非国民通信

ノーモア・コイズミ

理解のある人々

2024-09-29 21:37:55 | 社会

 ちょっと前の話になりますが「理解のある彼くん」という概念が一部界隈で話題になりました。まぁ何かしら問題のある女性を受け入れてくれる都合の良いパートナーみたいな概念のようですが、これに対して「理解のある彼くん」はいても「理解のある彼女ちゃん」はいない、だから男性の方が生きづらいのだと主張する向きも一部で見られました。そんなことはないのでは、と私は思います。働かず女性に寄生する男性や女性に暴力を振るう男性、女性の連れ子を虐待する男性等々、そういう人には「理解のある彼女ちゃん」がいるのですから。

 リクルートブライダル総研の2023年調査によると20代男性の46%は「交際経験なし」なのだそうで、未婚化・晩婚化の傾向は進むばかりです。こんな時代でも普通に結婚しているのは恋愛エリートとも言えますが、一方で家庭内暴力なりモラルハラスメントなりが話題になることもまた少なくありません。色々と酷いエピソードがメディアを賑わすことも多く、それで男性社会や男性全般を非難してなんとなく締めくくられたり等々。しかし「何故そんな男と付き合ったのか」を追求しないことには、同じ過ちが繰り返されるように思えてなりません。

 企業におけるパワハラも然り、それが告発されてパワハラと認定されれば企業によっては処罰もされますけれど、原因が深掘りされるケースは皆無なのではないでしょうか。パワハラというものは「優越的立場」があってこそ成り立つもので(立場が逆であったらパワハラではなく「反抗」ですから)、この前段には必ず「パワハラ気質の人間を組織の重要な地位に就けた」事実があるはずです。「何故パワハラするような人間を昇進させたのか」を調査してこそ真の再発防止に繋がります。

 先般は不法な内部告発潰しに端を発して兵庫県の斎藤元彦知事の各種パワハラが大きな話題になりました。ついには県議会で不信任決議案が可決されるに至ったわけですが、そんな人でも選挙に勝ったから知事の座を得ていることは認識されるべきでしょう。街頭インタビューなどでも知事のパワハラ狼藉ぶりに眉をひそめるコメントを残す人が多々登場していますけれど、そんな人も実は前回選挙で斎藤氏に投票していた可能性は高いはずで、「何故あんな人に投票したのですか?」と県内の有権者にも聞いて欲しいと私は思うところです。

 斎藤知事に関しては数限りないパワハラ行為が露になるにつれ世間の支持を失い、後ろ盾だった維新他の政党からも切り捨てられている状態でもあり、出直し選挙では敗れる可能性が高いと予想されます。ただ、斎藤元彦に先駆者がいなかったとは考えられない、第二・第三の斎藤元彦が選挙に勝利する可能性は決して否定できないのではないでしょうか。この知事が当選したのは有権者の好みに合っていたからであり、有権者の好みが代わらない限りは同じようなタイプを権力の座に押し上げる、それが繰り返されるわけです。我々の社会は、そういうタイプの人間を肯定的に評価してきたのですから。

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第三章:ロシア・ウクライナを取り巻く往年の連邦構成国

2024-09-25 23:36:52 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

 1991年、ソヴィエト連邦は崩壊し、15の国家に分裂しました。その後の凋落はなんとなく知られるところで最大の失敗例がウクライナであると言えますが、その前に他の国々も幾つかピックアップしてみましょう。まず全体的な傾向として、「多民族国家」としての意識はロシアにのみ引き継がれ、新たに独立した国家は遅ればせながら単一民族を想定した国民国家を志向する傾向が窺えます。そして計画経済から新自由主義経済への移行に伴って国内市場は大混乱に陥り、大なり小なりソ連時代からの衰退を全ての構成国が経験することになったわけです。

 ソ連時代には強みであったはずの重工業分野は振るわず、逆にソ連経済の弱い部分は西側資本に食い荒らされ、金を稼げるのは資源産業だけ、という状況は30年あまりを経た現在も完全には払拭できていません。そうなると「資源のある国」は一定の経済力を確保できるものの、「資源のない国」は窮乏するばかりと、旧ソ連構成国の間でも格差が広がっていきます。ロシアやカザフスタンなどは資源輸出によって外貨を獲得し続けている一方、ソ連時代に重工業の中心地であったウクライナは西側市場から買い手が付かず、かつての宇宙船工場も西側のメーカーの下請けに……という有様でした。

 そして国内経済が低迷すれば、当然ながら国民の不満は高まる、そこで為政者が何をするかというと「ナショナリズムに訴えて批判の矛先をそらす」わけです。経済面で上手くいかない国ほど何らかの「敵」を見立てる必要に迫られる、結果として国内の少数派住民や隣国との間には大きな亀裂が走ることになります。これがエスカレートしていった中で最悪の結果を自ら招いたのが昨今のウクライナですが、残念ながら他の旧ソ連諸国にも似たような問題がないとは言えません。

 まずソ連とは、実態と自認のいずれも「多民族国家」でした。それは15の構成国に止まるものではなく、多数の「自治共和国」や「自治州」が定められ、いずれも独自の行政権を有していたわけです。そしてロシアは軋轢や衝突はあれど多民族国家としての理念を継承しており、現在も「連邦構成主体」として独自の憲法、独自の議会、独自の公用語を持つ自治共和国が国内に数多く存続しています。しかるに他の旧ソ連諸国は単一民族国家的な拘りが強く、領域内の少数派住民の扱いに問題を抱えていることが多いです。

 典型的なのは、州じゃない方のジョージアことグルジアでしょうか。コーカソイドの語源でもあるカフカス地方は「民族のるつぼ」と呼ばれるなど少数民族の数多く存在する地域です。国家としては他にアゼルバイジャン、アルメニアが成立していますが決して3つの民族に収束できるものではなく、あわよくば自民族の国家建設、独立までは行かずとも高度な自治を求める少数派がひしめいている状況です。そしてグルジアの領内には、アブハジア、南オセチア、アジャリアとソ連時代には自治を許されていた地域が含まれていました(なお"北"オセチアはロシア領内で自治共和国として認められています)。

 実はソ連には連邦から離脱する権利と共に、連邦に「残る」権利もまた定められていました。グルジアにはソ連から離脱する権利がある、しかしグルジア領内にある自治共和国にはソ連に「残る」権利があったわけです。しかしソ連崩壊の混乱に乗じて各構成国はいずれも自国の最大版図を確保すべく、多数派民族とは異なる人々が住む自治区もまた有無を言わさず自国の領土として、これを手放すことなく「独立」を宣言します。それは当然ながら、時を待たずして火種となるものでした。

 ソヴィエト連邦の時代は、様々な国籍の入り交じる共産党指導部が主導する多民族国家でした。これが連邦の崩壊後は独立した各国の多数派民族が主導する国民国家へと移行していったのですが、言うまでもなく多数派の陰には少数派がいます。グルジアはグルジア人の国家を目指した一方で、グルジア領内のアブハジア人、オセチア人、アジャール人はそれを歓迎しませんでした。グルジアの南部で自治を求めたアジャリアこそ鎮圧されたものの、アブハジアとオセチアは隣接するロシアに調停を依頼、結果としてロシアが監視する形で自治権を確保しています。

 まずグルジア政府がグルジア人の国家を目指し、そしてグルジア国内の少数民族が自治権──ソ連時代は認められていたものであり、ロシアは今も認めているもの──を求めました。これをグルジア政府が軍の力で鎮圧しようとするも、アブハジアやオセチアはロシアに庇護を求めます。請われて介入したロシア軍はグルジア軍を斥け、両自治共和国はグルジア政府の支配から外れる形になりました。これを我が国ではロシアによる侵略と伝えているのですが、実態としてはどうでしょう? 西側の用語で言うところの「侵略」は、果たして何によって防ぎ得たのでしょうか?

