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某所をそろそろ引き上げようと思うので、懐かしいものをサルベージ。白水社文庫版『はみだしっ子』の各巻についてのレビュー。一応、自分なりのコメンタリーのつもりで書いたもの。 ネタバレ連発ですので、ご注意。 ○第1巻 後に三原順本人が「オクトパス・ガーデン」という総集編を描いているものの、読みかえしてみると、むしろ作品全体のエッセンスが含まれているのは、第一話「われらはみだしっ子」であるように思う。 どういえばいいのかわからないのだけど、この作品は基本的に収拾がつかない主題を描いたものだと思う。第一話では、その収拾のつかない問いが提示される。 ほぼ二十年ぶりに最終話まで読み返してみると、その収拾のつかない堂々巡りの中で、もっとも前に進んでいるのはサーニンであったことに気づく。 四人とも、それぞれに成長していくのだけれど、どうしてサーニンはあんなに先まで進めたのだろう。口べたなのに、問題の核心に一
参加した座談をまとめたものが近々刊行されます。公式には1月21日発売ですが、ひょっとするとそろそろ書店に並ぶかも知れません。 市野川容孝・宇城輝人編『社会的なもののために』(ナカニシヤ出版、2013年1月21日発売予定) ○公式 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=918 ○amazon http://amzn.to/109v1yF 座談における小田川の発言について、一カ所、かなり重要な脚注が欠落しています。具体的には267頁の "吉野作造における「社会の発見」" の部分。ここに次の脚注を追加しておいて頂けるとありがたいです。 飯田泰三『批判精神の航跡 近代日本精神史の一稜線』(筑摩書房、1997)第七章を参照。 言うまでもなく、飯田泰三さんの有名な御論文「吉野作造 "ナショナル・デモクラット" と「社会の発
3限、法政基礎演習。一年生が19名。全員に自己紹介をさせる前に、以下のようなお説教を。 ******************************** 法政基礎演習は、「法学部1年次生」向けの「法学・政治学の入門的授業」であると同時に「学生生活上のガイダンス」ということですので、最初に、何か「大学で学ぶとはどういうことか」みたいなお話をいたします。小中高で聴かされた校長訓話みたいなものですから、おそらくあなた方的にはどうでもいい内容になりそうですが、一応、通過儀礼だと思って我慢して聴いて下さい。 とりあえず、結論からいえば、私があなた方に大学でやってほしいことは次の三つです。 A.自分なりの関心(傾注 attention)を形成して下さい B.情報収集の技術を習得して下さい C.情報活用の技術を習得して下さい とはいえ、これでは何だかよく分からないので、一つずつ説明いたします。 A.自分
昨年秋の社会思想史学会「政治哲学の現在」セッションの報告書をやっと書き上げる。〆切は過ぎているのですぐにでも提出すべきだが、頭を冷やすために一日だけ寝かせよう。 報告書はこんな感じ。 ************************** 社会思想史学会第35回研究大会 「政治哲学の現在」セッション報告書 世話人:小田川大典(岡山大学) 司会:小田川大典(岡山大学) 報告:上原賢司(早稲田大学):国境を越える分配的正義 遠藤知子(慶応義塾大学):デモクラシーと分配的正義 山下孝子(慶應義塾大学、非会員):分配的正義と承認の政治 討論:五野井郁夫(立教大学、非会員)、小田川大典(岡山大学) 今回のセッションでは、アリストテレス以来、様々なかたちで論じられてきた分配的正義について、三人の報告者がグローバル・ジャスティス論、デモクラシー論、承認の政治の観点から報告し、小田川(政治思想史)と五野井郁
明治大学の大久保健晴さんから『近代日本の政治構想とオランダ』(http://amzn.to/gtM6X6)を頂きました。ありがとうございます。労作とか力作という言葉はこの本のためにある言葉ですね。 この本の凄さは版元の目次で一目瞭然なのですが、流通的にどこでも立ち読みできる本ではないと思うので、「はしがき」の一部を紹介しておきます。 ……周知のように、日本社会と西洋社会の邂逅、それ自体の起点は、ペリー来航から三〇〇年も以前、一六世紀のポルトガルとの南蛮貿易にまで遡ることができる。また江戸時代には、海禁政策(いわゆる「鎖国」体制)のもと、長崎・出島という「小さな窓」を媒介に、オランダとの交易・交流が行われていた。当然、その過程で西洋世界の文物に触れ、時に西洋人の姿を直接目の当たりにした者も、少なからずいた。そこから医学や天文学、薬学などの自然科学を中心としたオランダ学「蘭学」が勃興し、その成
