龍鳳とは、大日本帝國海軍が運用した潜水母艦改装空母である。1942年11月30日改装工事完了。輸送任務やマリアナ沖海戦に参加し、大破状態で終戦まで生き残った。1946年9月25日解体完了。
概要
1941年7月、仮想敵アメリカの空母増強計画に対抗するべく、日本海軍は潜水母艦大鯨の空母改装化を決定。元々大鯨は有事に備えて短期間で空母に改装出来るよう造られていた。
改装は瑞鳳型に準拠。艦体はそのままとし、艦首にシアとフレアを持つ。しかし電気溶接部分に歪みが生じるなどの問題が発生したためリベット打ちに変更している。両舷に突き出た補助艦橋があり左側の艦橋には防空指揮所がある事から戦闘艦橋と呼ばれる。格納庫前方の上甲板室上に支柱2組を設置して全長185m、前端幅12m、中央幅23m、後端幅16mの飛行甲板を設け、前後に1基ずつエレベーターを有する。瑞鳳と形状が似ている事から識別のため艦尾に「りゅ」という文字を描いている。また飛行甲板は瑞鳳型より約5m延伸され、対空兵装も瑞鳳型より強化された。
艦載機の搭載数は零戦21機、艦攻9機の計30機だが、格納スペースの乏しさから4機は甲板上で露天駐機。最大速力は26.5ノットと低めではあるものの、商船を改造した大鷹型と比較すれば高速なので攻撃型空母となりえた。
ミッドウェー海戦の戦訓に則って消火装置を改良。従来の炭酸ガス方式では破孔が生じると効果が減じてしまうため新たに泡沫式撒水装置を採用。これは30%濃度の石鹼水を噴射し、海水と空気が化合する事で泡が発生する仕組みである。格納庫の前・中・後部に独立した電源を用意する事で電力喪失の事態に陥っても格納庫が稼働するよう工夫、被弾時に生じる破片から導管を保護するべくDS鋼板で覆い、左右交互に防御された消防監視所を設置、延焼しやすい油性塗料を剥がして広範囲にアートメタル・ペイントを使用するなど、執念とも言える徹底した難燃対策を実施した。
龍鳳飛行隊はブイン方面の空戦で敵機30機以上を撃墜、航空攻撃でPT-117、PT-164、攻撃輸送艦ジョン・ペンを撃沈、龍鳳自身の対空砲火でアベンジャー1機とヘルダイバー2機を撃墜する戦果を挙げ、終戦まで生き残った。一方で大きな海戦はマリアナ沖海戦にしか参加していない。
諸元は排水量13360トン、全長215.65m、全幅19.58m、速度26.5ノット、出力52000馬力、乗員989名。兵装は八九式12.7cm連装高角砲4基、九六式25mm三連装機銃10基、艦戦21機、艦攻9機。
戦歴
1941年12月18日、大鯨はクェゼリンでの補給任務を終えて横須賀に帰投。さっそく工廠に入渠して改装工事を始めた。大鯨は空母改装を見越した設計となっているため3ヶ月程度で工事が終わるはずだったが…。
大鯨には不調や故障を多く抱えるディーゼルエンジンを持っており、まず信頼性の高いタービン機関に交換する必要があった。既に完成している艦の機関を交換するのは容易ではなく、横っ腹に大きな穴を開け、強引に入れ替える大工事が必要だった。
更に1942年4月18日、1機のB-25爆撃機が横須賀軍港の上空に出現(ドーリットル空襲)。B-25から投弾された爆弾が大鯨の艦首に直撃し、焼夷弾30発(うち8発が不発)が船渠内に転がり込んで来た。幸い致命傷ではなかったものの工事が遅延したのは言うまでもない。ちなみにこのB-25は鹵獲対策で照準器を外しており爆弾が命中したのは全くの偶然だったという。
10月20日に舞鶴鎮守府へ編入、11月からは海軍工廠の技術者を乗せて東京湾で公試を行って良好な成績を収め、そして11月28日に改装工事完了。11月30日に軍艦龍鳳と命名され、空母に生まれ変わった。初代艦長に亀井凱夫大佐が着任するとともに新設された第3艦隊に編入。航空機の不足から、龍鳳は自前の航空隊を持っていなかった。
1942年
竣工日の11月30日から12月10日にかけて、新型艦上攻撃機天山の運用試験を瑞鶴とともに実施。天山は従来の九七式艦攻より重量が2000kgも増加しており、従来機にしか対応していない龍鳳では、制動索を切断する事故が多発したという。また発艦距離を短縮するロケット促進装置RATOの試験運用も並行して行われた。
試験に協力中の12月4日、連合艦隊電令作第405号が発令。トラック諸島へ陸軍飛行第45戦隊の九九式双発軽爆撃機22機と付属部隊の輸送を命じられる。龍鳳にとって初の任務であった。満州北西部から横須賀に到着した九九式双爆22機を飛行甲板に積載し、付属部隊133名と飛行団長の白銀(しろがね)重ニ少将が乗艦した。輸送任務には同じ改装空母である冲鷹が同伴する予定だったが、主吸水ポンプの故障により龍鳳1隻のみの輸送となった。
