藤原道長(ふじわらの みちなが、966~1028)とは、平安時代中期の貴族である。
概要
藤原兼家の五男。藤原彰子、藤原頼通の父。藤原摂関家の最盛期を築き上げた人物として知られる。
道長は初めから順調な人生を歩んできたわけではない。むしろ若い頃は、政治的にほとんど目立たない存在だった。道長が生まれた頃、政治の実権を握っていたのは父・兼家の兄・藤原伊尹であり、伊尹の死後も兼家は下の兄・兼通との権力争いに敗れ、長く不遇だった。兼家はその後、花山天皇を退位させて孫の一条天皇を即位させて実権を握るが、兄の藤原道隆・藤原道兼、そして道隆の嫡男で甥の藤原伊周らの昇進に遅れをとっていた道長を、当時誰が後に最高権力者になると予想していただろうか?
道長の人生に転機をもたらしたのは、兄・道隆、道兼の相次ぐ病死である。当時道長は、大納言の地位にあり、内大臣だった伊周の下位であった。しかし、一条天皇の母・詮子(藤原兼家の娘)は弟の道長を強く推し、さすがの天皇も母親には勝てなかったのか、道長を内覧・右大臣に任命する。さらに伊周が花山法皇を弓矢で狙撃するなどの不祥事を多発して自滅、太宰府に流されたため、道長が遂に藤原家の頂点に君臨したのだった。
その後、左大臣を経て、一条天皇と道長の長女・彰子の間に生まれた孫の敦成親王(後一条天皇)が即位すると摂政に就任。後一条天皇・後朱雀天皇(一条天皇と彰子の子、後一条天皇の弟)、後冷泉天皇(後朱雀天皇と道長の六女・嬉子の子)と、3人の天皇の外祖父となった(但し、道長は後一条天皇の御世に亡くなっている)。
後一条天皇が即位して2年後、道長は四女の威子を天皇へ入内させる。この祝いの宴で道長は、かの有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」を詠んでいる。満月のまま欠けることがない我が世の春を謳歌する道長の自信満々ぶりが窺えるが、この記録を残したのは道長のはとこで生涯のライバルだった藤原実資が記した日記「小右記」である。元々本来の藤原家嫡流だった実資は、内心で道長の栄華を苦々しく思っていただろう。なお、道長は法成寺を建立したことから御堂関白と呼ばれているが、実際には関白に就いてはいない(道長の日記「御堂関白記」は後世の呼称である)。
江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗は、生まれは不遇だったが、相次ぐ兄の死によって紀伊徳川家の当主となり、遂には征夷大将軍になるなど目覚ましい出世を遂げたことから、当時吉宗は道長の生まれ変わりと言われたこともあった。実際、この2人は様々な面で共通点が多く見られる。
実は負けず嫌い!?
歴史書「大鏡」「栄花物語」の中心人物だけあって、道長の逸話はとても多い。彼がまだ少年だった頃、はとこで同じ年の藤原公任が幼い頃から秀才と謳われており、父・兼家は「自分の息子達は公任に足元も及ばず、影を踏むこともできないだろう」と嘆いた。それを聞いた道長は「公任の影どころか、顔を踏んづけてやる」と豪語した。果たして、後に出世した道長に対し、嫡流から外れた公任はその元で仕えることとなった(漫画「うた恋い。」で公任がドMになったのは、だいたいこの話のせいである)。
また、花山天皇の時代のこと。天皇が肝試しを道隆・道兼・道長に命じた。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿、道長は大極殿に行くこととなったが、道隆は「気味の悪い声がする」、道兼は「大入道の影が見えた」と言い、途中で逃げ戻ってしまう。これを笑った天皇だったが、遅れて戻ってきた道長は、大極殿までちゃんと行ってきて、その証拠に大極殿の柱を削り取って来たと述べた。翌日、道長が持ってきた柱の削り取った部分を持って行くと、ピッタリとはまったと言う。
更に時代が下り、甥の伊周が主催した弓矢の競射大会を行った時、これに参加した道長は、伊周と直接弓矢で勝負した。通例なら身分の高い人物が先攻になるのだが、伊周より官位の低い道長が先攻となった。的に当たった矢の数は道長の方が二つ多く、ちょうどこれを見ていた道隆やギャラリーは、伊周の面目に関わると思い、試合は二試合増やした延長戦へともつれ込んだ。延長戦は伊周に勝ちを譲ってやれと言う兄の思惑が面白くない道長は、八百長勝負なんてやってられるかとばかりに、かえって本気を出してしまう。まず「自分の家から天皇や后が生まれるなら、この矢よ当たれ!」と言って射ると、弓は的のど真ん中に命中した。伊周は道長の迫力に圧倒されて外してしまい、続く二つ目の矢で今度は「自分が摂政・関白になるなら、この矢よ当たれ!」と道長は言い、またしても矢は的が割れるくらいの強い力で真ん中に当たった。道隆はあわてて試合を止めさせ、観客は興ざめしてしまったという。「先攻=負け」という死亡フラグは、道長に全く通用しなかったのだ。
