徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、
第9代水戸藩主・徳川斉昭の7男として生まれ、のちに御三卿の一つである一橋家を継ぐ。
そしてさらに将軍家をも継ぐことになるのである。
大政奉還により江戸幕府を終わらせたため無能の人物と思われがちだがそうではない。
江戸幕府の歴代征夷大将軍の中でもその資質はトップクラスと目され、当時「家康の再来」とまで言われた。
多趣味・多芸であったと言われる家康と同じく何事も器用にこなし、特に手裏剣術に関しては達人の域であった。
また、学問にも優れていた上に話上手で当代髄一の論客でもあった。
高貴の生まれながら時勢に敏感で、江戸幕府の終焉を最も早くから感じていた人物だろう。
当時の水戸藩は尊皇攘夷思想の先頭にある存在であったにも関わらず、慶喜自身は豚肉を食べ写真撮影に熱中し西洋式の軍隊の導入を図るなど、西洋文化の信奉者であった。
日本人の誰よりも維新を望んでいたのは慶喜であったかもしれない。
江戸幕府の終わりを予想していた慶喜は最後の将軍となることを拒み続け、結局その役割を引き受けたのは前将軍家茂の死後4ヶ月も経ってからであった。
慶喜の在位はおよそ1年間。
まさに江戸幕府を終わらせるために生まれてきた人物であった。
天保8年(1837年)9月29日、徳川御三家の一つである水戸藩の九代藩主・徳川斉昭の七男として江戸で生まれる。
天保9年(1838年)、斉昭の教育方針により、江戸から水戸へ移り住む。斉昭の教育は非常に厳しく、例を挙げると衣食を質素なものに制限させるといった軽いものから、いたずらをした際は火傷を負うほど灸を据える、座敷牢に閉じ込めて食事をさせない、寝相の悪さを直すため、枕の両端にカミソリを立てるなど、非常に厳しい教育であったと言われる。
弘化4年(1847年)、11歳の時江戸に滞在していた斉昭に呼び寄せられ、御三卿の一つである一橋家への養子に出される。それ以前に同じ御三家の紀州藩や尾張藩からも養子縁組の話が来ていたが、敢えて一橋家を選んだのは当時の将軍・徳川家慶が一橋系の血筋であり、一橋家に入れておけば将軍世子になる可能性が高かったためとされる。加えて斉昭が「七郎麿は英邁である」という噂話をばら撒き、後年の慶喜英邁論の発端となる。
同年12月1日、元服して従三位中将・刑部卿に任じられ、名を徳川慶喜に改めて正式に一橋家当主となった。
一橋家当主となった慶喜は、その後しばらくの間平穏な生活を営む。家慶からも気に入られ、周辺では家慶は実子の徳川家祥(家定)ではなく、慶喜を後継者にしたいと思っているのではないかと噂されるほどだったという。
だが嘉永6年(1853年)6月、米国艦隊来航のすぐ後に家慶は病死。十三代将軍には予定通り世子である家祥が就任した。就任後、家定と名乗る。
家定は言語不明瞭で病弱、菓子作りが趣味というひ弱な人物で、これでは国難に対処出来ないと考えた有志の人々は、次の将軍候補として英邁と評判の高い慶喜を陰に陽に推挙していくことになるが、当の本人は将軍になりたいとは思っておらず、斉昭に対する手紙の中ではそうした動きを迷惑がっていたことが伺える。
「この節世上にてもっぱら取沙汰仕候、私事御養君の思召にも被為在候哉にもっぱら取沙汰仕候、若御登城にても、かようなる義御聞被遊候はば、堅く御差留め被遊候様奉願候」
「天下を取候程気骨の折れ候事は無之候。骨折れ候故いやと申義にし無之候得ども、天下を取り候て後到しそんじ候よりは、天下を不取方大いにまさるかと奉存候」
「当一橋にても、愚私之器量にしすぎ候事にて、家中の世話さえも中々行届き不申候、況(いわんや)天下取り成り候は、是天下滅亡之基ひと奉仕候。何とぞお差留のほど偏に奉奉願候」
このように嘉永6年の時点では将軍職就任に興味が無かった慶喜本人の意思とは裏腹に、斉昭や越前藩主・松平慶永、薩摩藩主・島津斉彬などの有志大名とその配下の人々によって、次期将軍候補に祭り上げられていくことになる。
安政に入ると通商条約の締結を求める西洋列強が押し寄せるようになり、それまでのように独断で政治的な判断を下すことが難しくなった幕府は、朝廷から条約勅許を貰うことで大義名分を得ようと京都に老中首座・堀田正睦、目付・岩瀬忠震、勘定奉行・川路聖謨らを派遣し工作活動に当たらせた。