12月10日15時、駆逐艦時津風の護衛を受けて出港。何事も無ければ12月16日午前5時にトラック北水道へ到着するはずだったが、その先には不幸が待ち構えていた。12月12日午前10時12分、八丈島東方約160海里で右舷側から4本の雷跡が伸びてきた。魚雷の主は豊後水道へ機雷敷設に向かっていた米潜水艦ドラムであった。うち1本が右舷中央部に命中して中破。生じた破孔から海水が流入し、陸兵45名を含む100名以上が死傷してしまった。被雷した龍鳳は直ちに横須賀鎮守府へ位置情報を通達。幸い航行に支障は無かったが、とてもトラックまで行ける状態ではなかったため、午前10時53分に横須賀へ引き返す旨と駆逐艦の派遣を要請する電文を打った。
ドラムは潜望鏡を上げ、右に傾く龍鳳を見つめる。海面の潜望鏡に気付いた機銃員が銃撃を加えた。いつトドメの一撃を刺されてもおかしくない状況だったが、ドラムは機雷敷設に向かう途中だったため艦首魚雷発射管2門に機雷を積んでいて雷撃できなかった。艦尾の魚雷でトドメを刺そうとしたその瞬間、異変に気付いた時津風が駆けつけて爆雷を投下。急速潜航を行うも、的確な投射によりポートシャフトが停止。海中での緊急修理を強いられる。その間に龍鳳は8ノットで後進開始。修理を終えたドラムが浮上できたのは夕方で、既に龍鳳の姿は無かった。道中で横須賀から派遣された駆逐艦旗風と館山航空隊が護衛に加わり、12月14日に横須賀へ入港。死地から生還する事が出来た。
しかし輸送任務は失敗となり、九九式双爆は点検が必要だとして陸軍学校鉾田飛行場に移送。被雷の際に負傷した陸兵や白銀少将も送られた。12月16日より横須賀工廠に入渠して修理を受ける。龍鳳が輸送するはずだった九九式双爆は、瑞鶴によってトラックまで運ばれた。
1943年
1943年1月15日、訓練専門の第50航空戦隊が新設される。正規空母はソロモン方面へ派遣されていたため、内地にいた龍鳳と鳳翔が練習空母として編入された。主任務は築城海軍航空隊と鹿屋海軍航空隊の訓練に協力し、搭乗員の育成に当たる事だった。搭乗員の育成は急務であり、修理を終える前に出渠。2月7日と8日に東京湾にて鹿屋航空隊の発着艦訓練に協力した。
2月10日、正式に修理が完了。2月15日に横須賀を出港して東京湾で単独訓練に従事。基礎訓練、諸兵器及び諸装置の公試・試験、臨戦準備作業等を実施。3月15日と16日に翔鶴航空隊の発着艦訓練に協力。3月19日午前7時、横須賀を出発。東京湾で翔鶴、駆逐艦響、浜風、波風、漣と合流して瀬戸内海西部へ回航。翌20日13時に到着し、搭乗員の卵に実習の場を提供する。時には雷撃訓練の標的艦をも務めた。5月5日から13日まで駐日ドイツ海軍武官が龍鳳に乗艦。軍機以外は全て開放し、母艦の諸装置や九九式艦爆の発着艦を見学していった。
アッツ島方面作戦のため一時帰国していた主力艦隊がトラックに戻る事となり、それに合わせて龍鳳も前線への進出が決定。6月11日午前9時46分、戦艦榛名とともに横須賀への回航命令が下る。最前線から瑞鶴が帰投し、交代でトラック諸島に進出する事が決まったからだった。同日15時に瀬戸内海を出発、長浜沖で仮泊して榛名と合流。これに伴って翌12日に第3艦隊第2航空戦隊へ転属となり、教育任務から離れた。午前11時に長浜沖を出発し、6月13日に横須賀に入港した。港内には中破した飛鷹が停泊していて、航空機と人員を引き取ってトラックへ輸送する事になった。ただ飛鷹の船体は龍鳳より大きかったため全ては乗り切らず、あふれた機は空路でトラックに向かった。飛鷹から将旗を受け取り、第2航空戦隊の旗艦となる。
6月16日、トラック基地に進出する艦隊の一員となって横須賀を出港。月齢が増大する日は敵機襲来の可能性が高く、対空警戒を厳にして航行。しかし敵は空からではなく、海中から襲ってきた。6月21日午前2時40分、オロール島の西水道で米潜スピアフィッシュの雷撃を受け、4本の魚雷が迫り来る。幸い回避に成功し、同日中にトラック泊地へ入港。魚雷防御網に囲まれた泊地に投錨した。軽巡長良と駆逐艦夕暮にウォッゼ行きの人員と輸送物件を移乗し、6月22日に作業完了。大分の第12航空隊出身の若手搭乗員を鍛えるため、泊地内で訓練を開始した。
龍鳳がトラックに進出した頃、ソロモン方面の戦況は悪化の一途を辿っていた。6月30日、ニュージョージア島付近のレンドバ島、ニューギニア東方のウッドラーク島とトロブリアン島、ラエ南方のナッソウ湾に連合軍の上陸を確認。事態を重く見た古賀峯一海軍大将は第2航空戦隊に艦載機の派出を命令し、7月2日に龍鳳航空隊の零戦11機と九九式艦爆13機をブインに派遣。続いて3日後に零戦20機、九九式艦爆5機、九七式艦攻12機をブインに派遣した。持っていた艦載機を全て供出してしまったので、積み荷だった飛鷹航空隊がそのまま龍鳳航空隊として補充された。