明らかに分野不適合ですが、シャピロ『民主主義理論の現在』(amazon)の書評を書きました(『図書新聞』2982号20100918第五面)。原著(amazon)はデモクラシー論を専門としないぼくでも読んでたぐらい有名な本です。 熟議の危うさと、競争の可能性――マキァヴェッリとシュンペーターの復権 政治哲学から政治学方法論まで幅広くこなすデモクラシー研究の大家イアン・シャピロの著作としては最初の邦訳である。ともすれば規範的アプローチと経験主義的なアプローチとが乖離しがちなデモクラシー研究であるが、本書においてシャピロは、両者を架橋すべく、八〇年代以降の世界的な民主化の進展を踏まえつつ「デモクラシー理論の現状を、デモクラシーの現実的な運用に即して再評価する」ことを試みている。序章で問題の所在と全体の構成を示した後、前半(第一~三章)では「デモクラシーに何を期待すべきか」という「規範」問題が、後
昨晩のニコ生サンデル、メモはとったものの、twitter でつぶやくには長くなりすぎたのでブログのエントリに変更。 #sandel 001 昨日のニコ生サンデル。冒頭の早川社長挨拶。よく聴き取れなかったが『憲法で読むアメリカ史』 http://amzn.to/bp75Jh http://amzn.to/9hqkSu の阿川尚之さんが関わっているとのこと。『ジョージタウン・ロー・スクール留学記』 http://amzn.to/dtNoxJ で有名な方だが、『合衆国憲法のできるまで』 http://amzn.to/aEKL1A の訳者でもある。 #sandel 002 こういう場合に必ず何かジョークを入れなければならないようで、今シーズンのボストン・レッドソックスの調子について質問。「はかばかしくない。イチローを借りることができたら」とサンデル。つかみはオッケー。素晴らしい人間力。 #sand
日曜の夕方に絶賛放送中(翌週土曜深夜に再放送)のハーバード白熱教室、だんだん難しくなってきたのだが、第11回は非常に面白かった。6/19土の深夜に再放送されるらしいので、未見のひとは、是非ともご覧になることをお薦めする。 以下は何となくとってみたノートである。 第11回「愛国心と正義、どっちが大切?」。公式によれば、前半が「共同体の主張」、後半が「何に対して忠誠を?」。前半でコミュニタリアニズムの見解(〈個人主義≒リベラリズム〉批判)の紹介、後半でコミュニタリアニズムと愛国心(たぶん原語は patriotism?)についての批判的な検討。 冒頭のナレーションでサンデルは自分が「コミュニタリアニズムを提唱している」と明言しているが、このナレーションは英語版にはない。サンデルは(その著作においてと同じく)この講義の中でも「コミュニタリアニズム」について非常に微妙な評価を行っている(自分がコミュ
懐かしの母校(といっても六甲台ではなくて旧教養部だけど)での学会のせいかテンション29%高め(当社比)。 @1030金。翌日朝イチの「政治思想と文学」セッションの打ち合わせ。ケイティブのIOの議論はアーレント本最終章の加筆修正版というか、アーレント本最終章で唐突に出てくるエマーソニアン擁護がケイティブ「民主的個人性」の論の核心なので、ケイティブのエマーソン解釈は、彼のアーレント解釈と対比しながら論じないとだめだよねーとか。討論者のMくんがかなり詳しいペーパーを用意してくれたので、こちらは「初歩から学ぶジョージ・ケイティブ」的な話でいいだろうという他力本願。途中からIくんも交えて「明日は早いからね-」とか言いながら宿に帰ったのは午前様。 @1031土。大丈夫か?と思いつつも、5:00に非常時モードが起動し、ノートパソコンを宿のLANに繋ぎ、ばりばりと準備を始める。「ふふふ『インナー・オーシャ
第一次大戦班にて「G・E・ムアとブルームズベリー・グループ」というお題で報告。強面の方々の前で90~120分で「自由に」といわれても……。歳のせいか、だんだんプレッシャーに弱くなってきたような気が。 某事典で「ブルームズベリー・グループ」を書いた際に、納得がいかなかったのは、「父親レズリーのヴィクトリア朝的な倫理観から解放された子供たちが、ケンブリッジ使徒会のメンバーと出会って……」的な説明をしてしまったことと、あとムア『倫理学原理』の処理。調べてみるとレズリーは「恥ずかしがりやだから勉強会に呼んでも発言してくれそうにない」(大意)という理由で入会を認められなかったものの、レズリーの兄のフィッツジェイムズも、その息子ケネスも使徒会のメンバーだったわけで、どうやらもうちょっと使徒会との関係をちゃんと整理しないとまずいのではないかと。使徒会の中にあった、ある一つの傾向――たぶんその核心にムア『
