吉田茂(1878年9月22日生~1967年10月20日没)とは、昭和期の政治家である。第45・48~51代内閣総理大臣を経験した。
概要
内閣総理大臣に5回指名されており、歴代最多である。合計の在任日数2,616日(第一次吉田内閣368日、第二~五次吉田内閣2,248日)は桂太郎(2,886日)、佐藤栄作(2,798日)、伊藤博文(2,720日)に次ぐ歴代4位の長さであり、連続の在任日数2,248日は佐藤栄作(2,798日)に次ぐ歴代2位の長さである(ちなみに小泉純一郎は1,980日で合計で5位、連続で3位)。孫は第92代内閣総理大臣の麻生太郎。サンフランシスコ講和条約、安全保障条約を結び、戦後日本の外交路線を決定付けた人として、教科書で紹介される(吉田路線)。大日本帝国憲法のもとでの最後の内閣総理大臣(貴族院議員として組閣の大命を受けた)。また、戦後日本において内閣総理大臣を辞任後、再び内閣総理大臣に返り咲いた人物は吉田茂、安倍晋三の2人のみである。
内閣総理大臣時代
第一次吉田内閣―第一党の自由党から首相を選出(1946年5月22日~1947年5月24日)
幣原内閣から吉田内閣に政権が移行したのは、敗戦後初の議会選挙の結果によるものであった。しかし、その以降は決して円滑とはいえなかった。67歳の吉田茂が、初の内閣を発足させるまでには、約1ヶ月、政治的混乱が続いた。
第一に、新たな選挙制度のもとで占拠が行われる直前、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により、公職追放が行われたため、戦前の翼賛選挙で推薦された議員は自動的に追放されてしまった。
第二に、4月10日に行われた総選挙の結果、どの政党も過半数に満たなかった。敗戦後すべての政党は解散し、進歩党(日本進歩党)が戦前の翼賛政治会系の議員によって、自由党(日本自由党)が翼賛政治会とは一線を画した鳩山一郎らによって、さらに協同組合主義を唱える議員らにより日本協同党が、そして社会党(戦前の無産政党のグループ)が結成された。しかし、最大議席を獲得した自由党でさえ、466議席中140議席にしか過ぎなかった。
第三は、選挙の結果下野するものと思われた幣原内閣が、第一党になった自由党も過半数に満たないことから、政権維持の意欲をみせていたことであった。首相自身、憲法改正問題もあり政権を放棄する訳にはいかないと考えた。しかし、この政権居座りには批判も強く、芦田均厚生大臣が辞任する事態に発展したため、ついに4月22日に総辞職した。そこで第一党になった自由党の鳩山が組閣するものと思われたが、5月4日に追放されており、同じ自由党の吉田にお鉢が回ってきたのだった。鳩山追放の背景には、総司令部の意向(ニューディールに共感する総司令部の民生部が、社会党政権を期待)なども関係していたと言われる。
吉田は、首相および自由党の総裁を引き受けるにあたり、政党の人事に関わらない、政治資金は作らない、嫌になったらいつでも辞める、鳩山の政界復帰の際には政権を返すとの四条件を示したと言われるが、その真偽のほどはともかく、後にこのことがさらなる政治的混乱を招くことになる。
経済政策
吉田内閣の経済政策上の課題は国民への食料供給に加え、鉄工業生産の回復の為のエネルギー源や素材の確保であった。戦争中には軍需的用途で、戦後においては工業復興のために必要とされた粗鋼の生産量のピークは1943年の765万トンであった。それが敗戦時にはその3割にも満たない196万トンにまで減少し、46年にはピーク時の8%ほどにまで落ち込んだ。他方、エネルギー源である石炭も、戦争中に増産され41年に5647万トンに達していたが、45年には半減し2986万トンとなった。
石炭生産減少の理由の1つには、戦争中に採炭を担っていた朝鮮半島や中国からの労働者を敗戦により当てにできなくなったことがあげられる。鉄鋼生産も必要な石炭が枯渇したため、減少せざるを得ないという悪循環に陥っていた。「傾斜生産方式」によってこの問題解決のために取り組んだのが、46年8月に発足した重要経済政策の企画立案と総合調整を目的とした経済安定本部である。
経済安定本部発足前から、日本政府は、幣原内閣末期の3月に発表した預金封鎖などを柱とする緊急経済対策を効果的に実施するための推進本部設置を検討していた。しかし総司令部は、経済政策の実施が効果的となるような経済官庁の設置を示唆し、結局、内閣に経済安定本部が設立されたのである。
東京大学教授の有沢広巳らが吉田内閣に働きかけたと言われる傾斜生産方式は、石炭と鉄鋼の増産にあらゆる政策を傾斜させるものであったが、より具体的には「石炭の生産量を重点的に鉄鋼増産に投入し、その増産された鉄鋼鋼材を石炭増産用に振り向け、石炭の不足分を輸入重油で補完しながら、石炭と鉄鋼の傾斜的増産の効果を段階的に諸産業に及ぼしていく」という方策であった。
この政策を金融面から支えたのが、47年1月に発足した復興金融公庫であり、貸出残高の約4割を炭鉱など鉱業が占めた。復興金融公庫の主要な資金源は復金債(復興金融債)であり、日銀引き受けによっていた。この結果通貨増発を誘発し、この時期のインフレをさらに加速させることになったのだが、石橋湛山蔵相はその点を予測して復興金融公庫を設立したのであった。石橋は、「不完全雇用のもとでは政府資金を散布して生産活動を刺激したために若干の物価騰貴が起きても、それは真のインフレーションではない」と主張し、石炭をはじめ鉄鋼、肥料、住宅建設など、当面の重要産業に資金を供給することが政府の責任としたのである。