ブインに進出した龍鳳航空隊は、7月4日に行われた陸海軍協同のライス湾攻撃から参加。初陣で敵戦闘機3機を撃墜し、翌5日の空戦で4機を撃墜。7月7日では敵機50機と交戦して10機を撃墜せしめた。7月15日、ルビアナ島攻撃に向かう陸攻隊を護衛。ルビアナ上空でP-38戦闘機約50機と交戦し、4機を撃墜。ブインに敵機が襲来した時には迎撃に上がった。7月24日13時30分、ベララベラ島北西海域を哨戒中の龍鳳所属機がロッキードハドソンを発見。15分の空戦を経て撃墜した。8月1日朝のレンドバ攻撃では龍鳳所属の九九式艦爆6機が参加。泊地攻撃の際に魚雷艇PT-117を撃沈。撃墜された九九式艦爆が突っ込む形でPT-164も撃沈した。8月13日、ベララベラ島に上陸しようとする敵船団を攻撃。21時20分、龍鳳機がルンガ岬沖で陸軍攻撃輸送艦APA-23ジョン・ペン(9360トン)を発見して攻撃。対空砲火で1機が撃墜されるも、メインマストに突っ込んで炎上させる。そこへ別の方向から飛来した龍鳳機が雷撃に成功。これがトドメとなり、21時50分に艦尾から沈没。トーチ作戦で英雄的活躍をしたジョン・ペンは龍鳳航空隊に討ち取られた。8月15日、ベララベラ上陸部隊を攻撃。敵戦闘機群と交戦し、F4Uコルセア3機撃墜(1機不確実)の戦果を挙げた。30機以上の敵機を撃墜した龍鳳航空隊であったが損耗率も高く、僅か1ヶ月半で機体の半数を喪失。残余の戦闘機と人員は現地の第204海軍航空隊に、艦爆と艦攻は第584海軍航空隊に吸収されて戻ってこなかった。
一方、母艦の龍鳳は7月19日に雲鷹とトラックを出港。7月24日に呉へ帰投し、再び瀬戸内海で発着艦訓練に従事。8月21日、柱島泊地で給油船日栄丸から燃料補給を受ける。8月30日、便乗していた飛鷹航空隊の要員が退艦し、修理が終わった母艦へ帰っていった。損耗が大きい第2航空戦隊の航空隊を建て直すべく、9月1日より再編成を実施。内地は燃料不足だったため、航空隊はシンガポールで訓練を行った。翌日呉に回航され、9月22日から呉工廠で入渠整備。9月25日に等級類別が変更されて瑞鳳型となり、9月27日に出渠した。
10月6日に呉を出発して岩国に回航、シンガポールに進出する龍鳳航空隊を積載する。10月10日に佐伯湾へ移動し、空母千歳、駆逐艦雪風、初春と合流。4隻は翌11日13時に出港して豊後水道を南下。太平洋に出てシンガポールを目指す。東南アジア方面では米潜水艦が跳梁跋扈しており、フィリピン近海を中心に被害が急増していた。敵潜を警戒して大陸沿いの航路を選択したが、道中だけで2回の敵潜出現が報じられた。10月15日夜、海南島三亜に寄港して一晩を明かす。翌日出港してタイ方面からマレー半島に沿って南下し、10月19日に無事シンガポールのセレター軍港へと到着した。自身の航空隊を揚陸するとともに、ニッケル、生ゴム、コバルト等の南方資源を満載。10月25日にセレターを出港。往路と同じように大陸に沿って航行し、途中で三亜に寄港しながら11月5日に呉入港。任務を成功させた。
未だ激闘が続く南東方面では増援を渇望しており、古賀大将はシンガポールで練成中の第2航空戦隊艦載機を12月上旬までにトラックに進出させるよう指示。同時にシンガポール在中の二航戦司令部からも航空隊の終末訓練が近いので母艦に迎えに来るよう指示した。急かされた龍鳳は急速に準備を整え、11月22日に呉を出港。瀬戸内海西部で今回の相方である飛鷹や駆逐艦4隻と合流し、11月25日に平島を出発。佐伯防備隊の援護を受けながら豊後水道を通過する。11月29日、中継地のマニラに寄港。行動を隠匿するため北方に投錨した。駆逐艦に燃料と真水を補給し、翌朝出発。敵潜の待ち伏せポイントである湾口を慎重に出ると、シンガポールに向かった。ちょうどマニラとシンガポールの中間に差し掛かった頃、左10度方向に岩が突っ立っているのが見えた。海図を出して調べてみても載っていない。それもそのはず、岩の正体は米潜に撃沈された貨物船の残骸だった。船尾を下にして沈んでいる。駆逐艦に対潜警戒を厳重にするよう命じ、足早に不吉な海域を去った。マレー半島とシンガポールの間にある海峡に到達すると、シンガポールから飛び立った艦載機が飛来。龍鳳で発着艦訓練を行った。そして12月3日にシンガポール到着。飛行場が左に見える場所で停泊した。入港早々に輸送物件の揚陸が行われ、それが終わると目まぐるしく航空機や物資の積載が始まった。
12月11日、飛鷹、初霜、若葉、初春とともにシンガポールを出港。海峡の東口で対潜哨戒機を飛ばして敵潜の襲撃に備える。3日後、産油地タラカンに寄港。桟橋に横付けして重油を補給した。日没までに作業を終え、沖合いに投錨。翌朝出発してトラックに向かう。天気は快晴、波は穏やか、敵襲も無しという平穏な航海が続いた。フィリピン南部を東進して12月18日にパラオへ寄港、同日中に出港する。そして12月22日にトラック到着。飛鷹ともども日栄丸から給油を受け、本土に帰還する便乗者を収容した。入港から2日後、瀬戸内海西部へ回航して速やかに訓練任務に従事するよう命じられ、あわただしく帰国の準備を始めた。12月27日、駆逐艦響、浜風、電を伴ってトラックを出港。途中サイパンに寄港して物資を揚陸し、太平洋で新年を迎えた。
