2000年代とは
- 2000年から2009年までの10年間を指す。
- 2000年から2099年までの100年間を指す。21世紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。
- 2000年から2999年までの1000年間を指す。3千年紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。
ここでは1について記述する。
概要
20世紀最後の年・2000年と21世紀最初の年・2001年が跨る、21世紀最初の年代。
それぞれの年の記事も参照。2000年- 2001年 - 2002年 - 2003年 - 2004年 - 2005年 - 2006年 - 2007年 - 2008年 - 2009年
国際社会における2000年代
世界的には、インターネット化・脱アメリカ化といった、社会的にも政治的にも多極化が進んだ時代といえる。世紀末と新世紀が同時に連続した年代でもあり、人類史としても象徴的な年代である。
政治的には、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件で、新世紀の幕開けが象徴され、2008年リーマンショック以降の経済的危機で閉められるという、アメリカの負のイメージが強く出た年代である。新世紀を告げたテロ事件自体は、いわゆる西側諸国、英仏独や日本だけでなく、ロシアや中国、中東各国もテロ攻撃を非難するなど、「世界的悲劇」であった。
ただし、これ以降アメリカが繰り返し中央アジアや中東地域で軍事作戦を展開していく中で、中東各国や中国・ロシアだけでなく、ヨーロッパの中でもフランスやドイツから支持が離れていったり、かつては“アメリカの裏庭”とまで言われた中南米諸国が、ベネズエラでの反米的政権成立やブラジルの経済的台頭など、必ずしもアメリカの政治や経済力に頼まない独自の地域統合が生まれたことにより、冷戦終結以降にあったアメリカの超大国としての地位が徐々に低下していった。ジョージ・ブッシュ・ジュニア政権末期に起きたリーマンショックは、アメリカの国力自体を削ぐ事になり、「ヒーロー待望論」としてのバラク・オバマ大統領誕生に繋がった。
ヨーロッパでは、政治的経済的共同体であるEU(欧州連合)が2003年に10年目を迎え、2004年に10カ国が新たに加わり、当初の12カ国から25カ国になるなど、統合と発展という夢が広がっていた。
かつての大国ロシアは、1991年のソ連邦崩壊という政治的危機とアジア通貨危機の煽りを受けた1998年のデフォルト(債務不履行)で弱っていた1990年代であったが、2000年に当選し、その後“新皇帝”とも揶揄されるウラジミール・プーチン大統領の強権政治と世界経済を追い風にした原油高によるロシア経済の復活と共に、徐々に存在感を増していった。2008年に起きたグルジア侵攻(南オセチア紛争)は、国力を取り戻したプーチン・ロシアによる、「ロシア系住民保護」という名の失地回復運動の様相を呈していた。この流れは、後のウクライナ紛争へと引き継がれていく。
中国も、1990年代の鄧小平による改革開放政策を基本的に堅持した結果、アジア通貨危機の煽りを受けるものの、ロシア同様この時期は世界経済を追い風に、“世界の工場”として19世紀のイギリス、20世紀のアメリカ・日本と同様に21世紀は中国一色になるような輸出型経済成長を達成し、イギリスやフランスを追い抜くなど、経済大国としての地位を高めていった。
社会的・政治的には、瀋陽総領事館への北朝鮮人亡命事件や2008年の北京オリンピックを前にして注目を集めようとしたチベット暴動、四川大地震などがあったが、全体的に独裁色の強い中国政府のコントロールに収まっていった。2008年の北京オリンピックも問題があったものの結果としては成功させた部類に入る。しかし、必ずしも政治的経済的成功ばかりでなく「大国である中国」として、アジア地域で平和的ではない海洋進出による領土紛争が起きるなど、“問題児”としての面も出てくる。
テロの世紀・軍事的リスク
2000年代は「テロの世紀」とも呼べるほどに、世界各地でテロが頻発し、注目された。それは、政情不安なイラクやアフガニスタンだけでなく、アメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされるイスラム原理主義組織・アルカイダがリードしていった結果、主に西側諸国陣営とされた国々でテロが発生し、日常化していった。これ以後、「対テロ戦争」とも称される、主にアメリカ合衆国が率いる対テロ作戦、軍事作戦が「テロリスト殲滅」の名の下に、中東や中央アジア地域が展開されていく。こうした状況の中で、「テロリズム、非対称戦争、低強度紛争」といった言葉がマスメディアやサブカルチャーの中でも浸透していく。