当時の国内政治状況
国民の不満はインフレの昂進や配給が滞るほどの食糧事情の悪化に伴い、募るばかりであった。一方、労働組合設置など総司令部による民主化政策の推進は、人々の不満のはけ口としての直接的行動に訴えさせることになった。46年の5月1日、11年ぶりのメーデーでは皇居前に約50万人が、ついで5月19日に開かれた食糧メーデーでも25万人が集まり、口々に吉田反動内閣反対、民主戦線結成を訴えた。各企業のストライキも盛んで、東京芝浦電気や日本鋼管などでは労働組合が直接生産管理をするほどの勢いであった。
未だ米ソ両陣営による冷戦は明確な形をとっておらず、この時点では総司令部も共産党(日本共産党)や社会党による抗議行動を容認していたのである。しかし、47年1月に2月1日のゼネストの計画が明らかになるや、総司令部も事態の深刻さに気が付き、ゼネスト中止指令を行った。ゼネストは、電力、ガス、鉄道、電信電話の各分野で行い、吉田内閣を倒し、社会、共産両党を中心とする人民戦線内閣を作るという計画であったといわれる。
しかし、こうした蓄積された国民の不満は、総司令部が吉田内閣に強く支持していた国政選挙の結果に反映されることになった。ダグラス・マッカーサーは、ゼネスト中止を指令し当面吉田を救う一方、民意を問うことを求めたのであった。4月25日に実施された選挙では、社会党143、自由党131、進歩党の後継組織である民主党(日本民主党)126、協同党(日本協同党)31、共産党4、その他31という吉田には厳しい結果となった(この選挙の直前に選挙法が改正され中選挙区制に戻されている)。書記長の西尾末広が、社会党勝利の一報を聞いて「えらいこっちゃ」と漏らしたエピソードで有名である。
つまり、当時の国民は急進的な共産党の政策を肯定することは出来ないが、物価の上昇の沈静化を見いだせない吉田内閣にも強い不満を持っていることを明らかにしたのだった。吉田は、民主党との連立による政権維持を模索せず、第一党になった社会党に政権を明け渡した。社会党の片山委員長は共産党を除く四党連立を考えたが、吉田は社会党左派を敬遠し、下野した。こうして社会党委員長を首班とする片山内閣が発足した。
当時の国内政治・経済・社会の動き
- 公職追放令(これにより、政敵・鳩山一郎らが一時失脚)
- 第二次農地改革
- 金融緊急措置令
- 極東国際軍事裁判(東京裁判)開始
- 日本国憲法公布/施行
- 二・一ゼネスト中止
- 第一回国民体育大会
- フィリピン独立インドシナ戦争
第二次吉田内閣―議会を解散し、政権基盤を強固に(1948年10月15日~1949年2月16日)
第二次吉田内閣は不安定な少数内閣として船出した。既に70歳になっていた吉田茂は、それでも意気軒昂であった。この政治的に不利な状況は賭けをしてでも、変えなければならない、そう考えていた。11月15日の施政方針演説で「まず信を国民に問うがために冒頭解散する」こと、それが「政治の常識であり、また我が国朝野の輿論となっておる」(朝野=世間)と述べたのは、まさにそうした理由からであった。しかし、吉田の思惑通りにはなかなか進まなかった。昭和電工事件は、吉田周辺が仕掛けたとみた総司令部の民政局(GS)が頑として解散を認めなかったからと言われている。GSは同事件で少なからず打撃を受けた中道勢力が、選挙になれば敗北することを怖れていたのである。ついに問題は出来たばかりの憲法論争にまで発展する。GSは、憲法第六十九条の内閣不信任案でのみ解散できるとした。他方、吉田側は「内閣の助言と承認により天皇が国民のために出来る国事行為」として、憲法七条第三項を根拠に解散出来るとした。
吉田がここまで解散に固執したのは、勝利を確信していたことに加え、敗戦後の選挙でどの政党も内閣の安定に不可欠な過半数を超える議席を得られず、主義主張を異にする連立内閣が誕生せざるを得なかったことに不満を持っていたからといわれる。吉田の指摘にもかかわらず、実際には経済政策においても、連立内閣は一定の成果を上げてきたのだったが、吉田自身はその他の政策を含め、政策の効率的遂行には強力な内閣が必要だと信じていた。結局ダグラス・マッカーサーの調停で話し合い解散が実現し、1949年1月に行われた総選挙では、吉田の期待通り民自党(民主自由党)の大勝利となった。
民自党264、民主党69、社会党48、共産党35、国民協同党14の民意が示され、議席数過半数を超える政党をバックにした内閣がついに誕生したのだった。この選挙で吉田は官僚を多数立候補させ当選させた。この中には、池田勇人(大蔵次官)、佐藤栄作(運輸次官)、岡崎勝男(外務次官)ら、後に首相の座にまで上り詰める者を含め重要な役割を果たす政治家がおり、後に吉田学校と呼ばれる人脈を形成した。吉田は政治家として実に強かであった。連立政権の問題を指摘する一方、実際の組閣では引き続き参議院では与党が少数であること、また党内の鳩山派を封じ込める目的などから民主党と連立した。
第三次吉田内閣(1949年2月16日~1952年10月30日)
総選挙の大勝利により吉田は第三次内閣を発足させ、その後6年余り日本の首相として君臨することになるが、外相は自ら兼任し、講和条約締結問題の決着に意欲を見せる一方、大蔵大臣には当選したばかりの池田を抜擢した。吉田がその後の対米折衝などで池田を重用したことはよく知られている。運が良かったのは、選挙で多数を占めたことだけではなかった。国際情勢も吉田に味方した。米ソ対立はますます激しさを増し、アジアでは48年中頃には相次いで南北両朝鮮が独立し、49年の10月には共産党率いる中華人民共和国が誕生した。国民党は台湾の国民党政府が有していたものの、国際社会は大陸を支配した共産党政権を現実のものとして認めつつあった。イギリスは早速新中国を承認した。他のアジア諸国でも、共産主義の台頭は顕著な形で現れつつあり、米国政府の不安は次第に募りつつあった。
