はてなキーワード: やれやれとは
以下、池澤夏樹の文学全集には出ていないが、重要な物や自分が読んだものについて書く。
川村裕子・訳注で読んだ。著者は藤原道綱母で、夫である藤原兼家に対して激しい執着が描かれている。当時の僕は報われない愛情を扱ったフィクションにどっぷりとハマっていたので、かなり共感的に読んだ。男性が通ってくるのを待たされる側だった女性の立場が見えて、あちこちに通う相手がいる光源氏に対しては「お前、お前お前お前!」以外の感想しか出てこなくなる。というか、藤原兼家みたいに、手紙やLINEはそこそこまめなくせに、会いに来ない言い訳もやたら細やかで、会ったときも会ったときで真面目な話をせずこちらをからかうばかりという男性、結構いるよな。モテる奴ってこんなのばっかってイメージがある(偏見)。
こういう時に面白いのは別の人の感想で、田辺聖子は先に書いた百人一首の本で、道綱母は夫を愛しているくせに、何をされても怒るかわいげのない女なのだと言っている。確かにせっかく通って来たのに寒空の下待たせちゃうんだけれど、つれない人に対してはそれくらいしてやりたくならないか。
田辺聖子と考えが違って面白かったのは、「儒教道徳は男女の色気のあるやり取りも批判して世の中をつまらなくする」って発言だ。「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」の解説で述べていたことだ。コンプライアスに厳しい時代の子である自分としては首をかしげるが、彼女にそういわせたのは、おそらく彼女の青春と重なった第二次世界大戦の空気だろう。
後半は道綱のなかなかうまくいかない恋路が出てくる。
余談だが、平安時代の著名人は大抵何らかの親戚関係がある。だから因縁話は大抵どこかとつながっているし、それなら言い出せない思いが積もり積もって怨霊や生霊の類が出てもおかしくない気持ちになってくる。
話を戻すと、どうしてモテたり権力を持った人ってどんどん嫌な奴になっていくのだろう。これは推測だが、人間が何か行動をしたとき、多少なりとも権力、少なくとも力を行使するのが理由だろう。力を行使して何かがうまく行くのは喜ばしいが、そのたびに堕落ポイントが蓄積される気がする。つまり、政治家であれ社会活動家であれ、世の中を良くしたという実感が少しずつ慢心に繋がっていく。かつては理想に燃えて清廉に悪を糾弾していた人が、どんどん人の話を聞かない・フィードバックを受け付けない傲慢な人になっていく。まっとうな批判を受けても、自分が正しいから叩かれるのだと思い込んでいく。そうやって晩節を汚していく。具体例がたくさん浮かぶと思う。
なので、自分が一番偉いわけじゃない、権力も何もなくて謙虚にならざるを得ないコミュニティに所属しないと、どんどんダメになっていくのではあるまいか。趣味も含めたコミュニティがたくさんないとおかしくなる。
人の話を聞かないことをテーマにしているのがカズオ・イシグロで、読むたびに嫌な気持ちになる。これは褒め言葉である。
元カレの弟(帥宮敦道親王)からアプローチされて、「手枕の袖」というフレーズで和歌を交換してイチャイチャして、遂に宮廷に迎えられるんだけど、巻末に帥宮挽歌群を持ってくるこの構成よ。悲しい。近藤みゆき訳注。
注釈者の解釈の精度と深さがすごいので、やっぱり自分は文学を研究することなど到底できまいと思わされた。どの節で和泉式部の感情がどう深まったかなどといった、字面を追ってしか読めない自分にはとても気づかないポイントが多数ある。所詮、自分は楽しむことが主である素人である。生活の種には到底できまい。
あまりにも気に入ったため、メモをした和歌が膨大である。いつか深い悲しみに沈んだときに読み返したら、喪失の痛みにグサグサに刺されながらも慰められるだろう。和歌集は読んでいて面白いのだろうが、短い解説文で背景が説明されているよりも、こういう物語の中に和歌が含まれているほうが、著者と長く付き合ってきた分だけ、心に来るものがある。古典は知を刺激する部分と情緒を刺激する部分があるが、これはかなり後者に寄っている。
