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今年の「#文学」
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クルト・ヘルマン・エドゥアルド・カール・ユリウス・シュヴィッタース(1887年6月20日-1948年1月8日)はドイツの画家。ドイツ国ハノーヴァー生まれ。 シュヴィッタースはダダ、構成主義、シュルレアリスム、詩、音楽、絵画、彫刻、グラフィックデザイン、編集、インスタレーションなどさまざまなアートシーンやメディアを横断的に活動していたことで知られる。『メルツ絵画』と呼ばれるコラージュ作品が最もよく知られている。 各地のダダイストと交流しつつ、ほとんど独力でハノーヴァー・ダダを確立。「メルツ」と称された作品の多くには、彼が日常のなかで偶然発見し拾い上げた書物やモノの端切れが貼り付けていた。 「すべてが破壊され、新しいことはその断片から作り直す必要があった。そしてこれが“メルツ ”だ。それは革命であり、破片であるべきなのだ。」(クルト・シュヴィッタース) クルト・シュヴィッタースは、1887年6
マーク・ロスコ(1903年9月25日-1970年2月25日)はロシア・ユダヤ系のアメリカの画家。一般的には抽象表現主義運動の作家とみなされているが、ロスコ自身はいかなる芸術運動にもカテゴライズされることを拒否している。ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングとともに戦後アメリカの美術家で最も有名な1人としてみなされている。 マーク・ロスコは、ロシア帝国時代のヴィテプスク県ダウガフピルスで生まれた。父ヤコブ・ロスコは薬剤師で知識人。父は宗教的なしつけよりも世俗的で政治的なしつけをした。 ロスコによればマルクス主義の父は極端な無神論者だったという。ユダヤ人は当時、ロシアで差別され非難されていたため。ロスコの幼年時代はそのような恐怖に悩まされていた。 ヤコブ・ロスコの収入は少なかったにもかかわらず、父は高度な教育を子どもたちに行っていた。家族はみな読書家だったとロスコの妹は当時の環境を話し
根本敬の核心的な思想「因果」は、仏教における因果の道理に近いものであるが、根本の場合はもっと"道理から外れた"ものである。根本における世界や宇宙における物理法則は「親の因果が隣の子に報いる」がという言葉が言い表しているように、「フザけていて、それどころか狂っている」ものである。 そして、因果者とは根本が定義するところによれば、生まれつき、または生まれる前から(前世)大変な業が深い大変なことがあった人物、そうでも思わないと理解できない人のことを指す。そして、その因果者の空間圏に入ってしまうと、普通の人間のほとんどは精神的におかしくなり、参ってしまうので、因果者に対しては多くは本能的に近づかないようにしている。 また、必ずしも相対的に「奇人、変人、狂人」とレッテルを貼られて暮らしている人物とは少し違い、因果者はもっと自由な世界の住人で、不動産業を営んだり、芸能人としてお茶の間のTVで人気者だっ
エドゥアール・マネは、1832年1月23日、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り)にある古来からの大邸宅に住むブルジョア家庭で生まれた。 母ユージニ・デジレ・フルニエは、外交官フルニエ家の娘で、またスウェーデン王子カール14世ヨハンから洗礼を受けている。父オーギュスタ・マネはフランスの裁判官だった。 父は息子エドゥアールに法務関係の仕事に就くことを期待していたが、母方の叔父のエドモンド・フルニエは幼少のころからエドゥアールに絵描きの道をすすめ、エドゥアールをよくルーブル美術館に連れて行った。 1841年に、エドゥアールはカレッジ・リセ・ジャック・ドクール中等学校に入学する。1845年に叔父の助言で、マネは特別クラスに進む。そこで、のちに芸術大臣となり生涯の友人となるアントナン・プルーストと出会う。 1848年に父のすすめで、リオデジャネイロへ航海練習船でわたる。海軍の入隊