吉田は「今こそ日本は連合国に対して、その存在意義を認めさせ、日本の経済復興を確実のものとし、講和条約を締結しなければならない」と考えていた、とされている。負けたとはいえ、日本は戦前のアジアでは唯一の工業国。教育水準も高く、人口も多い。何より地政学的にみても、戦略的にみても枢要な位置にある。米国としても、日本の共産主義化は悪夢に違いなかった。
こうした目論見は当たり、第二次吉田内閣発足直後の48年10月に決まった米国政府の対日政策の新方針は、これまで既に明らかにした占領政策の漸進的な緩和策を、正式に認めたものであった。芦田内閣時代の3月に、国務省のジョージ・ケナンが日本、沖縄を訪れ作成したその内容は、連合軍が占領を継続しつつも、日本政府にその権限を段階的に委譲すると共に、経済復興の必要性を指摘していた。しかしそのことは、日本を西側陣営に引きこもうとする政治的、軍事的観点からのメッセージであり、吉田の日本の経済政策を無条件に、かつ全面的に認めるというものでは全くなかった。日本を弱体化する財閥解体など、過度な民主化政策にブレーキがかかるのに時間は掛からなかったが、米国から見て日本の復興に必要な経済政策は、遠慮なく主張してきたのである。
物価上昇の解消(ドッジ・ライン)
鉱工業生産は徐々に回復していたものの、物価上昇解消の目処はたっていなかった。48年央を100とする卸売物価は、年末には200に近づくほどの狂乱ぶりであった。消費者物価も卸売物価ほどではなかったが、同様の傾向にあった。こうした状況のもとで、ハリー・S・トルーマン米国大統領は、吉田が衆議院の解散に打って出る直前の48年12月、総司令部に日本の経済安定九原則を指示した。
- 財政経費の厳重な抑制と均衡財政の早期編成
- 徴税の強化徹底
- 金融機関の融資の厳重な抑制
- 賃金安定の実現
- 物価統制の強化
- 貿易為替統制方式の改善強化
- 輸出の最大限の振興を目標とした物資割り当て配給制度の改善
- すべての重要国産原料と工業製品の生産の増大
- 食糧供出制度の効率化
がその内容であった。
インフレの抑制と生産復興策を同時に行う事は困難であるため、まず財政均衡を図り、ついで対外経済関係において1ドル360円に決まる単一為替レートを設定するというのがその骨子であった。そしてその根底に流れていた考え方は、まずインフレを退治し、その上で経済の統制を急速かつ全面的に廃止して自由経済への復帰を急がせるというものであった。米国政府はデトロイト銀行の頭取であったジョセフ・ドッジを来日させ、この荒療治に取り組ませることになる。
ドッジが示した予算編成の方針では、各年度ごとの財政収支を均衡させるばかりでなく、国債の償還を積極的に行うこと、政府が財政面で支出してきた補助金の削減を行うこと、復興金融公庫の新規貸出を停止すること、単一為替レートを設定し、日本政府が支出してきた輸出入に関する補助金を打ち切ることなどが求められた。
しかしこの緊縮財政は、吉田内閣が考えていた当初の経済政策とは異なるものであった。例えば選挙で民自党が公約にしていた減税は、にべもなく拒否されてしまう。そして吉田内閣が既に編成していた予算案は、公共事業費を三分の一カットして500億円に、地方配布税配付金を二割カットして577億円にするなど、根本的に修正されることになった。
経済政策
第三次内閣を発足させた直後の49年4月4日、施政方針演説で吉田は「一大決心の覚悟のもとに、毅然として将来の大計を立つべき時と考える」と述べ、次のように緊縮予算編成の理由を説明した。
「今回提出せんとする予算は、この九原則及びドッジ氏の声明を了承いたしまして、政府の責任においてこれを具体化したものであります。政府は、幾多の困難な る事情あるにかかわらず、まずもって均衡予算を作成し、真の自立再建をはかる決心であります。しかしながら、敗戦後、今日に至る間、わが経済は非常に縮小 し、わが財源は極端に枯渇し、重税に国民はいまだかつて見ざる苦痛を感じつつあるのであります。まことに憂慮にたえざる事態であります。ゆえに政府は、根 本的に行政財政等の改革を断行し、均衡予算案実施の途上においても税制及び徴税方法の改善をはかり、他面、歳出の面におきましても、さらに現実に節約を期 し、でき得る限り国有財産を処分し、その実績を得るに従って臨時国会を召集し、予算の補正、国民の負担軽減をはからんとするものであります。」
もっとも、吉田は中間的、長期的計画に基づき経済を運営することは統制主義者か社会主義者のやることとして、経済安定本部が用意した経済復興計画にも関心を示さなかった。その意味では、緊縮財政による「デフレ政策によって自由主義経済に復帰する」というドッジの考え方と吉田のそれは基本的には同じであった。