やはり文学が好きだが、近頃はあまり読みたいとは思わないのである。久しぶりに三島由紀夫を手に取ってパラパラとめくっていたら、感情を揺さぶられて過ぎてしんどくなってきた。これは好きすぎで苦しいということなのかもわからない。好きすぎて近づけないとこじらせ文学オタクになってしまっているのか。三島由紀夫のことは、近頃は文章が人工的過ぎると思って遠ざけていたのだが、やっぱりこの人、マッチョな肉体の中の繊細な精神がいつもピリピリしているよ。好きだけれど、読み返したくない。でも、生きているうちに「豊饒の海」を読みたい。
ところで、僕はどうも女性の手による日記文学が好きらしい。ドナルド・キーンは日本人の日記好きを注目すべき事項だとしていたが、僕もその例に漏れない。日記を読み返すのは自己愛だが、いがらしみきおもぼのぼのの人生相談で「世界で一番面白い本は自分の日記」という趣旨のことを言っている。実際、何が自分に刺さったかを振り返ると、将来傷ついたときにどこに戻ればいいのかが見えてくる。
思うのだが、本を読む男性が文学少女に憧れるのにも、自己愛という側面がある。もちろん、同じ趣味を持っている人に親しみを持つのは当たり前だけれども、陽キャのような押しつけがましさがないと勝手に期待してしまうのだ。そういう風に、実際に相手がどんな人かを見ようともせずに、活字が好きだという相手の属性ばかり見ている。挙句の果てにそんな相手と深い理解に達し、イチャイチャしまくることに憧れる。そういう人間の恋がうまくいかないのは、今になって振り返ってみれば、残念ながら当然であろう(それでもうまくいく恋愛があるという指摘は無視する。認めないぞ、そんなものは)。だから、本は読むけれど優しくないタイプの女性に片想いをして、勝手に傷ついてきたことが何度もある。以下、自分の片想い歴や、彼女たちからされた非常に失礼な仕打ちを延々と書いたが、阿呆らしいのですべて削除した。客観的に見れば、当時の僕も結構痛い奴だったんだろう。わかっているが、恨みの気持ちはゼロにはならない。
やれやれ。こうしたひがみっぽい、すべて主語が「自分」になっている感覚をすべて卒業してしまいたい。こういうわかったような口のきき方も気に食わない。だからこうして、匿名でしか書けないような感情をあえて言語化し、脳内から叩き出す。こんな青臭い感情を二度と思い出さなくてもいいように、放流してしまう。
困ったことに、他人に批判的なことを書いている時にはやたらと楽しかった。悪口は依存性のある娯楽だとよくわかる。なので、この悪癖にハマらないよう、かなりの部分を削った。リクエストがあったら出すかもしれないが、原則としてお蔵入りにするつもりだ。そう、恨みつらみなんていくらでも反芻できる。やめよう、やめよう。
実際、これでもまだ意地悪な記述が多い文章だ。すっきりするけれど、かっこ悪いのでそうそう頻繁にやるべきことじゃない。
確かに、見苦しい愚痴をこうして捨ててしまうのが増田の使い方の一つではあるのはわかる。すべて吐き出せば身軽になれる。だから、こうして好きなことと嫌いなことをないまぜにした混乱した文章を書いてしまった。ひがみも怒りもドロドロした感情も、一度文章にすれば冷静になって振り返れる。
なんてみっともない文章だろうと思うのだけれど、書いていてこれは私小説の真似事なのだとわかった。かつて書いていた小説は、過去を変形して書き直し、つらい出来事に直接向き合わないようにするための緩衝材にしていた。あるいは、こういう恋がしたいという、ただの感傷マゾだった。だが、ここで過去を直接吐き出してしまえば、自分の感情と筆をコントロールできるようになり、新しく真っ当な小説が書けるのではないか。そんな夢想に浸りたくなる。
実際、今は過去の出来事よりも、今は自分の中の荒々しい本能や暴力衝動をどう扱うかに関心が移りつつある。あるいは、欲望や執着についてだ。読みたい本もこういうテーマの物に近づいている。混乱していた十代と二十代から、三十代を終えそうになって、好みが変化しているのが明白だ。今こそ、良いものが書けるときではないか。
最終選考の電話がかかってきたのに、そして編集者と話ができたのに、結局は小説家として芽が出なかった悔しさは、ときどき自分をこんな夢想の中に閉じ込める。だから、発作的にこういう長文を書きたくなる。
