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横浜DeNAベイスターズ(よこはまディーエヌエーベイスターズ)とは、日本プロ野球セントラル・リーグの一球団である。
本拠地は横浜スタジアム。現在の監督は三浦大輔(2021年~)。
概要
セントラル・リーグ | |
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横浜DeNAベイスターズ | |
基本情報 | |
創設 | 1950年 |
本拠地 | 横浜スタジアム |
一般略称 | DeNA |
アルファベット | DB |
優勝回数 | |
リーグ優勝 | 2回 |
日本一 | 3回 |
セ・パ交流戦 | 1回 |
アジアチャンピオン | 0回 |
経歴 | |
球団組織 | |
オーナー | 南場智子 |
運営母体 | DeNA |
プロ野球球団テンプレート |
2リーグ制の開始(1950年)と共に創設され、大洋ホエールズとしてセントラル・リーグに加入した。創設時のフランチャイズは山口県下関市、本拠地は下関市営球場であった。
セ・リーグは西日本パイレーツの消滅(西鉄クリッパースとの合併)により対戦カードが組みづらくなっており、1952年の開幕前に勝率3割に満たない球団にペナルティを与えるという申し合わせがなされた。結局、松竹ロビンス(初代セ・リーグ優勝チームであった)がこの数字を満たせず、交渉の結果大洋との合併を受け入れ、翌1953年のシーズンから大洋松竹ロビンスとして活動することとなった(1年間の移行期間を挟んで、正式に大阪球場に移転)。しかし、松竹側に球団経営への熱意が元々なかった(松竹ロビンスは田村駒との共同経営であり、本業の経営難もあって田村駒は泣く泣く撤退)ことからわずか2年で共同経営から撤退、球団は1955年より再び大洋ホエールズに戻った。これと同時に、フランチャイズも川崎球場に移転した。
ロビンス最終年から1959年まで6年連続最下位と低迷するが、その年のオフに西鉄ライオンズ監督の三原脩の招聘に成功する(実際には前年に交渉には成功していたが、契約前に話が漏れ、1年間延期になっていた)。1960年はエースの秋山登がいきなり負傷離脱するという波乱の幕開けであったが、復帰後は酷使によく耐え、また三原監督の巧みな選手起用もあって1点差試合に33勝17敗という強さを見せ、ついに初優勝を果たした。日本シリーズでも大毎オリオンズを全て1点差で4連勝で下し、初の日本一に輝いた。
その後も1962年と1964年に優勝争いするなど健闘したが、秋山の衰えとともに投手力が一気に弱体化し、1971年の3年連続3位を最後に低迷期に突入する。そんな中、1978年に横浜市中区に竣工した横浜スタジアムへ本拠地を移転し、球団名を横浜大洋ホエールズに改称した。1979年に2位、1983年と90年に3位になった以外は(最下位は3回に留まったものの)Bクラスを彷徨い続けた。
1992年、親会社・マルハの社名改称およびCIに伴って横浜ベイスターズに改称。2002年春、球団の筆頭株主がマルハからTBSグループとなったが、この際には球団名の変更等は無かった。そして2011年秋、筆頭株主がDeNAとなり、翌年2012年シーズンから現在の横浜DeNAベイスターズとなった。略称は横浜からDeNAに変更。アルファベットはDだと中日ドラゴンズと被るため、DBとなっている。
大洋ホエールズ時代から数えても、優勝回数はたったの2回(三原脩監督時の1960年、権藤博監督時の1998年)。だがその2回の優勝の年でいずれも日本一になっており、日本シリーズには強い。2002年から本格的な低迷が始まり、21世紀になってから2015年までの15年間でBクラス13回、うち最下位10回というどん底の暗黒期に突入していた。2019年6月15日の敗戦でプロ野球史上初の5000敗を記録し、2024年シーズン終了時の通算5369敗は12球団最多の負け数である。さらに2021年にオリックスがシーズン優勝したことにより、12球団で最もシーズン優勝から遠ざかっている球団となった。
ただし、セ・パ交流戦については2023年に初優勝し、セ・リーグとしては3球団目の優勝となっている(他は巨人、ヤクルト)。さらに2024年にはシーズン3位ながらクライマックスシリーズを勝ち抜き日本シリーズへ進出、日本一にもなったため、優勝回数(2回)より日本一の回数(3回)が上回るというNPB史上初のチームになった。
基本的に打高投底のチームであり、1998年の優勝時にはマシンガン打線として怖れられた。その一方、常に投手不足に悩まされ続けており、低迷の原因になっていた。生え抜き投手で2桁勝利を達成した投手が、2002年の吉見祐治から2014年の井納翔一までの間、10年以上にわたって三浦大輔しかいなかったというあたりからお察しいただきたい。それを手伝うように守備もお粗末で、特にセンターラインの貧弱さが課題であった。2008年から2012年までの5年連続最下位の頃には打撃成績も地の底を這い、脱出口の見えない暗黒が続いていた。
