対馬丸単語

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ツシママル
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対馬丸とは、船舶の名称である。この名を使用した船舶は複数存在する。

かしここでは、日本郵船保有の貨物であり、のちに大日本帝国陸軍に徴用されて大東亜戦争中に疎開する児童を乗せて沖縄から本土へ向かう途中で撃沈された、悲劇のとして有名な船舶について記載する。

概要

ヨーロッパ航路向けの貨客6隻を整備するため日本郵船イギリスラッセル社に発注をかけ、そのうちの1隻が対馬丸となる。グラスゴー造所で666として起工、1914年9月8日に進し、同年12月22日工を果たした後、対馬丸は1916年6月21日に開設されたニューヨーク線に就役。排水量6754トン日本初の大貨物であるT貨物に分類される。

間もなく生起した第一次世界大戦による戦禍で輸送が大量に撃沈されたが、これにより戦場から遠く離れていた日本運業界に好気をもたらし、対馬丸を含むT貨物12隻は稼ぎ頭となった(しかし事故Uボートの雷撃で姉妹高田丸と徳山丸が失われている)。しかし1920年代後半からディーゼルエンジンを積んだ新船舶が登場した事で一時は役を奪われたが、世界恐慌に端を発する大船舶の温存方針から旧式のT貨物が再度脚を浴び、老朽化と戦いながら船舶需要を支え続けた。

戦争の足音が近づいてきた1941年9月21日、旧式ながらも優秀船舶の座を死守し続けた対馬丸は大日本帝國陸軍に徴用される。開戦劈頭の南方作戦ではフィリピン方面の攻略作戦に投入。12月18日正午、第2戦隊に護衛されながらを出撃、陸軍徴用27隻とともにフィリピン北部のリンガエン湾へ向かう。12月24日午前1時10分から午前4時30分の間にリンガエン湾の泊地に進入した対馬丸ら輸送団は、午前5時30分より第14軍力の上陸を開始。現地の軍を撃破した後、南部のレガスピに上陸した別動隊と挟撃する形で首都ニラへの進撃を行い、マニラ攻略に繋がった。マレー沖海戦勝利により東南アジアの制権を一気に奪取した海軍は各種攻略作戦を前倒し。対馬丸は作戦へと転用される。

1942年2月9日スマトレンバン攻略を企図したL作戦に参加。練習巡洋艦香椎や第20駆逐隊駆逐艦朝霧、夕等の護衛を受けていたが、2月14日に英空軍211飛行隊所属のブリストル・ブレニム6機の攻撃を許して輸送1隻が撃沈、他数隻に被害が及んでいる。災難に遭いながらも対馬丸は傷で切り抜け、2月16日にパレンバン近郊へ攻略部隊を揚陸。資に乏しい日本にとって最も重要な田地帯の確保に成功した。最後まで抵抗を続けていた在フィリピンアメリカ軍の息になった5月5日、対馬丸は徴用解除されて陸軍の管轄下から離れた。しかし優秀船舶戦場から去るのを戦況が許す訳がなく、今度は6月12日船舶運営会に徴用され、本土近で輸送任務に従事する。

1943年6月5日高雄から六連へ向かっている中で潜水艦2隻に捕捉される。午前10時13分、シーウルフ(文献によってはティノーサとも)から雷撃を受け、1発の魚雷が命中するも幸い不発で済んだ。この頃のアメリカ軍潜水艦魚雷は欠陥の塊なので不発は日常茶飯事だった。護衛の第36号艇が爆雷投下を加えたが、あいにく敵潜には逃げられている。9月7日午前1時15分、第194団に加入して門から高雄に向かっていた中、潜パルゴにレーダー捕捉されて6本の魚雷が伸びてきたものの命中せず。10月28日、再び陸軍に徴用。

1944年3月3日午前4時サイパン防衛に転用する第19師団第75歩兵第3大隊、同第76歩兵第3大隊、第25山岳砲兵第3大隊等を積載して釜山を出発、3月9日東京湾へ回航される。3月12日午前4時、12隻からなる東2号団に加わって東京湾を出港。護衛兵力は軽巡洋艦龍田駆逐艦4隻を含む艦艇9隻で、これに加えて対潜哨戒機が上を旋回していたが、3月13日午前3時10分、八丈島北東40里でサンドランスの雷撃を許し、旗艦龍田官が座乗した陽丸が撃沈される被害を受ける。生き残った船舶3月19日14時サイパンへ入港して増援部隊を揚陸。現地でトラックやエンダービーに向かうと別れた後、3月24日に対馬丸は本土をす復航団に加わり、4月1日東京湾事帰投を果たす。