一方、トラックに進出した龍鳳航空隊のうち進藤少佐率いる零戦21機はカビエン輸送作戦支援のため、12月27日にカビエン基地へ進出した。
1944年
1944年1月2日、呉に帰投。1月17日から因島造船所に入渠して整備を行う。
1月25日、二航戦は零戦69機、九九艦爆18機、九七式艦攻27機をラバウルへ派遣。配備された航空機はすぐ陸上基地に供出されてしまい、龍鳳の元には殆ど残らなかった。龍鳳が送り出した戦闘機隊はラバウル方面に展開し、連日のように襲撃してくる連合軍機の迎撃に回された。敵機を約40機を撃墜したが損害も激しく、2月中旬には稼動機が僅か4、5機という有様だった。2月17日にトラック大空襲が発生したため、ラバウルの航空兵力はトラックに引き揚げる事になった。戦闘機隊の戦いはひとまず終わった。
1月26日に出渠して呉に回航。ラバウル方面に艦載機を送っていたので格納庫はカラッポだったが、3月10日に新設された第652海軍航空隊を二航戦の各空母に搭載する事になり、龍鳳は久方ぶりに艦載機を手にした。機種が九七式艦攻から天山に刷新されていたが、横須賀航空隊で講習を受け始めたばかりなので搭乗員も整備員も扱いに慣れておらず、発着艦訓練もようやく始まったばかりだった。3月13日午前11時50分、龍鳳は第1航空艦隊のマリアナ諸島進出に対する協力を命じられる。3月21日午前7時30分、豊後水道西口を出港して鹿児島に回航。飛行場付近に投錨して第343航空隊の零戦を2日かけて積載。航空機整備に必要な最低限の人員だけを残し、地上勤務者全員が龍鳳に乗り込んだ。3月24日に出港し、翌日伊勢湾の鈴鹿沖に移動。第523航空隊の彗星を積載した。
3月29日16時55分、瑞鳳、山雲、初霜、雪風、能代と合流して出発。速力20ノットで東進する。3月31日17時、パラオに向かう能代が分離。4月1日深夜、グアム方面に向かう瑞鳳と別れ、駆逐艦山雲、初霜、雪風の護衛を伴ってサイパンへと向かった。4月2日午前7時9分にサイパンに到着し、航空機揚陸用の舟艇5隻を使って航空機と要員をピストン輸送した。サイパンの港は小さく、龍鳳の巨体では入れなかったため沖合いに投錨。初霜が横付けして重油350トンを送油した。4月3日にサイパンを出発。道中で味方哨戒機が敵潜発見の報を出して初霜が爆雷投下に向かう一幕があったが、悪天候に助けられて敵襲を受けなかった。本土に近づくにつれて時化が激しくなり、天候回復にも時間が掛かる事から、4月7日に徳山湾へ避泊。翌日呉に入港し、第1航空艦隊の進出に成功。
内地には備蓄燃料が少なく、訓練にすら支障をきたす有り様であった。このため大本営は燃料が豊富にある南方へ艦隊を移動させていた。5月11日、隼鷹、飛鷹、瑞鳳、千歳、千代田、戦艦武蔵等からなる有力艦隊とともに佐伯湾を出港。翌12日に中城湾に寄港、護衛の駆逐艦に燃料補給を行って夜遅くに出発。台湾東方に差し掛かった頃、海上にモヤが発生。急激に視界が悪くなる。前方を走る戦艦武蔵が「赤、赤」の緊急信号を発信。敵潜の出現を意味し、龍鳳は隼鷹や飛鷹とともに緊急回頭。護衛の駆逐艦が爆雷投射に向かったが、誤報だったのか雷撃は無かった。敵潜水艦が跋扈するフィリピン近海を突破し、5月16日19時28分にタウイタウイ泊地へ到着。先に進出していた翔鶴、瑞鶴、大鳳、長門、大和等が出迎えてくれた。5月18日から第1航空戦隊と合同訓練。タウイタウイは熱帯のため非常に暑く、陽が出ている時間帯を避けて厳しい訓練に明け暮れた。しかし泊地が無風状態の日が多く、発着艦訓練に適さなかった。かと言って湾外に出れば跳梁跋扈している米潜の群れに襲われる危険があった。
5月20日、「あ」号作戦が発令。5月31日午前6時、隼鷹や飛鷹と泊地を出港。敵の監視の目をかいくぐって訓練を行った。対潜訓練も兼ねて12隻の駆逐艦も参加し、艦隊運動訓練も実施した。19時30分に泊地へ帰投した。しかし6月に入ると敵潜の跳梁が更に激しくなり、訓練の機会すら得られなくなってしまった。
