はてなキーワード: 鷹野隆大とは
実写の未成年の露出が多いコンテンツを表現の自由の名目で守ろうとした人いた?
タイムリーな記事で加護亜依が「チュッ!夏パ~ティ」のお腹出し衣装や見せパンが
本当に嫌だったって言ってるね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/759822c2084a725bb1d3fe516458577e47f6cfdb
この程度の露出でしかもトップアイドルとして対価も相応にもらっているだろう仕事でも
いまだに一番嫌だったって言うんだから、無名の未成年アイドル候補が全裸に近いパフォーマンスを
煙も上がっていない見知らぬコンテンツが不適切かどうか日々パトロールしてるわけじゃないんだぞ。
警察も明確に違法性があれば対処するだろうけど(表現の不自由展の鷹野隆大作品のように)
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
さすが津田氏の本業だけあって、文章だと何を考えてどのようなことをしてきたのかがきちんと伝わってくる。普通に危惧されるくらいのことは可能な限り対処してきたのか、とか。これを読んでしまうと津田氏のトークやイベントコーディネートのスキルは文章力に比べて相当劣るように感じてしまう。
この文章で何度も出てくる「検閲」という言葉だが、他人の言葉の引用部分を除くと津田氏本人はかなり慎重に使っている。これは今回の炎上のキーポイントでもある。
辞書的な意味で検閲とは、公権力が表現物を検査し発表を禁止することである。
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E9%96%B2-60273
しかしながら、図らずも今回あきらかになったように作品展示を中止する要因としては公権力ばかりではない。むしろ現代日本ではそれ以外の方が多いようだ。
(3) キュレーター
(4) アーティスト本人
(5) 一般市民
このうち公権力によるクレームや強制力によって排除されるのが狭義の「検閲」。
主催側の立場は「金は出すけど口は出さない」のが理想ではあり今回もわりとそうだった。ただし事業である限り本来の主旨に合わないものやデメリットがメリットを上回る場合は、主催側が展示会の方向性に意見する自由はあって当然。
キュレーターはむしろ何を展示して何を展示しないかの権限を任されているので、それを行使するのが本業。
アーティスト本人の意向。ときとしてキュレーターの意思よりもアーティストの意思は尊重される。ある意味当然だがこれが強すぎると美術展がキュレーターの思惑とズレることがあり得る。そして今回ズレた。
声の大きいのが実は一般市民。ネガティブ、ポジティブに関わらず主催に対して意見を言うことは原則として問題ではないが数が多すぎると窓口業務に支障が出る。
そしてそれが悪い方向にエスカレートすると反社による脅迫になる。
実際のところ多数の一般市民からの苦情や反社からの脅迫が原因で、このままでは来場者やスタッフの安全性が確保できない、という判断を主催側、キュレーターがすることで展示中止となっているものが多いようだ。
「表現の不自由展・その後」各作品の展示中止理由について調べてみた。
https://censorship.social/artists/
ちなみに「《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない」という言葉が津田氏のエントリーにも作品のキャプションにもあるが、これはかなり微妙な言い方で、「慰安婦像」という“名称”ではないものの、慰安婦を表現したものであり、日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で作られた一連の像のひとつであることは作者が明言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%8F
https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Peace
これらを見ると、多くの場合主催側やキュレーターが公共性や展示会の主旨を理由に展示中止しており狭義の検閲にはあたらないように見える。また、天皇関係のうち3作品は、富山県立近代美術館事件に関するもので、これは反社(右翼団体)による脅迫が契機となっている。
表現の不自由展実行委員会は、表現の自由 vs 公権力による検閲 という構図に見せたがっている。ただ公立美術館や芸術祭の主催自治体は、公権力というよりも主催側という立場であり、中止の判断も現在の体制では安全性が確保できない、公共性ポリシーに反するなどである。
そこを巧妙にすりかえて、「検閲」という強い言葉を使うことにより強大な国家権力に立ち向かうアーティストという演出をしている。