 その後もグルジアは長らく反ロシア感情に訴える政治が続きました。ただ、それが自国の発展に結びつくことはないことに漸く国民も気づいたのか、近年は中立派が与党の地位を確保しロシアとの間で関係改善の機運も見られます。一方でこうした動きへの反応として日本を含む西側諸国のメディアからはグルジア政府へのネガティブな、そして不当な報道が相次いでいる状況です(参考、本家ジョージアには既にある法律)。ことによるとグルジアでもウクライナのように、政権転覆が仕掛けられる可能性は決して低くないと言わざるを得ません。

 なお旧ソ連構成国のナショナリズムが往々にして反ロシアへと繋がる中で、かつては例外であったのがアルメニアです。アルメニアの場合は、隣国アゼルバイジャンの内部にあるアルメニア人居住区、カラバフ地方へとナショナリズムの目が向けられました。そして軍事力の行使によってカラバフ地方を奪取することに一時は成功したわけですが、これを守り切るには何らかの大国の庇護が必要になる、その結果としてアルメニアはロシア寄りの政体を維持する必要に迫られます。

 しかるにロシアと結んでカラバフ地方を確保してもアルメニアの発展には繋がらず、カラバフ死守を掲げた強硬派が妥協派の現職大統領パシニャンに敗れると方向性は一転、アルメニア自身がカラバフの守りを放棄、そこをアゼルバイジャンが軍を動かして奪還するに至りました。そしてパシニャン政権はロシアがカラバフを守らなかったと非難の声を上げてNATO側にすり寄る姿勢を見せているのが現状です。地理的に隔たれたアルメニアにはNATOもあまり興味を示さず、今でもロシアと完全に決裂したとまでは言えないものの、新たな火種を作り出そうとしている国として要注意ではあります。

 なおもう一つのカフカスの国家であるアゼルバイジャンは、なんともつかみ所がありません。宗教はイランと同じシーア派が主流ですが、さりとてイランと協調するでもなく、民族的にはテュルク系でトルコとの関係は深いのですが、そのトルコと対立しているイスラエルとも親密な関係であったりします。ウクライナやモルドヴァと反ロシア同盟を結成している一方でロシアとの国交は何事もなく続いているかと思えば、昨今はニューカレドニアの暴動を巡ってフランスとやり合ったり等々、インドもかくやの全方位外交を展開しており予測の難しい国です。

 次に中央アジアの5つの国家に目を向けますと、こちらも自国の産業自体は低調、カザフスタンやトルクメニスタンなど輸出資源に恵まれた国は一定の豊かさを保っているものの、そうでない国は決して良い状態とは言えません。中央アジアもまたナショナリズムに頼る中でロシア語教育を捨てて国内の多数派民族の言語のみを公用語としてきた結果、ロシア人技術者は流出し、ロシア語が話せる国民も減っている状態です。しかし自国に産業が乏しいが故に隣国即ちロシアへ出稼ぎに行く人は減りません。そしてロシア語を話せない移民は出稼ぎ先で言葉が通じず社会的に孤立したあげくイスラム過激派に取り込まれ、この一部の人間のイメージで尚更ロシア社会から危険視される……みたいな悪循環も起こっているようです。

 幸いにしてヨーロッパから地理的に距離があるおかげで、中央アジアの5カ国はこれまでNATO諸国からの干渉を受けることも相対的に少ないところがありました。ただアメリカの敵か味方かを厳しく問われる現在の国際情勢の元では中立を保つことも難しく、カザフスタンを筆頭に欧米諸国による介入の痕跡が見え隠れする場面も増えているのが現状です。19世紀のグレート・ゲームが時を隔てて再開される、中央アジアがNATOの出先機関となり新たな紛争地となる、そんな可能性も残念ながら否定できません。

 続いてモルドヴァですが、こちらは隣国のルーマニアと言語・民族の面で大きく共通した国となっています。これはドイツとオーストリア、セルビアとモンテネグロの関係のようなもので、言語や民族はほぼ同じでもその地域を支配した王朝が異なる、違う国として成立してきた時代が長いわけです。ただソ連時代からの反動で大ドイツ主義ならぬ大ルーマニア主義的な盛り上がりも散見され、モルドヴァ語を捨ててルーマニア語を唯一の公用語と定める等、これまた歪んだナショナリズムの強い国でもあります。

 ただモルドヴァ国内にはロシア系住民、ウクライナ系住民、そしてテュルク系のガガウズ人なども暮らしており、当然ながら大ルーマニア主義的な機運には強い反発がありました。結果としてドニエストル川の東岸では独立運動が勃発、ロシアとウクライナの両国が軍事支援を行い「沿ドニエストル共和国」という「ロシア語・ウクライナ語・モルドヴァ語」の3つを公用語とする事実上の独立国が成立しています。またガガウズ人も自治区を構成、こちらも「ガガウズ語、ルーマニア語、ロシア語」の3つを公用語とするなど、単一民族国家を目指すモルドヴァ政府とソ連時代の多民族主義を受け継ぐ自治区とで対比をなしていると言えそうです。

 そんなモルドヴァでも軍事的には中立を保つ、NATOとロシアの対立からは距離を置く方針が長らく維持されてきたのですが、ルーマニアの市民権を持ちアメリカで教育を受けたマイア・サンドゥが大統領に就くと事態は一転、NATO加盟も視野に沿ドニエストルやガガウズへの圧力を強めるなど、徹底した強硬路線に転じてしまいました。沿ドニエストルとガガウズはいずれもロシアに救援を要請しており、しかしながら両地域とロシアの間にはウクライナが障壁として立ち塞がっているのが現状です。ロシアに救いを求める両地域に手を差し伸べるためにはオデッサまでを解放しなければならないことになりますが、今回のウクライナを舞台にした戦争の着地点を探る上では、このモルドヴァの姿勢も問題になってくることでしょう。

