基本データ | |
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正式名称 | リビア国 دولة ليبيا |
国旗 | |
国歌 | リビア、リビア、リビア(我が祖国よ) |
公用語 | アラビア語 |
首都 | トリポリ(Tripoli) |
面積 | 1,759,540km²(世界第16位) |
人口 | 約629万人(世界第103位) |
通貨 | リビア・ディナール(LYD) |
建国 | 2011年2月17日(2011年リビア内戦→2月17日革命) |
地図 | ※クリックで原寸大表示 |
リビア国(アラビア:دولة ليبيا Dawlat Lībiyā, 英:State of Libya)とは、北アフリカの国である。
公用語はアラビア語、国教はイスラム教スンナ派、通貨はリビア・ディナール。
首都はトリポリ。北で地中海に面し、東にエジプト、西にチュニジア、アルジェリア、南にチャド、ニジェール、スーダンと接している。
ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)を中心としたリビア王国の将校が1969年にクーデターを起こし(9月1日革命)、リビア・アラブ共和国が成立。そのご幾度か国名を変えながらカダフィによる独裁政権が40年以上続いていた。
2011年の「アラブの春」の混乱の中で反政府勢力が独裁政権を打倒して内戦が勃発。内戦は現在も続いており、トリポリ一帯は暫定政府が支配しているものの、その他の地域はハフタル将軍が率いるLNA(リビア国民軍)が支配している。[1]
リビア連合王国(イドリース王国)→リビア王国→(9月1日革命後)リビア・アラブ共和国→社会主義人民リビア・アラブ国→大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国→(カダフィ政権崩壊後、正式名称なし)→リビア
カダフィ政権時代、日本の外交上の正式な立場としては、国名は「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」としていたが、社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国であったり社会主義人民リビア・アラブ国といった呼称のまま使用しているケースもあった。略称には「リビア」を用いていた。
また、カダフィ大佐の肩書きについては日本の外交上正式には「ムアンマル・アル・カダフィ革命指導者」とし、略称としては「カダフィ指導者」を用いていた。
国土のほとんどはサハラ。世界で17番目に大きい国土を持つ。秋にシロッコとよばれる熱風が吹く。国土のほとんどは砂漠気候だが、地中海沿岸は地中海性気候。国土の石油埋蔵量はアフリカでも最大(原油確認埋蔵量世界第8位)であると言われている。
1992年以降、国連の経済制裁によって主力の石油輸出の道がほぼ閉ざされ経済的に低迷を続けていたが、経済制裁解除後は石油輸出や油田開発投資への欧米企業の誘致などを積極的に進めて経済の立て直しを図っており、原油価格の上昇も相まって順調に回復していた。
現在は経済のほとんど(輸出の95%、財政収入の65%)を石油輸出に依存している状況を改めるべく、産業の多角化を推進している。
日本とリビアの外交関係は1969年のカダフィ大佐らによる9月1日革命以前の1957年に樹立されて以来断絶すること無く続いた。1970年代に入り互いに大使館を設置している。なお、在日リビア大使館は後に大使館から人民事務所に改称されている。
現在の貿易関係は日本へは主にマグロなどが輸出され、日本からは主に自動車や鉄鋼製品などが輸入されており、年間貿易額は対日輸出額約2億円、対日輸入額約225億円となっている。
2005年からは探鉱権を獲得するなど日本企業のリビアへの進出が進んでいる。
同2005年からODAの対象国リストに加えられ、2008年より日本からリビアへのODAも開始されている。
日本はリビアを産油国および輸出先という点から経済・安全保障上重要視しており、石油・ガス探鉱開発、貿易投資促進、治水(砂漠の化石水を汲み上げる計画)・インフラ整備などの分野で主に技術者派遣や研修生受け入れといった人材育成に焦点を当てた内容の援助や技術協力を行うことで日本企業の側面支援と対リビア関係を強化する戦略をとっている。なお、円借款や無償資金協力は一切行われていない。
当初の日本とリビアの関係は日本がアメリカの対リビア政策に追従して特に何もしてこなかったことや、1989年の大喪の礼へのリビアからの参列者が在日人民事務所の書記代行であったことから読み取れるように、悪くはないが良くもない、単純に薄いものであった。