4月28日13時高雄発マニラ行きのタマ17団に加わって高雄を出港。翌29日21時55分、潜バンの襲撃によりまず丸が撃沈され、4月30日午前4時30分に常陸丸が撃沈されるが、団は何とか的地マニラまで辿り着く事は出来た。このように東南アジア方面や本土近では敵潜水艦の跳梁が抑えられないほどしくなっていたのである。

対馬丸事件

対馬丸が悲劇のと呼ばれているのは、この対馬丸事件による所が大きい。

1944年8月22日沖縄から疎開する児童約800名やその家族、引率の先生を乗せた対馬丸は潜ボーフィンに雷撃され沈没。撃沈したボーフィン側は、対馬丸に児童が乗っていた事を知らず、「物資を積んだ輸送を撃沈した」程度の認識しかかったという。

乗員・乗客合わせて約1700名中1484名が死亡。生き残った児童は59名に過ぎなかったとも言われる。ただし正確な乗客数や正確な犠牲者数が判明していないため、これらの人数については不確かな数字であるという(「対馬丸記念館」公式サイト内「対馬丸に関する基礎データページより)。

これを受けて日本政府米国抗議した他、緘口を敷いて事態の発覚を防いだ。しかし本土から便りが届かない等の理由で一気に撃沈の噂が広がったとか。

ナモ103船団の編制

経緯

出港まで

1944年7月7日サイパン守備隊が玉砕した事でマリアナ諸は陥落。軍民ともに次に狙われるのは沖縄だと直感する。政府沖縄県泉守紀知事に「非戦闘員約10万人を本土ないし台湾疎開させよ」と示したが、本土と違って沖縄から疎開するにはを渡らなければならず、おいそれと進められない状況にあった。それでも沖縄県庁は疎開事務警察部所管とし市町村長や学校長が督励。慌しく疎開事務を開始した。沖縄には多数の増援部隊が本土から送られ、30万の人口が40万近くに膨れ上がった事で食糧問題が表出、こういった面もあり疎開を急がなければならなかった。

7月中旬、模範を示すため最初に県庁や警察の職員が本土に疎開。輸送には軍艦が使用され、軍とのコネがあれば寄留商人も便乗できたが、県民の渡には軍艦ではなく軍隊を沖縄に上陸させてになった輸送を使用する事になっており、加えて本土(未知の土地)に対する不安や兵隊が沢山いる安心感、中で敵潜水艦跋扈している噂などの要素が沖縄県民の疎開を消極的なものにしてしまう。そんな中、「次の疎開には軍艦が使用される」という出所不明の噂が流れた事で希望者が殺到し、8月半ばに応募が打ち切られた。その次の疎開こそ、悲劇の舞台となる対馬丸の輸送であった。

8月16日18時35分、対馬丸は輸送(ぎょうくう)丸、和丸、護衛の旧式駆逐艦砲艦宇治とともに第609団を編制してを出港。沖縄へ向かう前に上海外港ウースンに立ち寄り、支那派遣軍から沖縄へ転用する第62師団の兵員3339名と野戦重用の軍49頭を積載したのち、波が高い南シナを突破して8月19日的地の那覇へと到着した。対馬丸は那覇港内に停泊、砲艦宇治駆逐艦は港から少し離れた場所で投錨。

8月21日午前6時、この日は快晴も穏やか、気温も24℃と天まれていた。本土へ疎開する老若男女が縄の隅々から集まり、集合場所である西新町の場前に集結しつつある。中には那覇の港すら見た事がない山奥農村身者もいた。いつしか広場は疎開者と見送りの者約5000名でごった返す。暁部隊兵士警官が汗だくになって、舟艇を使って疎開者の荷物を運び入れてゆく。対馬丸も暁空丸も和浦丸もき先が同じ鹿児島なので荷物と持ち主がバラになる事も珍しくかったとか。対馬丸には島尻郡国民生徒割り当てられていたが、急遽那覇市内の学校が割り込んできたため急遽乗船先を浦丸に更するトラブルがあったが、それ以外は大した混乱もなく作業は粛々と進められていく。疎開者たちは軍艦ではない対馬丸を見て若干がっかりしたが、6000トン級の巨体が安心感をもたらした。しかし3隻とも老朽化激しいい船であ、特に対馬丸は公称12ノトだが実際は7ノットが限界の鈍足船で、外航の中でもから数えた方が早いほど低能と言えたしかも那覇に到着する直前、第609船団は敵潜艦に追跡されており、ここまで辿り着けたのは実質奇跡のようなものだったのである。無論この事疎開者たちは知らない。備蓄燃料が乏しくて本土の艦艇はおいそれと動かせず、有力な艦艇はアメリカ軍のフィリピ来攻に備えて南方のリンガ泊に進出していたため、連合艦隊はこのような旧式艦船しか使えかったのだ。

