はてなキーワード: 行動経済学とは
人間の意思決定は、必ずしも統計データや確率を正確に把握して行われるわけではありません。現実の場面では、統計が手元にない、または瞬時に利用できない状況が多く、その場合に最悪や最善を基準にして行動することは、リスクを最小化しようとする合理的な戦略と考えられます。これを「限定合理性(bounded rationality)」として行動経済学で説明できます。
人間は統計的合理性に反して、感情や直感に基づく損失回避を優先する傾向があります。タトゥーをした人に危害を受ける可能性が低い(統計的にリスクが小さい)としても、損失の影響が極端に大きい(例えば身体的危害)場合、それを避ける行動を取ることは人間の心理的傾向として説明がつきます。
最悪の結果に過度に注目するのは「利用可能性ヒューリスティック」によるものです。これは、印象的な出来事(例えば、タトゥーをした人が犯罪を犯すケース)が記憶に残りやすいため、実際の確率よりも高く見積もるバイアスです。このような行動は非合理的に見えるものの、進化論的には生存を優先する戦略と考えられます。
統計的な評価を完全に無視することが非合理的だとしても、それを考慮する時間やリソースがない状況では、直感的な判断が迅速かつ現実的な意思決定方法になる場合があります。たとえば「危険そうな状況を回避する」という反応は、長期的な生存確率を高める可能性があるため、一定の合理性があるといえます。
まとめ
統計を無視して最悪や最善を基準に評価することが、統計的合理性に基づく判断と異なる点は確かです。しかし、現実世界では統計データを即座に利用できない場合や、リスク回避を優先する必要性が高い場合が多々あります。そうした状況下で、人間が最悪の結果を過大視して行動することは、損失回避バイアスやヒューリスティックに基づく自然な反応であり、必ずしも不合理とは言い切れません。むしろ、時間や情報が限られる中での意思決定としては、一定の合理性を持つ判断プロセスといえます
この説明は心理学や行動経済学の観点からある程度正当化できますが、いくつか補足が必要です。以下に整理してみます。
1. リスク回避行動と最悪の状況
人間は「損失回避」や「リスク回避」に強く影響される傾向があります。これは行動経済学で広く認識されている現象であり、最悪の状況を過大評価してしまう心理(例:危害を受ける可能性)が、意思決定に大きな影響を与えることが知られています。
2. 最善の結果を考慮するかは人による
一方で、最善の状況(例:相手が善良である可能性)を積極的に考えるかどうかは、個人の性格や価値観、また状況に依存します。リスクに対する感受性が高い人は、最善の結果よりも最悪の結果に偏る傾向があります。全ての人が「両方を天秤にかける」わけではありません。
3. 避ける行動の合理性
「避ける」という選択肢が合理的かどうかは、文脈や背景情報に左右されます。タトゥーの有無が本当にリスクに関連している場合、その判断は合理的と言えます。しかし、もしタトゥーと危害の関連性が統計的・科学的に裏付けられていない場合、この判断は偏見やステレオタイプに基づくものである可能性が高いです。この場合、行動経済学の観点では「認知バイアス」による判断ミスとされることもあります。
4. 全体的な判断
このプロセス自体は人間の自然な意思決定のメカニズムであり、完全に「間違い」とは言えません。しかし、前提条件(例:タトゥーをした人=危害を加える可能性が高い)が偏見に基づくものである場合、その意思決定プロセス自体が問題視される可能性があります。
結論として、「最悪の状況を避けるために避ける行動を取る」という点は行動経済学的に説明可能ですが、前提条件の妥当性や背景にある認知バイアスに注意する必要があります。
