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吉田茂(1878年9月22日1967年10月20日)とは、昭和期の政治家である。第45・4851代内閣総理大臣を経験した。

概要

内閣総理大臣に5回名されており、歴代最多である。合計の在任日数2,616日(第一次吉田内閣368日、第二五次吉田内閣2,248日)は桂太郎(2,886日)、佐藤栄作(2,798日)、伊藤博文(2,720日)に次ぐ歴代4位の長さであり、連続の在任日数2,248日は佐藤栄作(2,798日)に次ぐ歴代2位の長さである(ちなみに小泉純一郎は1,980日で合計で5位、連続で3位)。孫は第92代内閣総理大臣麻生太郎サンフランシスコ講和条約、安全保障条約を結び、戦後日本外交路線を決定付けた人として、教科書紹介される(吉田路線)。大日本帝国憲法のもとでの最後の内閣総理大臣貴族院議員として組閣の大命を受けた)。また、戦後日本において内閣総理大臣を辞任後、再び内閣総理大臣に返り咲いた人物は吉田茂、安倍晋三の2人のみである。

内閣総理大臣時代

第一次吉田内閣―第一党の自由党から首相を選出(1946年5月22日~1947年5月24日)

幣原内閣から吉田内閣に政権が移行したのは、敗戦後初の議会選挙の結果によるものであった。しかし、その以降は決して円滑とはいえなかった。67歳の吉田茂が、初の内閣を発足させるまでには、約1ヶ政治混乱が続いた。

第一に、新たな選挙制度のもとで占拠が行われる直前、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)により、職追放が行われたため、戦前選挙推薦された議員は自動的に追放されてしまった。

第二に、4月10日に行われた総選挙の結果、どの政党も過半数に満たなかった。敗戦後すべての政党は解散し、進歩党(日本進歩党)が戦前政治会系の議員によって、自由党日本自由党)が政治会とは一線を画した鳩山一郎らによって、さらに協同組合義を唱える議員らにより日本協同党が、そして社会党戦前無産政党グループ)が結成された。しかし、最大議席を獲得した自由党でさえ、466議席中140議席にしか過ぎなかった。

第三は、選挙の結果下野するものと思われた幣原内閣が、第一党になった自由党も過半数に満たないことから、政権維持の意欲をみせていたことであった。首相自身、憲法改正問題もあり政権を放棄する訳にはいかないと考えた。しかし、この政権居座りには批判も強く、芦田均厚生大臣が辞任する事態に発展したため、ついに4月22日に総辞職した。そこで第一党になった自由党鳩山が組閣するものと思われたが、5月4日に追放されており、同じ自由党吉田にお鉢が回ってきたのだった。鳩山追放の背景には、総部の意向(ニューディールに共感する総部の民生部が、社会党政権を期待)なども関係していたと言われる。

吉田は、首相および自由党の総裁を引き受けるにあたり、政党の人事に関わらない、政治資金は作らない、嫌になったらいつでも辞める、鳩山の政界復帰の際には政権を返すとの四条件を示したと言われるが、その偽のほどはともかく、後にこのことがさらなる政治混乱を招くことになる。

経済政策

吉田内閣経済政策上の課題は民への食料供給に加え、工業生産の回復の為のエネルギー素材の確保であった。戦争中には軍需的用途で、戦後においては工業復のために必要とされた粗鋼の生産量のピーク1943年765トンであった。それが敗戦時にはその3割にも満たない196万トンにまで減少し、46年にはピーク時の8ほどにまで落ち込んだ。他方、エネルギーである石炭も、戦争中に増産され41年に5647万トンに達していたが、45年には半減し2986万トンとなった。

石炭生産減少の理由の1つには、戦争中に採炭を担っていた朝鮮半島中国からの労働者を敗戦により当てにできなくなったことがあげられる。鋼生産も必要な石炭が枯渇したため、減少せざるを得ないという悪循環に陥っていた。「傾斜生産方式」によってこの問題解決のために取り組んだのが、46年8月に発足した重要経済政策の企画立案と総合調整を的とした経済安定本部である。

経済安定本部発足前から、日本政府は、幣原内閣末期3月に発表した預金封鎖などを柱とする緊急経済対策を効果的に実施するための推進本部設置を検討していた。しかし総部は、経済政策の実施が効果的となるような経済官庁の設置を示唆し、結局、内閣経済安定本部が設立されたのである。

東京大学教授有沢らが吉田内閣に働きかけたと言われる傾斜生産方式は、石炭と鋼の増産にあらゆる政策を傾斜させるものであったが、より具体的には「石炭の生産量を重点的に鋼増産に投入し、その増産された鋼鋼材を石炭増産用に振り向け、石炭の不足分を輸入重で補しながら、石炭と鋼の傾斜的増産の効果を段階的に諸産業に及ぼしていく」という方策であった。