ドッジの厳しいデフレ政策は、副作用をもたらすことになった。資金繰りに喘ぐ中小企業が相次いで倒産した。政府は慌てて市中からの資金引き上げを緩和し、資金を還流したりしたが、事態はあまり改善しなかった。その為金融機関からの融資を受けることができない中小企業は、いわゆる高利貸しに走る結果となった。大手の企業はそれに対して遥かに有利な立場にあった。復金債の償還が進んだ結果、それらのカネは金融機関経由で大企業に融資されたからである。他方、石炭価格差補給金など統制の撤廃は当初の予定通り行われた。米国政府の日本経済への関心は、税制にも及んだ。49年5月にはコロンビア大学のカール・S・シャウプ教授が来日し、広範な調査を行ったうえ、秋には税制全体は直接税を充填、所得税と法人税の抜本改革、所得税率の上限は55%とし高額所得税者には別途富裕税などの勧告を行った(シャウプ勧告)。これは戦後日本の税制に長い間大きな影響を与える事になる。
デフレ政策の副作用と赤狩り(レッド・パージ)
ドッジの急進的なデフレ政策による失業者の急増は、共産党はじめ左翼陣営を刺激した。48年の完全失業者は平均19万人であったのに対して、49年には2倍の平均38万人にまで膨れ上がった。ストライキも相次いだ。当初の占領政策の目的は民主化の進展であったため、企業の合理化による人員整理、賃金カットに抗議、反対する組合によるストライキは労働者の権利として決して否定されるものではなかった。ところが冷戦の深刻化がすべてを変え、総司令部は労働運動を抑制する方向に舵を変えたのだった。民間企業の給料の未払い、遅配は当たり前になった。この時期国営であった、鉄道、電信電話事業などが公社化され、10万人を超える余剰人員が解雇されたことも状況を悪化させた。国鉄総裁が轢死体で発見された下山事件、東北本線の松川駅付近で三名が死亡した松川事件など、労働組合、またそれを指導する共産党が絡んだのではないかといわれる事件が続発し、社会的不安を助長した。49年という年は、敗戦後、最も暗い年となった。
50年になると、米国で国務省、議会、知識人を巻き込んで吹き荒れた赤狩り(レッド・パージ)、すなわち共産主義者の疑いをかけられた者の摘発は、日本にも波及するようになった。職場を追われたものは1万数千名に上り、共産党系労働組合は急速に衰退する。
日本の経済復興にも、大きな影響を与える朝鮮戦争が勃発した直後の1950年7月14日の臨時国会で、吉田は共産主義に対し、憎悪ともいえる感情をぶつけている。
「国民一致して平和を確保し、民主主義諸制度の樹立に努力すべき今日、一部国民の間には、過激なる思想を鼓吹し、あるいは他人を煽動し、あるいは反米運動を 使嗾し、ただに国内治安を紊乱し、国家再建復興を阻害するのみならず、あたかもわが国において共産主義の激化しつつあるかのごとくよそおい、早期講和の機 運を阻止せんとするもののあることは、まことに私の遺憾とするところであります。政府は、法の示すところに従い、特に治安の維持のために善処する考えであ ります。政府が、さきに日本共産党中央委員並びに同党機関紙アカハタの編集責任者に対し公職追放の手続をとりましたのも、またこの趣旨に出るのであります。」
朝鮮特需
朝鮮戦争による経済効果は、1つは大規模な特需であり、もう1つは輸出の拡大であった。戦場が、もし日本に隣接する朝鮮半島ではなくベトナムであれば、これほどの特需の恩恵を受けることはなかったであろう。それはともかく、大部隊が移動しての戦争には様々な物資の調達が必要になる。具体的には、朝鮮戦争に従事する国連軍への補給物資、あるいは役務サービスが特需の中身であった。綿布、毛布、土嚢用麻袋、軍用トラック、有刺鉄線などが軍隊向け物資の中心であり、サービスでは、車両の修理、基地の整備、輸送通信などが大半であった。朝鮮戦争の3年間でその総額は約10億ドルに達し、うち7割が物資であった。戦争の開始によって日本の軍需工場の一部が賠償対象から外れ、在日米軍兵站部からの注文に応じて生産を再開するようになった。他方、サービスは国連軍が日本に滞在中の消費などが主であったが、特需による外貨収入は51年が5.9億ドル、52年、53年はそれぞれ8億ドル以上に達した。支払いがドルでなされ、ドル収入が増えた事は、原材料を輸入して加工して輸出するという加工貿易立国の復活を目指す日本としては、まことに好都合であった。
輸出拡大も当時の日本経済の大きな課題であった。ドッジ・ラインの結果、輸出補助金が廃止され、日本企業は困難な道を歩んでいた。ところが、朝鮮戦争による需要の急増による世界貿易の拡大ともあいまって、日本の輸出額は51年には65%、鉱工業生産は38%増加し、企業の収益率は2.2倍に膨れ上がった。この結果、外貨保有高も49年末の2億ドルから、51年末には9億4000万ドルに急増した。ドッジの手荒な経済政策の結果生じていた大量の滞貨は一掃された。卸売物価も金属、繊維、機械など、朝鮮戦争関連の分野で上昇に転じた。国際的にも、各国は物資の買い付けを急ぐ一方、戦略物資の売り惜しみをしたから原料価格も上昇した。このような状況下で、企業経営も高収益状態を実現した。製品価格の上昇に加え、設備稼働率の上昇や労働時間の延長で生産性が向上したためであったが、結果として雇用情勢も好転した。
米国の援助打ち切り
吉田内閣は、こうした状況にほっと一息つきながらも、その後の日本経済について楽観していたわけではなかった。いつ朝鮮戦争が終結するかも分からなかった。それは直ちに特需の終わりを意味した。51年1月26日、周東英雄経済安定本部総務長官の演説にも、そうした懸念が表れている。特需と輸出の好調ぶりについて数字をあげたのち次のように述べた。
