89年、ジャパンカップ。
躍り出ろ。
お前を知らない者達の、隙を突いて躍り出ろ。“世界を変えるのに3分もいらない。”
その馬の名は、ホーリックス。
世界がくる。
ホーリックス(Horlicks)とは、1983年生まれのニュージーランドの競走馬。芦毛の牝馬。
東京競馬場2400mを2分22秒2で駆け抜けた女傑であり、まず間違いなく日本で最も有名であろうニュージーランド調教馬。
馬名は母モルト(麦芽)からの連想で、グラクソ・スミスクライン社が発売している同名の麦芽飲料から。
主な勝ち鞍
1987年:ダルシーステークス(L)
1988年:TVニュージーランドステークス(G1)、アワプニゴールドカップ(G2)、ティムロジャースステークス(G3)、ウォーレンサンドマンステークス(L)
1989年:DBドラフトクラシック(G1)、マッキノンステークス(G1)、ジャパンカップ(GI)
1990年:DBドラフトクラシック(G1)、TVニュージーランドステークス(G1)
概要
血統
父Three Legs(スリーレッグス)、母Malt(モルト)、母父Moss Trooper(モストゥルーパー)という血統。
……我々日本人からすると「誰?」としか言えない一族である。オセアニアでは輸送技術が発達してシャトル種牡馬が盛んになるまでは、欧米とかけ離れた血統が独自に発展を遂げていたため、ホーリックスも4代血統表に世界的に有名な馬はほとんどいないのだ(5代前までさかのぼれば流石にフェアウェイやネアルコ、ハイペリオンなど有名種牡馬が現れてくるが)。
父は英国産馬で、ジュライカップ(英G1・6ハロン)2着など短距離で活躍した。ホーリックス以外の産駒にも優秀な馬が多く、88/89シーズン(南半球は8月からシーズンが始まり、馬齢も8月で加算される)、89/90シーズンの2回に渡ってニュージーランドのリーディングサイアーになっているが、自身はその名誉を待たずに1985年に死亡している。
母は不出走だが、その祖母Frothは71/72シーズンの最優秀繁殖牝馬となっており、そこから広がる牝系にはG1馬が多い。なおホーリックスの活躍と前後してきょうだいが日本に何頭か輸入されたが、ヒットザマークが札幌記念2着に入った以外は競走でも繁殖でもほとんど活躍出来ず、それ以外の産駒にもホーリックスを超える馬は出ていない。
母父は米国産馬で、競走馬としてはケルゴルレイ賞(仏G2・3000m)を勝った程度。引退してすぐにニュージーランドに渡り、G1馬を複数輩出している。
デビュー~4歳
1983年、オーナーブリーダーであるG.W.de Gulthy氏の義兄が経営する牧場で誕生。1歳の頃にGulthyオーナーが銀行から融資を受ける際、所有馬を担保に入れる中でホーリックスは除外されたという逸話がある。
86年4月、マタマタ競馬場のデビット・<デイヴ>・オサリバン厩舎に入厩。オサリバン家は競馬一家で、デイヴ師の長男ポールは調教助手、次男のランスは騎手。ホーリックスの主戦騎手を務めたのもランスである。余談だが、当時のオサリバン厩舎には日本の競馬一家・横山家出身の横山賀一(横山典弘の兄)が騎手見習いとして留学に来ており、ホーリックスの調教にも関わっていた。
デイヴ師の評価は低かったというホーリックスだが、実際走らせてみると3歳シーズン(86/87)を8戦4勝という上々の成績で終える。4歳(87/88)になると頭角を現し始め、初の2000m戦、初のG1挑戦となったエアーニュージーランドSではG14勝馬Bonecrusherの2着に食い込むと、勝ち馬のうち本馬を含めた10頭が殿堂入りした超出世レース・アワプニゴールドカップ(G2・2000m)では同世代のNZ2000ギニー馬Steely Danなどを相手に圧勝。返す刀で挑んだTVニュージーランドS(G1・2000m)ではBonecrusherとの再戦になったがこれを退け、見事G1ホースの仲間入りを果たした。
5歳~6歳ジャパンカップまで
5歳(88/89)になると、ティム・ロジャースS(G3・1600m)勝利を含む4戦3勝とした後に秋の豪G1・コックスプレート(2040m)で豪州初遠征となったが、同じニュージーランド調教の前年2着馬Our Poetic Princeの2着に惜敗。帰国後も3連敗を喫したが、年明け3月にはこの年から創設されたニュージーランド初の100万ドル競走・DBドラフトクラシック(G1・2100m)で後のG13勝馬Westminsterや英国調教馬Highland Chieftainを撃破するレコード勝ちでシーズンを終えた。