 一方で旧ソ連構成国の優等生と評価できるのは、ベラルーシです。こちらもソ連崩壊後の一時期は混乱が続きましたがルカシェンコ政権下で安定を取り戻し、輸出資源には恵まれないながらも堅実な経済成長を見せています。他の旧ソ連構成国が軒並みナショナリズムに訴えることで失政を隠してきた中、ベラルーシはナショナリズムに頼らずロシアとの利害対立があっても話し合いでの解決を重ねる等々、隣り合う同胞ウクライナに国家運営の手本を示しているとすら言えるのかも知れません。

 しかるに戦争の火種作りとは最も距離の遠いベラルーシは、同時に欧米諸国から最も非難される国の一つでもあるわけです。それは即ち、旧ソ連圏の支配を目指すNATOの戦略にとっての障害であるから、でしょうか。ベラルーシの反政府活動家にはノーベル賞が授与されるなど、「西側」からの肩入れは鮮明です。いつかベラルーシもアメリカの資金提供を受けたNGOによって政権が転覆される、ウクライナと同じ道を辿らされる、それは十分に考えられる未来でありプーチンもルカシェンコも大いに警戒しているところでしょう。

 最後にバルト三国などと一括りにされがちなエストニア、ラトビア、リトアニアを取り上げます。このうちリトアニアは元からロシア系住民が少なかったこともあり、ナショナリズムに走る中でも比較的問題は起こっていないようです。逆にエストニア、ラトビアはソ連崩壊後も国内にロシア系住民が多く居住し、その処遇が争点となりました。いずれもエストニア人の国家、ラトビア人の国家が目指される中、ロシア系住民には「国籍を与えない」ことが決定され、一時期は国内居住者の40%が無国籍に達するなど、旧ソ連構成国の中でもとりわけ人権面での遅れが際立っていると言えます。

 もっとも我が国も戦後は、元・大日本帝国領である朝鮮半島や台湾にルーツを持つ国内居住者へ日本国籍を付与しない方針をとっており、エストニアやラトビアには親近感を覚えるところでしょうか。こうした人権面での後進性は欧州の理念とよく合致するところで、2004年にバルト三国はEUとNATOにも揃って加盟を果たします。いずれもEU内では最貧国に位置し、人口流出の続く状態ではあるのですが、それでも名目GDPは旧ソ連諸国の中では上位に入り、ロシア系住民の排斥についてもNATOの威を借りてロシアからの非難を断固として寄せ付けない等々、とりあえず政府の思惑は満たされているようです。

 そしてウクライナが目指したものは、エストニアやラトビアのような国家であったのでしょう。EUの中では貧しくとも旧ソ連諸国の中では豊かになれるかも知れない、NATOの軍事力を盾にすればロシア系住民を弾圧してもロシアは手を出せなくなる、そんな期待で動いてきたのが近年のウクライナであったと言えます。しかしロシアから見た場合のウクライナはバルト三国とは重要度が全く違った、バルト三国のNATO加盟時と比べて現代のロシアは他国に干渉できるだけの力を取り戻していた、それはロシアのレッドラインを超える判断でした。

 こうした流れを踏まえて、次の章ではソ連崩壊後のウクライナに焦点を当てて、2022年までの流れを振り返っていきたいと思います。

 

第四章はこちら

 

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優生思想

2024-09-23 21:43:47 | 編集雑記・小ネタ


 ……こういう人が議席を持っている時点で、非常に恐ろしいと思いました。

 なおNHK他の多くのメディアはほぼ動画音声で確認できる通りに文字起こししていますが、立憲民主党の公式では以下の通り少々異なる文面で掲載しているようです。同じようなことを別の場所で繰り返したのでなければ、何か思うところがあったのでしょうかね?

 

立民代表選【結果】野田新代表 党役員骨格人事「刷新感重要」(NHK)

『弱い人を助けるための政治』はもう終わりにし『弱い人が生まれない社会』をつくる。

 

【臨時党大会】野田佳彦候補を代表に選出(立憲民主党)

弱い人を助けるのは終わり、弱い人を作らない。

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ギリ圏から愛をこめて

2024-09-22 21:37:20 | 社会

降って湧いた「衝立マンション」計画に揺れる門前仲町 根底にあるのは文科省が進めた国立大学の「地主業」(東京新聞)

 江戸の風情あふれる街、東京・門前仲町が「衝立(ついたて)マンション計画」に揺れている。街にある元国有地で今は国立大学法人の土地に、一帯の景観を遮る大規模マンションを建設する構想が分かり、地元住民が反対しているのだ。物議を醸す計画の背景には大学の予算を削り、「地主業」で賄わせようとする、国の思惑がある。(中沢佳子)

 「突然、大きな『衝立』ができる。この計画を見てから、まともに眠れない。ものすごく、強い憤りを覚えている」。計画地に隣接するマンションに住む男性の静かな口調に、抑えきれない怒りがにじむ。

(中略)

 しかし、雲行きが怪しい。次に質問した女性が「産学連携で通常の開発とは異なる印象があった。地域の人にもいい場所になるのかな、と。でも、住宅をできる限り建てて、店舗を若干置いて人が通るだけに見える」と違和感を伝えた。

 事業者側は、商業棟は地域で利用し、サ高住では入居者が健康的な生活を送ると抗弁。会場から失笑が出た。他の住民男性が「なんで公園にしないの。大学の土地に金もうけで19階の『壁』を造られ、あなたたちのためになると言われても、納得しない」と畳みかけると、賛同の拍手がわいた。

(中略)

 大学の土地がマンション化する背景を、不動産コンサルタントの長嶋修氏は「近年のマンション供給数はピーク時の3分の1ほど。分譲する土地が限られ、需給がタイトな状態だ。都市部で大学の広い土地が出れば、開発業者は見逃さない」と説明する。

 

 住んでいる場所や日頃から体験してること次第で、対象は同じでも受け止め方は変わってくるものだと思います。例えば動物園でしかクマを見る機会がない地域の住民と、日常生活の中でクマに生活を脅かされる地域の住民とでは、クマの駆除を巡っても温度差があるわけです。同様に子供をほとんど見かけないような地域の住民と、町中どこでも子供がひしめき絶叫しているような地域の住民とでは、子供に対する感覚も違ってきます。

 そして閑静な場所に死んでいれば選挙カーごときを騒音と感じるものですが、一方で絶えざる喧噪の中で選挙カーなど気にする機会もない街もある等々。ここで冒頭に引用したマンション建設についても然りで、記事中では近隣住民=既に都心に住んでいる人々の声だけが取り上げられていますが、他の地域の住人=いつか都会に住みたい人々からすると評価は異なるのではないでしょうか、と私は思うわけです。

 東京都心への通勤がギリギリ可能なエリアを私は独自に「ギリ圏」と呼んでいます。そして私の住む街は典型的なギリ圏なのですけれど、何か一つ特徴を挙げるとすれば、とにかく子供が多いことでしょうか。では何故子供が多いのか、市政関係者は「子育て支援に取り組んできた成果」と勘違いしているかも知れませんが、実際は「適度に街作りに失敗してきたから」だというのが私の見解です。街の生活自体は至って不便、でも都内への通院はギリギリ可能、結果として不動産価格は抑えめで、これから子供を産み育てようとする若い夫婦でも住宅を取得できる──それが転入増の続くギリ圏の正体ではないか、と。

 もし街作りが完璧に上手くいって、都内に通勤できるだけではなく生活面でも利便性が高い街が出来上がったなら、当然ながら地価は高騰します。そこに住むのは富裕層かその師弟、あるいは狭小ワンルームの単身者ばかりになってしまうことでしょう。「都内に通勤できるけれど、それ以外には無価値」ぐらいの街であってこそ、結婚したばかりの若いカップルにも手が届く住宅価格が実現される、そういう風に出来ているのだと思います。でも、これは理想の選択なのでしょうか?