「朝鮮動乱後の我が国経済情勢には、かような幾つかの注目すべき減少が見られるのでありまするが、顧みて我が国経済の基盤に思いをいたしますならば、わが国経済は、終戦後今日まで、巨額に上る米国の援助により、まかなわれておるのであります。また企業の蓄積資本は不足し、国土の復旧は思うにまかせず、わが国経済の発展の基礎はいまだ十分ではないといわなければならないのであります。しかも、今後長期にわたって米国の経済援助にたよることが許されない状況であります。以上のような経済諸情勢の中にありまして、われわれが不退転の決意をもって努力を傾注すべき最大の課題は、日本経済の自律を達成することであります。」
実際、米国の対日援助は51年半ばで打ち切られた。朝鮮特需の結果、総司令部の予想よりも前倒しではあったが、日本は援助に頼らずとも、経済的に自立の道を歩めると判断したからであった。対日援助の総額は約18億ドルであり、同じ時期の対欧州128億ドル、対独36億ドルに比べ、決して多くなかった。援助は輸入物資(食糧6割、石油、肥料など4割)の供与として行われ、一部は債務として講和独立後に返済の義務を負った。連合国は当初徹底した非軍事化、民主化を求めたために、国民が最低限生活できるレベルの経済で十分と考えていたから、積極的な対日支援は米国の頭にはなかった。日本からすれば、日本の物資の欠乏や、対外決済手段の不足という当時の経済状況を考えれば、大きな意味を持った。問題は、朝鮮経済終結後の日本経済をどう運営していくかだった。ここで重要なのは、米国側に日本の生産能力を強化して軍需供給源として育成しようという姿勢が見られていたことである。
51年9月の講和条約締結の際に、中国については、中華人民共和国を選択しようとした吉田を米国政府は強く牽制した。結局、台湾の国民党政府を吉田は選択せざるを得なかった。その代わりに米国は、東南アジア市場を米国の下請けのような形で日本に開放しようとしたということもある。朝鮮戦争の半年後の50年の秋には、総司令部が日本の工業生産能力の調査を開始している。日本政府は何回かのやり取りの結果、講和条約締結後の52年2月に、米国向け軍需物資の供給を積極的に行うことを明らかにした。米国との長期契約により、技術援助、投資、必要な機械などの供給を受けて、自動車の生産、航空機の組立、修理、部品生産を行うというもので、これにより53年から57年までの間、毎年5億ドルから8億ドルの特需が約束された。
長期金融機関の設立
吉田内閣は特需の継続を担う一方、国内の設備投資を奨励するための環境整備を進めた。産業政策の展開である。産業の設備投資と、技術革新の導入が不足していた電力、鉄鋼、海運、石炭分野で特に重点的に行われた。例えば、その後の日本の経済発展の原動力となる産業育成に重要な役割を果たした長期金融機関がこの時期に集中して設立された。日本輸出銀行(後の輸出入銀行)が50年に、翌51年には日本開発銀行、52年には日本長期信用銀行が設立されている。また、いわゆる租税特別措置として、現在では批判の対象となっている各業界の復興支援に必要な税制上の各種優遇措置を作った。こうして「シャウプ税制による公平の原則は事実上企業の利益のために大きく変更された」のであった。決められた数量の輸入を認める外貨割当制度によって、国内の産業を保護(例えば自動車輸入を長期にわたり制限したこと)したり、海外からの東洋レーヨンによるナイロンが一例であるように、海外からの生産技術導入を外資に関する法律の制定で奨励した。さらに、厳しすぎるとして変更の要望が業界からあった独占禁止法も、不況カルテルや合理化カルテルも認められることになり、占領初期に日本に対して求められた経済の民主化は、あいついで葬られることになった。この結果、政府と民間を合わせた国民総固定投資は、52年度18.8%増、53年度29.4%増と飛躍的に拡大した。
講和条約と日米安全保障条約の締結
米国のトルーマン政権は、49年の中華人民共和国(中国)樹立で対日講和を急ぐことにした。50年初頭から、日本、韓国はじめ各国に共和党の前議員だったジョン・フォスター・ダレスを特使として送り、早期の対日講和の可能性を探った。
50年の1月23日の吉田の演説から、日本政府は実際にそうなったように、ソ連、中国を排除したいわゆる多数講和を選ぶつもりであったことがわかる。そして、憲法が自衛権をも否定しているものではないことも確認している。ところが、肝心の日本の安全保障をどう具体的に確保するかについては、未だ明白ではない。吉田自身、逡巡していたようだ。
「さきに臨時国会におきまして、講和問題につき種々論議せられましたが、全面講和の何人もこれを希望するのはもとよりでありますが、しかしながら、これは一に国際の客観情勢によることでありまして、わが国の現状といたしましては、いかんともできないことであります。わが国の将来の安全保障につき内外多大の関心の生じていることは当然のことでありますが、わが憲法において厳正に宣言せられたる戦争軍備の放棄の趣意に徹して、平和を愛好する世界の輿論を背後といたしまして、あくまでも世界の平和と文明と繁栄とに貢献せんとする国民の決意それ自身が、わが安全保障の中核をなすものであります。戦争放棄の趣意に徹することは、決して自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。」
交渉は51年1月に、ダレスが再来日して本格化する。丁度、朝鮮戦争の戦況が北朝鮮側に著しく有利に展開し、米国がアジアの情勢に不安を募らせていた頃である。吉田は、それでも米国の本格的な再軍備要請についてはこれを拒否し、ダレス特使をいらだたせた。吉田は、日本の経済力ではとても再軍備は難しく、共産党など、国内の反対勢力を説得できないと考えていたからである。結局それでは米国は納得しないと考えた日本側は、将来の再軍備を視野に入れていることを示すために、警察予備隊や海上保安庁とは別の、5万人からなる保安隊を創設するという提案をして、米国の一応の了解をとりつける。