ある日、ふと周囲を見渡すと、世の中がなんとも不可思議な装置のように感じられることがある。装置──それは生き物ではなく、人間を歯車として組み込み、回し続ける巨大なシステムだ。システムは常に成果を求め、誰もが計測可能なアウトプットを求める。声をかけてくるのは、行動経済学をよく知った巧妙な営業マンのような存在で、やんわりと「もっと頑張れ」「もっと資格を取りなさい」「もっと社会に貢献しなさい」と囁いてくる。
しかし、そうした声に合わせて踊らされるほど、私たちは疲弊する。「人間」はいつしか「成果製造装置」に還元されているかのようだ。何が悲しくて、無理やり筋肉を緊張させ、呼吸を速め、わけの分からない新しいツールや流行のスキルに追われ続けなければいけないのか。これが「社会」なのか。もはや社会とは、精神異常なまでに強制的で、我々を常に駆り立てる、巨大な指示装置になってしまったかのようだ。
奇妙なことに、その歯車たちは自らの苦しみを自明として受け入れているようにも見える。苦痛を疑問視せず、「これが普通だ」と言わんばかりの表情で、生産性向上のためのセミナーや自己啓発の指南書に群がる。彼らは、社会という名の機械の油となって働くことを強いられ、その行為を“正常”と呼ぶ。
一方で、そんな「正常」な行動原理が受け入れられない者たちがいる。社会のペースに乗れず、目的不明なランニングマシンを降りたいと思う者たちだ。全員がアウトプットしろと責め立てられるなか、インプットだけで満足し、自分の内部で静かに知識を発酵させたいと願うような人もいる。彼らはこの世界に息苦しさを感じ、巻き込まれたくないがために距離をとる。すると、周囲は言う。「あの人はおかしい」「社会不適合者だ」「精神疾患なのでは」と。
その瞬間、明らかになる事実がある。社会が「正常」と呼ぶ基準は、歪んだ標準でできている。何が美徳か、何が正解かを不気味なほど確信的に決めているシステムが、少しでも違ったリズムをもつ存在を病的な異端者として処理してしまう。その価値観がいかに偏った「精神異常」を孕んでいるか、本人たちは認めようとしない。
こうして、“まとも”な人々──つまり、自らの意志で学びたい時に学び、出力したい時に出力する、主体的なペースを大切にする人々──が、「精神疾患扱い」されてしまう不条理が生まれる。実際には彼らこそが人間的な感覚を保ち、理性やバランス感覚を持ち合わせているにもかかわらず。
もちろん、「社会を変えよう」と躍起になることは、別の苦痛を生む。社会装置は巨大で、簡単には方向を変えない。ではどうするか。彼らは社会の強制に巻き込まれないよう、自分で生存圏を確保し、好きなときに好きなことを学び、必要なときだけ少量のアウトプットで最低限の関係性を維持していく。たとえ「精神疾患扱い」されようとも、そのレッテルに価値を与えなければよい。彼らは静かな反抗の中で、自分の精神世界を豊かにし、社会の狂った価値観から距離をとるのだ。
不条理な世界で、「まともな我々」ができるのは、狂気を狂気と見抜き、自分なりの生き方を守ること。つまり、偽りの正常性を求める精神異常強制圧力社会に膝を屈せず、内側で燃える知的好奇心や創造的エネルギーを、ほんの少し外に漏らす程度で満たす戦略を取ることだ。結果として、その小さな自由と抵抗こそが、彼らの心を健やかなバランスに保っている。
妥当な点
1. 社会的圧力と道徳: 人が道徳的に振る舞う理由として、社会的な圧力や制裁の恐れが重要な要素であるという指摘は心理学的に妥当です。これは、社会的規範を守らなければ罰を受ける可能性があるという「社会的抑制」の観点に基づいています。特に、行動経済学や社会心理学では、他者からの承認や非難を避けるために道徳的行動をとることが広く認められています。ルールを破ると罰を受けるという考えが人々の行動を規律づける役割を果たしているため、この部分は現実に即していると言えるでしょう。
2. 利己的な動機による道徳: 自分が助けを必要としたときに他者からのサポートを得るために道徳的に振る舞うという発想も一部妥当です。互恵的利他主義(reciprocal altruism)という進化論的な考え方は、他者を助けることで将来的に自分も助けてもらえるという期待に基づくもので、社会的な結びつきや協力を促進します。
