徳川家康(とくがわ いえやす 1543年1月31日 - 1616年6月1日)とは、日本の戦国大名であり江戸幕府の初代征夷大将軍である。
松平元信、松平元康、松平家康と改名を重ねている。
織田信長、豊臣秀吉と並び、出身である三河国を含む愛知県では、三英傑として称えられている。
概要
三河(現在の愛知県東部)にある岡崎城主・松平広忠の子として生まれた。
松平家は家康の祖父・松平清康の時に三河一国を支配下に置くほどの有力国衆だったが、1535年に清康が頓死したことで弱体化。後を継いだ広忠は今川義元への従属を決め、家康を人質として差し出す。しかし、家康の護送を担当した親族の戸田氏が離反し、家康は敵国・尾張織田家へと売られた。その後、織田と今川の間で人質交換が行われ、今川義元の下で人質として幼少期を暮らした。(ただし近年では、広忠が織田家に敗北したため家康を織田家に差し出したという説も存在する。)
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は旧領を取り返すべく岡崎城へと入った。やがて今川家の衰退もあって、三河を回復すると今川から独立、信長と清洲同盟を結び今川と敵対した。さらに今川と仲が悪くなっていた武田信玄とも協力した家康は、今川家を滅ぼし、遠江・浜松(曳馬から改名)へと拠点を移した。
織田信長が1568年に足利義昭を奉じて上洛すると、将軍・義昭を奉じる織田軍のもと、時には戦争に駆り出されることもあった。金ヶ崎の戦い、姉川の戦いなど信長傘下で従軍しつつ武田軍に対抗する日々が続くも、1572年には三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗北を喫する。徳川家はいよいよ危急の段階となったが、肝心の武田信玄が病没して武田軍が撤退し、九死に一生を得る。
かつては、家康はこの失敗を忘れないように自ら「しかみ像」を描かせたといわれていたが、再調査により「しかみ像」は後年に描かれたものだったという新説が出されている。その辺りは「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事が詳しい。
その後は信玄に奪取された旧領回復に奔走。その過程で、1575年織田信長の助力を得て、ついに長篠の戦いで武田信玄の跡を継いだ武田勝頼を撃退。長年徳川家を悩ませていた武田に対して攻勢に転じた。だがこの過程で不仲説をささやかれた息子、信康と対立し、彼とその母親であった築山御前を切腹、処罰することになった。
この一件はかつては織田信長の命令という説が主流であったが、同盟相手であった信長がそのような命令を出すことは状況的にも考えづらく、現在では家康自らの判断に信康の義父である信長の了承を得た、という説が主流となっている。
信康に属した家臣達への処罰も行われ、一時期徳川家中に暗い影を落とした。
1582年には長らく敵対していた武田家を(主に織田信長が)滅ぼし、駿河も手に入れ三国の大名となる。このまま織田信長の天下統一かと思われたが、織田信長が本能寺の変で明智光秀によりまさかの死去。当時、摂津の堺にいた家康は織田家臣であった長谷川秀一の案内により命からがらから三河へと脱出した。信長亡き後の織田家の混乱の中、家康は北条・上杉らと対峙し、武田の影響が根強い甲斐・信濃などで彼らと戦い、のちに柴田勝家・織田信雄・羽柴秀吉らの了承のもと、織田旧領である甲斐・信濃を大部分獲得、勢力拡大に成功した。
実権のない三法師が当主の織田家では内乱や対立が耐えなかった。家康ははじめ、織田信雄・羽柴秀吉に味方していたが、織田信雄と羽柴秀吉が対立すると織田信雄に味方し、羽柴秀吉と直接対決するものの、雌雄を決することはできず、やがて両軍和睦となった(小牧・長久手の戦い)。その後、秀吉の勢力拡大と関白就任に伴い、豊臣家を興した秀吉に臣従。秀吉も妹、旭を正室に送り、さらには母の大政所(なか)を人質として差し出すなど、家康への対応は丁重なものであった。一方で、家康は次男・庶長子の秀康を秀吉へ養子(実質的に人質)に出した。これは、三男の秀忠を後継に見据えていたからである。
