平安時代とは、日本の時代区分。平安京遷都(794)から鎌倉幕府成立(1183,1185,1192)までを指す。
概要
桓武天皇が都を平城京から平安京に移したことに始まる(正確にはその間に長岡京があるのだが)。当初は天皇たちによって律令制の再建などがもくろまれていったのだが、相次ぐ政争によって藤原氏や賜姓貴族といった貴族たちの伸長が激しく、特に摂関をてことした藤原氏北家の爛熟は藤原道長で頂点へと至る。
一方地方では公地公民制が崩壊し、新たな土地制度・荘園制が成立する。一方国司制度も次第に成功(じょうごう)、重任が盛んとなり受領が登場する。こうして地方に下っていった都の中級公家たちは在庁官人を組織し、その中から蝦夷由来の武芸を身に着ける軍事貴族が登場し、武士団が成立していく。
やがて11世紀になると院政が開始され、それに伴う相次ぐ政争の結果、保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱が勃発し、東国に成立した源頼朝による鎌倉幕府によって、都と幕府が相互補完していく中世・鎌倉時代へと移っていくのである。
平安京前史
奈良時代、称徳天皇の死によって天皇位につける天武天皇系の皇族が断絶してしまい、天武天皇系の井上内親王の夫である天智天皇系の光仁天皇が即位したことがすべての始まりとなる。
本来なら光仁天皇を中継ぎとし、二人の間に生まれた他戸親王を即位させ、天武天皇系の天皇の復活が目指されていたのだが、宝亀3年(772年)に井上内親王と他戸親王は陰謀の咎で廃位。渡来人百済王氏から迎えた高野新笠との間に生まれた桓武天皇が立太子され、天皇に即位したのである。
桓武天皇はそれまで大和にあった都、平城京から母方の百済王氏が拠点としていた河内の交野により近い、山城の長岡京へ遷都をもくろみ、傍流ゆえの弱体な基盤を克服しようとする。ところが長岡京は藤原種継暗殺事件などで未完のまま破棄されることとなり、改めて山城に平安京が作られ、遷都されることになったのであった。
藤原氏北家の台頭と他氏の没落
桓武天皇亡き後に起こったのが、平城天皇と嵯峨天皇の兄弟の対立である。この争いは、大同5年(810年)の平城太上天皇の変(薬子の変)によって藤原氏式家の没落とともに、嵯峨天皇の勝利に終わる。
つづく承和9年(842年)に承和の変が起き、淳和天皇の皇太子・恒貞親王派の伴健岑・橘逸勢らが失脚し、天皇位も嵯峨天皇系の仁明天皇に移る。この仁明天皇には藤原氏北家の順子が嫁いでおりその兄、藤原良房が台頭。その後良房は太政大臣に就任し、さらには事実上の摂政になり、藤原氏北家の優位が確立されたのである。
そして貞観8年(866年)応天門の変が起こる。大納言・伴善男が応天門に放火しようとしたとするこの政変は未だに謎が多いが、これをきっかけとして藤原良房は名実ともに摂政に就任する。
元慶8年(884年)には藤原良房の甥で養子となっていた藤原基経が、事実上の関白となる。ついで仁和3年(887年)に阿衡の紛議が起き、橘広相の追放とともに関白の政治的地位が確立するのである。
しかし寛平3年(891年)より宇多天皇による親政・寛平の治が行われ、菅原道真などが取り立てられ、藤原氏北家の勢力は一時的に後退する。それは醍醐天皇による延喜の治でも変わらなかったが、昌泰4年(901年)の昌泰の変で道真は失脚。延長8年(930年)の藤原忠平の摂政就任で再度藤原氏北家の勢力が拡張したのだった。
その後、村上天皇による天暦の治をはさみ、安和2年(969年)の安和の変で醍醐源氏の源高明が失脚すると同時に、摂政・関白が常置され、藤原忠平の子孫が継承していくことが確立する。以後は藤原兼通、藤原兼家の争いや、藤原道長、藤原伊周の争いなど、藤原氏北家内の摂関をめぐる争いに移っていき、藤原道長・藤原頼通父子の代に摂関政治は頂点を迎えるのである。
地方政治の転換と武士の誕生
平安時代初期は、律令政治の理想である班田制の回復がまだ目指されていた。しかし、政府は政策を転換し、国司は事実上の徴税請負人と化すのである。その結果国司の地位は利権化し、収奪が激化していく。やがて徴税請負人の国守は受領と呼ばれるようになり、国司の成功・重任が盛んになる。
一方耕作請負人である田堵に名(田)の経営を請け負わせる負名体制が確立すると、有力農民が開発領主として成長する。その結果開発領主が中央の権力者に、自分が開発した田を寄進する、寄進地系荘園(免田型荘園)が成立し発展していくのである。
さらに蝦夷由来の武術が伝わり、中央では武芸を身に着けた中流の貴族が誕生する。彼らは押領使や追捕使、下級国司として治安が悪化する地方に下向していく。こうした貴族は地方で武装有力農民と結びつき、一部は土着。承平・天慶の乱以後は平定者の血筋にあたる清和源氏、桓武平氏、秀郷流藤原氏といった軍事貴族が、あるものは中央で摂関に奉仕し、あるものは地方で在庁官人化して武士団を組織する。こうして次第に武士勢力が伸長し、院政期へと至っていくのである。
院政
やがて摂関家を外戚としない後三条天皇が即位すると、久しく行われていなかった、天皇による親政が行われる。その後彼を受け継いだ、白河・鳥羽・後白河の三代にわたり院政が行われるのである。
彼らは摂関家を抑えた後三条天皇の親政を継承し、院宣によって上皇による専制的政治を展開。また知行国制度が拡大して、大国受領型院近臣らによって院の財政基盤が支えられ、官僚型院近臣によって政務も運営されていく。荘園も整理され、領域型荘園が確立。荘園公領制が成立する。
一方これまで摂関のみに奉仕していた軍事貴族たちが北面の武士として院に取り立てられ、彼らの官位も次第に引き上げられていく。結果摂関の没落と同調した清和源氏のうちの義家流河内源氏の没落に反して、桓武平氏の平正盛、平忠盛、平清盛ら3代は官位を上昇。ついには院近臣の一流と化すのである。
さらに皇位をめぐった保元の乱、保元の乱後の信西一門の台頭に反発した平治の乱の結果、朝廷が空洞となり、平清盛率いる平家がその隙間を埋めていったのである。その結果平氏政権が成立するのだが、やがて治承・寿永の乱、つまり源平合戦が起き、鎌倉時代へと移っていくのである。
文化・芸術
奈良時代までは中国の進んだ文化である唐風文化が良しとされていたが、平安中期には唐の衰退、滅亡などにより国風化の流れが大きくなり、所謂和風が大きく花開いた時代になる。日本語表記であるひらがな、カタカナが生み出され、現代の和風住宅への流れを作る寝殿造が始まったのもこの頃である。
特に文学は大きな発展を見せ、源氏物語を書いた紫式部や土佐日記を書いた紀貫之など現代の目から見ても立派なオタクが活躍した時期でもある。
関連項目
平安時代を舞台とする創作作品
小説 |
ドラマ |
漫画 |
アニメ |
ゲーム |
脚注
子記事
兄弟記事
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