう起きている?)

一方、上記で、階級制度が無くなるという兆候が顕れている、とは言ったけれど、現状は、それは、名家御曹司座頭を務める舞台で、実力のある弟子を大役に抜擢することがある、という形にしかなっていないとは思う。つまり「使う側」(座頭)と「使われる側」(大役に抜擢される弟子)がある、という権力構造には変わりはなく、単に「使う側」のお慈悲が発揮される回数が増えただけ、という状況にしかないようには思う。すなわち、従来の力関係にはそこまで変わりはないんじゃないかっていうことだ。

(あと個人的には、そういう「抜擢」をした役者/「抜擢」をされた役者のことを、美しいストーリーとしてSNS等で賞賛する行為は、度が過ぎると、上記権力構造再確認になりかねないし、弟子の苦しい立場ごと消費しているような感じがして、あまり乗り切れないところがある。歌舞伎御曹司の感動ドキュメンタリーと消費の仕方が同じというか。但し、そういう風潮が抜擢を後押ししていることは否めないし、全部を否定はできない。結局、観劇というのは突き詰めると観客による役者の消費ではあるし、役者バックグラウンドごと観客に消費させるのは、歌舞伎が今まで取ってきた手でもある。)

さらに言うと、一部SNSによる一部の役者・家への軽率DISも好きではない。ちゃんと芸単体を見て評価できる人が評価しているならともかく、SNS(というか、その人が構築しているタイムラインに流れてくる限られた情報)の、この人なら批判対象としてもいいんだ、という雰囲気に流されて、大した芸の批評もせず批判をしてるんじゃないかって気もするし、自分が「見巧者」であることのアピールとして軽率に使われてるだけな気がする。)

じゃあどうするんだという話だけれど、近い将来、御曹司弟子キッパリ区別して取り扱うような現行制度について、どこかのタイミングアナウンスがあって形式的な解消がなされる、という事象が起きてもおかしくないんじゃないかなあとは思っている。あくまで、上場企業である松竹が、今の門閥制度上場企業に相応しくない、とか言って形式的にやることかなとは思うけれど。具体的には、まずはポスター名前を載せる基準とか、筋書きの後ろの方の写真の大きさとか、動静表のあの色分けとか、あそこら辺の形式的な取り扱いから(一律、名代試験幹部昇進で区別するとか。)。

もっとも、役付きも、それに伴って柔軟になっていくってこともあるかもしれない。ただし、私は幕内事情は全く知らないし、上記権力構造は変わらないのかもしれないし、この考え方も全くの的外れかもしれないけれど。そもそも歌舞伎名家権力(私から見えるのは、歌舞伎古典の大役の配役くらいだが)がどこに裏打ちされているのかもよく分からないし(メンツを見てると、必ずしも集客じゃない気がする。そうすると、本当に“名家であることの一点のみで権力たりうるということなのかもしれないけれど、平成生まれ自分にはピンと来ない。)。

3 終わりに

最近御曹司はみんな上手いなあと思う。やっぱり、現代になって、色々な選択肢が拓けている中で、今の若手世代御曹司の皆は、自ら歌舞伎役者になることを選んだんだと思うし、やはりその覚悟に見合うだけの実力がある。これから歌舞伎がどうなっていくか全くわからない中で、歌舞伎を将来の道として選択してくれたことは、歌舞伎ファンとしてとてもありがたい。そんな御曹司たちとそうじゃない人達とで切磋琢磨していくのが健全なんじゃないかなあと思う。

そして、冒頭に戻ると、「お父さん(orお爺さんその他親戚)に似てきたね!」といった一連のグロ感想も、今の価値観にそぐわないものとして自然と淘汰されていくんじゃないかなあ。そして、価値が大き過ぎて空席になっていたはずの大名跡の価値は、空席のまま忘れ去られることになり、古典演目歌舞伎座でかかるとネット上でもかろうじて見受けられる、あの動作過去に誰々が始めたものだ、みたいなコメントマウントと、それを把握しなければならないという価値観も、良くも悪くも間もなく消えていくんだろう。