現代日本における検閲らしい検閲といえば、表現の不自由展実行委員会メンバーである永田浩三氏の受けたNHK番組改変問題があり、こういった経緯の作品があれば説得力は増したと思う。
ここからは完全に余談。
津田氏のエントリーには、候補として上がった作品として、会田誠《檄》や、鷹野隆大《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子《デコまん》シリーズが挙げられている。
鷹野隆大《おれとwith KJ#2》は男性器が写った写真を展示していたところ、通報されて警察から注意を受けたというもの。明確に違法な図画を作品としてクローズドな場所に展示するのはOKかNGかという議論は見たかった気がする。
ろくでなし子作品が展示スペースの都合で候補から落ちたという件、カヌーみたいな大きなものではなく手のひらサイズ(実物大?)のものもあるので、スペースなんかどうにでもなるだろうと思ったものの、慰安婦や天皇がらみの作品のすぐ横にデコまんがあったらそれはそれで別の意味が発生しそうなのでやむなしか。
掲示されていた「年表」にそれらが含まれているか知りたかったがよくわからない。ネットに上がっている写真を見ると「イケメン官能絵巻」の文字が見えるので「年表」にはエログロも含まれているのかも。誰か知っていたら教えてください。
あいちトリエンナーレで津田大介さんが監督の「表現の不自由展・その後」について、納得できない点を頭の整理を兼ねて書いてみます。
憲法上の「検閲」とは次の通りであり、本展における河村市長、官房長官のいずれの言動もこれに該当しないことは明らかなので、憲法上の検閲ではあり得ません。
「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」(判例)
したがって、本案件で「違憲」と言い出した者(例えば大村知事等)は明らかに失当です。というか憲法上は事前の規制を重く見ているため、事後的に批判した河村市長や官房長官(この二者には取り止めさせる権限なし)よりも事前に強く要請した大村知事(実行委員長として権限あり)の方が判例の趣旨からして危なそうです。
『あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告』を読んでもわかるように、津田大介さんは「検閲」という言葉を「何らかの理由により効率の美術館で展示できなくなったもの」と自らに都合よく恣意的に用いています。
憲法上の検閲でないとしても、この意味で検閲という強い言葉を用いることはミスリードです。本件の場合、事後的にも発表が禁止された事実はありません(あいちトリエンナーレ以外の場所で公表を続けることも十分可能です。)。
「公権力が,表現行為ないし表現物を検査し,不適当と判断する場合には発表を禁止すること。公表以前に行う事前検閲,公表後に行う事後検閲とに分れる。」(ブリタニカ国際大百科事典・コトバンク)
ヘイトスピーチ規制法の正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」とあるように、「本邦外出身者」をターゲットにしているため、本件展示が法律上のヘイトに該当しないことは明らかです。
(法律の規定する範囲が狭すぎる、という議論はあると思います。例えばDV防止法は成立当初、男性は被害者とは規定されていない法律でした。)
「自国であった負の歴史を思い起こさせる作品を展示することが、その国や国民に対するヘイトにあたるとは考えていません。」「大浦さんは昭和天皇の肖像は日本人としての自画像であり、天皇批判ではないとしています。」とあるように、津田大介さんは、自国民同士のヘイトは想定していないようです。
ただし、国民を分断し、他のグループにに対して差別的言動を行うことは十分に考えられます。
津田大介さんは、過去、RADWIMPSのHINOMARUという楽曲を「国威発揚」であるとして激しく批判をしています。また、そういった批判を受け、RADWIMPSは謝罪に追い込まれています。
更にTwitterにおいて『今後もどんどん「国威発揚」の依り代として芸術が利用(寄生)されていくんだろう』ともコメントしています。
昭和天皇の写真を焼く行為に比べてはるかに穏当(少なくともヘイト的な要素はありません。)なものに対してこのような反応を見せており、極めて左派的な思想であると思われます。
津田大介さんは「不自由展実行委によって拒絶」、「そのまま展示することはコンプライアンス的にハードルが高」(い)、「展示スペースの都合」という理由で、会田誠さん・鷹野隆大さん・ろくでなし子さんの展示はしなかったと言っており、言外に自身の政治思想は反映されていないことを含ませています。
少女像や昭和天皇の写真の焼却などが選定されたのは自らの意思ではなかったかのようです。
しかし、その一方で『約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。』(7/8北海道新聞インタビュー記事)とあるように自ら選定していったことを明かしています。
