入れ墨とは、皮膚に色素を刺し、定着させる身体の装飾方法である。
概要
「刺青」ともいう。アーティスティックな面を強調する場合「彫り物」と言われることもある。
日本国では基本的に18歳未満は、各都道府県・自治体の青少年保護育成条例等により入れることができない。
ごく簡単なやり方を述べれば、針などの細くてとがった物にインクをつけ、それを皮膚に刺し、色素を皮膚に埋め込んでいく…ということを繰り返すだけである。
このようなやり方で体に文様を描く文化は古代から存在しており、現代では儀礼用のみならずファッションとして彫る場合がある。特にヒッピー文化が大きく根付いたアメリカでその傾向は大きい[1]。
しかし、中国では古代より犯罪者に対し「消えない印」として使用され、日本でも江戸時代に罪人に入れ墨を彫るという罰が行われた例があるように、刺青を1つの犯罪のシンボルとして使われることもあった。また、暴力団関係者は刺青という烙印を通じて帰属意識を高めるために、入団条件などで刺青を科すことが多い。
このため、刺青を入れたままでいると「前科者」あるいは「反社会的集団の一員の可能性あり」という印象を持たれ、面接や結婚の際に目をつけられたり、公衆浴場、プール、ジム等の公共施設への入場を断られる場合が多い。
また、親から授かった体を傷つけ穢すということで、文化的[2]にも刺青を嫌う人間は多い。
一方で昔から漁師など船乗りが刺青を彫る地域が国内でもあり、この場合は不幸にして水死体になってしまった時でも容易に身元確認できるという実用的側面がある。
日本ではあまり盛んではないが乳がんの手術痕を刺青で覆うことも行われている。
消すにあたっても、保険がきかないというリスク、長期にわたる皮膚への施術による苦痛、どうしても刺青の跡が残る、といった不可逆的な問題点が多いため、入れるにあたっては十分考えてするべきである[3]。
規制
現在の日本では入れ墨そのものに対する法的規制は存在しない。ただし、入れ墨に対する間接的な法的規制として、次のようなものがある。
- 社会的規制 - 入浴施設やプール、海水浴場で断られることがままある。雇用やスポーツ選手の出場・契約で問題になることもある。
- 彫師への規制 - 2017年9月27日、入れ墨(タトゥー)を彫るのは医療行為に当たるかどうかが争われた医師法違反事件で、大阪地裁、「医療行為に当たる」と判断し、同法違反罪に問われた大阪府内の彫り師に対し罰金15万円(求刑・罰金30万円)の有罪判決を言い渡した。 医師法は、何が医療行為に当たるか明示しておらず、入れ墨を医療行為と示した司法判断は初めてである。判決は、入れ墨は皮膚障害やアレルギー反応を引き起こす危険性があり、医学的な知識や技能が不可欠だと指摘。「医師が行わなければ、保健衛生上の危害を生じる危険性がある」と判断した。憲法との兼ね合いについては、「入れ墨の危険性を考えれば、表現の自由として保障された権利とは認められない」と否定。健康被害を防止するという公共の利益のため、規制は職業選択の自由にも反しないと結論付けた[4] 。
身体への害
予備研究段階ではあるが、身体へのダメージが発表されている。研究では、タトゥーを入れていた人の半数に、リンパ節まで染料の成分が発見された。さらに、異常なレベルのアルミニウム、クロム、鉄分、ニッケル、銅などが、リンパ節と皮膚から検出され、タトゥーを入れていた全員の皮膚とリンパ節から、チタニウムが異常な濃度で見つかった。但し、どれほど実際に人体への影響があったかについては、はっきりと判明していない[5] 。
歴史
日本[6]
古代~中世
日本では、出土する土偶や埴輪(はにわ)の線刻から、古代よりイレズミの習慣が存在したと推定される。
日本の南端にある奄美群島から琉球諸島にかけて、女性は「ハジチ」と呼ばれるイレズミを指先から肘にかけて入れる習慣があった。記録として残されているのは16世紀からだが、それ以前から行われていたと推測される。特に手の部分のイレズミは、女性が既婚であることを表し、施術が完成した際には祝福を受けるなど、通過儀礼の意味合いも持っていた。島ごとに施術される範囲や文様が異なっており、ハジチがない女性は来世で苦労するという伝承が残る島もあった。
一方、北方の先住民族、アイヌの女性たちも唇の周辺や手などにイレズミを入れていた。北から南まで、イレズミは日本各地で広く行われていたことが分かる。日本の創生神話を描いた『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)にも、辺境の民の習慣や刑罰としてイレズミが言及されている。