 私がギリ圏に住んでいるのは職場が東京にあるからで、かつ都心のマンションを買うだけの収入がないからです。周辺住民だって、多くは同じでしょう。別に本当にギリ圏に住みたいわけじゃない、しかし会社に通える範囲で新居を構えるとなるとギリ圏しか残らない、そんな人が次から次へと私の住む街に押し寄せ、結果として子供が街に溢れています。一見すると未来は明るく見えそうですが──親も子供も別に住みたくて住んでいる街ではないような気がしないでもありません。

 そんなギリ圏の住民からすると、都市部での住宅供給が縮小されている現在は夢のない時代です。徒歩圏では生活必需品の購入もままならないような郊外でも、都心に繋がる電車が通っていれば地平線の彼方まで住宅が建ち並ぶ、そして駅からも商業エリアからも最も離れた陸の孤島には朽ちた公営住宅が古城のようにたたずんでいる、そんな街でも人口流入が一貫して続いているのは、都市部に住みたくとも都市部での住宅供給が全く足りていないからです。

 商店が潰れた跡地に建つのは住宅ばかり、たまに住宅でないと思ったら保育園ぐらい、そんな街の住民からすれば冒頭で伝えられている近隣住民の声には驕り以外の何者も感じることは出来ません。徒歩圏に公共交通機関も商業施設も全てが揃った都市部に住居を構えておきながら、それ以上に何を望むのでしょうか。何事も自動車での移動を前提にしたギリ圏には今も人口流入が続いている、しかし郊外の無秩序な拡散は人口減少社会にとっては負の遺産でしかないはずです。ちゃんと徒歩で生活が成り立つエリアに人が住めるようにしていくことこそが公益性のある都市計画ではないでしょうか。こうした観点から私は、地域住民の声など無視して都市部にもっと住宅建設を進めていくべきであると考えます。

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第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

2024-09-18 23:18:28 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

 第一次世界大戦の結果、ヨーロッパでは3つの多民族帝国が崩壊しました。オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、そしてロシア帝国です。まずはオスマン帝国、こちらはオスマン「トルコ」とも呼ばれることはあるものの、あくまで「オスマン家の帝国」であって、必ずしもトルコ人の支配した国家を意味するものではないとの評価が現代では一般的と言えます。また歴代の皇帝の母親はトルコ人とは限らず、トルコ人同士で婚姻を重ねていた現地人とも相応に毛色は違ったことでしょう。

 これは王族にはよくある話で「庶民」が一般に同国人同士で結婚するのとは裏腹に、王家の人間は国外の王室と婚姻関係を結ぶことが珍しくありません。結果として王族というものは得てして外国の血を引いている、庶民がその国の「純血」である一方で、高い地位にある者ほど「混血」の割合が高くなりがちです。オーストリア=ハンガリー帝国は婚姻外交で勢力を拡大してきた「ハプスブルク家の帝国」の系譜を継ぐものであり、家の起源はアルザス(現在はフランス領)と伝えられるところ、そこから様々な王室との婚姻を重ねてきたわけで、オーストリアの皇帝とオーストリアの国民とでは「血筋」が随分と違っていたと言えます。

 そしてロシアもまた同様で、皇帝と国民とではルーツが異なる、ロシア帝国の君主は国民を代表するものではありませんでした。端緒を開いたのは17世紀のピョートル1世で、積極的に外国人を登用して西洋化を推し進め、スウェーデンやポーランドを押しのけ他民族帝国としての地位を歩み出します。宮廷や軍隊には外国人が溢れロシア語よりもフランス語やドイツ語が飛び交う等々、ここからロシア皇帝の一族と外国の王族との婚姻も増加、皇位継承者の父親と母親のどちらかは外国人であることが常態化していきます。

 例えば1762年(ユリウス暦では1761年12月)に皇帝に即位したピョートル3世の場合、母親こそロシア出身(ピョートル1世の娘)でしたが父親はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン(現在はドイツ)の公であり、元は「カール」と名付けられたドイツ生まれのドイツ育ちでした。これが紆余曲折あって「ピョートル」と改名してロシアの帝位を継承するのですが、ロシアの宮廷に馴染めず外交政策面でもプロイセン贔屓が際立ったことから貴族達の反感を大いに買ったと伝えられます。

 このピョートル3世の妻は神聖ローマ帝国の出身で、やはりドイツ生まれのドイツ育ちでした。元は「ゾフィー」という名であったものの「エカチェリーナ」と改名してロシア皇帝家に嫁ぎます。夫とは裏腹にロシアに馴染む努力を欠かさなかった彼女はたちまち宮廷の支持を集め、ピョートル3世の即位から僅か6ヶ月後にはクーデターを決行、エカチェリーナ2世として帝位に就きました。生まれと育ちはドイツでも祖父はロシア皇帝だった夫とは異なり、あくまでロシアに嫁いできただけの外国人が皇帝になったわけです。

 もっともエカチェリーナ2世はピョートル1世と並び称される名君で、西は宿敵ポーランドと争いプロイセン・オーストリア・ロシアの3国でこれを分割し、南はオスマン帝国と争い現在のウクライナ東部・南部及びクリミア半島をロシア領に組み込みます。そして現代のウクライナ中央部を治めていたコサックの自治も廃止されてロシアの直接統治となりました。ここがロシアによるウクライナ支配の起点の一つでもあるのですが、それは血統の面では全くロシアと無関係な、ドイツから嫁入りしてきた皇帝によって行われた点は留意して良いのかも知れません。

 ロシア帝国の最盛期を築いたエカチェリーナ2世が崩御した後は、公的にはピョートル3世とエカチェリーナ2世の子とされるパーヴェル1世が即位します。その次世代はパーヴェル1世とプロイセン出身の妻との間に産まれたアレクサンドル1世で、アレクサンドル1世の没後は弟のニコライ1世が即位、ニコライ1世とプロイセン出身の妻との間に産まれたアレクサンドル2世、アレクサンドル2世とヘッセン大公国(これも現代はドイツ)出身の妻との間に産まれたアレクサンドル3世と続き、そしてアレクサンドル3世とデンマーク出身の妻との間に産まれたニコライ2世が、ロシアの最後の皇帝となりました。