この頃からジャパンカップを意識したスタミナ調教や輸送中の隔離に慣れさせるための訓練が始まり、6歳シーズン(89/90)は3連敗でスタートしてしまったものの、二度目の豪州遠征となったマッキノンS(G1・2000m)は前年のヴィクトリアダービー馬King's High、G15勝馬Vo Rogue、後にG18勝を挙げるSuper Imposeなどの好メンバー相手にレコードで快勝。これを評価されてオセアニア代表に選出されると、海外勢の中でいち早く来日し、入念に気候慣れをさせて、万全の状態でジャパンカップを迎えた。
89年・第9回ジャパンカップ
日本の「強い円」を求め、第一回開催から各国の馬が小遣い稼ぎに来日し覇を競ったジャパンカップ。しかしオセアニア勢の成績は妙に悪く、これまでの最高順位は1985年にシンボリルドルフの3着に入ったザフィルバート[1]。G14勝馬マクギンティ(83年5着)、豪州G14勝に加えてドイツのバーデン大賞でも勝っていたストロベリーロード(84年7着)、オサリバン厩舎の先輩アワウェイバリースター(86年5着、87年9着)、先に名前が出たボーンクラッシャー(88年8着)といったオセアニアの名馬たちは不振に終わっていた。
そのうえ、この年のJCは物凄いメンバーが集まっていた。日本だけでも前週のマイルチャンピオンシップを恐ろしい根性で勝ち取ったオグリキャップや彼とともに平成三強と並び称されたスーパークリークとイナリワン、宝塚記念2着で2年前の安田記念の勝ち馬フレッシュボイス、オグリキャップと共に連闘のバンブーメモリー、地方最強牝馬ロジータが出走。海外からは凱旋門賞馬*キャロルハウスに前年のJC勝ち馬*ペイザバトラー、前走オークツリー招待ハンデキャップ(G1)で芝12ハロンの世界レコード2分22秒8を叩き出して4連勝の*ホークスター、同じく4連勝中の英国馬*イブンベイ、イタリアジョッキークラブカップ勝ち馬*アサティスなどがいた。
その中にあっては数え7歳、しかも聞き覚えのない血統の南半球の芦毛牝馬など、ほぼほぼ無視されていた。競馬評論家の大川慶次郎はあっさり「無理ですね」と言いきったほどで、ホーリックスは海外勢の中ではブービーの9番人気に落ち着く(10番人気は実績がロワイヤルオーク賞(仏G1・3100m)など長距離に集中していたトップサンライズ(仏))。だが、このレースでホーリックスの名は日本の競馬ファンの脳裏に強烈に焼き付けられることになる。
まず、ホーリックスが非常に良いスタートを切った。直後に外から*イブンベイが交わして前に行き、それを*ホークスターが物凄い勢いで追いかける。ホーリックスは3番手につけ、その後に離れてオグリキャップとスーパークリーク。日本のファンの期待を集めた二頭が絶好位を占め、ファンの鼓動は高まる。
しかし、逃げた*イブンベイのペースは異常だった。なにせ1800m通過ラップが当時の日本レコードよりも早かったのである。しかも3コーナーでホークスターが一気に並びかけ、ホーリックスも仕掛けて更にペースが上がり、4つのコーナーを回ってラストスパートが始まった2000mの通過タイムはなんと1分58秒0。見ていたファンは日本で見慣れていたレースとのペースの違いに目を白黒させた。
「コーナー3つの天皇賞(秋)の当時のレコードがサクラユタカオーの1分58秒3。その後も東京競馬場が改修されるまで、ついに一度も1分58秒を切ることはなかった」と書けば、いかにとてつもないペースだったかおわかりいただけるだろう。
ハイペースのまま*イブンベイと*ホークスターが並んで4コーナーを回ると、直後にホーリックスが続き、オグリキャップも仕掛けて歓声は最高潮。坂の途中で一気に抜け出したホーリックスの鞍上で、ランス騎手が必死の風車鞭を飛ばす。
直線に入って残り4ハロンを切り、一旦はホーリックスが抜け出したものの、そこへ芦毛馬が一頭、外から猛追してくる。そう、オグリキャップである!ランス騎手に負けずに鞭を連打する南井克巳と、それに応えて物凄い脚で伸びてくるオグリキャップに、超満員の東京競馬場は総立ち。フジ系の中継では中立であるべき実況の大川アナウンサーまでが「オグリキャップ頑張れ!」と絶叫。