また、中国やロシアは、「対テロ作戦」を旧来から地域内に抱えているイスラム系民族の弾圧へと利用していった。アルカイダからテロ攻撃を受けていた先進各国でも、イスラムフォビア=イスラム教への差別意識がじわりじわり広がっていき、アメリカでは「愛国者法」と呼ばれるこれまでは違法とされた捜査や拷問が合法化されて、それにより国内外のイスラム教徒の弾圧・排除へと繋がっていく。メディアも基本的には政府の方針に異を唱えることはなく、市民社会でもイスラムフォビアは広まっていった。
国際社会では、アメリカ合衆国のジョージ・ブッシュ大統領が、「悪の枢軸」と名指しした、イラク・イラン・北朝鮮が、経済制裁や武力行使の対象となり、これに反発して核開発・ミサイル開発をイラン・北朝鮮が進めることとなる。
経済的なパラダイムシフトとリーマンショック
世界経済は、1990年代から続いていたインターネットバブル、IT業界の急成長によりこれまでの経済理論を塗り替えるのではないかという期待から「ニューエコノミー論」が持て囃されるなどしていた。かねてから懸念されていたコンピュータの誤作動が起きるのではないかという「2000年問題」も杞憂に終わった。2000年のITバブル崩壊やエンロン事件で一旦は好景気のムードが萎んだ。しかし、ITバブル崩壊の震源地だったアメリカは、FRB(連邦準備制度理事会)が低金利政策を推し進め、金余りを作るなどをした結果、すんなりと景気回復した。
世界的には原油をはじめとした資源価格の右肩上がり、ブラジル、ロシア、中国、インドの4カ国プラス南アフリカを加えた、BRICsを代表とする新興国経済が堅調に推移していった結果、リーマンショック前まで、5%を越える高い世界経済のGDP成長率を達成した。特に新興国は8%を達成するなど、90年代のアメリカ経済一色から中国マネーを始め新興国マネーが世界を席巻するのでは、と言われる空気であった。
そのため2008年のリーマンショックは、当事国アメリカを始め先進国にダメージを与えたが、「新興国は大丈夫なのでは」というデカップリング論も出るなど、世界経済自体に強気のムードがあった。しかし、中国はある程度財政政策をすぐさま打ち出したことである程度乗り切ったものの、ロシアは原油価格急落により、石油依存体制が露わになり、ブラジルはリーマンショック以降ゼロ成長になるなど、全体的に不安定化の様相を呈していった。
EUでは、2009年にギリシャで政権交代がなされた結果発覚した、巨額の財政赤字と原因となった粉飾決算という政治的事件が発生した。結果翌2010年から欧州債務危機(ソブリンリスク、ユーロ危機)が政治的に取り沙汰されるなど、EU自体の課題と限界が露呈していくことになる。
エネルギー市場はリーマンショック以降、かなりの混乱を見せ、単に原油価格の変動だけでなく、新エネルギーとしてバイオエタノールが注目された結果、穀物価格が高騰するなど、実経済でも混乱が生じた。結果として、貧困国では、とうもろこしなど主食が手に入れにくくなるなど、単なる経済危機以上の影響が生じた。
全体的に、2000年代の世界はグローバリズム=世界の一体化と先進国内の格差社会化が進んでいる。これは、基本的に1945年以降の“第二次世界大戦を引き起こした保護主義への反省”というスローガンから「自由貿易は経済成長を促進する」という半分事実で半分イデオロギーの経済政策が常識化したことと、インターネット化や各経済連携協定(関税撤廃・貿易自由化)締結などが相まって、技術的にも政治的にも地域や世界の一体化が結実したことに端を発している。
結果として、先進各国では、ヒト・モノ・カネが行き来自由になり、雇用の流動化や投資の自由化となっていった。グローバリズムは一面で、各国の経済成長を支えた一方で、情報やヒトの行き来が自由化したことにより、リスクも世界化させていった。テロの脅威は典型的であるが、ある地域で起きた事が他の地域でも起きうるという事を市民がメディアを通して共有することで、治安立法を各国政府がしやすくなる状況となった。この心配は杞憂ではなく、航空機が世界中を結ぶことで、SARSや新型鳥インフルエンザウイルスその他風土病とされていた細菌・ウイルスを原因とする病が、簡単に世界に広がるようになった。