――最近研修所への入会やお弟子さんの入門自体微々たる数しかいから、まずそこから増やさないと、歌舞伎文化継続自体がかなりマズい? それはそう。

2024-09-09

anond:20240908014917

これはなんか批判対象になったら全要素否定しだす典型的アホしぐさの話なんで

そんなのを真面目に受け取ってもしょうがない

どんな風貌してても「犯罪者って感じの顔だわ」みたいなコメント一定数つく

2024-09-08

anond:20240908121650

から弱者男性だが、保守系右翼って日本日本人に対する批判というか日本内部に向ける批判は必ず対象を絞るんだよね

そして批判対象が広がりすぎた時は必ずと言っていいぐらいしばかれるんだよねお仲間からも含めて

一方リベラルフェミニストオタク差別、チー牛差別容姿差別)、弱者男性差別おっさん差別学歴差別年収差別門地差別職業差別などなど積極的に行い過ぎて敵を作る……というか好戦的すぎるんだよね

そういうのを受けてコイツ日本人じゃないよねって言われるの

2024-08-25

北村紗衣と須藤にわか論点はずれているが、共通問題あぶり出している

太田出版Webマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。

私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。

発端となった元連載の内容

まず連載の企画趣旨は以下の通り

映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載

北村紗衣氏の主な論点は以下の通り

①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった

自分アメリカン・ニュー・シネマが好きではない

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった

④ニュー・ハリウッド反体制的な要素と、あからさまな暴力セックス表現が主な特徴として挙げられる

アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流

⑥『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画

北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨みえる。

須藤にわか氏の異議

これに対して、須藤にわか氏の主張は以下の通り。

①「あからさまな暴力セックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている

アメリカン・ニューシネマフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー

アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない

④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える

⑤ニューシネマは「暴力セックス」の映画ではない

⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリー

⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評カテゴリー自体差別的

北村氏の反論

須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかやすくまとまっている

①New Hollywoodの特徴のひとつセックス暴力があげられるのは当たり前

②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている

③広く使われているジャンル用語勝手に変更しない

論点のズレ

須藤にわか氏の明確な誤り

須藤にわか氏は

例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリー自分で見て「このカテゴリーには黒人映画女性主人公映画が入ってないか差別的」だと言っている

と述べているが、これは明らかに違っていて、

北村氏がいうように、

決めたのは私じゃなくて今までの批評

まり北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ

ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズのものに反発している。

北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張であるそもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的カテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しか知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である

(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)

さらなる食い違い

須藤氏は北村氏の姿勢について、

「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。

と言っており、

北村氏は

「(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリー」なんだから批判されて当然ですよね?

という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象範囲が違うようだ。

須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーのものであると同時に、カテゴリーに含まれ作品群も含まれると私は解釈した。

須藤にわか氏の論の本質と、北村紗衣氏の指摘

須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。

60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力セックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。

そのくせに、結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してないんですよ。

これに対して須藤氏は、

だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動実態がないもの運動責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。

アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評カテゴリー自体差別的

この点、北村氏も、

>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性主人公にした物語代表作として受容され、研究白人男性監督だけを対象としてきたこはいたるところで指摘されています<<

と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーのもの問題があることは認識しているように見える。

まり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズ問題があるという点では、共通認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネ解釈一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。

しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーのもの問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリサスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究白人男性監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。

なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動実態がないもの運動責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。

「問い直してない」論法は、レッテル貼りに使いやすい。

ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメ作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)

須藤にわか氏が作品擁護する姿勢理解できる。

増田感想

文系学問特に文学社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロ作品人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品人間もつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単差別につながる。「この時代に生まれ人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品人間評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。

少なくとも発端となった連載は素人映画をより深く鑑賞する視点提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。