帰省先で忌野清志郎が亡くなったことを知った。熱狂的なファンではなかったけれど、ぼくもRCサクセション世代だと思う。小学校高学年から中学生にかけて、テレビでRCとかシーナ&ザ・ロケッツとか甲斐バンドとかのライブを見て、あーこれがロックなんだとはじめて知った世代である(というようなくくり方ができるのかどうかは不明だが)。 金八とかザ・ベストテンが流行っていた頃、クラスメートどもはデビューしたばかりのサザンとかツイストを、ちょっとませた同級生はアリスとかオフコースを聴いていた。大人の恋愛をうたった歌詞はなんだかよくわからなかったし、ちょうど対人関係に悩みはじめた頃だったので、アリスの「信じあえば必ずうまくいく」的世界も嫌だった。 そういう、ちょっと対人関係に悩んだりし始めた中二男子の魂に、妙にしっくりきたのがRCの『トランジスタラジオ』(youtube)だった。夜遅く、学習塾の帰りに、買い食いに
桑島秀樹『崇高の美学』(amazon)の書評を某同人誌に。字数的に何も書けないだろうなあとか思ってましたが、いいたいことをほぼ全部書くことができてしまったのは、その程度のことしか考えてなかったからなんでしょうか。「アメリカン・サブライム」の傲慢に抗しつつ、表象不可能な「歴史的崇高」にどう応答するかということが本書の問題設定だったと思うので(てゆーか、そうでないと第四章の議論が最後に来ていることの説明がつかない)、そういう感じの論じ方をさせて頂きました。結論からいえば、崇高美学で「ヒロシマ」を論じるには、「石ころ」だけでなく、もう一工夫必要なんじゃないだろうかいうのがぼくの感想です。 追記 英文のタイトルを付けろという指示があったので、脊髄反射的に "'Back to the Rough Ground!': Hideki Kuwajima on the Sublime and HIROSHI
昨日の宴席で話題になった五野井くんの「路上からの政治――「排除」と戦う芸術家たち」(岡山では、朝日新聞、2009年3月14日朝刊の「異見新言」)を一日遅れで読む。 感想。地方都市で暮らした経験しかないからかもしれないが、「路上」に「開かれた希望」があるという確信は、ぼくには持てない。 昔ちょっと論争になったのだけれど、ぼくは「あらわれの空間」というやつは、いろんなもので囲い込んで、必死の覚悟でいろんなものを排除しないと維持できないものだと考えている。路上が政治や芸術に満ちた「公共空間」となる可能性は否定しないけれど、それは「公共空間」に囲いが要らないということではないと思う。「言語と行為」の自由(≒理想的発話状態)は、一方で「知識ない奴は黙れ」とか「低学歴は黙れ」とか「誰かの紹介状がないなら出て行け」といった類の抑圧的なノイズ(その最たるものが自主規制だと思う)を排除しないと成り立たないし
花粉症と何か中途半端な風邪的なものに苦しめられる三月上旬、関西大の中澤信彦君から『イギリス保守主義の政治経済学――バークとマルサス』(amazon)を頂いておりました。ありがとうございます。ついに出ましたね。 中澤君とのつきあいは、たぶん1995年(だったか1994年だったか)12月の某学会関西部会で、たぶん第三章の内容についてのご報告をお聴きして以来ではないかと思います。ちょうど初期コールリッジについての論文(プリーストリ=ハートリ的な理神論の呪縛から離脱することで思想家コールリッジが形成されたというような話)を書いた後だったこともあって、バークの理神論批判(=啓示宗教擁護)を重視しない中澤君のスタイルにしつこく噛みついた記憶があるのですが、結局そのスタイルを貫いて単著をおまとめになったわけで、噛みつき続けた側としては「この頑固者!」という突っ込みを入れるしかないです。以下はそういうバイ
今年最も記憶に残った一冊(amazon)。実をいえば、初読は中学校二年生のとき。この春に、どういうわけか急に読みたくなって探したら、「福音館文庫」の一冊としてまだ購入できるというので注文。すぐに読み終わったとはいうものの、初読で挫折した(たしかルソーの思想を説明した第四章の終わり辺りで放り出したはず)ことを考えると、約30年かかってこの一冊を読み終えたことになる。 中二の少年Dは、他の科目はことごとく壊滅状態の中、たまたま小学校のときに少しばかり勉強していた日本史だけは得意で、授業中も「ああ、その話なら知ってるよ」と根拠のない自信(後に高校に進学して、その自信は見事に砕かれる)を支えに、ひたすら居眠りをする毎日であった。しかし、ある日、せんせいに「ええと、「東洋のルソー」って呼ばれた日本人の名前、しってるか」という問題をふられた際、Dは答えることができなかった。「ええと、「東洋の神秘」はグ