6月13日、空母15隻と戦艦8隻を基幹としたアメリカ艦隊が要衝マリアナ諸島に襲来。午前9時、小沢治三郎中将が座乗する旗艦大鳳に率いられてタウイタウイ出港。空母9隻、戦艦5隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦29隻、給油艦6隻からなる計62隻が勇躍波を蹴り立てる。翌14日16時30分、前進拠点のギマラス泊地に到着。玄洋丸とあづさ丸から夜通しの燃料補給を受け、6月15日午前7時に出港。北東に舳先を向ける。出港から17分後に「あ」号作戦決戦発動が下令された。やがてサンベルナルジノ海峡に差し掛かり、大小様々な艦艇が一列縦隊を組んで海峡を通過する。夕日が没しようとしている17時30分、海峡を突破して太平洋に出た。日没を迎えると小沢艦隊は夜間警戒航行隊形を組んだ。6月18日夜、隼鷹が先頭中央、龍鳳が左後方、飛鷹が右後方を航行し、その三角形の中心に戦艦長門がいた。信号は旗艦の隼鷹から発せられるのだが、ちょうど長門の巨体が邪魔をして後方の龍鳳と飛鷹からは見えづらかった。そこで長門が信号を中継して2隻に伝達していた。ところが隼鷹が「左」へ斉動する信号を出し、長門は「右」へ斉動する信号を出した事から龍鳳と飛鷹が混乱。長門に問い合わせる前に隼鷹は発動符を出し、右へ回頭する長門と左へ回頭する飛鷹が衝突しかける事態に。すんでのところで長門が回避したおかげで惨事は避けられたが、長門の指示に従った龍鳳は右へ回頭し、飛鷹に急速接近。衝突コースではなかったが、飛鷹の眼前を横切る危険なコースになっていたため、飛鷹は航海灯を点灯して左に回頭。それに気付いた龍鳳が右に大回頭し、飛鷹とすれ違った。その後、飛鷹の正横約1000mに占位して元の位置に戻った。
6月19日、マリアナ沖海戦に参加。未明より攻撃隊の発進準備が行われ、午前3時には飛行甲板に航空機が整然と並べられた。機体の間を縫うように整備員が駆け抜ける。索敵により攻撃に必要が情報が集まり、午前8時に攻撃命令が下った。龍鳳から攻撃隊が続々と発進、隼鷹や飛鷹とともに零戦17機、爆装零戦25機、天山7機の計49機を出撃させた。午前10時、第二次攻撃隊として第2航空戦隊は零戦20機、九九式艦爆27機、天山3機の計50機を発進。東の空へと消えていった。しかし送り出した攻撃隊は敵艦隊を発見できず、グアムに着陸しようとしたところを狙われて壊滅的打撃を受けた。阿部善次少佐率いる15機が偶然的空母ワスプⅡとバンカーヒルを発見して挑みかかったが、待ち伏せていた敵戦闘機と対空砲火で10機を喪失、2機が不時着で失われて壊滅した。攻撃隊の大半は母艦へ帰ってくる事は無かった…。
小沢中将は補給と再編制を行うべく集結を下令。隼鷹、飛鷹と本隊の方へと向かった。すると水平線から黒煙が立ち昇っているのが見えた。時間が経つごとに黒煙が濃くなっていく。更に近づくと、旗艦大鳳と翔鶴が大火に包まれて炎上していた。5海里の距離まで接近したところで大鳳から「近寄るな、付近に敵潜水艦2隻あり」との信号を受けた。やがて大鳳は大爆発を起こし、左舷に傾斜。白煙だけを残して沈没していった。翔鶴も後を追うように沈み、虎の子の正規空母を2隻も失ってしまった。17時10分、艦隊は北上。22時45分に一旦西方へと退避した。
6月20日午前5時20分、油槽船5隻が合流。午前11時29分より給油を行い、サイパンへの殴り込みに備える。正午頃、旗艦を瑞鶴に変更。午後に入ると東方約240海里に敵味方不明機が多数確認されるようになり、愛宕が通信傍受を行った結果、敵飛行艇が触接している公算大と判断された。これを受けて小沢中将は西方への退避を命じ、14時15分に移動開始。この時、飛鷹は反応に遅れたため、龍鳳と隼鷹からやや遅れ気味となる。15時5分には小沢艦隊の全容を正確に報告した通信が傍受され、攻撃は不可避とされた。15分後には偵察機らしきものが触接し、緊張が高まる。各空母は一斉回頭し、発艦のための風向きを調整。16時15分、敵艦上機約20機が東方約200海里を西進中との報告が入り、アメリカ艦隊の逆襲が始まった。
17時30分、200機以上の敵機が出現。最初に気付いた隼鷹から旗流信号が出され、龍鳳も敵機の接近に気付いた。10分後、龍鳳は零戦隊を出撃させる。宝石のように貴重なベテラン搭乗員で構成された切り札であった。敵機は空母を最重要目標に定め、続々と殺到。まず雷撃機5機が迫り、5本の魚雷が伸びてきた。巧みな回避運動で必殺の魚雷をかわし、対空砲火で反撃する。次にヘルキャットの編隊が突撃、機銃を乱射しながら飛び去っていく。今度はドーントレス急降下爆撃機8機が襲い掛かり、計8発の爆弾が投下されるも至近弾で済んだ。日没に伴って辺りが暗くなり始め、敵機の視認が難しくなる。ドーントレスの編隊が龍鳳を狙って肉薄してきたが、直前で飛鷹に標的を変えて難を逃れた。17時57分、アベンジャーの編隊が龍鳳に接近。既に雷撃の体勢を取っていて絶体絶命の窮地に陥る。危機の龍鳳を救ったのは、護衛に回っていた駆逐艦時雨の対空射撃だった。休む間もなく上空からドーントレスが急降下し、投弾。いち早く察知した龍鳳は回避しようと急転舵。これが艦の大傾斜を招き、身をよじる形となって直撃弾が至近弾になった。仮に命中していれば位置的に轟沈は免れなかったという。また傾斜によって飛行甲板の零戦3機が海へ転落した。18時10分、アベンジャー4機の襲撃により無傷だった龍鳳もついに損傷させられる。