だが、若い頃は創作によって自分の感情を整理できたのは確かだけれど、ある時点で、僕はこのまま創作を続けてもどこにもたどり着けないのではないかという疑いにさいなまれるようになった。それよりは、虚構で変形されない事実を直視したほうがいい。事実を日記に断片的に書くことでさえ、ひがみ根性を薄れさせてくれる。小説に限らず、何かを言語化して分析するって本当に救済なんだ。
「結構読んできたな」と思いながらも、まだまだ読んでいない作品もかなり多い。大学時代から少ない年でも年に一冊か二冊くらいのペースで古文を読んできたので、そのペースなら生きているうちにもうちょっと読めるだろう。直近で気になっているのは(「カンタベリー物語」のように海外文学は別として)、池澤夏樹のリストにあったもの、神話物語、歴史書、それから江戸時代の物語だ。
まず、他のところでも述べた通り、「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」がある。特に「日本霊異記」はKADOKAWAが現代語訳を出している。それから、神話物語でいえば「風土記」がある。これも角川ソフィア文庫で出ているので読みたい。
歴史ものでは「大鏡」「栄華物語」がある。それから「吾妻鏡」も気になっている。この並びからは大河ドラマを想起するだろうが、あまり関係はない。とはいえ、自分は「ニンジャスレイヤー」が流行っているときにもまず「ニューロマンサー」に手を伸ばすような人間なのである。ただし、めっちゃ長い。
あとは「東海道中膝栗毛」。パラパラとめくったら、原文でもギリギリ読めそうな、しかし読むのには時間がかかりそうな、近い時代であるが故の厄介な文体であった。そう、なんでもいいので月に十冊は必ず読むという漠然とした目標など放棄して、精読したほうが良い読書ライフが送れるのだが、手を出すかどうか迷ってしまう。というか、これも含めて、原文で読むか現代語訳で読むかは迷う。なるべく原文に当たりたいのだが、池澤夏樹の日本文学全集の現代語訳が訳者の個性も含めて面白かったのと、意地を張って原文にこだわって、中身を浅くしか読めなかったら嫌なのとで、迷っているのである。
「好色一代男」「春色梅児誉美」もそのうち。寛大な気分のときになら、色男の生涯につきあってやっても良い。他の近松門左衛門とかも。
あとは、時間をかけて和歌を楽しむ。「万葉集」とか「新々百人一首」とか。
読書ログをたどりなおすと、自分がその時に何を感じていたのかを想起できる。読んだときの喜びも、読んだ当時感じていた閉塞感も、どちらも生々しく想起してしまった。だから、卒業したはずの怨念に対して、こんなに愚痴ってしまっている。
同時に、自分の感受性がゆっくりと時間をかけて変化してきたのもよくわかった。一つの強迫観念に凝り固まっている時には、何を読んでも同じ感想を持ってしまうのだろうけれど、十年かけていろんな本を読んでいくと、自分に起きた変化が見えてくる。これからも古典を読み続けるだろうし、さらに十年経ったらどんな感想を持つかが楽しみだ。
そして、自分にどんな変化が起きたか、いつかこれらの本を読み返して、確かめてみたい。
確かに、かつて読んだときほど心惹かれなくなってしまうことも多いだろう。現にあらすじを振り返っただけで、「なんでそんなにハマったんだ?」と感じるものあった。これは寂しいことだが、既に興味を失った作品があるということは、自分が変化したことを意味する。むしろ、生きていくにつれて成長していくのなら、興味がなくなる物が出てくるのが当然だ。この寂しさは歓迎すべきものだ。実際に、ある作品に心惹かれていた理由が、既に卒業してしまった不安だとしたら、当の作品が色あせて見えてしまうのも無理はない。個人的な収穫は、叶わぬ恋の歌だけでなく、生きているが故の寂しさを歌った歌に好みが移り変わってきたとわかったことだ。
叶わない片想いをするだけが人生ではない。ただ生きていること、目の前の相手に耳を傾けて敬意を払うこと、それが文学以上に自分を幸せにしてくれる。
そして、僕を大切にしてくれる人のことだけを考えて暮らしていきたいのである。これは創作よりも遥かに尊く、最も創造的なことだ。
以上。
なんだって言うんだ。このところの僕の現実のバグり方はちょっと尋常ではない。先週は美少女の宇宙人、昨日は男の娘のサキュバス、そして今日は能力者の増田ときた。
「やれやれ」
