対馬丸とは、船舶の名称である。この名を使用した船舶は複数存在する。
しかしここでは、日本郵船保有の貨物船であり、のちに大日本帝国陸軍に徴用されて大東亜戦争中に疎開する児童を乗せて沖縄から本土へ向かう途中で撃沈された、悲劇の船として有名な船舶について記載する。
概要
ヨーロッパ航路向けの貨客船6隻を整備するため日本郵船はイギリスのラッセル社に発注をかけ、そのうちの1隻が対馬丸となる。グラスゴー造船所で666番船として起工、1914年9月8日に進水し、同年12月22日に竣工を果たした後、対馬丸は1916年6月21日に開設されたニューヨーク線に就役。排水量6754トン。日本初の大型貨物船であるT型貨物船に分類される。
間もなく生起した第一次世界大戦による戦禍で輸送船が大量に撃沈されたが、これにより主戦場から遠く離れていた日本の海運業界に好景気をもたらし、対馬丸を含むT型貨物船12隻は稼ぎ頭となった(しかし事故やUボートの雷撃で姉妹船高田丸と徳山丸が失われている)。しかし1920年代後半からディーゼルエンジンを積んだ新型船舶が登場した事で一時は役目を奪われたが、世界恐慌に端を発する大型船舶の温存方針から旧式船のT型貨物船が再度脚光を浴び、老朽化と戦いながら船舶需要を支え続けた。
戦争の足音が近づいてきた1941年9月21日、旧式ながらも優秀船舶の座を死守し続けた対馬丸は大日本帝國陸軍に徴用される。開戦劈頭の南方作戦ではフィリピン方面の攻略作戦に投入。12月18日正午、第2水雷戦隊に護衛されながら馬公を出撃、陸軍徴用船27隻とともにフィリピン北部のリンガエン湾へ向かう。12月24日午前1時10分から午前4時30分の間にリンガエン湾の泊地に進入した対馬丸ら輸送船団は、午前5時30分より第14軍主力の上陸を開始。現地の米比軍を撃破した後、南部のレガスピに上陸した別動隊と挟撃する形で首都マニラへの進撃を行い、マニラの早期攻略に繋がった。マレー沖海戦の勝利により東南アジアの制海権を一気に奪取した帝國陸海軍は各種攻略作戦を前倒し。対馬丸は蘭印作戦へと転用される。
1942年2月9日、スマトラ島パレンバン攻略を企図したL作戦に参加。練習巡洋艦香椎や第20駆逐隊の駆逐艦朝霧、夕霧等の護衛を受けていたが、2月14日に英空軍第211飛行隊所属のブリストル・ブレニム6機の攻撃を許して輸送船1隻が撃沈、他数隻に被害が及んでいる。災難に遭いながらも対馬丸は無傷で切り抜け、2月16日にパレンバン近郊へ攻略部隊を揚陸。資源に乏しい日本にとって最も重要な油田地帯の確保に成功した。最後まで抵抗を続けていた在フィリピンのアメリカ軍も虫の息になった5月5日、対馬丸は徴用解除されて陸軍の管轄下から離れた。しかし優秀船舶が戦場から去るのを戦況が許す訳がなく、今度は6月12日に船舶運営会に徴用され、本土近海で輸送任務に従事する。
1943年6月5日朝、高雄から六連へ向かっている道中で米潜水艦2隻に捕捉される。午前10時13分、シーウルフ(文献によってはティノーサとも)から雷撃を受け、1発の魚雷が命中するも幸い不発で済んだ。この頃のアメリカ軍の潜水艦用魚雷は欠陥の塊なので不発は日常茶飯事だった。護衛の第36号哨戒艇が爆雷投下を加えたが、あいにく敵潜には逃げられている。9月7日午前1時15分、第194船団に加入して門司から高雄に向かっていた道中、米潜パルゴにレーダー捕捉されて6本の魚雷が伸びてきたものの命中せず。10月28日、再び陸軍に徴用。