TBS時代には、選手がFAやトレードで移籍する度に球団のあり方について苦言を呈す、あるいは批判することも多かった。
特に2010年オフにFAでソフトバンクに移籍した内川聖一は横浜のチーム体質を痛烈に批判。さらにはソフトバンクが内川からベイスターズの現状を聞き、チーム体質の改善に使うと球団自らが表明した。余談だがその体質についてはDeNA初代監督の中畑清いわく「小学生みたいなルールを作らないといけなかった」、三浦大輔いわく「他球団の関係者から心配された」惨状だったという。
しかし、DeNAへの球団譲渡をきっかけに本格的なチーム再建が始まり、球団経営の改革も行われ観客動員数も大きく増加した。そして2016年に11年ぶりにAクラスに復帰。2017年には3位ながらクライマックスシリーズで広島東洋カープを破り、19年ぶりの日本シリーズ進出を果たした(2勝4敗で福岡ソフトバンクホークスに敗れ日本一はならず)。まだまだ発展途上ではあるが期待の若手も多く、長年の暗黒はとりあえず脱したと言っていいだろう。余談ながらほとんどの年にて1試合、南場智子オーナーの出身地である新潟でホームゲームを開催している。
2012年から、セ・リーグの球団としては初めてニコニコ生放送でホームゲーム全試合の無料配信を行っている。
DeNAのニコ生中継枠では、映像はTBSと球団が制作した共同映像(TBSグループの中継映像と、各局に配信する映像として使用。中継用の各種テロップはTBSグループの中継映像で使用しているものを一部使用)を使用するが、音声はニコニコ独自制作で、フリーのスポーツアナウンサーが実況を担当している(石原敬士、節丸裕一、加藤暁、熊谷龍一ら)。
ニコ生でのホームゲーム中継無料配信はDeNAに先駆けて東北楽天ゴールデンイーグルスが2009年途中から行っており、一時期は福岡ソフトバンクホークスやオリックス・バファローズも行っていたが、楽天戦の中継も2017年で終了し、現在ニコ生でプロ野球中継を行っているのはDeNAのみ。
また、Abema TVでも2017年からホームゲーム中継の無料配信を行っていたが、2018年終了後に撤退。
親会社の変遷
親会社は、球団創設の1950年から1992年までは大洋漁業で、球団名の「大洋ホエールズ」および「横浜大洋ホエールズ」は、かつて大洋漁業の基幹事業だった捕鯨に因むものだった。大洋漁業は1993年の商号変更に伴ってマルハとなり、この際に球団名も前述の「横浜ベイスターズ」に改称した。市民球団化という側面も若干あったとはいえ、実際のところはマルハの社名改称とCIによるところが大きかった。蛇足だが、当時マルハ社内では単に社名を省いた「横浜ホエールズ」を改称候補としていたものの、1980年代半ばに商業捕鯨が事実上禁止された背景もあって、結局球団名も全面的に改称されるに至った。
かつて大洋ホエールズには、当時西武グループの中核企業だったコクドが45%出資していたが、1978年に全株式をニッポン放送と東京放送(TBS)に売却している。これは、同年にコクドがクラウンライターライオンズを買収するにあたって、野球協約で定められている「球団株式の二重保有の禁止」に抵触するのを回避するための措置であった。同年開場した横浜スタジアムの建設事業にはコクドも深く関わっており、ホエールズの横浜移転にコクドの強い影響があったことは想像に難くない。
しかしマルハはバブル経済崩壊以降、深刻な経営不振に陥り、合理化策の一環として球団経営から撤退。保有する全株式が2002年春、TBSとBS-i(現在のBS-TBS)に譲渡され、2009年のTBSグループの持ち株制移行により、TBS保有の球団株式は、TBSの商号変更により発足した放送持株会社の東京放送ホールディングス(TBSHD)が継続保有することになった。
このマルハからTBSグループへの球団譲渡の際、マルハは全株式を第2位株主のニッポン放送に売却する方向で一度は話がまとまったが、当時ニッポン放送の子会社であったフジテレビがヤクルトスワローズの大株主でもあり、フジサンケイグループ傘下の2社が複数球団の経営に関わる可能性が生じることから、球団株式の二重保有に抵触することが問題となり、結局第3位株主のTBSグループに売却されることとなった。
また2005年秋には楽天がTBSの株式を大量に取得して筆頭株主となり、TBS側に経営統合を申し入れた。だが楽天は同年シーズンから東北楽天ゴールデンイーグルスを保有してNPBに新規参入しており、これも球団株式の二重保有に抵触する可能性が生じた。のちに楽天側は経営統合提案を撤回して業務提携の申し入れに切り替えたものの、その後も株主から賛同を得られなかったのに加え、TBSグループの持ち株制移行などもあって、楽天側はTBSグループへの出資を断念し、この問題は収束を見ている。
