はてなキーワード: パパスとは
とか傲慢なこと主張してたのはずっと忘れない。
要はもともとはFIDOのキーを端末に埋め込んでしまえというだけのアイディアです。
この鍵が自宅のワークステーションの中にあり、内部に入るための鍵が必要だったり、ケンジントンロックで縛られてるのであればセキュリティリスクも低いでしょう。
パスワードは人類には早い。パスワードを無くしたい。と言う気持ちはわかりますが、じゃあブラウザにパスワードを記憶させれば良い。
そんな危険なブラウザはアンインストールして一生webを見ないでください!😂
という感じです。
すでにパスワードマネージャー(ブラウザのパスワード管理機能)が対応できているものを、別の穴を開けて作り直している。複雑な機構を作って混乱しています。
パスワードマネージャーならパスワード認証のサイト全てに対応します。パスキーは?
パスキー最初はパスワードをなくせるとか夢物語すぎる、無理だろう。って思ってました。
そのうち大手とかが本格的にやるって言ってて、ええ?GoogleとかAppleが言うなら実は本当にパスワードを無くしてセキュリティ上がるのか!?って思ってました。
今では端末壊れても大丈夫なように鍵をバックアップするとか言い出してて、それデバイスの中に鍵をいれる必要ないよね。鍵複製できてるよね、複製した鍵をGoogleとかAppleがバックアップ取るよね、ベンダ間での相互の鍵をやり取りする試みまで提案される始末で、安全とは?セキュリティとは?みたいになっている。
トラスト、信用が必要な対象が盤面に増えすぎてて、明らかにセキュリティ強度が下がっている。
大企業画から「お前はパスワード一つ扱えないバカだから俺が鍵を預かっててやるよ」という傲慢な態度が伝わってきます。
さてパスワードすら扱えない猿が、私にすら意味不明で複雑怪奇なパスキーを扱えるとおいますかね?無理では?
デバイスに鍵を入れておく。
そのデバイスの鍵で署名してデータを送り出してサーバー側で本人であることを確認するんだ。
とても単純です。パスワードが鍵になったんです。
でも、デバイスが壊れたら?デバイスとPCの連携は?バックアップを誰がどこで管理するの?
さぁ、地獄の扉は開かれました😉
本当にセキュリティ強度が上がると主張するのなら、きっとTORブラウザ真っ先に実装してるはず…
え!!ええええええ!!!TORブラウザはパパパパスキーに対応していないいいい!???
えええ、パスワードよりもセキュリティが上がるはずのパスキーを、セキュリティの極北であるTORブラウザさんが非対応ですててえええ!!?
まぁ将来的に実装する可能性ゼロではないんだろうけど、多分TORはパスキー実装しないだろう。その前にパスキーの煩わしさとかが巷にあふれるようになって誰も使わなくなる。
んで、使いたいという人がいなくなって明確に実装しないって決定が出そう。
パスキー筋悪いと思うんだが、何でみんなパスキーに期待してるんだろうか。
この鍵は俺が俺自信であることを証明するための鍵であって、この鍵をGoogleやAppleが管理するならば、それはもう俺の鍵ではないし、関連するアカウントは全て汚染される。
いやまぁ信じているならばそれで良いんだが、自分が誰と一体何の契約を交わしているのか、パスキー使ってる人がわかってるとは思えん。
ドラクエ11でルビス伝説の設定が全部無かったことにされたのはちょっと悲しかった。まあ、あれを二次創作じゃなくて何で公式設定として認めてたのか、その辺の事情もよくわからんけど。そして何故だか「まおゆう」でルビス伝説の話に触れられてるのがよくわからん。さすがにルビスの名前は直接は出てこないけど、カリティクスだかルビスの名字が出てきてたな。
1~3はそもそもの原作のシナリオがあっさりしてるから、オリジナル設定もりもりで、普通にエンカウントするようなモンスターが幹部の設定だったり、ガルチラ、ガルドといったらやたらとシナリオにガッツリ関わってくる謎のオリキャラが多かったな。2の小説版は結構好きで、敵か味方か謎のポジションを取り続けるオリキャラのガルドが結構いい感じだった。典型的なメアリースーとか言わんといて。
3は魔法使いの仲間のリザと、血の繋がりがあるゾーマの部下のチコとの確執が面白かった。小説版ではオルテガを倒したのはチコという設定になってる。このキャラはいのまたむつみのお気に入りなのかわからないけど、小説版の復刻版では仲間キャラを差し置いて、3の勇者とチコが描かれてる。
4の小説は全4巻で長い。4からはゲームでもシナリオが濃くなってるけど、小説版はそれを上回る濃さを提供してくれたな。なにせ序章と題してピサロとロザリーのエピソードを延々と読まされるもんだから、俺は一体何を読んでるんだという気分になる。エビルプリーストが実は黒幕という小説版設定は、リメイク版4に採用されてたな。さすがにジャコーシュのいう名前は採用されんかったけど。第五章第一部で、各々キャラ視点で勇者と出会うまでのエピソードが語られるのは好き。
小説ドラクエで最高傑作はやはり5。ゲームのエピソードをだいぶ重視するようになったけど、元の話も良いし、さらにそこにプラスアルファで乗ってくる小説版独自の設定が良い。小説版のスライムナイトの設定は公式でも採用されたけど、その後やっぱりなかったことにされてる。やけにあっさりしてる結婚の描写からの砂漠での逢い引きや、過去に戻って主人公がパパスや幼い頃の自分と会う描写は名シーンだと思う。
6の小説は4と5の小説で暴走しすぎたせいなのか、結構あっさり気味。あっさりしすぎてて、あまり印象に残ってない。ただ、黄金竜の正体はバーバラであることを語ってたりとか、ゲーム設定の補完としては良かったと思う。ちなみに漫画版と違って小説版は主人公はミレーユといい感じになる。
7の小説は……全然覚えてないな。つーか、7が長すぎたから、小説版の端折りっぷりも尋常じゃなかったし、会話システムのおかげでゲーム内のテキストも多くて、原作の補完というポジションも取れなかったからねえ。ドラクエの小説が7で止まったのは必然だったか。
ママス&パパス - California Dreamin' https://www.youtube.com/watch?v=KOok1WzZbOY
・主人公は「伝説の装備を集め勇者を探し魔界に囚われた母親を助けてくれ」という父親の遺言を果たすために旅をしている
・フローラの婿候補に名乗りを上げたのは婿に与えられるルドマンの家宝の伝説の盾を貰うため
・結果としてルドマンは頭おかしいレベルのいい人だったが、普通に考えれば婿選びの試練の途中で連れてきた他の女と結婚する奴に家宝をくれるわけがない
・つまりビアンカを選ぶのは女を父親の遺言と母親の命より優先する色恋でしか物を考えられない恋愛脳のクズ
・思考を下半身に支配されているゴミが良識派ぶってるのはちゃんちゃらおかしい
mitimasu 与えられたのは母親が生きているという情報だけなので目的は母親救出。あの時点で魔王討伐は目的外。よって勇者探索と武具集めは絶対条件でなく、勇者に頼らず信頼できる相棒と母親救出という判断は妥当。HiRomPa
○○○よ。
お前がこの手紙を読んでいるということは、
すでに 知っているかもしれんが、
私は邪悪な手にさらわれた妻のマーサを助けるため旅をしている。
私の妻、お前の母にはとても不思議な力があった。
○○○よ!
私の調べたかぎり、
○○○よ!残りの防具を探し出し、
私は、お前を信じている。
頼んだぞ、○○○!
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。