ヴィヴィアン・マイヤー(1926年2月1日-2009年4月21日)はアメリカのアマチュア写真家。シカゴのノースショアでベビーシッターとして約40年間働きながら、空き時間に写真の撮影・研究をしていた。生涯に15万以上の写真を撮影しており、被写体の中心はニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス内の人物と建物で、世界中を旅して写真の撮影をしていた。 その作品は死後に発見され、認知された。彼女は乳母として約40年間、主にシカゴのノースショアで働きながら、写真を追求しており、彼女のネガフィルムの多くは一度も印刷されることはなかった。 シカゴのコレクターのジョン・マルーフが2007年にマイヤーの写真をオークション・ハウスでいくつか手にいれ、また同時期にロン・スラッテリーやランディ・プローといったほかのコレクターも箱やスーツケースにいっぱい入った彼女の写真やネガフィルムを発見する。 マイヤーの写真が初めて一般
《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)》は、1915年から1923年の8年の制作期間にわたって制作されたマルセル・デュシャンのオブジェ作品である。 この作品は、鉛の箔、ヒューズ線、埃などの素材と2つのガラスパネルを使って制作されたものであり、偶然の要素、透視図法、緻密な職人的な技術や物理学、言語学的な要素が集約された非常に複雑な作品である。 上パネルの「花嫁」と下パネルの9人の「独身者」のエロティックな出会いを表現している。1926年にブルックリン美術館で展示されたあと、作品移動中にガラスにひびが入り、デュシャンが修正したものが現在フィラデルフィア美術館に所蔵されている。 この偉大なる作品『大ガラス』を真っ先に理解して評価したのはアンドレ・ブルトンだった。ブルトンは批評時は、『大ガラス』を図版でしか見たことがなかったが、ためらうことなくこの作品を現代美術の最高峰に位
ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は、20世紀における最も重要なアメリカ人アーティストの1人。ハイチとプエルトリコ系にルーツを持つ両親の間に生まれる。 バスキアは、1970年代後半に、ニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、非合法なストリート・アートなどが一緒になったアンダーグラウンド・シーンで、謎めいたエピグラム(詩)の落描きをするグラフィティ・デュオ「SAMO」の1人として有名になる。 1980年初頭にファイン・アートへ転向する。バスキアの新表現主義の作品は、国際的に認知されるようになり、世界中のギャラリーや美術館で展示されるようになった。21歳でカッセルのドクメンタに最年少で参加。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も開催されている。 バスキアの芸術観は、「金持ち」と「貧乏」、「分離」と「統合
ヘンリー・ジョセフ・ダーガー.ジュニア(1892年4月12日-1973年4月13日)はアメリカの隠遁作家、芸術家、イリノイ州シカゴの病院清掃員。 ダーガーは、死後、ワンルームのアパートで1万5145ページ(世界一だが出版されていないのでギネスに登録されず)のファンタジー小説の原稿『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』と、その小説のドローイングと水彩による挿絵が発見されて有名になり、アウトサイダー・アートの有名な代表例の1つとなった。 幼い子どもたちが拷問や殺害される恐ろしい大虐殺シーンかとおもえば、エドワード王朝時代のイギリスの室内風景や児童小説や幻想絵画のような花の咲き乱れる穏やかで牧歌的な世界という真逆の世界が同居するのがダーガー作品の特徴である。 ダーガーの作品の多くは、コラージュの要
ルイス・ウェインは、1860年8月5日にロンドンのクラークウェルで生まれた。父ウィリアム・マシュー・ウェイン(1825-1880)は織物業者であり刺繍業者だったという。母はフランス人のジュリー・フェリシテ・ボワトゥ(1833-1910)で専業主婦だった。ルイスは6人兄妹の長男で、ルイス以外の5人はみんな妹だった。 5人の妹、キャロライン E. M. (1862-1917)、ジョセフィーヌ F. M. (1864-1939)、マリー L. (1867-1913)、クレール M. (1868-1945)、フェリシー J. (1871-1940)は誰も結婚しなかった。 また、ルイスが30歳のときに一番下の妹マリーは狂気に犯され、1901年に収容所に送還され、1913年に死亡した。ほかの4人の妹は生涯の大半を母親とルイスと暮らした。 ウェインは口唇口蓋裂として生まれ、両親は医者から10歳になるまで