情報面では、インターネット技術の普及と共にインターネットを通したクラッキングやハッキングによる情報流出・窃盗が徐々に顕在化していく。「新自由主義」、「グローバリズム」の記事も参照。
グローバリズムが単に自由化だけでなく、格差社会化を生んだのは、推進側の「自由主義の不徹底」という事以上に、自由主義が進んだ裏で、企業経営者がその地位を手放さないまま自己に都合がいい規制緩和や雇用切りをしやすくする「労働市場改革」をしたことにより、雇用の調整弁として非正規雇用が割合として高まっていったことにある。これと呼応する形で、投資マネーに敏感に企業も反応し、「株主資本主義」と揶揄されるような、とにかく短期利益や期待先行の経営計画、従業員の福祉や賃金上昇よりも、自己資本比率(ROE)を優先させるような“経済改革”が断行されていった。
新自由主義とも称されるこの流れは、1980年代に先進各国の“福祉病”や経済停滞への対処として始まったが、2000年代の経済自由化の流れは、各国横断的にマネーが流動していった結果、一国の財政金融政策だけでは対応できないほど、投資銀行のパワーが影響拡大したことに段階の違いが見られる。この流れは、その後の2010年代も同じ、もしくはそれ以上とも言える。
格差社会化・中間層の階層分化は、「今日より明日、明日より明後日」という単純な変化志向を削ぎ、保守的・現状維持的な志向を増やす結果となっている。これは、最早リタイアをした親世代よりその親世代の背中を見ている子世代に強く、「とにかく今以上に悪くならないように」と同じ者同士で固まるナショナリズム・ポピュリズムとなって現れている。変化や多様性といった価値よりも、まずは我が身の安全や経済的利益という欲望は、2000年代の経済危機・社会変化とは切っても切り離せない。
文化的には、インターネットが高速ブロードバンド・常時接続化が一般化し、YouTubeといった動画共有サービスが誕生した。他にもFacebook、MySpace、Twitter、Wikipediaといった現在まで普及拡大するインターネットサービスが続々と登場し、インターネット接続としてのPCの普及、その後のスマートフォンの誕生と、ネット社会が日常化していった。
特に音楽は、iTunesをはじめとしてクラウドサービス利用が常識となり、CDといったディスクメディアを質的にも上回るなど過去のものとしていった。iTunesを展開したApple社は、iPhone・Macと合わせて世界観を演出する事により成功を収め、これまでは機能や価格といった面がビジネス的に重視されていたが、イメージや価値の創出が2000年代以降はより強く打ち出されていくことになる。
日本における2000年代
新自由主義の浸透と格差社会化
経済面では1990年代の大不況によって終わった経済成長が、「失われた10年」と称され、その後「失われた20年」となっていく過程であった。特に1970年代生まれが就職活動を迎えた1997年から1998年にアジア通貨危機や日本独自の事情である消費税増税を経た結果、世界経済自体は堅調に推移していたにも関わらず、日本だけ低成長を2000年代を通じて経験する事になった。
この間、小泉純一郎内閣、それを引き継いだ安倍晋三内閣(第一次安倍政権)は、一貫して雇用の流動化や投資自由化を進めるいわゆる新自由主義路線を採っていった。小泉内閣では「聖域なき構造改革」がスローガンとなり、1990年代から続いていた政治不信が徐々に官僚へのバッシングへと転化していたこともあり、橋本行政改革以上のもの、「官から民へ」といった小さな政府論がトレンドとなった。中心的な人物としては、竹中平蔵氏が民間大臣として内閣入りするなどした。
政策面では、郵政民営化・道路公団民営化・国と地方の三位一体改革など、民間を中心に据えた中央政府予算の削減、プライマリーバランス黒字化が打ち出されていった。この流れは、小泉内閣で基本的に堅持されたが、それを継いだ安倍内閣は、多少は郵政において“修正”を行うこととなるが、ホワイトカラー・エグゼンプションなど、全体的には小泉路線のままであった。この間、世界経済と比べると低成長であったが、1990年代の危機に比べると多少はマシになり、“いざなぎ景気を越える”長期の経済成長、いざなみ景気となったが、多くの人にとって賃金上昇を伴わない実感なき経済成長であった。
この間は派遣法改正の結果非正規雇用が増えて、雇用の流動化が進んだ。経営者の考えは、コストカットとしての人件費削減と同時に、ある種都合のいい「日本型経営」の滅私奉公的な考え、世に言うブラック企業が常識化し、過労死が徐々にではあるが事件化・社会に認知されていくこととなった。