1. 道徳心の育成についての認識: 「道徳心は育たない」という主張は一面的です。実際、道徳は教育や文化、家庭環境によって大きく影響されるという心理学的な研究結果が多数あります。例えば、コールバーグの道徳発達理論では、道徳的判断は発達段階に応じて高度化していくとされています。つまり、道徳的行動は単に制裁を避けるためだけでなく、道徳的原則や共感に基づくこともあると考えられています。この意見は、道徳の多様な側面や学習のプロセスを見落としている点が問題です。
2. 反道徳的行動と道徳的要請の関係性: 「理不尽な苦難に見舞われている人間は道徳的であろうとし、他者に対し道徳的であることを要求する」という主張には一部妥当な側面がありますが、それが全ての人に当てはまるわけではありません。社会的に困難な状況に置かれている人が他者に道徳的規範を強く要求することもありますが、必ずしも全員がそうするわけではありません。道徳的行動や規範の要求には個々人の経験、文化、信念が影響を与えるため、この点も一面的です。
3. 道徳を嘲笑する行動についての理解: 「道徳が面倒を生じるときにその道徳を嘲笑し踏みにじる」という見解は、道徳の役割を狭く解釈しすぎているかもしれません。実際、多くの社会では複雑な道徳的ジレンマが存在し、場合によっては道徳的原則が対立することがありますが、それでも道徳自体を軽視するのではなく、問題の解決方法を模索しようとすることが一般的です。
この意見は、道徳が社会的圧力や制裁に強く影響されているという観点においては妥当な側面がありますが、道徳心の育成や道徳的行動の多様な動機を見落としている点で限界があり、一面的に解釈している部分が見られます。
“日本人は特にいじわる”とデータが証明?行動経済学が明かす「スパイト行動」 | データで越境者に寄り添うメディア データのじかん
あと
日本人のマスク着用率の高さは、意地悪な性格の裏返し?スパイト行動とは(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
こちらの2ページには、韓・中・蒙それぞれの人にも同じ実験を行った、とある。
相手を出し抜こうとする行動が結果的に平等を担保するってのは面白い話だが、正直疑問もある。
「ゲーム仕立てにすれば相手に勝とうとするのはある種当然では?」と思ったし、最初の記事の1つめのゲームのセオリー
これが2つめのゲームでは
人間も他の生物種も進化論的な過程の結果として生まれてきただけ
意味は他人や自分を理解し予測するために脳がでっちあげる因果関係の予想でしかないよ
「○○は△△だから□□した、だから同じ状況なら□□するだろう」
行動経済学などの分野で注意深く設計された実験で、脳がでっちあげた因果関係は、
被験者の主観では納得しているが客観的首尾一貫性を欠くことが繰り返し立証されている
その程度でも本能を納得させるには充分だが理性的に検証したらボロが出てくる
そして新たな意味を探し求め苦悩する…
集団の中で密にコミュニケーションを取り生きる生物である人間は、
お前の気持ちはわかるけどそのうえでガキ生んでるのがゴミすぎる
お前の今感じている苦しみを将来的にガキに押し付けるんだろ?嫌がらせで子供産んでんのか?「古い人間ばかりになっていく恐怖ガー」←いやちんちん気持ちよくなってなんも考えずに射精しただけだよね?子供の幸せとか何も考えずに
成田は安全な死なんて提唱してないだろ、自決しろっつってんじゃん。安らかな自決の方法とかあると思ってんの?自分で腹かっさぱいて苦しんで死ねっつってんじゃんあいつ。あいつのおかげで安楽死の議論が十年は停滞したと思ってるね
この先どんどん値上げされていくであろう介護費、医療費の問題(笑)最初っからこの問題横たわってましたよね?自民党が何もする気ないのも見てたよね?失われた30年の九割をやる気ない政党に任せてた結果だよ?