 ピョートル3世は現代日本で言うところの「ハーフ」に該当するわけですが、エカチェリーナ2世は完全な外国出身者、そして次世代のパーヴェル1世は「1/4」(ただし実父がピョートル3世かは諸説あります)、アレクサンドル1世とニコライ1世は「1/8」、アレクサンドル2世は「1/16」、アレクサンドル3世は「1/32」、ニコライ2世に至っては「1/64」しかロシア人の血を引いてはいないことになります。往々にして海外との交流が多い王族ほど国民を代表「しない」ものですが、ロシア帝国は典型的であったと言えるでしょう。

 20世紀には混血の王族が多民族国家を統治するスタイルが廃れ、多数派を構成する民族とその代表者による「国民国家」の形成が進みます。かつてのロシア帝国の版図も例外ではなく、当時の流行でもあった「民族自決」の理念に沿って諸々の国家が誕生しました。一方で旧ロシア帝国領内の諸共和国の上には共産党が牛耳る評議会があり、これは奇しくも多民族帝国的な統治と似たところがある、民族自決や国民国家の理念を認めつつも、帝国に代わる新たなイデオロギー(共産主義)による多民族の統合を目指すものであったと考えられます。

 政治的な意図を持った解説の場合、ソ連とは「ロシアが」他の14の共和国を支配していたように描かれがちです。しかし実態は「共産党が」「ロシアを含む15の共和国と」「少数民族の自治共和国・自治管区を」統制するものでした。確かに共産党幹部はロシア人が多数派を占めてこそいたものの、アルメニアのミコヤン、グルジアのオルジョニキーゼ、ウクライナ出身で祖国の農業集団化を主導したカガノヴィチ、オデッサ(現ウクライナ)でユダヤ人家庭に生まれたトロツキー、ミンスク(現ベラルーシ)でポーランド貴族の家に生まれたジェルジンスキーなど、ソヴィエト連邦を建設した主要メンバーの出身は多種多様なものがあったわけです。

 そしてソ連の初代の指導者こそロシア人であるレーニンでしたが、その後はグルジア人のスターリン、ウクライナ人のフルシチョフ、ブレジネフと続きます。この3人がトップに君臨した期間は1924年から1982年までの58年、ソ連の歴史が1922年から1991年までの僅か69年であることを思えば、あくまで共産党による支配であってロシアによる支配とは言いがたいことが明らかです。ソ連時代に起こったことの責任をロシアに負わせたがる人は目立ちますが、ソ連はロシアだけで構成されていたわけでもなくロシア人が最高権力者であったとも限らない、と言うことは留意しておくべきでしょう。

 2022年にロシア軍による直接介入が始まると、俄に「ホロドモール」とおまじないを唱える人々が現れるようになりました。これはソ連時代に農業集団化の過程で発生した飢饉の内、特にウクライナで起こったものを指すもので、ロシアからウクライナに対する加害として描写されることが多いものです。ただ当時のソ連の指導者はグルジア人のスターリンであり、ロシア人ではありませんでした。民意によって選出された為政者の行いであれば国民の責も重いですが、スターリンは暴力革命と粛正で権力の座に上り詰めた人間です。スターリンを「独裁者」と呼ぶのであれば尚更のこと、「ロシア」にばかり一元的に責を求めるのは少なからず強引にも見えます。

 元より農業集団化はソ連全土で行われたものであり、ウクライナを狙い撃ちにしたものではありません。ただロシアやベラルーシとは異なり、ウクライナが突出して「上手くいかなかった」結果として飢饉は深刻化しました。そしてウクライナの農業集団化を指導したのは上述のカガノヴィチ、正真正銘のウクライナ人です。ソ連の国際的な地位はロシアが継承しているだけに負うべきものがロシアに多く求められるのは一理あるのかも知れません。しかしソ連を構成していた諸々の国もまたソ連の一員であり、ウクライナもまた多くの共産党幹部を輩出してきた事実がある、ならばソ連の功罪の「罪」の部分は決してロシアだけに押しつけるのではなく、自国の一部としても引き受ける意識が求められるのではと私は考えます。

・・・・・

 最後に少し蛇足かも知れませんが、理解を深めるためロシア帝国とソ連の状況を大日本帝国に置き換えてみましょう。もし日本の天皇家が皇后を常に国外の王室から迎えていた場合を考えてみてください。天皇の母親はいずれも清朝やシャム王室(タイ)、阮朝(ベトナム)の出身であり、よくよく考えてみると天皇家に「日本」の「血統」は僅かにしか流れていないことになる、そうなるともはや「国民の象徴」と呼ぶのが難しくなりそうです。しかしロシア帝国の皇帝とは、そういう血統の人間でした。史実での大日本帝国は間違いなく日本人の支配した帝国でしたが、ロシア帝国は少し違うことが分かると思います。

 そして大日本帝国で革命が勃発して天皇制が廃止され、「日本国」「朝鮮国」「台湾国」「満州国」及び「琉球自治州」「蝦夷自治州」などから構成される「大東亜共栄連邦」が出来上がったとします。この中で権力闘争に勝利し独裁者の地位を手にしたのが満州人であったり、その後は朝鮮人が最高指導者に2代続いて就いたりした場合を考えてみてください。そんな「大東亜共栄連邦」で何かしら惨事が発生したとして、いったいどこの国の責任になるのでしょうか?

 史実での大東亜共栄圏は純然たる日本人の支配でしたが、ソヴィエト連邦の支配者はロシア人とは限らず、時にグルジア人であったりウクライナ人であったりしたわけです。国連安保理の常任理事国の座などソ連の国際的な地位はロシアが継承していますので、その責任もまた引き継ぐ道理はあるのかも知れません。しかしそれだけで済むのかどうか、やはり共産党幹部を輩出してきたロシア以外の連邦構成国、とりわけ2代続けて最高指導者を生んだウクライナは立派な共犯者と見なしうるものです。しかるに旧ソ連構成国は軒並みソ連時代の負の側面から都合良く自国を切り離そうとしてきた等々、こうした点も踏まえて次章ではロシア・ウクライナ以外のソ連邦構成国の独立後にも少し触れてみたいと思います。

 

第三章はこちら

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解雇規制を巡る幻想と現実

2024-09-15 21:46:10 | 雇用・経済

 先日は民主党に続いて自民党も正式に総裁選立候補者が固まりました。誰が勝っても良い結果には繋がらない気はしますが、事前に結果が読めるような出来レースではなくなったのはポジティブに評価できるでしょうか。先の東京都知事選も悪ふざけのような候補が乱立しましたけれど、なんだかんだ言って政治への関心が高まったのか投票率も上昇しました。これ自体は間違いなく良いことで、後は真っ当な候補が出馬するようになれば……というところですね。

 先週の記事では一つだけ肯定できる(ただし、即座に撤回された)政策案を取り上げました。残念ながら良いものほど政府与党内だけではなく、国民の間でも反発が強かったりする、逆に悪いものもまた政府与党の間だけではなく国民からも待望論が根強かったりするわけですが、まぁ「民主的な」選挙を繰り返しても向上できない国というものは政治家以外の部分にも問題を抱えているのだと思います。