当時はまだ言葉としてはなかったが、2005年に発生したJR福知山線脱線事故は「日勤教育」が問題の背景にあり、企業と従業員の関係が潜在的に日本社会にあることを浮かび上がらせた事故であったといえる。企業不祥事としては、2007年の不二家食品偽装事件以降、様々な同種の問題が露見し、2010年代まで尾を引く日本企業の体質の問題、「貧すれば鈍する」という経済不況の問題が前景化していく。
また「勝ち組・負け組」や「ネットカフェ難民」、「ひきこもり・ニート」という言葉が流行するほど話題・問題化し、“ヒルズ族”と呼ばれる株式運用や企業買収を繰り返し、巨大になる企業が持て囃されるなど、社会現象となった。特に、ソフトバンクの孫正義、ライブドアの堀江貴文、村上ファンドの村上世彰、楽天の三木谷浩史は、経済誌に留まらずTVでも見ない日がない時期があるなど、これまでの製造業・職人型の企業から、情報・金融型の企業が注目を集めた。これは“旧態依然”としていた、メディア業界や新聞社をスポンサーとしていた野球球団へと飛び火し、日本での野球人気もあり、ワイドショーでも連日これらの企業人の名前が踊った。
しかし、そういった一面華やかな状況も、2008年から世界的不況の原因となった、リーマンショックが発生し、日本も新興国経済に引っ張られる形で需要と輸出拡大をしていった自動車や電器の輸出が落ち込むなどして、一転して悪化した。また、IT業界の華々しいイメージの裏で、“IT土方”と揶揄されるような長時間労働、下請け・孫請け問題は広がっていった。少子高齢社会が進展する中で、新産業と持て囃された介護・福祉系の現場も、基本的には肉体労働と精神労働で心身ともにすり減らしていく悪環境が常態化していった。
劇場型政治による“支持率型政治”と短期政権の常態化
政治面では、1990年代の政治改革や新党ブームが一旦は落ち着き、森喜朗内閣が超短期で終わった事以外は、基本的には自民党政権の支持が続く安定期であった。それは一番は小泉純一郎という個人的カリスマや中身は別として、「新しい政治をやっている」ような手法と政治的イベントを繰り出す劇場型政治が功を奏した事に大きな原因があった。
それは単に「改革」だけではなく、小泉首相による靖国神社参拝など、ちょうど中国の「反日政策」と呼応する形で、愛国・ナショナリズムを高めるイベントにも及んだ。一般的に、太平洋戦争/大東亜戦争の反省から、自由主義的・個人主義的な市民政治が常識的とされていた日本政治であるが、中曽根康弘内閣以降、小沢一郎の「普通の国」発言など、憲法9条改憲と自衛隊増強や愛国教育が主張されていくこととなった。
その後、野党の一定の抵抗もあったが、イデオロギー的には「国家としては当たり前」という空気の中、国旗国歌法や「伝統と文化を尊重」し「我が国と郷土を愛する」を盛り込んだ改正教育基本法が成立するなど、保守的な流れが定着していった。反中・嫌韓的な歴史認識は、それ自体は中国や韓国のナショナリスティックな言動への反発でもあったが、根本的に続く日中韓が相容れない歴史を抱えていることもあり、政権独自の面とそれをメディアなど報道や情報番組で支持する国民が後押しすることとなった。しかし、政権も中国や韓国と距離を取るだけでなく、経済的利益を共有する「戦略的互恵関係」を打ち出し、「政冷経熱」という経済界からも受け入れられる雰囲気を醸成していった。
内政では、小泉政権は比較的安定していたものの、その後の安倍政権は閣僚のスキャンダルや年金未納問題・社会保険庁問題が相次ぎ、「美しい国」というスローガンを掲げていた割には1年足らずの短期政権を余儀なくされた。またその後も福田康夫内閣は「ねじれ国会」やそれを解消しようとした「大連立構想」が失敗に終わるなど、政権運営に苦慮したまま打開策を見出だせず退陣、麻生太郎内閣も政治状況はそのままで、2008年のリーマンショックに端を発した経済危機に抗いきれないまま、小沢一郎・民主党の国会での攻勢に耐えきれず、衆議院解散するも大敗し、退陣した。
その後民主党政権誕生と相成り、政権交代が15年ぶりに政治的ワードとなる。この政権も小泉時代同様、改革路線を打ち出し、脱官僚・政治主導型の政権運営に国民・メディアも期待したが、政権交代後からすぐ鳩山由紀夫代表や小沢一郎の政治資金を巡る問題、官僚との齟齬、沖縄県にある普天間基地移設問題などが壁となり、内閣支持率が急降下するなど、苦しい政治状況となっていく。
文化
メディア
