基本データ | |
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正式名称 | 西方帝国(西ローマ帝国) 帝国(ローマ帝国) 神聖帝国 神聖ローマ帝国 ドイツ国民の神聖ローマ帝国 Heiliges Römisches Reich Sacrum Romanum Imperium |
国旗 |
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公用語 | ドイツ語 ラテン語(公文書など) |
宮廷 所在地 |
プファルツ(919年 - 1125年) シュヴァーベン(1138年 - 1208年 / 1215年 - 1254年) プラハ(1346年 - 1437年 / 1583年 - 1611年) ウィーン(1483年 - 1806年) |
主要 構成国 ・ 地域 |
七選帝侯領: マインツ大司教領 トリーア大司教領 ケルン大司教領 バイエルン公国 ザクセン公国 ブランデンブルク辺境伯領(後のプロイセン) ボヘミア王国(現チェコ) ネーデルラント イタリア王国(“帝国イタリア”、ほぼ北イタリア) ブルグント王国 オーストリア大公国 他多数(便宜上、現在の国旗を多数含む) |
神聖ローマ帝国(800年/962年 - 1806年)は、中世から近代にかけて、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部を中心に存在した国家。
フランク王国または東フランク王国を前身とする。ドイツ王国やその周辺の国々の集合体であり、端的に言えばドイツ諸侯らの寄り合い所帯である。末期にはドイツ帝国と呼ばれていた……
時代によるものの、この国はローマ教皇により(西)ローマ皇帝の位を授けられた君主を戴いていた。それ故この国は西ローマ帝国(ローマ帝国西方)の継承国と称していた。
ローマ教皇やキリスト教(ローマ・カトリック教会)への庇護を前提として成立したため、キリスト教(カトリック)国家でもあった。
なお、15世紀以降はハプスブルク家が帝位を世襲したため、本項ではハプスブルク家に関する歴史も記述する。
教皇により「ローマ皇帝」と認められたドイツ王が、ドイツやその周辺の領邦を統治した帝国、それが神聖ローマ帝国。
有り体に書くならそんなところである。なお、ここでいう「ローマ皇帝」とは、476年に滅んだ「西ローマ帝国」の後継者という意味である。そして「領邦」とは、主にザクセンやバイエルンなど、現在のドイツにも残る諸州を指す。
しかし分かりにくい。この帝国の曖昧さほど稀有なものはそうないだろう。何が神聖なのか? どこがローマなのか? 果たして帝国だろうか? 世界史上に確かに存在し、けれでも実像を掴み難い、この国はしばしばそんな印象を持たれるのである。
有名なヴォルテールの批評がまた、それに拍車をかけている。
Ce corps qui s'appelait et qui s'appelle encore le saint empire romain n'était en aucune manière ni saint, ni romain, ni empire.
Voltaire: Essai sur l'histoire générale et sur les mœurs et l'esprit des nations, Chapitre 70 (1756)
神聖ローマ帝国と自称し、そしていまだにそうしているこの集団は、
いかなる点においても神聖でもなければ、ローマ的でもなく、ましてや帝国ですらない。
単純に言えば、神聖ローマ帝国とは、冒頭にもあるようにドイツ諸侯らの寄り合い所帯であった。語弊を恐れずに言えば、「ローマを名乗るドイツ王国+α」といっても良い。ドイツやその周辺の半独立国が寄り集まって出来た国と見て間違いない。
したがって、諸侯は強く、半ば独立していたか、あるいは皇帝の言うことをタダでは聞かなかった。それ故、皇帝の権力は時代にもよるがやや脆弱であった。一定の宮廷所在地があったとしても、皇帝自らが国内各地を武力で平定したりパトロールしたりすることで、やっと玉座にあることが出来た、といった場合も多々あった(旅する王権)。
そのため、皇帝は帝国全土を何とか把握し治める為に、諸侯ではなく各地の教会を頼り、さながら市庁舎のごとく利用した。
が、教会を帝国の統治機構としたがために、教会の親玉であるローマ教皇と熾烈な権益の奪い合いをする宿命を背負うことに(叙任権闘争など)。
ところが帝国と教皇は単にライバルという訳ではなかった。というのも、後述するがそもそも神聖ローマ帝国はローマ・カトリック教会を守護することで初めて成立していたからである。また、皇帝が「ローマ教皇から直接帝冠を授かる(=ローマ皇帝として承認される)こと」に強いアイデンティティを見出していたので、教皇は少なくとも当初は無くてはならない存在でもあった。教皇による帝冠授与によって神聖ローマ皇帝位の威光は凄まじく、隣国フランス王国の嫉妬を買うほどであった。
帝国は複数の国の集まりであったが、その構成国や領域はとにかく多かった。主にドイツ王国、(北)イタリア王国、ボヘミア王国(現チェコ)からなり、盛期には現在のドイツ・オランダ・ベルギー・東フランス・スイス・西ポーランド・チェコ・オーストリア・クロアチアに加え、ローマを除く全イタリアにまで至る大帝国として西欧に君臨した。帝国は13世紀までは西欧の最強勢力だったのである。
14世紀以降も、帝国はヨーロッパに強い存在感を放つ主要国で在り続けた。特に16世紀、帝国はハプスブルク家の政略結婚を通じて地球規模の財力と繋がりを得ていた。
ローマ教皇の腐敗と堕落が、活版印刷の普及とルターらの訴えを通して全土に浸透し、民衆が聖書を直接読んだり考えたりできるようになると、国内ではキリスト教の新たな教派であるプロテスタントが成立した。それは瞬く間に国中に広まり、帝国はカトリックとプロテスタントで2分された。
国内不統一は周辺の強国の介入を招き、ついに1648年、神聖ローマ帝国はヴェストファーレン条約により「独立国の集合体」となってしまった。
以後、“神聖ローマ帝国という連合体”は、事実上、各ドイツ諸侯らが一致団結して事にあたる連盟となった。当初は緩やかな繋がりの下うまく機能していたが、18世紀に入り、帝国内でオーストリアとプロイセンが著しく力を付けるにつれ、特にプロイセンが皇帝も兼ねるオーストリアに対抗できるようになると、はっきりと崩れていった。当時においては既に神聖ローマ帝国とは名ばかりの亡霊であり、ついに19世紀初め、フランス第一帝政の攻撃によって瓦解し滅亡した。
西ローマ帝国を継承するフランク王国を受け継いだという立場上、自らを唯一正統なローマ帝国と自認する東ローマ帝国とは「ローマ」として認め合うことはなかった。
東ローマはこの国をローマ帝国とは認めず、神聖ローマ皇帝をローマ皇帝とはみなさなかった。一方で神聖ローマ側は自らを西ローマ帝国ないし(古代)ローマ帝国とし、皇帝位もローマのそれを受け継ぐものとした上、東ローマ帝国やその皇帝を「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの皇帝」と呼んだ。
要するに「教皇によりローマ帝国と称するドイツ連邦王国」である。
ローマ・カトリック教会を保護することによって、初めて成立し、ローマを名乗るが故にイタリア遠征にとらわれ、またそれ故にローマ教皇との軋轢を生んだ、ドイツ王が統治するドイツ周辺の国々、それが神聖ローマ帝国であった。漠然と捉えられることも頷けよう、この国は成立過程や背景そのものが複雑なばかりか、確固たる独自性を初めからは有していなかったのである(少々言い過ぎではあるが)。
とはいえ神聖ローマ帝国が、800年あるいは962年から1806年までの長きにわたって、西欧唯一の帝国として存在したのは事実である。国内不統一や疫病のペスト、そして教皇や諸侯との泥沼の関係にもがいたこの国は、西欧史上、確かに存在していた。
「ローマ」でもなければ「帝国」でもないとか言われるわけであるが、注意を要するのが「ローマ帝国」は「ローマ帝国」なのである。都市「ローマ」を首都とする「帝国」ということではない。何を意味するのかというと、西洋世界における主要宗教であるキリスト教は布教の過程で古代ローマ帝国と結びつき、ローマ帝国は終末までの最後の帝国であるし、ローマ皇帝は地上における神の代理人でキリスト教世界全体の後見人である、といった具合となった。つまり、「ローマ皇帝」はキリスト教やその信徒を庇護し、指導するといった職務が本分になりつつあったのである。オドアケルにより西ローマ皇帝位が東ローマ帝国に返還・統合されて以降の中世(古代末期)地中海世界でその職位に就いているのは東ローマ皇帝のみ、即ち東ローマ帝国(コンスタンティノープル)が西欧を含む全キリスト教世界に対して指導力を発揮していたのである。「ローマ」「帝国」って何?と疑問に思うかもしれないが、そのような神学的・精神的な事情が存在していたことを念頭に置いておこう。
8世紀も後半の当時、ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位:772 - 795年)は、ランゴバルド王国の攻撃に苦戦していた。ランゴバルド王デシデリウスのローマ侵攻は770年からのことであったが、773年、教皇ハドリアヌス1世はフランク王国のカール(シャルルマーニュ)に援軍を要請する。
なお、カールはトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてイスラム軍をイベリア半島に追い返したカール・マルテルの孫にあたり、教皇にイタリアの領地を与えたマルテルの子ピピン3世の息子でもあった。つまりカールはローマ教会を守護する一族の申し子なのである。
フランク王カールの進軍はアルプス山脈を越え、ランゴバルド王国へと迫る。そして774年、カールは見事ランゴバルド王国の首都パヴィアを占領し、デシデリウス王を拘束、捕虜とし、まもなくその王冠と王位をはく奪した。カールはランゴバルド王となり、ローマ教皇の保護を約束するばかりか、ローマ教会へ中部イタリアの地を寄進した。これがいわゆるローマ教皇領である。
こうしてローマ教会の安息はカールの手により実現された。しかし教会の世俗的欲求、つまり野心はまだおさまらない。
8世紀も末の当時、地中海およびヨーロッパ世界は東ローマ帝国を唯一最大の「帝国(=ローマ帝国)」としていたが、ローマ教会と教皇は、ぶっちゃけ早いところ東ローマ帝国とはおさらばしたかった。そして、一刻も早く東ローマ帝国を頂点とする世界から抜け出て、自らが精神的頂点となる新しい世界(=後の中世西欧世界)を創りたかった。
その理由は2つあった。
カールがローマ教会を保護した8世紀末、東ローマ帝国は女帝エイレーネー(在位:797 - 802年)が治めていた。エイレーネーは東ローマ初の女帝である。ローマ教会は「女性が元首となった時点で東ローマ皇帝は断絶した」とし、自らの手で新たな「ローマ帝国」を創造、東ローマ帝国から離別しようと企てた。
