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note.com/prapanca_snares
「(AはBと)部分的に同類であることによって(Bの)喩例である、とこういうことになるであろう」と言うとしても、そうではない。どうしてかというと、この世間では山と髪の毛でさえも、存在性、単一性、有形性(など)の点で部分的に同類であるから(すべてのものは他のすべてのものの喩例となってしまうから)である。 ナーガールジュナ作(とされる)『ヴァイダルヤ論』、梶山雄一・瓜生津隆真『大乗仏典14 龍樹論集』中公文庫、2004年、p.213 はじめに さて、前回の最後のあたりで、浄土真宗本願寺派僧侶の島地黙雷という人物が登場しました。今回は、この人がどういう人物で、どういうことを主張したのかという問題にかなりの字数を割くことになるかと思います。まずは、一見すると回り道になるようですが、こんな話から始めてみましょう。 周知のように、岩倉具視や木戸孝允や伊藤博文や大久保利通などの新政府の中心人物たちは、明治
仏教は「こころの科学」? 前回に続いて、今回扱ってみたいのは「仏教はこころの科学である」という仏教観です。 仏教はこころの科学である――これは現代の日本で時々見られるフレーズです(ここで言う「こころ」とか「科学」といったことばが、一体何を意味しているかは必ずしも明らかではないのですが)。このフレーズが何を意味しているのかはともかく、およそ「宗教」と呼ばれる文化現象のなかで、仏教ほど人間の心理的な性質に迫ってきたものはないとは言えるかもしれません。 仏典には、渇愛を滅ぼすには具体的にどうすればよいか、心(citta)という現象にどうアプローチすればいいかという問題が語られているし、部派のアビダルマや大乗の唯識思想にも、人間の心理を解明しようとした面はあります。現在でも、仏教と心理学を比較する際には、「仏教は1500年以上前に既に無意識を発見していた!」といったような文脈で唯識思想が持ち出され
はじめに さて、前回の最後に私はこう申し上げました。 私がこの雑文を書き始めてから、かなりの時間が経過しております。その間、この雑文を書くためにへっぽこ勉強をしているうちに、己の勉強不足を痛感したり、「これまでの自分の仏教観を修正せざるをえないのではないか?」と感じることが多くなってきました。私の現在の仏教観は、この雑文を書き始めた当初のそれとは異なるものになっていると言わざるをえません。 ゆえに、どういう立場でこんなものを書いて発信しているのかを明らかにしないまま話を進めるのは不料簡ではないか、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておく必要があるのではないかと思った次第です。 そこで、次回から2回ほどかけて、この雑文を書き始めた当初と比べて、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておきたいと思います。 そういうわけで、己の仏教観をどのように訂正したのかを、へっぽこ勉強を
顕彰や擁護は、歴史のプロセスのもっている革命的な契機を隠蔽しようと努める。顕彰や擁護が関心をもつのは、歴史の連続性を作り出すことである。そこで価値を認められるのは、作品の要素の中ですでに後代への影響史の中に組みこまれてしまった要素だけである。顕彰や擁護からぬけ落ちるのは、そこで伝統が途切れ、伝統を乗り越えようとする者に手掛かりを与えてくれるぎざぎざの切断面がひらける場所である。 ヴァルター・ベンヤミン/今村仁司ほか訳『パサージュ論3』[N9a,5]岩波文庫、2021年、p243 「合理的」で、「初期仏教」に忠実な上座部仏教? 前回に引き続き、「“ほんとうの”仏教」という観念に含まれている問題点について見ていきたいと思います。巷で時折見かける仏教観に、次のようなものがあります。 〇釈迦が説いた元々の教えは、「非合理的」な呪術や儀礼などを説かない「合理的」で「論理的」で「科学的」なものだった。
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