そんなTBSグループも2000年代後半から業績が悪化、2010年オフには住生活グループ(現在のLIXILグループ)と球団株式の売却交渉を行うも、他都市への本拠地移転を主張する住生活G側との溝が埋まらず、交渉は決裂。加えて本拠地である横浜スタジアムも2010年で契約が切れたにも関わらず契約を更新せずに違法に使用を続けるという始末。
結局2年越しのすったもんだの末、2011年秋にDeNAへの球団株式譲渡が決定。12月1日のオーナー会議及び実行委員会の承認を経て、12月2日にDeNAがTBSグループから株式を取得し「横浜DeNAベイスターズ」が発足した。同時に横浜スタジアム使用契約も晴れて更新した。ちなみにDeNAは2015年に横浜スタジアムの運営会社を買収して横浜DeNAベイスターズの子会社とすることに成功したほか、横浜DeNAベイスターズ単体での黒字化も達成している。
関係者
首脳陣
※就任、退団などでの異動は球団の正式発表があるまで編集しないでください。
一軍 | 二軍 |
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その他 | |
所属選手
※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示があるまで編集しないでください。
※ドラフト指名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。
支配下選手 | |||
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投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
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育成選手 | |||
投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
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記事のある球団スタッフ
- 飯塚悟史(球団職員)
- 五十嵐英樹(スコアラー)
- 有働克也(スコアラー)
- 川村丈夫(球団職員) ※神奈川フューチャードリームスへ監督として派遣
- 欠端光則(スカウト)
- 小谷正勝(コーチングアドバイザー)
- 齋藤俊介(ファームサブマネージャー)
- 佐竹学(データアナリスト)
- 篠原貴行(スカウト)
- 高崎健太郎(編成部プロスカウト(イースタン))
- 中後悠平(営業部)
- 中川大志(スカウト)
- 畠山準(野球新興部)
- (221)藤井秀悟(打撃投手兼広報)
- 横山道哉(スカウト)
- 吉見祐治(スカウト)
- ルイス・ロペス(国際スカウト)
ベースボールスクール・ジュニアチーム
- 荒波翔(ベースボールスクールコーチ) ※神奈川フューチャードリームスへコーチとして派遣
- 牛田成樹(ベースボールスクールコーチ)
- 松井飛雄馬(ベースボールスクールコーチ)
- 松本啓二朗(ベースボールスクールコーチ)
OB・関係者
戦績
横浜ベイスターズ時代
詳細
1993年(57勝73敗、5位 勝率.438) 監督:近藤昭仁
ベイスターズ1年目となった1993年。監督には1960年の優勝時のメンバーであり、常勝西武と巨人でコーチを務めた近藤昭仁を監督に招聘した。
前年打点王に輝いたラリー・シーツの残留交渉には失敗したものの、巧打者のロバート・ローズ、強打者のグレン・ブラッグスの獲得に成功する。ローズの獲得に伴い、守備力が衰えた高木豊はサードにコンバートにされる(悪送球を連発し、途中からファーストに再コンバートされた)。
投手陣の底上げが不十分な上に、前年佐々木主浩と共にダブルストッパー体制を確立した盛田幸妃が自主トレ中の怪我で出遅れ、チームも横浜大洋時代から3年連続の5位に終わる。
この年から始まったFA制度により、巨人の駒田徳広を獲得し、ドラフト会議では波留敏夫を獲得。
一方で、先発・リリーフで長年チームを支えた斉藤明雄が引退し、300盗塁を達成した高木豊や屋鋪要などの主力選手の解雇も行った。
1994年(61勝69敗、6位 勝率.469) 監督:近藤昭仁
今度は佐々木主浩が故障で出遅れてしまい、またしてもダブルストッパーは並立せず。
チームの若返り策の最中であった横浜は若手中心の起用を行っていき、序盤・中盤は3・4位を行き来するような成績であったが、終盤で脱落し、ゲーム差9.0の最下位となってしまった。
ドラフト会議では多村仁志と相川亮二という、後に主力として活躍するメンバーを獲得している。
1995年(66勝64敗、4位 勝率.508) 監督:近藤昭仁
ついに盛田・佐々木のダブルストッパーが復活し、16.0ゲーム差の4位に沈むも、12年ぶりの勝率5割復帰を果たす。
盛田幸妃は8勝5セーブ防御率1.97、佐々木主浩は7勝32セーブ防御率1.75という見事な成績を残すが、チームで唯一の10勝投手が中継ぎの島田直也という完全なリリーフ依存の投手編成であり、先発陣の弱さは相変わらずであった。
