はてなキーワード: 数学書とは
街コンに行くと、いつも何を話すべきか迷う。
人が集まる場だし、みんな軽い話題で盛り上がってるんだろうけど、俺はいつも違う。
女性たちは不思議そうな顔をしていたけど、そんなのはお構いなしだ。
だって、これは美の根本に関わる話なんだから。誰でも分かるだろう。いや、分からなきゃおかしい。
「たとえば、ピタゴラスの定理。a² + b² = c² なんて、中学生でも知ってるでしょ?でも、あの定理が持つ幾何学的な美しさ、理解してます?ただの数式じゃないんですよ、これは宇宙の秩序そのものを象徴してるんです。直角三角形の辺の比が、どうしてあんなに完璧に収まるのか、その背後にあるシンメトリーとバランス、これはただの計算じゃ説明できないんです。幾何学は、自然界に隠された美を可視化する手段なんです」
女性たちは相変わらずポカンとしていたが、そんなことは全く気にしない。
「それに、円と黄金比ですよ。黄金比の美しさって聞いたことありますよね? φ(ファイ)という無理数、1:1.618...っていうあの比率は、自然界でも至るところに現れるんです。貝殻の螺旋や、ヒマワリの種の配置、果てはギリシャのパルテノン神殿まで。これらすべてが、幾何学的な美しさの証明なんですよ。建築家や芸術家たちは、何千年も前からこの黄金比に魅せられてきたんです。それが美の基準なんです。たとえば、あなたが好きな絵画も、おそらく黄金比に従って構図が決まっているはずですよ」
ここまで来ると、女性の一人が「へぇ〜、すごいですね…」と、曖昧な笑みを浮かべているのが目に入る。
だが、その目に理解の色はない。いや、むしろ遠ざかっているかもしれない。
それでも俺は一歩も引かない。だって、幾何学は俺の人生そのものなのだから。
「次はもっと複雑な話をしましょうか?ユークリッドの『原論』はご存知ですか?あれは古代ギリシャで書かれた数学書で、数千年の間、数学の基礎として使われてきたんです。『原論』の最初の定義は、点は幅を持たないもの、線は幅を持たず長さを持つもの。これをもとに、無限に広がる空間の中で幾何学的な図形を描くんです。そして、その空間の中に、あらゆる美が存在するんです。アポロニウスの円錐曲線における楕円の美しさなんか、誰でも感動するはずです」
彼女たちは完全に引いていたが、そんなことはもう気にしない。
「俺にとって幾何学は、ただの学問じゃないんです。これは美を追求する哲学であり、生き方なんです。人々がモナ・リザやアフロディーテ像に美を見出すように、俺はピタゴラスやユークリッドにその美を見出しているんです」
幾何学の美しさを語り終えた頃、ようやくふと我に返り、周囲の反応を確認してみた。
皆、頬に作り笑いを浮かべているが、目は明らかに遠く、何か別の世界に意識を飛ばしているかのようだった。
ひとりはスマホをチラッと確認し、もうひとりは、手元のグラスに注がれた水をいじっている。
こちらを見ている女性もいたが、彼女の表情はどう見ても「本当にこの人何を言っているの?」という困惑そのものだった。
「ええ、そうですね……幾何学って、すごいですね……」と、一人がようやく口を開いたが、その声には熱意も、理解も、ましてや感銘など微塵も感じられない。
表面的に場を繋ごうとするその言葉は、俺が夢中で語っていた美の真髄が、まるで真空の中に吸い込まれたかのように、何も響いていないのをはっきりと感じさせた。
もう一人が、さらに微妙な笑みを浮かべ、「あ、そうなんですか……それで、その定理って、なんでしたっけ……?」と、曖昧に質問してくる。
しかし、それは好奇心ではなく、ただ適当に話を引き延ばすための、無理やりな興味に過ぎないことは明白だった。
俺はその瞬間、すべてを理解した。
ああ、やっぱりこうなるのか、と。幾何学的美しさを解くことで、彼女たちの心を動かすことはできないんだと。
俺の語るピタゴラスの定理も、黄金比の神秘も、彼女たちにとってはただの退屈な講義に過ぎない。
彼女たちは、たぶん映画の話や、食べ物、旅行の話を楽しみにしていたのだろう。それが街コンで求められる「会話」なのだ。
「まあ、こういう話、ちょっと難しいですかね……」と自分から話を切り上げるが、内心、虚しさと諦念がこみ上げてくる。
俺は分かっているんだ。結局、幾何学の美を理解できる人間は、ここにはいない。
諦めが胸に染み渡り、俺はふと目の前のグラスを手に取る。
冷たい水が喉を通り、ほんの一瞬だけ現実感を取り戻すが、同時に心の中でつぶやいた。
俺は幾何学を愛している。それだけで十分だ。理解されなくてもいい。これが俺の誇りなのだから。
