(しつもん!ドラえもん:5185)せんきょ編 こたえ(朝日新聞)
白票(はくひょう)
投票(とうひょう)をしない棄権(きけん)と違(ちが)って、投票(とうひょう)に行(い)ったうえで白紙(はくし)のまま投票(とうひょう)する。無効(むこう)にはなるけど、白票(はくひょう)で政治(せいじ)への不満(ふまん)を示(しめ)すこともあるんだ。
朝日新聞がこんな記事を掲載したようで、一部界隈から憤りの声が上がっています。曰く「白票に政治への不満を示す効果なんてありません」「無効になるだけで意味ないよ」「白票がどういうプロセスで政治への不満を示すことになるのか」云々。確かに白票が何らかの拘束力を持つことはない、白票が何票あったところで行政に対する強制力を発揮するものではないわけです。ただ、その辺はデモや世論の反発と似たようなものかも知れません。デモや世間の反対を政治家は無視することが出来ますし、考慮することも出来ます。だいたいの場合は前者が選ばれるのですが、白票だって似たようなものでしょう。
白票と共に、投票「しない」行為に対しても同様に非難の声を上げる人は少なくありません。これもまた投票率がどれだけ下がったところで議員の当落を動かすことが出来ないのは確かです。しかし、これも結局は向きあう態度次第なのでしょう。投票率の低さを憂慮して考えを改める議員もいれば、全く意に介さない議員もある、多分後者が圧倒的多数派であろうと想像できますが、それは市井からの抗議の声に対するものと同じです。ちゃんと考えた上で支持できる候補がいないならば、無投票や白票も一つの判断ではないか、と私は思います。
白票や無投票は無意味と斥け、必ず(誰かに)投票すべきと説く人は多いです。しかし「誰に」投票すべきなのでしょうか。ここで明確に政党や候補者を挙げてくるタイプなら、賛否はさておき筋の通った振る舞いだとは感じます。しかし「誰に」投票すべきかを伏せたまま闇雲に投票を求める、白票や無投票は無意味と語るのはどうなのでしょう。では小池百合子への一票や自民党への一票は有意義なのか? 石丸伸二や維新に投票することには意味があるのか? 誰が相手でも特定の候補に投票することが大切だと説くのなら、やはり筋は通るのかも知れません。
しかし内心では、もっと別の候補や政党に投票して欲しい、今まで投票所に足を伸ばさなかった人々が選挙に行くようになれば(自分の支持候補の)票が伸びるはずだと、そんな風に夢を見ている人も多いと感じます。本当は蓮舫に投票して欲しかった、民主党系に投票して欲しいのに、それを表に出さず一概に白票や無投票を否定しているとしたら、ちょっと陰湿な振る舞いだと思わないでもありません。公然と特定の候補を支持している人は尊重できますが、支持候補を隠しつつもそこに誘導したがるタイプの人は好きになれないな、と。
投票率が上がれば、特に若年層が選挙に行けば、自分の支持政党に有利に働くと夢見ている人はどこの政党の支持層にも見受けられます。ただ実際のところ伸びしろの大きい若年層と、元から投票率の高い中高年層では政党の支持傾向も異なる、投票率が低いと中高年の支持が厚い立憲民主が有利になり、反対に投票率が上がると石丸伸二のようなタイプが支持を集めることになるわけです。ならば民主党系の支持者は「若年層は寝ててくれればいい」ぐらいに言っても良さそうなところ、しかし中高年に支持が偏る政党の支持者でも、とにかく投票に行くべき、白票や棄権は無意味!と語る人が絶えません。ナイーブな人が多いのでしょうね、きっと。
参考、合区によって失われたもの
なお投票率の関連で個人的に意識してほしいものとしては、「合区」の影響を挙げたいです。これは昨年10月に行われた「徳島・高知選挙区」での話になりますけれど、高知県では40%の投票率に対して徳島では僅かに23%と惨憺たる投票率が記録されました。一応の与野党対決ではあったものの、いずれの候補も高知の方に基盤を持つ議員だったようで徳島県民からすると「他人事」に感じられたのかも知れません。今後も「一票の格差是正」と「議員定数削減」が進めば似たようなケースは増えていくことと予想されます。
しかし合区によって「他県の政治家」しか投票の選択肢がなくなってしまった地域の有権者は、必然的に政治への関心を失っていくものです。それが23%という絶望的な投票率に繋がっているわけで、これは与野党いずれの支持者であろうとも深刻に受け止めるべきでしょう。政治への関心の低下は避けなければならない、しかし今のまま「一票の格差是正」と「議員定数削減」を進めれば当然ながら合区が増える、「地元の候補」を持たない、結果として政治参加意識の低い有権者が増えることになります。「一票の格差是正」と「議員定数削減」への批判的視野を持っているかどうか、その辺を私は厳しく問いたいですね。