秀吉の配下になった後、親族としての関係のあった後北条氏との小田原の役で活躍し、江戸を拠点として関東を領地とした。豊臣家でお家騒動が起こり、豊臣秀次が死亡するとその後任として内大臣に就任。豊臣勢のNo.2へとのし上がった。明国攻めには従軍するも、日本国内から外に出ることはなかった。
やがて秀吉が幼子を残して死没したことで、秀吉の才覚に支えられてきた豊臣政権に陰りが見え始める。家康は五大老の筆頭として死去する秀吉の遺言として豊臣秀頼を託されるものの、取り決めを無視して伊達家と婚約を結ぶなど、秀吉なき豊臣政権で自在に権勢を振るうようになる。それに反発した五奉行筆頭の石田三成ら西軍との関ヶ原の戦いに勝利すると、豊臣家を凌ぐほどの武力を持った天下一の大名へと躍進した。
1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、ここに江戸幕府が誕生する。2年後には将軍職を息子・秀忠に譲り、自らは駿府に移って大御所と称した。駿府に身を置くことで大坂の豊臣秀頼・京の朝廷、そして江戸の秀忠という三者を視界に入れ、事実上政治を掌握していようとしていたのである。1614年にはついに豊臣秀頼を大坂の陣で討伐し、翌年に豊臣家を滅ぼす。ここに朝廷と江戸幕府を一元的に結ぶ体制を築き上げた。
1616年5月22日、没。辞世の句は2つ知られており、忠義心の強い三河武士に殉死する事を止めさせる意味が含まれてるように見える「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」と、豊臣秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」への返歌と見る事が出来る「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」がある。
始めに駿河・久能山(現・久能山東照宮)に埋葬され、一周忌を経て江戸城真北の日光東照社(埋葬当初は東照“社”で、東照“宮”となるのは1645年11月3日以後)に改葬され、1617年2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。
人物像
一般的に家康は律儀な忍耐の人と言われるが、実際には短気で神経質な性格であったようだ。そのため切羽詰るとたびたび「切腹する」「討ち死にする」などと言い出し、家臣に止められるという話が幾度もある。
その言動の一方で最終的に天下人となった数奇な人生のせいか、武田信玄や真田信繁(幸村)、黒田官兵衛など「家康が最も恐れた男」というキャッチコピーはなかば戦国武将ものの定番となってしまっており、近年あまりの多さにネタにされたりもしている。
食事や薬への造詣が深く、自ら調剤して飲むなど、健康オタクといえるほどに気を遣った。それによって75歳までの生涯と、16人の子に恵まれる強大な精力につながったといえる(末娘が生まれたときはすでに60代。豊臣家を滅亡させたのは死ぬ前年)
後に何度か徳川宗家が断絶しつつも江戸時代が続いたのは、家康直系のいわゆる徳川御三家、御三卿と言われる分家子孫が各地にいて、そこから後継者が指名されたためであった。
ちなみに女性の好みは若い頃は年上、歳をとるにつれて年下へと変わっているのだが、良い子を産める健康で賢い女性が好きという点では揺るぎなく、その一環なのかやたらと経産の後家好きであったらしい。
つまり徳川幕府は家康の健康と子宝(と女性の好み)によって完成したと言っても過言ではない。
大規模な内乱も無く250年以上にわたって続いた平和な時代というのは世界を見渡しても稀であり、江戸幕府の礎を作った家康は海外の研究者の興味を惹く存在となっている。
その死後は徳川幕府の始祖たる権現様として江戸時代を通じて讃えられたが、明治維新後はやたらと中傷されたり、再評価されたりと忙しい。基本的には家康≒江戸幕府のため関ヶ原の西軍側や大坂の陣の大坂側、幕末の維新勢力側がクローズアップされている時に評価や人気が下がり、逆の時に上がる傾向にある。
子女
- 長男・信康(1559-1579):切腹を命じられ、死去。