1944年3月3日午前4時、サイパン防衛に転用する第19師団第75歩兵第3大隊、同第76歩兵第3大隊、第25山岳砲兵第3大隊等を積載して釜山を出発、3月9日に東京湾へ回航される。3月12日午前4時、12隻からなる東松2号船団に加わって東京湾を出港。護衛兵力は軽巡洋艦龍田と駆逐艦4隻を含む艦艇9隻で、これに加えて対潜哨戒機が上空を旋回していたが、3月13日午前3時10分、八丈島北東40海里で米潜サンドランスの雷撃を許し、旗艦龍田と船団司令官が座乗した国陽丸が撃沈される被害を受ける。生き残った船舶は3月19日14時にサイパンへ入港して増援部隊を揚陸。現地でトラックやエンダービー島に向かう船と別れた後、3月24日に対馬丸は本土を目指す復航船団に加わり、4月1日に東京湾へ無事帰投を果たす。
4月28日13時、高雄発マニラ行きのタマ17船団に加わって高雄を出港。翌29日21時55分、米潜バンの襲撃によりまず竹川丸が撃沈され、4月30日午前4時30分に常陸丸が撃沈されるが、船団は何とか目的地マニラまで辿り着く事は出来た。このように東南アジア方面や本土近海では敵潜水艦の跳梁が抑えられないほど激しくなっていたのである。
対馬丸事件
対馬丸が悲劇の船と呼ばれているのは、この対馬丸事件による所が大きい。
1944年8月22日、沖縄から疎開する児童約800名やその家族、引率の先生を乗せた対馬丸は米潜ボーフィンに雷撃され沈没。撃沈したボーフィン側は、対馬丸に児童が乗っていた事を知らず、「物資を積んだ輸送船を撃沈した」程度の認識しか無かったという。
乗員・乗客合わせて約1700名中1484名が死亡。生き残った児童は59名に過ぎなかったとも言われる。ただし正確な乗客数や正確な犠牲者数が判明していないため、これらの人数については不確かな数字であるという(「対馬丸記念館」公式サイト内「対馬丸に関する基礎データ」ページより)。
これを受けて日本政府は米国に抗議した他、緘口令を敷いて事態の発覚を防いだ。しかし本土から便りが届かない等の理由で一気に撃沈の噂が広がったとか。
ナモ103船団の編制
- 対馬丸
事件の舞台となる悲劇の船。1914年竣工と船団の中では最も老朽化が進んでいた船であり、ボーフィンに狙われたのも老朽船故の足の遅さが原因だった。また沖縄県民の本土輸送において撃沈されたのも対馬丸だけである。
- 暁空丸(ぎょうくうまる)
前身はイギリスが香港で建造していた貨物船エンパイアランタン。起工から2日後に生起した香港の戦いにおいて大日本帝國陸軍に鹵獲され、日本の手で1943年8月に竣工した。陸軍船舶部隊直属の船であるため船名に「暁」を冠する。護衛艦艇以外では唯一爆雷や対潜迫撃砲を装備していた。ちなみに暁空丸の写真は1枚も現存していないため、姉妹船の暁天丸の写真で代用される事が多い。
- 和浦丸(かずうらまる)
1938年12月に竣工した比較的新しい船。最大速力16.5ノットと対馬丸とは雲泥の差であり、優秀船舶の1隻に数えられる性能を誇る。ただし武装は持っていなかった。
- 駆逐艦蓮(はす)
1922年7月竣工の樅(もみ)型駆逐艦17番艦。支那事変の時から戦い続けてきたベテランだが、艦体や兵装の老朽化はどうしようもなく、ボーフィンを捕捉するには至らなかった。