しかしそこにいたのは能力者の増田ではなかった。もはやただの赤黒い肉片と化したギルド嬢の亡骸だったのである。それを理解した次の瞬間のことだった。
<わかるよな?>
俺の脳内に直接、練馬区にある家賃4万円の風呂なしアパートに住み低賃金で休みもなく働くアニメーターたちの声が聞こえてきた。
<でも俺たちにはこうする以外にないんだ。だって、毎週新たに2450作品リリースされる異世界転生アニメを滞りなく制作するために、脳以外の臓器をすべて機械に置き換え、蜘蛛の遺伝子を取り込んで新たに4本の腕を移植してしまったのだからな>
マジかよ。狂ってやがる。僕は心中でそう独りごちた。でも、どうなんだろうな。本当に狂っているのはこの世界の方なのかもしれない。だとしたら、異世界に転生したほうが幸福なのではないだろうか。そう思った僕はふと思いつき、
と口にしながら目の前の空間を指でなぞってみた。ステータス画面は現れなかった。そのかわりに出現したのは、懐かしい映像だった。画面の中では幼馴染の少女、夏美が楽しそうにシロツメクサの花冠を作ってフリスビーにして遊んでいた。やめてくれ、と思う。そんなことをしたらシロツメクサの花弁が散ってしまうじゃないか。しかしそんな心配は無用だということがすぐにわかる。だってこれは過去の映像で、現実の夏美は今や頭部と臀部を直結した形に改造され肛門から腐葉土の栄養を吸収するだけのマシーンとなって国立西洋美術館に展示されているのだから。
<おっと。奴のおでましだぜ>
声が言った。見ると校舎の影から能力者の増田が歩いてくるところだった。脊椎を歓喜の電流が駆け上がるのを感じる。
この僕の忌まわしい記憶を全部消してくれ、今すぐに。
けれどその願いが聞き届けられることはなかった。僕は自分の体が半透明になっていくのをなすすべなく眺めながら、昇天して大気圏で燃え尽きる他なかったのである……。
【2023/03/15(水) 18:25:06 投稿者: 名無し】
んで、ブクマカってそんなに集まる価値あんの?そもそも顔見知りでもないのに、はてなIDとか覚えてるわけ?
【2023/03/15(水) 19:05:34 投稿者: 匿名】
「スターありがとう」ってこっちにはポイントとか何もないでしょww自己満足でオフ会されてもな。どうせ内輪ノリ。
【2023/03/15(水) 19:30:47 投稿者: フリーザ】
お前がアンケート増田かwwwとか笑っちゃうんだけどwオフ会のために匿名なんじゃないのか。
【2023/03/15(水) 19:55:00 投稿者: やれやれ】
実際に顔合わせしてどうすんだよ…「オタク特有の早口」で語り合うの?オフ会とか想像しただけで痛すぎるだろ。
【2023/03/15(水) 20:20:12 投稿者: 斜に構える者】
はてなIDで名札って…いや、それはさすがにいらなくね?wネットの距離感そのままリアルに持ち込んでどうすんだ。
【2023/03/15(水) 20:45:29 投稿者: ほら吹き】
どうせオフ会開催したらすぐに空気悪くなって解散だろwアンチの格好のネタだな。
【2023/03/15(水) 21:10:15 投稿者: 飯うま】
顔合わせた瞬間にネットでのコメントバトル勃発しそうwやっぱり匿名で好き勝手言ってたほうが平和でしょ。
コバヤシがタヤの待っているコーンホールの練習場に着いたときにはもう練習が始まってから一時間三十分も過ぎていた。
「もう何もかも終わっちゃったぞ。こっちチームが22点、そっちチームは9点だ」とタヤが言ったが、コバヤシは「いいよ。おれ、今日はプレイしない」と言った。それからコバヤシは思い出したようにトイレへ駆けていった。
「やれやれ。公式戦は来週なのに」。数分後、小走りで戻ってきたコバヤシは、まるで誰かに怒られたかのような表情で下を見ていたが、タヤはまったく気にしない様子でコーンホールの片付けを始めた。
コバヤシは「おれ、プレイしないぜ」と言うとじぶんの左の耳たぶを触ったりひっぱったりした。
その後、ふたりはそのスキニータイプのズボンに恥じない速さで練習場をあとにすると、これから昼食を取る人間の歩幅でもって地上へと出た。