……本を読んでわかるかわからぬかは、もちろん、つねに本の側にだけ理由があるのではありません。読者の側にもそれなりの理由のあることが多いのです。……むずかしい本を読んで、いや、そもそも本を読んでよくわかる工夫は、読者の側にもなければなりません。その読者の側の条件は、第一には言葉に関し、第二には経験に関しているといってよいでしょう。 文章による表現は、著者のなんらかの経験を、言葉の組合わせに翻訳して、人に伝えようとすることだ、といっていいと思います。これを読者の側からみれば、言葉の組合わせ、つまり文章を通じて著者の経験を知るということになります。…… 読者は言葉が意味するところを知っているだけでなく、言葉が意味するものがなんなのか、多かれ少なかれ、読者自身の経験に即して知っていなければ、ほんとうに文章を理解することはできないでしょう。一方に言葉、あるいは象徴があります。他方に経験、あるいは象徴
Katherine Dacey on Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms. 英語版『夕凪の街 桜の国』(amazon)のレヴュー。この作品の魅力をくまなく語っている見事な批評だと思います。著者のキャサリン・デイシーさんから許可を頂いたので、以下、全訳を掲載。 キャサリン・デイシー「信じるに値するヴァルネラビリティ」(※) 『歴史の観念』においてR・G・コリングウッドが述べているところによれば、19世紀の歴史家たちは自らの仕事について、それ以前の歴史家たちとは異なる見方を持っていた。それ以前の世代の歴史家たちが、歴史をたんなる事実の連なりとして扱っていたのに対し、ロマン主義者たちは、自らの作品を通じて、過去を再創造することを望んだのである。コリングウッドはいう、ロマン主義者の歴史家たちは「自らが描き出す過去の様々な行為の中に共感的
授業準備。近世儒学でエクササーイズ。荻生徂ラララライ……。 某授業で教科書に指定した『日本政治思想史』、明治維新に入る前に、「第一章 近世思想の遺産」の話をしなければならない。わずか30頁足らずだが、朱子学的思惟の解体と国学イデオロギーの展開という日本政治思想史研究においておそらく最も濃厚な話がまとめられている。まあ丸山『日本政治思想史研究』のメインテーマだし……。 二単位科目で(つまり30時間以内で)西洋政治思想史の講義をする場合、一般に(かどうか知らんが……)後半のメインの話は「近代」的な政治思想の形成――「自然法の世俗化」と「社会契約説の成立」――の物語になるのではないかと思う。つまり、〈政治社会のルールは、神によって自然的なものとして与えられた法である〉という中世のキリスト教的自然法思想(トマス・アクィナスとか)が、〈政治社会とそのルールは、自然権において平等な人々が、作為=社会契
ハーバーマスが「憲法パトリオティズム」との関連でテイラーに言及しているところ ……今日では、「国家市民資格」あるいは「シティズンシップ」という表現は、国家的組織の構成員資格だけではなく、国家市民の権利・義務により内容的に定義された地位をも表す。……共和主義的見解にとって、法共同体の自己組織化の問題が中心的意義を持ち、政治的参加権とコミュニケイション的権利が国家市民の核心である。…… 法哲学では、このような能動的国家市民について二つの相反する解釈が対立している。国家市民の役割について、ロックに由来する自然法の自由主義的伝統においては個人主義的-道具主義的理解が、またアリストテレスにまで遡る国家論の共和主義的伝統においては共同体的-倫理的理解が、それぞれ核心的意義を持つ。国家市民というものが、一方では法的地位を根拠付ける組織の構成員資格の範型に従って概念化されており、他方では自分自身で決定をお