たとえば北村紗衣氏がいうように、

「やっぱり、この映画ハリーのことをどう捉えているのかの解釈が難しい」

というところが、「ダーティハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。

あるいは、須藤にわか氏のいうように

そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代アメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから

ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。

須藤にわか氏のエントリについたクソブコメ

serio フェミニストはありとあらゆる事象フェミニスト視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。

→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象フェミニスト視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている

hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな

→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性さらけ出しているのがキモい

jassmaz 文学理論批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代アメリカ価値観完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力である。87年出版アラン・ブルームアメリカン・マインド終焉』を読もう。

→「この時代アメリカ価値観完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは

北村紗衣氏のエントリについたクソブコメ

tokuniimihanai あちらの記事批判相手職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる

→読まずに断じているゴミ

takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間大量発生するのが歪み

→態度を保留するって、どういう立場後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい

ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ

そもそも商業媒体ブログ応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。

どちらのブコメにも共通していえること

二人に対するクソブコメの数々は

権威主義的で映画のものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わず他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能

ではないか、ということを己に“問い直して”みてはいかがだろうか。

2024-08-17

スターウォーズだったらレイカイロ・レンのキスは勿論としてアナキンとパドメのラブシーンですら叩かれてたのに

批判対象黒人同性愛者になった途端「白人の男女だったら叩かなかったくせに!」と決めつけてくるのは卑怯だと思う

2024-08-13

anond:20240813120156

もうwokeやトランスジェンダリズム欧米では批判対象になるのが主流なのにアップデートせずに古い価値観にしがみついているんだよな

2024-07-10

anond:20240710101617

客観的に見て、都民大衆に最も利益のある批判対象って与党や現職知事とか権威ある立場に対する監視批判なのに、なぜか与党様にはゲロ甘、野党は死に絶えるまで叩く!をやってメディアがこぞって国民扇動してるんだよな………💰

で、疑いもせず叩く動機ができたと喜んで人を蔑んでる皆様…

2024-07-09

anond:20240708223813

じゃあ最初から「いい音楽」ではなく「好みの音楽」という視点批判しているということを明示してほしいわな。

not for meってやつか。

「好みの音楽でないからお前は初心者だ」っていうのと

「いい音楽じゃないからお前は初心者だ」っていうのとじゃ全然ニュアンスも、書き手意図(腹黒さ)も違うだろ。

前者なら「お前の好みかどうかと俺が初心者かは無関係だよね(そしてお前の好みじゃなくても聞いてくれる人がたくさんいるからそれだけの話だよね)」と反論できるが、

後者だと「いい音楽」の定義問題から始まって余計な議論を生み出し千日手もつれこむ。それが狙いなのかもしれないが。

だいたい元増田の「やつ」がDTM10選手で、それでも再生数は最高で100ちょっとだとして、

批判対象の再生数が10万再生以上なのに、「これはDTMやって一週間レベルだ」というのはさすがに推測の妥当性が低すぎだろ。

10年やってる自分再生数を大きくうわまっているのに、その100分の1以下の期間しかやってないと主張できるのは図太すぎるわ。

2024-07-08

暇より票取って陰謀論を撒き散らすし、反ワクやトンデモ医療現実で暇以上に迷惑内海聡はまったく批判されなかったのは

君たちは正義のためでもなくて単に嫌いだからだよね?w

雨宮純@caffelover

内海氏は不正選挙を想起させる投稿を行い、見事に支持者が盛り上がっています

https://twitter.com/caffelover/status/1810085077365461285

ちゃん陰謀論追ってる人は批判対象はこの人だよね。

やっぱサヨクのお友達だと陰謀論者でもはてなではセーフなんだろうな。

その一人がブログに登場するトンデモ医師代表である内海聡医師

あと津田大介って人なんですけど

https://www.is-ah.com/blog/3236/

2024-06-21

anond:20240614215613

https://b.hatena.ne.jp/entry?url=https%3A%2F%2Ffanyv88.com%3A443%2Fhttps%2Fanond.hatelabo.jp%2F20240614215613