 そこで今回は小泉進次郎らが主張する解雇規制緩和論をピックアップして考えてみましょう。解雇規制を緩和することで経済成長に繋がる、雇用機会の創出に繋がると推進派は主張して来ました。しかし解雇規制とは何なのか、あたかもそれが存在するかのごとき集団幻想が形成されている一方で、「正社員は解雇できない」とする根拠として法律の条文を提示しているケースを私は見たことがないです。

 これは当たり前の話で、日本の法律に正社員の解雇を禁じる規定はありません。ただ「合理的な理由がなければ無効」とされているだけで、裏を返せば理由付けさえ出来れば解雇は可能であり、解雇の正当性を問う判例はあっても解雇そのものを禁止した事例はないわけです。実際のところ社員の整理解雇は日本でも普通に行われており、それを歴史修正主義者よろしく「なかったこと」にしている人がいるに過ぎません。経済誌に「正社員は解雇できない」と書かれているのは聖書に「キリストが復活した」と書かれているの同じで、それは事実ではなく信仰告白を意味します。

 まず「理由があって手続きを踏めば解雇できる」という現実がありますし、そもそも「不当に」解雇することだって可能です。例えば私人による殺人を合法化している国は存在しないと思いますが、殺人が発生したことのない国は皆無でしょう。解雇も然りで仮に解雇が合法でなかったとしても、権力さえあれば不当に解雇することは可能です。そして殺人罪とは異なり不当解雇は刑法で裁かれるものではありません。不当に解雇された側が裁判に訴えない限り経営側はノーダメージ、良心さえ捨てれば基本的には自由に解雇できるのが実態です。

 他にも正社員の給与の引き下げは経済誌では「出来ない」と書いてありますが実際は可能ですし、中高年層の雇用を守るために若者の雇用機会が奪われたとこれも経済誌に書いてありますが、90年代の景気後退期に真っ先に会社から追い出されたのは中高年層です。結局のところ解雇規制緩和論とは経済誌に描かれたフィクションを前提にしたものであり、現実に向き合うものではない、解雇規制緩和論を掲げる政治家というものは、世の中で実際に起こっていることではなく聖書=経済誌の記述に基づいて政策を決めるいわば神権政治を唱えているのだと言うことが出来ます。

 また雇用・人材の流動化が必要であると叫ばれてもいますが、それとは裏腹に若年層の早期離職が嘆かれてもいるわけです。若者がすぐに会社を辞め、他の職場へと流れていくのはまさに流動化の果実と言えますが、これを否定的に見る向きはむしろ政財界にこそ多かったりします。ならば、流動化を否定して社員が自社に定着する世の中を目指せば良さそうなところ、しかるに世代が変わると経営側の目線も変わる、若者の離職を防ぎたい一方で中高年相手になると途端に追い出したがるのが実態です。結局のところ雇用の流動化云々は建前であって、実際に望んでいるのは「年寄りは追い出して若い子に入れ替えたい」というだけのことでしょう。

 また「成長産業への人材の移動」云々とも言われますが、そもそも成長産業とは何か、これも具体的なところは言われていないように思います。そしてもし「成長産業」が大きな利益を上げて事業を拡大させている業界を指すのであれば、既に十分な人員を確保できているはずです。人手不足が原因で成長産業が頭打ちになっているのであれば、そこに人材の移動を促すのは政策として合理的かも知れません。しかし本当に「成長産業」で人手不足かと言えば、そんなことはないわけです。本当に人手不足なのは「仕事がきつく、その割に低賃金の業界」ではないでしょうか。

 人手不足で名高いのはなんと言っても介護業界であり、他に運送業、建設業、保育士などが挙げられます。いずれも世の中の需要は大きいところですが、しかしこれが「成長産業」なのでしょうか。どれほど社会のニーズは高まっても、安く買いたたかれて利益は伸びない、当然ながら経済の牽引役からは遠いのが実態のはずです。そこで働く人の給与も右肩上がりであってこそ、本物の成長産業と言えます。逆に人手不足なだけ、従業員の給与は低く据え置かれたまま、そんなものは決して成長産業とは呼べません。

 もちろん世界で争うレベルの先端技術を担えるような人材は成長産業においても不足しているのかも知れませんが、それはどこの国でも同じ話で、大谷翔平みたいな突出した逸材は奪い合うしかない、雇用の流動化ごときで誰もが手にできるものではないわけです。雇用の流動化で得られるのは「平凡な人材」であり、いくら「リスキリング」などを施したところで世界のトップを争うレベルに達することはできない、この程度のことは誰にでも理解できるはずです。

 そして「自分磨きに精を出した40歳」と「特に何もしていない20歳」、結婚相手がすぐに見つかるのはどちらでしょうか? 就活も恋愛も同じで、若さこそが絶対的な価値を持ちます。ただ学校を卒業しただけの若者と、「リスキリング」とやらを受けた中高年、企業が機会を与えたがるのはどちらでしょうか? 解雇規制緩和論とセットで取り上げられることの多い「リスキリング」ですけれど、何をどう足掻いたところで中高年を採用したがる職場は限られているのが実態です。

 ただ中高年でも、本当に人手不足の業界なら採用の見込みがあります。それ即ち介護であったり、運輸や建設等々ですね。結局のところ実態としては水商売と同じで薹が立った人間は切り捨てて若い子に入れ替えたい、追い出されて行き場の失った中高年が人手不足産業(介護など)に流れてくれれば万々歳、これが雇用流動化論の本当の思惑であり、解雇規制緩和論の本質ではないかと考えられます。経済成長のためではなく、経営層の満足を満たすため、低賃金や重労働の産業を維持するため、そのための方便なのではないか、と。

 

・・・・・

 

 なお解雇が自由に行えるとされている国でも差別的な理由による疑われる場合など不当解雇と認定される範囲は少なからずあり、とりわけアメリカなどでは莫大な懲罰的損害賠償を課されるリスクが大きく、決して経営側の恣意的な解雇が可能というものではありません。むしろ訴訟リスクが皆無に近い日本の方が、解雇は容易であるとも考えられます。

 

カリフォルニア州における雇用・解雇について(弁護士 戸木 亮輔)

人種や出自を理由にした差別的処遇が認められた事案で、FedExに計61ミリオンドル(1ドル130円で計算すると約79億円)の支払が命じられた例(2006年、アラメダ州裁判所)

ホテル運営会社Wyndhamでタイムシェアホテルのセールスマンとして働いていた原告が、他のセールスマンが高齢の顧客に対して詐欺的なセールスをしていると報告した後に解雇され、計20ミリオンドル(26億円)の損害が認容された例(2016年、サンフランシスコ州裁判所)

解雇に至った主たる動機が労働者としての権利を主張したり妊娠していたりしたことであることが認められ、Chipotle(アメリカでは有名なメキシコ料理ファーストフード店です)に計8ミリオンドル(約10億円)の支払が命じられた例(2018年、フレズノ州裁判所)