つい古本屋や喫茶店をハシゴしてしまう。たぶん、肺病で夭折した文學少女の霊に取憑かれてしまったんだと思う。 女子どうしだから解り合える、なんて嘘。女だからって、あんな女といっしょにしないでくれる? 《ダ・ヴィンチ》に載る十冊の話題の新刊より、《彷書月刊》で紹介された一冊の古本。 日本の書店で小説の棚が作者の性別で分けられてる意味がわからない。 「等身大」「本音」「自分探し」のたぐいの言葉が苦手。 「ミステリ」とか「ファンタジー」「SF」といった既存の特定ジャンルが好きなのではなく、一冊一冊の小説が好き。 「若い女性に人気」と言われている本が、「いつまでも少女でいたい自分を肯定するF1層(おばさん)の文学」にしか見えない。 ある日悪い宇宙人が攻めてきて怪光線を放射し、日本の識字率が三〇パーセントになってしまっても、自分は文盲にならないという根拠のない自信がある。 「オチ」のある小説は退屈。 自
採点が終わり、入力作業も済ませたので、とりあえず買っておいた『思想』1000号(2007.8)をぱらぱらと。創刊号から1000号までの総目次号。執筆者索引も付いているので便利。 修士課程に進んだ1990年春、とりあえず読んでおかないといけない雑誌ということらしいので総目次を自分で作成(比較的よくチェックしてたのは、日本語の雑誌だと『思想』『現代思想』『年報政治学』、英語だと APSR, Political Theory, Philosophy and Public Affairs に自分の関心で JHI, Victorian Studies と SEL の毎年の19世紀研究の回顧のところぐらい――といっても、どの雑誌を読んでおけというような指導は一切なかったので、あまり参考にはならんと思いますが……)。1-500号の総目次は501号(1966.3)にまとめられているものを、後は100号分ず
via らず☆すた@20070630。田舎故に『UP』にたどり着くまでに結構な時間が。 「討議民主主義とその敵対者たち」(『法学協会雑誌』118-12, 2001)での(おそらくはエルスターのみに依拠した)アーレント批判の、後日談ということになろうかと(つまりは、毛利透「市民的自由は憲法学の基礎概念か」への反論)。 ……〔アーレント〕が描くのは、「真正な政治 authentic politic」の姿である。ギリシャのポリスを典型例として説かれる「真正な政治」活動とは、言論である(ホーマーの英雄譚にもかかわらず、戦闘活動はギリシャ人にとって第一義的な重要性を持つものではなかった!)。言論として定義された政治活動の、その内容は何かというと、それは何と政治自体である。政治を行うこととは、自らの生物学的な生存のための再生産活動であるところの労働と家庭の場から踏み出し、多くの市民の面前で公に討議し、
学生: すいません、レポートが書けませんでした。 教員: それで……どんなリアクションをお望み? 学生: 何もいわず、無条件で許して下さい。 教員: (゚Д゚)ハァ? 学生: では、お説教を聴きますので、それで勘弁して下さい。 教員: そもそも、どうしてきみはレポートを仕上げることができなかったのだろう? 学生: それが、なんというか、うまく集中できなくて……。 教員: 受験生時代はちゃんと勉強していたのだろう? 学生: そうですね……大学に入ってからダメ人間になったようで……やはり、座禅とか寒風摩擦とかビリーズブートキャンプとか、何か努力した方がいいんでしょうか。 教員: レポートを書くにせよ、期末試験の対策をするにせよ、やはりそれなりに集中して取り組まないと無理なのだけど、大学に入ってからそういうことができなくなってしまうという学生は結構いるようだね。とりあえず、以下の四つについて自
「人文系」の英語、てゆーかちょっと小難しい英語の文章を丁寧に読むための語学といった方が正確なのだろうが、不十分ではあれ、それを自分がどこで身につけたかということを考えるに、おそらく高校の三年間で教わった英文法と、駿台予備校大阪校で表三郎せんせいとか伊藤和夫せんせいに教わった長文読解のノウハウが、あたくしの語学力のほとんどすべてであろうということに気づく。大学の教養部の英語の授業ではほとんど訳本を棒読みしていたので、何かを教わったという記憶があまりない。強いていえば、テキストの一冊だったリースマンの『孤独な群衆』の註釈つきのダイジェスト版(?)が面白かったので、翻訳に頼らないで読み切ったぐらいだろうか。 当時の大学受験の英語は非常に「人文系」で高校で副読本として買わされた原の『英標』は小難しい文章ばかりを集めていたし、駿台の長文の授業では抽象的なテーマを扱った英文ばかりを読まされた。夏期講習