1970年代~1990年代に隆盛を極めたテレビ業界に翳りが見え始める。2000年にBS放送、2003年に地上波放送でそれぞれデジタル放送が開始され、2011年7月24日をもってのアナログ放送終了が決定された。しかし、B-CASカードやコピーワンスなど面倒な問題や、視聴者からのクレームを恐れる・スポンサーがそれに呼応するなどして放送局から自由な雰囲気が減っていき、テレビ番組そのものの質の低下が進行していった。その結果、2000年代後半からはインターネットでの新たな文化に親しむ若者を中心としたテレビ離れが始まった。
こうしてテレビ業界に金や人材が集まる「メディアの王様」だった時代から、数多くあるメディアの一つへと地位が低下した時代へ移行した転換期であった。「韓流フジテレビ騒動」の記事も参照。2011年には、「アナログTV放送の終了」というビッグイベントが控える中、「地デジカ」という地デジ放送の公式マスコットに対抗して、2ちゃんねる上では「アナログマ」というキャラクターが話題となった。
テレビ離れに拍車をかけたのが高速なインターネット回線の普及である。2000年代初頭では56kbpsのダイアルアップ回線ないし64kbpsのISDN回線が主に使われていたが、2002年頃からADSLやCATV、2005年頃からはFTTHなどの高速なインターネット回線が、一般の家庭でも利用されるようになってきた。これらの回線は従量課金であったダイアルアップ回線とは異なり、どれだけ使っても支払額が一定である定額制が基本であったため、インターネットによる情報収集の一般化とそれに伴う既存メディアが持つ影響力の低下を加速させた。
高速なインターネット回線の普及に伴い、大量のデータ通信を必要とする動画共有サイトも身近なものとなった。2005年に動画共有サイトの元祖であるYouTubeが登場し、一個人が自由に世界中へ動画を公開できるという利点から爆発的に普及した。2006年に登場したニコニコ動画など、類似サイトも数多く生まれた。この中でアニメやドラマ、バラエティ番組などテレビ番組も無断アップロードされ、著作権が侵害される問題から削除要請を頻繁に行われている。だが、イタチごっことなっているのが現状である。しかし、この背景には地域によって放送局の数の差が発生したり、放送番組が全国共通ではないという情報格差の問題が背景にあることも否めない。放送局側がネットと対立的な立場を取り続ける限りこの問題は解決しないだろう。
音楽業界も似たような問題を抱えている。1990年代には100万枚、200万枚などメガヒットが連発したCD売り上げが急激に低下。CD不況が続いている。これを業界側は「P2P共有ソフトなどの違法コピーが原因」とし一部企業がCCCD(コピーコントロールCD)を2003年から導入した。しかし、一部オーディオでは再生できなかったり機器の破損を招いたりするなど利用者の不満が爆発し、CD離れを止めるには至らなかった。売り上げの落ちたCDに代わって台頭してきたのが、携帯電話向けの着うたやiPodなどの携帯オーディオ向けのダウンロード販売である。それまでレコード~CDの時代のパッケージ販売が、時代にそぐわなくなり始めてきたとも言える。
インターネット文化では、インターネット掲示板の「2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)」が大きな影響力を持っていた。1999年に開設されたこのインターネットサイトは、当初はごくごく私的な身内の情報をやり取りするものであったが、次第に外部サイトや新聞・週刊誌記事をネタにする場の側面が大きくなり、“メディア”としての役割も増大化させていく。2ちゃんねるの特徴は、自らはアングラ的身内的な馴れ合いを重視しながらも、「祭り」と称した社会への影響力も意識した現象も時に積極的に起こしていくことにある。「田代砲」「第一次コイルショック」の記事も参照。
また、当初はアングラ的な面を利用者もそしていわゆる表のメディアの人たちも意識していたこともあり、度々「オタクバッシング」や「ネラーの集まり」として時に過度に注目されることもあった(西鉄バスジャック事件、「ネオむぎ茶」の記事も参照)。そのたびに、管理人であった西村博之がTV報道で引用されるなど、「インターネット=2ちゃんねる=ひろゆき」という現在まで尾を引く意識を形成させていった。