- 砲艦宇治(うじ)
1941年4月に竣工した橋立型砲艦2番艦。ナモ103船団の中では最も新しく、砲艦とは思えない重武装が施された先進的な艦である。
経緯
出港まで
1944年7月7日、サイパン島守備隊が玉砕した事でマリアナ諸島は陥落。軍民ともに次に狙われるのは沖縄だと直感する。政府は沖縄県の泉守紀知事に「非戦闘員約10万人を本土ないし台湾へ疎開させよ」と指示したが、本土と違って沖縄から疎開するには海を渡らなければならず、おいそれと進められない状況にあった。それでも沖縄県庁は疎開事務を警察部所管とし市町村長や学校長が督励。慌しく疎開事務を開始した。沖縄には多数の増援部隊が本土から送られ、30万の人口が40万近くに膨れ上がった事で食糧問題が表出、こういった面もあり疎開を急がなければならなかった。
7月中旬、模範を示すため最初に県庁や警察の職員が本土に疎開。輸送には軍艦が使用され、軍とのコネがあれば寄留商人も便乗できたが、県民の渡海には軍艦ではなく軍隊を沖縄に上陸させて空になった輸送船を使用する事になっており、加えて本土(未知の土地)に対する不安や兵隊が沢山いる安心感、道中で敵潜水艦が跋扈している噂などの要素が沖縄県民の疎開を消極的なものにしてしまう。そんな中、「次の疎開には軍艦が使用される」という出所不明の噂が流れた事で希望者が殺到し、8月半ばに応募が打ち切られた。その次の疎開こそ、悲劇の舞台となる対馬丸の輸送であった。
8月16日18時35分、対馬丸は輸送船暁空(ぎょうくう)丸、和浦丸、護衛の旧式駆逐艦蓮、砲艦宇治とともに第609船団を編制して呉を出港。沖縄へ向かう前に上海外港ウースンに立ち寄り、支那派遣軍から沖縄へ転用する第62師団の兵員3339名と野戦重砲用の軍馬49頭を積載したのち、波が高い南シナ海を突破して8月19日に目的地の那覇へと到着した。対馬丸は那覇港内に停泊、砲艦宇治と駆逐艦蓮は港から少し離れた場所で投錨。
8月21日午前6時、この日は快晴で風も穏やか、気温も24℃と天候に恵まれていた。本土へ疎開する老若男女が沖縄の隅々から集まり、集合場所である西新町の国民劇場前に集結しつつある。中には那覇の港すら見た事がない山奥の農村出身者もいた。いつしか広場は疎開者と見送りの者約5000名でごった返す。暁部隊の兵士や警官が汗だくになって、舟艇を使って疎開者の荷物を運び入れてゆく。対馬丸も暁空丸も和浦丸も行き先が同じ鹿児島なので荷物と持ち主がバラバラになる事も珍しくなかったとか。対馬丸には島尻郡南風原国民学校の生徒が割り当てられていたが、急遽那覇市内の学校が割り込んできたため急遽乗船先を和浦丸に変更するトラブルがあったが、それ以外は大した混乱もなく作業は粛々と進められていく。疎開者たちは軍艦ではない対馬丸を見て若干がっかりしたが、6000トン級の巨体が安心感をもたらした。しかし3隻とも老朽化激しい古い船であり、特に対馬丸は公称12ノットだが実際は7ノットが限界の鈍足船で、外航船の中でも下から数えた方が早いほど低性能と言えた。しかも那覇に到着する直前、第609船団は敵潜水艦に追跡されており、ここまで辿り着けたのは実質奇跡のようなものだったのである。無論この事は疎開者たちは知らない。備蓄燃料が乏しくて本土の艦艇はおいそれと動かせず、有力な艦艇はアメリカ軍のフィリピン来攻に備えて南方のリンガ泊地に進出していたため、連合艦隊はこのような旧式艦船しか使えなかったのだ。