そんな折、新たにローマ教皇となったレオ3世(在位:795 - 816年)は、反対派の諸侯から命を狙われるまでに至っていた。教皇レオ3世は799年に逃亡するが、このとき彼を匿ったのが、かの教会の守護者カールだったのである。ランゴバルド王国からの防衛、教会の守護、教皇への中部イタリアの寄与、そして教皇を庇護――これらカールの武勲は、教会にとり至高の賜物であった。これが後に、カールの戴冠へと繋がるのである。
「神により戴冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル」
並びなき功績により、彼はレオ3世により「ローマ皇帝」として戴冠した。カール大帝である。
これは明らかに「ローマ帝国の復活」を意味する大事件であった。確かにカール大帝本人はフランク王国のゲルマン人だが、当時、「ローマ皇帝」とはキリスト教世界の統治者を意味していたから、民族的差異は些細なことだったのである。
カールの戴冠。これはローマ教会が、東ローマ帝国から離別し、また東ローマ帝国とは別の「ローマ皇帝」を戴いたことを意味している。また、西欧において初の「帝国」が誕生したという観点からまた、ヨーロッパが東ローマ帝国による一元的な世界ではなくなったということをも、意味しているといえよう。
しかし、カールがこの「西ローマ帝国」構想にどの程度乗り気であったかは緒論ある。カール本人はクリスマスの祝いの為に来ていただけであり、「こんなこと(戴冠)されるなら来るんじゃなかった」と言っており、さらに、教皇からしたら離別した筈の東ローマ帝国にあれやこれや働きかけ、先の女帝エイレーネーに結婚まで持ちかけて、ヴェネチアと南イタリアの統治権と引き替えに漸く「皇帝」の位を手に入れている(「ローマ皇帝」の位ではないことに注意)。
こののちも、カール大帝の後継者は「皇帝」称号を帯びるたびにコンスタンティノープルまで承認を求め、時には東ローマ皇族との婚姻を模索し、教皇庁(当時は一般的にイメージされるような絶対的な宗教組織ではなく、都市ローマ貴族の集合体のような有様であった。)もフランク帝国崩壊後は東ローマ帝国との関係を強化するなど、かつてのような絶対的存在ではないにせよ東ローマ帝国の指導力はこののち暫く続く。
カールの戴冠に於いて、ローマ教皇が戴冠の根拠としたのが「コンスタンティヌスの寄進状」と言われるものだった。コンスタンティヌスとはあのコンスタンティヌス大帝だが、この手紙の内容は大帝がローマ帝国西部をローマ教皇に譲るというものである。然し、コンスタンティヌス帝以降も、西ローマに皇帝が立っていることを考えれば、当然これは偽書である。
しかし、西欧で疑問が出されたのが、15世紀。最終的な決着は18世紀にまでもつれ込み、それまでの間、教皇権が皇帝権に優越する根拠となった。そのため、後の叙任権闘争の際にも持ち出され、中世の間、或いは神聖ローマ帝国がその実を失うまで効力を保った偽書となった。
さて、カールを戴く新ローマ帝国、すなわちフランク王国は当初、イベリア半島や北アフリカを除き、西ローマ帝国の領域を再現していた。しかし、843年にカールが死ぬと彼の孫達は、ローマ帝国の伝統ゲルマン民族の伝統に従って、ヴェルダン条約を結んで王国は三国に分裂、その領土は西部・中部・東部に分配された。次いで870年、メルセン条約により中部の北半分が西部と東部に割譲された。884年に一度統一が成されるのだが結局また、ローマ帝国の伝統ゲルマン民族の伝統に従って、分割され、現在のフランス(西部)・イタリア(中部)・ドイツ(東部)の原型を生んだ。後世への影響を考慮すれば、これもまた西欧の大事件といえよう。
後に、それぞれの王国はカールの直系が死亡したことによりカロリング朝は断絶。西フランク王国はカペー朝が、東フランク王国はザクセン族から、イタリア地域は周辺の有力者が、それぞれ王となった。
神聖ローマ帝国がより分かりやすく歴史に登場するのは、このザクセン族からの王オットーの戴冠によってであった。
青臭く、それゆえ教皇領の拡大を無理矢理に敢行したローマ教皇ヨハネス12世(在位:955 - 964年)は、当時のイタリア王ベレンガーリオ2世の反対にあい、侵攻さえ受けていた。ヨハネス12世はこの窮地を脱するべく救援をと考えたが、その相手が東フランク王たるオットー1世(在位:936 - 973年)であった。まもなくオットー1世は教皇領を守護し、ローマ教会へ恩を売る形となる。これが962年のオットーの戴冠へと繋がった。
しばしばオットーの戴冠は神聖ローマ帝国成立の契機とみられるようである。しかし、教皇庁やその周りの知識人が『コンスタンティヌスの寄進状』をもとにオットーの「ローマ皇帝」を宣伝したのに対し、オットーはあくまで自らの出自を自覚してか、「ローマ皇帝」ではなく単なるフランク人の皇帝として自らを見ていた。イタリアを支配した君主が教皇庁より「皇帝(≠ローマ皇帝)」に戴冠されるという事例は直近10世紀前半まで続いており、オットーの戴冠もその一つであると認識されていた。
とはいえオットーの戴冠をもって、ゲルマン的な西欧帝国が成立したことは事実であった。神聖ローマ帝国をドイツ史の一時代として見るならば、オットー1世の代で誕生したと見てよいだろう。
かくして800年のカール大帝同様、皇帝として即位したオットー1世。だが彼はカール大帝のようなローマ教皇に利用される立場ではなく、むしろローマ教皇をも下す権力者の道を行く。962年の戴冠式はオットー主導であり、彼は教皇に対し臣下の礼をとらせたばかりか、教皇選出の際の承認権をも勝ち取ったのである。
無論ローマ教皇とて――破門を恐れずに言わせていただくと――当時は世俗領主としての顔も持ち併せていたのだから、こんな状況糞くらえなのである。世界一位になりたいのである。というわけで教皇ヨハネス12世はなんと宿敵であったベレンガーリオ2世と結託、さらには犬猿の仲である東ローマ帝国や、ハンガリーとも結び、反オットー1世包囲網を画策した。オットー1世の野望は頓挫したかに見えた。しかし……
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.四重冠... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは蛮族やギリシアの懐古主義者と話し合っていたら
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ いつのまにかただの年寄りになっていた』
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも何をされたのかわからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 国王だとか教皇だとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしい根回し外交を味わったぜ…
ところがこのオットー、強かである。包囲網の実行前にはすでに、ヨハネス12世とべレンガーリオ2世をその玉座から引きずり下ろし、傀儡教皇を輩出、さらには空席となったイタリア王位をちゃっかり獲得してみせたのである。これにより皇帝はドイツ王国とイタリア王国を統治し、教皇庁をも監督する、大君となったといえよう。
ドイツ王、それは神聖なるローマ皇帝。神聖なるローマ皇帝である以上、ローマを所領せずして何たるか!
当時の帝国は異様なまでに「ローマ」に執着した。というのも、この国の皇帝は西ローマ帝国の再興者であるが故に、心の都たるローマを強く欲したのである。彼らドイツ人の皇帝たちは、ローマに付加価値を求め、ローマ教皇による戴冠を非常に重要視した。
ところが初期のザクセン朝君主たちは、ローマ教皇や聖職者達とは対照的に皆が皆、自らを「ローマ皇帝」と号さず、帝国公文書にも「ローマ帝国」とは書き加えなかった。また国号も単に「帝国」であった。「ローマ帝国」が公の姿となるのはオットー3世(後述)の時世からである。
さて10世紀ごろの帝国は、統一された国家とはいい難い様相を呈していた。ゲルマン民族による部族連合、といえば良いだろうか。皇帝独裁の東ローマ帝国とは正反対で、神聖ローマ帝国はドイツ連邦の盟主、といった具合で君臨していたのである。皇帝府は各領邦に対し、教会を通じて緩やかに統合したが、これはともすれば教皇の反旗しだいで帝国が瓦解する危険性を孕むということでもあった。
オットー1世、2世、3世と代は続き、反乱の耐えぬ北イタリアへの遠征もひたすらに続いていった。皇帝はその都度戦費の確保のため、諸侯に「婚姻による領地拡大を許す特権」を与えていった。すべては「ローマ皇帝」としての権威のためであった。
同様に、帝国の権威を裏付けるために別の事業も行っている。唯一の先駆者であり、最大のライバルとなる東ローマ帝国からの承認である。オットーはコンスタンティノープルに複数回使節を派遣、「皇帝」称号の承認と両宮廷間の婚姻を提案した。しかし、時の東ローマ皇帝ニケフォロス2世はたかがザクセン人の王が一足飛びに「ローマ皇帝」を名乗ることなど侮蔑であると一蹴、東ローマ帝国が保持していた南イタリア領土にオットーが攻撃を加えたことも相まって「皇帝」称号の承認も婚姻同盟も成立しなかった。ニケフォロス2世がローマ帝国の伝統宮廷クーデターにて殺害されると、西方国境での対立を厭んだ(当時の東ローマ帝国は全盛期に向かっており中東・レバントに大きく戦線を広げていた)新皇帝ヨハネス1世チミスケスにより、東ローマ皇女テオファノの、オットー1世の息子オットー2世への降嫁と、ローマではないが「皇帝」称号の承認を得て、やっとのことで対東ローマ問題は解消された。
オットー2世とテオファノという”ゲルマンとギリシアの高貴なる血から出で”、ゲルマン・東ローマそれぞれの世界理念に親しんで成長したオットー3世は自らを西方にて復興したローマ皇帝と確信しており、精力的にイタリア遠征や布教などを行うも僅か21歳の若さで薨去。復興しかけた「ローマ帝国」に暗雲が漂う。
後にバイエルン公ハインリヒが皇帝として即位、ハインリヒ2世となる。彼が掲げたのは「ローマ帝国の再興」ではなく「フランク王国の復興」であった。1024年、そんな彼もまた後継ぎを残さず死去し、ザクセン朝は断絶。帝国は選挙により皇帝を選出するようになる。
マインツ、ケルン、トリーア、プファルツ、ブランデンブルク、ザクセン、そしてボヘミア王……後の大空位時代に権力を握り始める彼ら七選帝侯の胎動は、このときすでに始まっていたのかもしれない。
ザクセン朝の嫡男なく、次期皇帝はオットー大帝の血を引くフランケン公、コンラート2世が務めることとなった。ここにフランケン地方を首府とする、ザリエリ朝が始まった。
かつてヴェルダン条約によって成立した中部フランク王国の遺産、ブルゴーニュ王国を、コンラート2世は王家断絶を機にかっさらう。これにより帝国皇帝は「ドイツ王、イタリア王」に加え「ブルゴーニュ王」とも名乗れるようになった。
なおブルゴーニュ地方の一部はフランスの所領のままであったが、当時のフランスはカール大帝の血統すなわちカロリング朝を断絶させ、カペー家によるフランス独自の道を歩み始めていた。フランスはもはや、ドイツの帝国からすれば、「ローマ帝国の後継」ではなくまたその意識もない、フランス王国となっていたのである。
こういった考えと帝国の拡大は、コンラート2世に自信を持たせるに十分であった。ここで遂に、彼をして帝国は「ローマ帝国」と名乗り始めるのである!
