「秦良玉」(しん・りょうぎょく 1574 ~ 1648)とは、中国の正史に列伝を持つ唯一の女流将軍であり、
たる女傑にして、トネリコの槍を装備した白杆兵を率いて斜陽の明国を支えた戦乙女。字(あざな)は貞素。
三國志11 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 |
秦良玉 | 82 | 78 | 76 | 70 | 90 | 強行 | B | A | A | S | C | B |
概要
四川は忠州の少数民族の出身で、幼少時より父より武芸を習い、成長すると石砡宣撫の馬千乗の妻となる事を選んだ。
楊応龍が反乱を起こした際は、馬千乗が率いる3000の兵のうち、500の兵を指揮して秦良玉も従軍し、敵軍の夜襲を見抜いて撃退して七つの塞を抜く等活躍して戦功一等とされたが、秦良玉は夫をたてる為なのか自ら功を誇ることはしなかった。
その後、夫の馬千乗が民事訴訟に巻き込まれて槍玉にあげられ、無実の罪で獄死すると言う悲劇に見舞われると、秦良玉は、夫の兵を自ら統括した。
金国が明への侵入を試みた際には、兄の秦邦屏と弟の秦民屏に兵数千を与えて先発させて遼東の地を守りきることに成功し、功績を認められて秦良玉は三品官の官服を給わり、秦邦屏は司都僉書に、秦民屏は守備に任じぜられた。その後、兄の秦邦屏は渾河を渡河中に戦死したが、兵三千を率いて戦った功績が認められた秦良玉は二品官の官服を給わり、子の馬祥麟は都指揮使に任命された。
わたくしは潘州の戦い以来従軍し、いささかの功を立て、嫉妬心を起こすことなく、騒々しい讒言にも忠誠を持って潔白を証明してまいりました。
との訴えを聞き届けた朝廷は、秦良玉の功績を讃えて秦邦屏を都督僉事に追贈し、遺族の世襲を許した。
四川で奢崇明が反乱を起こすと、盟友の樊龍が秦良玉に金品を贈って味方に引き込もうとしたが、秦良玉は使者を斬って勧誘に対して断固たる態度を示し、弟・秦民屏や甥の秦翼明と秦拱明を率いて鎮圧に出陣し、伏兵を用いて賊軍の船を焼き払い、檄を飛ばして賊軍を破った功績により、秦民屏は参将に、秦翼明と秦拱明は守備に任ぜられた。
奢崇明が成都を包囲して、秦良玉と同じ少数民族の者達に賄賂を贈って動きを止めたものの、秦良玉は劣勢にめげずに成都そして重慶を落とし、その功績により、都督僉事そして総兵官を授かり、子・馬祥麟は宣慰使に、秦民屏は総兵に、秦翼明と秦拱明は参将と任命されると、感激した秦良玉は益々奮戦して賊徒を平らげ、蜀の地を開放した。
その後、永平の四つの城を奪われた秦良玉に対して、崇禎帝から呼び出しが入った。
責任を追及されるものと思い込んだ秦良玉は、家を離れる前にすべての軍費を兵達に分け与えてから京師(北京)に入朝すると、彼女の予想を良い方向に裏切られた。
呼び出しは、四城陥落の責任追及ではなく、これまでの功績を皇帝自らが賞賛する為に謁見させたもので、秦良玉は、金幣や羊の肉や酒などを賜った他、崇禎帝自らが秦良玉を賞賛する為に作った詩が贈られた。
その後も賊軍との戦いを続けた秦良玉は、羅汝才や東山虎を破り、賊軍の勢力を大きく衰退させた。
都帥の楊嗣昌が四川巡撫・邵捷春に兵二万を与えて重慶に駐留させ、秦良玉も従ったが、邵捷春の軍はあまりにも統制がとれておらず、秦良玉は錦州知事の陸遜之に、
邵公は兵事を知りません。わたくしは一婦人とはいえ国家の恩典を受け、死すとも覚悟は出来ておりますが、彼と一緒に死ぬことを恨むのみです。
そして・・・秦良玉の最大の敵となる張献忠が決起した。
秦良玉は兵を率いて張献忠の軍勢に対抗し、先鋒を挫くことには成功したものの、その後連敗して三万人の部下を失った為、大昌の邵捷春にお互いの兵力を半分ずつ出し合って対抗しようともちかけるが、一緒に死ねないとまで言われた邵捷春はこれを用いなかった為、秦良玉はため息をつくしかなかった。
張献忠が蜀の地を支配するに及ぶと、秦良玉は、十三路に守兵を置いて対抗すべきだと巡撫の陳士奇に献策したが、張士奇はこれを用いず、秦良玉は寡兵で自らの策を実行に移したが、張献忠の勢いをとめることはできず、秦良玉は衆寡敵せず敗北した。
私の兄弟二人はみな王事に死し、私は一夫人といえど国家の厚恩を被ること二十年、今不幸にして此処にいたり、しかし敢えて逆賊に余年を生かされることを望まない。
その間に、李自成の乱によって崇禎帝が死亡して明が滅亡したが、秦良玉は亡命政権の南明・弘光帝に仕えて忠州に立てこもり続け、清が乗り込んできて張献忠が敗死した後、老衰により大往生を遂げた。享年74歳。
※その他「秦良玉」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
崇禎帝平臺賜詩
|
そんなオカルトありえません
秦良玉が馬千乗の妻になった際、兵法書や農業書を数十冊も買いこみ、一年間こもりきりで読み込んだ後に、家財をつぎこみ借金をしてまで山や土地を買いあさり、乾燥に強い米を植えた。
果たしてその年は大干ばつとなり、買いあさった土地に植えた米が売れに売れてあっと言う間に借金を返したほか、充分な暮らしが出来るだけの蓄財が出来た。
その翌年は、雨に強い作物を栽培すると、果たしてその年は長雨が続いた為、またもや作物が売れに売れた。
そのことを夫の馬千乗が秦良玉に「どうして天候が予測できたのか?天文でも学んだのか?それとも何かのオカルトか?」と尋ねると、秦良玉は、
木に巣をつくれば風とわかり、穴に巣をつくれば雨とわかる、と前漢書にあります。
私は蟻に教えてもらっただけです。
およそ干ばつのときはその穴が必ず深いものですし、雨の多いときは必ず高いところに行きます。
それによって気候を知ったのです。
と、オカルト的なものに頼ったのではなく、勉学の結果得た知識を活用したものだと笑顔で答えたと中華野史大博覧に記されている。
勘に頼ったりしたのではなく情報を元にした論理的な計算の結果と言うことですね。
関連動画
▼三國志11プレイ動画「古くないけどいにしえ武将・超級」では秦良玉が君主を務めている。
関連商品
関連項目 |
関連コミュニティ |
|
- 5
- 0pt