桜田門外の変とは、安政7年3月3日(グレゴリオ暦1860年3月24日)、江戸城桜田門近辺にて江戸幕府大老・井伊直弼が十八人の尊王攘夷浪士達によって暗殺された事件である。
嘉永6年(1853年)の黒船来航に始まる幕末の混乱は、江戸幕府の政策決定に深刻な対立を生じさせた。第十三代将軍・徳川家定の能力や健康面に不安を持つ人々は、次代の将軍には英邁な人物を望み、予てより評判の良い御三卿一橋家当主の徳川慶喜を支持した。一方、従来の政治体制の維持を望む人々は、慣例に従い家定に近い血筋である紀州藩の徳川慶福(家茂)を支持した。この二派はそれぞれ一橋派、南紀派と呼ばれ、幕末前期の政局の動向を左右した。
安政5年6月19日、日米修好通商条約が締結されると、朝廷の反対の意向を無視した行為であるとして24日、一橋派の水戸藩前藩主・徳川斉昭が水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶恕(慶勝)らを伴い、南紀派の筆頭である大老・井伊直弼の元を訪れ抗議し、福井藩主・松平慶永や徳川慶喜も井伊に対し直に掛けあって抗議した。井伊はまともに相手にせず、逆に不意に登城したことを慣例を無視した行為として7月5日斉昭らに対し隠居・謹慎の処罰を加えた。
更に朝廷から水戸藩に対し、幕府の政策を難詰する"戊午の密勅"が幕府より優先して下賜されたことを受け、水戸藩への不信感を高めた井伊は、老中・太田資始と間部詮勝を水戸藩の小石川藩邸に送り、密勅の内容を諸大名に通達するべからずと慶篤に迫った。一方、密勅の下賜によって 士気の上がっていた水戸藩の激派はこの報せを受けると、江戸に出府して幕府へ抗議するため続々と大挙出発し、下総国小金宿に1000人以上が集まった。事態を危惧した水戸藩庁は自重を促し、悲嘆した参加者の中から自害する者まで出る騒ぎとなった。
この状況に憤激した水戸藩の過激派藩士達は、何とかして井伊を幕政から除かねばならないと考え、一部の人々は他藩との連携を模索しながら大老暗殺の謀議を始めていた。
安政5年10月、水戸藩奥右筆頭取・高橋多一郎、南郡奉行・金子孫二郎、北郡奉行・野村常之助らは大老を幕府から退け、諸藩の兵を京都に糾合し、朝廷を守護して幕政を正すという極秘の目標を立て、福井、鳥取、長州、土佐、宇和島の各藩に有志を募る為、藩士・関鉄之介、矢野長九郎、住谷寅之助、大胡聿蔵ら数名を密かに送り込んだ。関、矢野は福井、鳥取、長州に向かい、住谷、大胡は土佐、宇和島へ向かったが、芳しい成果はなく二組とも江戸に戻った。(ちなみに住谷、大胡は土佐国境で坂本龍馬と接触している)
井伊による苛烈な処分は続き、太閤・鷹司政通、左大臣・近衛忠煕ら朝廷の重臣を落飾・謹慎させていた。水戸藩内では再び反発の声が高まり、幕府へ抗議しようと江戸の藩邸まで押しかける者が続出し、江戸近郊の街道にも一万人とも称されるほどの人々が集まった。状況を見かねた斉昭と慶篤は自ら筆を取って帰藩するよう命じ、人々を裏で扇動した高橋、金子らを謹慎させた。
その後も水戸藩への圧力は高まり、8月27日には斉昭を永蟄居、水戸藩家老・安島帯刀他数名を死罪に処した。更に12月に入ると幕府は水戸藩に対し密勅を幕府に渡すよう命じた。密勅の返納を迫られた水戸藩では返納すべきとする会沢正志斎ら鎮派と、返納を拒否する高橋、金子、野村らの激派に分裂した。24日、評定の結果密勅の返納が決まると高橋らの指示を受けた激派は水戸と江戸の境に位置した長岡に屯集し、実力行使で返納を阻止しようとした。また、鎮派への脅迫や暗殺未遂が相次いだため、会沢ら鎮派は長岡の激派を討伐すべしと主張。高橋、関ら激派関係者は捕縛を免れるため相次いで脱藩していった。
安政の大獄の渦中にあった安政6年3月22日、高橋多一郎の元に薩摩藩士・高崎猪太郎(五六)が訪れ、大老暗殺に協力する事を伝えた。この時高橋、関らは準備不足で時期尚早であるとしたものの、これが薩摩との連携による暗殺計画の端緒となる。9月に入ると高橋らは手始めに高崎らと朝廷の有力者を動かし、孝明天皇に井伊糾弾の書状を上奏する計画を立てたが、伝手として接触した尊融法親王(朝彦親王)や近衛忠煕に拒絶され頓挫した。暗殺実行を決意した高橋、金子孫二郎、関鉄之介らは薩摩藩士・有村雄助、次左衛門兄弟と共謀し、井伊襲撃と薩摩軍3000人による京都挙兵の密約を交わした。
安政7年2月、水戸藩庁の弾圧を受けた高橋ら激派は大老暗殺計画を実行に移すべく次々と脱藩。当初は江戸の彦根藩邸に直接討ち入りを企てたが警戒が厳重だったため、登城中の襲撃に計画を切り替えた。
3月2日、当時の品川にあった相模屋、通称土蔵相模と呼ばれた妓楼にて、関鉄之介、岡部三十郎、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、斉藤監物、佐野竹之介、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介、海後磋磯之介、杉山弥一郎、広木松之介ら襲撃参加者が一堂に会した(増子金八、有村次左衛門は欠席)。襲撃の総指揮を担った関は一同に対し、金子孫二郎から預かった以下の規約を伝えた。