もちろんただ夢を見ていただけの時代ではない。コンラート2世はまた、イタリアと教皇庁が沈静化したことを好機とし、その目を国内へと向けた。ようやく腰を据えて内政ができたのである。彼はザクセン朝から続く教会による帝国統合をより強化し、有力司教領を帝国直轄地とし、さらに王領地を拡大させていった。衰微していく皇帝権は「ローマ」の名を得るとともに、実質的な強化がなされていったのである。
コンラート2世の後を襲った息子ハインリヒ3世は、ザクセン朝が残した諸侯に対する特権を利用し、シュヴァーベン公領とバイエルン公領を獲得し、東方のボヘミアとハンガリーを屈服させた。
これにより皇帝は、ボヘミアとハンガリーの宗主たる、ドイツ王、イタリア王、ブルゴーニュ王、フランケン公、シュヴァーベン公、バイエルン公となったのである。中世西欧にあって、隣国フランスがいまだ微弱な王権に甘んじているにも関わらず、ドイツの皇帝はすでにこれだけの権力基盤をものにした。地中海世界において、東ローマ帝国が東欧の覇者ならば、ハインリヒ3世治世下の「ローマ帝国」は西欧の帝王だったのである。
ハインリヒ3世はまた、その強権によって実に3人ものローマ教皇に廃位や辞任を進めるなりして、傀儡であるクレメンス2世を新たなローマ教皇とした。加えて1045年、ハインリヒ3世はザクセン公領の主を弱体化させようとし、自身の直轄領を何食わぬ顔でザクセンに建設した。皇帝直属地はザクセン公領の経済的負担を増大化させたため、ここでザクセン公との確執が生まれてしまった。
事が動いたのはハインリヒ3世の死後である。
3歳児のドイツ王ハインリヒ4世は諸侯の政治的傀儡と化し、母親は摂政となりせっかくの王権は弱体化。当時の教皇ステファヌス10世は帝国の政治にまで干渉し、ハインリヒを廃してでも自らの兄を皇帝にしようと画策していた。
1073年、そういった渦中で先のザクセン公らの反乱が勃発(ザクセン戦争)。皇帝派対ザクセン公陣営の対立は叙任権闘争の終結まで続く。
さて、神聖ローマ帝国といえば、領邦の連合体である。国家としての統一を図る上では、頂点は一つの方が良い。しかし、このころすでに帝国内では、皇帝によるものと教会・教皇によるもの、というように二つの頂点が生じていた。皇帝が「あれしたいこれしたい」といっても、諸侯は「でも教会側の決定も待たないと」といった風に、直接浸透しなかった(※あくまで例)。
成人したハインリヒ4世は、国内統率のため「聖職者の叙任権は皇帝にある」と豪語した。これに見かねた時の教皇グレゴリウス7世は、「遺憾である。教皇である以上は、聖職者の任命権は私にある」として、真っ向から対立した(叙任権闘争)。聖界をも支配せんとする皇帝と、世俗による教会支配から脱却せんとする教皇との対立が、ここに表面化したのである。
グレゴリウス7世は即刻ハインリヒ4世を破門(仏教徒が成仏できないと宣言されるようなもので、人権や存在を否定されるにほぼ等しい。中世の西欧キリスト教社会では死よりも恐ろしい)した。そもそも神聖ローマ皇帝とはキリスト教世界の守護者でなければ務まらないので、破門されて反キリスト教徒の烙印を押されてしまうのは大変な痛手なのだ。
これにびびったドイツ諸侯もハインリヒ4世を廃位させようと動く。そろそろ危ない空気に気づいたハインリヒ4世は、もう自分に従う臣下がほとんどいないことを知ると、グレゴリウス7世に赦してもらうため(ぶっちゃけ皇帝権を回復させたいだけなんだけどねー)、泣く泣く雪の中カノッサ城まで赴いて、3日間DO☆GE☆ZAした。カノッサの屈辱である。
「あ、あなたがそこまでするなら、べ、べべ、別に赦してあげてもいいわよ……!」
何とか赦してもらえたハインリヒ4世は高を括り、ドイツ諸侯を十分叩いた後、なんと再度ローマ教皇へ向けた軍を再編、イタリア遠征を開始した。恩を仇で返す皇帝。まさに外道。ちなみにグレゴリウス7世は亡命先で客死した。
大変気の毒である。
この時点に限ってみれば、叙任権闘争はハインリヒ4世による政治的勝利といえた。が、ハインリヒ4世がいかに強気に出ようと、皇帝が教皇に頭を下げたという事実は原則覆らないので、この件に関していえば、皇帝よりも教皇が偉いということが証明されてしまった。もう取り返しがつかない。
962年のオットーの戴冠以来、皇帝権は教皇権に対しある程度優位か対等であったが、これを期に両者の立場は逆転していく。
権勢を極めたザリエリ朝の権威にも、ついに終わりの時が来た。
ドイツ諸侯は、利益を求めて皇帝に立てつき、教皇と結んだのである。ドイツ領邦内ではハインリヒ4世の娘婿らが相次いで担ぎ上げられ、彼の対立王となった。それに加え、なんと彼の実子さえ矛先を彼に向けた。ハインリヒ4世は長男と後妻の結託により幽閉され、ほどなくしてこれを脱し、次男を次期皇帝ハインリヒ5世とするが、今度はこのハインリヒ5世によって裏切られ、1106年、それが祟って急死した。
1122年、皇帝となったハインリヒ5世と教皇との間に結ばれたヴォルムス協約により、聖職者の叙任権は教皇が有することとなった。こうして、叙任権闘争は皇帝側の事実上の敗北によって一応の解決を見た。皇帝権の失墜は確かなものとなったが、他方、教皇側についていた諸侯も権益を得られなくなると見切りを付け、今度は教皇と対立していった。
1125年、後継なきハインリヒ5世の死によって、ザリエリ朝は断絶した。ザクセン公ロタールが次期皇帝になる形で、叙任権闘争と平行して続いていたザクセン戦争もここに終結した。
ロタールが没した後、次期皇帝位は、ザリエリ朝の忠臣としてシュヴァーベン公であったホーエンシュタウフェン家(以下、シュタウフェン家)に移った。しかしドイツ諸侯はシュタウフェン家の強大化を恐れ、対立王としてロタールを担ぎ、即位させた。1131年に教皇に対して臣下の礼をとったロタール3世だったが、37年、嫡子なくこの世を去った。
すると今度はバイエルン公かつザクセン公のヴェルフェン家が皇帝位を要求、しかしこれも皇帝の独走を禁忌とする諸侯によってもみ消された。こうして帝位は廻り、再びシュタウフェン家、コンラート(3世)のもとにやってくる。シュタウフェン朝の成立である。
初代コンラート3世を継いだのは、後に赤髭(バルバロッサ)の渾名で呼ばれるフリードリヒ1世であった。人々はシュタウフェン・ヴェルフェン両家の血を受け継いだ彼に希望を見出すが……
商業により栄えに栄えていた北イタリアの都市同盟、ロンバルディア。1154年、ドイツ王かつイタリア王である皇帝フリードリヒ1世は、己のイタリア王位を認めぬミラノ、ロンバルディア都市同盟に遠征した。が、失敗。
ところが第2次、第3次と遠征を繰り返すうちに彼はボヘミア王・ハンガリー王をも従え、10万の軍勢を手駒としていた。1158年のことである。ミラノをはじめ北イタリアの都市は「ローマ」皇帝権を認めざるを得なくなり、フリードリヒ1世に貢納金を捧げざるを得なくなった。
もっともその貢納金とやらが高額すぎたためか、北イタリアは再び皇帝に反旗を翻す。しかも今度は教皇の後ろ盾付きだ。ここにきてフリードリヒはミラノを敵国宣言し、3回に及ぶ徹底的な包囲を敢行、1162年、同市を破壊し尽くした。しかしそれでも再熱した教皇との確執、および北イタリアの混乱は収まらない。
少し戻って1157年、かつてロタール3世が臣下の礼をとったことをいいことに図に乗っていた教皇ハドリアヌス4世は、皇帝宛の書簡にて「帝国は教皇庁の封土」と述べた。もちろんドイツの皇帝はキレる。ましてや相手はイタリア都市を破壊しつくす男、フリードリヒ1世バルバロッサである。
流石にフリードリヒはこのあからさまな――破門を恐れずに言うと――邪知暴虐な横暴に耐えかねて、反教皇の姿勢を示す。曰く、教皇には世俗権力に介入する権利はなし。曰く、皇帝は神により世俗を統治していると。そして帝国は、「教皇ではなく」神により聖別されているというのだ!
かくしてフリードリヒは帝国を「神聖帝国」と命名した。これはひとえに、教皇の神権政治への否定からくるものである。皇帝は教皇などにではなく神により冠を授かるのだと。
さらに、「バルバロッサ」は僅か4歳の息子を共同統治者につけ、シュタウフェン家の世襲をアピールしたためか、ドイツ領邦においても反乱因子が発生していった。諸侯から軍を調達できなくなったフリードリヒは、傭兵を軍の中心に据えるようになるが、くしくもこれが欧州における傭兵の流行の先駆けとなった。
第四次遠征も失敗に終わった。戦後、フリードリヒは父の代から軋轢のあったヴェルフェン家のハインリヒ獅子公を戦犯とし国外追放(1180年)、これにより諸侯を牽制しつつ広大な領地の没収に成功した。なんと遠征の失敗が皇帝の権威をドイツ内で高めたのである。今までの諸侯に悩まされる「ローマ皇帝」とは違い、このバルバロッサはあくまで皇帝として諸侯を支配下においたのである。すごいぞ! でも遠征失敗したんじゃ・・・
帝国はいまだに「神聖ローマ帝国」と名乗るだけの権勢を誇ってはいなかった。
フリードリヒはドイツ内を平定後、神聖帝国の理念のもと、1190年に第三回十字軍を率い、旧東ローマ帝国領アナトリア半島へと赴く……がしかし! そこの川で溺れた! 意外! それは溺死ッ!