ホーリックスは粘りに粘り、オグリキャップも鞍上の激励に応えてよく伸びる。しかし日本中の祈りも僅かに届かず、ホーリックスがクビ差凌いだところがゴール板。ホーリックスは見事にオセアニア勢初のジャパンカップ優勝馬となった。
府中は溜息と感動で大きくどよめく。そして、大観衆が掲示板に目をやると、そこには赤く輝くレコードの文字。映されていた勝ち時計は……
2分22秒2。
……文句なしの世界レコードである。この時計は、後のJRAのCMの言葉を借りるなら「事件」以外の何物でもなく、誰もが時計の故障を疑った。
当時はダービーレコードが2分26秒台、日本レコードおよびJCのレースレコードはルグロリューの2分24秒9という時代であり、24秒台ですら「殺人的タイム」と言われ、23秒台、まして22秒台など想像を絶する世界だったのだ。そこでいきなり2秒7もレコードを縮めたというのだから、どれほど衝撃的タイムだったかお分かりいただけるだろう。
更に言えばこの時の最下位はロジータでタイムは2分26秒9だが、このタイム自体はこの年の優駿牝馬(オークス)の勝ち馬ライトカラーのタイム(2分29秒)よりも2秒以上速い上に当時のオークスのレコードタイムである2分28秒1(1977年のリニアクインが記録)よりも速かったりする。しかもウィナーズサークルのダービーのタイム(2分28秒8)にも1.9秒差。ロジータの中央挑戦がもう少し早かったらウオッカとよりもずっと前に歴史的牝馬が現れていた所であった。
この恐るべきタイムは結局、東京競馬場の馬場が改修されるまで不滅のレコードとして残り続けた。世界レコードとしてもアルゼンチンでAsideroが1999年にカルロスペレグリーニ大賞で2分21秒98を叩き出すまで10年間残り続け、国内では実に16年後の2005年にアルカセットがコンマ1秒縮めるまで残り続けていた。
一大馬産地でありながら評価がいまいち低かったオセアニアの馬が、凱旋門賞馬などを含む強豪勢をまとめて負かすという快挙に、ランス騎手は「この一戦にオセアニアの威信を賭けていた。これで負けたらオセアニア勢のレベルが下だと嫌でも認めるしかなかった」と語り、デイヴ師は「ホーリックスはKindergarten[2]を超えた」と語った。
こうして、芦毛同士の枠連2-2、勝ち時計は2が4つ並ぶという覚えやすくインパクトのある記録とともに、ホーリックスという名前は日本の競馬ファンの記憶にも刻まれたのである。
彼女の後に牝馬がJCを制するまでは、ちょうど20年後のウオッカを待たなければならない。そして30年後、平成最後の年にはこのJCで更に途轍もない記録が叩き出されるのである。
ジャパンカップ後
一躍ニュージーランドの英雄となったホーリックスは帰国後しばらく休養を取り、前年の第1回でも勝利したDBドラフトクラシックで復帰。前年末にNZダービーを勝っていたCastle Townらを相手に自身のレコードをさらに縮めて快勝した。ちなみにDBドラフトクラシックはこの2回限りで廃止となったため、このレースの勝ち馬はホーリックスだけである。
その後は3度目の豪州遠征を敢行するが、初戦のセジェンホーS(G1・2000m)ではこの頃同国でG1を3連勝するなど大暴れしていたBetter Loosen Upの5着に敗れ、2戦目のザBMW(G1・2400m)でもBetter Loosen Up(6着)には先着したものの前戦2着だったSydestonの3着に終わり、そのまま帰国。2年前に制したTVニュージーランドSに出走すると、2着以下に4馬身差を付けて快勝し、空振りに終わった遠征の鬱憤を晴らした。
7歳時(90/91)は3着・2着・2着と惜敗が続き、10月には再び豪州に遠征してコックスプレートに参戦したが、3度目の対戦となったBetter Loosen Upの8着に敗れ、これを最後に引退。奇しくも1ヶ月後、そのBetter Loosen Upも前年のホーリックスのようにマッキノンS経由でジャパンカップに遠征し、これを優勝している。
引退後・逸話
ニュージーランド国内のケンブリッジスタッドで繁殖牝馬となったホーリックスは、第4仔Brewが2000年のメルボルンカップに勝ったのを筆頭に優秀な産駒を多く送り出し、2006年に繁殖を引退。以降は功労馬として余生を送り、2010年にかつて対戦したBonecrusherらと共にニュージーランド競馬の殿堂入りを果たした後、2011年8月24日に28歳で死亡。孫の代から豪ダービー馬Fiumicinoが出るなど、牝系の祖としても成功を収めている。