現在では前述の企業進出と貿易の開始やODAを始め、2005年に日本で開催された万国博覧会「愛・地球博」へのリビアの国としての公式参加、2010年に行われたクロマグロ(本マグロ)の国際取引禁止を決めるワシントン条約会議でリビアが提案を否決に導く決定的な役割を果たした際には事前に立場を同じくする日本側から何らかの働きかけがあったと言われているなど、順調に友好的な関係を築きつつあった。
内戦発生後、2011年2月22日に前原誠司外務大臣(当時)が「リビア政府によって著しい暴力が放置されていることを強く非難する」と表明。3月20日には米英仏各国による軍事介入の支持を表明し、同月23日にはカダフィとその関係者に対する資産凍結措置を行った。4月13日、リビアに対し国際的に協調して対処することを目的として設立された包括的組織、リビア・コンタクト・グループの第1回会合に参加。7月のリビア・コンタクト・グループ第4回会合では、リビア国民評議会を「リビアにおける正統な統治当局として取り扱う」として承認することが決定された。
リビア王国のころは親欧米だったが、クーデター後は資本主義、共産主義を拒絶。イスラム法とアラブ民族主義と社会主義を融合させた独自のイスラム社会主義体制を樹立。強硬な反イスラエル、反欧米の立場をとってきた。
1970、80年代に数々のテロに関与し、テロ国家として非難された。また、イスラム過激派テロ組織のスポンサーであったとされている。
1988年にリビア政府の関与(最終的に一部の関係者の独断ということになった)の元で実行されたパンアメリカン航空103便爆破事件(ロッカビー事件)を契機に当時既に極めて悪化していた対米関係(アメリカは1986年から単独で対リビア経済制裁を発動)に加え、1992年から国連による経済制裁を受けて経済状況は低迷し国際的にも孤立することになった(パンアメリカン航空はこの事件で杜撰な管理運用体制の責任を問われたことが遠因で経営破綻したため現在は存在しない)。
その後、1994年に国連による経済制裁停止(2003年に正式に解除)、パンアメリカン航空爆破事件の遺族との賠償交渉決着、近年の中東情勢の変化に伴う態度の軟化や2006年には大量破壊兵器(この場合は核兵器)計画の全面破棄と資料の提供によりアメリカからもテロ支援国家指定が解除され国交を正常化した。このリビアの方針の大転換は国際的にも少なからぬ衝撃を与え、他の反米国家を揺さぶる意味でのアメリカの思惑もあって政治的経済的な国際社会への復帰は欧米に歓迎されて非常に順調に進んだ。
カダフィ政権下では国家体制を「直接民主制」としていた建前上、政府や議会は存在せず、それらに相当する全国人民会議という議会制および全国人民委員会書記による内閣があった。国家元首も名目上は存在しなかったため、事実上の国家元首である革命指導者カダフィの肩書きについては日本のマスメディアの報道でも度々変化し、直近では「リビアの最高指導者カダフィ大佐」との呼称が一般的であった。なお、 一般的にもカダフィ大佐という呼称が最も通りがいいが、このカダフィ大佐というのはニックネームであり、軍人時代の最終階級は大尉である。当然ながらリビア軍には大佐以上の階級も存在した。
カダフィ政権は、大佐の唱える宗教と民族主義を基礎に置いた第三世界理論に基づく国家建設を目標に掲げていた。
外交上はアフリカ諸国と中東のアラブ諸国との連帯を基調とし、アフリカ諸国を統合するアフリカ合衆国構想を掲げていた。
国連総会議長国(2009年)、AU(アフリカ連合)議長国(2009年)、アラブ連盟議長国(2010年)を務めるなど、国連による経済制裁解除とアメリカとの国交正常化以降、着実にその影響力を示した。ただし、国としてのリビアというよりもカダフィ大佐個人の求心力が大きかったという側面も無視できない。
国連安全保障理事会の積極的な改革派の立場をとっていたが、同じく改革と安全保障理事会常任理事国入りを目指す日本とは立場を異にし、全ての加盟国が平等であるべきところを安全保障理事会理事国が特別な権限(特に常任理事国の拒否権)を持つこと自体に反対していた。
2009年の国連総会で一般演説に立ったカダフィ大佐が持ち時間15分のところを1時間35分使い、安全保障理事会を「テロ理事会」と批判し最後には国連憲章の冊子を投げ捨てたことは記憶に新しい(演説の内容は安保理批判だけではなく、米国ケネディ大統領暗殺から世界の子どもたちに無償で医薬品を配ろうというものまで多岐に亘った)。
2010年12月から2011年1月にかけて隣国チュニジアで貧困・雇用対策への不満から大規模な反政府デモが発生。大統領の国外脱出で体制が崩壊したことにより、反政府デモは民主化運動、そしてチュニジア革命・ジャスミン革命と呼ばれることとなった。しかし、その後の大統領の相次ぐ交代を経ても事態は収拾がつかず、リビアを挟んで反対側の隣国エジプトにも波及し、国民の貧困と身内優遇の独裁的な大統領への不満から民主化を求める反政府デモが発生し大統領が辞任に至った後も依然として混乱が続く情勢にある。
