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どこでだかは知らないけれど、いま話題の note 。 とにかく簡単に有料ページが作れる。これが、note のほぼ唯一にして、最大の強みだ。登録からものの数分で「続きを読む(有料)」なコンテンツが公開できる。手軽すぎて怖い。そこでは投稿されたコンテンツのことをノートと呼ぶのだけれど、ノートは無料で公開することもできる。が、課金がなければ、140字縛りのない Twitter みたいなものでしかない。 もちろん、縛りのない Twitter に意味なんてない。note を使うなら「売る」か「買う」かその両方か、だ。売るもののないぼくは、ウインドウショッピングのつもりでアカウントを作った。黎明期特有のぬるい空気の中、ぴょろぴょろと小銭が舞っている。note の外で見たことのあるアカウントを適当にフォローして、適当にノートを買ってみる。 最初に買ったのは岡田育というひとのノートだった。これはマイナビニ
・ 「ネットがつまらない」≒「自分がつまらない」 - シロクマの屑籠 いまどき「ネットが面白い」なんて人はまったくどうかしている。 まあ、半分くらいは好い意味で、だ。なぜなら彼らは、インターネットという社会インフラを「趣味」にしてしまった人たちだからだ。いってみれば、鉄オタにとっての鉄道みたいなものだろうか。一般人にとってのネットや鉄道は、もはや面白いとか面白くないとかいう興味の対象ではない。環境に近いものになってしまった。 もちろん、「ネットがつまらないのは自己責任!」というのも正論だと思う。そして、「ネット」の部分はあらゆるものに置き換え可能だ。ぼくが鉄道を愉しめないのは、ぼくのせいに違いない。たしかにぼくは、鉄道を愉しむための努力をしてこなかった。ネットも同じなんだとすれば、それはネットが高度に訓練されたネットオタクでなければ愉しめない、ただのありふれた風景になってしまったということ
あなたがもし、ある仕事について「気付いた人がやればいい」といったする。 その瞬間から、それはあなたの仕事だ。職場の備品整理でも、代表電話の応対でも、ゴミ捨てでも、水回りの掃除でも、宅配の受け取りでもなんでもいい。どんなに些末な、仕事ともいえないような仕事でも、それを自分の仕事にする覚悟がないなら、そんなルールを提案すべきではない。自分以外の誰かにやらせたいなら尚更だ。 なぜか。「気付いた人がやる」が成立する集団では、そもそもそんなルールを作る必要はない。放っておいてもそういう運用になる。個々人の負荷状態や仕事の重要性に応じてオートバランサーが働く。逆に、「気付かない人」や「気付いてもやらない人」がいるから、ルールを作りたくなる。が、「気付かない人」はルールを作っても気付くようになるわけではない。「気付いてもやらない人」はそもそもやりたくないわけで、ルールを作っても気付かないふりをするだけだ
山鉾巡行を明日に控えて、今夜は宵山。 普段は馬鹿に人混みを嫌うくせに、祇園祭の京都には2年連続で出かけている。ミーハーで人嫌い。ええい、面倒な。いずれ、メインストリートで群衆にまみれるのは致し方ない。というか、祭りが閑古鳥では話にならない。華やいだ雰囲気は楽しみつつ、無理せず脇道に逸れながら、宵々々山の京都をそぞろ歩いてきた。 まだ明るい午後六時すぎ、山鉾はおいて先斗町へ。狭い通りに浴衣が似合う。 三嶋亭より後発だけど、すきやき「いろは」もギリギリ明治創業の老舗。 直前の夕立のおかげで、この日の夜は涼しくて過ごしやすかった。 四条側からくると見逃しがちな、お茶の専門店「茶香房 長竹」の提灯。 先斗町のお上品な料理屋を横目に、「新福菜館 河原町店」にて腹拵え。 また降りだした小雨を避けて新京極へ。錦天満宮のお牛様とまみえる。 新京極を四条通に出る手前、安産祈願の染殿院。 午後七時、ついに歩行