バルバロッサとは何だったのか。
バルバロッサの後継ハインリヒ6世は、南イタリアのナポリ・シチリア両王国より王女をもらい、婚姻関係を結ぶことに成功した。ナポリ・シチリア両王国とは、1066年にイングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)した、あのノルマン人による征服王朝である。12世紀も終わりつつあった当時、その両王国には嫡子がおらず、したがってナポリとシチリア島は皇帝家たるシュタウフェン家に譲られることになる。
1197年、ハインリヒ6世が崩御すると、わずか3歳の息子が即位、後世「玉座上最初の近代人」とも称されるフリードリヒ2世となる。この時点で彼はドイツ王・イタリア王・ブルゴーニュ王はもちろん、ナポリ・シチリア両王にもなり、4王国を統べる大権を有したことになり、地理的に挟まれ圧倒されるローマ教皇としては悪魔のような存在であった。
が、もちろん3歳の彼は摂政の道具として諸侯に欲される。叔父にあたるシュヴァーベン公フィリップは摂政となるべくイタリアへ挙兵、またシチリアにいたシュタウフェン家の家臣も権力を要求。ここで母后のシチリア女王は宿敵の教皇に頼り、仲介役を引き受けさせた。当時の教皇といえば、かのインノケンティウス3世、即ち教皇権の絶頂期に君臨する大教皇である。その仲介によりシュヴァーベン公をドイツ王にすることになり、教皇がシチリアの宗主となってしまったが、フリードリヒ2世(4歳)の権力の正当化にはある程度成功した。
かくして教皇は帝国とナポリ・シチリア両王国の同君連合を阻止した。これで教皇権に匹敵する者はいなくなった……かに見えた。
フリードリヒ2世を洗脳すべく、教皇インノケンティウス3世は優れた家庭教師を送り込んだ。ところがこれが教皇の失態となる。幼君フリードリヒはひたすらに勉学に励み、ラテン語など6ヶ国語をマスターし、乗馬や槍術をこなしていった。それは教皇にとっては完全なる誤算であった。
1208年、ドイツ王であった叔父のシュヴァーベン公フィリップが暗殺されると、フリードリヒはドイツ王としても即位……するはずだったが、ここで大権有するインノケンティウス3世がかのジョン欠地王の甥(これまた宿敵ヴェルフェン家)を対立王として擁立し、オットー4世としてドイツ王につけた。さらに教皇は勅書により、皇帝の選出には教皇の承認が必須とした。当然ながらシュタウフェン家は反発し、ドイツは内乱となる。
オットー4世は宿敵シュタウフェン家を失脚させるべく、教皇からの恩を仇で返す形でシチリア(教皇が宗主のシュタウフェン家領)へと侵攻した。これによりインノケンティウスは必殺技の破門を発動、瞬く間にオットー4世は求心力を失い、ドイツ諸侯もフリードリヒ2世側についた。
こうして1215年、フリードリヒ2世はようやく正統なドイツ王となる(20歳)。しかし代償に、シチリア王位は息子ハインリヒに譲るよう、教皇に強いられたが。翌年、教皇インノケンティウス3世はフリードリヒ2世の十字軍参加表明に満足し、この世を去った。ひとまずは帝国とナポリ・シチリア両王国の連合は阻止された、はずである。
1220年、フリードリヒ2世は亡くなったインノケンティウス3世との約束を無視し、息子のハインリヒをドイツ王につけ、さらに自らはシチリアへと帰還した。この際フリードリヒは聖界諸侯を味方につけるべく、教会領の支配権を認めている。
ナポリ・シチリア両王国の再建に忙殺されるフリードリヒだったが、しかし十字軍に一向に参加しない彼へ教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせた。1228年、フリードリヒ2世はしかたなく4万のドイツ軍を率い遠征するが、疫病の流行により聖地にもいかず中止した。無政府状態のシチリアをはやく何とかしたかったのだろう、しかしグレゴリウス9世はそれを「仮病」とし、なんとフリードリヒ2世を破門。
1229年、破門にあった彼は再び十字軍を指揮するが、そこで彼は戦わずしてアイユーブ朝から聖地イェルサレムを獲得した。どうやらフリードリヒ2世の反教皇姿勢とイスラームの学問への敬意、そしてアラビア語を流暢に話してくれたことがアイユーブ朝スルタンにうけたらしい。またスルタンが内乱地イェルサレムをどうにか処理したかったというのも大きいだろう。ともあれフリードリヒ2世は新たにイェルサレム王にもなった。
フリードリヒ2世治世下の帝国は、ドイツ王国・イタリア王国・ブルゴーニュ王国・ボへミア王国、そしてナポリ・シチリア両王国とイェルサレム王国を包摂する、まごうことなき大帝国へと膨れ上がった。そんな折、彼が抱いた夢はキリスト教による神聖なるローマ帝国の復興、ではなく、多宗教・多文化の古代ローマ帝国の復活であった。
フリードリヒ2世は首府をシチリアのパレルモに置き、アラビアとは融和な姿勢を見せ、教皇庁には断固として屈しない構えであった。これは教皇による神権政治への強い否定となり、それが彼をして古代ローマ帝国こそが至高と考えさせたのである。1230年に破門を解かれた彼は、翌年にはドイツ諸侯に特権を与えることで、かえって諸侯が皇帝にではなく諸侯同士で足を引っ張り合う環境を誘発、さらに皇帝と諸侯による緩やかなドイツ統治を実現した。
皇帝と総督の統治という、古代ローマ帝国の体制は復活したかに見えた。しかし1234年、いつまでも「ドイツ総督」であることを拒んだフリードリヒ2世の長男ハインリヒは父に反旗を翻す。これに教皇グレゴリウス9世とミラノをはじめとするロンバルディア都市同盟も加担するが、ドイツ諸侯は皇帝フリードリヒ2世より賜った権益を理由に皇帝軍についたため、この息子の乱はあっさりと鎮圧された。まもなくしてハインリヒは自害する。
教皇は再び破門で脅しにかける。しかしフリードリヒもフリードリヒで、教皇の公会議出席者は皇帝の敵と宣言、まもなく教皇グレゴリウス9世の求心力は削がれていった。以後2人の教皇が続くが、フリードリヒの介入により教皇庁の反撃は成功しなかった。
だが教皇庁もただただ黙っているたまではない。1243年、新教皇インノケンティウス4世の即位がそれを明確にした。インノケンティウス4世はフランスのリヨンに逃亡後、「偽皇帝フリードリヒの廃位」を宣言、さらに、教皇による皇帝選出の優位性を主張した上で、フリードリヒに対する十字軍を提唱した。ドイツ・イタリア中の全キリスト教徒らが敵に回る中、フリードリヒはイスラム教徒からなる皇帝軍で対抗した。一方で新たにドイツ王となっていた次男コンラート4世も苦戦を強いられ、数々の対立王に圧倒されていく。
こうして神聖帝国皇帝による古代ローマ帝国復興の夢は露と消えた。1250年、フリードリヒ2世崩御。以後相次いでシュタウフェン家の者たちは倒されていき、シュタウフェン朝の断絶は決定的となった。
フリードリヒ2世死後、帝国は皇帝がころころ変わる時代を経験したのだった(大空位時代)。といっても皇帝はいなかったわけではなかった。
帝国諸侯は一人あるいは一族に大権が宿ることを極端に避け、また例のごとく自らの権益に資する者を皇帝としたかったため、この時代は結果として世襲・王朝的な時代とはならず、諸侯の傀儡や「仕方なく選ばれた皇帝」が並び立つ時代となった。フランス王が帝国皇帝を兼ねようとし、それを阻止した点は見逃せない。
皮肉にもこの時代を持って、国号は「神聖ローマ帝国」になる。それは大空位時代最初の皇帝にして、自領を巡り戦死した男ヴィルヘルムによる命名であった。帝国の実態がローマの名に匹敵しないとして神聖ローマ帝国という国号を避けてきた歴代皇帝からすれば、少々酷な話である。
スイスの一貧乏貴族であったハプスブルク家。1273年、ルドルフ1世が皇帝選挙によって時期皇帝に選出されると、彼らハプスブルク家の命運、ひいては欧州史そのものが新たな軌道を描き始める。この時代は選挙のたびに皇帝の出身の家が変わるという状態が続く。
選挙の会議に出席していなかったボヘミア王オタカル2世が、ルドルフ1世の即位を拒むと、1278年、両者の間で戦争が勃発(マルヒフェルトの戦い)。勝利したルドルフ1世は、ここでオーストリアを領有する。
ハプスブルク家の台頭を警戒し始めたドイツ諸侯は、ルドルフ1世の死後、ナッサウ家のアドルフを王として選んだが、1298年には廃位(関係ないけど翌年オスマン帝国が成立)。再びハプスブルク家の、ルドルフ1世の子アルブレヒト1世が即位する。が、諸侯がまたしても一定の一族が強大化することを嫌い、1308年には新王をハプスブルク家の末弟に暗殺させたのだった。
一方、シュタウフェン家が領有していたナポリ・シチリア両王国はフランスのアンジュー公爵家の所領となっていた。さてアンジュー公といえばイングランド王を兼ねていたプランタジネット家を彷彿とさせるが、ここでいうアンジュー公爵とは直接の血縁関係はない。
それはそうとローマ教皇庁。神聖ローマ帝国が選挙で争い、ローマで戴冠しなくなっていた時代、教皇庁の保護者はフランス王国にすり替わっていた。こう見えても神聖ローマ帝国はローマ教皇庁の守護者である(そこ、突っ込むなよ!)。なのでその役割をお隣のフランスに取られたことは、神聖ローマ帝国の権威の零落を示してしまうのである。
もっとも権威の零落は教皇庁にも言えたことで、1296年、教皇ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世と教会領における課税問題で争い、1303年にはアナーニ滞在中に捉えられるという始末。いわゆるアナーニ事件である。1305年にはフランス王がボルドー大司教を新たなローマ教皇とし、1309年には教皇庁そのものをフランス南東のアヴィニョンに遷した(教皇のバビロン捕囚)。
すなわちフランス王はドイツに代わり教皇庁を力づくで支配保護することで、ついにローマ皇帝の名をドイツから奪おうとしていたのであった。イタリアの覇権はドイツにではなくフランスにあったのだ。教皇庁が皇帝をつくるのなら、その教皇庁をドイツから奪ってしまえ! と。
するとドイツ王位はルクセンブルク家のハインリヒ7世(1308年 - 1313年)へと転がり込んでくる。ルクセンブルク家といえば反ハプスブルクの代表格であり、1309年にはボヘミア王国を吸収合併し、強大な権力を得つつあった。そしてまたそのルクセンブルク家から輩出された帝、ハインリヒ7世は実にフリードリヒ2世以来のイタリアで戴冠(1310年)した皇帝であった。そこで、かのダンテはハインリヒ7世を見て『帝政論』を著し、混沌とするイタリアの平和を切望したのだった。
フランス王が皇帝位を望むとは笑わせる! 真にローマ皇帝たるはドイツ王なり! ……ところが1313年、ハインリヒ7世は謎の急死を遂げてしまい(毒殺説有り)、ドイツ王位はヴィッテルスバッハ家のバイエルン公、ルートヴィヒ4世のものとなる。