この政策を金融面から支えたのが、47年1月に発足した復金融庫であり、貸出残高の約4割を炭鉱など鉱業が占めた。復金融庫の要な資金は復金債(復金融債)であり、日銀引き受けによっていた。この結果通貨増発を誘発し、この時期のインフレをさらに加速させることになったのだが、石橋湛山蔵相はその点を予測して復金融庫を設立したのであった。石橋は、「不全雇用のもとでは政府資金を散布して生産活動を刺したために若干の物価騰が起きても、それはインフレーションではない」とし、石炭をはじめ鋼、肥料、住宅建設など、当面の重要産業に資金を供給することが政府責任としたのである。

当時の国内政治状況

民の不満はインフレの昂進や配給が滞るほどの食糧事情の悪化に伴い、募るばかりであった。一方、労働組合設置など総部による民主化政策の推進は、人々の不満のはけ口としての直接的行動に訴えさせることになった。46年の5月1日、11年ぶりのメーデーでは皇居前に約50万人が、ついで5月19日に開かれた食糧メーデーでも25万人が集まり、口々に吉田反動内閣反対、民主戦線結成を訴えた。各企業ストライキも盛んで、東京電気日本鋼管などでは労働組合が直接生産管理をするほどの勢いであった。

未だソ両営による冷戦は明確な形をとっておらず、この時点では総部も共産党日本共産党)や社会党による抗議行動を容認していたのである。しかし、47年1月2月1日のゼネストの計画が明らかになるや、総部も事態の深刻さに気が付き、ゼネスト中止を行った。ゼネストは、電力、ガス鉄道、電信電話の各分野で行い、吉田内閣を倒し、社会、共産両党を中心とする人民戦線内閣を作るという計画であったといわれる。

しかし、こうした蓄積された民の不満は、総部が吉田内閣に強く支持していた選挙の結果に反映されることになった。ダグラス・マッカーサーは、ゼネスト中止をし当面吉田を救う一方、民意を問うことをめたのであった。4月25日に実施された選挙では、社会党143自由党131、進歩党の後継組織である民主党日本民主党126、協同党(日本協同党)31、共産党4、その他31という吉田には厳しい結果となった(この選挙の直前に選挙法が改正され中選挙区制に戻されている)。書記長の西尾末広が、社会党勝利の一報を聞いて「えらいこっちゃ」と漏らしたエピソードで有名である。

つまり、当時の民は急進的な共産党の政策を肯定することは出来ないが、物価の上昇の沈静化を見いだせない吉田内閣にも強い不満を持っていることを明らかにしたのだった。吉田は、民主党との連立による政権維持を模索せず、第一党になった社会党に政権を明け渡した。社会党片山委員長共産党を除く四党連立を考えたが、吉田社会党を敬遠し、下野した。こうして社会党委員長を首班とする片山内閣が発足した。

当時の国内政治・経済・社会の動き

第二次吉田内閣―議会を解散し、政権基盤を強固に(1948年10月15日~1949年2月16日)

二次吉田内閣は不安定な少数内閣として出した。既に70歳になっていた吉田茂は、それでも意気軒昂であった。この政治的に不利な状況は賭けをしてでも、変えなければならない、そう考えていた。11月15日の施政方針演説で「まず信を民に問うがために冒頭解散する」こと、それが「政治常識であり、また野の輿論となっておる」(野=世間)と述べたのは、まさにそうした理由からであった。しかし、吉田の思惑通りにはなかなか進まなかった。昭和電工事件は、吉田周辺が仕掛けたとみた総部の民政局(GS)が頑として解散を認めなかったからと言われている。GSは同事件で少なからず打撃を受けた中道勢力が、選挙になれば敗北することを怖れていたのである。ついに問題は出来たばかりの憲法論争にまで発展する。GSは、憲法第六十九条内閣不信任案でのみ解散できるとした。他方、吉田側は「内閣の助言と承認により天皇民のために出来る事行為」として、憲法七条第三項を根拠に解散出来るとした。

吉田がここまで解散に固執したのは、勝利を確信していたことに加え、敗戦後選挙でどの政党内閣の安定に不可欠な過半数をえる議席を得られず、を異にする連立内閣が誕生せざるを得なかったことに不満を持っていたからといわれる。吉田摘にもかかわらず、実際には経済政策においても、連立内閣は一定の成果を上げてきたのだったが、吉田自身はその他の政策を含め、政策の効率的遂行には強力な内閣が必要だと信じていた。結局ダグラス・マッカーサーの調停で話し合い解散が実現し、1949年1月に行われた総選挙では、吉田の期待通り民自党(民主自由党)の大勝利となった。

民自党264、民主党69、社会党48、共産党35、民協同党14の民意が示され、議席数過半数をえる政党バックにした内閣がついに誕生したのだった。この選挙吉田官僚を多数立補させ当選させた。この中には、池田勇人(大蔵次官)、佐藤栄作(運輸次官)、岡崎勝男(外務次官)ら、後に首相の座にまで上り詰める者を含め重要な役割を果たす政治家がおり、後に吉田学校と呼ばれる人脈を形成した。吉田政治家として実に強かであった。連立政権の問題を摘する一方、実際の組閣では引き続き参議院では与党が少数であること、また党内の鳩山を封じ込める的などから民党と連立した。