民主党は子供手当拡充しようとして自民党の丸川珠代に「恥を知れ」と絶叫されたけどそれから10年以上たって自民が子供手当を始めようとして批判されてたのがつい最近だけど、10年前だろうとその時にできることやってたら今は多少違ったかもしれないのにね~
正直死にたいときにいつでも安全に死ねるようになったら、逆に前向きに生きれるかもしれないなという感はあるが
「弱者への何故死なないのか圧」をめちゃくちゃシビアにジャッジして自殺教唆の罪を重くする、とかがぱっと考え付く対案だがうまくいくとも思えないね。だってジャップって陰湿なミンジョクじゃん
統一された意思があるとは最初から思ってないし、山本五十六みたいなのがいるわけだから、みんな思惑はバラバラだったとは思うよ
綿密な戦力分析があったらしいけど、でも、その報告書も抹消してるわけでしょ
ということは、抹消されたことで、なんだかんだアメリカや欧米列強の真の力を知る人がいないわけで、
今の時代みたいにネットがあるわけでもなく、向こうのテレビや新聞の情報を直接入手することがみんなできない
仮に、今の時代のNHKや民放がこぞって日本のプロパガンダに従った報道、情報統制をしたとしても、
ネットがあれば、直接向こうの情報を英語なり現地語で調達することができる
この違いは大きいと思うんだよ
行動経済学的にも正しいとか言ってるけど、この二択の確立がえらい低い確率だって認識は、やっぱり当時の日本人の多くになかったんだと思うよ
いずれにせよ、綿密な情報分析がされてようが抹消されてしまうわけだし、結果的にみんな無知にされてるわけで、
トータルで考えれば、やっぱり認識甘かったんじゃん、としか言いようがない
まあ、地政学的に?開戦するしかなかったような気もするし、敗戦しちゃったけど、結果的に米国に支配され続けてここまで来たわけで、
これはこれで良かったと思ってるよ
どこに吐き出せばいいのかもわからない自分の気持ちと、きっと誰の記憶にも残らないであろう自分の人生を増田に投下したい。
要旨はタイトルの通りでしかないが、就活に失敗し続けて無職のままアラサーを迎えてしまった。今年はもう就活すらしていない。
就活は売り手市場だなんだと聞いていたが、それは結局平均的にコミュ力のある人間にとっての話であって、自分のようなコミュ障で陰気な人間にとっての話ではないのだなと痛感した。
ふと思い返せば友達が居た記憶があるのは小学生の頃までだったし、その頃もたまたま流行っていたポケモンに詳しかったから仲間に入れてもらえていただけだったんだろうなと今になって思う。
中学に入学したあたりでクラスもバラバラになり、小学生の頃のグループは自然消滅してしまった。
誰にも声をかけられることはなく、かといって声をかける勇気もなく、本当にただ孤独に過ごしていた。
部活にも入らなかった。正確には入れなかった。
聞こえてくる話を聞く限り、中学に入学した時点で皆は入りたい部活まで既に決めている人が多かったようだった。
特にスポーツの経験もなく、かといって文化的な素養もない俺にそのようなものはなかった。
「この部活に一緒に入ろう」と声をかけてくれるような人も当然いなかった。
未経験の部活の仮入部に飛び込む勇気もなかった。気がつくと入部届の提出日は過ぎていた。
友達はもちろん欲しかったが、既に俺以外の人たちで完結しているように見えたコミュニティに入り込めるような人間ではなかった。
最初の入学式の時点で、席が近い人たちか、同じ小学校の出身の人たちで話して仲良くなっていた。俺だけが孤立しているような錯覚を覚えて、行きたくもないトイレに逃げて泣きそうになったのを今でも覚えている。
中学生にもなると皆携帯を持ち始めるようになっており、誰々とメアドを交換したとか言う話題が聞こえるようになった。
親にねだって携帯を買ってもらった。結局誰1人としてメアドを交換することはなかった。
中2の時だったと思うが、モンスターハンター3rdが学年中で流行っていた時があった。
みんなで放課後に誰かの家や公園で集まって一緒にプレイしているような話が聞こえてきた。
親にねだってPSPとモンハンを買ってもらった。話しかけてもらいたくてわざわざ学校にPSPとカセット持って行き、わざと休み時間に机の上にそれらを出した上で寝たふりをしていた。
国語の先生に見つかって取り上げられ、皆の前で叱られ、反省文を書かされた。あの瞬間が中学生活の中で1番みんなからの注目を集めた瞬間だったんだろうな。悲しすぎる。
