山名豊国(1548年~1626年)とは、日本の戦国時代から江戸時代前期に活躍した、歴史上の人物である。
概要
室町時代に割拠した名門大名・山名家の末裔であり、戦国大名山名家最後の当主。
謀反により城を追われた兄の死により家督を継ぎ、やがて領国を奪還する。勢力を拡大する毛利家の軍勢が本拠地に及ぶと傘下に降るが、山中幸盛の尼子再興軍に協力してもいる。
織田家の中国遠征軍が迫ると徹底抗戦を掲げる部下と決裂し単身降伏、そのまま秀吉に味方し、自身の元居城を攻める事に。以降は大名にはならず、豊臣政権下では秀吉の御咄衆として仕える。関ヶ原の戦いでは東軍に所属、江戸幕府の下では6700石を与えられ、子孫は旗本交代寄合となった。
来歴
これまでの山名家
山名家は源氏出身の一族で、源義家の子・源義国を始祖とする新田氏の末裔。新田義重の庶長子・義範が上野国にある山名郷という場所を領地とした事から山名を名乗った。
室町時代には一族は足利尊氏側に立ち南朝方と戦い影響力を拡大。四職の一角に数えられるようになり、最盛期には全国66国あるうち守護設置国のうち1/6の11か国を守護として治め、六分の一殿と称された。しかし、その勢力の拡大を危険視した室町幕府によって討伐対象となり攻撃され、滅亡こそ免れたが一族は大ダメージを受けた(明徳の乱)。
その後山名家は表面上は大人しくしつつも勢力回復に努め、乱終結から8年で6か国の守護となった。嘉吉の乱では山名宗全が赤松家討伐の総大将となり、功績として赤松家の旧守護地を吸収。宗全は細川勝元と共に幕府のツートップにまで登り詰め、一族は再び栄光の時代を迎える。
応仁の乱で宗全は西軍の総大将となり、勝元率いる東軍と激突。しかし、京都で11年にも及ぶ泥沼の戦いと宗全の死の末に一族は衰亡し、領国内では反乱が頻発。勢力は急速に衰退していった。
誕生
1548年(天文17年)に山名宗家当主・山名祐豊の弟である但馬守護家・山名豊定の次男として生を受ける。母親は時の管領・細川高国の娘、正室として祐豊の娘を娶っている。兄として山名豊数がいる。
1560年(永禄3年)に父・豊定が死去し、後を継いだ棟豊(祐豊の子)も1年後(1561年・永禄4年)に亡くなり、兄にあたる豊数が因幡守護家当主と因幡にある領土を継ぎ、自身も因幡に居城を与えられる。しかし、客将であった武田高信が間もなく反乱を起こし兄弟揃って居城を追い出され但馬に逃れる羽目に。
家督継承
1564年(永禄7年)頃に兄・豊数は逃亡生活の末に死去(記述は無いが文献に名が見られなくなる)。豊国は因幡守護家の家督を継承する。当主となった豊国の最初の仕事は高信を倒し国を奪い返す事であった。そこで目を付けたのは山中幸盛(鹿之助)率いる尼子再興軍であった。尼子再興軍に協力する見返りとして領地奪還を支援してもらい、高信の拠点である鳥取城を攻め落とし反乱を収束、領土を回復している。
復帰後は鳥取城を新居城としている。その際に本丸を自身に協力・奮戦してくれた幸盛に譲り、自身は二の丸を住居としている。また、反乱者である高信は豊国によって切腹へ追い込まれたという(死亡年月日・死因は異説あり)。
変わり身の末に
1573年(天正元年)に毛利家の吉川元春が軍勢を率いて侵攻すると、居城を明け渡してあっさり降伏。そのまま毛利家に臣従する。その際に毛利輝元の「元」の字を拝領し元豊と改名。
しかし、その裏では織田信長と誼を通じており、名前も「豊国」と再度改めている(本記事では名前を豊国で統一している)。やがて、信長の支援の下に尼子再興軍が尼子勝久を擁立して再度襲来し、豊国は家臣団の反対を押し切って幸盛ら尼子軍と手を結ぶ事を決意。物資などの援助を得た尼子軍は鳥取城など国中の城塞を奪還し、毛利家を因幡から追い出した。
豊国の寝返りを毛利家も放っておくワケが無く、1575年(天正3年)には元春率いる毛利軍が再び侵攻してくる。その事態に対し豊国はまたも毛利に降参し、今まで散々世話になったハズの尼子軍を切り捨てるという行為に出た。支援者を失い敵地に放り出される形になった尼子軍は毛利軍に敗れ瓦解し、幸盛らは命からがら京都へ脱出していった。
毛利側に付いた豊国は領主としての立場を安堵された。しかし、1580年(天正8年)には信長配下の羽柴秀吉率いる中国遠征軍が鳥取城に攻め寄せてきた。豊国達は堅城と名高い鳥取城に籠り一進一退の攻防が繰り広げられるが、息巻き徹底抗戦を叫ぶ家臣団とは対照的に、豊国は早くから降参する事を考えていた。暫くして豊国は秀吉の陣中を単身訪れ降伏。秀吉を通じて信長にも降伏が伝えられ、取り成しにより助命が許された。
この単身降伏には諸説があり、弱腰と変心ぶりに呆れた家臣団によって追放された・秀吉が豊国の娘を人質にして降伏を迫った・秀吉軍に毛利方の情報を密告しているのがバレて逃げてきた、ともいわれている。
降伏後はそのまま秀吉軍に加わり(1581年・天正9年)、毛利家から派遣された吉川経家を新城主に迎えた鳥取城攻めに参加。ついさっきまでの居城とかつての家臣を「渇え殺し」と呼ばれるほどの徹底した兵糧攻めを行う事になり、元居城の落城と経家と主要家臣の切腹を見届けた。
大名を辞めて
鳥取城攻防戦が終わった後も城は返してもらえなかった。秀吉から仕官の誘いが来るも、渇え殺しにあった元家臣達に気が咎めたのか・大名に嫌気が差したのか・豊国は誘いを断り浪人となり、暫く諸国を旅した後に摂津国の小領主・多田家の食客として領地内に仮の住まいを用意してもらい、そこで暮らした。
1586年(天正14年)には徳川家康から知行を得たという。秀吉からも度々交友を持ち、半ば強引に御咄衆に任命され、高い教養と有職故事を持って仕えている。1592年(天正20年)の朝鮮出兵時は秀吉から招集され名護屋まで同行・生活している。