第三次吉田内閣(1949年2月16日~1952年10月30日)

総選挙大勝利により吉田は第三次内閣を発足させ、その後6年余り日本首相として君臨することになるが、外相は自ら兼任し、講和条約締結問題の決着に意欲を見せる一方、大蔵大臣には当選したばかりの池田を抜した。吉田がその後の対折衝などで池田を重用したことはよく知られている。運が良かったのは、選挙で多数を占めたことだけではなかった。際情勢も吉田に味方した。ソ対立はますますしさを増し、アジアでは48年中頃には相次いで南北両朝鮮独立し、49年の10月には共産党率いる中華人民共和国が誕生した。国民党台湾国民党政府が有していたものの、社会大陸を支配した共産党政権を現実のものとして認めつつあった。イギリス速新中国を承認した。他のアジアでも、共産主義の台頭は顕著な形で現れつつあり、米国政府の不安は次第に募りつつあった。

吉田は「今こそ日本連合に対して、その存在意義を認めさせ、日本経済を確実のものとし、講和条約を締結しなければならない」と考えていた、とされている。負けたとはいえ、日本戦前アジアでは一の工業教育準も高く、人口も多い。何より地政学的にみても、戦略的にみても枢要な位置にある。米国としても、日本共産主義化は悪夢に違いなかった。

こうした論見は当たり、第二次吉田内閣発足直後の48年10月に決まった米国政府の対日政策の新方針は、これまで既に明らかにした占領政策の漸進的な緩和策を、正式に認めたものであった。芦田内閣時代の3月に、務省のジョージ・ケナン日本沖縄を訪れ作成したその内容は、連合軍が占領を継続しつつも、日本政府にその権限を段階的に委譲すると共に、経済の必要性を摘していた。しかしそのことは、日本を西側営に引きこもうとする政治的、軍事的観点からのメッセージであり、吉田日本経済政策を無条件に、かつ全面的に認めるというものでは全くなかった。日本弱体化する財閥解体など、過度な民主化政策にブレーキがかかるのに時間は掛からなかったが、米国から見て日本の復に必要な経済政策は、遠慮なくしてきたのである。

物価上昇の解消(ドッジ・ライン)

鉱工業生産は徐々に回復していたものの、物価上昇解消の処はたっていなかった。48年央を100とする卸売物価は、年末には200に近づくほどの狂乱ぶりであった。消費者物価も卸売物価ほどではなかったが、同様の傾向にあった。こうした状況のもとで、ハリー・S・トルーマン米国大統領は、吉田衆議院の解散に打って出る直前の48年12月、総部に日本経済安定九原則を示した。

  1. 政経費の厳重な抑制と均衡財政の期編成
  2. 徴税の強化
  3. 金融機関の融資の厳重な抑制
  4. 賃金安定の実現
  5. 物価統制の強化
  6. 貿易為替統制方式の改善強化
  7. 輸出の最大限の振標とした物資割り当て配給制度の改善
  8. すべての重要産原料と工業製品の生産の増大
  9. 食糧供出制度の効率化

がその内容であった。

インフレの抑制と生産復策を同時に行う事は困難であるため、まず財政均衡を図り、ついで対外経済関係において1ドル360円に決まる単一為替レートを設定するというのがその子であった。そしてその根底に流れていた考え方は、まずインフレを退治し、その上で経済の統制を急速かつ全面的に止して自由経済への復帰を急がせるというものであった。米国政府デトロイト銀行の頭取であったジョセフ・ドッジを来日させ、この荒療治に取り組ませることになる。

ドッジが示した予算編成の方針では、各年度ごとの財政収支を均衡させるばかりでなく、国債の償還を積極的に行うこと、政府が財政面で支出してきた補助金の削減を行うこと、復金融庫の新規貸出を停止すること、単一為替レートを設定し、日本政府が支出してきた輸出入に関する補助金を打ち切ることなどがめられた。

かしこ緊縮財政は、吉田内閣が考えていた当初の経済政策とは異なるものであった。例えば選挙で民自党が約にしていた減税は、にべもなく拒否されてしまう。そして吉田内閣が既に編成していた予算案は、公共事業費を三分の一カットして500億円に、地方配布税配付金を二割カットして577億円にするなど、根本的に修正されることになった。

経済政策

三次内閣を発足させた直後の49年4月4日、施政方針演説吉田は「一大決心の覚悟のもとに、毅然として将来の大計を立つべき時と考える」と述べ、次のように緊縮予算編成の理由を説明した。