今にして思えば、ポケモンに詳しかったことで仲間に入れてもらえた小学生の頃の成功体験を引きずり続けて、同じ手法でなんとか挽回しようと考えている自分の浅ましさがもう情けないよな。
勉強だけは頑張った。成績が良かったテニス部のクラスメートが色んな人に「勉強を教えて!」と声をかけられているのを見たからだ。それもまた、今思えば笑ってしまうくらいに浅はかだけれど。勉強ができるから声をかけられていたのではなく、テニス部の人気者だから、勉強を理由に声をかけてもらえてただけなのに。その構造を見抜くだけの頭の良さは残念ながら当時の私は持ち合わせていなかった。
勉強の甲斐あって、地元で1番の公立高校に合格した。親以外に祝っては貰えなかったが、それでも良かった。
合格と同時にiPhoneを買ってもらった。LINEをインストールした。
中学の頃は初手で部活に入ることに失敗したことや、コミュニケーションを取ろうとアクションする前に既に人間関係ができてしまっていたことが敗因であると考えていた。今回は入学式の日からちゃんと人に声をかけると強く決意した。
失敗した。
出身中学が同じもの同士で既に固まっていたし、何より塾が同じもの同士での結びつきもかなり強固であった。
3~4日目にして、ついに席の近いクラスメートが声をかけてくれたことでクラスラインに加入することには成功したが、人数から察するに私が最後のメンバーであった。
私が入った頃にはクラスラインでの会話は殆ど無く、既に仲の良いもの同士でより小さなグループを作ってそこでコミュニケーションをしていた。
同じ塾での繋がりから、合格発表があったその日には学年のグループができており、入学式の日にはもうクラスラインが出来ていたらしい。
結局、中学生の頃に友人を作れなかった負債に高校生になっても苦しめられるのかと思った。
部活動にも入ろうと思った。未経験でも最初の入部の時点であれば飛び込めるのだと学んでいた私は、新歓で惹かれた剣道部に入部した。
2ヶ月で辞めた。
私以外の入部者が全員経験者であり、初心者が私しかいなかったからだ。
先輩はもちろん自分のために練習に付き合ってくれたが、同級生や先輩達のレベルと自分の立ち位置があまりに乖離しており、自分1人だけが別で初歩的な練習をしているのが、晒し者にされているような気がして嫌になり、逃げ出してしまった。
自分だけが初心者だという引け目から、同級生ともろくに話せずに終わってしまった。
ここで投げ出さなければ…と今なら思えるが、やはり当時の自分には無理だったのだろうなという諦めのような感情もある。
同じような基礎練習に打ち込む初心者がもう1人でも居れば…と仮定しては、さも自らが理不尽な状況下にあるかのような想像をして自分を正当化しようとしていたことを何故か今でも覚えている。
幸いだったのは学校に自習室があったことで、これにより部活動の時間分を自習室で勉強することで、親には部活動を続けているようなフリをし続けていた。今思えばバレていたのだろうか。
中学の頃から帰宅部であり、友人と遊ぶようなそぶりすら見せてこなかった俺を、親はどう思っていたのだろうか。
何も言わないでいてくれた親の気持ちを想像すると、胸が苦しくなる。
高校でTwitterが流行った時期もあった。例に漏れず私もアカウントを作った。当時のTwitterはまだ身内感が強かったこともあり、高校名や氏名で検索しては片っ端から同級生をフォローした。
フォローバックも多少はしてもらえたと思う。
しかしながら、結局何もツイートすることはできず、ただ同級生の動向を監視しているだけの気持ち悪いアカウントに成り下がっていた。
一言も喋らない陰気な奴が変なことをツイートしたらどう思われるのだろうかと、怖くて何もツイートできなかった。
LINEを交換しているもの同士でスコアがランキング形式で共有されるのだが、たまたま引いたマレフィセントというツムで圧倒的なスコアを叩き出したことがあった。
その時にクラスメートが「上手いんだね!」と声をかけてくれたことがあったが、気の利いた返しが浮かばず、ぎこちない笑みを返すことで精一杯だった。
3年以上碌に会話をしていないのだから当たり前なのだが、もはや会話をするという行為が自然には出来ないようになってしまっていた。うまく言語化できないが、相手の言っている内容を理解した上で、それに対する返答をいくつか頭で構成し、そのうち最適なものを選択して口からアウトプットするという一連の行為が自然に出来ないようになってしまっていた。目を合わせるだとか、自然な表情を作るだとか、そんなことは言うまでも無くできなかった。