そうした中、7世紀中頃から日本における美意識は大きく変わる。全体的に肉体美よりも、着衣や香りなど暗い室内でも映える「美しさ」を偏重するようになった。イレズミは徐々に行われなくなり、これに触れる文献や絵画資料も17世紀初期まで途絶えてしまう。
近世
江戸時代になると、遊女と客との間で、永遠の愛を誓う意味で小指を切ったり、互いの名前を体に彫ったりしたとの記述が文献に現れ始める。やがてこの身体的加工は、侠客(きょうきゃく)の間でも誓い合いの方法として用いられるようになっていく。
また、建築や祭りの準備などの仕事に従事し、町内の警備役や消防も担った鳶(とび)や、飛脚(ひきゃく)などにもイレズミは好まれた。これらの人々は、身動きの取りにくい着物姿よりも、ふんどし一丁で仕事をすることが多かったが、地肌をさらすことは恥ずかしいとも考えたため、イレズミを身にまとった。やがて社会では「鳶にイレズミはつきもの」とのイメージが強まり、イレズミが入っていない若い鳶には、町内の旦那衆が金を出し合って彫らせることもあった。火事場で火消しとして戦う鳶は、江戸の「粋」の象徴であり、鳶のイレズミは彼らが住む町内の誇り、「華」でもあったからである。
鳶たちは、龍のイレズミを入れることが多かった。これは龍が雨を呼ぶと信じられ、自身を霊的に守る意味があったからだという。そうした需要が増えるに従い、簡単な文字や図から始まったイレズミは、徐々に複雑化、拡大化していく。やがてそれは、人の肌に絵や文字を彫ることを専業とする彫師の出現にもつながった。
大衆文化の世界では、イレズミを入れた侠客が「弱きを助け、強きを挫(くじ)く」理想像として浮世絵に描かれるようになった。やがて、それは憧れの対象となり、19世紀前半には、浮世絵師の歌川国芳(くによし)が中国の小説『水滸伝』の主人公たちの全身にイレズミを描き、大評判となる。さらに、歌川国貞(くにさだ)などが、今度は歌舞伎役者にイレズミを描きこんだ浮世絵を発表して人気を博した。この流れは実際の歌舞伎にも影響し、「白波五人男」(1862年)などの演目で、イレズミ模様の肌襦袢を着用した役者が主役級の役を演じるようになる。こうした浮世絵や歌舞伎の刺激もあって、元々拡大の一途にあったイレズミの施術範囲は、さらに全身へと拡大していった。
武士階級には、身体を傷つけることを厭う儒教思想が浸透したため、イレズミは広がらなかった。また、1720年から、刑罰の付加刑として額や腕などにイレズミを入れる「黥刑(げいけい)」も導入されたため、庶民の間にはイレズミを嫌う人もいた。江戸幕府はイレズミに対し何度か規制を加えたが、あまり効果はなく、19世紀後半には流行が最高潮に達した。
近代
明治政府は、鎖国を解き、欧米並みの文明国家を目指した。その結果、約400年間ほとんどやってくることがなかった、海外からの賓客や旅行客、船員が来日するようになる。これらの人々は日本を旅する中で、混浴の習慣や、全身にイレズミがあるふんどし姿の男たちが街を闊歩(かっぽ)していることを、日本特有の風俗として旅行記につづった。
これを明治政府は、欧米から見た日本の未開部分として問題視し、明治5(1872)年、彫師(ほりし)と客になることの双方を法的に規制した。そして、20世紀初めには、常に衣服を着ることが社会的に定着したこともあり、イレズミは着衣の奥深くに秘められたものとなっていく。
女性たちのイレズミが習慣としてあった沖縄やアイヌでも深刻な影響を受けた。イレズミを隠れて行う人もいたが、警察に逮捕され、野蛮で遅れたものとして手術や塩酸などで除去された。今では、これらの地域の先祖伝来であったイレズミの習慣は、完全に途絶えてしまっている。
一方で、来日した人々の中には、イレズミを「日本土産」とする人々がいた。王子時代のジョージ5世(エリザベス女王の祖父)やロシアのニコライ2世が日本でイレズミを入れたことは、記録や証言から確認できる。また、海軍の隊員や旅行客が英米の新聞などに日本でのイレズミ体験を語ったことで、強い興味を抱く人々も現れ始めた。その好奇心に応えたのが、海外に渡った日本人彫師たちだった。
当時の彫師たちは、国内では表商売として、現在の町の広告看板業にあたる「絵ビラ屋」や「提灯屋(ちょうちんや)」の仕事をし、イレズミの仕事は隠れて行っていた。その一部の彫師が、より自由な仕事を求めて、香港、シンガポール、フィリピン、タイ、インド、英国、米国などに渡ったのだ。このことは19世紀末から20世紀初めに英国と米国で活躍した日本人彫師について研究した小山騰(のぼる)や、それに引き続く筆者の研究により明らかになっている。