江戸時代
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍に組し、亀井茲矩の軍に参加して戦っている。その功績により山名家の旧領国である但馬国内に6700石の領地を与えられた。この頃は祐豊の家系である山名宗家は断絶しており、宗家と一番近い血筋にある豊国の家系が山名家嫡流を受け継いでいる。大坂の陣にも幕府方として参戦。
幕府内でも高い家柄と教養を持って活躍し、家康に誘われて駿府城での茶会に招かれたりと厚く信頼された。大名復帰への意欲は無く、あくまでも一介の武士として幕府に仕えた。
1626年(寛永3年)10月7日に死去。享年79歳。山名家は江戸時代を通じて高家(儀式や典礼・朝廷との交渉を担当する役職及びソレに任命可能な家柄)・交代寄合(参勤交代を課された旗本)として存続した。
人物像
度を越したほど謙虚な性格でプライドは二の次だった模様。ある日、家康と共に元尾張守護・斯波義銀の屋敷に招かれた際には、卑屈すぎるほどの懇切丁寧な態度で義銀と接した。その光景に家康は「義銀は足利将軍家の一門とはいえ分家にすぎない。お前は新田家の嫡流で守護も務めていたのになぜそうも卑屈なのだ」と豊国に対して苦言を呈した。徳川家も新田家の末裔を自称しており(実際の出自は違うらしい)、同じ新田家の後裔でしかも嫡流の血筋である豊国の腰が低すぎる態度にモノ申したかったのだろう。また別の日に、家康に自身の領国を失い没落した顛末を笑われた際には特に恥じらう事無く謙虚な受け答えをしてみせ、家康を苦笑いさせている。
律義な面もあったようで、秀吉に仕えるために摂津国を去る際には世話になった多田家に丁寧な挨拶をしている。
謀反人である武田高信の遺児を引き取り200石で召し抱えている。遺児は後に助信と名乗り、子孫は代々山名家に仕えた。
評価
大抵の場合最後の主君は一族を滅ぼしたという汚点から評判が悪くなりがちだが(その評判が正しいかどうかは置いといて)、豊国の場合は大名としての山名家最後の当主という事実の他に・次々と所属勢力を乗り換えた変心っぷり・世話になった尼子再興軍をあっさり切り捨てた・部下を見捨てて単身投降・元部下が籠った元居城を攻め落とすのに加担・なのに平穏な人生を迎えている・とにかく腰が低い、などがマイナス要素になったか、世間一般からは血筋がいいだけの暗君と見られている。元居城である鳥取城でも玉砕を遂げた吉川経家が評価され銅像が建てられているが、豊国への評判はやっぱり悪い。
豊国の来歴を見ると、要所要所で最適な判断を下して滅亡を回避している事が分かる。己のプライドや地位は度外視し兎に角勝ち馬・強い方に付くという処世術で戦国の世を生き抜いてきた。結果として子孫は高家・交代寄合という上級旗本として存続。多くの大名が滅亡・没落していった戦国生き残りレースを十分勝組と言ってよい形で迎えられた。
状況を見極める観察眼や危機を乗り越える生き残り術は高かったのではないだろうか。
補足
シリーズ皆勤賞。戦国の荒波を生き延びた人物だが、お家滅亡=暗愚の構図から能力は一貫して低い。特に智謀系。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | 55 | 政治 | 49 | 魅力 | 91 | 野望 | 59 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 60 | 政治 | 45 | 魅力 | 71 | 野望 | 50 | 教養 | 65 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 65 | 戦闘 | 64 | 智謀 | 35 | 政治 | 48 | 野望 | 50 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 108(C) | 智才 | 50(C) | 政才 | 104(C) | 魅力 | 70 | 野望 | 60 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 48 | 智謀 | 25 | 政治 | 47 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 45 | 戦闘 | 33 | 智謀 | 12 | 政治 | 35 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 20 | 智謀 | 8 | 政治 | 28 | 野望 | 33 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 18 | 知略 | 9 | 政治 | 28 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 18 | 知略 | 10 | 政治 | 27 | 教養 | 63 | ||||||||
革新 | 統率 | 21 | 武勇 | 52 | 知略 | 12 | 政治 | 30 | ||||||||
天道 | 統率 | 21 | 武勇 | 52 | 知略 | 12 | 政治 | 60 | ||||||||
創造 | 統率 | 28 | 武勇 | 55 | 知略 | 23 | 政治 | 38 | ||||||||
大志 | 統率 | 31 | 武勇 | 54 | 智謀 | 32 | 内政 | 38 | 外政 | 29 |
関連項目
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