出発の訓示として、那覇市長は次のように述べた。
「今日皆さんが乗っていかれる船は、みな憎い英国からの分捕り品(これは対馬丸ではなく香港の戦いで鹵獲した暁空丸を指していると思われる)で、これまでにも幾度か危険な目をくぐり抜けてきた運の強い船であります。」「これから乗ってゆかれる皆さんは、どうか道中海上、輸送指揮官や引率の先生のおっしゃる事をよく守って、全員残らず無事九州につかれますよう祈ります…」
16時頃、那覇国民学校の学童や付き添い人など、合計1661名が国民劇場前広場から南へ200m先にある対馬丸に乗船。そして18時35分頃、様々な想いや逡巡を容赦なく振り払いながら3隻の輸送船と護衛を務める宇治と蓮が出港、ゆっくりと沖縄の地を離れた。岸壁の大人たちは別れを惜しんで泣いていたが学童たちの多くは泣かなかった。快晴だった空はいつの間にか分厚い雲に覆われ、出港した時には小雨が降り始める。船団は最も遅い対馬丸に速力を合わせた。
戦慄の航行
対馬丸に乗船した疎開者たちの居住スペースは船倉にあった。天井の高さが3m近くあるが、約800名(741名とも)の学童や教師を乗せるため鉄板の壁に沿って二段に仕切られ、急ごしらえの二階建てとなっている。それでもタタミ1畳の空間に2人で寝る必要があり非常に手狭で、窓が一つもないので蒸し風呂同然であった。無邪気な子供は暑くて臭い船倉でも元気にはしゃぎ回り、とある男子生徒は持ってきたサトウキビや棒切れで女子生徒のお尻を突っつくなどイタズラに奔走する一方、引率の教師たちは慣れない船上ゆえ船酔いに悩まされていた。まるで船旅を満喫するかのように裸で走り回る男子生徒、女子生徒もシュミーズ1枚になって暑さに耐え忍んでいた。
日付が変わったばかりの8月22日深夜、船長室では航路を巡って意見の対立が起きていた。対馬丸の船長西沢武雄は48歳のベテランで、「対馬丸は老朽船かつトカラ近海の航海は危険。潜水艦に狙われたら一溜まりも無いので複雑なジグザグ航行を採用したい」と主張するが、輸送隊指揮官の若い陸軍少尉は「それでは到着が遅れる」と船長の具申を跳ね除け、ほとんど直線に近いカーブを描く之字運動C法を採った。その後、引率の先生たちが船室に呼ばれ、指揮官から「この近海が一番危ないと言われる。今夜さえ過ごせば、明日無事に内地に着く。引率教師は今晩眠らずに警戒してもらいたい」と指示した他、疎開者の代表者を選んで指揮官室に呼び、「昼間はデッキに出ない事」「夜は灯火を点けない事」「サトウキビの食べかすや紙くずを海に投棄すると航跡がバレるから控える事」「敵潜襲撃の恐れがあるから航海中は指示に従う事」と注意を促す。兵隊や船員は時間の許す限り無邪気な子供たちに付き合ってあげ、戦争の話や前に遭難して助かった体験談をして彼らは楽しいひととき送る。
船団が瀬底島近海を通過する頃、近くで待機していた輸送船3隻がこっそりと船団に加わった。この3隻は対馬丸と違って快足を誇り、8月19日に沖縄を出発して護衛無しで本土を目指していたが、「沖縄本島近海に敵潜出現」の報を受けて瀬底島付近で待機。たまたま近くを通った護衛がついている船団に混ぜて貰った訳である。新入りの船団は一列縦隊を組んで対馬丸と並走。しかし対馬丸があまりにも鈍足だったため却って危険だと判断し、午前中に船団から脱して予定通りの航路へと戻った。