このルートヴィヒ4世が中々に強かで、百年ほど前に出されたインノケンティウス3世による教令集「皇帝に昇位する王」、すなわち、「王が皇帝となるときは助祭に聖別されるのだから、皇帝選出の承認権は教皇にある」とする論理を完全に否定したのだった。ルートヴィヒ4世が言うには、「皇帝は宗教的ヒエラルキーにあるのではなく、皇帝アウグストゥスの直接の後継者であり、皇帝アウグストゥスのローマ帝国は教皇よりも古くからあったのだから、皇帝は教皇にではなく神によって直接聖別される」と豪語した。つまり、教皇が生まれるよりも遥か昔のローマ帝国を継承することで、教皇の政治的存在意義をかき消したのだ。長らくドイツ王が重視してきた「ローマ教皇による戴冠」を根本から否定したのである。
これにより、1338年には「選帝侯によって選ばれたドイツ王は教皇の承認なく皇帝になる」という決議がフランクフルトにて出された。かくしてフランスの教皇庁は完全に論破されたかに見えた。
しかし教皇庁の伝家の宝刀「破門」は未だに鋭利な業物であった。アヴィニョン教皇クレメンス6世はルートヴィヒ4世の廃位と破門を宣言し、精神的に一撃必殺の大技を放つ。こうして1347年、ルートヴィヒ4世はその力を急速に失った。そして代わりに、アヴィニョン教皇庁お墨付きの(つまりフランスと仲良しの)、かつルクセンブルク家出身のボヘミア王カレルがドイツ王位についた。カール4世(在1346年 - 1378年)である。
カール4世の改革は以下のようなものだった。
またカール4世は根回し外交により選帝侯を利用し、ルクセンブルク家による皇帝位の世襲化を「選挙」という形で実現する。皇帝位はカール4世の長男ヴェンツェル(在1376年 - 1400年)、一代おいて次男のジギスムント(在1410年 - 1437年)といった具合にほぼ独占され、ルクセンブルク家の勢力を拡大させていったのである。
カール4世の次男ジギスムントは、ルクセンブルク公国・ブランデンブルク選帝侯領・ボヘミア王国に加え、ハンガリー王国をも領有していた。
この頃、帝国から見て東南の方向、バルカン半島ではテュルク系の新興勢力であるオスマン朝が勃興していた。オスマン朝といえば、当時の東ローマ帝国を完膚なきまでに叩きのめし、東欧の覇者となりつつあった強力な勢力である。そこで、神聖ローマ皇帝ジギスムントはドイツ軍を中心とした十字軍を結成し、これと決戦する。しかし1396年のニコポリスの戦いで大敗を喫し、以後ジギスムントの権威は大幅に損なわれた。
また、ジギスムントは、1410年にドイツ王となり、1414年のコンスタンツの公会議では教会大分裂(大シスマ)を終息させたが、宗教改革者ヤン・フスを処刑したことで、1419年にはフス戦争を勃発させてしまう。これによりルクセンブルク家のボヘミア喪失は避けられなくなった。そしてそれがハプスブルク家によるボヘミア領有と皇帝位の世襲の契機となった。……皮肉にも、反ハプスブルク家であったルクセンブルク家が、ハプスブルク家の出世を助けることになったのである。
1356年、時の神聖ローマ皇帝カール4世は、「金印勅書」により7選帝侯の大きな権限を成文化し、特権を大幅に追加した、というのはご存知の通りである。さてその7選帝侯というのが、マインツ・ケルン・トリーアの三大司教、プファルツ宮中伯・ブランデンブルク辺境伯、そしてザクセン公とボヘミア王のことであった。
カール4世はまたルクセンブルク家による世襲を、7選帝侯による皇帝選挙によって正当化しようと企んだ。ルクセンブルク家といえばボヘミア王であり、皇帝ジギスムントがそうであったようにブランデンブルク辺境伯でもあった。……ということは、ルクセンブルク家は初めから7票中2票を持っていることになる。過半数まであと2票、とこのようにカール4世は巧みに世襲戦略を進めていった。
あとは大規模な所領を有するハプスブルク家を、どのように制御するかであった。カール4世は娘をハプスブルク家のルドルフ4世に嫁がせることで、黙らせようとしたのだが……。
1359年、突如ハプスブルク家の当主・ルドルフ4世は、「プファルツ大公」と称し、大公家は選帝侯の上位に位置すると宣言した。もちろんそんな爵位はないし、そもそも当時までは帝国に「大公」という位自体ない。法的にもハプスブルク家が皇帝の次に偉いだなんて、どこにも書かれていないのだ。
そこでカール4世は、ルドルフに対しその証拠を見せよと言い渡す。対してルドルフは5通の古文書を帝に送る――そこには歴代皇帝がハプスブルク家に対し諸々の特権を授与したとの旨が記されていた。早速カール帝は当代一の鑑定士にそれを見せた。
それが鑑定結果の返事であった。確かに5通の書はよくできていたが、それを裏付ける追加の2通があまりにもひどい。なんとその2通の差出人は、あの有名なユリウス・カエサルと皇帝ネロだというのだ! ハプスブルク家はそんなにも昔からある家柄なのか? 否、断じてありえない! カール4世は失笑したことだろう。
皇帝としては早々とハプスブルク家を取り潰したいところであったが、当時のルドルフ4世は強固な同盟を帝国内に敷いていた。ルクセンブルク家の世襲を実現すべく、他の選帝侯の機嫌もとらなければならなかった皇帝としては、ことを穏便に進めたかったため、この「大特許状」を黙認せざるを得なかった。
以後、その正当化された「事実」により、ハプスブルク家は「オーストリア大公」になっていく。帝国中枢から阻害されつつも、7万平方キロもの大領域を有する無冠の帝王として「君臨」していった。
時代は戻り、1437年、ルクセンブルク家のジギスムントが嫡子もなしに亡くなると、彼の娘婿であるハプスブルク家のアルプレヒトがドイツ王となった。ハプスブルク皇帝、アルプレヒト2世の誕生である。しかし彼はドイツ王の戴冠式も挙げずに対オスマン朝戦線に突入、ハンガリーにて赤痢にかかりこの世を去った。
すると選帝侯らは悩んだ。次の王は誰にするか? 誰をオスマン朝に対する盾にするか? そこで次期ドイツ王位は同じハプスブルク家で彼の親戚にあたるフリードリヒに巡る。皇帝フリードリヒ3世である。人は彼を、「神聖ローマ帝国の大愚図」と呼ぶ。
フリードリヒ3世の先帝アルプレヒト2世には、ラディスラスという遺児がいた。この少年の家臣は、フリードリヒ3世が即位すると同時に、公然と反旗を翻し、ドイツに再び反乱を招いた。そこで皇帝フリードリヒ3世はショタラディスラスを人質にイタリアに逃げた。もちろん建前上はイタリアにおける皇帝の戴冠式である。英仏両国は百年戦争の終盤にあり、東ローマ帝国はその最後の力を振り絞りオスマン朝と戦っているというのに、この神聖でローマ的な皇帝ときたら、諸侯にビビり、ショタ少年を無理やり拉致し、あげくイタリアへ亡命を図るというのだ。
イングランド王国のフランスにおける覇権と東ローマ帝国が、この世の地図から消えて4年後の1457年。結局、フリードリヒ3世はオーストリアに帰還した。その際ラディスラスは疲労が祟ったのかわずか17歳で亡くなっている。ともあれこれでラディスラスを担ぐ反乱の火種は消えた。ある意味で皇帝の勝利である。
だが争いは終わらない。今度は元服を向かえ領土分割を要求する弟アルプレヒトが反乱。皇帝フリードリヒ3世とその子マクシミリアンはウィーンに幽閉された。が、逃亡。1463年、弟アルプレヒトは嫡男なく死ぬ。これもある意味で勝利である。
さて、当時、オスマン朝はもはや東ローマ帝国さえ滅ぼし名実ともにオスマン帝国と化していたが、それに対するキリスト教世界の急先鋒として期待されていたのが、このフリードリヒ3世とハンガリーの英雄王マーチャーシュ1世である。
ところが神聖ローマ皇帝たるフリードリヒ3世は暗愚なばかりで、マーチャーシュ1世からすればただのイライラメーカーであった。当然ではある。そこでマーチャーシュは急遽、対オスマン帝国の役目を一身に背負うとして、ウィーンへと挙兵しオーストリアの領有を要求した(1485年)。するとフリードリヒはまた逃げた。が、1490年、マーチャーシュは夢半ばにして嫡子なくこの世を去った。またしても、フリードリヒの逃げ勝ちである。
ちなみにこのフリードリヒ3世帝、先代のルドルフ4世が偽った「大特許状」をちゃっかりと帝国法として採用していた。
フリードリヒ3世はその長寿により「逃げるが勝ち」を戦術とし、ハプスブルク家に仇名す宿敵たちを制していった(?)。これも立派な功績といえば功績である。
彼にはもう一つの功績があった。それは、後に「中世最後の騎士」と称され、ハプスブルク大帝国の礎を築き上げるマクシミリアン1世を、ポルトガル王女との間に設けたことである。
これがハプスブルク家にとり素晴らしき遺産となった。マクシミリアン1世は、当時欧州にて最大級の繁栄を迎えていたブルゴーニュ公国の公女マリアと結婚し、フィリップ美公とマルガレーテを生む。妻マリアが亡き後はブルゴーニュ公国をハプスブルク領とし、抜かりなく勢力基盤を拡大させていく。
だがこれがドイツの諸侯の目に悪く映った。帝国内ではフランス王の煽動により反ハプスブルクの逆風が吹き荒れ、そればかりか、ハンガリー王国のウィーン侵攻も展開していく。1485年に起こった、マーチャーシュとの戦いである。父帝フリードリヒ3世は逃げまくり、その長寿をもってして、相手が死ぬのをひたすらに待つという戦術を駆使したが、それは息子マクシミリアンの軍事的な活躍に支えられたおかげであった。
もちろん1490年のマーチャーシュの死をもってウィーンには平和が訪れる。しかし対フランス戦は続いていた。1494年、時のフランス王シャルル8世の軍はイタリアへ遠征を開始し、電撃的にナポリ王国を占領下に置いた。これに対しマクシミリアンはナポリ王・ローマ教皇・ヴェネツィア元首らと同盟を締結(神聖同盟)し、真っ向からフランス王国と戦った。
さて当時のナポリ・シチリア・サルディニア一帯は、レコンキスタを2年前に遂げたスペイン王国の所領である。ということは、神聖ローマ帝国とスペイン王国は、フランス王国という共通の脅威に曝されていたわけである。となれば話は早い。早速マクシミリアンの息子フィリップ美公とスペイン王女フアナが結婚し、続いて1497年、マクシミリアンの娘マルガレーテとスペイン王子フアンが婚姻を結ぶ。紛れもなく「日の沈まぬ帝国」の基礎が築かれたのであった。
1516年、そのスペイン王女のフアナとハプスブルク家のフィリップ美公の間に産まれた子、カルロス1世が、スペイン王に即位した。生まれながらにスペインと神聖ローマの血統をもつカルロスは、1519年、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝位を巡る選挙で争い、勝利する(ちなみに投票結果は7対0、膨大な金銭が動いた)と、神聖ローマ皇帝カール5世として即位する。
フランス王フランソワ1世との皇帝選挙に勝利したカール5世は、ハプスブルク家の世襲領地を獲得する。
すなわち、ネーデルラントの公国群(現オランダ・ベルギー)、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国、サルディニア王国、そしてカリブ、メキシコなどの新大陸植民地と、世界規模の領域を得たのである。
かくして神聖ローマ帝国は、カール5世(カルロス1世)のもと「西ローマ帝国の再興」を達成しつつあった。