「今回提出せんとする予算は、この九原則及びドッジ氏の明を了承いたしまして、政府責任においてこれを具体化したものであります政府は、幾多の困難な る事情あるにかかわらず、まずもって均衡予算を作成し、の自立再建をはかる決心でありますしかしながら、敗戦後今日に至る間、わが経済は非常に縮小 し、わが財は極端に枯渇し、重税に民はいまだかつて見ざる苦痛を感じつつあるのでありますまことに憂慮にたえざる事態であります。ゆえに政府は、根 本的に行政財政等の改革を断行し、均衡予算案実施の途上においても税制及び徴税方法の改善をはかり、他面、歳出の面におきましても、さらに現実に節約を期 し、でき得る限り財産を処分し、その実績を得るに従って臨時国会を召集し、予算の補正、民の負担軽減をはからんとするものであります。」

もっとも、吉田は中間的、長期的計画に基づき経済運営することは統制義者か社会主義者のやることとして、経済安定本部が用意した経済計画にも関心を示さなかった。その意味では、緊縮財政による「デフレ政策によって自由義経済に復帰する」というドッジの考え方と吉田のそれは基本的には同じであった。

ドッジの厳しいデフレ政策は、副作用をもたらすことになった。資金繰りに喘ぐ中小企業が相次いで倒産した。政府は慌てて中からの資金引き上げを緩和し、資金を還流したりしたが、事態はあまり改善しなかった。その為金融機関からの融資を受けることができない中小企業は、いわゆる高利貸しに走る結果となった。大手の企業はそれに対してかに有利な立場にあった。復金債の償還が進んだ結果、それらのカネは金融機関経由で大企業に融資されたからである。他方、石炭価格差補給金など統制の撤は当初の予定通り行われた。米国政府日本経済への関心は、税制にも及んだ。49年5月にはコロンビア大学カール・S・シャウプ教授が来日し、広範な調を行ったうえ、には税制全体は直接税を充填、所得税法人税の抜本改革、所得税率の上限は55とし高額所得税者には別途富裕税などの勧告を行った(シャウプ勧告)。これは戦後日本の税制に長い間大きなを与える事になる。

デフレ政策の副作用と赤狩り(レッド・パージ)

ドッジの急進的なデフレ政策による失業者の急増は、共産党はじめ左翼営を刺した。48年の全失業者は均19万人であったのに対して、49年には2倍の均38万人にまで膨れ上がった。ストライキも相次いだ。当初の占領政策の的は民主化の進展であったため、企業の合理化による人員整理、賃金カット抗議、反対する組合によるストライキ労働者の権利として決して否定されるものではなかった。ところが冷戦の深刻化がすべてを変え、総部は労働運動を抑制する方向にを変えたのだった。民間企業の給料の未払い、遅配は当たり前になった。この時期営であった、鉄道、電信電話事業などが社化され、10万人をえる余剰人員が解雇されたことも状況を悪化させた。国鉄総裁が轢死体で発見された下山事件東北本線松川付近で三名が死亡した松川事件など、労働組合、またそれを導する共産党が絡んだのではないかといわれる事件が続発し、社会的不安を助長した。49年という年は、敗戦後、最も暗い年となった。

50年になると、米国務省、議会、知識人を巻き込んで吹き荒れた狩りレッドパージ)、すなわち共産主義者の疑いをかけられた者の摘発は、日本にも波及するようになった。職場を追われたものは1万数千名に上り、共産党労働組合は急速に衰退する。

日本経済にも、大きなを与える朝鮮戦争が勃発した直後の1950年7月14日臨時国会で、吉田共産主義に対し、憎悪ともいえる感情をぶつけている。

民一致して平和を確保し、民主主義諸制度の立に努力すべき今日、一部民の間には、過なる思想を鼓吹し、あるいは他人を煽動し、あるいは反米運動を 使嗾し、ただに治安を紊乱し、国家再建復を阻するのみならず、あたかもわがにおいて共産主義化しつつあるかのごとくよそおい、期講和の機 運を阻止せんとするもののあることは、まことに私の遺憾とするところであります政府は、法の示すところに従い、特に治安の維持のために善処する考えであ ります。政府が、さきに日本共産党中央委員並びに同党機関アカハタの編集責任者に対し職追放の手続をとりましたのも、またこの趣旨に出るのであります。」

朝鮮特需

朝鮮戦争による経済効果は、1つは大規模な特需であり、もう1つは輸出の拡大であった。戦場が、もし日本に隣接する朝鮮半島ではなくベトナムであれば、これほどの特需の恩恵を受けることはなかったであろう。それはともかく、大部隊が移動しての戦争には様々な物資の調達が必要になる。具体的には、朝鮮戦争に従事する国連軍への補給物資、あるいは役務サービスが特需の中身であった。綿布、毛布、土嚢用麻袋、軍用トラック、有刺線などが軍隊向け物資の中心であり、サービスでは、車両修理、基地の整備、輸送通信などが大半であった。朝鮮戦争の3年間でその総額は約10億ドルに達し、うち7割が物資であった。戦争の開始によって日本の軍需工場の一部が賠償対から外れ、在日米軍兵站部からの注文に応じて生産を再開するようになった。他方、サービス国連軍が日本に滞在中の消費などがであったが、特需による外貨収入は51年が5.9億ドル、52年、53年はそれぞれ8億ドル以上に達した。支払いがドルでなされ、ドル収入が増えた事は、原材料を輸入して加工して輸出するという加工貿易復活日本としては、まことに好都合であった。