日曜画家や子どもたちの芸術への関心は、ワシリー・カンディンスキーやアウグスト・マッケ、フランツ・マルク、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーなどが率いた表現主義のグループ「青騎士」に端を発しています。 青騎士のメンバーたちは、作品において洗練された技術を放棄することが力強い表現を生み出す核心であると考えました。この理論は、1912年に発行された『青騎士年鑑』で初めて公にされました。 この本では、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソといった現代アーティストの作品と、アフリカやオセアニアの彫像、中国の水墨画、ロシアの民芸品、ルネサンスの木版画、中世の彫刻を組み合わせた多彩な図版で構成されていました。 フランツ・マルクは「霊的憑依」というタイトルで、子どもの絵画に対するエッセイを書いています。要するに彼らは、自己の内的感情に忠実な表現
ワシリー・ワシリエヴィッチ・カンディンスキー(1866年12月4日-1944年12月13日)はロシアの画家、美術理論家。美術史においてカンディンスキーは、ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチとともに純粋抽象絵画の理論の創始者として知られている。代表的著作は抽象芸術を理論化した『芸術における精神的なもの』。 カンディンスキーはモスクワで生まれ、オデッサで子ども時代を過ごし、グレコフ・オデッサ美術大学に入学する。卒業後にモスクワ大学に入学し、法律と経済を学び、タルトゥ大学でローマ法に関する教授職を受け持っていたが、教職を捨て30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始める。 1896年にカンディンスキーはミュンヘンに移る。アントン・アズべの私立学校で美術を学び、次いでミュンヘン美術院で学ぶ。1911年にはフランツ・マルクとともに「青騎士」を結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍しはじめる。 カン
もしアートに魅了され、パフォーマンスアートやその歴史に興味をお持ちであれば、この記事はきっと心を惹かれることでしょう。マリーナ・アブラモヴィッチの人生を深く探求し、彼女の芸術作品に隠された意味を探るとともに、なぜ彼女がパフォーマンス・アートの歴史の中でどのように特別な存在なのかを理解していただけるよう、皆様と共有したいと考えています。さて、彼女と彼女の芸術作品について、どんなことが見えてくるのでしょうか。それを一緒に探っていきましょう。
ヨーゼフ・ボイス(1921年5月12日-1986年1月23日)はドイツの現代美術家。フルクサス、ハプニング運動でおもに彫刻、インスタレーション、グラフィック芸術を制作。美術理論や教育理論も多数執筆。 社会や政治の形成に芸術は積極的に参加していく必要があるというのがボイスのおおよその主張である。 総合芸術として「社会彫刻」や「拡張された芸術概念」という独自の芸術概念を打ち立て、人間ひとりひとりが参与することでより良い社会をつくりあげると説いた。彼の広範な研究は、ヒューマニズム、社会哲学、人文科学の概念に基いている。 ボイスの活動は、視覚美術だけでなく、政治、環境、社会、経済、長期的文化傾向など非常に幅広いテーマを関連付けさせながら、情熱的に辛辣に公開討論していたのが特徴である。ボイスの広範囲な表現活動はおもに4つの領域に分類することができる。伝統的な芸術形式(絵画、ドローイング、彫刻、インス
ロウブロウ(Lowbrow)、もしくはロウブロウ・アート(Lowbrow art)とは、1970年代後半にカリフォルニア州のロサンゼルス周辺で起こった地下視覚美術運動を指す言葉である。 アンダーグラウンド・コミックス(comix)やパンク・ミュージック、ホット・ロッドのストリートカルチャーにそのルーツを持つ大衆文化運動で、2000年以降はポップ・シュルレアリスムという名称で呼ばれることもある。 ロウブロウ・アートの定義は、地域や場所によって違いが生じるものの、基本的には「ロウブロウ(無教養)」という言葉が示しているように、アカデミックな美術教育を受けていない美術家、またはファイン・アートの形式から外れた美術作品のことをさす。 ロウブロウ・アートでよく見られるモチーフやスタイルは、油彩(またはアクリル)イラストレーション、ユーモア、いたずらっぽさ、アイロニー、風刺性、エロティシズム、グロテス