それからコバヤシは機を見計らって以下のような内容を話し始めた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先週、その運動場のベンチで肌を焼きたがっている男はすくなくとも30人はいた。だからコバヤシとオオヤがそれぞれうつ伏せと仰向けになってセロトニンを分泌するまでには二時間ほど待たなくちゃいけなかった。
「テレビでその人が、じぶんを大切にしなさいって言ってるのを聞いたんだけど、こんなお金持ちの言うことなんだからきっと正しいんだろうなーとおもった。でも飲み仲間から「お前そのままじゃやばいよ」って言われたら確かにそうかもなって思った。だから何かしようかなって」コバヤシが言った。
オオヤは起き上がると横に置いてある2リットルペットボトルに口をつけてこう言った。
「たとえば?」
「わからないけど。みんなが言うには、じぶんのために自主的に動いてみるだとか」
「いい心がけだな。それならいい話があるぞ。お前にぴったりな話だ。今度、江ノ島でゴミ拾いがある。一緒にどうだ?」
「えー」
「それなら今度、江ノ島でゴミ拾いするんだけど一緒にどうだ?」
「うん?」
「よく考えてもみろ。これ以上ない話だろ。他に当てがないんだし。よく考えてもみろよ。これ以上ない話だぜ」
「あー、まあそれもそうか」
ボトルキャップを閉めると、オオヤはふたたび仰向けの姿勢になった。お互い日が沈むまで一言も喋らなかった。
後日ふたりが小田急線に乗って江ノ島の海岸までいくと、そこにはもうすでにゴミ拾いの集団がのさばっていた。するとひとりの女性がコバヤシたちのもとへ近付いてきた。
「まったくイカれてる。Twitterで活動報告するとこれだよ。わたしたちが先に始めたっていうのにね。遊びじゃねーんだよ。でもあんた達は別だよ、連絡くれたしね。これが終わったらそこで缶ビール開けて打ち上げするんだけどどうかしら?」
「いーです」
「あらそう? まあわからないことあったら聞きなさいな。これはわたしたちが最初に始めたんだから。遊びじゃねー」
女性は去っていった。
「えらいなー。あんなブスなのに」
ふたりが清掃活動を続けていると、他の団体もいることに気付いてちょっと気まずい雰囲気になったりした。それからゴミはおもったより多かったので、おもったより汗だくになった。
「やーめた」とオオヤが言った。
「なにがだぜ?」
「クソつまらん」
オオヤはそう言うと向こうの方へ走っていき、違う団体の、水着の上にシャツを着ている、アリクイみたいな女の子たちを口説こうとし始めた。するとその団体の代表者がそれを阻止しようと頑張った。あまり大きな揉め事にはならなかったが押し出される形でオオヤは締め出されてしまった。
「おれもAV女優と体の構成は同じなんだから、うやまってそういう扱いをしろよ。それ相応の扱いをよ」と言いながらオオヤは戻ってきた。
コバヤシはそれを聞いて、ピンときた。何気ないざれごとだったが、その日はやけにそれが心にひっかかった。コバヤシは、「えー、あー。てことはおれも鈴村あいりと同じなのかあ」と思った。「もしかして、じぶんを大切にするってそういうことなのか?」とも思った。
「おれって鈴村あいりなのかあ」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここまで話し終えたコバヤシは、タヤに「おれ、SUBWAYってのを食べてみたんだけど」と言った。
「そこまで良いものじゃないぞ」
「そうなの? まあ、でもSUBWAY食べる。だからそういうのがあって、おれもじぶんのことをもっと大事にしたほうがいいのかなーって思いだした。みんなの言う事ばっかり聞くんじゃなくて、食べたいものを言ってみたり、やりたくないことはやらなかったり。徐々にだけど。自主的にじぶんを大切にしてさ。なんせおれは鈴村あいりなんだし」
『新世界より』の未来の日本では、独身者は同性同士でセックスするのが普通だ
この世界の人々は超能力を持ち、ちょっと念じれば人を殺せてしまうほど強力
それにより大戦争が起きて人類は一時は絶滅寸前になり、もう犠牲が出ないよう全人類に「他殺禁止」の制約を植え付け他殺したら自分も自動的に死ぬようにしたりした
でも誤爆でうっかり殺してしまう可能性や制約を無効化する特殊存在などいるので、ガチガチに人を管理して不適格なら処刑もやむなし