8月22日朝。引率の先生たちが笑顔で挨拶を交わす。空は乱層雲や積乱雲といった夏型の雲によって半分以上が覆われ、時々降り注ぐスコールが甲板を激しく叩いた。船団の隊列は砲艦宇治を先頭に和浦丸、暁空丸、対馬丸、最後尾は駆逐艦蓮の単縦陣であった。この時、沖縄東南東500km先から台風が迫っていたのだが、夜半の間に西へ針路を変更したため直撃は免れるも、台風がもたらす雨風が波を荒くする。小型で勢力も弱かった事から船団は敢えて荒天に突っ込む航路を取った(荒天は敵機から逃れるのに有用だった)のだが、台風の影響で更に速力が落ちた対馬丸に合わせるべく船団全体がより鈍足になってしまう。いつしか対馬丸には蓮が付きっきりなり、宇治の艦橋にある12cm双眼鏡を以ってしても2隻の姿を窺い知る事が出来なくなる。つまり水平線の向こう側に行ってしまうほど遅れている訳である。
船長室では再び西沢船長と陸軍少尉が航路について議論を交わしていた。本土近海が極めて危険だと知っている船長は「本船は半老朽でのろいから、狙われたら危ない。ジグザグで避ける他ない」と以前と同じ意見を主張。実際、1ヶ月ほど前に宇品から沖縄に向かっていた富山丸が直線コースを取ったところ、米潜水艦の雷撃を受けて積み荷の最新兵器や兵士4500名ともども撃沈された。この富山丸というのは対馬丸と同じT型貨物船であり、今直進コースを取る事は即ち富山丸の再現になってしまうだろう。だが陸軍少尉はそれでも承服しなかった。こうして直進コースを取ったまま対馬丸は最も危険な海域へ差し掛かろうとしていた。先生たちは児童たちに救命胴衣を着用させて避難訓練も行ったが、児童の多くは危機感を持っておらず、仕方なくやらされてる具合だった。船酔いで訓練に参加できない者もいた。
15時頃、船団の上空にフロート付きの日本軍機が飛来。甲板の疎開者たちは力強く低空で旋回する友軍機に頼もしさを感じながら手を振って歓迎した。この水上偵察機は奄美大島を基地とする対潜哨戒機で、のちに宇治と蓮の2隻に「敵潜水艦発見」の暗号電文が届けられた事で護衛艦艇が慌ただしく動き始める。宇治では戦闘配置が命じられ、蓮は左に急転舵して旋回中の対潜哨戒機を目印に対潜掃討を実施するが、日没直前に爆雷1発を投下しただけで「効果不明(仕留めたかどうかも分からない)」であった。老朽艦ゆえ蓮の対潜能力が低かったのである。水偵は日没と燃料不足の懸念から「我、帰投す1730」の電文を打って帰投。間もなく日没を迎えて辺りは宵闇に包まれた。この闇夜の時間帯こそ潜水艦にとって狩りがしやすい最も危険であり、聴音機なんて上質なものを持っていない対馬丸は、目視で雷跡を見つける事でしか回避の術が無かった。そして軍艦と違って1発でも命中すれば致命傷を負って即死。かつてアメリカ軍の魚雷は不発弾だらけの欠陥品だったが、この頃にはもう改良が進んでいて大型正規空母さえも葬り去る脅威と化していた。だがこの危険な一晩明かす事が出来れば本土はもう目の前である。誰もが平穏な航海になる事を祈った。しかし船団から落伍しつつある対馬丸は潜水艦から最も狙われやすい位置にある。蓮が付き添っているとはいえ、船団から落伍した船がどのような末路を辿るのかは、大西洋で行われたUボートの戦いを見れば明確であった。