カール5世の時代は、しかし苦悩の時でもあった。
婚姻政策により領土を拡大させていったマクシミリアン1世(在位:1459年 - 1519年)の治世期からローマ・カトリック教会への不満は高まっていたが、カール5世の時代、マルティン・ルターの登場によりそれは顕著なものとなった。
当時、イタリア・フィレンツェのメディチ家出身のローマ教皇レオ10世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の改築資金を調達するために、贖宥状の販売を行っていた。この贖宥状とは、教会のために募金すれば罪も赦される、という名目で売られる免罪符であった。
マルティン・ルターは、贖宥状なる教会のあからさまな物乞いに対し批判、九十五カ条の論題を発表しローマ教会の腐敗を説いた。教会、つまり教皇庁の搾取に以前から反対していたドイツ諸侯や市民は、このルターの考えを支持し、結果キリスト教に新たな思想のプロテスタントが誕生する。聖書をキリスト教唯一の源泉とするルターの思想は、広範なドイツ領邦に普及していった。
無論ローマ教皇レオ10世は、1521年にルターを破門する。ここでカール5世は国内の不統一を抑えるべく、ローマ教皇に味方した。「神聖ローマ皇帝」という位自体が、「ローマ・カトリック教会の守護者」としての側面を持ち、また、カール5世自身も熱心なカトリック教徒であったから、そういった意味でも新教成立は抑えたかったのである。
かくしてルターはヴォルムス帝国会議に呼び出されることとなる。ところがルターは自説を撤回せず、それどころかザクセン選帝侯の庇護下で新約聖書のドイツ語訳を完成させ、神聖ローマ帝国の民衆に、直接キリスト教を普及させるに至った。
1524年から翌1525年には、農奴制の廃止を要求するミュンツァーが指導した、ドイツ農民戦争が勃発した。蜂起はやがて鎮圧、粛清されたが、これを機にザクセン選帝侯らのドイツ領主はルターの新教を支持、続々とローマ・カトリックの権威から脱退していった。彼ら領主は、自身の領内において教会の首長となる、領邦教会制を創始したのである。
カール5世は1526年に新教を認めるが、1529年には白紙に戻した。これに激怒した新教諸侯は抗議し1、1530年にはシュマルカルデン同盟を結成、皇帝に抵抗した。
新教の成立は後に起こるウィーン包囲の一因ともなった。プロテスタントの胎動が神聖ローマ帝国にとって真の意味での負担となるのは、まだまだこれからなのである。
1 このルター派諸侯の「抗議文の提出」が由来で、新教は「プロテスタント」と呼称される。
カール5世は広大な領域を世襲と婚姻関係から獲得したが、彼はその領土を死守すべく日々戦いに明け暮れていた。その一つがフランス王国とのイタリア戦争であった。この時代、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国とスペインの両方を治めていたが、他方フランス王国はその2国の地理的中間にあり、挟み撃ちの状態にあった。新大陸からの金銀に加えてネーデルラント、イタリアといった欧州の先進地域を有するカール5世はフランス王国を圧倒していく。
フランスはこれに危機を感じ、ある1国と同盟を結ぶ――その相手こそが、かのオスマン帝国だった。オスマン帝国はすでにハンガリーをめぐり、カール5世の弟フェルディナンドと激突していたが、オスマン帝国がカール5世の明確な敵となった結果、オスマン帝国からフランス王国へ、フランス王国から北ドイツの新教諸侯へと膨大な金銭援助が流れることとなった。
そしてそれは1529年のウィーン包囲に繋がり、ヨーロッパを恐怖に陥れた。1538年、カール5世はオスマン帝国の地中海進出を阻止すべく、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、そして教皇領と結託し、スペインをも含む艦隊をイオニア海(ギリシャの西)に派遣した(プレヴェザの海戦)。しかしスレイマン1世のもと全盛期にあったオスマン帝国の戦力は凄まじく、カール率いる西欧艦隊は大敗を喫した。
カール5世の神聖ローマ帝国が「西ローマ帝国の再興者」ならば、スレイマン1世のオスマン帝国は「東ローマ帝国の再興者」だったのである。プレヴェザの海戦より「オスマンの脅威」は十二分に働き、カール率いる西欧艦隊は地中海の制海権を奪われた。カールの夢見た「西ローマ帝国の復興」は、こうして頓挫することとなる。
一連の国際関係の変化は神聖ローマ帝国に決定的な変化を齎した。カール5世は幾度もの戦いのため、ルター派との妥協さえ考慮せざるを得なくなる。そしてついに1555年、アウクスブルクの和議が成立し、諸侯はカトリックかルター派であれば自由に信仰できるようになる。ただし領民は、領主の宗派に従わなければならないが。
彼の死後たる1556年、弟フェルディナント1世(ドイツ王)が神聖ローマ皇帝位とオーストリアを、カールの息子のフェリペ2世がスペインをはじめとするその他の領地をそれぞれ継承すると、ハプスブルク家は元来のオーストリア=ハプスブルク家とスペイン=ハプスブルク家に別れた。
スペイン家系はその後も広大な領域と共に権勢を極めるが、フェルディナント1世が治める神聖ローマ帝国は、先代から続くプロテスタントやオスマン帝国との因縁に対し大した決着を見せられなかった。オーストリア家系はボヘミア王位とハンガリー王位を獲得してはいたが、ハンガリーについては国土の8割以上がオスマン帝国に侵されていた。それ故、オーストリア家系は依然オスマン帝国に対する防波堤としての任を背負わされる。
神聖ローマ帝国内の反ハプスブルク諸侯はさらなる権益を要求し、「オスマン帝国はプロテスタントの味方」と神聖ローマ皇帝を脅すことで、帝国の内憂をますます膨れ上がらせていく。この状況は次の皇帝マクシミリアン2世の治世期にはなお悪化した。新帝もまたプロテスタントに対し何ら手を打てず、この間神聖ローマ帝国はオスマン帝国の攻撃に何度も曝され続けた。
しかしフェリペ2世治世下のスペイン=ハプスブルク帝国は繁栄を極め、絶頂期に達していた。
彼は父カール(カルロス)からスペインを引き継ぐにとどまらず、ネーデルラントやフィリピン、アメリカ大陸の植民地までも受け継いでいだ。1571年にはあのオスマン帝国にレパントの海戦で勝利すると、地中海での制海権をも得た。くわえて、1580年には母と后がポルトガル王女であったことから、血統断絶に乗じポルトガルの王位も得た上、ポルトガルがもつ海外植民地をも吸収し、「日の沈まない帝国」を現出させた。これは、領土が広すぎるため常に帝国のどこかは太陽に照らされていた、という意味である。
日没なき大帝国の領土は、神聖ローマ帝国と併せ、ドイツ、チェコ、オーストリア、イタリア南部、オランダ、ネーデルラント、スペイン、ポルトガル、そしてアメリカ大陸の植民地、最後にフィリピンなどのアジア植民地にまで達した。なお、これらの領地から得られる大量の銀などの富は、カール5世の時代と同様、そのほとんどが神聖ローマ帝国と戦費に回され、神聖ローマ帝国の国力維持に貢献していた。
もはや神聖ローマ帝国が創成期に掲げていた「西ローマ帝国の再興」という夢は、達成されたといってよい。いや、それどころか、ハプスブルクの大帝国は、ローマ帝国以上の規模にまで膨れ上がったと見て、間違いはないはずだ。
神聖ローマ帝国の世界帝国としての繁栄は、16世紀が最後にして最大であった。
マクシミリアン2世の跡を継いだルドルフ2世の治世期(1576年 - 1612年)にも、帝国はプロテスタントやオスマン帝国の脅威に対し一切の手を打てなかった。そこで煮え切った皇帝の弟マティアスは、兄を幽閉し獄死させると、新帝として即位した。1612年のことである。ところがこの兄弟間の争いにはプロテスタント諸侯がつけ込んでいたらしく、帝国内の宗教対立はなおも深刻化していった。
そこでマティアスはプロテスタントに対し大きく踏み込んだ。ボヘミアへの新教禁止令である。加えてマティアスは1617年に熱心なカトリック教徒の従弟をフェルディナント2世としてボヘミア王位につけ、ボヘミアのプロテスタント諸侯を政治的にも精神的にも圧迫した。
すると1618年、プロテスタントのボヘミア貴族は、フェルディナント2世を次期ボヘミア王とは認めないとして、王の使いをプラハの窓から投げつけ転落死させた(プラハ窓外投擲事件)。そこでボヘミア貴族の反ハプスブルクの姿勢が明確となった。フェルディナント2世は武力による制圧を画策するが、これが三十年戦争の幕開けになってしまう。
1619年にマティアスが没しフェルディナント2世が神聖ローマ皇帝とハンガリー王をも兼ねるようになると、ボヘミアのプロテスタント諸侯はプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王とし、皇帝フェルディナント2世に対抗。すると皇帝側もスペイン=ハプスブルク家やイタリアのカトリック諸侯、そしてバイエルン公をはじめとするカトリック同盟の援軍を率い、またプロテスタントのザクセン選帝侯さえ味方とし、徹底抗戦の構えを見せた。
1620年、スペインの友軍は連携の取れなかったボヘミア諸侯をうまく突き、9月にはプロテスタント同盟の重要拠点であったプファルツを占領下に置き、11月には白山の戦いで皇帝軍がボヘミア軍を完膚なきまでに叩きのめした。
その後、プロテスタントの盟主フリードリヒ5世は、スペイン軍がネーデルラント平定に向かったことをいいことに、プファルツ奪還へと軍を向ける。が、カトリック連合軍に撃退されネーデルラントへ亡命、これによりオーストリア=ハプスブルク家によるボヘミア支配を妨げる者は当面の間いなくなった。しかしボヘミアは四天王の中でも最弱……
1624年、フランス王国はカトリック国でありながらプロテスタント側へと味方した。フランスのリシュリュー枢機卿は、フランス王国・イングランド王国・ネーデルラント連邦共和国・スウェーデン王国・デンマーク王国からなる反ハプスブルク同盟を結成し、神聖ローマ皇帝サイドを牽制したのである。またフランス王国は、サヴォイア公国やヴェネツィア共和国とも結び、スペインから神聖ローマ帝国へと続く北イタリアを用いた補給路を遮断した。
これを好機と見たデンマーク王クリスチャン4世は、息子の神聖ローマ帝国内での司教就任が却下されたことを理由に、プロテスタント側で参戦。ここにデンマークの介入が決定した。デンマーク王国としての目標は、戦勝による北海とバルト海の制覇と北ドイツへの拡大であった。
神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、ボヘミアから傭兵隊長ヴァレンシュタインを重用し、盛り返したプロテスタント同盟に対し再び戦端を開いた。ヴァレンシュタインの活躍により、1626年にはクリスチャン4世のデンマーク軍を撃退し、神聖ローマ帝国内におけるデンマーク王領を破壊、加えて1628年にはドイツ北東部のデンマーク拠点シュトラールズントを包囲した。