女性たちがどれだけ俺に興味を持ったかなんて、もうどうでもよかった。
最終的に、女性たちがどれだけ幾何学に興味を持ったかは知らない。
だが、俺の中では確信がある。
最近、本を選ぶうえで頼りにするようになったのがTwitterのおすすめ欄である。
書籍を選ぶ上では通販が体になじまず、未だに書店に足しげく通う私であったが、この方法での選書は非常にしっくりくるのだ。
1つはTwitterのおすすめが適度にノイジーなものであるからだと思う。
私はSF小説、経済の専門書、数学書などてんでバラバラな本を読んでいるが、Twitterのおすすめアルゴリズムはそのそれぞれの分野から一歩踏み出したような本を提示してくれる。
この点で、通販サイトにあるような機械的に同質のものをレコメンドする機能よりも関心を広げ新たな本にであううえで非常に役立つ。
また、レビューと異なりある本に対するツイートは主にその本を読んでほしいと考える人物によって書かれていることも馴染んだ理由だと思う。
内容の如何にかかわらず私は本に対するネガティブな評価が苦手であり(批判は必要であるが、合わない書籍を頭ごなしに低評価する人が多いと思う)、それが嫌でも目に入るのでインターネットで本を選ぶのは苦手であった。
だが、Twitterではそれを気にすることなく、自分の知らない本について知ることができるのもありがたい点である。
これらのことを考えると、Twitterで本を探すのは書店で関心がある分野の本棚を眺め、なんとなく惹かれたものを購入するというこれまでの選書に近いことをしているのだと気づいた。
今まで通り書店には通いたいと思うが、Twitterのおすすめ欄という"書店の本棚"も利用して様々な本と出合いたいと思う。
数学書にもレベルがあるし、解答つけないレベルの本を書いてる人は解答なくても最低限いろいろ頑張れるよねっていう読者を想定してるよねってだけでは
解答を全部丁寧につけたらそれこそページ数2倍とかになっちゃうし…
選民思想あるよねっていうか、解答がない本が出てくるレベルの数学(少なくとも大学以降の数学)を理解できる頭のある人間ってそこそこ選民だよねっていうのは、ある程度客観的な事実じゃないか・・・?
馬鹿が読んでもわからんものはわからんし、学部4年生くらいまでの教養レベルの数学なら懇切丁寧に教えればかなりの数が理解できるのかもしれないが、そんな連中に懇切丁寧に教えても時間を割くデメリットがメリットを上回ってるってだけ
私は図書館を愛用しており、よく通っていた。
ある日の休日いつものように本を借りに行くと目当ての本はなく、貸出中だった。仕方がないので予約しようと司書さんに話しかけると「あれ?」と首を傾げた。なんでも確認するとその本は貸出中にはなっていなかったらしい。お互い怪訝に思いながらも仕方なく、確認しておくとのことでその日は別の本を借りて帰ることにした。
あくる日、同様のことが再びあった。貸出中ではないはずの本が無かったのだ。私はその本に限ってはどうしても目を通したかったので、なんとかならないものかと詰め寄った。しかしそうした本は不思議にも数日後には戻っていることが常だったらしく、数日後には戻ってきますよと軽い態度で対応された。私は憤り、運営の仕方を非難すると図書館側もなるほどと頷き、こうした事態が何度も続くようでは困るとのことで、対策を取りましょうと言ってくれた。私が借りようとしていた本のジャンルには偏りがあり(そのとき借りようとしていたのはリー群に関するものだった)、以前に借りようとして無くなっていた本も同じジャンルの本といえた。
そこで図書館側は数学書をマークすることにし、自然な形で司書さんがその棚を監視することになった。その後、確か三日後だったと思う。高校生が犯人だったことがわかり、彼は万引きのようにして本を借りていた。
そう、万引きではなく、借りていたのだ。
彼は図書カードがないため、借りたい本がある場合には本を鞄へ入れて持ち帰り、後日こっそり元の場所へと戻していたのだという。
確かに無くなっていた本はいつの間にか戻っており、盗まれたわけではなかった。
それでも図書館側は事態を重く受け止め、少年の高校へと連絡することになった。少年は必死に自己弁護し、本は盗んだわけではなくちゃんと返しているじゃないかと言い迫った。しかしそれでも万引きには違いないとして、結局高校へと連絡をしたそうだ。
後日その少年が捕まったことを聞いた。彼は高校を退学となり、それで何もかもが嫌になり、犯行に及んだそうだ。
それを聞いたとき、私は良心の呵責を感じた。直接的でないにしろ彼を退学に追いやったのは私だ。
