- プロ野球選手一覧 > 若田部健一
若田部健一(わかたべ けんいち、1969年8月5日-)とは、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)である。現在は福岡ソフトバンクホークスのコーチを務める。
概要
福岡ソフトバンクホークス #72 一軍投手(ブルペン)コーチ |
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若田部健一 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県鎌倉市 |
生年月日 | 1969年8月5日 |
身長 体重 |
184cm 87kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1991年ドラフト1位 |
引退 | 2005年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
鎌倉学園高等学校、駒澤大学を経て、4球団競合の末1991年ドラフト1位で福岡ダイエーホークスに入団。
ダイエー時代
1992年(1年目)からローテーション投手として活躍。同年10月1日、平和台球場最後の公式戦となった対近鉄バファローズ戦では、野茂英雄との投げ合いを1-0の完封で制し、自身の勝ち星も二桁にのせた。
1994年にも10勝をマーク。その後数年はチームの暗黒時代とシンクロするように不振を極めた。
1999年、この年着任した尾花高夫投手コーチの指導の効果もあって、10勝を挙げ復活。チームも日本一に輝いた。
2000年は、FAで読売ジャイアンツに移籍した工藤公康に代わるエース格として奮闘し、チーム最多タイの9勝を挙げ、チームもリーグ連覇を果たした。
2002年には4度目の10勝、また自身唯一のオールスター戦出場を達成した。
横浜時代
2002年オフにFA宣言。神奈川県出身で少年時代横浜大洋ホエールズ友の会に入っていたとあって、ホエールズの後身の横浜ベイスターズに移籍した。
2003年は不振に苦しみ、3年間で1勝2敗という成績で現役を引退した。
引退後
2017年から福岡ソフトバンクホークスの二軍投手コーチに就任し、2018年は一軍投手コーチを務めた。2019年は再び二軍に戻り、2020年からは三軍投手コーチを務める。2024年からは一軍投手コーチを務める。
エピソード
- 大学時代、同じ東都大学リーグに所属する青山学院大学の2学年下に、のちにプロで同僚となる小久保裕紀がいた。大学入学当時は投手だった小久保から、打者・若田部がホームランを打ったことがある。
- ふがいない投球も多かった一方、ここ一番で神がかり的な好投を見せる投手でもあった。現役当時は、不調時には「バカ田部」、好投時には「釈迦田部」などと称された。西武ライオンズ戦に強く、2000年には後半の優勝争いがかかった大事な試合で白星を挙げて逆転優勝を演出。2002年には10勝中5勝を西武戦で挙げている。また、プロでは一度も「押し出し」を記録していない。
- 年齢も背番号も近かった藤井将雄は親友。1999年、藤井の病が発覚した時、その真の病状(世間と本人には「間質性肺炎」と伝えられたが、実は末期の肺ガンだった)を知らされた数少ない人物の一人である。2000年、チームがリーグ連覇を決めた際に、背番号15をつけた「藤井ハリー」を手に胴上げの輪に参加したのも若田部である。藤井はその数日後死去したが、若田部は告別式ばかりか火葬にまで立ち会い、右肩の骨の分骨を受けた。その遺骨を忍ばせて日本シリーズ第1戦のマウンドに上がり、同じく分骨を受けた工藤公康と投げ合った。
- HKT48の若田部遥は長女。
- 夫人もタレント活動をしている。子供は遥のほかに息子が二人。
- 自身もローカル番組で共演したおすぎから「ホークスイケメン選手の元祖」と評された男前である。森脇浩司涙目。
成績
通算投手成績
通算:13年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 271 | 193 | 43 | 7 | 71 | 75 | 0 | - | .486 | 1315.0 | 363 | 761 | 670 | 607 | 4.15 |
関連動画
関連項目
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