打線では後の首位打者である鈴木尚典がレギュラーに定着するなど、将来に希望を持たせるシーズンであったが、近藤監督は任期満了で監督辞任となり、後任にはバッテリーコーチであった大矢明彦が就任。
ドラフト会議では鶴岡一成、後に日ハムで最優秀救援投手に輝いた横山道哉らを獲得している。また、ヤクルトから荒木大輔が移籍してきた。
1996年(55勝75敗、5位 勝率.423) 監督:大矢明彦
大矢新監督は就任早々盛田幸妃の先発転向、ロバート・ローズ、石井琢朗、進藤達哉をコンバートするも失敗。結果、ローズはセカンドに戻り、石井と進藤がポジションを入れ替えただけに終わった。
チーム成績は低迷し、結果的にセリーグ全球団から負け越してしまい、最下位阪神とは1ゲーム差の5位となり6年連続のBクラスに終わってしまった。
数少ない希望として、この年斎藤隆が自身初の2桁勝利である10勝を達成した。
シーズンオフに投手陣のテコ入れのために権藤博をバッテリーチーフコーチとして招聘した。
1997年(72勝63敗、2位 勝率.533) 監督:大矢明彦
権藤博バッテリーチーフコーチの加入により投手陣が整備され、一時は首位ヤクルトを脅かす追随を見せるも失速し、結果的には首位と11.0ゲーム差の2位となる。しかし1990年以来7年ぶりのAクラス復帰を果たした。オフにコーチ人事を巡るフロントとの対立で、大矢明彦監督が退任し、後任には権藤コーチが昇格した。
この年、ついに鈴木尚典がブレイクする。打率.335で首位打者を獲得し、21本塁打も記録した。
ネガティブな話題としては、9月2日にヤクルトの石井一久にノーヒットノーランを喫している。
シーズンオフに先発転向以降低迷していた盛田幸妃を近鉄バファローズに放出し、中根仁を獲得した。
1998年(79勝56敗1分、優勝 勝率.585) 監督:権藤博
シーズン序盤は4位と不調であったが、6月から「マシンガン打線」が爆発。6月20日に6月以降では1979年以来19年ぶりの首位となり、以降は一度も首位の座を譲ることなく、10月8日に1960年以来38年ぶりの優勝を決める。
日本シリーズでも西武を4勝2敗で退け、日本一となった。
1999年(71勝64敗、3位 勝率.526) 監督:権藤博
チーム打率が.294という数字を叩きだして『マシンガン打線』をいかんなく発揮するも、チーム防御率が4.44のリーグ5位と悪かったため、1位の中日に10.0ゲーム差を付けられてしまった。
オフに1998年の日本一に貢献した佐々木主浩がシアトル・マリナーズに移籍。ロッテから小宮山悟を獲得した。
2000年(69勝66敗1分、3位 勝率.511) 監督:権藤博
金城龍彦が打率.346で史上初の首位打者+新人王のダブルタイトルを獲得した。この年は優勝争いに絡むことはなかった。 権藤博が勇退し、後任には西武黄金時代を作り上げた森祇晶が就任した。
ドラフト会議では内川聖一、吉見祐治を獲得。ロバート・ローズが年俸交渉の決裂により、駒田徳広が球団や首脳陣との対立により退団(駒田は所属先が決まらずそのまま引退)。進藤達哉ら3選手がトレードでブルーウェーブへ移籍し、小川博文ら3選手が加入、島田直也が自由契約でスワローズへ移籍した。
2001年(69勝67敗4分、3位 勝率.507) 監督:森祇晶
勝率は広島東洋カープの方が上だったが、勝利数が広島を上回っていたため、3位となった。
シーズン序盤に波留敏夫を放出し種田仁と山田博士を獲得。オフには正捕手を務めていた谷繁元信が中日ドラゴンズに移籍し、中日で正捕手を務めていた中村武志を金銭トレードで獲得。メジャーリーグ挑戦のため小宮山悟が退団した。
2002年(49勝86敗5分、6位 勝率.363) 監督:森祇晶
この年はどうしようもない貧打に見舞われた。チーム打率はセリーグの他球団が軒並み.250を超える中わずか.240、チーム得点数はセリーグ6球団で唯一500を下回る472点。チーム最高打点はボイ・ロドリゲスの60打点であった。そんな中、古木克明が100打席で.320、9本塁打の好成績を、吉見祐治が規定投球回に到達し11勝8敗を記録。横浜ファンの希望の星となった。結局、全日程を最下位で終えるほどの低迷に終わり、森は解任。後任に山下大輔が就く。
オフにはデニー友利が復帰。ドラフト会議で村田修一、加藤武治、吉村裕基、武山真吾を獲得。
長年エースとして活躍した野村弘樹、マシンガン打線の左キラーとして活躍した中根仁が引退した。
2003年(45勝94敗1分、6位 勝率.324) 監督:山下大輔
1970年のヤクルト以来の90敗に到達してしまったが、タイロン・ウッズが40本塁打を放ってホームラン王を獲得。
近鉄バファローズから門倉健を、シアトル・マリナーズに移籍していた大魔神こと佐々木主浩を獲得した。
2004年(59勝76敗3分、6位 勝率.437) 監督:山下大輔