バルタザール・ミシェル・クロソフスキー・ド・ローラ(1908年2月29日−2001年2月18日)ことバルテュスは、ポーランド系貴族出身のフランス人画家。 生涯を通じて近代美術界の潮流や慣例に抵抗し、おもに少女をモチーフとした独自の具象絵画の世界を築いたことで知られている。 バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことであり、そうした美学上、少女はバルテュスにとってぴったりのモチーフだったという。 バルテュスの絵画様式は、基本的に新古典主義とみなされている。彼の作品はエミリー・ブロンテやルイス・キャロルをはじめさまざまな芸術家から影響を受けている。絵画ではマサッチオ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、シモーネ・マルティーニ、ニコラ・プッサン、ジーン・エティエン・リオタール、アングル、ゴヤ、ドガ、テオドール・ジェリコーなどか影響を受けている。 また、
《朝鮮の虐殺》は1951年1月18日に完成させたパブロ・ピカソによる油彩作品。110cm x 210cm。パリ国立ピカソ美術館が所蔵している。 朝鮮戦争におけるアメリカの軍事介入を批判した内容である。1950年に信川虐殺事件の虐殺事件を主題としており、《ゲルニカ》《納骨堂》《戦争と平和》《サビニの女たちの略奪》と並んで、ピカソ作品のなかでは政治メッセージの強い作品。 美術批評家のキルスティン・ホービング・キーンは本作を「アメリカの残虐行為のニュースの影響とピカソの共産主義的な作品の1つ」と解説している。 本作は、マドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍を描いたフランシスコ・ゴヤの作品《マドリード、1808年5月3日》や、エドヴァール・マネが1869年に制作した《皇帝マキシミリアンの処刑》を基盤としている。 画面左側に並ぶ犠牲者は人物は、母親と子供、妊婦に置き換えられているが
ピーター・コーネリス“ピエト”モンドリアン(1872年3月7日-1944年2月1日)はオランダの画家。 テオ・ファン・ドエスブルグが立ち上げた前衛運動「デ・ステイル」の創立メンバー。その後「新造形主義」という抽象的な絵画の発展に貢献。白地の上に黒い垂直線と水平線のグリッド模様と3原色で構成された絵画《コンポジション》が代表作。 1911年、パリに移り住んだモンドリアンは、キュビスムの影響を受け、前衛的な分野で頭角を現し、新たなスタートを切る。その後、姓の綴りを「Mondriaan」から「Mondrian」に改めた。 第二次世界大戦中は、マンハッタン計画やブギウギと呼ばれるアメリカのジャズ・スタイルに影響され、晩年はアメリカ社会の影響を受けた、あたたかみのある抽象絵画に変化した。
シュルレアリスムは、1924年のアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」から始まる芸術運動である。 活動当初は、おもに美術と文学で用いられた前衛的な表現スタイルだったが、その後、芸術全体にわたって幅広く用いられるようになった。シュルレアリスムは絵画だけでなく、映画、文学、彫刻、音楽、ダンス、演劇、ファッションなど芸術表現の大半に適用できる表現方法として知られている。さらに、マンガ、アニメーション、ゲーム、インターネット動画など現代の芸術表現でもシュルレアリスムは利用されている。 アンドレ・ブルトンによれば、当初シュルレアリスム運動が理想としていたのは「夢と現実の矛盾した状態の肯定」だった。シュルレアリスト(シュルレアリスム表現をもちいる芸術家のこと)たちは、アカデミックな美術教育を習得した高度な描画技術で、不条理で非論理的な風景を描いたり、日常的な風景と奇妙な非現実的な生き物を並列して
《記憶の固執》は、1931年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作である。現在本作は、ニューヨークのニューヨーク近代美術館に収蔵されている。 《記憶の固執》は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもある。 本作が初めて展示されたのは1932年。場所はニューヨークのシュルレアリスム専門の画廊ジュリアン・レヴィ・ギャラリーである。 1934年に匿名の人物によりジュリアン・レヴィ・ギャラリーを介してニューヨーク近代美術館に寄贈された。 この作品はいったい何がいいたいのか? 記憶の固執の要点は3点に絞ることができる。 柔らかいものと硬いもの、不安と欲望の同時表現 ダリの性的な不安と欲望を表現している 偏執狂的批判的方法の使用 《記憶の固執》の中で描かれている「溶けている時計」は、ダリによれば、キッチンでガラが味わっていたカマンベールチーズが溶けて