ぼくは本当に厭なことからは逃げることにしている。 たとえば、学生時代の就活は精神的にヤバそうだったから、逃げた。ただ、大学までやってくれた親の目もあったから就活のフリくらいはした。まあ、実際に訪問したのは 2社だけで、あとは梅田で適当に時間を潰したり、ネットで求職サイトを眺めたりしながら、そのままフリーターになった。が、バイトも同じところに3年もいれば、なにかと負担が増えてくる。週休2日、フルタイム。就職するのとなにが違うんだ。しかも、福利厚生なし。 適当にサラリーマンやってる方が快適なんじゃないのか。 バイトで貯めた金をウェブ制作系のスクールに突っ込んで、勢いで就職した。このときの就活は、切羽詰まった学生の一斉就活と違って気楽なものだった。「社会人」としてはすでにドロップアウト済みの身だ。脇の甘そうなウェブ系中小企業をネットで探して訪問1社目、あっけなく決まった。が、2年でやめた。バイト
そもそも、結婚に左右される“自由”とは何だろう? ありていにいえば、「金」と「時間」の使い方、ということになるだろうか。もう少し包括的に「人生のリソース」と言い直してもいい。曰く「憧れのバイクを買いたいのに嫁の許可が下りない」。曰く「いまみたいに好きな服を買ったり、美味しいものを食べ歩いたりできなくなる」。なるほど、そういうことはあるかもしれない。ぼく自身、結婚して間もない頃は不自由に感じることがないでもなかった。ひとつは本を読む時間が減ったこと、もうひとつはインターネットに漂う時間が減ったこと。けれどもすぐに、それらを不自由だとは感じなくなってしまった。 なぜなら、ぼくは代わりに新しい自由を手に入れたからだ。 独身の頃、有意義な「金」と「時間」の使い道は限られていた。本、インターネット、映画、音楽、カメラ…そういった趣味に費やすことが、ぼくにはほとんど唯一の選択肢だった。だから、限りある
週末の京都市内は阿鼻叫喚の観光地獄である。 デジタル一眼レフカメラをぶらさげて、お京阪で祇園四条に乗り込んだはいいけれど、地上に出た途端、歩道を埋め尽くさんばかりの観光客に心が折れた。いきなり、折れた。四条通を八坂神社まで流されて行く気力すら湧いてこない。八坂神社から円山公園を舐めて高台寺を横目に清水寺まで巡るという東山定番コースを放棄して、全力で逃げることにした。といっても、洛中で人混みを避けるのは割と簡単だ。碁盤の筋を一本逸れるだけでいい。まあ、どうしても観光名所を巡りたいなら仕方ない。けれども、のんびり京都の雰囲気を楽しむなら、あえて道を逸れるのも悪くない。 そんなわけで、人のいない地味な京都を撮ってきた。 四条通にあって観光客とは無縁の「仲源寺」。本尊の地蔵菩薩に、重文の観音様も。 四条通から花見小路に入ってもまだ人は多い。早く路地に逃げ込まねば。 舞妓さんのセットなどする「キヌ美
正直、事件そのものはただの喧嘩にしかみえない。 店主の態度が気に入らず客が憤慨する。全国津々浦々で日々起こっている、極めて普遍的な事件である。ぼくだって、なんだよあの店!と思ったことはなくもない。店主の方だって、なんだよあの客!と思うことはあるだろう。そんなとき客がネット好きだと少々面倒だ。きっと食べログに酷評レビューを書いて、TwitterやFacebookで愚痴るだろう。彼に好意的なフォロワーや友だちは件の店に悪い印象を持つだろうし、場合によっては一緒になって店の悪評を喧伝するかもしれない。ここまで含めてよくある話である。 今回の事件が「よくある話」ですまなかったのは、次の3つが絡んだせいだろう。 ・ 乙武氏は著名人でそれなりの影響力を持っている ・ 乙武氏は身体障碍者である ・ 現代社会はいまだ非常にバリアフルである これらを踏まえて、錯綜する論点を適当に概観してみる。 【 乙武氏に