シーズン終盤まで広島と5位争いを繰り広げるが、最終戦で敗れ、3年連続の最下位となった。山下大輔が任期満了で監督を退任。なぜか最終戦では胴上げが行われた。後任に牛島和彦が就任。
新ストッパー候補としてマーク・クルーンを獲得。ドラフト会議では那須野巧、藤田一也、石川雄洋を獲得する。中村武志は金銭トレードで新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。この年もホームラン王を獲得したウッズとは契約に至らず、ウッズは中日に移籍する。
2005年(69勝70敗2分、3位 勝率.496) 監督:牛島和彦
勝利数はヤクルトスワローズに劣ったものの、2001年と違い、勝率がヤクルトより上回っていたため、4年ぶりのAクラス。一時暗黒期を脱出する。
佐々木主浩が引退。「たった一度でいいからメジャーで投げたい」と斎藤隆がメジャーリーグ挑戦を表明し退団。ドラフト会議では高宮和也、山口俊、黒羽根利規を獲得。
2006年(58勝84敗4分、6位 勝率.408) 監督:牛島和彦
村田修一、吉村裕基が台頭したが、2年ぶりの最下位に転落。牛島はこの責任を取り退任。後任には10年ぶりの復帰となる大矢明彦が就く。
ドラフト会議では高崎健太郎、下園辰哉、梶谷隆幸を獲得。多村仁との交換トレードで寺原隼人、小田嶋正邦とのトレードで仁志敏久を獲得し、門倉健のFAによる人的補償で工藤公康を獲得。
2007年(71勝72敗1分、4位 勝率.497) 監督:大矢明彦
開幕戦で三浦大輔が高橋由伸に開幕戦初球先頭打者本塁打を浴びるというスタートを切ったものの、そこから勝ち負けを12試合続けて交互に繰り返す珍記録を作ったりしつつ、一時は首位にも立った。交流戦では、オリックス・バファローズ戦において椎野茂が毒舌実況を繰り広げる。
前半戦を3位で折り返したものの、夏場から失速。それでも三浦大輔が35イニング連続無失点の記録を作ったりもして、終盤には失速した阪神の背中が見えるところまではつけた。結局最終戦に敗れてシーズン勝ち越しは逃したものの、71勝72敗1分、前年最下位から4位に躍進した。
しかしオフには、守護神マーク・クルーンが読売ジャイアンツに移籍する。
ドラフト会議では、センバツ優勝投手の田中健二朗を高校生一巡目で指名した他、大田阿斗里や桑原謙太朗、小林太志らを獲得した。
2008年(48勝94敗2分、6位 勝率.338) 監督:大矢明彦
結局クルーンの抜けた穴を埋められる気配のないまま、目立った補強もなく開幕を迎える。開幕カードは阪神だったが、阪神キラーの三浦が出遅れ開幕投手は寺原が務めることに。この3連戦で3連敗すると、その後は浮上のきっかけすら掴めないままぶっちぎりの最下位に低迷する。
移籍したクルーンの穴埋めのために、ローテーションピッチャーの寺原をストッパーに配置換えするも、登板機会が少なく「ハマのヒ魔神」と揶揄される。
内川聖一が最終的に右打者の歴代最高打率となる.378を記録、村田修一が2年連続本塁打王になるなど中軸は奮闘したものの、投手陣が出れば打たれる壊滅状態に陥り、継投の拙さ、裏目に出続ける采配によるあまりの負けっぷりに大矢監督は「やる大矢」として2ちゃんねる野球ch屈指の人気キャラにまでなってしまった。何とかシーズン100敗は免れたが、内川の打率を下回る勝率.338という2リーグ制以来初の不名誉な記録も作ってしまう。
これだけの惨敗を喫したにも関わらず、大矢監督は3年契約のため続投が決定。さらに正捕手・相川亮二がFA宣言しヤクルトに移籍。シーズン中に2番手捕手・鶴岡一成をトレードで巨人に放出していたため、阪神からFA宣言した野口寿浩を獲得する。また石井琢朗が戦力外となり広島に移籍した。
特に一軍経験の長かった相川・鶴岡の2捕手がいなくなってしまった影響は大きく、これ以降長きにわたり正捕手不在に悩まされ続けることになる。
他、ドラフトでは即戦力選手の獲得を目的として、大学・社会人から、松本啓二朗、藤江均、山崎憲晴、細山田武史、小杉陽太らを指名した。
2009年(51勝93敗、6位 勝率.354) 監督:大矢明彦→田代富雄(代行)
WBCで故障した村田を欠いたまま開幕を迎え、案の定と言うべき開幕6連敗を喫し、その後も浮上のきっかけすら見い出せずシーズンが終了する。正捕手として獲得した野口は衰えが隠せず早々に二軍落ち、捕手は武山真吾とルーキーの細山田武史の併用となった。
5月18日には早々と大矢明彦監督の休養(要するに解任)が決定。何のための続投だったのか。その後は二軍監督の田代富雄が監督代行を務め、打撃重視の選手起用で建て直しを図るも機能せず、またしてもシーズン90敗を超え5位争いすら出来ず断トツの最下位に沈んだ。
2年連続のお荷物っぷりに、オフにはフロントが刷新され、新監督にはダイエー・ソフトバンク・巨人などで投手コーチとして抜群の実績を誇る尾花高夫の就任が決定。
ドラフトでは投手の補強を叫ばれる中、1位で筒香嘉智を指名、2位で加賀繁、育成1位で国吉佑樹を獲得。当時は非難の的となったドラフトだったが、数年後実を結ぶことになる。