幸い戦闘航海に支障が出ない程度の軽傷だった。いつしか上空には帰投してきた味方機が敵機に混じって旋回していた。敵の猛攻により飛鷹と隼鷹は中大破しており、収容可能なのは瑞鶴と龍鳳だけだった。どの機も燃料不足の問題を抱えており、幸運な機は間隙を縫って龍鳳に着艦できた。しかし大半の機は燃料切れで海に不時着水し、搭乗員だけ駆逐艦に救助された。敵の空襲はおよそ30分で終わった。消火ポンプの故障で火勢が止められなくなった飛鷹は、19時32分に沈没。龍鳳は第2航空戦隊で唯一戦闘可能の空母だった。19時45分、連合艦隊司令部から退却を命じられ、沖縄方面に向けて撤退。マリアナ沖海戦で第2航空戦隊は79機を失い、龍鳳から一人も戦死者が出なかった事が数少ない慰めだった。
6月22日15時、中城湾に寄港。負傷者の移送や燃料補給を行い、翌23日午前11時に出港。荒れている玄界灘を突破し、6月24日18時に柱島泊地へ帰投した。6月27日、残余の搭乗員は大分基地へ集合するよう下令され、龍鳳から退艦。7月3日に呉軍港に回航。7月9日から20日にかけて工廠で大改装を行う。マリアナ沖海戦の戦訓で対空兵装を強化し、25mm三連装機銃4基、同連装機銃2基、同単装機銃23基、13mm単装機銃18基、12cm28連装噴進砲(ロサ砲)6門、2号1型電探と1号3型電探を装備。大幅に対空能力を向上させた。巨大化する新型機に対応すべく、飛行甲板を約15m延伸。支柱を簡易型に変更した。大鳳沈没の原因となったガス漏れの対策として、格納庫の前後端に開口部を設けて換気できるようにし、前部昇降機口に帆布幕を張って新鮮な空気を取れ入れられるよう改良。同時にガソリン庫の防御に着手。タンク周辺の空いたスペースに鉄筋を組んでコンクリートを流し込み、防御壁とした。タンク直上の甲板には約1mのコンクリート壁を張った。難燃対策の一環で艦内から可燃物の装飾が取り払われ、乗組員の私物も一握りを除いて携行禁止。居住性を犠牲にして高度な火災防止策を実現した。船体には、敵が艦種を誤認する事を狙った迷彩塗装が施された。
飛鷹が沈没し、隼鷹が戦線離脱してしまったので第2航空戦隊は解隊。第652海軍航空隊も解隊され、龍鳳は再び航空隊を失ってしまった。7月31日、大本営は訓練済みの瑞鶴と龍鳳を第3及び第4航空戦隊へ転属させる事を決め、8月10日に第3艦隊第4航空戦隊に編入。今度は第634海軍航空隊から艦載機を供出して貰う事に。瑞鶴と龍鳳を中核にして機動部隊の再建を目指し、8月末に「再建」、9月末に「作戦可能」にする予定だった。ところが計画に狂いが生じて大幅な遅延が見込まれたため、宙に浮いた龍鳳は航空機輸送任務に投入された。
10月20日、連合艦隊から輸送任務を命じられる。台湾沖航空戦で被害を受けた第61航空廠の再建資材を運ぶ事になったのだ。呉で必要な資材を積載し、佐世保に回航。レイテ沖海戦が生起した10月25日午前11時、佐世保を出港する。伴走者は海鷹、駆逐艦桃、梅、樅、榧で、対潜警戒は九七式艦攻12機を持つ海鷹が担った。フィリピン方面で行われている激戦が嘘のように平穏な航海だった。10月27日午前10時、台湾北部の基隆に到着。航空資材を揚陸し、燃料用砂糖とアルコールを積載した。10月29日13時30分に出発し、平穏なまま10月31日17時30分に六連島に到着。11月2日、呉へ回航された。
レイテ沖海戦の敗北により4隻の空母を失った帝國海軍は、再編制を迫られた。内地に残っていた龍鳳、雲龍、天城、葛城、信濃、隼鷹で第1航空艦隊を編制。しかし機動部隊直属の第10戦隊が解隊された事で護衛兵力を欠き、艦載機も無かった。11月7日、呉に停泊していた龍鳳は雲龍から小沢治三郎中将の将旗を継承。第1機動艦隊の旗艦となるが、僅か8日後に解隊されたため龍鳳が機動部隊最後の旗艦になった。その後、第1航空戦隊へと編入。
12月13日、フィリピン南部のミンドロ島にアメリカ軍2万7000名を乗せた船団が接近。大本営はミンドロ島に特攻兵器桜花を送る事に決め、同日中に雲龍と龍鳳へ桜花の輸送を命じた。しかし先発した雲龍が米潜レッドフィッシュに撃沈されたため、行き先を台湾に変更。呉で物資を積んだ艀に囲まれ、昼夜兼行の突貫作業で58機の桜花を積載。艦内は騒がしくなった。12月28日に呉を出発し、翌29日午前7時に門司港へ回航。門司にはシンガポール行きのヒ87A船団が集合しており、龍鳳は道中の台湾まで同行する。12月30日18時30分、沖合いの六連島に移動。レイテ沖海戦に敗北して以来、帝國海軍は本土近海の制海権すら危うくなり、敵機動部隊は南シナ海にまで進出している。今回の輸送は簡単には終わりそうに無かった。それでも護衛に空母の龍鳳が参加した事で、船員の心の支えになった。