他方、吉田は、講和後に米国が日本に駐留する構想を提案した。これを受け入れた米国との間で、日米安保条約に関する協議が続いた。日米安保条約は、講和条約が結ばれた同じ日に、日本と米国の間で個別に結ばれた。吉田は、講和条約の調印を終えた51年10月12日の演説で、安保条約について次のように述べた。
「国内の治安は自力をもって当たるべきは当然でありますが、外部からの侵略に対して集団的防衛の手段をとることは、今日国際間の通年であります。無責任な侵略主義が跳梁する国際現状において、独立と自由を回復したあかつき、軍備なき日本が他の自由国家とともに集団的保護防衛の方法を講ずるほかなきは当然であります。日本が侵略主義の圏外に確保せられることは、とりもなおさず、極東の平和、ひいては世界の平和と繁栄の一前提であるのであります。これが日米安全保障条約を締結するに至った理由であります。」
こうして後に吉田路線と呼ばれる、日本の安全は基本的に米国に依存し、日本は経済復興、発展に邁進するという道が確定する。
51年9月8日、サンフランシスコで講和条約が締結され、日本は国際社会に復帰した。しかし、条約は日本を含む49カ国の署名からなる多数講和にとどまり、ソ連はわざわざ出席して反対の意思表明を行った。講和に同意したオーストラリア連邦(オーストラリア)やニュージーランドも、わずか5、6年ほど前の日本軍の行状を忘れるはずもなく、対日警戒心を隠さなかったし、イギリスもアジアの市場に競争相手が登場することを恐れていた。フィリピン共和国(フィリピン)は、賠償交渉を別個に行うことを求め、ビルマ(現・ミャンマー)は賠償問題で折り合いがつかず会議を欠席した。
中国については、中華人民共和国と台湾の中華民国のどちらを講和会議に招くべきかで議論が分かれ、結局両政府とも招請せず、後日、日本政府の選択に委ねることになった(吉田内閣は、米国の強い意向を受け、台湾の蒋介石政権を選ぶことになった)。
国際社会において冷戦構造が明確になり、日本の再独立が予想よりも早期に実現したことは確かであった。しかしそのことは、日本が軍事的に西側陣営に完全に組み込まれることを意味した。また、占領統治の終了は、ビルマを始め各国に対する賠償支払いが待っていることを意味した。こうして、経済再建が軌道に乗り始めた段階での巨額の負担に、果たして日本は耐えうるのかという新たな問題を生じさせた。それはまた、国際社会への復帰は日本が資本主義システムにおいて、将来国際的にどのような役割をはたすことになるのかの選択でもあった。
第四次吉田内閣―激しさ増す権力闘争(1952年10月30日~1953年5月21日)
吉田は、講和条約が発効する直前の52年1月23日の演説で、条約締結の成果を高らかに謳い上げている。
「平和条約は近く列国の批准を了して効力を発し、新日本として国際の間に新しく発足せんとするに至りましたことは、まことにご同慶に存ずる次第であります。そのここに至れるは、過去六カ年有余にわたり、八〇〇〇万同胞が一致協力、国力の回復に渾身の努力をいたし、列国がわが民族の優秀性と愛国の至誠を認識せる結果にほかならぬと存ずるものであります。
わが国現下の情勢は、まず食糧の確保を基礎といたしまして、内外の諸環境と相まち、日々安定を加え、労使の関係も漸次健全なる方向に向かいつつあるのであります。わが国民所得は、昭和二六年度においては四兆六六〇〇億円に達し、生産額は戦前昭和七年より一一年までを基準として一三八パーセントとなり、外国貿易は一昨年以来とみに激増し、輸出総額は一兆二〇〇〇億余円、三〇〇五億ドルに達し、世界の軍拡景気に刺激せされ、ますヽ活況を呈しつつあるのであります。」
こうした高揚感に満ちた演説は、東京市場の株価が、朝鮮戦争勃発前から右肩あがりに上昇を続けていた事実にも支えられていた。実際、この一年後に日経平均株価は四七四円と、三一ヶ月で約六倍に跳ね上がる。とはいえ、講和条約締結の成果に水をさすような事態になりうる政治的状況が生まれつつあった。冷戦の勃発により米国の対日政策が変更された結果、公職追放により政界を追放された政治家が続々と「職場復帰」したからである。
この演説の半年前には、既に経済政策に一家言ある石橋湛山が、続いて鳩山一郎が5ヶ月前に追放解除になっていた。その他、後の首相となる岸信介や、そのライバル河野一郎ら、後の著名な政治家が次々と返り咲いた。
吉田が講和条約締結後も、日本の安全を米軍に委ねるなど徹底して米国との協調路線を歩んだ点に、「職場復帰」した政治家たちは、多かれ少なかれ複雑な感情を持っていた。彼ら自身、故なく米国に追放されたとの思いがあった。実際に石橋は、戦時中、中国大陸での軍部の拡張主義に批判的であり、鳩山も翼賛政治会には参加せず、政府とは一線を画してきたのである。彼らは、吉田が米国に媚びていると考え、「向米一辺倒」は是正しなければならないとみていた。また吉田と違って同世代の政治家は、戦前の「強国」日本への未練を断ち切れなかったとの見方もある。
第一次吉田内閣の成立は、直前の鳩山の追放なしには実現しなかった。吉田は、鳩山に追放解除のあかつきには、政権を返すと約束したと、鳩山周辺は信じていた。しかし、戻ってきてみれば吉田は政権を手放そうとしない。それどころか、さらなる長期政権を目論んでいる。政界に復帰した鳩山はじめ政治家の多くは、打倒吉田を掲げ、吉田路線の転換、占領政策の修正を旗印にしたのだった。松村謙三ら旧民政党系の議員らが復帰して作った改進党も同様に、反吉田を標榜した。