佐伯貴弘が戦力外通告を受け中日へ移籍。ロッテから清水直行と早川大輔をトレードで、橋本将をFAで獲得。日本ハムからはターメル・スレッジ、稲田直人、坂元弥太郎らを獲得と、稀に見る大補強を敢行。例年巨人・阪神が盛り上げるストーブリーグにおいて一躍主役に躍り出た。ついにチーム再建なるかと期待されたが…。
2010年(48勝95敗1分、6位 勝率.336) 監督:尾花髙夫
監督に尾花髙夫、ヘッドコーチに島田誠と、福岡ダイエーホークスの黄金期を支えたコーチ陣が満を持しての指揮。開幕直後は黒星先行ではあったものの、広島とヤクルトがそれ以上に惨憺たる状況だったため、2年ぶりに最下位を脱出し一時は4位にもなった。
しかしそれも交流戦まで。交流戦で最下位に沈むと、あとはいつものベイスターズだった。エース三浦大輔が故障で絶不調、昨年ローテの救世主となったランドルフは全く勝てず、改名した寺原早人は名前の通り早々に戦線離脱。4番の村田修一も故障で不振に陥り、吉村裕基は前年以上の大不振で僅か49試合3本塁打、FAで獲得した橋本将も怪我で正捕手とはなれずと、主力となるべき選手に故障、不調が相次ぐ。
ルーキーの加賀繁が惨憺たるムエンゴながらローテーション投手として奮闘、途中入団のブレット・ハーパーがクルーンから逆転サヨナラ満塁弾を放つなど大活躍、石川雄洋や藤田一也らが成長を見せるなどの明るい材料もあったが(藤田はホセ・カスティーヨとのポジションの兼ね合いで出場自体は少なかった)、もはや負け癖が完全に染みついているというレベルで勝てなかった。投手は清水直行の10勝11敗が勝ち頭、大家友和が7勝と奮闘するも、3番目が寺原の4勝という時点でその絶望度は察していただけるだろう。また、守備陣も左からスレッジ・下園・内川という外野陣を始め、カスティーヨと石川の不安な二遊間、捕手は当時リードを酷評されることが多かった武山、と三塁手の村田修一以外は全て穴と言われるほどのファイヤーフォーメーションっぷりも負けに拍車がかかった。
絶望的な投壊状態だった広島からさらに10ゲーム差以上離される最下位をひた走り、最終的に3年連続の最下位。しかも史上初の3年連続90敗という不名誉な記録を打ち立ててしまった。
そしてシーズン終了後に球団売却騒動が巻き起こる。
横浜スタジアムの異常な球場利用契約が話題となり、買収に名乗りを上げた住生活グループは移転を示唆。これに反発した横浜スタジアム経営陣と横浜市は執拗な妨害を繰り広げ、ついに住生活グループは球団買収を断念する。2011年もTBSHDが球団を保有することが決定。
内川聖一が「優勝争いできるチームで戦いたい」とFA宣言し福岡ソフトバンクホークスに移籍。入れ替わりに北海道日本ハムファイターズからFAで森本稀哲を獲得。トレードでは寺原早人、高宮和也、野中信吾、桑原謙太朗をオリックスに放出し、山本省吾、喜田剛、一輝を、楽天からは金銭で渡辺直人を、そして西武からは弥太郎を放出して総帥大沼幸二を獲得した。
2010年のドラフトでは1位で須田幸太、2位で加賀美希昇カロカロミ、3位で荒波翔を獲得。
2009年のドラフト時とは異なり、育成よりも即戦力(特に投手)を重視したドラフトとなった。
2011年(47勝86敗11分、6位 勝率.353) 監督:尾花髙夫
2010年オフに先発投手を多数獲得したため、先発投手であった加賀繁をキャンプ中に再度中継ぎに転向。オープン戦初日に巨人に勝利し、幸先のよいスタートを切る。
しかし、よかったのは序盤だけであった。2010年オフに加入し、開幕投手を任された山本省吾が炎上、さらには清水直行や大家友和の不調など、先発投手が序盤でKOされる試合が続出。
このためほぼ毎試合中継ぎ投手を大量に起用する羽目になり、江尻慎太郎や加賀繁(この時は中継ぎ)に至っては阪神タイガース所属の久保田智之の持つ90試合登板の記録を更新できるペースで登板させられていた(当然両者とも故障した)。
去年に続いて村田修一が不振に陥るが、スレッジ、ハーパーの活躍もあって一時総得点が両リーグ一位になるなど開幕から打線は好調であった。5月には昨オフから無所属だった中村紀洋を獲得。
ところが、打線が好調だったのはシーズン序盤までで、シーズン後半になると最下位が確定したこと等の影響か、打線が低調になり、球団別の打撃成績でも中日とワーストを争う程に。
投手成績でも全球団最下位の成績という有様に加えて、6回3失点(QS)できる先発投手がほぼいない状況では、去年に続いて最下位になるのも当然の結果であった。
しかし、福島第一原発事故を発端とした節電対策に伴い創設された3時間半ルールの恩恵とはいえ4年連続90敗の記録をストップ。ただし、勝率自体は過去3年と大して変わっていない。
オフ、身売り問題が再燃。Mobageで有名なDeNAが手を挙げ、球団名を「横浜モバゲーベイスターズ」にしようとしたり、GREEと提携している楽天がTBS買収失敗の遺恨もあってかDeNAの参入に反対したりと色々と揉めたものの、最終的に「横浜DeNAベイスターズ」として球団売却が成立、承認された。