ネットは広大で、そして、ゴミだらけだ。 ぼくもこうして、多くの人にとってのゴミを生産している。ネットは広大で、そして、寛容だ。そんな夢の島から、宝物を見つけ出すのは難しい。ぼくはズボラな人間だから、自分で探し歩くのは苦手だ。だから、はてなブックマークなんかを眺めている。もちろん、はてブの人たちはぼくではない。当然、人気エントリーも宝物ばかりというわけにはいかない。やっぱりほとんどはゴミで、たまに面白い玩具が混じっていたりする程度だ。拾ってみたらゴミだった、ということも少なくない。それでも、ほどよく楽しんできた。どうせ、宝物ばかりたくさんあっても、すべてを味わっている暇はないのだから、ちょうどいいともいえた。それが最近、宝物かな、と思って伸ばした手にべったりとうんこがついている、そういうことが増えた。まあ、ぼくが好みに煩くなっただけ、ということはあるかもしれない。それにしても、こんな一等地に
女性脳、男性脳なんてものが本当にあるのかどうか、ぼくは知らないし興味もない。たとえば職場の愚痴をこぼす共働きの妻に正論で答える夫、というようなシチュエーションで主に「男性脳」を否定的な文脈で扱うのがイマドキのように思う。いわく、彼女は業務改善の相談をしているわけではないのだから、誰でも思いつくような解決策を上から目線で講釈したり、あまつさえそりゃあ君にも非があるねなどと冷静な意見をいったりするのは間違っている。それは大変だったね、君の気持はよくわかる、そりゃあクライアントが酷いね…とまあ、ひと通りの共感を示しつつ膿を吐き出させてあげるのが正解だろう、というわけである。 ぼくとしても、この結論自体に異論はない。 愚痴に正論とは野暮の極みである。定番の「あるあるネタ」といってもいい。ただ、そこに「男女の脳の違いによるすれ違いだ」という説明が付くことには大いに違和感がある。女性は共感脳、男性は解
● 主観的、形式的には独立した事業主である ディストリビューターは独立したビジネスパーソンである。某社と契約関係にはあるが決して社員ではない。およそセールスマンとして食えるレベルの技術はない。そのかわり、売り込むためなら嘘や誤謬をも恐れない。そんな前向きすぎるビジネス戦略によって、著しく信用を落としたり、哀れな目で見られたりすることもあるが、すべては自己責任である。某社にすればありがたい常連客である。 プロブロガーは独立したビジネスパーソンである。広告を扱ってはいるが広告会社の社員ではない。およそ文筆家として食えるレベルの文章は書けない。そのかわり、PV のためなら炎上をも恐れない。そんな前向きすぎるビジネス戦略によって、著しく信用を落としたり、哀れな目で見られたりすることもあるが、すべては自己責任である。プラットフォーマーにすればありがたい労働力である。 ● 搾取される不幸から自由だと信
ポジティブを装ったタチの悪い欺瞞が、ウイルスのごとく蔓延している。 ぼく自身、生来あまりポジティブな人間とはいえない。だから、なおさら目に余るのかもしれない。それにしても、だ。たとえば、ライフハックだのフリーランサーだのスタートアップだのといった界隈の胡散臭さ!これはもう、格別だ。ちょっと鼻をつまんだくらいじゃ防ぎきれないレベルの腐臭を発して、止まるところを知らない。しかもそれは、一見、ポジティブを装っている。包装紙も、熨斗も、風呂敷も何もかもがポジティブだ。もはやパソコンの前にいるだけで満願成就して生涯幸せになれるんじゃないかと思うほどである。が、そんなうまい話はない。せいぜい奇人だけが使える劇薬が少々、残りはただの欺瞞である。 ○ 欠点を誤魔化すためのポジティブ たとえば、自尊心が強すぎて他人とうまくやっていけないことを、自立心が強くて馴れ合うことが苦手などと言い換える。あるいは、どん