これら一連の民主化機運の高まりは早々にパレスチナにも飛び火するなど、貧困問題を抱える国、独裁国家や世襲の君主制の国が多い北アフリカと中東アラブ諸国の地域一帯に緊張感をもたらしている。
2011年2月に入り、リビアにおいても人権活動家の釈放を求めるデモ隊と治安部隊の衝突を皮切りに、海岸部の各主要都市で発生した政府非難デモが反政府デモへと発展。警察署などへの放火や投石、それを鎮圧する治安部隊と軍の発砲で死傷者も出る事態となり治安は急速に悪化した。カダフィ政権はクーデターによって成立した40年に及ぶ事実上の独裁政権のため、元々潜在的に民主化運動の火種は存在したものと思われるが、反政府デモを受けて首都トリポリと中心部の各主要都市では逆にカダフィ大佐を支持する数千人規模のデモが発生し、他では見られない複雑な情勢となった。
また、アメリカは民主化運動の標的になりそうなこの地域の独裁者や君主の多くが親米国家であることから(チュニジア、エジプトの前体制も親米)、民主化の連鎖(民主化ドミノ)を食い止めたいと考えている。
2011年2月に国連安全保障理事会のアメリカを除く14カ国がイスラエルの入植を違法とする決議案の採択を行うが、アメリカによる拒否権発動で廃案となった。しかし、これによりアメリカも中東政策の基本方針であるイスラエル保護と周辺国の親米化による中東和平(という名のイスラエルの安全確保)の実現を牽制され、イスラエルも対立する周辺国の不安定な情勢にさらに神経を尖らすことになり、中東地域の安全保障上のリスクは高まることになった。
なお、イスラエル政策でアメリカと欧州の立場が異なるのは、元々イスラエル(+アメリカ、欧州)陣営とアラブ(+旧ソ連、中国)陣営で中東戦争を戦っていたものが、第三次中東戦争以降は石油供給の思惑から欧州がアラブ陣営に鞍替えした為である。敵味方に別れても中東戦争はあくまで武器供給や軍事顧問団の派遣にとどまり、同時に東西対立ではNATO陣営として味方同士という立場も両立していた。エジプトが親米に変わったのは第四次中東戦争以降のことである。
なお中東戦争が一応止まっているのは、イランが親米派の国王を廃したイラン革命後にアラブとイスラエルの両方と敵対するイラン・イラク戦争を開始し、アラブ諸国、アメリカ、欧州、旧ソ連が全てイラク陣営に付きそれどころではなくなった為である。イラクが親米国家のクェートに侵略を始めてアメリカ、欧州と敵対するのはイラン・イラク戦争の終結後のことである。
政府側と反政府勢力の戦闘は激化し、リビア政府ととりわけカダフィ大佐は人道上の理由から諸外国からも非難を集め、政府や軍内部からも離反者が出るなど大きく劣勢な方向に推移。アメリカも民主化運動を支持しリビア政府を非難する立場をとり、アラブ連盟もリビア問題で緊急の会合を開いた。国連安全保障理事会常任理事国では欧州と米国が批判的であるのに対して、ロシアと中国が内政干渉として批判に否定的な立場をとった。
2月27日、カダフィ政権の反政府運動に対する対応に抗議して辞任したアブドルジャリル前司法書記がリビア第2の都市ベンガジにて暫定政権「リビア国民評議会」を設立。当初は他の自治政府勢力から反発があったものの、カダフィ政権側の勢力巻き返しによって早急な反政府勢力の統合が求められたこともあり、数日中には反政府勢力全体に影響力をもつようになった。
リビア国民評議会を中心とする反政府勢力は、各国に軍事介入及び飛行禁止区域の設定を要請するが、積極的な姿勢を示したのは仏英など一部に留まり、飛行禁止区域設定の国連決議は米ロ中などの反対により頓挫。更にカダフィ政権側の猛攻により、国民評議会側は劣勢に立たされる。
しかし3月12日、アラブ連盟がカダフィ政権の正当性を否定、および飛行禁止区域設定への支持を表明。同月17日におこなわれたカダフィ大佐によるベンガジへの総攻撃と無差別殺戮を辞さないとの演説の影響もあって、同日国連安保理にて飛行禁止空域設定およびリビアへの空爆の事実上容認決議が採択された。翌18日、カダフィ大佐は一旦即時停戦を受け入れるものの直後に攻撃を継続、これを受けて仏英米を中心とした多国籍軍がカダフィ政権への空爆を開始した。
3月29日、ロンドンにてリビア情勢を議題とする国際会議が開催される。欧米諸国、アラブ諸国、日本などによるこの「リビア・コンタクト・グループ(リビア連絡調整グループ)」はこの後、リビアに対する国際的協調をもった対処、およびリビアと国際社会を結ぶ窓口の確保などを目的した包括的組織としてリビア問題にあたっていく。