高田繁がゼネラルマネージャーに就任し、尾花監督は契約を1年残して解任。工藤公康の監督就任が決まりかけたものの、寸前でご破産になるなど監督人事に難儀したが、中畑清が新監督となった。
ハーパー、スレッジが退団、村田修一もFA宣言して読売ジャイアンツに移籍、真田裕貴がメジャー移籍を目指し退団。西武からトレードで後藤武敏を獲得。村田に代わる主砲として巨人を退団したアレックス・ラミレスを、村田の人的補償で藤井秀悟を獲得。過去にトレードで放出した鶴岡一成と小池正晃をFAで再獲得し、日本ハムを戦力外になった林昌範と菊地和正、広島を退団したジオ・アルバラードを獲得。
ドラフトでは即戦力が求められるなか、なんと9人中8人の高校生を獲得。主な指名選手は2位の高城俊人、4位の桑原将志、5位の乙坂智など。
戦力不足にあえぐチーム事情にもかかわらず、9人中8人が高校生という指名内容には疑問が呈されたりもした。この辺りのTBS末期のドラフト戦略は、2014年オフの大量解雇という形で表面化し「迷走」評されることも多い。しかし、09年の筒香や国吉、この年の乙坂や桑原将志など、後の主力となる素質型選手も多く指名していた事がわかる。
横浜DeNAベイスターズ時代
詳細
2012年(46勝85敗13分、6位 勝率.351) 監督:中畑清
中村紀洋や三浦大輔といったベテランが復活したが数打った外国人選手は悉く当たらず、前年終盤に期待を持たせた筒香嘉智や国吉佑樹らの若手もイマイチ振るわず、結局、例年通り定位置である最下位に低迷。阪神タイガースの大失速もあって5位浮上の可能性もあったが、浮上のチャンスを潰し、最下位のままシーズンを終えた。
三浦は無援護で10勝を逃すなど、シーズンを通して見れば、スローガン通りに『熱いぜ!』であったのは中畑清監督ぐらいであった。
監督と会社が変わったぐらいで順位が上がるほど軽い暗黒ではなかった。
しかし、監督の方が選手より目立っていると金本知憲から苦言を呈されたり、東京ドームで1勝もできないという史上初の記録を作ってしまうなど相変わらずな部分もあったものの、三浦の通算150勝達成や山口の通算100セーブ達成を始め、2年目の荒波翔がゴールデングラブを受賞、高崎健太郎は自己最多の7勝を挙げ、国吉、加賀美らも後半戦は活躍するなど明るい材料も多くあり、監督のおかげでチームの雰囲気が明るくなった。少なくともTBS時代末期よりはフロントのやる気も感じられるとファンのムードは比較的明るくなった感はある。
オフ、フロントは「言い訳の出来ない戦力を揃える」と豪語し、実際に中日からトニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサの外国人トリオを揃って強奪獲得。吉村裕基・江尻慎太郎・山本省吾をトレードで放出し、多村仁志・吉川輝昭・神内靖を獲得した。更にはMLBのブルワーズから、青木宣親のレギュラー定着により出場機会が減少しFAとなっていたナイジャー・モーガンを獲得。福留孝介や斎藤隆の獲得にも乗り出したがこの二選手は獲得できずに終わった。
2013年(64勝79敗1分、5位 勝率.448) 監督:中畑清
チームスローガンが『勝(かつ)』に改められスタートした2013年シーズン。
昨年度から話題となっていたチケット戦略はより一層強化され、超VIP待遇での試合観戦を実現した『ファミチケ!100万円VIPパック』やB級グルメを楽しめる『食べて勝!B食祭』、某ドラマにあやかった『倍返し!チケット』などたくさんのキャンペーンが企画・実施されメディアを賑わせた。
しかし今年度最もDeNAで話題となったのは、そうしたチケット戦略ではなくその試合内容であった。
特筆すべきは5月10日巨人戦(横浜スタジアム)。
この日は先発の高崎健太郎が滅多打ちにされ7回表終了時点で3-10にまで引き離されてしまう。
しかし7回裏、今シーズン古巣に復帰した多村仁志の代打2ランホームランを皮切りに猛追を開始。高木京、マシソンを打ち崩し、なんとこの回一挙6得点。これに留まらず9回裏、金城のファーストゴロを巡って中畑監督の猛抗議(判定は覆らず)。その後、高城、後藤が出塁。最後は代打出場の多村が守護神西村をライトへのサヨナラ3ランホームランで粉砕。
7点差をひっくり返し、12-10で今シーズン初の巨人戦勝利を収めた(この試合はチーム内でも大きなターニングポイントとなったらしい)。
この試合だけに留まらず、8月20日阪神戦(横浜スタジアム)・8月31日ヤクルト戦(神宮球場)でも序盤に7点差以上の点差を付けられながら打撃陣の猛追で大逆転。プロ野球史上最多となる、1シーズン中3度の7点差以上逆転を記録した。
4番ブランコを軸に打線が覚醒。8月から驚異的な活躍を見せた梶谷隆幸らの活躍あって、セ・リーグ1位となる630得点(チーム打率は.262で1位タイ)を記録する驚異の爆発力を持つ打線を形成した。