出発の訓示として、那覇市長は次のように述べた。

今日皆さんが乗っていかれるは、みな憎い英国からの分捕り品(これは対馬丸ではなく香港の戦い鹵獲した暁空丸していると思われる)で、これまでにも幾度か危険なをくぐり抜けてきた運の強いであります」「これから乗ってゆかれる皆さんは、どうか上、輸送指揮官や引率の先生のおっしゃる事をよく守って、全員残らず九州につかれますよう祈ります…

16時頃、那覇学校の学童や付き添い人など、合計1661名が劇場前広場から南へ200m先にある対馬丸に乗。そして18時35分頃、様々な想いや逡巡を容赦なく振り払いながら3隻の輸送と護衛を務める宇治が出港、ゆっくり沖縄の地を離れた。大人たちは別れを惜しんで泣いていたが学童たちの多くは泣かなかった。快晴だったはいつの間にか分厚いに覆われ、出港した時には小雨が降り始める。団は最も遅い対馬丸に速力を合わせた。

戦慄の航行

対馬丸に乗した疎開者たちの居住スペース倉にあった。天井の高さが3m近くあるが、約800名(741名とも)の学童や教師を乗せるため鉄板の壁に沿って二段に仕切られ、急ごしらえの二階建てとなっている。それでもタタミ1間に2人で寝る必要があり非常に手狭で、が一つもないので蒸し風呂同然であった。邪気な子供は暑くて臭い倉でも元気にはしゃぎ回り、とある男子生徒は持ってきたサトウキビや棒切れで女子生徒お尻を突っつくなどイタズラに奔走する一方、引率の教師たちは慣れない上ゆえ酔いに悩まされていた。まるで旅を満喫するかのように裸で走り回る男子生徒女子生徒もシュミーズ1枚になって暑さに耐えんでいた。

日付が変わったばかりの8月22日深夜船長室では航路を巡って意見の対立が起きていた。対馬丸の船長西沢武雄は48歳のベテランで、「対馬丸は老朽かつトカラの航は危険。潜水艦に狙われたら一溜まりもいので複雑なジグザグ航行を採用したい」とするが、輸送隊指揮官の若い陸軍少尉は「それでは到着が遅れる」と船長の具申を跳ね除け、ほとんど直線に近いカーブを描く之字運動C法を採った。その後、引率の先生たちが室に呼ばれ、指揮官から「この近が一番危ないと言われる。今さえ過ごせば、明日事に内地に着く。引率教師は今晩眠らずに警してもらいたい」と示した他、疎開者の代表者を選んで指揮官室に呼び、「間はデッキに出ない事」「火を点けない事」「サトウキビの食べかすやくずに投棄すると航跡がバレるから控える事」「敵潜襲撃の恐れがあるから航中は示に従う事」と注意を促す。兵隊や員は時間の許す限り邪気な子供たちに付き合ってあげ、戦争の話や前に遭難して助かった体験談をして彼らは楽しいひととき送る。

団が瀬底通過する頃、近くで待機していた輸送3隻がこっそりと団に加わった。この3隻は対馬丸と違って快足を誇り、8月19日沖縄を出発して護衛しで本土をしていたが、「沖縄本島に敵潜出現」の報を受けて瀬底付近で待機。たまたま近くを通った護衛がついている団に混ぜて貰った訳である。新入りの団は一列縦隊を組んで対馬丸と並走。しかし対馬丸があまりにも鈍足だったため却って危険だと判断し、午前中に団から脱して予定通りの航路へと戻った。