フランシス・ベーコン(1909年10月28日-1992年4月28日)は、アイルランド生まれのイギリス人画家。 激しく大胆な筆致と生々しく不穏なイメージが特徴で、鑑賞者に不安感や孤独感を与えることで知られている。 十字架像、教皇の肖像、自画像、親しい友人の肖像などの人物画の多くは抽象的に描かれ、雑然とした平面的な背景で構成される。 金縁の額とガラスで額装された作品は、鑑賞者との間に「へだたり」や3D的な奥行きを生じさせている。 ベーコンは、さまざまな分類を拒否し、「事実の残酷さ」を表現することに努めたという。その独特のスタイルで現代美術の巨人の一人として名声を築き上げた。 20代初頭から絵を描き始めているが、30代なかばまで不安定な活動で、芸術的なキャリアはほぼなかったという。 絵描きとしての能力に自信がもてなかった若い頃のべーコンは、グルメ趣味、ホモセクシュアル、ギャンブル、インテリアデザ
ジョアン・ミロ・イ・ファラー(1893年4月20日-1983年12月25日)はスペイン・バルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家。具象と抽象のあいだを表現するような独特な画風が知られる。 一般的にはミロ作品は、オートマティスム系のシュルレアリスム作家と解釈されており、無意識を利用した子どものような自由にドローイングや故郷カタルーニャの世界観を表現しているという。また、ミロはブルジョア社会を支える方法として、従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示し「絵画の暗殺」を宣言する。 1975年に故郷バルセロナに設立されたジョン・ミロ財団美術館や1981年にパルマ・デ・マヨルカに設立されたマヨルカ島のジョアン・ミロ財団美術館に作品が多数所蔵されている。 ジョアン・ミロは、カタルーニャのゴシック地区の時計の金細工職人の家庭で生まれた。父はミクラル・ミロ・アドジーリアスで母ドラーズ・フェーラ。 ミロは7歳で
呉智英:やっぱり一番ヘンなのは水木さんだよ。普通会話って順序よく一、二、三、ってくるでしょ。でもあの人の場合はそうじゃない、もう自分しかないからさ(笑)。オレ、どうしたらこういう質問がでるのか、と思ったのはさ、三島由紀夫の事件の後、決行の前日、楯の会の会員たちと衆道のちぎりをしたので、三島と他の会員の肛門から精液が検出されたという噂ですよ、と言う話をしたの。 で、普通は「えっ、ホントかっ」とかそういう言葉が出るでしょ。でも、水木さんは「それで、キモチいいんですか」っていうんだよ(大爆笑)。普通質問ってそんな方向にいかないじゃない。もうベクトルが全然違う方向に行っちゃっている(笑) 同じような話でさ、74、5年のころね。死んだ戦友が眠る場所に行って酒を注いだりしたわけ。でさ、水木さんは「戦争を体験した人が皆、よく戦場跡に行ったりするけど、なんでそこに行くのか自分はよくわからんかったですよ。で
『アンダルシアの犬』は、1929年にルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの二人が共同監督として制作した無声短編映画。 美術史としては初めてのシュルレアリスム映画として評価されているが、映画においてはカルト映画の古典として、またルイス・ブニュエルの初作品と紹介されることがよくある。 公開当初はパリにある映画館スチュディオ・デ・ユルスリーヌで限定上映だったが、最終的には8ヶ月にわたるロングラン上映の大ヒット作品になった。 『アンダルシアの犬』は、従来の映画とはまったく異なり、原因と結果、因果関係をあらわす「プロット」というものがないのが特徴である。「むかしむかし」というシーンから、間にあるはずの出来事やキャラクターの変化など、後につながる要素が一切ないまま、唐突に「8年後」の世界へ移動する。 鑑賞者が混乱してしまうため通常の映画ではありえないが、この映画では意図的にプロットを省いている。その
ルネ・マグリットの人生は、幼少期の出来事によって形成された複雑さと悲しみに満ちたものであった。 マグリットは1898年11月21日、ベルギー西部のエノド県レシーヌで、仕立て屋兼繊維商のレオポルド・マグリットと、結婚前は粉引き職人だった母レジーナ・ベルタンシャンの間に生まれた。 マグリットの祖先は、ロベスピエールの死後、ピカルディ地方から亡命したとされるマルグリット兄弟であり、彼の一族は熱心な共和主義者だった。 マグリットには、1900年生まれのレイモンと、生涯を通じて親友だった1902年生まれのポールの2人の弟がいた。 マグリット一家がレシネからシャトレに移り、絵画教室に通って油絵やデッサンを学び始めたのは1910年のことだった。 1912年2月24日、母親がシャトレのサンブル川に入水して自殺し、マグリット家の生活は一変する。 その時のことを後で振り返ってみると、母親は亡くなる数年前から自