対馬丸の四隅には監視哨があり兵隊が三交代制で見張りをしていた。18時頃、左舷側の遠方に潜望鏡らしきものが発見されたが、発見したのが民間人だったため相手にされず。夜空に星は少なくて視界は不明瞭、しかし黒い海には夜光虫が蛍火のように美しく対馬丸の航跡を浮かび上がらせ、これ以上ない襲撃チャンスを敵潜水艦に提供する。
船首が波を切り裂く音しか聞こえない漆黒の世界の中で敵は密かに近づきつつあった。
被雷
22時12分、学童が寝静まった頃、対馬丸の左舷目掛けて5本の白い雷跡が伸びてきた。双眼鏡でこれを発見した見張り員が伝声管に向かって絶叫する。
「雷跡発見!左舷約80度!距離500!本船に向かって疾走中!!」
それは地獄へ誘う片道切符。監視哨からの絶叫を受けた西沢船長は機関部に「取り舵一杯!機械両舷前進全速力!」と伝え、回避運動を取ろうとしたが、もはやどうしようもなかった。1本目の魚雷は船首前方、2本目は第一船倉左舷側を通り抜けていったが、3本目が二番船倉に直撃。ちょうど学童たちが寝ている真下だった。ズドン!船全体を揺らす決定的な一打。ドスン!次は第七船倉への命中。引率の先生たちは瞬時に事態を悟ったが、被雷してもなお大半の子供は目を覚まさなかったため、声をかけて起こしていくがそれでも起きない子は蹴飛ばされた。最後に第五船倉右舷側にも命中、計3本の魚雷が老朽船対馬丸を貫く。機関停止すると同時に総員退船命令が下り、船体は右舷へ15度傾斜、あちこちから悲鳴が上がる地獄絵図と化した船内より疎開者たちは暗黒の海へと飛び込んでゆく。生存者はボートやイカダに身を寄せて波間を漂っていたが、中には泳ぎに自信がある者もおり、彼らは自力で付近の島まで辿り着こうとしたが、例外なく波に呑まれて溺死。どこからか「海ゆかば」の悲壮な歌声が聞こえてきたという。船長・西沢武雄以下24名と学童682名、一般疎開者802名、船砲隊員21名が船とともに沈んだ。船が沈没するとその場所には大きな渦が発生する。その渦は非常に強力で、ひとたび巻き込まれれば海底まで引きずり込まれてしまう。このため海軍では乗艦が沈没する時は急いでその場から離れるよう教育されているし、後に戦艦武蔵が沈没した時は渦を警戒して駆逐艦ですら近づく事が出来なかった。したがって、ここで命を落とした者は被雷の際に即死したか、何らかの事情で船から海に飛び込めなかった者たちであった。
闇夜に立ち昇った火柱により宇治の艦橋でも雷撃を受けた事を認めた。12cm双眼鏡で辺りを見渡したところ、暁空丸と和浦丸が無事だった事から被雷したのは対馬丸と判明、沈没地点を中心に遊弋して更なる雷撃を防ごうと努力する。潜水艦を攻撃するには爆雷を使用する必要があるのだが、爆雷を使えば漂流者をも圧死させてしまうため、この状況では有効な反撃が行えなかったのだ。暁空丸の事務長室からも断末魔の火柱が見えた。間もなくして、すうっと火は消えた。この事は船内の子供たちには伏せられた。
対馬丸を雷撃したのは米潜水艦ボーフィン。新鋭のバラオ級に属する。当時の乗組士官によるとボーフィンは距離約2560mから浮上状態で雷撃し、魚雷を命中させた後は対潜攻撃を警戒して急速潜航を行ったという。波は高く(発見されにくい)、対馬丸は低速かつ船団から落伍して独航状態(狙いやすい)であり、潜水艦乗りからすればむしろ対潜装備を大量に積んだ囮船Qシップを疑うレベルの格好の獲物だったのだ。
漂流