8月22日。引率の先生たちが笑顔挨拶を交わす。は乱層積乱雲といったによって半分以上が覆われ、時々降り注ぐスコールが甲しくいた。団の隊列は砲艦宇治を先頭に和丸、暁空丸、対馬丸、最後尾は駆逐艦の単縦であった。この時、沖縄東南東500km先から台風が迫っていたのだが、半の間に西へ針路を変更したため直撃は免れるも、台風がもたらすが波を荒くする。小で勢力も弱かった事から団は敢えて荒に突っ込む航路を取った(荒は敵機から逃れるのに有用だった)のだが、台風で更に速力が落ちた対馬丸に合わせるべく団全体がより鈍足になってしまう。いつしか対馬丸にはが付きっきりなり、宇治の艦にある12cm双眼鏡を以ってしても2隻の姿をい知る事が出来なくなる。つまり線の向こう側に行ってしまうほど遅れている訳である。

船長室では再び西沢船長陸軍少尉が航路について議論を交わしていた。本土近が極めて危険だと知っている船長は「本は半老朽でのろいから、狙われたら危ない。ジグザグで避ける他ない」と以前と同じ意見を。実際、1ヶほど前に品から沖縄に向かっていた富山丸が直線コースを取ったところ、潜水艦の雷撃を受けて積み荷の最新兵器兵士4500名ともども撃沈された。この富山丸というのは対馬丸と同じT貨物であり、今直進コースを取る事は即ち富山丸の再現になってしまうだろう。だが陸軍少尉はそれでも承しなかった。こうして直進コースを取ったまま対馬丸は最も危険な域へ差し掛かろうとしていた。先生たちは児童たちに救命胴衣を着用させて避難訓練も行ったが、児童の多くは危機感を持っておらず、仕方なくやらされてる具合だった。酔いで訓練に参加できない者もいた。

15時頃、団の上フロート付きの日本軍機が飛来。甲疎開者たちは力強く低で旋回する友軍機に頼もしさを感じながら手を振って歓迎した。この水上偵察機奄美大島を基地とする対潜哨戒機で、のちに宇治の2隻に「敵潜水艦発見」の暗号電文が届けられた事で護衛艦艇が慌ただしく動き始める。宇治では戦闘配置が命じられ、は左に急転して旋回中の対潜哨戒機印に対潜掃討を実施するが、日直前に爆雷1発を投下しただけで「効果不明(仕留めたかどうかも分からない)」であった。老朽艦ゆえの対潜力が低かったのである。偵は日と燃料不足の懸念から「、帰投す1730」の電文を打って帰投。間もなく日を迎えて辺りは宵闇に包まれた。この闇の時間帯こそ潜水艦にとって狩りがしやすい最も危険であり、聴音機なんて上質なものを持っていない対馬丸は、視で雷跡を見つける事でしか回避の術がかった。そして軍艦と違って1発でも命中すれば致命傷を負って即死。かつてアメリカ軍魚雷不発弾だらけの欠陥品だったが、この頃にはもう改良が進んでいて大正規空母さえも葬り去る脅威と化していた。だがこの危険な一晩明かす事が出来れば本土はもうの前である。もが穏な航になる事を祈った。しかし団から落しつつある対馬丸は潜水艦から最も狙われやすい位置にある。が付き添っているとはいえ、団から落したがどのような末路を辿るのかは、大西洋で行われたUボートの戦いを見れば明確であった。

対馬丸の四隅には監視があり兵隊が三交代制で見りをしていた。18時頃、左舷側の遠方に潜望らしきものが発見されたが、発見したのが民間人だったため相手にされず。夜空は少なくて視界は不明瞭、しかしには夜光蛍火のように美しく対馬丸の航跡を浮かび上がらせ、これ以上ない襲撃チャンスを敵潜水艦提供する。