これを受けデンマーク王国はスウェーデン王国と軍事同盟を結び、同市の開放になんとか成功。しかし調子に乗ったクリスチャン4世はヴァレンシュタインのカトリック軍を追い打ちしてしまい、大敗を喫し、1629年には神聖ローマ帝国へ介入する力を失い、三十年戦争から脱落してしまった。
プロテスタント同盟からはさらにイングランドがフランスとの仲違いを理由に脱落し、三十年戦争から手を引いた。これでプロテスタント同盟の構成国中、継戦する大国はフランス王国とスウェーデン王国だけとなった。
しかしここで神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が調子に乗ってしまう。彼はカルヴァン派プロテスタント諸侯に対し、宗教和平の埒外に収まることと、没収した教会領をカトリック側へ返還するよう命令(回復令・復旧令)したのだった。さらに、彼は全諸侯に対し、諸侯の武力を制限すること、バルト海艦隊を建造すること、ハプスブルク家による皇帝位の世襲を法化することを強要した。
これにはプロテスタント諸侯はもちろん、ハプスブルク家の勢力拡大を恐れたカトリック諸侯も大いに反対した。とりわけ軍功で選帝侯となったばかりのバイエルン公は反発した。ハプスブルク家の世襲を絶対とすれば、選帝侯の存在意義はない。そこでバイエルン公をはじめとする諸侯は、「皇帝が諸侯に頼らなくなったのはヴァレンシュタインの活躍があるから」と考え、フェルディナント2世に「傭兵隊長ヴァレンシュタインの罷免」を要求、これを通した。
しかしヴァレンシュタインを失った皇帝軍は脆く、これがフェルディナント2世の権威失墜につながった。
フェルディナント2世が発した令の一つに、バルト海艦隊の建造があったが、これはハプスブルク家がバルト海の制海権をも握ることを意味していた。このことは国力がバルト海貿易に依存するスウェーデン王国からすれば迷惑以外の何ものでもなかった。そこでスウェーデン王国の本格参戦が決定する。
1630年、フランスから大量の軍資金を得たスウェーデンは、ドイツ領内のプロテスタント教徒の保護を大義名分に、神聖ローマ帝国へ進軍した。スウェーデン戦争である。
当初皇帝軍は優位に立っていたものの、食糧難を理由にドイツ北東の都市マクデブルクを略奪し尽くしたことを皮切りに、潮流がスウェーデン側へと傾いた。北方の獅子と謳われたスウェーデン王グスタフ・アドルフは、皇帝に失望したザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯(ともにプロテスタント)を味方とし、1631年、スウェーデン王国の圧倒的かつ先進的な技術力と戦術により皇帝軍に大勝した。さらに翌年にはスウェーデン軍はバイエルンにまで南下し、再びスウェーデン側の最新鋭の戦術により皇帝軍に圧勝した。
スウェーデン王グスタフ・アドルフの快進撃を前に、プロテスタント同盟は急激に息を吹き返す。ハプスブルク家による絶対主義が崩壊していく中、とうとうフェルディナント2世は傭兵隊長ヴァレンシュタインを再召還した。するとフェルディナント2世は攻勢に打って出る。2万6千の皇帝軍は1万6千のスウェーデン軍と激突(リュッツェンの戦い)し、敵の王グスタフ・アドルフを戦死させた。皇帝軍は活路を見出すが、それでもスウェーデン軍には勝てなかった。
しかしグスタフ・アドルフの死は存外カトリック同盟を勇気付けた。そしてプロテスタント同盟の足枷にもなった。もとよりプロテスタント側はグスタフ・アドルフの快進撃によって士気を高めていたようなものであり、その旗が折られたとなれば、瓦解するのは当然である。
さて、皇帝フェルディナント2世は、嫡男のフェルディナントを次期皇帝とすべく諸侯の機嫌を取る必要があった。そのため、成り上がりで諸侯に嫌われていたヴァレンシュタインを暗殺した。散々頼りにしておいてひどい…。しかしこれによって皇帝は諸侯の支持を獲得し、嫡男を軍の総司令官とすることができた。
息子フェルディナント率いる士気高揚のカトリック軍は、スウェーデン軍を徹底的に排除し南ドイツを奪還する。スウェーデン王国の三十年戦争からの脱落もここで決定したかに見えた。
……ところが、スウェーデン側の巧みな外交は、ある大国をプロテスタント側で参戦させ、神聖ローマ帝国へ直接介入させた。そのプロテスタント側の最後の切り札とは、なんとあのカトリックの長女とさえいわれたフランス王国であった。カトリックとプロテスタントの戦いは、カトリック国に対するカトリック国の本格参戦で決着するのである。
1635年、とうとうフランス王国が直接戦争に参戦した。カトリック同盟の皇帝軍は守勢に立たされ、スウェーデン軍は巻き返しを図ってくる。翌1636年、皇帝軍はスウェーデン軍に敗北し、反ハプスブルク勢力の復活を許してしまう。ネーデルラントのスペインの友軍もオランダ反乱軍に敗れ、ネーデルラントの独立を許し、スペイン=ハプスブルク家の覇権をじょじょに崩れさせていった。
1638年、フランス軍は快勝を続け、西ドイツを占領下に置いた。これによりドイツ西方でのスペインとの連絡は困難となった。ここにきてザクセン選帝侯はカトリック側へと再度寝返り、フランス軍へ宣戦を布告した。しかしこちらはスウェーデン軍に敗れる。そのスウェーデン軍もボヘミアへ侵攻するが撃退に遭った。
1640年、スペイン軍はフランス・ネーデルラント同盟の前に連戦連敗し、本拠地イベリア半島においてはポルトガル反乱軍に大敗し、独立を認める形となってしまった。1642年、神聖ローマ帝国の皇帝軍もスウェーデン軍に再び敗北。翌1643年には主力であったバイエルン軍がフランス軍に敗れたことで、ついにカトリック同盟に止めが刺された。
ところがプロテスタント同盟の追い打ちはまだ続いた。1645年にはスウェーデン軍がボヘミアの都プラハを占領する。皇帝軍はフランス・スウェーデン連合軍に挑むも完全敗北(1648年)し、スペイン軍もフランスとの戦いで崩壊した。スウェーデン軍はなおも勢いをつけ、神聖ローマ帝国の都ウィーンに迫る。
これを受け、神聖ローマ帝国はヴェストファーレン(ウェストファリア)条約の締結に踏み切らざるを得なくなった。
ヴェストファーレン条約の代表的な内容は以下の通り。
ここで厄介なのは、神聖ローマが一番の痛手を被ったにもかかわらず(土地の荒廃など)、列強諸国の多くはこれといった損害を被ることなく戦争を終えたことである。ライバルのフランスに至っては、帝国領かつ対フランス国境沿いのエルザス=ロートリンゲンを吸収合併した始末。欧州におけるブルボン家のハプスブルク家への優越、スウェーデン王国のバルト海における覇権。復興の困難な状況になった神聖ローマ帝国は、確実に欧州の勢力争いから脱落した。
かくして1648年、ヴェストファーレン条約が締結された。これにより神聖ローマ帝国は300以上の領邦国家と自由都市の集合体となった。また、著しく皇帝権が制限されたことにより、その不統一性はより顕著なものとなる。そして、帝国の墜落は同時にハプスブルク家の権威をも失墜させることになる。ハプスブルク家による帝国の中央集権、さらには欧州統一の夢はここに崩れ去った。
ヴェストファーレン条約、それは帝国にとっては残酷なまでの死亡証明書であり、以後、「神聖ローマ帝国」は名前だけの存在となるのだった。記事冒頭のヴォルテールの言葉が、いよいよ現実味を帯びてきたのである。それでも150年以上続くからたいしたものだが。
ただし上記の内容は従来の通説であるが近年の研究でこれらの内容は大きく覆っている。
まとめるとヴェストファーレン条約は宗派問題の項目を除けば伝統的な内容の再確認に過ぎない。
神聖ローマ帝国は政治的に機能し続けたからこそその後150年以上もの間生きながらえることができたのである。
以後、元々連邦制の国であった神聖ローマ帝国は、「帝国に加盟する独立国の集合体」へと姿を変え名を残す。しかし、帝国内の各独立国は、帝国全体との相互利益のため、あるいは己の最大利益のためだけに、“神聖ローマ帝国という名の連盟”を一致団結して守ろうとしていった。
これは、帝国内部には極めて小規模の領邦が幾十も存在し、それらの君主にとっては、オスマン帝国やフランス王国の脅威は単独であらがえるものではなかったからである。この傾向は小国の多い帝国西部で強くでており、これらの間で相互に防衛がなされた。また、この仕組みの下でスウェーデン王国は帝国内に領土を持つことで帝国等族となって、帝国の維持に注力することとなる。
然し、ヴェストファーレン条約以後も、神聖ローマ帝国及びハプスブルク家に困難は続く。
斜陽は何も神聖ローマ本国に限った話ではなかった。スペイン=ハプスブルク家の世界帝国にもガタが来たのである。
カルロス1世とその子フェリペ2世により日没なき繁栄を謳歌したスペイン=ハプスブルク帝国だったが、1588年にアルマダの海戦でイングランドに敗北すると、その栄光にも翳りが生じ始めた。
アルマダ海戦の敗北後もスペインの力は依然強力なものではあったが、税収の5分の2を占めたネーデルラントが独立すると、もともとオスマンや対ハプスブルク同盟への対抗のために、窮地にあった財政がいよいよ不足していった。こうしたスペインの国力衰退に乗じて、ポルトガルが1640年に独立。加えて、三十年戦争中から続いた西仏戦争が終結し、ピレネー条約によってフランスの優位とスペインの欧州における覇権喪失が確定した。
1683年には未だ勢威止まぬオスマン帝国が20万の大軍を持ってウィーンを包囲する(第二次ウィーン包囲)。ポーランド王国などの援軍により帝国はなんとかこれを打ち破ったものの、今度は対オスマンの16年の戦争へと突入する。
ところが、大トルコ戦争と呼ばれるこの戦争で、ポーランド、ヴェネツィアと神聖同盟と呼ばれる同盟を築いたオーストリア側は、次々東欧のオスマン領で占領地を拡大。途中からはロシア=ツァーリ国も神聖同盟側で参戦し、かつてとは真逆の状態になった。1699年、カルロヴィッツ条約でハンガリー、トランシルヴァニア、スロヴェニア、クロアチアの奪回がなされ、300年以上にわたったオスマン帝国のキリスト教国に対する軍事的優位が崩れた。三十年戦争で強勢を失ったハプスブルク家であったが、東欧に於いてようやく一定までその力を取り戻したかに思えた。
一方の西方では、ルイ14世を抱くフランス王国がその全盛期を迎えていた。ルイ14世は自然国境説の達成を夢見、その野望のままに領土拡大政策を推し進める。この煽りを食らったのが衰退中のスペインでネーデルラント継承戦争や、オランダ侵略戦争で、ネーデルラントの一部やフランシュ=コンテを失うことになる。
これらの成果も、ルイ14世にとっては足りないものでさらなる拡大への野望をむき出しにしていく。脅威を覚えたドイツ諸侯はアウグスブルク同盟を組んでフランスに対抗するが、最盛期のフランスの国力は凄まじく、大同盟戦争では、陸上に於いてドイツ諸侯や周囲の国家全てを向こうに回しても一切引かないどころか優勢であるほどの軍事力を発揮した。
流石に、財政的な限界が来たため、ルイ14世は講和を結ぶが、一方でそれはさらなる野望の為でもあった。