「こっそり異性と恋愛しこっそり出産」なんて事態が起きたら「管理外の人間」が発生してしまうので、人口維持のための出産は必要だが、基本は同性セックス推奨
同性セックスの貞操観念もかなりゆるく、そこらへんで同性同士でいちゃこらしてる光景が見られる
主人公の女には昔から片想いしてるイケメンがおり実は両思いだが、イケメンは他の男とイチャコラしており、「男同士ならイチャコラできてずるい」と嫉妬しながらイケメンへの欲望を女同士のイチャコラで消化している
イケメンは本当は主人公のことが好きで恋人とのイチャコラはスキンシップでしかないが、恋人はイケメンを愛しており、イケメンに思われている主人公に嫉妬している
イケメンと恋人は野外セックスする際にポジショニング争いをするが、恋人の方が攻めになりたがりイケメンはやれやれとアナルを差し出している
主人公と恋人は、同じ男を愛した同士として、泣きながら互いを慰めあい、禁じられた婚前異性セックスをしてしまう
嫌なことがあったら同性セックスで解消解消!がまかりとおる世界だが、愛した男を失った悲しみをセックスでわかちあえる関係は互いしかいなかった
お互いに目の前の相手よりもイケメンのことを考えながら行為に臨んでいたが、次第に互いにはじめて感じる異性の肉体への興奮を抱いていく
このくだりは、普通にラブラブな男女が普通に愛し合ってセックスするよりもめちゃくちゃエロかった
男→男←女とか男→女←女とか、同性愛者を含めた三角関係だったところから始まり、真ん中の奴が死んだりしたせいで端っこ同士で結びついちゃう展開っていいよね
「重婚エンド」が伝説として語り継がれる少女漫画「The BBB」は、男→男←女から始まり、真ん中の男が二人とも好きだと言い出し、端っこの二人も一人の男を愛する同志としての情が芽生えて3人で幸せにやっていくエンドになる
「また妊娠した♪」「次はどっちの子かな?今の時期じゃわからん」「俺の子でもお前の子でも嬉しい」と語り合う最終回の光景はキチガイじみてるとしてトラウマを持つ読者もいたが、すごくエッチだよね
いろいろ悩んだ3人が「3人で幸せになっちゃういけないのかな、このままずっと…」と言い出して二人ずつとキスしあう展開は美しさすらあった
先日の土日にて読了。
いや、メタ的というより、メタそのものが作品の主題といったほうが正確だろうか。
読者を小説の中に引き込み、文字通り「参加させる」という構造を持つ『朝のガスパール』は、筒井康隆が80年代に書き上げた、いわば小説そのものの定義に挑んだ挑発的な一冊であった。
あらすじ、といってもこの作品に「あらすじ」を語るのは難しい。
物語というよりも、筒井康隆が直接話しかけてくるような感覚だ。
そして、そこには作者と読者の境界が曖昧になる仕掛けが満載されている。
章ごとに視点が切り替わり、どこからどこまでが現実でどこからどこまでが虚構なのかが次第に崩れていく。
その結果、「これは読者が読む小説ではなく、読者が小説を構成する存在である」という、今で言うメタフィクションの極北にたどり着く。
感想としてまず思うのは、当時としては斬新だっただろうな、ということだ。
こういった作品は現代で言えば、さほど珍しいものでもないだろう。
そう言った意味でいえば『朝のガスパール』はインタラクティブな物語の先駆けとも言えるが、逆に言えば現代のネット文化における安価スレのようなものと大差ないとも言える。
それでも、この作品をただ「古い」と切り捨てられないのは、やはりその「メタ性」の鋭さにある。
筒井康隆の文章は、単に「読者参加型」を装うだけではなく、小説そのものの存在意義を問う仕掛けになっている。
そして、これが面白いのは、その仕掛けが「自分が今何を読んでいるのか」にまで疑問を投げかけてくる点だ。
たとえば、読んでいる途中で「あれ、これ本当に小説なのか?」と思わされる瞬間がある。
それは小説の登場人物が読者に話しかけたり、読者が物語の一部であるかのように描かれたりする場面だ。
その瞬間、読者である私は「あ、この作品は私の読み方自体をも含めてデザインされているんだ」と気づく。さらに、この文章を書いている私もまた、『朝のガスパール』の読者としてこの文章を書いているのであり、ひいてはこれを読んでいるあなたも、私が書いた文章の読者としてこのメタの構造の一部を担っているわけだ。ややこしいけど、わかる?