輸出拡大も当時の日本経済の大きな課題であった。ドッジ・ラインの結果、輸出補助金が止され、日本企業困難を歩んでいた。ところが、朝鮮戦争による需要の急増による世界貿易の拡大ともあいまって、日本の輸出額は51年には65、鉱工業生産は38増加し、企業の収益率は2.2倍に膨れ上がった。この結果、外貨保有高も49年末の2億ドルから、51年末には9億4000万ドルに急増した。ドッジの手荒な経済政策の結果生じていた大量の滞貨は一掃された。卸売物価も金属、繊維、機械など、朝鮮戦争関連の分野で上昇に転じた。際的にも、各は物資の買い付けを急ぐ一方、戦略物資の売り惜しみをしたから原料価格も上昇した。このような状況下で、企業経営も高収益状態を実現した。製品価格の上昇に加え、設備稼働率の上昇や労働時間の延長で生産性が向上したためであったが、結果として雇用情勢も好転した。

米国の援助打ち切り

吉田内閣は、こうした状況にほっと一息つきながらも、その後の日本経済について楽観していたわけではなかった。いつ朝鮮戦争が終結するかも分からなかった。それは直ちに特需の終わりを意味した。51年1月26日、周東英雄経済安定本部総務長官の演説にも、そうした懸念が表れている。特需と輸出の好調ぶりについて数字をあげたのち次のように述べた。

朝鮮動乱後の経済情勢には、かような幾つかの注すべき減少が見られるのでありまするが、顧みて経済の基盤に思いをいたしますならば、わが経済は、終戦今日まで、巨額に上る米国の援助により、まかなわれておるのであります。また企業の蓄積資本は不足し、土の復旧は思うにまかせず、わが経済の発展の基礎はいまだ十分ではないといわなければならないのであります。しかも、今後長期にわたって米国経済援助にたよることが許されない状況であります。以上のような経済諸情勢の中にありまして、われわれが不退転の決意をもって努力を傾注すべき最大の課題は、日本経済の自を達成することであります。」

実際、米国の対日援助は51年半ばで打ち切られた。朝鮮特需の結果、総部の予想よりも前倒しではあったが、日本は援助に頼らずとも、経済的に自立のを歩めると判断したからであった。対日援助の総額は約18億ドルであり、同じ時期の対欧州128ドル、対独36億ドルべ、決して多くなかった。援助は輸入物資(食糧6割、石油、肥料など4割)の供与として行われ、一部は債務として講和独立後に返済の義務を負った。連合は当初底した非軍事化、民主化をめたために、民が最低生活できるレベル経済で十分と考えていたから、積極的な対日支援米国の頭にはなかった。日本からすれば、日本の物資の欠乏や、対外決済手段の不足という当時の経済状況を考えれば、大きな意味を持った。問題は、朝鮮経済終結後の日本経済をどう運営していくかだった。ここで重要なのは、米国側に日本の生産力を強化して軍需供給として育成しようという姿勢が見られていたことである。

51年9月の講和条約締結の際に、中国については、中華人民共和国を選択しようとした吉田米国政府は強く牽制した。結局、台湾国民党政府吉田は選択せざるを得なかった。その代わりに米国は、東南アジア市場米国の下請けのような形で日本に開放しようとしたということもある。朝鮮戦争の半年後の50年のには、総部が日本の工業生産力の調を開始している。日本政府は何回かのやり取りの結果、講和条約締結後の52年2月に、米国向け軍需物資の供給を積極的に行うことを明らかにした。米国との長期契約により、技術援助、投資、必要な機械などの供給を受けて、自動車の生産、航空機の組立、修理、部品生産を行うというもので、これにより53年から57年までの間、毎年5億ドルから8億ドルの特需が約束された。

長期金融機関の設立

吉田内閣は特需の継続を担う一方、内の設備投資を奨励するための環境整備を進めた。産業政策の展開である。産業の設備投資と、技術革新の導入が不足していた電力、鋼、運、石炭分野で特に重点的に行われた。例えば、その後の日本経済発展の原動力となる産業育成に重要な役割を果たした長期金融機関がこの時期に集中して設立された。日本輸出銀行(後の輸出入銀行)が50年に、翌51年には日本開発銀行、52年には日本長期信用銀行が設立されている。また、いわゆる租税特別措置として、現在では批判の対となっている各業界の復支援に必要な税制上の各種優遇措置を作った。こうして「シャウプ税制によるの原則は事実企業の利益のために大きく変更された」のであった。決められた数量の輸入を認める外貨割当制度によって、内の産業を保護(例えば自動車輸入を長期にわたり制限したこと)したり、海外からの東洋レーヨンによるナイロンが一例であるように、海外からの生産技術導入を外資に関する法律の制定で奨励した。さらに、厳しすぎるとして変更の要望が業界からあった独占禁止法も、不況カルテルや合理化カルテルも認められることになり、占領初期に日本に対してめられた経済民主化は、あいついで葬られることになった。この結果、政府民間を合わせた民総固定投資は、52年度18.8増、53年度29.4増と飛躍的に拡大した。