- 長女・亀姫(1560-1625):奥平信昌正室。
- 次女・督姫(1665-1615):北条氏直正室。後に池田輝政の継室となる。
- 次男・秀康(1574-1607):豊臣家へ養子(人質)に出されて更に結城家に養子に出され、結城秀康と名乗る。
- 三男・秀忠(1579-1632):江戸幕府二代将軍。武家諸法度の制定など江戸幕府の長期政権化の礎を築く。
- 四男・忠吉(1580-1607):清州藩主。容姿端麗で人望も厚い人物であったが、28歳で死去。
- 三女・振姫(1580-1617):蒲生秀行正室。後に浅野長晟の正室となる。
- 五男・信吉(1583-1603):家康の命で甲斐武田家を継承するも、21歳で病死。
- 六男・忠輝(1592-1683):1616年に秀忠から改易を命じられ、60年以上伊勢・信濃などで幽閉生活を送った。
- 七男・松千代(1594-1599):生まれて間もなく長沢松平家当主となるも、6歳で夭折。
- 八男・仙千代(1595-1600):平岩氏の養嗣子となるも、6歳で夭折。
- 四女・松姫(1595-1598):4歳で夭折。
- 九男・義直(1601-1650):尾張徳川家を創始。
- 十男・頼宣(1602-1671):紀州徳川家を創始。暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗の祖父。
- 十一男・頼房(1603-1661):水戸徳川家を創始。水戸黄門こと徳川光圀の父。
- 五女・市姫(1607-1610):伊達政宗の次男である忠宗の許嫁だったが、4歳で夭折。
ゲームの中の家康
戦国の三英傑と呼ばれる信長・秀吉・家康だが、信長が「信長の野望」、秀吉が「太閤立志伝」と主役扱いの定番シリーズがあるのに対して、家康にはそういったものがない。やはり、忍耐の人というイメージと晩年の狸親父というイメージがゲームの主役としてはあまり似合わないため、あるいは天下を得たのが戦国時代の終了後だったためだろうか。登場した場合のステータスは信長や秀吉に劣るものではないのだが。一応「決戦」(決戦シリーズ)では関ヶ原の戦いに照準をあわせているため、主役の1人になっている。が、大体のシリーズでは名脇役となることが多い。
信長の野望
「信長の野望」(PC)シリーズにおける徳川家康の能力一覧。数値は信長とほとんど互角と、高性能。嵐世記では織田信長より数値が高く、三英傑ナンバーワンの数値であったが、全体を通してみると三英傑では大体信長の次くらいの能力となっている。近年では豊臣秀吉の能力が上がってきているが、家康は信長や秀吉と違って歴代通しても安定した能力推移となっている。
ちなみに、最新作「信長の野望・創造 戦国立志伝」では、顔グラフィックが全武将中唯一4つ(竹千代を含めると5つ)所持となっており、シリーズの顔でもある織田信長や、天下人の豊臣秀吉の3つ所持より多い。全武将最多であるため、一部では「家康の野望」と言われたりもする。なお、DLC(累計)を含めると信長の方が多くなる。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 85 | 政治 | 94 | 魅力 | 96 | 野望 | 83 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 86 | 政治 | 82 | 魅力 | 90 | 野望 | 72 | 教養 | 73 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 96 | 戦闘 | 88 | 智謀 | 85 | 政治 | 95 | 野望 | 82 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 186(A) | 智才 | 188(A) | 政才 | 194(A) | 魅力 | 98 | 野望 | 95 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 94 | 智謀 | 93 | 政治 | 99 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 96 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 88 | 政治 | 99 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 87 | 智謀 | 85 | 政治 | 89 | 野望 | 99 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 87 | 知略 | 82 | 政治 | 90 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 85 | 知略 | 84 | 政治 | 90 | 教養 | 72 | ||||||||
革新 | 統率 | 95 | 武勇 | 89 | 知略 | 94 | 政治 | 100 | ||||||||
天道 | 統率 | 96 | 武勇 | 87 | 知略 | 94 | 政治 | 100 | ||||||||
創造 | 統率 | 99 | 武勇 | 86 | 知略 | 90 | 政治 | 94 | ||||||||
大志 | 統率 | 99 | 武勇 | 88 | 知略 | 89 | 内政 | 93 | 外政 | 88 |
無双シリーズ
CV:中田譲治(俳優時代に「徳川家康」という時代劇に出演したことがある)
1ではNPC、2以降はPCキャラクターとして追加。武器は大砲と槍を合わせたようなオーパーツ。
他者に対し敬意を払う一方、計算高さも登場武将内でも屈指であり、まさに「タヌキおやじ」にふさわしい人物として描かれている。
部下を想う心は強く、服部半蔵、本多忠勝、藤堂高虎等とは強固な絆で結ばれている。
無双OROCHIシリーズでは無印では孫策、魔王再臨以降は劉備と行動を共にする。
戦国大戦
ver3.0現在ではスターターを除くと6枚の家康が存在する。
「三河武士の心意気、見せてやれ!」
一枚目は今川に居た時代の家康(松平元康)。2コストの6/8の弓足軽で魅力・防柵、とそこそこのスペックを持つ。計略は「忍従の陣」。味方の武力を徐々に上げていく。上がりきるまでには結構な時間を要し、耐えて耐えてその力を発揮する彼らしい計略である。今川勢力の特徴としてイラストにはフェイスペイントがあるが、彼の場合は狸のような隈取。それ以外は従来のイメージとは異なる
二枚目は徳川家康の名前。Ver1.10より追加。凛々しい青年に成長したが、隈取は相変わらず。
コストは2.5へと上昇し8/9で弓足軽に欲しい制圧と、士気を助ける魅力を持つ。所属も織田と同盟時なので織田家。
「全軍、鶴翼の陣を張れ!」
計略は「鶴翼の陣」で、味方の武力が上がるが自分の移動速度が下がる陣形。
範囲は鶴翼の名の通り自分を中心として逆台形になっている。武力上昇は心もとないが、効果時間は一般的な強化陣形の倍はあり、やはり持久戦を得意としている。
なお鶴翼の陣は史実では三方ヶ原の戦いで家康側が取った陣形である。武田勢にフルボッコにされたけど。
Ver2.1では徳川家の新設により徳川家の顔として参戦。スペックも2コスにしては破格。
「葵の紋に誓おう、太平の世を築くことを!」
「三葵の采配」は三葵計略であり、全て点灯した状態なら武力と統率と移動速度が上がり兵力が徐々に回復するという全部乗せの采配になる。躍進前の繋ぎの采配としても使えなくはない。
「家康、それほどの腰ぬけでは無いわ!」
同時に横山版家康も登場し、こちらは采配ではなく陣形で今までの弓足軽ではなく槍足軽、スペックはやや抑え目だが計略の「結束の陣」が強力。士気対効果も高目なのに加え、当初は「葵ゲージが続く限り効果が持続する」という工夫すれば永続計略になれたことで2.1序盤の環境を席巻した。
Ver2.2では過去の姿として幼少期の家康(松平竹千代)が登場している。計略は「忍従の日々」で武力と兵力が徐々に上がるというやはり遅効性の計略である。スペックはやや抑え目だが新星持ちなので最終的には優秀。