自由党に戻った鳩山は、吉田と勢力を二分して主導権争いに精を出した。幹事長人事で、吉田が政治家一年生を起用としたのに反対し、撤回させたのは、鳩山らであった。こうした反吉田勢力の動きに吉田は反発した。52年8月28日、抜き打ちの解散を行い、鳩山派との全面対決に出た。10月1日の選挙では、事実上の分裂選挙となった。自由党240、改進党85、左派社会党54、右派社会党57、諸派11、無所属19となり、数字の上では自由党が過半数を制した。しかしその数字は、吉田内閣の支持率低下もあって、自由党の敗北を示していた。つまり、自由党の一部が党を割れば、たちまち政権は不安定になるというような状況であった。実際、その火種が鳩山派であった。
バカヤロー解散
第四次吉田内閣は、戦前の朝日新聞主筆の緒方竹虎を官房長官とし、党内実力者の広川弘禅を農林大臣に、通産大臣に池田を起用して、反吉田陣営に対抗した。しかし党、閣僚人事で冷遇された鳩山派は、吉田内閣の「失敗」を待った。ほどなく池田通産相が、不況の状況下で「中小企業の倒産や、自殺者が出てもやむを得ない」と失言したのを機会に、野党が池田の不信任案を提出すると、鳩山派は欠席して可決させた。池田の発言は、「違法の取引をした中小企業」との前提付きの発言であったが、当時の政治状況のなかでは真意は伝わらなかった。吉田の腹心がこうして辞任に追い込まれただけではなかった。53年の2月に、今度は吉田自身、西村栄一の議員の質問に、「バカヤロー」と叫んだとして、不信任案が提出されると、鳩山派はこれに賛成し、可決してしまった。
吉田はここまでされても総辞職という道を選ばず、改めて3月14日解散の挙に出た。この選挙では、吉田自由党が憲法護持、自衛力漸増を掲げ、他方、鳩山自由党は、憲法改正、再軍備を公約とした。過去四年間にわたる吉田政治の成果を問う選挙となった。社会党は左右両派ともに、再軍備には反対であった。53年4月19日に、行われた選挙結果は、自由党199、鳩山自由党35、改進党76、左派社会党72、右派社会党66、諸派7、無所属11であった。鳩山にとり、意外な苦戦であった。もっとも、吉田も過半数を割ったために、少数内閣を組織せざるを得なかった。
第五次吉田内閣―六年二ヶ月の長期政権に幕(1953年5月21日~1954年12月10日)
漁夫の利を占めたのは、社会党だった。結局吉田は、鳩山派の自由党復帰を求めるしか無かった。憲法改正のための調査会を党内に設置して環境を整え、これに応じた鳩山は復党を果たした。しかし、吉田には与しないと河野らが反旗を翻したために、過半数を得られず、政権運営は厳しさを強いられた。経済的指標にも、暗さが目立つようになった。株価は、3月にイオシフ・V・スターリン渋滞の報で暴落する一方、消費景気により輸入が増えて、貿易収支の赤字が増加したことや、特需景気の終りを示す、7月朝鮮戦争の休戦を受けて、金融引き締めが開始された。労働争議も、相次ぎ、三井鉱山のストライキは、53年8月から11月までの3ヶ月間に及んだ。
その後の政局は、54年春に明らかとなった、いわゆる造船疑獄も絡み、年末まで流動化する。造船疑獄は、朝鮮戦争の停戦協定発効で不況に苦しむ業界が、政府与党に利子補給など業界に有利な法整備を求めて行った働きかけをきっかけとしていた。その実現のために、政界、官界にばら撒かれたカネによって贈収賄事件に発展し、自由党吉田派、佐藤(幹事長)の逮捕も間近とみられた。しかし、許諾請求は法務大臣が検事総長に指揮権を発動し、佐藤逮捕は幻となった。内閣不信任案も提出されたが、与党の反対で否決された。
こうした事態に危機感を持った複数のグループが、自由党、改進党、日本自由党(鳩山復党の際に、応じなかった河野らのミニ政党)による保守合同構想を明らかにした、吉田の路線転換を目指した岸らが先頭を切ったが、吉田達も生き残りには合同が必要だと考えていた。しかし思惑は一致せず、最終決着には至らない。そうこうするうちに、吉田からの巻き返しもあり、11月初旬には反吉田を鮮明にし、保守合同の先頭に立っていた自由党の岸は除名されてしまう。これを機会に、岸派、鳩山派、改進党、日本自由党が合体し、日本民主党を結成する。初代総裁には鳩山、幹事長が岸という重厚な顔ぶれで、衆議院120名の勢力を誇った。これに左右社会党約130名を加えれば、吉田内閣を潰すことは容易に思われた。ついに土俵際まで追い詰められた吉田は、12月6日、民主党と社会党提出の不信任案がが提出されると、総辞職の道を選ばざるを得なかった。こうして、第二次吉田内閣から数えて6年2ヶ月にわたる長期政権は幕を閉じた。
エピソード
- 養父の吉田健三は彼が子供の時に没した。そのせいか、親の目を気にせずに学生生活を謳歌し、大学を出たのが27歳とかなり遅い。ちなみに大学の前までは孫と同じ学習院にいた。
- 義理の父は大久保利通の子、牧野伸顕伯爵でその影響からか生涯を通じて親英米派だった。妻の雪子は熱心なクリスチャンで、娘の和子を通じ、孫の麻生元首相もクリスチャンとなった。
- その雪子夫人との結婚式の際、ちょうど痔を患ってしまい、入院していた関係で結婚式に出られず、日本刀を新郎席の机の上に置いて自分の代役とした。