首が波を切り裂く音しか聞こえない漆黒世界の中で敵は密かに近づきつつあった。

被雷

22時12分、学童が寝静まった頃、対馬丸の左舷掛けて5本のい雷跡が伸びてきた。双眼鏡でこれを発見した見り員が伝管に向かって絶叫する。

「雷跡発見!左舷約80度!距離500!本に向かって疾走中!!」

それは地獄へ誘う片切符。監視からの絶叫を受けた西沢船長機関部に「取り一杯!機械両舷前進全速力!」と伝え、回避運動を取ろうとしたが、もはやどうしようもなかった。1本魚雷首前方、2本は第一倉左舷側を通り抜けていったが、3本が二番倉に直撃。ちょうど学童たちが寝ている下だった。ズドン全体を揺らす決定的な一打。ドスン!次は第七倉への命中。引率の先生たちは時に事態を悟ったが、被雷してもなお大半の子供を覚まさなかったため、をかけて起こしていくがそれでも起きない子は蹴飛ばされた。最後に第五倉右舷側にも命中、計3本の魚雷が老朽対馬丸を貫く。機関停止すると同時に総員退が下り、体は右舷へ15度傾斜、あちこちから悲鳴が上がる地獄絵図と化した内より疎開者たちは暗へと飛び込んでゆく。生存者はボートイカダに身を寄せて波間を漂っていたが、中には泳ぎに自信がある者もおり、彼らは自力で付近のまで辿り着こうとしたが、例外なく波にまれて溺死どこからか「海ゆかば」の悲壮な歌が聞こえてきたという。船長西沢武雄以下24名と学童682名、一般疎開者802名、隊員21名がとともに沈んだ。沈没するとその場所には大きな渦が発生する。その渦は非常に強力で、ひとたび巻き込まれれば海底まで引きずり込まれてしまう。このため海軍では乗艦が沈没する時は急いでその場から離れるよう教育されているし、後に戦艦武蔵沈没した時は渦を警して駆逐艦ですら近づく事が出来なかった。したがって、ここで命を落とした者は被雷の際に即死したか、何らかの事情でからに飛び込めなかった者たちであった。

に立ち昇った火柱により宇治の艦でも雷撃を受けた事を認めた。12cm双眼鏡で辺りを見渡したところ、暁空丸と和丸が事だった事から被雷したのは対馬丸と判明、沈没地点を中心に遊して更なる雷撃を防ごうと努力する。潜水艦を攻撃するには爆雷を使用する必要があるのだが、爆雷を使えば漂流者をも圧死させてしまうため、この状況では有効な反撃が行えなかったのだ。暁空丸事務長室からも断末魔の火柱が見えた。間もなくして、すうっと火は消えた。この事は内の子供たちにはせられた。

対馬丸を雷撃したのは潜水艦ボーフィン。新鋭のバラオ級に属する。当時の乗組士官によるとボーフィン距離2560mから浮上状態で雷撃し、魚雷を命中させた後は対潜攻撃を警して急速潜航を行ったという。波は高く(発見されにくい)、対馬丸は低速かつ団から落して独航状態(狙いやすい)であり、潜水艦乗りからすればむしろ対潜装備を大量に積んだ囮Qシップを疑うレベルの格好の獲物だったのだ。

漂流

宇治は残った暁空丸、和丸を守って足に去ってしまい、対馬丸の漂流者は漆黒世界で漂流を強いられた。

暗闇の中、言い知れぬ恐怖に襲われる生存者たち。児童のが持たせてくれた、僅かばかりの食料が頼りだった。サメに襲われて死亡する者、悪石島に漂着した者、力尽きて底に沈んだ者、それぞれが過酷な運命を辿っていった。対馬丸を残して突っ走っていた護衛艦艇からの連絡で、ただちに漁団や軍の航空機が救助に向かった。8月23日午後3時、最初の漁が救助に現れた。沖縄からも漁派遣されたが、台風が接近していたためすぐには動けず、到着は翌24日になった。波が高かったにも関わらず、彼らの献身的な救助により少なくない数の疎開者、兵士、乗組員が助かった。ただしその具体的な人数については、正確な記録いために不明とされる(「対馬丸記念館」公式サイト内「対馬丸に関する基礎データページより)。

体験記

当時、高等科2年生(14歳)だった仲宗根正男氏はイカダに掴まって、一人っ暗な大海原を漂流していた。やがて日が昇り、太陽が照りつける。正午頃、小さなイカダにしがみつく7人くらいの生存者と遭遇。正男氏が掴まってるイカダは大きかったので、一緒になった。この生存者は女子供が多かった。14時頃、眠ったまま成人女性死亡。生き残った者が水葬した。寝たら死ぬと考えた員の男性が、みんなの眠気を覚まそうと怒鳴ったり、寝た生存者の顔をビンタした。殴っても起きない者は短刀太ももを突き刺した。それでもなお凄まじい眠気に襲われ、意識が朦朧とした。多和田という女生徒が嘔吐したが、の中に何も無いので液を出した。苦しそうに全身を震わしたが、員は「血塊を吐くまでは大丈夫」と励ました。彼は「必ず助けが来る」とみんなを励しながら、自身は他の人を助けに行くと言って切れに乗り換えて離れていった。