だがこの活動は孝明天皇や攘夷派の公卿、在野志士の反発に遭い頓挫。同時に行っていた慶喜将軍就任の勅命降下工作も、紀州藩の徳川慶福(家茂)を次期将軍に望む彦根藩主・井伊直弼の妨害工作によって失敗した。
江戸に戻った堀田は家定に、慶喜を次期将軍にと奏上するがあっさり断られ、同時に井伊が大老に就任する事が決定された。安政5年(1858年)7月22日、幕府は諸大名を登城させ、通商条約の調印を伝えた。
同日報せを受けた慶喜は勅許を得ずに条約に調印した事に反発し、23日に井伊の元を訪れ面談を行った。
慶喜「条約調印の事は知っていたのか」
慶喜「違勅になることをどう考えているのだ」
といったこんにゃく問答が暫く続き、将軍継嗣問題に話が及んだ。
慶喜「(家定の)御養子の件はどうなったのだ」
慶喜「決まったのか決まってないのか」
慶喜「紀州殿(慶福)に決まったのではないか」
慶福が次期将軍に就任する事を確認した慶喜は慶福を讃え、井伊は「貴方様にそう仰って頂けると有難い」と嬉しそうに返したという。
翌24日、今度は斉昭の他尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)らが井伊と面会し、違勅調印と将軍継嗣について非難したが取り合われず、25日、慶福が正式に第14代将軍に就任する予定である事が発表された。
7月5日、家定の死の1日前に斉昭の他、慶喜を次期将軍に据えようとしたいわゆる一橋派諸侯が隠居・謹慎の処罰を受け、慶喜も登城停止の罰を受けた。更に翌年安政6年(1859年)8月27日には隠居・謹慎を命じられる。一橋派が処罰された理由として井伊は「謀反を企てていた」と主張していたが、慶喜自身は斉昭らの政治活動には加わっておらず、御輿として担がれたがためにとばっちりを受けるかっこうとなった。
「身に覚えなくして罪蒙りたるなれば、一つには血気盛りの意地よりして、かく厳重に法のごとく謹慎したりしなり。」
身に覚えの無い罪で隠居・謹慎させられた慶喜は意固地になり進んで厳重な謹慎生活に入る。
翌安政7年(1860年)3月3日、井伊が桜田門外で暗殺されると幕府の強硬策が改められ、9月4日に謹慎を解かれるが、他者との面会や文通についてはなお禁止され、これらが全て解除されるのは文久2年(1862年)4月25日になる。
文久2年(1862年)、薩摩藩国父・島津久光が卒兵上京。朝廷を擁し奉り幕府に政治改革を強要する計画が浮上した。これを察知した幕府は先手を打つべく、当時将軍後見職にあった徳川慶頼を罷免して後見職はもう不要であることをアピールし、かつて一橋派だった松平慶永を赦免して幕政への参加を求めた。合わせて安政の大獄に連座した人々に対する赦免も行われ、前述の通り慶喜に対する面会・文通の禁止も解除された。
6月7日、久光と勅使・大原重徳が江戸に到着。慶永を大老に、慶喜を将軍後見職にという久光の要求に対し、幕府は慶永を政事総裁職という新設の役職に据えることで妥協を図ろうとするが、将軍継嗣問題で家茂の競争相手となった慶喜の後見職就任については拒否の構えを崩さなかった。このため、幕閣と交渉を行っていた大原が薩摩藩士による暗殺を仄めかすと老中・板倉勝清ら交渉に応じた幕閣が腰砕けになり、7月1日に慶喜の後見職就任が決定された。
続く
晩年の趣味の一つとされる写真撮影はかなり熱が入っていたらしく、よく雑誌に投稿したりしていたらしいが全然評価されなかった。ただし、当時はカメラそのものがあまり普及しておらず、残っている写真も少ない為か慶喜の写真は当時の時代風景を知る貴重な資料として再評価されている。それでも現代のプロ写真家には酷評されているが。
目新しいもの好きであったらしく、倒幕後も豊富な財産を使ってカメラの他に当時珍しかった自転車や顕微鏡にも手を出していたらしい。が、自転車に乗っているときに横切った美人が気になってよそ見していたところ電柱にぶつかったり、顕微鏡で好物のきなこをのぞいたら小さな虫だらけだったことがトラウマになって食べられなくなったりなど、切れ者の将軍時代からは想像できないちょっとお間抜けなエピソードも一緒に残されている。