無くなっていた本が数日後には戻っていることには私も気が付いていたのだ。だからあのとき、私が「どうにかしてくれ」と強く願いでなければ、おそらくあの少年は本を借り続けることができ、そして退学になることはなかっただろう。
そうした自責の念が今でも脳裏を過ぎり、もう遠い昔のことだが、それでも今となっては昨日のことのように思い出す。
私はあの時、どうすればよかったのだろうか。
しかし、こういった商品は運びやすいように組み立て式になっており、しかもDIYしている気分になれるので一石二鳥なのです。
本棚を組み立て終わると、デスクの上に積んであった本の山をすっぽりと収めることができました。
というのも、私は数学愛好家なので、リファレンスとして数学書を大人買いしたいのです。
仕事柄、特に線形代数や離散最適化のような数学は使いますが、私が興味のあるのはそういった実用志向のアルゴリズムではありません。
むしろ取り組みたいのは、フェルマーの最終定理やラングランズ予想のような、一見すると実用からは遠いけれど、数学の本質を突くような深淵です。
数学には二種類の文化があり、アルゴリズム的な問題解決者と、深淵な理論を目指す者がいます。
プログラマーであればほぼ例外なく前者の立場になりますが、後者というのは「理論Aの理解のためにはBの理解が必要で、その理解にはCの理解が必要で、その理解のためには...」という階層が非常に深いものを表します。
私はいまだに、コホモロジーとはなんであるのかについてよくわからないのです。
コホモロジーをGPTに対し「小学生にもわかるように説明せよ」とやったものが以下です。
コホモロジーは、数学の中のとても難しい概念ですが、小学生にわかりやすく説明するために、一緒に想像の旅に出かけてみましょう。
まず、コホモロジーは、ある種の「形」や「パターン」を見つけるための道具と考えてみてください。例えば、あなたが宝探しをしていて、地図があるとします。この地図は、宝物がどこにあるかを示しています。しかし、この地図はただの紙切れで、宝物自体は地図にはありません。でも、地図を使って、宝物のありかを見つけることができますよね。
コホモロジーも同じようなものです。コホモロジーは、数学的な「地図」のようなもので、それを使って、数学の世界に隠された「宝物」を見つけることができます。この「宝物」は、数学の中の特定のパターンや形、構造などを指します。
しかし、コホモロジーはとても複雑で、大人でも理解するのが難しいです。だから、小学生のあなたがすぐに理解できなくても大丈夫です。大切なのは、コホモロジーのような難しい概念に挑戦する勇気と、学び続ける意欲を持つことです。これからも、色々なことに興味を持ち、学び続けてくださいね!。
これじゃあ、なにも理解していないのと同じでしょう。結局、深淵を理解するためには地道な努力が必要です。
理論構築者の観点からみると、数学は登山に似ていると思います。
コホモロジーにたどり着くためには、集合論、群論、位相幾何学、ホモロジー理論と順を追っていかなければならないのです。
これまでの私は、理論構築者ではなく、問題解決者だったので、「問題」という単位で物事を理解してきました。
アルゴリズムなので、問題を解くための前提知識はさほど必要なく、むしろ必要なのはIQです。
ところが、ラングランズプログラムや超弦理論といった深淵は、IQに加えて、山登りの体力や努力や時間が必須になります。
しかも、仮に山を登り終えたとしても、プログラマーの仕事としてなんの役にも立たないのです。
深淵に取り組むというのは、そういう廃人的な努力を必要とするので、職業的な数学者でない限り努力の誘因が失われてしまいます。
深淵な登山をして、誰にも認められることなく自己満足して、何が楽しいのでしょうか。
20歳の時、暇つぶしでマッチングアプリに登録した。真剣に出会いを求めていなかったから、プロフィール画像に、東南アジアの売店で買ったお面をつけた自分の写真を選んだ。そんな写真だから、いいね数はものすごーく少なかったけど、ありきたりな写真が多い中、面白そうな人が居たので、メッセージ送ってみました! なんて言ってくれる人もちらほらといた。
友人は最低3週間はメッセージしてから、会った方が良いと言っていたけど、開始3日で飽きてきたので、1週間後、やり取りしていた数学科在籍の人とバッティングセンターで遊ぶことになった。
彼のプロフィールの写真から、見た目に関しては全く期待していなかったが、実際に会ってみて、それ以下だったのは驚いた。目は虚ろだし、髪はボサボサで姿勢も悪い。