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特集:ロシアとウクライナを巡る基礎知識、現在に至るまでの経緯

2024-09-11 23:40:38 | 非国民通信社社説

序文

 折に触れ言及してきたことですが、ガザで起こっていることを日本国内の主要メディアは軒並み「イスラム組織ハマスによる奇襲攻撃を受け~」と伝えてきました。これでは戦端を開いたのがパレスチナ側であるかのように見えてしまいます。ただ、それも報道の狙いではあるのでしょう。現実にはイスラエル建国以来の度重なる侵略の中でハマスによる反撃がたまたま成功しただけに過ぎないのですが、こうした過去からの経緯を「敢えて伝えない」ことで我が国の世論はコントロールされてきたと言えます。

 他にもイランとアメリカの対立について、やはり主だったメディアはイラン革命から説明を始めることが一般的です。しかしイラン革命に先立って海外資本による収奪があり、それを転換しようとしたモサデク政権に対するアメリカ主導のクーデターがあった、革命による親米傀儡政権の打倒は理由なく起こったものでは決してなく、そこに至るまでは当然の経緯があったと言えます。他にキューバ、ニカラグア、ベネズエラ等々、「反米」とされる政権も然り、今に至るまでの歴史が我が国で語られることは稀ですが、決して故なくして現在があるものではありません。

 そしてウクライナではロシアとNATOの勢力争いが続いていますが、これも2022年から始まったかのごとくに語られるのが専らです。しかし当然ながらこの戦争にも前史はあるわけで、ただ一方の側に不都合であるために黙殺されているだけ、と言えます。ロシア軍の直接介入に至るまでの事情を知れば、一概にロシア側を批判できない、むしろ大義が認められかねない、そんな背景があるが故に敢えて無視されてきた、そうしてNATOの代理人として戦うウクライナを盲目的に応援する世論が作り上げられてきたのが実態でしょう。

 そこでロシアと現在ウクライナと呼ばれている地域に関わるところを軸に、これから数回に分け歴史を少しばかり振り返ってみようと思います。

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで
第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達
第三章:ロシア・ウクライナを取り巻く往年の連邦構成国
第四章:ウクライナ、崩壊への歩み
おまけ:未来を占う

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第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

2024-09-11 23:36:43 | 非国民通信社社説

序文はこちら

 現在のロシアに至る「ルーシ」国家の始まりは、9世紀のノヴゴロド建設に遡るとされます。建国者「リューリク」については半ば伝説の入り交じるところではあるものの、その次世代の頃には勢力を南へと広げ、やがては現在のウクライナの首都であるキエフが中心となりました。この時代の国家は「キエフ・ルーシ」や「キエフ大公国」等と呼ばれるもので、大まかな版図は以下の通りです。


出典:世界の歴史まっぷ - 東スラヴ人の動向

 ここで覚えておくべきは、キエフ・ルーシの支配域が現代で言うウクライナの中央部としか重なっていない、東部や南部、クリミア半島はキエフ大公国の版図からは外れていることでしょうか。当時の黒海沿岸部は希少なユダヤ教の国家としても知られるハザール汗国の影響力が強く、東ローマ帝国とクリミア半島を巡って争ったとも伝えられています。このハザール汗国はキエフ大公国によって崩壊に追い込まれるのですが、いずれの周辺国家にとっても黒海沿岸部は、まだまだ辺境の地でした。

 大きく勢力図が変わったのは13世紀で、タタール(モンゴル人)の遠征が始まります。この頃には分裂の進んでいたキエフ・ルーシは為す術なく敗北、後のロシア・ウクライナのほぼ全域がタタールの支配を受けることになりました。このモンゴル人の帝国による支配はおよそ200年余り続いたものの次第に衰え、15世紀にはモスクワを中心にルーシ勢力が再興を果たし、現代のロシアに至る流れが始まります。


出典:世界の歴史まっぷ - 東スラヴ人の動向

 しかしながらモスクワが勢力を盛り返した頃には、かつてルーシの中心だったキエフ周辺域はタタールに代わってリトアニアの支配を受けていました。リトアニアは後にポーランドと同君連合を結成し、現代のウクライナ西部と中央部は長らくポーランドの統治下に置かれるのですが、この結果としてかつては同族であった「ルーシ」にもモスクワを中心とした国家=後のロシアと、ポーランドの領土の一部であった後のウクライナで文化的な隔たりが広がっていったと言えます。

 そして後のウクライナ中央部であるキエフ周辺域はロシア側から「小ロシア」と呼ばれるようになります。これは古代ギリシャが本土を「小ヘラス」、拡張した後の地域を「大ヘラス」と呼んだことに因むとされ、すなわち小ロシア地域はルーシの発祥の地であり、ルーシの発展した姿であるロシアの故地と主張するものでした。必然的に小ロシア地域を支配するポーランドと、その回復を狙うロシアとの間で駆け引きが生まれることになるわけです。

 当初はポーランドの方が優勢だったものの、徐々にロシアは強大化して両国のパワーバランスも変わっていきます。そして17世紀にはウクライナの在地武装勢力(コサック)を率いるボグダン・フメリニツキーがロシアの支援を受けてポーランドに反乱を起こし、勝利を収めました。結果として小ロシア地域にはコサック棟梁による一定の自治を認められた国家が形成され、これがウクライナ国家の始まりとも見なされています。ただ後代にはポーランドによる巻き返しとロシアによる再征服、ポーランドから送り込まれたコサック棟梁によるロシアへの反乱もあって次第に自治権は縮小され、18世紀にはロシアの行政区の一つに落ち着きました。


出典:Wikipedia - ボグダン・フメリニツキー

 現代のウクライナ中央部についてはポーランド支配からロシアの支配へと移り変わっていったのですが、では東部・南部はというとタタールの支配下に置かれた状態が長く続き、これが衰退した後はオスマン帝国の庇護下に入ります。そして18世紀にはロシアが南下政策を開始、オスマン帝国と争い黒海沿岸部やクリミア半島を奪取し、ロシア人による植民が行われるようになりました。このタタールとオスマン帝国を追い出してロシアが植民していった地域は「ノヴォロシア(新ロシア)」と呼ばれています。

 そして時は流れて20世紀、帝政が崩壊すると革命の混乱に乗じてロシア帝国内では反乱や独立運動が相次ぎます。キエフを中心とする小ロシア地域では民族派の勢力が割拠、ドイツの支援を受けてロシアからの離反を目指すようになるわけです。これに対抗したのが上述のノヴォロシアを地盤とするボリシェヴィキの勢力で、ハリコフやオデッサを拠点にキエフの分離派と争います。当初はキエフ側が優位であったものの後ろ盾となっていたドイツが第一次世界大戦に敗北すると形勢は逆転、最後はボリシェヴィキが勝利しました。