そしてVer3.0、関ヶ原の時代になった家康は大物感漂う風貌で登場した。今までのショタやイケメンボイスとは違い、CVは銀河万丈氏になったため貫録あるイラストと声になった。なお初の鉄砲隊である。
計略は「武断の返忠(かえりちゅう)」で、味方の武力を上げ忠誠度の減少を遅くするというもの。基本的には忠誠を持った豊臣家武断派との組み合わせで使用するものである。ただしラインが消えるとその場で忠誠度が下がる。効果時間は非常に長いが武力上昇はマイルドなのは大体の家康と同じである。
戦国最後の戦い、大坂の陣を扱ったVer3.1にて、大坂城にて豊臣軍と対峙する家康が追加された。関ヶ原時より更に老けたが、その風貌はまさに戦国の勝者に相応しい。CVはまさかの若本規夫氏。
計略は「総大将の王手」。戦旗ゲージを4消費して味方の武力と統率を上げ、自身は上限突破回復+自身と砲弾の巨大化+城門へ自動砲撃という非常に個性的なもの。しかし砲弾の一撃は非常に重たく、城に当たれば槍足軽1発分の城ゲージを奪い、敵部隊に当れば並みの武力なら一撃で撤退するほどの威力になる。その上で更に味方の武力と統率も上げるので、一度発動してしまう対処法はかなり限られる等、文字通り王手に相応しい破壊力を持つ。しかし戦旗4消費は重く、1試合で1回打つのが限界。その上発動タイミングが読まれ易いと、使いこなすにはそれなりの技量を必要とする。
なお、戦国数奇として鷲巣様と化した家康が同時に登場している。CVは上と同じ銀河万丈。
「最善を尽くしてもなお詰みっ…!死ぬ時は死ぬるが戦っ…!」
地味に家康初の翠葵じゃないカードである。計略は逢魔が時。
通常は相手の武力を下げる長時間陣形であるが、蒼煌の点灯時は範囲内で敵を倒すと採血の代わりに敵の城ゲージを削る。ただしこの状態の時自分が撤退した場合、自分の城ゲージが吹っ飛ぶ。これは原作で鷲巣が溶かした金が6億であることに由来する。昭和40年当時の6億は現在の価値にして城ゲージ60%である。
徳川力(鷲巣力)等、原作再現度はかなり高い。計略カットインにざわ・・・ざわ・・・と出たりと演出もにくい。
元になった人は「鷲巣巌」を参照。
戦国BASARA
タスケテクレータダカーツ!絆の力で天下を統べる!
詳細は徳川家康(戦国BASARA)を参照。
毛利元就 誓いの三矢
プレイヤーである毛利輝元率いる毛利軍は織田信長の死を知ると羽柴秀吉を追撃し、さらに織田家の主力と明智軍を破り京、安土まで攻め上る。家康はこの時、素早く三河へ戻って織田家の混乱に乗じて美濃へ進軍しており、関ヶ原で毛利軍を迎え撃つラスボスとなる。
家康を演じた代表的俳優
- 阿部サダヲ(NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』)
- 内野聖陽(NHK大河ドラマ『真田丸』)
- 風間俊介(NHK大河ドラマ『麒麟がくる』)
- 北大路欣也(NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』『青天を衝け』他)
- 郷ひろみ(NHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』)
- 児玉清(NHK大河ドラマ『黄金の日日』)
- 小林旭(NHK大河ドラマ『琉球の風』)
- 高嶋政宏(NHK大河ドラマ『利家とまつ』)
- 滝田栄(NHK大河ドラマ『徳川家康』)
- 丹波哲郎(NHK大河ドラマ『春日局』)
- 津川雅彦(NHK大河ドラマ『葵徳川三代』『独眼竜政宗』他)
- 寺尾聰(NHK大河ドラマ『国盗り物語』『軍師官兵衛』)
- 四代目中村梅之助(NHK新大型時代劇『真田太平記』)
- 三代目中村橋之助(NHK大河ドラマ『武田信玄』)
- 西田敏行(NHK大河ドラマ『功名が辻』他)
- 西村雅彦(NHK大河ドラマ『秀吉』)
- フランキー堺(NHK大河ドラマ『おんな太閤記』)
- 松方弘樹(NHK大河ドラマ『天地人』他)
- 松本潤(NHK大河ドラマ『どうする家康』)
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