年の瀬は少し時間が出来ましたので、久々にブルガーコフの著作を読み返しています。このブルガーコフについては10月にも少し触れましたが(参考)、「帝国主義者で反ウクライナ的」とのレッテルを貼られ、氏を記念した博物館はウクライナ全国作家同盟によって閉鎖の圧力に晒されているそうです。ソ連時代には体制を否定的に描いているとして表舞台から斥けられていた人でもあるのですが、こうして二重に弾圧される人も滅多にいないのではないでしょうか。
ブルガーコフはキエフ生まれのキエフ育ちで、生誕時には「ロシア帝国」籍、長じて後は「ソヴィエト連邦」籍となりました。日本国籍の中にも東北人や九州人がいるように、ソ連国籍の中にも区別はあると考えられますが、現代においてブルガーコフの排斥に動いている人々に言わせると氏は「ロシア人」なのだそうです。ある種の人々にとってそれは自明の理なのかも知れませんけれど、極右層の得意な在日(非日本人)認定と似たような勢いを感じますね。
結局のところ私が読んだ限りブルガーコフの著作に帝国主義への傾倒や反ウクライナ要素を見出すことは出来ませんでした。もちろん全ての著作を読んだわけでもないですので探せば見つかる可能性はありますが、理由は別のところにあるのでしょう。それはすなわちブルガーコフがウクライナ語ではなくロシア語で作品を書いていたから、です。
もっともこれはブルガーコフに限ったことではなく、同じくウクライナ生まれの先達であるゴーゴリを筆頭に、専らロシア語で著作を残した文化人は少なくありません。今でこそ政治的な理由でウクライナはロシアとは全く別の国家として扱われますけれど、当のウクライナ出身者の中には広義のロシア人としての帰属意識を持ち、ウクライナをロシアの一地域として認識している人も少なくなかったわけです。
日本という国もまた東国と西国には少なからぬ文化的な違いもあり、縄文系と弥生系の民族的な違いもある、「倭人」もいれば「蝦夷」もいる、いわゆる標準語と各地の方言とでは意思疎通が困難な場面だってあります。それでもなお関西人も関東人も同様に「日本人」として認識されているのですが、こうならなかった可能性もあったのではないでしょうか。「国際社会」の思惑次第ではロシアとウクライナのように日本が分割されて定義される世界線だってあり得たように思います。
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かつてウクライナでは民主的な選挙によって親ロシア派と目される大統領が当選したこともありました。その大統領が暴力革命によって追放された後も、ゼレンスキー体制下で活動を禁じられた政党うあ身柄を拘束された政治家が一定の得票を得て議席を確保していたわけです。そしてウクライナの保安庁が「裏切り者」として追跡している対ロシア協力者の存在もまた当のウクライナ政府によって明確に示されています。
ウクライナ人の中には反ロシア派もいれば親ロシア派もいる、それは自明のことです。しかるに我が国(恐らくは他の西側諸国も同様と思われますが)における問題として、メディアもまたウクライナ人の声を選別している、それが何ら批判を受けることなく許容されている点が挙げられるのではないでしょうか。一部の体制に都合の良い声だけに全国民を代弁させている、それはすなわち第二次大戦中と変わらないものだと私は思います。
日本の大手メディアに登場するウクライナ人は例外なくゼレンスキー翼賛体制の支持者であり、ロシアに勝利するまで戦争を継続することへの賛意を露にしています。私の見ていない番組だって多々ありますけれど、おそらく自国政府を批判するウクライナ人が全国紙やキー局に登場したことはないでしょう。これは決して存在しないからではなく、メディアが拾い上げる声を選別した結果でもあります。
第二次大戦中の報道もまた、「勝つまで」戦争の継続を支持する声だけが選別して伝えられ、それが国民の総意とされていました。ただ本当は当時の日本国内にも戦争に反対の人はいた、自国の政府に批判的に早期の終戦を何よりも優先する人だっていたはずです。あくまでメディアに登場しなかっただけのことと言えますけれど──現代のウクライナを巡っても同じことが繰り返されてはいないでしょうか?
戦争継続ではなく停戦を望む、自国の大統領を公然と批判する、反ロシア派の支配に抵抗するウクライナ人だって存在しているのですが、そうした人々の声を我が国のメディアは完全に封殺してきました。一方の陣営を鼓舞するための戦時報道としては教科書通りの振る舞いと言えますけれど、社会の公器としてはいかがなものかと思うばかりです。
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本当に平和を望むのであれば、NATOのプロパガンダに沿ったロシア非難ではなく、もっと別のものに批判の目を向けるべきでしょう。一見すると岸田内閣の軍備増強路線に否定的であるかに見えるメディアですら、露骨な偏向報道によってロシアを悪玉に仕立て上げており、戦争への備えを強めるほかないとの判断へと国民を導いています。かつて日本の戦争を賛美してきたメディアは今、別の国の戦争を支持するよう活動していると言うほかありません。