- 大戦末期、佐藤市郎海軍中将(岸信介、佐藤栄作兄弟の長兄)に「英国に行ってチャーチル首相と和平交渉をしたいから潜水艦を貸してくれよ」と直談判した。大戦中に遣独された潜水艦は5回中3回失敗しており、ましてや敵国である英国に辿りつける保証など全くなかった。物資や潜水艦自体の欠乏等を理由に佐藤中将に断られた。
- 当初、政治の経験が無かったことから首相にはなりたくはなかったらしい。幣原喜重郎内閣成立の際も、吉田と幣原のどちらにするかというところで吉田の猛プッシュによって幣原政権が誕生した。
- 首相就任直前に公職追放された鳩山一郎(ぽっぽのじっちゃん)に自由党総裁と首相の就任を頼まれ、「金は作れない」「人事は好きなようにやらせてもらう」「嫌になったらすぐに辞めさせてもらう」の3条件で引き受けた。一説にはもう一つ条件があり、「鳩山の公職追放が解除されたらすぐに辞めて鳩山に譲る」というものであった。
- 最初の選挙では実の父親の出身地である高知県で出馬したが、態度がでかかったせいか、選挙民からヤジを浴びまくった。ある日、コートを着ながら演説をしていると「外套(コートのこと)を脱げ!」というヤジが飛んだので「外套を着てやるから街頭演説って言うんだろうが!」と返したところ、これが聴衆にウケた。最終的には2位にダブルスコアでトップ当選を果たしている。
- 首相就任の時点で党内基盤が皆無に等しかったので、在任中に池田勇人、佐藤栄作、大平正芳、宮沢喜一など、官界から大量に人材を呼び込み、さらには、田中角栄など、戦後間もない時期に当選した非官僚系の新人議員をも取り込んだ。これが今の自民党の、かつて「保守本流」と呼ばれた宏池会系派閥(古賀派、麻生派)および平成研究会(額賀派)の源流であり、吉田のもとで政治家としての力をつけていったため「吉田学校」と呼ばれた。今でいうなら「吉田チルドレン」といったところか。官界から政策立案能力の高い官僚の人材供給をほぼ独占することに成功したおかげで自民党の超長期政権は成り立っていたと言われる。(逆に社会党は官界からの人材登用を軽視したせいで国民から現実的な政策立案能力、ひいては政権担当能力に疑問を持たれて万年野党が確定した。)
- 落語好きで、孫の麻生太郎を連れて寄席通いをしたことがある。また、噺家を官邸に呼んで一席やってもらったことも。
- 有名なエピソードであるバカヤロー解散事件は彼が答弁を終えて席へ戻る際、「バカヤロー・・・(ボソッ)」と呟いたのをたまたまマイクが拾ったために大騒動になったものである。吉田首相はこの直後、すぐに謝罪しその場は収まったが、このことが原因で出された懲罰動議が可決された上、直後に出された内閣不信任案が可決されたこともあって解散に踏み切った。ちなみに相手は右派社会党の西村栄一代議士。(西村眞悟元代議士の父)
- 人の名前を覚えるのが苦手だった。特に有名なエピソードとして、1948年、第二次吉田内閣の組閣時、昭和天皇の前で閣僚名簿を読み上げている最中に「小沢・・・さじゅうき?」と、運輸相の小沢佐重喜(おざわさえき)の名前を読み間違えて天皇から叱られたことがある。ただ、この話には異説がある。天皇が閣僚名簿を読んでいて小沢の名が分からなかったので、吉田ら周囲の人物にどう読むのか尋ねたが誰も分からなかったというものである。小沢本人も自分の名前が読みづらかったのを相当気にしていたらしく、息子には分かりやすく「一郎」と付けた。後の小沢一郎である。
名言
- 「君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときなのだ。 言葉をかえれば、君たちが『日陰者』であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい。」(防衛大学第一期生卒業アルバム編集者に対して吉田邸にて)
- 「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly”(さっさと帰れ) の略語だというものもあるくらいだ」(首相になって間もないころ)
- 昭和天皇「大磯(神奈川県大磯町。当時吉田の家があった。)は暖かいんだろうね?」
吉田「はい、大磯は暖かいですが、私の懐は寒うございます。」(1964年の園遊会にて) - 外国紙記者「吉田さんは相変わらずお元気でいらっしゃいますね」
吉田「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」
外国紙記者「ご長寿の秘訣は?」
吉田「強いてあげれば、私は人を食っとりますので」(1958年、日米修好通商100周年式典にて)
ちなみに、米寿を迎えて日本のマスコミ記者に同様の質問をされたときにも呵々大笑しながら同じような返答をしている。 - 昭和20年冬
吉田「450万トンの食料を輸入しないと餓死者が大量に出てしまいます」
マッカーサー「ごめん、70万トンしか輸入できなかったわ」
翌年、そこには餓死者を殆ど出さなかった日本の姿が!
マッカーサー「日本の統計はいい加減だな!」
吉田「日本の統計が正確だったら戦争なんかしていません。大体、統計通りだったら戦争に勝ってます」
関連動画
関連項目
- 自由党/日本自由党/民主自由党
- 自由民主党
- 内閣総理大臣
- 政治家の一覧
- 吉田学校
- 吉田ドクトリン/吉田路線
- 保守本流
- 保守合同
- 親米保守
- 麻生太郎(孫)
- 池田勇人(弟子)
- 佐藤栄作(弟子)
- 田中角栄(弟子)
- 鳩山一郎(政敵)
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