とかく、自己愛というのは厄介なものだ。 ● 「自己愛が腹ペコの人は、判断力が低下する」問題 - シロクマの屑籠 心理学の素養はないので自分のことを書く。自己愛に限らず、人間何かが極端に不足すれば判断力は鈍るものだろう。欠乏を埋め合わせる方向へと、思考なり行動にバイアスがかかる。迷いこんだ山で飢えたら、どう考えてもヤバいだろうって草間弥生みたいなデザインのきのこでも美味そうに見える。本当に飢えたことはないけれど、そういうものだという気はする。もしかしたら、食った途端にカラダが倍に膨れ上がるとか、さらにキラキラ光る花を食べたら手から火の玉が出せるとか、そんな妄想に憑りつかれて死ぬかもしれない。それでも、さっき色違いのきのこで1upしたから大丈夫!と噛り付く。冷静な判断なんてできない。 だから飢えないためのライフラインを、という冒頭リンク先の主張はその通りだと思う。自己愛の兵站線は文字通り死活問
年明けすぐに誘われて京都まで写真を撮りにいった。ぼくは Eye-Fi を使っていて、写真はすべて iPhone、Flickr、MBA にコピーされるようにしている。一部の写真はすぐに Instagram にアップしたり、 友だちが写っているものは Facebook でシェアしたりしたけれど、便利な反面、対面で見せ合うには向かないなあとも思っていた。そういうときはやっぱりプリントした写真の方が気軽でいい。とはいえ、プリントしてアルバム買って整理して…ってのも面倒だ。それなら、オンラインのプリントサービスを使ってみるかということになった。で、色々検索してみるも実際に利用してみた人の情報が意外に少なくて困った。 そんなわけで、Keepsy で実際に Pocket book を作ってみた感想など書いておく。Keepsy を選んだ理由は、手軽さとデザインのシンプルさ。カラースキーム、フォトブックのタ
ほとんどブログを書かなくなった。 理由はあるといえば、ある。直接的には結婚と転居だ。これで自室と通勤電車の隙間時間を失った。自然、ひとり物思いに耽ることが少なくなった。本を読み倒したり、ネットに入り浸ったり、映画漬けになったりすることもなくなって、インプットの質はかなり変わった。これは文字通り変わったという話であって、質や量の低下を嘆いているわけではない。失ったものが占めていた場所には、いま別のものが居座っている。ただ、インプットが蓄積される感覚はかなり薄れている。会話や行動の中で逐次アウトプットされることが多くなったせいかもしれない。いずれにしても、結婚と転居は確かに可処分時間の使い方を変えてしまった。 けれどもそれは、ぼくがブログを書かなくなった、あくまで消極的な理由でしかない。実のところ、ぼくにはそもそもブログを書く積極的な理由はひとつしかなかった。それは「作文の偏愛」とでもいうべき
そもそも理性の外にある者に理を説くなど徒労である。 ・ さかもと未明女史、飛行機中で赤ちゃんに泣かれて逮捕寸前のクレームを起こす この手の話題で理性的な態度の代表といえば、「泣き叫ぶ乳幼児に対する寛容」を説くことだろう。なるほど、子供は大人の都合などお構いなしに騒ぐ生き物である。それを親のせいだなどといって詰るのは、どこかネジの緩んだ阿呆のすることだ。ぼくは我が子を持たない半人前だけれど、乳幼児が親の言いなりになると思うほどに脳天気ではない。あれはご立派な親がいくら厳しく躾けようが言葉巧みにあやそうが、そんなことには微塵も忖度せず、ただ心のままに奇声を発し力の限り動き回る理解不能の不完全生命体である。そんなものの責任を親にとらせようなどとは無理筋も甚だしい。少なくとも理性的な大人のすることではなかろう。 にもかかわらず、そんな不完全生命体の奇行にぶちキレてクレーマーと化す大人がいる。面と向
最近、頭髪が斑になるほどツマラナイ文章が増えた。 主にはブログやそれに類する文章の話だ。暇つぶしのファイナルウエポン、心の隙間を抉じ開ける脳髄のゴミ捨て場、我らの愛するウェブ世界がこんな有様では大変に困る。誤解してはイケナイ。ツマラナイ文章が増えたといっても、面白い文章が減ったなどといっているのではない。当然、どちらも増えている。だがしかし、だ。指数関数的に増え続ける「ツマラナイ文章」に対して、増えてもせいぜい主婦のヘソクリ程度でしかない「面白い文章」はあまりに非力である。ことソーシャルがきっかけで目にする文章のツマラナサは格別だ。どうやら無粋な文章作法の氾濫がことここに至って効いてきているらしい。では、具体的にどんな文章がツマラナイのか。 1. タイトル負けが酷すぎて殺意を覚える たとえばこの記事だ。セオリー通りに飾り付けられたタイトルが実に白々しい。目からウロコ!…などと下手なコピーラ