海外に渡った彫師たちは、船の乗組員や乗客相手の仕事が多かったこともあり、港の近くで仕事場を持つかホテルを間借りするなどして、各地を転々としていた。例えば、19世紀末から20世紀初めまで、ロンドンやニューヨークで仕事をしたYoshisuke Horitoyoと名乗った彫師は、新聞記者に対して中国や香港、パリなどでも仕事をしたと述べ、特に香港ではフィリピン初代大統領のアギナルドに彫ったことがあるとも語った。
日本人彫師はその高い技術から人気が高かったが、客はほとんど簡単に仕上がる小さめの「タトゥー」を欲し、日本のように長期に通ってもらえる客は少なかったため、技術を存分に発揮できなかった。
現代
第二次世界大戦で敗戦した日本は、1948(昭和23)年にイレズミを取り締まりの対象から完全に外した。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下となり、各地に米軍基地が設置されると、彫師は軍港のある横須賀で、寄港する米軍兵を客に商売を始めた。ここでも日本的な図柄ではなく米国風のタトゥーが好まれ、朝鮮戦争やベトナム戦争時は大変にぎわったという。
長くイレズミが社会の表舞台から遠ざけられた日本で、彫師が出版や展覧会などの活動を始めたのは1970年代からであった。この時期に、ファッションデザイナーの三宅一生や山本寛斎が、日本のイレズミから着想を得たタトゥー・スーツをそれぞれ発表している。1980年代には、米国などのロックバンドがタトゥーを入れていたことから、これに興味を持った日本の若者が増加。その後は、タトゥー人気の広がりによって、伝統的なイレズミを好む人も増えている。
2014年に関東弁護士連合会によって行われた、20代から60代までの男女計1000名を対象にした無作為調査によると、16人がイレズミを入れていた。人口の1割から4分の1にも達する海外でのタトゥー施術率と比べれば低率だが、日本でもイレズミがファッションレベルで定着を始めたと言える。
ボディペイント
近年では、様々な方法により「水溶性ほどインクが流失しにくく」「かつ剥がした跡が残らない」というような塗料を使ったボディペイントも存在しており、それらは(特に烙印を重視する社会で)強く区別されている。
こういった「ボディペイント」は(肌が荒れるものの)可逆性があるため、入れ墨の下書きとする用途のほかにもファッション感覚でこれを行うこともある。
文化人類学
割礼同様、入れ墨に宗教儀礼や成人儀礼としての側面を持たせる国も多く、未開の部族でのシャーマンなどが入れ墨を全身に施して何かを模倣する例は少なくない。古くは日本でも仏師が希望者の体に経文を彫っていたりする上、蝦夷・アイヌ・沖縄などでは近年まで儀礼的な意味で入れ墨を施すことが隠然と行われていたという。
また上座部仏教圏(タイやラオス等の東南アジア)では、現代でも魔除けなどのために体に経文を彫る例が多く、中には軍人や警官が銃弾よけとして呪文や経文を彫っている例もある。
「巨根」
驚かれるであろうか。アメリカでも日本でも、えてして彫り師(入れ墨を施す技師)は入れ墨で入れる文字の意味をあまりよくわかっていない場合が多い。特にアメリカではその風潮が強く、ヒッピーが適当に持ち込んできた梵字やよく分からないままに入れた入れ墨が(日本人の)笑い物の種になる場合がある。
(このような例は日本でもあり、特に梵字はラテン語以上に読める人間が少なく、このような事が起こりやすい。)
一般に、入れ墨は「絵」を描くのが普通であり、文字を彫るというのはなかなか難しいものなのである。
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関連項目
脚注
- *ある調査ではアメリカ人の14%が最低1個は入れ墨をいれているという結果が出ている。
- *儒教には「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり(親から貰った身体に傷を付けない事が孝行の第一歩だ)」という考え方がある。
- *先に挙げたアメリカの調査では、入れ墨を入れた人の17%が入れ墨を入れたことを後悔し、11%が入れ墨を除去中か除去したことがあるとされている。
- *「入れ墨彫りは医療行為」彫り師に罰金15万円
- *タトゥーは人体に長期的な害をもたらす?新研究で警鐘か
- *日本の入れ墨、その歴史
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