講和条約と日米安全保障条約の締結

米国のトルーマン政権は、49年の中華人民共和国中国立で対日講和を急ぐことにした。50年初頭から、日本韓国はじめ各共和党の前議員だったジョンフォスター・ダレスを特使として送り、期の対日講和の可性を探った。

50年の1月23日吉田演説から、日本政府は実際にそうなったように、ソ連中国を排除したいわゆる多数講和を選ぶつもりであったことがわかる。そして、憲法が自衛権をも否定しているものではないことも確認している。ところが、肝心の日本の安全保障をどう具体的に確保するかについては、未だ明ではない。吉田自身、逡巡していたようだ。

「さきに臨時国会におきまして、講和問題につき種々論議せられましたが、全面講和の何人もこれを希望するのはもとよりでありますが、しかしながら、これは一に際の客観情勢によることでありまして、わがの現状といたしましては、いかんともできないことであります。わがの将来の安全保障につき内外多大の関心の生じていることは当然のことでありますが、わが憲法において厳正に宣言せられたる戦争軍備の放棄の趣意にして、平和好する世界の輿論を背後といたしまして、あくまでも世界平和と文明と繁栄とに貢献せんとす民の決意それ自身が、わが安全保障の中核をなすものであります戦争放棄の趣意にすることは、決して自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。」

交渉は51年1月に、ダレス再来日して本格化する。丁度、朝鮮戦争の戦況が北朝鮮側に著しく有利に展開し、米国アジアの情勢に不安を募らせていた頃である。吉田は、それでも米国の本格的な再軍備要請についてはこれを拒否し、ダレス特使をいらだたせた。吉田は、日本経済力ではとても再軍備は難しく、共産党など、内の反対勢力を説得できないと考えていたからである。結局それでは米国は納得しないと考えた日本側は、将来の再軍備を視野に入れていることを示すために、警察予備隊や海上保安庁とは別の、5万人からなる保安隊を創設するという提案をして、米国の一応の了解をとりつける。

他方、吉田は、講和後に米国日本に駐留する構想を提案した。これを受け入れた米国との間で、日安保条約に関する協議が続いた。日安保条約は、講和条約が結ばれた同じ日に、日本米国の間で個別に結ばれた。吉田は、講和条約の調印を終えた51年10月12日演説で、安保条約について次のように述べた。

内の治安は自力をもって当たるべきは当然でありますが、外部からの侵略に対して集団的防衛の手段をとることは、今日際間の通年であります責任侵略義が跳梁する際現状において、独立自由回復したあかつき、軍備なき日本が他の自由国家とともに集団的保護防衛の方法を講ずるほかなきは当然であります日本侵略義の圏外に確保せられることは、とりもなおさず、極東の平和、ひいては世界平和と繁栄の一前提であるのであります。これが日安全保障条約を締結するに至った理由であります。」

こうして後に吉田路線と呼ばれる、日本の安全は基本的に米国依存し、日本経済、発展に邁進するというが確定する。

51年9月8日サンフランシスコで講和条約が締結され、日本社会に復帰した。しかし、条約は日本を含む49カの署名からなる多数講和にとどまり、ソ連はわざわざ出席して反対の意思表明を行った。講和に同意したオーストラリア連邦オーストラリア)やニュージーランドも、わずか5、6年ほど前の日本軍の行状を忘れるはずもなく、対日警心を隠さなかったし、イギリスアジア市場に競争相手が登場することを恐れていた。フィリピン共和国フィリピン)は、賠償交渉を別個に行うことをめ、ビルマ(現・ミャンマー)は賠償問題で折り合いがつかず会議を欠席した。

中国については、中華人民共和国台湾中華民国のどちらを講和会議に招くべきかで議論が分かれ、結局両政府とも招請せず、後日、日本政府の選択に委ねることになった(吉田内閣は、米国の強い意向を受け、台湾蒋介石政権を選ぶことになった)。

社会において冷戦構造が明確になり、日本の再独立が予想よりも期に実現したことは確かであった。しかしそのことは、日本軍事的に西側営に全に組み込まれることを意味した。また、占領統治の終了は、ビルマを始め各に対する賠償支払いが待っていることを意味した。こうして、経済再建が軌に乗り始めた段階での巨額の負担に、果たして日本は耐えうるのかという新たな問題を生じさせた。それはまた、社会への復帰は日本資本主義システムにおいて、将来際的にどのような役割をはたすことになるのかの選択でもあった。

第四次吉田内閣―激しさ増す権力闘争(1952年10月30日~1953年5月21日)