宇治と蓮は残った暁空丸、和浦丸を守って足早に去ってしまい、対馬丸の漂流者は漆黒の世界で漂流を強いられた。
暗闇の中、言い知れぬ恐怖に襲われる生存者たち。児童の親が持たせてくれた、僅かばかりの食料が頼りだった。サメに襲われて死亡する者、悪石島に漂着した者、力尽きて水底に沈んだ者、それぞれが過酷な運命を辿っていった。対馬丸を残して突っ走っていた護衛艦艇からの連絡で、ただちに漁船団や軍の航空機が救助に向かった。8月23日午後3時、最初の漁船が救助に現れた。沖縄からも漁船が派遣されたが、台風が接近していたためすぐには動けず、到着は翌24日になった。波が高かったにも関わらず、彼らの献身的な救助により少なくない数の疎開者、兵士、乗組員が助かった。ただしその具体的な人数については、正確な記録が無いために不明とされる(「対馬丸記念館」公式サイト内「対馬丸に関する基礎データ」ページより)。
体験記
当時、高等科2年生(14歳)だった仲宗根正男氏はイカダに掴まって、一人真っ暗な大海原を漂流していた。やがて日が昇り、真夏の太陽が照りつける。正午頃、小さなイカダにしがみつく7人くらいの生存者と遭遇。正男氏が掴まってるイカダは大きかったので、一緒になった。この生存者は女子供が多かった。14時頃、眠ったまま成人女性が死亡。生き残った者が水葬した。寝たら死ぬと考えた船員の男性が、みんなの眠気を覚まそうと怒鳴ったり、寝た生存者の顔をビンタした。殴っても起きない者は短刀で太ももを突き刺した。それでもなお凄まじい眠気に襲われ、意識が朦朧とした。多和田という女生徒が嘔吐したが、胃の中に何も無いので胃液を出した。苦しそうに全身を震わしたが、船員は「血塊を吐くまでは大丈夫」と励ました。彼は「必ず助けが来る」とみんなを激励しながら、自身は他の人を助けに行くと言って板切れに乗り換えて離れていった。
船員が離れてから30分が経過した頃、空からエンジン音が聞こえてきた。日の丸を付けた、日本軍の航空機である。生存者は力いっぱい手を振って、存在を示す。正男氏は咄嗟に機転を利かし、洋服を脱ぐよう指示。半ば引き千切るように強奪すると、それらを繋ぎ合わせて振り回した。これに気付いた航空機は低空で旋回し、黄色の浮き袋を投下。何とかたぐい寄せると、そこにはインキで「山川の漁船に連絡あり 頑張れ」と書かれていた。航空機は飛び去ってしまったが、救助の希望が灯った。生存者たちは目と耳を最大限に使い、漁船を探した。真夏の太陽もすっかり傾き始めていた。
3、4時間が経過した頃、水平線に漁船を認めた。正男氏が「船だ!」と指差すと、みんなもその方向を見やる。漁船も生存者に気付いたようで、徐々に近付いてくる。イカダの上に立ち上がった正男氏は学校で習った手旗信号で「助けてくれ」と送った。すると漁船から「分かりました」と返答があった。生存者は全員救出され、漁船に乗せられた。まず一杯の水が与えられ、かなり経ってから塩味の効いたお粥が与えられた。漁船は鹿児島の山川港に到着し、無事生還に成功した。
その後
当事者のボーフィンは戦争を生き残り、真珠湾攻撃の復讐者として記念艦となっている。対馬丸は赤十字等の塗装が無く、のちの阿波丸と違って国際法上は撃沈しても問題なかった。実際、ボーフィンは輸送船撃沈としか認識しなかった。1944年には沖縄関係の船舶が16隻沈められており、対馬丸はその1隻だった。対潜と絶対国防圏の破綻には気を付けよう!