員が離れてから30分が経過した頃、からエンジン音が聞こえてきた。日の丸を付けた、日本軍航空機である。生存者は力いっぱい手を振って、存在を示す。正男氏は咄嗟に機転を利かし、洋を脱ぐよう示。半ば引き千切るように強奪すると、それらを繋ぎ合わせて振り回した。これに気付いた航空機は低で旋回し、黄色の浮き袋を投下。何とかたぐい寄せると、そこにはインキで「山川の漁に連絡あり 頑」と書かれていた。航空機は飛び去ってしまったが、救助の希望った。生存者たちはを最大限に使い、漁を探した。太陽もすっかり傾き始めていた。

3、4時間が経過した頃、線に漁を認めた。正男氏が「だ!」と差すと、みんなもその方向を見やる。漁生存者に気付いたようで、徐々に近付いてくる。イカダの上に立ち上がった正男氏は学校で習った手旗信号で「助けてくれ」と送った。すると漁から「分かりました」と返答があった。生存者は全員救出され、漁に乗せられた。まず一杯のが与えられ、かなり経ってから味の効いたお粥が与えられた。漁鹿児島山川港に到着し、事生還に成功した。

その後

当事者のボーフィン戦争を生き残り、真珠湾攻撃復讐者として記念艦となっている。対馬丸は赤十字等の塗装く、のちの波丸と違って国際法上は撃沈しても問題なかった。実際、ボーフィンは輸送撃沈としか認識しなかった。1944年には沖縄関係の船舶が16隻沈められており、対馬丸はその1隻だった。対潜と絶対国防圏の破綻には気を付けよう!

疎開を推進した各校長は、遺族からしい非難を浴びた。「うちの子を殺したのはあなただ!」「校長先生が勧めなければ疎開させなかった。責任を取れ!」と罵詈雑言が浴びせられ、に石が投げ込まれた。中には逃げ同然で引っ越した校長もいた。対馬丸の一件もあり、沖縄県民の疎開は相変わらず進まなかったが、1944年10月10日那覇大空襲(十・十空襲)を受けた事で一変。もはや沖縄は安全な場所ではなくなり、県民が先に疎開しようとしたため、大日本帝國海軍はいよいよ軍艦を輸送任務に投入した。

救助された生存者は鹿児島に上陸し、地元住民の温かな歓迎を受けた。しかしすぐに憲兵や兵隊によって旅館に隔離され、身内にも会わせて貰えなかった。重傷者は救急車病院に搬送され、他の者は身体検栄養注射を受けた。お便りを送ろうにも遭難の事は書けず、電報も同様だった。

戦後

昭和28年、慰霊「小の搭」が建立される。

平成9年海洋科学技術センター深海調研究「かいれい」と同とする深海機「かいこう」を使用して悪石島海底捜索を行い、海底に沈んでいる対馬丸の残骸が発見された。この報を受けて当時の天皇は大きく心を動かし「疎開児の命いだきて沈みたる深海に見出だされけり」と御製を詠んだと言われる。引上げについても検討されたが、体の腐食がしいため断念された。

平成16年、対馬丸事件を風化させないよう、沖縄県那覇市に対馬丸記念館が設立された。当時の資料等が保存されている。

平成29年鹿児島県奄美大島に慰霊碑が完成などの奄美大島各地の海岸には生存者21名と遺体105体が漂着していた。

平成30年広島県広島市南区にある治山陸軍墓地に立つ船舶砲兵部隊慰霊碑前で、対馬丸事件の慰霊祭が広島において初めて催された。対馬丸には広島拠点としていた船舶砲兵も数十人乗していた縁で、この慰霊碑の横にある銘に「対馬丸乗 沖縄疎開学童之霊」の文字が刻まれているため。

題材とした創作作品

沖縄の民

1956年7月には、小説家石野径一郎」による対馬丸事件を扱った小説作品『沖縄の民』が「書房」から刊行。この小説は同年11月には日活による映画化作品も開されている。

さらに翌年の1957年には、本作は1956年下半期の直木賞補にもノミネートされた(受賞には至らず)。

ああ七島灘に眠る友よ!-疎開船対馬丸の悲劇-

1975年には季刊の少女漫画雑誌『デラックスマーガレット』の号に、「木内千鶴子」による漫画『ああ七に眠る友よ!-疎開対馬丸の悲劇-』が掲載された。この漫画は翌年1976年には木内千鶴子の単行本に表題作として収録されている。