モートン・バートレット(1909-1992年、ボストン生まれ)はアメリカのフリーランス写真家、グラフィック・デザイナー。1936年から1963年までに緻密で非常にリアルな石膏少女人形シリーズの制作、その撮影に余暇を費やしていた。 バートレットは決して公に自分の作品を公開することはなかったが、ごく小さなサークル仲間や作品を理解してくれる友人にのみ公開していた。1992年に死去して、彼の唯一の財産である作品が売却されたあと、彼の作品は一般の人に知られていくようになった。 モートン・バートレットは1909年1月20日シカゴで生まれた。8歳のときにイリノイ州で孤児となり、マサチューセッツ州の裕福な夫婦ウォーレン・ゴダード・バートレット夫妻に引き取られることになった。 モートンはフィリップス・エクセター・アカデミーに入学し、1928年から1929年までの2年間勉強したあと、最高学府であるハーバード大
マルセル・デュシャン(フランス生まれ:1887年7月28日-1968年10月2日)は、フランス生まれ、晩年にアメリカに帰化した画家、彫刻家、チェスプレイヤー。 デュシャンはダダイスムの情報誌の編集をしたり、《泉》のようなコンセプチュアル・アートを発表して、ダダイスムとは深い関わりがあったものの、活動詳細を調べるとダダ・グループの正式なメンバーではなかったと考えられている。デュシャンはダダイスムが標榜した「反芸術」ではなく「無芸術」だと言っている。 また多くのシュルレアリストとコラボレーション活動をしているためシュルレアリストと扱われることもあるが、ブルトンのシュルレアリスム・グループへの参加招待は断っている。 そうした面から、現在のデュシャンの美術史的な位置付けは、パブロ・ピカソ、アンリ・マティスらと並ぶ、20世紀初頭の造形美術において革新的な発展を促した3大のアーティストの1人と見なされ
-ボイスを中心とした現代美術のコレクションは、いつ頃から始められたのですか。 伊藤:ポスター等が最初ですから、作品のコレクションとしてはかれこれ20年以上前だと思います。美術の教師をしている弟(伊藤信吾)が中心になって集めました。 -美術の教師が現代美術にかかわっているといのは珍しいですね。僕らが教育を受けた時代というのは、せいぜいポップアート止まりですよね。それ以降の美術に関しては何の教育も受けていない。 伊藤:私も弟に影響をされながら現代美術を見始めたのですが、最初はポップアートのポスター辺りからでしたね。その頃はジャコメッティとかデュビュフェのポスターや版画、日本でも恩地孝四郎さんの版画など見た記憶があります。 -現代美術の作品を集められるようになったきっかけは何だったのですが。 伊藤:弟に聞かないと正確には分からないのですが、自由が丘画廊とかかんらん舎、南画廊等の名がよく出てきます
岡上淑子(1928年生まれ。高知出身のシュルレアリスム系コラージュ作家。現在(2021年)93歳、高知在住。 学生時代に瀧口修造に見出され、コラージュアーティストとしてデビューして、おもに1950年代に美術活動を行う。60年代以後は、姿を見せなくなるが、2000年頃から再評価されはじめる。 初の大規模な回顧展「岡上淑子コラージュ展--はるかなる旅」が2018年、高知県立美術館で催される。 また、東京都庭園美術館で2019年3月から4月にわたり、個展「フォトコラージュ—岡上淑子 沈黙の奇蹟」を開催。 海外でも注目高まり、2021年にメトロポリタン美術館の「国境を越えるシュルレアリスム」展に古賀春江、岡本太郎と並んで日本のシュルレアリスム作家として参加、紹介される。 現在、岡上淑子の作品は、国内外でコレクションされており、国内では高知県立美術館、東京国立近代美術館、東京都写真美術館、栃木県立美
未来の現代美術は、一体どうなっているのであろうか。はたして我々は、2100年へ向けて普遍的に愛される芸術を残す心構えはできているであろうか。未来の現代美術を語るには、我々は未来の前提となる現代美術の歴史を理解し、未来の出来事を予測する必要がある。
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