ランニング礼賛のシュプレヒコールが鳴りやまない。どれも実に胡散臭い。 曰く、心も身体もリフレッシュ、ポジティブ回路全開でビジネス生産性が急上昇!曰く、増える一方だった脂肪もバカスカ燃焼!そのうえ三度のメシが超絶美味い!曰く、心地好い疲れのおかげでぐっすり快眠!みるみる健康体になって毎日が充実!曰く、いままで身近にあって気付かなかった素敵な景色や季節の移ろいを肌で感じられて感動がとまらない!曰く、ただ走り出すだけですべてが好い方向に回りだす!ポジティブフィードバックの坩堝!ランニング最高!…とまあ、鼻息の荒いこと夥しい。嘘だ、とまではいわないが、大変に胡散臭い。信じる者は救われる。この手の礼賛記事の本質はこれだろう。ファッキンライフくらいわかるよバカヤロー。 指が滑った。ランニングの話だ。はっきりいって、ランニングがそんなに魅力的なスポーツだとは、ぼくにはとても思えない。何しろ地味だ。達成感
どこか懐かしささえ感じる話題だけれど、これから思い至る人もいるんだろう。 ・ “消費の時代”から“生産の時代”へ 米を作る。米を食べる。生産と消費。ひと昔前までは単純な話だったように思う。それがいつのまにか、いわば「」付きの「生産」になり始めた。大雑把には「モノ」の生産が飽和することで「価値」の創出が重視されるようになった。有形無形の「価値」を生み出すこと。それも「生産」の意味になった。ターニングポイントはそれこそ大量消費も極まったバブル期あたりだろうと思う。さんざんいい古されたことだけれど、当時の「イケてる」人々が身にまとっていたのは服や時計やバッグといったモノそれ自体ではない。それらのモノに対してあの時代が担保していた「価値」である。だから、消費者にとってもそれは単純な消費行動ではなかった。 こうして消費者の「選択」が重視されるようになると、「選択」自体が表現行為と見做され始める。もち
「書籍」って何?…というのは案外答えにくい問いだと思う。 ・ Kindleで購入した電子書籍は、実はユーザーのものではない ≪ WIRED.jp こういうのを読んでまず思うことは「コンテンツ」と「所有」のとても微妙で曖昧模糊とした関係性についてだ。紙の本を買うとき、ぼくたちは何を手に入れるのか?そこに書かれたコンテンツそのものだ、というのはちょっと考えにくい。それはきっと権利者たちのものだろう。ぼくたちは差し出されたコンテンツを消費する権利を手にしたにすぎない。しかし、手元には「コンテンツが印刷された紙のメディア」が残る。これも、たぶんぼくたちが本を買うことで手に入れたもののひとつだろう。とすれば、「紙の本を買う」という行為は、そこに記録されたコンテンツを読む権利と、記録されたメディアそのものを所有することを意味しているように思われる。 つまり、Kindleで売られている電子書籍と紙の本と
・自殺前に「自殺の練習を強要」 大津・生徒15人が回答 ・いじめ「先生は知っていた」 大津・中2自殺 この手の話になるとかなりの率で「いじめはなかった」という学校側の見解がまずでてくる。そのたびに、そんな阿呆な、と思う。自殺に至らぬまでも、いまどき「我が校にいじめはない」などと、本気で思っている学校関係者がいるものだろうか。脳にお花が咲き乱れてるんじゃないかと疑いたくもなる。すべての学校にいじめはある、とまではあえて断言しないけれど、かなりの率である、くらいには見積もっておくべきだろう。程度の差はあるにしても、だ。「我が校にいじめはない」などと安易に表明する学校は、「わたしたちの目は節穴です」と自ら宣伝しているようなものだ。まともな教育者なら、当然「いじめは常にあり得る」を前提として教育に臨んでいる。そういうものじゃないのか。 否、本気で「ない」と思っているわけじゃない、「ある」と知ってい