フェリペ3世、4世と代を重ねるごとに衰弱していくのは誰の目にも明らかなスペインだったが、更に、近親婚の成れの果て、と言えば失礼極まりないのだが、王位についたカルロス2世は、お世辞にも健全な人物とはいい難かった。そして、その脆弱な王を知り介入に動いたのがフランス王国だった。
フランスとしてはスペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)に地理的に挟まれているわけだから、隙あらばこの挟撃から脱出したい。ゆえにフランスは、次期スペイン王をフランスの血統とすることで、スペインそのものを、神聖ローマ帝国の味方から自身の傀儡へとひっくり返す腹積もりであった。だからこそ、カルロス2世が病床に在る事を知ったルイ14世は大同盟戦争を終結させたのである。
しかし、もちろんオーストリア=ハプスブルク家としては、このハプスブルク家の優位は維持したい。そのような双方の願望は、1701年、スペイン継承戦争として如実に表れる。
スペイン継承戦争。
当初、ヨーロッパにおいて戦争における勢力は5分5分であった。すなわち、ヨーロッパ列強は、次期スペイン王を“フランスのアンジュー公フィリップとする派”と、“ハプスブルク家のカール大公とする派”に分かれていたのである。
勢力は均衡していた。が、カール大公が兄ヨーゼフ1世の死を機に神聖ローマ皇帝カール6世となった途端、多くの国々はフランス側へと傾いた。
これは偏に歴史の教訓からくるものである。彼らヨーロッパ諸国は、16世紀に神聖ローマ皇帝がスペイン王を兼ねた結果、超大国が現出したの知っている。スペイン継承戦争の今回、もし、神聖ローマ皇帝カール6世が、スペイン王を兼ねるとどうなるか――ヨーロッパ諸国の恐れはすべてそこにあった。だからこそ諸国はフランス側を支持し始めたのだった。
結果、フランスのアンジュー公フィリップが、フェリペ5世としてスペイン王となり、スペイン継承戦争は決着。スペイン=ハプスブルク家は断絶し、本当に神聖ローマ帝国の影響はドイツに限定されることとなった。ハプスブルク家の栄冠もそこで崩れていく。
スペイン継承戦争の結果、ユトレヒト条約とラシュタット条約が締結されたが、とくに前者はライバルのイングランドの一人勝ちといって差し違えない。
一方、ラシュタット条約ではオーストリア系ハプスブルク家が南ネーデルラント・ミラノ・ナポリ王国・サルデーニャを獲得することに成功した。フリードリヒ2世の頃の領土に近くなったろうか。然し、欧州最強だったあの頃とは状況がまるで違う。
スペイン継承戦争の間、東方では大北方戦争が行われていた。これにより、バルト帝国を築いたスウェーデンは欧州列強から脱落。一方、この戦争に勝利したロシアでは1721年にツァーリ・ピョートル1世がインペラトルを名乗りロシア帝国が成立。スウェーデンに代わりロシアが欧州列強の一角に名乗りを上げた。
ロシアは東ローマ帝国の後裔を自任し、衰退が始まっていたポーランド王国やオスマン帝国から東欧地域をじわじわと奪っていった。それ故、ハンガリーやトランシルヴァニア(ルーマニア西部)を介して東欧に繋がるハプスブルク勢力とは、権益が競合しはじめた。
また、ハプスブルク家が対フランス、対オスマン、対スペインと戦争を繰り広げてる間、帝国内においても着実に勢力を伸ばしたものがいた。ホーエンツォレルン家が統治するブランデンブルク=プロイセンである。1618年に同君連合となったこの国は、ヴェストファーレン条約で東ポメラニアンを獲得し、スペイン継承戦争では帝国への助力と引き換えに「プロイセン王国」と名乗ることをハプスブルク家に認めさせた。
この段階において、プロイセンは他の帝国領邦からは一つ頭抜け出た格好となった。
カール6世は領土は拡大したものの、男子に恵まれず、やむなく、皇女マリア・テレジアをオーストリアの継承者として、各国に認めさせた。
しかし、1740年カール6世が死去すると、フランス・プロイセンは相次いでマリア・テレジアの継承に異議を唱えた。また、帝国法においては女性が帝位を継げないことになっていたので、ハプスブルク家はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンを皇帝とするよう要求したが、選出されたのはバイエルン選帝候カール・アルブレヒトだった。
女の元首は認めないと九百年以上前に似たようなことを言っていた人がいたような気がするが、ここでは気にしない。
最終的にマリア・テレジアは夫を皇帝と認めさせ、オーストリア領継承に成功したが、シェレジレンをプロイセンに割譲するという屈辱をみる。
マリア・テレジアはシェレジレン奪還のため、この後、内政を整備し、ロシア、ザクセンさらにはマクシミリアン1世以来の宿敵フランスと結んで(外交革命)対プロイセン包囲網を敷き、プロイセンに戦争を仕掛けた。七年戦争の始まりである。
当初、連合側の人口8000万人に対し、プロイセンの人口は400万と、圧倒的と見られていたオーストリア側であったが、各国の足並みの乱れとイギリスの援助、フリードリヒ2世の用兵やオスマン帝国の脅威によってプロイセンは持ちこたえた。イギリスが1761年にプロイセンへの援助を打ち切ったものの、ロシアではエリザヴェータが死去し、フリードリヒ2世の熱狂的支持者ピョートル3世が後を継いだため、ロシアが戦争から脱落しオーストリア側を支援できなくなる。これをきっかけに、各国が次々と戦争から脱落していき、継戦不可能と判断したオーストリアはシェレジレンを放棄せざるを得なくなった。
これによりプロイセンが列強の一角に上り詰めた。それ以上に帝国にとっては、オーストリアに対抗できる領邦が出現したことを意味した。神聖ローマ帝国という連盟は、継承戦争以前はオーストリアに単独で対抗できる領邦はおらず、皇帝を兼ねるハプスブルク家のオーストリアを筆頭とすることで、緩やかに均衡が取れていた。しかし、ここに来て、プロイセンが強く台頭したために、そのバランスは虚しく崩れ去っていく。
帝国では領域外にも大規模な領土を持ったプロイセンとオーストリアが帝国の枢要を占め、神聖ローマ帝国はいよいよ名ばかりの亡霊となりつつあった。
神聖ローマ帝国の枠組みは最早、その名前すらも形骸化していた。そんな折、フランス革命が勃発。神聖ローマ諸侯はこの動きに対し、革命の波及を恐れ対抗するも、フランス軍に破れ、プロイセンも脱落し、ネーデルラントとライン川左岸がフランスに併合された。
この皇帝位はローマ帝国とは何ら関係の無い称号であったが、「皇帝は俺様一人」ということで、ナポレオン1世は即時神聖ローマ帝国に打撃を与えた。アウステルリッツの三帝会戦にオーストリア皇帝とロシア皇帝が敗北。これを受けて、ドイツ中部の中小諸侯はライン同盟を結成し、一斉に帝国を脱退、ナポレオンに従属した。この時点で、神聖ローマ帝国の構成国はオーストリアのみとなっていた。時の神聖ローマ皇帝フランツ2世は「ドイツ帝国の解体」を宣言。既に、フランツ1世としてオーストリア帝国の君主となっていたフランツ2世は、神聖ローマ帝国を見放したのだった。
ナポレオン戦争終結後、革命以前の状態を是とする正統主義によってウィーン会議が進められたが、その中においても旧神聖ローマ帝国領の大部分はドイツ連邦(1815年 - 1866年)として再編され、ここに神聖ローマ帝国の滅亡は確定した。神聖ローマの埋葬許可が出されたわけである。
ローマは得られず、教皇に介入され、諸侯の権利は拡大し、宗教によって2つに別れ、そして名前だけの存在となり、ついには皇帝に見放される。
……何を隠そう、これが10世紀にもわたって存在した「神聖なるローマ皇帝の国」の崩壊である。このありようは、同じような年齢で滅んだ東ローマ帝国とは、皮肉なまでに相違しているといえよう。どちらも同じローマ帝国だったはずである。
神聖ローマ帝国の爵位をあげる。なお、日本語は一例で、また帝国内の爵位でここに書かれていないものもある。括弧内は女性の場合。
日本語 | 英語 | ドイツ語 | 例 |
---|---|---|---|
爵位 | 爵位 | 爵位 | |
皇帝 | Emperor | Keiser | 神聖ローマ皇帝 |
王 | King(Queen) | König(Königin) | ドイツ王、ボヘミア王等 |
大公 | Archduke | Erzherzog | オーストリア大公 |
Grand duke | Großherzog | トスカーナ大公等 | |
選帝侯 | Prince-elector | Kurfürst | ザクセン選帝侯等 |
宮中伯 | Count palatine | Pfalzgraf | ライン宮中伯 |
辺境伯 | Margrave | Markgraf | ブランデンブルク辺境伯等 |
方伯 | Landgrave | Landgraf | ヘッセン方伯、チューリンゲン方伯等 |
城伯 | Burgrave(Burgravine) | Burggraf(Burggräfin) | ニュルンベルク城伯等 |
侯爵 | Prince | Fürst(Fürstin) | |
公爵 | Duke | Herzog | |
大司教 | archbishop | Erzbischof | マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教等 |
司教 | Bishop | Bischof |
中核的な地域 |
一時的な勢力圏 |
前身 |
後継 |
人物 |
事件 |
その他・用語等 |
掲示板
182 ななしのよっしん
2024/11/03(日) 11:18:08 ID: IfYH7cW32Z
大都市が東に集まってたことからの連想なのか東西分裂後の都市ローマって過小評価されがちだけど、
単体で比較したら都市ローマって西のラヴェンナやメディオラヌムあたりでは相手にならない東のコンスタンティノープルと並ぶ帝国最大級の都市だからね
183 ななしのよっしん
2025/01/03(金) 12:40:22 ID: 4strQiGs5x
お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな
を国名で成し遂げた奴ら
184 ななしのよっしん
2025/01/18(土) 10:52:58 ID: mq372efZlY
中世での「ローマ帝国」とは神学的な意味も持っており「キリスト教世界を統べるもの」であった、教皇庁にとっては東ローマ帝国との対抗上西欧に「ローマ帝国」を必要としていた。「神聖ローマ帝国」とは直接的には都市ローマではなくそこに由来する
しかし、現実問題ローマ帝国の模範は東ローマ帝国しか存在しないため初期の「皇帝」たちは東ローマ帝国との関係を非常に重視していた
という方向で加筆修正いたしました。問題がございましたらご指摘ください
急上昇ワード改
最終更新:2025/02/01(土) 17:00
最終更新:2025/02/01(土) 17:00
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