一方の投手陣も通算3000投球回、500試合登板を達成した番長三浦大輔だけでなく、11年ぶりに完投勝利を記録した藤井秀悟、チーム最多となる17ホールドを記録し貴重な左の中継ぎとして奮闘した大原慎司、シーズン中盤からクローザーに抜擢され19セーブをあげたソーサらが活躍。
これらの投手陣と驚異の打線が要所要所でガッチリかみ合い、4月途中での単独首位、更には2007年以来6年ぶりとなる月間勝ち越し等を記録。最下位脱出どころか、シーズン終盤の9月中頃まで広島・中日を相手に激しいCS争いを繰り広げた。
こうした選手たちの戦いとフロントの営業努力が実を結んだのか、横浜スタジアムの観客動員数は昨年度と比べ約22%も増加。ファンクラブ会員数は2.5倍(キッズ会員に至ってはなんと3.5倍!)と驚異の集客率を達成。横浜スタジアムは例年にない活気に包まれた。
しかし外国人選手史上初の2000本安打を達成した後調子を崩したラミレスなど、一部の選手が成績を残せず、フロントもシーズン途中で投手の補強を行ったが大きすぎる穴を埋めるまでには至らず、チーム総失点は686点、チーム防御率は4.50と共にリーグ最下位を記録するなど大炎上。打撃陣が得点しても投手陣が打ち込まれ負ける試合が多かった。
更に交流戦にはめっぽう弱く7勝17敗で最下位。加えてオールスター後の9連敗、目玉イベント『YOKOHAMA STAR NIGHT 2013』での三タテ、負けられない終盤の巨人戦で3連敗しCSが絶望的になってしまうなど肝心な場面で勝ち切ることが出来ず、長年順位争いができなかったことが響く結果になってしまった(この事は毎日新聞が掲載する『DeNA:ハマの星たち・地元選手手記』において石川・荒波両選手が語っている。)
阪神・中日・ヤクルトの三球団に勝ち越し、昨年と比べて首位とのゲーム差を30ゲーム以上縮めるなど奮戦したが、最終的な成績は64勝79敗1分の5位。中畑監督の掲げるCS出場は果たせなかった。
Bクラスが確定となった阪神戦後、中畑監督は昨シーズン最終戦に申し出たとおり辞意を表明したが、球団とファンの慰留により辞意を撤回。しかし代わりとして友利結コーチや高木豊コーチ、波留敏夫コーチらが責任を取る形で退団した(球団は慰留したが、本人らが退団を申し出た)。
また小池正晃、篠原貴行、嶋村一輝、内藤雄太、牛田成樹ら五選手が引退を表明、小池は引退試合で2本の本塁打を放ち、ファンや同僚たちに感動を与えた。小池・篠原・嶋村ら三選手はコーチに就任。二軍監督として皆に愛された山下大輔はフロントへと入閣した。
そしてオフにフロントは阪神タイガースからFA宣言していた久保康友、オリックスから自由契約となっていたアーロム・バルディリス、大リーグカブスなどでプレイしていた元巨人の高橋尚成、メジャー通算13勝のギジェルモ・モスコーソを獲得。さらに中日から戦力外の柳田殖生、佐藤祥万とのトレードで日本ハムから加藤政義を補強した。
一方で、細山田武史、アレックス・ラミレス、森本稀哲、吉川輝昭、ティム・コーコランらが戦力外。ナイジャー・モーガンが自由契約として退団。鶴岡一成が久保の人的保障として阪神に移籍した。
2014年(67勝75敗2分、5位 勝率.472) 監督:中畑清
詳細はプロ野球2014を参照
2015年(62勝80敗1分、6位 勝率.437) 監督:中畑清
詳細はプロ野球2015を参照
2016年(69勝71敗3分、3位 勝率.493) 監督:アレックス・ラミレス
チームのスローガンは「WE PLAY TO WIN」。
2005年以来のAクラス入りで、初めてクライマックスシリーズに出場した。
詳細はプロ野球2016を参照
2017年(73勝65敗5分、3位 勝率.529) 監督:アレックス・ラミレス
スローガンは「THIS IS MY ERA.」。
勝率が5割を超えたのは2001年以来16年ぶりだった。2年連続でクライマックスシリーズに出場し、ファイナルステージで広島を降し、19年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。
詳細はプロ野球2017を参照
2018年(67勝74敗2分、4位 勝率.475) 監督:アレックス・ラミレス
詳細はプロ野球2018を参照
2019年(71勝69敗3分、2位 勝率.507) 監督:アレックス・ラミレス
詳細はプロ野球2019を参照
2020年代
2020年(56勝58敗6分、4位 勝率.491) 監督:アレックス・ラミレス
詳細はプロ野球2020を参照
2021年(54勝73敗16分、6位 勝率.425) 監督:三浦大輔
詳細はプロ野球2021を参照
2022年(73勝68敗2分、2位 勝率.518) 監督:三浦大輔
詳細はプロ野球2022を参照
2023年(74勝66敗3分、3位 勝率.529) 監督:三浦大輔
詳細はプロ野球2023を参照
2024年(71勝69敗3分、3位 勝率.507) 監督:三浦大輔
詳細はプロ野球2024を参照
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