本作の第一ページには「石野径一郎著「疎開・対馬丸」より」と記されているが、この『疎開・対馬丸』とは上記の『沖縄の民』が別出版社から文庫化される際に改題したものか。

対馬丸 さようなら沖縄

1982年には沖縄県出身の小説家大城立裕」によるこの対馬丸事件を題材とした小説『対馬丸』が発表された。

さらに同年、この小説原作としたアニメ映画『対馬丸 さようなら沖縄』も制作された。劇場上映用やテレビ放送用ではなく平和教育的の巡回上映用作品だったようだ。文部省選定作品とされたこともあって、その後日本各地で上映されていった。このアニメ映画沖縄以外におけるこの事件の知名度を増したとも言われる。現在2010年代時点)でも時折、各地で上映会などが開かれているようだ。

この作品は監督小林治、作画監督芝山努ら、主人公声優田中真弓、などとスタッフキャストに実力者が並んでおり、作品クオリティは高く秀作であるとのこと。しかしそれだけに、事件の凄惨さの描写も鮮なものとなっているらしく、一部の視聴者からは「トラウマアニメ」として挙げるもあるらしい。

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対馬丸

3 ななしのよっしん
2018/12/02(日) 07:56:54 ID: MvfZrpKNQL
英国からの分捕り品 ってのは同行してる暁空丸のほうだね。
香港で建造中だったのを日本軍が獲得してる
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4 名無し
2019/08/20(火) 23:20:39 ID: 3qOCO4nPBe
軍隊輸送子供たちを乗せてしまった事がそもそもの間違い
病院として出港していれば悲劇は避けれていたかも知れない
(すなわち側面に大きく赤色で十字を描く、赤十字旗掲揚、軍人乗不可、食料を除く物資の輸送不可、兵装の撤去、出港時刻航路到着予定時刻を連合側に通達、上での臨検には即座に応じる、常航行等)
但し、ぶゑのすあいれす丸事件の様に確実に安全が担保出来るものではなかったが
撃沈させたボーフィン対馬丸が常を点けていない(病院ではない)事を確認した後に深夜に雷撃したという説もある
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5 ななしのよっしん
2019/08/20(火) 23:24:11 ID: GrGowAFGeA
負けたからもう何言っても
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6 ななしのよっしん
2019/09/02(月) 00:24:08 ID: qrGmF+8Egd
沖縄部隊を運んで帰るついでの引き上げ業務だし、
軍隊輸送を使うのも多少はね?

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7 ななしのよっしん
2020/04/09(木) 01:06:34 ID: NsgIH++6IQ
※4
それ以前に病院は「独航」、つまり単独での航行が基本。
団を組んでいる上、護衛兵力がいる状態では「病院」と認めて貰えない。
さらに病院はあくまでも「傷病者」を対にするので疎開児童を含む一般人が乗者では対外となる。
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8 ななしのよっしん
2022/06/16(木) 14:25:28 ID: r++9I5uLBO
佐藤大輔の「征途」にも対馬丸の撃沈描写があって、主人公堂進がに投げ出されるもかろうじて生き延びる様子が書かれている
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9 ななしのよっしん
2022/08/01(月) 19:48:21 ID: glbz4CVVUy
>撃沈したボーフィン側は、対馬丸に児童が乗っていた事を知らず、
>「物資を積んだ輸送を撃沈した」程度の認識しかかったという。

程度の認識じゃなくって彼方からして見れば名実共に軍の輸送だし
それに疎開児童を乗せたのは日本側の勝手な判断だろ、何を言っているんだ・・・
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10 ななしのよっしん
2023/06/06(火) 18:12:26 ID: /bfyxIiJPN
戦争始めた時点で、戦闘子供が巻き込まれる全ての責任日本大人たちにあった。
潜水艦を悪者にするなど図々しいにも程がある。
大陸日本軍がしたこと思えばとくに。
自分は他人の子どもを殺す理由があるが、逆はあり得ないと言ってるも同然。
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11 ななしのよっしん
2024/01/19(金) 00:09:57 ID: U4hlCXVN6F
元気いいねぇ
何かいいことでもあったの
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12 ななしのよっしん
2024/08/22(木) 23:52:39 ID: 6FbWnOJEb4
特に何も書かれないで終わりか
急上昇にも上がらないしも風化されてるんだな
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