津田大介さんの言動をまとめると以下の通りになります。少なくともダブルスタンダードと言われることはやむを得ないでしょう。
1.検閲の意味は憲法どころか辞書よりも広くとるが、ヘイトの意味は狭く(法律通りに?)とり、いずれも自らに都合よく解釈した。
2.過去に保守的な楽曲に対して激しく批判し、更にそれに公金が用いられることに慨嘆したが、自らの政治思想に沿った展示を公金を用いて行った。
3.自らは中立かのように装いつつ、自らの思想に反する展示はテーマに合致したとしても排除した。
津田大介さんは今回の謝罪文で『自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっている』とコメントしています。
しかし、前述のHINOMARUに対する批判を行ったにも関わらず今回のポストが手に入れられたということは、少なくとも「日本が好きという者を批判しても言論界ではプラスにはなってもマイナスにはならない」ということを体現したと言えるでしょう。
数年前、レスリー・キーの写真展(写真展で販売された写真集)は猥褻物と判断され逮捕されたんだけど、Twitterなりぶこめなりで猥褻物ではなく芸術の範疇だ!と声をあげた人(アカウント)と今回の騒動でやんや言っている人と全然被らない。(5年も前だけど)少し探したくらいじゃ見つからない。
なので、表現の自由そのものについてそれほど関心ないんだろうなぁと思ってる。
ちなみに、私はレスリーキーのその写真は猥褻物という判断もやむなし、と考えている。というのは、ポルノグラフィーを下敷きとした写真だったから。ただ、美術というのは下敷きとか文脈を使って作品に意味を付けていくものだからポルノグラフィーに準えたからといって美術作品になり得ない、わけではないから猥褻物ではない、という意見も理解できる。
そもそもチンチンが外に出ているせいで不利なんだよな。ポルノグラフィーを下敷きとしても被写体が女性なら問題ない可能性が高くなる。
例えば、はてブでも話題になった鷹野隆大のやつは被写体が女性だったら問題にならなかった可能性が高い。一方でチンチンさえ出ていなければ問題なし、という
今、写真の勉強をしているが、写真家と呼ばれる人達が高学歴になってきたので学がない自分にとっては非常に辛い時代になってきた。
写真家と呼ばれる職業の人達が意外と高学歴が多い。ここでいう写真家とはプロカメラマンと呼ばれるような職種の人達ではない。
今でこそコンセプチュアルアーティストとも芸術家とも呼べるような写真家達だ。
以前は東京写真専門学校やビジュアル系専門学校卒やどこかのカメラマンのアシから写真技術を駆使しながらも作品を完成し、コンテストに応募し
優秀の美を飾るようなことがステータスだったが、ここ最近の写真作品はどれも現代アートのようにコンセプト重視となってきたため、写真技術だけ
ではなく写真と言葉、ステートメント、ポートフォリオの見せ方、プレゼンが重視になってきたように思える。
港 千尋ー早稲田大
奥山由之ー慶応義塾
木藤公紀ー東北大学
・・
そのほかにも最近の写真受賞をしている方を見るとコンセプトがしっかりしておりとても哲学的で視点が面白い。
プレゼンスタイルも高学歴だと簡単だし、コンセプト文章を作るのも簡単なのだろう。
勿論、これだけではないので東京芸大であったり、京都市立芸大、その他の多摩美、日大、武蔵美、大芸大なども
多くいるが、それらの人は芸大できっちりと教育を受けてきた人達ばかりだ。他にも海外で写真を学んできている人もいるだろう。
写真ポートフォリオレビューでもフランス人やアメリカ人のポートフォリオレビュアーが増えてきており、一通りに
まずは英語が最低でもできていないと自分の写真の意図が通じない。自分はF欄大卒であるが故に英会話はおろか人のステートメントさえ理解できない、
書けない、プレゼンすらできる能力もない。はっきり言う「バカ」だ。
「明るい部屋」や「写真論」を読んでもプンクトゥムも理解できず3行で寝てしまうという始末。
元々、コンセプト写真は海外写真家が活発に制作してきたものではあるものの、写真の技術とセンスはなんとかなるが、頭を使って文章を組み立てる
特に最近は写真家と名乗る人が少なくなってきており、写真=芸術とみなし、芸術家と自称する人も多いので写真家と呼ばれる人も少なくなってきたように
思えるし、InstagramやSNSの発達で従来の写真表現の在り方も日々変化しつつある。それらにもうついていけない。
写真集は集めてみるものの、どの写真が良いのかわからない。自分が良いと思った写真は周囲からは「そんな写真家の写真集が良いの?」
と揶揄される始末。マイナー・ホワイトやピーター・ウィトキンなどの写真には特に強く惹かれるが未だに「どこが良いの、そんな写真が。」と言われる。
マイナー・ホワイトが良いと言ってる時点で写真を見る目やセンスすらないのかもしれない。