2015年、TBSのバラエティ『水曜日のダウンタウン』にて、「徳川慶喜を生で見た事がある人まだギリこの世にいる説」が検証され、実際に目撃証言が得られた。つまり、まだいた。
目撃していたのは1910年生まれの女性で、ほんの子供だった頃に、東京・日本橋で、慶喜が行列を伴って歩いていくのを遠目に見たということだった。
そして専門家(後述する大河ドラマの時代考証もした齋藤洋一氏)によれば、この頃=晩年の慶喜は、日本橋を訪れていたり、日本橋(地名ではなくあの橋)の文字の揮毫をしていたりと同地との関りが深く、これらの記録を裏付ける間接的な証拠として、この証言は確かな史料価値を持っているということであった。
ちなみにこの回は、この証言にたどり着くために100歳を超える高齢者の方々に片っ端からインタビューしたため、他の偉人(大隈重信やダグラス・マッカーサー)の目撃情報や、関東大震災や日中戦争などの証言なども手に入れており、ゴールデンの民放バラエティらしからぬ濃密な歴史番組と化していた。
結果、優れたテレビ番組を表彰する「ギャラクシー賞」の月間賞を受賞している。
1998年に放送された第37作目の大河ドラマ「徳川慶喜」は、司馬遼太郎原作の「最後の将軍」をベースに、「武田信玄」「信長 KING OF ZIPANGU」の田向正健が脚本を担当した。
主人公の慶喜があまり表だって動けない立場にある人物のため、多くの架空の人物が慶喜の代わりに幕末の混乱を生きていく姿が描かれていたが、登場人物の多さと複雑さに視聴者があまりついて行けず、視聴率は伸び悩んだ。しかし苦悩を内に秘めながらもポーカーフェイスで底深い演技を見せた本木雅弘の好演が高く評価され、後の「おくりびと」「坂の上の雲」における俳優・本木雅弘の地位を確立した作品とも言える。
また、ナレーション役の大原麗子がしばしば使う「後で聞いた話だけど~」のフレーズが当時はやった他、当時無名俳優だった藤木直人が慶喜の側近で様々な幕末の事件に遭遇するドラマのオリジナルキャラクター・村田新三郎役で準主役級の活躍を見せた。なお、大政奉還における重要人物で司馬遼太郎が原作のドラマでありながら、坂本龍馬は一切登場しない。
本作では主人公だった慶喜だが、それ以降の幕末を題材にした大河ドラマ(「新選組!」「篤姫」「龍馬伝」「八重の桜」「西郷どん」)では全て、主役が佐幕派・倒幕派にも拘わらず、いずれも悪役とされている。その中でも、新選組!の慶喜役だった今井朋彦は視聴者に強烈なインパクトを残し、今井朋彦はその後長きにわたって、エステーの消臭プラグのCMで新選組!の慶喜をイメージした殿様役で出演し続けた。
掲示板
298 ななしのよっしん
2024/10/13(日) 03:49:11 ID: vWl3JNt5IP
慶喜の子孫の方(玄孫?)が、慶喜を擁護しててうなずける部分もあるんだけど、鳥羽伏見だけはさすがに擁護は無理があると思う。
「逃げたわけじゃない」としても、「見捨てた」ことは間違いないだろうし……。
少なくとも見捨てられたほうは絶望的だったと思う。
299 ななしのよっしん
2024/10/18(金) 22:20:16 ID: 0bl91CNM4h
俺は戦いたいんだぞ!だから俺は勝手に戦うって言ってるんだぞ!お前は俺の主君なのに俺に付き合って戦わないって言うのか!てのも、かなり無茶苦茶なんだけどね…。
基本的に幕軍過激派の行動には「忠義」がないんだよ。てめえらの都合で戦う方に導きたがってるだけ。
300 ななしのよっしん
2024/11/06(水) 02:23:47 ID: /mM2LlqJOV
なんというか、なろう系の主人公みたいだと思った。
それもダンジョンマスター系の話の小ズルい感じの主人公。
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最終更新:2025/01/02(木) 10:00
最終更新:2025/01/02(木) 09:00
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