はてブコメントひでぇな。

俺の言い分は正しい、俺は批判対象じゃない(MV関係者に言え)、取り下げろなんて言ってない、こんなのばっかじゃん。

人殺しの顔とまでは言わんが、せめて批判者の顔ぐらいはしろよ。

2024-06-18

anond:20240617230419

コロンブスについてはSNSをかじってれば、ここ数年の間に海外ではポリコレ側が批判対象として像を撤去しようとしたりする一方、直近では、それに対して反ポリコレ側のバックラッシュの動きも盛り上がり像も記述も昔のままでいいだろ的な流れが大きくなってる、という激しい対立や変化をつかめる。

MVから後者の反ポリコレへのシンパシーを感じる。「歴史偉人ポリコレ見直しなんか必要いから明るくハッピーな未開人への教育描写を詰め込む」という気持ちを。

一方で、逆に「歴史偉人が実際にやってたことってこんなことよ」とわざと植民地主義を強調する作りにして世に伝えるポリコレ的なMVにも見えてくる。

そういう意味で両者のバランスが取れていたMVなのかもしれない。

2024-06-03

なんで2ch漫画系板で腐女子を叩くのが批判されたん?

住民おっさんばかりの今ならともかく

20年前くらいの2ch中学生高校生も沢山いた

週刊少年漫画板はジャンプマガジンサンデーチャンピオンのどの漫画面白いかでムキになる中学生も沢山いた

俺もそうだった(ダメ中学生だね)

から思うんだけど何でその当時にBLカップリングするような女オタクを叩いてたのが今になって批判されるんだろうな?

オッサンが女オタクを叩くのを批判するならともかく、何で20年前のオッサンにもなってない男子まで批判対象にされるんだろうな

例えばさ、小学生女子プリキュア見てる男オタクキモいって言うのは男女差別か?

自分が楽しんでるコンテンツオタク達が邪な目で見てるのを気持ち悪がるのは仕方ない事だろう

一方で少年ジャンプ等は20年前には既に小学生というより中学生以上の男子想定読者としていたが

その中学生男子BLカップリングするような女オタク達を気持ち悪いと思うのって

プリキュア見てる小学生女子が邪な目で見てる男オタク達を気持ち悪いと思うのとどんだけ違うんだろうね

あぁプリキュアは実際は幼稚園女子が想定視聴者だったって違いくらいはあるかもね

あとプリキュア見てる男子少年漫画見てる女子もいるけど、どっちにしろ邪な目で見るオタク気持ち悪いと思うのは変わらんけどな

さて、「小学生気持ち悪いと言ってもいいけど中学生気持ち悪いと他人に言っては良くない」って意見もあるだろうけど

その場合中学生向けの少女漫画を見る男オタクはどんな奴も気持ち悪いと言ってはいけない事になるけど

それでいいなら別にいいけどな

こういう事言ってると「20年前から週間少年漫画板はオッサンだらけだった」って言い張る人達が出るかもな

もしくは「何でも1か0かで考えられねえのか」みたいな便利な論理で煙に巻く人も出るかもな

それを言う人達の中には2ch腐女子批判を片っ端から男女差別と断定するのには何も思わない人もいるんだろうな

ホント凄いよな

何があっても女が被害者で男が加害者って考えが腐女子批判にもキレる人を生むのかねぇ

2024-06-02

anond:20240602041146

常識だわ早くやれよ

先行研究を踏まえて批判するのは当然

作業所組がなんでイキって東大卒って言っちゃったの?

お前は一度も批判対象となる文章を書いていないか批判のしようがない。アファーマティブアクション正当性を主張したいならさっさと文章書けよ、批判してやる

http://www.shogaku.com/books/data/180.htm

https://www.shojihomu.co.jp/publishing/details?publish_id=4580&cd=235501

はい批判してください

ワイの考えはアファーマティブアクションバカ知識なし専門性軽視して適当批判する奴は死ねなので過去議論過去研究を踏まえて批判してください

はやくやれ

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