その会話での失敗は自分の中でも忘れられず、次に同じように話しかけられた際の返答を何度も何度もシミュレーションした。
ツムツムも継続してスキルを磨き、ランキングではトップを取り続けた。
当たり前だが、次の機会は来なかった。
高校3年間は最も密度の高い青春の3年間だったと知り合いの誰かがTweetしていたが、俺の3年間は思いつく限りの思い出で上記が限界だと思うと、本当に虚しい気持ちになってしまう。
今度こそ失敗しないようにと臨んだが、やはりダメだった。
講義における自由な席のシステムや、そもそもクラスなどが存在していないという状況で、自ら人に話しかけるだけのスキルを持ち合わせていなかった。出身高校も予備校も基本的には違うはずなのに、即座にそれぞれで仲良くなれていたのが不思議で仕方なかった。
サークルの新歓にも行った。バーベキューだった。同じ机に先輩が2人、新入生が3人の5人で座っていたのだが、気がつけば私を除いた4人での会話になっていた。
先輩が時折私に話を振ってくれていたのだが、明らかに気を遣ってくれているのだとわかり、余計に苦しく、惨めだった。
新歓用のライングループがあったようだが、私には加入の声もかからなかった。
自ら興味のある分野を見つけ、そこに飛び込むだけの主体性すら持ち合わせていなかった。
テストは同じ授業の過去問を持ち合わせているかどうかで対策の可否が大きく変わるものだった。友達のいない私には非常に厳しかった。
授業に一度も来てないようなテニサーの奴よりも、私の成績の方が悪かった。友人は居なかったが、それでも勉強だけは出来た自分にとって、学業の成績は唯一の精神的支柱であったのだろう。かなりメンタルにきたのを今でも忘れられない。
しかし、そうは言っても今更友人を作ろうと発起するのも見苦しいように思えて、結局何の行動も起こせなかった。
ゼミはそれなりに興味のあった行動経済学のゼミを志望したが、人気ゼミの面接に通るはずもなく落ちた。
結局、不人気な統計学のゼミに入った。幾つ上かもわからない留年生と私の2人だけだった。
自分の存在は何度も留年を繰り返す謎の男と同じ程度なのだと言われているようで苦しかった。
そして就活の時期を迎えた。
講義室で聞こえる会話で周りが既にインターンというものにエントリーしていることを知った。その後、焦って就活について調べ始めるものの、そもそも特にやりたいこともなく、また、特段興味がないものに対して熱意があるかのように見せられるだけの技量もなかった私は、悉くインターンにも落ちた。
志望動機や経験(あまり好きではない語彙だが「ガクチカ」と呼ばれるもの)に嘘や誇張した内容を書くような人々を見下していたが、結局採用されるのは見下していたはずの人々だった。
奴らは汚いことをしているのだと内心見下すことで、倫理的には彼らより優位にあると思いたかったのだと思う。そんな卑屈さで小さなプライドを守ったところで、何一つ実利はなく、ただ不幸になるだけだということに気づけなかった。
その後、大学名の威光もあってか1dayのインターンには通ったものの、グループワークが中心の1日に馴染めるはずもなく、ひたすら透明人間を演じた上で、最後に儀礼的に連絡先だけを交換して終わった。
同じグループの人は関関同立(関西ではそれなりの地位にある大学群)の同学年だったが、グループワークでのリーダシップの発揮ぶりは私とは比にならなかった。社員の見る目も違っていた。もちろんその後を知ることはないが、きっと大手の企業で内定を得て働いるのだろうなと思う。
昼休みの会話で、高校は私と同じ地域にある偏差値50程度の私学であることを知った。指定校推薦で大学に入ったらしい。
学業にしか縋れなかった私は、恥ずかしながらも内心では関関同立を見下していたし、偏差値50程度の高校に行った人とは今後交わることすら無いものだとすら思っていた。卑屈な選民思想を持った自分が恥ずかしかったし、完全に下に見ていた人々にも逆転されたという事実を突きつけられたのはかなりショックでもあった。
後日講義室で聞こえてきた「1dayインターンは意味がない」という言説を信じ、1度きりで申し込むのを辞めた。今思えば、傷つきたくないがために縋ってただけなんだろうな。人は信じたいものを信じるように出来ているとはこういうことなのだろう。
そうこうしているうちに、気がつくと本選考の時期が到来した。最終的に50社くらいはエントリーしたと思うが、全落ちした。