池袋をウロウロしながら、なぜプロフィール画像が、奇妙な私にメッセージを送ったのか聞いたら、最近読んだホラー漫画に似たようなキャラが出てきたからって言っていた。訳がわからない。
喋っていたら、バッティングセンターへ着いた。彼が打つ時、鞄を持ってあげようとしたら、やけに重い。チラッと中身をみたら、数学書が4冊入っていた。今いるか、数学書。それに、彼はボールは全て当たるけど、残念ながら、一回も前へ飛んでいかなかった。
バッティングセンターを出て、夕食まで時間があったので、近くのゲームセンターへ立ち寄った。彼は私の後ろをふわふわと着いて来ていたが、急に居なくなった。探していたら、あるプリクラ機の前に彼がいた。どうしたのかと聞けば、√meと書いてあったのが、気になったらしい。
そろそろ辺りが暗くなってきたので、夕食にすることにした。どこにしようかと2人で歩きながら考えていたら、目の前に、バニーガールが思いっきり見えるガラス張りのガールズバーがあった。気まずくなった私は思わず、そういうお店に行くのか聞いたら、お金がもったいないから、その分数学書に使いたいと言っていた。
そうこうしているうちに、彼があそこに赤毛の女の子がいる!って指差すから、見てみるとウェンディーズがあった。じわじわと面白さが込み上げてきたので、そこにした。
ハンバーガーを食べながら、彼がさっき書いてあった√meについての考察を教えてくれた。意味わからんかったけど。
それから、電池が切れたように喋らなくなって、ただぬるい感じの笑みで私を見つめていたのを覚えている。
次いつ会うか決めて、その日は終わった。
結局、次会った時、彼と付き合う事になった。
私が読みたいのは、大きな物語というか、今までに見たことのない驚きのある結論を持つ物語であり、
SFというジャンルが好きなのも、物語のフレームとして、そうした驚きある結論へのシラバスとなりやすいからというだけ。
だから、そこに登場する仰々しいギミックには、そうした結論への素材以上の興味が持てない。
それは、大きな定理を導く一過程にしか過ぎず、その導出の自然さに納得したら、あとは忘れてしまうようなもの。
だから、数学書はなるべく短い方が読みやすいように、SFも「オッカムの剃刀」的に、ギミックは少ない方がむしろ好み。
同じ結論をもたらす物語なら、ギミックが少ない物語の方が読みやすいわけであり、個人的には素晴らしいSFだと感じる。
あと、キャラクターについてもそう。
大きな物語のためなら、別にキャラクターはどんな目に合っても構わないと思っている。
(それは逆に、物語にコミットしないキャラクターの悲哀は描かない方がよいと個人的には思っている、ということでもある。)
キャラクターは、驚きある結論に仕える舞台装置としか思えないので、先の仰々しいギミックと同じ意味で、興味が持てない。
ギミックもキャラクターも、面白い物語を成立させるための具材でしかないと、個人的には思ってしまう。
それゆえ、自分でもこうして、増田などに自分で考えた文章を多々投じているのだが、毎回、ギミックやキャラクターが無い文章を書いているなぁと思う。
ただ、それでもある程度はブックマークしてもらえるので、そこを見直そうという意欲は薄いのだが、
そこを押さえたら、もっと幅広い人に読んでもらえる文章になるんだろうなとは思う。
なので、今年はギミックやキャラクターに舞台装置以上の興味(好奇心や愛情というのか)を持って、文章を読んでいきたい今日このごろ。
いつかは、こういう散文でなく、流れある小説を書いてみたいと思うので、そういうところも押さえいくようにしたい。
zlibraryっていうのは本を違法で共有するサイト。英語の本は割となんでもある感じだったけど、日本語の本はkindle unlimitedのとか、数少ない数学書が違法投稿されているだけだったから、日本で話題にならないのもわかる。
そんなzlibraryが死んで(ドメインが停止されただけ?)、tiktokが叩かれてる。tiktokで無知なやつが無料で本を読めるサイトとして紹介してバズったせいて警察に目をつけられたと言う。ほんまかいなと思うけど、「tiktok zlibrary」をtwitterで検索するとtiktokへの憎悪がすごい。嫌われてんね、tiktok。
それはそうと、日本では違法アップロードされた漫画はそこかしこにあるけど、それ以外はほぼ皆無なのはなんでなんだろう。zlibraryは違法投稿者が利益を受けれる仕組みではなかったと思うのに、なんで英語の本は投稿されてたんだろう。