一方、多国籍軍参加国の経済悪化、NATO内での軋轢や反政府勢力・民間人への誤認攻撃などにより軍事介入は難航していた。長期の膠着状態によって、反体制派内では交渉によるカダフィの権力放棄を試みるグループとあくまで武力打倒を目指すグループとで対立が発生、アブドルジャリル議長も前者のグループに属していた。しかし7月28日に交渉派のオベイディ国民解放軍総司令官が何者かによって暗殺。事件の責任を取って国民評議会内閣が総辞職するなどの事態となった。
8月に入ると反体制派が首都周辺の拠点を次々と攻略、カダフィ政権は劣勢に立たされ、8月中旬以降離脱者が相次いだ。8月20日、反体制派はNATO軍とともに首都トリポリに進攻。「人魚の夜明け作戦」と名付けられたこの攻略作戦により、23日までにトリポリのほぼ全域が反体制派に制圧され、カダフィ政権は事実上崩壊。カダフィ大佐本人は当初、反体制派は排除されたと主張し、抗戦を呼びかけたが既に大勢は決していた。その後カダフィ大佐は逃亡、潜伏しながら首都奪還を呼びかけ、カダフィ政権を一貫して支持したワルファラ族の本拠地バニワリードやカダフィ大佐の出身地であるシルトでは激しい市街戦が続けられた。
国民評議会は8月26日、それまで拠点としていたベンガジからトリポリに移行。9月10日にアブドルジャリル議長がトリポリ入りし、12日には始めてトリポリで民衆を前に演説を行った。9月16日の国連総会で国民評議会は正式なリビア代表として承認され、19日にはそれまでの緑一色の国旗に代わってカダフィ政権以前にリビア国旗として使われていた旗が新しい国旗として掲げられた。9月20日にはアフリカ連合(AU)も国民評議会をリビアの正統な代表として承認。同日国連本部で行われたリビア問題首脳級会合で、アブドルジャリル議長がリビア代表として演説を行った。
トリポリ制圧から約2ヶ月後の10月18日にバニワリードが制圧され、20日には旧政権派の拠点となっていたスルトが陥落。この際、逃亡を続けていたカダフィ大佐がスルトにて遂に拘束され、死亡。国民評議会は「銃撃戦に巻き込まれた」と説明しているが、死亡の経緯には不明な点が多く、人権侵害のおそれもあるとして真相究明が叫ばれている。23日、国民評議会は全土解放宣言を行い、これをもって約8ヶ月に亘って続いたリビア内戦は終結を迎えた。
現在は民主化と国の安定に向けて新しい国作りの模索が続けられており、2012年7月に新憲法制定に向けた制憲議会選挙を実施。翌8月には国民暫定評議会から制憲議会への権限移譲が行われ、国民評議会は解散した。しかし新憲法制定及び正式政府の発足、内戦で荒廃した国土や経済の復興など多くの課題を抱えるなか、東部ベンガジ有力者による「自治宣言」や元反カダフィ派民兵による暫定政府襲撃、更には故カダフィ大佐支持派によるテロなどが発生しており、根強い地域・部族間対立から政情・治安ともにいまだ安定には程遠いのが現状となっている。
旧国旗(1977-2011) |
掲示板
214 ななしのよっしん
2023/10/07(土) 10:51:13 ID: 5yOm/GGE25
擁護というより、なんでリビア人民がブチ切れたのかについての解説だろ
まあ地上の楽園を喧伝する政権のプロパガンダほど信用ならんものはないということだな
215 ななしのよっしん
2023/11/05(日) 01:25:43 ID: 2VR1AiaEZ9
>>210-212
未だに「カダフィかカダフィじゃないか」という対立軸でしか語れない時点で高が知れてる気がするわ
例え寿命で死んだとしてもその瞬間から争いが始まるやつでしょこれ
ユーゴのチトーと一緒
どんなに有能だろうが周りが静観してようが時間の問題だったという気しかしないぞ
216 ななしのよっしん
2024/04/07(日) 06:35:13 ID: vRkjvhfXOm
カダフィが現地部族勢力を力で押さえつけてただけの砂上の楼閣だったのは事実だが空爆してまで強引に潰したのは間違いなく事態を収拾不可能レベルにまで悪化させたでしょ
時間の問題と言うのなら動乱が発生した時点でカダフィ陣営は例え力で押さえつけようとも遅かれ早かれ国家方針の修正を図らざるを得なくなってたとも言えるから政府側の優勢に傾いてた時点でさっさと手を引くべきだったな
まあ上で言われてる通り空爆したのは欧米だがそれを要請してたのが他のアラブ国家なんで恨むならそっち恨んだ方が良いけど
未だに東西で争い続けてるのは外国勢力(特にトルコ)が各勢力を際限無く支援して落としどころが見えなくなってるのが原因なんでもうカダフィ関係無い
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/20(金) 07:00
最終更新:2024/12/20(金) 07:00
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