吉田は、講和条約が発効する直前の52年1月23日演説で、条約締結の成果を高らかに謳い上げている。

平和条約は近く列の批准を了して効力を発し、新日本として際の間に新しく発足せんとするに至りましたことは、まことにご同慶に存ずる次第であります。そのここに至れるは、過去六カ年有余にわたり、八〇〇〇万同胞が一致協力、力の回復に渾身の努力をいたし、列がわが民族の優秀性と愛国の至を認識せる結果にほかならぬと存ずるものであります
わが現下の情勢は、まず食糧の確保を基礎といたしまして、内外の諸環境と相まち、日々安定を加え、労使の関係も漸次健全なる方向に向かいつつあるのであります。わが民所得は、昭和二六年度においては四兆六六〇〇億円に達し、生産額は戦前昭和七年より一一年までを基準として一三八パーセントとなり、外貿易は一昨年以来とみに増し、輸出総額は一兆二〇〇〇億余円、三〇〇五億ドルに達し、世界の軍拡気に刺せされ、ますヽ活況を呈しつつあるのであります。」

こうした高揚感に満ちた演説は、東京市場の価が、朝鮮戦争勃発前から右肩あがりに上昇を続けていた事実にも支えられていた。実際、この一年後に日経平均株価は四七四円と、三一ヶで約六倍に跳ね上がる。とはいえ、講和条約締結の成果にをさすような事態になりうる政治的状況が生まれつつあった。冷戦の勃発により米国の対日政策が変更された結果、職追放により政界を追放された政治家が続々と「職場復帰」したからである。

この演説の半年前には、既に経済政策に一家言ある石橋湛山が、続いて鳩山一郎が5ヶ前に追放解除になっていた。その他、後の首相となる岸信介や、そのライバル河野一郎ら、後の著名な政治家が次々と返り咲いた。

吉田が講和条約締結後も、日本の安全を米軍に委ねるなど底して米国との協調路線を歩んだ点に、「職場復帰」した政治家たちは、多かれ少なかれ複雑な感情を持っていた。彼ら自身、故なく米国に追放されたとの思いがあった。実際に石橋は、戦時中、中国大陸での軍部の拡義に批判的であり、鳩山政治会には参加せず、政府とは一線を画してきたのである。彼らは、吉田米国に媚びていると考え、「向一辺倒」は是正しなければならないとみていた。また吉田と違って同世代の政治家は、戦前の「強日本への未練を断ち切れなかったとの見方もある。

第一次吉田内閣の成立は、直前の鳩山の追放なしには実現しなかった。吉田は、鳩山に追放解除のあかつきには、政権を返すと約束したと、鳩山周辺は信じていた。しかし、戻ってきてみれば吉田は政権を手放そうとしない。それどころか、さらなる長期政権を論んでいる。政界に復帰した鳩山はじめ政治家の多くは、打倒吉田を掲げ、吉田路線の転換、占領政策の修正を旗印にしたのだった。松村謙三ら旧民政党系の議員らが復帰して作った改進党も同様に、反吉田を標榜した。

自由党に戻った鳩山は、吉田と勢力を二分して導権争いに精を出した。幹事長人事で、吉田政治家一年生を起用としたのに反対し、撤回させたのは、鳩山らであった。こうした反吉田勢力の動きに吉田は反発した。52年8月28日、抜き打ちの解散を行い、鳩山との全面対決に出た。10月1日選挙では、事実上の分裂選挙となった。自由党240、改進党85、左社会党54、右社会党57、諸11、所属19となり、数字の上では自由党が過半数を制した。しかしその数字は、吉田内閣の支持率低下もあって、自由党敗北を示していた。つまり、自由党の一部が党を割れば、たちまち政権は不安定になるというような状況であった。実際、その火種が鳩山であった。

バカヤロー解散

第四次吉田内閣は、戦前朝日新聞筆の緒方虎を官房長官とし、党内実力者の広川を農大臣に、通産大臣に池田を起用して、反吉田営に対抗した。しかし党、閣僚人事で冷遇された鳩山は、吉田内閣の「失敗」を待った。ほどなく池田通産相が、不況の状況下で「中小企業倒産や、自殺者が出てもやむを得ない」と失言したのを機会に、野党池田の不信任案を提出すると、鳩山は欠席して可決させた。池田の発言は、「違法の取引をした中小企業」との前提付きの発言であったが、当時の政治状況のなかでは意は伝わらなかった。吉田心がこうして辞任に追い込まれただけではなかった。53年の2月に、今度は吉田自身、西村栄一の議員の質問に、「バカヤロー」と叫んだとして、不信任案が提出されると、鳩山はこれに賛成し、可決してしまった。

吉田はここまでされても総辞職というを選ばず、改めて3月14日解散の挙に出た。この選挙では、吉田自由党憲法護持、自衛力漸増を掲げ、他方、鳩山自由党は、憲法改正、再軍備を約とした。過去四年間にわたる吉田政治の成果を問う選挙となった。社会党は左右両ともに、再軍備には反対であった。53年4月19日に、行われた選挙結果は、自由党199、鳩山自由党35、改進党76、左社会党72、右社会党66、諸7、所属11であった。鳩山にとり、意外な苦戦であった。もっとも、吉田も過半数を割ったために、少数内閣を組織せざるを得なかった。