本国での名声は当然非常に高く、同国の競走馬生産者協会本部の会議室にはオセアニアの大種牡馬・Sir Tristramの絵やPhar Lapの絵と並んで本馬の絵が掛かっているという。またオグリキャップがもたらした競馬ブームの中で印象的な走りを見せたこともあり、ケンブリッジスタッドを訪れる人の中には「競馬をよく知らなくてもホーリックスの名前は知っている」という日本人観光客も多かったそうである。
ジャパンカップで見せた根性あふれる走りからは信じられないほど心優しい馬だったが、その反面、臆病で寂しがり、しかも夜が苦手という性格だった。そこでポール調教助手の発案で、JCに向けての隔離訓練中、ホーリックスの馬房には人間が一人まるまる映る大きさの鏡が吊るされた。そこに映る自分の姿を仲間だと思って慰めにしながら、ホーリックスは夜を過ごしたという。
ホーリックスとオグリキャップ
さて、ホーリックスとジャパンカップで歴史に残る大激戦を演じたオグリキャップだが、実はホーリックスに恋をしていたという噂がある。
というのは、餌を食べるために飼い葉桶に顔を突っ込んだら食べ終わるまで何があっても顔を上げないことを常としていたオグリキャップが一度だけ食事を中断したことがあり、その時に見ていたものこそが曳き運動をしていたホーリックスだというのである。
この逸話が事実かはともかく関係者に思うところがあったのは事実のようで、オグリキャップの引退後にホーリックスとの交配話が持ち上がり、一部のファンからも「オグリとホーリックスの仔を作って最強芦毛馬を!」などと騒がれたようだが、当然実現することはなかった。
ちなみにオグリキャップを管理した瀬戸口勉調教師は、レース前にホーリックスを見て「見栄えのしない牝馬。この馬にだけは負けないな」と思ったそうだが、いざ蓋を開けたらそのホーリックスだけを捉えられずの2着に敗れたというのは皮肉にも感じられる。
血統表
Three Legs 1972 芦毛 |
Petingo 1965 鹿毛 |
Petition | Fair Trial |
Art Paper | |||
Alcazar | Alycidon | ||
Quarterdeck | |||
Teodora 1963 芦毛 |
Hard Sauce | Ardan | |
Saucy Bella | |||
Tellastory | Tulyar | ||
King's Story | |||
Malt 1978 黒鹿毛 FNo.10-d |
Moss Trooper 1972 鹿毛 |
Levmoss | Le Levanstell |
Feemoss | |||
Forest Friend | Linacre | ||
Belle Sauvage | |||
Frill 1969 鹿毛 |
Agricola | Precipitation | |
Aurora | |||
Froth | Faux Tirage | ||
Home Brew | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Aurora 4×5(9.38%)、Big Game 5×5(6.25%)
芦毛の由来は父母母母のKing's Storyの父His Highnessの更に母母父のThe Tetrarchから。またお前か
関連動画
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関連項目
- 競馬
- 競走馬の一覧
- 1986年クラシック世代
- ジャパンカップ
- ニュージーランド
- オグリキャップ
- スーパークリーク
- ロジータ
- ベタールースンアップ
- アルカセット
- アーモンドアイ
- フォークイン(ウマ娘)-本馬をモチーフ(と思われる)キャラクター
脚注
- *先述のティム・ロジャースSではホーリックスとも対戦している。
- *1937年生まれ、35戦25勝の戦績を残したニュージーランドの伝説的名馬。2006年に同国で競馬の殿堂が創設された際にファーラップらと並んで最初に殿堂入りしている。
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