ポジティブな面では、「電車男」という2ちゃんねるのスレッドから誕生した小説が、社会的ブームとなり、その後映画化やドラマ化をするなど、オタクのイメージを明るく塗り替えていく転換期でもあった。オタク文化では、涼宮ハルヒシリーズがライトノベルから始まり、2006年にTVアニメ化したことで、アニメ作品としてだけではなく、劇中歌やアニメOPのダンス(ハレ晴レユカイ)が、YouTubeで模倣(踊ってみた)され、伝播していくなど、一大ムーブメントとなった。この間、主に秋葉原の歩行者天国で、パフォーマンスが注目されていたこともあり、路上でコスプレし、時に踊るということがハレ晴レユカイダンス、中曽根OFFなどを通して認知されていく。「アニメ、パフォーマンス、ネット」というそれぞれ独立しつつも、呼応する場として秋葉原がオタク文化の象徴となっていく時代でもあった。
音楽
音楽では、かつての「レコード会社によるプロモーション」から、「インターネットや路上での人気に支えられたコアなファンによる推し」がAKB48を中心に進んでいった。
初音ミクの登場は「表がAKB」なら「裏は初音ミク」と言えるほどにネット上で爆発的な現象を巻き起こした。初音ミクは特性自体は、デスクトップミュージック(DTM)という、以前から存在したものの応用であったが、ソフトパッケージのイメージ像とボカロPと呼ばれる、時に「神調教」を生み出す存在が相互補完的に働き、ネット上の主に若いユーザーから支持されていった。初音ミクのイメージ自体は特定の誰かのものではないので、様々なPやユーザーが思い思いの「初音ミク」を作り出し、二次創作やN次創作を繰り広げていったが、インターネット文化とも繋がるCGMと非常に相性のいいものであった(当初クリプトン社とドワンゴで騒動があったが、これは音楽ビジネスとファンとの緊張関係を象徴した事件でもある)。
アイドル業界では、1990年代から2000年代前半に社会現象となったモーニング娘。に代わり、秋元康がプロデュースするAKB48が2000年代後半から話題となっていった。このグループの特徴は、今まではテレビ業界が先行していたプロモーションが、「地下アイドル」というアングラ的なところから人気を獲得し、ネット上のファンクラブと相まって全国的な地位を得ていくことにある。これは、AKB48グループに限らず、その後のビジネス・商品宣伝にも応用されていく、新しいビジネスモデルともいえる。
また、Perfumeを始めとした中田ヤスタカ(CAPSULE)プロデュースの音楽が、社会的ブームを起こしていく。AKB48が“路上性”、初音ミクが“電子音楽”を象徴すると言えるならば、Perfumeはそのどちらも合わせ持った存在であった。広島の路上ライブから活動を始めたPerfumeメンバーが、中田ヤスタカと出会うことで、新たな「テクノポップユニット」としての地位を獲得していった。Perfumeのヒット以降、中田ヤスタカ自身の知名度も上がっていき、2010年代を代表するきゃりーぱみゅぱみゅなど、「歌を加工して作品にする」といった技法が社会的に認知されていく。
ゲーム
ゲームの世界では、据え置き型の時代から、携帯型・ポータブル型のゲームへとシフトしていく時期である。2000年にはSONYから、PlayStationの後継機・PlayStation2が発売され「高画質・操作性」といった機能面が重視された販売戦略がなされた。任天堂のゲームキューブやMicrosoftのXboxも基本的には同じ戦略に立っていた。しかし同時に、任天堂はポケットモンスターの一大ムーブを作り出したゲームボーイの上位機種・ゲームボーイアドバンス、更に2004年には次世代機・ニンテンドーDS(以下、単にDS)を発表するなど、携帯型ゲーム機が徐々にシェアを伸ばしていく。
ニンテンドーDSとほぼ同時に発売されたSONYのPlayStation Portable(PSP)も基本的に同様である。DSは、当初は性能面で見劣りすると見られたものの、タッチペンでの操作という直感的プレイを開拓した結果、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」など、チャイルド層からシニア層まで幅広い年代の需要を取り入れていくと同時に、知育的なソフトが充実していった。一方でPSPは、モンスターハンターが爆発的ヒットをし、「ひと狩りいこうぜ」という合言葉が象徴的になるほど、みんなでプレイする事が日常となった。1990年代はポケットモンスターがケーブル接続で対戦する事を可能にしたが、2000年代は無線・インターネット回線により、さらに遠くの人・大勢の人と共同プレイを可能になった時代であった。
関連動画
関連コミュニティ・チャンネル
関連項目
- 12
- 0pt