第五次吉田内閣―六年二ヶ月の長期政権に幕(1953年5月21日~1954年12月10日)

漁夫の利を占めたのは、社会党だった。結局吉田は、鳩山自由党復帰をめるしかかった。憲法改正のための調会を党内に設置して環境を整え、これに応じた鳩山は復党を果たした。しかし、吉田には与しないと河野らが反旗を翻したために、過半数を得られず、政権運営は厳しさを強いられた。経済標にも、暗さが立つようになった。価は、3月イオシフ・V・スターリン渋滞の報で暴落する一方、消費気により輸入が増えて、貿易収支の赤字が増加したことや、特需気の終りを示す、7月朝鮮戦争の休戦を受けて、金融引き締めが開始された。労働争議も、相次ぎ、三井鉱山のストライキは、53年8月から11月までの3ヶ間に及んだ。

その後の政局は、54年明らかとなった、いわゆる造も絡み、年末まで流動化する。造は、朝鮮戦争の停戦協定発効で不況に苦しむ業界が、政府与党に利子補給など業界に有利な法整備をめて行った働きかけをきっかけとしていた。その実現のために、政界、官界にばら撒かれたカネによって贈収賄事件に発展し、自由党吉田佐藤(幹事長)の逮捕も間近とみられた。しかし、許諾請は法務大臣が検事総長に揮権を発動し、佐藤逮捕となった。内閣不信任案も提出されたが、与党の反対で否決された。

こうした事態に危機感を持った複数のグループが、自由党、改進党、日本自由党鳩山復党の際に、応じなかった河野らのミニ政党)による保守合同構想を明らかにした、吉田の路線転換をしたらが先頭を切ったが、吉田達も生き残りには合同が必要だと考えていた。しかし思惑は一致せず、最終決着には至らない。そうこうするうちに、吉田からの巻き返しもあり、11月初旬には反吉田を鮮明にし、保守合同の先頭に立っていた自由党は除名されてしまう。これを機会に、鳩山、改進党、日本自由党合体し、日本民主党を結成する。初代総裁には鳩山、幹事長がという重厚な顔ぶれで、衆議院120名の勢力を誇った。これに左右社会党130名を加えれば、吉田内閣を潰すことは容易に思われた。ついに土俵際まで追い詰められた吉田は、12月6日民主党社会党提出の不信任案がが提出されると、総辞職のを選ばざるを得なかった。こうして、第二次吉田内閣から数えて6年2ヶにわたる長期政権は幕を閉じた。

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吉田茂

66 ななしのよっしん
2022/09/27(火) 21:59:47 ID: Qy8VGO7FFl
吉田茂アメリカに負けなかった男だとは全く思わないが、日本を守った男、ではあると思うよ。
底的な対追従と9条守、専守防衛戦略によって日本を守った。
米軍兵圧力に負けたら、自衛隊韓国軍になってたと思う。

戦争っつーのは自領土を守るためだけに行うべきで、米軍戦争には一切付き合わない、その代わり番犬だと思って土に米軍を飼っとく、メンツではなく実利を取る、という戦略は、今のロシア侵略の様子見ても、正解だと思いますね。
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67 ななしのよっしん
2022/11/06(日) 18:06:54 ID: 0AXxfePurh
え、米軍兵圧力に負けたから、米軍韓国軍が嫌がった機雷処理を代わりにやらされて死傷者を出したんだが
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68 ななしのよっしん
2023/09/06(水) 19:32:04 ID: 4o20dv9UEP
無能を絵に描いた男:吉田
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69 ななしのよっしん
2023/09/06(水) 19:44:06 ID: umUNVrWvL7
清和会共産党よりも憎んだ大日本帝国破壊者、つまりは日本国民の救済者なんだよなぁ
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70 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 15:05:57 ID: 0AXxfePurh
吉田茂は臣茂だぞ、おまえも臣民だ」
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71 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 16:20:11 ID: umUNVrWvL7
清和会は臣じゃなくて逆賊だもんな
旧軍からし昭和に従う気皆無だったし
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72 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 16:23:44 ID: U2ENRlmp8R
さすがに日本軍でも清和会と違って殺強姦したいとまでは言ってないから……
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73 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 20:41:14 ID: 0AXxfePurh
上の二人、ヤバいっすね……
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74 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 21:57:09 ID: umUNVrWvL7
>>73
それほどでもない。較対が酷すぎて、吉田較的まともに見えるというだけの事
その酷すぎる共産と清和会は逆賊兼民主主義の敵どうし仲良くやってどうぞ
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75 ななしのよっしん
2023/09/23(土) 08:44:18 ID: 0AXxfePurh
君が一番怖い……
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