疎開を推進した各校長は、遺族から激しい非難を浴びた。「うちの子を殺したのはあなただ!」「校長先生が勧めなければ疎開させなかった。責任を取れ!」と罵詈雑言が浴びせられ、家に石が投げ込まれた。中には夜逃げ同然で引っ越した校長もいた。対馬丸の一件もあり、沖縄県民の疎開は相変わらず進まなかったが、1944年10月10日に那覇大空襲(十・十空襲)を受けた事で一変。もはや沖縄は安全な場所ではなくなり、県民が我先に疎開しようとしたため、大日本帝國海軍はいよいよ軍艦を輸送任務に投入した。
救助された生存者は鹿児島に上陸し、地元住民の温かな歓迎を受けた。しかしすぐに憲兵や兵隊によって旅館に隔離され、身内にも会わせて貰えなかった。重傷者は救急車で病院に搬送され、他の者は身体検査と栄養の注射を受けた。お便りを送ろうにも遭難の事は書けず、電報も同様だった。
戦後
平成9年、海洋科学技術センターが深海調査研究船「かいれい」と同船を母船とする深海探査機「かいこう」を使用して悪石島沖海底捜索を行い、海底に沈んでいる対馬丸の残骸が発見された。この報を受けて当時の天皇は大きく心を動かし「疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされけり」と御製を詠んだと言われる。引上げについても検討されたが、船体の腐食が激しいため断念された。
平成16年、対馬丸事件を風化させないよう、沖縄県那覇市に対馬丸記念館が設立された。当時の資料等が保存されている。
平成29年、鹿児島県奄美大島の宇検村に慰霊碑が完成。宇検村などの奄美大島各地の海岸には生存者21名と遺体105体が漂着していた。
平成30年、広島県広島市南区にある比治山陸軍墓地に立つ船舶砲兵部隊慰霊碑前で、対馬丸事件の慰霊祭が広島において初めて催された。対馬丸には広島を拠点としていた船舶砲兵も数十人乗船していた縁で、この慰霊碑の横にある銘板に「対馬丸乗船 沖縄疎開学童之霊」の文字が刻まれているため。
題材とした創作作品
沖縄の民
1956年7月には、小説家「石野径一郎」による対馬丸事件を扱った小説作品『沖縄の民』が「鱒書房」から刊行。この小説は同年11月には日活による映画化作品も公開されている。
さらに翌年の1957年には、本作は1956年下半期の直木賞候補にもノミネートされた(受賞には至らず)。
ああ七島灘に眠る友よ!-疎開船対馬丸の悲劇-
1975年には季刊の少女漫画雑誌『デラックスマーガレット』の夏号に、「木内千鶴子」による漫画『ああ七島灘に眠る友よ!-疎開船対馬丸の悲劇-』が掲載された。この漫画は翌年1976年には木内千鶴子の単行本に表題作として収録されている。
本作の第一ページには「石野径一郎著「疎開船・対馬丸」より」と記されているが、この『疎開船・対馬丸』とは上記の『沖縄の民』が別出版社から文庫化される際に改題したものか。
対馬丸 さようなら沖縄
1982年には沖縄県出身の小説家「大城立裕」によるこの対馬丸事件を題材とした小説『対馬丸』が発表された。
さらに同年、この小説を原作としたアニメ映画『対馬丸 さようなら沖縄』も制作された。劇場上映用やテレビ放送用ではなく平和教育目的の巡回上映用作品だったようだ。文部省選定作品とされたこともあって、その後日本各地で上映されていった。このアニメ映画が沖縄以外におけるこの事件の知名度を増したとも言われる。現在(2010年代時点)でも時折、各地で上映会などが開かれているようだ。
この作品は監督:小林治、作画監督:芝山努ら、主人公の声優:田中真弓、などとスタッフ・キャスト陣に実力者が並んでおり、作品クオリティは高く秀作であるとのこと。しかしそれだけに、事件の凄惨さの描写も鮮烈なものとなっているらしく、一部の視聴者からは「トラウマアニメ」として挙げる声もあるらしい。
関連動画
関連リンク
- 対馬丸調査ページ - 海洋研究開発機構(海洋科学技術センターの後継組織)公式サイト内
- 対馬丸記念館
- [証言記録 市民たちの戦争]海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~|番組|NHK 戦争証言アーカイブス
関連項目
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