つまり、筒井康隆が描いたメタ構造は単に『朝のガスパール』の中に閉じていない。
それはこのエッセイにも、そしてこれを読んでいるあなたにも拡張されているのだ。
このことを表現するのに、わざわざ「メタの中のメタに言及するメタ」などと直接書くのは野暮というものだろう。
ここではあくまでそのメタ的な構造を借りつつ、読者がその構造を意識する形で展開していきたい。
最後に、ひとつだけ言わせてほしい。『朝のガスパール』を読み終えたとき、私は奇妙な満足感を覚えた。
それは「小説を読んだ」という感覚ではなく、「小説という空間で作者と会話をした」という感覚だった。
今こうして私が書いた増田を読んでいるあなたもまた、この瞬間、私と会話をしている。いや、あなたがこれを読んでいる時点で、もう私はここにはいないのかもしれないけれど、少なくともこの文章を通して私たちはどこかでつながっている。
そう書いた瞬間、私はふと、この「つながっている」という感覚について考え始めた。いや、正確に言えば、私がここで「つながっている」と書いたとき、その言葉を読むあなたの頭の中で何かが動き始めているのだと考えるべきかもしれない。例えば、今この瞬間、あなたの脳内には「この文章を書いた人は何を言いたいんだろう?」という疑問が浮かび、あるいは「まあ、そういう小難しいことを言いたいだけだよね」と呆れた気持ちが湧いたかもしれない。
でも、それもまた一つの接触点だ。私が書いた言葉が、あなたの意識に波紋を投げかける。それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、私たちは今この瞬間、物理的には別々の場所にいるにもかかわらず、思考の交差点に立っている。これを不思議と思わずして何を不思議と思うだろうか?
ここで気づいてほしいのは、この文章そのものが橋のようなものだということだ。私が言葉を選び、それを並べ、送り出す。それを受け取るのは、何千キロ離れたどこかの机の上に座る、見知らぬ誰か。あなた。私がどんな顔でこの言葉を綴っているかをあなたは知らない。あなたがどんな顔でこの言葉を読んでいるかを私も知らない。でも、それなのにこの文章はあなたの目に届き、私はこうしてあなたに話しかけることができる。
そしてここで、私はある種の実験を試みたいと思う。この文章が、ただの文章のままで終わらずに、私という存在とあなたという存在が、少しだけ近づくきっかけになったらどうだろう。例えば、あなたがこの文章を読んでいるときに、なんとなく「書いているこの人、なんだかしつこいな」とか「もう少し簡潔に言えないのか」と思ったならば、それはすでに私があなたの中に存在しているという証拠だ。言葉を通じて、私の思考があなたの中に入り込んでいるのだから。
もちろん、私はあなたの顔を知らないし、声を聞いたこともない。あなたがコーヒーを飲みながらこれを読んでいるのか、満員電車でスマートフォンを覗き込んでいるのか、それとも仕事の合間にひっそりと目を通しているのかもわからない。でも、どんな状況であれ、あなたがこの文章を読んでいる今、私たちは出会っている。あなたの目がこの文章を追い、あなたの脳がその意味を解釈する。それは、私の言葉があなたに届くことで初めて成立する行為だ。
ただ、それを言葉で「つながっている」と表現すると、どうしても味気ない感じがしてしまう。だからこそ、この文章を書いている私が、あなたの中に何かしらのイメージを植えつけたい。例えば、私が今、画面越しに手を伸ばし、あなたの目の前に現れているとしたらどうだろう。いやいや、そんなのはただの妄想だと思うかもしれない。でも、その妄想の中で、私とあなたが初めて握手を交わしたとしたら、それはただの文章を超えた「出会い」だと言えるのではないだろうか。
読者として、いや、このメタの一部として。
ありがとう。そして、また。
どうか健やかに。