12月31日午前8時20分、出港。敵機動部隊が南シナ海から退却した隙を突いて輸送が行われた。今や見る事も少なくなった貴重な1万トン級貨物船天栄丸、さらわく丸、宗像丸、黒潮丸、光島丸、辰和丸、松島丸、海邦丸で構成され、旗艦神威の指揮のもと海防艦4隻と駆逐艦4隻が護衛する。敵潜水艦の襲撃を警戒して大陸沿いの航路を選び、北西方向に向かう。対馬北端沖で朝鮮半島に向けて変針。朝鮮南岸を北上し、西側から黄海に入り、東海で南下。雲龍が台湾北東で撃沈されたため、今回は徹底的に大陸に沿った。大陸沿岸の航路は味方航空隊の援護を受けやすく、浅い場所も多いため敵潜の出現率を抑えられた。だが南シナ海と東シナ海には敵機動部隊の影があり、中国大陸から連合軍機が飛来する事もあるなど決して楽な道ではなかった。
1945年
1945年1月3日午前6時、フィリピン東方に敵機動部隊数群が探知されたとの報告が入った。午前9時には台湾全土に空襲警報が発令され、巻き添えを喰らう事を避けるために神威の指示で上海南方の舟山列島に避泊する事になった。突然発生した濃霧に悩まされながらも、午前11時47分に舟山列島北東錨地に到着。ところが到着直後に錨地の南方で敵機と交戦する味方商船が見られ、同時に空襲の兆候もあった。龍鳳、浜風、時雨、磯風に退避命令が下り、船団から分離して泗礁泊地に一時避難。1月5日13時に出発し、翌6日午前11時に舟山列島を発った船団と合流した。
1月7日午前3時30分、光島丸が機関故障を訴えて船団から落伍。護衛に駆逐艦旗風が残った。午前5時35分、台湾海峡に差し掛かった。ここは敵潜水艦の待ち伏せが多く、最も危険な海域だった。早速米潜バーブに発見され、ピクーダを呼び寄せた上で追跡を開始。午前11時26分、4本の雷跡が伸びてきて、1本が宗像丸に命中して大破。船団は左45度の緊急回頭を行う。宗像丸の救援には海防艦倉橋が向かった。13時、龍鳳はヒ87A船団を離脱し、行き先を南部の高雄から北部の基隆に変更。駆逐艦時雨、浜風、磯風を護衛に伴って反転した。午後12時55分、港外で駆逐艦3隻と別れ、龍鳳単艦で基隆に入港。ここで本土に帰還する人員を乗艦させるも、基隆に備蓄燃料が無かったため、やむなく高雄へ向かった。
1月9日午前6時15分、高雄に空襲警報が発令。敵艦上機が大挙襲来し、在泊艦艇に襲い掛かった。龍鳳にはTBFアベンジャー12機が向かってきたが、投下された爆弾は全て命中せず。対空砲火により1機のアベンジャーを撃墜して窮地を脱した。13時48分、警報解除。この空襲で港湾施設に大きな被害が出たため桜花を揚陸できず、1月11日に基隆へ移動して桜花を積み降ろした。本土に帰還する龍鳳は、輸送船2隻からなるタモ35船団を護衛して翌12日午前6時45分に出港。往路同様に大陸沿いの航路を通り、1月17日に門司到着。危険な航海を損傷無しで乗り切った。これが日本空母最後の外洋航海だった。
1月18日午前9時30分、呉に入港。南方航路の閉鎖により内地は深刻な重油不足に陥り、もはや外洋に出る事は叶わなかった。1月27日、軍令部第一課は燃料消費の激しい戦艦と空母の運用を実質断念。しかし空母は近い将来の使用を考慮し、第2艦隊の管轄にする事とした。龍鳳は練習空母になり、瀬戸内海で訓練に使われた。2月中旬から下旬にかけて、龍鳳乗組員には二泊三日の休暇が与えられた。それまで龍鳳での生活は無休だったという。三班に別れて上陸し、束の間の休みを堪能した。
2月10日、僅かに生き残っていた空母天城、葛城、隼鷹、龍鳳、戦艦大和で第1航空戦隊を再編。第601海軍航空隊を艦載機にして訓練を行った。とはいえ最早見た目だけの機動部隊であり、戦う能力は殆ど無かった。2月26日から3月2日にかけて呉工廠第4船渠へ入渠。
3月19日午前4時40分、敵機動部隊が四国沖に接近中との報告が入る。午前6時に警戒警報が出され、午前7時12分に敵艦上機約350機が呉上空に出現。呉軍港空襲が始まった。8分後、広方面からグラマン4機が出現。休山を飛び越え、龍鳳目掛けて140mmロケット弾を撃ち込んできた。古鷹山がギリギリまで敵機を隠している事もあり迎撃を難しくしていたが、高角砲や噴進砲で応戦。第一波と第二波を無傷で乗り切った。ところが第三波空襲で艦尾に直撃弾を喰らい、轟音とともに100mの火柱が上がった。機関が無事だったので前進微速で港を脱出、吉浦沖で対空戦闘を行った。敵機の集中攻撃により2発の爆弾と2発のロケット弾を喰らって大破炎上。飛行甲板が山のようにめくり上がり、格納庫から黒煙が吐き出された。反撃でヘルダイバー2機を撃墜して一矢報いた。午前9時5分に空襲は終了。機を捨ててパラシュート降下したジョアン・D・ウェールズ海軍中尉を龍鳳の内火艇が救助。尋問のすえ、捕虜として大竹警備隊に引き渡された。飛行甲板には生々しく10mの破孔が穿たれ、第1缶室が使用不能、左舷側部に大破孔が確認され、艦尾が約1.8m沈下。浮いているのが不思議なくらいの満身創痍っぷりであった。外板に開いた穴から海水が流入、排水ポンプで汲み出すのに5日を要した。乗組員12名が死亡、30名が負傷した。