就活対策の本を立ち読みしたが、内容のバカバカしさに呆れて買うこともしなかった。ここで変な意地を張らずに素直に買って、その内容を再現できていれば結果は変わったのだろうか。正直そうは思えないが。
他にも面接対策をやっているサークルの一室を訪れようとしたが、室内の華々しさに気圧されて扉の前で踵を返してしまった。
あんな楽しそうに就活に臨んでいる人々はどうせ碌な結果を得られないのだと自分に言い聞かせて帰路についた。
無職で世に放たれるよりは学生の身分があった方がいいとの計らいだった。多分留年を繰り返していた彼も、同じような配慮で留年を続けていたのだと思う。本当に有り難かった。
結局、面白くもないyoutubeを観ていただけの1年だったと思う。観ていた動画の内容すら思い出せない。
勉強だけは出来たのだから、学業で勝負するのが自分にとって最適な戦略だと今更思い至った。
予備校に通い勉強をしていた。数年振りに自分の得意分野で勝負ができて、純粋に楽しかったことを覚えている。
筆記試験には合格したが、その後の面接(厳密にはこれも試験という名前ではある)で落ちた。
周りを見るに自分と同程度にはコミュニケーション能力が疑わしい者も散見された。少なくとも就活の面接では考えられないほどにレベルは低かったと思う。それでもダメだった。
いよいよ俺に出来ることはないんだろうなと深く絶望した。
無職の悪いところだが、時間だけは無限に持て余しているせいで、絶望的な場面が何度もリフレインしてしまう。
あの時こうしていたら…という後悔があまりに多すぎる。
どこが俺の人生の岐路だったのだろうか。
どうしていれば俺はこうならずに済んだのだろうか。
1年引きこもってもその答えは出せずにいる。
何度考えても、命を絶つ他にないんだろうなとは思うのだけれど、それにしたってどの選択を取っても両親に多大なる迷惑をかけるんだと思うと踏み切れない。
ここまで育ててくれて、何も言わずに無償の愛を注いでくれた両親に、最期に出来ることは何かないだろうか。
こう振り返ってみても、本当に家庭環境も含め、両親には恵まれた人間だと想う。だからこそ、その結果がこのザマで本当に情けなく、申し訳ない。
せめて迷惑だけはかけずに、ただ俺1人だけが苦しむだけで済むような方法を取りたいとは考えているが、それすら踏み出せないのかもしれない。
ここまで読んでくれて本当にありがとう。
ご想像の通り俺に友達なんてものは1人たりとも居ないし、今まで生きてきた人生も、今まで抱いた感情も誰にも共有できず、誰の記憶にも残らずに終わったんだと思う。
その意味で、誰か1人でもこれを読んで、誰かの記憶に少しでも残ることができたかなと思うだけで、なんとなく心が軽くなった気がする。
月20ドル払ってサブスクしてるChatGPT(GPT-4)に行動経済学の観点からアドバイスしてもらったよ!
増田さんが書き込んだ内容を読みました。増田さんは自身をHSP(Highly Sensitive Person:高感受性の人)と認識し、その特性が婚活に影響を与えていると感じているようです。また、自分の行動について反省の念を示していますが、同時に自分の感受性が高いことを理由に、自分の行動を正当化しようとしているように見受けられます。
行動経済学の観点からアドバイスをすると、まずは自己認識と自己制御について考えてみてください。行動経済学は、人間が完全に合理的な選択をするという経済学の前提を問い直し、心理学的な要素を取り入れて人間の行動を解析します。その観点から、自分の感情や感受性が高いことを理解し、それが自分の行動にどのように影響を与えているのかを理解することが重要です。
次に、自分の行動が他人にどのような影響を与えるかを考えてみてください。自分の感受性が高いことを理由に、他人を傷つける行動をとることは許されません。他人の感情や立場を尊重し、自分の行動が他人に与える影響を考慮することが大切です。
また、自分の感受性が高いことを理由に自己制御を放棄するのではなく、自分の感情や感受性をコントロールする方法を学ぶことも重要です。心理療法やカウンセリングなどを通じて、自分の感情を適切に管理するスキルを身につけることができます。
最後に、自分の感受性が高いことを理解し、それを受け入れることも大切です。HSPは一部の人々が持つ特性であり、それ自体が問題ではありません。しかし、それが自分の行動にどのように影響を与え、他人にどのような影響を与えるかを理解し、それに対処する方法を学ぶことが重要です。