これはもう、ただ脳天気に同調したり溜飲を下げるだけではすまない話である。 ・「お年寄りを見殺そう」という第三極の政治勢力: やまもといちろうBLOG(ブログ) ・404 Blog Not Found:備忘録 - そもそもなぜ老は敬われてきたのか “我々が一人分の子育てを犠牲にしてまで、あなた方に貢ぎ続けた代わりに我々が得るものは一体なんなのか。”とは、老人にとって辛辣な問いであると同時に、ぼくたち現在進行形で「貢ぎ続け」ている世代にとっても重い問いだと思う。この問いかけにある「我々」は、実は、ぼくたちのことではない。「あなた方」も含む「社会」のことである。それを「我々」と書くことで、小飼弾氏はぼくたちの無意識の「主観」を刺激し、煽っているようにも見える。下手に煽られて勘違いしないように、先の問いを言い換えるならこうだ。「相対的に将来価値の高い集団の生存可能性を犠牲にしてまで、社会としてすで
優しいのか厭味なのかよくわからないこんなブログ記事を読んだ。 ・studygiftの炎上騒動が長期化したのは、善意と誤解の炎上ループにはまってしまったからではないか 善意は人を動かす。もちろん、悪いことではない。ただし、忘れてはいけない。善意で動くことは快楽である。良かれと思ってする苦労は人生の娯楽であって苦悩ではない。有償の愛よりも無償の愛。多くの人の心はそんな風にできている。善意というのは実に低コストかつ効率の良い燃料となって人をどこまでも走らせる。ただし、善意の役割はここまでである。ガソリンを満タンにして走り出した車がどこに向かうかは運転手次第である。どんなにエネルギー効率の良いクリーンなガソリンも、行き先までは決めてくれない。ガソリンの良し悪しと運転の良し悪しは別の問題だ。往来で暴走して人を殺しておきながら、クリーンな燃料で走ってるんだから悪くない、などというのはただの阿呆である。
まず、studygift は「学費支援」に擬態した「一芸おひねりプラットフォーム」であることを、ここで明確にしておきたい。この点をサイトに明記できておらず、誤解を与えたことについては深くお詫び申し上げる。支援を求める理由など一読すればネタと判る内容にしたつもりだったが、擬態のクオリティを優先し過ぎたかもしれない。少し前の「虚構新聞」騒ぎから、一般的なネットリテラシーの程度について、もっと真摯に受け止めておくべきだったと反省している。また、初号商品として、坂口さんが持つアイドル要素を前提にメルマガや交流イベントという実質的なファンクラブサービスを提供しておきながら、企画者との関係を追及しておかなかった点も運営側の失策だったと認識している。 そもそも、studygift はなんらかのネット芸を披露することでユーザーから少額の支援を募る、投げ銭サービスとして企画された。ここでいうネット芸とは「ネ
橋下大阪市長と反ハシズム派論客の話である。 それほど熱心にウォッチしているわけではないけれど、1月27日の朝生の一件やら何やらを眺めていると、どうにも居心地の悪い思いが拭えない。原因はおそらく、ぼくが反ハシズム側に近しい心性の持ち主でありながら、議論上の態度としては橋下市長支持だからである。叩き上げのリア充たる橋下市長が、陽の下に出てきた非コミュたる香山氏、薬師院氏をフルボッコ。あの日の朝生の印象を要約するとこうなる。他の面々は、ほとんどこのふたりが作り出した負の大竜巻に巻き込まれた形で、強弁がすぎるばかりの共産党山下参議院議員含め、有意義な論陣を張れる人間はいなかった。とりあえず対話になっていたのは自民の柳本市会議員くらいだったように思う。あれでは勝負になりようがない。 市長による名指しの批判が引っかかり続けて、個人的な恐怖心や不安を社会現象に仮託し、弱者切り捨て論で共感を得ようとするも