これらのエピソードはいずれも歴史書「大鏡」が出典となっているが、いずれも最終的に政治の敗者となった人物がかませ犬になっているため、道長の功績と偉大さを強調するために、後世に作られた話とも考えられる。ただ、道長は勝ち気すぎる性格が災いして、若い頃に父・兼家から勘当されたという話も残っており、彼の政治手腕を見ても超強気な性格だったことは確かなようだ。
権力者の寂しい晩年
しかし栄華を極めた道長も、望月の歌を詠んだまさにその時が人生の頂点だった。その後次第に、道長の人生には満月の輝きを遮るが如く、暗雲が立ちこめるようになる。
まず、長女・彰子と、三条天皇に入内した次女・妍子との対立である。一条天皇に嫁ぎ、後一条天皇・後朱雀天皇の即位によって国母となったが、彰子は意外なことに腹を痛めて産んだ我が子より、一条天皇と定子との間に生まれた継子の敦康親王を可愛がっていた。自分が入内したことで苦しい立場となり、若くして命を失った定子への罪滅ぼしとして、敦康親王を引き取って養育し、藤原行成がこれをサポートした。そのため、敦康親王を差し置いて、我が子・敦成親王を立太子、続いて天皇としたことを心苦しく思っていたらしい。
そして、後一条天皇の即位の影で犠牲となったのが、三条天皇である(詳細は当記事を参照)。血縁関係の薄い三条天皇は、道長にとって邪魔な存在だった。妍子との間に皇子が生まれれば良かったのだが、生まれたのは女子だけだったので、眼病や宮中の火事など難癖を付けて、三条天皇を退位させてしまう。彰子も妍子も、父の性急で強引なやり方に反発し、親子の溝は深まる一方だった。
しかし本当の悲劇はここからであった。病気がちになって道長が出家してから6年後、敦明親王(小一条院・三条天皇の子)に嫁いだ三女・寛子が病死、その翌月には敦良親王(後の後朱雀天皇)に嫁いだ六女・嬉子が、親仁親王(後の後冷泉天皇)を産んですぐに急死してしまう。2年後には、父との関係が冷え切っていた次女・妍子も死去、死の直前に出家を願っていた妍子だったが、道長の反対で出家できないまま亡くなった。
相次いで娘達に先立たれた道長はショックで甚だしく衰弱し、その翌年に波乱に満ちた生涯を終えた。晩年の道長は極楽往生をひたすら願い、念仏に明け暮れる毎日だったという。「栄花物語」では多くの僧侶が読経を挙げる中、南無阿弥陀仏を唱えながら亡くなったと記されている。しかし「小右記」では、その最期は病魔に苦しみ続ける壮絶なものだったらしい。後者の方が事実に近いだろう。その死因は、兄・道隆と同じ糖尿病だったとも、癌だったとも言われる。
後を継いだ長男の藤原頼通は、平等院鳳凰堂を建立するなど父に劣らぬ繁栄を目指したが、娘に皇子が産まれなかったために天皇の外祖父となれず、次第に藤原摂関家は衰えていった。やはり満月は、やがて欠けていく運命だったのである。
道長と源氏物語
道長は、紫式部の書いた「源氏物語」の愛読者の一人であった。紫式部が彰子の女房となったのも、彼女の文才が彰子のサロンの質を高めるからと判断したのだろう。そして道長もまた、光源氏のモデルの一人と言われている。第一部の後半、光源氏が昔からのライバル頭中将と出世競争しながら、准太上天皇にまで上り詰める栄華への道は、確かに道長の人生と重なるものがある。そのため、第二部で光源氏が老いて、寂しい結末へ向かうのを、道長は一読者としてどう感じたのだろうか?
道長自身は和歌より漢詩の方が得意だったらしく、歌人としての功績は少ない。しかし、百人一首に名を残す歌人は藤原氏が半数近くにものぼり、道長と血縁関係の深い人物もかなり多い。藤原定家も、道長の子孫の一人である。また、後一条天皇から現在に繫がる全ての天皇は、道長の血を引いている。
関連項目
- 藤原忠平(曾祖父)
- 藤原兼家(父)
- 藤原彰子(娘)
- 藤原道隆 / 藤原道兼(同母兄)
- 藤原道綱(異母兄)
- 藤原伊尹(伯父)
- 藤原伊周 / 藤原隆家 / 三条天皇(甥)
- 藤原定子(姪)
- 藤原義孝 / 藤原斉信 / 藤原道信(いとこ)
- 藤原公任 / 藤原実資 / 藤原実方(はとこ)
- 藤原俊成(玄孫)
- 紫式部
- 清少納言
- うた恋い。
- 檜山修之
- 2
- 0pt