一、武鑑ヲ携ヘ、諸家ノ道具鑑定ノ体ヲ為スベシ
一、四、五人ズツ組合、互二応援スベシ
一、初メニ先供二討掛リ、駕籠脇ノ狼狽スル機ヲ見テ元悪(井伊直弼)ヲ討取ルベシ
一、元悪ハ十分討留タリトモ、必ズ首級ヲ揚グベシ
一、負傷スル者ハ自殺、又ハ閣老二至テ自訴ス。其余ハ皆京二微行スベシ
安政7年3月3日、雪の降る朝に関鉄之介らは大名行列の見物人を装い、桜田門近辺で彦根藩の行列を待ち受けた。桜田門から500メートルほど離れた彦根藩邸の門が開いて井伊直弼の乗った駕籠が出発し、行列が桜田門に向かって左折しようとした時、襲撃者の一人である森五六郎が訴状を掲げて行列に近づいた。徒士が止めようとすると森はそのまま斬りかかり、佐野竹之介がそれに続いた。行列の徒士達が異変に気づいた時黒沢忠三郎が発砲したと思われる銃声が轟いた。この銃弾は井伊の大腿部から腰にかけて貫通し、致命傷となっていた。銃声を合図に襲撃者達が一斉に行列目掛けて突進して乱闘が始まり、駕籠に向かった稲田重蔵は彦根藩士にその場で斬殺されたが、有村次左衛門ら数名が駕籠に刀を突き立ててから井伊を引きずり出すと有村が首を刎ね、刀の切っ先に串刺しにして討ち取りを宣言した。
暗殺に成功した有村らは複数に分かれて逃走。佐野竹之介、斉藤監物、黒沢忠三郎、蓮田市五郎、大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、森山繁之介は規約に従い閣老の藩邸に赴いて自訴し、瀕死の重傷を負った鯉淵要人、山口辰之介、広岡子之次郎は自害した。佐野は深手の為同日に、斉藤は5日後に、黒沢は7月12日に死亡した。有村は追ってきた彦根藩士・小河原秀之丞に斬りつけられ、若年寄・遠藤胤統の屋敷前で井伊の首を引き渡して自害した。現場には死体と半死半生の彦根藩士達、切り落とされた腕、指、鼻、耳などが散乱し、雪は血に染まっていた。
事件直後、彦根藩邸から藩士達が駆け付けたが既に襲撃者達は立ち去っており、藩士達は首のない井伊の遺骸を泣く泣く藩邸に持ち運んだ。激昂した彦根藩邸では水戸藩に復讐すべきと意気が揚がり、国元の彦根藩においても水戸藩と戦うため江戸に赴く者が続出した。
従来大名が不慮の死を遂げた場合その藩は士道不覚悟により家名断絶とされ、また喧嘩両成敗という建前上両藩ともに処分という事になれば、親藩と譜代筆頭藩の取り潰しという事態になり、両藩による紛争勃発の恐れもあった。安藤信睦(信正)ら幕閣は穏便に済ます方法として井伊をまだ生きている事にし、養生かなわず死亡した後に世子に跡を継がせるよう図った。遠藤胤統の屋敷に渡された井伊の首は襲撃で落命した徒士のものとして彦根藩に返され、井伊の遺体に縫合された。3月30日、幕府は井伊の大老職を解き、一ヶ月後の閏3月30日に死亡したと公表した。
この事件が国内に与えた衝撃は大きく、幕府はこれ以降強権的な政策決定に消極的になる一方、全国諸藩、就中薩摩、長州、土佐といったいわゆる雄藩による政治介入が活発化していく。
事件の総指揮役を務めた関鉄之介、検視見届役の岡部三十郎は事件後京都に上り、薩摩軍の到着を待とうとしたが、京都に着いた時先行していた金子孫二郎は捕縛され、高橋多一郎は子息とともに自害していた。薩摩との連携は無かった事にされており、絶望的な状況に置かれた関と岡部は逃亡生活を送る事になるが、岡部は江戸の吉原で、関は越後でそれぞれ捕縛された。捕縛後、岡部と金子は文久元年7月26日に他の実行犯とともに斬首。関は文久2年5月11日に江戸伝馬町にて斬首された。
実行犯の内、逃げ延びた広木松之介は文久2年3月3日、潜伏先の鎌倉の寺にて自害。増子金八と海後磋磯之介の2名のみ明治まで生き延びた。増子は婿養子先の家に戻り、事件については何も語り残していない。海後は警視庁などに勤め、生き残りとして『春雪偉談』『潜居中覚書』などの証言を残している。
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17 ななしのよっしん
2023/07/31(月) 21:32:42 ID: mp9MyN9dJt
大河ドラマだと『篤姫』で描かれたもの(井伊直弼役は中村梅雀)が印象に残っている。
18 ななしのよっしん
2023/08/03(木) 10:09:42 ID: 9nJAV4ZV/f
なお、成功した理由は周到な純美とかではなく、むしろ「ノリと内輪へのアピールと勢いだけで余りにも雑すぎた」からの模様
19 ななしのよっしん
2024/04/21(日) 15:47:14 ID: nVwml1Vs5s
井伊直弼の死因は射殺、しかも初手の銃にやられたらしい。
護衛の意味が殆どなかったのは恐ろしすぎる。
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最終更新:2025/01/31(金) 16:00
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