本について自らのスタンスを表明する人は多い。 ぼく自身もいつかやらかしたような気がするし、わりと誰しも通る道なのかもしれない。いうこともだいたい決まっている。タイトルはその典型。顕在化するパターンにまで典型があって、まず、読書量を自慢気に発表しちゃうウッカリ者が現れる。それが100冊だろうが500冊だろうが本人にとっては「つい発表したくなっちゃうような読書量」だったのだから「へえ、凄いね」といって印象に残った本の話でも訊いてやればいいのである。が、よほど腹に据えかねるのか、今度は水を差すウッカリ者が現れる。曰く「読書は量より質だ」或いは「書を捨てよ、町へ出よう」 本をたくさん読むのは悪いことじゃない。上には上がいるとわかっていても、初めて100冊に達した年の瀬につい吹聴したくなる気持ちはよくわかる。書店に平積のミステリやラノベやビジネス書や自己啓発書、雨後の筍のごとくに湧いて出る新書など多
周囲でもリアルに婚活やそれに類する話を耳にするようになって久しい。 ずっと不思議に思っていた。いまこの時代、この国の一般庶民にどうして「結婚」なんてものが必要なんだろう、と。生活を伴にしたい異性が既にいるというのならまだ理解る。男女が一緒に暮らすなら制度的に結婚してしまうのがいちばん「楽」だろうと思うからだ。逆にいえば、結婚になんてその程度の意味しか見出せない。そういう人間が増えた。だから、見合いなんて結婚促進制度は廃れ、既婚率が激減しているんだと思っていた。が、思い違いをしていたらしい。切実そうな顔をして婚活に励む知人たちの話を見聞きしていると、もはや考えを改めざるを得ない。 そもそも既婚率が高かった時代の結婚の多くは強制に近いものだったはずだ。一から自分で相手を選んで自分のタイミングで結婚したなんてカップルはそう多くなかったろうと思う。つまり、既婚率低下の直接的な原因は、親族手配による
ひと月ほど前から唐突にランニングを始めた。世間ではちょっとした流行らしい。 といっても、ぼくは土日祝だけの休日ランナーである。もとより平日に走る余裕なんてない。労基法と相性のいいデザイン会社?そんなものの存在をぼくは認めない!ぼくの目が黒いうちは…いや、今はそんな話はどうでもいい。とにかく、思い立ったが吉日とばかりに安手のウェアとシューズを買い込み、いきなり走り始めたのである。手持ちのTシャツやスニーカーで始めなかったのは、ただただテンションをあげるために他ならない。ついでに iPod shuffle まで買ってしまった。勇み足である。それはともかく、これが思いのほか悪くない。むしろ快適なのである。 もうかれこれ20年近くもロクな運動をしてこなかった。当然からだは辛い。が、意外に早く慣れる。いや、慣れる程度以上には無理をしない。これが肝要である。ぼくの場合は、近所の緑地公園を30分。スピー
人と上手くコミュニケーションがとれない。 とりわけ言葉が不如意なわけでも、端からコミュニケーションの意思がなかったわけでもない。にもかかわらず非コミュ化する。コミュニケーションから遠ざかる理由がみんな同じだとは思わない。けれども、理由のひとつがコミュニケーションの「不可能性」への自覚であることはたぶん間違いない。コミュニケーションというのはバーバルにしろノンバーバルにしろ、それが伝えるところに「共通の理解」があると信じることでかろうじて成り立っている。比喩的に「共通の言葉を持つ」といい替えてもいい。共通の言葉を支えるのは、要するに「共通の価値観」である。 マス・コミュニケーションというのは、実にいい得て妙だなと改めて思う。マスコミは「大衆の価値観」を発信、或いは、再生産するための装置として、これまでよく機能してきた。多くの人が同じ豊かさを求め、同じ享楽に身を委ね、同じ幸福を夢見ることができ
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