3月23日、鳳翔とともに第2艦隊へ編入。翌日から1週間ほど工廠に入渠して修理を受けたが、着手したのは機械関係のみで飛行甲板の大穴は放置された。3月31日午前0時30分頃、呉を機雷封鎖しようと来襲したB-29に対して対空戦闘を行っている。4月1日、とうとう修理不能と判定され、飛行甲板に開いた大穴を塞ぐ応急処置だけ受けて出渠。港務部の曳船に引っ張られていった。4月5日夜、軽巡洋艦矢矧から退艦してきた若手の士官候補生たちを収容。日本の未来の担い手を水上特攻に費やすのは妥当ではないという上層部の判断によるものだった。翌日15時、出撃する戦艦大和以下水上特攻部隊を龍鳳乗員たちが見送った。4月20日、大和の沈没によって第1航空戦隊は解隊され、龍鳳は呉鎮守府第4予備艦となる。4月24日、江田島に米軍機が襲来し、龍鳳も攻撃を受けたが被害無し。
6月1日、江田島の秋月沖に回航され、戦艦榛名の前方に係留。お互い向き合うように配置された。敵の目から逃れるため擬装工作を開始。陸地に船体をぴったりと付け、その上から擬装用の網をかける。陸地の一部に見えるよう農園を作り、デッキの上に迷彩を描き、山から切り出してきた枝葉を飛行甲板に乗せた。ちょうど悪天候だったため敵の偵察機が飛来せず、バレる事無く作業を完了。空から見ると小山のようにしか見えず、擬装コンテストで1位を受賞するほど巧みに隠されていた。龍鳳は島型艦橋が無いフラッシュデッキ型空母なので平坦な部分が多く、容易に陸地の一部に見せかけられた。燃料が無いので機関を動かせず、高角砲や機銃を動かす電力は地上から送電して貰った。乗組員にとって燃料すら事欠く現状は目がくらむほど恥ずかしく、「自分たちの落ち度で戦局がこうなったのだ」と人一倍責任を感じて士気旺盛だった。その後は特務警備艦となり、対空要員以外は下艦して農作業に勤しんだ。乗艦していた士官候補生は本土決戦を見越した部署に異動、元気が良い者は特攻隊や防備隊に志願し、艦内は静かになった。
7月1日深夜から翌2日未明にかけて、166機のB-29が呉市街地を空襲。町並みが悉く破壊されてしまった。陽が昇った後、被災者に炊き出しを行うべく艦内の食糧を供出し、呉海兵団に渡した。木工員を呉施設部と広施設部出張所に派遣、7月3日より家を失った人々のための応急簡易住宅建設に着手。同時に火元になりかねない木造住宅を速やかに撤去した。7月16日から19日にかけて12.7cm高角砲2基と25mm三連装機銃2基を取り外し、軍需部に返納。25mm三連装機銃2基を地上に移設して即席の対空陣地とした。
7月24日14時、再び呉軍港が大規模な空襲を受け、約870機の敵機が残余の艦艇を殲滅すべく片端から襲い掛かっていく。12.7cm高角砲81発、25mm機銃1376発、12.7cm噴進砲15発を発射して応戦したが、龍鳳の擬装は完璧だったため一切の攻撃を受けなかった。7月28日に三度目の大規模空襲が行われ、12.7cm20発、25mm252発を発射。34名の戦死者を出すも、無事に生き延びた。戦闘後の19時3分、対空戦闘に必要な物以外は全て陸揚げする事になり、呉海兵団から100名の応援を得て作業を実施。送られてきた舟艇に弾薬、酒保品、衣類、兵備品を移乗させていった。
7月30日、呉鎮守府長官の指示により、大破着底した各艦から25mm単装機銃が集められ龍鳳周辺に対空陣地が築かれた。呉海軍軍需部から借り出された25mm単装機銃10基が艦側の陸上に配置され、8月1日には利根から譲渡された25mm単装機銃10基が龍鳳の防空陣地に転用。呉軍需部から2万発の機銃弾が補充された。ところが、呉の空に敵機は一度も現れなかった。
終戦後
1945年8月15日、海に浮いた状態で終戦を迎える。25隻中、生き残った空母は龍鳳(大破)、葛城(中破)、隼鷹(中破)、鳳翔の僅か4隻のみであった。艦内に浸入していた約800トンの海水は排水作業で除去された他、進駐してくるであろうアメリカ軍に奪われないよう艦首の菊の御紋を外し、白布に包んで工廠裏の神社に運ばれた(後日焼却)。相当な被害を受けていたにも関わらず一見無事のように見えた事から、復員船として修理する計画があった。しかし損傷が激しく、機関も破壊されていた事から復員船にはなれず、11月30日に除籍。呉工廠第3船渠に回航され、アメリカ軍が船体を調査したのち解体を命じた。
1946年4月2日より播磨造船が解体を開始し、9月25日に解体が終了。龍鳳は静かにこの世を去った。大鯨として生まれてから約11年4ヶ月もの間、波乱に満ちた艦歴はここで幕を下ろしたのだった。
関連項目
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