由良ゼミの真骨頂は、90分の公式的なゼミが終わり、由良君美が個人研究室に引き上げてから、本格的に開始された。アルバイトやデートの約束がなくて、もっとぼくと話したい人は、紅茶を出すからいらっしゃいと、彼はわたしたちを招いた。……由良君美は学生たちのために紅茶を入れ、自分の分にはたっぷりとオールドパアを入れると、尋ねてくるのだった。ところで最近の収穫は何かね? 何か新しい発見があったかね? 研究室に招かれた全員がその一週間のうちに読んだ書物や観たフィルム、足を向けた展覧会について報告めいたことをいうと、由良君美はたちどころにそれに註釈を与え、そこから始まって即興的な、第二の講義が開始されるのだった。ブレイクからエリアス・カネッティへ、ネオプラトニズムからクセナキスへ、またデュシャン・マカベイエフから吉田喜重へと、話題は自在に飛躍した。きみ、それについてはあれを読みたまえ。うーん、その考え方はす
待望の中野剛充『テイラーのコミュニタリアニズム』(amazon / bk1)を購入。ざっと読みましたが、主に扱われているのは PP ですなあ。「公共哲学」としてのコミュニタリアニズムの理論構築という規範的な問題意識が伺われる、いい本だと思いますです。 ただ、気になる点というか、とりあえずあたくしは、コミュニタリアニズムという切り口はテイラーを論じるのに必ずしも適してないという解釈なのですが、それよりも問題はまあ、テイラーの論文「消極的自由はどこが間違っているか」(Taylor, Charles 1985. “What’s wrong with negative liberty,” Philosophical Papers: Philosophy and the Human Sciences, Volume II, Cambridge University Press. (1st publi
最も明敏で勤勉な精神が、われわれを途方に暮れさせ、誤った光でわれわれをおだて、誤導するにちがいないような状況において、われわれに真の光を与えてくれるのは、むしろそうした明敏な精神が軽蔑の対象にするような、自然の中にある、ごくありふれた、ときには最もくだらない事物についての、お気楽な観察であろう。(バーク『崇高と美の観念の起源についての哲学的研究』)某論文、書き終えてさっき送りました。一番最後だったようです。ご迷惑をかけてすいません。 バーク、リオタール、ホワイトの崇高論についてねちねちと。リオタールがいちばんきつかったというか、しんどかったですなあ。同じハイデガー的崇高論でも、ホワイトのやつはずっと分かりやすいというか、浅薄というか。 バークもなかなかきつかったわけですが、要するにいいたいことは、 (1)ひとくちに美的体験といっても、恐怖と緊張をもたらす「崇高」は、快と弛緩をもたらす「美」
先週からゼミで稲葉さんの『ナウシカ解読』を読んでいる。当初は一人の思想家が十年ぐらいものを考えるというのはどういうことなのかという問題をマンの『魔の山』でやろうかとも思ってたのだが、某せんせいから「『魔の山』、学生に読ませてみたけど、全然だめだったよ」と言われたので、とりあえずマンガ版『ナウシカ』を、稲葉さんの本を手がかりにしながら、読んでみることにした次第。 第一回は第二章まで。第一章「成長する物語」の担当はAくん。第一節では大まかな方向性が示されている(特に9~10頁を参照)。12年かけて書かれたマンガ版『ナウシカ』(1982-94)には12年間の宮崎駿の苦闘の跡が読み取れる。特に注目すべきは、明らかにマンガ版には、アニメ版(1984年)の安易なエコロジズムへの批判と、その克服の試みが読み取れるということ。というか、アニメ版『ナウシカ』的なものへの批判こそが、マンガ版『ナウシカ』の中心
@20060425 2限、非常勤、テキスト第一章。 4限、二年生ゼミ、Sくんに前回の要約をやってもらった後、補助教材(三回分)二回目、経済交渉、担当はIくんと、Aくん。 5限、三・四年生ゼミ。前回の要約を三回生のYさん、Tくんにやってもらった後、テキスト第二章「権力」。 導入 モダンな権力論とポストモダンな権力論? 学生:われわれ学生は、権力の掌で踊らされてはいけないのですよね。 教員:読んできてないな? 学生:読むには読んだんですが、話が拡散しすぎて、頭の中でうまく整理できませんでした。 教員:なるほど、少しずつだが、賢そうに見える逃げ方を覚えつつあるな。たしかにこの章は、20世紀の権力論を網羅的に論じている。いろんなことが勉強できるからいいではないか。教科書というのはそういうものだ。 学生:そうはいっても、ある程度の一貫したストーリーというか、まとまりのようなものがあってもいいと思うの
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