 この結果として、キエフを中心とした小ロシア地域と、東部・南部のノヴォロシア地域を合わせた広大な「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」が成立します。そして第二次世界大戦の後の国境策定でポーランドやハンガリー、スロヴァキアの国境をスライドさせる形でウクライナの国境は西部に拡張、さらにロシア内の自治共和国であったクリミアは「基幹民族」と位置づけられていたタタール人が戦時下の対独協力を問われて追放⇒自治共和国から州に格下げされた挙句、1954年にはフルシチョフの半ば独断でウクライナへの移管が強行されました。こうして現代に至るウクライナが完成したわけです。

 まとめとして、現代のウクライナは以下の4つの由来を持つ地域に分類することが出来ます。

①小ロシア:ウクライナの中央部、キエフ周辺域
後のロシアである「ルーシ」の始まりの地
一方でポーランド支配やコサックによる自治など、ロシアとは異なる歴史も併せ持つ地域

②ノヴォロシア:ウクライナの東部・南部(ドネツクやオデッサなど)
ロシアがタタールやオスマン帝国を斥けて入植した地域、ロシア側に帰属意識を持つ住民も多い地域

③ウクライナ西部(リヴォフ、ザカルパッチャなど)
第二次大戦の結果として、ポーランドなど東欧諸国の国境をスライドさせてウクライナ領に組み込んだもの

④クリミア
ノヴォロシアと同様にロシアがタタールやオスマン帝国を斥けて入植した地域
当時のソ連書記長であったフルシチョフが反対を押し切ってウクライナに移管させたもの

 「領土」という観点においてウクライナはソヴィエト体制の最大の受益者ということができますが、それだけに国内に多様な住民を抱え込む形になりました。ソ連時代に広大な領土を獲得した、その分だけ国内をまとめ上げるには労力も必要になるのは当然の帰結です。しかしながらソ連崩壊後の独立したウクライナは経済の低迷と人口流出に何ら有効な手を打つことが出来ず、衰退の一途にありました。そんな中で為政者は内政の問題から国民の目を反らすべくナショナリズムに訴えるようになりますが、上述の通りウクライナは異なる成り立ちを持った地域の集合体であり、単一民族神話による統合には全く適していません。結果はご覧の有様でロシアとNATOの争いに自国を戦場として提供する状態に陥っているところ、この「独立後」の詳細については別の章にて改めて解説していきたいと思います。

 

第二章はこちら

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良い政策ほど撤回される

2024-09-08 21:16:45 | 雇用・経済

 さて自民党と立憲民主党のトップ争いが本格的に始まりました。率直に言って誰が勝っても日本社会にとってプラスにはならないと判断するほかないですが、それでも新総裁誕生で総理大臣が代替わりすれば、内閣支持率は一時的に上昇するのでしょう。政策の根本的な方向性は変わらずとも顔ぶれさえ変われば国民の期待は高まる、それが日本の失われた30年間で続いてきたことだと言えます。

 ただ一つだけ肯定的に評価したかったのは石破が持ち出し、そして速やかに撤回された「金融所得への課税強化」です。悪い政策ほど断固として決行されるのとは裏腹に、たまに良い政策が出れば政財界とそれに迎合する人々のからの非難が巻き起こり、容易く撤回されてしまいますね。消費税など逆進性の強い税は撤廃し、富裕層優遇の根源になっている金融所得にメスを入れるのは格差是正のためだけではなく日本経済の発展のためにも欠かせないのですが。


“1億円のカベ”の崩し方 (富裕層と金融所得課税)

 こちらは所得層別にどれだけの所得税が課されているかを表したグラフで、1億円を超えるところから課税率が低下してくことが示されています。何故こうなるかというと日本は分離課税が徹底されており、給与所得などには累進課税が行われているものの金融所得は定率かつ低率であることから、給与所得が中心を占める1億円未満の階層は年収に応じて課税率が上がっていく一方、金融所得が中心になる年収1億円超の層は課税率が低下していくためです。

 つまりは金融所得が多い、投資に回せる資金を多く持っている階層ほど税制面で優遇される仕組みであり、これが格差の拡大や固定化にも一役買っています。公平性の観点からも、そして格差が経済の停滞を招いていることを是正する意味でも分離課税から総合課税への移行は避けられない、金融所得への税制優遇を停止していくことは日本社会が前に進むためには絶対にやらねばならないことです。

 富裕層優遇の税制によって恩恵を受けている層からは、当然ながら反発を受けることになります。石破のごとき政治家が思いつきで金融所得への課税強化を口にしたところで、それを現実にするだけの実行力は期待できません。そしてさらなる問題は、富裕層優遇税制の恩恵とは縁遠いはずの「庶民」の間からも反対の声が大きかったことでしょうか。ボロは着てても心は錦と言いますが、とかく我が国の有権者は経営者目線、為政者目線、富裕層目線でしか物事を考えられない人が多い、その弊害が強く出たわけです。

 月収20万で消費も20万なら、消費税は約2万円が課されます。月収2000万で消費が200万なら、消費税は約20万円が課されます。これで富裕層の方が消費税を多く負担しているのだと主張すれば、立派なエコノミストのできあがりでしょうか。そして金融所得への課税も同様で庶民も富裕層も課される税率はNISA枠などを超えたところは同じ、だから金融所得への課税が抑えられていることは庶民にもメリットが大きいのだと、そう主張すればもう立派な経済の専門家です。

 「勤労から投資へ」、それが岸田政権の大方針でした。給与所得の大幅な引き上げが望めない中、金融所得だけにフォーカスした倍増計画が大きく掲げられ、優遇枠が拡張されるなど庶民が投資に走ることを国策として奨励してきたわけです。要するに「真面目に働いても豊かになれないけれど、何とか種銭を作って投資で儲けてください」というのが政府のメッセージであり、労働よりも金融商品の転売の方に価値を置くものだと評価することが出来ます。

 そもそも日本企業にしてから人件費増や設備投資を惜しみ内部留保を積み上げるばかり、異例のマイナス金利が延々と続く中で資金調達需要は乏しく、むしろ余剰資金を海外資産の購入や自社株買いに回している傾向が鮮明です。庶民がなけなしの懐から金融商品を買うようになったところで、その結果として日本企業が栄えることはありえません。個別の破綻企業はともかく全体の合計として日本企業は資金調達に困っているどころか、むしろダブつかせているのが現状なのですから。

 ただ、岸田政権下の投資奨励策は日本国内株に対象を限定するものではなく、外国株を買っても適用されるものでした。結果として、アメリカの株高を日本の庶民の投資が支える一助になったとは言えるのかも知れません。宗主国への貢献、という意味では岸田は目的を果たしているとも考えられます。アメリカの世界戦略のために軍拡路線へと大きく舵を切った、日本国民がアメリカ株に投資するよう誘導した、「主人」から見れば岸田内閣は実によくやっている扱いになるのでしょう。

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茹でガエル

2024-09-07 14:37:16 | 編集雑記・小ネタ

 生きた蛙を突然熱湯に入れると、即死します。
 水に入れた状態で常温からゆっくり加熱してくと危険を察知し、蛙は飛び出して逃げます。

 そして現実とは真逆の結果を広め、世の中を欺くことを生業とする人々もいます。

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